(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)628E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年8月~1895年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年8月25日、臨時台湾鉄道隊が設置された。
  台湾の鉄道輸送に携わった。
  それまでは、1891年10月に台北駅~基隆駅間の28.6キ
 ロメートルの鉄道しかなかった。
  それも、1日に1往復であった。
  そして、1893年10月、新竹駅まで延長され、総延長は
 約100キロメートルとなった。
  この後に、日本が台湾の鉄道を整備して行く。
  1899年には、総督府鉄道部官制が公布されて、本数も
 4往復へ増発された・・そして、鉄道敷設も本格化して行
 く。
  1908年4月、幹線となる元隆駅~高雄駅間404.2キロメ
 ートルの台湾縦貫鉄道が全通させた。
  この間、その他にも、台東線や、阿里山森林鉄路など
 を敷設し、台湾の近代化を進める大きな役割を持つ鉄道
 も敷設した。
  この後も、着々と台湾鉄道を整備し、充実して行った。
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1895年8月、鳥居龍蔵が、東京人類学会の依頼で、満洲地方
 (遼東半島一帯)を約5ヶ月間滞在し、考古学的に調査
 した。
  鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)1870年4月4日~1953年
 1月14日、考古学者、人類学者。
  徳島市に生まれ、
  正規の学生ではかなったが、東京大学の坪井正五郎に
 師事し、人類学その他を学んだ・・
  東京帝国大学人類学教室の標本整理係となる。
  その後、東京大学助教授、国学院大学教授、上智大学
 教授などを歴任した。
  日本だけではなく、海外の諸民族を精力的に調査をし
 た・・周辺諸民族の実態調査の先駆者。
  その実態調査の地域は広範で、台湾、北千島、樺太、
 蒙古、満州、東シベリア、朝鮮、中国南西部など・・
  考古学的調査だけでなく民俗学的方面にも広く観察は
 及んだ・・民具の収集も行ない、物質文化研究の開拓者
 となった。
  因みに、中国語では、先住民は「今は存在しない」と
 いう意味がある・・存在するのなら「原住民」を用いる。
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1895年8月、神田小川町にローラースケート場(車滑り場)、
 現れる。
  1877年頃、日本にローラースケートが紹介され・・
  1895年頃から普及し始めた。
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1895年9月5日、奈良鉄道の七條(京都)駅~伏見駅間が開
 通した。
  奈良鉄道(ならてつどう)は、現在の奈良線全線、桜
 井線の過半などを建設、運営していた日本の私鉄で・・、
  伏見駅は、奈良鉄道の開業当社の南の終着駅として開
 設された。
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1895年9月7日、三菱合資会社銀行部が設立された。
  第百十九国立銀行の業務を継承して設立された。
  そして、1919年に分離して独立の(株)三菱銀行が設立
 される。
  1880年、郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分
 離独立した 三菱為換店 が始まり。
  この三菱為換店は、一度閉鎖されるが、間もなく第百
 十九国立銀行の経営を承継する。
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1895年9月18日、住友銀行が設立された。
  この年に、住友吉左衛門によって個人経営の銀行とし
 て創業された。
  1875年、金融事業は並合業(自己資金による物品抵当
   の金融事業)として再開された。
   並合業は、年々業容を拡大していった。
  1890年、銀行条令が発布されたのを機に・・、
  1895年5月、広島県尾道市で行われた住友家の重役会議
   で本格的な銀行業への進出が決定した。
  1895年11月1日、住友本店銀行部として、住友吉左衛門
   の個人経営による資本金100万円の住友銀行(本店は
   大阪市中之島)が開業した。
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1895年10月1日、野中至・千代子夫妻、気象予報の研究のた
 め、富士山頂で観測を開始する。
  野中到(のなかいたる)は、「天気予報が当たらない
 のは、高層気象観測所がないからだ」・・と考えた。
  天気は高い空から変わってくる。
  富士山の山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、
 気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。
  しかし、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建
 てることは国としては決定できない。
  誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をし、実証しな
 いかぎり、実現は不可能だと、常日頃、言っていた。
  1895年2月16日、富士山冬季初登頂を果たし、富士山頂
   での越冬が可能であることを確信した。
  1895年8月30日、富士山頂に私財を投じて日本最初の富
   士気象観測所を建設。
    測候用の小屋は、約6坪で、これを、剣ヶ峰 (富士
   山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。
    剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多
   いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と
   語っている。
  1895年9月末、食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、
   閉山後の10月に再び登頂した・・薪炭や食料、観測
   機器を設置して・・、
  1895年10月1日、妻:千代子と共に気象観測を開始した。
   観測は2時間毎に行った。
  1895年10月12日、過酷な条件のもと夫妻は体調を崩す。
  1895年12月22日、越年観測を、病気で断念し下山・・、
  1896年1月12日、東京へ帰る・・、
  この当時、富士山より高いところにある観測所は南米
 のエル・ミスチー山とフランスのモンブラン山だったが、
 いずれも夏期しか観測していなかった。
  富士山での冬期観測は世界記録だった。
  この夫妻の記録の37年後の1932年、国際協同極地観測
 のため・・中央気象台は、富士山頂に測候所を設置した。
   そして、通年の観測を開始した。
  1932年8月、野中到は、65歳の高齢をもって、娘と息子
   を伴い山頂を極めた。
   かつて、共に死線をさまよった妻の千代子はすでに
   他界し、写真を抱いての登頂だった。
  そして・・
  1955年2月28日、野中到が没する(88歳)
  その10年後・・
  1965年、富士山山頂にレーダーが設置された。
   気象衛星が稼働し、南海上の台風観測に威力を発揮
   し始めた・・、
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1895年10月6日、瀬木博尚が、広告業の博報堂を神田区鍋町
 (現:日本橋近く)に、創業者一人という体制で創業し
 た。
  博報堂の創立して広告業を始め、『太陽』などの雑誌
 広告で成功した。
  博報堂(はくほうどう)は、電通に次ぐ日本第2の広
 告会社。
  創業時から教育雑誌の広告取次店・雑誌広告取次所と
 してスタートし、電通より早く、日本の近代広告業の創
 成期から活動した。
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1895年10月8日、乙未事変(いつみじへん)
  朝鮮王朝の状況は乱れていた・・
  日清戦争の結果の下関条約で、清の宋主権が否定され
 たが・・そして、朝鮮は、正式に独立を確定できたが、
 朝鮮李朝内での権力闘争は激しかった・・、
  今度はロシアがからんで来ていた・・
  ロシアは、フランス・ドイツを味方につけ、武力をち
 らつかせて、三国干渉を日本に認めさせた。
  この三国干渉により、日本の威信が落ちたことによっ
 て・・朝鮮王朝内の閔妃派はロシアに接近した、そして・・
  ロシアの工作と結んで、日本を排撃しようとした。
  ロシア軍の武力を利用し、閔妃派はクーデターを成功
 させた。
  このため、日本に好意的だった朝鮮李朝・大院君派と
 の軋轢が高じて行き・・また、クーデターということに
 なっていく・・
  ロシアと日本は、この様に乱れた朝鮮の・・閔妃派と
 大院君派との内紛に巻き込まれていた・・
  この事変は、事変と言われる様に異常な状況であった。
  朝鮮訓錬隊(日本の指導下で設立された朝鮮の軍隊)
 がからんだ・・また、朝鮮警務使(王城を守る警察)が
 からんだ・・そして、開化派(李氏朝鮮の政治グループ)
 がからみ・・そこに大院君派などが居た。
  そして、真霊君(ちるりょんぐん、実在した巫女)と
 いう占い的な者の言葉に心酔するということも影響した。
  この様な中に、日本官憲も動ごいてしまった。
  この様な勢力が、ソウルの朝鮮漢城・景福宮に乱入し、
 親露派(反日派)の中心と目された高宗の妃の閔妃を殺
 害するという事変が起きた。
  李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃は、
 大院君の貯めた国庫を浪費するなど不届きな行為もあっ
 て、また、閔妃の国政壟断(ろうだん、利益・権利を一
 人じめにする)に不満を持つ朝鮮人たちも多く居た。
  閔妃は、その様な人・禹範善(うぼむそん、朝鮮人武
 官)に暗殺されたのだった。
  また、この後の閔妃の死後にも、朝鮮王朝内は平穏に
 ならなかった・・親族や相手派を暗殺し合うなど対立し
 ていた興宣大院君(こうせんだいいんくん、李氏朝鮮の
 王族、高宗の実父)によって、大院君は弾劾され、平民
 に降格された。
  この時までにも、朝鮮は混乱に混乱を重ねていた・・
  1894年3月28日、閔氏政権によって、開化派の中心人物
 の金玉均(きんぎょくきん、日本に遊学し、福沢諭吉の
 指導を受け、そして、朝鮮を、日本の明治維新の様に発
 展させ、改革したいとしていた親日派)が、閔妃の刺客
 である洪鐘宇の回転式拳銃で暗殺されていた。
  また、1894年5月31日には、閔氏政権に不満をもつ農民
 が蜂起し、甲午農民戦争が勃発したりもした。
  農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政
 権は中国・清に軍の出動を要請し、事態は一層混乱して
 行く・・
  三国干渉の時は、日本が後退すると、その甲午改革に
 よって政権を追われていた閔妃とその一族は、ロシア公
 使のカール・イバノビッチ・ヴェーバーと、ロシア軍の
 力を借りて、クーデターを引き起こした・・そして、
  1895年7月6日、政権を奪った。
  このことが大原因で、朝鮮李朝内の対立を決定的な
 ものにしていた。
  これ等の素地の下にこの事変は起きていた。
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  (今日の言葉)
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  題:それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争をした・・
    その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
    今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
   次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
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1591年閏3月21日、日本とベトナムの通交文書の最古と見な
 される文書が存在する・・今、九州国立博物館に所蔵さ
 れている。
  記載内容は・・、
  日本国王(豊臣秀吉とされる)が、牡象を好むとある。
  それを、日本の使者から聞いた阮氏が、一頭の牡象を
 日本へ送ろうとした・・しかし・・
  日本からの使者の船が小さく、象が乗せられなかった。
  やむなく、象牙などの別の贈り物を贈った・・と。
  日本とベトナムとは、この頃から友好関係にあった。
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1602年と1728年、ベトナムから、ベトナム象が日本に運ば
 れた。
    ・
    ・
1881年、能楽社の設立
  能楽保護のため、「能楽社」が華族の方々を中心に組
 織された。
  一時衰退していた能・狂言の復興に尽くした。
  能界は、幕府や藩からの保護を受けて成り立っていた。
  それが、明治維新になって、存続の危機に立たされる
 こととなった。
  この時期に、多くの役者が廃業・転業を余儀なくされ、
 また、残念なことであるが多くの流儀が消滅した。
  しかし、維新直後の混乱が落ち着くと、宮中や旧大名
 に代表される華族の方々が、能・狂言の保護に向け動き
 出された。
  1878年には、能を好んだ英照皇太后のため、青山御所
 に能舞台が建てられた。
  ことに、岩倉具視は、欧米外遊の際、各国が芸術保護
 を厚く行っていることを実見した。
  1878年頃から、華族の方々による能・狂言の後援団体
 の設立に向けての動きが活発化していた。
  そして、計画が進んでいた組織は、発起人に加わって
 いた前田斉泰と世話人の重野安繹の発案によって「能楽
 社」として設立されることとなった。
  能楽社の名について・・
  「前田斉泰ノ意見ニテ、猿楽ノ名称字面穏当ナラサル
 ヲ以テ、能楽ト改称シ、因リテ能楽社ト名付ケ・・云々」
 とある。
  これが、現在の「能楽」という言葉の起こりとなった。
  (参考)前田斉泰:まえだなりやす、幕末の加賀(金
     沢)藩主。
  1881年4月16日、能舞台の落成を受けて「能楽社」が正
 式に設立された。
  発起人は、九条道孝、前田斉泰、池田茂政、藤堂高潔、
 坊城俊政、前田利鬯・・だった・・
  そして、この日、英照皇太后の行啓を仰いで、舞台開
 きが催された。
  宝生九郎が、「翁」「高砂」(ワキ・宝生新朔)を、
  観世清孝が、「田村」、
  梅若実が、「桜川」、
  金剛唯一が、「鞍馬天狗」、そして・・
  櫻間伴馬が、半能「加茂」を舞った。
  また、1881年4月17日には、華族の方々を対象に、
  そして、1881年4月18日には、一般への公開能が開かれ
 700人あまりの観客が集まった。
  当初のこの頃、この舞台は単に「能舞台」と称されて
 いたが・・、
  1881年6月、宝生九郎が出した新聞広告に「芝公園内
 楓山能楽堂」という語がある。
  1882年には、能楽社関係者の中でも「能楽堂」の称が
 用いられている。
  1882年頃からは、「芝能楽堂」ともなり・・
  後に、この呼称が一般的となった。
  ちなみに・・前田斉泰のエピソードに・・、
  1854年、アメリカからもたらされた「アッフル(りん
 ご)」が、加賀藩下屋敷(巣鴨近隣の板橋宿)にて栽培
 された。
  そして、この翌年・1855年、実をつけたために食用と
 され、近習ら藩士にも配られた。
  このことが、当時の加賀藩士の記録に残っていて・・、
  藩主の斉泰から、「小さな餅に塗って食べるように」
 と言われたという・・
  近習らはそのようにしていることから、ジャムにして
 食したものと言われている。
     ・
     ・
1945年8月10日、この日の午後8時、日本政府が、ポツダム
 宣言受諾を『連合軍に通知した』との短波放送を行った。
  1945年8月12日、午前0時頃、サンフランシスコ放送は、
 連合国の回答を放送した。
  この時に、日本の降伏の意思が確定していた。
  (完全にソ連の行為は違反行為・・日本領土侵略は成
 立しない)
  この情報は世界各地で受信していた。
  例えば、ラジオで情報を得たホーチミンは、日本の降
 伏を革命のチャンスとみた。
  ホーチミンは、フランス軍が、再度、進駐して来るよ
 り前に自国領のベトナムに実権を確立しようと計画を始
 めた。
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1945年、戦後の日本の女性の方々は、これからの日本の復
 興の必要性を肌で感じた。
  女性の方々の鋭い直感で感じたのだった・・
  日本のこの今の危機を救うという・・
  そして、この後、多くの子供たちが生まれ・・育てら
 れた。
  爆発的な状況で増えた子供たちは『団塊の世代』と呼
 ばれた。
  そして、この子供たちが、輝かしい日本の戦後の復興
 に加わって行った。
  日本は、『奇跡的と言われる復興の姿』を世界に見せ
 て行った。
  今、ASEANが輝かしい発展を遂げているが、戦後
 日本の輝かしい復興の姿が、また、発展の姿が、このA
 SEANの方々へ復興・発展への勇気を差し上げている。
  それは、日本の女性の方々が作ったと言ってもよい日
 本の復興の姿だった。
  マレーシアのマハティール氏の「ルックイースト」と
 いう言葉があるが(1981年12月15日)・・これは、日本
 を見習えという意味であり・・
  ルックイースト政策ともなり、マレーシアの発展の理
 念ともなっている。
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1946年4月4日、卑劣な事に・・200人~300人の武器を持っ
 たアメリカ兵が、強姦目的で大森の中村病院に乱入した。
  そして、約100人の妊婦や看護婦らを強姦した。
  生まれたばかりの子供も殺害された。
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1946年4月、ベトナムで独立を目指すベトミンが、残留して
 いた日本兵に戦い方の指導を受けるための軍士官学校を
 設立した。
  それは、ベトナム中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校
 だった・・
  教官は、元日本軍の士官や下士官であった。
  残留した日本兵は、「新ベトナム人」と呼ばれた。
  日本軍インドシナ駐屯軍参謀・井川省少佐は、ベトナ
 ム名のレ・チ・ゴと名乗った。
  そして、ベトミンに、武器や壕の掘り方、戦闘指揮の
 方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを教えた。
  また、井川参謀の部下の青年将校の中原光信は、ベト
 ナム名のヴェト・ミン・ゴックを名乗り、第二大隊教官
 としてベトミンに協力して独立戦争を戦った。
  この他にも、石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、
 猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)
 らがいた。
  この様に日本敗戦後、ベトミンに協力してベトナム独
 立戦争でフランス軍と戦ったインドシナ残留日本兵は
 766人にのぼる。
  また、武器の多くが日本軍からのもので、38式小銃な
 どが多かった。
  ベトナムを、再度、植民地にしようと考えたフランス
 のえげつなさがこの様な事態を引き起こしていた。
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1946年5月3日~1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京
 裁判)が行なわれたが、この時、横田喜三郎・東京大学
 教授は、この裁判の翻訳責任者を務めた。
  しかし、卑劣なこの男・学者の人生が、この時から始
 まる・・
  横田喜三郎は国際法の教授であるが、この立場から、
 東京裁判の明らかなる違法性を指摘する立場にあるのに
 東京裁判を擁護した。
  横田喜三郎は、マルクス主義の読書会(ベルリン社会
 科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者とし
 て知られていた(左派系学者)
  1930年、東京大学の国際法の教授となり・・
  1945年、日本が戦争に負けると豹変した。
  1947年~1949年、3冊の本を書くが、GHQにすり寄り、
 進行中の東京裁判を擁護した。
  「事後法で裁いてはならない」という大原則でさえ擁
 護した(この学者の法理は弁解の出来ない「しっちゃか
 めっちゃか」状態だった・・自分さえ良くなればよいと
 いう行動をした)
  この近代法の根幹の原則に対して、「そんなものは大
 して考慮する必要はない(取り立てて言うほどでは無い)
 とまで、この男は言った。
  『裁判は正当なのだ』と力説した。
  法律家が、絶対に言ってはいけないということまで言
 うという状況だった。
  (参考)法理:ほうり、法律の(哲学的な)原理
  また、この様な類いの輩が多いという東京大学だった。
  今・現在でも、日本を売る輩が多く居る大学である。
  近隣諸国と問題となるネタを与えるという行動をする
 輩さえ居る(朝日新聞だけではない)
  1960年、この横田喜三郎は、最高裁判所長官となり、
 文化功労者として表彰された・・
  また、文化勲章も貰い、勲一等旭日大綬章まで貰った。
  左翼から豹変し、GHQが日本を牛耳っている時には、
 GHQにすり寄り、その時の都合に合わせて言うという
 男だった。
  そして、日本政府にすり寄って栄達する時は・・、
  過去に書いた本が邪魔になるので、東京中の本屋へ弟
 子を走らせ、自分の本を隠す目的で買占めをさせるとい
 う男だった。
  この話は、この頃、誰でもが知る有名な話となった。
  笑い話的な事は、この時、この為に、この本の価格が
 値上がったという。
  国は、表彰などをして報いたが、この男は、最後に書
 いた回想録で先祖返り(せんぞがえり)をして、日本を
 裏切った。
  ちゃらちゃらと豹変する男のする様な事だった。
  中国のハニートラップに引っ掛かって、日本を裏切る
 政治家が居るが、日本の中枢の学者もよく日本を裏切り、
 日本を売る・・。
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1961年5月、アメリカのベトナム戦争介入
  アメリカが、正規軍の特殊作戦部隊600人をベトナムに
 派遣し、軍事物資とともに本格的介入を、この時、始め
 た。
  南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、クラス
 ター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始し
 た。
  ケネディ政権は、就任直後に、東南アジアにおけるド
 ミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会
 を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢について
 の提言を求めた。
  特別委員会と統合参謀本部は、ともに、ソ連や中華人
 民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナム
 による軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南
 ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
  ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキュ
 ーバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増し
 ていたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激す
 るとして行わなかったものの・・、
  「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行につ
 いての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務
 次官と、W・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を
 却下した。
  「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」
 との名目で、1961年5月に、アメリカ軍の正規軍から構成
 された「軍事顧問団」という名目の、実際は、ゲリラに
 対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事
 物資の支援を増強することを決定した。
  そして、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的で、
 クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃が
 開始された。
  日本は、第二次世界大戦の後、「平和に対する罪があ
 る」とされて裁かれ、多くの日本の軍人が殺されたが・・
  しかし、アメリカの、このベトナム戦争の侵略戦争を
 遂行したことは、「平和に対する罪がある」。
  この裁きが、まだ行われていない。
  また、同様に、アメリカは、「グレナダ侵攻」でも同
 様な罪がある。
  また、「パナマ侵攻」でも、「リビア空襲」でも、ア
 メリカには、「平和に対する罪がある」。
  そして、中国も、数々の侵略戦争を遂行していて、中
 国にも多くの「平和に対する罪」がある。
  中国には、「朝鮮戦争」「チベット侵攻」「中印紛争」
 「中ソ国境紛争」「中越紛争」などなど・・、
  また、アメリカは、ジェノサイド(大虐殺)を、ベト
 ナム戦争で行っていて、「人道に対する罪」がある。
  また、中国も、ジェノサイド(大虐殺)を、度々、行
 なっている。
  「人道に対する罪」を免(まぬが)れられない、「毛
 沢東による大躍進・文化大革命」「天安門事件」「チベ
 ット人弾圧」など・・
  本「共産主義国書」(ステファス・クルトワ・ニコラ・
 ヴェルト著)には、国別の残虐行為・蛮行を仔細に分析
 されている。
  それによると、中国が断然多数の非道な殺戮を行なっ
 ている。
  その数は、何と! 6500万人となっている。
  虐殺国家=中国となっている。
  こんなに虐殺を行なっている国は、他にはない。
  この事柄だけでも「共産主義国家=中国の存在理由は
 無い」・・
  中国の存在は否定されなければならない。
.
1998年、中国の江沢民総書記が、日本を訪問する直前、中
 国共産党が「21世紀の中日関係の展望」をまとめた。
  それに、「日本人をコントロールするために、日本へ
 歴史問題を突き付ける。そして、日本人を後退させる」
 と書かれている。
  そして、この中に、「日本国内に孔子学院を設立する」
 という事も書かれている。
  孔子学院は、中国語の教育機関とされている、その様
 な触れ込みであるが・・、
  アメリカやドイツなどでも問題となっているように、
 完全に中国のプロパガンダ機関・・中国の洗脳機関で、
 コントロールの為の機関となっている。
  20年を経て、この様な中国の目論見・本音が露呈して
 いる。
  中国から金を貰っているのか? キリスト教系大学の
 桜美林大学や、また、早稲田大学などに設立されている。
.
2018年12月26日、NHKの小会社整理
  この日の読売新聞に、NHKの2子会社が経営統合す
 ると報道された。
  NHKには、NHKの豊満で放漫な金に群がって、N
 HK職員の天下り先でもある子会社が数限りなくある。
  それにしても、この統合をNHKは2020年の春にする
 とした。
  いつもの・・そして、総べてのやることがNHKは、
 この様な状況だ・・遅い・・まったく遅い・・民間会社
 だったら半年でやってしまうことを・・ちんたらやる。
  NHKは、やることの総べてに、厳しさがない。
  再来年(さらいねん)の2020年の統合だという甘いと
 ころがNHKのだらしなさを象徴している。
  NHKは、長い期間、「頑張るな!」という番組をキ
 ャンペーンとしてやって来たが、その様なNHK体質が
 この小会社統合にも現れている。
  「再来年と言われて・・いつまでチンタラやるのだ!」
 と喝(かつ)を入れたい・・
  NHKは、この統合を半年で民間の様に終わらせ、ど
 んどん業務を整理統合し、合理化して行け!
  そして、NHKは受信料を半分する目標を掲げよ!
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2019年1月8日、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)が中国
 を電撃訪問・・
  この2日前の2019年1月7日には、アメリカが軍艦を南シ
 ナ海に入れ、「航行の自由作戦」を実施している。
  この南シナ海は、今では、中国は世界へ嘘をついて、
 完全な軍事基地・要塞と化している・・
  『軍事基地化はしない』などと言っていた中国である
 が、この海の多くの島々は、今は、各種の軍事の諸設備
 および兵器・戦闘機・ミサイル・レーダーなどが置かれ
 た要塞となっている。
  もう、アメリカは、この地を叩くことはできないであ
 ろう・・
  確実な中国の軍事拠点として確立されてしまっている・・
  北朝鮮の金正恩にしても、ほぼ対等に何度も会ってく
 れる中国のこの状況などから、核保有国になったからだ
 との表にあらわせない気持ちもあって、今後の核放棄は
 『まずあり得ない状況になってしまった』・・
  この段階でやれることと言ったら、アメリカの核の日
 本国内の核展開・・
  日本をやるのなら、中国も北朝鮮も一瞬にして蒸発す
 るぞという対抗措置しかない・・
  これによって、日本への手出しもできにくくなると同
 時に、アメリカへの手出しもできにくくなる・・
  そして、国連には、「国連という虎の威を借る狐」が
 居る。
  アメリカのジョン・ロバート・ボルトン(国家安全保
 障問題担当大統領補佐官、元米国国連大使)が、「国連
 の上の10階を取ってしまえ」と言ったという・・
  これは、国連が何もしてない組織であり、取ってしま
 ってもよい様な何も役に立たない機関なのだという意味
 だという・・
  その様な国連の状況で、国連は捉らえられ方をしてい
 る組織となっている。
  国連という場に万国が会し、意見を出し合い、討論を
 する。
  まったく理想的な、合理的な機関の様に見える国連。
  しかし、それは、全体会合がなされる本会議の情景で
 あって、
  そして、この場面が報道機関・メディアによく報道さ
 れ、流れるから、国連はこの様な事をする「理想的な機
 関だ」なんて見え、思えるが・・、
  この全体会合がなされる本会議以外の国連の場は、少
 数の者が意思を決定するという、「少数意見が横暴に決
 定される、独裁的に決定がなされる場」となっている。
  まったく一握りの少数の者の独断の場となっている。
  この様な決定が、国連の場の決定という事で「さも公
 正の様にに行われた」と世界に誤解を与えている。
  そして、まちがった認識・・誤認を与える結果となっ
 ている。
  その少数の者達の弾圧が、国連という虎の威を借りて
 行なわれる。
  この不合理な事を知る不埒なキリスト教は、この国連
 機関の少数の者たちへ働きかけ・・そして、洗脳などを
 行ない・・キリスト教の意見を世界の意見の様にしてい
 る。
  「アイヌが日本の先住民だ」と、科学的にまったく間
 違ったことを国連決議をしている。
  クジラが食べられなくなったのも、やはり、このキリ
 スト教の働きかけ・運動の仕業(しわざ)。
  遠い昔から食べて来た日本の食べ物を奪った・・食文
 化を消し去られた。
  キリスト教の教義による「クジラは食べてはいけない
 という事を日本は押し付けられた」。
  ならば、キリスト教よ!「七面鳥を食べることを止め
 よ」「牛を食べることを止めなさい!」・・できますか?
  キリスト教は、仲間を集めて多数を形成し、クジラを
 食べる少数のマイノリティ意見を握りつぶした。
  キリスト教という宗教的取り決め・決定であるため、
 何ら説明しても聞く耳を持たなかった。
  議論の場があっても、その議論の場での正常な意見の
 交換は出来なかった。
  宗教裁判所状態であった。
  「最初から結論ありき」だった。
  何度、説明しても、その意見を受け入れるそぶりも無
 かった。
  何度、説明しても受け入れられない「ガリレオの地動
 説」の如く、宗教タブーに触れた話だった。
  この件もガリレオの地動説の如く、ローマ法王が何百
 年かの後に「悔い改めのミサ」をやり、ガリレオに謝っ
 たが如くになるだろう。
  聞く耳を持たない宗教裁判の如きの場から日本は脱退
 した。
  これから中世ヨーロッパで、キリスト教が卑劣な弾圧
 をやり続けたが、日本もこの様な卑劣な弾圧を受け続け
 ることになるのだろう。
  そして、北朝鮮の金正恩が電撃訪中した時・・
  北朝鮮の金正恩がアメリカの真似をして、アメリカに
 届くかどうかはわからないが、そのミサイルの発射装置
 をもって中国へ出かけた。
  そのミサイルの方向は、日本・アメリカは勿論、その
 北京へも向いているのだろう。
  北京がそそのかして技術援助をした結果が今なのであ
 るが・・そのミサイルが北京へ向くということもあり得
 る状況にある。
  北朝鮮は、自国が生き残りのために作ったミサイル。
  自分以外に対しては、北朝鮮の生き残り目的の・・生
 き残るためにはそのミサイルの数には差があるだろうが・・
 北朝鮮のリスク回避のため、皆無状態にしている訳はな
 い・・当然、中国にも向けている・・
  当然、韓国にも向いている。
  ゴマを磨っているから韓国には向いてないと、韓国は
 思いたいのだろうが?
  この男は、近距離のミサイルも持っているが、これは
 韓国用だ。
  危ないと思えば伯父さんだって除外する者・・そして、
 兄だって・・誰だってやる様な男なのだ・・
  こんな事を書きたくないが、これが現実・・
  この愚かな領域を人類は乗り越えられるか?
  一旦、最低状態を経験しなければ、人類は立ち直れな
 いのだろうか・・
.
2019年1月9日、この日の読売新聞で、イギリス人の政治学
 者のエリック・カウフマン氏が言う・・、
  全紙を使った堂々たる寄稿であった・・が・・
  カウフマン氏は書く・・
  「白人としてのアイデンティティーを抑圧し、過去の
 歴史への罪悪感を煽ることは、白人を追い込み、ポピュ
 リズム的な不満を掻き立て、テロに発展する恐れすらあ
 る」・・と・・
  確かに、歴史の過去に、白人たちのやって来た事は極
 悪で・・卑劣だった。
  それを、ひたすら指摘し、煽らないでくれという書き
 出しだった。
  そう・・イギリス人は、特に、世界のあちこちで極悪
 な事をした。
  オーストラリアへ行けば、先住民のアボリジニの方々
 を、動物の如くに、狩りをする様に、殺戮した。
  タスマニア島のアボリジニの方々は、可哀想に全滅し
 てしまった。
  インドでも、様々な極悪行為をしたが・・
  その一つを書けば・・インドの方々を並木道の木々へ
 吊るして、殺した・・高い木の上に、インドの方々は吊
 るされたままに居た・・
  何日もそのままにして晒(さら)されて・・インドの
 方々を威圧した・・
  インドの方々は、それを、道を通るときに見ざるを得
 ない状態にされ、抑圧された・・恐怖された・・
  この様なイギリス人のやった例は、書き切れないほど
 ある。
  スペイン人も、キリスト教の最高権威者のローマ法王
 (教皇)から、問い合わせた返事に、「現地人のインデ
 ィオの方々を『人と見なすな』という返事」で・・
 これを切っ掛けに1000万人以上という殺戮が始まった。
  60年に渡って、南北アメリカ大陸の先住民の方々を殺
 戮し続けた。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の教え・教義にこの根
 本原因があった。
  ローマ法王(教皇)は、この非を数百年後に認め、
 「悔い改めの謝罪のミサを行った」。
  しかし、キリスト教が、また、白人が、悔い改めの謝
 罪のミサをすべきところは、まだまだある。
  白人が、多数の人種という位置にいたから起きた横暴
 でもあった。
  その位置から・・白人が多数の人種の位置から降りる
 今・・白人に虐げられて来た少数民族の悲哀さを身をも
 って感じる事が出来るだろう今・現在、標記の様な事を
 言い出す。
  キリスト教の一神教は、その宗教性から多様性を否定
 した。
  我がキリスト教の神のみが「唯一の神だ」と、他を認
 めず、他を異端とし、異教徒とした。
  その異教徒を・・キリスト教の教義は「異教徒を殺せ」
 と指示し、教義とした。
  そして、異教徒を虫けらのように進んだ武器でもって
 劣った有色人種を殺戮した。
  その様にして来た白人が、その論理を取って返して、
 「白人文化の罪悪感を煽るな」と言う。
  今まで散々自分たちがやって来た事々を棚の上にあげ
 て、免罪符が欲しいと言うが如くに論理展開する。
  今になって、やっと、悲痛な人々の声を、やっと発す
 ることができる・・今まで虐げられてきた人々なのだ・・
 その様な段階になって来たところの今なのだ。
  この段階は、この悲痛な虐げを受けた人々の声がやっ
 と白人たちへ届く時代となって来たところなのだ。
  また、カウフマン氏は、「西側社会は総じて、多文化、
 多様性の受け入れを重視しますが、東アジアでは、国際
 主義的なリベラリズムを遠ざける傾向が強い」と言う。
  そして、この見方を根幹の基本として、この後の論理
 展開をするが・・、
  この根幹の基本的考え方の捉え方は大間違いだ。
  キリスト教の教義に洗脳された白人・ヨーロッパ人は、
 一例をあげれば、キリスト教カトリックが、キリスト教
 プロテスタントを異端だとして、受け入れられないとし
 て・・、
  また、この反対に、キリスト教プロテスタントもキリ
 スト教カトリックを、異端だとして受け入れられないと
 した。
  お互いの考え方の違いを、キリスト教の教義の如く異
 端として見て、愚かにも30年間もの長い間、卑劣な30年
 戦争を戦い、殺し合った。
  ヨーロッパの白人の人口の3分の1が死んだという卑劣
 な歴史である。
  カウフマン氏が美しく言う「西側社会は総じて、多文
 化、多様性を受け入れを重視する」・・と・・これは大
 間違いだ・・話が逆だ。
  日本を例にして言えば・・日本には、アメリカが建国
 されるズーット以前・・また、イギリスが、まだ国とし
 て成り立っていないという以前の遠い昔に、平等院が日
 本にある如く、差別なく、すべてを平等に受け入れる社
 会は、すでになされていた。
  また、世界一古い長編小説の著者が、日本女性である
 如く、男女の差別も無く、教養ある女性方たちが活躍し
 ていた。
  カウフマン氏よ! 貴方には、有色人種の東アジアの
 人々を蔑視するキリスト教の洗脳があるのではないです
 か?
  東アジアをもっと冷静に見直しをして下さい。
  キリスト教には、「他民族へ、娘を嫁になるな」など
 の律があるなど、この様な差別的な閉鎖的な社会規律が
 一杯ある。
  この宗教の考え方の下に貴方たちは居る・・
  この様な点を見ないで、無視して論理展開をしないで
 下さい。
  東アジアは、「自民族同士の結婚が多いから悪い」と
 いう言い方も偏頗ではありませんか?
  この考え方も偏見に満ちています。
  結婚は、各人の自由意思の下に自由に行われるだけで、
 自民族同士が多いから悪いとか・・とやかく批判し・・
 どうのこうのと言うべきものではない・・
  カウフマンさん、貴方には、「白人がやっていること
 が最高なんだ」という「白人優越の意識」が垣間見えま
 す。
  白人は、これから、未体験のマイノリティの人々とな
 って行く。
  大多数の時にした黒人奴隷の歴史のごとき歴史が待っ
 てない様にと祈ります。
  白人の方々こそ、自分たちが何をやって来たかをよく
 見定めて・・
  自分たちの行く先に、その虐(しいた)げたマイノリ
 ティの人々と同じ様な姿が無きようにと・・
  問題なく歴史を紡いで行けるようにと、沈思し、行動
 を思い描きなさい。
  「白人の罪悪感を煽らないこと」と、自分をさておい
 て・・他の人々の対応だけを求めることの愚かさに気付
 きなさい。
  お互いがやるべき事であって、一方にだけ求めるなど、
 片手落ちであってはいけません。
  (追伸)上記の浅はかな論理展開したエリック・カウ
     フマンの略歴:48歳、ロンドン大学バークベッ
     ク・カレッジ教授。
      香港に生まれ、幼少期の8年間、東京で育つ。
      カナダで大学卒業後、ロンドン・スクール・
     オブ・エコノミクスで博士号。
      専門は、民族、宗教、ナショナリズムなど。
      近著「ホワイトシフトーーポピュリズム、移
     民、白人多数社会の将来」を2018年10月に刊行、
     イギリス内外の言論界で高い注目を集めた。
.
2019年、専守防衛なんて絵に描いた餅。
  中国が、核弾頭ミサイルを300発から600発持っている
 というが・・、
  これが、日本に飛んで来たら、日本は「ひとたまりも
 ない」。
  そのすべてを撃ち落とす事は出来ない・・
  撃ち落とせると思っているのだったら・・悲惨な事実
 から目を背(そむ)けたい・・だから、撃ち落とせると
 思っているのだ・・ということになる・・
  中国の核弾頭ミサイルは、日本のほとんどの都市に照
 準を合わせている・・中国はその様に言っている。
  第二次世界大戦の時は、アメリカが、何万発という爆
 弾を・・日本中の都市に落したが・・そして、壊滅した
 が・・、
  今・現代、その核弾頭ミサイルは、一発でも落された
 ら、それで終わりだ。
  投下された都市の「すべてが、蒸発してしまう」。
  専守防衛は「おとぎ話」なのだ。
  防衛が不可能なのに「専守防衛する」と言う・・
  この論理は成立しない。
  生半可な防衛力を放棄して、「殺すんなら殺せ」と言
 った庶民の心になるか?である・・
  生半可な防衛力があるから攻めて来るとも言える・・
  だから・・はっきりと・・無責任な行為は止めて・・
  専守防衛を止めて「専守攻撃」に変えなければ「専守
 防衛」は出来ない。
  もし、あなたの国が、日本を攻撃するのでしたら、「
 日本は、あらゆる日本の攻撃手段を使って、あなたの国
 を攻撃します」という『専守攻撃宣言』をしなければな
 らない。
  これでなければ、専守防衛なんてできない。
  迎撃ミサイルは、単なる、「精神安定剤」。
  日本中に、そして、広い広い日本の領海中に、中国・
 北朝鮮・ロシアを殲滅できる核弾頭ミサイルを展開しな
 ければならない。
  「恐ろしくて日本なんて攻撃できない」という気持ち
 を起こさせなければならない。
  この「専守攻撃」の核弾頭ミサイルの展開は、アメリ
 カと協議し、早期に実現しなければならないという今・
 現在となっている。
  この様な現状にある今・現在を、冷静に見れば、日本
 国憲法の前文の記述が、あまりにもかけ離れた夢の世界
 の中に浮いていることが分かる。
  日本国憲法の前文は、現実の実情にそぐわない状態に
 なっている。
  日本は立派な国であるから、日本以外の国々の公正と
 信義に信頼してと、それを信じて、まったく理想的な憲
 法を掲げてやって来たが・・??・・今までは・・
  今・現在、その現状は、その様な状況ではまったくな
 いという状態になってしまっている。
  近隣の諸国は、陰で日本の憲法をうすら笑っているだ
 ろう・・都合が良いと思っているだろう。
  日本国民の方々は、お人好しだから、日本国憲法が現
 状とはまったくかけ離れて・・現状にそぐわないと思っ
 ていても・・我慢し、耐えている。
  しかし、これからの子供たちの為には・・
  「もうこのような我慢をさせる事は酷である」。
  子供を産みたくなる様な憲法にしなくてはならない・・
  今・現在の現状に沿う憲法を「未来へ残さなければな
 らない」。
  それが出来て日本の戦後は終わる。
  それにしても、ベトナムの方々もよく戦った。
  不合理なものへ対して、その戦いが必要な時には、強
 い相手であっても「毅然と戦わねばならない」として戦
 った。
  今、平和憲法なんて・・自画自賛の状況となっている。
  その憲法が、現状に於いて「何の役にも立たない」と
 いう状況が、戦後の経過の中で生まれ・・そして、証明
 された。
.
2019年、中国は、日本の中国研究者が、中国について批判
 的な研究結果を公表すると、とたんに、睨(にら)み・・
  そして、研究行為について不利な扱いをする。
  中国への入国は拒否される。
  研究のための中国入国の拒否だからたまらない。
  また、入国が出来たとしても、史料の閲覧の拒否を受
 ける。
  研究の材料を得られなくなるという事は致命的だ。
  中国は、この様な卑劣な事をする。
  だから、中国へゴマをする研究者ばかりになる。
  こんなことは誰でも知っている事で、だから、若い研
 究者は、中国の反応を怖がる。
  中国からのプレッシャーの中で研究している。
  だからなのか、中国べったりという方針にしたのか・・
 その様な中国べったりの研究者が居る。
  大学もその様な「いざこざ」が起きないことを願って
 いる。
  この様な大学の姿勢からのプレッシャーも研究者へ与
 えられている。
  また、大学へ来る研究者についても、中国とトラブル
 を起こしそうな研究者に対し、「わが大学にだけは来な
 いで欲しい」という態度をとる。
  研究者だけでなく、ジャーナリストへもこの様な戦略
 が中国にとられ、この戦略にはまってしまう。
  また、招聘(しょうへい)する人などについても、中
 国に不利な人の招聘の場合、中国は嫌がらせをする。
  何もかもが中国に寄り添う行動になるというプレッシ
 ャーの中での研究などの行動となる。
  この様に、きめの細かい情報を本国へ伝える工作員が
 存在しているということが分かる。
  その存在はものすごく厚い・・
.
2019年、中国の地の覇者は、以前からズーット漢民族であ
 ったのではない。
  色々な民族が、入れ代わり立ち代わり中国の歴史をつ
 ないで来たのだった。
  漢民族の現政権は、「中国、5000年の歴史」と言って
 いるが、中国の文明の発祥からの歴史の事を言っている
 のであって、現政権の漢民族の歴史が、さも、5000年間、
 続いたように言うのは大間違いで・・錯覚させている。
  中国の漢民族の現政権の歴史は『数十年』である。
  「つい、この間」という歴史である。
  漢民族の現政権の歴史は、新参者の新興なのである。
  現政権の漢民族中国政権は、この様な錯覚を「この他
 にも、色々、行なって」いて、世界を錯覚させ、その様
 に思わせている・・
  色々な事で、事実の誤認を起こさせているから注意を
 要する。
  「中国人民解放軍」と言わせられているが、その実態
 は『中国人民侵略軍』である。
  この中国共産党軍は、中国に接する近隣諸国の侵略ば
 かりをしている。
  解放とは程遠い事ばかりをしている。
  近隣諸民族の殺戮と弾圧である。
  チベット、ウイグル、内モンゴルなどは、とうとう、
 中国の国の様にされてしまっている。
  この他にも、ベトナムなどは、何度も、共産中国軍(
 中国人民侵略軍)の侵略を受けたか知れないという悲惨
 な歴史となっている。
  そして、今、ネパールやブータンが怪しい・・
  また、「中国東北部」と呼ばされている地域は・・『
 満州族の地域』であった・・
  そして、今は、その民族が、満州族が、まったくこの
 地域に居ないという事である・・
  殺されたのか? 追放されたのか? 不明であるが?? 
  だが本来は、まったく中国とは関係のない地域で・・、
 「中国東北部」ではなく、『満州族部』とでも呼ぶべき
 地域だった・・強いていうのなら「中国東北侵略部」。
  万里の長城のはるか北にあるこの地を、なんで中国と
 呼ぶのか?・・である・・その様な地ではない。
  万里の長城のはるか北のこの地を、中国と呼ぶのは『
 不適切である』。
  中国は、この万里の長城の北の「外の地」を、まった
 く関係ないという意味の『化外の地』として・・中国の
 力の及ばない他民族の地としていた・・
  だから、その中国と関係のない民族が、中国の地に入
 って来ない様にと「万里の長城を築いた」のだった。
  中国は、この様な地を『中国東北部』と呼はさせて、
 世界を錯覚に陥(おちい)らせようとしている。
  満州族の地の痕跡を消そうとしている。
  「中国東北侵略部」なのである。
  「チベット」も「ウイグル」も「内モンゴル」も、皆、
 同じ『中国侵略部』である。
  チベット民族は、隣国のインドに、チベット亡命政府
 を樹立している。
  1959年から、ダラムサラに、中国の侵略・軍事制圧か
 ら逃れた人々が建設を始めた。
  1953年3月、インド政府は、チベット本国を追われたダ
 ライラマ14世に対し、この地を提供し・・
  1960年、チベット亡命政府は発足した。
  そして、各種の官庁も築かれた。
  この様に、国際法無視の行動をする中国は、グローバ
 ル化が進むと「都合が良いと考えている」。
  自らは漢民族の世界にしようとしているが・・それ以
 外の民族性を薄めたいと、グローバル化が都合よいと考
 えている。
  中国は、南シナ海も、近隣諸国の領地を奪い軍事基地
 化した・・
  これはアメリカの真似をしている・・
  それを阻止したのが日本だった・・日本は大きな戦争
 をした・・その戦いの後、アジア諸国は独立して行った。
  今、その諸国=ASEAN(東南アジア諸国連合)は、
 次の世界の繁栄の中心になろうとしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)627E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)627E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年5月21日、台湾総督府仮条例が制定され、総督府に
 民政局、陸軍局、海軍局が設置された。
.
1895年5月28日、大阪鉄道の天王寺駅~玉造駅間が開通した。
  (参考)初代大阪鉄道は、1888年から1900年まで存在
     した日本の鉄道事業者(私鉄)
.
1895年5月29日、日本軍が、台湾北部に上陸した。
  1895年4月17日、日清両国は、下関条約によって日清戦
 争が終結させた。
  そして、日本は、清国から正式に台湾の割譲(かつじ
 ょう、国家間の合意によって領土主権の全部、または、
 一部を譲渡すること)を受け、両国間に平和が回復した。
  しかし、台湾割譲に反対する清国の文武官は、列強の
 干渉を呼び込むために、イギリスやフランスに台湾を貸
 与する計画や陰謀などの割譲阻止工作を実行した。
  これを起因として台湾問題が発生した。
.
1895年6月1日、凱旋門見学
  樋口一葉は、凱旋門が取り壊される当日、慌てて見学
 に行った。
  しかし、たまたま天皇陛下の還御の行列に当たり、よ
 うやくたどり着いた。
  「やがて凱旋門ちかく成れば、もはや取崩しに取かか
 れりとおぼしく、取りおろしたる杉の葉などここかしこ
 に山とつまれぬ」
    (日記『水の上』1895年6月1日)
  天皇陛下、還御(氷川清話)
  (参考)還御:かんぎょ、天皇陛下、・三后、将軍、
     公卿(こうけい)が出先からお帰りになること。
  (参考)三后:さんこう、后位(こうい)は、日本の
     朝廷において天皇陛下の配偶者や母・祖母等に
     与えられた太皇太后・皇太后・皇后の地位の総
     称で、三宮(さんぐう)・三后(さんごう)と
     も言う。
.
1895年6月4日、閣議で「将来の対韓政略は成るべく干渉を
 やめ、朝鮮を自立せしむるの方針をとるべし、故に他動
 の方針をとるべきことに決す」と決議した。
.
1895年6月7日、日本軍が、台北を制圧し・・
  6月17日に、台北で総督府始政式を行なった。
.
1895年6月10日、台湾鉄道線司令部が設けられ、陸軍が台湾
 の鉄道の運営に当たり、基隆駅~台北駅間の運転が開始
 された。
.
1895年6月17日、台湾都督府で始政式が行なわれた。
  初代総督に樺山資紀海軍大将が就任した。
  台湾総督府開庁は、この日を台湾始政記念日とした。
.
1895年6月18日、仮設呉兵器製造所が設立された。
.
1895年7月4日、横浜クリケットクラブのトラックで自転車
 競技が行なわれた。
.
1895年7月6日、露仏両国による対清借款が成立した。
  4億フランが成立した。
  日清戦争の後、イギリス・フランス・ロシア・日本・
 ドイツの帝国主義諸国は、租借地の獲得や鉄道敷設権・
 鉱山採掘権などの利権という形態で中国の国土を分割支
 配して行く・・その手始めの借款だった・・ロシア・フ
 ランスなど列強に対して外債を発行し、借款した(外国
 から資金を借りた)
  列強は、この借款を通じて鉄道敷設権を獲得したり、
 鉱山採掘権を獲得して行った・・
  列強は、この借款という形で清朝政府から租借という
 形で奪って行った・・
  19世紀のこの頃、中国は、事実上、反植民地状態とな
 った・・
.
1895年7月13日、夏目漱石:愛媛県尋常中学校(松山中学)
 の英語教師を勤める漱石(28歳)
  日清戦争に出征していた松山連隊の凱旋を迎えるため、
 生徒を引率して、フロックコートに山高帽というハイカ
 ラな正装で、松山市郊外の八丁畷(なわて)へ出向いた。
  この式から帰る途中、師範学校の生徒と松山中学の生
 徒との間で乱闘騒ぎが起きた。
  教師にもそのとばっちりがおよび、田んぼの中に押し
 込まれたりした。
  漱石の小説「坊ちゃん」にも書かれている。
  「喧嘩は今が真最中である。
  師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割
 方多い。(中略)
  入り乱れて組んず、ほぐれつ戦っているから、どこか
 ら、どう手をつけて引き分けていいか分らない。
  山嵐は困ったなという風で、しばらくこの乱雑なあり
 さまを眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。
  巡査がくると面倒だ。
  飛び込んで分けようと、おれの方を見ていうから、お
 れは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しそうな
 ところへ躍り込んだ」
  大騒ぎしているところへ巡査が駆け付けて来て、生徒
 たちは逃げ去り、坊ちゃんと山嵐だけが警察に引っ張ら
 れる。
  翌日の新聞には、生徒たちを扇動して騒ぎを起こした
 と書き立てられる。
  我軍凱旋(氷川清話)
.
1895年7月25日、山陽鉄道の尾道駅~糸崎駅間で軍用列車が
 脱線転覆した(死者11人、重軽傷98人)
.
1895年7月、ラベンナ号事件の日本政府とピーオー汽船との
 損害賠償請求裁判で、イギリス上院の判決が出され、ピ
 ーオー汽船の訴えを退けた。
  賠償金は、1万ポンドでの和解成立となった。
.
1895年7月、北海道全道の鉄道調査が終了した。
.
1895年7月、三国干渉の影響で朝鮮が親露政権となった。
.
1895年8月5日、日清戦争論功行賞が行われ、伊藤博文、山
 県有朋、大山巌、西郷従道が侯爵となった。
.
1895年8月6日、台湾総督府条例が制定された(陸達第70号)
  総督幕僚、陸軍局、海軍局が置かれた。
 ・総督幕僚 参謀部
       副官部:第一課(文書関係)第二課(人事
           関係)第三課(用度関係)
 ・陸軍局  砲兵部 工兵部 憲兵部 監督部 軍医部 
       法官部 電信部 郵便部
 ・海軍局
.
1895年8月15日、豊州鉄道の行橋駅~伊田駅間が開通した。
.
1895年8月17日、三浦梧桜を朝鮮駐在公使に任命した。
  (参考)三浦梧桜:みうらごろう、政治家・陸軍中将・
     子爵。
      山口の生まれ、長州藩の尊攘運動に参加した。
      広島鎮台司令長官として萩の乱を鎮圧した。
      王事に尽瘁(じんすい、自分の労苦を顧みる
     ことなく、全力を尽くすこと)する。
      枢密顧問官。
      1926年、没、81才。
.
1895年8月22日、下総鉄道が、社名を成田鉄道会社と改称し
 た。
.
1895年8月22日、浪速鉄道の片町駅~四条畷駅間が開業した。
  運転時分38分、1日19往復の列車を50分間隔で等間隔運
 転。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、共産独裁国家に包囲されている。
    もう、韓国は共産国家だと考えてよい。
    アジアにおける「第二次世界大戦の勝者」は、アメリカではない。
    勝者は共産国家である・・
    「共産・中国」「共産・ソ連(現:ロシア)」である。
.
1896年、イギリス人で首相になったチャーチルは、若いこ
 ろ、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍
 経験と新聞特派員としての原稿料を得たいと渇望した。
  そして、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起し
 たクレタ島へ赴く事を希望した。
  また、ジェームソン侵入事件が発生した南アフリカな
 どに特派員として赴く事を希望した。
  結局、これらは、実現しなかった・・が・・
  1896年冬、第4女王所有軽騎兵連隊とともに、チャーチ
 ル(22歳)は、イギリス領インド帝国に転勤することに
 なった。
  インド駐留のイギリス軍将校は、まるで王侯のように
 暮らした。
  日常生活をすべてインド人召使に任せた。
  チャーチルもそのような生活を送った。
  インド人召使をかなり安い給料で雇うことができた。
  インドでチャーチルはよく読書をした。
  そして、このインド勤務時代、実戦に参加した。
  1897年夏、インド西北の国境付近で発生したパシュト
 ゥーン人の反乱を鎮圧した。
  この反乱が発生するとチャーチルは、マラカンド野戦
 軍に入隊を希望した。
  はじめは新聞の特派員として、
  また、将校に欠員が生じた後には、その後任として、
 戦闘に参加した。
  チャーチルは、勲章が得たいと焦った。
  その為、しばしば独断で無謀な行動に出た。
  そのため、チャーチルは、帰隊を命じられた。
  後になって、チャーチルは、「歴史に学べ」という言
 葉を繰り返し言った。
  (参考)パシュトゥーン人:アフガニスタンの中部・
     南部、および、パキスタン北西部のカイバル・
     パクトゥンクワ州・辺境部族自治区に各1千数百
     万人が居住している。
      アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の
     11%を占めている。
      インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュ
     トー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統
     的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてき
     た。
      強固な部族の紐帯を維持しており、パシュト
     ゥーンワーリと呼ばれる慣習法を持ち、男子は
     誇りを重んじている。
.
1927年、リンドバーグが、初めて単独で大西洋を無着陸横
 断飛行を成功させた(約33時間30分)
  この頃、アメリカは、すでに、イギリス、ドイツ、フ
 ランスの三国を、はるかに抜くという世界最大の工業国
 になっていた。
  そして、間もなく、その頃より一世紀、100年を越えよ
 うとしている今・現在・・
  その主役(アメリカ)の座が、今までの歴史の様に、
 「変わろうとしている」。
  イギリスもしかりだった。
  イギリスからアメリカへの変遷の様に、今・現在、ア
 メリカから次なる主役・中国へ「バトンタッチ」されよ
 うとしている。
.
1937年11月、日本を貶める嘘情報の本「what war means」
 が、イギリスで出版された。
  第二次世界大戦中、中国・国民党(この頃、中国・共
 産党は壊滅の憂き目にあっていた、そして、中国の奥地
 に潜んでいた)の国際宣伝処長は、日本への嘘の宣伝工
 作・プロパガンダが、あまりにもうまく行ったと言って
 いる。
  この嘘つきの男が牛耳っていた国民党から発信される
 作り話の嘘情報が、英訳され、世界を駆け巡った。
  日本は、この作り話で酷く貶(おとし)められた。
  その一つが、1937年11月、イギリスで出版されたティ
 ンパーリーの「what war means」。
  実に手際よく、中国国民党から発信され、英訳され、
 国際社会に喧伝(けんでん、盛んに言いふらし、宣伝す
 ること)され、広まった。
  その中国・国民党国際宣伝処長の曽虚白は、回想録で
 そのあまりにも巧(うま)く行き過ぎたことを驚きと共
 に記している。
  これで、南京事件がでっち上げられた。
  そして、このデッチ上げられた南京事件で、日本の無
 実の軍人たちが、アメリカがデッチ上げた東京裁判で有
 罪だとされ、殺された。
.
1945年9月15日、鳩山一郎の『正義の発言』・・発行媒体は
 停止処分を受ける・・アメリカの卑劣な口封じ行為。
  GHQは、「パージ」をして、GHQを批判しそうな
 記者を追放した。
  そして、GHQを気にする報道陣にさせられた。
  また、ゴマを刷る記事にされた。
  しかし、その様な中で・・、
  1945年9月15日、鳩山一郎は言った・・、
  「〝正義は力なり〟を標榜する米国である以上、原子
 爆弾の使用や無辜(むこ、何の罪もないこと)の国民殺
 傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争
 犯罪であることを否む(いなむ、嫌だと言って拒む)こ
 とは出来ぬであろう。
  極力、米人をして(広島・長崎の)罹災地の惨状を視
 察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償(ほうしょ
 う、損失のつぐない)の念と復興の責任とを自覚せしめ
 ること(略)」と・・
  まったく当たり前のアメリカに対する正義の発言をし
 た。
  アメリカは、これに対して「発行停止」の命令をする
 という卑劣な行為をした。
  日本の新聞は、この様なアメリカの卑劣な弾圧に屈し
 てしまった。
  東京裁判など、国際法違反の裁判などに迎合した報道
 をする。
  GHQの報道担当(インボーデン少佐)が、非常に威
 圧的で強権を行使していた。
  「追放処分」や「発行停止処分」の強権を使った。
  新聞社は、これにひれ伏した。
  「アメリカ占領軍に従わなかったら新聞が出せない」
 という悲鳴の声を発した。
  国民の情報源の重要部分にあったこの頃の新聞は、こ
 の様な牛耳られた状態だった。
  (参考)口封じ:くちふうじ、その事が外部に漏れな
     いように、強権で口止めをすること。
  (参考)パージ:purge、追放。公職などから締め出す
     こと。
.
1950年10月7日、中国のチベット侵略
  この日の深夜、中国人民解放軍は、張国華将軍を指揮
 官として、ラサの東方100kmの位置まで侵攻した。
  中国人民解放軍の兵力は4万人・・これに対してのチ
 ベットの義勇兵はわずかな8000人だった。
  中国人民解放軍は、東チベットを3方から同時に侵略し
 た。
  8000人のチベット軍が阻止を試みた。
  チベット軍は応戦をするも、多勢に無勢で、チベット
 兵は各地で全滅した。
  進んだ兵器を持つ中国軍は強力で、チベット各地を駆
 け巡った。
  チベット兵は、また、各地で孤立した。
  翌10月8日、中国人民解放軍は、波状攻撃を仕掛けた。
  チベット軍も善戦し、阻止することに成功する状況も
 あったが、交戦不可能なまでに戦力を失った。
  その夜、チベット部隊は組織を維持できない状態まで
 追い込まれた。
  10月16日に至り、チベットの知事ンガプー・ンガワン・
 ジクメ(アボ)が、潜伏していたチャムド付近の寺院で
 発見された。
  チベット指揮官ダポンは、ンガプーに対して戦力を集
 中し抵抗したが・・
  翌日の10月17日に、中国人民解放軍に投降した。
  10日間の抵抗の戦いは終わった。
  1950年10月24日、中国人民解放軍は、チャムドを占領
 した。
  チベットという国は、7世紀に、ソンツェン・ガムポト
 ウ王が建国した立派な独立国だった。
  ソンツェン・ガムポトウ王は、ヒマラヤ山脈の北部に
 広がる高原地帯を平定してチベット国を建国していた。
  この様なチベット民族の国が、何も関係のない漢民族
 の中国共産党軍(中国人民解放軍と呼ばれるが・・本当
 は、中国人民侵略軍)によって、この年・1951年、不本
 意な侵略を受けた。
  突然の侵攻で大虐殺を受け、併合されてしまった。
  そして、チベット民族の伝統的な文化が否定された。
  (日本も、第二次世界大戦の後に、アメリカによって、
 日本文化・神楽などの破壊の経験を持っている)・・
  チベット民族は、漢民族の毛沢東の思想教育・・洗脳
 教育を始められた。
  チベット人は600万人だったが・・中国は、漢民族の自
 国民を、720万人という多くの漢民族をチベットへ流入
 させた。
  チベットへ流入させた漢民族によって、チベットの地
 は、漢民族が大多数を形成するという地となった。
  チベットがチベットの国から漢民族の国になった。
  漢民族の中国は、この様なやり方で、チベットという
 国を乗っ取り、奪った。
  そして、強烈な「エスニック・クレンジング(民族浄
 化作戦)」を行なった。
  チベット民族の方々への弾圧も凄(すさ)まじかった。
  チベット民族の方々は、堪(たま)らず、1959年3月10
 日、チベット民族の方々は立ち上がり、蜂起した。
  漢民族の中国は、この時とばかり、大部隊を送る戦争
 が・・本職の軍隊を多数投入して、チベット民族の方々
 を、11万人以上もの方々を虐殺してしまった。
  この後も何度も、最悪の弾圧に起ち上がるチベット民
 族の方々は殺され続けた・・犠牲者数は120万人以上に
 達した。
  もし、その様なことが、あなたの国で起きたら・・あ
 なたはどうしますか?・・どう思いますか?
  胡錦濤は、この時の担当であった・・
  チベットでのこの卑劣な酷い弾圧が、功績だとされ・・
 中国国家主席にまでなった。
  (参考)胡錦濤:こきんとう、1942年12月、上海で生
     まれる。
     1964年(22歳)中国共産党に入党
     1965年(23歳)清華大学卒業。専門の水利学を
      生かし甘粛省水利部門などに技師として勤務。
      当時、甘粛省党委員会書記だった宋平・元政
      治局常務委員に見出される。
     1982年(40歳)中国共産主義青年団 (共青団)
      甘粛省委員会書記に就任し、党活動専任に転
      じた。
     1984年(42歳)共産主義青年団中央書記局第1書
      記
     1985年(43歳)貴州省党委員会書記
     1988年(46歳)チベット自治区党委員会書記を
      歴任。
     1992年(50歳)第 14回中国共産党全国代表大会
       (党大会) 後に中央政治局常務委員に抜擢さ
      れる。
     1993年(51歳)以降、中国共産党中央党校の校
      長
     1998年(56歳)第9期全国人民代表大会 (全人代)
       第1回会議で国家副主席
     1999年(57歳)以降、中国共産党中央軍事委員
      会副主席を務める。
     2002年(60歳)第16回党大会後に党中央委員会
      総書記
     2003年(61歳)第10期全人代第1回会議で国家主
      席に選出され、中国の党機関と国家機関のトッ
      プに就任した。
.
1959年~1962年、中国の大飢饉
  この飢饉で、最小でも4500万人が死んだ。
  そして、最近になって閲覧できるようになった中国共
 産党の古文書では・・、
  毛沢東が、全体主義的権力の構築と、その強化のため
 には、極度の暴力を用いるしかないと決断したことを明
 らかにしている。
  だから、毛沢東は、この真逆のことを実行した。
  残酷なだけの、まったく意味のない行為を組織的に遂
 行した。
  歴史学者のフランク・ディケーターは、「人民解放戦
 争」「大躍進政策」「文化大革命」の三つで、毛沢東は、
 5500万人、そして、それ以上の人々を虐殺したと言った。
  共産主義国家は、何処も独裁国家で、情報統制をする。
  都合の悪い情報は隠して、実態を分からなくしている。
  数々の残虐行為をしているにもかかわらず、その実態
 がなかなか出て来ない。
  逆に、美しくプロパガンダされ、多くの人々が騙(だ
 ま)されている。
  だから、多くの知識人が共産圏に「正義」を抱いてい
 る。
  しかし、今・現在は、その実態が分かられて来ていて、
 その卑劣さも白日の下にさらされて来ている。
  だから、共産主義国家は、反体制の人々を厳しく監視
 する監視社会となっている。
  家族や友人の間にまでスパイを潜(もぐ)り込ませて
 いる。
  共産社会の人権抑圧は卑劣なものとなっている。
  共産圏では、その一握りの者による政治の実権の奪取
 の体制により、その不埒な体制維持のため、人類の最悪
 の行為=ジェノサイド(大虐殺)がよく行われる。
  その実態が分かって来て、共産主義社会の幻想の実態
 が目の当たりに感じられるようになった。
  日教組も共産主義に傾倒している組織であるが、その
 共産主義の実態が、さすがに分かって来たのではないだ
 ろうか。
  朝日新聞も馬鹿な新聞なのだが、共産圏国家の大虐殺
 を最初は否定した。
  今は、その何度も行われた大虐殺を否定できなくなっ
 ている。
.
1970年代以降、中国が、日本の領土である尖閣諸島を、「
 中国の領土だ」と急に言い出した。
  尖閣諸島は、「中国の古文書にも、日本の領土と認め
 ている記述がある」。
  その様な史実を無視して、中国は、「言いたいことを
 言い出した」。
  日本は、日清戦争以前から尖閣諸島をどの国も支配し
 ていないことを10年間も確認した後、国際法の要件を満
 たして、1895年に、領土に編入した。
  中国が領有権を言い出したのは、1970年代以降、東シ
 ナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された後のことだった。
  中国の李克強首相は、「尖閣諸島は、日清戦争のどさ
 くさに日本が盗んだ」と、欧州旅行で言って歩いた。
  何を言っているんだと言いたい・・
  この日清戦争の頃の中国の認識は「尖閣諸島は、日本
 の領土だ」だった。
  1970年代以降に、「石油が埋蔵されている」とされて
 から、尖閣諸島を盗もう・奪(うば)おうとしているの
 は中国の方だ。
  中国は、最近になって、自国の領土だとして奪う行為
 を南シナ海でもやっている。
  南シナ海に存在するベトナムや台湾やフィリピンの領
 土まで奪おうとしている。
  国際司法裁判所でも、「中国の領土ではない」とはっ
 きり判決が下りた・・それなのに、中国は不法な占拠を
 続けている。
  そして、最初、「軍事基地化はしない」と言っていた
 が、今では、強引に軍事基地化をしている・・ミサイル
 配備までもしている。
  中国こそ、窃盗行為をしている。
  この様な悪評判は、昔から、中国にはある。
  よくやったからと車賃を多くあげると、感謝するので
 はなく、「こいつは金持ちだ、もっと催促してやれ」と
 いう発想を中国人はする・・そして、「多額な金を要求
 する」。
  この様な事例・・アメリカ人夫妻が、強盗に変わった
 中国人に殺された。
  道にいた中国人の乞食に、1円銀貨をあげた。
  1円といえば、1ヶ月間、食べられる金額だった。
  早速、仲間と共に、先回りして、この夫妻を殺してし
 まった。
  だから、中国へ金を与えるのは、よほど、注意しなく
 てはならない。
  金を貰っている間は良い顔をしているが・・それが、
 終わった時の反動が、中国独特の反動となって、予測不
 可能状態となる。
  今・現在、北海道の帯広の広大な土地が、中国に買わ
 れてしまっている。
  この行為は、この後、留まることなく続けられるだろ
 う。
  中国は、輪転機を廻せばいくらでも人民元が刷れる国。
  その様な人民元で、次々と北海道の土地が買われる。
  チベット、ウイグル、内モンゴルの如くになる。
  今・現在、満州の地に居た満州人の方々は、満州の地
 には居ないという状態となっている。
  北海道の地に、北海道の人たちが居なくなることが無
 いようにしなければならない・・
.
1995年、この頃より、中国は「日本軍に殺された中国人は
 3500万人だ」と言い出した。
  嘘やデッチ上げばかりを言う中国共産党政権というこ
 とは分かっているが、この嘘も酷い嘘だとすぐ分かる。
  この当時、日本軍は35万人が居た。
  中国共産党政権の言う通りだったら、一人が100人を殺
 したことになってしまう。
  野戦病院に居た軍医や看護婦さんまでが100人殺したこ
 とになってしまう。
  この様な嘘を言う中国共産党政権は、自身が、自国民
 の中国の国民の方たちを6500万人も虐殺したことを隠し
 ている。
  また、因みに、ドイツのナチスが、ユダヤの方々に対
 する虐殺は400万人と言われていた。
  しかし、この人数に関し、冷戦の終結後、研究者の方
 たちが正確な数を検証した結果、約150万人だとなった。
  この数字が広く、今は、認知されている。
  何故? 400万人という数字になったかというと・・
 ソ連が、ナチスの罪を過大にしていた・・それは、自身
 が起こした「カチンの森」などの大虐殺の罪を薄めたい
 としてやったことだった。
  共産国家はこの様な安易な嘘をよく言う・・
.
2003年2月25日、韓国の第16代大統領に蘆武鉉(ノムヒョン)
 大統領がなった(~2008年2月24日)
  日本と韓国は、誠実に向き合い、1965年、日韓基本条
 約を締結し、それまでのすべての日韓間の問題や懸案事
 項をすべて解決した。
  もう、残る問題はないという状態にした。
  しかし、卑劣な事に、この韓国が、今までよくやって
 来たように、後になって、韓国の蘆武鉉(ノムヒョン)
 大統領は、言い出した・・「屈辱的な条約だった」と・・
 そして、「あの時は自分たちの認識が低くて、もっと(
 金を)貰うべきだった」とか、「個人補償はまだだ」な
 んて言っている。
  これは、韓国の方々へ真実を言っていない。
  それまで、韓国は、1965年の日韓基本条約の議事録を
 韓国国民の方々が見ることができない様にしていた。
  まったく卑劣である。
  また、個人補償は、韓国政府が「個人補償は、我々・
 韓国政府がやるから、その分の金は我々(韓国政府)に
 支払ってくれ」と・・、我々・韓国政府がやるからと言
 った。
  日本は、その通りに巨額な金を韓国へ支払った。
.
2006年10月24日、韓国で一心会事件が起きた。
  日本は、共産独裁国家に包囲されている。
  もう、韓国は共産国家だと考えてよい。
  アジアにおける「第二次世界大戦の勝者」は、アメリ
 カではない。
  勝者は共産国家である、「共産・中国」「共産・ソ連
 (現:ロシア)」である。
  アメリカに残ったのは「台湾」だけである。
  この台湾にしたって「軍事大国となった共産・中国の
 猛烈な圧力が加えられている」。
  台湾の自立も危(あや)うい。
  北朝鮮は、核保有国となった。
  ロシアも、プーチンの独裁資源大国として復活してい
 る。
  韓国は、国家の中枢まで共産勢力が浸透している国家
 となってしまっている。
  どこもかしこも共産化している。
  冷戦に自由主義陣営が勝利したなんて「思い込みであ
 る」。
  以上の実態から見た通り・・共産主義国家の勝利とな
 っている。
  「冷戦に勝利した」なんて日本は信じ、楽観的に言っ
 ているが・・冷静にアジアを見れば、そんな構図はどこ
 からも見えない・・
  それとは真逆な共産国家ばかりが見えて来る。
  2006年10月24日、「一心会事件」が韓国に起きた。
  この事件で韓国の政界の奥深くにまで共産スパイ組織
 が潜り込んでいる実態が世界に明らかになった。
  韓国は、この様な状態になっている。
  様々な大事な機密情報が・・北朝鮮へ漏れていた。
  また、韓国内の反米集会をやらせ、繰って、デモを扇
 動している。
  韓国の米軍情報をスパイしたり、韓国国会議員・政治
 家たちの思想傾向を分析したデーターを入手し、また、
 政治関係者にまで調べ上げ、総選挙や地方選挙などの機
 密情報まで北朝鮮へ渡していた。
  韓国と北朝鮮は、以前からかなり親密な関係になって
 いた。
  その様なことから、韓国は、PSI(大量破壊兵器拡
 散防止構想)に不参加を表明した。
  北朝鮮の核が・・我が物になる姿が見えていた。
  対北朝鮮制裁事項などにも馬耳東風で、北朝鮮観光を
 したり、工業団地事業をしていた。
  2007年には、1250億円という額となっている。
  もう、今・現在は、共産・北朝鮮と一体化が目の前状
 態となっている。
  2005年9月には、アメリカの韓国における戦時作戦統帥
 権を全面的に返還してくれと韓国は言い・・、
  2009年に、アメリカの統帥権は無くなった。
  北朝鮮への接近状態となった。
  韓国政権中枢部の心臓部には「熱烈に北朝鮮を支持す
 る者が大量に入り込んでいることが判明した」。
  過去に、韓国政府の転覆を目論(もくろ)んだ者たち
 まで入り込んでいた。
  だから、アメリカや日本が何を言おうが、まったく駄
 目な状態の政権が作られていた。
  今・現在の日本もその様な事になっていないか?
  その様な恐れはないのか?
  韓国は、野党まで反米反日になって北朝鮮路線は、変
 わりようがない状態にある。
  そんな韓国は、メディアを牛耳ろうと行動した。
  熾烈なメディア弾圧をした。
  言論統制をした。
  逆に、政権に好意的な記事を書く新聞には「新聞発展
 資金」を作って金を渡し、資金援助をした。
  広告も入れたりして応援した。
  気に入らないメディアには、非常に厳しい税務調査を
 行なったりして叩いた。
  また、役員の身柄拘束を、なんだかんだと言って行っ
 た。
  自殺をする経営者が居たほどだった。
  そして、偏った報道しかなされない韓国となった。
  韓国の国民の方々は、真実を知ることができない状況
 にされた。
  韓国大統領が、大金を北朝鮮へ渡したり、国会内は親
 北朝鮮が一杯状態。
  真実を知らされない韓国国民の方々となっている。
  共産・北朝鮮の独裁国家が良いと思い込まされている。
  ここに、情報戦に敗けた自由主義陣営がある。
  必ずしも、正義が勝つわけではない。
  一握りが牛耳る独裁国家が選択されている。
.
2012年9月15日、中国で官製と言われる反日デモが起きた。
  このデモに参加した人たちは、中国で虐げられている
 農民工で・・この方たちの不満が利用された。
  (参考)農民工は、広義と狭義の2種類があり、広義で
     は農村に定着しながら地元の郷鎮企業で働く者
     と、地元農村を離れいくつもの地方都市で複数
     の企業を渡り歩く者とを含み、それら以外の者
     が、狭義の農民工。
      中国国家統計局の発表によると、2011年の時
     点で全人口のほぼ2割に相当する2億5278万人の
     農民工がいるとされる。
      農民工は「世界の工場」を支える労働力であ
     り、進む都市化の中でインフラ建設を支える重
     要な人的資源として、工業化の進展のために不
     可欠な存在となっている。
      農民工の安い労働力が得られてこそ中国の
     「世界の工場」が成立する条件となっている。
      反日デモが収束したのは、その農民工の不満
     の先が、共産党へ向けられたので、政府が慌て
     て止めさせた。
  中国の実態を言えば、中国は、「金の力」と「軍事の
 力」が、ものを言うという国。
  だから、アメリカの政策は、大間違いだった。
  力を得たいと「ルールなんて無視して、中国は、日本
 の新幹線技術を盗んだ」・・
  また、中国は、「日本のとっておきの製鉄技術も手に
 入れた」。
  新幹線技術で、中国は、世界で手広く商売をしている。
  また、製鉄技術で鉄を大生産して、世界の鉄を牛耳っ
 ている。
  その様なことをしても、平然と盗んでも悪びれる風も
 無いという低劣な中国となっている。
  恩義ある日本にやることと言ったら、2012年に、煽っ
 て反日デモをさせた。
  中国に進出している日本資本の商店やマーケットを襲
 って破壊した。
  弁済補償もしようともしない中国となっている。
  そして、「日本が悪い」「日本が悪い」とだけ言う。
  まったく南京事件をデッチ上げたやり方と同じ。
  中国が出した南京事件の証拠だという写真は、嘘のデ
 ッチ上げと、今ではすべてが立証されている。
  また、事実を調べれば、南京へ迫る日本軍の恐ろしさ
 に、中国の最高司令部が真っ先に南京から逃げ出し・・
  中国兵の下っ端に至るまで、逃げ出すばかりの中国兵。
  その様な中国軍のだらしない混乱の中で、日本軍と戦
 えと、中国軍が、中国軍の自国の兵士へ銃を撃つという
 事態も起きた・・
  また、逃げるための川の舟の取り合いで自国民同士が
 殺し合うという事も起きた。
  中国には「ルールなんてない」「道義なんて無い」・・
 そんな国。
  日本と無電の契約を結んで30年間の独占権を与えても、
 すぐに、そんな事があったかと、アメリカに同じ権利の
 独占権を与え、10年間OKと許可を平気で言う国。
  また、満州の鉄道敷設の日本と契約した権利を無視し
 て、他国に同様な事をさせる・・まったく約束が意味の
 無い状況になっても・・平然と行なっている中国。
  嘘ばかりつき、約束も守らない中国。
  だから、結局、「金の力」と「軍事の力」を持つもの
 だけが牛耳る国となる。
  皆が、ここにゴマを刷り集まるという状況の国。
.
2016年8月3日、ネパールに浸透する中国
  ネパールでは、毛沢東主義者のテロが猛威をふるって
 いた。
  ネパール新首相に毛沢東主義派のダハル氏・・中印の
 外交に変化・・
  産経ニュースが報じるところによると・・
  ネパール議会は3日、議会第3党、ネパール共産党毛
 沢東主義派のダハル(別名プラチャンダ)書記長を新首
 相に選んだ。
  首相就任は2回目。
  第2党、統一共産党のオリ議長が先月、毛沢東派の連
 立離脱で首相辞任に追い込まれていた。
  オリ氏は、昨年10月に首相に就任したが、内戦時の
 戦争犯罪の扱いなどをめぐり毛沢東派が不満を表明し、
 連立を解消していた。
  オリ氏は、新憲法に反発する親インド住民によるイン
 ドとの国境封鎖への対応で中国に接近していたものの、
 新政権では、インドとの関係が深い第1党のネパール会
 議派が連立与党に復帰。
  近隣国外交の振り子がインド側にやや戻りそうだ。
  かつて王制打倒を掲げ、反政府武力闘争を展開した毛
 沢東派は、2006年に政府と包括和平協定に調印し、
 内戦が終結。
  2008年に、ギャネンドラ国王が王位を剥奪され、
 ダハル氏はこの年から翌年まで首相を務めた。
.
2019年、大いなる策士であり、巨大な策士であるルーズベ
 ルト・アメリカ大統領・・
  そのルーズベルト」が残したものは、「卑劣な原爆投
 下国としてのアメリカの汚名」・・と、
 「巨大な共産国の二つ・・ソ連と中国」だった。
  ルーズベルトによって、アメリカ国民の方々は、その
 巨大な二つの共産国によって、巨額な対応費を支払う羽
 目になった。
  そして、今・現在でも、その一つの中国と、これから
 長い対峙の時代に入る・・「新冷戦と言われる時代」に・・、
.
2019年、日本は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」
 で、アメリカに裁かれた・・が・・
  そのアメリカは、また、その同じ基準で裁かれなくて
 はならない。
  しかし、ベトナム戦争の時もしかり、その様なことは
 おくびにも出さないで、この国は逃げ回り、とぼけてい
 る・・。
  そして、この様な日本の裁かれ方は、「この時だけ」
 で、この後に・・この日本の様な「なされ方」の実施例
 は皆無・・まったくない。
  つまり・・この事からも、この時に、日本にやったア
 メリカは異質で、そして、やるべき事ではないことをし
 ていたということが分かる・・
  第二次世界大戦の終結からの長い年月が証明している・・
  アメリカの間違いが証明されている。
.
2019年1月2日、「台湾に一国二制度」習主席演説、アメリ
 カをけん制・・読売オンラインは伝える・・
  中国の 習近平国家主席は2日、北京で台湾政策に関す
 る包括的な演説を初めて行い、平和統一の実現や、一つ
 の国家に異なる制度の存在を認める「一国二制度」の導
 入など5項目の対台湾方針を示した。
  習氏は、一方で「武力行使を放棄することは承諾しな
 い」とも明言し、台湾との関係強化に動く米国を念頭に
 「外部勢力の干渉」を拒否する姿勢を鮮明にした。
  演説は、中国が台湾に平和統一を呼びかけた「台湾同
 胞に告げる書」発表から40年に合わせて行われた。
  習氏の5項目の方針は、平和統一の実現と一国二制度
 適用のほか、「一つの中国」原則の堅持、中台の融合・
 発展、統一意識の増進だ。
  習氏は、香港などに「高度な自治」を保障した一国二
 制度を台湾の実情を踏まえて適用する考えを示し、将来
 の中台関係に関して台湾の政党や各界の代表者との政治
 協議を呼びかけた。
  中台融和による台湾への経済的利益にも触れた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)626E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)626E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年5月~1895年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年5月1日、康有為らが、日清講和条約を拒絶し、都を
 奥地に移し、行政制度を変えろと上書した。
  (参考)上書:じょうしょ、意見を述べるため官・主
     君・貴人に書面を差し出すこと。
  (参考)康有為:こうゆうい、日清戦争の敗北に衝撃
     を受け、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建
     言し、採用されて1898年の戊戌の変法の中心人
     物となった。
      しかし、西太后ら保守派のクーデター(戊戌
     の政変)によって失脚、日本に亡命した。
  (参考)戊戌の変法:ぼじゅつのへんぽう、清王朝時
     代の中国において、1898年6月11日から9月21日
     にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士
     大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法
     派によって行われた政治改革運動。
  (参考)戊戌の政変:ぼじゅつのせいへん、中国、清
     朝末期の1898年に、光緒帝が康有為を登用して
     始めた変法自強運動に対して、西太后を中心と
     する保守派が反撃・弾圧した事件。
      光緒帝は幽閉され、反動政治が復活した
  (参考)変法自強運動:へんぽうじきょううんどう、
      日本の明治維新に範を取って上からの改革に
     よって清朝を強国にするという変法自強運動の
     集大成。
      あまりに短い改革の日数をとって「百日維新」
     ともいう。
      これに先立って、1861年から30年以上洋務運
     動が行われ清朝の国勢は一時的に回復したが、
     旧体制を変えずに西洋技術のみを取り入れる洋
     務運動は日清戦争敗北により限界を露呈した。
  (参考)洋務運動:ようむうんどう、中国・清朝の漢
     人官僚によって推進された近代化政策。
      西洋軍事技術の導入、官営軍事工場の設立な
     どによって、清朝の衰退の回復を図った。
  (参考)光緒帝:こうちょうてい、中国、清朝の第11
     代皇帝 (在位 1875~1908)
  (参考)西太后:せいたいこう、中国、清朝、咸豊帝
     の側室で、同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇
     太后のこと。
  (参考)咸豊帝:かんぽうてい、 中国、清の第九代皇
     帝(在位1850~1861)。
  (参考)同治帝:どうちてい、中国、清朝の第10代皇
     帝 (在位 1861~75)
  1895年、李鴻章が下関で日本と講和条約を結ぶ。
  遼東半島と台湾とを日本に割譲する内容となった。
  この頃、北京に会試(科挙の中央での試験)を受ける
 ために上京していた康有為は、集まっていた各省の挙人
 (科挙の地方試験に合格し中央試験を受験する資格を持
 つ人)によびかけ、千三百人と連名で講和に反対し、抗
 戦するため、奥地に都をうつし、科挙制度を始め清朝の
 旧い行政組織を改革すべきだという書簡を書いた。
  康有為は、進士に合格し、工部参事に任命されたが、
 光緒帝は、康有為の上書を読み、同感し、改革を行うつ
 もりだった・・しかし、事態が変わる・・康有為は、日
 本に亡命する。
.
1895年5月4日、御前会議で遼東半島の放棄を決定した。
  三国干渉を受けて、日本は、遼東半島を清へ返還した。
  遼東半島還付の詔勅が出され、国民の間に不満が噴出
 した。
  臥薪嘗胆の言葉が流行した。
  3000万両(4500万円)と引き換えに、遼東半島を清に
 返還した。
  三国干渉遼東還付(氷川清話)
  (参考)臥薪嘗胆:がしんしょうたん、薪(たきぎ)の
     上に臥(ふ)し、苦い胆(きも)を嘗(な)める意で、
     復讐(ふくしゅう)の志を忘れず、長い間、艱難
     辛苦(かんなんしんく)すること、
      また、将来の成功を期して、報われないまま
     に長い間苦労することをいう。
      中国春秋時代、越(えつ)王勾践(こうせん)に
     敗れて死んだ呉(ご)王闔呂(こうりょ)の子夫差
     (ふさ)は、薪の上に寝て父の仇(あだ)を忘れぬ
     ように努力し、ついに会稽(かいけい)山に勾践
     を破って降参させた。
      勾践はのち許されて帰国したが、以来、つね
     に苦い胆を部屋に掛けておき、それを嘗めては
     自ら復讐心をあおり、とうとう夫差を滅ぼして
     「会稽の恥」を雪(すす)いだ、と伝える『史記』
     「越世家」の故事による。
.
1895年5月5日、九州鉄道の佐賀駅~柄崎駅間が開通した。
.
1895年5月8日、日清講和条約の批准書を交換した。
  講和条約の批准書交換は、清国側の延期要請を拒否し
 て、この日(5月8日)芝罘(チーフー、中国山東省の都市
 で、煙台(えんたい)の古称)で行われた。
  そして、10月28日に発効する。
.
1895年5月10日、遼東半島還付に関する詔勅が出された。
  (参考)詔勅:しょうちょく、天皇陛下の御意志を伝
     える詔書(しょうしょ、天皇陛下の発する公文
     書)、勅書(ちょくしょ、)、勅語(ちょくご)
     の総称。
      古くは臨時の大事大権施行に関する勅旨は詔
     書で出され、尋常の 小事は勅書をもって出され
     た。
  (参考)勅書:ちょくしょ、(1)天皇陛下の勅命を
     下達する文書。
      勅旨と同じ意味で用いられる。
      (2)明治憲法下の公式令で、皇室および国
     家の事務に関する天皇陛下の御意思の表示で特
     定人または特定機関に発せられた文書。
  (参考)勅語:ちょくご、(1)天子の御言葉。みこ
     とのり。
      (2)明治憲法下で、天皇陛下が大権に基づ
     き、国務大臣の副署を要さないで、直接国民に
     対して発した御意思の表示。
      (3)教育勅語のこと。
.
1895年5月10日、台湾総督に海軍大将・樺山資紀を任命した。
  (参考)樺山資紀:かばやますけのり、1837年~1922
     年2月8日、
      1837年、薩摩国(鹿児島県鹿児島市)に、薩摩
       藩士・橋口与三次兼器の三男に生まれる。
      1867年(30歳)戊辰戦争に鳥羽、伏見、次い
       で東北を転戦。
      1871年(34歳)陸軍少佐、
      1872年(35歳)南清に出張。
      1874年(37歳)台湾出兵に、西郷従道に従っ
       て出征、中佐に昇進。
      1877年(40歳)西南戦争では、熊本鎮台司令
       長官・谷干城少将の下、参謀長として熊本
       城を死守した。
      1878年(41歳)大佐、近衛参謀長、
      1881年(44歳)警視総監を兼ね少将。
      1883年(46歳)海軍に転じ海軍大輔になる。
      1884年(47歳)海軍少将、
      1885年(48歳)海軍中将、
      1886年(49歳)海軍次官になる。
      1890年(53歳)第1次山県内閣の海軍大臣、
       第1次松方内閣でも留任。
      1894年(57歳)日清戦争では現役に復し、海
       軍軍令部長となり、黄海海戦に会した。
      1895年(58歳)海軍大将、初代台湾総督とな
       った。
      1895年(58歳)伯爵、枢密顧問官、
      1896年(59歳)第2次松方内閣内務大臣。
       改正条約発効の準備のための改正条約施行
       準備委員会委員長に就任。
      1898年(61歳)第2次山県内閣文相を務める。
      1903年(66歳)元帥となる。
      1905年(68歳)後備役(予備役等)になる。
      1910年(73歳)退役する。
      1922年(85歳)薨去。染井霊園。
       受賞大勲位菊花大綬章
  逸話として・・日清戦争中、「西京丸」に乗艦した(
 連合艦隊司令長官の伊東祐亨が慎重な性格であることを
 案じて督戦に行ったとされる)が、商船を改造した急ご
 しらえの艦船のため、他の艦船より取り残され、清の艦
 隊に狙い撃ちをされそうになった。
  その時、敵の旗艦へ突込み、敵船が砲撃し難いように
 し反転して逃げ切った(いわゆる「前退戦法」)。
  鹿児島・薩摩藩は関ヶ原の戦いのとき、この様な『捨
 て奸(すてがまり)』をした。
.
1895年5月11日、日本鉄道、官設鉄道・甲武鉄道・川越鉄道
 との間に4線連絡運輸を開始した。
.
1895年5月21日、日本の凱旋門が造られた。
  日清戦争の勝利の凱旋門が日比谷に作られた。
  長さ110m、中央の高さ30m、基礎は木造で、全体が杉
 の葉で覆われていた。
  東京日日新聞に、この日の日付で凱旋門の記事がある。
  「東京市有志奉迎会の依托により、
  清水組の技師・田島格造、岡本金太郎の両学士が考案
 になりたる設計にして、
  長さ一町に余り、央に高100尺以上の高塔を設け、前後
 に貫通門幅27尺のアーチを備え、
  高さ40尺、幅33尺の廻廊をもって連続す。
  けだし、設計者は、欧米にも前例なき斬新なるTriumph
 Archade(勝利のアーケード)の仮設工事をなす考案なり
 という。
  また、工学博士・辰野金吾氏は、凱旋門建築につき、
 大学において種々研究中なるをもって、奉迎会の依托を
 受け、設計上につき相談にあずかることを承諾せられし
 という。
  前後貫通門の上正面には、草花をもって「聖駕奉迎」
 の4大字を造出せし大額面を製し、
  その上には大国旗を交叉し、その左右に菊花の御紋章
 を造り、
  門の両側は左に「東京市商人」、右に「有志奉迎会」
 とこれまた草花をもって書き出し、
  高塔及び前後貫通門の天井は、いずれも草花をもって
 八角に組み合わす計画なり」
.
1895年5月23日、中国・清が台湾を日本に売ったが、その事
 に不満の一部の住民が台湾民主国の樹立を宣言した。
  台湾人の邱逢甲(きゆうほうこう)と、台湾巡撫・唐
 景崧(とうけいすう)らが樹立し、総統に唐景崧が就任
 し、副総統兼義勇統領に邱が就任した。
  これは清国の外交的工作の中で生まれた。
  清国は、三国干渉をしたロシア、ドイツ、フランス、
 イギリスが、もっと台湾民主国を承認したりして応援す
 ると思っていた。
  しかし、三国干渉をした国々は、日本の対応に満足し、
 清国が期待する様には動かなかった。
  (参考)台湾巡撫:たいわんじゅんぶ、最高地方統治
     官。
  この様な状況で生まれた台湾民主国は、国際的承認も
 受けられずに・・
  1895年5月29日、日本の近衛師団の上陸に、台湾民主国
 の首脳陣の逃亡が相次ぎ、平定された。
  (1895年5月24日の翌日に、出発していた)
  清国側も、再度、日本との戦争が再発されることを恐
 れ、日本の予定通り、要求通り事は進すみ・・
  1895年6月2日、樺山資紀・初代台湾総督と清国との間
 で台湾授受手続きが終了した。
.
1895年5月24日、日本台湾総督軍部隊が宇品港を出発した。
.
1895年5月24日、関西鉄道が、名古屋駅~前ヶ須駅(現:弥
 富)間が開通した。

1895年5月25日、台湾民主国の成立宣言。
  台湾島民の反乱(氷川清話)
  台湾が、本格的に開発されたのは日本統治時代になっ
 てからであるが・・、
  1895年5月25日、日本への割譲反対を唱える漢人によっ
 て台湾民主国の建国の騒動が起きた。
  進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。
  (参考)乙未戦争:いつびせんそう、下関条約によっ
     て、日本への台湾割譲が決まり、上陸した日本
     軍に対して清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗
     し戦闘となった。
.
1895年5月26日、ウィリアム・ラムゼー卿がヘリウムの単離
 に成功した。
  (参考)ウィリアム・ラムゼー:1852年10月2日~1916
     年7月23日、スコットランド出身の化学者。
      1904年、空気中の希ガスの発見によりノーベ
     ル化学賞を受賞。
  1894年4月19日の夜、ラムゼーは、レイリー卿の講演に
 参加した。
  1892年、レイリー卿は、空気から酸素を取り除いて得
 た窒素の密度は化合物を分解して得られる窒素のそれよ
 りも大きい、という事実を「ネイチャー」誌に報告して
 いた。
  これは、空気中には酸素、窒素以外のものが含まれて
 いるという事を暗示していた。
  ラムゼーとレイリーは、講演後に話し合い、これを追
 究することにした。
  当時、アンモニアの合成を研究していたラムゼーは、
 高温でマグネシウムと化合させて窒化マグネシウムとし
 て窒素を取り除くことにより、空気中の不活性な重い気
 体を取り出すことに成功した。
  ラムゼーは、これを、同年1892年8月に、レイリーに知
 らせている。
  これをアルゴンと名付け・・、
  1895年に、レイリーと共に発表した。
  (参考)レイリー:第3代レイリ―男爵ジョン・ウィリ
     アム・ストラット、1842年12月13日~1919年6月
     30日)、イギリスの物理学者。レイリー卿。
      光の散乱の研究から空が青くなる理由を示す
     (レイリー散乱)、
      地震の表面波(レイリー波)の発見、
      ラムゼーとの共同研究によるアルゴンの発見、
      熱放射を古典的に扱ったレイリー・ジーンズ
     の法則の導出などを行う。
      このほか流体力学(レイリー数)や毛細管現
     象の研究など、古典物理学の広範な分野に業績
     がある。
      「気体の密度に関する研究、および、この研
     究により成されたアルゴンの発見」により、
      1904年のノーベル物理学賞を受賞した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国・人民元は・・通貨覇権を狙っている。
    アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
    しかし、実態は・・ただの紙切れ。
    その裏付けを保証するものは何もない。
    それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の
   振る舞い。
.
1921年3月3日、昭和天皇陛下が皇太子であられた時、6ヶ月
 間のヨーロッパ各国の歴訪がなされた(~1921年9月3日)
  1921年6月13日、第1次大戦のベルギーの激戦地イーペ
 ル(イープル)を訪問された。
  ここでイギリス国王に電報を送っている。
  「目前ノ風景ハ、(中略)『イープル戦場ノ流血凄惨
 (せいさん)』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・
 敬虔(けいけん)ノ念、無量ナラシム」
  1921年6月25日、やはりフランスの激戦地ヴェルダンを
 視察なされた。
  「到るところに弾痕を留(とど)め、砲弾の破片、防
 毒マスク等がなお地上に残存する。
  付近に戦死者の遺族と思われる一婦人が、僧侶と共に
 柩(ひつぎ)を携え遺骨を収集する様子も一行の目に入
 る。(中略)
  皇太子殿下は、戦跡御視察中、戦争というものは実に
 悲惨なものだ、との感想を漏らされた。
  1921年7月7日には、現地紙にこんな談話を寄せられて
 います。
  「破壊せられたる諸都市、荒廃したる諸森林、蹂躙(
 じゅうりん)せられたる田野の景は、戦争を讃美(さん
 び)し、暴力を謳歌(おうか)する者の眼には如何(い
 か)に映ず可(べ)きか」
  ・・このご視察の時から、特に、後の、昭和天皇陛下
 は平和主義者となられた。
.
2004年7月、NHKの紅白歌合戦チーフプロデューサーが、
 制作費約2億円を横領し、実刑5年の判決を受けた。
.
2004年8月、NHKのソウル支局長が、不適切な経理処理で
 約4000万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの岡山局放送部長が、架空の飲食費名目
 で約90万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの編成局エグゼクティブプロデューサー
 とチーフプロデューサーが、カラ出張を繰り返し、約300
 万円を着服した。
.
2004年9月、NHKの京都放送局営業職員が、約208万円を
 着服した。
  NHKは、「異常」と言えるほど犯罪が多い。
  上記は、ほんの一部である。
  考えられるその理由は、「給料がべらぼうに多いこと」
 そして、「働く時間が本当に少ないこと(自由な半拘束
 時間ばかりの勤務状態)」・・
  NHKに異常に犯罪が多いのは、「ここに原因がある」。
  金があって、時間がある・・という状態。
  NHKは、もっと「自らを律せよ!」・・
  放漫給料をお手盛り状態から正せ!
  余裕のあり過ぎる人員体制を正せ!
  NHKは、身を引き締める努力をせよ!
.
2018年、中国・・人権を無視する国。
  「改革・開放」と美しく聞こえ、また、美しく見える
 表題を掲げてはいるが・・、
  やっていることは、個人の自由を認めないとか、差別
 の行為するなどなど・・だ・・、
  中国の資金を回すために、「計画だと称して無計画に」
 マンションをあちこちに建てている。
  資金回転の為だけで、「売れる見込みはまったく無い」。
  空室が、どんどん増えているのが現状。
  ものの見かたをそこで止めるのではなく、さらに奥深
 く見てみると・・
  誰も住まないマンションが建てられたその地で、平和
 に暮らしていた中国の民の方々が、そこに居たのだとい
 う事を思わなければならない。
  その為に、そこを追い出された人々は、流浪の民とな
 っている。
  政府の開発事業という「錦の御旗」で立ち退きをさせ
 られた人々は、僅かな補償で貧困層に転落する。
  持っていた農地も無くなる。
  ガラ捨て場で「売れるものを探す」人々となる。
  再度、移転を強いられる人々もいて、移転のたびごと
 に暮らしは悪くなる。
  移転させられ住んでいた所が、「違法だ」という烙印
 を押されると、頼りの補償もまったくもらえない。
  働く場を求めてその土地へ行くと、「所得が低い」と
 その都市から追い出される。
  この様に、仕事を求めて流入する人々が多いため、都
 市への流入・・都市の人口膨張が酷(ひど)くなる。
  都市への流入に、「大学卒で無いから駄目」などと差
 別的な事も行なわれる中国となっている。
  何が、「万民が公平な共産主義だ」なんだ??
  2014年には、2億5300万人が人口移動したと中国政府が
 発表した。
  農村も「再開発だ」と、農民の生活環境を改善すると
 いう名目は美しいが、その開発熱が皮肉にも農民に農地
 を失わせる・・「失地農民」と呼ばれる「かつて農民だ
 ったという人々が増えている」。
  北京郊外の大興区でも・・一つの村が消えた。
  2017年11月に、簡易宿泊所が火災になり19人が焼死し
 た時など・・中国政府は違法建築を壊し始めた。
  その様な場所は・・低所得の階層の方々の住む場所で、
 すべてが壊され、更地となった。
  密集し、肩よせ合って生活していた方々の住む場所が
 奪われた。
  その奪った場所は・・高さ2メートルの塀で囲われ、二
 度と家が建てられないようにされた。
  「流浪の民になるしかない」と元住民は語った。
  違法建築だからと「補償も無く追い出された」のだっ
 た。
  確かに、こんな政治が原因してて、都会へ流れるしか
 ない中国の民なのだが・・その貧困に苦しむ人たちが多
 く、北京の人口も2000万人を超えている。
  北京は水不足となり、交通渋滞となり、大気汚染も甚
 だしい。
  医療機関も機能マヒに陥(おちい)るという患者の殺
 到状態。
  北京に住むためには「多いポイント」が無ければ住め
 ないとして、「住む自由を取り上げた」。
  政府は、締め出しに躍起になっている。
  そして、政府は、あっちへ行け、こっちへ行けと、人々
 の住む自由を剥奪して指図している。
  知者は・・、
  「都市とは、その魅力にひかれ、人が自然と集まる場
 だ。
  人工的な人口分散が成功した例は国際的にもほとんど
 ない」・・と、政府のやることに批判的。
  また、中国の卑劣な事は、人口移動した人々に対し
 「教育の権利のはく奪をしている」。
.
2018年12月24日、中国が「技術移転」の強要を禁止した。
  この日に発行された読売新聞によると・・
  中国政府は23日、中国に進出した外国企業に対する技
 術移転の強要の禁止を明文化した「外商投資法」の草案
 を明らかにした。
  アメリカのトランプ政権の要求に応じて、法整備を進
 める姿勢を示し、貿易摩擦を早急に解消する狙いがある。
  23日から北京で始まった全国人民代表大会(全人代=
 国会)常務委員会に、政府が草案を説明した。
  国営新華社通信などによると・・、
  草案は、外国企業と中国企業の技術協力の条件につい
 て、「関係者が協議して決定するものであり、
  行政機関や職員が、行政手段を用いて強制的に技術移
 転させることはできない」と規定した。
  法にのっとって、外国企業の知的財産権を保護するほ
 か、
  外国の投資者が、中国で得た利益などは自由に国外に
 持ち出せるとしている。
  中国に進出した外国企業は、合弁先企業や地方政府か
 ら技術移転を強要されるケースがあるとされる。
  今月1日の米中首脳会談では、米国が今後の交渉項目の
 筆頭に掲げ、改善を求めた。
  日欧もこれまで批判を繰り返してきたが、中国は強要
 の存在自体を認めて来なかった。
  中国が、技術移転の強要禁止を法制化しても、実効性
 があるかどうか、見極める必要がある(下略)
.
2018年、中国は、日本を反面教師として・・
  日本は、第二次世界大戦で、情報戦で完全に、アメリ
 カに敗けていた。
  今・現代、中国は、それを教訓とするかのように、情
 報の戦略的優位を築こうとしている・・アメリカを駆逐
 しようとしている。
  そしてまた、かつてのアメリカのルーズベルト大統領
 の非情さと、狡知(こうち、わるがしこい知恵)さまで
 真似しようとしている。
  南シナ海を、屁理屈で埋めて、とうとう中国の軍事基
 地化してしまったのが良い例だ。
  かつては、日本も、そこに隙があった・・その様な日
 本を、中国は反面教師としている。
  第二次世界大戦を終わらせたいとする日本が、ソ連を
 和平の仲介者としてかなわぬ努力している日本に、その
 哀れささえある。
  情報が欠如しているから、日本は、ここまでされられ
 た。
  そして、悲劇な展開を、アメリカにされる。
  原爆の実験台にまでされるという日本となる。
  これに関連する記事が、2018年12月28日の読売新聞に
 記載されていた・・
  以下が・・その記事・・
  中国政府は、米国のGPS(全地球測位システム))
 に対抗して、独自開発を進めてきた衛星測位システム「
 北斗」が27日、全世界に向けたサービスを開始したと発
 表した。
  中国通信機器大手「華為技術」(ファーウェイ)など
 による次世代通信規格「5G]の技術覇権争いに続き、
 測位システムでも米国の優位さに挑む狙いがあるとみら
 れる。
  中国は、2012年から、アジア・太平洋地域を中心とし
 た約90ヶ国に北斗のサービスを提供してきた。
  全世界向けサービスはこれまで、20年までに開始する
 計画だったが、前倒しした。(中略)
  全世界にサービスを提供している測位システムは、米
 国の国防総省が31基体制で運用するGPSのほか、
  ロシアの「グロナス」や、欧州の「ガリレオ」があり、
 GPSが圧倒的な影響力を誇っているとされる。
  習近平政権は、中国とブラジル、ロシア、インド、南
 アフリカで作る新興5か国の枠組みで、北斗を利用した
 ビックデータの運用などにおける協力体制を提唱するな
 ど、北斗システムの普及を急ぎ、国際的な影響力拡大に
 利用する構え。
 ☆中国、データ集積加速・・米、警戒強める・・
  中国の測位システム「北斗」が、世界向けサービスを
 開始したことは、習近平政権の最先端技術開発に警戒を
 強める米トランプ政権が、対中強硬姿勢をさらに強める
 きっかけとなる可能性がある。
  米国の全地球測位システム(GPS)が先行して来た
 が、中国は軍事活動での米GPSへの依存から脱却する
 ために北斗の開発を進めた。
  一方、中国国内では、すでに、主要36都市の路線バ
 ス8万台、海上の管制設備2960基などが北斗を導入
 している。
  国内で販売されているスマートフォンの大部分も位置
 情報機能などで北斗を活用しており、民間への普及も進
 んでいる。
  測位システムは、位置情報を提供する一方、システム
 を運用する側も、システムを活用する機器の位置や移動
 に関する情報を収集する事が可能とされている。
  習政権は、国家ビッグデータ戦略を推進しており、携
 帯電話による電子決済などを通じ、国民の行動データを
 集積している。
  測位システムの情報も、こうした政府に利用されてい
 るとみられる。
  北斗を利用した製品はすでに、ロシアやインドネシア、
 アルジェリアなどの国で普及しつつある。
  今回の全世界向けサービスの開始を受け、中国は、北
 斗のさらなる市場拡大を見込む(全世界の情報を集め得
 る中国)
  さらに、将来的には、中国上空を飛行する国外の航空
 会社や、中国に輸出する外国企業の製品に対しても、北
 斗への対応が義務付けられるとの見方も出ている。
  今後、北斗のサービス拡大に伴い、国際的な懸念も呼
 びそう(ますます、中国だけにデーターが集積されてし
 まう)
 ☆ そして、2018年12月26日の読売新聞の「米国はどこ
 へ」の記事において・・
  ロバート・ケーガン氏(米政治史家、種々の大統領の
 下で要職を担った)は、以下の事を言っている(抜粋)・・
  「対中国、協調でなく競争」・・
  国際システムの自然な状態は、実は混乱と対立である。
  人間性の本質は、必ずしも民主主義の繁栄を導くもの
 ではなく、独裁国家に至ることもある。
  私は、その様な自然な状態を『ジャングル』と呼んで
 いる・・
  中国では、習近平国家主席に皇帝のように「全ての権
 力が集中している」。
  ロシアのプーチン大統領もそうだ。
  ドイツでは右翼が台頭している。
  もし、米国や民主主義国家が、彼らを押し返さなけれ
 ば・・彼らは成長し、増殖を続けるだろう・・
  米国もいつかは正気を取り戻すと思う。
  しかし問題なのは、その時には、世界を元に戻すには
 手遅れになっているかもしれないという事だ。・・
  米中は今や、競争関係にある。
  私たちは米中が協調に向かっていくという考えを「止
 めなければならない」。
  中国の野望と米国の目標は両立しない。
  中国は、地域の派遣国になることを望んでおり、日本
 を含む地域の国々に中国の支配的立場を受け入れさせた
 いのだ。
  米国は、中国がその目標を達成する障害となる。
  それが現実だ。
  したがって、どのようにその競争を管理するのかとい
 うことが課題となる。・・
  その際には、二つの点が重要だ。
  一つは、経済的に中国を締め付けようとするのではな
 く、彼らに成功する機会を与えなければならない。
  第二に、軍事的な選択肢を選べば彼らは敗けて、指導
 部が崩壊し、悪い結果になるということをはっきりと分
 からせなければならない。
  米国と日本は、軍事的な優位を維持し、中国が軍事行
 動に出る誘惑を持たないように努める必要がある。
.
2019年、中国・人民元は通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦を始めた。
  しかし、実態はただの紙切れ。
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応の振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールも大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めた。
  そして、アジア・・
  アジアに大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させ、心身を興奮させないよう
 にという政策がとられ、固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いがとんでもないことになると、
 看過できない、見過ごせないと、何とかしなければとい
 う行動が・・とられ始めて来た。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていない。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべき・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行したが)・・こ
 の図体ばかり大きい中国は、変動相場制が恐怖なので、
 逃げ回ってばかりいた・・
  アメリカの保護下に居た・・そのアメリカを、身分不
 相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・外貨準備も激減
 している・・資金が中国から逃げ、ますます、余計に、
 中国・人民元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊・・空室ばかり・・株安
 も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減するだろう・・貿易も赤字となるだろ
 う・・もう中国の時代は終わった・・ASEANだ。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 増発でも景気を煽るという嘘・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用している。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
 そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いておけ
 ない。
  有頂天でやっている「一帯一路」はしぼんで行く。
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 がない・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)625E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)625E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年4月24日、御前会議が開かれ、ロシア帝国、ドイツ帝
 国、フランスの三国の行なった干渉に対する処置方法に
 関し、討議がなされた・・、
  拒否案、列国会議検討案、妥協案の3つについて検討
 がなされた。
  要求された翌日のこの日、大本営の置かれていた広島
 で、急ぎ、御前会議が開かれた。
  伊藤博文総理大臣はが提議したのは・・
  (1)勧告を拒絶して戦うか、
  (2)列国会議を開いて遼東半島問題をその会議で処理す
   るか、
  (3)勧告を受け入れて恩恵的に清国に還付するか・・、
 の3案を提案した。
  討議の結果、第二案を採択した。
  しかし、舞子(神戸市)で、病気療養中の陸奥宗光外
 務大臣は・・、
  列国会議は、新たな干渉を誘発する危険もあるとして
 反対した。
  下関条約は、あくまで批准して、交換し、日本の面目
 と威厳を保つ・・、
  それとは別に、遼東半島の還付を考えるべきことを提
 案した。
  これに、伊藤も賛成し、天皇陛下の御裁可を得た。
  陸奥は、三国への回答を引き延ばすかたわら・・、
  イギリス、アメリカ、イタリアなどをして、ロシアら
 三国を牽制させる方策をとった・・そして・・、
  金州庁(遼寧省大連市に位置する)を除く遼東半島の放
 棄や、開港場の自由港化などの打開策を打診したが、も
 っとも頼りにしたイギリスが動かなかった。
  万策がつきて・・、
  1895年5月4日、日本政府は、遼東半島の放棄を決定し
 た。
  翌1895年5月5日、三国に通告し、
  1895年5月10日、天皇陛下が詔勅で、その旨を国民に告
 げた。
  1895年11月8日、日清両国は、遼東半島還付条約に調印
 し・・、
  日本は、還付の代償として庫平銀(こへいぎん)3000万
 両(テール)(邦貨4500万円)を受け取った。
  この様な遼東半島についての動きは、それまで、中国
 の周辺部分の侵略にとどまっていた列強の領土欲を刺激
 した。
  列強諸国は、中国の分割を、一気に、中国の中央部に
 まで広げた。
  三国による干渉は、中国を分割して奪い取る列強の公
 然たる争いの第一歩を始めさせた。
  日本は、三国干渉後、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」
 の声のもと、卑劣な対ロシアに備える必要を強く感じさ
 せた。
.
1895年4月28日、三宅米吉、小杉榲邨、下村三四吉らが考古
 学会を設立し、発会式が執り行われた。
  帝室博物館(現:東京国立博物館)を母体にして、当
 時、東京師範教授であった三宅米吉を中心とするもので、
  三宅起草の設立趣意書に・・
  「本会は、同志相集まり本邦考古学の研究に従事する
 ものにして、其の目的は、本邦歴世の風俗・利度・文物・
 技能を明らかにするにあり」とあった。
  当時、人類学会(東京帝国大学人類学教室が母体)が
 石器時代の考古学分野まで担っていた。
  考古学会は、弥生・古墳時代を中心とした。
  1896年、機関誌『考古学会雑誌』が発刊され、28冊を
      刊行し・・
  1900年、機関誌が3篇4号で終刊した。
      そして、機関誌は『考古』と改題されて1-7号
      を刊行した。
  1901年、機関誌が『考古界』と改題され、96冊を出し
      て8篇12号で1910年に一旦終刊した。
  1910年9月25日、『考古学雑誌』が創刊され、現在に
   至る。
  1941年1月、日本考古学会と改名。
      日本考古学会は、現在も、東京国立博物館に
      事務所を置き、雑誌発行を続けている。
.
1895年4月30日、閣議が、三国干渉の部分的受け入れを決議
 した。
.
1895年4月、北極点の到達
  ノルウェーの海洋探検家、及び、政治家のナンセンが、
 北極点に到達した(北緯86度14分)・・、
  1861年10月10日、オスロ郊外の農家の家に生まれた。
  1879年(18歳)スケートのスピード世界記録を破り、
   スキーも名手となる。
    オスロ大学で生物学を修める。
  1882年(21歳)ナンセンは、クリスチャニア大学で動
   物学を専攻し、この年、オットセイ猟船でグリーン
   ランド海に動物生態学調査を試みた。
    グリーンランド東海岸と西海岸を探検し、「エス
   キモーの生活」を著述した。
  1888年(27歳)北緯64度を越えて、スキーでグリーン
   ランドの横断に成功した。
    ゴットホープで越冬し、エスキモーの生活を研究
   した。
  1893年6月(32歳)特殊構造の船を造って、氷に凍結さ
   れたまま北極海を横断するという大胆な計画を立て、
   この年、実行に移した。
    13人の隊員を乗せたフラム号はオスロから出航し、
  1893年9月(32歳)シベリア北岸に沿いにノボシビルス
   ク諸島北方から氷に囲まれ、氷盤に乗って漂流を開
   始した。
  1895年3月14日(34歳)船の北進が止まった北緯83度59
   分から、
    ナンセンは、途中、F・ヨハンセンを伴って下船
   し、犬ぞりとカヤックで、北極探検に向かい、群氷
   に乗り上げたが、そりによって・・
  1895年4月8日(34歳)当時、前人未到の最北到達点の
   北緯86度14分に達し、北極地方が海洋であることを
   立証した。
  1896年8月(35歳)ノルウェーの帰国した。
  その後、学究生活に入り、オスロ大学動物学教授、海
 洋学教授を歴任、ロンドン駐在公使を務め・・
  第一次世界大戦中の捕虜送還、難民救済や戦後の平和
 処理や軍縮問題の解決などに貢献した。
  1922年(61歳)ノーベル平和賞を受賞した。
  1930年5月13日、没した(69歳)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国と共に、日本経済が崩壊しないようにしなければならない・・
    まったく、のほほんとしている日本人・・
    心構えも、準備も、まったくしていない・・
    他の国々は、皆、必死に生き抜こうとしているのに、
    日本は心配だ・・
.
1945年6月22日、昭和天皇陛下は、常に戦争に否定的なお立
 場であられた。
  昭和天皇陛下が、この日、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳
 外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相らの最高戦争指導会
 議の6名の構成員を前に、「時局の収束(戦争を終わら
 せる)ように・・」と求めた。
  しかし、この時、アメリカは、「原爆を試したい」と
 いう思惑から、日本の降伏条件を「なかなか示さないで
 いた」。
  ドイツが降伏しても、アメリカは、日本の降伏条件を
 示さなかった。
  さらに、沖縄戦が終息しても、一向に降伏条件を示さ
 ず・・、
  そして、1945年7月になって、やっと、アメリカは対日
 宣言をした。
  しかし、アメリカは卑劣だった。
  アメリカの態度はあいまいだった。
  正式な外交文書という形では示さず・・あいまいな発
 表の形をとった。
  だから、「日本が、正式に対応できない」というやり
 方だった。
  原爆の完成の時間稼ぎだった。
  アメリカは、日本が、完全に受け入れなければならな
 いという状況にあることを知っていて、その様な推移を
 させた。
  日本が受け入れに「動けない様な」入念な細工を行な
 った。
  それを示す一つが、アメリカの陸軍長官のスティムソ
 ンの原案には、天皇の地位保全があったが、その条項を
 削って宣言をした。
  そしてさらに、日本に、その宣言が正式の外交文書だ
 と思わせないように作成した。
.
1945年8月1日、アメリカの原爆投下の準備が完了する予定
 日が8月1日だった・・
  カルフォルニア大学教授の長谷川毅氏の本「暗闘。ス
 ターリン、トルーマンと日本降伏」で、原爆を投下した
 から日本が降伏したのではない・・、
  ソ連の参戦こそが、日本の降伏の決定的要因だ・・と、
 指摘している。
  アメリカの「100万人の兵士が、死なないで済んだ」
 というあり得ない「デッチ上げのプロパガンダ」を嘘話
 としている。
  「新兵器の効果を試す」という「悪魔の行為」を、ア
 メリカは、やったのだった。
  ソ連が参戦すれば、日本が降伏するという事を知って
 いたアメリカは、だから、しきりに、ソ連の参戦の日が
 知りたかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、卑怯にも、ソ連と
 日本に中立条約があって、交戦しない取り決めが出来て
 いたのを、それを知りながら、ソ連をそそのかして、そ
 の条約を破棄して、「日本の領土を奪ってしまえ」とそ
 そのかした。
  それで、ソ連は、そのアメリカのそそのかしに、領土
 欲の強いスターリンは乗っかって、アメリカ言う通りに
 参戦するとアメリカに返事をした。
  そのようなソ連だった。
  しかし、そのソ連が、対日参戦をすると、日本が降伏
 すると知っていたアメリアは、その参戦の行なわれる日
 を知りたかった。
  日本が降伏する前に、原爆を完成させて、日本で試し
 たいからだった。
  1945年5月下旬、ルーズベルトは、個人特使のハリー・
 ホプキンスをモスクワへ派遣した。
  ソ連の対日参戦の「正確な日」を探るためだった。
  アメリカの原爆投下の準備完了予定日は、1945年8月1
 日だった。
  それ以前に、ソ連の大規模な機甲部隊が、一方的に条
 約を破って侵攻が始められたらまずい事になるからだっ
 た。
  アメリカは、アメリカ国民の方々の目を誤魔化して、
 原爆開発を進めていた。
  莫大な原爆製造のための支出をレスリー・グローブス
 管轄下の工兵団の予算の中に隠していた。
  アメリカ議会も承認しないで進められていた。
  その卑劣なやり方も、大問題化してしまう。
  巨額な資金を投入していた。
  アメリカ国民の方々は、当然、納得などしない卑劣な
 行為となってしまう。
  そして、アメリカは、ソ連参戦日を1945年8月8日だと
 知る。
  そして、広島の原爆投下を、その前日の1945年8月7日
 とした。
,
1945年8月15日、日本降伏の玉音放送がなされた。
  日本国民に向けてのに玉音放送に対し、支那派遣軍と
 南方軍は、これに抗議した・・
  連合国軍は攻撃を停止した・・
  しかし、アメリカ軍は、この日まで攻撃を続けていた・・
  日本国内では、鈴木貫太郎内閣が総辞職をした。
.
1945年8月28日、アメリカ軍のテンチ陸軍大佐以下150名が
 横浜に初上陸した。
  そして、横浜に、連合国軍本部を設置した。
  以後、全国で人員と物資の上陸が相次ぎ、進駐軍兵力
 は最大で43万人となった。
  特殊慰安施設協会が設立され、各所に慰安所が設置さ
 れた。
  多くの日本女性が慰安婦にされた。
  そして、占領政策をする進駐したアメリカ軍の政策の
 一つが・・
  日本の主要鉄道網を支配下に置いた。
  東京、横浜方面の国電の先頭車両をRTO(進駐軍鉄
 道事務所)の文字と、白線を塗らせて、専用車両とし、
 日本人を乗せなかった。
.
1945年9月11日、GHQのマッカーサーが、東條英機らの
 A級だと勝手にランク決めをした戦犯容疑者の40人に逮
 捕命令を出した。
  東條英機、東郷茂徳、嶋田繁太郎、賀屋興宣、
  鈴木貞一、岸信介、岩村通世、小泉親彦、橋田邦彦、
  井野碩哉、村田省蔵、寺島健、上田良武、本間雅晴、
  黒田重徳、長浜彰、太田清一、鈴木薫二、徳田久吉、
  飛田時雄、長内茂、三浦宗一、竹内寛、
  ジェームズ・W・佐々木/佐々木薫一
  また、この日、外国人戦犯(15人)にも逮捕命令を出
 した。
  テイモン:日本占領中の駐日ビルマ国大使。
  アウンサン:ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍
   組織者。
  ホセ・ラウレル:日本占領下で独立したフィリピン大
   統領・・アメリカの卑劣さが出ている。
  ベニグノ・アキノ・シニア:フィリピン国民会議議長。
  ホルヘ・バルガス:駐日フィリピン大使。
  ワカタン・ウィチット:駐日タイ大使。
  マーヘンドラ・プラタップ:インド独立運動家、アリ
   アン義勇軍指導者。
  ハインリヒ・スターマー:駐日ドイツ国大使。
  アルフレート・クレッチマー:ドイツ大使館付武官・
   陸軍中将。
  ヨーゼフ・マイジンガー:ドイツ大使館付警察武官、
   逮捕後ポーランドに移送された。
  ジョシアス・パンディユンスト:ラジオ東京・オラン
   ダ語放送員。
  リリー・アベック:ラジオ東京・ドイツ人放送員。
  チャールズ・カスンズ:ラジオ東京・オーストラリア
   人放送員。
  ストリーター:東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人。
  ジョン・ポーランド:上海ラジオ・オーストラリア人
   放送員。
  日本が、アメリカから解放したフィリピンの要職の方々
 が多く逮捕された(仕返し)。
.
1945年9月15日、東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、D
 Nタワー21、第一・農中ビル)が接収された。
  占領軍の民間検閲支隊長が、同盟通信社の海外放送を
 禁止させた。
  そして、100%の検閲を実施すると表明した。
  (参考)民間検閲支隊:又は民間検閲局、もしくは、
     民間検閲部隊は、日本の占領期間に検閲を実行
     した機関。
      連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)配下の
     参謀第二部(G-2)所管下の機関。
.
1945年9月17日、マッカーサーが、東京の本部に入って、日
 本進駐が順調に行われたことから・・
  「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明した。
  しかし、この発言は、アメリカの許可無く発言をして
 いて、トルーマン大統領の疑念を招いた。
.
1945年9月18日、鳩山一郎談話などをを掲載した『朝日新聞』
 が、GHQから発行停止命令を食らった(SCAPIN-34)。
  2日間の発行停止処分。
.
1945年9月21日、東京飛行場(羽田)を接収すると、GHQが
 命令した。
  それに伴い、GHQは、海老取川以東の住民に、48
 時間以内に立ち退けと「強制立退きを命令した」。
  3000名、1200世帯の緊急の強制立ち退きとなった。
.
1945年9月21日、GHQが、戦犯だとして2名を逮捕した。
  土肥原賢二、阿部信行
.
1945年9月22日、GHQが、放送規則を発令した。
  日本放送遵則 (Radio Code for Japan) を発令。
  放送に対する検閲命令。
  ラジオコード(SCAPIN-43)の指令。
  また、この日、アメリカ政府が、「降伏後ニ於ケルア
 メリカノ初期ノ對日方針」を発表した。
.
1945年9月24日、GHQが、「新聞界の政府からの分離」を
 命令した(SCAPIN-51)
.
1945年10月1日、GHQが、「連合国、中立国、敵国の定義
 に関する覚書」を通達した。
  朝鮮・台湾などが日本ではなくなった(日本国籍から
 の離脱)
.
1945年10月1日、アメリカで戦略諜報局(Office of Strategic
 Services)が解散した。
  (参考)戦略諜報局:1942年6月13日~1945年9月20日
     第二次世界大戦中のアメリカ軍の特務機関で、
     諜報機関。
      戦略諜報局、戦略情報局、戦時情報機関や特
     殊戦略部隊、戦略事務局、戦略任務局など多数。
      1941年7月に設立された情報調査局(COI)
     の後身で、後の中央情報局(CIA)の前身。
      ウィリアム・ドノバン少将によって設立され
     た。
.
1945年10月8日、GHQが、「自由の指令」をした。
  思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高
 の廃止、政治犯の釈放等・・思想・言論規制法規の廃止。

.
1945年10月9日、GHQが、新聞の検閲を始めた。
  GHQ(進駐軍)が、朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、
 日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して、事前検閲
 を開始した。
.
1945年10月11日、GHQが、五大改革と憲法改正を指令し
 た。
  女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と
 児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思
 想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指
 示。
.
1945年10月22日、GHQが、「日本教育制度ニ対スル管理
 政策」を発令した(SCAPIN-178)
.
1945年10月22日、GHQが、戦犯だとして1名を逮捕した。
  安倍源基
.
1945年10月30日、GHQが、「教育及ビ教育関係官ノ調査、
 除外、認可ニ関スル件」を発令した(SCAPIN-212)
.
1945年10月31日、GHQが、軍国主義を唱える教員の追放、
 および、同盟通信社の解体を指令した。
  (参考)同盟通信社: 1936年1月に創立された。
     第二次世界大戦の終結時まで日本の最有力通信
     社であった。
      それまでは新聞聯合社と日本電報通信社(電通)とい
     う二大通信社が対立競争していたが、海外宣伝
     を重視した政府はその統合による有力通信社の
     設立を念願し、両社を統合、国内有力新聞200社
     と日本放送協会(NHK)を会員として設立し
     た民間の社団法人。
      このからみもあって、NHKは、戦争の加担
     放送に協力した。
      1945年9月14日、GHQは同社に即時業務停止
     を命令した。
      1945年10月31日、解散し共同通信社と時事通
     信社に分離した。
.
1945年11月6日、GHQが、財閥解体を指令した。
  戦争の経済的基盤になったとされる財閥を解体するこ
 とで、日本の経済支配体制の壊滅を目的として行われた。
  この政策よって、三井、住友、三菱、安田、富士の大
 財閥を解体すべきと指定した第一次財閥解体から・・、
  財閥参加の持ち株会社を解体した第五次財閥解体まで
 財閥の指定、そして、解体が行なわれた。
  合計およそ80以上の財閥が解体された。
  アメリカは、アメリカに無い日本の財閥の制度的特質
 を軍国的温床となったと見なし、持株会社の解体、財閥
 家族所有の株式の買い上げ、財閥家族の役員就任の禁止、
 商号使用禁止、企業規模の制限などを行った。
  財閥家族を社員とする持株会社を頂点として、傘下企
 業に対する株式所有、および、役員兼任の組合せによっ
 て形成される状態が気になって行った措置。
.
1945年11月19日、GHQが、戦争犯罪人だとして逮捕を指
 令した。
  これによって、松岡洋右・小磯国昭ら主要な大臣や軍
 上層部など11人が逮捕された。
  荒木貞夫、小磯国昭、松岡洋右、松井石根、南次郎、
 白鳥敏夫、本庄繁、鹿子木員信、久原房之助、葛生能久、
 真崎甚三郎
.
1945年12月2日、GHQが、戦争犯罪人だとして59名を逮捕
 した。
  軍の高官だけでなく、政界、財界など広く逮捕者が出
 た。
 畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、
 佐藤賢了、鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎、青木一男、
 有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之助、郷古潔、後藤文夫、
 秦彦三郎、本多熊太郎、井田磐楠、池田成彬、上砂勝七、
 池崎忠孝(赤木桁平)、石田乙五郎、石原広一郎、
 河辺正三、菊池武夫、木下栄市、小林順一郎、小林躋造、
 児玉誉士夫、松阪広政、水野錬太郎、牟田口廉也、
 長友次男、中島知久平、中村明人、梨本宮守正王、
 西尾寿造、納見敏郎、岡部長景、大倉邦彦、大野広一、
 太田耕造、太田正孝、桜井兵五郎、笹川良一、下村宏、
 進藤一馬、塩野季彦、四王天延孝、正力松太郎、多田駿、
 高橋三吉、高地茂都、谷正之、徳富猪一郎(徳富蘇峰)、
 豊田副武、津田信吾、後宮淳、横山雄偉
.
1945年12月6日、GHQが、民間人を戦争犯罪人だとして
 逮捕した。
  近衛文麿や木戸幸一など民間人9人に逮捕命令を出した。
 木戸幸一、大島浩、近衛文麿、酒井忠正、大河内正敏、
 緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須磨弥吉郎
.
1946年3月16日、GHQが、戦争犯罪人だとして1名を逮捕
 した。永野修身
.
1946年4月7日、GHQが、戦争犯罪人だとして1名を逮捕し
 た。岡敬純
.
1946年4月29日 GHQが、天皇誕生日のこの日を選んでA
 級とランク付けした戦犯と称せられた人々29名を起訴し
 た。
  また、この日、GHQは、戦争犯罪人だとして2名を逮
 捕した。梅津美治郎、重光葵
.
1946年5月3日、板垣 征四郎(いたがき せいしろう)陸軍
 大将が、第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎
 え、イギリス軍に身柄を拘束された。
  その後、連合国によりA級戦犯だと指定され、極東国
 際軍事裁判開廷初日の1946年5月3日に、空路で東京へ移
 送された。
  裁判において、確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、
  訴因1では「1928年~1945年に於ける戦争に対する共通
 の計画謀議」を、
  訴因29、31、32ではアメリカ・イギリス・オランダに
 対する太平洋戦争の遂行を、
  他に、中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われ
 た。
  (これらは、国際法では罪にできないが、無実の罪に
 された)、
  そして、死刑判決を受けた。
  1948年12月23日、絞首刑が執行された。
.
1948年12月23日、木村兵太郎陸軍大将が、東京裁判の判決
 によって絞首刑が執行された。
  辞世の句は・・、
  「現身はとはの平和の人柱 七たび生まれ国に報いむ」
  「平和なる国の弥栄祈るかな 嬉しき便り待たん浄土に」
  「うつし世はあとひとときのわれながら 生死を越えし
   法のみ光り」
  死刑判決の下されが理由・・
  第3次近衛内閣・東条内閣で、東条陸軍大臣の下で次
 官を務めていたこと・・
  (この部署にいただけで権力を握っていたと見られて
 しまった)
  連合国は、日本の陸軍次官職について、自分の国の様
 に考えてしまい、欧米並みの政治的権限を持つと見てし
 まった。
  実際以上に、その権限を過大評価されて、死刑にする
 理由が薄弱であるのに、無実の罪にされてしまった。
  また、この日、武藤章陸軍中将が巣鴨プリズンで絞首
 刑が執行された。
  東条英機と対立して皇道派の山下奉文大将の部下に転
 じるくらいの人だったが、死刑にされてしまった。
  1944年10月に、第14方面軍(フィリピン)の参謀長に
 就任し、これは、第14方面軍司令官に任命された山下奉
 文の希望によるものだった・・その経緯で、フィリピン
 の地で終戦を迎えていた。
  東条英機氏は、武藤氏に「巻き添えにしてすまない。
 君が死刑になるとは思わなかった」と言ったという。
.
1951年4月28日、サンフランシスコ講和条約が、この日に、
 署名されたが・・?
  日本は、当然ながら主権を持った国家である。
  国際法は、主権を持った国家は・・、
  自分自身で『正義を決める体系を持つことができる』
  自分自身で『正義を決めることを認められている』と
 ある・・当たり前である。
  当然である。
  「これが正義だ」なんて、他国から押し付けられたら、
 たまらない・・、
  主権を持った国家が、どこの国からでも、他の国から、
 「それは駄目ではないか、止めなさい」・・なんて言わ
 れたらたまらない・・
  国際社会、当然、その様に言われることはない・・
  当然、他の国も、第三国へ押し付ける事も出来ない・・
  この様に、国際法は決めている・・、
  また、逆に・・、
  「これが良いのだから、正義だから・・やりなさい」・・
 などとは言われない・・
  この様な事が・・国際法には認められている。
  主権を持った国家は、自国の考えで・・自主的に、自
 分で良いと思えることを、正義と思えることを決める事
 が出来る。
  当然の当然である。
  サンフランシスコ講和条約の時、この条約の11条に、
 「日本は東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決を受諾し」
 という一文がある・・、
  そして、この文が言わんとした事は・・、
  この文の後に・・「刑を執行する」とある。
  この時に、刑に服していた人に関する判決の執行方法
 についてのみ、日本は受け入れるという意味である。
  (因みに・・、
  東京裁判で、死刑判決を受けた日本人のうちの一人・
 東条英機氏の刑が執行されたのは、1948年(昭和23年)
 12月23日)だった・・そして・・、
  サンフランシスコ講和条約は、1951年4月28日の署名で
 あるから・・
  つまり、アメリカは、主権国家の日本の「承諾なし」
 に、日本人・東条英機氏の死刑を執行してしまっていた・・
  日本の国家としての主権を犯す条約文となっている・・
  国際法上、要求してはいけない条文である・・
  英文の条約文でも、その様になっている。
  東京裁判による「その時代の解釈のすべて」「その正
 義」を受け入れよとは、なっていない。
  その様なところまでは、主権を持った日本へ押し付け
 る事は出来ない。
  国際法に則(のっと)った「東京裁判の判決を受諾し、
 刑を執行する」という「刑の執行」の受諾なのである。
  刑の執行を「するかしないか」は、独立した後の日本
 の判断で行なうべきなのである。
  条約の『正規』の文である英語文の条約文は、その様
 になっている。
  必ずしも、刑に処せられなくてもよい方々が、刑を執
 行されてしまった。
.
2018年12月22日、【討論】中国経済は本当に崩壊するのか?
  [桜H30/12/22]
  https://www.youtube.com/watch?v=wySjAIDCTg4
  パネリスト:
  川島博之(東京大学大学院農学生命科学研究科准教授)
  澁谷司(拓殖大学海外事情研究所教授)
  田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
  福島香織(ジャーナリスト)
  松田学(東京大学大学院客員教授・元衆議院議員)
  宮崎正弘(作家・評論家)
  渡邉哲也(経済評論家)
  司会:水島総
  内容・・
 ・来年(2019年)リーマンショック以上の中国発の経済
  ショックが起きる。
 ・中国に通信分野の覇権を握らせない・・どうすればよ
  いか?
 ・通信利権の取り合いが始まる。
 ・5Gはハーウェイが握っている。
 ・アフリカが中国に牛耳られるのを、ヨーロッパは許さ
  ないだろう。
 ・中国の方たちは、共産党権力とつながりを「持つか」
  「否か」で人生が決まってしまう。
  しかし、だから、皆がつながりを持つかというと・・
  事をよく知る方々は、だからこそ、繋がりを持たない
  という方々もいる・・
  その様な権力なのだと見る人たちもいる。
 ・中国で、東大留学が重く見られなくなっている。
  雲の様な幻想の状態になっている。
 ・AI監視社会となっている中国。
 ・日本は、中国人留学生を優遇し、呼ぼうとしているが、
  アメリカは逆である・・1年の許可年限と短くした・・
  そのため、中国人留学生が卒業もできなくなっている。
  (スパイもどきと見られているから?)
 ・だから、一旦、中国に帰国したら、再入国をさせない
  ようにしているアメリカとなっている・・それは、ス
  パイとなっての再入国の可能性が高いと見ているから・・
 ・北海道の帯広に、広大な土地を中国は買った・・中国
  への輸出用の野菜作りをし始めている。
  あたかも、中国の植民地の様な状態となっている・・
  行けども行けども中国の土地という状態となっている・・
  そして、何故か? その中国の土地が、自衛隊基地の
  周りが・・その様な状態になっている。
 ・理系の中国人留学生は、そのほとんどがスパイと言わ
  れている。
 ・遣唐使は、皆、日本に帰って来た・・しかし、唐から
  の遣日使は、中国には帰らなかった・・日本が素晴ら
  しいから住み付いてしまった・・遠い昔から、日本は
  その様な国だった。
 ・ウイグル学生が留学しにくくなっている・・されてい
  る。
  また、日本に来たウイグル留学生は・・中国へ帰国す
  ると拘束される・・
  そのため、帰国しにくい状態になっている・・帰国し
  たくないという状態になっている。
  その様な時に、親が「スパイになれ」と言って来る。
  「親に圧力がかかっている」ということを、必死に訴
  えて来る。
 ・東京大学の学生の1割が、中国留学生となっている。
 ・ITの優秀教授が特に狙われている。
 ・足跡を掴まれない様に、行動を掴まれない様にするた
  めにパスポートは何通も出している・・所持している。
 ・NHKは、何の経緯(いきさつ)があるのか?・・何
  か中国に借りがあるのか?・・国会の審議の総べてを、
  委員会の審議の動画を(放送されない分も含めて・・
  すべての物を)を中国へ渡している。
  中国の日本の政治家への圧力が強いと言われているが、
  この様なデーターがあるからと考えられる。
  日本の政治家が、中国寄りになっている原因の根本に、
  この様なNHKの行為が存在している。
  NHKのスパイ行為である。
  国益を損なう行為をしているNHK。
 ・次世代5G技術の争奪戦が熾烈化している。
  いずれ世界はAIで二分割する。
  アメリカと中国は、それぞれが別個のAIスペースを
  形成する。
 ・中国は、技術をアメリカから盗んでいるが、潰れたド
  イツの会社を買ったりもしている。
  台湾系の技術も盗んでいる。
  5倍の給料で引き抜くこともしている。
  これで、ほとんどの優秀な技術者が中国へ行った。
  その様な金のない日本企業・・それができない日本。
  デジタル・エコノミーは完全に日本は追いつけなくな
  ったという・・
  「完敗しました」という日本の状態だという。
  しかし、状況の流れは、中国はまずい状況を作ってい
  る・・その戦いはアメリカが勝つだろう。
  鄧小平の時は夢があった・・しかし、習近平の今は夢
  が持てない・・
  今、アメリカは、徹底的なぶっ潰しにかかっている。
 ・人民元は、ドルで補償がなされ、そして、できた・・
  しかし、今は、その状況が崩れてきている・・
  中国は、悪性インフレとなる・・そして、クラッシュ
  が起きる
 ・それを、日本は座視できない・・日本が一番影響を受
  ける。
 ・中国はバブルが崩壊すると言われて来たが、いよいよ
  始まる状態・・
  また、社会に不満が蓄積されている・・習近平の権威
  が低下してきている・・
 ・事実上崩壊している多くの中国・国有企業に人民元が
  大量に融資されている・・崩壊隠しがなされている・・
 ・不動産が売れないので、資金が回らなくなっている・・
  市場も縮小されて来ている・・
 ・データー覇権の争いが起きている・・
  暗号通貨を作ろうとしている中国・・
  ドルの通貨経済圏を乗り越えるための行動なのだ・・
  その時、日本はどうするのか?
  今、これの、水面下の争いが起きている・・
 ・アメリカは、台湾の防衛シフトを敷いている・・海兵
  隊も入っている・・台湾の方々は、これで中国の武力
  侵攻が無くなったという話も出ている・・
 ・人民解放軍(300万人)と武装警察が強い中国。
  しかし、この組織の天下り先の国営企業が景気が良く
  ないので、退役軍人(5700万人)のデモが起きている。
  ものすごいデモだった・・
  デモができるまでに支援したグループも存在している・・
  習近平は人民解放軍を掌握していない・・
  退役軍人の行き先が無い・・30歳代で退役しても良い
  働き場所が無い・・その不満が蓄積している。
 ・中国の外貨準備は減っている。
  そして、チャイナ・プレミアムが付けられる状況にな
  っている。
  中国株式はどんどん下がっている。
  来年(2019年)、世界にグローバル不安が増す。
  輸出主導型経済の日本は打撃が大きい。
 ・ゴーン・ショック・・
  事件の背後にある国家戦略と世界経済の行方・・
  ファーウェイ問題も米中対立・・
  英EU離脱も全部つながっている!
 ・現在の米中対立いざこざによって、グローバリズムの
  基礎要件が完全に壊れた。
 ・中国の国際法を守らない行動によって、世界的な、グ
  ローバルな行動がとれなくなっている。
  世界は二分化されていく・・陣営作りが始まる・・そ
  こに痛みが生じる・・
  一方、巧妙な脱税集団が問題化されて来て、暴(あば)
  かれて来ている。
  今までの、この世界の、グローバルな動きの中で巧妙
  に稼いで来たのが中国・華僑・・そして、レバノン人、
  印僑・・ユダヤ・・
 ・ソフトバンクも怪しい・・有利子負債が18兆円・・利
  払いはソフトバンクに頼っている・・
  ファーウェイ問題で、そのビジネスモデルが怪しくな
  っている・・
  ファーウェイ問題で、ファーウェイ製品を全部外すと
  孫さんが言わざるを得なくなっている・・日本人達よ!
  損をする可能性が出て来ている・・
 ・今、最先端の5Gの考え方に、日本の政治家たちが付
  いて行けなくなっている・・
  これから来る未来に、付いて行けない恐怖感が存在す
  る・・
  中国は一つのポジションを占めている・・日本はどう
  するのか?・・それは緊急に考えなくてはいけない課
  題・・世界的トレンドのブロックチェーン革命に、日
  本の存在を示せ・・
 ・アメリカ・ドルの裏付けは石油と穀物・・
  その様な裏付けのない中国の人民元・・ただの紙切れ
  状態・・金本位制が破綻したのは、金の量の上限があ
  るから・・
  中国が、仮想通貨で延命できるかは怪しい?・・
 ・日本がやるべき大切なことは、日本にある個人情報を
  持って行かれないようにすること・・
  日本は、決裁システムに中国系のアリババなどを入れ
  ないで、日本独自のものにするべき・・
  白物家電で、日本が失敗したように、日本の最先端技
  術はファーウェイなどへ持って行かれない様にする・・
  だから、中国で物を作る様な事をしない・・
  「技術内容を明らかにせよ」という中国は駄目だ・・
  また、「中国から資本を持ち出せない」という問題点
  のため、中国の日本企業に、内部留保の金が溜まって
  いる。
  日本は、これを打開する仕組みづくりをするべき・・
  これをしないと、近々迫る中国のはじけた時に、今ま
  での努力が水の泡となる・・
  はじけるのは秒読み段階?・・中国で一番はじける心
  配な所は、上海、深圳、広州、北京あたりで一斉には
  じける・・
  中国政府は、一斉にはじけさせないという検討をして
  いるくらいの状況・・
 ・だから、輸出主導型の日本経済を進めて来て、消費税
  を上げるというのが一番まずいこと・・
  やれば、最大の失敗になるだろう・・
  日本側で出来る事は、この消費税の問題だけ・・
  できたら、逆に、消費税のパーセントを低くして行け!・・
  財政赤字の嘘をもう言うな!・・
  リーマンショックの時に、日本が一番打撃を受けたが、
  その二の舞となる・・
 ・中国がガタガタになると、世界の貿易が縮小する・・
  そして、日本が打撃を受ける・・
  中国・人民元の大暴落が起きて収束するしかない・・
  裏付けのない人民元が元に戻る・・紙切れ状態に・・
 ・日本は減税策を検討して行け!
 ・中国が、かなりやばい所に来ているのは真実・・今ま
  での歴史の様に、急に変わる中国となる可能性がある・・
  それに、的確に対応することが日本の課題・・対応を
  誤らないのが日本の課題・・
 ・中国は、資金を国外に出せない様にしているが、それ
  をしなかったら、一斉に資金が引き上げられて、中国
  の息の根が止まる・・
  その様な状況に、今はある・・
 ・中国には、ゾンビ企業と言われている企業が2000社あ
  る・・
  ゾンビ企業(ゾンビきぎょう)とは、経営が破綻して
  いるにもかかわらず、銀行や政府機関の支援によって
  存続している企業・会社のこと・・
  中国・国有企業ととすると1社あたり5万人、2000社な
  ので1億人、その家族を考えると4億人・・この人たち
  のために中国は、人民元を刷らなければならないとい
  う中国の今がある・・中国のアキレスけんとなってい
  る・・
 ・今、日本は、日本の技術で「独自の情報技術を作るの
  だ」という決意を固めなければならない時だ・・
  ブロックチェーン化も進める・・
  アメリカや中国がどう出ようが、この道を進めて行く
  べき・・
 ・日本のリスクは、政治家や経営者に中国が見抜けてい
  ないところ・・そして、判断が後手に回っていること・・
 ・中国に居る企業は、早く逃げるにかぎる・・
 ・中国の、ある程度の地位のある人は、7つ8つのパス
  ポートを持っている・・それは、いざという時に、動
  けなくなるリスクを回避するためにそのようにしてい
  る・・
  この様にしているのは、中国のスパイだけではない・・
  中国では当たり前のこととなっている・・
  長年、中国でやって来た日本の企業の人たちも、その
  事を知っていて、複数のパスポートを持っている・・
  その様な日本人が、いっぱいいるという常識・・
  来年(2019年)は、クエスチョンの年になるのか?・・
 ・中国と共に、日本経済が崩壊しないようにしなければ
  ならない・・
  まったく、のほほんとしている日本人・・
  心構えも準備も、まったくしていない・・
  他の国々は、皆、必死に生き抜こうとしているのに、
  日本は心配だ・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)624E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)624E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年4月~1895年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年4月17日、日清講和条約が調印された。
  日清戦争での日本勝利を受け、下関条約が締結された。
  日清戦争は終結した。
  日清戦争動員兵力:12万人、
  戦病死:17,000人、
  軍事費:2億3000万円。
  清大使・李鴻章馬関に来たり講和成る(氷川清話)
  勝海舟は、遼東新領土に対する画策をたてて、一、二、
 意見を示す。
  後三国干渉のこと起る、物議騒然(氷川清話)
  下関条約の内容・・
  一、清国は、朝鮮が独立国であることを認め、承認す
   る。
  二、遼東半島・台湾・澎湖島を譲り渡す。
  三、清国は賠償金として二億両(約三億円一千万円)
   を日本に支払う。
  四、沙市・重慶・蘇州・杭州の港を開き、開市し、日
   本が自由に産業活動に携わる事が出来ることを認め
   る。
  台湾を譲り受けた日本、当然、台湾は、清朝から日本
 の統治下に入り、台湾には台湾総督府が置かれた。
  そして、政策として、台湾製糖が設置されたりして、
  また、民間から、大日本製糖などの製糖会社ができ、
 日清汽船(大阪商船)などの水運会社が、上海航路を結
 んだりして、台湾は、経済的に潤って行く。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本は金を支払って譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金を出して領有した」様に・・、
 奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」。
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
.
1895年4月17日、播但鉄道(ばんたんてつどう)が、長谷駅~
 生野駅間、および、姫路駅~飾磨駅(現:飾磨港)間を開
 通し、生野駅~飾磨駅間が全通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)播但
 線の大部分、飾磨(のち飾磨港)~新井を建設、運営し
 た日本の私設鉄道であった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れたが、山陽鉄道に路線及び附属物件が譲渡され、山陽
 鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
.
1895年4月23日、三国干渉
  ロシア帝国、ドイツ帝国、フランスの三国が、東洋艦
 隊の武力を背景にして、遼東半島の返還を要求するとい
 う対日干渉をした。
  まったくの内政干渉の仕業(しわざ)。
  遼東半島は戦略的にも重要な位置を占めていた。
  三国の大義名分は、アジアの平和を危うくするだった。
  いつも列強は、この様な表面的に美しいだけの言いた
 い放題を言う。
  本当は、ロシアが中国に地歩を固めたい、遼東半島は
 ロシアが欲しい、不凍港が欲しいのだ・・だった・・
  遼東半島を日本が占めたなら・・日本が「目の上のた
 ん瘤」になる・・だった。
  そして、日本が遼東半島を返還したら、案の定(あん
 のじょう、思った通り)、ロシアは遼東半島を中国に要
 求し、ドイツは山東半島を要求するというあさましい(
 ひどく嘆かわしい状態のこと)ことを行なった。
  ドイツ・フランス・ロシアの公使が、アジアの安定を
 乱すとして、遼東半島の清国への変換を要求し、当時、
 満州への鉄道建設を目指していたロシア政府は、遼東半
 島(リヤオトン)領有の放棄を日本に言い・・、ロシア
 との同盟関係にあったフランス、ロシアの進出方向を極
 東にそらすことをねらっていたドイツもこれにならった。
  さらに、ドイツは、ロシアとイギリスとフランスの協
 調に取り残されることを恐れて共同行動をとった。
  日本の国力では、この3国に対抗できないので、同1895
 年5月5日、これを受諾した。
  その結果、日清間に遼東半島還付条約が締結され、日
 本は譲渡取得をしていたので、返金がなされた。
  必死に努力をして国を富ませ、米欧に追い着きたいと
 やってきた日本・・日清戦争となったが・・、
  この間まで、アジアの遅れた小国・日本が、この様な
 事態になると・・、
  東アジアで美味しい汁を吸いたいという列強諸国は、
 黙っていなかった。
  強力な軍事力で、日本を脅しながら、また、卑怯な事
 にグルとなって、日本へ「いちゃもんを付けてきた」。
  ロシア・ドイツ・フランスの三国の言い分は・・、
  「遼東半島まで清国から得る」のはおかしいじゃない
 か?という言い方だった・・「清国へ返しなさい」と・・
  弱い者に対して、好きに言いたい事を言う国々いだっ
 た。
  有色人種の日本が、『白人のマネはするな』の気持ち
 だった。
  そこに、キリスト教の「有色人種蔑視」のマインド・
 コントロールがあった。
  列強に、日本を馬鹿にする視点が残っていた。
  そして、なんと、その2年後に、遼東半島のその地を
 ロシアは手に入れた・・日本にとって屈辱的な事だった。
  弱小国の悲哀を味わう日本だった。
  当時の日本国民の方々も、この屈辱に歯ぎしりしてい
 た。
  日本は、幕末以来、中国や朝鮮に、欧米列強の諸国の
 侵略に共同して対処しようと言って来ていた。
  急速に力を付けた日本・・日清戦争の、まさかの日本
 の勝利だと世界は思っていた・・
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  条約をきちんと、日本と清の間で結び、合意された下
 関条約・・その条約に基いて・・約定(やくじょう、約
 束して定めること)して・・日本に渡った遼東半島を・・
  おい!それはよせと・・くちばしを入れた・・
  ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな欲をかいた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張って、朝鮮へも影響力を
 拡大したいと思っていた。
  ロシアの言い分は・・筋が通らないが・・朝鮮は、ロ
 シアのウラジオストクに近いため、ここを他の列強に抑
 えられると、ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理
 屈・・そして、その可能性を防ぎたいと・・
  また、ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両
 岸を抑える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラ
 ジオストク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるという
 ロシアの言い分があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と、
  しかし、朝鮮半島をロシアが占領すれば、圧迫される
 のは日本も同じだった。
  そして、日本の恩を受けた朝鮮が、なんと、この三国
 干渉の影響から、『反日となり』また『親露となった』・・
 その様な勢力が台頭して来た。
  そして、また、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の朝鮮進
 駐を希望するようになった・・
  そして、1896年2月には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この状況を解決するために努力がなされた。
  日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』が締結
 された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう合意がなされた。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れた。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(すでに、
 満州はロシア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と満州の
 境を流れる川)では、アレクサンドル・ベゾブラーゾフ
 らのロシア貴族が・・、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した様に)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので、
 強硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意
 気を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし・・、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で・・、
  ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、「日本に、ロ
 シアと戦争する勇気などあるばずがない」としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:問題は、アメリカが、戦略核戦力の対中劣勢にある。
   (アメリカの空母も容易に接近できず)
    米中の貿易摩擦は・・だから、貿易問題ではなく・・
    アメリカの存亡の危機の安全保障上の問題。
.
1932年10月2日、リットン報告書が公表された。
  正式書名は、「国際連盟日支紛争調査委員会報告書」
  調査団は、イギリスのヴィクター・ブルワー=リット
 ン伯爵を調査団長とした。
  内容は、中国の最近の発達の概観、つまり、清の没落
から書き起こし、共和国の出現、その後の内乱、国民党の
結成、共産党の跋扈を詳述し・・
  次に、満洲国について述べている・・すなわち、中国
 が満洲に無関心であり、満洲の今日の発展は日本の努力
 による旨が述べられ・・
  張作霖、および、張学良時代の政情からロシアと中国
 の紛争等におよんで述べられ・・
  日本と中国の両国間の満洲に関する諸論点・・すなわ
 ち、日本の特殊性を認識して、日本の満洲における権利
 を説明したりしている。
  リットン報告書は、満州は、中国(漢民族)のもので
 はないという立脚点に立っている。
  そして、「満州を、中国本体から切り離す」という意
 味が書いてある。
  そして、満州域を、中国から離れた国際的なものにせ
 よと言っている。
  (日本の掲げた理念が五族協和)
  そして、その状態の中で、「日本の満州での努力を認
 めている点」から「日本の主導権を認め」、また、日本
 の権益も認め、「日本の権益も十分に守られるべきだ」
 と記している。
  日本は、この「リットン報告書を受け入れても良かっ
 た」と言える。
  受け入れていれば、また違う世界史が展開しただろう。
  共産化した満州域ではなかっただろう。
  結局、満州国の存在を、「日本が侵略して奪ったもの
 だなんて微塵も言ってない」。
  結局、そして、今・現在、満州は無くなり、この時の
 リットン報告書の見解で否定された中国(漢民族)のも
 のとなってしまっている。
  「トンビに油揚げをさらわれた」という状態となって
 いる。
  そして、約70年を経て、その満州の方々は、今・現在、
 その地には居なくされている。
  何処かへ消え去ってしまった。
  国なんてこのような経過をたどるものなのだ。
  国と共に、民族の運命など、この様になるものなのだ。
  今後、日本の国も、この様にならない様に・・
  中国は、尖閣諸島が欲しいと言っている・・その次は、
 沖縄だと言っている・・
  国の安全保障に無関心でいてはいけないのだ。
  各人が、真剣に考えていなければいけない事なのだ。
  「あなた任せにしておいては・・いけない事なのだ」。
,
1942年、中国が、嘘のプロパガンダでも、何でもやって、
 その結果が、中国に有利になるなら、その様な行動をし
 た者は「能力のある者」と中国は見る・・
  中国は、「卑劣な行為」でも、何でもよいという国で
 ある。
  だから、中国の国内内戦は、騙し合いが酷い戦争で、
 騙し、騙される陰湿な行為が頻繁に行われた。
  この様な騙しの世界の国・中国は、日常茶飯に騙しが
 行われた。
  日本への工作も陰湿を極めた。
  それは、政治や戦闘に限らず、あらゆる場面において
 行われた。
  中国の新聞も、その真偽を確かめずに報道するという
 出鱈目(でたらめ)さだった。
  例えば、1942年頃、「昨夜、日本人が、果物屋の店先
 にあるスイカに毒を注射して歩いていた」・・なんてい
 う嘘の記事が、でかでかと中国の新聞に書かれた。
  また、女子学生に、中国人企業家が金を渡し、「『日
 本の森永ミルク・キャラメル』には、毒が入っているか
 ら買うな」と言わせた。
  これは、中国の会社が、森永に似せた菓子を作り、自
 社の製品を買わせようとして行った事だった。
  本「支那三十年」を参照。
.
1945年12月、沖縄が、1945年12月のこの時から、本土復帰
 をする1972年まで、アメリカ兵によるレイプ(強姦)犯
 罪は500件以上となった(隠れた犯罪は数限りなくある)。
  本「沖縄アンダーグラウンド」には、目をそむけたく
 なる様な卑劣なその状況の記載が続く。
  その卑劣な行為の多くで、アメリカ兵は庇(かば)わ
 れた。
  「容疑者不明」で処理された。
  でも、ここまで来るのもほんの一握りだった。
  闇に葬られ、泣き寝入りとなった。
  アメリカ兵の人権無視のあまりに卑劣な行為、あまり
 の酷さに、沖縄は苦汁の日々が続いた。
  そして、仕方なく・・地元・沖縄は、「アメリカ兵相
 手の売春区域を作ろう」との苦渋(くじゅう、事が解決
 されず、苦しむ悩むこと)の案の声となった。
  そして、やむを得ず売春街が、アメリカ兵の卑劣な行
 為を無くしたいとの願いから出来た。
  フランスのパリに侵攻したアメリカ軍は、この街でも、
 パリジェンヌを、パリの女性方たちを・・犯した。
  昼間でもなんでも、場所もわきまえずに・・、
  その乱れたアメリカ兵の行為は、人目をも憚(はばか)
 られずに行われた。
  あまりの酷さに、パリ市長は、アメリカ軍へ泣きを入
 れた・・その愚行を指摘した。
  また、アメリカ軍は、ベルリンへ侵攻した時も、数限
 りないベルリン女性を犯す行為を行なっている。
  砲弾が飛びかう中、ベルリンの女性方は、地下などに
 潜(ひそ)んでいた。
  男性のほとんどが居ないベルリンで、ベルリン女性は、
 アメリカ兵に強姦され犯された。
  その数は、とんでもなく多くの女性方の数となった。
  戦後の日本でも、毎日、あちこちで、アメリカ兵によ
 る強姦が行われ、その卑劣な行為を新聞は報じた。
  病院の看護婦が、ピストルを持ったアメリカ兵たちに
 犯された・・また、妊婦の方々さえ犯された。
  学校へ行く小学生まで乱暴をされた。
  新聞報道は、そのすべてを報じなかったが、それでも、
 あまりの酷さに、アメリカ軍・GHQは、「そのような
 報道をするな」と命令した・・
  アメリカ兵の卑劣な行為は、その様な命令によって隠
 されてしまった。
.
2005年7月、NHKの福井放送局チーフカメラマンが取材費
 でビ-ル券を購入し約350万円分を着服した。
.
2011年8月、NHKの番組制作局チーフプロデューサーが
 女性のスカート内を携帯カメラで盗撮して逮捕された。
  NHKは、「異常」と言えるほど犯罪が多い。
  考えられるその理由は、「給料がべらぼうに多いこと」
 そして、「働く時間が本当に少ないこと(自由な半拘束
 時間ばかりの勤務状態)」・・
  NHKに異常に犯罪が多いのは、「ここに原因がある」。
  金があって、時間がある・・という状態。
  NHKは、もっと「自らを律せよ!」・・
  放漫給料をお手盛り状態から正せ!
  余裕のあり過ぎる人員体制を正せ!
  NHKは、身を引き締める努力をせよ!
.
2016年8月18日、この日のNHKニュース7で、子どもの貧
 困問題をテーマとした神奈川県主催の講演会、および、
 登壇した女子高校生への取材を報道したところ・・、
  インターネット上で、捏造疑惑が浮上した・・、
  女子高校生が2万円相当の画材を所有する様子が映っ
 ているなどとバッシングが発生した。
  片山さつき参議院議員が、NHKに説明を求めるなど
 を精力的に行った。
  NHKは、メディアに対し、「本人や家族、行政機関
 などに取材し、経済的に厳しい環境で生活する高校生だ
 と判断しています」、「食べるものもないというレベル
 の貧困ではなくても、経済的困窮によって、高校生が希
 望する進路をあきらめざるをえない現実があることを伝
 えるもの・・放送内容は、すべて事実に基づくものです」
 と捏造疑惑を否定した。
  講演会を主催した神奈川県の担当者は、講演会につい
 て、「食べるものや着るものがあるとしても、修学旅行
 や部活の遠征に行けなかったり、進学をあきらめたりす
 る『相対的貧困』の見えにくさを考えようというイベン
 トだった」、
  騒動について、「食べ物や着る物がないなど目に見え
 る『絶対的な貧困』と・・、
  親の経済的な事情で進学を諦めざるを得ないなど目に
 見えない『相対的な貧困』を混同して起きてしまったの
 ではないか」とコメントした。
  この騒動にまつわり、サイゾーが運営するニュースサ
 イト「ビジネスジャーナル」は、NHKなどへの取材を
 行わず架空のコメントや、やらせや捏造の存在を印象づ
 ける表現を含む記事を発信し、後に、取材が不十分であ
 ったとして訂正および謝罪、関係者の処分を発表した。
.
2018年12月8日、中国はもう正せなくなっているのか?
  叩けなくなっているのか?
  一番、のんべんだらりとしているのが日本。
  中国もロシアも、日本に接近してきているのは、日本
 の国防力が伸びないで、昔のままになっていて、組みし
 易いからと指摘されている。
  そして、アメリカが、戦略核戦略が中国に劣っている
 ところが問題である。
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序[桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
  パネリスト:
   鍛治俊樹(軍事ジャーナリスト)
   河添恵子(ノンフィクション作家)
   石平(評論家)
   福島香織(ジャーナリスト)
   矢野一樹(元海上自衛隊潜水艦隊司令官 海将)
   矢野義昭(元陸上自衛隊小平学校副校長 陸将補)
   湯浅博(国家基本問題研究所主任研究員)
  司会:水島総
  核抑止は万全か?
 1、米中の戦略核バランス
   中国が先制攻撃すれば、アメリカは4千万~5千万人
  の損害、中国は2600万人の損害となる。
   アメリカが戦制攻撃すれば、中国は最大1億人の損害、
  アメリカも数千万人の損害か?
   アメリカおよび中国は、核戦争にエスカレートする
  恐れのある軍事挑発はできない。
 2、米中の通常戦力バランス
   アメリカの海・空の技術的優位は明らか。
   特に、戦闘機と潜水艦、空母が優位。
   中国大陸での本格的地上戦はアメリカでも不可能。
 3、問題は、アメリカが、戦略核戦力の対中劣勢にある。
   (アメリカの空母も容易に接近できず)
   ロシアの核戦力も4分の1程度は極東に向いている。
   そして、中露接近は当面続いて行く。
   北朝鮮の弾道ミサイル脅威も数的には中国並み。
  (参考)中国の戦略核は400から600ある。
      北朝鮮も、中国並みになって来ている(400か
     ら600)
      アメリカ一国だけで、中・露・北朝鮮には対
     抗できない
      中国は、原子力推進の超超長距離を飛べる巡
     航ミサイルを保持したと発表したが、この事で
     発生する問題が・・
      アメリカのミサイル防衛網がすべて北極海を
     向いている。
      中国は、その裏を攻めることができる・・こ
     のため、アメリカの防御が大変な事になってい
     る。
      アメリカが、それに対抗するためには、韓国
     からも、また、日本からも、アメリカの軍事力
     を引き上げて・・アメリカ本土防衛に集中して
     固めなければならない。
      軍事バランス的に、ここ10年間は、中国が台
     湾を取りに行っても、アメリカはそれに対応で
     きる状況にない。
      日本も、この様な状況に、どう対応するのか?
     ということになっている。
      日本は、アメリカをあてに出来なくなってい
     る。
      アメリカは、アメリカ本土を守るのに手いっ
     ぱい。
      20兆ドルを超える赤字のアメリカ、財政的に
     も非常に厳しい状況。
      米中の貿易摩擦は・・だから、貿易問題では
     なく・・アメリカの存亡の危機の安全保障上の
     問題。
      中国は、技術的にも急速にアメリカに追いつ
     いて来ている。
      中国の技術的追い上げは厳しい。
      中国は、軍事基地を地下化して耐力が上がっ
     ている。
  米国の対応
 1、トランプ政権は、核戦力の増強、近代化推進方針を
  明示した。
 2、核戦力の整備に最優先で予算配分する、配分は可能
  と保証
 3、核戦力の3本柱(ICBM、SLBM、戦略爆撃機)
  を更新。
 4、核弾頭の新型開発(戦力化は約10年後)、その間、
  寿命延長
 5、ロシアに対抗して低出力核を増強
 6、核インフラの整備
 7、核関連の人材養成、施設の整備更新
 8、アメリカの核抑止力強化と同盟国への核の傘の信頼
  確保。
.
2018年12月8日、痛い目に会わなければ分からないのか??
  のほほんとしている日本・・
  【討論】米中戦争の行方と新世界秩序[桜H30/12/8]
  https://www.youtube.com/watch?v=PMQjywlngxM
  ・釧路の広大な土地が中国に買われている。
  ・10万人が人質になっている・・自由に中国から出国
   できなくなっている。
  ・資金も中国から引き上げられなくなっている。
  ・これからは多極化する・・防衛も多面的になる。
  ・ロシアは、シベリアなどの広大な地を守り切れてい
   ない。
  ・パンダ債・・日本が一帯一路を応援しているのか?
   中国内では、「日本が一帯一路を応援している」と
   言われている。
  ・アジア諸国から日本の本心が疑われている。
  ・「日米同盟強化」と言われているが、言葉だけで、
   実態はそうなっていない・・南西諸島などをどう守
   るか?
  ・日米安保を改定して、双務性(そうむせい)を強化
   するなどしなければならない・・日本の対中の力は
   落ちている・・双務性は絵に描いた餅になる方向に
   ある。
  ・アメリカの共和党は、「日本の核武装を進めるべき」
   と言っている・・アメリカは、米本土に退くという
   方向なので、日本は核武装して自分を守れの論理。
  ・相互防衛条約に安保を持って行くべき。
  ・X‐35を100機買う。
  ・財務省は、「今、日本に金があって、有効な防衛が
   できる状況」なのに、嘘でそのことを抑えている。
  ・アメリカの「核の日本国内展開」をさせるのが、
   「急ぐべき日本の現状の対応策」。
  ・中国共産党は、日本のコントロールに成功している・・
   日本の政治家は中国寄りになっていて、自由な発言
   が出来なくなっている。
  ・中国が明らかに脅威であるのに、「仮想敵国だ」と
   言えない日本・・だから、その対応策が取れない日
   本となっている・・やりたい放題にされる日本にな
   っている・・
  ・統一朝鮮が、これからの、その後の脅威となり、仮
   想敵国となる・・
  ・超音速滑空体に中国は成功している・・これに核が
   搭載される・・世界で唯一成功している状態・・
  ・大国は、都合のよい時は国際法を守る、都合が悪く
   なると兵を送る・・この様な国が、今、日本の周り
   を取り囲んでいる・・
  ・日本は、痛い目に会わなければわからないのか??
.
2018年12月19日、中国人のハッカー集団を、アメリカは起
 訴する方針とした。
  (参考)ハッカー:コンピューター内へ入り、その相
     手の情報を盗んだり、コンピューター・システ
     ムを麻痺(まひ)させたりする者。
  アメリカの司法省が、中国の情報機関にあたる中国国
 家安全省と関係のある「複数の中国人ハッカー」を起訴
 する方針・・と報じられた。
  アメリカ紙のウォール・ストリート・ジャーナルなど
 によると・・、
  アメリカ司法省が、起訴する可能性があるのは、中国
 国家安全省とつながりがあり、「APT10」と呼ばれる
 ハッカーグループとみられている。
  アメリカのネットワークに侵入するため、複数年に渡
 ってITサービス企業に高度なサイバー攻撃を仕掛けた
 疑いがある。
.
2018年12月20日、韓国の元徴用工らが、韓国政府を提訴し
 た・・この日の読売新聞が伝えている。
  これが正しいのだ。
  韓国の元徴用工の方々も、やっと正しい道・本筋が見
 えたようだ。
  日本が、「元徴用工の方々の補償を行ないます」と韓
 国政府に言ったら、「そのお金は韓国政府へ渡してくれ」
 と韓国政府が言った。
  「韓国政府から元徴用工へ補償をしますから」と・・
  その様なことが、話し合いで決まって、日本は、韓国
 政府へ莫大な金を支払った。
  韓国政府は、この様な経緯(いきさつ)・事態を韓国
 国民へ徹底して説明しないから、この様な問題が発生し
 ている。
  元徴用工の人々が、韓国政府を提訴したのは、そのこ
 とが分かったから・・、
  読売新聞は、以下のように伝えている・・
  第二次世界大戦中に、日本企業に徴用されたとする
 韓国人や遺族ら約1100人が20日、韓国政府を相手取り、
 1人当たり1億ウォン(約1000万円)の補償金を求める訴
 訟をソウル中央地裁に起こした。
  元徴用工らを支援する市民団体が、ソウルで記者会見
 を開き、明らかにした。
  元徴用工らの訴訟を巡っては、韓国大法院(最高裁)
 が10月に、新日鉄住金に対し、賠償を命じる判決を初め
 て確定させた。
  今回の原告らは、1965年の日韓請求権・経済協力協定
 で日本から無償3億ドルを受け取った韓国政府にも補償
 する責任があると主張し、日本企業でなく、韓国政府を
 訴えた。
  韓国内では、この団体が主導した同様の訴訟が、他に
 3件進行している。
  元徴用工への韓国政府の補償を巡っては、朴正煕(ぱ
 くちょんひ)政権が、1975年~1977年に、日韓請求権協
 定で日本から受け取った資金を活用し、遺族らに補償を
 行なった。
  2008年以降にも、慰労金を追加支給し、慰労金の総額
 は2015年末で、計約6184億ウォン(約617億円)に上った。
  今回の訴訟の原告らは、過去の未申告などを理由に、
 韓国政府の補償を受けたことがないという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)623E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)623E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1895年3月30日、逓信省官制公布(勅令第27号、4月1日施行)
  郵便及電信局官制中改正ノ件
  職員の増員
.
1895年3月、朝鮮国(李朝)が、朝鮮東学党の代表・全琫準
 (ゼンホウジュン)を処刑する。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が
 日本に帰国している間に、処刑を執行した。
.
1895年3月、日本鉄道の赤羽駅~川口駅間の複線開通により
 上野駅~大宮駅間の複線が完成した。
.
1895年4月1日、第4回内国勧業博覧会が開催された。
  内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)
 は、明治政府の殖産興業政策の一つとして開かれた内国
 物産、美術・工芸品の博覧会で・・、
  第4回は、京都で開催された。
  この時、裸体画論争が起きる。
  黒田清輝の「朝粧(ちょうしょう)」が芸術か?、風
 俗を紊乱(びんらん、道徳・秩序を乱すこと)する春画
 の一種か?の問題だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は先進国にふさわしからぬ野蛮な習俗
 であると捉え・・、
  公共空間で堂々と展示すべきものではないと判断した。
  この時、警察の取締りは行われなかった。
  後の1901年の白馬会第六回展においては、警察は、特
 別室での鑑賞の形を求めた。
.
1895年4月1日、九州鉄道の小倉駅~行事駅(現:行橋駅)間
 が開通した。
.
1895年4月3日、甲武鉄道の飯田町駅~八王子駅間が開通し
 た。
.
1895年4月3日、甲武鉄道市街線の牛込駅~飯田町駅間が開
 通した。
.
1895年4月5日、日本初の1千トン級の貨客船「須磨丸」が
 竣工した。
  三菱合資会社三菱造船所、三菱第65番船
  1563トン(1536トン?)、835馬力。
  日本初の二重底をもった船(それまでは単底)
  日本初の台湾航路として開設された大阪~台湾航路に
 就航させる目的だった。
  1896年、台湾総督府の依頼で、大阪商船によって開設
 され、須磨丸などの3隻の汽船が 大阪~基隆を結んだ。
  また、この年1896年、陸軍省の航路として、日本郵船
 も神戸~基隆間を開設し・・、
  翌1897年、台湾総督府の航路となった。
  使用船は「山城丸 2852t」と「弘済丸 2635t」・・、
  1898年、大きさで劣った大阪商船は、新造船の台北丸
 (1897年進水,、3300トン) 、台中丸(1897年進水、3213ト
 ン) を投入して競走した。
  日本郵船は、続いて「西京丸」(1906年)、「信濃丸」、
 「備後丸」(1907年)、「因幡丸」(1915年)を投入して船
 舶の大型化をはかった。
.
1895年4月5日、筑豊鉄道の飯塚駅~臼井駅間が開通した。
.
1895年4月6日、甲武鉄道が、お花見列車を運行した。
.
1895年4月8日、ロシアが、列強各国へ、日本に対する共同
 干渉をすること提案した。
  日清戦争の講和条約である下関条約で認められた、日
 本の遼東(リヤオトン) 半島領有に反対するロシアが、
 フランスとドイツと共同干渉しようとした。
  下関条約の調印の6日後の1895年4月23日、当時、満州
 への鉄道建設を目指していたロシアは、遼東半島の領有
 の放棄を日本に勧告した。
  ロシアと同盟関係にあったフランス、ロシアの進出方
 向を極東にそらすことをねらっていたドイツもこれにな
 らった。
  当然、束になって日本に圧力をかけた列強各国に対抗
 出来ない日本・・
  日本の国力では3国に対抗できないので、1895年5月5日、
 これを受諾した。
  日本は、遼東半島を清国に還付することとした。
  (日本は、遼東半島を買っていたので、当然、清国は、
 日本に返金した)
  以後、ロシアは、満州に鉄道敷設権を獲得し、遼東半
 島を租借地とした。
  これを見ていたフランス、ドイツ、イギリスも争って
 租借地を要求した。
  日本では「臥薪嘗胆(がしんしょうたん、仇を討とう
 として苦心・苦労を重ねること)」のスローガンで、対
 ロシア報復の国民感情が大きくなった。
  外交面で、対英接近が進められて行く。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の「シャープパワー」に対抗せよ。
.
1885年、伊藤博文は、この年に、内閣制度を創設して、自
 ら初代の内閣総理大臣に就任した。
.
1935年、イランという国号が採用された。
  イラン人は、自ら「イーラーン(アーリア人の国)」
 と称していた。
  そして、「アーリア」とは、「高貴な」をいう意味で、
  故に、ヨーロッパからの圧迫を脱却し、民族の誇りを
 回復する意味から、1935年に、イランという国号を採用
 した。
  キリスト教徒のヨーロッパ人からの精神的圧迫から脱
 却を計った。
.
1951年4月28日、サンフランシスコ講和条約が結ばれた。
  日本は独立した。
  アメリカの主導する占領から解放された。
  国際社会に、独立国として堂々と復帰した。
  しかし、この時、締結した「サンフランシスコ講和条
 約の条項」に、卑劣にも書かれた条項を、日本は守らな
 くてはならなくなった。
  それは、「日本は、東京裁判(極東国際軍事裁判)の
 判決を受託し・・刑を執行する・・」「裁判によって言
 い渡された判決」を受け入れる・・という条文だった。
  日本の軍人を・・日本の兵士を(日本と共に戦った韓
 国の兵士も判決を受けていた)東京裁判で判決し、殺し
 たりしたが、それを受け入れよというものだった。
  東京裁判で死刑判決になった人は28名いた。
  これも、まったく卑劣に決められた。
  日本が負けると分かっていた頃、裁判以前のこの時に、
 すでに、連合国は、「誰を死刑にするか」を決めていた。
  「公正な裁判の結果、死刑になった」という様に、世
 界には見せかけた。
  アメリカなどの連合国は演技した・・卑劣である。
  アメリカは、「東条英機を死刑にしたい」と打ち合わ
 せで言った。
  中国国民政府(今の中国共産党政権では無い、この中
 国共産党政権とは日本は戦争をしていない)は、「板垣、
 土肥原、松井・・」と言い、
  ソ連は、「広田弘毅・・」と言い・・、
  各国が、好き勝手に、また裁判の判決も無いのに言い
 たい放題だった。
  リンチ(私刑)の見本の様な下劣な事をやっていた。
  そして、東京裁判の演技の「作られた裁判」が行われ
 て、日本の軍人(兵士)達は責任を取って殺された。
  これ等の事が、サンフランシスコ講和条約に「受け入
 れろ」と書かれていた。
  しかし、東京の他の地でも・・
  その他の地域の世界中でも、裁判が行われていて、日
 本軍人が、東京裁判を真似た裁判で・・殺された。
  連合国は、それらを止めること無く、出先の勝手な裁
 判で、「やりたい放題」をさせていた。
  死ななくてよい日本軍人(兵士)が命を取られたりし
 た、また、刑に服す虐(しいた)げに会った。
  ユネスコの記憶遺産にして、長くこの卑劣行為を記憶
 に止めよ。
  まったく卑劣に、連合国の国際的取引のまな板の上で、
 日本人兵士の命はやり取りされていた。
.
1968年4月13日。映画「猿の惑星」が、日本で公開された。
  アメリカ映画が、中国資本に乗っ取られ、中国のプロ
 パガンダ(嘘宣伝)に使われていた。
  猿の惑星のサルは、日本人の暴動で、中国軍とアメリ
 カ軍の共同作戦で殲滅するというストーリーだという。
  この様な影響力の強い映画に、中国は、ありあまる「
 あぶく銭」を投入し、この様な方法で、日本の貶(おと
 し)め行為を相変わらずしている。
  (参考)猿の惑星(さるのわくせい)は、1968年のア
     メリカ合衆国の映画。
      ピエール・ブールによるSF小説『猿の惑星』
     を原作とする『猿の惑星』シリーズ全5作の第1
     作。
.
2017年1月、NHK横浜放送局営業部に所属していた40代の
 男性職員が、受信料数十万円を着服していた疑いがある
 と発表した。
  職員は、NHKが調査を進めていた2016年10月中旬に
 死亡したという。
  NHKによると、職員は、2015年~2016年、受信契約
 に関する架空の伝票を複数回にわたって作成。
  受信料を先払いしている受信契約者らの個人情報を悪
 用して、契約を解除したように装うなどして、払戻金を
 着服していたとみられる。
  NHK広報部は、個人情報を悪用された契約者への影
 響は「ない」とした。
  NHKは、今後も調査を続け、被害額を確定させた上
 で、遺族らに弁済を求める方針。
  「誠に遺憾であり、再発防止に努める」としたが・・
.
2017年12年20日、中国の「シャープパワー」に対抗せよ。
  日本経済新聞が標記の表題の記事を書いた。
  (これは、イギリスの雑誌「エコノミスト」12月14日
 号の記事の翻訳)
  シャープパワー:
  米ワシントンのシンクタンク「全米民主主義基金(N
 ED)」は、中国による一連の動きを「シャープパワー」
 と命名した。
  「ソフトパワー」は、その国の文化や価値観の魅力に
 よる強みを指すが・・、
  「シャープパワー」は、独裁国家が、外国に自国の方
 針をのませようと強引な手段に出たり、海外の世論を操
 作したりするためのもの・・、
  相手国の社会制度や文化伝統などを鋭利な、すなわち
 シャープな刃物で切り裂くように分断し、自国に有利な
 状態を作る戦略のこと・・、
  2010年のノーベル平和賞が、中国の人権運動の活動家
 で何度も投獄され、当時も獄中にあった劉暁波氏に贈ら
 れた。
  そして、ノルウェーのノーベル委員会が、劉氏の釈放
 を中国に求めた。
  中国は「内政干渉は許さない」とか「ノーベル平和賞
 は西側の利益の政治的な道具である」などと強硬に反発
 した。
  また、ノルウェーから輸入していた養殖サーモンの輸
 入制限などの経済制裁を実施した。
  ノルウェーは、ソルベルグ首相が、外務大臣と貿易産
 業大臣を伴って、2017年4月、中国を訪問し、習近平国家
 主席に面会し、「今後、中国の核となる問題については
 批判しない」という声明に署名した。
  ノルウェーと中国の関係は修復された。
  エコノミックパワーを利用し、自国の制度や文化を押
 し通し、相手国の制度や文化を切断したシャープパワー
 だった。
  韓国も同じ様に・・北朝鮮の弾道ミサイルの発射を早
 期に探知し、迎撃するために、2017年、アメリカが高高
 度ミサイル防衛システム(THAAD)の機器を韓国の
 ゴルフ場の敷地に搬入した。
  北朝鮮はもちろん、中国も反発した。
  韓国商品の輸入規制など報復措置を実施した。
  また、設置したゴルフ場が、ロッテ商事の土地であっ
 たため、中国はロッテグループを非難し、ロッテの商品
 の不買運動も行なった。
  そして、韓国の輸出の26%が中国向けだったため、大
 変な打撃を受けた。
  そして、さらに、韓国への中国団体観光旅行が禁止さ
 れたため、2017年11月末までの中国人観光客が、前年比
 で42%も減少した。
  このような背景から、2017年12月、国賓として中国を
 訪問した韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領に対し、
 中国高官との食事は昼食会2回のみで冷遇した。
  また、文大統領は、北京大学で、「中国の夢が全人類
 と共に見る夢になることを期待する」というゴマすりの
 講演を行った。
  中国のエコノミックパワーを駆使して、自国の主張を
 押し付けた結果だった。
.
2018年、今、中国は、100万人のウイグル民族の方々を幽閉
 している・・
  アメリカ議会は、これを問題にする方向。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)622E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年3月~1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1895年3月16日、参議総長の小松宮彰仁親王を征清大総督に
 任命した。
.
1895年3月16日、孫文らが興中会を組織し、清朝打倒運動を
 開始した、そして、広東攻撃を計画した。
  その後、広州で蜂起を計画したが失敗し、孫文は、日
 本に亡命した。
  興中会は、孫文が中心となって、ハワイの華僑らと、
 1894年に結成した革命的秘密政治結社だった。
  宣言で、清朝打倒、中華の回復、共和政体樹立(合衆
 政府の創立)を掲げた。
  1895年には、香港に本部を移し、拡大改組し、広東で
 武装蜂起を試みたが、計画が密告され失敗に終わった。
.
1895年3月20日、下関の春帆楼で日清講和会議が始まった。
  日本は伊藤・陸奥の両全権で、中国・清は李鴻章で、
 第1回会談が開かれた。
  前回は、清国が、講和のために交渉するには国書では
 なく、全権委任状が不可欠であることを理解していなか
 った・・そのため会議が成立しなかった。
  講和の会談前には、本国の元首、または、政府が授け
 るこの証書があって、その身分が代表であり権限がある
 ことを証明することと、それを確認することは必然なこ
 とであった。
  後日、この不備を、清国の全権講和使節だった二人は
 認めている。
  この不備は、アメリカ駐清公使に要請して書いた「西
 洋方式による国書の原稿を下書き委託した」ところにあ
 った。
  そして、特別な権限を授ける証明も欠如していた。
.
1895年3月23日、澎湖島の上陸
  台湾の西方約50kmにある澎湖島に、日本陸軍が上陸し
 た。
  大本営は、1月中から澎湖島への軍隊派遣の準備を進め、
 海軍の連合艦隊と共に、2月1日に、そのための混成枝隊
 (支隊)が編制された。
  混成枝隊の主力部隊は、3月8日に、広島の宇品港を出
 発し・・、
  翌3月9日に、下関で残りの部隊と合流し、佐世保港で
 海軍連合艦隊司令長官・伊東祐亨海軍中将の指揮下に入
 り、艦隊と共に台湾方面に向った。
  3月20日、澎湖島の沖合に到達し、上陸地点を島の東南
 部に決定し、
  3月23日、連合艦隊の沿岸砲台への攻撃と、陸軍部隊の
 上陸作戦を開始した。
  そして、澎湖島の中心地の馬公方面に向かう・・これ
 に対し、清国守備隊も迎撃し、激しい戦闘となる。
  3月24日、艦隊による援護の砲撃を受けながら、馬公攻
 撃を開始。
  深夜、清国軍は降伏を申し出て馬公が陥落した。
.
1895年3月24日、清国の全権大使の李鴻章が狙撃された。
  3月24日午後3時、李鴻章と日本の内閣総理大臣・伊藤
 博文、外務大臣・陸奥宗光が3回目の会談を行った。
  そして、会談を終えた李鴻章が、旅館への帰る途中、
 日本の暴徒(自由党員の小山豊太郎)に狙撃された。
  講和交渉に訪れた使節団の代表が銃撃されるという不
 祥事、国際的非難が日本に集まった。
  その後の講和交渉でも日本側は譲歩を余儀なくされた。
  幸いなことに、李鴻章の怪我けがは命にかかわるもの
 でなく、引接寺内に留まったまま治療を続けた結果、傷
 は快方に向かったため、講和交渉が決裂するといった最
 悪の事態は回避された。
  下関市民から李鴻章へのお見舞いとして、大きなガラ
 ス水槽に海水を満たし、魚や蛸(たこ)を入れて引接寺
 の病室に搬入したという話が伝わっている。
  この裏道が今も残る「李鴻章道」で・・、
  交渉は順調に進み、1895年4月17日、下関条約が調印さ
 れた。
  李鴻章狙撃事件(氷川清話)
.
1895年3月28日、鉄道局判任以下宿直及徹夜食料支給方を制
 定(公達第133号)
.
1895年3月30日、日清休戦条約が調印された。
  3月24日の第3回会談の帰途、李鴻章が狙撃され負傷す
 る事件が起ったため、日本側は休戦に応じ・・
  3月30日、休戦条約が締結された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:38°線が無くなる・・対岸に北朝鮮の核が来る・・
   そして、日本を裏切るNHK・・中国に利する放送をするNHK・・
.
紀元前2万数千年、ネアンデルタール人が絶滅した。
  そして、我々=現生人類(ホモ・サピエンス)の時代
 となる。
  ホモ・サピエンスは、現生人類が属する種の学名で・・
  ヒト属で現存する唯一の種(ネアンデルタール人など
 すでに絶滅した多くの旧人類も含む)
  そして、このホモ・サピエンスは絶滅危惧種なのか?
  核保有国が次々と増えて、今後の生存可能性は低下し
 ている。
  この我々=ホモ・サピエンスの祖先が、生まれた地=
 アフリカの地を出て、世界へ広く分布し、生息するよう
 になったが・・、
  この我々のホモ・サピエンス(現生人類)の前に、ア
 フリカを出た人類は・・多く居た。
  その我々のホモ・サピエンスの直前にアフリカを出た
 人類が、「ネアンデルタール人」・・
  最近、科学の進歩で、このネアンデルタール人の遺伝
 子が、我々のホモ・サピエンスの血の中にあることが分
 かった。
  絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が・・
  現世に生きるのは「我々=ホモサピエンス(現生人類)
 だけか」と思われていたが、ネアンデルタール人と我々
 =ホモ・サピエンスは交雑し、結婚していた。
  「ネアンデルタール人は、絶滅していなかった」ので
 ある。
  我々の血の中に、その血は受け継がれ・・生存してい
 たのである。
  近代科学、遺伝子研究の発達が、そのことを知らしめ
 た。
  (参考)ネアンデルタール人は、約40万年前に出現し、
     2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種
     と説明されている。
      新しい学説では、4万年前に絶滅したという説
     もある・・が・・
      遺骨(化石)から得られたミトコンドリアD
     NAの解析結果に基づき・・、
      ネアンデルタール人は、我々の直系先祖では
     なく別系統の人類であるとする見方が有力であ
     り・・
      両者の遺伝子の差異は、他の動物種ならば別
     種と認定されるレベルであり・・、
      ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは混
     血できなかったとする考え方が有力であった・・
      しかし・・、
      2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・
     サピエンスのゲノムに、ネアンデルタール人の
     遺伝子が数%混入しているとの説が発表された。
     ・
     ・
     ・
354年11月13日、アウグスティヌスが生まれた(~430年8月
 28日、76歳)
  アウグスティヌスは、キリスト教が「教父」と呼ぶ、
  また、「聖」を付けて「聖アウグスティヌス」と尊称
 で呼ぶ・・その様な人である・・が・・
  アウグスティヌスには、次の言葉がある・・、
  「人間の性欲こそ、悪を制して善を選べない良い例で
 はないか・・」。
  放蕩生活をしていたアウグスティヌスだからこの様な
 ことを言うという言葉となっている・・
  この言葉は、キリスト教の根本教義である「アダムが、
 禁断のリンゴを食べて以来、人間に原罪が生じ、人間は
 罪を犯す様に生まれた」というキリスト教の根本教義を
 説明する時に、彼の口から出た・・のだが・・
  論拠の乏しいこの様なキリスト教の言葉は・・アダム
 のリンゴの「あり得ない話=神話」を信徒に正しい様に
 思わせ、洗脳し、マインド・コントロールし、原罪があ
 るからと、物事を悪い方向にばかり思い至らせている・・
 積極的・前向きには考えられないように仕向けている。
  アウグスティヌスでさえも、「性欲・・悪を制して善
 を行なう事は出来ない」と言う始末となる。
  この「聖」が付くほどのアウグスティヌスも、若い時
 の自堕落な経験が交って・・さらに、キリスト教の洗脳
 された頭から出てしまった言葉だった。
  若い時に、何人もの女性を泣かせ、たぶらかし、手籠
 め(てごめ)にする様な生活だった。
  男性と女性が、お互いに思いやり、尊敬し、尊敬され・・
  尊敬し合って愛し結婚に至り、幸せな家庭を築いて行
 くという前向きなプロセスを想像することのできない頭
 とされている。
  キリスト教の性悪説にマインド・コントロールされ・・
  アウグスティヌスでさえ、こような言葉となる・・考
 えとなる・・
  キリスト教の性悪説には感化されない様に・・
   ・
   ・
1837年、大英帝国の絶頂期(1837年~1901年)を代表する
 首相ベンジャミン・ディズレーリは・・、
  「世界は、舞台裏を知らない人には想像もつかない人々
 によって支配されている」と述べている。
  その人たちのことを、キグリー教授は、「国際銀行家」
 と特定している。
  (参考)キグリー教授:キャロル・キグリー(1910年
     11月9日~1977年1月3日)は、アメリカの歴史学
     者、文明進化の研究者。
      ジョージタウン大学の教授を務めた。
      多数の本を出版し、秘密結社なども研究した。
  その銀行と言っても、庶民が貯蓄や商業活動用の口座
 を開く民間銀行とは違う銀行で・・、
  イギリスでは「マーチャントバンカー」、
  フランスでは「プライベートバンカー」、
  アメリカでは「投資銀行家」と呼ばれ、企業に資金を
 提供する。
  産業革命発祥の地であるイギリス金融界を牛耳るのは・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社、
  ベアリング・ブラザーズ、
  J・ヘンリー・シュローダー、
  モルガン・グレンフェル、
  ハンブロス、
  ラザード・ブラザーズなど・・17社。
  これらの企業が本社を置くのは、ロンドンの中心部の
 約2キロメートル四方ほどの自治体を形成するシティ・オ
 ブ・ロンドン・・、
  ここに、ロンドン証券取引所、イングランド銀行(理
 事の多くは17のマーチャントバンカー)、ロイズ本社な
 どがある・・
  そして・・
  19世紀から現在まで続く金融センターとして、ニュー
 ヨークのウォール街とともに世界経済を牛耳り、手玉に
 取っている。
  そして、日々、変化する金(ゴールド)価格を決める
 のが、5人のマーチャントバンカー達・・、
  1919年9月に設立されたThe London Gold Market Fixing
 Ltdでの値段がゴールドの世界基準価格となる・・
  ここの値段は・・、
  サミュエル・モンタギュー商会、
  シャープス・ピクスレイ、
  ジョンソン・マセソン、
  モカッタ・ゴールドシュミットが、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社に集まり・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社が議長になり・・、
  午前10時半と午後3時の2回、値決めする。
  (参考)金の固定:ロンドンの金の固定は、専用の会
     議回線を通じて行われる金価格の設定・・、
      これは、以前はLondon Gold Market Fixing
      LtdのメンバーによってNathan Mayer Rothschild
     &Sonsの前で開催され・・
      ベンチマークは、 ロンドンの地金市場の各営
     業日の2回決定される。
      これは、ロンドン地金市場のメンバー間の契
     約を解決するための価格を固定するように設計
     されている。
  これら5人の銀行家は、17のロンドンのマーチャントバ
 ンカーのメンバー・・、
  N・M・ロスチャイルド&サンズ社は、イギリス・ロ
 スチャイルド本家で・・、
  ほかの4社は、ロスチャイルドの遠戚。
  長い間、世界のゴールド価格を左右して来たN・M・
 ロスチャイルド&サンズ社が、2004年に、金価格設定業
 務から撤退した。
  この時、他のメンバーも交代し、現在、ゴールド価格
 を決定しているのは・・
  スコシア・モカッタ(レバスコシア銀行の小会社)、
  バークレイズ・キャピタル、
  香港上海銀行USAロンドン支店、
  ソシエテ・ジェネラル(フランスの大手金融機関、ロ
 スチャイルド系)、
  ドイツ銀行の5社。
  議長は、1年ごとの交代制になり、1か所に集まらず、
 電話を使って・・アメリカ・ドル、イギリス・ポンド、
 ユーロの三つの通貨で値決めされる。
  ゴールドの価格は・・、
  「市場の需要と供給で決定されるのではない」。
  (参照)https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1060689-84/
.
1924年頃、毛沢東は、プロパガンダ(嘘宣伝)に洗脳され
 ていた。
  毛沢東は、若い時(31歳、1924年頃)、中国・国民党
 に入ってプロパガンダの宣伝戦をやらされて居た。
  この時、毛沢東は、共産党から追放処分を受けていた。
  この時、孫文の後継者と言われた汪精衛に目を付けら
 れ、中国・国民党の中央宣伝部長代理の地位を与えられ
 た。
  そして、国民党の雑誌である「政治週報」の編集長の
 役まで昇進した。
  毛沢東が、日本に対して「あること、無いこと、嘘ば
 かりの嘘宣伝をやる」ことになるが、その様な性癖は、
 この時、身につけた。
  日本は、これに、大分(だいぶ)、してやられ、苦し
 められた。
  南京事件を、様々な欧米のジャーナリストを使って
 「さも、あったように作り上げた」
  その様な嘘作りの国民党宣伝部に、毛沢東は、鍛(き
 た)えられた。
  (参考)汪兆銘(汪精衛):おうちょうめい、1883年
     5月4日~1944年11月10日、中華民国の政治家・
     革命家。
     (中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的)
.
1950年代前半、毛沢東は、アメリカによる日本への原子爆
 弾投下に魅了された。
  そして、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  毛沢東は、1950年代前半を通じて、すべての会議にお
 いて、「中国による原爆所有」について言及していた。
  しかし、毛沢東は、外交的配慮から、それを誤魔化す
 ため・・対外的には原爆への渇望を隠蔽し・・、
 「原爆など不要、人民に頼るべき」と発言していた。
  1946年には、「張り子の虎」発言を行っている。
   スターリンは、中国への技術供与を了承しなかった。
  1949年8月29日、ソ連最初の核実験が成功した。
   この成功により、アメリカによる「核兵器独占」は
   終わった。
  1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる(~1953年7月27日)
  1953年2月2日、アメリカ合衆国大統領アイゼンハワー
   が、一般教書演説において、中国への原爆投下の可
   能性について言及し、中国に対して核使用による脅
   迫を行った。
    そのため、毛沢東には、スターリンに対して、原
   子爆弾の技術提供を要求する口実ができた。
    毛沢東は、中国の核物理学者の銭三強を、モスク
   ワへ派遣するが、ソ連はこれを拒絶した。
    しかし、銭三強は、以降も、ソ連の核研究施設に
   入れてもらうよう交渉を三ヶ月も続けた。
    1950年の中ソ友好同盟相互援助条約には核兵器に
   関する協定は含まれていなかった。
    スターリンは、中国に核兵器を持たせたくなかっ
   た。
  1953年3月5日、スターリンが心臓発作で死去する。
    スターリンの死後、ソ連指導部は、西側諸国との
   緊張緩和を目指し、中国へも停戦に協力するよう説
   得を始めた。
    しかし、毛沢東は、原爆を渇望するあまり、朝鮮
   戦争の継続に固執した。
    アメリカ軍が、細菌兵器を使用したというプロパ
   ガンダを巡って、ソ連政府は、中国政府を威嚇して、
   毛沢東は、1953年5月に、ようやく朝鮮戦争の停戦に
   応じた。
    毛沢東が、朝鮮戦争の終結に同意したため、ソ連
   新クレムリンは、中国に大型工業計画を売却する。
  1953年6月15日、これを受けて、この日、毛沢東は、
   軍事大国を目指した第一次五ヵ年計画を提起した。
  1954年7月、中国は、台湾侵攻を開始した。
   これは、再びアメリカとの対立を作ることで、ソ連
   に原爆製造技術を要請するためにしたことであった。
  1954年9月3日、金門島へ砲撃を開始した。
  1954年10月1日、ソ連代表ニキータ・フルシチョフが、
   訪中した(スターリン時代には考えられないこと)
    フルシチョフは、15企業の売却と5億2000万ルー
   ブルの借款を約束した。
    原爆については、毛沢東が強く交渉し、ソ連側は、
   中国の原子炉建設援助を不承不承承諾した。
  毛沢東は、核技術をソ連から買うために、「なけなし
 の資金」を投げ出した。
  その為、中国農民たちが飢餓状態になるという「飢餓
 輸出」が冷酷に行なわれた。
  中国を崇拝する日本の中国研究者の加々美光行でさえ・・、
  「毛沢東の大躍進や文化大革命は、毛沢東の決定的な
 誤りによる大失政である事は誰も疑わない」と言う如く
 であった。
  多くの中国国民の方々の人間性が破壊されるばかりの
 施策が行なわれた。
  毛沢東は、都合が悪ければ「中国国民党に行くような
 人間」で、また、粛清もするような人物である。
  この毛沢東の中国共産党は、スパイを多用した。
  その酷い例が・・、
  中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイは、出
 世をし、中国共産党軍との戦いで、わざと敗けてばかり
 していた。
  (参考)胡宗南:こそうなん、中華民国の軍人、国民
     政府に属した・・それまで軍功を上げていたが・・
      1930年11月、第1軍第1師師長に事実上任命さ
     れ・・その後、長征中の中国共産党(紅軍)
     討伐のため、胡宗南は陝西省南部でこれを
     迎撃したが、大損害を被って突破を許してしま
     う。
  胡宗南が敗北を続けたのは、中国共産党の周恩来によ
 って中国国民党に送り込まれた中国共産党のスパイとし
 て胡宗南の機密秘書となった熊が、何年にもわたって、
 胡宗南の作戦をすべて中国共産党側へ知らせていたから
 だった。
.
2000年、「GRU帝国第一巻」(コルパキジ、プロホロフ
 共著)が、モスクワで出版された。
  GRUは、ソ連軍諜報本部情報総局のことで、張作霖
 爆殺はソ連が実行したもので、日本がやったように見せ
 かけた・・と書かれている。
  その記述・・、
  「『グリーシカ』機関の実行したいくつかの工作の中
 でも、一番世間を騒がせたのは、1928年6月の張作霖爆殺
 だった。
  張作霖は、北京政権を牛耳り、露骨な反ソ連姿勢をと
 っていた。
  特別列車が爆破された時、張作霖の乗っていた車両の
 隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(ティンゴンの部下)
 が乗車しており、事件現場の写真を撮った。
  謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったよ
 うに見せかけた」。
  張作霖が、ソ連にかなり恨(うら)まれていたのは事
 実で・・、
  張作霖は、1927年4月、北京のソ連大使館に踏み込み、
 中国国民党とソ連が組んでいることを示す証拠を押収し
 たうえ、中国語に翻訳して大部の冊子として公表してば
 らしていた。
  また、1920年代、1930年代のソ連は、暗殺をするのが
 日常茶飯事だった。
  ソ連諜報部には、その様なことをする組織がたくさん
 あった。
  また、この様なやり方が、まったく一致している。
  この関連情報には、まだ未公開部分(公表不許可の
 部分)がある。
  ソ連の諜報やプロパガンダは盛んに行なわれていた。
  日本は、「世界制覇の野望がある」と偽装された事件
 さえある。
  その様なことが書かれている「田中上奏文」があると
 でっち上げられた。
  この「田中上奏文」も、ソ連のKGBの前身のOGP
 U(国家合同警察本部)が偽造した文書だと判明してい
 る。
  この「田中上奏文は、偽造文書とはっきりした」が、
 残念なことに、東京裁判の時は、前記の様な事が、まだ、
 不明で・・、
  この「田中上奏文」は重要視されてしまった。
  因みに、「田中上奏文」に、どんなことが書かれてい
 たかというと・・、
  日本が共同謀議して、「支那を征服せんと欲せば、ま
 ず満州・蒙古を征せざるべからず。
  世界を征服せんと欲せば、必ずまず支那を征服せざる
 べからず」・・と書かれていて、
  この文書を天皇陛下へ上奏されたとでっち上げられた。
.
2018年1月10日、38度線が無くなる・・韓国が北朝鮮に飲み
 込まれる可能性が大きい・・
  https://www.youtube.com/watch?v=B5vMbIJewV4
  韓国が無くなってしまう!
  藤井厳喜氏が語る。
  (参考)藤井 厳喜:ふじい げんき、1952年8月5日~
     日本の国際問題アナリスト、評論家、シンクタ
     ンク経営者。
  韓国が無くなる可能性が大きくなった。
  南北の朝鮮統一は、韓国が無くなる形となる。
  文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領が、それを望ん
 でいる・・
  表面は、朝鮮民族統一と美しく言っているが・・
  北朝鮮に「取り込まれてよい」としている・・
  一国二制度の方式がとられる・・
  高麗民主連邦共和国(金日成が提唱した南北朝鮮の統
 一方法)による・・
  一民族・一国家・二制度・二政府の下で連邦制による
 統一・・
  軍事は統一・・
  トップは、とりあえず北と南に居るが、アメリカ軍を
 韓国から追い出す事を目的とする・・
  統一されて北朝鮮の脅威がなくなれば、アメリカ軍の
 居る理由が無いというのが、その理屈で論理で行われる・・
  過去に、アメリカ軍が、朝鮮戦争で血を流して韓国を
 守ったという貢献・意義の話は・・雲散霧消している・・
  雲散霧消(雲や霧が消えてしまうように、物事が一度
 に消えてなくなる事・・
  朴槿恵(パク・クネ)は、北京に尻尾を振って行き、
 天安門の上から閲兵までするという親中国のそぶり・・
  これに、アメリカは、大変びっくりした・・
  ここまでするか?・・の状態・・
  韓国は、日本の共産圏との緩衝地帯という状況ではな
 くなった・・
  そして、アメリカ軍が、韓国から出るとなると・・
  韓国にある核兵器から何までも、持って出るアメリカ
 軍となる・・韓国から引き上げるアメリカ軍となる・・
  THAADミサイル(弾道弾迎撃ミサイル・システム)
 も持って帰る・・
  設置に大反対していた中国は・・にっこり・・
  こうなったら朝鮮戦争で亡くなったアメリカ兵の4万人
 の流した血=韓国を守った血は何だったのかになる・・
  大侮辱状態となる・・
  しかし、だらだら続けるわけにも行かない・・
  韓国は、アメリカの植民地と言って良い状況だったが、
 その韓国にナショナリズムの核(心棒)が無くなってい
 る・・
  核(心棒)が無くなった国=韓国を助ける事は出来な
 い・・
  経済援助・軍事援助も、結局、無駄になる・・
  南ベトナムも、それ(国家の核・心棒)が無かったか
 ら・・滅びた・・
  韓国も、今、国軍が腐敗している・・
  軍備も不備が多い・・
  手榴弾も正常に働かない・・
  自走砲も機能しない・・
  弾が逆に発射する状況・・
  危険な所に行く場合、親の許可を得ることがなされる
 事が慣習化しているという状態・・
  携帯で許可を得る兵に、上官がその携帯電話に出て説
 明するという状態・・
  軍ではない状態・・
  マティス国防長官も、この様な状況を見ている・・
  かつては、立派な軍人も居た韓国・・
  その様な軍人は、パージ(追放、公職から締め出すこ
 と)され、居なくなった・・
  残ったのは、利権あさりをする様な輩の状態・・
  売春斡旋や保険詐欺をする状態・・
  国民の信頼も失われている・・
  国の心棒の軍が、このありさまの韓国・・
  アメリカは、軍人が社会で尊敬されている・・
  韓国の愛国心が失われている今日(こんにち)になっ
 てしまった・・
  今、韓国の核(心棒)が無くなっている・・
  北朝鮮は悪いが、金というアイデンティティ(帰属意
 識)はある・・
  その点、何も無い韓国は、止めた元大統領を打ちのめ
 す様な国になってしまった・・
  韓国は、漂流状態・・
  北朝鮮は、核兵器は放棄しない、そのポーズはしてい
 るが・・
  文在寅韓国大統領は、アメリカとはまったく何も合わ
 ないという大統領・・
  選挙の時から親北朝鮮を表明していた・・
  だんだん親北朝鮮の方向へ進んで来た韓国・・
  財閥が叩きのめされている・・
  庶民に、財閥に対する怨嗟の声が満ちている・・
  サムスン財閥解体が取りざたされている・・
  文在寅韓国大統領も、財閥に否定的・・
  庶民の声に乗って動いている状態・・
  財閥が無くなったら韓国経済は終わる・・
  韓国の求心力も無くなる・・
  その財閥も、ほとんどが外国資本となっている・・
  サムスンも、ほとんどが外国人株主・・
  サムスンが儲けても、韓国の儲けにならない状態・・
  韓国の恨みの文化が、爆発する・・
  韓国GDPの2割を稼いで来た財閥がこの状態・・
  これが無くなったら後に何が残るの?という状態・・
  この最悪事態が起きれば、外国資本が総引き上げとな
 る・・
  韓国経済が、大変な状態となる・・
  今、輸出先が、中国で支えられている・・
  自由貿易を謳う中国は嘘・・
  意図的貿易をしている中国・・
  意図:目論見や目的や考えをもって「わざとするさま」・・
  WTO違反の中国・・
  中国に頼る韓国・・
  だから、言うべきことも言えない韓国・・
  昔の中国の冊封体制が思い出される状態・・
  サムスンの投資も空回り・・
  日本憎しをやることだけで韓国がまとまるという国状・・
  昔のまとまる「反共産の手」は使えなくなっている・・
  残されたのは反日だけ・・
  反共産をしなければ、北の核兵器の脅威もなくなる・・
  北朝鮮がやって来た「対南工作」が功を奏し始めてい
 る・・
  マスコミ、教育界(特に大学)、労働組合が、じわー
 っと親中国・親北朝鮮になった(日本もか?)・・
  韓国の一番の保守系新聞の朝鮮日報でさえ、親中国・
 親北朝鮮・・
  「親アメリカは、ほとんど無い」という状態・・
  大量の工作員がやって来た事が、この様な状況を作っ
 た・・
  日本のマスコミもこの状態・・
  日本以上が韓国・・
  言論の自由だと言ったって親中国・親北朝鮮になるた
 めの発言・・
  国防上で、アメリカや日本と連携する意思も無くなっ
 ている・・
  1976年、カーター大統領も引き上げる発言をしている・・
  韓国は、同盟国の名に値するか?・・
  信頼できるか?・・
  同盟の価値があるのか?・・
  一国二制度の道へ進むだろう・・
  これは、現政権の文在寅韓国大統領の公約・・
  国民へ、一国二制度でやると公約した・・
  38度線は、対馬と朝鮮半島の間に来る・・
  北朝鮮のテポドンやノドン・ミサイルは、この対馬の
 対岸まで来る・・
  竹島にも配備されるのか?・・
  日本の防衛構想は、それを前提にしなければならなく
 なっている・・
  対馬海峡の防衛強化・・
  緩衝地帯のない状態を、日本はこれから経験する・・
  北朝鮮の核兵器が、ここまで来る可能性が生じる・・
  アメリカにとっての緩衝地帯の喪失ともなっている・・
  南ベトナムと同様に進む韓国のこの先・・
  アメリカの兵士の血でタイの共産化が防げた・・
  シンガポールの先まで共産化しただろう・・
  ASEAN(東南アジア諸国連合)を守った血だった・・
  日本の赤化も守った・・
  今、ひしひしとその波が押し寄せる日本だが・・
  民主党~民進党の政権が続いたら(実際は、3年で終わ
 ったが)、とうなっていたか?、赤化していたのでは?・・
  そして、日米安保は解消されていただろう・・
.
2018年12月、起きてもいない南京事件を、「あった、あっ
 た」と言いたい中国政府
  2018年12月のニュースを見ていたら、中国政府が、中
 国国民に、「その日に車のクラクションを鳴らせ」とか、
 「黙とうせよ」とかの命令「法律を作って、無理にやら
 せようとする中国政府となっている」。
  中国国民の声も放送されて居たが・・「法律を作って
 無理に強制するのは意味が無い」と言っている映像が放
 送されていた。
  中国政府は、南京事件が「あった、あった」とは言う
 が・・中国政府は、「このようにして南京事件が起こっ
 た」とは言わない。
  起きてないことが、「言えるわけがない」。
  無理に言おうとすると・・
  「自国軍の中国軍が、日本軍を恐れて逃げて来る中国
 軍の自国軍を、逃げないようにと、日本軍と戦わせよう
 と、中国軍が、自国軍を銃撃して殺す」という話ばかり
 が出て来る。
  だから、中国政府は、「あった、あった」とだけを言
 うばかりとなる。
  中国は、スパイをあちこちに行かせるが・・、
  こんなスパイから「南京事件がでっち上げられて行く」。
  中国国民政府の宣伝部が、中国共産党に繰られていた。
  南京戦の時、邵力子(しょうりきし)は、中国共産党
 勢力から中国国民政府の蒋介石政権へ送り込まれ、中央
 宣伝部の部長になる。
  そして、プロパガンダ工作を盛んにする・・南京事件
 もでっち上げる。
  (参考)邵力子:しょうりきし、1881年~1967年、中
     国の政治家。
      上海の震旦(しんたん)書院を卒業。
      1908年、中国革命同盟会に入り,
      1910年、『民主報』創刊。
      1916年、上海の『民国日報』の編集長兼発行
       人となり、同時に大学で教えた。
      1919年、国民党加入。
       中国共産党創立時の党員であったが脱党し、
       国民革命期には国民革命軍総司令部秘書長
        (1927~31) 、黄埔軍官学校秘書長となり、
       蒋介石の信頼が厚かった。
      1928年、国民党中央政治会議委員
      1932年、甘粛省政府主席、
      1933年~1937年、陝西省政府主席に選ばれ、
       抗日戦争中は国民党宣伝部長、
      1940年、ソ連駐在大使。
       国民参政会秘書長を歴任。
      1948年、国民党革命委員会に参加して国共和
       平を主張
      1949年、人民政治協商会議に出席。
       国民党革命委員会常務委員、
      1954年、全国人民代表大会常務委員会委員(
       広東省代表)、人民政治協商会議全国委員
       会常務委員などの要職にあった。
.
2018年12月12日、まったくおかしいNHKの番組
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教が「日本を
 貶(おとし)める」ように、NHKも日本を貶める行為
 を年がら年中している。
  キリスト教は、「日本の国歌・君が代の斉唱に反対」
 したり、「日本の国旗の日の丸の掲揚に反対」したりし
 ているが・・、
  NHKも、あらゆるNHKの放送する番組で、日本を
 貶める行為や工作をしている。
  その一例が、「クローズアップ現代」である。
  2018年12月12日(22:00~22:25)のこの「クローズ
 アップ現代(辺野古移設)」について申し上げれば、
  この番組の80%の時間が「反対論の主張」に割(さ)
 かれているという大変不公正な異常状態。
  このNHKの番組のほとんどの放送の時間が、反対に
 ついて放送しているという状況・・
  「反対する市民の発言」が次々と続くという状況で、
 その反対論がほとんどと言って良い番組の放送状態・・、
 市民の賛成論は「まったくない」という不公正な放送番
 組の作り方であった。
  ただ、政府が説明している状態だけという「偏頗なN
 HKの番組の作り方」で、「賛成論がまったく無い」「
 賛成論を欠如した」という番組だった。
  普天間の危険性を無くすために、沖縄県の方々の基地
 負担を無くすために、この様な行動をしているという視
 点の放送が「ほとんど聞こえて来ない」というNHKの
 番組の作り方であった・・
  市民の賛成論を「削った」「まったく無くした」とい
 う番組だった。
  NHKの2人の解説員までが反対論で、また、NHKア
 ナウンサーまでが反対論で・・放送できる状態が成立し
 ない不公正な番組だった。
  日本国民を片寄った偏頗な方向に洗脳しようとする番
 組の作り方であった。
  完全に「放送法違反の番組」だった。
  日本を裏切るNHK・・結局、中国に利する放送だっ
 た・・
  (参考)偏頗:へんぱ、片寄って不公平なこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:*(増補版)621E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月23日、全国の官設鉄道の線路名称を統一した。
  創業以来はじめて東海道線・信越線・奥羽線・北陸線
 の線路名称を定めた(鉄第366号、28年度から施行)
.
1895年2月24日、キューバ革命
  民衆が、ハバナで蜂起した。
  アメリカ・スペイン戦争・・スペイン領キューバの独
 立戦争に、1898年、アメリカ合衆国が介入した。
  そして、スペインを破って、スペインの植民地を奪っ
 た。
  アメリカの「帝国主義戦争」だった。
  1895年2月、キューバでホセ・マルティ指導の第二
次独立戦争が始まった。
  革命軍は、島の東半分を解放した。
  1897年秋には、革命政府を樹立した。
  スペインは、大軍を派遣し、残虐な鎮圧作戦を行なっ
 た。
  長い間つづいた戦いのため、島は荒廃した。
  一方・・、
  同じくスペイン領のフィリピンでも、独立の機運が高
 まっていた・・
  しかし、『民族自決の原則』は何のその・・アメリカ
 とスペインの帝国主義の乱暴行為が、ここでも始まった。
  1896年8月、独立革命が勃発(ぼっぱつ)した。
   その後、一時は挫折(ざせつ)したものの・・
  1898年に入って、また、再燃した。
  アメリカは、キューバに約5000万ドルの投資と、年
 間1億ドルを超える貿易の利益を持っていた・・
  また、ラテンアメリカ市場と、中米の地峡運河地域へ
 のルートの要所を押さえるのに好適な『カリブ海の要衝』
 として、キューバへの『戦略的関心』をアメリカは抱い
 ていた。
  キューバの動乱は、このアメリカの利益を脅(おびや)
 かした。
  アメリカ政府のマッキンリー大統領は、革命軍を承認
 しなかった・・そして・・利益確保のため、武力行使・・
  1898年初めに、アメリカの一方的介入だった・・武力
   行使行動が始まった・・
  1898年2月、デローメ事件と、メイン号爆沈事件が起
   きた・・うさん臭い動きだった。
  これらの事を利用した「イエロー新聞」の扇動によっ
 てアメリカ世論は激高させられた・・そして・・
  アメリカ経済界の主流が・・戦争支持への転換などが
 あり・・政府も同意を固めさせ・・政府はこの様な世論
 に動かされた・・
  (この様なイエロー新聞などの動きには、日本も被害
 を受けている・・このイエロー新聞に、南京事件がでっ
 ち上げられて、日本も濡れ衣を着せられた・・起きても
 居ない南京事件が「あったとされた」)
  こうして段取りを整えられた状況の中で・・
  1898年4月11日、アメリカのマッキンリー大統領は、
   議会に開戦教書を送った。
   開戦の大義名分が整ったとした。
   これは、キューバ共和国を支援するためではなく・・
   この様な美名のものではなく・・『アメリカ自身の
  利益』を守るために干渉する意図が明らかにされてい
  た・・本音が現れていた。
  議会での激論のすえ、平和回復後、キューバを独立さ
 せるという「自分を納得させる」条件付きで戦争介入が
 承認された。
  1898年4月25日、アメリカが正式に宣戦布告した。
   最初の戦闘は、フィリピン戦線でのアメリカのデュ
   ーイ提督麾下(きか)のアジア艦隊によるマニラ湾急
   襲と、スペイン艦隊撃破であった(1898年5月1日)。
  (参考)ジョージ・デューイ (1837年12月26日~
1917年1月16日) 、アメリカ海軍の軍人。
      この米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となり、
     アメリカ海軍史上でただ一人、海軍大元帥(海
     軍主席提督)の地位を与えられている。
  デューイは、その後、フィリピン人の独立闘志アギナ
 ルドのフィリピン革命軍を『利用して』マニラを包囲し
 た。
  そして、この後に到着したアメリカ地上軍が、1898
 年8月13日、マニラを侵略した。
  しかし、フィリピンの独立軍であるアギナルド軍は、
 可哀想に『利用されただけだった』。
  アギナルド軍は、、マニラから排除され、マロロスへ
 退去させられた。
  一方、カリブ海戦線では、キューバのサンティアゴ攻
 略が主目標とされた・・
  1898年6月末、アメリカ陸軍1万6000が、キュー
バ革命軍を援助するという『名目』のもとに上陸した。
  また、アメリカ海軍も、サンティアゴ港脱出を図った
 スペイン艦隊を撃破した。
  最後に、アメリカ軍と革命軍は、サンティアゴを攻撃
 し・・、
  1898年7月16日、陥落させた・・が・・、
  革命軍は、降伏条約の調印参加を拒否された・・
  ここでも、『革命軍は利用されただけだった』。
  こうして戦闘は4か月で終わった。
  1898年8月12日、休戦協定がなり・・舞台はパリ
講和会議へ移った。
  フィリピンとキューバの代表を『ここでも排除した』・・、
  1898年12月10日、アメリカとスペインだけの間で
結ばれた講和条約は、スペインがキューバを放棄し、フ
ィリピン、グアム、プエルト・リコをアメリカに割譲し、
アメリカはスペインに2000万ドル支払うことを約した。
  主役に居ない『演技となった』・・
  このアメリカ・スペインの勝手な舞台劇の末に、アメ
 リカは、戦争中に併合したハワイをも含めて『一大植民
 地帝国』を実現した。
  アメリカは、この様にして世界強国としての帝国主義
 の道に乗り出した。
  しかし、キューバとフィリピンの『本来の所有者であ
 る革命軍』は、アメリカ軍政下で押しつぶされた。
  そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
 されてしまった。
.
1895年2月26日、「私設鉄道株式会社ニ関スル件」(法
律第4号)を公布した。
  第一条:私設鉄道株式会社ハ各株式二付十分ノ一以上
   ノ払込ヲ為レタルトキハ其ノ登記ヲ受クルコトヲ得
.
1895年3月1日、京浜および京阪神区間の定期運賃を改
正した。
  学生下等定期乗車券を発売、定期乗車券購求者心得を
 制定、定期乗車券発行規約改正
.
1895年3月4日、流星雨が出現し、愛媛県に隕石が落下
した。
  重さ約71kg。
.
1895年3月6日、鉄道敷設法改正、
  北陸線に舞鶴から小浜を経て敦賀に至る鉄道追加(法律
 第11号)
  羽越線および岩越線として新発田から米沢に至る鉄道
 および新津から若松を経て白河本宮付近に至る鉄道追加
 (法律第12号)
.
1895年3月15日、平安遷都1100年紀念祭
  平安神宮創建鎮座式が行われた。
  有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんの
 う・・後に、小松宮(こまつのみや)彰仁親王(あきひ
 としんのう)と交替)を総裁にむかえて行われた。
  会長に近衛篤麿、副会長に佐野常民が就任した。
  平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立し、国務大臣も関
 与する国家的な行事となった。
  平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)を模した神
 殿などが岡崎(現:左京区)の地に造営された。
  桓武天皇を奉祀する平安神宮が1895年3月に完成し
た。
  官幣大社に列せられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そして、その国々は、アメリカの保護国と植民地とに
   されてしまった。 
    そして、アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
   「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
   のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダである。
.
紀元前15万年、日本は大陸とつながっていた。
  この頃のリス氷期末期、日本は樺太ともつながり、ま
 た、朝鮮半島や中国とも繋(つな)がっていた。
.
紀元前15万年~紀元前7万年、対馬海峡ができる。
  対馬と朝鮮半島の間の対馬海峡ができた。
.
紀元前4万年、アフリカを発したホモ・サピエンスが、日
 本列島に到達した。
  この中にアイヌが居る訳はない・・
  アイヌを日本列島の先住民にしたいキリスト教勢力は、
 この中にアイヌが居たことを証明しなさい!
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4万年前〜3.5万年前と考えられていて・・
  紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、
約3万5000年前に始まり、縄文時代へと移行する
約1万5000年前までの約2万年間という長い長い
期間、続いていた。
    この長い期間の間、日本に到達したホモ・サピエ
   ンスは日本列島中を移動し、交雑し、結婚した。
  紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初
   期現代型新人の特徴に一致する。
   歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万
   年以上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理
   場跡が発見されている。
  紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
   日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
  紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在よ
   り120メートルも低下していた。
   本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続
   きで、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
    縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸
   から歩いて日本にやって来た。
  紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メー
   トル以上も低下していた。
  紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
   日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
   大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」
  紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
   中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土
   器
   また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1
   万6500年前)や・・
   太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町):日本最古とされ
   る約1万6500年前の土器が出土した集落遺跡
   愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射
   性炭素年代測定により14,500年前と測定された。
   人骨が発掘された。
.
紀元前1万年、対馬と九州との間の対馬海峡ができた。
.
紀元前3200年、縄文人は日本中くまなく居て、当然、北
 海道にも住み、その縄文遺跡の一つ・大船遺跡は・・
  遠いアフリカから、はるばる日本に人類が来たように、
 古くて、そして、長い年月をもつ縄文人時代の歴史にお
 いて、縄文人は日本中を移動していた。
  北海道の中にも、当然、その縄文人の遺跡があり・・
 その一つが、この大船遺跡で・・
  アイヌを先住民としたいキリスト教の勢力は・・、
 「古来から、アイヌは、北海道に住んで居た」としたい
 のであるが・・しかし、それは嘘で、プロパガンダであ
 る。
  大船遺跡は、太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄
 文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前
2,000年頃)の大規模な集落遺跡。
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な
 盛土遺構があり、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓
 群が確認される。
  北海道・北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道・北東北に位置し、
  縄文時代の各時期(草創期、早期、前期、中期、後期、
 晩期)における、人々の生活跡の実態を示す遺跡となって
 いる。
  (集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の
 実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺
 跡からなる考古学的遺跡群となっている。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くある。
  また、周囲のガイダンス施設や資料館では、発掘調査
 の状況や、縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺
 物が数多く展示されている。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
  9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
     ・
      ・
      ・
1877年、インドで飢饉が起き、500万人が死んだ。
  この原因は、イギリスが、インドの方々へ食料を作ら
 せなかったからだった(イギリスが儲かる綿花を作らせ
 た)
  ヨーロッパの列強諸国は、アジアの都市・沿岸地方に
 おける貿易で利潤を得るのが目的であった・・
  18世紀後半の産業革命を迎えると、原料の供給地と製
 品の市場として広範囲な植民地を直接支配する。
  土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、
 白人の資本の投下によるプランティションで行われたが、
 それはタダに近い土地で、低廉な労働力を使い、莫大な
 収益をあげた。
  マレーのゴム、インドの綿花というように・・、
 特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を植民地
 へ輸入させるという経済構造に変質したため、従来の自
 給型農業が壊滅し、決定的な変化を被った。
  その結果、水田の減少や、失業者の増加により、飢饉
 に際して、多くの犠牲者を出すようになった。
  ジャワでは、なんと人口33万の町が12万に減少した。
  インドでは、イギリスの支配の後に、明らかに飢饉が
 増加し・・
  1877年の南インドの飢饉では500万人が死亡した。
  1943年での犠牲者は、ベンガル地方だけで340万に
も達した。・・イギリスの罪悪は極悪だった・・
  また、大規模農業の急速な開発によって、大量の労働
 者を必要とした列強の宗主国は、大量の移民政策をとっ
  た。
  インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が・・1860
 年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加した。
  マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者
 にインド・タミール人が大量に移入させられた。
  これらの移入させられたアジア人は、現地社会と融合
 せず、固有の習慣や宗教を保持したため、複合社会がで
 きあがってしまった。
  また、植民統治では、この移入させたアジア人を金融
 と流通機構に登用したため、上部に白人支配層が、次に
 華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い
 現地民が最下層の地位におかれるという階層社会が造ら
 れた。
  この大量の移民政策の結果、例えば、マレーシアでは、
 マレー人52%、華僑39%、インド人12%という複合
民族国家となってしまった・・複合社会が形成された・・、
  戦後も、深刻な民族対立の原因となった。
  ヨーロッパ列強諸国は、植民地支配への反乱について
 は、きびしい虐殺と弾圧でのぞんだ・・救いを待つアジ
 アの方々だった。
  イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱の様に、
 徹底的な弾圧を加えるという対応をした。
  当時のイギリスの『タイムズ』紙は報じた・・
  「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院
 をたたきこわせ」。
  「白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴
 徒を死刑にせよ」・・と報じ、報復を訴えた。
  事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃殺撃
 や焼き殺しなど、珂責ない虐殺や弾圧を行った。
  フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始
 まった。
  1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人の
ベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多
くの囚人が殺され、死亡した。
  1945年に、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣
 言には、その怒りが込められている。
  「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国
 者を殺害し、蜂起の民を血の川に溺れさせた・・」
  アメリカとて例外ではなかった。
  米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕
 掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を強制的に制
 圧した。
  また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発し
 たイスラム系住民の反乱の時は、アメリカ軍は住民らの
 砦を包囲して、戦闘員から女子供をも含めて600人全員
 を皆殺しにしてしまった。
  列強のアジア支配の例として、オランダの350年間に
 わたるインドネシアの卑劣な支配の特徴を、ASEAN
 センターの中島慎三郎理事長は次のように分析している。
  ①オランダの安全と利害に関係ない限り放任し、人民
   を文盲のままにして各地の土侯(サルタン)を使っ
   て間接統治した。
    徹底した愚民政策を強(し)いた。
  ②才智にたけたアンボン人とミナハサ人とバタック人
   を訓練し、キリスト教に改宗させて優遇し、警察官
   や軍人として登用した。
    そして、女性を性奴隷的にして、オランダ人とイ
   ンドネシア人の混血児を作り、中間階級として使っ
   た、また、民族の分断を画策した。
  ③社会の流通経済を華僑にやらせ、経済搾取によるイ
   ンドネシア国民の憤慨と憎悪を華僑に集まるよう仕
   向けた。
  ④インドネシア人の団結を恐れ、一切の集会や団体行
   動を禁止した。
    3人のインドネシア人が立ち話することすら許さ
   ず、禁を犯せば反乱罪で処罰した。
  ⑤インドネシア国民の統一を阻止すべく、全国各地域
   で用いられていた320の種族語をそのままにして、
   一つの標準語にまとめる企ては絶対に許さなかった。
.
1898年、この年の頃から、アメリカは、日本を警戒し始め
 た。
  日露戦争の時までは、アメリカは、日本寄りにいた・・
  日露戦争の終結は、アメリカによってできた。
  いつからアメリカは、「日本潰しのアメリカ」になっ
 たのか?
  櫻井よしこ氏は、「日清戦争と日露戦争の中間で、
 1898年の米西戦争の後だ」と言われる。
  「アメリカのその様な気持ちが、日露戦争の日本勝利
 で、一層強まった」と言われる。
  ルーズベルト大統領は、ロシアを破った日本を小さい
 ながら注意しなければならない国だと思いはじめた。
.
1900年、アメリカはハワイを得たいと、それまで行われて
 来ていた日本人移民に難癖をつけた。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900
 年から著しく増加した。
  日本政府は、差別的法律が制定されるのを防ぐため、
 1907年、1908年、日米紳士協約を結び、自主的に移
民を制限した。
  しかし、アメリカ人移民によるハワイのアメリカ化は
 酷い状況にあった。
  その様な状況で、日本人移民の移民問題は解決されな
 かった。
  日米通商航海条約の、旧条約の終了と同時に有効とな
 る新条約を結び、留保条項を削除し、関税自主権を完全
 に回復した。
  日本政府は、同時に紳士協約の維持宣言をアメリカ政
 府に伝えたが、アメリカは、1924年、排日移民法によ
 り紳士協約を一方的に廃棄した。
  1939年7月26日、アメリカは、自国の行為は沈黙
して、日本の中国での行動だけに抗議し、条約の廃棄を
通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みた。
  しかし、成功せず、1940年1月26日失効した。
.
1919年、この年に、K・ハラ―が、ミュンヘンで結成した
 ドイツ労働党を、ヒトラーが、民族主義と社会主義を巧
 みに接合させて・・、
  1920年に、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名
   した。
  1921年、ヒトラーが党首となり・・
   1923年、ミュンヘン一揆を企てて投獄され、党は解
   散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党として
   再出発した。
  1925年の党員数はわずか2万7000人に過ぎなかっ
たが、
   その後、群小右翼団体を吸収して・・膨張した。
  1929年には、党員数が17万6000人、
  1930年9月、ヒトラーは力を付けて来て、総選挙で
18.3%を獲得し・・第2党となる。
  1931年には、党員数が80万6000人
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て、第1党に躍
進した。
   軍部や財界と取引を行ない・・膨張する。
  1933年には、党員数が390万人とふくれあがり・・
  1933年1月、政権を獲得した・・卑劣な行為をして
行く・・そして・・
  「ヒトラーのモデルはアメリカだった」という書評が、
 読売新聞(2018年12月9日)に掲載された。
  本の著者は、ジェイムズ・Q・ウィットマン、
  書評の著者は、藤原辰史氏(京都大学准教授、農業史
 研究者)
  以下は・・その抜書き・・
  ナチスがヨーロッパ各地で振るった壮絶な暴力は、遠
 い国の遠い過去の事で、自分には関係ない、と思いがち
 だ。
  そもそも子供たちの前で親を殺したり、子供を拷問に
 かけたり、収容所に送ったり、ガスで殺したり、沼に投
 げ捨てたりというようなナチスの残虐は確かに普段の暮
 らしからは想像しがたい領域にある。
  本書は、こうしたナチスの暴力の根拠となった人種主
 義のアイディアの最大の源泉がアメリカであると主張す
 る。
  私たちがいまなお政治、経済、軍事的に強く依存し、
 その文化を存分に味わっている、好感度の高い国である。
  ヒトラーは、「数百万人ものインディアンを銃で撃ち
 殺して数十万人まで減らした」としてアメリカへの讃美
 を惜しまなかった。
  ナチスは、人種法を制定するにあたって、アメリカの
 移民法や異人種間の結婚に重罰を与える法律、黒人の選
 挙権、移動の自由、職業の選択を制限する制度を学び、
 それを人種法構築に応用したのだった。
  ナチスの著述家たちは、アメリカを「移民立法を通じ
 てその血を蘇(よみがえ)らせようとしている」と褒(
 ほ)めたり、
  「自身の至上性を維持」しそれを未来永劫(えいごう)
 確保するために「外国人種分子の流入を防ぐ」ことに共
 感を示したりする。
  アメリカ白人至上主義が無ければ、ナチスはこれほど
 までにエスカレートしなかったかもしれない・・云々・・
.
1931年、強い対日経済制裁を唱えた対日強硬論者のアメリ
 カのスタンレー・ホーンベックが大きな影響を与えた。
  彼は、日本の真珠湾攻撃直前にあっても、「日本には
 アメリカを攻撃する能力はない」という主張を繰り返し
 た。
  そして、また、彼は、極東問題の専門家として、ルー
 ズベルト大統領に助言したほか、、コーデル・ハル国務
 長官に対しても大きな影響を与えた。
.
1937年8月13日、第二次上海事変が始まる。
  この日の前日・1837年8月12日未明、アメリカに
大規模に支援された中国正規軍本隊が上海まで前進した。
  中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師な
どの約3万人が、国際共同租界の日本人区域を包囲した。
  この様な奇襲を受けるとは予想してなかった日本軍は、
 上海陸戦隊が2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦
 隊が300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊が1200、
出雲の陸戦隊が200、他320の計4000人あまりであっ
た。
  昭和天皇陛下は、常に話し合いを重視され、妥協を促
 される方だった。
  そして、「平和論も出しなさい」と言われる方だった。
  この第二次上海事変の時も、この様に行動なされた。
  第一次上海事変でも、日本軍は過激な行動に至らぬよ
 うにと、事前に、軍に言われて居られた。
  実際、日本軍は自制していて、白川義則大将は、上海
 派遣軍を率いて十九露軍(中国・国民党軍)を撃退した
 が、深追いはしなかった。
  そして、停戦に至っていた。
  これも、昭和天皇陛下のお言葉に依る行動自制だった
 ことは明らかで・・これは、国際連盟でも評価された。
  しかし、この様な停戦の中、膨大な「金と武器」の支
 援が、アメリカによって中国・国民党へなされて・・支
 援されて・・
  そして、この支援に支えられた中国・国民党軍は、膨
 大な日本包囲網を構築して、攻撃を仕掛けた・・、西安
 事件(1936年12月)後の活動など・・暗躍した。
  そして、この度、大々的な攻勢を日本に仕掛けたが・・
 あたかも、完全に、アメリカの代理戦争の様相だった。
.
1942年3月3日、日本海軍が、生死の危うい危険水域で
決死のイギリス兵救助を行なう。
  https://www.youtube.com/watch?v=waT94w434vM
  2018/02/05 に公開
  「正論」2008年10月号掲載 ジャーナリスト・恵
隆之介氏の論文:「敵兵を救助せよ」のそれから/わが
武士道精神の光輝と英国人元兵士の報恩の物語。
  日英両国に咲いた高貴な友情を語る・・から引用
  私は、2003年(平成15年)6月13日、朝7時30
分のNHKラジオ、ロンドン発ワールド・リポートを聞
いて驚嘆した。
  それまで昭和の全ての軍人を批判的に論じた司馬史観
 に傾倒していた私は強い衝撃を受けた。
  このレポートは次の内容であった・・
  大東亜戦争中、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪
 連合軍艦隊の残存艦艇は、日本艦隊の隙をついて同海域
 からの脱出をはかった。
  1942年(昭和17年)3月2日午後2時頃、2隻の
イギリス海軍艦艇は、インド洋への脱出を試みてジャワ
海北西海域において日本艦隊に捕捉され相次いで撃沈さ
れた。
  両艦の乗員合計約450人は、脱出し漂流を開始するが、
 約20時間近く経過した翌1942年3月3日、午前10
時頃には、生存の限界に達していた。
  赤道下の強烈な太陽光、欠乏する水分、サメ襲来の恐
 怖で、現代の日本人では理解できないほど極限状態に達
 していた。
  一部将兵は、自決のため劇薬を飲もうとしていたまさ
 にその時、単艦で哨戒行動中の日本海軍駆逐艦「雷」(
 艦長・工藤俊作中佐)に偶然発見された。
  サー・フォールは、いよいよ機銃掃射を受けて最期を
 迎えると覚悟したところ、「雷」は救難活動中の国際信
 号旗を掲げて直ちに救助活動に入ったのだった。
  甲板に引き揚げられたイギリス海軍将兵を感激させた
 のは、汚物と沈没艦艇の重油で真っ黒になったイギリス
 海軍将兵を、小柄な日本海軍「雷」の乗員達が嫌悪する
 ことなく、両脇から真水とガソリンで一人一人を丁寧に
 洗浄する光景であった。
  220名乗務の駆逐艦が、敵将兵450人を救助した。
  通常なら反乱を恐れてここまでは救助しない、しかも
 この海面は敵潜水艦の攻撃・跳梁が激しかった。
  まさに、決死の敵兵救出劇だった。
  さらに、「雷」は、潮流に流され四散しているイギリ
 ス海軍将兵を一日中・・終日をかけて救助した。
  たとえ1人でも発見すると「雷」は必ず艦を停止し、
 総員で救助した。
  中には艦から投下された縄ばしごに自力で上がれない
 将兵もいたため、日本海軍「雷」の乗員が飛び込んで救
 助する光景もあった。
  「雷」乗員は、敵将兵に供与する艦載の被服が底をつ
 くと、自らの分まで進んで提供した。
  サー・フォールは、この光景に「自分は夢を見ている
 のではないか」と何度も腕をつねったと言う。
  それだけではない、救助活動が終了した頃、日本海軍
 「雷」の艦長は、イギリス海軍士官だけを前甲板に集め
 た。
  そして、こう英語でスピーチした・・
  「自分は、イギリス王立海軍を尊敬している。
  今回、貴官らは勇敢に戦った。
  貴官たちは、今日は日本海軍のゲストである」
  そして、彼らに、士官室の使用を許し、友軍以上の処
 遇をした。
  ラジオのNHKのリポーターは、興奮を抑えながらも、
 なぜこのような美談が、戦後の日本に伝わらなかったの
 か不思議でならないと発言して中継を終えた。
  さらに、彼は、サー・フォールが、「これこそ日本武
 士道の実践」と発言したことをも付言した。
  この様な行為を、アメリカやイギリスが行なった例が
 あるのか・・??
  敗けが決まっている国に原爆を落とすという卑怯な行
 為はしても、この様な行為はした事はないであろう。
.
1945年8月17日、インドネシア独立戦争(~1949年12
月27日)
  独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず
 再植民地化したいと侵略を始めたオランダとの間で戦争
 が発生した。
  1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争
で、80万人が犠牲になった。
  オランダは、これは「警察行動」だと屁理屈を言った。
  また、イギリスも侵略をし、この戦争に加わった。
  日本の正義の兵士たちは、大東亜戦争(第二次世界大
 戦)が終わった後もインドネシアに残り、再びインドネ
 シアの国を植民地にして甘い汁を吸いたいと蹂躙する目
 的でやってきたオランダ軍と戦った。
  インドネシアの独立軍に加わって、大東亜の地=イン
 ドネシアの地を、欧米列強の収奪から救おうと、命を投
 げ出して戦った。
  この時、日本軍の残した兵器が大いに役立ち、インド
 ネシアは独立を勝ち得た。
  このインドネシア独立軍と共に戦って戦死した日本兵
 たちは、今、インドネシアの英雄墓地に祀(まつ)られ
 眠っている。
  (参考)1949円12月にインドネシア連邦共和国が
成立し・・、
      さらに、連邦構成国が、インドネシア共和国
     に合流して・・、
      1950年8月15日に、単一のインドネシア
共和国が誕生した。
  敗北して去って行ったオランダは、その後、日本を恨
 んだ。
  インドネシアの方々へ酷いことをして来たキリスト教
 国のオランダは、その後、インドネシアへ謝罪の一切を
 していない。
  逆に、インドネシアの独立を助けた日本の悪口を石碑
 にして、インドネシアに立てたりしている。
  恥の上塗り行為をしている。
  まったく韓国と同じ下劣な行為をしている。
  (参考)恥の上塗り:はじのうわぬり、恥をかいた上
     に、また、恥をかくこと。
.
1978年12月、中国の改革開放政策
  中国の新たな指導者となった鄧小平(とうしょうへい)
 は、1978年12月に、体制転換の政策を打ち出した。
  それまでの計画経済と社会主義を二本の柱とする体制
 から、実質的な市場経済と資本主義を柱とした体制へ、
 中国は転換を図った。
  それまでの中国は、頑(かたく)なに「米国駆逐」を
 口にしていた・・、
  ・・が、しかし、その表現は消えて・・経済発展路線
 に主軸を移した。
  「豊かになれる者から豊かになれ」、そして、「他を
 牽引(けんいん)せよ」となった。
  「米国駆逐」の旗が降ろされ、日欧米の資本を積極的
 に導入したい、また、、資本確保や国外からの技術移転
 など成し遂げたいとなった。
  アメリカを駆逐する敵だという看板を下ろしたが・・
  しかし、今、中国が、以前、持っていた「アメリカと
 いう国を駆逐し、乗り越える国」と見ていた方針は、取
 り下げたという意思表示は無く過ぎて来たが・・、
  その点を自由主義陣営もはっきりと確認することなく、
 自由主義陣営も「中国も豊かになれは、その方針は変わ
 るだろう」と、自分に都合よく期待をしていた・・
  相手に勝手に期待をかけていた。
  しかし、経済発展を遂げた・・経済発展の果実を得た
 中国は、以前の方針が・・アメリカを乗り越えようとす
 る現実の姿・世界が見えて来た。
  自由主義陣営に、中国の社会システムを、また、政治
 システムを同調する様な行動は一切なく・・、
  中国の今までの政治システムが良かったから良くなっ
 たのだぐらいのことを国民にプロパガンダしている。
  「我が方針は間違っていなかった」という自信ととも
 に、「中国は、アメリカの地政学的優位性に挑戦し、中
 国にとって有利な国際秩序を作ろう」という「挑戦し、
 変えようとする姿」が、はっきりして来た。
  アメリカに対抗する姿となって来た。
  「米中新冷戦」の時代に入ったと言われている。
  中国は、中国に都合の良いように変えたい・・、
 そして、アメリカが構築してきた国際秩序を塗り替えよ
 うとしている。
  また、安全保障の面でも、中国の空海軍力の近代化で、
 また、長く続いて来た多大な軍事費の投資で、伝統的戦
 闘空間では、アメリカの一方的な優位性は脅(おびや)
 かされるという状況になった。
  過去の話とは今は違うという状況となった。
  新しい戦闘域である「潜水艦を中心とする水中戦の領
 域」、また、電子線の領域、宇宙戦領域、サイバー戦領
 域、無人兵器戦領域、指向性エネルギー兵器戦領域、そ
 の組み合わせの戦争領域・・それらの新しい米中の競争・・
 その冷戦の時代に入った。
  そして、中国の経済が大きくなって、今、この様な多
 大な投資ができる中国となって・・台頭して来ている。
  しかし、中国の不自然な国家資本主義はそのままで・・
 塗り替えずにいる・・
  アメリカは、その状況を許したことに反省をしている。
  南シナ海の中国の軍事基地の構築の様に、「国際秩序
 の無視の行動」も許さざる行為であるが・・はっきりと
 追及する必要性が明確に存在するが・・不透明な世界と
 なっている。
  この地域は、中国の構築した軍事施設の完全撤去の後
 に、完全に元の環境へ戻したことにより終了し、
  そして、それによって、中国の世界の立場が受け入れ
 られるのであるが・・
  また、世界は中途半端な状況で済ますのだろうか?
  今まで「逃げポーズだったアメリカ」が、ことの重大
 さに気付いて来ている。
.
1994年、中国の毛沢東の「化けの皮が剥がされる結果と
 なった本=毛沢東の私生活」が世界各国で同時出版され
た。
  毛沢東の化(ば)けの皮が剥がされて来ている。
  李志綏(りしすい)が書いた『毛沢東の私生活』を読
 めばよく分かる。
  (参考)李志綏:りしすい、中華人民共和国の医師。
      1954年から1976年の毛沢東の死去まで個
人医師を務めた。
      毛沢東の親友だという。
      アメリカへ移民の後、毛沢東の伝記である「
     毛沢東の私生活」を書いた。   
      中国国内では出版禁止となっている。
      曾祖父は清朝の御医(皇帝の主治医)
      「毛沢東の私生活」の本には中国のプロパガ
     ンダの凄(すさ)まじさが書かれている。
      また、この本の元となった膨大な日記は、迫
     害を恐れて文化大革命の最中に、自ら焼却炉で
     処分したと述べている。
      中国は、この本の内容を打ち消そうとしてい
     るが、毛沢東と李志綏との親しげに一緒の写真
     が多数発見され、中国の打ち消しにとって分の
     悪い状況となっている。
  毛沢東の独裁者ぶり、如何に汚いか、嫌な人物で唾棄
 すべき男かと・・、満州事変、支那事変など、日本軍と
 中国・国民政府軍を戦わせようとしたか、その消耗戦を
 拡大させるため、コミンテルンの謀略や策略を一緒にや
 って戦争を拡大させたか・・「二十世紀最悪の独裁者」
 と言われる。
  ユン・チアン氏の著作の「マオ」でも毛沢東の神話は
 完全に崩されている。
  「古い文化や風習を一掃するのだ」と美しく始められ
 た文化大革命も大失敗で、国民の多くが殺され、毛沢東
 の権力が劉少奇や鄧小平に移りつつあった状況を取り返
 そうとしたための行動だった。
  そして、この男は、戦勝国でも何でもないのに戦勝国
 に居座った。
.
1995年、原爆が投下されて50年、この年、原爆投下につ
 いての世論調査がなされている。
  質問文は、「アメリカが広島・長崎に原爆を投下した
 ことは、その当時のアメリカとしては正しい選択だった
 と思いますか、それとも間違った選択だったと思います
 か」である。
  以下は、その結果・・(NHKの調査)
       正しい選択・・まちがった選択
  日本・・・・8.2%・・・・・57.8%
  アメリカ・ 62.3%・・・・・25.7%
  韓国・・・ 60.5%・・・・・19.1%
  ドイツ・・・4.3%・・・・・66.2%
  これは、マスコミの報道姿勢に影響されているとコメ
 ントされている。
  特に、アメリカは、原爆投下を批判する言論が高まる
 ことを恐れ、大戦後に原爆投下の正当性を擁護する政府
 の公式見解が、積極的に流布され、洗脳され、世論操作
 がなされた。
  そして、日本の言論や教育が偏向していると批判する
 記事が掲載された。
  そして、その矛先が、日本の政治家や歴史家に向けら
 れ、操作されていると批判した。
  そして・・
  2005年に同様な調査が行われた・・(NHKの調査)
  質問文は、「太平洋戦争の末期に、アメリカが、広島
 と長崎に原爆を落としたのは、正しい判断だと思います
 か。それとも間違った判断をしたと思いますか」である。
  その結果・・
                日本・・アメリカ
  明らかに正しい判断だった・・ 0.9%・・22.3%
  たぶん正しい判断だった・・・14.6%・・34.3%
  たぶん間違った判断だった・・33.4%・・21.5%
  明らかに間違った判断だった・38.5%・・14.7%
  わからない、無回答・・・・・12.7%・・ 7.2%
  そして・・
  2015年に、アメリカのビュー・リサーチセンターが
調査した・・
  質問文は、「ご存じかと思いますが、アメリカは1945
 年8月、第二次世界大戦の終結間際に日本の都市である
 広島と長崎に原爆を投下しました。ふり返って見ると、
 あなたは1945年に日本の都市に原爆を使用したことを
正当だったと思いますか。それとも正当ではなかったと
思いますか」である。
  その結果・・
             日本・・アメリカ
  正当だった・・・・・・14%・・・56%
  正当ではなかった・・・79%・・・34%
  わからない、無回答・・ 7%・・・10%
  そして・・
  参考までに・・
  1945年8月10日から8月15日にかけて、ギャラッ
プ社が世論調査をしている。
  質問は、「あなたは新しい原子爆弾を日本の諸都市に
 対して使用したことに賛成しますか、賛成しませんか」
 である。
  その結果・・
  支持する:85%・・支持しない:10%・・わからない
 5%だった。
  まだ戦争も集結していない敵国・日本の状態であった。
  そして、原爆の本当の恐ろしさも実感できなくて、知
 らない状況で、アメリカの正当化の洗脳も受けていない
 という時期だった。
.
2005年~2006年、「マオ、誰も知らなかった毛沢東」と
 いう本が、世界各国でほぼ同時に出版された。
  この本は、中国はもとより、旧ソ連、東方諸国などの
 多彩な史料、そして、存命する関係者への取材資料など、
 詳細に調べ上げ、徹底的に何年何月何日という日時まで
 詰めに詰めたことによって、毛沢東の人物像を明確に浮
 かび上がらせた。
  ここまでされれば、反駁のしようのない毛沢東の実像
 が描かれ、この本によって毛沢東の人物像は大きく崩さ
 れ、変わった。
  大人風に見える周恩来にしても、ただただ毛沢東の権
 力の前に膝まづくだけの人物でしかなく・・、
  毛沢東だけでなく、その周辺の人物像も同時に崩れ去
 った。
  また同時に、中国の悪政ぶりの数々もあぶりだされた。
  神格化した毛沢東は、「過去の偶像」と成り下がった。
  日本にいる左派やマスコミの毛沢東崇拝者たちが、た
 くさん居るが、その馬脚を表わし「似非(えせ)者」と
 なった。
  ムキになって本書を批判しているが、空虚なその必死
 の批判が、かえって、この本の痛撃が、当を得ているこ
 とを証明している。
  また、粛清(しゅくせい)の嵐に怯(おび)える中国
 国民の悲惨な現実が詳細に書かれ、中国共産党の支配が、
 如何に苛酷かも分かる。
  中国の国際的な諜報活動が、中国側の資料だけでなく、
 ロシアの公文書や回想録も多用し、ソ連・コミンテルン
 の陰謀にも踏み込んでいる。
  毛沢東の虚像の数々をデッチ上げて来た日本のマスコ
 ミや左派専門家の化けの皮が剥がされた。
  共産主義の苛酷さがバレ、人民が圧迫され搾取されて
 いる実態が暴かれた。
  毛沢東や中国共産党は、結局、苛酷な農民支配の独裁
 集団でしかなく、また、内部抗争の渦巻く集団でしかな
 い。
.
2011年、中国から1万8000人が国外逃亡・・? 
  汚職マネーが流出する。
  東洋経済誌が報じる・・
  2000年末から2011年までの間に、中国の検察当局
は国外逃亡した職務犯罪(汚職や背任など)の容疑者を
1万8487人検挙した。
  また、最高人民検察院(最高検)によると、5年間(
 2005年、2007年、2009年~2011年)で、不正に蓄
財された財産は541億9000万元(約7000億円)に達
した。
  しかし、国外逃亡した汚職官僚(国有企業職員を含む)
 は少なく見積もっても1万~2万人はおり、持ち出され
 た資金は1兆元(約13兆円)を下らないという見方が
ある。
  逃亡犯のあまりの多さに、国民は「逃げ得」ではない
 かと感じている。
  昨年(2011年)、中国人民銀行(中央銀行)の「腐
 敗資産の国外持ち出しに関する調査報告書」が社会に衝
 撃を与えた。
  報告書には、中国社会科学院の調査資料として、
 「1990年代半ば以降、汚職官僚や国有企業幹部の国外
 逃亡数は1万6000~1万8000人。
  持ち出された額は8000億元(約10兆円)」という
数字があった。
  後に、別の政府機関から「データが間違っている」と
 指摘があり、共産党中央紀律検査委員会の関係者も「
 8000億元という金額は正確ではない」とするが、この
 数字は実にショッキングだった。
  北京大学「廉政建設研究センター」主任の李成言氏は、
 「国外逃亡官僚は少なく見積もって1万人近くいて、持
 ち出し金額は約1兆元(約13兆円)」と推計する。
  李氏は「1人平均1億元で試算した。国外で国内より
 いい生活を送るには十分な資金が必要になる。1人で数
 億元を持ち出した汚職官僚も多い」と話した。(以上)
  また、別の史料では・・
  中国共産党幹部が、海外へ不正に持ち出した金が20兆
 円以上だという。
  汚職によって得た金を自国の中国ではなく海外へ持ち
 出し逃亡を図っている。
  昔から汚職は、この国では花盛りの伝統の文化とはい
 え、今・現代もなお、盛んに行われている。
  また、今までこの様な中国経済に群がって、利益を得
 よう、利益が得たいと必死になっている諸外国も居た。
  必死に、その中国自体も、自国の存続を図りたいと巨
 大な、そして、莫大な軍事費を使って来ている。
  この様な金が何処から生まれているのか?
  中国は、必死に人民元を刷り、その金が世界のどこか
 の国で蓄積させようとしているが、その帳尻には3800
 兆円以上の借金となっているという。
  日本は、約1000兆円の借金があると言うが、それ以
 上に日本国民が蓄積して来た資産があり、その収支はマ
 イナスとはなっていない。
  しかし、中国は問題である。
  どの様にバランスしているのか?
  アメリカも「借金大国」であるが、アメリカは、せっ
 せとアメリカ国債を刷って、その帳尻をゼロにしようと
 している。
  そして、そのアメリカ国債をせっせと買って、アメリ
 カを支えてあげているのが日本となっている。
  日本は、この様にアメリカ国債を買える状況にある。
  しかし、この様に、アメリカは、借金国債を刷って明
 確に帳尻を合わせている事を世界に明確に示しているが、
 曲者(くせもの)は中国である。
  はっきりしないのである。
  中国で儲けようと、また、儲けたいと諸外国の企業が
 中国に乗りこみ、金を流入させているから、悪い中国の
 帳尻を緩和させているが・・、
  その中国の怪しい状況に、今・現在、資金を中国から
 引き上げ始めている。
  しかし、中国は、とぼけて相変わらず軍事力強化をせ
 っせとして「金をつぎ込んでいる」。
  輪転機を廻して人民元を刷って帳尻りを合わせている。
  一握りの共産党員の支配階級、その汚職と富の一人占
 め、その結果が、20万件もの民衆の暴動の発生が1年
 間で起きている。
  しかし、中国は、その様な実態は、ひた隠しにして世
 界へ平然と振る舞っている。
  チベット民族や、ウイグル民族や、内モンゴル民族の
 事はネットにも記せない状況として「ひた隠している」。
  かつて、この様な状況にあった共産・ソ連が、ある日、
 突然と崩壊したように、この共産国・中国も、突然と崩
 壊する可能性がある。
  その時、中国へ持って行った種々の企業や人々の資産
 も、取り戻せなくなる可能性が存在している。
  だから、不正をして得た中国共産党幹部は、せっせと、
 今、海外へ不正に金を持ち出している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)620E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年2月~1895年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年2月1日、第一次講和会議
  経過は・・
  1894年11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を
   開始する。
  1894年12月4日、伊藤博文内閣は、「威海衛を衝(つ)
   き台湾を略すべき方略」を大本営に提出する。
  1895年1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のた
   めに広島に到着した。
  1895年2月1日、陸奥宗光は、この日の会談において、
   清国使節の両者の持っている書簡は『全権委任状で
   はない』、さらに、『地位についても不十分な状態』
   で、これでは講和会議を開催する事は出来ず、また、
   講和を結ぶことができないとした。
    伊藤博文は、清国使節団の随員・伍廷芳に、李鴻
   章か恭親王を全権大使として求めた。
  結局、日清講和会議が広島で始まるが、清国側の信任
 状不備が理由で、会議は進まなかった。
,
1895年2月2日、日清戦争における威海衛制圧。
  威海衛の戦いは、1895年1月12日から始まっていたが、
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着し、
  1895年1月26日、さっそく、第2師団を左縦隊(内陸側)
   にし、また、第6師団を右縦隊(海岸線)に並進する
   作戦を開始した。。
  1895年1月30日、第6師団は、百尺崖・摩天嶺での激戦
   を行ない・・威海衛湾の南岸要塞群を攻略した、移
   動する距離、約60km。
  1895年1月30日の同日、第6師団の攻撃にあわせて、第
   2師団は、南岸要塞群の西側、鳳林集の東南高地を攻
   略する。
    清国軍は、防衛線の一角を破られたこともあって、
   威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄した。
   そして、撤退を始めた。
  1895年2月2日、第2師団は、清国軍撤退で無抵抗状態に
   なった北岸要塞群などを制圧した。
    この威海衛湾の山東半島側を、日本軍が制圧した
   結果・・、
    湾の出入口にある要衝が制圧され、劉公島と日島
   の守備隊や、北洋艦隊の残存艦艇14隻は孤立するこ
   とになった。
.
1895年2月5日、この日の午前3時20分、前日の2月4日の夜か
 ら闇にまぎれて、清軍によって仕掛けられていた防材を
  かわし、威海衛湾内へ入ることが出来た日本海軍の水
 雷艇部隊は、北洋艦隊の砲撃をものともせず予定してい
 た通り、攻撃を開始した。
  その魚雷攻撃は至近距離から効果的に行ない・・北洋
 艦隊の旗艦「定遠」を大破させた。
  危険状態となった清国兵は反乱状態となる。
  北洋艦隊へ軍事顧問となっていた外国人顧問は、清国
 北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。
  また、「来遠」「威遠」等の3隻を撃沈させ、
  1895年2月9日の明け方にも、日本軍は、水雷艇部隊を
 威海衛湾内へ入れて、2回目の襲撃を行った・・
  そして「靖遠」を撃沈した。
  1895年2月11日、降伏を拒否していた丁汝昌提督は、李
 鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
 セシモ、衆心ハ乱レ今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサ
 ル旨と決別の打電を行った。
  そして、その後に、服毒自決した。
  1895年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
 官も自決した。
.
1895年2月12日、清国の北洋艦隊が降伏した。
  長崎で、その威容で日本に圧力をかけ、また、長崎市
 内で日本を馬鹿にして暴れ回った清国の北洋艦隊は、こ
 の日に、降伏した。
.
1895年2月19日、清国が、李鴻章を講和全権に任命した。
.
1895年2月22日、べースボールが野球と翻訳される。
  中馬庚(ちゅうま かのえ、1870年~1932年)野球選
 手・教育者。鹿児島の生まれ。旧姓、今藤。
  第1高等学校野球部で二塁手として活躍した中馬庚は、
 1895年発行の「第一高等学校野球部史」で、「ベースボ
 ール」を「野球」と訳した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
    かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
.
12世紀、満州民族が存在した。
  満州は・・、
  渤海(ぼっかい)・金朝・後金・清朝を建国した満洲
 民族や・・、
  夫余(ふよ)・高句麗を建国した濊貊(わいはく)族、
 鮮卑(せんぴ)・烏桓(うがん)・契丹(きったん)・
 奚(けい)などモンゴル民族・・の地である。
  現在の中国の漢民族には関係のない地である。
  尚、現在の中国は、地域名称として「満洲」を使うこ
 とを禁止している・・かわりに「中国東北部」を使うよ
 うにせよとしている・・必死に自国領との印象付けをし
 ている・・これは、歴史を無視したプロパガンダ政策で
 ある・・
  満州の地を、太古から不可分の中国人(漢民族)の固
 有の地としたいからである・・まったく歴史的事実を無
 視している。
  また、満州語は、中国・清朝では公用語であった。
  しかし、現在に至り、中国政府の同化政策によって、
 話す人が極めて少なくなっている・・話す人を消してい
 るからである・・消滅の危機となっている言語である。
  どんな同化政策が行われたのか??
  今・現在、」ウイグルを同化させようとしているが、
 虐殺と監禁である・・そして、ウイグル語を話せなくす
 る教育である・・
  そもそも、この満州の地は、もともと、中国(漢民族)
 が目もくれない「不毛の地であった」「化外の地であっ
 た」。
  太古(たいこ、おおむかし)の時代、紀元前1046年~
 紀元前256年には、今の中国の地には周(しゅう)が存
 在した・・
  その頃には、粛慎(しゅくしん、満州に住むツングー
 ス民族)が遊牧していた・・漢民族なんか「まったく関
 係ない」・・
  (参考)鮮卑:せんぴ、紀元前3世紀から6世紀にかけ
     て中国北部に存在した遊牧騎馬民族。
      五胡十六国時代、南北朝時代には南下して北
     魏などの王朝を建てた。
  (参考)烏桓:うがん、紀元前1世紀から紀元後3世紀
     にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)
     に存在していた民族。
      「三国志」などでは烏丸と表記された。
  (参考)契丹:きったん、4世紀から14世紀にかけて、
     満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧
     の民族。
      10世紀初頭に、現在の中国の北部に帝国を建
     国し、国号を遼(りょう)と号した。
      しかし、12世紀に入り次第に勢力を強める女
     真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に
     滅ぼされた。
      契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中
     央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建て
     た。
  (参考)奚:けい、4世紀から10世紀頃までモンゴル高
     原東部から中国東北部にあるラオハムレン(老
     哈河)流域とシラムレン(遼河の支流)流域に
     存在していた遊牧民族。
      初めは庫莫奚(しゃまくけい)と呼ばれてい
     た。
  以上の様に、漢民族の「かの字もでない」という地で
 あって・・中国が主張する様な領土ではない。
  満州という地は、「中国とまったく関係のない地」で
 あることは明らか・・、
  万里の長城のはるか北方に位置していて、中国自身が
 「化外の地(けがいのち)だ」として・・
  「化外の地」は、中華思想では、中国の権力・法律が
 行き届いていない地方だと言った。
  さらに言うが・・今・現在の中国の漢民族が、領有権
 を主張できるような地ではない。
  だから・・その様な地であるから、中国は、万里の長
 城を築いたのであった・・ここを国境としたのであった。
  また、朝鮮・韓国では、この地に朝鮮族が居たという
 ので、小学校では、この満州を「我が領土だ」と教えて
 いる。
  日本は、この地を「五族協和」として、一番多い満州
 族の建国を助けた。
  今・現在、漢民族の中国が「我が領土だ」としている
 が、まったく、その根拠がないからだった・・
  リットン調査団も、中国の地だなんて言わなかった。
  日本の行為を認めていた・・
  領土欲を持つロシアが、南下政策をとって・・ここの
 権益を奪い、まったく関係ない中国と関係を持ったのが
 問題の発端だった。
  そして、領土欲あるロシアは、大連などの不凍港が欲
 しいと利権を漁った。
.
1789年、この年のベトナムの書によると・・、
  ベトナムのタイソン(今のビンディン)で一揆を起こ
 し、ベトナムに侵略していた中国の清に打撃を与え、駆
 逐した将軍・グェン・フェ(玩恵将軍)・・、
  また、ベトナムの南部と北部に分裂していた状態を終
 わらせて統一したグェン・フェ(玩恵将軍)・・
  この将軍は、象を調教し、有力な戦闘武器として確立
 した。
  そして、その象兵が、重要な戦闘力を持つ軍団で、象
 を有力な武器として活用した。
  中国の清軍と戦う時、百頭ほどの牡(おす)象を先陣
 に配置した。
  この様な象軍団を見慣れていない清軍の騎兵隊侵略軍は、大
 いに、驚ろき、恐れた。
  清軍の戦陣は、混乱状態に陥(おちい)った。
  象は、戦時の勝敗を決める重要な部隊であった。
  1頭の象の背中に180㎏ほどの大砲を載せたりもした・・
 また、60㎏の大砲を2丁乗せる場合もあった。
  象使い2人が、象の背中に乗って、その大砲を撃ち放
 った。
  敵の規模に応じて、象の数を数十頭の場合もあれば、
 数百頭の場合もあった。
  象の調教師は重んじられた。
.
1930年代、この頃の中国共産党は、中国農民の方々のお蔭
 で存続していた・・存亡の危機でもあった・・
  例えば、占領した中央ソビエト区(江西省と福建省の
 南部境界域)では、10万人以上の紅軍兵士と、多数のソ
 ビエト政府の人員を養うには食糧が不足した。
  その為、農民たちへ、中国共産党は、苛酷な国民政府
 時代以上の税をかけた・・中国農民方々は苦しめられた。
  この中国共産党軍の取った作戦といえば・・「敵が進
 んでくれば・・我退く」だった。
  格好良く言えば「遊撃戦術」であるが・・敵が強いと
 なると、その世話になっている農民方などの「保護すべ
 き住民」を捨て去り、置き去りにして、サッサと逃げ、
 退却し、逃げ去って行った・・まったく無責任な軍隊だ
 った。
  南京の場合も、南京の住民を置き去りにして逃げ去っ
 た(この場合、中国国民党軍)。
  プロパガンダされている事・・共産主義だから科学的
 であって、住民を大切にする共産党だ・・なんて、まっ
 たくのプロパガンダ(嘘宣伝)で・・、
  洗脳され、頭に詰め込まれた思いで・・、
  こんな中国共産党軍が、延安の中国の奥地の奥地に隠
 れていた。
  日本軍とまともに戦ったことのない中国共産党軍だっ
 た。
  格好良く「日本軍と中国国民党軍の消耗を待っていた」
 と言うが、「これも嘘」、兵が激減して戦える状態では
 なかった。
.
1933年3月4日、ルーズベルトが、アメリカ大統領になった。
  ・・が、この大統領は、非常に中国贔屓(ひいき)の
 大統領だった。
  ルーズベルトの家系は、中国貿易に従事し、儲けて来
 ていた・・その様な環境に生まれた大統領だった・・当
 然、ルーズベルトの家庭環境は『親中国』だった。
  ルーズヘルトは、母親から何度も、快速線「クリッパ
 ー号」に乗って香港を訪れたことを、幼い頃より何度も
 聞かされていた(幼いルーズベルトは、親中国の洗脳頭
 となった)。
  そして、ルーズベルトは、海軍省に居た時、日本を仮
 想敵とする『オレンジ・プラン』の立案にかかわった。
  大統領就任後の初閣議で、「対日戦争は、一つの可能
 性だ」という表現を使った・・アジアの情勢を語った。
  中国の蒋介石夫人の宋美齢は、アメリカの反日世論を
 煽(おあ)りまくった。
  また、戦争のきっかけとなったハル・ノート文案作成
 に積極的に関与したアメリカ人のハリーホワイトは・・
 ソ連のスパイだった。
  ルーズベルト大統領のアメリカは、中国と、がっちり
 結びついていた。
.
1930年代、日本の満州経営は下降線をたどった。
  アメリカは、「中国に遅れてやってきた国」だった。
  アメリカは、「中国を開放せよ」と言った。
  これは、「アメリカにとって」、中国は開放されてい
 ないと叫んでいるようなもので・・
  遅れてしまったので、アメリカには開かれてないと言
 っているようなものだった・・
  遅れて来て、中国のうまい汁が吸えないという叫びだ
 った。。
  アメリカは、必死に中国とのつながりを持とうとした。
  満州の鉄道利権を狙った。
  満州での鉄道を含む各種の権益の租借権は、もともと
 中国の清国が、ロシアに対して与えたものだった。
  そして、日露戦争で戦勝した日本は、賠償金の代わり
 に、ロシアの持つ満州の権益の租借権を得た。
  侵略で奪ったというのは、日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)で、この様な満州の鉄道利権を日
 本から奪おうとするのがアメリカで・・アメリカは、日
 本の利権を狙った。
  その様なアメリカと関係を持った中国は、様々な形で、
 日本の権益行使を妨げようとした。
  そして、変な・・馬鹿々々しい屁理屈を言った。
  例えば、鉱山の採掘権を持つ日本に、「ある鉱物の採
 取権は確かに日本に与えたが、その他の鉱物は採っては
 いけない」・・と・・
  この様な採掘ができる訳は無い。
  採掘する鉱石には、様々な鉱物が含んでいるのは常識・・
  例えば、鉄鉱石を採掘しても良いが、同時に出る「イ
 オウ」などは採ってはいけないという様な理屈であって・・、
  「ベニスの商人」で、「肉を切り取ってもいいが、血
 は一滴も流してはいけない」というようなもの。
  また、アメリカが、日本の満州鉄道の路線を敷いてい
 るのと並行して、アメリカが線路を敷くのを許可した。
  常識でも、この様な事をしてはいけないが・・
  日本は、ちゃんと中国と話し合って、条約で、この様
 な行為はしてはいけないと・・条約で契約していたので・・、
 中国がアメリカに許可した行為は、日本との条約違反行
 為だと抗議した・・「止めさせることは出来た」が・・
 この様な不法な妨害をするという状況だった。
  しかし、日本の満鉄の輸送に対抗する新しい鉄道網を
 建設し始めるという状況だった。
  1930年代には、満鉄を核とする日本の満州経営は下降
 して行く。
  後から来たアメリカは、先行して美味しい汁を、すで
 に吸っているイギリスやドイツの権益を狙うという事が
 できずに、日本の権益を狙うという姿だった。
  また、日本は、国際社会への説明が下手で、不十分だ
 った。
  中国やアメリカなどの宣伝に対し、不器用な日本だっ
 た。
  日本は、中国のプロパガンダにもやられたが・・アメ
 リカは、自国民に「日本を悪役に仕立て、その悪訳ぶり
 をいやというほど吹き込んだ(アン・フェアなアメリカ)
  これが、第二次世界大戦の素因の一つとなった。
.
1937年11月28日、南京事件を捏造(ねつぞう)する中国
  この日に、20万人の人が、南京に居ることが発表され
 ている。
  日本軍が南京を攻めて、南京に入るのが1937年12月13
 日であるから、その半月くらい前の南京の人口である。
  この人口数は、中国人の警察庁長官の王固磐が、開か
 れた記者会見で発表した人口数であった。
  また、日本軍の南京入城の5日後の1937年12月18日には、
 南京国際委員会という「南京の住民が集まっていた安全
 区を管轄する委員会」が、「南京の人口は、20万人」と
 発表している。
  (中国は、今・現在、日本軍が、南京で30万人殺した
 と言っている・・これは、嘘だとはっきりしている)
  また、日本軍が入城した1週間くらいの後の1837年12月
 21日には、南京外国人会が、「南京の20万市民」と言及
 している。
  そして、1938年1月14日には、国際委員会が南京の人口
 を25万人に増えたと公表している。
  日本軍が、食糧を配ったり、種々の住民のための行為
 をしているので、住民が戻って来たのだった。
  日本軍は、南京の方々へ、食料を配ったりして、大変、
 配慮をしている。
  上智大学教授の渡部昇一氏も、南京陥落から1ヶ月後に
 日本軍は、約25万人の住民に食糧をを配ったという記録
 があると言われている。
  また、占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵(便
 衣兵:べんいへい、一般市民を盾にして隠れる卑怯な兵)
 と本当の民間人を区別するため、ひとりひとりと面接を
 したうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発
 行している(1937年12月から1938年1月)。
  60歳以上の老人や10歳以下の子どもは兵士ではないか
 ら、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数
 が16万人に達した。
  南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・
 スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤
 泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口
 は25万~27万人程度だろう」と書いている。
  この様に南京入城後、南京の人口が増えたりしていて、
 良好な、そして、安定した状況だとすぐわかる・・
  この様な状況の中で、中国の言う「南京虐殺が起きる
 訳がない」。
  中国は、それも30万人だと、勝手、気ままに大きく増
 やした嘘の人数を世界に言いふらしている。
  南京事件があったという発端は・・「作られた嘘だ」
 とはっきりしている・・
  イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の
 中国特派員の記者ティンパーリーは、「最悪の嘘つき記
 者」だった。
  ティンパーリーは、中立的立場の欧米人ジャーナリス
 トを装っていた。
  この男の実態は、蒋介石の国民党に雇われた『工作記
 事を書く記者』だった。
  南京事件をでっち上げた。
  最初に書いたのもこの記者だった。
  国民党は、ティンパーリーへ書くための情報(嘘の捏
 造情報)を与えた。
  この様な記事が世界へ流れて行き、南京事件は捏造さ
 れた。
  ティンパーリーでさえ、国民党へ行く前は、この様な
 虐殺記事は書いていない。
  そして、ティンパーリーは、国民党から与えられた情
 報で二冊の南京事件の本を書いた。
  そして、その中でも書いた向井、野田両少尉の百人斬
 りの記事(東京日日新聞の記事)を、東京の英字紙であ
 るジャパン・アドバタイザーが転載し、世界へ広まった。
  日本が酷いことをしているという印象を与えた。
  向井・野田の二人は、この記事を証拠とされ戦犯とし
 て死刑となった。
  しかし、これは、ジャパン・アドバタイザーでも「一
 対一の刀の斬り合い」と書いている・・百人斬りではな
 い・・この様に、これは、普通の戦闘行為だった・・ね
 つ造された・・
  ティンパーリーが、「殺人競走」というタイトルを付
 けた・・嘘記事を書いた。
  この事から「普通の戦闘行為」とは受け取られ無い、
 酷(むご)い行為が行われているという事になって行っ
 た・・
  あたかも戦闘以外で、民間人を殺戮して行ったという
 様に受け取られる・・嘘記事が事実の様になってしまっ
 た。
.
1945年8月8日、日本とソ連との間には日ソ中立条約が締結
 されていた(1941年4月)・・しかし、ソ連はその条約を
 一方的に破った。
  そして、1945年8月8日に満州や南樺太(現:サハリン
 南部)などに攻めて来た。
  この時、6歳11ヶ月のなかにし礼氏は満州にいた。
  その時のことを、読売新聞(2018年11月5日)に記して
 いる・・以下はその文・・
  その日はやって来ました。
  1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が満州に進撃。
  2日後、牡丹江に編隊を組んだ無数の飛行機が来襲しま
 した。
  耳をつんざく大音響とともに、わが家の向かいの陸軍
 の兵舎から火花と黒煙が上がりました。
  家の前で遊んでいた私は慌てて家の中に逃げ、母の胸
 に飛び込んだのです。
  夜になると、北の空が真っ赤になっていました。
  ソ連の戦車部隊が迫っていたのです。
  運悪くこの時、父は新京(現:長春)に出張中。
  しかし、「逃げる」と決断した母は、つてを頼り、軍
 人やその家族を退避させる軍用列車に乗せてもらう手は
 ずを整えました。
  母はしんを抜いた帯に札束を詰め込み、何重にも私の
 体に巻き付けました。
  6歳の子供が大金を持っているとは誰も思わないという
 計算からでした。
  避難列車を待つ日本人でごった返す牡丹江駅前通りを
 抜け、人目を避け離れた場所に止まる列車に母と姉、使
 用人たちと共に乗り込みました。
  「これは遠足みたいなもので、またここに帰って来る
 んだ」。
  まだ、そう思っていました。
  翌朝、列車は突然止まり、誰かが「敵機来襲」と叫び
 ました。
  皆われ先に外へ飛び出し、身体の小さな私はとっさに
 座席の下にもぐりました。
  ソ連機は列車に向けて機銃掃射を繰り返しました。
  それが終わり、我に返ると、目の前には頭を射抜かれ
 血を流している軍服姿の男が倒れていました。
  あと数十センチ銃弾がすれていたら、私が死んでいた
 のです。
  おびただしい死体は、生き残った者によって外に放り
 出されました。
  それにすがって泣きわめく家族・・。
  死体が原野に落ちると、現地人が集まり、服や金歯な
 どをはぎ取る。
  天国だった満州はわずか1日で地獄に変わったのです。
  しばらく進むと、ソ連機の再度の襲撃で列車は動かな
 くなり、代わりに用意された無蓋の貨車に乗り換えまし
 た。
  おそらく先行した軍用列車も同じ目に遭ったのでしょ
 う。
  線路脇には行けども行けども丸裸の死体がころがって
 いました。
  中国人の運転士はたびたび列車を止め、先に進むのに
 金品を要求しました。
  目的地のハルピンに到着したのは、15日昼ごろでした。
  しかし、私たちはなかなか列車から降ろしてもらえま
 せん。
  突如、銃声が激しく鳴り響き、馬にまたがった満州兵
 たちがホームに押し寄せ、何かを叫びました。
  それを聞いた日本の軍人が立ち上がり、「皆さん、日
 本が戦争に敗けました」と言ったのです。
  「私は中国語が少しわかりますが、今から満州軍が日
 本人を支配すると言っています」。
  貨車の中にはすすり泣きの声が広がりました。
  母も姉も泣いていました。
.
1945年8月28日 中華民国で、中国国民党の蒋介石らと、中
 国共産党の毛沢東とが会談した。
  重慶で会談が始まって・・
  1945年10月10日、双十協定が成立したが・・
  会談は事実上決裂し、国民党と共産党は内戦に突入し
 た・・
  この両者には、とうてい理解しえない国の将来に対す
 る基本的考え方の違いがあった。
  各地で小競り合いの戦いが起こり・・
  1946年7月には、本格的な内戦へと突入した。
.
1958年8月、ご都合主義の中国。
  中国は、自分に都合が良いことを一部の人間が決める
 という国である。
  憲法があったって、自分の憲法だけれども無視した。
  憲法だろうが、法律だろうが、そんなものあったって
 「糞、くらえ」となっていた。
  1958年8月、毛沢東が、北載河で、各省の共産党書記を
 集めて演説を行った・・それには・・
  「法律に依拠して多くの人を治める事は出来ない」と・・
  中国憲法軽視の発言をはっきりとする・・
  「憲法は、私が参加して制定したものだ。しかし、私
 は記憶していない」と・・(心には、はっきり、知るも
 のかの心がある)
  それでは、何によって統治するのか?・・というと・・
  毛沢東は言う・・
  「我々の毎回の決議が総べて法律なのだ」と・・また・・
  「会議も法律だ」と・・だからと言う・・
  「我々の各種の憲章に基づく制度は、大部分、90%は
 関係当局が作ったものだ・・我々は、基本的にはこれら
 に依拠しない」と・・
  「依拠するのは決議と会議の結果だ」・・そして言う・・
  「我々は、我々のものに依拠する」と。
  まったく呆(あき)れる・・その日に思ったことが憲
 法だの発言となっている・・
  「我々が決めた憲法や法律に依拠する」とすべきだ。
  この様に、中国は、一握りの者たちの胸三寸で決める
 国である。
  格好良く「人治主義だ」なんて言うが、中国は、その
 日の風向きによって右にも左にも行く一握りの王様の国
 なのである。
  「全国人民代表大会(略称:全人代)」なんて、格好
 良く、大勢集まっているが・・顔見せで、既に、決定さ
 れたことを「シャンシャン総会」の様に党員の手帳を決
 議の時に上げるだけの会議・・
  (参考)全人代は、共産党を中心とする大会主席団、
     全人代常務委員会、国務院などが提出した議案
     や予算を審議する。
      議案や予算の「否決に至った例はない」と説
     明されている。
  反対をしようものなら、今後がどうなるか?・・非常
 に怖いことになる。
  結局、一部の者たちに都合のよい統治となる。  
  憲法無視を公言する国=中国。
  1944年に、中国は、臨時憲法と言える「共同綱領」を
 決めるが・・有名無実・・
  ここには、「表現の自由」があり・・「デモ行進の自
 由」があるが、こんなことは、中国で事実無根・・
  やられているのは・・官製のごますり行為ばかり・・
  「言論の自由」があっても・・「表現の自由の保障」
 があっても・・絵に描いた餅となっている・・
  そんなことを自由にやったら、当局による逮捕が待っ
 ている。
  近代国家ではない・・人民は虐(しいた)げられてい
 る・・
.
1958年、第二次五ヵ年計画開始の頃から、毛沢東は、「大
 躍進」と称する工業・農業の大規模な集団化による大増
 産政策を進めた。 
  1958年、人民公社が設立された。
  数億の中国の農民たちは、土地を放棄させられた。
  人民公社に集団化させられ 、農民たちの生産意欲は低
 下した。 
  農民たちには無理なノルマが課された。
  (参考)ノルマ:基準、特に、各個人・工場等に割り
     当てられた、労働の基準量。
  ノルマを達成でき なかった現場指導者たちは水増しし
 た嘘の報告をした。
  その報告を受け取った毛沢東は、実態を把握しないま
 ま、更なる増産を命令した。
  中国は、その様な悪循環に陥(おちい)って行った。 
  毛沢東は 、数年間で経済的にアメリカやイギリスを追
 い越すのだと、夢見て実施させていた。
  しかし、結果は、数字だけの達成で・・事実は、推計
 で2000万人から5000万人の餓死者が出るという大惨事の
 大失敗に終わった。 
.
1959年4月27日、毛沢東の大躍進政策が失敗に終わり、この
 日に、責任をとった形で毛沢東は退き、代わり中国の第
 2代国家主席に劉少奇(りゅう・しょうき、~1968年10月
 31日)がなった。
.
1961年、毛沢東が、訪中した日本の議員団へ御礼を言った。
  その御礼は、「日本の資本家や日本軍は、良いことを
 してくれました。もし感謝するのなら、私は、むしろ、
 日本の軍閥に感謝したいです」と言った。
  これは、毛沢東の中国共産党軍が、中国国民党軍に大
 敗北し、30万人近い勢力だったのが、その10分の1の3万
 人くらいになり、消滅寸前であった時・・、
  そして、中国奥地へと逃げ、またさらに、奥地へと逃
 げていた時、日本と戦ったことも無い毛沢東の軍は、コ
 ミンテルンの指令で息を吹き返した。
  抗日運動も高まる。
  コミンテルンは、「日本軍と戦う国民党軍と共同して
 民族統一戦線を作れ」と、中国共産党へ命令する。
  この命令に従った中国共産党は、劣勢でもあった。
  中国国民党軍と、その劣勢の内戦を中止でき、階級闘
 争も止め、これによって中国国民の支持も集めることも
 できた。
  そして、中国国政に参加する道も見い出せた。
  第二次国共合作は、毛沢東の起死回生となった。
  後押しした形になった日本軍だった。
  「日本軍に助けてもらった」状況から、毛沢東の感謝
 の言葉となった。
.
1966年~1976年、中国の文化大革命。
  多くの知識人が迫害され、また、中国国民の方々が大
 虐殺された。
  この時、湖南省の零陵地区内の十県で1万人が、直接、
 殺害された。
  この様な事が中国のあちこちで起きていた。
  1980年代、初期の文化大革命は終了するが、この様な
 虐殺が非常に多く行われていたことが分かった。
  共産党の内部調査によると、地方の人々の2000万人以
 上の人々が、殺害されていた。
  中国には、2200の県があるが、中国の行なった文化大
 革命は、国民を多数を殺害していた。
  葉剣英副主席は、「文化大革命では2000万人が死に、
 1億人が酷(ひど)い目にあった」と言った。
  アメリカの著名な中国専門の研究所で、中国人留学生
 たちは、皆、バリバリの共産党員で、日本批判ばかりを
 展開していた。
  南京事件について、その嘘の反論主張ができない日本
 人留学生たちだった。
  そのアメリカ人の教授は、中国人留学生たちへ言った・・
 「そうは言うが、君たちの国・中国では、大躍進や文化
 大革命で1000万人単位で人が死んだ。
  何故、君たちは、それについて何も話さないのだ。
  南京で死んだという30万人の事を、本当だ、嘘だと言
 うつもりはないが、1000万人に比べたら非常に少ないで
 はないか」と。
  バリバリの共産党員の中国留学生たちは、一同、黙っ
 てしまった。
.
1976年1月8日、周恩来が没した。
  周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転した。
  清明節の1976年4月4日から5日未明にかけて、江青らの
 四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われ
 ていた周恩来追悼デモを弾圧した・・すなわち第一次天
 安門事件。
  この事件において、周恩来追悼デモは反革命動乱とさ
 れ、鄧小平は、このデモの首謀者とされて、再び失脚し
 た。
  鄧小平は、すべての職務を剥奪された。
  しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世
 友に庇護された。
  1976年9月に、毛沢東が死去すると・・後継者の華国鋒
   を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後・・、
  1977年に、鄧小平は、三度目の復活を果たした。
  1978年、日中平和友好条約を結び・・、
  1978年10月、日本を訪れた鄧小平は、新幹線への乗車
   で日本の経済と技術力に圧倒された。
  1978年11月、シンガポールの外資誘致の実態を見学。
   これらの海外視察から帰国した鄧小平は、第11期3中
   全会(1978年12月)において、それまでの階級闘争
   路線を放棄し、「経済がほかの一切を圧倒する」と
   いう政策を打ち出した。
  その代表的な経済政策のひとつが、「改革・開放」政
 策の一環である経済特区の設置で、一部地域に限り外資
 の導入を許可・促進することで経済成長を目指すという
 この政策は、その後、きわめて大きな成果を収めた。
  しかし、政治面では共産主義による中国共産党の指導
 と一党独裁を強調し、経済面では生産力主義に基づく経
 済政策を取った。
  生産力の増大を第一に考える彼の政策は「白猫であれ
 黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言った。
  1984年3月、訪中した当時の中曽根康弘首相は、鄧小平
   ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施や、中
   日友好病院、日中青年交流センター設置などで一致
   し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ、沿海部の
   経済特区指定も重なり、これ以降、日本の対中直接
   投資は本格化した。
    このお蔭で今の中国がある。
.
1981年、中国の胡耀邦総書記は、大躍進政策によって「中
 国の全国で2200万人が、非正常な死亡をした」と言った。
  中国は、この頃、農民に今までにない重税を課した。
  清朝もやらない、また、国民党時代でもやらなかった
 重税を農民に課した。
  農民から収奪して工業化を進めようという思惑だった
 が、共産主義という民主性を欠いた政治システムだった
 為、悲惨な死者が現出した。
  本「マオ」では、この死亡者数を「劉少奇は、3800万
 人近い人数を確認している」と記している。
  卑劣にも、この時、農村から奪った食料は、都市部へ
 供給されていた。
  農村の方々の生産意欲は激減した。
.
1990年代から、中国は、各地方の独立採算制を実施した。
  中国の地方の下部組織に、「行政の人事」「事務」「
 財政の権限」などを委(ゆだ)ねた。
  その結果、「行政部門が肥大化」し、その費用を「農
 民たちへの恣意的な課税(自分勝手な課税)」をして対
 処した。
  農民たちへ尻拭い(しりぬぐい)をかぶせた。
  また、この地方の役人たちは、「自分の身内をどんど
 ん地方政治組織の官職に就けた」。
  これは、中央の「国家の命令を無視」して行われた。
  また、この給料をまかなうため、「人頭税という法律
 に無い税金を勝手に作り、その費用まで農民から巻き上
 げた」。
  この様な暴挙に耐えかねた莫大な人数の農民が暴動を
 起こした。
  また、村を捨てて都市へ逃げ、流出した。
  この様な町へ逃げた農民の方々が、「安い労働者とな
 った」。
  この安価な労働者を求めて、アメリカや日本などの先
 進諸国の投資が、活発に行われた。
  この先進国の活発な投資は、中国の製造業の繁栄をも
 たらし、支え続けた。
  あまりにも多い地方からの安価な労働力の供給は、何
 時までも続く「低賃金の厳しい労働環境で雇用できる」
 という雇用者側に都合のよい状況を作った。
  労働者は、不満を言うものなら、すぐに新たな労働者
 が雇用された。
  権力を握る役人天国が現出した。
  自分の身内にまで、その立場の優位さを享受させられ
 たし、また、資本家から賄賂が流れて来て結託した。
  しかし、中国には「これらを正す法が無く」、整備さ
 れてなかった。
  一部の権力者へ、富が、どんどん集中した。
  まったく封建時代そのままの中国だった。
  この様な中国の地方の腐敗・・資本主義などと呼べる
 代物ではまったくなかった。
.
2018年11月19日、中国が必死にGPSの衛星を打ち上げて
 いる。
  この日の発表では、四川省の衛星発射センターから、
 独自開発の衛星測位システム「北斗」を構築する18、19
 基目の衛星を搭載したロケット「長征3号乙」を打ち上げ
 た。
  北斗は、アメリカのGPS(全地球測位システム)に
 対抗する中国独自のシステムとして構築が進められて来
 た。
  何故? 中国独自のシステムが必要なのか?
  仮の話・・中国の大陸間弾道弾の正確な飛行にはGP
 Sとのデーターのやり取りが必要・・その時、その部分
 をアメリカのシステムに頼っていたらどうなるか?
  中国は、独自のシステムが必要と判断したのだろう。
  例えば、中国の大陸間弾道弾が、自国に落下でもする
 ようなことを予測したのか?
  何発も発射した大陸間弾道弾の一発でも、自国へ落下
 となったら大変だと考えたのか?
  肝心な飛行にかかわる所である。
  いざとなったら何が起きるか分からない。
  その総てが、中国へ落下という事も起きるかもしれな
 い。
  大陸間弾道弾を持たなくても、この技術分野の技術を
 持っていれば、問題回避ができるとも言える。
  急速に進む現代の技術・・予測不能な部分である。
.
2018年11月19日、日本の江崎グリコが、液体ミルクの製品
 化に成功した。
  2019年の春に、国内販売が開始される見通し。
  これは、乳幼児液体ミルクが、災害時の救援物資とも
 なる。
  日本栄養士会の作る組織は、災害時の救援物資として
 備蓄する取り組みを進めるとし、2018年11月19日に発表
 した。
.
2018年11月19日、日本は、ブルキナファソに対し、食糧支
 援を決めた。
  資金返還を求めない無償の資金協力・食糧援助である。
  安倍首相は、この日、ブルキナファソのロシュ・カボ
 レ大統領と首相官邸で会談をして、決定した。
  大雨や干ばつなどの天変地異で、食料不足が深刻化し
 ている状況の救済を決定した。
  また、共同声明で、今後、インフラ(社会資本)整備
 の支援も日本は行っていくとしたと発表した。
.
2018年、中国の失敗。
  結果を見れば「中国の社会主義革命は失敗と言える」。
  「経済的不平等が存在」し、また、「人権抑圧が存在
 する」。
  社会主義で経済的平等と人間性の回復を目指したが、
 目指す過程で、その逆の「経済的不平等」と「人間抑圧」
 が、皮肉にも発生した。
  目的こそ崇高であったが、その遂行で「2000万人の死
 者が出た文化大革命」が出現した。
  あまりにも悲惨な経過を経なければ、実現されないと
 され、多くの犠牲者を出した。
  もう、この大参事で失敗だとして中止すべきであった・・
 が、しかし、社会主義化は続けられ、現在でもその「極
 端な格差社会は無残」としか言いようは無い。
  そこには、まず、中国共産党の支配を正当化するため
 の「卑劣な嘘」の存在と、その嘘を隠す嘘の行動が、さ
 らに、結果を悲惨なものにした。
  「建国神話」からその嘘は、すでに始まっていた。
  「中国共産党が日本軍を打ち破った」と言う嘘、そし
 て、「中国国民を守った」という嘘。
  「中国共産党が土地改革をした」という嘘。
  「中国農民を解放した」という嘘。
  ことごとくが嘘となっている。
  中国共産党ではなく、「中国国民党だった」。
  そして、「生産構造は、実は、まったく変わっていな
 い」。
  「中国の社会制度は、今も昔も封建的な地主制度的支
 配関係を基盤としている」。
  「社会主義革命が起きたと思い込まされて来ただけ」。
  「中国研究者でさえ『封建残余だ』と言っている」。
  「『残余』などではなく『根幹だ』とさえ言われてい
 る」。
  「社会主義の衣を着た封建王朝だとさえ自嘲的に言わ
 れている」。
  「中国の人口の0.01%のほんのわずかな中国共産党員
 が支配し、選挙もない」。
  「そのわずかな者たちが、極めて大きな特権を独占し
 ている」。
  「その奴らが蓄財している」。
  1950年に、「中華人民共和国土地改革法を公布したで
 はないか?と反論するかもしれないが、これは、内容通
 りに受け取ったら大間違い。
  確かに「地主階級の法権的搾取の土地所有制を廃止し、
 農民的土地所有制を実施」するとされているが、これで、
 「農民が地主から解放された」と評価するのは大きな誤
 り。
  ここに、「共同農業経営」という美名の元に出現した
 のが「中国・共産党国家」という「超巨大地主」だった。
  「農民へ土地を渡すというのも嘘」。
  実際は、「中国共産党官僚が、徹底的に管理し、利益
 を吸い上げた」。
  実態は、「地主が中国共産党員にすり替わっただけ」。
  かえって「国民党時代より厳しく搾取が行われている」。
  「共同経営だと言ったって、農民の人たちが収穫の中
 から自分の分の分け前を取り分けられないようにされた」。
  日本では、「その様な実体が分からないから喝采して
 いた」。
  「実態は、体よく、効率よく、搾取されるシステムの
 土地改革だった」。
  しかも、「農民は、住居移転や移動の自由を禁止され、
 奪われた」。
  「ただ働き、搾取される奴隷だった」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)619E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月20日、威海衛の戦い(~1895年2月12日)
  日清戦争における戦いで、日本の陸海軍が共同で行っ
 た作戦。
  制海権を完全に掌握するため、威海衛に立てこもる中
 国・清の北洋艦隊の残存艦艇の撃滅と海軍基地の制圧を
 行った。
  日本の勝利で終わった。
  1895年1月20日、「八重山」など4艦の艦砲射撃による
 援護のもとに、第1野戦電信隊と海軍陸戦隊が山東半島先
 端の成山角灯台を制圧した。
  そして、電信線を切断した。
  つづいて、第2師団の歩兵第16連隊を先頭に第一次揚陸
 部隊が、栄城湾の東端に上陸し、栄城県城を制圧した。
  1895年1月21日の翌日、第2師団の残りが上陸し・・
  1895年1月22日、第6師団が上陸した。
  1895年1月25日、大山巌第2軍司令官が栄城県に到着。
  1895年1月26日、第2師団を左縦隊に、第6師団を右縦隊
   に並進した。
  1895年1月30日、第6師団が、百尺崖・摩天嶺での激戦
   をへて威海衛湾の南岸要塞群を制圧した(移動距離
   約60km)。
    また、第6師団の攻撃にあわせて第2師団が、南岸
   要塞群の西側、鳳林集の東南高地を制圧した。
    中国・清軍は、防衛線の一角を破られたこともあ
   り、威海衛市街とその周辺、北岸要塞群などを放棄
   し、撤退。
  1895年2月2日、第2師団が、北岸要塞群などを無抵抗で
   制圧。
    威海衛湾の山東半島側が日本軍に占領された結果、
   湾の出入口にある要衝、劉公島と日島の守備隊、北
   洋艦隊の残存艦艇14隻が孤立することになる。
    また、1月30日、占領した百尺崖砲台にて望遠鏡で
   敵情視察中の歩兵第11旅団長大寺安純少将が敵艦の
   砲撃を受け戦死し、『二六新聞』記者遠藤又市も死
   亡。
    孤立しても、劉公島と日島の守備隊、北洋艦隊の
   主力艦は健在であり、視界に入る日本軍を「定遠」
   の30センチ砲などで砲撃した。
    日本軍は、当初、陸軍が小口径の陸上砲で応戦す
   るが、北洋艦隊の主力艦による艦砲射撃は圧倒的で
   あり、地上からの攻撃による北洋艦隊制圧は難しい
   と判断された。
    海軍(連合艦隊)に応援を要請し、海軍は水雷艇
   部隊を威海衛湾内へ突入させて襲撃する作戦を決行
   した。
  1895年2月5日午前3時20分、2月4日の夜から闇にまぎれ、
   清軍によって仕掛けられていた防材をかわして威海
   衛湾内へ侵入した日本海軍の水雷艇部隊は、予定ど
   おり襲撃を決行した。
    衝突事故を起こしながらも魚雷攻撃を行なった。
    北洋艦隊の旗艦「定遠」が大破、「来遠」「威遠」
   等3隻を撃沈、
  1895年2月9日、明け方、日本軍は水雷艇部隊を威海衛
   湾内へ突入させ、2回目の襲撃を行い「靖遠」を撃沈。
   この攻撃において、日本軍は、水雷艇を突入させる
   だけでなく、日本艦隊の艦砲と制圧した湾対岸にあ
   る砲台の備砲が北洋艦隊の牽制を目的とした支援射
   撃を行った。
    威海衛湾に安全な場所が無くなった清軍の水兵が
   反乱を起こした。
    清軍の陸兵と、清国へ派遣されていた外国人軍事
   顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求める。
  1985年2月11日、降伏を拒否していた丁提督が、李鴻章
   に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心
   セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワ
   サル旨」と決別の打電を打ち、後に服毒自決した。
  1985年2月12日、「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮
   官も自決。
  抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐
 亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)
 を提出した。
  1895年2月14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放につい
   て両軍が合意し、
  1895年2月15日、調印が行われた。
  1895年2月17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に
   解放された。
    また、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍
   将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を
   乗せて威海衛湾から出航。
    作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持する
   こととし、砲台など軍事施設を爆破した。
    作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦に
   そなえて旅順に移動。
  なお、伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を
 外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、
  また、清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世
 界常識として例を見ない厚遇であった。
.
1895年1月、北海道炭砿鉄道が、北海道移民を無賃輸送とし、
 また、その携帯日常品(家具・衣類・農具)も無賃輸送し
 た。
  そして、すべての乗客で60マイル以上の乗客に対して、
 運賃の5割引を実施した。
.
1895年1月、樋口一葉の小説「たけくらべ」が、雑誌「文学
 界」で連載がはじまり、評判となった(~1896年)
  森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に激賞された。
  東京下谷大恩寺前を舞台に、
  遊女となる運命が予定されている大黒屋の美登利と竜
 華寺の跡取りになる内気な少年・信如との淡い恋を中心
 として、
  田中屋の正太郎などを交え、
  酉の市(とりのいち)などの風物も描かれ、
  吉原の花街近くに住んで、思春期にさしかかろうとす
 る少年少女の姿を、
  吉原遊郭周辺と四季の移りかわりを背景にして、抒情
 的に描く・・、
  明治文学の中でも、最も完成度が高い短編と言われる。
.
1895年1月、『小国民』、手旗信号の個所が機密維持法違反
 で告発さた。
  また、後に、治安妨害の理由で発禁に、1895年11月『
 少国民』になる。
  『小國民』の内容は、歴史、地理、理科、修身読み物、
 子どもたちの投稿文から成った。
  科学読物に重点が置かれ、事実に基づいて書くことが、
 基本的姿勢とされた。
  しかし、「海軍の信号」という絵入り手旗信号の記事
 により、海軍の機密維持法違反で告発された。
  さらに、「嗚呼露国」が治安妨害に当たるとして発行
 禁止処分を受けた。
  2ヵ月後、『少國民』と改題し発行を続けた。
  しかし、発行元の学齢館が経営不振に陥り、発行所が
 北隆館に移った。
.
1895年1月、ロシアの暗躍
  日清戦争の当時、西欧米の列強はまったくの門外漢で
 あったかと言えば、当然、中国や朝鮮半島に利権を持っ
 ている西欧や米の列強は、まったくの門外漢であるはず
 はなかった。
  朝鮮自体が、中国の冊封体制により、長らく属邦化政
 策がなされて来ていて・・
  朝鮮は、その中国の政策から抜け出したいとロシアに
 接近していた。
  1885年4月15日には、巨文島事件が起きる。
  イギリス東洋艦隊が朝鮮の巨文島(くもんとう)を占
 拠していた。
  これは、朝鮮に進出しているロシアを阻むために、イ
 ギリスが行なった。
  この様に日清戦争は、単純に日本と中国の清との対立
 という構図で行われたのではなかった・・そして・・
  ロシアが、不凍港が喉から手が出るくらい欲しいとい
 う理由の一つを上げれば・・、
  1895年当時、ロシアのウラディヴォストーク港は、冬
 期の4か月間結氷し、この間、ロシア太平洋艦隊は、日本
 の港湾で過冬していた。
  ロシアが、この状況を解決しようと画策するのはこの
 一例をもってしても分かる・・そして・・
  1895年1月、ロシアは、英仏に対し日本に講和を勧告し、
 かつその条件を開示すべく申し入れることを提議した・・
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に、対日申
 し入れを行った。
  結局、英露協調は、4月初めの下関講和会議において、
 日本が提示した講和条約案(遼東半島割譲を含む)に反
 対しないという決定をイギリス政府が下したことにより、
 崩壊した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた(2008年)
.
1934年初頭、この頃から投入された中国の中央軍、広東軍、
 湖南軍135万に紅軍は耐えられず、この年の1934年11月か
 ら江西中央ソビエト区を放棄して紅軍(中国共産党軍)
 は「長征」を開始した。
  この当時の共産党の実質的最高指導者は毛沢東ではな
 く秦邦憲(しんほうけん)だった。
  (参考)秦邦憲:1931年1月~1935年1月の中国共産党
     の最高指導者の一人だった。
      モスクワに留学している。
      秦邦憲は、コミンテルンより派遣された軍事
     顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提
     言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。
      1934年4月の広昌(こうしょう、江西省撫州市
     に位置する)失陥(しっかん、攻め落とされ失
     うこと)に際して、1万以上の兵力を失うという
     大敗を喫し、瑞金(ずいきん、江西省贛州市に
     位置する県級市)の陥落は避けられない情勢と
     なった。
      1934年7月から、ばらばらと福建省方面などへ
     と脱出する。
      南下を始めた共産党軍は、明確な目的地は無
     く、ただただ逃げ惑う軍団だった。
      1934年12月には、3万余りの兵力に激減してい
     た。
      1935年1月、遵義会議(じゅんぎかいぎ、中国
     共産党中央政治局拡大会議)で指導権を毛沢東
     に奪われた。
  そして、その毛沢東の中国共産党軍が、蒋介石の中国
 国民党軍に大敗して、その存亡が危ぶまれていて、延安
 という中国の奥地の奥地へ逃げ込んでいたその頃・・中
 国国民党の蒋介石は、抗日運動家を逮捕したりして居た。
  抗日する中国国民を捕まえていたのである。
  日本に迎合しようとする蒋介石だった。
  それは、日本に敵対すると中国沿岸部の経済建設が出
 来なくなると考えていたからだった。
  経済建設に「日本の力を借りたい」と考えていた。
  都市部に基盤を置く蒋介石・国民党は、この方針を重
 要と考えていた。
  そして、1936年12月12日、蒋介石が張学良に監禁され
 るという西安事件が起きる・・これが転換点だった。
  そして、中国共産党から「内戦停止」と「一致抗日」
 を迫られる。
  そして、その翌年の1937年9月に、第二次国共合作が成
 立する。
  日本との協調路線の流れが変わる西安事件だった。
  そして、1937年7月7日には、中国側の発砲で盧溝橋事
 件が起きている。
  この事件の時は、日本と国民党軍は戦戦を拡大させな
 い様にとの協定を結び、戦闘も収まっていた。
  しかし、1937年8月、上海で戦いが始まる。
  アメリカに武器を援助された蒋介石の大部隊が、上海
 の「イギリスの租界などもある国際租界」の中の日本租
 界に攻めてくる。
  そして、南京まで戦いは続いて行く。
  中国の泥沼の長い戦争が始まる。
  国際租界がある上海という地域は、世界の関心の集ま
 っていた地域だった。
  蒋介石は、その世界的な注目を集まる状況を利用しよ
 うとした。
  そして、日本を貶(おとし)めるプロパガンダを盛ん
 に行う。
  まったく関係のない中国共産党が(中国国民党が関係
 しているのに)、今・現在に至っても「起きてもいない
 南京事件をでっち上げてプロパガンダしている」。
  また、この当時、今・現在とは違う世界のつながりが
 あった・・ポイントは、イギリスがナンバーワンで、ア
 メリカが育って来ているという状況だった。
  日英と日米・・
  そのナンバーワンのイギリスと日本は日英同盟(1902
 年以来)の関係にあった。
  軍事力も強大化して来たアメリカは、イギリスという
 ナンバーワンの国を「乗り越えたいとする国」だった。
  1922年のワシントン会議(第一次世界大戦後の会議)
 で、アメリカは、この日英同盟の関係を潰したかった。
  そして、この会議で、日英同盟は廃棄させられた。
  日本にとって不利な状況となった。
  日本とイギリスの繋(つな)がりが無くなった。
  そしてまた、これは、これは、アメリカの「イギリス
 の力も削ぐという目的」でもあった(日本の力を削ぐと
 いう目的だけではなかった)
  日英が同盟してくっついていては、アメリカにとって
 都合のよくない不利な状態だった。
  大きな植民地の領土を持つイギリスは、何しろ強大で、
 大き過ぎた。
  イギリスは、この広がり過ぎたイギリス帝国の領土に
 ついて、日本を頼りにしていた。
  中国大陸において、イギリスは日本に統治を頼み、日
 本の軍事力に期待していた。
  そのような関係(日英同盟の関係が深化する関係)を
 アメリカは恐れていた。
  日本とイギリスは、まったく敵対する関係なんていう
 関係ではなかった。
  アメリカはこれを恐れ、ワシントン会議で日英同盟の
 解消に努めた。
  この後の歴史の流れは・・日英同盟が米英同盟の流れ
 になって行く。
  これが、アメリカの戦略だった。
  幕末から世界をリードして来ていたイギリスの国際社
 会が、アメリカの主導となって行く。
  アメリカの軍事力が、イギリスを凌駕(りょうが、他
 の者を越えてそれ以上になること)して行く。
  18世紀は、イギリスの植民地だったアメリカだった。
  それが、20世紀には、アメリカが、イギリスを軍事援
 助した。
  この様な歴史の変遷の中で、アメリカを仰ぎ見る様に
 なったイギリスは、1943年、次のような事を言う・・
  (イギリス首相のウィンストン・チャーチルの言葉)・・
  「イギリス政府は、同盟国(アメリカ)との協力は惜
 しまないが、イギリスの植民地統治はあくまでもイギリ
 ス政府がこれを維持する。
  植民地共同統治のごとき思想には、断じて賛成できな
 い」と。
  アメリカに、イギリスの植民地を盗み取られることを
 恐れたチャーチルの言葉だった。
  アメリカは、イギリスの植民地さえ得たいと思ってい
 た。
.
2008年、中国が、100万人以上を原爆投下をして殺していた。
  札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータと
 NEDIPS、RAPSの計算システムにより分析して、
 100万人以上の死傷者、被曝者がでたと推論した。
  (参考)NEDIPS:科学シミュレーション用のデ
     ータフロー計算機・・
      文献、特許などの情報をつなぐことで、異分
     野の知や意外な発見などを支援する新しいサー
     ビス
      データ・フロー・イメージ処理システム(NEDIPS)
     におけるSARデータ処理
  中国の行なう核実験の中でも、「地表核爆発」は、地
 表物質(砂礫など)と混合した核分裂生成核種が大量の
 砂塵となって、周辺および風下へ降下するため・・、
  空中核爆発と比べて核災害の範囲が大きくなる。
   (参考)核分裂生成核種:核分裂によってできた核
      種、またはそのような核種(核分裂片)から
      放射性の崩壊によってできた核種をいう。
  このような危険な実験を、中国は、ウイグル人の居住
 区で行った。
  また、実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キル
 ギスタンでも、人体が影響される放射線量となっている。
  核実験は、1996年まで行われ、現在も、東トルキスタ
 ンの人々の健康被害と環境被害とは続いている。
.
2008年4月26日、北京五輪・聖火リレー中の長野県で、中国
 政府に動員された中国工作員や在日中国人留学生などの
 中国勢力が、中国政府による弾圧に抗議するチベットの
 方々へ暴力行為に及んだ。
  国際問題的であったので日本の警察などの公権力も控
 えめであったが、逮捕者も出た(但し、中国人に対して
 は逮捕をしなかった・・逮捕されたのは日本人だけ)。
  中国国旗が何本もはためく長野県の公道は、さも中国
 によって日本が占領された如くであった・・
  その様な中で行なわれたのが、中国勢力によるチベッ
 ト民族の方々への弾圧のごとくの行為で、今・現在、チ
 ベットで起きていることが日本でも起きている様だった。
  中国の公権力の者が私服を着て参加していたと言われ
 ている。
  この状況は、完全なる中国による日本の主権を侵害し
 ている行為だった。
  メディアの調査によると・・中国人参加者2000人とい
 う数字や・・、また、長野駅前だけでも1万人を超える数
 だったともいう。
  また、警察発表では4000人の中国人留学生が長野に集
 まったとされている。
  バスツアーで6万2千人の応募があって、ツアー個人旅
 行を含めて1万人が参加したとの推測もある。
  中国人学生だけでなく、明らかに中国マフィアと思わ
 れる風体の者もいたと言われる・・
  自動車から大きな中国国旗を何本もはためかせて、長
 野県の公道を疾走する中国人の姿・・
  日本を、さも従属国の如くの行為だった・・堂々とし
 た行動という声もあり・・まったく日本を馬鹿にした行
 動だった。
  また、道路交通法違反のハコ乗りで、長野県の公道を
 走り回る中国に、何もしない日本の警察に長野市民から
 の抗議の声が沸いた。
  (参考)ハコ乗り:走行中の乗用車の窓から身を乗り
     出すこと。
      道路交通法の違反行為。
      よく知られたな話として、鈴木宗男氏の箱乗
     り選挙運動が、一時期、問題とされ騒がれた。
  特に、長野駅周辺で危険行為を繰り返す中国人・・そ
 して、無視状態の日本の警察官の大群・・
  街頭で暴力を振るう中国人は、日本の警察官に制止を
 されても無視するという態度の中国人だった・・「日本
 の官憲なんて関係ない」という態度だった・・
  長野駅前のバスロータリーの・・街の中のその高台に、
 中国国旗を何本も立てて・・その何本も旗をはためかさ
 れるという状態は、日本が占領され、占領完了の様であ
 った・・武器こそ持っていないから良いようなものの、
 勝ち誇ったような中国人たちであった・・
  日本のバスなどの交通機関は最徐行・・長野の街には
 大声の中国語が響き、騒いでいた・・
  チベット国旗もはためくが、中国国旗に圧倒されてい
 た・・
  中国人だけが行なう暴力行為に、見ている日本人から
 は、「中国人は中国に帰れ」のシュプレヒコールが沸い
 た・・
  この騒ぎで日本側に19人の負傷者が出た・・
  長野県という日本の主権のある地で、白昼の街中で、
 堂々と中国人による不正(違法行為や暴行)が繰り返さ
 れていた。
  日本の官憲は何もしないで通してしまった・・
  常識ある日本の知識人たちは立ち上がった。
  その一人である「殴る・蹴るをされたジャーナリスト
 の水間正憲氏」は、その不正をテレビで説明した・・
  「フリー、チベット」と言っている人たちへ中国国旗
 で殴りかかって来る中国人・・
  また、直系5cmの金属棒で殴りかかって来る戦闘的な
 中国人・・
  中国のこの類を専門とする集団という風体だった・・
  この輩は、相手に抗議するという事なしに、いきなり
 襲い掛かって来る集団だった・・
  頭という急所を狙って殴りかかる行動だった・・
  頭部挫傷と首の頸椎捻挫の負傷者もいる・・もっとひ
 どく殴られた人も居るという状態・・
  https://www18.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/28.html
  日本政府は、中国大使館が招集をかけ、旗や横断幕の
 準備をしたと確認している。
  ここで、優遇される留学生が問題となる・・
  2008年3月25日、参議院文教委員会で谷岡郁子議員が
 質疑した・・
  国費留学生の給付総額223億円
  大学院:17万円(月額、学部:13万4千円(月額)
  ※留学生の大半が中国人という状態
  さらなる優遇策は・・日本政府は、留学生に、この「
 奨学金(返還不要)」を与えている。
  長野の聖火リレーに集結し、この様な状況を起こした
 中国人留学生の多くも、この恩恵を受けているだろう。
  しかし、日本人学生には厳しい日本の政府で・・「奨
 学金」という名のローンを押しつけている。
  また、この事件で、旅行業免許がないのに「不特定多
 数」へ呼かびかける行為をした・・中国人留学生で組織
 する「全日本中国留学生学友会」(李光哲会長)が、26
 日に長野で行われる聖火リレーに向けて2000人を動員し
 て行う大規模ツアーが、旅行業法に抵触する可能性があ
 ることが分かった
  テレビ朝日 2008年4月24日(ワイドスクランブル)で、
 中国人の旅行業法違反の疑いについて報道された。
  NHK総合、2008年2月14日、スピルバーグ氏が、北京
 オリンピックの美術顧問を辞退した・・これに対して、
 中国は遺憾の意を示した。
  映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏が、中国の
 スーダンのダルフール紛争に対する姿勢に対して北京オ
 リンピック開会閉会式の美術顧問を辞退する声明を発表
 した。
  アルピニスト野口健氏は・・
http://megalodon.jp/2010-1010-1035-58/blog.livedoor.jp/fuji8776/archives/51052593.html
  平成20年3月22日付の「チベット動乱~北京五輪出場へ
 の条件~」 「チョモランマは私にとっての聖地でもあり
 ます。 中国にとってタブー中のタブーであるチベット
 問題について発言を繰り返せば、二度とチベットに入れ
 なくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。ひょっとすると、
 もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。私の
 故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
  極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇も
 したが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして、語らないことは加担する事と同じだ。
  確かに一登山家に出来る事は限られている。しかし、
 私にも何かが出来るはず。そうせめて声を上げ続けてい
 きたい」
  実際、これ以降、中国政府は、野口健氏へ入山許可を
 出さず、野口健氏を支えていたスポンサーが降りるとこ
 ろも現れた。
  しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議
 の声を挙げ続けている。
  当日のテレビニュースや翌日の朝刊等には、日本側の
 負傷者のことは一切出なかった。
  それどころか、中国側にけが人が出たと伝えた。
  これは、中国が軽いケガでも救急車を呼び、日本側は
 簡単に救急車を呼んではいけないという良識が働いたと
 いう差が出た。
  日本側は、当日、長野中央警察署に2名が被害届を出し
 ているが、けが人の発表は、消防側にあるため日本人は
 ゼロとなった・・中国側の作戦勝ち。
  TBSの取材が来た・・チベットサポーターの1人が、
 「日中記者交換協定があるから映せないのか?」とアナ
 ウンサーに聞いた。
  TBSアナウンサーは、「はっ?勝手に叫んでれば?」
 と吐き捨てて消えた。
  (参考)日中記者交換協定には、「日中双方の記者は
     駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を遵守
     する」、
      また、「駐在国が外国新聞記者に与えるのと
     同じ待遇を受けるものとする」。
      付属文書として、「日中両国は、政治の体制
     を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重
     して、相侵さないという原則を確認した」・・
     などとある。
  TBS、2008年4月13日、サンデーモーニングのコメン
 テイター浅井信雄氏の捏造と思われる発言・・
  「聖火リレーは大成功とイギリス新聞は報じた」と。
  (実際の大騒ぎの状況を口にしないで、実情がまった
 く伝わっていないコメント)
  浅井氏のコメントは・・
  「英紙タイムズは、聖火リレーは大成功と書いている。
 つまり、マスコミは騒ぎになったことを繰り返し報道す
 るが、全体としては成功と英国の一流紙が書いている」
 と、この様な発言をした・・
  しかし、実際は全く逆で・・
  以下のような英国各紙の報道となっていて、TBSの
 浅井氏はとんでもない嘘つきコメンテーターとなってい
 る。
  聖火リレーの妨害は「民主主義の勝利」と英各紙は好
 意的に報じた・・
  タイムズ(The Times)は、「中国は今回のデモで、五
 輪を自分たちの都合で捉えることは できないと気づいた
 はずだ」。
  「聖火リレーは、あらゆる権利を象徴するもので、中
 国の栄光を示すためのものではない」。
  「むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題
 への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない
 不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だというこ
 とを示す機会となった」との評論を掲載した。
  しかし、日本のテレビの「日本テレビ」は・・、
  チベット人が、中国人にかまれたと言うと笑って去っ
 て・・流血したと騒ぐ中国人の主張を取材し、血をふき
 取ってティッシュを日本テレビのカメラに向け、「みな
 これ見てよ、中国人の血よ」と言う始末。
  NHKは、リレーの途中で妨害が相次いだと報道・・
 抗議ではないと報道した・・また、亡命チベット人をた
 だの台湾人と報道した。
  チベットからの亡命者であることを隠したNHKだっ
 た。
  また、中国人の日本人に対する暴力などは一切報道し
 ないNHKで・・中国寄りのNHKだった。
  日本政府の高村正彦外務大臣は・・、
  「中国人もチベット人も一人も逮捕されてないんです
 よ」と、何もなかったと言いたいような態度だった。
  また、テレビ朝日の報道ステーション(2008年4月18日)
 で・・高村正彦外務大臣は・・、
  「中国側は、アジアの中でチベット問題に注文を付け
 ているのは日本だけだ」と言って、事実と違う、中国寄
 りの代弁者の様な発言だった。
  長野県警は、中国人の暴力行為を多く見ていながら逮
 捕しようとまったくしなかった。
  それは、長野県警の警備の3000人を上回る中国人の数
 に対してその様な態度をとったのか?
  または、「中国国旗を掲げていると逮捕できない」と
 判断したのか?
  集団で暴行を加えていても、旗竿のアルミパイプで暴
 行していてもまったく逮捕せず・・
  日の丸を持っている日本人さえ旗を持っていると攻撃
 対象になった・・日本という国の中であるのに・・
  中国人は、大声で「中国は一つ」と叫んでいた・・そ
 して、「日本を潰せ」という声で叫んでいた・・
  日本人が抗議すると、その抗議された日本の警察官は
 「逮捕すると暴動になるから」と逮捕しない理由を言っ
 た・・だから、長野県警は「日本人だけを逮捕した」。
  中国政府、および、中国大使館は、日本の警察を褒め
 た・・
  日本のマスコミも中国にしばられていて・・、
  また、日本の警察も中国に縛られていて・・
  これが日本かというような・・日本が、中国にがんじ
 がらめにされている・・そして、正義が通らなくなって
 来ている・・
  この様な事が、日本の中心である東京で起きる可能性
 を日本は、この時、知った・・
  「外国人に参政権を与えよ」という陰謀の叫びもある
 日本となっている・・
  この時のこのような事態で、駐日の中国大使館には、
 このような力があることを知らしめ、長野で実証された・・
  青山繁晴氏は、この重大性を知っていて・・「長野聖
 火リレー」と呼ばずに、『長野事件』と呼ぶべきだと言
 った・・「これは事件」という認識・・
  2020年の東京オリンピックの時も、この様な事は起こ
 るだろうと予測される・・
  より発展した形で起きる可能性が大きい・・
  テロ事件が併発することが恐れられている・・
  「暴行を堂々としている中国人を逮捕しなかった長野
 県警」は、悪い先例・先行事例を与えてしまった。
  国家が持っている主権、その主権を行使する警察が、
 怖気(おじけ)づいたという事例となってしまった。
  中国の毒餃子事件の時も、苦しんでいる被害者が居る
 のに・・福田総理は、「中国は前向きにやっているのだ」
 とおべっか発言をした・・この様な日本となっている。
  それに対して、怒りの声を発した大臣・議員・官僚は
 わずかだった・・
  中国の属国化している日本が・・そこにある・・
  逆に、日本の警察は、チベット支援者の行動を法的な
 根拠がないのに制限する行為に出た。
  そして、逆に、同じことを、「中国人たちに許した」
 という筋の通らないことをした・・
  それを指摘する日本人に対し「無視する警察だった」。
  「明らかに、中国人を優先する警察」に怒りの声を上
 げて抗議する日本人たちだった。
  しかし、逆に、その日本人に対して、「脅したりする
 警察」だった。
  自動車から身を乗り出して中国国旗を掲げて走る違反
 行為に何もしない日本の警察だった。
  日本の警察官が、この明らかな道交法違反行為に、「
 何の違反をしているの?」ととぼける始末・・
  中国人も、日本の警察を馬鹿にして、無視し、制止も
 何もあったもんじゃない状態・・
  チベット国旗を掲げただけのオートバイ運転手には国
 旗を降ろすようにと言う警察・・
  中国へのゴマすり警察の姿・・
  式典会場の隅に追いやられたチベット支持者たち・・
 式典が見られないという状況・・
  移動したいと言うと「移動許可」は出してないと言う・・
  中国人たちは、式典会場のそばに陣取っているという
 異常さがあった・・
  日本の警察は、「何があっても中国人を逮捕しない」
 という怪しい話が事前に知られていた模様・・
.
2017年、インドには、今でもインドの土地を所有するイギ
 リス人が居る・・
  植民地時代からの収奪者となっている。
  昔、インドの方々を虐(しいた)げ尽くしたイギリス・・
  このイギリス人が・・こんな昔から・・今も・・大き
 な茶園を経営し、所有する大地主におさまって居る(名
 義上での大地主で経営者・・利益収奪者)。
  インドの方々は、皆、お茶を飲む習慣を付けられ、こ
 のイギリス人ブルジョアのフトコロが潤っている。
  そして、このブルジョアイギリス人は、イギリスのグ
 ラスゴーの豪邸に住んでいる。
  インドに住みもしないイギリス人が、金だけはインド
 から巻き上げている。
  遠い昔から、インドの方々のものであるものを収奪し
 て、今なお利益を収奪するイギリス。
  この様な外国人所有の土地には、目から火が出るほど
 の税金をかければ良いのに・・、
  日本も、北海道や沖縄などに・・いざという時に拠点
 にしようとする土地が外国人に買われている・・特に中
 国・・この様な土地には・・べらぼうな税金を掛けよ!
.
2018年、日本政府へのお願い文
  題:アイヌは先住民ではありません。
    決議のお願い・・
.
  拝啓
  御公務、ありがとうございます。
  アイヌは先住民ではありません。
  種々の歴史的史実が示す様に・・少し、歴史を調べた
 だけでもその事実が判明します。
  しかし、キリスト教が支援したりして、国連機関など
 はプロパガンダされて、間違った認識を持っています。
  その間違ったアイヌへの認識を持つ国連機関の日本へ
 の働きかけから、日本はその対処に明確な態度を避け、
 不明確な決議などをしております。
  ここで、明確に、「『アイヌは先住民ではない』とい
 う決議」をして戴きたい。
  お願い申し上げます。      敬具
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)618E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
.
1895年1月14日、日本領の尖閣諸島を編入した。
  尖閣諸島は、閣議決定で沖縄県に編入された日本固有
 の領土で、周辺海域に石油資源などが埋蔵されている可
 能性が指摘された1970年代になって、急に、中国が領有
 権を主張するようになった・・主張すればいいというな
 ら誰でも何でも言える・・この逆のことだって言える。
  古来から日本領だった尖閣諸島は、現在、日本が有効
 に支配しており、領土問題は存在していない。
.
1895年1月15日、有栖川宮熾仁親王が薨去、61才。
  有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんの
 う、1835年2月19日~1895年1月15日)有栖川宮9代親王。
  有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。
  1851年(嘉永4年)(16歳)仁孝天皇皇女・和宮親子内
   親王と婚約したが、和宮内親王が将軍・徳川家茂に
   降嫁のため沙汰止みとなった。
  1858年(23歳)日米修好通商条約の調印に反対して尊
   王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持し主張した・・
  1864年(29歳)国事御用掛に任ぜられたが・・攘夷(じ
   ょうい)論を主張・・以来国事に奔走。
  1864年8月26日(29歳)禁門の変で長州藩士に荷担した
   ゆえをもって謹慎を命ぜられた。
   この後、国事御用掛を罷免され謹慎の身となる朝譴
    (ちょうけん、おとがめ) を受けた・・が・・、
  1867年12月(32歳)王政復古とともに新政府の総裁職
   に就任した。
  1868年1月27日(33歳)鳥羽・伏見の戦い(~1868年1
   月30日)・・
  1868年2月(33歳)戊辰戦争では、征東大総督として官
   軍を率いて東下、江戸に入り・・鎮定に功を立てた。
   のち兵部卿、福岡藩知事、元老院議長・参謀総長等
   を歴任した。
  1877年(42歳)西南戦争では征討総督となり、
   戦後、陸軍大将となる。
  1889年(54歳)参謀総長に進み、
  1894年7月25日(59歳)日清戦争(1895年4月17日)に
   は広島大本営に軍務をとったが・・、
  1895年(61歳)病を得て没した。
   陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地。
.
1895年1月15日、播但鉄道(ばんたんてつどう)の寺前駅~
 長谷駅間が開通した。
  播但鉄道は、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)
  播但線の大部分が私設鉄道だった。
  兵庫県の播磨地方と但馬地方を結ぶ鉄道として建設さ
 れた。
  山陽鉄道の国有化と同時に官設鉄道の一部となった。
  1876年、現在の姫路市飾磨と生野銀山の間には生野鉱
   山寮馬車道が整備された。
  1887年、内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄
   道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、「生野ヨリ(中略)
   飾磨港ニ達スル」経路で鉱山と港を連絡する意図で
   将来は蒸気鉄道にする計画だった。
.
1895年1月16日、ハワイ人王政派が武装蜂起した
  アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住
 し、ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起
 した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた。
  この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が
 逮捕され・・幽閉された。
  原住民の大虐殺の後、ハワイを完全に乗っ取った。
  1865年5月9日、アメリカで南北戦争が終わる布告が出
 された。
  この南北戦争が終わった頃から、アメリカ本土では肉
 や砂糖価格が急騰した。
  このためサトウキビの栽培に適したアメリカ周辺の島
 がアメリカの餌食となる。
  アメリカの砂糖商人たちは、襲いかかるようにその島々
 の土地を買った。
  そして、すさまじい勢いで開発されていった。
  1860年代で、アメリカの白人たちは、すでにハワイ全
 土の4分の3の土地を取得した。
  そして、その土地をサトウキビのプランテーションに
 して行った。
  南のキューバ島と、西のハワイ島が欲しいアメリカ。
  その島々が餌食となり、砂糖商人たちの儲けの金庫と
 なった。
  今(2018年)、日本の北海道が同様に中国に買われて
 いる。
.
1895年1月20日、日本軍が、山東半島に上陸した。
  清国艦隊の北洋艦隊の拠点である威海衛の攻撃を行う
 ために海から山東半島へ進み、栄城湾からの上陸を行っ
 た。
  軍艦からボートに乗り換えて上陸を行った。
  この作戦が行われる2日前の1月18日に、連合艦隊司令
 長官の伊東祐亨海軍中将が本国の大本営に送った電文で
 は・・
  「翌日(1895年1月19日))の午後1時に、陸軍の運送
 船を護送して栄城湾に向かって出発する」ことが伝えら
 れている。
  また、作戦が行われた4日後の1895年1月24日の大本営
 が陸軍次官の児玉源太郎陸軍少将へ送った電文では・・、
  栄城湾からの山東半島上陸作戦に参加した薩摩丸から
 の報告内容として・・この作戦において、陸軍部隊の揚
 陸に先行して、海軍の陸戦隊が上陸したことや・・、
  この時に清国軍からの攻撃があったこと、戦闘の後に、
 順次運送船が到着し、陸軍部隊の揚陸が進められたこと
 が伝えられている。
.
1895年1月22日、ハワイ王国が滅亡した。
  リリウオカラニ女王が廃位させられて、ハワイ王国が
 滅亡した。
.
1895年1月28日、九州鉄道の川尻駅~松橋駅間が開通した。
  その後、熊本方面と天草・島原との連絡のために、1899
 年12月25日に、宇土駅から三角駅までが開通して、宇土
 駅が分岐駅となった。
.
1895年1月28日、関西鉄道の柘植駅~奈良駅間の建設免許状
 が下付された。
  奈良鉄道によって京都駅~木津駅~奈良駅間が開通し
 た。
  関西鉄道奈良線と名付けられているが全区間が京都府
 内にある。
.
1895年1月29日、高等女学校規程が公布された。
  文部省令第一号 (明治28年文部省令第1号)
  高等女学校規程ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十八年一月二十九日文部大臣侯爵西園寺公望
  高等女学校規程
  第一条高等女学校ノ学科目ハ修身、国語、外国語、
      歴史、地理、数学、理科、家事、裁縫、習字、
      図画、音楽、体操トス又随意科目トシテ教育、
      漢文、手芸ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコ
      トヲ得
      外国語、図画、音楽ハ府県立学校ニ就キテハ
      文部大臣ノ許可ヲ受ケ其ノ他ノ学校ニ就キテ
      ハ地方長官ノ許可ヲ受ケテ之ヲ欠クコトヲ得
      又生徒ノ志望ニ依リ之ヲ課セサルコトヲ得
  第二条高等女学校ノ修業年限ハ六箇年トス但土地ノ
      情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
  第三条高等女学校ノ第一年級ニ入ルヘキ者ハ修業年
      限四箇年ノ尋常小学校ノ卒業生若クハ之ト同
      等ノ学力ヲ有スル者トス (以下略)
.
1895年1月31日、京都で、わが国最初の路面電車が開業した
 (電気鉄道のはじめ)(2月1日説あり)
  京都電気鉄道が東洞院塩小路下ル(京都駅近く)~伏
 見下油掛(京橋)間を開業した。
  当初は、停留場の概念がなく、電車は任意の場所で乗
 降扱いを行なった。
  この市街路面電車の歴史は、1978年9月30日(昭和53年)
 までの83年間だった。
  民営の京都電気鉄道会社(京電・きょうでん)が、東洞
 院(ひがしのとういん)塩小路(しおこうじ)下るの七条停
 車場(しちじょうていしゃじょう、京都駅)と伏見町(ふし
 みちょう)下油掛(しもあぶらかけ)間の営業を開始し、当
 時、先走りの少年が居た。
  開業の6か月後の1895年8月、雑踏や街角、そして、橋
 上では、電車の先五間(約9メートル)以内を先行して、昼
 は旗、夜は提灯をもち、「電車がきまっせえ。あぶのお
 っせえ」と叫びながら、線路を走る告知人がいた。
  告知人は、12歳から15歳の少年で、先走りと呼ばれた。
  この告知人制度は、府令第六十七号電気鉄道取締規制
 によるもので・・
  仕事は、危険な上に、汗とほこりにまみれての重労働
 で、少年が電車にひかれる事故が相次いだ。
  そのため、告知人制度は廃止に至った。
  また、動力の電気は、琵琶湖疏水(びわこそすい)の水
 力発電によって電力が供給されていた。
  そのため、疏水の流れが止まると、京電も休業となっ
 た・・疏水止まれば電車も止まる・・
  この京都の路面電車(京電)は、1912年6月、京都市営
 電車の営業が開始され、激しい客取り合戦が繰り広げら
 れる様になった。
  1918年7月(大正7年)京都市が京電を買収し、競合区
 間の路線が統一された。
  そして、大正中期から昭和初期まで、市電の黄金時代
 が続いた。
  そして、また、1959年~1964年から、市電と競合する
 市バスや会社バスが増加した。
  更に、自動車も多くなりはじめ、路線の自由がきかな
 い市電の経営は行き詰まりを見せた。
  1970年3月31日、日本最古の路面電車路線だった伏見線
 (塩小路高倉・しおこうじたかくら)と中書島・ちゅうし
 ょじま)間と、稲荷線(勧進橋・かんじんばし)と稲荷間
 が廃止されたのを皮切りに・・路線が次々と廃止され・・
  1978)年9月30日、残る外郭線(北大路・西大路・九条・
 東山・七条・河原町の各線)すべてが廃止された。
.
1895年1月、博文館が「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」
 を創刊。
  太陽は月刊の総合雑誌で、定価15銭だった。
  内容は、論説、史伝、地理、小説、雑録のほか、政治、
 法律、文学、科学、商業、農業、社会など・・
  執筆陣は各分野の知名人を網羅した。
  「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負
 けない総合雑誌を」という趣旨の「太陽発刊の主意」を
 発表し、その翌月「太陽」を創刊した。
  太陽の名が示す様に「国運隆昌(りゅうしょう)」を表
 わし、「公平不偏を以(もっ)て立つ」とした。
  しかし、大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、対応し
 きれず、「中央公論」などにその地位を奪われて、廃刊
 に追い込まれた。
  文学作品は・・、
  斎藤緑雨:『雨蛙』(1895.5)樋口一葉:『ゆく雲』
 (1897.5)泉鏡花:『海城発電』(1896.1)斎藤緑雨:
 『おぼえ帳』(1897.4 - 12)二葉亭四迷訳:ツルゲネフ
 の『うき草』(1897.5)広津柳浪:『畜生腹』(1897.10)
 国木田独歩:『郊外』(1900.10)泉鏡花:『鷺の灯』
 (1903.9)正宗白鳥訳:チェーホフの『不運くらべ』
 (1904.6)永井荷風:『酔美人』(1905.6)、『夜半の
 酒場』(1906.12)、『旧恨』(1907.1)、『春と秋』
 (1907.10)、田山花袋:『少女病』(1907.5)永井荷風:
 『カルチェー、ラタンの一夜』(1909.1)(『おもかげ』
 と改題し『ふらんす物語』に収録)正宗白鳥:玉突屋
 (1908.4)森鴎外訳:リルケの『家常茶飯』(1909.10)
 久保田万太郎:『雪』(1912.5)・・など
.
  (今日の言葉)
.
  題:北海道には大変多くの縄文遺跡がある(紀元前3200年)
    それから4400年の後に、アイヌ文化は作られた(1200年頃)
    当然、アイヌは先住民族ではない。
.
紀元前3200年、北海道には大変多くの縄文遺跡がある。
  その一つ・・大船遺跡(函館市)
  太平洋に面した海岸段丘上に立地し、縄文時代前期後
 半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大
 規模な集落遺跡で・・、
  100棟を超える竪穴建物跡からなる住居域と大規模な盛
 土遺構があり・・、
  その南西には、墓や貯蔵穴を含む100基以上の土坑墓群
 が確認されている。
  北海道や北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日
 本列島の北海道および北東北に位置し、縄文時代の各時
 期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、
 人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺
 跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、
 周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群であ
 る。
  縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然
 環境が保全されている遺跡が数多くあり・・、
  縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多
 く発掘されている。
  それらは、長く北海道で生きて来た縄文人の生活を彷
 彿(ほうふつ)とさせる。
  1、大船遺跡(函館市):大型の竪穴住居が特徴的な
    大規模集落遺跡
  2、垣ノ島遺跡(函館市):国内最大級の盛土遺構を
    持ち、異形土器などが出土した集落遺跡
  3、キウス周堤墓群(千歳市):掘り下げた土を周囲
    に環状に盛った大規模な周堤墓
  4、北黄金貝塚(伊達市):保存状態の良好な埋葬人
    骨や動物遺体が各種出土している貝塚
  5、入江・高砂貝塚(洞爺湖町):周辺の自然環境、
    生活や生業(なりわい)、人類学的形質や葬法を
    あらわす貝塚
  6、鷲ノ木遺跡(北海道森町):北海道内最大規模の
    環状列石
  7、三内丸山遺跡(青森市):人々の縄文時代観にも
    大きな影響を与えた我が国を代表する集落遺跡
  8、小牧野遺跡(青森市):大規模な土地造成と特異
    な配石によって構築された環状列石
   9、大森勝山遺跡(弘前市):全国でも数少ない縄文
    時代晩期の環状列石
  10、是川石器時代遺跡(八戸市):漆・木製品の優品
    が数多く出土した集落遺跡
  11、田小屋野貝塚(つるが市):日本海側における数
    少ない貝塚
  12、亀ヶ岡石器時代遺跡(つるが市):亀ヶ岡文化の
    名称の由来となった代表的な集落遺跡
  13、太平山元遺跡(外ヶ浜町):日本最古とされる約
    16500年前の土器が出土した集落遺跡
  14、二ツ森貝塚(七戸町):東北地方有数の大規模な
    貝塚
  15、御所野遺跡(一戸町):焼失した土屋根住居が確
    認されている大規模集落遺跡
  16、大湯環状列石(鹿角市):万座・野中堂の2つの
    大規模環状列石を主体とする我が国を代表する遺
    跡。特別史跡になっている。
  17、伊勢堂岱遺跡(北秋田市):4つの環状列石を主
    体とする大規模な祭祀遺跡
  18、長七谷地貝塚(青森県八戸市):東北地方に数少
    ない縄文時代早期の貝塚
      ・
      ・
      ・
      ・
1200年頃、アイヌ文化が作られた。
  アイヌ文化が、今から800年ほど前(1200年頃、本州は
 鎌倉時代)に成立した。
  この文化は、擦文文化の伝統的な暮らしを受け継ぎ、
 さらに、本州やサハリン以北の地域の人々との交流で形
 作られた。
  (参考)擦文文化:北海道、東北地方北部に分布し、
     北海道の続縄文文化に本州から北上した土師器
     (はじき)を伴う文化が接触してできた。
      アイヌ文化に先行する文化。
      おもな生業(なりわい)は漁労で、方形の竪
     穴住居にはかまどがあり、粟、ひえ、そばなど
     が出土する。
  (参考)続縄文文化:北海道、東北地方北部の弥生・
     古墳文化に並行する時代の文化。  
      寒冷の為、稲作は行わなかった。
      石器、骨角器を利用する縄文土器の影響を強
     く残す狩猟、漁労の文化。
  中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から
 450年前)のアイヌ文化の遺跡は、上ノ国町や松前町など
 の道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されて
 いる。
.
1599年、北海道の松前藩は、豊臣秀吉に直接臣従していた。
  しかし、1599年のこの年、徳川家康に服して蝦夷地の
 支配権を認められた。
  始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏、若狭武田氏の
 子孫)で、上国守護に任ぜられ、北海道の渡島半島に地
 位を築く。
  (参考)渡島半島:おしまはんとう、北海道南西部に
     ある半島。
  アイヌの首長のチコモタインやハシタインとも和睦し、
 豊臣秀吉に直接臣従した。
  1599年には、徳川家康に服して蝦夷地の支配権を認め
 られ・・、
  また、徳川家康は、蝦夷地の交易独占権を認めた。
  アイヌの人々も、この松前藩だけとの交易だけではな
 く、本州に出かけて交易を普通に行っていた。
  5代将軍・徳川綱吉(在任、1860年~1709年)の時、旗
 本待遇となる。
  1719年、1万石格の大名に列席する。
  江戸時代の1833年までには、松前は、人口が1万人を超
 える都市となっていて、繁栄した。
.
1673年、北海道の江差に檜山奉行を置いた。
  檜山は、厚澤部川流域から上國天の川流域の森林地帯
 であり、ヒバをヒノキと称した地域の俗称そのままに檜
 山とされた。
  檜山奉行所は、この森林地帯を7箇所に区分し・・、
  1673年2月に、樹皮剥ぎや稚木伐採を禁止し、また、野
 火を放つことを禁じる等の天然林の保護策を定めた。
  また、アスナロ等の材木を造船や他藩との交易物とし
 て活用する一方で、伐採を出願制としたことから他藩か
 らも山師が訪れるようになった。
  こうした山師による伐採の運上金は、松前藩の財政の
 一端を担った。
  しかし、1695年4月、檜山で山火事が発生し、過半数の
 樹木が消失したことから、かねてから他の地域で伐採を
 請願していた山師の飛騨屋久兵衛からの訴えが認められ、
 池尻別・沙流久寿里(釧路)厚岸・夕張・石狩等におけ
 るエゾマツの伐採が許可された。
  山師により伐採されたエゾマツは、石狩川等の川を下
 って石狩川口から本島へ船で運ばれ、江戸や大阪でその
 材質の高さから障子や曲物へと加工され流通した。
.
1756年、弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁
 業に従事していたアイヌに対し、同化政策を実施した。
  以後、本州からアイヌ文化が急速に失われた。
  (参考)乳井貢:にゅういみつぎ、1712年~1792年。
      陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩(青森県)藩士。
      1753年、勘定奉行となり、貸借証文の破棄、
     貯米の実行など藩の財政再建につとめる。
      宝暦5年の大飢饉の際は、果敢に対応して領内
     から餓死者を出さなかった。
      和算、儒学、農学など諸学に通じた。
      著作に「志学幼弁」「初学算法」など。
.
18世紀後半、マレーシアが、イギリスの侵略に屈服し、直
 接統治される。
  さかのぼること15世紀、マレーシアのマラッカ王国が、
 ポルトガルに屈服して支配されていた。
  17世紀には、今度は、オランダの支配を受けた。
  18世紀後半に入るとイギリスが侵略し・・、
  イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡
 植民地として一帯を直接統治した・・、
  さらに、北ボルネオ・マライ半島へも侵略して支配し、
 イギリス植民地は強化された・・
  1895年、マライ連邦となる。
.
19世紀、タイが、イギリスに侵略され、また、フランスに
 も侵略される。
  13世紀のタイは、最初、スコータイ王朝が、民族統一
 国家をつくった。
  14世紀からは、アユタヤ王朝となり400年間続いた。
  1782年、今日のバンコク王朝が創設された。
  19世紀~20世紀、イギリスとフランスからの侵略を受
 けた。
  そして、ラオス・カンボジア・マレーにある領土を取
 られた。
  しかし、インドシナ半島のイギリス・フランス両国の
 緩衝国家として独立は保った。
.
1868年~1869年、亘理伊達氏(わたりだてし)が北海道へ
 移住した。
  陸奥国伊達郡(宮城県亘理郡亘理町)が出身地・・、
  1603年2月、亘理郡亘理城主になったのが始まり・・、  
  江戸時代には、2万4000石以上を領した。
  しかし、第14代当主の時、戊辰戦争に敗れ(1868年~
 1869年)所領を100分の1に減封された。
  数百名の家臣と共に北海道伊達市に移住し・・、
  家臣と共に伊達市を開拓した。
  1892年、その功が認められ、男爵位を授けられた。
  亘理伊達家の北海道への開拓移住に際して、アイヌの
 人々の手助けがあった・・あい和した開拓だった。
  当主であった伊達邦成は、家臣たちに対して、「アイ
 ヌの人々を尊重すべき」の内容の規則を作ったりて、尊
 重し、良好な関係を築いていた。
.
1875年5月7日、樺太・千島交換条約の後、物資の補給と防
 衛上の理由から、千島のアイヌの方々は、そのほとんど
 が当地を領有して領土だった日本政府によって、日本領・
 色丹島(しゃこたんとう、今・現在、ロシアが不法占拠
 している、また、日本領・千島も不法占拠している)へ
 移住して、安全に守られた。
.
1899年、清水港が開港した。
  「お茶場唄」あるいは「お茶場節」と呼ばれる古謡が
 ある。
  これは、横浜から盛んに日本茶が輸出されていた19世
 紀後半に誕生した。
  しかし、1899年に、全国最大の茶の産地の静岡県の清
 水港が開港して、横浜の製茶貿易が衰微した。
  しかし、歌は、その後も、長く歌い継がれた。
.
1937年12月、この時、南京事件が起きたとされている。
  中国は、南京事件の主張において殺された人数をだん
 だん増やしてきた。
  世界へ、日本を貶(おとし)めるために言う人数は、
 より多い方が都合が良いとして増やし、とうとう30万人
 だと言い出した。
  南京に居る人数より多い人数を言い出したので、中国
 は、「当時、南京には50万人が居た」と言い出した。
  そして、「30万人が殺されたので20万人になってしま
 った」と言った。
  まったく馬鹿々々しい言い方をする中国で、この様な
 言い方で思い出すのが「小学校の算数の問題」。
  これは、半分、笑い話なのだが・・、
  「木に鳥が10匹、とまっていました。狩人が1匹、撃ち
 落としました。残りは何匹ですか?」という問題で・・、
  算数の問題として答えるならば、10-1=9で9匹と答え
 るところを、ある子供が0と答えた。
  残りの鳥は、銃声で「すべて逃げた」と答えた・・と
 いう話である。
  つまり、中国の作り話も、これで・・、
  南京に50万人の人が居ました・・この人たちよりはる
 かに少人数の日本兵に・・木の鳥のように逃げもしない
 で、30万人が殺された・・だから、南京の人たちが20万
 人になってしまいました・・と、中国は馬鹿々々しいプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  まったく馬鹿々々しい中国のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  そして、中国のおかしな所は、当時の南京の自治委員
 会の記録を秘密にしている。
  この資料や記録を見れば、当時の南京に居た人数が分
 かるが、中国は公開しない。
  中国という国は、今まで公開していた資料でも、都合
 の悪い所が出て来ると非公開にしてしまう。
  そのような卑怯な卑劣な国である。
  まったく信用の出来ないアン・フェア(不公正)な国
 である。
  そして、最近は、私的な会話や、インターネット上で、
 中国の研究者の中に「南京の大虐殺は事実でない」とい
 う人が出て来ている。
  「南京事件は事実ではないので、その様なことを言い
 つのるのは日中友好にマイナスになる」と言う人が出て
 来ている。
  しかし、世界は、中国が必死にプロパガンダすること
 が事実だと思っている。
  英語版で出版された「ザ・レイプ・オブ・ナンキン(
 アイリス・チャン著)」などを事実と思われされている。
  特に、アメリカでは、このプロパガンダ本が真実と思
 い込まされている。
  この本の嘘が日本の研究者によって「嘘であると立証
 されている」。
  日本の研究者によって真実が示されている。
  日本の研究者は、一つ一つその真実を発掘して行った。
  今、世界は、中国が、この様な嘘行為をする、「嘘の
 プロパガンダばかりする国だ」と知り始めている。
.
1941年12月8日、大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり、
 東亜(とうあ)永遠の平和を確立を期す(きす、心に誓
 う)
  太平洋戦争開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
.
  天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇
 ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
  朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全
 力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
  勵〓職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆
 一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定
 ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
  皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措
 カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナ
 リ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
  洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國
 政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラ
 シメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
  帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶
 ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ
 禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
  逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ
 增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナ
 ル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
  セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ
 〓[波]ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
  [新幹線]々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメ
 ムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
  帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危
 殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇
 宗ノ[波]靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
  遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確
 立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
  御 名 御 璽
   平成十六年十二月八日
 ・・現代語、読み下し文・・
  天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ば
 んせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日
 本帝国天皇は、昭(あきらか)に 忠誠(ちゅうせい)勇
 武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に
 示(しめ)す。
  朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対
 して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海
 将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って
 交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆ
 うし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、
 朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)
 其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一
 心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せい
 せん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんこと
 を期(き)せよ。
  抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(か
 くほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕
 顕(ひけん、大いに明らかなこと)なる皇祖考(こうそ
 こう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述
 (さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう、遠い将来まで考え
 たこと)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)
 かざる所(ところ)。
  而(しか)して列国との交誼(こうぎ、心が通い合っ
 た交際)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょう
 えい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(
 これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ、重要な
 意義)と為(な)す所(ところ)なり。
  今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開く
 に至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)
 ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざ
 し)ならんや。
  中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)
 せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和
 を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(
 かんか、武器一般)を執(と)るに至(いた)らしめ、
 茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国
 民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜん
 りん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけ
 い)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残
 存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん、援助)
 を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(い
 ま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)
 めず。
  米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の
 禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(
 びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)
 の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あ
 まつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺
 に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、
 更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)
 を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(
 せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
  朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡
 (うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しき
 に弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう、きわめてわずか)
 も交譲(こうじょう、譲り合う)の精神なく、徒(いた
 づら)に時局の解決を遷延(せんえん、はかどらぜず伸
 ばす)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(
 ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、
 以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
  斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東
 亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)
 の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、
 帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きた
 い)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)
 に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、
 蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうが
 い)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
  皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上
 (かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、
 有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に
 信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かい
 こう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せ
 んじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以
 って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。
  天皇の署名と印
   昭和十六年十二月八日
.
1945年7月12日、日本の交信を完全に傍受していたアメリカ、
 また、暗号を完全に解読していたアメリカ。
  その様な中で、1945年7月12日午後8時50分、日本の外
 相は、モスクワの駐ソ大使あてへ至急電報を打った。
  「ソ連へ依頼している『停戦への仲介』に対して何の
 反応も無いこと、天皇陛下が犠牲者の増加について御心
 配をなされ、早急な停戦を望まれて居られること」、
  そして・・、
 「大東亜戦争(第二次世界大戦)で、米英があくまで無
 条件降伏を主張する限り、我が国の名誉と生残(せいざ
 ん、生き残り)をかけて最後まで戦うしかない。
  だが、天皇陛下は、人類の幸福を思う気持ちを伝える
 ために近衛文麿公を特使としてソ連に派遣する事をお決
 めになった」。
  この時、アメリカのルーズベルト大統領が行なったソ
 連への対日本参戦をそそのかす行動、また、煽る行動・・
  『日本の領土(南樺太、千島列島、満州、北方4島)を
 盗ってしまえば・・」と、
  そして、「旅順や大連をソ連の不凍港にしたら・・」
 という誘い・・アメリカのルーズベルトのそそのかしに
 完全に乗っかっているソ連だった。
  その様なソ連には・・、「日本とアメリカの間で仲介
 をしようという気持ちは、まったく無かった」。
  日本の領土を手に入れたいというソ連が、そこに居た。
  「私は、戦争を作った」と言ったアメリカのルーズベ
 ルト大統領の、更なる罪だった。
  この後の日本の外相と、ソ連大使(佐藤大使〉との交
 信は、さすがに佐藤大使の「ソ連の見方は、正しく」て、
 その後の長い交信(2時間30分におよぶ駐モスクワ日本大
 使館と日本本国との交信)において、ソ連の対日本への
 参戦の可能性が高いことを指摘していた。
  ソ連の仲介は不可解とまで言っていた。
  ルーズベルトの不埒な言葉が完全に効(き)いていた。
  今だに、戦後70年以上経過した2018年でも、この問題
 が解決できなくて、もめている。
  卑劣な米ソだった。
  日本の「なりふり構わない仲介の要請」を体よくあし
 らい、また、無視し続けたソ連と、頭を地に付けんばか
 りの日本の仲介要請が良い展開へ動かず、膠着状況にあ
 った・・それが作戦で、引っ掛けであった。
  戦場は、戦争の終末期であり、毎日、多くの人々が亡
 くなる状況であった
  そして、日本の必死の米英との和平停戦仲介の外交努
 力・・そして、その結果において、最後に、ソ連から言
 われた事は・・、
  「ソ連政府は、明日、8月9日、日本に対し戦争状態に
 入る」。
  「ご了承ください」・・だった。
  日本の佐藤大使は、ソ連外相のモロトフから、無表情
 に・・そのことを言われた。
.
2009年12月、「アイヌの方々は先住民族ではない」が、キ
 リスト教の支援を受けて、アイヌ民族を先住民とする運
 動が行われている。
  2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団
 体・個人署名の要請」が行われた。
  また、中国は、自国の民族弾圧問題(チベット民族問
 題、ウイグル民族問題、内モンゴル民族問題など)もあ
 って、「日本にも民族問題があるとしたい」として、こ
 のアイヌの方々の先住民とする運動の陰で暗躍している。
  日本には、4万年以上の5万年前から、アフリカの地を
 発したホモ・サピエンスの先住民が、日本の地へ、あち
 こちから移住して来ていた。
  北方から・・南方から・・海からと、あらゆる方向か
 ら移住して来ていた。
  今、紀元2018年であるが、その20倍から25倍の長い長
 い遠い昔からの期間、アフリカの地から日本へ来たホモ・
 サピエンスが移動して来たが・・その様に、日本に来た
 先住民たちは、日本中を歩き回っていた・・そして、通
 婚し、交雑し、その長い長い期間の間、日本人が形成さ
 れて来た・・それは、アイヌではないのは明白・・アフ
 リカからのその到達した人種がアイヌであるはずがない。
  今まで・・、
  2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利
 に関する国際連合宣言を踏まえて・・、
  2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを
 政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決さ
 れたが・・
  (あくまで「求める決議」で、「認めた」ということ
 ではない・・当然)
  しかし、北海道アイヌ協会が、北海道の区域外に居住
 するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合
 せに基づき活動している。
  その際、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料と
 している・・また・・
  2008年5月12日に、鈴木宗男が国会に提出した「先住民
 族の定義、及び、アイヌ民族の先住民族としての権利確
 立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に
 対し、
  2008年5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわ
 ゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分
 け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、
 独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持してい
 ること等から、少数民族であると認識している」と答弁
 している。
  (ただし「先住民族」との認識ではない)
  2008年6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民
 族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。
  (ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)
  また、法的にも・・
  1997年、アイヌ文化振興法施行によって、北海道旧土
 人保護法は廃止された。
  しかし、このアイヌ文化振興法では、アイヌを先住民
 族と認定されなかった。
  また、アイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の
 返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われた
 が、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
.
2018年10月28日、世界は、だんだん中国化するのか?
  この日の日付けの読売新聞に・・表題:「終わり見え
 ぬ『忍耐宣言』」として・・現在の台湾の苦悩がしめさ
 れていた・・以下、抜書き・・
  台湾の蔡英文総統が、10日の「双十節」(建国記念日
 に相当)に行った演説は、過去2回とはやや趣が違ってい
 た。
  中国の圧力による危機感をあらわにしていた。
  台湾は、今後も対立をエスカレートさせないし、圧力
 にも屈しないという決意だった。
  蔡英文総統は、2016年の総統選で「現状維持」を掲げ
 て、中国に急接近した国民党に圧勝した。
  この2年余り、中国は対話に応じず、統一への動きを強
 めた。
  台湾を5か国との断交に追い込んだ・・そして、台湾周
 辺で軍事訓練を繰り返し、中国に住む台湾人を社会保障
 などで中国人と同等に扱う政策も発表した。
  台湾では、「現状」が次々崩されても有効な手だてが
 打てない蔡政権への不満が広がっている。
  特に、民進党の支持基盤である独立派の失望は深く、
 抗議集会が開かれた。
  トランプ米政権は、台湾との関係強化に積極的だが、
 米国の基本政策は変わっていない。
  台湾が独立に向かい、中国との間で緊張が高まること
 は望んでいない。
  過去、2000年の台湾政権は独立に傾斜し、米国に失望
 され、国際的な孤立に陥った。
  問題は、台湾がいつまで耐えられるか、ということ。
  蔡政権の求心力が回復する兆しは見えない。
  2020年の総統選では、中台関係が最大の争点になる。
  中国は、今後も圧力をかけ、揺さぶり続けるだろう。
  残された時間は、決して長くはない。
.
2018年、ドイツは、第二次大戦の時、国民の半分がナチス
 党員だった。
  このナチス党員たちが、組織的にユダヤ人の方々を強
 制収容叙へ送った。
  ユダヤ人の方々のホロコースト(大虐殺)は、この様
 にして行われた。
  しかし、戦争が集結し、戦争の幕が下ろされても、こ
 のナチス党員たちの犯罪は問われることが無く、目がつ
 むられた。
  巨大な犯罪行為が厳然と存在しているが、罪を問う行
 為は行なわれること無く今日まで来ている。
  そして、ドイツでは、「ナチスが悪かったからだ」の
 大合唱をしている。
  「あなたたちが、ナチス党員だったのですよ」と、世
 界は言うだろう。
  本当に、この罪を逃れたナチス党員たちは、反省をし
 ているのだろうか?
  「あくまでもナチスの罪を問う」としたドイツは、都
 合のよいナチス党員たちだけの罪を追求する行為だけで
 済ませて来ている。
.
2018年、世界の脅威となっている中国
  戦後、中国で偶像的に崇拝され、今は廃(すた)れて
 いる毛沢東・・
  その毛沢東が、「日本資本の中国進出」に感謝した。
  その様な言葉を、訪中した日本の議員団に言った。
  また、毛沢東は、「日本の軍が中国へ行ったことさえ
 感謝した」。
  その様な日本の行動の結果で、今の中国があり、毛沢
 東の地位があるということを感じ、感謝した意思表示だ
 った。
  しかし、ソビエトのコミンテルンが、アメリカなどで
 暗躍し、様々なスパイ活動や謀略工作が功を奏し、美し
 く手を握った米ソの「ヤルタ・ポツダム体制」。
  (参考)ヤルタ・ポツダム体制:戦後(第二次世界大
     戦後)の世界秩序(戦後レジーム)を言い、Y
     P体制とも言う。
      戦後の世界秩序は、いわゆる「ヤルタ会談」
     によって決定づけられ、東西冷戦の対立構造で、
     米ソ二大国による覇権体制ができた。
      これによって、各民族が当然に持つべき権利
     である民族自決の権利が侵害される。
  しかし、その「米ソ同盟」が形成されるかに見えたの
 も『一瞬のあだ花だった』。
  戦争も終わらないうちに、アメリカの次なる敵として
 のソビエト連邦が見えて来た。
  そのソ連を威嚇するために、日本は、アメリカによっ
 て、二発の原爆を投下された。
  また、標記の毛沢東の日本への感謝の言葉の如く、中
 国共産党の対日工作も、功を奏し、毛沢東の感謝の言葉
 となった。
  そして、ソ連は、1970年代には「軍拡に邁進した」。
  そして、近年、そのソ連の軍拡と同じ行動をする中国
 の姿となった。
  中国の膨大な軍事費は、年々増加し、台湾や東シナ海
 への領土拡大に邁進している。
  新たな脅威が形成されている・・「アメリカ、日本、
 オーストラリア、アジア各国などを含めた世界の脅威」
 となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)617E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年1月~1895年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年、出来事:
・第2次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・第9議会召集(1895年12月25日)
・日清休戦条約が調印された(1895年3月30日)
・第4回内国勧業博覧会が開催された(1895年4月1日)
・尖閣諸島を日本領土に編入した(1895年1月14日)
・アメリカの工作によって危うくなったハワイ・・先住し、
 ハワイの領有権のあるハワイ人の王政派が武装蜂起した。
  しかし、アメリカ軍によって短期間で鎮圧され、虐殺
 行為が行われた(1895年1月16日)
  そして、ハワイ王国は滅亡した(1895年1月22日)、
 リリウオカラニ女王は廃位させられた。
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1895年、世界情勢
  1895年のこの頃、日本が、清国と戦争をする頃、ドイ
 ツやロシアも、中国の利権あさりを必死に行っていた。
  すでに、美味しい汁を吸っているイギリスをはじめヨ
 ーロッパ列強諸国・・、
  そして、アジア各地で利権を得ている列強の版図は、
 塗り替えられる可能性が出てきた。
  その一つが、フィリピンを得ようとしているアメリカ
 だった・・アメリカには、アジアの利権も美味しく見え
 て来ていた。
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1895年、世界情勢
  この1895年から約20年前の1875年頃、ヨーロッパのキ
 リスト教諸国が収奪し、所有したアフリカの土地は、ア
 フリカ全土の十分の一(10%)に過ぎなかった。
  (10%でも酷い行為だが・・)
  しかし、それが、20年経た「この1895年頃」になると、
 実に、アフリカ全土の十分の九(90%)にまで、ヨーロ
 ッパのキリスト教諸国は、我が物顔にアフリカを自分の
 ものとしていた。
  この時期に、独立を認められていた国は、わずかに「
 エチオピア」と「リベリア」の少数の国だった。
  このリベリアにしても、アメリカの黒人の方々を、体
 よく放逐した形の棄民政策を、アメリカのリンカーン大
 統領が推し進め、リベリアを建国するという経緯(いき
 さつ)があって独立した国だった。
  力による争奪戦が、ヨーロッパのキリスト教諸国によ
 って非人道的に繰り広げられていた。
  「槍(やり)」でしか戦うすべを知らないアフリカの
 方々を、卑劣にも殺戮し、そのすべてを手に入れて行っ
 た。
  まったく赤子の手をひねるがごとき非人道的やり方を、
 好き勝手にしていた。
  この戦争を、『スポーツのような戦争だ』と言ったヨ
 ーロッパの指導者が居た。
  対等な国同士の間のヨーロッパの地の戦争とは「ほど
 遠い」、あたかも盗むがごとき卑劣な略奪と殺戮だった。
  そして、それから、そこに住むアフリカの方々を家畜
 同然に使って、アフリカの方々の生活のための作物栽培
 を止めさせ、自分たちに利を生む作物だけを作らせる行
 為などの蹂躙を行なった。
  自分たちだけに利があればよいのだというキリスト教
 の教義そのもの・・キリスト教が教えるやり方で、利益
 の収奪が行われた。
.
1895年、世界情勢
  アメリカの軍隊(海軍・海兵隊)がパナマ(コロンビ
 ア州)に上陸した。
  そして、サンティアゴ陥落の知らせに、アメリカのボ
 ストンからサンフランシスコまで、アメリカ内各地で、
 人々は警笛を鳴らし、旗を振って祝うというアメリカだ
 ったが・・、
  そして、ハワイは、宣教という名目で宣教師を派遣し、
 また、貿易商を派遣し、これを手始めに、結局は、この
 様な移民が続々とハワイ王国へ入国し、最終的にハワイ
 を乗っ取って行き、アメリカ領土としてしまった。
  そして、パナマ・・運河の構想がこの地を得たいとい
 う切っ掛けとなった。
  運河は、海洋貿易面で大きな利益をもたらす・・また、
 軍事的にも大きな戦略性を与えるということが明らかだ
 った。
  そして、この地域に勢力圏を得て行ったアメリカは、
 この運河に好適なコロンビア国の北部のこの地が、国家
 に反抗していることを利用した。
  1880年、この地のラファエル・ヌニェスが大統領に就
   任した。
  1890年、アメリカの海軍大学教官マハンが、「海上覇
   権論」でカリブ海の運河を着目させた。
  1894年、ラファエル・ヌニェスが死去する。
  1895年、アメリカ軍のコロンビア州への上陸・・
  1903年、コロンビア議会は、屈辱的なアメリカの高圧
   的態度に、アメリカの運河へ携わることを拒否する。
   これに怒ったアメリカは、パナマ地方の住民を扇動
   して、この地方を独立させようとする。
  アメリカは、軍艦を出動させ、コロンビア西部に圧力
 を掛け、この独立運動が成功する様に支援した。
  そして、パナマの独立を認めさせた。
  アメリカは、独立したパナマ政府から、運河建設のた
 めの租借権・工業権を得て・・、
  1904年に着工し、  
  1914年に開通させた。
  アメリカは、運河の完成後もパナマ内政へ介入した。
  海兵隊の上陸などの軍事介入も度々行った。
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1895年、世界情勢
  1895年4月17日、日清戦争での日本勝利を受け、下関条
 約が締結された。
  しかし、この下関条約が結ばれて後、日本は、アジア
 に出てきた黄色人種として「出る杭は打たれる」となっ
 て行く・・
  日本は、日清戦争に勝ったからと言って、アメリカや
 ヨーロッパの様な「自分の国が利益が得られれば良い」
 という利己的な条約を結んだのではなかった。
  日本は、朝鮮の事を思い、「中国・清は、朝鮮の独立
 を認める」という条項を約束させた。
  中国・清の「冊封体制を止めさせる」という事を約束
 させた。
  また、これまで・・問題となっていた台湾や、遼東半
 島を、日本が金を出して譲られるという決着をした。
  アメリカが『アラスカを、金出して領有した」様に・・、
  奪ったのではない・・
  日本は、当時の3年間分の財政収入に相当するという
 『大金を、中国・清へ支払った』・・
  これまでのアメリカやヨーロッパ諸国は、敗戦国から
 奪い取ったが、日本は、3億円(2億両)を支払った。
  当時、清は、「眠れる獅子」と言われ、その底力は恐
 れられていた。
  海軍力においても、清国の方が大きな軍艦を持ち、ま
 た、隻数も、日本を上回る艦数を持っていた。
  世界の予想は、完全に「日本が敗けるだろう」だった。
  しかし、新興の日本は、清に勝利した・・
  清が日本に敗けると、列強諸国のアメリカやヨーロッ
 パ諸国は、さらに清を侵食し始めた・・清を餌食とした。
  清は、分割の対象となった。
  日清戦争の後でも・・日本の立場は・・まだ、アメリ
 カやヨーロッパ列強の諸国から軽んじられていた。
  幕末以降から続く「弱小国・日本の状態だった」
  そして、戦勝国・日本に、遼東半島返還の圧力がかか
 って来る・・三国干渉が起きた。
  ロシアが、ドイツとフランスを誘って、日本へ圧力を
 かけて来た・・三国の強烈な軍事力をちらつかせた。
  『町のあんちゃん』の様なやり方だった。
  日本は、清と一対一で対決した「武士の世界」だった。
  いつもやる欧米列強の様な、卑怯なグル(悪事を企て
 る仲間)に「つるむ」ようなことは、「日本はしない」。
  しかし、東アジアの欲しいロシアは、ドイツ・フラン
 スとグルになって三国干渉の圧力を日本に加えた。
  日本は、遼東半島を清へ渡した・・清は、金を日本へ
 返還した(当然)。
  そして、列強諸国は、清を蝕(むしば)んで行く。
  ロシアの領土欲は強烈だった・・朝鮮へも手を伸ばし
 て行く・・
  ロシアは、強力な軍事力を、この地域に展開し、拡大
 して行く。
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1895年、世界情勢
  1895年、日本は、下関条約で清国から台湾の領有権を
 得たが、その後、烏山頭ダムを建設し、水政策の展開を
 行ったり、各種の社会資本投資をした。
  その効もあり、数年で日本の投資分も回収する事が出
 き、台湾にも良いし、日本にも良いという結果となった。
  インフラを投資してその資金を回収し、なお親日国と
 なっている台湾、
  一方、同様に、資金を投下したものの、その回収は出
 来ず、むしろ反日国として日本を貶(おとし)めようと
 する韓国。
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1895年、世界情勢
  1895年、日清戦争によって、日本が、中国・清に勝っ
 た・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよ
 うな出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、「貢(みつぎ)を持って従属すれば良し」
 の思想で・・朝鮮はこの思想の体制に蹂躙されていた。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制がとり続けられて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に隷従させられ、従
 属させられて来ていた歴史だった・・朝鮮の2000年の歴
 史は、この思想の元での歴史とも言える。
  朝鮮は、古代から、中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティ(清への帰属意識)
 として来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主(あるじ)である中華・清を敗
 北させ、負かした事は、朝鮮にとって驚天動地のことだ
 った。
  そして、朝鮮は、中華・清から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で「独立した」。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」の遠
 い昔からの「日本の毅然とした対等の独立した立場」を
 とった日本だった。
  この時、冊封体制下の体制に入ると思っていた中華の
 煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていた。
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1895年、世界情勢
  1895年、孫文が日本へ亡命し、逃れて来た。
  清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き・・、
  1894年1月、孫文が、ハワイで興中会を組織した。
  1895年の翌年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂
   起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡
   命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体・玄洋社の
   頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京
   での活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
    長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢
   民族。
    その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もや
   めたい(満州族の風習)」と言ってきた。
  1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、
   光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成した。
    ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
    清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が蜂起して
   大動乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
   蜂起(ぶしょうほうき)が中国で起きた・・各省が、
   これに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。
    当時、孫文はアメリカにいた。
    独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命
   政府をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを
   誰にするかで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
   はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  1912年1月1日、翌年になって・・孫文を臨時大総統と
   する中華民国が南京に成立した。
    孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこ
   と)する臨時政府が、南京に樹立されて、国号を中
   華民国と改め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
    しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(
   えんせいがい)が、共和政体を宣言するに至ったの
   で、孫文は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位
   を譲った。
    だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わ
   せる時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に、再度、逃れ、中華革命党を組織
 した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、
  イギリスは、長江流域に、
  ロシアは、東三省(とうさんしょう、中国東北部)、
  フランスは、広東、広西(こうせい、広西チワン族自
 治区)、雲南など・・
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。
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1895年、世界情勢
・キューバの対スペイン反乱・・アメリカは、強力なアメ
 リカ軍を利用して、巨大な植民地帝国となって行く・・
 力による収奪。
.
1895年、産業:
・自動車の大量生産が始まった。
 ガソリンの需要が増加へ
・日本初の1千トン級貨客船「須磨丸」が竣工した(1895
 年4月5日)
・東京の大丸呉服店で、大売出しが行われた(1895年10月
 15日)
・東京電灯・浅草発電所の操業が開始された。
 このとき使用したドイツAEG製の発電機が50ヘルツで
 あったので、東日本が50ヘルツとなった。
・八王子電灯が設立された。
・ハーストが、各地の新聞を買収した。
・コダック社が、小型カメラを発売した。
・ケロッグが、コーンフレークを製造した。
・アメリカのニューヨークに、ピザの店が出現した。
・ジレットが、かみそりの薄刃を製造した。
.
1895年、交通:
・京都で、わが国最初の市電・路面電車(京都電気鉄道)
 が開業した(1895年1月31日)
・政府が、官設鉄道における輸送力増加に対処するため、
 新たに既成各線の改良と、車両の整備を骨子とする改良
 計画を立て・・、
  また、同時に、東京市区改正事業に伴う市街高架線(新
 銭座・永楽町間)、および、中央停車場の建設を改良計画
 の中に入れ政府の事業として行なうことに決定した。
・鉄道技師・古川晴一が、「輾圧工形桁」の設計を完了し
 た。
・北海道炭砿鉄道が、自社の手宮工場で1C形テンダ機関車
 (大勝号、のちの7150形)を製作した。
・富山商業会議所が、官設鉄道信越線の運賃引下げを要求
 した。
.
1895年、論・文学・本:
・樋口一葉の「たけくらべ」ができた。
・小栗風葉『寝白粉』(博文館「文芸倶楽部」)、兄妹の
 近親相姦、部落問題に立ち入ったため発禁となった。
.
1895年、歌・流行・世相:
・男のイガグリ頭が流行し、バリカンが売れた。
・玩具:空気ラッパの製作
・鉄砲玩具の連発銃が発明された。
・屈辱外交を批判の演説会が開かれ、どの弁士の発言も中
 止を命じられた。
 詔勅を読みはじめても中止となった。
・かつては、岩倉様など敬称をつけたが、この頃は、首相
 を呼び捨てにする(経済雑誌)
.
1895年、発明:
・リュミエール兄弟が、シネマトグラフという動画撮影・
 再生装置を公開し、映画の歴史が始まった。
・ドイツ人物理学者のレントゲンが、エックス線を発見し
 た(1895年11月8日)
.
1895年、科学・建築:
・野中至・千代子夫妻が、気象予報の研究のため、富士山
 頂で観測を開始した(1895年10月1日)
・帝国京都博物館が完成した(1895年10月31日)
.
1895年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・第1高等学校のベースボール選手だった中馬庚が、ベー
 スボールを「野球」と翻訳した(1895年2月22日)
・神田小川町にローラースケート場(車滑り場)が現れる
 (1895年8月)
.
1895年、その他:
・西洋音楽家で幸田露伴の妹・幸田延が留学から帰国した
 (1895年11月5日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)616E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年12月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1894年12月9日、総武鉄道の本所駅(錦糸町駅)~市川駅間
 が開通することにより、本所駅~佐倉駅間が全通した。
  総武鉄道(総武線)は、1894年7月に、市川駅~佐倉駅
 間が開通していた。
  駅は、本所、亀戸、市川、船橋、幕張、千葉、四街道、
 佐倉の8駅だった。
  江戸川区域には駅が無く、1899年4月に、平井駅ができ
 た。
  蒸気機関車が黒い煙を吐いて運行されていたが・・、
  電化は、1932年6月、両国駅~お茶の水駅間が電化され
 た。
  そして、1933年3月、両国駅~市川駅間が電化し・・、
  1933年9月、市川駅~船橋駅間の電化・・
  1935年7月、千葉駅までの電化が完了した。
.
1894年12月17日、朝鮮で、第二次金弘集(きんこうしゅう)
 政権が成立した。
  朴泳孝と連立した。
  金弘集は、朝鮮王朝(李朝)末期の政治家で、1880年
 に、来日(訪問)している。
  明治維新後の日本の発展の様子を視察して、朝鮮を開
 化するのだの思い・意欲を深めた。
  この時、持ち帰った清国の外交官の著書「朝鮮策略」。
  持ち帰って国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機
 とした。
  穏健的開化派としての彼は、常に、外交の前面に立ち、
 欧米諸国などとの修好通商条約の改正を目指した。
  1882年、壬午の軍乱の後、全権副官として、日本との
 済物浦(さいもっぽ)条約の交渉にあたった。
  また、甲午農民戦争以後、1884年、領議政 (初代総理
 大臣) となり親日的であった。
  そして、急進的な改革を行なった。
  しかし、最後は親露派に殺された。
  生涯に渡って終始、国家の非常の難局に当たった悲劇
 の政治家だった。
  (参考)朝鮮策略:ちょうせんさくりゃく、
      東京の中国公使館にいた黄遵憲が書いたもの
     で・・、
      朝鮮は、自強のため中国との関係を深め、日
     本と提携し、さらに、アメリカと国交を開くよ
     うに主張した。
      金弘集で知った朝鮮国王は、これを採用した。
      そして、2年後にアメリカと条約を結び、国内
     改革を始めた。
.
1894年12月20日、中国の清国が、張蔭桓(ちょういんかん)
 らを、日清戦争の終結のための本格的講和全権使節に任
 命し、その事を、日本に通告して来た。
  日本も、直ちに伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して
 講和交渉を開くことを承認した。
.
1894年12月21日、筑豊鉄道の折尾駅~中間駅間が複線化さ
 れ、また、、筑前植木駅~直方駅間も複線して開通した。
.
1894年12月22日、第8回帝国議会が召集された。
  1894年12月24日~1895年3月23日、通常会が開催された。
.
1894年12月22日、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後
 への前奏曲」がパリの国民音楽協会に於いて初演された。
  指揮はギュスターブ・ドレ。
  初演から好評で、二度のアンコールがあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=Zw1OYRjpvFY
.
1894年12月28日、筑豊鉄道の小竹駅~幸袋(こうぶくろ)
 駅間が開通した。
  石炭輸送全盛時代にあった。
  多数の側線が作られた。
  日本の鉄道は、1890年代から1900年代にかけて、めざ
 ましい発展をとげた。
  この約15年間に、営業キロは約2.5倍となる。
  特に、貨物輸送力は9.5倍に増加した。
  この頃は、紡績部門を中心として、日本の産業革命が
 進行した。
  そして、さらに、製鉄、製鋼部門を基軸とする重工業
 へと転換して行った。
  日本社会に資本主義経済体制が根付き、さらに、急速
 な発展をし、それが、鉄道の発達をうながした。
  また、その鉄道の発達が、さらなる資本主義の発展を
 促進するという展開となった。
  経済体制の発展と、鉄道の発展とが相互に相関的な発
 達となっていた。
  鉄道が、日本の輸送には欠くことのできない主座を占
 めて行った。
  1906年には、「鉄道国有法」が公布された。
  そして、幹線を構成していた私設鉄道17社が、1907年
 までに、すべてが国有化され、「国有鉄道」が成立した。
  そして、その鉄道の技術も「自立」して行った。
  日本の経済のさらなる発展には、日本の「技術の自立」
 が必要不可欠だった。
  そして、その為の法制化、規格化が進んだ。
  日本の重工業の発展とともに、その車輌、機械類の自
 給体制も確立さ、完成させて行く。
  1894年、「鉄道局隧道定規」、および、「橋梁、鋼鈑
 桁ノ定規」を制定する。
  また、神戸商業会議所は、官設鉄道運賃低減を提案す
 る。
.
1894年12月31日、三菱第1号館の完成
  イギリス・ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンド
 ル(お雇い外国人)によって・・
  イギリス・クイーンアン様式の外観を持つ煉瓦造の建
 築物として設計され・・、
  また、建設工事は、曽禰達蔵現場主任があたり、直営
 工事による施工で完成した。
  丸の内ビル街の先駆で・・、
  その後、次々とオフィスビルが完成し、「一丁倫敦(
 いっちょうろんどん)」と呼ばれるオフィスビル街とな
 って行った。
.
1894年12月、フランスでドレフュス事件が発生した。
  フランス第三共和政を揺がした政治危機で、1894年~
 1906年、フランス社会の根底に横たわる社会的・政治的
 緊張を露呈した。
  共和国の存続そのものを危険にさらした。
  1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイツ
 に情報を売っていた。
  そして、終身流刑に処せられた。
  ユダヤ系のドレフュス大尉への「差別がある」として
 再審を求める派と、判決を支持する派でフランス国論が
 二分された。
  フランス軍部内では、別に真犯人のいることが分かっ
 たが、軍の威信と反ユダヤ感情などのため事件を糊塗し
 ようとした。
  最初は、家族と知人を中心とした再審要求運動であっ
 たが、上院副議長 A.シューレル・ケストネル、後の首相
  G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。
  1898年、文人 É.ゾラが『オーロール』紙上で「私は弾
 劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するなど、
 世論は高まり、単に、個人の有罪、無罪の論議をこえて、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なキリスト教カトリ
 ック、反ユダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする
 「反ドレフュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  1898年、H.アンリ大佐が、文書の一部偽造を告白して
 自殺したため、再審は確実となり・・、
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・、
  1906年7月、民事の破毀院は、レンヌの判決を全面的に
 破棄、議会も復権法案を可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスも正式に復権した。
      (出典 ブリタニカ国際大百科事典)
.
1894年12月、夏目漱石が、漱石ゆかりの地・鎌倉・円覚寺
 で参禅する・・、
  29歳の漱石は、同寺塔頭の帰源院で坐禅を組んだ。
  優秀な成績で、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学、
 現・東京大学)を卒業していた漱石・・、
  そして、英語教師として東京高等師範学校の教壇にも
 立っていた漱石・・、
  しかし、自分の中にどうしてもしっくり来ないものが
 あった(漱石の記述)
  「卒業したときには、是でも学士かと思ふ様な馬鹿が
 出来上つた。
  それでも点数がよかつたので、人は存外信用してくれ
 た。
  自分も世間へ対しては多少得意であつた。
  たゞ、自分が自分に対すると甚だ気の毒であつた」
             (処女作追懐談)
.
1894年、中国の軍閥
  1912年1月1日の中華民国成立の前後、私設の軍隊を背
 景に中国各地に並び立った勢力があった。
  特に、日清戦争後、北洋陸軍を私兵化した袁世凱の北
 洋軍閥が最大のもので、辛亥革命後、北京に軍閥政権を
 樹立した。
  死後、安微派、直隷派に分裂し、さらに、奉天派など
 も交えて抗争を続けていた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  (両班・りゃんばんは、特権階級で朝鮮庶民から収奪
 する階層だった)
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は「莫大なものであった」。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。(以上)
  今・現在、中国及びその手先は、『日本は、軍隊を運
 ぶために朝鮮・韓国の鉄道を作ったのだ」と日本の努力
 を無にすることを言うが・・
  その為だけならば、この様に朝鮮の国土を縦横無尽に
 張り巡らす様に鉄道を造る必要はない。
  日本は、心から朝鮮の日本並みの発展を願っていたの
 だ。
  朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
  その日本の恩を無にする言動をする韓国となっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:朝鮮・韓国は、その日本の恩を感じなければならない。
.
683年(天武12年)鏡王女(かがみのおうきみ)が、この日、
 薨去(こうきょ)したが・・、
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
  万葉集に・・
  玉櫛笥(たまくしげ)覆(おお)ふを易(やす)み
  明(あ)けて去(い)なば 君が名はあれど
  我が名し惜(お)しも
              鏡王女
  訳:箱に蓋をすると中のものが見えなくなるように、
    私たちのことを覆い隠すのは簡単だとお思いに
    なって、夜が明けてからお帰りになれば、
    あなたの名はともかく、わたくしの名が惜しうご
   ざいます。
  藤原鎌足が鏡王女と婚をなすために訪れた夜の明け方、
 なかなか帰ろうとしない鎌足に王女が贈った歌です。
  歌の背景には妻問い婚(つまどいこん)が普通であっ
 た当時、男性が夜明けまで女性の家に居て帰ろうとしな
 いと、ご近所の噂がひどかった、という事情がありまし
 た。
  鏡王女は天智天皇の異母妹で、若き日の天智天皇の妃
 (きさき)となり、その後、鎌足の正室となった女性で
 す。
  古代国家の基礎を築きつつある天智天皇にとって、鎌
 足は無くてなならぬ人物でした。
  加えて鎌足は、とかくギクシャクしがちな天智天皇の
 実弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)
 と天智天皇との関係を、取り持つことができる唯一の人
 物でもあったのです。
  天智天皇の妃であった鏡王女がなぜ鎌足と結婚したか、
 その詳細は不明ですが、王女は愛する夫にして異母兄・
 天智天皇と鎌足の絆を不動のものにするために、天智天
 皇の願いを受けて再婚したのだと思います。
  天智天皇の愛が薄れて再婚したのではなく、わたくし
 はそこに、天智天皇の王女への深い信頼と愛を読み取る
 のです。
  藤原鎌足、天智天皇に先立たれ、壬申の乱(じんしん
 のらん)にも遭遇するという激動の古代を生きた王女は、
 晩年、懐古(かいこ)の鳥とされている呼子鳥(よぶこ
 どり)の声に、そんなに鳴かないでおくれ、昔を恋い慕
 う心を募るばかりだから、と深く嘆じました。
  神奈備(かむなび)の 磐瀬の杜(いわせのもり)の
  呼子鳥 いたくな鳴きそ 我(あ)が恋(こい)増(
  ま)さる
  683年(天武12年)王女薨去(こうきょ)。
  その前日、天武天皇は親しく病床を見舞われた。
         (国文学者・石丸昌子氏の名文です)
.
1147年、第二回十字軍(~1148年)・・北方十字軍
  この12世紀の西欧諸国におけるカトリック教会の権威
 確立を目的とした第二回十字軍の壊滅的な敗退は、返っ
 てカトリック教会の権威を失墜させる危機に陥れた。
  クレルヴォー修道院長ベルナールは、これを打開する
 ため新たな十字軍を提唱した。
  西欧諸国からはドラクリア(竜の地)、東欧諸国では
 ディアボロシア(悪魔の地)と呼ばれ、現地の人々から
 はウェリ・クン・ナーラ(天神に祝されし国々)と総称
 される、カグレア、シルリア、ペグゼリア、タンムリア、
 カラキアにおける異教異民族への十字軍だった。
  この十字軍は、「最も成果の無かった十字軍」と呼ば
 れ、実態は敗北だった。
  ただただ、スラブ人を殺す十字軍という状況だった。
  後に、これは北方十字軍と呼ばれる。
  北方十字軍は、受け継ぐ封土を持たぬ封建諸侯の子弟
 達(この憤懣のガス抜きの十字軍)、そして、相次ぐ戦
 乱と飢饉で家屋や土地を失った貧民達から構成されてい
 た。
  そして、「フロンティアが獲得できる」という夢を吹
 き込み、それを目的としたので大いに受け入れられた。
  厳しく戦った事例としては、北方十字軍の攻撃を受け
 たカグレア人・・この民族は、かねてから国境付近でザ
 クセン公国と対立を深めていた。
  (参考)気高きグレアを意味するカグレア・・しかし、
     その地は過酷な地であった。
      凍てつく北方に位置するこの大地は、地味が
     乏しく、作物も実らず、狩るべく鳥獣や漁る魚
     貝も少なく・・その上、海の彼方からは、絶え
     ずユグラドラシスの異民族の襲撃を受け、その
     王国・バレア王国との紛争に明け暮れた。
      僅かな食糧と、その食糧を得る為の領土を奪
     い合う、殺し合う・・生き延びる事の困難なこ
     の地の人々は、戦いが多く、そのため強かった。
  ウェリ・クン・ナーラでも、勇猛な戦闘部族で知られ
 ていたカグレア人は、 スペル・ユニオル族族長レーベル
 クを中心に、前九年・後三年と、合わせて十二年に渡り
 激しく抵抗した。
  一時は、カグレアの地よりドイツ諸勢力を一掃し、逆
 に、ザクセンに侵入し、ヴァグリアを征服するにまで至
 った。
  しかし、カグレア諸部族に服属していたシルリア人が、
 突如、自らキリスト教を受け入れ、北方十字軍と手を結
 んでカグレアの背後をつくと、一気に形成は逆転した。
  カグレア諸部族は総崩れとなり、北方十字軍に征服さ
 れた。
.
13世紀、北方十字軍
  「異民族のキリスト教化」という名目上の目標を掲げ
 て、バルト海沿岸地域へ進出した「北方十字軍」は・・、
 遠征の当初から本来の宗教的な目的を失っていた。
  その実際の実態は、「北方諸国の植民地化」だった。
  ローマ教皇からお墨付きをもらって・・、
  世俗の最高権力者である神聖ローマ皇帝の思惑とも重
 なって、キリスト教による征服事業の拡大を続けた。
  その先鋭に立ったのが「ドイツ騎士団」だった。
  13世紀、ハンガリー王国から追放されたドイツ騎士団
 だった。
  その武力集団は、異教徒征伐の命を受けてプロイセン
 の地(現在のカリーニングラード〜ポーランド北部)に
 活動拠点を移した。
  そして、その武力の威力によって、先住民であるプロ
 イセン人の殺戮を尽くして制圧した・・そして、その地
 のすべてを掠奪・収奪した。
  その後も・・略奪と搾取を重ねながら、莫大な富を築
 き、「ドイツ騎士団領」という軍事国家まで作った。
  しかし、乱逆なこのキリスト教集団は、周辺諸国の貴
 族を集めて「人間狩りツアーを開催する」など、その残
 虐きわまりない性質と傍若無人ぶりだった。
  ドイツ騎士団は、リヴォニア(現在のラトヴィア西部
 からエストニア南部)を征服していたリヴォニア帯剣騎
 士団を吸収した。
  そして、さらに、現在のリトアニアの地へと侵攻した。
  それに対して、ミンダウカス王の元に諸部族が結集し
 てリトアニア大公国が誕生する。
  そして、強大な戦力を形成し、ドイツ騎士団を押し返
 した。
  その後、お互いが侵略行為を重ねる。
  拮抗した戦争状態が続く・・
  同じ様にドイツ騎士団と領土問題で対立を深めるポー
 ランドとの同盟関係を成立させる。
  1385年、ついにリトアニアはキリスト教を受け入れ(
 当初は形式的なものだった)、両国は連合国となってド
 イツ騎士団と対立する。
  キリスト教の教義でもある「異教徒は殺せ」の異教徒
 との戦いという大義名分を失ったドイツ騎士団は激高し
 て、互いの存亡をかけた激烈な総力戦へなる。
  そして、ポーランド・リトアニア連合は、1410年の「
 グルンヴァルト(タンネンベルク)の戦い」で勝利し、
 ドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与える。
  ドイツ騎士団は、徐々に衰退し、やがて消滅した。
  ポーランド・リトアニア連合国は、ヨーロッパ最大領
 土の国へと発展する。
  そして、その後、200年に渡る黄金時代を築く。
.
16世紀半ば~17世紀初頭、南蛮貿易が行われた。
  1543年に、種子島にポルトガル船が漂着したが・・、
  南蛮貿易は、ポルトガル及びスペインとの間で貿易が
 行われた。
  中国・明のマカオが拠点で、特に、ポルトガル人が中
 心に営まれ、日本の銀が流出した。
  中国とは生糸が取引された。
  16世紀の前半から灰吹法によって銀の産出量が増えて
 いた。
  (参考)灰吹法:はいふきほう、鉱石からいったん鉛
     に溶け出させて産出する方法。
  キリスト教イエズス会は、プログラドールという貿易
 や財務を担当する役職を作って貿易を指揮し、担当し、
 交易し、利益を得た。
  長崎のこのキリスト教のプロクラドールは、岬に建設
 されたキリスト教会内のカーザ(建物・倉)に貿易品を
 貯蔵し、取り引きを行ったので、キリスト教会が商館の
 ように機能した。
  このプラグドールは、キリスト教宣教師のザビエルの
 提案したことから実現した。
  せっせと南蛮貿易に精を出すキリスト教だった。
  そして創設されたパウロ学院には金庫が置かれていて、
 貿易の利益のほか、貿易に税を掛けて金を取り、この教
 会内の金庫に金がうなる様にあった。
  このキリスト教会の主動する南蛮貿易の卑劣なところ
 は、日本の若い女性を売るという人身売買をしていた所
 だった。
  「70万人の日本女性を売った」という記載が、ポルト
 ガルの文書にある。
     ・
     ・
1910年8月26日、キリスト教徒のマザー・テレサが生まれた。
  マザー・テレサは、キリスト教の神は死んだと言った。
  マザーテレサさんは・・インドで・・ヒンズー教徒の
 方々が行っている・・『弱者救済の運動とその行動』の
 中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・弱者救済活動を行なっ
 た。
  その行為が、そのことが・・素晴らしい業績となって
 いますが・・、
  (注):
  世間には、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)だけ
 が・・あまりにも声高に叫ばれているため・・真実が、
 隠されています。
  初めて、上記の文を読まれた方は・・驚かれたと思い
 ますが・・「真実は、上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・
 脚光を浴びた事を知り・・マザーテレサさんに着目し・・、
 キリスト教の「広告塔」にしました。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に、なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを国葬に
 して・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」と、表明されたことでし
 た。
  マザーテレサさんは、キリスト教の神の存在に悩んで
 いました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに、長い期間、悩みを打ち明け
 続け・・そして、相談をし続けていました。
  その事実は、隠されていました・・が・・、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』『真実』が公表されました・・キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・今、ア
 メリカに、「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは、キリスト教の『神の不存在を主張」し・・
 成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分やっ
 て行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違うと主張
 する方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
 その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、そう
 考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が、人類にとってよくないこと・・よくないもの』と・・、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・こ
 の様な、行動が取られたのだと言えます。
  (参考)神の死の神学:ニーチェの言葉である「神は死
 んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・現代社会において神は・・、
 人間に・・『リアルな存在ではない』という意味で・・、
 「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニア
 ンは・・『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァニハンは、その中で・・無神論を、『アメリカの
 大衆の生き方である』と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
 エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・異
 なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で、人間の主体性が、
 そして、自律性が・・とりもどされ・・、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・
          (参考:wikipedia)
.
1920年、南洋諸島のパラオは、日本の統治となった(~1945
 年)
  この頃の首都はコロール。
  パラオには、スペイン南洋庁が置かれていた。
  日本からの移住者も多かった。
  パラオは、スペイン→ドイツと統治がされて来た。
  しかし、パラオの方たちは、日本の統治時代を非常に
 懐かしみ、「日本の統治は良かった」と言う。
  パラオ共和国の国旗も、日本の国旗に似せている。
.
1932年2月、リットン報告書が出された。
  満州が、リットン報告書などでアメリカからの策動(
 さくどう、秘かに計略を巡らして行動すること)を受け
 ていた頃・・、
  この当時、日本国内には、ソ連から指令を受けた、コ
 ミンテルンの命令下にある共産主義者が大勢いた。
  いつでも日本国内で、国家転覆をしようという者たち
 だった。
  そして、その様な手が打たれている日本でもあった。
  いつ、その者たちの活動が活発化するかの可能性も高
 かった。
  実際、その様なソ連の指令を受けた日本人も加わって
 いた。
  尾崎秀美(ほつみ)がその一人で、ゾルゲと連絡を取
 り暗躍していた。
  (参考)尾崎秀美:日本の評論家、ジャーナリスト(
     朝日新聞記者)、共産主義者。
      近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論
     界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を
     持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(
     大東亜戦争)開戦直前まで、政治の最上層部・
     中枢と接触し、策動し、国政に影響を与えた。
  (参考)リヒャルト・ゾルゲ:ソビエト連邦のスパイ、
     1933年~1941年にかけてゾルゲ諜報団を組織し、
     日本で諜報活動を行ない、ソルゲ事件の首謀者
     だった。
      ゾルゲは、コミンテルン本部の指令で1933年
     9月に来日し、上海で旧知の尾崎らと接すること
     で軍、政府上層部から得た日独両国の機密情報
     をソ連に流したり、二・二六事件、三国同盟、
     関東軍特別大演習など日本の対ソ情報を入手し
     通諜していた。
      ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使
     の信任を得ていたゾルゲ(ソ連共産党第4本部
     所属)は、コミンテルンの命令を受けていた。
  (参考)日中戦争:実際は、アメリカが極秘に参戦し
     ていて、アメリカ大統領は「ボランティアだ」
     と言い逃れしたが、大統領署名の命令書が存在
     し、また、アメリカという国が膨大な米機を中
     国へ与え、パイロットも派遣していた・・日米
     中の戦争状態だった。
  その活動の一つが「日中戦争(実際は、日中米戦争)
 へ日本を導く」という活動だった。
  結局、実際に、日本は、日中米戦争へはまっていく。
  今・現在も、共産・中国(中共)の活動家が、日本で
 活動している。
  この当時の状況の様に・・、
  または、それ以上の人数の居る日本の状況となってい
 る。
  今、日本は、簡単に移民ができる様になっている。
  アメリカの圧力でなったのだが、日本は、今、「移民
 天国」の状態で、スパイ天国の様相となった。
  長野の冬季オリンピックの時、指令によって、長野に
 集まった共産圏・中国の活動家が、謀議し、手に手に種々
 な武器を持って暴れた。
  長野県のこの中国工作員の暴動行動は、怒号と騒乱状
 態に陥(おちい)った。
  これは国際問題の騒乱(共産中国とチベット国)であ
 ったため、日本の警察は、周りを取り囲み、手を出さな
 かった。
  この様にして、日本の国内においても、共産圏・中国
 の国家指令の活動が行なわれている。
  チベット国が、共産中国に蹂躙されていることを、日
 本国内で訴えようとした行動を・・中国の工作員・活動
 家が、武力行使して、そのチベット国の方々の行動を封
 じ込めようとした。
  共産圏・中国の本国から指令を受けた大勢の活動家に
 よる暴挙だった・・今、日本には、この様な輩が、うよ
 うよといる。
  普段は、普通に日本で生活している。
  あなたは、その中国活動家の普段の生活は、何ら違和
 感は持たないだろうが、いざとなるとこの長野の様な事
 を起こすのだ。
  普段は、「いい人だ」くらいに思っているがである。
  帰化して、それも本当に簡略化された手続きで(アメ
 リカの内政干渉でこうなった)簡単に日本人に帰化した
 元・共産圏・中国のこの様な活動家が・・、
  「普段の、いい人だ」の印象だけから、「この人たち
 は日本人になってくれたのに選挙権が無いのは、おかし
 い」となる・・外国人の選挙権問題が起きる。
  この行き過ぎた事例がドイツにある。
  ある自治体の地方自治権が奪われた。
  れっきとして「ドイツ人の票決の結果」と公表されて
 いるが、移民の自治体と化している。
  また、オーストラリアのタスマニア島(日本の佐渡島
 くらいの大きな島)が、正統な経済活動だと言われてい
 るが、共産圏・中国の手中に入った。
  (参考)2016年4月、オーストラリアのタスマニア州の
     村落・タラリアが中国に売却への動き
      2016年4月、ギリシャ最大の港を中国企業が爆
     買い、総支出額は約1850億円
      2015年10月、オーストラリアで、韓国1つ分に
     相当する面積を中国企業が爆買い
  今、日本は、盛んに北海道が中国に買われている。
  北海道経済が、潤っている(息が付ける)というが?・・
  こんな「たわごと」で済むのか??
.
1937年12月、この時、「南京事件が起きたという嘘」がデ
 ッチ上げられている。
  今、種々の新史料が公開され、この南京事件が、さら
 によく見えて来た。
  南京事件の実態は、当時の中国の様々な情報工作によ
 って作られていて、「真実」は隠蔽されている・・
  不当で不条理な罪が、日本に押し付けられている・・
  その様な『事実』も判明して来た。
  今・現代、中国が南京事件をとやかく言うのは「もは
 や陳腐化している」。
.
2005年、全世界の金融資産が、2005年には140兆ドル(約
 1万7200兆円=1京7200兆円)で世界GDPの316%とな
 った。
  これは、1980年の109%、1995年の218%から飛躍して
 増大した。
  アメリカは、1995年303%から2005年405%と急増した。
  資本市場の機能は、金融システム間のM&A金融など
 仲介業務に比重を置くようになった。
  そして、規制がさらに撤廃され(自由が良いのだの大
 合唱)、リスクを伴う冒険的な大規模投資も合法的に可
 能となった。
  国際証券資本市場における支配力も強大となった。
  アメリカ産業史上初の業界の枠を越え、且つ、国境を
 越える超大型合併の波は、ユーロ圏を巻き込み、さらに、
 第三世界ロシア、中国、ブラジルのBRICs諸国の巨
 大資本をも引き込み・・
  世界は、国境を越え、M&Aの壮大な展開という新し
 い経験の試みの場と化した。
  故に、ネオリベラル・グローバリゼーションのダイナ
 ミックな主役は、巨大M&Aを業界の垣根と国境を越え
 て、グローバル企業帝国を築くビックビジネスの様相。
  (参考)ネオリベラル・グローバリゼーションにおけ
     るアメリカ「帝国」の覇権(上)、奥村皓一 著
      抄録:21世紀に入り・・、
     「冷戦」が終わって・・10年以上過ぎたという
     のに・・「帝国」「帝国主義」が、世界人類の
     当面、最大課題となり始めた。
      ソ連邦が崩壊し・・、
      旧社会主義陣営の国々が、資本主義市場経済
     を受け入れ始める一方で、資本主義大国間のグ
     ローバル競争が激化し始めた。
      加えて中国、ロシア、ブラジル、インドとい
     った新興の市場経済大国は、興隆をはたすなか
     で経済超大国をも目指し始めた。
      唯一、超大国のアメリカは、経済力の相対的
     な地盤沈下のなか、圧倒的な軍事力を活用して、
     全世界を制覇し・・、
      米国のビッグビジネス(メジャーズ)を、スー
     パーメジャーズに編成して、先進国世界のみな
     らず、GAPと呼ばれる第三世界、開発途上諸
     国、旧社会主義国のすべてをその勢力下に組み
     込もうとするようになった。
      米国国際石油資本をはじめとする米国の多国
     籍企業は・・、
      グローバルに展開できるスーパー・メジャー
     として、全地球的に展開し始めた。
      国際競争力が相対低下して・・アメリカのビ
     ッグビジネスは、アメリカの軍事力を活用した
     セオドア・ルーズベルト型の「軍事帝国主義」
     を背景に「自由とデモクラシー」の旗を掲げた
     ウィルソン型の「理想主義的帝国主義」を前面
     に全地球的展開を開始した。
      その典型は、ネオコンサーバティブの主導す
     るイラク単独進攻と占領である。
      世界で、石油埋蔵量第2位の、イラクの石油開
     発、生産を独り占めにし・・、
      イラクの「民主化」による親米政権の樹立と
     イラクの軍事基地化によって、中東と北アフリ
     カ、中央アジア(中東)の油田地帯に、アメリカ
     の石油秩序を確立しようとしている。
      さらに、アメリカは、南西アフリカ、南アジ
     ア、ラテンアメリカへと、「帝国」を広げよう
     としており、米国の軍事関与は、百数カ国に及
     び、冷戦下では実現できなかった戦線の拡張に
     ある。
      だが、資本展開の膨張に、米軍事力は無限に
     応ずることはできず、米国の単独主義の行きつ
     くところは自己破産・・軌道修正を迫られる。
.
2011年7月28日、高倉蒼甫(たかおかそうすけ)というタレ
 ントが、フジテレビで、「フジテレビは韓国のテレビ局
 か?」と発言したら、事務所(スターダストプロモーシ
 ョン)が解雇した。
  (cf)高岡奏輔(たかおかそうすけ)ウィキペディ
      ア
  (cf)2011年のフジテレビ騒動、高岡蒼甫のツイー
      ト:ウィキペディア
.
2018年、現在、世界全体で・・2800万人を数える華僑。
  その90%が、アジアに居る。
  インドネシア650万人(23%)
  タイ・・・・610万人(22%)
  マレーシア・520万人(19%)
  シンガポール209万人( 7%)
  フィリピン・120万人( 4%)
  ベトナム・・100万人( 4%)
  他・・・・・591万人(21%)
  輩出するところは・・
  広東省・・ 1500万人(54%)
  福建省・・・700万人(25%)
  海南省・・・170万人( 6%)
  他・・・・・430万人(15%)
  福建省は、僑郷(華僑のふるさと)として、広東省に
 次いで多くの華僑を送り出している。
  強力な経済力とネットワークで知られる華僑。
  アヘン戦争から逃れ最高潮となる・・100万人に達した。
  海外に中華街ができると、そこが足場にできるので、
 急増した。
  中国政府の圧政に農民が反乱(太平天国の乱など)を
 起こすとともに海外へ、その様な中国から逃れ出ようと
 農民も増加した。
  太平天国の乱に敗れた人々も・・海外へ逃れた。
  1933年には、800万人となった・・この内訳に於いて、
 福建省出身はその40%(320万人)となった。
  帰国して中国ナショナリズムを高揚させたりした。
  華僑の模範、そして、民族の輝きだとして毛沢東は、
 陳嘉庚を賞賛した・・
  彼は、シンガポール(マレーシア)でゴム大王として成
 功した。
  華僑は、常に、新天地の政府に対して用心深かった。
  そして、沖縄県は、2016年(平成28年)、沖縄県と福
 建省の友好親善に貢献するためだとして、奨学金を支給
 する奨学生を福建省へ送ることにした・・
  学費や宿泊費、そして、食費は・・中国側が負担する・・
 国際交流・協力の推進だとする美しい名目がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月22日、日米通商航海条約に調印した。
  江戸時代に結ばれた日米修好通商条約の不平等条項を
 改正したのだが、まだ、関税自主権は完全には回復でき
 なかった。
  (当然の権利である治外法権は回復した)
  しかし、自国益をしつこく握るアメリカに、まだ牛耳
 られる日本だった。
  関税自主権の回復は、1911年を待たねばならない。
  しかし、この時の改正でも、まだまだ日本は、色々な
 譲歩を要求された。
.
1894年11月24日、宮内省式部職付属音楽学校、奏音堂(上
 野奏楽堂)で、歌劇「ファウスト」が上演された。
  これは、日本における初めてのオペラ上演だった。
  宮内省式部職付属音楽学校・奏音堂(上野奏楽堂)は、
 東京音楽学校(現:東京藝術大学)の奏楽堂のこと。
  この演奏会は、日清戦争の義捐(きえん、慈善や公益
 のための寄付)のための音楽会で、演目はグノー作曲の
 「ファウスト」第1幕だけの部分上演だった。
  指揮は、音楽学校教授のフランツ・エッケルト、
  オーケストラ伴奏は、宮内省楽部、
  合唱は、音楽学校の生徒
  ファウストは、ブラッチャリーニ、メフィスト
  フェレスは、クーデンホーフ伯爵、
  マルグリートはヴァルナムが務めた。
  ゲーテの原作はドイツ語だが、オペラはフランス語。
.
1894年11月26日、慶応義塾大学の学生が、旅順口の陥落を
 祝って初めてカンテラ(油用灯火具)行列を行なった。
  このカンテラ行列は、慶應義塾大学の独特の祝賀行進
 だったが、この時以来、国家的な祝祭の時にも挙行され
 るようになった。
.
1984年11月28日、アメリカ紙が、デッチ上げニュースであ
 る旅順虐殺を報道した(まったくのプロパガンダ嘘報道)
  「ニューヨーク・ワールド」に、「日本は文明の皮膚
 を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」とする記事が掲
 載された・・
  これは、新聞の部数販売を拡張しようとした、この頃、
 流行っていた煽情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)
 だった。
  特に、この記事を書いたクリールマンは、この時の日
 本以外にも嘘で煽る記事を書いていて、その嘘が世界か
 ら指摘されている。
  1888年の米西戦争の時も、クリールマンは、この様な
 報道をして、世界を惑わせ、世論を誘導する前科のある
 悪名高き記者だった。
  この米西戦争の時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」
 と疑義が出された。
  そしてまた、この旅順口の嘘記事である・・「虐殺は
 ない」の訂正を要求する証言も多く・・このクリールマ
 ンの報道を耳にしたベルギー公使が、現地にいたフラン
 スの武官に尋ねたところ・・、
  「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいただけ」と否定した。
  また、旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド紙の
 特派員であるアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンが報道するような虐殺は発生していないと証言してい
 る。
  さらにまた、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 でも「虐殺は捏造されたものであった」と論じている。
  そして、欧米でのジャーナリズム史の研究でも、旅順
 の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載した新聞・
 ニューヨークワールド紙が、ライバル紙と競い合って扇
 情主義報道を行っていたことは常識で定説となっている。
.
1894年11月29日、天皇陛下が、第1軍司令官・山縣有朋の召
 還を御命令。
  1894年7月から始まった日清戦争で、56歳にもかかわら
 ず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦の指揮をと
 った山縣有朋。
  「敵国は極めて残忍の性(さが、自分ではどうしよう
 もない生まれつき。性質)を有す。
  生擒(せいきん、生きたまま捕らえること)となるよ
 りむしろ潔く(いさぎよく)一死を遂(と)ぐべし」と
 訓示している。
  配下の野津道貫が率いる第5師団が、9月の平壌の戦い
 で平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自
 身は体調を崩した・・
  この事をお気遣いされた天皇陛下は、この月の11月に、
 「病気療養をするように」という勅命を出されて、戦線
 から呼び返された。
  そして、山縣は、12月に、帰国した。
  無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、伊藤・
 井上らが、山縣の今後について打合わせ、天皇陛下も体
 面をお気遣いされ、山県に第一軍司令官と枢密院議長を
 免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅を
 下すなど、山縣を少しでも慰めようと御配慮された。
  その甲斐あってか、帰国後、山縣は体調を回復し、戦
 後の1895年8月5日に、第二軍司令官だった大山、西郷従
 道海軍大臣と共に、日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬
 章、功二級金鵄勲章を授与され、伯爵から侯爵に昇叙さ
 れた。
.
1894年11月、伊藤内閣、自由党との提携趣意書を発表した。
.
1894年12月1日 奥羽北線(おううほくせん)青森~弘前間
 が開通した。
  官設鉄道の青森~弘前間と、日本鉄道会社線との連絡
 運輸が開始された。
.
1894年12月9日、上野の不忍池畔で、戦勝祝賀会が東京市民
 有志の手によって開かれた。
  第2回も開く予定であった。
  市民も「公明正大なる戦争」とし、その戦争の連戦連
 勝を喜んでいた。
  参加は満15歳以上で、50銭の会費を払って会員となり
 会券、会章、昼餐券を受け取った。
  朝の7時半に日比谷練兵場に集合し、桜田門から宮城前
 広場で万歳三唱し、丸の内から日本橋、そして、上野公
 園へ歩いた。
  旗や幟(のぼり、細長いきれの一端を竿の先に付けて
 立てるもの)を立て、山車を曳いた。
  9時頃、上野公園に到着した。
  10時から儀式を行なう。
  東京市長の祝文朗読や、東京市会議員らの挨拶、靖国
 神社の宮司の戦捷(せんしょう、戦勝)祝祭の執行、万
 歳三唱で終わった。
  その後、種々の余興見物となる。
  「川上音二郎戦地見聞日記」の野外劇が上演され、野
 戦病院の体験、陸海軍の手踊りなどが行なわれた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
   計画の中心に居た。
    それだけではなく、戦争のすべてに、ルーズベルトは
   関わっていた・・戦争政治家そのものだった。
.
1521年、アステカ王国が滅亡した。
  そして、1533年には、インカ帝国が滅亡した。
  その他の地域においても、ひどい殺戮行為が続けられ
 各地で全滅が相次いだ。
  メキシコ以南の北米・中米・南米、そして、その離島
 のインディオの方々は、スペイン・キリスト教徒とキリ
 スト教聖職者たちに虐殺され、全滅していた。
  未曾有の人類史上最悪の極悪行為だった。
  この行為が行われる最初、現地に着いた殺戮者たちは、
 現地の人たちの取り扱いについて「どうするか?」と、
 バチカンのローマ法王(教皇)へ質問した・・
  回答は・・「人ではない」だった・・
  ここから大虐殺が50年に渡って行われた。
  この事について、あまりにも卑劣な行為をして来たキ
 リスト教聖職者のラス・カサスが、このままでは天国へ
 召されないと、行かれないと、本国のスペイン王へ報告
 した。
  50年もの殺戮の歳月が流れた後だった。
  その報告を聞いていたスペイン王とその側近の面々は、
 そのすべてを聞くことに耐えられず、「本に記せ」と言
 った。
  その本が、「インディアスの破壊についての簡潔な報
 告」である。
  当然、この本には、キリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが行なった史上最悪の蛮行(南北アメリカ大陸など
 の卑劣な殺戮)が記されている。
  その記述の1例・・49頁~・・
  キリスト教徒等に、300人のインディオが分配され渡さ
 れて、3ヶ月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死
 んでしまい、
  生き残ったのは30人に過ぎなかった。
  3ヶ月か、4ヶ月の間に、約7000人以上の子供が餓死し
 た。 
  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
  また、
  私(キリスト教聖職者)は、このほかにも数々の身の
 毛がよだつような出来事を目撃した。
  (この聖職者らは、何ら、インディオの方々を助けよ
 うとはしなかった・・その様な悪漢である)
  その後、また、インディオ達を狩り出しに行くことに
 なった。
  結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
  総督は、無慈悲で無分別で、
  (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こん
 なことを言ったって、この聖職者たちは殺すがままにさ
 せていた悪漢)
  彼らの行った忌まわしい行為は、それまでのものをこ
 とごとく凌(しの)いでいた
 (他人に悪さを転嫁するな、誰も居なくなった荒れ地に
 キリスト教会を建てただろう)。
  金(きん)も非常に豊かであった。
  それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
 思いつかなかった。
  金の在所(ありか)を白状させ、
  数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した。
  (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者たち、今
 頃、弁解したって死んでしまったではないか)
  その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (君たち、キリスト教聖職者たちが聖ではないのだ)
  全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音ではないよ、殺しに行っただけではないか、総
 べて殺して)
  さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
 であろう。
  盗賊と変わらない行為をする部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
 カスティーリャノ国王についてお前たちに知らせにやっ
 てきた・・云々。
  さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前た
 ちを殺したり捕えたりすることになると心得よ。
  夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家
 に火を放った。
  (キリスト教聖職者たちは止めもしない)、
  殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
  火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家
 の中にある金を探しに出かけた。
  官吏たちとて例外ではなかった。
  キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近
 の者たちを派遣した。
  (ほら見ろ、キリスト教聖職者たちも欲にまみれた悪
 漢だったのだ)
  数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
  生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
 挙句の果てに殺害した。
  また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認め
 ていた。 
  (キリスト教聖職者も同罪・・キリスト教は、世界の
 あちこちでこんな事ばかりしている)
.
1581年、ポルトガルのアビス王朝が倒され、1581年以来、
 スペイン国王へりーぺ2世の支配を受ける屈辱のポルトガ
 ルの歴史が始まる、時代に入る。
  スペインは統一を完成し、まっとうして、中南米へと
 進出して行く・・そして、ここで悪名高い卑劣な虐殺を
 行なう・・1000万人以上というインディオの方々の殺戮
 の限りを行なう・・
  そのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、先住民
 のインディオの方々の殺戮の限りをし尽くし、50年とい
 う長年に渡る卑劣な行為を行なう・・そして、その悪に
 染まった殺戮者たちは太平洋へ出て来る・・
  ルソンへ進出する・・そして、ここを本拠とし・・
  日本と接触を始める。
  日本は信長・秀吉の時代だった。
  そして、日本を中米・南米などのアメリカ大陸と同様
 な植民地にしようという魂胆でやって来る・・その任務
 を秘めたキリスト教宣教師たち・・
  しかし、その魂胆が見破られ・・また、許可を得て始
 めた南蛮貿易での悪行・・若い日本の女性を海外へ連れ
 去る人身売買の悪行が見破られ・・陰で悪行の限りをす
 るキリスト教宣教師たちは「国外対処処分にされる」。
  おとなしく言われるように日本を去ったものは何事も
 無かったが・・命令に反して潜伏したキリスト教宣教師
 たちが悪の根源だった・・
  今・現在、キリスト教は、「禁教だ」「禁教だ」と叫
 ぶが、キリスト教側が命令に従わない事から、何事も話
 が始まるのだ・・身から出た錆、キリスト教の悪行から
 発しているのだ。
  「長崎の26聖人」なんて言っているが、命令違反の潜
 伏キリスト教宣教師たちにたぶらかされた犠牲者たちだ。
  そして、豊臣秀吉は、1598年に没する。
  時代は徳川家康の手に移って行く・・そして・・
  1600年を参照・・
.
1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に来た。
  それに先立つ12年前の1588年、スペインは、世界に君
 臨していた無敵艦隊を壊滅させられた。
  極悪のスペインの命運はここまでだった。
  海上権を失ったスペインの悪行もここまでだった。
  スペインからの独立戦争を戦っていたオランダと、そ
 のオランダを支援していたイギリスに、その主導権は移
 る・・、
  スペインは政治的にも、また、経済的にも後退して行
 った。
  オランダ・イギリスは、1595年以来、国を挙げて東洋
 航路を開拓していた。
  オランダは、1598年、5隻の艦隊をマゼラン海峡を回る
 航路で東洋へ向かわせた。
  そして、その1隻が、僚船を失いながらも、1600年に、
 日本の豊後に至ったのだった・・その船がリーフデ号。
  徳川家康は、その船の航海長のイギリス人ウィリアム・
 アダムスを大阪に呼びつけ、オランダとイギリスとの貿
 易を許した。
  オランダは、すぐに応じて、ジャワを根拠地とした。
  そして、1609年、平戸に商館を建てた。
  イギリスも、1613年に、平戸に商館を建てた。
  そして、徳川家康から自由貿易の朱印状を得て、盛ん
 に貿易を始めた・・日本は開かれていた。
  ポルトガルは、独占的な対日貿易権を失った。
  それと同時に、ポルトガル系の日本イエズス会にも大
 きな打撃が与えられた。
  はじめポルトガルが、日本のキリスト教の布教を始め
 ていた。
  1585年1月には、ローマ法王(教皇)の「日本布教は、
 ポルトガル(イエズス会)がせよ」という命令も出てい
 た。
  しかし、その様な命令も無視され、スペイン系フラン
 シスコ会が日本に来て布教を始めた。
  この様な事で、キリスト教の会派同士の確執と争いが
 生まれた。
  この様な事からローマ法王(教皇)は、1600年12月、
 前言を取り消して、再度、命令を出した・・
  「諸会派が日本で布教しても良い」・・と。
  ここに「ポルトガルイエズス会」の日本布教の独占権
 は破棄された。
  そこで、1602年、スペイン系の諸会派が、日本布教を
 始めた(ドミニコ会、アウグスティノ隠修士会)
  そして、1608年6月、また再び、ローマ法王(教皇)は
 命令を出し・・
  「日本の布教は、完全に自由だ・・みんな勝手にやり
 なさい」・・と。
  誰がやっても良いぞーという中で、ポルトガルのキリ
 スト教会派とスペイン系の会派は、日本で陰湿な争いを
 始めた。
  この両国は、国民感情も対立していて、キリスト教会
 派も対立が激しかった。
  いがみあいは、特に、イエズス会は、各会派から集中
 的に激しい論難が加えられていた。
  この対立は根深く、陰湿で、対立解消には至らなかっ
 た。
  家康は、キリスト教が素晴らしい宗教だから布教を許
 したなどという事では、当然、無く・・
  家康の目的は、貿易を独占的に行うことと、新しい西
 洋の技術を得ることにあった。
  1599年には、早くも家康は、江戸における布教を許し
 ていた。
  そして、浦賀を開港していた。
  そして、鉱山採掘技師を連れて来させたりしていた。
  1602年には、江戸及びその周辺の布教に拡大した。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、日本の状況
 が陰湿な状況へ捻じ曲げられているが・・キリスト教が
 悪いことをしなければ、日本は、大変、開明的だったの
 です。
  (参考)開明的:かいめいてき、優れた洞察に基づい
     て、新たな分野に積極的に取り組むさま。
     ・
     ・
1941年、アメリカは、日本を煽(あお)るため、アメリカ
 軍艦に日本領海侵犯航行をさせた(今の中国みたいなも
 のだ)
  策士・ルーズベルトは、何としても最初の一発を日本
 に撃たせたかった。
  また、日本が、先に、撃った事にしたかった。
  アメリカの国民の方々は、8割以上が戦争反対だった。
  ルーズベルトは、その世論を無視して、日本を煽(あ
 お)るために、1941年に、アメリカ巡洋艦を日本領海内
 に侵入させた。
  そして、日本と「衝突事件を引き起こそう」と不埒(
 ふらち)な事をさせていた。
  また、日本への石油の輸出を止めた。
  今・現代でもそうだが「石油が止まったら、国の息の
 根は止まる」・・ルーズベルトは、この様な戦争が起き
 かねない重大な事をした。
  そして、ルーズベルトがした事は、「ハル・ノート」
 だった。
.
1941年4月、本当の日米開戦
  日本へ隠密に奇襲攻撃をするアメリカだった。
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた史実・事実・
 真実となっている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲の悪名
 は、この史実から・・『ない』と言える。
  既に、アメリカの奇襲による先制攻撃で、日本とアメ
 リカは交戦状態にあった。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで奇襲した・・
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦していた。
  れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは言い逃れ
 できない。
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯で卑劣な事をするアメリカであるが・・、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳をした・・、
  そして、真珠湾では・・
  日本が真珠湾の攻撃をする前に、アメリカ軍が、航行
 速度が遅い日本の潜水艦は、先行して真珠湾に達してい
 て、この先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の軍艦を攻
 撃して、戦端を開いていたのだった。
  この時、アメリカは『あれはクジラだった』と、また
 また、アメリカは苦しい言い訳をした・・が・・、
  5隻の日本の潜水艦が未帰還になった。
  この5隻のすべてを、アメリカは「クジラだと言いたい
 のか?」。
  また、1隻に2人の搭乗員が居て、9名は戦死したが、1
 名の日本の搭乗員をアメリカは救助した。
  クジラから出て来た日本の潜水艦の搭乗員である。
  アメリカは、言い訳ができないのである。
  そして、また、この中国でのアメリカの日本への先制
 攻撃を、最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与え
 る』という命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしていた
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である・・交戦である・・戦争状態
 に入る事である。
  れっきとしたアメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  アメリカの奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に、この動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカは、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いう事実をアメリカは国民に公表せよ・・、
.
1941年11月27日、戦争へ向けて暗躍するルーズベルト大統領
  第二次世界大戦の重要史料である「モンゴメリー・ハ
 イド文書」などが、100年後の2041年まで秘密にされた。
  都合が悪いから、秘密にする期間を延ばした。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  本・『操られたルーズベルト』より
  ・・・
  ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃の舞台回しをして、
 (日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反
 論できない証拠は、H・モンゴメリー・ハイド『3603号室、
 イギリス諜報機関の話』に出ている。
  この本は、ロックフェラーセンターの36階3603号室で
 執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフ
 ェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従っ
 て枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズ
 ベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を
 記述している。
  モンゴメリー・ハイドは、さらに詳細に述べている(
 以下、同書より引用)
  「ステフェンソンはイギリス籍で、日本で50年過ごし
 たエージェント(工作員)を、栗栖使節団に潜入させる
 ことにある程度成功した。
  このエージェントは、栗栖使節団のユキという人物に
 接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワ
 シントンのアパートで幾回か会った。
  この記録から得られた情報は、文書化され、そのコピ
 ーはステフェンソンによって、毎日、ルーズベルト大統
 領に届けられた。
  これは、当時、暫く前から傍受解読されていた東京と
 ワシントン間の外交電報を補強するものであった。
  1941年11月27日、ルーズベルト大統領は、彼の息子ジ
 ェームズ・ルーズベルトに、特別のメッセージを持たせ
 てステフェンソンのところへ送ったが、その意図は、イ
 ギリス外務省もワシントンのイギリス大使館もまだ分か
 っていなかった。
  その同じ日に、ステフェンソンは、それをロンドンに
 送った。
  彼の電報は、次のようなものだった。
  『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  私は繰り返します。
  電報は、『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  想像されるように、この電報は、ロンドンに巨大な激
 動を与えた。
  そこで、ワシントンにいたハリファックス卿(訳注・
 駐米イギリス大使)に、直ちに、電報してその確認を求
 めた。
  他の至急報がロンドンから、今度は、ステフェンソン
 宛てに出されたが、それは、首相と閣僚が彼の情報源を
 知りたいというものであった。
  ステフェンソンは簡単に返電した。
  『(情報源は)アメリカ大統領(ルーズベルト)』
  2日後の11月29日に、コーデル・ハルは、ハリファッ
 クス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。
  その際、コーデル・ハルはこう言った。
  『日本との外交関係は事実上終わった。
  仕事は、既に、陸海軍の手に渡った。
  日本は、今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を
 持つであろう』」
  ヒルダーとルーズベルトの娘婿のドール大佐とのやり
 取り
  ◆ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付ロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、共和党から大統領候補として出たデューイはパー
 ルハーバーの真相を知っていた、と書いています。
  この記事でチェンバレンはデューイ知事に個人的にイ
 ンタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、次の日に、
 太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホワイトハウス
 は15時間以上前に知っていたことが分かった』と言って
 いた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  ◆ドール:12月7日のその日曜日の朝9時、奇襲攻撃の
 約4時間前に、スターク提督は、彼の部屋で14項目の日本
 の返事を受け取り、一緒にいたマーシャル将軍に向かっ
 て叫んだ。
  「大変だ!これは戦争だ」。
  「直ぐキンメルに知らせなくちゃ」
  ヒルダー:もし彼が電話でキンメル将軍に通報してい
 たとすれば、奇襲は避けられたでしょうか。
  ドール:はい、私はそう思います。
  ロバート・A・セオボールド提督は、『真珠湾最後の秘
 密』の中に、電話連絡はされなかったという事実を書い
 ています。
  今でも、アメリカの大衆に「完全には明かされていな
 い」、
  何らかの強い力、あるいは圧力が、キンメル提督に適
 切、迅速に警報することを止めたのです。
  キンメル自身が私にこう語りました。
  「スタークは、『我々はキンメルに無電を打って、警
 戒させなければならん』とマーシャルに言いましたが、
 彼はそれを止め『それはやめよう、そうすると日本人に
 気付かれ、事態を複雑にする。
  私は後から彼に電報しよう』。
  彼は、確かに、商業通信線を使う普通電報で私に知ら
 せたのです。
  至急便ではなく、普通便扱いで。(その結果)すべて
 の爆弾が落ちてしまって約2時間後、確かに、私は、マー
 シャルの電報を受け取ったよ」
  ヒルダー:マーシャルもCFRのメンバーですか。
  ドール:確かにそうでしょう。
  ヒルダー:マーシャルの行動はとても理屈に合いませ
 んね。
  日本人に探知されると事態を複雑にするから、キンメ
 ルへの通報を止めさせるというのは、大変不思議ではあ
 りませんか。
  ドール:もちろん非常に不思議です。
  (参考)
  12月8日を記憶せよ!
  「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ。」
  カーチス・B・ドール著『操られたルーズベルト』
.
1953年6月19日、この日の夜、ローゼンバーグ夫妻の死刑
 執行がアメリカ合衆国でなされた。
  ソ連のスパイとして、核機密を、ソ連へ漏洩したロー
 ゼンバーグ夫妻だった。
  日本で、この夫妻の無実を訴えて、救済運動に関わっ
 た共産主義者が多かった。
  そして、近年、夫妻が、本当に有罪だったことが確認
 された。
  それでも、「しらばくれる日本の共産・左翼の知識人
 たち」だった。
  反論すると墓穴を掘ると思うから、議論をしないとい
 う卑劣な態度をとった。
  この様な事は、キリスト教の神学者や聖職者たちにも
 言える。
  最近、「ヴェノナ文書」が公開されて、ローゼンバー
 グ夫妻が、実際に、スパイ活動を行なっていたことが明
 らかになった。
  刑の執行は、ニューヨーク州シンシン刑務所で、同じ
 電気椅子で、最初に、夫ジュリアスが午後7時6分に執行
 され、次に、妻エセルが午後7時16分に執行されるという
 やり方で、それぞれ処刑された。
.
1960年代の半ば、エドガー・スノーは、中国のプロパガン
 ダに心酔し、中国共産党にべったりという状態になる。
  1960年代の半ば頃、そのあまりにもおかしいスノーに、
 ジャーナリストとして客観性を欠いていると批判が出る。
  そして、スノーもさすが自分が毛沢東に騙(だま)さ
 れていると、中国に対して懐疑的になった。
  「今日の赤い中国」で有名になるが、大躍進による大
 飢饉(中国国民の4000万人が死んだと言われている)を
 否定する。
  (そんなことは起きていない・・と)など、
  しかし、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批
 判され、スノー自身も、「後に自らの無知を認めている」。
  1970年~1971年、エドガー・スノーは、妻を伴った最
 後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領
 は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述
 べている。
  ホワイトハウスは、このスノーの訪問に興味を示した
 が、スノーを信頼していなかった。
  しかし、この時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、
 スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇
 帝崇拝の伝統がある」と言った)や・・、
  革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・
 拷問された(周恩来の介入で、スノーは生還できた)こ
 となどにより・・、
  中国共産党率いる中華人民共和国に対して、幻滅の感
 を持つに至った。
  そして、中国へのゴマすり小説の『中国の赤い星』を
 書いたことを後悔していると妻へ語った。
  ユン・チアンとジョン・ハリディは、「マオ(誰も知
 らなかった毛沢東)」で、スノーを、毛沢東のスポーク
 スマンで、毛沢東の神話化に加担した、そして、共産党
 をロマンチックに描写していると批判した。
  また、ジョナサン・ミルスキーも、スノーは、周恩来
 や毛沢東からの信頼を得ていることに満足していたため、
 大躍進の(巨大な中国国民の死)の被害を見ることもで
 きなかったと述べている。
  しかし、それでも中国は、「スメドレー・ストロング・
 スノー協会」を組織し、プロパガンダ(嘘宣伝)映画も
 作り、せっせと世界を誤魔化している。
  2006年、ロイス・ホイラー・スノー夫人は、インタビ
 ューで、「彼は、今日の中国の姿を、決して是認しなか
 ったでしょう」と語り、中国の何事に対して、不誠実な
 姿を批判している。
.
1972年、中国の「第二期対日解放工作要領」
  中国は、情報工作を必死にやって来た。
  「32年テーゼ」がある。
  (参考)32年テーゼ:1932年5月に、コミンテルンで決
     定された『日本における情勢と日本共産党の任
     務に関するテーゼ』のこと。
      日本から片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参
     加し、討議している。
  また、強く日本へ影響を与えた1972年に出された「第
 二期対日解放工作要領」がある。
  この中には『日本をまるまる中国共産党の為に利用す
 るには、日本国民を心理的に取り込む必要がある」と書
 かれている。
  そして、1998年の「21世紀の中日関係の展望」でも「
 日本は、もはや政治大国になれないのだから、中国の為
 に日本の力、特に、その経済力や技術力を活用しなけれ
 ばならない。
  日本人をコントロールするため、日本人に歴史問題を
 突き付けて、日本人を後退させる」と書かれている。
  そして、日本国内の大学のあちこちに孔子学院を作っ
 ている。
  ドイツのメルケル首相が「儒教でも教えるのかと思っ
 たら、中国のプロパガンダ(中国思想の洗脳機関)だっ
 た」と嘆いたごとくだった。
  今、世界が、中国の嘘宣伝工作に気付いて来た。
  アメリカは、「孔子学院の閉鎖の大統領令が出された。
 アメリカでは、孔子学院が次々と閉鎖されている。
  しかし、中国の陰湿なしつこさは、「各大学に中国研
 究センターの類いを作らせてところだ」。
  非常に重層的に、中国は、世界の工作網を作っている。
  中国のプロパガンダの歴史は、非常に長い歴史がある。
  中国にとってこのようなレベルは、お手のものなのだ。
  日本では、「日本学術会議が取り込まれている」。
  日本学術会議は、「戦争反対を美しい名目にして、日
 本の防衛に必要不可欠な研究成果を使わせない」として
 いる。
  中国が喜ぶだけだ。
  日本学術会議が、中国に取り込まれる歴史は、非常に
 古い。
  その1例、1955年6月、日本学術会議は、多くの面々が
 顔を連ねて、東大総長を団長として、中国へご機嫌うか
 がいの北京訪問をする。
  そして、工作員上がりの郭沫若と会う。
  そして、挨拶で、「中国のお役に立てる研究者たちを
 連れて来ました。
  それが、何よりも一番の中国のお役に立つお土産にな
 ると思いまして」と挨拶する。
  日本の技術を欲しがっている中国の要望に応じるとい
 う日本学術会議となっている。
  公然たる「日本裏切り団」となっている。
  「産業スパイ団」となっている。
  また、これは、「チンコム(対中輸出統制〉違反」と
 なっている(1957年まで実施)。
  そして、この時、郭沫若は、繰り返し繰り返し強烈な
 毛沢東讃美演説をしている。
  日本学術会議の面々は、この様な中国共産主義思想の
 洗脳を受け、そして、タイコモチ化した日本学術会議の
 面々が日本に帰って来た。
  この様な、中国のしつこい行為の繰り返しがなされて
 いた。
  1940年代の延安に逃げて、隠れていた中共は、ここで、
 中共が何をやっていたかを知っているはずの日本学術会
 議団なのに、洗脳されて、有り難がって日本に帰って来
 た。
  延安の中共が、中国国民の方々を、大勢、殺すという
 大粛清をしていることも知っていて・・、
  そして、目の前に居る人たちが、その様な虐殺行為を
 していることも知っているのに、まったく思い出せない
 という洗脳の輩状態となっている。
  そして、その後に、日本への裏切り行為をする。
  折角の研究成果を、日本に使わせないという、中国が
 喜ぶ行為をする。
.
1979年、古田博司氏(筑波大学教授)は、若い時、共産主
 義にかぶれ、共産主義の本質がまだ見れていなかった。
  26歳の時、憧(あこが)れ続けていたソ連へついに旅
 立った。
  社会主義国の素晴らしさが見たかった。
  ソ連では監視員が付き、自由に見ることを拘束された。
  古田氏は、監視員をまいて、自由の身になって、裏町
 を見るのが好きだったので、勝手に歩き回った。
  すると、ソ連の街中では、失業者の群れに出くわした。
  社会主義国には、失業者は居ないと教えられていたの
 にと・・言われている事と実際がまったく違うという現
 実を見た。
  町の建物の壁には、「旋盤工を求む」とか、「ミシン
 工を求」とか、求人の貼り紙が張ってあるし、平等に皆
 に仕事があると聞いている話とまったく違った。
  食糧は、集団農場で、毎年、増産されているという話
 もデッチアゲで、野菜売り場には巨大な瓜があるだけと
 いう貧弱さ。
  色々と見て、今まで話に聞いていたことは、まったく
 のプロパガンダ(嘘宣伝)であるという事がすぐに分か
 った。
  共産主義国は、この様な話が満ちていた。
  ソ連は、その後、破綻するが・・、
  共産・中国は、今なお、中国共産主義独裁政権が政治
 を牛耳っている。
  ・・が、このソ連の例が、この国にも当てはまる様相
 になりそうだ。
  虚偽によって「世界をだぶらかせている」。
.
1991年1月、橋本龍太郎蔵相が訪中した。
  この行動が罪作りで最低だったのは、中国が天安門事
 件で、中国の自国民を戦車で轢(ひ)き殺し、また、中
 国人民解放軍が(解放軍なんて呼べないような行為をし
 た軍)、自国民へ向かって銃を乱射した。
  大勢の中国の方々が亡くなった。
  100万人の規模で集まった中国の現政権への不満を持っ
 た人々・・この様な天安門前の中国の民を卑劣なやり方
 で殺し、抑え込んだ。
  当然、全世界から非難の嵐となった。
  この様な残忍で凶暴な「人権弾圧への非難の嵐」の中
 国へ、国際社会が強く抗議し、制裁している中国へ、こ
 の馬鹿な日本の蔵相の橋本龍太郎は、最低にも、ゴマす
 り訪中をした。
  最初の先進諸国のトップ級の恥ずかしい訪問劇となっ
 た。
.
2005年、中国の毛沢東の伝記「マオ(誰も知らなかった毛
 沢東)」(講談社)が出版された(著者:ユン・チアン
 氏)。
  この中で、毛沢東が、大躍進政策で約4000万人もの中
 国国民を死に追いやったと記されている。
  中国は、きちんとした説明はしていない。
.
2006年10月、チベットの仏教僧侶が亡命しようとしたとこ
 ろ、中国の人民解放軍が銃撃して殺した。
  この映像が珍しくネットに流れた。
  しかし、この事件に対して、日本のNHKはじめメデ
 ィアは、まったく「ホッカムリ」して報道しなかった。
  報道したのは、僅(わず)かに「産経新聞」と「週刊
 新潮」だけだった。
  NHKはじめ日本のメディアは、中国を怖(こわ)が
 って報道しなかった。
  アメリカのオバマ大統領も北朝鮮の核が怖くて、しっ
 かりした対応ができなかった・・その結果、とうとう北
 朝鮮は、核を持ってしまった。
  だから今、トランプ大統領が大変な苦労をしている。
  正義をかざして闘う姿勢を示さない「NHKはじめ日
 本のメディア」の腰抜け状態。
  日本国民の方々は、まったく気づかずに置かれる状態
 になっている。
  NHKという放送局は、日本国内の殺人事件ばかり報
 道して、海外を報道しない傾向にある。
  「殺人事件好き(すき)」のNHKとなっている。
.
2007年6月27日、アメリカ下院で、「慰安婦問題に関する
 対日謝罪要求決議」がなされた。
  日本は、アメリカのこの「2007年6月27日の『対日非難
 決議(アメリカ下院外交委員会)』を可決」は問題だっ
 たと「取り消し決議を要求するべきだ」。
  この決議案には間違いがあまりにも多い。
  多くの史実において間違いが存在する。
  また、卑劣な多くの史実の歪曲がある、そして、悪意
 ある捏造に満ちている。
  日米首脳会談の折の話し合いの議題の一つとすべきで
 ある。
  この様な決議が、アメリカ下院の外交委員会で可決さ
 れてしまう根本には「長年にわたる中国のプロパガンダ
 がある」。
  今・現代も続く、この様な中国の卑劣なプロパガンダ
 の存在を「アメリカに認識させる意味」でも、この様な
 「間違った決議を訂正させる行為は、重要なのだ」。
  「ただ単に、過ぎ去った過去の間違い決議の名誉回復
 のために『訂正を要求するという話』とは違うのである」。
  中国が捏造して、長年、行って来た中国の嘘の歴史の
 植え付けの洗脳行為を気付かせる行為は、『重要な外交
 会談の議題』なのだ。
  この重要性を、また、必要性を、御感じ戴きたい。
  アメリカの議会には、何度も事実に基づかない話が上
 程(じょうてい、議案を会議に欠けること)されている。
  日本を貶(おとし)める「中国のアメリカへの働きか
 け」は、しつこいのだ。
  この様な捏造の作り話に、日本は丁寧に、その総べて
 に反駁する必要がある。
  この様な日本を失墜させる行為には、必ず、事実を説
 明する必要が当然ある。
  馬鹿々々しい話が、黙っていることによって「本当な
 のだ」の話に代わって行くのである。
  例えば1例・・、
  「慰安婦の中には13歳という若さの少女や、自分の子
 供から引き離された女性も含まれ、彼女らは、自宅から
 拉致されたりした。
  さらには、多くの慰安婦は最終的に殺害されたり、交
 戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた。
  その結果、歴史家は、20万人もの女性が奴隷化され、
 その内わずかしか今日まで生存していないと結論付けて
 いるという」と記されている。
  これは、まったくあり得ない・・完全な作り話である。
  この様な事を見過ごす日本外交は、あり得ない。
  これらの一つ一つに丁寧に反駁していくことが、『日
 本外交の最重要課題である』。
  他に最重要課題があるからと、この様な日本の一番大
 切な「日本の立ち位置を覆(くつがえ)されている状態
 を放置する事が無いようにせよ」。
  その一つ・・、20万人なんてまったくあり得ない嘘で
 ある。
  20万人と言えば、1945年3月10日、アメリカが、大規模
 で東京を大空襲した。
  この時、大勢の方々が焼き殺されたが、その犠牲者の
 倍である。
  広島の原爆の犠牲者よりさらに多い。
  その様な大虐殺を日本軍が、終戦時に行ったというの
 ならば、その史実的根拠を示せ!
  その責任は、『アメリカにはある』。
  ただ、中国から言われたから、プロパガンダされたか
 らでは済まない。
  アメリカは、その総べてについて根拠を示せ!
  そのことが出来ないなら、『アメリカは、訂正決議を
 せよ!』。
  過去の決議を破棄し、日本へ謝罪せよ!
  事実・史実・真実を先に言うのならば「事実無根であ
 る」。
  中国のプロパガンダの『そのままである』。
  また、日本の議会は、このアメリカの決議の『非難決
 議をせよ!』。
  国際司法裁判所へ「アメリカの名誉棄損を訴えよ!」。
.
2016年、日本企業の海外進出ランキング
 1.中国--------- 32,313(55.1%)▲1,077(▲3.2%)
  2.アメリカ----- 8,422(14.4%) 573( 7.3%)
 3.インド------- 4.590( 7.8%) 275( 6.4%)
 4.ドイツ------- 1,811( 3.1%) 34( 1.9%)
 5.インドネシア-- 1,810( 3.1%) 113( 6.7%)
 6.タイ---------- 1.783( 3.0%) 58( 3.4%)
  7.ベトナム------ 1,687( 2.9%) 109( 6.9%)
  8.フィリピン---- 1,440( 2.5%)▲ 8(▲0.6%)
  9.マレーシア---- 1,362( 2.3%)▲ 21(▲1.5%)
 10.台湾---------- 1,152( 2.0%) 27( 2.4%)
 11.シンガポール-- 1,141( 1.9%) 25( 2.2%)
  12.メキシコ------ 1.111( 1.9%) 154( 16.1%)
  計 58,622(100 %)
  2016年の進出企業数、その%、前年比増減、伸び率
  中国への進出企業数が55%と圧倒的の多が、3%の減と
 撤退傾向にある。
  次に撤退傾向にあるのはマレーシア、フィリピンと続
 く。
  進出企業数の伸び率が高いのはメキシコで16%増。
  次がアメリカで7%増、
  その次が、ベトナム、インドネシア、インドの6%台。
  そして、日本のNHKはじめマス・メディアなど一般
 紙も、中国に進出した日本企業が、どんなに悲惨な目に
 遭(あ)っているか、まったく報道しない。
  中国に進出した日本の銀行が、中国企業に貸した金が、
 次々に不良債権となり、金が回収できない。
  そこで、それを取り戻そうと裁判を起こそうとするが、
 卑劣な事に、「その裁判を起こそうとする事が禁止され
 る」。
  中国では、法も正義もあったものではないことが起き
 ている。
  中国の有利なように、何でもくるくる変えられてしま
 う。
  WTOに加盟した中国は、そのWTOの規約も何もあ
 ったものではない国と化している。
  しかし、日本のNHKや新聞は、これを報道しない。
  この様な事に限らず、中国共産党の熾烈(しれつ)な
 権力闘争も、まったく報道しないし、中国の本当の経済
 状態も報道しない。
  日本国民をまったくつんぼ桟敷に置いている。
.
2018年、アメリカでは、ルーズベルトの評価が割れている。
  アメリカ経済をニューディール政策で復活させた聡明
 な大統領だと評価するグループ。
  しかし、その見方は浅い。
  ルーズベルトを評価しないグループの方々は、もっと
 深い見方をする。
  道路やダムなどの公共土木事業だけで経済を復活させ、
 人々の賃金を上げ、生活苦の人々を援助できる復活は無
 理だったと指摘する。
  しかも、その時は、史上まれに見る大不況・恐慌に見
 舞われていたのである。
  聡明なルーズベルト派もそのことを知っていて、且つ、
 ルーズベルトは、それまでの職歴から、戦争による経済
 回復の実例を良く知っていた。
  ルーズベルトは、確信的に戦争を起こしたいと思って
 いた。
  本格的にアメリカ経済を回復させるには、戦争による
 浪費と、それに伴う大がかりな生産能力の拡大と、経済
 の拡大しかないと・・。
  ルーズベルトは、ニューヨーク州の知事を勤めたが、
 それ以前は、海軍次官としてアメリカ海軍の増強に全力
 を挙げた。
  その時に、日本との戦争計画に密接に関わった。
  ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
 計画(こんな計画がアメリカにあった)の中心に居た。
  それだけではなく、ヨーロッパへの参戦を含めて、戦
 争のすべてに、ルーズベルトは関われていた。
  戦争政治家そのものだった。
  そして、戦争によって、歴史が示しているように、景
 気の拡大は明らかにもたらされた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)614E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年11月2日、日本鉄道会社に対し、土浦・隅田川・磐城
 の3線の免許状を下付する。
  日本鉄道は日本初の私鉄。
  現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社だった。
  1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参
 加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定した。
  西南戦争などの出費で、国の財政が困窮していたこと
 もあり、鉄道建設は国が行なうべきという意見も強かっ
 たが、民間資本を取り入れて、早急に鉄道敷設をして行
 こうとの方針となった。
  1882年、川口~熊谷間から建設を開始、当初は貿易港
 がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起
 伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたた
 め、まずは東京下町の山下町(現:台東区上野)を起点
 として建設が進んだ。
  1883年7月28日、第一区線の上野~熊谷間を開業、その
 後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸
 (利根川手前)、赤羽~品川間の品川線(現在の赤羽線
 赤羽~池袋間と山手線池袋~品川間、1885年3月1日開業)、
 第二区線(大宮~白河間)、第三区線(白河~仙台間)、
 第四区線(仙台~盛岡間)、第五区線(盛岡~青森間)
 と順次建設して行った。
  1889年12月、第一区線を両毛鉄道(現:両毛線)の前
 橋まで延伸、
  1890年8月1日、日光線(宇都宮~日光)を全通。
  1891年9月1日、現在の東北本線全線(上野~青森間)
 が開業。
  この1891年には、水戸鉄道(現:水戸線小山~水戸間)
 を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日
 に友部~土浦間の土浦線(現:常磐線)北部区間を開業。
  1896年12月25日、土浦~田端間の同南部区間を開業。
  1897年、両毛鉄道を買収し、
  1898年8月23日、水戸~岩沼間の磐城線(常磐線、日本
 鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。
.
1894年11月5日、京都鉄道に対し、京都~宮津間、綾部~和
 田山間、舞鶴~余部間の建設免許状を下付した。
  京都鉄道は、1893年に設立された民営鉄道。
  舞鶴市までの鉄王敷設が課題となっていた。
  断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所
 を越える保津峡の難工事があった。
  1900年に、京都~園部間が開業するが、園部以北へは
 資金難のため工事が遅々として進まなかった。
  政府は、舞鶴鎮守府開庁に続き、京都から舞鶴へ通じ
 る鉄道の建設は国策遂行上必須として・・、
  1902年4月、政府自らの手で、京都から舞鶴へ通じる鉄
 道の建設を開始した。
.
1894年11月6日、金州城を攻略した。
  遼東半島に上陸し、清国軍の重要拠点であった金州城
 を攻略した(詳細は前記を参照)
.
1894年11月8日、仮名垣魯文が死去した。
  (1829年2月9日~1894年11月8日、享年65歳)草双紙、
 滑稽本作者、戯作者(ゲサクシャ)、新聞記者。
  (参考)草双紙:くさぞうし、江戸時代、大衆を対象
     に書かれた絵入りの小説本。文章は平仮名が多
     く、赤本や青本、黒本、黄表紙、合巻物などが
     あった。
  江戸京橋の魚屋というまったくの庶民の生まれで・・
  幼少から奉公に出て、その先の大通人である細木(津
 国屋)香以の愛顧を受けて戯作好きとなって行った。
  そこで花笠文京の門に弟子入りし、戯作者の道に入っ
 た。
  ヒット作は、1860年の「滑稽富士詣」で、十辺舎一九
 の「東海道中膝栗毛」に倣って書く・・
  そして、瓦版や流行歌などを書いた。
  滑稽本『滑稽富士詣』 (1860年~1861年) で戯作者と
 して認められ・・明治に入って『西洋道中膝栗毛』 (1870
 年~1876年) 、『安愚楽鍋 (あぐらなべ) 』などの開化
 風俗を描く滑稽本があたり、流行作家の代表作家となっ
 た。
  1874年から、「横浜毎日新聞」の雑報記者となる。
   1875年『仮名読新聞』 (『かなよみ』) を自ら編集者
 として創刊し・・「鳥追阿松海上新話」(久保田彦作著)
 などの新聞連載小説を始め、やがて明治式合巻として刊
 行し、「仮名垣派」の明治戯作全盛時代を迎える。
 「いろは新聞」「魯文珍報」などで、雑報記事、続き物、
 劇評などに筆をふるった。
  また、合巻「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃ
 ものがたり)の当たり作を刊行し評判となった。
  教科書などにも活躍し、常に時流を見極め、多くの新
 聞に関係し、新聞小説の土台を築いた。
.
1894年11月19日、青梅電気鉄道の立川~青梅間が開通して
 営業開始された。
  中央本線の立川駅を起点にして、多摩川に沿って北上、
 奥多摩駅に至る37.2kmのJR東日本の営業線。
  1920年~1929年、日向和田―御嶽(みたけ)間を延長し
   て開業され、
  1923年電化して、
  1929年社名を青梅電気鉄道と改める。
  1944年、御嶽~氷川(ひかわ)(現:奥多摩)間は、奥
   多摩電気鉄道として全通し・・
  同年・1944年、国有化された。
  当初は、石灰石の積出し線であった。
.
1894年11月20日~21日、井上馨公使が、朝鮮内政の改革要
 領20ヶ条を朝鮮国王に上奏し、提出した。
  清国が、朝鮮は「独立の一国」であるのに、「朝鮮を
 もって属邦と称し陰に陽にその内政に干渉」していた。
  日本は、ただ言うだけではなく、朝鮮の改革が成功す
 るように導く努力する義務をも負う覚悟であった。
  (この後の、日本の鉄道敷設や、大学など小中学校な
 ども建設に励んだ、また、病院や街道などの社会資本充
 実に貢献した・・などなど・・この事などが、この日本
 の本物の誠意を示している)
.
1894年11月21日、日清戦争: 旅順口(りょじゅんこう)の
 戦い
  旅順要塞が陥落した。
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は・・、
  対岸の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海
 軍(李鴻章が率いる)の重要な拠点・基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本は、この重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  この第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加し
 ていた・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者
 として国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかける。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・市街戦が行われば・・その様な方々の数について、
 外国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか・・1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の嘘の捏造(
 ねつぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界への説明書を書いて、はっきり反駁
 した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清国から交戦するよう命令さ
   れていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二・三日のうちに東京へ連れてこられる
   ことになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国だ・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところだった・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
  中国、及び、その手先が言う下記の言葉はまったくの
 嘘のプロパガンダと世界は決定している・・
  「虐殺事件をおこし婦女子・幼児を含む非戦闘員6万人
 を虐殺」・・この数字も嘘つく中国は増やして行くだろ
 う・・こんな事ばかりしている国・中国なのだ。
  この様に平気で嘘を言ってばかりいる国・中国は、世
 界から制裁を加えられるべきだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:昔からプロパガンダばかりする中国・・平気で嘘
   を言ってばかりいる国・中国は、世界から制裁を加
   えられるべきだ。
.
紀元前1万6500年、日本で世界最古級の縄文土器が作られた。
  日本の古代史も世界に誇る状況にある。
  中国湖南省で発掘された約1万8000年前の土器がある。
  日本では・・大平山元(おおだいやまもと)I遺跡の縄
 文土器(約1万6500年前)・・放射性炭素年代測定から推
 定された。
  これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千
 年前には、日本列島で土器が使われていたとしている。
  他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、
 アフリカが約9000年前・・、
  ヨーロッパは、アジアより約1万年も遅い約8500年前・・、
  学校で教えられた「四大文明」の地と比較しても、日
 本は飛び抜けて古い・・、
  (参考)メソポタミア文明:紀元前3500年頃~
      エジプト文明:紀元前3000年頃~
      インダス文明:紀元前2600年~
      黄河文明:紀元前7000年?~
  ロシアのグロマトゥーハ遺跡などでは、約1万5000年前
 と考えられる土器が発見されている・・、
  日本だけが古いと言うより、東アジア全体で古い時期
 に土器が生まれたと言える。
  ロシアでは、防寒や調理に使う「魚油」をとるために、
 魚を土器で煮ていた可能性が指摘された。
  この様に、土器使用の始まりには、漁撈(ぎょろう)
 も大きくかかわっていると推定されている・・古代オリ
 エント博物館研究部長の石田恵子氏(西アジア考古学)
  生まれた理由も様々・・
  中央大准教授の小林謙一氏(日本考古学)は・・、
  「土器の誕生は、当時の環境の変化と深いかかわりが
 あると考えられる」と説明・・、
  日本では・・氷河期が終わりに近づいた約1万6000年前
 ~1万5000年前、気温上昇にともない、亜寒帯的な森林か
 ら落葉樹も交じる森林へと変化した。
  その結果、ドングリなどの植物質の食料が入手しやす
 くなり、それらを食べるためのアク抜きに必要な容器と
 して、土器が生まれたのではないかと推定されている。
  国内最古と考えられている土器は、模様のない「無文
 土器」で、主に、東日本で出土している。
  しかし、約1万4500年前頃、粘土ひもをはり付けた「隆
 線文土器」と呼ばれる土器が生まれ、日本全国へと広が
 った。
  「堅果類であるコナラ、カシ、シイなどの分布が広が
 ったことで、土器も普及した」と推定されている(小林
 氏)
  日本列島では「最古級の土器は東日本に多いが、遅く
 とも約1万3000年前頃には、鹿児島でも無文土器が使われ
 ていた。
  北と南で、別個に土器が生まれ、それらが広がったと
 考えた方が良い」(南九州縄文研究会代表:新東晃一氏)
  また、シベリアで発掘された土器(約1万4000年前)も
 世界最古クラス・・
  縄・紐は、フランスにあるラスコー洞窟の最奥部で発
 見された約1万2000年前以前のものが現存する最古の縄。
    ・
    ・
    ・
1955年、新疆ウイグル自治区が設立された。
  中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分
 が置かれていた。
  国防力の弱さから蹂躙され続けた国だった・・そして・・
  新疆ウイグル自治区(国)という形をとって安定する
 のかと思えば、これが「すごろくの上り」ではなく・・
  結局は、この地域は、共産・中国の漢族の国家となっ
 て「上がりとする」という道を進まされている。
  国盗り状態である。
  かつて、満州族(女真族)の国家の建国を、日本が助
 けたが・・
  満州族(女真族)の方々が多く居たのでその建国を助
 けたのだが・・
  まだ、その時から1世紀も経ってない今(2018年)、そ
 の満州族の方々は、この満州の地には、跡形もなく居な
 くなってしまった。
  殺されたのか?・・追放されたのか?
  国家が消え去るという事は、この例の様に、あっけな
 いのである。
  日本の沖縄も、中国には「中国の領土だ」という声が
 ある。
  このスケジュールに入っているという・・。
  そして、すでに、それへの活動がなされている。
  金と人によってである
  この様に、日本人は、よほどしっかりしないといけな
 い「今・現在なのである」。
  ユダヤの方々が経験されたディアスポラが、日本人に
 も・・日本の地から追い出されるという事も起き得る・・
  意識をしっかりしないとその様なことが起きてしまう。
  (参考)ディアスポラ:(植物の種などの)「撒き散
     らされたもの」という意味のギリシャ語に由来
     する言葉。
      パレスチナ以外の地に移り住まされたユダヤ
     人、及び、そのコミュニティ(追放され、追い
     出された)
  長い歴史を刻んできた日本だが・・だから安心なんて
 言う論理は成立しない・・
  「今世紀中で、日本はなくなる」と言った共産・中国
 の指導者が居る。
  オーストラリアへ訪問したこの指導者は、オーストラ
 リアの首脳へそのことを言った。
  その時は、今世紀よりもっと早い時期をはっきり明示
 して、「日本は無くなる」と発言している。
  はっきり言える事は、共産・中国には、「日本という
 国家の存在が無くなる時がある」という「認識がある」
 という事である。
  時は進んでいるが、日本消滅への道を、共産・中国の
 指導者は、同時に進めているという認識の中にいる。
  かつてのアメリカが持った認識(アメリカインディア
 ンの消滅)の下で、悲惨な殺戮がなされたが、その様な
 状況にある・・
  日本人が認識してなくても、それは、かつてのアメリ
 カの例が示している。
  日本に無いから安心何て言う論理は、成立しない。
  また、共産・中国の様に独裁の政治形態は、常識以上
 の異常な事をするのは、歴史上、あまたある。
  何事も狭い面々・領域で決定され、チェックする機構
 が無く、その様な働きが無いからだ。
  システム的に政治機構として劣っているからだ。
  (参考)1988年、中国の李鵬首相が、オーストラリア
     訪問をした際、オーストラリアのキーティング
     首相へ「日本という国は20年も経てば地球上か
     ら消えて無くなる」と言った。
      中国に日本自治区構想があるのか・・
  (参考)第二列島線:中国の第二列島線の中に入って
     飲み込まれる日本となっている。
      中国の海域における軍事的防衛ラインの一つ。
      伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含
     むマリアナ諸島群などを結ぶ線。
      中国海軍は、1980年代半ばに提唱された「近
     海積極防衛戦略」などに基づいて軍事力を増強
     し、それまでの沿岸防衛から近海・外洋へと展
     開している。
      この軍事戦略において外洋の範囲を示す目標
     ラインとされる。
      中国は、2020年の運用を目標に通常型空母建
     設に着手しているほか、原子力空母建設構想な
     ど海軍力の整備・増強を表明しており、同国の
     軍拡に飲み込まれる日本となっている。
.
1999年4月、世界最古級の土器が、日本で発見された。
  世界最先端の技術を持っていた縄文人の人たち・・
  日本の古代は、非常に文明が進んでいたという事が分
 かって来た。
  稲作も・・朝鮮半島から伝わったのではなく、日本か
 ら朝鮮半島に伝わったらしいという事が次第に分かって
 来た。
  韓国では、激しく反発しているが・・、
.
  https://www.youtube.com/watch?v=9zMJN3YNUY8
  世界最古級の土器が日本で出土した。
  1万6500年前のもの・・、
  1999年4月、青森県蟹田町で出土した土器の炭素14分析
 を行なった・・その結果で報告された。
  土器は、2万年前~1万8000年前の最終氷期最盛期後半
 に中国南部に於いて出現したとされている。
  1万年を遡る土器や、遺跡が、日本にはいくつかある。
  その一方、かつては、農業の起源地とされていた中近
 東や北アフリカを含めヨーロッパにおいても・・
  1万年前をしめす遺跡は無く・・、
  縄文人は、土器製作について、世界最先端の技術を持
 っていたことが分かる。
  稲作は、日本から朝鮮半島へ伝播したことが判明。
  稲作文化は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して
 日本にもたらされたとの説が覆された。
  炭素14年代測定法で、かなり古いことが分かって来た。
  日本の稲作開始は縄文時代で、従来の弥生時代という
 学説がひるがえされた・・。
  陸稲栽培で・・6700年程度前まで・・、
  水稲栽培で・・3200年程度前まで・・遡ることが判明
 している。
  これに対して、朝鮮半島では、水稲栽培は無去洞玉峴
 (ムアラファト)遺跡の2500年前~2800年程度前までし
 か遡れない・・、
  そして、九州北部と栽培法が酷似していることから・・
  また、遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米
 の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、
  水稲は、日本から朝鮮半島へ・・、
  陸稲は、満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明し
 た。
  中国政府の研究機関でも調査が進み、間違いないとい
 う結論が出ている。
  この点で、日本に対して優越意識を持っている韓国・・
 その韓国の学会は、激しく反発している。
  また、韓国では日本式の前方後円墳が大量に発見され
 ている事実もある。
.
2006年12月、NHKオンライン内に解説委員室の公式サイ
 トが解説された・・が・・、
  無資格のNHK職員が、NHKという影響力が極大な
 放送媒体で、解説と称した「NHKの言いたい放題を放
 送している」・・
  この公式サイトに、この様な投書・クレームを含め、
 無差別に公表せよ・・そして、NHK解説委員室の公式
 回答を公開する様にせよ!
  本当は、NHKには解説者は必要ない・・無資格者が
 放送媒体を使って政治を繰っている・・
  NHKは、解説者を無くして「経費を節減せよ!」、
 そして、NHK受信料を値下げせよ!
  また、問題なのが、このNHKの解説者なる者の中に、
 「片寄った政治解説をする者がいる」・・中国寄りの者
 もウヨウヨ居る・・
  しかし、この者たちは、「国民の選挙の洗礼を受けて
 いない『ただの者だ』」。
  放送媒体のNHKに、ただ採用されただけの者だ・・、
  だが、影響力が抜群に強大なNHKの放送機能を使っ
 て、日本全国、ましてや世界へ、自分の勝手な意見を、
 自分だけの意見を・・発信している。
  世界へ日本を貶める番組まで送っている輩たちだ・・
  こんな強大な権利は「君にはない訳だ」・・、
  こんな権利を君たちには与えたくないのだ・・
  こんな、「民主主義のルールを踏みにじったやり方」
 で・・横暴な行為で・・NHKは放送行為をし続けてい
 る。
  広い、公正な意見を国民へ提供すべき立場のNHKが、
 こんな専制君主的な・・特定の一個人に、輩に・・この
 NHKだけの意見を作って・・放送媒体を使用させてい
 る。
  大学教授や、評論家の方々にも、また、日本国民の方々
 へ・・広く意見を求めて行くべきなのが君のやるべきこ
 とだ・・
  これが、NHKの役目なのだ・・ただそれだけなのだ。
  NHKの、君の意見なんて・・公正な民の選択・選挙
 も受けてない・・君だけの、NHKだけの意見なんて、
 勝手に放送をするな!
  NHKは、「なんだ、かんだ」と組織を大きくしてい
 る・・こんな「無用な解説室」も設けている。
  NHKには縮小すべきものが多い・・無くすべきもの
 が多い・・NHKは、無駄を縮小せよ!・・
  そして、受信料を値下げせよ!
  結託している電通を批判せよ・・
.
2018年、巨悪の根源・・電通
  電通が韓国を潤す・・
  日本から巨額な金が韓国へどんどん流れる。
  韓国では、日本の映像は放送できない様にされている・・
 が、しかし・・逆に、韓国の映像は放送するばかりだら
 けの日本のテレビとなっている・・NHKも必死に放送
 している・・何故なんだ・・?
  この様な問題の中心に黒幕の電通が居る・・そして・・
  NHKが、何故、反日なのか?
  NHKは、電通に牛耳られている・・
  だから、反日となっている。
  そして、NHKは、受信料でかき集めた日本国民の「
 巨額な金を電通へ渡す」・・そして、電通から・・
  (参考)電通:投資家が見る会社四季報によると・・
      広告代理店国内首位。世界大手。
      連結事業:国内41%、海外59%。
      費用増で、国内は人件費やシステム費増やし
     業務改革優先。土地売却益ない。
      海外は、米州が前期獲得案件軸に牽引だが業
     務豹有価コスト重く伸び鈍い。営業減益。
      カカクコム株売却益、買収関連評価損。
      従業員:連結63143名、単独6937名。
      平均年齢:40.1歳。
      平均年収:1272万円。
      外国人株主:20.8%。
      株式時価総額:1兆4997億円。
      総資産:3兆3250億円。
      自己資本比率:31.9%。
      分析評価:企業規模100点、成長性10点、割安
     性20点、財務健全性20点、市場トレンド10点。
.
  日本を動かしてきた「電通」の正体:「過労死問題」
 は落日の始まりなのか・・
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50138?page=3
  当事者たちが明かす生々しい「実像」
  8億円の「ロビー活動費」
  「原発広告」といえば、電力各社や電気事業連合会な
 どの業界団体が「原発は安全」「原発はクリーン」と謳
 う広告に巨額を投じ、国民に「原発神話」を信じ込ませ
 てきた。
  原発推進広告には、タレントから文化人までが笑顔で
 登場し、原発の安全性を語ってきた(本間氏談)
  「電力9社がこうした広告に1970年代から3・11までの
 約40年間に費やした広告費は、約2兆4000億円に及ぶ(
 この金が電通に入っている)
  特に、バブル崩壊後に、大手企業の広告出稿が激減す
 る中、電力会社は安定出稿したためにメディアはこれに
 飛びついた。
  一度、この広告費を受ければ『麻薬』のように次から
 は断れなくなり、おのずと反原発報道で電力会社の機嫌
 を損ねることを(各メディアに)自粛する空気が生まれ
 て、日本全体に『安全神話』が刷り込まれ続けた。
  そうしたメディアの特性をよく理解したうえで、電力
 会社とメディアの間に入って動いていたのが『電通や博
 報堂』を頂点とする広告会社だった。
  中でも『電通』は、原子力推進の立場にある社団法人
 『日本原子力産業協会』の会員に以前から名前を連ね、
 東京電力についてはメイン担当として仕切っていた。
  メディア、原発……電通が仕切ってきたものをあげれ
 ばきりがないが、大きなところでいえばオリンピックも
 その一つである。
  国際的プロモーターとして知られる康芳夫氏は、オリ
 ンピックの権利獲得をめぐって電通と闘った「内幕」を
 明かす。
  「初の民間運営方式で開催されたロス五輪で、私はテ
 レビ朝日と組んで独占的放映権を取ろうと動いていまし
 た。
  私はオリンピック組織委員長だったピーター・ユベロ
 ス氏に接触して色よい返事までもらっていたのですが、
 ここで対抗馬としてNHK・民放連合が出てきて、そこ
 に「電通がついた」のです。
  電通もまた独自にユベロス氏と接触し、攪乱工作を仕
 掛けてきた。
  ユベロス氏は最終的に電通と喧嘩をするのはまずいと
 判断したようで、私たちに『君たちとは契約できない』
 と言ってきた」。
  このロスオリンピックで大儲けしたあたりから、スポ
 ーツイベントにおける「仕切り役」としての「電通は一
 挙に花開いていく」。
  『電通とFIFA』などの著書があるノンフィクショ
 ン作家の田崎健太氏が言う。
  「電通のスポーツビジネスを切り開いてきたのは元専
 務の高橋治之氏で、本物のネゴシエイターといえるでし
 ょう。
  高橋氏はFIFA(国際サッカー連盟)がスポンサーを
 集めて商業化を進める過程において、当時のジョアン・
 アベランジェ会長らに大きく力を貸しました。
  そして、電通は、世界のサッカービジネスに深く関与
 していったのです。
  2002年のサッカーワールドカップ招致の際には、電通
 はスイスのマーケティング会社ISLに対して、同社の
 株式売却益の一部である約8億円を『ロビー活動費』とし
 て渡しています。
  国際的ロビー活動に弱い日本にあっては珍しく、高橋
 氏はこうした交渉を得意としていた。
  彼が電通に、スポーツビジネスという広告以外の収益
 の柱を作り上げたと言える」
  どんなところにも食い込んでいき、気付いた時には「
 仕切り屋」として舞台を裏で回している――『電通』は
 そうして「日本を動かす中心」として君臨するようにな
 っていったのである。
  「1990年代に、NHKが電通から米大リーグの放映権
 を買う際、ひと悶着があって、NHKは安値で電通から
 買えたことがありました。
  この時、赤字になりかねなかった電通は、NHKが中
 継するMLBの映像に実際にはない日本企業の広告を合
 成して入れ込むことの了解を取り付けてきた。
  すぐにスポンサーも集めてきて、その手腕には脱帽し
 ました」(元NHK職員の立花孝志氏)
  電通の手にかかれば「こうした差配もお手の物なわけ
 だ」が、実はここ数年はそんな電通の権勢にも陰りが出
 てきたと関係者たちは口を揃える。
.
 (参照)NHKが反日放送している理由は『電通』に
     乗っ取られているから
    https://www.youtube.com/watch?v=Y6Hu4mx0Zl0
 (参照)ワールドカップサッカーとNHKと電通の黒い
     関係
    https://www.youtube.com/watch?v=Etv1Om8nsMg
.
2018年、そして、電通は・・うまい汁を吸いたいと・・今、
 地方自治体の横浜市に食いついている。
  既に、電通は、今まで・・この様な事をして「味をし
 めて来ている」・・
  そして、今度も、横浜市をうまい汁を吸う対象にして
 いる・・食い物にしている。
  横浜市は、本来、横浜市がやらなければならないこと
 に電通を加えて・・特権を与えて、電通と事業をしてい
 る形にして、電通に旨味を与えている。
  そして、今度も、横浜市民の財産である横浜市庁舎の
 建つ土地と建物について、市庁舎が古くなったという名
 目で、どこかへ移転させて、電通を儲けさせる事業をや
 ろうとしている。
  完全に横浜市民の財産を利用した一私企業の事業だ。
  この様な筋書きの既成事実づくりに「公開のシンポジ
 ウム」を開くという演技をした・・
  しかし、電通という素人の悲しさ、まったく中味の無
 い「作った話だけ」の時間の無駄話だった。
  「市庁舎を移転させて、その跡地で儲けよう」という
 「見え見えのお話だけが決まっている」という代物だっ
 た。
  そして、その儲け話に加わるのが「電通」と、既に、
 決まっているがごとくに、「電通がメイン・主役の状態」
 で出ている・・その様なシンポジウムで、何を話すかと
 言えば、漫画の絵を見せて、「これだ」と言うだけ・・
  まったく馬鹿にした話だ。
  説明も何もない。
  下手なことは言えないとして、黙っていたのか?・・
  まったく馬鹿にした話だった。
  「感じろ」と言ったって、漫画の題は「愛と誠」だ。
  こんな話なら、誰もが何を示してでもやれる話だ。
  そして、何も説明せずに黙っていればいいのだから・・
  市庁舎の跡地利用が「愛と誠なのかよ」・・という感
 じの子供だましの話しかできない電通・・
  そして、これ以前に横浜市とやった事業に「電通は、
 100億円を出した」と言い出した。
  言わなくてもいい様なことを言い出して、「世間には
 言わないでくれ」と言う。
  言っていけない事なら「言うな」と言いたい。
  口の軽いこの電通氏は、さらに、この金を電通が出し
 たということを「言い続けて」、シンポジウム出席者に
 「50億円ぐらいに言ってくれ」と言う。
  もう、まったく「市庁舎の跡地利用」の「都市計画の
 話なんかではない」・・素人話の連続。
  まったくの素人が、壇上に上がって、関係ない話に口
 を開いている。
  貴重な時間の空費が続くシンポジウム。
  本来、加わってはいけない電通の素人が、前の横浜市
 との仕事で関係した「舞台と客席の話をした」。
  まったく、この話も跡地利用と関係ないが、「こんな
 話も持ち出す」。
  しかし、初歩の初歩の話で、「舞台を真ん中に持って
 きたのは、素晴らしい独自の事なのだ」と誇った。
  こんなことなら、遠い昔から「大相撲だってやってい
 ること」。
  まったく馬鹿々々しい話が続く・・。
  こんな電通が、メイン・スピーカー(主役)となって
 いる都市計画のシンポジウム。
  一民間企業の電通を儲けさせる仕掛けが動き出したと
 いう感じだった。
  そして、おかしいのが・・この電通と「まったく同じ
 ように」、この儲け話に加わっている「キリスト教系の
 大学」・・
  このキリスト教大学は、前から電通と一緒に利益の転
 がり込む話に加わっている。
  二匹目か三匹目か、何匹目かのドジョウを狙っている。
  この組み合わせのコンビがやはりまた動いている。
  何度も、同じ面々が、横浜市民の財産をいじくり回し
 て、利益が転がり込む話をまた始めている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)613E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月29日、ハワイ共和国で第1回選挙(差別選挙だっ
 た)
  ハワイ王国は、立派に存在したハワイの先住民の政府
 だったが、1893年に、サンフォード・ドールなどのアメ
 リカ移民による革命で、アメリカ合衆国の傀儡国家とし
 て名目上共和制のハワイ共和国となった。
  これは、最初からアメリカの侵略の意思の下に行われ
 たストーリーの中でのことだった。
  日本は、ハワイ王の日本の皇室との姻戚関係を結びた
 いなどの希望などを聞いていた。
  この様なハワイ王の行動は、アメリカの無謀な乗っ取
 りからの救済を求めている意思からの行動であった。
  日本は、正義の観点から、ハワイへ日本軍艦などを派
 遣し、抗議の行動をしている。
  この時から遡ること7年前の1887年、武力でもってハワ
 イは乗っ取られ銃剣憲法を押し付けられていた。
  選挙権の行使による決定が正義だという民主的行為を
 表面上は見せるハワイの乗っ取り行動がなされた。
  当時、多くいた移民の日本人などのアジア系の人々に
 は、一切、選挙権は与えられず・・また、肝心のハワイ
 の事実上の持ち主である先住ハワイ人の方々にも、収入
 や資産などで制限がなされて選挙権は与えられていなか
 った・・こんな事で「どこが民主的なのだ」というイン
 チキだった。
  この様な押し付け憲法で、ハワイの王室と大多数のハ
 ワイ人の方々は政治力を失って、アメリカ系の乗っ取り
 移民の事実上のハワイとなった。
  結局、これを真似をして、今・現代、中国がチベット
 やウイグルや内モンゴルへ、漢民族を流入させて、この
 3国の乗っ取りを謀っている。
.
1894年10月、東学党が、再度、蜂起した。
  朝鮮政府の厳しい政治に不満を持った全羅北道の全琫
 準の指導する農民と東学の信者の蜂起が、1894年1月に起
 きた・・
  朝鮮政府の重税政策、朝鮮支配勢力の両班たちの賄賂
 と不正収奪の横行で民衆は苦しんでいた。
  (参考)両班:やんばん、朝鮮、高麗の特権支配階級、
     朝鮮王朝 (李朝) 時代の上位身分。
      高麗の官僚組織は 10世紀末にほぼ成立した東
     班 (文班) と西班 (武班) の両班体制をとって
     いた。
      主要な官職を独占し兵役が免除され、また、
     諸税は免除されるなど諸般の特権を持った。
      両班は世襲化し、地方の中小地主まで拡大し
     て行った。
      朝鮮王朝になると、両班の数が激増した。
  この時の朝鮮政府の暴政に対する朝鮮国内に広く伝え
 られた朝鮮民衆の言葉・・
  金樽美酒千人血:金の樽に入った美酒は、千人の血か
          らできており
  玉椀佳魚萬姓膏:玉椀にある美味い魚は、人民の油で
          できている
  燭涙落時民涙落:ろうそくから蝋が滴るとき、人々の
          涙も滴り
  歌舞高處怨聲高:歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々
          の怨嗟の声も高くとどろく
  この時の蜂起には、朝鮮政府軍は、農民軍を抑えるこ
 とが出来た。
  しかし、朝鮮政府の改革は全くなされなかった。
  民衆の不満は継続し、高まった・・
  朝鮮には、すでに宗主国としての清国が存在し、そし
 てこの頃、1860年代から、ヨーロッパ諸国の列強やアメ
 リカが朝鮮に存在し、そして、後から加わった日本・・
 朝鮮は次の時代への模索の中に不安定な状態にあった。
  そして、1894年4月、また、全琫準が中心となって、朝
 鮮政府の政治に対する不満の反封建に対して蜂起し、ま
 た、朝鮮を抑える外国勢力に不満を持って蜂起した・・
 そして、全州城の占拠を目指した。
  この時は、二度に渡って農民軍は朝鮮政府軍に勝利し
 た。
  1894年5月、農民軍は、目的の全州城を占領した。
  驚いた朝鮮は、清国に軍の派遣を要請した・・日本も、
 条約上、朝鮮へ軍を派遣した。
  そして、和解が成立した(全州和解)・・
  朝鮮政府は政治の改革を行ない、農民軍は、全州城か
 ら退去し、解散する。
  そして、朝鮮の地において、この東学党の乱(甲午農
 民戦争)の処理を巡って、日本と清国の対立が激化した。
  また、日本の提案(日本と清国は一緒になって朝鮮の
 改革を手助けして行こう)にも清国は反発した・・そし
 て、1894年8月1日、日清両国が宣戦を布告し、日清戦争
 となった・・
  この様な状況から、1894年10月に至り、朝鮮に居る外
 国人の排斥と、朝鮮政府の打倒を目指して東学党が、再
 度、蜂起した。
  全琫準は、1894年7月頃より、蜂起の準備をしていた。
  東学党は蜂起に反対で、平和的解決を望んでいた。
  この全琫準の蜂起は失敗し、1895年に捕らえられる。
  井上馨日本公使は、全琫準の人格に共感し、朝鮮政府
 に処刑しないように要請していた・・
  しかし、朝鮮政府は、井上が日本に帰国している間に、
 全琫準を処刑してしまった。
  そして、新たに発見された史料から、この1894年10月
 と1894年11月の蜂起は、日本に助けを求めていた大院君
 が、日本放逐の蜂起の呼び掛けを秘かにして、また、忠
 清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた
 ものから起きたと判明した。
  そして、この事を知った日本へ、大院君はこれを認め
 謝罪している。
  中国は、そして、この手先は、この第二次蜂起を日本
 を貶める材料としているが、真実は以上である・・この
 時、日本は農民を虐殺したと南京事件の様な嘘を言い出
 している。
.
1894年10月、秀英舎の印刷工場(鉄骨造)が完成する。
  日本で初めての鉄骨造の建物。
  フランスのリヨンは、石炭の採掘によって地盤が沈下
 する「不等沈下が起きる地域」となってしまっていた。
  この為、鉄骨造の建物となって行った。
  1890年に、フランスを旅した細谷安太郎はこの状況を
 見た。
  秀英舎と関係のあった細谷は、フランスの経験を話し
 鉄骨構造の工場増築が決まる・・鋼材はフランスから購
 入した。
  建築地:東京府京橋区西紺屋町(東京銀座の数寄屋橋
     近く)
  設計:若山鉉吉(横須賀造船所構内学舎で造船学を学
     び、後にフランスに留学した海軍の造船技師
  建築規模:地上3階、地下1階、
  基準階:52.5坪(170.1㎡)
  建物高さ:36尺(10.9m)
  屋根:スレート葺き
  1階:印刷機械8台、2階:植字場、3階:文選場
  中央に螺旋階段があり、屋上に登れる。
  この年に竣工した建物:東京府庁舎、三菱煉瓦街1号
    館、横浜大桟橋、奈良帝室博物館
  秀英舎は、先進国である英国より秀でる会社になると
 いう願いで勝海舟によって名付けられ、今の大日本印刷。
.
1894年10月、京城~釜山間、および、京城~仁川間の鉄道
 建設が決定した。
  甲午改革において、日本は、李氏朝鮮に対して京城か
 ら開港場までの鉄道敷設を提案した。
  1894年8月20日、日本と朝鮮は、「日韓暫定合同条款」
 を締結した。
  そして、その条款に基いて、日本は、鷺梁津(漢江西
 岸)~済物浦間の鉄道を、1899年に開通させた。
  日本の朝鮮改革の鉄道敷設は、これに始まった。
  これは、後に、京仁線となった。
  1905年、京釜線が全通し、
  1906年、京義線が全通した。
  朝鮮は、軍隊の輸送のために勝手に作った様に言って、
 まったくありたがっていない(中国とその手先の工作も
 あって)
  しかし、それまでは、あぜ道のような道であった朝鮮
 の道を行く人々は、すべての荷運びは人の背の人力だっ
 た。
  何日もかかった移動で、少量だったが、この鉄道の開
 通は、そのすべてを大変化させた・・すべて朝鮮の人た
 ちを格段に潤わせた。
  これを契機に、朝鮮の経済は大きく発展して行く。
  国造りには、何よりも街道と鉄道の整備が大切なのだ。
  これを、日本が朝鮮にした。
  何しろ日本の基本姿勢は、他の欧米列強諸国と違って、
 この鉄道にしろ、学校にしろ、病院にしろ、日本の内地
 と格差なく、逆に、朝鮮の大学の方が立派なくらいの大
 学を造る様に・・日本は朝鮮の国造りをした・・改革を
 した。
.
1894年10月、日本初の長距離急行列車の運転開始
  山陽鉄道の神戸駅~広島駅間の直通列車1本を、途中、
 主要駅にだけしか停車しない急行列車に格上げした。
  日本で初めての急行列車となった。  
  日本の人の移動の改善がなされていく。
.
1894年10月、「金鵄勲章受合い」「日本兵」など流行語に
 なる。
  金鵄勲章(きんしくんしょう)は、武功抜群の陸海軍
 の軍人・軍属に与えられた勲章で、功一級から功七級ま
 であった。
  1890年に制定された。
.
1894年11月1日、ニコライ2世がロシア皇帝となる。
  ロシア皇帝アレクサンドル3世逝去し、ニコライ2世が
 即位した。
  ニコライ2世は、1868年~1918年、享年50歳、
  帝政ロシア最後の皇帝(在位:1894年〜1917年)で・・、
  1891年、皇太子として日本を訪れ、大津事件にあった。
  父・アレクサンドル3世の専制護持の教育を受けて、外
 交政策を継承し、フランスとの同盟を強化する。
  極東への進出を図って、日露戦争を起こし敗北した。
  1905年、革命で「十月宣言」を発布するが、革命が終
 息するとストルイピンを用いて革命運動を弾圧した。
  第一次大戦中に退位を余儀なくされ、ボリシェビキが
 政権を掌握すると、1918年、シベリアに幽閉され、後に
 射殺された。

.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が素晴らしかったのは・・この会議で、世界
   で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
.
4世紀、キリスト教聖職者が女性蔑視から殺害行為をする。
  キリスト教修道士が、女性蔑視のキリスト教教義に洗
 脳されて、その蔑視観から女性を殺害した。
  酷(ひど)い殺し方だった。
  キリスト教の聖書に記述される「テモテへの第一の手
 紙(2・11・13)」には・・、
  「婦人が教えたり(してはいけい)、男の上に立った
 りするのを私(キリスト教の神)は許さない」・・と記
 されているが・・、
  この1例の様に、キリスト教の聖書には、女性を蔑(さ
 げす)む記述に満ちている・・、
  4世紀のこの時、このキリスト教修道士は、牡蠣(かき)
 の貝殻で、男に教える行為をした、教えを授けたという
 女性を・・「キリスト教の神の命令に背いた邪悪の女だ」
 として、この女性をめった切りにした。
     ・
     ・
1684年2月21日、この日から貞享(じょうきょう)年間とな
 るが(~1688年9月30日)・・
  この貞享年間以降は、完全にキリスト教に入信する者
 はほとんど居なかった・・だから、衰退するだけのキリ
 スト教という状態だった・・
  キリスト教は、日本が弾圧したとか、だから、「隠れ
 キリシタンだ」なんて言うが、これは、まったくのオー
 バーな言い方・・自分たちを有利に言いたい嘘話・・
  日本は、まったく温厚で、まったく取締りもしていな
 い・・
  また、キリシタンと言っても、仏教や神社の信徒や氏
 子となってしまって「隠れキリシタンだ」なんて言える
 様な代物(しろもの)ではない・・
  たとえ居たとしても、各地の大名など、見て見ぬふり
 をするという状況・・気にする状況ではなかった・・
  日本は、まったくの温厚な優しい民族で、ヨーロッパ
 の様に「あちこちで焼かれる焚刑の魔女で、曇り空の様
 だった」などと言われていることとほど遠い状況だった。
  ヨーロッパの様に「全滅した村がある」などとの状況
 とはまったく違う・・
  その様な日本の状況を、キリスト教は、ヨーロッパと
 同様な状況の様にオーバーに言って日本を貶(おとし)
 める・・今回、世界遺産となったが・・まったくの作り
 話しとなっている・・
  キリスト教の言う「何番崩れ」などというたまにある
 話でも、せいぜい十手(じって)を持った岡っ引き(目
 明かし)が捕まえる5・6人程度・・ヨーロッパの村の全
 滅と同列なように印象付ける言い方は間違い・・
  キリスト教は、この点で、必死に耐え抜いたとオーバ
 ーな言い方をしている・・
  そもそもキリスト教が禁教にされたのも、キリスト教
 が悪いことをするからだった・・
  「日本を植民地化する」という「陰の役目」を持った
 キリスト教宣教師たち・・
  そのことを知った豊臣秀吉が、部下に確認させ、それ
 を確認したから禁教にしたのであって・・
  また、キリスト教は、日本の若い女性を海外へ売って
 いた・・この様な事も、秀吉は知ったのだった・・
  (何も知らない信長は宣教を許していたが・・)
  江戸時代が厳しいというが・・幕府は「大体、目的を
 達した」とみていて、厳しい事はしていない。
  歴史の教科書で、宗門改帳(しゅうもんあらためちょ
 う)があったと勉強するが、熱心に行われてはいない。
  「潜伏キリシタンだ」とキリスト教が言ったって、キ
 リスト教が作った勝手なイメージ・・実態からかけ離れ
 ている・・仏教・神道と習合して、それなりに信仰生活
 をしていた・・潜伏などというイメージはまったく無い。
  天草四郎も、かつて、天草に居たキリスト教宣教師が
 話した架空の少年の話で・・実際は存在していない。
  また、この島原の乱でキリシタンが抵抗したという話
 もデッチアゲ・・宗教的な戦いとはまったく違う・・
  これは百姓一揆である・・
  少数のキリスト教徒は居たとしても、宗教の抵抗とは
 まったく違う・・
  キリスト教宣教師は、国外追放にされて、ほとんどの
 宣教師は日本国外へ出たが、一部が、不法に日本に潜伏
 した。
  しかし、潜伏したと言ったって、日本の風土の良さか
 ら「その宣教師のすべてが棄教している」。
  遠藤周作が「沈黙」でそれを書いた。
  しかし、それでは、あまりにも惨(みじ)めなので、
 映画の「沈黙」では、史実とまったく違う・・また、原
 作の遠藤周作とはまったく違う映画にしている・・作り
 話にしている。
  「沈黙」と名付けられない・・「沈黙」ではない・・
  日本の穏(おだ)やかな優(やさ)しさが「すべてを
 飲み込んで行った」のだ・・
  今・現代でもキリスト教は1%・・
  この様な嘘をつく宗教で、また、人を殺してばかりい
 た宗教で、一旦は信じたとしても、魅力を感じる点はま
 ったく無い・・
.
1867年、赤松小三郎が暗殺された。
  「建白七策」を建言した人(1831年5月15日~1867年9
 月30日、37歳)
  幕末の信州上田藩士で、洋学者、兵法家。
  信州上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。
  藩校の明倫堂に学ぶ。
  1848年(17歳)江戸に出て、幕臣の数学者・内田弥太
   郎に学ぶ。
  1852年(21歳)西洋兵学者・下曽根金三郎に師事する。
   江戸で、数学、天文、測量、暦学、蘭学、砲術を学
   ぶ。
  1855年(24歳)再び江戸に遊学し、勝海舟の塾で兵学
   を修得する。
    次いで、勝海舟の従者として長崎へ赴き、海軍伝
   習所で、航海術などを学ぶ・・オランダ人より語学、
   航海、測量、騎兵学などを学ぶ・・この頃、英国兵
   書の翻訳を志す。
  1858年(27歳)オランダの兵書「矢ごろのかね 小銃
   彀率(こくりつ)」を翻訳して出版した。
  1859年(28歳)4月、長崎海軍伝習所の閉鎖によって江
   戸にもどる。
    咸臨丸への乗船を希望したが選ばれなかった。
  1862年(31歳)上田で調練調方御用掛となる。
  1863年(32歳)上田で砲術道具製作御掛となる。
  1864年(33歳)9月、第一次長州征伐で、公務として江
   戸に出る。
  1864年(33歳)11月、横浜に駐屯するイギリス騎兵士
   官・アプリン大尉から英語や騎兵術の英国兵法など
   を習う。
  1865年(34歳)4月、第二次長州征伐で大阪に布陣する。
   陣中で英国陸軍の兵書の翻訳を進める。
  1866年(35歳)3月、翻訳した「英国歩兵練法」を出版
   する・・広く洋式兵法家としてその名が知られる様
   になる。
  1866年(35歳)8月、「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申
   上候口上書」を幕府に提出する。
  1866年(35歳)9月、藩主の松平忠礼に、藩内の身分制
   度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出する。
  1866(35歳)10月、薩摩藩から英国兵学の教官として
   スカウトされる。
    その後、京都へ出て私塾を開く。
    薩摩藩邸・会津藩邸で、英国式歩兵術など洋式兵
   学を教えた。
    諸藩より学ぶ門下生の数、800余名。
    その中には、東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将な
   ど日清、日露戦争で活躍した諸将が含まれている。
  1867年(36歳)薩摩藩・島津久光侯の委嘱により、「
   英国歩兵練法」を改訂し、新しい翻訳で出版する。
  1867年(36歳)5月、前政事総裁職(前福井藩主)松平
   春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を
   提出する。
    島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白
   書(建白七策)を建言した。
  この「建白七策」は、我が国の近代化に向けての国家
 のグランドデザインを描いたもので、政治史の中で燦然
 (さんぜん)と輝いている。
  公武合体論を主張し、天幕一和(天皇家と幕府の合体)、
 諸藩一和のもと、上局と下局の二局の議政局により、内
 憂外患のこの時期を、平和的に乗り切る方策を模索した。
  そして、西郷隆盛や徳川慶喜への働きかけるなどした。
  最後まで東奔西走していたが・・
  明治維新直前の1867年9月30日、藩命に接し、上田への
 帰藩途上の京都において、桐野利秋などの薩摩藩士によ
 り暗殺された。享年37歳。
  薩摩藩は、才能のある赤松小三郎が、幕府側に利用さ
 れるのを惜しんだためと言われている。
  上田市(上田城跡公園内)に赤松小三郎記念館がある。
  訳書に「英国歩兵練法」「新銃射放論」。
.
1931年11月7日、この日の朝日新聞の戦争を煽る記事
  「砲火の下に嫩江激戦を観る。新聞記者の一番乗り。
 決死・前線へ進む。不意打ちに我軍の苦戦。
  忽(たちま)ち鮮血の河!」。
  (参考)嫩江:のんこう、黒竜江省黒河市に位置する。
  朝日新聞は、特派員などの記事で勇ましく報道し、戦
 争を煽り立て続けた。
  「暴戻なる支那兵。日本の権益侵害」と書き・・
  「敢然として自衛のために起ち上がった」と煽った。
  (参考)暴戻:ぼうれい、荒々しく、道理に反する行
     ないをすること。
  朝日新聞の記者・荒垣秀雄が有名になった。
  そして、朝日新聞は、非常に多くの号外を出し、煽り
 立てた。
  1931年9月から1932年1月まで、131回もの号外を出した。
  満州事変も煽った、朝日新聞の販売部数は飛躍的に増
 大した。
  販売成績も同時に飛躍的に増大する中に、戦争を煽る
 朝日新聞があった。
.
1945年9月11日、東条英機が拳銃自殺を図った。
  銃声が聞こえた直後、救急車などと共に、世田谷区用
 賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心
 とした連合国軍のMP(軍警察)たちが一斉に踏み込み
 救急処置を行った。
  銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れて
 いて、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処
 置が施され・・、
  マッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野
 戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術
 と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得た。
  新聞では、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太
 刀(じんたち、太刀の拵)送る」などの病状が報道され
 た。
  また、入院中、ロバート・アイケルバーガー中将はじ
 め多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れた。
  その様なアメリカ側と対照的に日本人は、家族以外、
 訪問者は少なく、その様な状況に東條英機は大きく落胆
 したという。
.
1948年11月12日、東京裁判が、25人に有罪の判決を下した。
  そのうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條
 英機、広田弘毅、武藤章、松井石根の各氏が死刑となっ
 た。
  ポツダム会談で、既に、誰を死刑にするかは話し合わ
 れていた・・東京裁判はその茶番劇だった・・
.
1948年12月23日、東条英機らの7人に死刑が執行された。
  無実の罪だった。
  この判決を下した東京裁判自体が「卑劣な行為」だっ
 た。
  「アメリカなどの連合国が卑劣だ」という理由は、そ
 もそも、この裁判が成立しない状態にある・・それ故、
 アメリカは、「日本を裁く罪状が無い」ため、日本の罪
 状づくりという卑劣な行為をした。
  裁くための新しい法律を事後法で作った・・卑怯な行
 為である。
  そして、ドイツのヒトラーが行なったユダヤ人の方々
 を虐殺したと同じ様な南京虐殺があったとデッチ上げた。
  ある訳がない南京事件をデッチアゲテ・・2万人を虐殺
 したとした(今では、中国が30万人だと言う始末になっ
 ている)
  まったくの濡れ衣(ぬれぎぬ、無実の罪。根も葉もな
 い嘘)である。
  日本は、ドイツのユダヤ人虐殺の様なジェノサイドは
 絶対に行っていない。
  東京裁判のすべてが、アメリカなどの連合国の作り上
 げた筋書きで進められた。
  ドイツは、開戦の何年も前から、ヒトラーなどのナチ
 ス幹部たちが、「共同謀議をして」、悪計を謀(はか)
 って、そして、戦争を始めたのであって、それが裁かれ
 るのは当然なのだが・・日本はその様な行為は一切して
 いない・・
  逆に、アメリカによる引っ掛け行為によって戦争が開
 始されている・・このアメリカの行為こそ裁かれるべき
 なのだ・・。
  これ等の理由の様に、東京裁判の日本への起訴状は空
 理空論なのである・・成立しないのである・・
  「勝てば官軍」で、アメリカは何でも言いつのった。
  また、卑劣な事後法を作って、日本を罪に落とした。
  それが、真実の実態なのである・・
  A級戦犯などの多くの人々を、あたかも裁いた様にし
 て殺したが、罪は成立してないのである。
  唯一の東京裁判の国際法の専門家だったパール判事が
 「全員無罪とした」のが正しいのである。
  死刑にすることが出来ない人たちを、死刑にしたのが
 東京裁判だったのである。
  日本という国に、および、その国の通常の公務に従事
 していただけに過ぎない人たちを、この様な通常の無実
 の人たちを裁き得ないことが明白なのに・・被告とした
 のである。
  東京裁判は茶番と言われる所以(ゆえん)である。
  また、この様な論理を通したいのならば・・ベトナム
 戦争の戦勝国・ベトナム国の国の裁きを、敗戦国のアメ
 リカは受けなければならない。
  アメリカのあらゆる新しい兵器を、日本の原爆の様に
 テスト使用して、ベトナムの方々を、大勢、虐殺した。
  この卑劣な行為は、「人道に対する罪」である。
  または、東京裁判の再審請求を成立させて、公正な裁
 判を、再度、行ない、「全員無罪としなさい」・・
  そして、国連憲章の敵国条項を削除しなさい。
  もう、陳腐な戦後体制の論理は終わっている時代なの
 である。
.
1965年6月22日、日韓基本条約が締結された。
  この条約の正式名称は、「日本国と大韓民国との間の
 基本関係に関する条約」という。
  日韓国交樹立、日本の韓国に対する約11億ドルの経済
 協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それら
 に基づく関係正常化などが取り決められた。
  これで、両国間のすべての懸案が解決した。
  しかし、この隣国の韓国・朝鮮は、江戸時代も、そう
 であった様に、遠い昔から「国際的な考え方も無視する
 様な国だった」。
  国際法では、いったん合意されたものは、蒸し返して
 問題にできないとされているが・・韓国政府は、この様
 な合意はおかしいと、後になって、繰り返し繰り返し蒸
 し返して、すでに合意していることをしつこく言った。
  約束という行為が、まったく無視される状態だった。
  この国とは何の約束もできる様な状態ではないと言え
 る。
  例えば一例を言えば、「個人への補償が終わってない」
 と韓国は言い出した。
  この件は、日韓間の交渉段階で、「日本が、個別に個
 人と話し合って補償します」と言った。
  すると、韓国政府は、「韓国政府へ一括して支払って
 もらいたい」と要望した。
  そして、日本は、韓国政府の要望を入れて、大変大き
 なお金を韓国政府へ支払った。
  しかし、前記したように、後になって、韓国政府は、
 個人への支払いが終わってないと蒸し返し発言を始めた。
  この国は、この様な事ばかりしている・・ところが・・
  2005年1月17日、韓国において、韓国側の議事録が公開
 されると・・、日本と韓国間の個人賠償請求について当
 該諸条約の本文に・・
  「完全かつ最終的に解決した」と、「1945年8月15日以
 前に生じたいかなる請求権も主張もすることができない
 ものとする。」の文言が明記されている事が韓国国内に
 広く知られるようになった。
  韓国内では大騒ぎになった・・
  日本の言う通りだった・・
.
2018年、孔子学院と言って中国の工作員が入っているとい
 う事で有名な組織がある大学
  中国共産党のプロパガンダ組織だという・・
  その為、アメリカの孔子学院の閉鎖が相次いでいると
 いう・・
  大統領令も出て中止という事になった・・
  中国語を無料で教えるという名目・・
  ヨーロッパもこの事に気付いた・・
  ドイツのメルケル首相が、「中国の儒教でも教えると
 思ったら、まったく違って、中国共産党の宣伝機関だっ
 た」と言ったという・・
  以下は、今、日本の孔子学院を開いている大学・・
  ・桜美林大学孔子学院(神奈川県)、、
  ・北陸大学孔子学院(石川県)、
  ・札幌大学孔子学院(北海道)、
  ・立命館アジア太平洋大学孔子学院(大分県)、
  ・関西外国語大学孔子学院(大阪府)
  ・大阪産業大学孔子学院(大阪府)
  ・立命館孔子学院(京都府)、
  ・兵庫医科大学中医薬孔子学院(兵庫県)
  ・岡山商科大学孔子学院(岡山県)、
  ・福山大学孔子学院(広島県)、
  ・愛知大学孔子学院(愛知県)、
  ・武蔵野大学孔子学院(東京都)
  ・早稲田大学孔子学院(東京都)
  ・工学院大学孔子学院(東京都)
.
2018年9月11日、『ニュース女子』 #174(大東亜会議・文
 部科学省・温暖化)
  https://www.youtube.com/watch?v=jdxKF6EJSZ4
  以下は、放送された内容・・
・1943年11月5日、大東亜会議(~1943年11月6日)
  アジア初の国際会議が開かれた。
  会議の目的:植民地支配からアジアを解放する。
  参加国:日本、タイ、フィリピン、インド(自由イン
 ド仮政府)、中華民国(南京国民政府)、ビルマ、満州
 国
  大東亜共同宣言が採択された・・アジアの欧米諸国に
 よる植民地支配からの解放を目指す。
  大東亜を建設して世界平和の確立に寄与する。
  1、共存共栄
  2、自主独立と互助敦睦(友好の推進)
  3、伝統の尊重
  4、経済発展
  5、人種差別撤廃と資源解放
・しかし、東京裁判で、この大東亜共栄圏の考え方が否定
 された。
  連合国基準・・連合国の戦勝国の定義に反するとして
 否定された。
  この東京裁判で、その様な戦勝国の定義から敗戦国側
 の28人がA級戦犯とされてしまった。
  罪名:平和に対する罪、
  東条英機らの7人が死刑(絞首刑)とされた。
  国際法にも存在しない基準によって殺すと判断された。
  日本を裁くためだけに作られた基準だった。
  この様なやり方なら、誰でもが、後から罪に落されて
 しまうというやり方だった。
・日本の今の女子の考え方
  1、戦没者は日本の英雄です・・核兵器のない世の中
    にします!・・戦没者の方々、どうぞ安らかに(
    靖国に眠る英霊の皆様への一言)・・
  2、日本のため、家族のために、ありがとう・・戦争、
    紛争が無くなっていなくて、ごめんなさい・・
    皆様は平和を目指していた・・
  3、本当に、お疲れさまでした・・あの時の戦いの存
    在があってこそ、今のアメリカとの友好関係があ
    る・・
  4、あなた方が戦って下さったことは、決して無駄で
    はありませんでした・・アジアに旅行した時に、
    そのアジアの方々から聞く声で、「あの時、日本
    が来てくれて有り難かった」という声だった・・
    日本のすべてが悪いと否定することではない・・
    日本の戦いは決して無駄ではなかった・・
・欧米列強諸国に支配されていた地域を、大東亜共栄圏で
 皆が豊かに栄える状態に変える構想・・
  その領域:アメリカ領フィリピン、イギリス領ビルマ、
 イギリス領マレー、インド、オランダ領東インド、イギ
 リス領ボルネオ、アメリカ領フィリピン、フランス領イ
 ンドシナ、中華民国、満州国、オーストラリア、ニュー
 ジーランド
・1886年(明治19年)、帝国大学令に基づいて「帝国大学」
 と改称され、帝国大学が整備された・・
  この時、大鳥圭介が言った・・
  「アジアに6億人が居て、ヨーロッパには3億人、この
 様に人口の多いアジアが、何故、ヨーロッパの植民地に
 ならなければならないのか?
  その為に、智慧の不足をアジア人は補って持とう」・・
 基本的な、底流にある考え方「アジア人は知恵と共に強
 くなろう」・・(その考えのもとで、日本は、日本の資
 金を投入して、朝鮮や台湾で大学など学校を作った)
  この様な考えもあって、大東亜会議は開催された・・
・1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  第一次世界大戦後の世界秩序を決める会議だった。
  日本は、主要五大国として参加した・・
  そして、日本が素晴らしかったのは・・この会議で、
 世界で初めて「人種差別撤廃」を国際会議で訴えた。
  会議の現場では多くの賛同を集めた・・決議される勢
 いだった・・
  しかし、この流れを恐れた国があった・・賛成国が多
 く、決議される流れの中にあったが・・アメリカとイギ
 リスが反対した・・
  この反対で、特に、アメリカの議長決裁という少数者
 側に居たアメリカの議長権限で否決された。
  「民族が平等なのは当たり前なのだ」という民族の平
 等という人道的な当然の日本の訴えを退けてしまったア
 メリカだった・・
  そして、この考え方の流れは、大東亜会議へとつなが
 って行く・・強い国が弱い国を攻めて蹂躙してはいけな
 いという、これも、当然の訴えだった・・
  「力による支配を否定する」は当たり前の訴えだった・・
  この当たり前を・・採択されるような包容力のある列
 強ではなかった・・
  採択するような国であれば、当然、核を持つような行
 動も無かったのだが・・
  ヨーロッパに存在する「人種差別観」と「強いものが
 弱いものを蹂躙してよいという差別観」から発していた・・
 この二つが根源的な問題だった・・
・1929年、世界恐慌となった・・この経済が行き詰ったこ
 の時・・ブロック経済圏を作った・・
  ドル経済圏・・
  アメリカなどのドル経済圏が、他の経済社会に需要が
 流れて行かない様な行動をとった・・
  自分たちだけの社会の中で、経済が回る様な行動をし
 た・・(自分たちさえよければ良い・・だった)・・)
  その経済圏の外にいた日本は、自主独立の道を進む道
 を止む無くとった・・そして、日本だけではなく、アジ
 アの共栄圏の道を作ろうという行動をとった・・そして、
 共に経済成長して行こうとした(大東亜共栄圏)・・
・この当時、日本とタイという二国のみが独立の状態だっ
 た・・この二国の例外を除けば、すべてのアジアの国々
 は、「植民地という自由を束縛された経済社会」の中に
 あえいでいた・・
  蹂躙されていた国は以下・・1979年頃のアジア諸国・・
  フィリピン(アメリカ領)、
  ビルマ(ミャンマー、英国領)、インド(英国領)、
  シンガポール(英国領)、バングラデシュ(英国領)
  スリランカ(英国領)、マレーシア(英国領)、
  パキスタン(英国領)、
  ラオス(フランス領)、ベトナム(フランス領)、
  カンボジア(フランス領)、
  インドネシア(オランダ領)、
・戦後のアメリカの介入した教育などで、日本は侵略国だ
 というイメージが押し付けられ、洗脳され、作られて行
 った・・
 (戦後、アメリカの占領政策下で、NHKは盛んに洗脳
 放送をした)
・苛烈(かれつ、むごいほど厳しく激しいさま)を極めた
 欧米列強の植民地支配は、隠されがちだった・・
  生活穀物で・・植民地の人々は、自分たちの生活に必
 要な穀物さえ栽培できないように強制された・・
  そして、欧米列強が儲かる都合のよい商品作物の栽培
 に変えさせられた・・そして、利益の収奪がされた・・
  オーストラリアはイギリスから囚人を入れたが、
 アボリジニのアジア人を30万人殺した・・この様な話ば
 かり
  マレーシアもこれで、ほとんどの国がこの様に列強諸
 国に収奪された・・
  中国も、イギリスにアヘンの麻薬を強引に流入された
 (麻薬貿易)・・強引に麻薬が売付けられ・・中国の富
 が召し上げられた・・
  インドネシアも、オランダに酷いことをされている・・
・この様な虐(しいた)げられていたアジアの国々を回っ
 た時、それらの国々の国民感情は、日本に対する恨みは
 まったく無い状態だった・・
  日本軍が行った時、「解放軍だ」と思った・・と・・
 喜んで日本軍を迎えた・・特に、インドネシアは、350年
 間、オランダの植民地下で虐げ続けられて来ていた・・
  生活習慣まで変えさせられた(足をすって、にじり寄
 る様なしぐさを押し付けられたりした)・・
  御主人様には、その様にするのだとされた・・オラン
 ダは文明を教えてやったという視点だった・・
  この底流には、「白人以外は人間ではない」という人
 間観があった・・
  日本人は、日露戦争後は名誉白人とされた(日本が要
 求した訳ではない)・・
  アメリカの黒人差別は目を覆うばかりだった・・ホテ
 ル・レストランなど、黒人が入れない所があちこちに作
 られていた・・白人はそれが当たり前だとした・・
  大東亜会議は、その様な虐げられていた有色人種だけ
 で開催された・・白人には、差別のキリスト教中心の価
 値観があった・・が、しかし・・大東亜会議は平等な宗
 教観の中で開催された・・
・戦後、アメリカの占領政策の中では、これ等の『大東亜
 構想』をNGワードとされた・・No Good Word・使って
 はいけない言葉とされた・・
  大東亜共同宣言のすべては、国連憲章と同じで当たり
 前の事なのに・・この時、白人は、今現在、植民地とし
 て支配下に置いているのに・・「自主独立とは何だ」と
 白人国は反発した・・
・日本が、ずーっと持っていたこの考え方の会議を、アジ
 アの虐げられた人々を集めて戦争前にしていればという
 事があり、残念だった・・もう少し早く、白人たちへ行
 動していたかった・・
  戦勝国は、この点をずけずけと言った・・しかし、大
 東亜構想の理念では当たり前な事なので、その点では言
 う事は出来なかった・・
・日本が、明治維新を行なった原点には、「日本が欧米列
 強の植民地にされないように・・」という事でった・・
  だから、朝鮮へも、開国して近代化するようにと言っ
 た・・西郷隆盛の主張にも、その理念があった・・
  アジアの国々と結束したいという理念はズーットあっ
 た日本だった・・
  大東亜会議は、すべての虐げられたアジアの国々を呼
 ぼうとしたが、イギリスの蹂躙下にあったインドや、ア
 メリカの蹂躙下にあったフィリピンも呼べない状況にあ
 るように、呼べない国々があった・・
・日露戦争までのアジアの国々の人々は、「白人に勝てな
 い」というそれまでの独立戦争のことごとくで、痛い目
 に会っていて、反抗心が抑え付けられていた・・
  日本の日露戦争の勝利で、アジアの方々へ希望を与え
 た・・
  今・現在、日本の女子が、アジアに旅行した時、同世
 代のアジアの青年たちも、上の世代の方たちから、「日
 本によって解放されたのだ」と聞かされたという話をな
 された・・
  今の若い世代でも、その様な会話がなされている・・
 病院や学校や道路などを作ってくれたとも言い・・「日
 本人に感謝してます」との言葉も出る・・と・・
・白人の欧米列強の植民地政策は、滅茶苦茶に収奪だけの
 行為だったが、日本は違った・・日本は教育をしたり、
 道路を造ったり、鉄道を引いたり、ダムを造ったり・・
 と・・
・ガタルカナル島やソロモン諸島の国で、パプアニューギ
 ニアのラバウルで聞くと、日本が、あの時、もし勝って
 いたらもっと私たちは違う良い国になっているという話
 も出ている・・
・アメリカは、原爆を落とし、最大の虐殺をしたという負
 い目があった・・それを消すのに必死だった・・
  日本を悪くする象徴として、東京裁判の7人のA級戦犯、
 16人の終身禁錮刑、2人の禁錮刑などを作った・・
・東京裁判の最大の愚かさは、国際法の専門家が一人しか
 いなかった・・その人が、インドのパール判事だった・・
  このパール判事が「全員無罪とした」・・
・この戦争を煽ったのは朝日新聞・・朝日新聞は戦争を煽
 りまくった・・
・戦争を止めるには軍人でなければだめだとして登場した
 のが東条英機首相だった・・戦争にならざるを得なくな
 った時に東条英機首相は官邸で泣いていたという・・
・2013年、「大東亜会議70周年の会」が開かれた・・600人
 くらいの人たちが集まった・・
・インドネシアで、戦後、日本に帰還しないで、日本の2000
 人の将兵が残り、インドネシアの独立戦争に加わって熾
 烈(しれつ、燃え上がる様な盛んで激しい様子)な独立
 戦争を行なった・・1000人の日本将兵が戦死した。
  インドネシアの国立名誉墓地に、一杯、この日本将兵
 が葬られている・・この様なことは、ベトナムでもなさ
 れ、約750人の日本将兵が戦死している(フランスが、再
 度、植民地にしようと、ベトナムを取りに来たとき、日
 本の将兵が共に戦った)・・
  ウイグルのリーダーのラビア・カーデル氏は、他の国
 で、日本の将兵が戦ってくれた様に、ウイグルにも来て
 もらいたかったと言った・・と・・
  この地は、中国の領土ではないと言った・・日本の将
 兵が戦った地は皆独立していることを見ても残念だと、
 何回も言った・・
.
2018年9月27日、中国に敗けたキリスト教のバチカン
  「中国様」と言わんばかりのバチカンのローマ法王(
 教皇)の状態。
  過去の暗黒のキリスト教の歴史にも、「叙任権」の争
 いで多くの血が陰湿にも流されたが・・その様なことが
 現在も起きている。
  中国がキリスト教の司教を独自に決めた・・すると、
 その司教をバチカンは破門にした。
  こんな「おしくらまんじゅう」をしていた。
  この日の読売新聞によると、バチカンは中国に敗けて、
 司教任命権を渡すような状態になった・・しかし、この
 様な法王の言動に批判があいついだため、ローマ法王の
 発言が微妙になった。
  ローマ法王フランシスコは、ローマ法王庁(バチカン)
 が中国との間で暫定合意した中国カトリック教会の司教
 任命について、「最終的に任命を行なうのは法王だ」と
 述べた。
  法王が22日、中国が独自に選びバチカンが破門にして
 いた司教7人の妥当性を認めたことに批判が出ていること
 を踏まえ、中国側には妥協はしていないと強調する狙い
 があるとみられる。・・(中略)・・
  今後は、中国側が選んだ司教候補を、法王が実際に任
 命するかどうかが焦点となっている。
  中国側が司教候補を提示することは、法王が絶対的な
 権限を持つ司教任命権を実質的に中国側に渡すことにな
 り、中国政府の圧力にキリスト教カトリック教会が屈し
 たとの見方もある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)612E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年10月10日、東学参礼集会、再蜂起を論争。
  全琫準(ぜんほうじゅん)は、第一次の蜂起の時、全
 州和約を結んで政府と和したが・・、
  (参考)全州和約:1894年6月10日、朝鮮政府と甲午農
     民戦争の指導者・全琫準の間で結んだ和約(わ
     やく、平和条約)
  全琫準は、参禮集会を主導して全羅道農民軍を集め、
 つづいて忠清道と慶尚道地域に基盤を置いた教団指導部
 と連合した。
  1894年11月17日、南接・北接連合軍が、論山(のんさ
 ん、大韓民国忠清南道の都市)に集結した・・約20000人、
 そして、全国に蜂起が拡大した。
  1894年11月19日~1894年11月22日、公州攻防戦(第1次)
  1894年12月4日~1894年12月11日、公州攻防戦(第2次)
   最大の激戦が牛金峙の戦闘だった。
   全琫準は、多数の犠牲者を出し、論山に後退した。
   朝鮮政府軍に日本軍が支援し追撃した。
    全琫準は、本拠地・院坪、泰仁で最後の抵抗をし、
   決定的な敗北をし、軍は解体された。
  1894年12月28日、全琫準が逮捕された。
  1895年1月、この時まで、全羅道掃討作戦が行われ、そ
   の他の地域も順次鎮圧された。
  1895年4月23日、全琫準が死刑となった。
.
1894年10月15日、内相・井上馨が、朝鮮駐在公使に任命さ
 れた。
  日本と比べ、朝鮮は、はるかに自給自足的で、商品経
 済の発達もまだ未発達の遅れた状況だった。
  この様な朝鮮へ、経済のよく分かる井上が任命された。
  日本の朝鮮経済発展への助力の姿勢だった。
  経歴豊富な井上は、大蔵・外務・農商務・内務の各大
 臣を歴任して来ていて・・特に、大蔵・外務の両分野に
 は精通し、豊富な知識を持っていた・・
  この井上が、朝鮮の内政改革を助成し、朝鮮官僚へ働
 きかけた。
  井上馨は、朝鮮国王に上奏した種々の提案のうち、借
 款供与によって海関、国内税、地方事務を掌握する方策
 は、イギリスがエジプトでおこなった例にならったもの
 と、井上自身が説明している。
  財政破たんの状況にあった朝鮮は、その様なことから
 国内の政情も不安定だった。
  朝鮮は、この時、国内からの税収は落ち込んでいて、
 商品生産がまったくの未発達状態で経済力は小さかった。
  内政改革と財政再建は喫緊(きっきん、さしせまって
 大切なこと)の課題だった。
  (参考)海関:かいかん、中国の清朝が海港に設けた
     税関・・関税を徴収した。
.
1894年10月15日、ドレフュス事件
  アルフレド・ドレフュス仏陸軍大尉が反逆罪で逮捕さ
 れた(冤罪)
  フランスで起きた事件で、フランス陸軍参謀本部勤務
 の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがス
 パイ容疑で逮捕された事件。
  フランスは、普仏戦争に敗れた結果、鉄鉱石と石炭の
 豊富なアルザス=ロレーヌを奪われ、失った。
  (参考)普仏戦争:1870年7月19日~1871年5月10日、
      ドイツ統一をめざすプロイセンと、これを阻
     もうとするフランスとの間で行われた戦争。
      スペイン王位継承問題をきっかけに、プロイ
     センの挑発に乗ったフランス側から開戦したが、
     プロイセンが圧勝、統一を完成してドイツ帝国
     の成立が宣言された。
      敗れたフランスは、アルザス‐ロレーヌを割
     譲し、第二帝政が崩壊して第三共和制が成立し
     た。
  そして、莫大な賠償金をフランスは課せられた。
  その為、フランス経済は大きな困難に直面した。
  フランス国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向
 けられた。
  ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零
 細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへの投資
 をおこなって行った。
  1882年に、金融恐慌が発生した。
  多くの投資銀行が破産に追いやられた。
  その結果、貯蓄をなくした人々は、金融界を牛耳るユ
 ダヤ人への憎悪を昂(たかぶ)らせ、反ユダヤ主義が高
 まった。
  一方、フランスの保守派と軍部は、ドイツに対する報
 復と、熱狂的な愛国主義を煽(あお)り・・、
  1880年代後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジ
 ェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権の樹立を図る
 事件を起こし・・失敗していた(ブーランジェ事件)
  ドレフュス事件は、このような第三共和政の不安定な
 状況の中で起きた。
   1894年、ユダヤ系の陸軍大尉 A.ドレフュスが、ドイ
 ツに情報を売ったとして終身流刑に処せられた。
  軍部内では、別に真犯人がいることをわかっていたが、
 軍の威信と反ユダヤ感情などのために、事件を糊塗(こ
 と、あいまいに取り繕っておく)しようとした。
  最初、家族や知人を中心とした再審要求運動であった
 が・・上院副議長 A.シューレル・ケストネルや、後の首
 相のG.クレマンソーらの支持を得て、再審要求運動は拡
 大した。
  1898年、文人 É.ゾラが、『オーロール』紙上で「私は
 弾劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表するな
 ど、世論は高まり、単に個人の有罪、無罪の論議をこえ
 て・・、
  左翼には、国権に対する個人の自由を守り、軍を議会
 の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」・・、
  右翼には、軍の威信や伝統的価値を擁護し、対ドイツ
 愛国心を強調する国家主義者、頑固なカトリック、反ユ
 ダヤ人主義者、保守主義者などを中心とする「反ドレフ
 ュス派」が形成され、国論を2分して抗争した。
  (参考)反教権主義:はんきょうけんしゅぎ、宗教上
     の権威、特に、キリスト教のローマ・カトリッ
     ク教会、または、ローマ法王・教皇の権威・権
     力(=教権)を否定する考えを意味する。
      広い意味では、聖職者、あるいは宗教自体が、
     政治や市民の日常生活など、精神世界以外の世
     俗分野に介入することなど・・全般に反対する
     立場を意味する。
  1898年、H.アンリ大佐が文書の一部偽造を告白して自
 殺したため、再審が確実となり・・
  1899年、レンヌの軍法会議の再審で減刑されたが依然
 有罪で、大統領特赦で刑が免じられた。
  1903年、新たに有利な証拠が提出され・・
  1906年7月、民事の破毀院(上級裁判所が原判決を取り
 消す)は、レンヌの判決を全面的に破棄し、議会でも復
 権法案が可決した。
  1906年7月22日、ドレフュスは正式に復権した。
.
1894年10月15日、第7回臨時帝国議会が召集された。
  大本営のある広島で、第7臨時議会が、広島臨時仮議事
 堂で開催された。
  当時の日本の兵站拠点の一つが宇品港(現・広島港)
 だった。
  この議会で、日清戦争に関連する1億5000万円余の軍事
 予算案、および、戦争関連法案が審議され、全会一致で
 可決された。
  これまで対立が激しかった政局は、日清戦争を転機に
 一転して挙国一致体制となった。
.
1894年10月17日、東海道線の時刻改正がなされた。
  新橋駅~大阪駅間の発着列車を神戸まで延長した。
  そして、山陽鉄道会社線の神戸駅~広島駅間列車に接
 続した。
  この年は、4月16日・5月5日・5月7日・6月10日・10月
 17日と、段階的に東海道線の時刻が改正され・・、
  東京駅~神戸駅直通の列車は3往復へ増発された。
  所要時間も約30分~1時間短縮された。
  これ以外にも、多くの長距離列車が設定されるように
 なった。
.
1894年10月18日、大日本帝国議会の臨時会で、第七回帝国
 議会が開会された。
  1億5千万円の臨時軍事予算と、軍事公債案を全会一致
 で可決された。
  この議会は、日本の憲政史上で唯一の東京以外の場所
 で開かれた国会。
  1894年9月15日に、大元帥である明治天皇陛下がこの地
 に行幸され、滞在された。
  第4回総選挙結果をうけた帝国議会だった。
 ・広島において第七議会(氷川清話)
.
1894年10月22日、庄内地震
  山形県庄内地方(庄内平野)での大地震だった。
  マグニチュード:7.3、死者:739人、家屋倒壊:4488
 戸。
  土地の隆起沈下、山崩れなど多数。
  別データ:死者726人、全壊3858戸、半壊2397戸、全焼
 2148戸。
.
1894年10月24日、臨時軍事費予算1億5000万円が公布される。
.
1894年10月24日、日清戦争: 鴨緑江作戦(~1894年10月25日)
  朝鮮と中国の教会を流れる鴨緑江(おうりょくこう)・・
  1894年10月25日午前6時10分ころ、山縣有朋率いる第1
 軍主力が、渡河作戦を開始した。
  左岸の砲兵隊が援護射撃する・・その中を清国軍の各
 堡塁や砲台への攻撃を行なった。
  清国軍は部隊を虎山方面へ進軍させ、一進一退の攻防
 戦となった。
  日本軍は前進を阻まれるが・・架橋で渡河した増援部
 隊が野砲の援護を受けて攻勢に転じた。
  清国軍は九連城へと退却を始めると、日本は一斉に攻
 勢に出た・・
  清国軍はその波状攻撃を受け、軍勢は崩れ、日本軍の
 勢いに恐れをなした状況で逃走した。
  虎山に着いた山形有朋大将は、翌日の九連城への総攻
 撃を命じる・・しかし、清国軍は、その夜のうちに退却
 し・・10月26日、九連城は無血で制圧し・・入城した。
  日本の工兵の練達した技術による架橋により、砲兵隊
 や軍馬が短期間で送り込めた所にあった・・
  清国軍は、外国人将校の軍事指導を受けていたが、日
 本軍はそれを上回った。
  日本の国産の小銃(ライフル)の村田銃が功を奏した。
  世界は、この時、日本軍は近代的な装備を持った軍隊
 だと意識させ、印象付けた。
  その差は、下記の損害の差に表れている・・
  指揮官:日本・山形有朋、清国・宋慶
  戦力:日本・約10,000、清国・約15,000
  損害:日本・死者4、清国・死者約2,000
.
1894年10月27日、志賀重昂(しげたか)『日本風景論』が
 刊行・・ロングセラーとなった。
  志賀重昂は、東南アジア諸国を見て歩き、そのつぶさ
 に見た「西欧の列強のアジア諸国の植民地収奪に怒りが
 湧き、その非人道的行為を、激しく批判した」・・
  増訂が重ねられ、ロングセラーとなり、1903年には、
 第15版が出版された・・
  日本人は、この本を愛読した。
  また、この本は、日本の自然と民族の特性を結びつけ
 た近代的風景論の先駆けとなった名著だった。
  従来の殻を破って、理知的な科学的な観察と、文学的・
 絵画的叙述とを、みごとに融合させた風景論が書かれた・・、
  日本の山水美は、世界的にみても優れている・・その
 理由を・・、
  その気候、海流の多変多様なこと、水蒸気の多量なこ
 と、火山の多いこと、流水の浸食が激烈な急流状態など
 と・・多様な基本的要因をあげ・・、
  さらに、著者自身の内外における実地の観察に基づい
 て比較考察し・・
  古今東西にわたる叙景詩文なども適切な引用し・・、
 魅力的な筆致とし・・多数の挿絵も使い・・、
  科学的スケッチや図表(例えば、日本同温線、風向、天
 気図、日本の花の分類)などによって多面的・立体的に説
 明などを加えた・・
  志賀重昂は、地理学者で評論家・・
   1884年、札幌農学校を卒業、
  地理学の実地研究を志し、南洋各地を旅行し、『南洋
 事情』を執筆・・
  その南進論と国家主義的立場から西欧帝国主義による
 植民地収奪を激しく論難した。
  後に、三宅雪嶺らと雑誌『日本人』を刊行し、指導的
 役割を果して行った。
  また、農商務省、外務省などの要職に就き・・
  晩年は衆議院議員ともなった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、中国に、ハゲタカ・ファンドが入っている・・
    これが最後の段階・・
   だから、これらが引き始めたら「中国不都合の露呈の始まり」・・
    中国は・・時限爆弾状態・・
.
1642年、イギリスの清教徒革命
  清教徒革命(または、ピューリタン革命)は・・、
  1642年から1649年にかけて、イングランド・スコット
 ランド・アイルランドで起きた内戦・革命であって・・、
  1638年の主教戦争から・・1660年の王政復古までを含
 む・・、
  イギリス王国は、国教会による王の絶対主義によって
 維持されていた・・が・・
  しかし、富を獲得して羽振りが良くなる者と、その反
 対に没落する者とが・・錯綜していた。
  王室と議会の対立の源となった社会矛盾・・この確執
 の多い不安定な社会だった。
  イギリスは、キリスト教のカトリックとプロテスタン
 トが、果てしなく飽くなき状態で戦った三十年戦争で有
 利になろうと・・、
  1624年に、フランスの呼びかけに応じて、デンマーク・=
 ノルウェーを、「対ハプスブルク同盟」へ引き込む為、
 資金を提供した。
  この結果、イギリス王室は財政難に苦しむこととなっ
 た。
  しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、こ
 の様な変化に対応できなかった。
  キリスト教の教義による王権神授説にもとづいて、議
 会と対立した。
  その結果、大陸の戦火がイギリスにも及ぶ様にになっ
 た。
  1641年のイングランド内戦で、アイルランドのキリス
 ト教カトリックが蜂起した。
  アイルランド・カトリック同盟政権を樹立し・・アイ
 ルランド革命が始まった。
  1642年には、イギリスでも、王と議会の対立から第一
 次イングランド内戦が始まった(1642年~1646年)
  スコットランドでも、二次にわたる主教戦争を経て・・
  1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦が
 始まった。
  (参考)主教戦争:しゅきょうせんそう、イングラン
     ド・スコットランドにおいて、キリスト教問題
     が原因で起こった戦争。
      チャールズ1世が、イングランド国教会の形式
     にもとづく祈祷書をスコットランドに強制した。
     1639年と1640年の二度起きる。
  イングランドは、ピューリタニズムの影響を受けて民
 衆運動にもなった・・
  次第に過激化し、また、大規模化して行った。
  (参考)ピューリタニズム:16世紀の後半から始まり・・
      イギリス国教会内部から生じたキリスト教プ
     ロテスタントの一派のピューリタン(清教徒)
     の思想で・・
      宗教改革を徹底することによって、国教会の
     浄化ができるとした・・
.
1649年1月30日、イギリス王室のチャールズ1世が処刑され
 る。
  この時から、イギリスは、王政が途絶え・・共和制が
 布かれた・・、
  「イングランド共和国」となった。
  イギリス王統は、この様にして途絶えた。
  このイギリスの王室の上に君臨するデンマーク王室が
 存在した。
  この二つの王室が、ヨーロッパでは、王室と言える様
 な存在なのだが・・男子を優先としている。
  イングランド共和国は、以上の様に、清教徒革命(イ
 ングランド内戦)の1649年~1660年の間、イングランド
 王国と、後に、アイルランド王国・スコットランド王国
 を支配した共和制の政治体制・・
  1649年1月30日、チャールズ1世が処刑されて・・
  1649年3月19日、ランプ議会によって、はじめてその樹
 立が宣言された。
  1653年~1658年の間、オリバー・クロムウェル、そし
 て、その死後、息子のリチャード・クロムウェルによる
 2代にわたっての護国卿による独裁制も敷かれた・・
  護国卿時代(プロテクトレート)と呼ばれる。
  イングランド共和国は、1649年~1660年までの間の政
 治体制だった。
  ランプ議会は、ニューモデル軍と独立派が結託した1648
 年12月6日のクーデターによって、長期議会の中の長老派
 を閉め出して作られた・・
  1649年1月30日、チャールズ1世処刑の前後、ランプ議
 会は、共和制の法的基盤を固める数条の法律を可決させ・・
  それには、王政を廃止し、また、枢密院・上院も廃止
 となっていた・・
  枢密院の代替として作られたのが国務会議で・・王の
 行政権のほとんどを引き継いだ。
.
1649年8月、イギリスのクロムウェルが、アイルランドを侵
 略(~1653年4月)
  1641年のアイルランド革命以来、アイルランドは、キ
 リスト教アイルランド・カトリック同盟の統治下にあっ
 た。
  このアイルランド・カトリック同盟は、イングランド
 内戦において敗北した王党派(国王派)と、1649年に、
 同盟を結んでいた・・
  クロムウェルはこれを攻めた・・
  そして、アイルランドを占領した。
  アイルランドの人々の大多数が、キリスト教ローマ・
 カトリックだった・・
  クロムウェルは、刑罰法を可決させて、この人たちか
 ら大量の土地を奪った。
  クロムウェル占領軍は、残忍を極めた・・
  その為、現在でも、クロムウェルは、アイルランドで
 嫌われている。
  戦いは、クロムウェルの軍の30,000と・・、
  このクロムウェルに加担したアイルランド・キリスト
 教プロテスタント・・
  この連合軍に対して、20,000人のゲリラを含む60,000
 のアイルランド軍・・
  この戦いによる戦死者:クロムウェル軍の8,000と加担
した現地軍の7,000・・
  アイルランド軍の15,000~20,000、
  そして、アイルランド市民の200,000以上(戦争とその
 関連の飢餓の死者)・・
  12,000以上が、奴隷とされて連行され、国外へ連れ出
 された。
  キリスト教聖書で教える奴隷思想による行為・・
     ・
     ・
     ・
1940年10月、日本を戦争に「はめ込んで行くアメリカ」
  第二次世界大戦の始まる14か月前・・、
  アメリカは、日本を戦争にはめ込む「対日開戦促進計
 画(マッカラム覚書)」を策定した。
  日本を戦争へ「はめ込みたいとする計画書」である・・
  完全に日本を戦争にはめ込もうとしている「アメリカ
 の陰謀の計画書」だった。
  そして、また、アメリカは、その13か月後の開戦1ヶ月
 前の開戦直前には・・また、策謀の「真空の海(バキュ
 ーム・シー)」命令を発令した。
  これは、日本を誘い込んで、「日本に攻撃させる海域
 (真空の海)」を作るという命令だった。
  日本の連合艦隊の大部隊が、アメリカに見つからずに
 スムースにハワイの真珠湾に行けたことを不思議に思わ
 なければならない。
  アメリカのルーズベルト大統領は、「真空の様な海域」
 を作れと・・命令した。
  何事も起きずに、日本の連合艦隊がハワイの目的地へ
 と行ったのは・・おとぎ話だった・・
  日本の暗号を完全に解読していたアメリカは、アメリ
 カの日本大使館と、日本本国とのやり取りの暗号文のす
 べてを理解していた・・すべての事の成り行きを知って
 いた・・。
  そして、また、千島列島の単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した日本の連合艦隊は、その逐一を、アメリカに
 探知されながら・・ハワイへと向かって行った。
  ルーズベルトが命令した真空の海域を行ったのだった・・
  アメリカは、この様に日本を戦争へ誘い込んだ策を取
 り続け、戦争に誘い込んで行った。
  このすべてを指揮していたのが、アメリカのルーズベ
 ルト大統領・・
  陰湿な引っ掛けに「はめられた日本」は、戦争に引き
 づり込まれ・・そして、日本は戦争に敗けた・・
  そして・・日本を占領したそのアメリカの戦勝国は、
 日本に憲法案を作成し、押し付けた。
  その条文には・・
  「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存
 を保持しようと決意し」と・・案に書いた・・
  まったく白々しい条文を書いて・・与えた・・
  そのアメリカ自体こそ、「公正でもなく」「信義に信
 頼する相手でもない」という状況の中で・・
  そして、そんな状況の中で・・「我らの安全と生存を
 保持できる」・・と・・日本はその憲法を保持した・・
  その様な状況では『まったくない』という実際の事態
 だった。
  (参考)マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書:
      ロバート・B・スティネット『真珠湾の真実』
     所収 。
      1940年10月7日付アーサー・マッカラム少佐の
     覚書(ダドリー・ノックス大佐の承認を含む)
      著者は、1995年1月24日、アメリカの第二公文
     書館の軍事関係部門の記録グループ38(RG38)
     の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラ
     ム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白
     な戦争行為に至らさせるための、八項目の行動
     提案書を発見した。
      記述のすべてが、まったく、アメリカに都合
 よく書かれている書である・・
  海軍情報部長あて覚書
  海軍情報部極東課長
  一九四〇年十月七日
  標題:太平洋地域の情勢見積及び米国の取るべき行動
  1、アメリカ合衆国は今日、欧州では敵対的なドイツ
 及びイタリアと対決しており、また東洋では敵対的な日
 本とも同様な状態にある。
  これら二つの敵対的グループの間に介在する大陸国家
 ロシアは現時点では中立だが、あらゆる可能性から考え
 て枢軸国に味方するだろう。
  これら枢軸国に対するロシアの好意的な態度が、欧州
 戦争での枢軸国の勝利の見込みを直接高めることとなる
 と期待されるかもしれない。
  独伊は欧州大陸で勝利を収めていると見られており、
 そして欧州全域が枢軸国の軍事的統制下におかれるか、
 またはその隷属を強制されていると見られている。
  唯一、英帝国が独伊及びその衛星諸国による世界支配
 の増大を阻止するための戦いを、積極的に戦っているに
 すぎない。(P451-P452)
  2、アメリカ合衆国は最初、欧州戦争には干渉しない
 態度をとっており、また独伊は力の及ぶ範囲内で、欧州
 戦争の結果に米国が無関心な態度をとり続けるよう、あ
 らゆる手段を尽くしてきたとの見方を支持する相当な証
 拠がある。
  逆説的ではあるが独伊軍が勝利を収めるたびに、米国
 内の英国政府に対する同情と物的援助は増大して、戦争
 以外の、あらゆる援助の手を差しのべる政策を、英国政
 府に約束する立場に立っている。
  情勢が急激に変化しているので、米国政府はきわめて
 近い将来、英帝国の全面的な同盟国となるだろう。
  アメリカ合衆国を無関心な傍観者の立場に維持せんと
 する独伊の外交政策が遂に失敗に帰した結果、独伊は(
 欧州以外の)他の地域で米国の安全保障に脅威を与える
 政策を採用せざるを得なくなった。
  それは、特に中南米地域における枢軸国に支配された
 グループによる革命の脅威や、極東での日本による侵略
 と脅威を増大させるための激励である。
  それは、独伊がこうした手段により、米国の考え方や
 米国自体の身近の安全保障に大混乱を生じさせ、純然た
 る防御準備にきわめて神経質にさせ、米国のいかなる形
 式の対英援助をも事実上、禁止させようと希望している
 からである。
  この政策が採用された結果、独伊は米国を対象とした、
 日本との軍事同盟を締結した。
  この条約について報道された条件及び日独伊指導者た
 ちの、とげとげしい言葉が信ずるに足り、かつ、それら
 を疑う理由もないように思えるので、米国が対英援助に
 踏み切ったり、または米国が東洋における日本の目標遂
 行に力ずくで介入する場合には、 これら全体主義三カ国
 は米国との戦争に同意している。
  そのうえ、独伊は戦争に至らない、米国の対英援助が
 開戦の理由となりうるか否かを決定する権利、または彼
 らが英国を破った後ではそれが対米戦の理由とはならな
 いと決定する権利を、はっきり留保している。
  換言すれば、英国が敵国により処分された後で、直ち
 に対米戦争に進むか否かを決定するだろうと言うのであ
 る。
  地理的条件からドイツもイタリアも日本には、いかな
 る物的援助をも提供できる位置にはない。
  反対に日本は、英国の自治領及びオーストラリア、イ
 ンド、蘭領東インドからの物資補給ルートに脅威を与え、
 恐らく補給ルートを攻撃することにより、 独伊両国に対
 して、大きな援助を提供することができる。
  かくして、欧州において枢軸国に反対する英国の立場
 を実質的に弱体化させることになる。
  この援助と交換に日本は、米国が日本に対し積極的な
 行動に出るのを阻止するため、米国の注意を引きつける
 べく、独伊は全力を尽くすだろうとの追加約束を得て、
 日本は奪取可能と考えるアジアのすべてを占領するため
 のフリーハンドを獲得している。(P452-P454)
  われわれはここで再び枢軸国と日本との-米国の力を
 発揮不能とし、かつ、脅迫と警告とにより、米国民の考
 え方を混乱させて、行動するか、しないか、いずれの分
 野でも米国の迅速な決定的行動を阻止せんとする-外交
 的駆け引きの実例を見た。
  欧州の枢軸国または極東の日本が、最も望んでいない
 ことは、いずれの戦域においても米国による挑戦的な行
 動であるということは、いかに強く強調しても、強調し
 すぎることはない。
  3、欧州の現状を検討すると、英国を援助するため、
 われわれがまだ実施していなくて、現在直ちに実施可能
 なものはほとんどないとの結論に到達する。
  われわれは英国を援助するために派遣すべき訓練され
 た軍隊を保有していない-少なくともあと一年間は保有
 しないだろう。
  われわれは現在、対英援助物資の流れを増大して、あ
 らゆる実施可能な方法で英国の防衛を支持するよう努力
 している。
  そして、この援助が増加されることは疑いない。
  一方、英国が戦争を継続し、英海軍が大西洋の制海権
 を維持しているかぎり、ドイツまたはイタリアが米国に
 対抗できる可能性はほとんどない。
  われわれの立場にとっての一つの危険は、英帝国が早
 期に降伏し、英国艦隊が手つかずのまま枢軸国の手に入
 ることである。
  このような事態が生起する可能性は、われわれが実際
 に英国と同盟しているなら、実質的には少なくなってい
 るか、もしくは英国にかかっている圧力を、行動の別の
 分野で軽減するため積極的手段をとるならば、最小限に
 抑えることができる。
  要約すると、英国海軍が大西洋の制海権を保持し、米
 国と友好関係にあるかぎり、大西洋における、米国の安
 全保障に対する脅威は小さい。
  4、太平洋では、日本は独伊との同盟のおかげで、英
 帝国の安全保障にとって決定的な脅威であり、いったん
 英帝国が消滅すると、日本-独伊の戦力は米国と対抗す
 ることになる。
  シンガポールに対する日本の脅威または攻撃を伴った、
 また、バルカン半島及び北アフリカ経由のスエズ運河に
 対する独伊軍による強力な陸上攻撃は、英帝国にとって
 きわめて深刻な結果をもたらすことだろう。
  日本を牽制もしくは中立化させることが出来たなら、
 枢軸国がたとえスエズ運河攻撃に成功したとしても、イ
 ンド洋から英国の海軍力を排除することによってもたら
 されるのと同じ位の利益―つまり、日本にとって欧州補
 給ルートを開き、 東洋の原料補給海上ルートを独伊まで
 伸ばす―を日本にもたらすことにはならないだろう。
 (P454-P455)
  従って、英米が欧州を海上封鎖し、かつ多分日本が部
 分的にせよ(東アジアで)活動している場合には、日本
 は牽制されなければならない。
  5、第3項で指摘したように、米国が欧州の情勢を救
 うため直ちに実施可能なことはほとんどない一方、米国
 は日本の侵略的行動を効果的に取り止めさせることが可
 能で、しかも米国の対英物的援助を減ずることなく実施
 できる。
  6、米国と対立している日本の現状を分析すると、次
 のことが言える。
  有利な点
  (1)日本列島は地理的に強力な優位性を持っている。
  (2)きわめて中央集権化された強力な政府である。
  (3)厳格に管理された戦時経済体制をとっている。
  (4)国民は苦労と戦争に慣れている。
  (5)強力な陸軍を有する。
  (6)米海軍の約三分の二の兵力からなる熟練した海
    軍を有する。
  (7)ある程度の天然資源の備蓄がある。
  (8)四月までは天候により、日本近海での作戦行動
    が困難である。
  不利な点
  (1)アジア大陸での消耗戦に百五十万人が役人され
    ている。
  (2)国内経済と食糧配給が厳しく制限されている。
  (3)戦争に必要な天然資源が大幅に不足している。
    特に石油、鉄及び棉花が不足している。
  (4)欧州から資源を人手することが不可能になって
    いる。
  (5)必需物資を遠い海上交通路に依存している。
  (6)合衆国と欧州の市場に頼ることなく、軍事機材
    の生産と補給を増加させることができない。
  (7)主要都市と工業地域は空襲を受けやすい立地条
    件にある。
  7、太平洋において、アメリカ合衆国は防衛上きわめ
 て有利な立場にあり、海軍及び海軍航空隊は現在、この
 地域で長距離進攻作戦を実施する能力がある。
  われわれは、次の点でもきわめて有利である。
  すなわち、
  (A)フィリピン諸島は今もなおアメリカ合衆国が領
    有している。
  (B)友好的で多分連合側に加わる国家の政府が、蘭
    領東インドを支配している。
  (C)われわれと友好関係にある英帝国が、香港とシ
    ンガポールを領有している。
  (D)中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている。
  (E)日本の南方補給ルートに対し、重大な脅威を与
    えることのできる、米海軍の部隊がすでにその
    作戦海域にいる。(P455-P456)
  (F)米国と同盟を結んだら貴重となる、オランダ海
    軍の相当規模の兵力が東洋に駐在している。
  8、前述したところから、次の結論を引き出すことが
   できる。
  米海軍が日本に対して速かに進攻作戦を実施すれば、
 日本は独伊のイギリス攻撃を支援できなくなるだろうし、
 日本は最も不利な情況で戦わざる得なくなるか、もしく
 は海上封鎖部隊により、 かなり早い時期に国家が崩壊す
 る状態に直面することになるだろう。
  英国及び和蘭と適切な協定を結んだ後で、機敏かつ早
 期に対日宣戦を布告すれば、独伊が米国を効果的に攻撃
 する前に日本を早期に崩壊させ、太平洋から敵を排除で
 きるだろう。
  さらに、日本を排除することは、独伊と対決している
 英国の立場を確かに強化するに違いない。
  さらに、そのような行動はわれわれと友好的関係を望
 んでいる、すべての国家の信頼と支援を増大させること
 だろう。
  9、現在の世論の情況からは、さらにより多くの騒動
 が発生しないかぎり、米国政府が対日宣戦布告を出来る
 とは思えない。
  われわれの積極的な動きにより、日本が態度を変更す
 ることはほとんどない。
  従って、次の施策八項目を提案する。
  (A)太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用に
    ついて英国との協定締結。
  (B)蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地
    施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダ
    との協定締結。
  (C)蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
  (D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東
    洋、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣するこ
    と。
  (E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。
  (F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持する
    こと。
  (G)日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要
    求をオランダが拒否するよう主張すること。
  (H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して
    行われる、日本との全面的な通商禁止。
  10、これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴
 えさせることが出来るだろう。
  そうなれば、益々結構なことだ。
  いずれにしても、戦争の脅威に対応するため、われわ
 れは十分に準備を整えておかなければならない。
                A・H・マッカラム
  CC-Op-16 Op-16-F ファイル
  一九四〇年十月七日 Op16-F-2 0NI(P456)
.
1941年4月14日、日米交渉(~1941年11月)
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦直前、戦争の回
 避のための交渉が行われた・・
  日本側から働きかける必死の戦争回避のための会談だ
 った。
  第1回の野村・ハル会談は・・1941年4月14日に行われ・・
 会談は、何度も何度も重ねられて来ていた・・が・・
 しかし・・アメリカは「戦争ありき」のかたくなさの中
 にあった・・そして、8月に至った・・
  1941年8月7日、豊田外相が、野村吉三郎駐米大使に「
   近衛・ルーズベルト会談」の開催の要請を訓令した。
    野村大使は、「交渉打ち切りのほか無し」とする
   アメリカ側の態度を報告した・・しかし・・日本は、
   粘り強い戦争回避会談を要望した・・
  1941年8月9日、野村・ハル会談が行われた。
    アメリカのハル国務長官は、「日米交渉の打ち切
   り」を示唆した・・しかし・・
  1941年8月14日、野村・ハル会談。
  1941年8月16日、野村・ハル会談。
  1941年8月17日、野村・ルーズベルト会談。
    ルーズベルトは、日米首脳の会談の前提には日本
   の譲歩が必要だと要求した。
  1941年8月24日、野村・ハル会談。
  1941年8月26日、ルーズベルト大統領への近衛首相のメ
   ッセージが作成された。
  1941年8月28日、野村・ハル会談。
    近衛首相のメッセージを手交し、手渡した。
  1941年8月29日、第5回野村・ルーズベルト会談。
  1941年8月30日、ドイツ大使が、日米交渉の打ち切りを
   日本に勧告した・・ドイツ大使は知っていた・・見
   通していた・・
  1941年9月2日、野村・ハル会談。
  1941年9月3日、豊田外相が、野村大使へ日米首脳会談
   の9月中の開催を要請するようにと訓令した。
  1941年9月4日、豊田外相が、日本側の提案を訓令し、
   野村・ハル会談が開催された。
  1941年9月6日、野村・ハル会談・・日本側提案を手交
   した・・この様に粘り強く戦争回避会談を要求する
   日本から、日本は戦争を望んでいないという事は明
   らかだった・・
  1941年9月8日、野村大使が日本へ調査結果を報告する。
    アメリカの軍需生産が、昨年の4倍から5倍になっ
   ている・・すでに戦いありきのアメリカだった・・
    また、アメリカの世論の70%が、「日本の発展を
   阻止するためには・・戦争をしても良い」となって
   来ている・・と・・世論誘導もなされていた・・
  1941年9月17日、日本側の提案だけでは合意は不可能
   (さらなる譲歩を)と野村大使が日本本国へ伝える。
  1941年9月20日、野村・ハル会談。
  1941年9月23日、野村・ハル会談、日米首脳会談を督促
   した。
  1941年9月28日、日本の了解案(譲歩案)をアメリカ側
   へ手交する。
  1941年9月29日、野村・ハル会談。
  1941年10月2日、野村・ハル会談、アメリカから日米首
   脳会談の開催を拒否される・・戦争回避の首脳会談
   をやる必要なしとするアメリカ・・
  1941年10月4日、野村・ハル会談。
  1941年10月6日、豊田外相が、野村大使にアメリカの案
   に基本的に同意すると(日本の譲歩を)伝える。
  1941年10月9日、野村・ハル会談。
  1941年10月10日、野村大使が、日本のさらなる譲歩が
   ない限り日米首脳会談はないと日本本国へ伝える・・
   いくら譲歩をしても無駄という状況にある・・その
   様なアメリカ・・
  1941年10月16日、戦争回避に努力していた近衛内閣が
   総辞職した。
  1941年10月18日、東条英機首相が就任する。
  1941年10月21日、新しい内閣の外相が、再度、アメリ
   カ側への粘り強い交渉を始める・・が・・
  アメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石を中国の代
 表として確立し、東アジアのアメリカの利益代表にした
 いと思っていた。
  そして、アメリカは、「勝つ戦いだ」と思っていた・・
  当然、日本には、「戦争維持もできない」という報告
 が、すでに、ある様に、しっかりした現状分析は日本も
 できていた・・
  そして、ついに戦争は始まるのだが・・
  ルーズベルトが恐れていたのは・・、
  日本が敗北した後に、支援している蒋介石ではなく、
 毛沢東の共産党勢力が、「中国を支配できる」からと、
 また、「中国の自国を支配下に置ける」からと、蒋介石
 との戦いに必ず勝てるからと、蒋介石の国民党との戦い
 に踏み切る事だった・・事実、その様になってしまった・・
  そして、ルーズベルトは、終戦の前の年の1944年5月、
 ジョセフ・グルーを国務省極東問題局長に起用して政策
 転換した。
  ジョセフ・グルーは、それまで長らく駐日大使を務め
 ていた。
  ジョセフ・グルーは、1932年6月から1942年6月までの
 10年間、東京に居て、駐日大使を務めていた。
  グルーは、日本に対する「経済封鎖策に反対だった」。
  また、戦争の開戦を回避するための「近衛・ルーズベ
 ルト会談の実現」を強く望んでいた・・、
  戦争が始まってからも、日本の天皇制度こそが戦後の
 日本を安定させると説いて回っていた。
  それは、それまでの前任者のスタンレー・ホーンベッ
 クとはまったく違っていた。
  ホーンベックは、日本嫌いで、日本を戦争に追い込む
 「絶対的な手である=日本を経済封鎖する」を強く主張
 していた。
  また、戦争回避のための会談である「近衛・ルーズベ
 ルトの日米首脳会談」に強く反対した。
  グルーは、ルーズベルトとは古くからの友人だった。
  ボストンの私立寄宿舎学校の校友で、また、ハーバー
 ド大学の同窓でもあった。
  ホーンベックは、中国国民政府を依怙贔屓(えこひい
 き)していた。
.
1941年4月、悪化した日米関係を打開するため、日米交渉
 が、ワシントンで始まったが・・、
  交渉はまとまらなかった。
  それも、そのはずだった・・
  アジアで台頭する有色人種国家・日本の「出る杭」は
 打つだった。
  アメリカは、アジアにおいて、そのアジア人の、アジ
 アに属する日本が台頭して、アジアのイニシアティブを
 とられることを、抑えたかった。
  そのために「日本をたたくチャンス」を作って来てい
 た。
  日本は、必死に会談を重ねたり動いたが・・戦争回避
 への方向へ、しかし、最初から動く訳はなかった。
.
1941年11月23日、アメリカは、アメリカの日本大使館と日
 本本国との通信を傍受し、その暗号を解読し、第二次世
 界大戦の大戦前の状況の一部始終を知り、把握していた。
  1941年11月23日、日本の機動部隊が日本領の択捉島の
 単冠湾(ひとかっぷわん)に集結し、1941年11月26日に
 出撃したのも、当然と言いたいくらいに、アメリカは、
 その動きを、逐一、把握していた。
  嘘をつくアメリカは、それを・・「まったく知らなか
 った」と言った。
  敵の最大の攻撃破壊力を持つ部隊の行動を・・まった
 く知らなかったなどと言えるはずは無く・・日本も、ア
 メリカの機動部隊が、ハワイの真珠湾に集結しているこ
 とを知っていた如(ごと)く、アメリカも、日本の機動
 部隊の、集結、出撃など、逐一、知っていた。
  「アメリカは、まったく知らなかった・・日本の奇襲
 だ」と言うのは、まったくおかしい大嘘のアメリカとな
 っている。
.
  そして・・現在・・
2018年、それにしても、アメリカは、怖(こわ)い国だ。
  アメリカの子供たちに、広島・長崎の原爆投下を「正
 義だったのだ」と教えている。
  その様に思わせ、信じ込ませるために、「20万人~30
 万人のアメリカ人の兵士が死にそうだった」から、「先
 に、20万人~30万人の日本人の一般市民を殺したのだ」
 と教えている。
  その様にマインド・コントロールしている。
  「それは、正義だったのだ」と教え、洗脳している、
  マインド・コントロールされたこの子たちは、大きく
 なって、大人になって、同じ様な状況になった時・・、
 『原爆を投下するような、アメリカ人の大人に育ってい
 るだろう』・・
  正義なら非人道的兵器あろうと使って良いのだ・・と・・。
  同じ過ちを繰り返す「愚かなアメリカ人」に育ってい
 るだろう・・
  そして、同じ過ち(あやまち)を繰り返す・・反省し
 ない国・アメリカになっているだろう・・
  同じ過ちを繰り返す愚かさ・・
  「原爆を投下するアメリカの姿が続く」という繰り返
 す愚かな国となっているだろう・・
  だから、我々は、広島の石碑に・・
  「過ちは繰り返しませぬから」と悲惨な状況の中に死
 んだ方々への「鎮魂のために刻(きざ)んだ」・・
  我々は、全人類の為にも、「アメリカのこの様な過ち」
 は「絶対、繰り返すような愚かな行為は致しませんから・・」
 ・・と祈って、石碑に刻んだ・・、
  しかし、最近、アメリカは、子供たちに100万人が死ぬ
 ところだったと、死ぬ人数をより大きく過大にして、子
 供たちを洗脳し、教えている。
  まったく、あり得ない数字をあげて、批判もできない
 年齢の子供たちを洗脳している。
  アメリカよ、同じ過ちは繰り返すな!
.
2018年、アメリカは、銃に関しても屁理屈をこねている・・
 原爆と同じな屁理屈をこねている。
  屁理屈をこねる国・アメリカとなっている。
  20人もの小学生の子供たちが、撃ち殺された事件が起
 きた。
  そして、アメリカは言う・・「銃で撃つ犯罪行為が悪
 いので、銃が自由に手に入れることが出来る事は悪くな
 い」と・・屁理屈をこねている。
  「小学校に、防弾の盾が無いのが悪いのだ」と批判の
 行先を変えさせている。
  「ホワイト・ボードに防弾性能が無かったから悪いの
 だ」と批判の方向を変えさせている。
  子供の誕生日のお祝いに銃を親が送ることは正義なの
 だ・・と・・、
  銃の無くならないアメリカは・・何ら反省することを
 しない国となっている・・
  悲惨な銃の乱射事件が繰り返されるアメリカとなって
 いる・・
  オバマ大統領が「銃を無くそう」と言ったことは化石
 の如くとなっている。
.
2018年、グローバリゼーションの時代こそ、「国単位で考
 え、よりよい社会を構築する大切さを認識する」ことが、
 より差し迫って求められる。
  地球温暖化防止会議・・
  この問題が、解決する枠組みが、グローバルにできる
 訳はなく、「国単位」でしかやりようがない。
  だからその様に決められた・・
  しかし、それが不満なアメリカは・・何と!アメリカ
 は、京都議定書から、「国益」にあわないと下りてしま
 った・・脱退してしまった。
  アメリカは、もう二度とグローバリゼーションを口に
 しないこと・・
  また、アメリカは、情報を盗み取り、自国企業の競争
 力を支えるというハレンチ行為をした。
  自国の利益追求の利己的行為をした。
  「エシュロン」など卑劣極まりない事をしている。
  アメリカの自国企業は、この甘い汁を吸った。
  アメリカという国から離れられない人々だった。
  どこがグローバリゼーションなのだ。
  都合のよいつまみ食い論理だ。
  この様な状況で、グローバルになれる訳はない。
  グローバリゼーションのマインド・コントロールは、
 もはや終焉した。
.
2018年、木造が劣化するという議論は嘘
  木質は、年数と共に強度が増すという事を知らない。
  NHKは、いつも、「年と共に劣化する」・・だから
 弱くなると放送する・・それは間違い。
  軽率な論議となっている。
  木質を、「乾湿繰り返し」の環境に置けば、木材腐朽
 菌(ふきゅうきん)によって腐ることは、誰でも知って
 いる。
  しかし、出雲大社が、遠い昔、天にも届く高い高い神
 殿だったという話は、半分、伝説の様に伝わっていた。
  その話に決着がつくことがあった。
  出雲大社を発掘すると、その高い大神殿を支えた木の
 杭が出土した。
  実際、我々・日本人の祖先は、この様な木造の大建築
 を、遠い昔、すでに作っていた。
  その杭は、この様に劣化せずに出土した。
  腐朽菌が無い状態ならば、木質はこの様な長い年月を
 存在している。
  NHKの放送は間違いで嘘となった。
  キリスト教に偏するNHKは、仏教を蔑視するが・・、
  以前、仏教寺院の世界遺産の法隆寺の保存が話題にな
 った時・・、
  「法隆寺は木造だが、木造だと、(腐って)何時、壊
 れるかわからないから、いっそコンクリートで建て替え
 るべきだ」の暴論を言うNHKという始末だった。
  今、法隆寺は、世界遺産となって、日本のみならず、
 世界の遺産となって人類の資産となっているが・・、
  NHKは、この様な貴重な資産を、不勉強極まりない
 暴論で抹殺しようとした。
  調査や研究もせず、安易な素人の思い込み放送で、影
 響力の超巨大な放送媒体で、間違い放送する罪がNHK
 にある。
  また、意図的に仏教蔑視を繰るNHKとなっている。
  NHKは、一時、「コンクリートは、40年でダメにな
 る」という放送を意図的に何度も放送した。
  こんなことなら・・上野の世界遺産になった美術館が、
 コンクリートであるが、世界遺産になるわけはない。
  乾燥して行く木材は、強度が上昇するとさえ言われて
 いる・・
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その4)
・日本は危機管理力が鈍感だ・・
・アメリカは、アメリカ高官が台湾へ行けなかったが、今、
 高い階級の高官が行くようになっている・・
・中国は、軍事拠点にしないと言っていた南シナ海を「完
 全に軍事拠点化」し、それも3ヶ所も、そして、「中国版
 の海兵隊(侵略部隊)を3倍に2020年までにしようとして
 いる」・・
  この様に、中国は「この地域で動くぞ」と明確に表明
 している・・
  これは、先手を取って、中国に動かれる前に抑えるべ
 きだ・・
・太平島(たいへいとう、現在、中華民国が実効支配して
 いる南沙諸島の島)を中国は盗ろうとしている・・ここ
 が狙われている・・(この次が台湾)・・
・今、すでに、中国は、海賊対処という名目で、軍艦に海
 兵隊を乗務させている・・
・台湾の軍は国民党軍であるから、台湾住民を弾圧する恐
 れも考えられる・・
  また、台湾の国民党は、偽の事件を台湾内で起こして、
 中国に援助を求める偽装工作をする恐れがある・・
  中国軍の台湾へ入る口実作りをする恐れがある・・
・尖閣諸島周辺の台湾の漁民は、ほとんどがこの国民党系
 の漁船・・
・中国は、危なくなると戦争を起こす恐れが大きい・・
・台湾には、半導体の高い技術力がある・・軍事転用でき
 るものばっかり・・
  また、台湾は、アメリカに留学した技術者の技術が
 たくさん持っている・・これが中国に渡る心配がある。
  アメリカは台湾を手放したくない・・
・習近平と台湾国民党は、非常に近い親密な関係にある・・
・中国の国内問題が危ない・・
  反習近平派が黙認した習近平政治・・
  これはいざという時に習近平に総て責任と取らせる心・・
  南シナ海の軍事基地化もすべて習近平の仕業(しわざ)
 だと出来る・・
・アメリカが本気を出した・・
  (この様なアメリカをキリスト教大学の教授が必死に
 批判していた・・青山学院大学の教授がトランプ大統領
 の批判を猛烈にする・・)
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その5)
・今、中国の国内には反習近平勢力がいっぱい居る・・
  習近平を、今のような状況の地位に就かせようとしな
 かった抵抗した人たちが大勢いる・・
  そして、その様な人たちが、世界中に広がっている・・
  その様な中国系の人たちは、江沢民派などの反習近平
 派で・・
  この人たちは、いざという時になったら親中というよ
 り西欧社会と連携するようになる・・
  中国国内で冷や飯を食って来ている「世界へ出た中国
 系の人たち」は、今まで自分たちが築いて来た今の現状・
 状況・状態を大事にして優先する・・
・4年前に、習近平が政権に就いた最初の時は、国民はみん
 な習近平が好きだった・・しかし、だんだん嫌いになっ
 て来た・・
  ワクチン問題が起きている・・
  (参考)不正混合ワクチン大量流通、子供が数十万人
     が接種(SankeiBiz)2018.7.25
      中国で国の販売基準に適合しない予防効果不
     明の混合ワクチンが大量に流通、数十万人の子
     供らが接種していたことが発覚し、衝撃が広が
     っている。
      中国では、違法薬品が市場に出回る事案が後
     を絶たない。
      今回は、子供の命に関わりかねないため、親
     らの怒りが爆発。
      国の管理責任も取り沙汰され、指導部は世論
     の沈静化に躍起になっている。
      事態を深刻視した習近平国家主席は23日、
     外遊先のアフリカから「徹底調査せよ」と指示。
      李克強首相も22日「道徳的に許せる最低ラ
     インを越えた」と関係者を批判した。
      しかし、李氏は、2016年に、ワクチンの違法
     販売事件が判明した際も「レッドライン(許容
     できない一線)だ」として再発防止を指示して
     いただけに、国民の怒りの火に油を注いでいる。
      中国メディアによると、問題視されているの
     は、吉林省長春市と湖北省武漢市の製造会社が
     販売した百日ぜき、ジフテリア、破傷風の混合
     ワクチン。
      山東省、河北省、重慶市を中心に65万本余
     りが流通し、判明しているだけで36万人近く
     の子供らが接種した。
      内部告発により問題が発覚。
      当局が長春市の会社への処分を公表したこと
     から注目が集まった。
      健康への影響は不明だが、北京大の専門家は
     中国メディアに「殺人行為だ」と指摘した。
      中国では、2013年に、B型肝炎ワクチンを接
     種した多数の乳幼児が死亡するなど、ワクチン
     をめぐる問題が頻発。
      中国紙記者は、「指導者は毎回、地方や企業
     の幹部を拘束して幕引きを図り、有効な管理シ
     ステムを構築してこなかった」と指摘した。
  この問題を起こした犯人を逮捕するかは不明・・報道
 もなされない・・
  中国で豚インフルエンザも出て来た・・
  (参考)豚は、鳥・ヒトインフルエンザウイルスの両
     方に感染するため、豚が交雑宿主となって遺伝
     子再集合により新たなウイルスを排出する可能
     性がある。
      現在、世界的には、豚の間で様々な遺伝的背
     景を持つA(H1N1)、A(H1N2)、A(H3N2)ウイ
     ルスが循環しており、これまでにも散発的に豚
     からヒトへの感染例が確認されて来た。
      鳥インフルエンザの場合・・NAがN1以外のA/H5
     亜型の高病原性鳥インフルエンザウイルスのう
     ち、ヒトへの感染事例が確認されているのはA(H5N6)
     ウイルスのみで,、2014年以降は14例のヒト感染
     例が確認されており,、そのうち10例が死亡例
     で,、全例が中国からの報告。
  中国には、今、2億匹の豚が居るが、その飼料の大豆が
 米中貿易戦争で中国へ入りずらい状態になっている・・
  中国の豚飼育では、抗菌剤が、一杯、飼料の中に入れ
 られている・・中国の子供たちへの影響が心配されてい
 る・・
  また、中国は、豚の飼育期間を短くして早く売ろうと
 する傾向になっていて・・、
  豚を売る時に、売りやすくするために、豚の肌が白く
 なって、つやつやとするからと、売る3か月前に、ヒ素を
 飼料に混ぜる事がなされている・・
  その禁止令が出て、豚が売れなくなった・・豚飼育者
 は、その豚を河へ投棄した・・それが、上海まで流れて
 行き、問題となった・・
  また、中国はクローン豚が多い・・
・今、66ヶ国が中国の一帯一路に関係しているが、信用が
 がた減りの状況となっている・・
  また、毛沢東崇拝も完全に消えた・・
  元軍人の不満も大きく、デモも起きている・・10数人
 の死者(殺された者)が出る騒ぎとなった・・
  元軍人がどの様に連絡を取り合ったのか? 一晩で2万
 人が集まった・・電話・メールを使った形跡はない・・
  当局がまったく把握できない連絡で、大規模な行動が
 起こされるかも・・という恐怖が生まれている・・
  顔認識データーも元軍人は漏れていた・・
  今、元軍人が、中国に8500万人居る・・
・例え、習近平の後の政権になっても、今の中国のやり方
 は変わらないだろう・・
  そして、今、習近平が、日本に来る予定になっている・・
  中国の権益となったスリランカの港は、軍事転用させ
 ない様にしなければならない・・シーレーン、エネルギ
 ーの大切な道である・・
・今、中国には、長老という修正・調整集団が居なくなっ
 ている・・
  最初の頃は、米中貿易戦争に至らならない様にと導く
 人も居たが・・今は、習近平に責任を取ってもらおうと
 いう状況になっている・・
・インドは、今、ロシア製の兵器と、西側の兵器の混在と
 なっている・・
  ロシア製兵器が中心の潜水艦は、完全にロシアのコン
 トロール下にある・・
  経済的に、中国に頼っている面がある・・
  「インド・太平洋構想で対抗しよう」という構想の大
 きな壁になっている・・
・中国の目的が「世界制覇」にあるところが問題だ・・
  日本外務省は、(中国を気にして)チベットのダライ・
 ラマ法王にも会おうとしない・・
  日本は、ウイグル問題にも、あまり関わろうとしてい
 ない・・知ろうともしていない・・
・新興諸国の財務状況が、今、深刻極まりない状況となっ
 ている・・
  対外債務が・・
  1、モンゴル・・対GDP比・215%
  2、キルギス・・・111%
  3、ラオス・・・・ 84%
  4、タジキスタン・ 67%
  5、マレーシア・・ 63%
  6、トルコ・・・・ 55%
  7、南アフリカ・・ 53%
  8、アルゼンチン・ 40%
  9、メキシコ・・・ 40%
  10、ロシア・・・・ 34%
  11、タイ・・・・・ 34%
  12、ブラジル・・・ 33%
  13、パキスタン・・ 24%
  14、フィリピン・・ 23%
  15、インド・・・・ 20%
  このほとんどが、中国が貸している金・・
  9位のメキシコ、10位のロシア、15位のインドは別・・
  そして、この債務のほとんどが、不良債権化している・・
  中国国内にも、今、人の住まない超高層住宅が林立す
 るゴーストタウンがあるが・・今、中国は、世界中にも
 この様な「焦げ付き不良債権の山」を築いている・・
  この金額が・・2兆米ドル(225兆円)規模・・
  今、中国が持っている総債務は・・3700兆円・・中国
 のGDPの370%・・
  対米の貿易黒字で、中国の資金サイクルは回って来た
 が・・これからは、このサイクルが回らなくなる・・
  不動産暴落から始まる・・中国の不都合の露呈・・
  リーマン・ショックも世界経済に大打撃を与えたが・・
 この中国経済の不都合は・・この10倍規模になる・・
  このショックは・・計り知れないことを起こす・・
  日本は・・果たして・・その備えをしているのか???
  今まで、さんざん中国で儲けて来たアメリカの金融機
 関は・・今、中国から手を引いている・・
  今、ハゲタカ・ファンドが入っている・・これが最後・・
 だから、これらが引き始めたら「中国不都合露呈の始ま
 り」・・時限爆弾状態・・
・中国のほほえみ外交に変わった時は、特に、注意を要す
 る・・大丈夫だではなく、日本は、しっかり島嶼(とう
 しょ、島々)防衛をすべき・・シーレーンの確保・・国
 土を蹂躙されないための土地の売買制度などの再考・・
・今、中国は、カナダで反日宣伝博物館を作ろうとしてい
 る・・慰安婦、南京、真珠湾などなど・・中国政府の施
 策としてやっている・・
・声紋のデジタル統制・・人権無視、顔認証・・ウイグル
 民族浄化・・ムスリム弾圧強化・・AI全体主義の弱点
 は国際非難・・

【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)

題:(増補版)611E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年10月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年10月5日、広島市と港のある宇品(うじな、広島市南
 区)を「臨戦地境」に指定し、戒厳令を宣告した。
  (参考)戒厳(かいげん):戦時や自然災害、暴動等
     の緊急事態において、兵力をもって国内外の一
     地域、あるいは、全国を警備する場合に、国民
     の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停
     止し、行政権・司法権の一部ないし全部を、軍
     部の指揮下に移行することをいう。
      軍事法規のひとつであり、戒厳について規定
     した法令を戒厳令という。
      戒厳は、臨戦地境と合囲地境にと二種に分け
     られ、「合囲地境は敵の合囲若しくは攻撃其の
     他の事変に差し警戒すべき地方を区画して合囲
     の地域と為す者なり」つまり敵の囲い込み若し
     くは戒厳地域の囲い込みを意味する。
.
1894年10月5日、初の定期時刻表である「汽車汽船旅行案内」
 が発売された。
  月刊の時刻表定期刊行の始まり(第1号)
  庚寅新誌社(こういんしんししゃ)が、各駅最寄りの
 名所旧跡案内や、紀行文も掲載して発売した。
.
1894年10月6日、イギリスが、共同干渉を提議した。
  イギリスとロシアの協調は、不安定ながらも日清戦争
 中は継続していた。
  日本の戦いにおける優勢が決定的となったこの1894年
 10月、イギリスが、対日和平勧告を行う事を、ロシア・
 ドイツ・フランス・アメリカに提議すると・・ロシアは、
 列国中、最も好意的な対応を示した。
  また、この翌年の1895年1月に、ロシアが、英仏に対し、
 日本に講和を勧告し、かつ、その条件を開示すべく申し
 入れることを提議した。
  イギリスは、直ちにこれに応じ、露仏と共に対日申し
 入れを行った。
  結局、イギリスとロシアの協調の崩壊は、1895年4月初
 め、下関講和会議において、日本が提示した講和条約案
 (遼東半島割譲を含む)に反対しないという決定をイギ
 リス政府が下したことによって崩壊した。
  ロシア政府は、日清の開戦に至るまでは、極東問題と
 は何よりも朝鮮問題であって、ロシアは、清国の朝鮮に
 おける優勢さに対抗しなければならないと考えていた。
.
1894年10月9日、甲武鉄道市街線が開業した・・後の中央線。
  (新宿駅~牛込駅間が開通)
  線は、新宿駅から信濃町駅、四ツ谷駅を経て、牛込駅
 (市ヶ谷と飯田橋駅の中間地点)までだった。
  経緯・・
  1870年に開業したものの、2年後に廃止された玉川上水
   の船運の代わりに、その堤防沿いに新宿~羽村間に
   馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設を企画したことに
   はじまる。
    発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元神
   奈川県知事)で、堤防沿いは認可を得られず経路を
   変更・・
  1886年11月、新宿駅~八王子駅間の敷設免許を得る。
    しかし、岩谷松平らによる蒸気鉄道、さらに川崎
   駅~八王子駅間の武蔵鉄道の出願があったため、直
   ちに動力を蒸気に変更して出願し、競願者を退けた。
    そして、資本金を30万円から60万円に増資する必
   要から大隈重信へ協力を求めた・・そして、平沼専
   蔵らから出資を得ることができ・・、
  1888年3月、免許状が下付された。
    しかし、その後、井関らと大隈派で対立を生じ、
   大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。
    この時、登場した雨宮敬次郎は、安田善次郎らか
   ら資金提供を受け、暴落した甲武鉄道株を買いあさ
   り、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し、
   経営の実権を握った。
  1888年5月2日、株主総会において役員を選出・・
  (社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)
   井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田
   善次郎、(監査役)岩田作兵衛・・そして・・
  1888年6月9日、副社長となった大久保利和が10月31日
   の株主総会において社長に就任し、奈良原は常議員。
  1889年4月、内藤新宿駅~立川駅間が開業(27.2キロ)・・
    これは、内藤新宿から中野駅、境駅(武蔵境)、
   国分寺駅の3駅を経て、立川駅まで運行され・・
    新宿を午前7時14分に出発した列車は、1時間かか
   って立川駅に予定時間の8時14分に到着した。
    各駅の停車は1分間、列車スピードは、平均時速30
   キロだった。
    客車をけん引した蒸気機関車は、イギリスから直
   輸入したナスミス・ウィルソン社製の軸配置1B1型
   (先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)、タンク蒸気機関車
   (国鉄400形蒸気機関車)・・通称:「マッチ箱」が
   箱型客車を引っ張った。
    午前と午後2本づつの1日4往復した・・
    内藤新宿駅発:7時9分、10時0分、14時30分、17時
   30分・・運賃は、もり・かけそば1銭の時、1マイ
   ル(1.6キロ)1銭だった。
  1889年7月、多摩川本橋(約418m)、浅川橋(139.5m)
   が完成した・・難工事で、開業を4ヶ月遅れさせた。
  1889年8月11日、立川駅~八王子駅間が開業(9.7キロ)・・
    新宿から東京市内への路線延長は、当初は、甲州
   街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工
   廠の後押しもあって・・
  1889年5月、申請、
  1889年7月、仮免状が下付された・・
    この頃の甲武鉄道沿線の名所旧跡を紹介している
   錦絵には、小金井桜、玉川、高山が描かれ、説明文
   もあり・・そして、真ん中に新宿停車場が描かれ、
   立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
   る。 
    左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり・・
    そして、御嶽山から流れ出る玉川(多摩川)と
    左に、羽村から玉川上水が東京市街地に向かって
   流れ・・その玉川に、立川と日野との間の甲州街道
   の橋が架けられている。
  1894年10月9日、新宿駅~牛込駅間が開業・・
  1895年4月3日、牛込駅~飯田町駅(飯田橋駅と水道橋
   駅の中間地点)間が開業(0.8キロ)・・これで、営
   業区間が八王子駅~飯田町駅間(41キロ)となる。
    そして、更なる延長が計画され・・1890年、飯田
   町駅~万世橋駅間を出願・・
  189612月、八王子から西の山梨方面への鉄道敷設を国
   が工事に着手。
  1903年6月11日、新宿駅~甲府駅間が完成・・そして、
   中央線と命名した・・
  1904年12月、御茶ノ水までの延長が完成・・と続く・・
    しかし、この甲武鉄道の敷設に際し、様々な反対
   運動があった。
    街道筋が栄えているこの時代・・甲州街道で栄え
   ていた府中や調布の商人、宿屋、人力車夫などが、
   客がとられると反対した・・また・・
    農家も汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害し、火の
   粉がわら葺き屋根にかかって火事になると・・
    家畜に悪影響が生じると・・
    いろいろな方面から色々な理由で反対された・・
    中野方面でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西
   に貫く計画に、地主・村民等が反対した・・
   「鉄道は村を衰微せしむ」・・と・・
    頑強な反対運動に、甲武鉄道は、計画を大きく変
   更・・
    抵抗の少ない武蔵野原野を、現在の東中野あたり
   から立川まで一直線に計画した・・日本第二の直線
   区間となって敷設した。
  1906年、公布された鉄道国有法により、1906年10月1日、
   国有化され、中央本線の一部となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、
    『一つの中国の原則にこだわらない』と明言した・・
    韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
紀元前4世紀~紀元前3世紀、法句経(ほっくきょう)が編
 纂される。
  一人静かな心を味わい・・
  安らぎの味を知ったら・・
  恐れもなく、過ちもなくなる。
        (法句経205)
  法句経は、パーリ語経典『ダンマパダ』 Dhammapada
 の訳名。
  仏陀の言葉をなまの形で伝える文献の一つ。
  古来広く愛読され、仏教徒の思想と実践の指針となっ
 てきた。
  全編 26章、423の詩句集で・・、
  パーリ上座部系統に属するもののほかに、
  大衆部が伝えたガンダーラ語のもの、
  説一切有部系統の『ウダーナバルガ』の題名で伝えら
 れたもの、
  その系統のチベット訳や
  漢訳の『法句経』 (2巻) 、『法句譬喩経』 (4巻) 、
 『出曜経』 (30巻) 、『法集要頌経』 (4巻) などもある。
  パーリ語原典は、南伝上座部の(小部経典)の一つで
 あるが・・、
  他に、ガンダーラ語、サンスクリット《ウダーナ品》、
  漢訳(《法句経》《出曜経》など)、
  チベット語訳、および、中央アジア諸語による断片も
 あり、きわめて広く普及していたことが知られる。
  本経は、短い詩句の集成で、初期仏教教団で伝持され
 ていたものが、後に、編集されたと考えられ(紀元前4世
 紀~紀元前3世紀)、初期仏典中でも最も古いものの一つ。
     ・
     ・
1220年代のはじめ、ルーシ(キエフ大公国)の公たちは、
 まず、キプチャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちか
 ら、モンゴルの到来を知らされた・・ここからモンゴル
 の征服が始まった。
.
1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
  この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いる
 モンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行わ
 れた。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
.
1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、ロ
 シア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジーミ
 ルを次々と陥落させた。
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
.
1453年、モスクワ大公が、皇帝を意味するツアーリの称号
 を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷帝)
 は、この年に、ツアーリの称号を正式に用いた。
  ロシアの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コン
 スタンティノポリスに続く第三のローマであり、ツアー
 リは、ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
1780年、光格天皇が天皇になった(在位1780年~1817年)
  光格天皇は、たいへん衰弱していた皇室の祭祀(さい
 し)の復活に努められた(1771年~1840年)
  そういう皇室の動きが淵源(えんげん、物事の起こり
 基づくところ、根源)となり、尊皇思想というものが茫
 洋(ぼうよう、広々として限りないさま)として沸き上
 がり、武士階級を中心に庶民の一部にまで浸透して行く。
  この過程で、皇室をめぐる文明的エネルギーは見事に
 立ち直った。
  光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇の三代が、皇室伝統の
 衰微と危機に立ち向かわれた。
.
2005年11月17日、耐震偽装事件、そして、NHKの罪
  国土交通省が、この日、千葉県の構造計算事務所の耐
 震偽装を公表した。
  しかし、日本の公共放送・NHKも似た様なことをし
 ている・・放送している。
  NHKは、「がさネタ放送局」だ。
  建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  (1)建物の耐力は鉄筋量で決まる。
  姉歯事件は、この鉄筋量を誤魔化したから問題となっ
 た。
  建物耐力は、鉄筋量の計算をして決めている。
  鉄筋の引張力は十分に耐えるのか?否か?の問題なの
 である。
  コンクリートの劣化は中性化で起きる。
  鉄筋コンクリート構造物の耐力減退は、何で起きるか?
 と言えば、
  1、コンクリートの中性化、
  2、コンクリートの中性化による鉄筋の錆びによる断面
   欠損、
  3、コンクリートのひび割れによる耐力低下(今、巷の
   公共構造物でこれを無視しているのか?ほとんど補
   修をするべきを補修をしていない)、
  4、コンクリートが、ひび割れて、中の鉄筋が錆びて、
   そして、その鉄筋の錆びの膨張で、コンクリートが
   押し出されて、コンクリートが剥落する。
   (たまに見られるのだが、世間では構造体が、ここ
   まで来ても何ら補修をしてない)。
  この様な劣化因子があるのだが、鉄筋コンクリート構
 造物が、耐力を低下することを問題にするのなら、コン
 クリートの中性化が進んで行って、肝心の鉄筋が錆び始
 めて、鉄筋の断面欠損が生じ始めて、そして、鉄筋コン
 クリート構造物の耐力の低下が始まるところを問題とす
 べきだ。
  (だから、鉄筋コンクリート構造物の中性化を補修し
 ていれば、鉄筋の劣化は起きるはずが無く、だから、超・
 長期的にその構造体は使用可能なのだ)。
  (メンテナンス・補修如何にかかっていることを知る
 べきだ・・ただただ、何年、経ったから駄目になったと
 考える事は「勿体ない行動につながる」)。
  NHKは、世間にある様な素人的な想像で予想し、そ
 れがあたかも正しい事の様に放送した・・いいふらした。
  だから、まだ耐力が低下していない鉄筋コンクリート
 構造物が、ただただ時が経たから耐力がなくなったと、
 単純な、間違った放送をし続けた。
  大きな間違い情報を言い続けた。
  その間違い情報に洗脳された人々は、まったく無駄な、
 勿体ないことを始めた。
  まだまだ使える建物を壊し始めた。
  『NHKのこの罪は・・非常に大きい』。
  貴重な公共構造物を、この様なセンスで壊していたら・・
 税金がいくらあっても足りなくなる。
  また、NHKは、渋谷の放送センターを建て替えたい
 ため、これを理由にした・・
  そして、お手前の放送媒体を使って、盛んに全国放送
 をした。
  『NHKの渋谷の放送センターは、年月が経ったので
 劣化したので建て替えます』と・・
  嘘で間違った放送を盛んにした。
  そしてまた、渋谷の「子供の城」も年月が経ったので
 壊して建て替えますと、ニュースにもならないニュース
 を自分の建て替えを行ないたいため・・放送した。
  NHKの目の前の渋谷公会堂も、年月が経ったので壊
 して建て替えますと、またまた、ニュースにならないニ
 ュースを、自分のために放送した。
  こんな放送ばかりを繰り返し繰り返し放送していた・・
 その建て替えのお金は視聴者へ返還すべき金だった・・
 だから、NHK予算委員会でその様に決定している金を、
 NHKはまだ視聴者に返還していない。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その2)
・中国はあらゆる層の人間を使って、「政治を盗むグルー
 プ」や「科学技術を盗むグループ」・・などを作ってい
 る・・
  これを束ねているのが、中国共産党中央の統一戦線・・
 世界に散らばした工作員のネットワークを束ねている・・
  アメリカのFBI(連邦捜査局)や、CIA(中央情
 報局)は、すでに、そのやり方・組織を把握している・・
  今、それをストップし、潰す方向へ動き始めた段階と
 なった・・それによって中国の状況がここで変わった・・
 ピンチに陥っている・・
・アメリカのFBIは、アメリカの55州のすべてに中国の
 スパイが入っていると発表した・・取締りを厳しくして
 いる。
  アメリカに帰化した中国人は、総てが工作員(日本も
 そうだろう)・・
  カナダでも、それと同様な中国の動きが発覚し、860人
 の学生などの工作員が捕まって強制送還された(数が半
 端ではない)・・
  留学生・華僑・華人がこれを構成している・・
  孔子学院もこの状態(日本の桜美林大学にもある)・・
 親中反日にして行く行動をしている・・
  この孔子学院をコントロールしているのがやはり中国
 の政権内にある王滬寧(おうこねい)・・
  アメリカは、この王滬寧をターゲットにしている(情
 報戦)・・
  この王滬寧が、失脚の可能性高い・・アメリカへの亡
 命か?・・という状況になっている・・
・クーデターを心配している習近平・・
  習近平が、アフリカに行った時にもその心配が出てい
 た・・心配で、娘をアフリカへ連れて行った・・
・AFP通信の記者が書く、習近平はおかしいと・・
  習近平は、眠れない状態が続いて睡眠不足で、国連や
 国際的な大物に会っている時も、うとうとと居眠りをし
 ている・・
  また、習近平は肩書も間違えた・・
  また、9回、毒殺を仕掛けられたとの報道がある・・
  6月、人民大会堂で、習近平を迎えに来た車が、習近平
 が出て来た時に爆発したことがあった・・
  人民大会堂は、一般人が入れないエリアで、この様な
 事が起きた・・
  その爆弾を分析したら人民解放軍の使っている爆弾だ
 と判明した・・
  内部に習近平を爆殺しようとしたものが居ることは明
 らか・・
  これが起きた後、習近平は人民解放軍病院に入院した・・
 そこでも危うく毒の注射を打たれそうになった・・
  中国の政権の行方が不透明になって来ている・・
・北朝鮮も、中国の人民解放軍が、自国領に入って来るこ
 とを恐れている・・
  中国の北京や上海を狙うミサイルも保持しているとい
 う見方もでている・・
  この点からも、核やミサイルは、簡単に手放せない状
 況があると考えられている・・
・イランに、北朝鮮から核が渡されたら世界は大変なこと
 になる。
  イスラエルは黙っていない。
・アメリカ政権内にも、中国共産党と強くつながっている
 者が居る事も忘れてはならない・・
  中国の外貨準備は3兆2千億ドル・・米国債は1兆2千億
 ドル・・
  故に2兆ドルが自由になる・・これがアメリカ内の工作
 や投資などに使われている・・また、金融機関のモルガ
 ンなどへ・・
  あまり追い詰めるなというアメリカ内の勢力もある・・
  しかし、これは皆、中国内にないお金・・アメリカに
 あるお金・・アメリカは、いざとなったら、トランプ大
 統領が、決断一つでこの中国の在米資産を抑えることが
 できる・・凍結する・・
  ウイグルを弾圧し、虐殺した中国高官(陳全国・ちん
 ぜんこく)も資産凍結された・・
・中国は強い時は危険だが・・中国は弱い時も危険・・
  日本は、過去にも、中国が弱い時に、中国を助けて痛
 い目にあった・・この時、天皇陛下が訪中をせざるを得
 ない状況に置された・・
・日本でも、日本の議員で中国のインターシップを持って
 いる者が居る・・
  (オーストラリアは、中国関連のスパイ活動を防ぐ一
 環から議員インターンシッププログラムを除外するとし
 た)
・アメリカの女性上院議員が、秘書を首にした・・その理
 由が「事務所の情報のすべてを中国へ渡していた」・・
  この女性議員は、外交の委員長をしていたから狙われ
 た・・
  この秘書が、アメリカに立てられる慰安婦像のすべて
 を指導していた・・韓国が表向き慰安婦像を立てるよう
 に見せかけられていて、本当は中国がやっていると判明
 した・・
  台湾に慰安婦像を建てたのも中国と国民党・・
  台湾のマスコミは、中国共産党と中国系の台湾の国民
 党がすべてを抑えている・・
  中国の金が動いてカナダで慰安婦記念館が建てられる
 ことになっている・・
  慰安婦像設置や博物館建設も裏で中国政府が金を出し
 ている。
・台湾の国民党と中国共産党の関係は双子状態・・裏では
 まったく一緒。
  中国に利用されている台湾国民党・・
  中国政権の統一戦線が、アメリカの工作員を動かして
 いる・・
・中国は、欧米企業をどんどん買収し、中国は、その情報
 を盗んでいる。
・中国が、日本を何とかしよう、てなづけようという動き
 が、また、始まっている・・
  スパイとスパイ協力者がいる・・
  民間の学者などが利用されている・・
・中国の木材輸入量の70%は日本から出ている・・
  この様な儲け話のやり方から言いなりになる人間を、
 中国は、作ろうとしている・・
  李克強が日本に来て、北海道のバイオチップの話を付
 けた・・この様な中国の動きもある・・
  また、北海道・苫小牧の広大な土地を中国は購入(中
 国向け野菜)、表向きは日本法人だが、苫小牧の農地を
 買い占めて、中国への野菜輸出をしている・・
  しかし、北海道にはまったく金が落ちない・・
  地方経済活性化に、少しも役に立っていない・・
  北海道の政治家よ!目覚めよ!
  中国寄りの政治家の多い北海道となっているが・・ま
 ったく、中国に裏をかかれている・・
  この様な中国経営の法人に・・日本政府から補助金な
 どの金が出ている・・我々はその税金を支払されている・・
・日本の政治家の秘書にも中国の工作員が、相当、入って
 いる・・
  農業特区制度が悪用されている・・
  中国から金を貰っている日本の政治家も多い・・
  革新系だけでなく、保守系と言えども金を貰う議員が
 居るという状況になっている・・
  政治家の秘書にも、相当、入っている・・
・今、中国は、先端技術を盗むためのスパイを送り込む事
 より、企業の最先端の技術者を抱き込むことをしている。
  中国の工作員を入れるより、日本人を抱き込むことに
 力を注いでいる。
  情報が盗まれる「見落としがちな穴」は通訳・・
  通訳を抱き込んで、情報を得ることもしている・・
  技術だけでなく政治の分野でも・・
・優秀な技術者を夏休みに中国に招待することもしている。
  この時に、「退職後も、引き受けますよ」と、高額な
 給料の誘いと共に退職後の話もつける・・
・日本の大学で、中国の国費留学生の居ない所は無い・・
  また、パソコンの入力の手伝いと称して、めぼしい技
 術を開発している大学教授の助手になる・・
  そして、研究所の大切な情報が抜かれる。
  国益を軽く考える者も多い・・
  パソコンデーターは、簡単に持ち出せる機器も発達し
 ている・・
  技術者に国益を守るという意識を付ける事も大切。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その3)
・中国が、スリランカの港を、99年間の租借(そしゃく、
 外国の領土の中のある地域を借りて、一定の期間、統治
 すること)とした・・
  スリランカが、中国から借りた金を返済できないから
 取り上げるのだ・・というのが中国の理屈・・
・中国が、すでに、ジプチ(中東の紅海の入口の国)に拠
 点を作ってしまっている。
  もう中国の軍艦が存在している。
  中国軍艦が、すでに、スエズ運河あたりまで哨戒(し
 ょうかい、敵襲に対して見張りをして警戒すること)行
 動をしている・・
  中東の要(かなめ)、中東の門番のように抑えている。
・イランの石油を、アメリカとイランの関係が、どの様な
 状況になっても、中国は買う、金を支払うという事に、
 中国はしている。
  故に、今、潤沢な金がイランに入っていて、イランの
 軍拡が行われ、戦費調達がなされている・・中国の金が、
 この様な動きをしている・・
  故に、イエメンの反政府組織に、武器を与えているイ
 ランの行動も支援していることになっている・・
  中国が、この様に中東への橋頭保を築いて、中東情勢
 に、中国が、深くからんで行くという世界情勢となって
 来ている・・
  これは、アメリカの軍事力をアジアから中東へ向けよ
 うとする中国の策略である・・
  (中国寄りのNHKは、こんなことは、まったく放送
 しない)
・これに、トルコ問題も絡んで来ている。
  今、トルコが、急足に中国べったりになって来ている。
  「敵の敵は味方」の考え方になっている。
・イランと日本は関係が良い。
  イランと関係が良い西側国は日本だけ。
・イスラエルが核を持っている状況で、中東に、新たに核
 を持つ国ができると大変・・
・また、ロシアと中国がくっつくと大変。
・中国は、習近平になって初めて韓国へ行った・・「南か
 ら盗るぞ」の意思表示となっている・・
・北朝鮮をめぐる対立が本格的に成りつつある・・
  ロシアは、北朝鮮の金正恩を呼ぼうとした・・中国は、
 行かせまいと阻止した・・
・今、日本海に1000隻を超える中国漁船が居る・・この後
 に中国の艦艇が入って来る・・もう日本の海上保安庁で
 は対応できない状況となる・・
・日中両国が、通貨スワップの再開の検討に入るのはおか
 しい・・
  3兆円規模で始める・・
  (参考)スワップ取引:金融において、あらかじめ決
     められた条件に基づいて、将来の一定期間にわ
     たり、キャッシュフローを交換する取引。
  今、価値のない人民元の状況・・中国が刷れば使える
 というだけの通貨・・
  それを、万一の時には、日本が、世界に対して保証す
 る形になるのは「おかしい」・・
  日本の同盟国のアメリカの米ドルの足を引っ張る形に
 もなる・・
  中国の知的財産権の侵害もアメリカは何とかしようと
 している。
  そして、新たにアメリカは、人権問題(チベットやウ
 イグルや内モンゴル)も何とかしようとしている・・そ
 の足を引っ張る形になっている日本・・
  中国のこれらの根本的問題を何とかしようとしている
 アメリカの足を引っ張る日本となっている・・
  外貨準備などで、中国が打撃を受けているところを、
 日本が助けるという形になっている・・中国の日本への
 工作の影響・・日本の省庁への働きかけ・工作が功を奏
 している・・
・トヨタと日産が、中国の工場規模を30%を増やす事にし
 ている・・
  資金持ち出しを禁止している中国・・儲けた金を持ち
 出すことが出来ないことにしている中国もおかしいが・・
  その様な資金を、日本に持って来れないので、仕方な
 く中国にその資金を投下する事にしている。
  トヨタの大もとが増やせば、その系列・すそ野の広い
 系列の会社などの会社も増やさざるを得ないことになっ
 ている・・
  日本の経団連の親中国の動きも問題・・習近平系列の
 会社べったりになったりしている・・
  日本の優秀な軍事転用可能技術の流出が心配・・これ
 らが盗られる様になったら終りだ・・
・軍事転用できる技術が取られるようなリスクが高まって
 いる・・
  「メイド・イン・チャイナ2025」を実現しようとして
 いる中国・・
  (参考)メイド・イン・チャイナ2025:「製造強国」
     を目指すべく、中国政府(国務院)は、2015年
     5月19日に、今後10年における製造業の発展のロ
     ードマップを示した「メイド・イン・チャイナ
     2025」(中国語は「中国製造2025」)計画を発
     表した。
      その中には、製造業のイノベーション能力の
     向上や情報化と工業化の高度な融合の推進をは
     じめとする九つの戦略任務と、次世代情報技術、
     高度なデジタル制御の工作機械とロボット、航
     空・宇宙設備などからなる十の重点分野が盛り
     込まれている。
  (参考)西側諸国の懸念:メイド・イン・チャイナ2025
     などの中国の動きへの懸念・・
      米紙・ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)
     6日付によると、米通商代表部などの政府高官は、
     中国当局主導の振興策は公正な競争を損なうと
     批判。
      米政府関係者は、中国当局は国内企業に補助
     金を給付するほか、外国企業に対して技術移転
     を強いる可能性が高いとの認識を示した。
      トランプ政権は、2017年から、中国による知
     的財産侵害の疑いで調査を行っている。
      調査結果によっては、米政府が今後、関税引
     き上げや輸入制限を含む対中制裁を強化すると
     みられる。
      米シンクタンク、戦略国際問題研究所のスコ
     ット・ケネディ副所長はWSJに対して、「ハイテ
     ク強国との目標を達するために、中国当局は歳
     入拡大や市場アクセス制限、技術を移転するよ
     う企業に圧力をかけている」と指摘し、「米は
     中国の行動に注視している」と述べた。
      在中国の欧州連合(EU)商工会議所が2017
     年、「中国製造2025」について、「極めて問題」
     があり、海外企業の差別につながりかねないと
     の報告書をまとめた。
      「海外企業の間では、中国市場に参入する条
     件として、技術の譲渡を迫られるのではないか
     との懸念が浮上している」と指摘した。
・この様な西側諸国の動きであるのに、日本だけが、中国
 トラップ・工作に「はまっている」・・
・近々の情報でも・・日本の優秀な技術である「急速充電
 技術」を、中国は盗もうとしている。
  日本と中国は、提携することを決めた。
  日本は、中国のシェアが90%だという所に目がくらん
 でいる。
  中国のパイの大きさに目がくらんでいる。
  レーザー兵器にも転用できるこの技術を盗もうとして
 いる。
  アメリカも、真から、喉から手が出るほど、この日本
 の技術を欲しがっている。
  日中の話の節電は名目で、節電ではなく、本当は、レ
 ーザー兵器・レールガン兵器の技術開発に持って行かれ
 る。
・中国は、海外企業に対して、役員に中国人民(共産党員)
 を入れなければならないとしている・・
  この様な話は、中国寄りのNHKは、ニュースにもし
 ない・・
  NHKは、「NHKは、中国に信頼されている」と変
 な自画自賛まで放送している・・
・韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領も軍事技術を共
 に持とうなどととんでもない話を中国にしている・・
  「非核化のためだ」と、脈絡の付かないことを理由に
 している・・
・アメリカは、中国企業のファーウェイを追い出すことに
 している。
  「中国のファーウェイは使わない」という通達が出た・・
  (参考)ファーウェイ:華為技術有限公司、中華人民
     共和国の通信機器メーカー、
      現在ファーウェイは、300近い通信事業者に製
     品・ソリューションを提供しており、世界トッ
     プ50事業者のうち45社がファーウェイの製品・
     ソリューションを使用している。
      2008年に国際特許出願件数世界1位になる。
      戦略的にあえて非上場を貫いている。
      超巨額な利益を上げており、また、超巨額な
     研究開発投資をしていて、研究者も厖大。
 (参考)ファーウェイへの疑念:CNBC(アメリカの
    ニュース専門放送局)の報道によると・・、
     FBI長官が、「ファーウェイが、アメリカの
    情報通信ネットワークの中で力を得ていることに
    懸念」「ファーウェイの端末は、情報を盗む機能
    を持っている」と述べた。
     以前、ファーウェイの端末に、「ユーザーの
    個人情報を勝手に収集し、許可なく中国のサーバ
    に送信する機能」が搭載されていたことが明らか
    になっている。
     アメリカ政府は現在、政府職員がファーウェイ
    /ZTE製スマホの使用を禁ずる法案も検討してい
    る。
     ZTE(中興通訊、中国メーカー)も同じよう
    な事をしていると指摘されている。
  (参考)2018年2月16日、ハフポスト(HuffPost、アメ
    リカのオンラインメディア)
     中国企業のファーウェイとZTEのスマートフ
    ォンを使わないように、アメリカの情報機関の高
    官が国民に呼びかけた。
     CNBCによると2月13日の上院情報委員会で、
    中央情報局(CIA)や、連邦捜査局(FBI)、
    国家安全保障局(NSA)などの高官6人が出席。
     アメリカの消費者は、この2社の製品を使うべき
    でないという考えを示した。
     ZDnet(法人向けのITニュースを配信するサイ
    ト、CBSインタラクティブ社が運営するニュース・
    サイト)によると、この席でFBIのクリストファ
    ー・レイ長官は以下のように話したという。
     「価値観の違う外国政府に借りがある企業・組
    織が、国内の通信ネットワークで影響力を持つリ
    スクを深く懸念している」
     「私たちの通信インフラに、プレッシャーをか
    けたり、影響を及ぼす能力を与えてしまう」
     「悪意を持って、情報を改ざんしたり、盗んだ
    りできる。スパイ行為だってできるだろう」
     ロイターによると、共和党のトム・コットン上
    院議員とマルコ・ルビオ上院議員は7日に、ファー
    ウェイとZTEの通信機器について、アメリカ政
    府の購入やリースを禁じる法案を提出した。
     アメリカ当局者へのスパイ行為に対する懸念を
    理由としている。
・この様な動きの中で、日本は、中国に甘い。
  技術や情報を盗むシステムがはめ込まれているという
  見方となっている・・
・ホイールにエンジンを組み込む「ホイールエンジン」の
 技術が・・盗まれるリスクがある。
  軍事技術に非常に大切な技術。
  熱感知しにくいシステム・・見つかりにくいシステム・・
 この技術を持っている日本が、世に役立つならと甘い考
 えに居る・・自分が開発したから、「どうするのも自分
 の自由」なんて、お人好しに考えている日本の技術者。
  空気清浄化システムが、「潜水艦に転用できる」なん
 て考えてもいない・・
  戦闘機のエンジンを冷やすシステムに転用できる冷却
 設備の技術も・・こんな事を考えていない日本・・
  この点、日産が偉かったのは、ミサイル技術を持った
 ところは分離して、他企業に売却してから、ルノーと提
 携した・・
  日本の経済界は、この様な危機管理意識が欠如してい
 る・・
・日本の一番進んでいる技術・・電気自動車の次に来る水
 素エンジン技術も、中国が盗もうとしている。
  石油メカニズムのシステム系から脱却できる大切な将
 来技術・・
  トヨタが、その工場を見せたりしている。
  新幹線技術が盗まれたことを忘れている。
・水素を簡単に作れる日本の技術を持った会社がすぐに中
 国に買収された。
  経済的問題でつまづいているだけの企業が盗まれる・・
 技術は優秀で、その技術の行き詰まりではなく、会社経
 営問題だけで中国に盗まれた・・優秀な技術者が盗まれ
 る・・
・この様な政府の指導が甘い。
・ドイツが中国とべったりをして来た・・一帯一路の東の
 要衝(ようしょう、交通・軍事・通商の上で、大切な地
 点)にはドイツがあるという考えにあった・・このドイ
 ツが、少しづつ変わって来ている。
  中国べったりのフォルクスワーゲンも叩かれている。
  世界から圧力を受けたドイツも・・中国の本質が分か
 って来ている・・一帯一路のおかしさが分かって来てい
 る・・
・「モンテネグロの大借金もおかしい」とEUは分かって
 来ている・・小さな国のモンテネグロが、中国の大借金
 を返済できるのか??・・と・・(ギリシャの二の舞?)
  同じような話があちこちに・・ブルガリア、ルーマニ
 ア、ハンガリーなど・・中国は手広くやっているが・・
  アフリカでも中国はやっている・・
・メルケルは、東ドイツ出身なので、共産圏諸国に甘い・・
 その様な考え方が、体に染み込んでいる人・・
  警戒心が無いから、ドイツは、1週間で何十社もどん
 どん中国に買収されたという調子・・
  やっとストップがかかる様にはなって来た・・
  イギリスは、その様にはならないという法律を作った・・
  アメリカも法関係を整備し始めた・・
・中国が狙っている一つが「ロボット兵士」・・
  殺人兵器が量産される中国・・国連はそれを止めよう
 としているが・・その様な中で・・ロボット戦争に邁進
 している・・日本には、それにつながるロボット技術を
 持っていないと世界は知った。
・中国のロボット兵士に入力される行動システムは、「怪
 しければすべて撃て」と教える・・怪しいという判断だ
 けで行動を起こす・・怪しいのはすべて撃ち殺せになる・・
  西側諸国のシステム入力は、その様には出来ない・・
  ロボット兵士が前に出て、人間の兵士はバックに下が
 る形の戦いになる・・その時、中国のワンサイドの戦い
 になる・・
  鳥に似せたドローンのロボット兵士が、実際に、実験
 飛行している・・
  (自衛隊は、そんなことはできないことになっている・・)
  (自衛隊は、先に撃ち殺されてしまう・・)
・ロボットの市街戦・・一般住民が殺される・・
・中国の論文には・・中国は人口が多いので2億人~3億人
 が死んでも大丈夫なんて平気で書かれている。
・中国は、人口を半分減らそうとしている・・老人を減ら
 し、精神病患者を減らし・・しかし、来年、3人の子供を
 産んでもよいとしている・・中国は病院が少ない・・汚
 染も酷い・・河川汚染、土壌汚染、空気の汚染、海の汚
 染・・など
  16年経つと、この人たちが、中国軍の兵士となる・・
 中国は、兵士となって戦って死んでも、遺族は金を貰え
 ない・・
・台湾に対して中国がやっている恐喝に日本は敏感になる
 べき・・
・アメリカと日本は、これ以上、中国軍が強くなる前に台
 湾を国として承認すべき・・世界は、ドミノ現象的にこ
 れにならう・・
  台湾の蔡英文(さいえいぶん)総統が、アメリカに立
 ち寄った・・中国は「出来ない」としていた・・蔡英文
 氏は、「台湾は、中国に屈しません」と明言している・・
・トランプ大統領は、キッシンジャーと会って、『一つの
 中国の原則にこだわらない』と明言した・・
  韓国の在韓米軍が台湾へ移ると良い・・
.
【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)610E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年9月~1894年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年9月16日、平壌の戦い
  日清戦争における最初の本格的な陸戦(9月15日説あり)
  混成第9旅団長・大島義昌少将は、入韓直後から清国の
 大軍が平壌に集中するとの情報を得ていた。
  騎兵斥候を平壌に派遣し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍が、義州を経由し平壌に進軍
 して来た。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力
 な清国軍と遭遇した・・指揮官の町口中尉・竹内少尉な
 どの幹部が戦死する。
  1894年8月19日、第5師団の長野津道貫は、ソウルに到
 着した。
  この頃、韓廷の首班の大院君は、清国兵が次々と南下
 して来る報に接して怯え、動揺していた。
  清国の李鴻章は、7月上旬から順次、軍事力を動員し、
 諸部隊の体制完成を目ざし、その諸部隊には平壌に集結
 することを命令していた。
  1894年9月13日、李鴻章から指揮を任された葉志超は、
 諸処から来る日本軍をみて、その包囲を避けるため撤退
 を決断した・・それを各将にはかった・・しかし、奉天
 軍総兵の左宝貴は、それを聞いて憤然とした・・そして、
 自己の親兵をもって葉志超を監禁してしまった。
  清国軍に司令官が存在しない状態となった・・、
  清国軍の各将は、指揮命令が無く、自分の判断で戦う
 ことになった。
  第5師団の長野津道貫は、軍の包囲の完成をみて、9月
 15日に総攻撃と決定した。
  1894年9月15日、午前6時ごろ、攻撃は激烈となった。
  6時20分頃、歩兵第21連隊の突撃が行われた・・
  この攻撃は失敗する・・しかし、7時までに、敵を牡丹
 台方面へ敗走させた。
  この様な状況で始められた戦いだが・・14時半、朔寧
 支隊に、現在地に止まって夜営準備が命令された。
  16時半ごろ、前面城壁と乙密台の清国軍は射撃を停止
 し、白旗を翻した。
  17時頃、軍使をおくる準備をしていた頃、突然雷雨と
 なった。
  清国軍は、雷雨を口実として、開門は翌朝と要望した。
  しかし、 21時、雨がようやく収ったころ、多数の清国
 兵は甑山の方向へと逃走し始めた。
  1894年9月16日の翌日、1時10分、歩兵第12連隊は、暗
 門から城内に突入した・・
  場内は、道に迷うわずかな清国兵のみで、もぬけの殻
 だった・・平壌の陥落。
  日本軍の戦死者は180人、負傷者は506人・・
  清国軍の戦死者は2000人以上といわれる。
  清国軍の指揮官は、戦死した左宝貴以外はいずれも脱
 出に成功した。
  指揮官:日本:野津道貫、桂太郎・・
      清国:葉志超、左宝貴
  戦力:日本:約10000人
     清国:約13000~15000人
  損害:日本:死者180人、負傷者506人
     清国:死者2000人、負傷者約4000人
.
1894年9月17日、黄海海戦
  この日、日本海軍が、黄海大孤山港沖で清国艦隊と遭
 遇し交戦となる・・
  日本は勝利し、黄海の制海権を握った。
  日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊主力との交戦だった。
  これまで、清国は、海軍力を日本に見せつけ、日本を
 威圧して来た・・
  その威圧行動で長崎港に来た北洋艦隊の清国兵士が、
 日本を馬鹿にして暴れる事件を起こしたりなどもしてい
 た。
  日本は、凶作などもあり予算措置ができず、これまで
 海軍増強もままならなかった・・が、経済回復とともに、
 目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)は、
 清国と日本の所有する軍艦は共に3隻であったが・・、
  清国は大型艦を持ち、日本の艦艇は貧弱そのものだっ
 た。
  そしてまた、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力優位となった。
  (2018年現在の中国と日本との軍事力の差の様に・・)
  日本も、中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)か
 ら、艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清の増強の
 方が目覚ましく、清国に追い着くことは、しばらく出来
 なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くことができた。
  この様な・・まだ劣勢の日本の状況の中で・・、
  1894年9月17日に、黄海海戦を、日清両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦した。
  また、平城近くでも戦った。
  日本は、九州や沖縄から出撃した。
  この黄海海戦は、『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われ
 た世界史上初の大規模な海戦』だった。
  日本は勝利をおさめ・・清国海軍は、大幅に戦力を低
 下させ、黄海と渤海の制海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所:黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煙を確認。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取り急接近する。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻・・第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・
  速射砲で猛烈な砲火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く・・、
  30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災を発生。
  この様な戦いが延々と続く・・、
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊は集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・
  2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
  他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追
 撃態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結する信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始・・、
  命中度が高く、艦首から沈没。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を始める。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗・・、
  大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁・・放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進させたが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、『威海衛の戦い』をする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈・・、
  4隻は鹵獲(ろかく、戦いで得る・ぶんどる)し、日本
 海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は消滅。
.
1894年9月、絵草紙屋の店先に戦争の画が並ぶ。
  玩具屋には、サーベル・兵隊帽・ラッパなどが並べられ
 た。
.
1894年9月、絵草紙も、新聞紙や書籍同様に検閲を受けるこ
 とになった。
  8月17日付けの都新聞に、絵双紙に夢中になってる人が
 多く、スリが横行していると記している。
  歌人の斎藤茂吉も、日清戦争の錦絵を見たと書いてい
 るが、庶民がそれだけ熱中するほど、戦争報道は盛り上
 がっていた。
  因みに、10年後の日露戦争は写真報道に沸く。
.
1894年10月1日、東京商品取引所が開業。
  蛎殻町で誕生したが、営業不振に陥り、1908年に、東
 京米穀取引所に吸収合併される。
  砂糖・塩・綿糸・綿花・木綿・油・肥料・金属・雑穀
 の9品を取り扱った。
  そして、第2次東京商品取引所が、1951年2月に設立さ
 れた(旧・東京繊維取引所の設立日、東京工業品取引所
 としての設立は1984年11月1日)
  この時、東京ゴム取引所、東京金取引所が統合された。
.
1894年10月1日、日本鉄道の八戸線八戸駅~湊駅間の開通に
 より尻内駅~湊駅間が全通した。
  日本鉄道によって、1891年に開業した本線(後の東北
 本線)は、駅が海沿いの八戸市街から離れた尻内に設置
 された。
  このことから、1894年に、尻内駅(現・八戸駅)から
 分岐して八ノ戸(現・本八戸駅)を結ぶ支線を敷設した
 のが始まりで・・、
  1894年の同年中に、八ノ戸から湊へ延伸された。
  この状態で、日本鉄道は、1906年に公布された鉄道国
 有法により1907年11月1日に買収されて官設鉄道に編入さ
 れた。
  この後、1909年に八ノ戸線と命名され、1924年に八戸
 線と改称された。
.
1894年10月3日、西園寺公望が、第2次伊藤内閣の文部大臣
 となる・・これが初入閣で、外務大臣を兼任した。
  病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣だった。
  西園寺公望は、行き過ぎた日本中心主義を否定し、女
 子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開
 明進歩させる教育を唱えた。
  また、翌年の1895年には、親友の陸奥宗光外相が病気
 のため、外務大臣臨時代理をつとめた。
  1896年5月に、陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式
 な外相となり、文部大臣と兼任したが・・
  1896年8月に、伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日
 間大臣を務めた後、両大臣を辞任した
  1896年11月には、法典調査会副総裁も辞任し、フラン
 スへと旅立った。
  西園寺は、フランスで教育制度や軍の内閣による統制
 などを研究するつもりだった
  西園寺公望は日本の公家、政治家、教育者。
  位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。
.
1894年10月3日、大本営が、第2軍を編成した(9月25日説
 あり)
  司令官は大山巌大将。
  参謀長:井上光大佐
  砲兵部長:黒瀬義門砲兵大佐
  工兵部長:勝田四方蔵工兵大佐
.
  (今日の言葉)
.
  題:まず、「賄賂トラップ」と「ハニートラップ」にかけ・・
   その後、「債務トラップ」にかけて、
   国を借金まみれに陥(おとしい)れ、政治をコントロールし、
   港湾など戦略的軍事拠点を奪取する・・
.
905年、古今和歌集が完成し、天皇陛下に奏上された。
  古今和歌集は、平安時代前期の最初の勅撰和歌集(天
 皇陛下や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集)で、
 後醍醐天皇の命により、紀友則 (きのとものり) 、紀貫
 之 (つらゆき) 、凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね) 、
 壬生忠岑 (みぶのただみね) が撰集にあたった。
  大和歌は、人の心を種として、萬(よろず)の言の葉
 とぞなれりける。
  世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思
 うことを、見るもの、聞くものにつけて、言い出せるな
 り。
  花に鳴く鶯(うぐいす)、水に住む蛙(かわず)の声
 を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌を詠(よ)
 まざりける。
  力をも入れずして、雨土(あめつち)を動かし、目に
 見えぬ鬼神をも、哀(あわ)れと思わせ、男(おとこ)
 女の中をも和(やわ)らげ、猛(たけ)き武士(ものの
 ふ)の心をも、慰(なぐさ)むるは歌なり。
             (「古今和歌集」仮名序)
  「古事記」「日本書紀」は漢字(真仮名)で書かれて
 いた。
  「土佐日記」「古今和歌集」から仮名文学が始まった。
  因みに、古今和歌集は、905年に勅命を受けて、913年
 ~914年頃に完成したという説。
.
1870年(明治3年)、兵部大輔の前原一誠は、太政官への建
 白で、阿片戦争におけるイギリスやアロー号事件におけ
 る英仏連合軍による北京占領を指摘して、その危険性を
 警告した。
  1887年、また、井上馨は、条約改正問題の意見書で、
 欧州各国は、「其力を殖民拓地の政略に専ら」用い・・、
 アジアやアフリカは「逐鹿(ちくろく、利権を得る競争)
 の場」になると見た。
  以上のように、世界の弱小国を好きに従属させている
 欧米列強の行動は、さながら、日本もその脅威の中で生
 きているという日本の指導者層の脅威・恐怖の認識で、
 その中で、最も恐るべき脅威と考えられたのは北方のロ
 シアだった。
  1887年のこの年、外務権大丞・柳原前光は、ロシアは
 「満州東北を蚕食し、其勢往々朝鮮を呑」む勢いであり、
 元来「虎狼の国柄」、ヨーロッパの動乱の隙を窺(うか
 が)い、いずれ矛先をアジアに向けると認識していた。
  1873年、大久保利通は、この年の「征韓論に関する意
 見書」で、日本にとって最も恐るべき国はイギリスとロ
 シアであるとした。
  大久保がイギリスを恐れたのは、日本が外債をイギリ
 スに大きく頼っていたことにもあった。
.
1934年、中国の共産党軍が、中国奥地に隠れる。
  この年から1936年まで、毛沢東の率いる共産党の中国
 軍は、1万2000キロメートルも中国の奥地・延安へと逃げ、
 そして、隠れた。
  共産党中国軍は激減し、消滅の憂き目にあった。
  そしてまた、中国・国民党軍と日本とを戦わせて消耗
 することを中国奥地で願っていた・・、
  それを・・美しく「長征」と言っている。
  この様な共産主義国の中国が、国民党軍と日本との戦
 いで『南京事件が起きた』とした・・起きてもいない南
 京事件を、「起きた」とデッチ上げた・・そして、世界
 にプロパガンダ(嘘宣伝)して日本を貶(おとし)めた。
  また、同様に、起きてもいない慰安婦問題を起きた様
 に仕組んで、韓国を陰で操(あやつ)り、さも韓国が行
 動している様に見せかけ、慰安婦像を立てさせたりして、
 世界へ嘘のプロパガンダをしている。
  その様な陰湿な共産中国のプロパガンダ(嘘宣伝)行
 動が判明して来ている・・共産中国の工作員が世界中で
 うごめいている。
  こんなことを、共産党中国は、昔からやって来た。
  世界は、昔から騙されて来ていた。
  延安に隠れた毛沢東が、そして、この地での事が美し
 く語られた・・が・・これが、まったくの嘘。
  「八路軍は、糸一本、針一本、住民から略奪しない」
 とか、
  「共産中国には、ハエが一匹も居ない」とか・・
  清潔の極みなのだとか、まったくあり得ない嘘八百を、
 世界に発信し続けた。
  「住民は、皆、民主主義を信じている」とか、
  「共産党は独裁を避けている」とか・・「多党化しよ
 うと議席の3分の1しか取らない」とかと・・
  今の共産党の中国政権だって嘘八百だ・・「集団指導
 体制だ」と言っているが? 『一握りの者たちの独裁』
 ではないか・・、
  延安の毛沢東のやることは「素晴らしいモラルの世界
 だ」とか・・と・・、
  フリーダ・アトリーという女性のイギリス人ジャーナ
 リストは、ロシア人の共産党員と結婚した。
  そのこともあって、共産党に染まり、コミンテルンの
 メンバーになった。
  そして、スターリンの大粛清を見る、また、体感する。
  夫が捕まり、強制収容所へ送られてしまう。
  止む無くイギリスへ帰る。
  そして、アメリカのコミンテルン工作員のラティモア
 やスメドレーと知り合う。
  そして、新聞記者として中国へ渡る。
  彼女は、この様な経緯をとって共産党の内部の細かい
 ところを知る・・、
  ロシアと中国の実態を、自ら内部に存在する者として
 体感する。
  そして、彼女は、ここに至って破綻する。
  ソ連の共産主義に「完全に幻滅した」ことを表明する。
  「共産主義は本質的に偽善である」と言う。
  「ナチズムは悪であるが、悪い事をして、それを善に
 見せかける共産主義の方が、ナチズムよりも救い難い悪
 である」と言う。
  そして、中国の共産主義から、最初、美しい中国共産
 党の国を見せられ・・「ソ連よりましだ」と思わせられ
 る・・が、結局、長期に見ていて・・その実態を、その
 実際を知って行くと・・
  「ロシアよりも、中国共産党の方が、はるかに恐ろし
 い」と書く・・、
  そして、「我々は、認識を惑わされている、中国共産
 党は魔物だ」・・と批判する。
  ソ連とともに、中国共産党国家の大規模な偽装工作の
 徹底ぶりは凄(すさ)まじかった。
  中国共産党は、延安で麻薬栽培までしていた。
  (中国寄りのNHKは、こんなことは放送しない・・
 中国の讃美放送しか放送しない・・)
  アメリカの外交官やジャーナリストが、延安に訪れ、
 視察をすると・・ケシ畑は絶対に見せないようにした。
  農民たちにも、「毛沢東様を支持します」と言わせ、
 「八路軍によって、お陰さまで地主から解放されました、
 幸せです」・・と言わせた。
  その視察団が通るコースに沿って、徹底的に工作した。
  その工作範囲が、何と! 「幅3キロ、長さ150キロ」
 と言うから、その凄まじさは想像を絶した。
  「共産党に対する自然な支持が広がっていると確信し
 た」とさえ、外交官やジャーナリストたちは思わせられ・・
 そして、その事が、間違った認識が・・世界に発信され
 た。
  こんなことは、ロシアもやっている・・
  例えば、強制収容された日本人施設の例・・
  海外からの視察が来るとなると、病人はすべて収容所
 の外に運び出し、他の場所に移され、そして、元気な人
 間だけが集められ、並ばされた。
  近所の村から果物や野菜やらをかき集めて山盛りに積
 み・・机を全部シーツで包み、清潔に見せかけた・・
  こんな例は、書けばきりがない。
.
1945年8月23日、シベリア抑留(唾棄すべき拉致行為))
  ソ連による国際法違反のシベリア抑留が始まる。
  シベリア抑留は、ソビエト連邦(ソ連)によって、第
 二次世界大戦の終戦の後に、すでに、武装解除されてい
 る日本軍兵士や、無実の開拓民などの日本人の一般人ら
 を、主に、シベリアなどへ労働力として拉致して、移送
 し、そして、隔離し、長期にわたって抑留生活を強いて、
 奴隷的強制労働により多数の死者や人的被害が生じた。
  ソ連のこの行為は、武装解除した日本兵や、何ら罪の
 ない一般の日本人らの家庭への復帰を保証したポツダム
 宣言に反する国際法違反の行為であった。
  日本は、すでに、1945年8月14日に、中立国を通して降
 伏を声明している。
  1993年10月、ロシアのエリツィン大統領は訪日した際、
 「この行為は非人間的な行為だ」として謝罪の意を表し
 た・・(補償の話は未解決)
  しかし、まだ、ロシア側には、依然、日本軍将兵は戦
 闘継続中に合法的に拘束した「捕虜だ」と、まったくあ
 り得ない話を主張し・・また、日本人の一般人に対して
 の不法行為に対しては、まったく反論できない状況とな
 っている。
  ロシアは、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者と
 は違う」と筋の通らない、そして、成立しない話を主張
 している。
  また、シベリアに連行された日本人は200万人以上で、
 死者は40万人以上であるが・・
  抑留された日本人を57万5000人とし、厳寒の環境下で
 満足な食事も与えず、休養も与えず、苛烈な労働を強要
 されて死んだ人の数を5万5000人としている。
  最近の研究成果がロシア側から明らかにされた。
  ロシア人のアルハンゲリスキーの著作にその数が記さ
 れているが・・抑留者200万人以上、死者数40万人以上と。
  KGB(ソ連国家保安委員会)は、60万人の抑留で、
 約6万人の死者数としている。
  このソ連の不法行為は、連合国のポツダム会談に於い
 て、アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされたス
 ターリンが、「日本領土への侵攻・侵略を実施した」こ
 とによって発生した。
  ソ連は、シベリア開拓の労働力を「喉から手が出るほ
 ど欲しかった」。
  1945年8月16日、スターリンは、日本人を捕虜として用
 いないという命令を内務人民委員のラヴレンチー・ベリ
 ヤに下していたが・・、
  1945年8月23日、これを翻した。
  「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づいて、日本軍
 をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命
 令を下した・・しかし、一般の日本人までをもシベリア
 へ拉致した。
  ソ連は、 満州国境にも174万人ものソ連極東軍を終結
 させ、不法な侵略を開始した。
  この一帯で地獄図が描き出された・・日本の満蒙開拓
 団の人々は、ソ連軍戦車の機関銃にに銃撃され、また、
 戦車に轢(ひ)き殺された・・
  この様な混乱状態の中で、中国も、日本人に対して卑
 劣な行為を行なった・・
  中国国内や満州国内で、終戦の後なのに殺したり、捕
 まえて収容所に入れ、飢餓状態にして命を奪った。
  また、病気になっても放置され、命を失った。
  この様な日本人は、日本兵の軍人に限らず、民間人も
 被害を受けた。
  中国は、この事について口をつぐんで謝罪の意思さえ
 見せない。
  特に、満蒙開拓団の状況が酷く、このことが明らかに
 されない事情の中に、中国側だけの問題だけではなく、
 日本側の官僚が、「外交をうまくやるためには、この様
 な事は言わない方が良い」という表現のしようのない怒
 りしか湧かない「売国奴的態度を取っている」ところに
 ある。
  中国の息のかかった工作員としか思えない輩である。
.
1950年代、マッカーシズム
  1950年代に、アメリカ合衆国で発生した反共産主義に
 基づく社会運動、政治的運動。
  アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッ
 カーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者であ
 る」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マ
 スメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。
  アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベル
 トの側近から官僚、そして、その他の広い範囲に共産圏
 の工作員がうようよといた・・工作員だらけだった。
 その為、日本との戦争にまで至ってしまった。
  その様な反動もあって、1950年代に、アメリカはマッ
 カーシズムが起きた。
  今・現在の日本も、中国の工作員がうようよと居て、
 スパイ天国となっている。
  このアメリカのマッカーシー旋風は、アメリカの情報
 機関が、ソ連の暗号を解読していることを惑(まど)わ
 し、隠すためにも行った。
  ソ連のスパイの情報をリークして議会で追及している
 という形にした。
  ホワイトや、カリーや、アルジャー・ヒスは、アメリ
 カでの最も高位についたソ連のスパイだった。
  これは、「ヴェノナ文書」にも記されている。
.
2017年12月6日、ウイグルを弾圧し続ける中国
  この日のウイグル放送の記事によれば・・、
  新疆ウイグル地区の中国公安当局は、微信(WeChat)
 などのソーシャルメディアで、国外留学中のウイグル人
 学生に連絡を取り、「帰国しなければ母親を強制収容所
 に送る」などと脅迫している。
  以下は、トルコ在住のウイグル人留学生に対する、公
 安当局の脅しの一部・・、
  「私は収容所の者だ。母親が大切ならこのアカウント
 を追加せよ」
  「トルコで暮らし、留学しているウイグル人の家族や
 親戚を収容所に収監し、強制的に『再教育』するように
 との上層機関からの命令がある」
  「おまえがトルコ留学中だから、母親がおまえの代わ
 りに『再教育』をされる」
  「トルコ国内にいる全てのウイグル人家族が、代償を
 支払うことになる」
  これだけのウイグル人の人々が拘束されていたら、当
 然ながら産業や経済は崩壊して行く。
  2017年10月18日の放送の記事では、南新疆ホタン市で
 大勢の商人が収容所送りとなったため、市内最大のバザ
 ールで店の3割が閉鎖され、顧客も半分程度に落ち込んで
 いる。
  同じく南新疆カシュガルのベシケリム村では、2000万
 平方メートルのブドウ畑のブドウが腐り始め、村民の暮
 らしを直撃している。
  取引をするウイグル人商人のほとんどが収容所送りと
 なり、買い手がなくて市場に出回らなくなった。
  一方、「商売敵(しょうばいがたき)がいなくなって、
 取引がうまくいっている」と喜ぶ漢人商人のインタビュ
 ーも紹介されている。
.
2018年7月12日、インターシップ制度を利用してスパイ活動
 をする中国
  オーストラリア上院は、2018年7月12日、議員インター
 ンシッププログラムが、今後、外国人留学生を募集対象
 から外すと発表した。
  この決定は、豪政府が中国のスパイ活動を防ぐ一環だ
 とみられる。
  同国議会では、これまで、議員は外国人留学生をイン
 ターン生として採用することができた。
  インターンシップ期間は3カ月と定められていた。
  期間中、留学生らは議会の「機密文書の閲覧も可能」。
  議会は、機密情報漏えいの対策として、インターン生
 に機密文書についてメモを取らないよう要求することに
 とどまっていた。
  上院のスコット・ライアン報道官は12日、「今後議会
 がインターン生を募集する際、豪国籍の国民のみに限定
 する」と述べた。
  昨年・2017年12月、ターンブル豪首相は、中国共産党
 政権に近い中国人富豪らが政治献金を通じて、同国の政
 策策定に強い影響力を行使したと批判した。
  また、中国の影響力の排除に向けて、「オーストラリ
 ア人民は立ち上がった」と中国語で発言した。
  英紙フィナンシャルタイムズは、昨年・2017年9月、ニ
 ュージーランド国籍中国系議員の楊健氏が、1994年、オ
 ーストラリア留学中に、同国上院の外務委員会でインタ
 ーンシップを経験した、と報道した。
  楊氏は、留学の前、中国軍のスパイ養成学校で英語教
 師として勤めていた。
  オーストラリアでは、昨年・2017年以降、中国当局の
 内政干渉やスパイ活動に対する警戒が強まった。
  豪連邦議会は、2018年6月末、外国政府からの内政干渉
 やスパイ活動を阻止するための法案を可決した。
  法案では、外国政府や企業の代理人が議会でロビー活
 動を行う際、事前登録を義務付けた。
  また、代理人らが活動内容を隠ぺいし、秘密工作やス
 パイ行為の事実があった場合、10年以上の懲役刑を下す
 とした。
.
2018年、諜報の国・ロシア
  ロシアには、以下のようなモンゴルとの関わりがある。
  ロシアには、モンゴルに約200年間にわたり占領され、
 支配された経緯がある。
  そして、そのモンゴルは、世界の諜報・謀略機関の元
 祖と言われるほど凄(すさ)まじかった。
  ロシアは、このモンゴルに占領を受けている間、現在
 の諜報大国の素地を受け継いだ。
  そして、拷問や粛正のモンゴル帝国当時の手法にまで
 染まってしまった。
  中国も朝鮮も、100年間、このロシアと同様に、このモ
 ンゴルの元に支配された。
  日本は、この元を撃退した。
  また、中国は、ユーラシア大陸での地続きという状況
 から、種々の民族が侵入し帝国を築いた。
  その中国の歴史の2000年間は、その種々の民族の錯綜
 する時代だったと言える・・それは、諜報と謀略の世だ
 った。
  その様なことは、「孫子」にも明らかで、裏をかき、
 また、その裏をかくという騙しの世界だった。
  (参考)裏をかく:相手が予想したのとは反対のこと
     をして相手を出し抜く。
  今・現在、中国が、金と人を膨大につぎ込み、プロパ
 ガンダ(嘘宣伝)に精を出し、世界を惑わしているのは、
 今・現在、始まった事ではない。
  情報をきちんと評価して、政策に反映させるシステム
 を構築することは重要な事であるが・・、
  中国の様に、それを悪用し、他を惑わし、それに長(
 た)けているのが優秀だと、他国を節操なく貶(おとし)
 めていることが・・、
  今・2018年、中国に逆風となって、中国批判の世界の
 状況となっていて、中国へ吹き付ける批判の嵐となって
 いる。
  (参考)モンゴルとロシアの関係・・
  1223年、モンゴルのルーシ侵略(カルカ河畔の戦い)
  モンゴルのロシア侵略は、カルカ河畔の戦いで始まり、
 この年のこの戦いは、ジェベ、スブタイ両将軍率いるモ
 ンゴル軍と、ポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で行われ
 た戦い。
  連合軍は、数で上回っていたにもかかわらずモンゴル
 軍に惨敗した。
  モンゴルのロシア征服は、1236年~1242年のバトゥの
 西征で本格化した。
  (ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争)
  (参考)ルーシ:中世時代におけるキエフ大公国の正
     式な国号で、キエフ・ルーシとも言われ・・
      キエフ大公国のもとで誕生したキエフ大公国・
     チェルニーヒウ公国・ペレヤースラウ公国を中
     心とするリューリク朝の三国。
      広義では・・ハールィチ・ヴォルィーニ大公
     国、ヴラジーミル大公国、ノヴゴロド共和国な
     どの東欧の諸国を含む場合がある。
      ルーシ・カガン国は、8世紀後半から9世紀の
     半ばにかけて、現在のロシア北西部にあったと
     される国家、または、都市国家群(仮説)。
      また、ロシア帝国・ロシア連邦の通称。
  1220年代のはじめに、ルーシの公たちは、まず、キプ
 チャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちから、モンゴ
 ルの到来を知らされた・・ここからモンゴルの征服が始
 まる。
  1237年になって、モンゴル軍は、15万の大軍を編成し、
 ロシア中心部に侵入し、リャザン、モスクワ、ウラジー
 ミルを次々と陥落させた。
.
  13世紀前半、タタールのくびき
  (参考)くびき:車を引く牛馬の頸(くび)の後ろに
     かける横木のことであるが・・自由を束縛する
     もの・・の意味がある。
  13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻と、それ
 につづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルー
 シ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を言
 い・・、
  現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル
 =タタールへの臣従(しんじゅう、臣下として従うこと)
 をいう。
.
  1240年、キエフの戦い
  ルーシの首都キエフの支配をめぐって、ルーシとモン
 ゴル帝国の間に行われた戦い。
  1240年9月5日、バトゥが率いるモンゴル軍は、キエフ
 を包囲し、キエフの明け渡しを求めた。
  キエフ軍を引率するドミトロー大将とキエフの市民が
 降伏を却下して防衛に備えた。
  モンゴル軍のバトゥは、32の投石機を集めて、キエフ
 の防衛線で弱点だったポーランド門を攻撃し、市内へ乱
 入した。
  キエフの市民は攻撃を防いだが、多勢に敵わずして石
 造りの什一聖堂へ撤退し、教会を最後の砦とした。
  1240年12月6日、モンゴル軍は、投石機を取り寄せて聖
 堂を破壊させ、キエフを制覇した。
  ドミトロー大将は捕虜となったが、勇敢に戦ったため、
 バトゥによって解放された。
  モンゴル軍は、聖ソフィア聖堂をはじめキエフの教会
 と貴族の屋敷を略奪し・・、
  合戦後、5万人だったキエフの人口は2千人まで減少し
 た。
  キエフの陥落によりルーシは滅(ほろ)んだ。
  これ以降に存続したキエフ公国は、14世紀半ばにかけ
 てモンゴル帝国の属国であった。
  一方、キエフは大きく衰退し、山の手だった古キエフ
 は荒地となり、都市の中心地は下町のポジールへ移った。
,
  1453年、モスクワ大公が皇帝を意味するツアーリの称
 号を用いた。
  イヴァン3世は、東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚、
  モスクワ大公が、1453年、オスマン帝国によって滅ぼ
 された東ローマ皇帝にかわる正教会の保護者としての地
 位を自認する端緒をつくった。
  ロシア語で皇帝を意味するツアーリの称号もイヴァン
 3世のとき初めて使われた。
.
  1547年、イヴァン3世の孫、イヴァン4世(イヴァン雷
 帝)は、この年に、ツアーリの称号を正式に用い、ロシ
 アの正教会の間では、モスクワは、ローマ、コンスタン
 ティノポリスに続く第三のローマであり、ツアーリは、
 ローマ皇帝の後継者であるとする考えが生まれた。
  モスクワ大公国の支配領域が、「ルーシの国」を意味
 する「ロシア」との名称で呼ばれるようになり始めたの
 も、イヴァン4世の頃の16世紀だった。
  また、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハ
 ン・ハン国を滅ぼし、初めてキプチャク・ハン国の一部
 を併合し、シベリアに向かって東方への拡大を開始した。
.
2018年8月25日、現在の中国の実態と危険・・(その1)
・アメリカのトランプ大統領の対中政策が回転し始めた。
  トランプの対中政策によって・・世界に孤立する中国
 となっている・・習近平は四面楚歌になっている・・
  トランプ大統領の「貿易戦争」は序の口で、その次の「
 金融戦争」となって行く・・、
  アメリカの議会も、メディアも、「反中」となってい
 る・・
  アメリカの狙いは「パックスアメリカーナ」か?
  (参考)パックスアメリカーナ:超大国である米国の
     存在により世界平和が維持されていること・・
・いま、中国の社会的な難題が深化している・・
  富と貧困の格差が拡大し・・社会には怨念が鬱積(う
 っせき、不平や不満が張らされずに、次々と、心に一杯
 たまる)している・・
  困窮化する「低端階級」の悲哀は凄まじい・・、
  海外に不正資産を蓄財する幹部が「愛国者」なのか?
・「革命、革革命、革革革命、革革・・」(魯迅の言葉)
  「革命、反革命、不革命」。
  革命者は反革命者に殺される・・反革命者は革命者に
 殺される・・不革命は革命者とされて反革命者に殺され
 るか、反革命者とされて革命者に殺されるか、あるいは
 また何でもないものとされて革命者か反革命者に殺され
 る・・
・いま、中国には外交的難題が山積みしている・・
  強引すぎた中華圏拡大に軋(きし)みが出ている・・
  BRI(一帯一路)、各地での蹉跌(さてつ、事が見
 込みと食い違って、うまく進まない失敗の状態になるこ
 と)・・
  西側諸国が、インド太平洋戦略へ舵取りを始めた・・
  「一帯一路」は、末路へ?
・中国の内政問題の矛盾が・・??
  習近平の全体主義の弱点は国際非難・・
  ウイグルの民族浄化の弾圧を強化している・・
  ムスリムへの弾圧を強化している・・
  人権を無視する政策を進めている・・、
  顔認識、声紋のデジタル統制を強化している・・
  香港に独立の動き・・そして、台湾、チベット、内モ
 ンゴルの連帯の動き・・
・無理をして来た中国の経済・・その爆発が近い・・
  中国の持つ債務は3800兆円・・これは時限爆弾だ・・
  金融難民(P2P)は抑えたが??
  (参考)P2P:Peer to Peer、ピア・ツー・ピアの
     こと・・複数の端末間で通信を行う際のアーキ
     テクチャのひとつ・・対等の者同士が通信をす
     ることを特徴とする通信方式、通信モデル、あ
     るいは通信技術。
  軍、警察OBの抗議行動が燃えている・・
  不動産暴落で・・反乱がおきる・・
・習近平王朝は黄昏(たそがれ、薄暗くなった夕方。夕ぐ
 れ。比喩的に、盛りを過ぎ、勢いが衰えるころの意にも
 使う)
  知識人、学生の不気味な沈黙・・
  宣伝部の静かな抵抗・・
  スケープゴート(集団内の不平や憎悪を他にそらすた
 め、罪や責任をかぶせられ迫害される人)を捜すという
 中国社会になって来ている・・
  その日は突然やって来るのだ・・
・中国は、今はドラゴンだが・・そこから猫に陥落・・
  IMF(国際通貨基金)のSDR(特別引き出し権)
 となった・・米中の確執・・アメリカは、中国へ為替政
 策の自由化を推し進めよと厳しい姿勢で言っている・・
 中国は、これに対抗してAIIB(アジアインフラ投資
 銀行)を作った・・アメリカと日本は参加していないが、
 ヨーロッパ諸国はこぞって参加した・・しかし、その「
 高利貸し的なあくどさ」がある所が問題となっていて、
 その実態が明らかになって来ている・・
  人民元の信用度・・SDRを得て中国の通貨が「国際
 通貨」となったかというと、「そうは問屋が卸さない」・・
  結論を先に言うと「人民元は形だけの国際通貨」・・
 それは、AIIBの活動をするときに「中国の信用度が
 低い」から・・それは、中国が一党独裁の政治体制が信
 用されてないという根を持っている・・
  AIIBや、BRICSは何処に行くのか?
  国連でも孤立し始めた中国・・、
  独英仏でも、中国批判が出始めた・・
  軍事力は張子の虎ではないのか・・と言われている・・
・しかし、中国の「サイバー・奇襲」に警戒している・・
  ダン・コーツNSA(国家安全情報局)長官は、「赤
 信号の危険信号が灯った」と発言した・・
  デジタルの一撃で世界が麻痺し・・米軍の初動が致命
 的に遅れると?・・??・・
  隙に乗じて台湾や、尖閣が攻撃されるという危惧(き
 ぐ、悪い結果になりはしないかと心配し恐れること)
・マレーシアのマハティール氏が、中国へ行って「今まで
 のことはない事にしてくれ」と言った。
・パキスタンが、IMFに救済を申し入れようとしたら、
 中国が「待て」と言った。
  IMFに言われたら、中国はまずい事ばかりだから・・
 急に20億ドルをパキスタンに融資した。
  この様な・・おかしい事が起きている・・
・オバマ大統領の失敗は、「ここまで中国と北朝鮮を増長
 させたこと」・・オバマ氏に大きな責任がある。
  その是正をしているのがトランプ大統領・・
  国防権限法・・80兆円・・国防費を大幅に増強した・・
  台湾旅行法を成立させた・・これに反対がなく、全米
 の超党派で成立した・・
  アメリカと台湾の閣僚などが・・重要な政治レベルで
 の交流ができる様にした・・
  アメリカ議会も、「中国に反対し、親台湾」で一致し
 ている・・
  しかし、この逆の日米のメディアは、NHKは、この
 様な重要な動きを「完全に伝えない態度」を取っている・・
  アメリカは、ロシアと中国を仮想敵としてはっきりと
 明文化している・・
  アメリカは、中国のIT分野を潰しにかかっている・・
 既に大きなダメージを中国に与えている・・
・米中の貿易摩擦は・・結果的に、中国に、アメリカの食
 糧が入らなくなる・・
  そしてまた、結果的に、中国の国内騒動は食糧不足か
 ら起きて来るが・・中国はこのリスクが増す道を歩いて
 いる・・
  一帯一路は、やってみたがうまく行かないという状況・・
  マハティール氏のマレーシアが、下りたことは、かな
 りの中国のダメージとなっている・・
  マハティール氏の世界に公言した言い方は、マレーシ
 アの進み方を「はっきりと明示した」・・マレーシアは
 ASEAN第二の経済大国である・・
  今、台湾はかなり緊迫した状況にある・・軍事的に、
 中国に締め付けられて来ている・・
  台湾は、南シナ海について、かなりしっかりしたデー
 ターを元に行動しようとしている(アメリカの支援)・・
  ただ、中国の台湾へのかかわり方は、かなり緊迫性の
 ある行動となっている・・
  中国の台湾への軍事的圧力が極まっている・・
  国民党の動き方も、中国の指示か?大変いやらしくな
 っている・・
  擬制(ぎせい、実質は違うのに、そうみせかける)の
 国民党の中国本土への救済要請が出されるかもしれない
 という恐れの存在・・?
  イランと中国の利害関係が一致してしまう状況と危機・・
  中国は、イランの石油を一番買っている・・
  潤沢な資金を得たイランは、軍備増強をしている?・・
  イエメンでは、イランとサウジアラビアの代理戦争が
 行われている・・
  中国が、イラン側に入って油を注ぐ状況となっている・・
  中東が本格的な戦乱になる恐れが生じている・・
  これを中国は経済復興のきっかけにしようとしている
 のではないか?・・
  中国を経済的に封鎖している効果も無くなる・・
  インド洋の真珠の首飾りと言われる中国の戦争拠点も
 強化される可能性がある・・
  (NHKは、こんなことを報道しない、国民をつんぼ
 桟敷に置いている)・・
  マレーシアの行動も無になる恐れ・・マラッカ海峡は
 しっかりしているが・・日本の自衛隊も貢献している・・
  シーレーン確保は大切・・日本が生きる大切なルート・・
 ここをしっかりして行くべき・・世界の安全を守る事に
 もなる・・しっかりと日本のアイデンティティを世界に
 示すべき・・
  (参考)アイデンティティ:identity、主体性、同一
     性、らしさ、独自性、自己認識・・など・・
      英語は、「雑な言語」なので色々な意味を持
     っている・・その一例の単語・・繊細な日本語
     の素晴らしいしさを感じさせる事例・・安易に
     日本語英語を使う御仁の程度の低さを示す事例・・
・マハティール氏は、当選するとすぐ日本に行くと発言し
 た・・
  マレーシア内に現存する中国人脈の善処(ぜんしょ、
 適切に処置すること)に取り掛かる動きも・・金脈と人
 脈の洗い直し・・
  6月10日、氏が来日した・・早い時期の打ち合わせを
 マレーシア側が望んだ・・TPPを「日本と東南アジア」
 でイニシアチブをとる形にしたいマハティール氏・・
・中国で、習近平の写真に墨をかける行動があった・・
  そして、人民日報から習近平の文字が消えた・・一行
 も習近平と書かれていない・・
  次々に、トランプ大統領は、中国輸入品に関税をかけ
 ると表明をしている・・
  中央電視台(国営放送)で、習近平が映されているい
 るのに、その習近平の映像に怪しい影が出るという事が
 起きた・・中国の視聴者も、この様な異常状態に不安に
 なるという状況・・
  (NHKは、これと同じことを安倍総理大臣に行った・・
 その様な放送局・・2014年のロシアのソチオリンピック
 に出席した安倍総理大臣の映像に、このことをやった・・
 中国讃美のNHKは、逆に、習近平ばかりを放送してい
 た・・どこの国の放送局なのだ・・??)
・習近平の『後釜の話』がネットでささやかれる・・
  習近平が、国家主席の無期限を決めたが、その決定が
 「有期限に代わることになる」と、これをメディアが強
 いて取り上げている・・
  神格化したはずの国家主席のスローガンが撤去された・・
  ナチスマークを書かれたりしている・・
  墨をかけた女性は精神病院へ入れられた・・その女性
 の父親は捕まった・・そして、行方不明となっている・・
・胡錦濤の倍の数がある報道数の習近平は、国民が嫌って
 いる・・
  チベット独立の次はウイグル独立・・そして、上海独
 立だの話が出ている・・アメリカに上海独立の活動拠点
 が作られた・・
  「大きな船のチャイナの船がもうすぐ沈む」という話
 が出ている・・そして、上海の旗を掲げた小さな船は、
 沈まずに行くという話も話題に・・「上海共和国の応援
 を乞う」という話になっている・・
・世界の「中国への見方」が変わっている・・
  世界へ拡大したいの中国の目論見は、「もうその様に
 はさせません」「中国を醜(みにく)く拡大させません」
 という認識の世界に、今は、なっている・・
・WTO(世界貿易機関)を舞台とする戦争が・・
  デュアルユース(軍民両用)につながる知的財産(ハ
 イスペックな技術等)が中国に盗まれて・・それを勝手
 に軍事用に使用される・・その様な中国の行動を、是が
 非でも阻止する!・・
  3月、米通商代表部(USTR)は、中国が米国の知的
 財産権を侵害しているのは明らかだとしてWTOに提訴
 した・・
  6月には、欧州連合(EU)が、中国の法制(技術輸出
 入管理条例(TIER)・中外合資経営企業法実施条例)
 などが、欧州企業の知的財産権を害しているとしてWT
 Oの紛争解決手続きを開始した・・
  「科学技術イノベーション・ノウハウは、知識基盤経
 済の根幹である。
  これにより、欧州企業がグローバル市場において競争
 力を維持すると共に、欧州における数十万もの雇用を支
 えている。
  いかなる国も、欧州企業が苦労して得たこの知識を、
 国境で強制的に引き渡させてはならない。
  これは、WTOに於いて、皆が合意した国際ルールで
 ある。
  主要国(中国)がルールを守らないと、国際システム
 全体が崩壊するかもしれない」と発言したマルムストロ
 ーム欧州委員(貿易担当)・・
  WTOを舞台に、もう戦争は始まっている・・
  中国が、「自壊して行く可能性」が高まっている・・
・一帯一路の実態・・
  Bribe-trap,Honey-trap,Debt-trap・・中国共産党の
 工作を・・欧州が警告した・・それは、政治家や軍人、
 大物経済人を、まず、「賄賂トラップ」と「ハニートラ
 ップ」にかけ・・その後、「債務トラップ」にかけて、
 国を借金まみれに陥(おとしい)れ、政治をコントロー
 ルし、港湾など戦略的軍事拠点を奪取する・・
  マハティール氏は、これをすんでの所でストップをか
 けた・・
  これで、中国とずぶずぶになってしまっているのがス
 リランカ・・そして、東南アジア・中南米・アフリカが
 狙われている・・
  オーストラリアは、ジュリア・ギラード首相(在任期
 間:2010年6月24日~2013年6月27日)の時は、ホワイト・
 チャイナの感がした・・それが、2016年5月から大きく変
 わった(マルコム・ターンブル首相)・・
  豪州の静かなる侵略:オーストラリアへの中国の影響
 (チャールズ・スタート大学のクライブ・ハミルトン教
 授著)が話題になる・・「中国は、民主主義を利用して
 民主主義を破壊する」と指摘した・・
  その1事例・・
  豪州に移住して来た中国系の富豪が、与野党の政治家
 や大学に多額の資金を提供している実態を紹介・・
  こうした政治家の発言や大学の研究が、南シナ海関連
 や自由貿易協定(FTA)などで、中国に望ましい方向
 に政策を誘導しようとした・・この様な実態を明らかに
 した。
  中国系企業家は、自ら進んで、または、中国に残した
 親族が「報復に逢う事を恐れ(人質)」、「共産党の代
 表として行動する」と指摘する。
  中国の国有企業やその関連企業が、豪州の電力や港湾
 などインフラ企業を買収する・・その中国の行動は、「
 最大の豪州の安全保障上の脅威だ」と危機感を明示する。
  中国の豪州政治への干渉策は・・「(既存の)法律に
 違反しない点が新しい」とする・・しかし、その行為は、
 明らかに「政府の経営や民主主義の価値を損ねており、
 違法化すべきだ」・・と主張している(2018年2月に出版)・・
.
  【討論】どこへ行く中国習近平政権[桜H30/8/25]
  https://www.youtube.com/watch?v=yIeIlTY1t9E

・パネリスト:
  河添恵子(ノンフクション作家)
  野口裕之(産経新聞政治部専門委員)
  坂東忠信(元警視庁通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
  ペマ・ギャルポ(拓殖大学国際日本文化研究所教授・
   チベット文化研究所名誉所長)
  宮崎正弘(作家・評論家)
  鳴霞(月刊『中国』編集長)
  山田吉彦(東海大学教授)
・司会:水島総
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)609E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月、従軍看護婦の派遣。
  日本では、すでに、1877年の西南戦争の時、日本赤十
 字社の前身である博愛社が、看護人(男性)を熊本や長崎
 に送っているが・・
  日清戦争が起きると、日本赤十字社は、自社で養成し
 た看護婦を臨戦地の宇品、広島へ派遣した。
  戦争に女性も参加するということで世人の注目を引い
 た。
  因みに、日露戦争の時の活動領域は、朝鮮や満州にま
 で広がり、死亡者も出た。
  そして、日清戦争時には108名、日露戦争時4417名、
 第二次世界大戦時3万1450名の日赤看護婦が戦地に赴い
 て傷病兵の看護にあたった。
  1979年から日赤従軍看護婦に、また、1981年から旧陸
 海軍看護婦に、慰労金が給付されることになった。
.
1894年8月、陸軍省の依頼によって、神奈川・程ヶ谷(現:
 保土ヶ谷)直通線(神奈川から分岐し程ヶ谷に連接)を起工
 した。
  1894年12月下旬に竣工した・・延長3.5km。
  1896年度に、陸軍省から譲り受け、1898年度から一般
 運輸として営業した。
.
1894年8月、筑豊興業鉄道が、筑豊鉄道と改称された。
  筑豊で産出される石炭の輸送を目的に、1891年に、筑
 豊興業鉄道として設立された。
  1888年7月30日、筑豊興業鉄道に対し鉄道線路測量仮免
   状下付
   (穂波郡飯塚村~遠賀郡若松港間、鞍手郡直方町~
    田川郡赤池村間)
  1889年7月12日、鉄道布設免許状下付
   (遠賀郡若松港~鞍手郡直方町~穂波郡飯塚町、直
    方町~神田村間)
  1889年8月21日、鉄道線路測量仮免状下付
   (田川郡神田村~添田村間)
  1890年11月19日、鉄道布設免許状下付
   (田川郡神田村から同郡伊田村)
  1891年8月30日、若松から直方間開業
.
1894年9月1日、第4回臨時衆議院議員選挙が行なわれた。
  投票率:84.84% (前回比-3.92%)
  党派別獲得議席
  自由党:107
  硬六派:立憲改進党:49
      立憲革新党:39
      国民協会:32
      帝国財政革新会:5
      中国進歩党:4
  無所属:64
.
1894年9月1日、大本営が、第1軍を編成した。
  司令官:山県有朋大将
  参謀長:小川又次少将
  砲兵部長:黒田久孝少将
  工兵部長:矢吹秀一工兵大佐
  監督部長:吉沢直行一等監督
  軍医部長:石阪惟寛軍医総監
  参謀副長:田村怡与造歩兵少佐
  参謀:福島安正歩兵中佐、上原勇作工兵少佐、青木宣
     純砲兵大尉、蠣崎富三郎歩兵大尉、立花小一郎
     歩兵大尉
  高級副官:渡辺章歩兵少佐
  明治維新後は、各藩の軍隊ではなく、国家の軍隊に再
 編された。
  1873年から徴兵制が施行され、士族の軍隊ではなく近
 代的な国民の軍隊に切り替わった。
  西南戦争もこの徴兵軍で戦って勝利を収めた。
  日清戦争開戦時、徴兵制度が始まって20年が経過して
 いた。
  武器の整備や兵の訓練、将校や下士官の養成などにつ
 いても、それなりの経験を積んで来ていた。
  この1年半前の1893年4月9日、川上次長は、東京を発
 って、朝鮮~天津・北京地区~上海・長江流域地区を回
 り、1894年7月7日に帰京し、地形視察と中国軍事状況を
 偵察していた。
  この旅行で、川上は、中国の「畏るるに足らざること
 を確信」としている。
  また、ドイツへの留学など、日本は自らを磨いて来て
 いた。
.
1894年9月8日、大本営が宮中を出て広島へ「大纛(たいと
 う)進展」することになる。
  大纛:1、軍中で用いる大きな旗。また、天子の乗り
      物の左に立てる旗。
     2、天皇陛下のいる陣営。大本営。
  日清戦争の最高統帥機関である大本営が、広島県広島
 市の広島城(現中区基町)内に設置された。
  広島城の大本営が、第5師団司令部へ進出。
  大本営は、1893年5月19日、勅令第52号戦時大本営条例
 によって法制化され、制度となった。
  日清戦争において初めて設置された。
  この時、大本営は、1894年6月5日、東京の参謀本部内
 に設置されたが・・、
  1894同年8月1日、皇居内に移っていた。
.
1894年9月12日、御木本幸吉が、半円真珠養殖法の特許を申
 請した。
  御木本幸吉は、1893年、5個の半円真珠養殖に成功して
 いる。
.
1894年9月15日、広島に移された大本営に、明治天皇陛下が
 入られた。
  ・大本営を広島に移さる(氷川清話)
  ・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日、明治天皇陛下が、呉行幸のため広島の
 宇品港へ御出発された。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
.
1894年9月15日、平壌の戦い
  日本軍が、平壌総攻撃をし、清国の拠点である平壌が
 陥落した。
  日清戦争における最初の本格的な陸戦。
  混成第9旅団長の大島義昌少将は、朝鮮到着直後から、
 清国の大軍が平壌に集中しているとの情報を受けていた。
  騎兵斥候を平壌に出し、駐留させていた。
  7月下旬になって、清国軍は、義州を経由し、平壌に迫
 って来た。
  斥候隊は、中和さらに黄州に退く。
  1894年8月10日、黄州から中和に偵察に出た時、強力な
 敵と遭遇し、指揮官の町口中尉、竹内少尉などの幹部が
 戦死する。
  第9旅団は、成歓の戦いでの清国軍の敗兵が春川周辺に
 いるとつかむ。
  日本からの第5師団残部が元山と釜山に上陸、そして、
 ソウルに向かう。
  このため、その警戒を兼ね、朔寧方面に朔寧分遣支隊
 を派遣する。
  大本営は、清軍を朝鮮半島外に撤退させる目的で、8月
 14日、第3師団の派遣を決定。
  さらに、9月1日、両師団で第1軍を編成し、陸軍大将・
 山縣有朋が軍司令官に任命された。
  第5師団長・野津道貫は、すでに8月19日、ソウルに到
 着していた。
  韓廷首班の大院君は、清国兵が次々と南下の報を聞く
 と動揺した。
  第5師団長・野津は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺
 させないため、早期の平壌攻略が必要と判断する。
  そして、第5師団の北進を開始する。
  また、混成第9旅団にも、義州街道の前進を命じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たちは
   日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上記に
   記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、アイヌで
   はない。
    そして・・中国は、「超インフレ操作」をする・・
    そして・・為替操作もする・・
.
紀元前1000年~紀元300年、日本人を作った人々
  日本人:農耕民:約3000年前~1700年前
  朝鮮半島を通じて稲作を主とする渡来民が流入した。
  そして、水田稲作が導入された。
  この集団は、主に、北九州、畿内、関東を結ぶ日本の
 中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響がを及ぼ
 さなかった。
  特に、北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほ
 とんどなかった。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した日本に渡来した「日本人の先住民」は、ア
 イヌではない。
.
300年、日本人を作った人々
  日本人:約1700年前~現在
  政治の中心が畿内に移って、朝鮮半島に加え、現在の
 上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。
  古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階
 (旧石器・縄文人)の子孫の大半が、北海道へ移り・・、
  替わって、第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫
 を中心とする人々が住み着いた。
  南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子
 孫を中心する集団が移住・混血した。
  江戸時代には、第三段階の集団との混血も進んだ。
  北海道では、古墳時代から平安時代にかけてオホーツ
 ク文化人と縄文人の子孫との交流があり・・、
  江戸時代以降は、本土日本人との混血も進んだ。
  アイヌの方々を応援する者たちが、「アイヌの人たち
 は日本の先住民だ」と、力で政府に認めさせたが、「上
 記に記載した様に、アイヌの人々は「日本人の先住民」
 ではない・・
  数次にわたる日本人の先住民の渡来の中から交雑して
 アイヌの人々となった・・熊襲(くまそ)もそれ、津軽人
 もそれ、琉球人もそれ、本州人もそれ、会津人もそれ・・
 などなど・・
  この様な歴史的真実、科学的真実の中で、アイヌの人々
 だけを特別扱いにすることは間違っている・・
  白老町で100億円の税金を使ってアイヌ記念館を造るこ
 とを中止せよ!
.
1866年11月12日、孫文が生まれた(~1925年3月12日)
  初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理・・
  中国では、1935年から1948年まで発行されていた法幣
 (不換紙幣)で肖像に採用されていた。
  現在は、100新台湾ドル紙幣に描かれている。
  中国国民党では、現在も、孫文は「党総理」であると
 党則第15章で定めている。
  1895年、日清戦争の終結後に、広州での武装蜂起(広州
   蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭
   山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京で
   の活動費と生活費の援助を受けた。
    また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートル
   の屋敷は犬養毅が斡旋した。
  1899年、義和団の乱が発生し、翌年・1900年、孫文は
   恵州で、再度、挙兵するが失敗に終わった。
  1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大
   月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。
    また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴
   させていた。
    長い間、満州民族・清国の植民地にされていた漢
   民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」
   と言ってきた。
  1911年12月25日、この年、辛亥革命が起き、この日に
   孫文が、アメリカから上海に帰着すると、革命派は
   そろって孫文の帰着を熱狂した。
  1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南
   京に成立した。
  1913年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまった。
  1915年、袁世凱は共和制を廃止し、帝政を復活させ、
   自らが中華帝国大皇帝に即位する。
    直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。
  1917年、孫文は、広州で広東軍政府を樹立する・・
     しかし、その後、広州を追われる・・日本へ再
    び亡命した・・この頃、宋美齢と結婚(日本人の
    梅屋庄吉が資金面で援助していた)
  1923年1月26日、孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨ
   ッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」
   が上海で発表された。
    中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約
   し、ソ連との連帯を鮮明にした。
    この宣言は、ソ連コミンテルンと中国・国民党の
   連携の宣言であった。
  1923年2月21日、孫文は、広東で大元帥に就任(第三次
   広東政府)した。
  1924年11月28日、孫文が、日本の神戸で「大アジア主
   義」の講演を行う。
  日本の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相は、
 「孫文の言う事が、コロコロ変わるから相手にはできな
 い」と言明している。
  この頃から、中国は、ソ連の強力な支援を受けている。
  孫文は、隙あらばどの国からも支援を引き出そうとし
 た。
  そして、中国は、引き続きソ連から支援を受けた。
  ソ連コミンテルンから国民党も軍事援助を受けた。
  これが、蒋介石の国民党の主要な財源となった。
  ソ連コミンテルンは、大量の共産スパイを国民党の中
 へ送り込んだ。
  ガチガチに中国・国民党とソ連コミンテルンの関係は
 一体となって行った。
  国民党が、台湾へ逃れた後も、この関係は続いた。
  ソ連は、対日工作も、盛んに色々行なっており、工作
 員も潜り込ませていた。
  その様な工作員の報告の中に、「東京の軍学校の教員
 を一人リクルートした」との報告もある。
  これは、「軍の内部に、共産主義シンパをつくり出す
 工作に成功した」という意味。
  GRUの対日諜報史にも、「GRUの工作員を神戸か
 ら忍び込ませた」の記述がある。
  (参考)GRU:ロシア連邦軍における情報機関の「
     ロシア連邦軍参謀本部情報総局」のこと。
      参謀本部の一部署であるが、参謀系統を通し
     た情報の収集のほか、スパイ活動、SIGINT、
     偵察衛星や特殊部隊スペツナズの運用も管轄し
     ており、ソ連KGB(現在のSVRなど)と並
     ぶ強力な情報機関。
      第二次世界大戦中のスパイ、リヒャルト・ゾ
     ルゲはGRUの管理下にあった。
  (参考)SIGINT:通信、電磁波、信号等の、主
     として傍受を利用した諜報活動のこと。
  (参考)特殊部隊スペツナズ:ソ連軍、現ロシア連邦
     軍参謀本部情報総局(ГРУ、GRU)に所属
     する特殊部隊。
      戦時の敵後方での偵察、破壊工作や要人の暗
     殺を任務としているが、平時にも私服で破壊対
     象の偵察活動(スパイ活動)を展開している。
.
1894年11月21日、旅順要塞の陥落
  旅順口の戦い(りょじゅんこう、日清戦争)
  中国・清国の遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸
 の威海衛(いかいえい)とならんで清国・北洋海軍(李
 鴻章が率いる)の基地となっていた。
  日本をさんざん威圧し、脅(おど)して来た巨艦を持
 つ清国・北洋艦隊の基地だった。
  また、中国・清国の海上輸送の要(かなめ)の地だっ
 た。
  この為、日本はこの重要拠点の地を攻めた。
  この旅順の攻略にあたったのが、大山巌(おおやまい
 わお、西郷隆盛のいとこ)が率いる第二軍だった。
  1894年11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、
 秋山好古(あきやまよしふる)少佐の騎兵第一大隊が清
 軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強
 いられた。
  しかし、3日後の1894年11月21日の攻撃では、旅順の大
 部分を占拠し、旅順要塞は陥落した。
  日本は、明治維新から富国強兵で国力の強化に努めて
 来たが、欧米諸国は、まだまだ、日本がアジア第一の強
 国・清国にこの様な目ざましい戦いをするとは思っても
 いなかった。
  どの国も日本が敗北するだろうと見ていた。
  欧米列強諸国は、清国の最強の「東洋のジブラルタル」
 といわれた旅順を見事な迅速さで攻略した日本に目を見
 張った。
  特に、攻略戦の迅速さは見事だった。
  第二軍には、教科書にもよく出る著名人が参加してい
 た・・軍医として派遣された森鴎外(作家)、記者とし
 て国木田独歩(作家)、西洋画家の浅井忠など・・、
  日本の勝因は、動員・兵站・指揮のシステムなどが近
 代軍として清軍に対して優れていて・・
  近代化された日本軍は、基本的に、終始、優勢に戦局
 を進めた・・そして、遼東半島を制覇した。
  この戦いを振り返ると・・、
  1894年10月24日、大山巌大将が率いる第二軍が金州に
   上陸。
  1894年11月6日、金州城を制覇。
  1894年11月21日、日本軍1万5千は、清国軍1万3千に対
   して攻勢をかけた。
    清国軍の士気は極めて低い状況・・堅固な旅順要
   塞が僅か1日で陥落する。
    日本側損害:戦死40名、戦傷241名、行方不明7名、
    清国損害:戦死4500名、捕虜600名・・で敗退・・
    旅順の攻略戦は、大変な困難を極めるだろうとい
   う欧米諸国の予想を裏切る迅速さだった。
    また、日本は、非常に厳しい軍律でこの戦いに臨
   んだ・・
    大山巌は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由(
   よ)って戦ふものなり」という訓令を発している。
  この戦いの後、いつもの様に中国の清国軍は卑劣な行
 動をとった・・中国はいつもこの卑劣な行為をする・・
  軍服を脱いで中国市民の中に隠れた・・
  これでは一般の中国市民に災禍が及んでしまう。
  この隠れた卑劣な中国兵の掃討を日本軍は行った。
  そして、南京事件と同じ様な嘘宣伝を始める・・
  中国に居る日本軍が行なっていない行為を、「した」
 とプロパガンダ(嘘宣伝)を始めた・・
  日本軍が一般市民を虐殺したという嘘を言いふらした・・
  この結論を先に言うと・・世界各国は、『これは中国
 のデッチアゲの嘘発言』と了解し、解った。
  日本軍は、市街の掃討をするときには・・、
  市民の中から日本軍を狙う清国兵、「市民の中に隠れ
 た清国兵」「軍服を脱ぎ捨てた中国兵」を掃討する時に
 は・・、
  例えば、日本の第二軍司令部は・・各人・各家の安全
 を保証する措置を講じ、安心するようにと言った・・
  紙あるいは布に、「此者殺すべからず、何々隊」とか、
 「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文を中国
 の人たちに渡した。
  そして、人々に、民衆に、落ち着きを取り戻せるよう
 に配慮した。
  ほとんどの中国兵はすでに逃げていた・・
  1894年11月26日早朝に、九連城に入ると、すでに清国
 軍は逃げて、居ない状態となっていた・・無血入城とな
 った。
  嘘をでっち上げて日本を貶(おとし)める中国は・・、
  旅順陥落後の民間人や、戦闘を放棄した者の死傷者数
 について「18000名」と言っている(この後、2万名弱と
 言う)
  戦争は、巻き添えになる一般市民の方々も居るものだ
 が・・
  市街戦が行われば・・その様な方々の数について、外
 国などの報道機関は以下の数を公表している・・
  『タイムズ』(1894.11.28):200名
  『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20):2000名
  フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年):
 1500名
  日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍
 司令官への報告:1600名
  しかし、中国と裏でつながっているのか? 1894年12
 月12日になって・・『ニューヨーク・ワールド』の新聞
 (クリールマン記者の記事)は、旅順虐殺の捏造(ねつ
 ぞう)記事を、センセーショナルな書き方で報じた。
  初めは、きょとんとしていた他の新聞各社だったが、
 その後、各社はこれに追随した。
  この頃の新聞各社は、「販売部数を拡大しよう」とセ
 ンセーショナル記事を書いて競い合う状況にあった。
  その嘘つきの口火をきった『タイムズ』の報道に対し
 て、正直な『セントラル・ニュース』は、12月29日付け
 の新聞で、『正当な戦闘以外での殺傷はなかった』と報
 道した。
  また、ゲルヴィルによる証言:旅順陥落を目撃したニ
 ューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲル
 ヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンの報道するような虐殺は発生していないと証言した。
  また、さらに、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 で「虐殺は捏造されたものであった」と論じた。
  そして、また、ダネタン報告:ベルギー公使のアルベ
 ール・ダネタンの本国への報告調査では・・、
  事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多
 分(たぶん、量や程度が過大なこと)に誇張されたもの」
 と報告した。
  また、フランス武官ラブリ子爵は、「殺された者は軍
 服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されて
 いないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難
 しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
 と述べた。
  日本政府は、世界へ説明書を書いてきっちり反駁した。
  伊藤博文は、政府として正式な説明をした・・
  議会は、以下の通りと決定した。
  1.清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡。
  2.旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を
   脱いだ兵士であった。
  3.住民は交戦前に逃亡していた。
  4.逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令され
   ていた。
  5.日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、
   それを見知った者が激高した。
  6.日本側は軍紀を守っていた。
  7.クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容
   に驚いている。
  8.旅順が陥落した際、捕らえた清兵の捕虜355名は丁重
   に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられるこ
   とになっている。
  この伊藤らが作成した説明書は、第七項を省いたもの
 が12月17日と、12月18日の両日に、アメリカの各新聞に
 掲載された。
  また、陸奥が、直接、アメリカの新聞社に説明すると
 いうやり方が、アメリカ側から好感された。
  そして、欧米諸国で、「虐殺は無い」として認められ
 た。
  欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」
 を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨー
 クワールド紙が・・
  ライバル紙と競い合って・・、
  イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を
 行っていたことが常識であり、定説となっている。
  ニューヨークワールド紙は、ニューヨーク・ジャーナ
 ル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇
 情主義報道で競争し・・、
  この他、世界でも、病的な好奇心だけを沸かす扇情的
 な記事で競い合っていた。
  虐殺は無いの証言も多く・・クリールマンの報道を耳
 にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ね
 たところ、「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいた」と否定した。
  ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で、日本への
 誹謗に反論していることから、扇動報道だったと結論付
 けられた。
  中国は、南京事件もそうだが、よく嘘をつく国・・
  この様な事をして『相手を惑わせる者が、能力のある
 者」と評価される中国の状況で、また、判断基準で・・、
  中国社会では、この様な事が「日常茶飯」として、歴
 史上で行われて来た。
  今・現代も、中国は世界中で、「多くの工作員」と「
 多額な資金」を使って盛んにこの類の工作を行っている。
  扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)の災禍を受
 けた日本だった。
  この火付け役のクールマンは、この時だけでなく、1888
 年の米西戦争の時も、この様な報道をして、世界を惑わ
 せ、世論を誘導している。
  この時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」と疑義が
 出されている・・美味しい書き方は止められないという
 ところ・・
  それにしても、中国は、韓国と一緒になって、「南京
 事件だ」「慰安婦問題だ」と、今だに世界を惑わせ、ま
 た、自国民を惑わせている。
.
1898年、日英同盟へつながる具申
  駐英公使の加藤高明は、イギリス国内に「東洋におけ
 る英国勢力の消長(しょうちょう、物事が衰えて消える
 か伸びて盛んになるか、というなりゆき)は、日本の向
 背(こうはい、従うこととそむくこと)によりて決する」
 といった議論があると報告した。
  また、「日英両国の共同利益を保護する為め和協(わ
 きょう、一同が仲良くまたは相談して、力を合わせるこ
 と)を遂ぐ(とぐ、とげる、目的を達する)べしとは殆
 ど当国一般の希望」である」と報告した 。
  2ヶ月後、また、加藤は、「英露両国とも、日本との提
 携を希望しているが、ロシアの目的は日本の利益と反す
 る・・が・・
  イギリスの政策は、日本の目的と合致しており・・
  また、今、イギリス人は、東洋でのロシアの「跋扈(
 ばっこ、思うままにのさばること)に対して激昂(げっ
 こう、激しく怒って興奮すること)しているので・・
  仮に、日本が、ロシアの南下を同国の利益を害すると
 考えるのであれば、イギリスと進んで提携すべきである
 との意見書を外相の西徳二郎に送った 。
.
1900年6月、欧州の列強諸国が盛んに中国の清国を食い物に
 していた。
  さすがに、清国もそれに対して反発した。
  この年、中国山東省で起きた排外運動「義和団の乱」
 が勃発した。
  欧州列強が、中国の利権を奪う行為に中国全土がうん
 ざりしていたので、この義和団の乱の排外運動は、また
 たく間に北京へと拡大して行った。
  このため、日本へも要請され、日本も参加して、8ヶ国
 の軍が編成され、その対処に当った。
  自国民の保護という名目を掲げていた。
  実際、自国民の保護の必要もあったが、欧州列強諸国
 の利権の保護に日本が利用されたという所であった。
  日本はめざましい働きをして、欧州列強諸国から感謝
 をされるぐらいだった。
  また、日本の規律正しい行動に感激したイギリス高官
 が、そのことを本国に伝え、後の日英同盟の切っ掛けと
 なったくらいだった。
  乱を鎮め、各国は兵を引き上げさせた・・
  しかし、ロシアは、これとは逆に、兵を満州に送り込
 んで来た・・領土欲と利権あさりのロシアだった・・
  この様なロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメ
 リカだった。
  アメリカは、欧州列強諸国のやることと同じことをし
 て、ハワイなどの太平洋諸島、フィリピンと奪っていた、
  そして、そのフィリピンを拠点として中国を狙った・・
 満州の利権も欲しかった。
  何といっても北にあるロシアには、「南下政策」が付
 き物だった。
  ロシアは、アジアだけでなく、オスマン帝国の興亡と
 「ロシアの南下政策」は一対の行動として中近東でも火
 を噴いていた。
  極東の南下政策もロシアの狙い目で、近隣諸国を仕切
 りに脅(おびや)かした。
  ことが起こる出発点には、いつも、この南下するロシ
 アのエネルギーがあった・・その行動があった。
  そして、その様なロシアに、中国は敗けて、満州の租
 借権を与えてしまった。
  満州での鉄道を含む各種の権益も、ロシアは、中国か
 ら与えられた。
  1904年に起きた日露戦争・・アメリカは、日本に資金
 援助をした。
  また、終結の講和締結にもアメリカは仲介し、介入し
 た・・アメリカは中国の利権が欲しかった。
  日露戦争で負けたロシアは、賠償金を払いたくなかっ
 た。
  その代わりとして、中国から与えられた満州の権益を
 日本へ手渡した。
  日本は、満州を得たいという訳ではなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から日本は、満州と関わり
 始めた。
  勿論、国際法上、日本に十分な正当性はあった。
  日本の気がかり事項は、朝鮮が、ロシアの勢力下に入
 ると、日本の脅威が増すため(ロシア勢力下の朝鮮と接
 するというリスク)ので、この状態になることは避けた
 いとしていた。
  また、日本・ロシア・清国で条約も交(か)わし、こ
 の状態での承認は国際社会も認めていた。
  日露の講和の締結後、アメリカは、この日本がロシア
 から得た満州の権益を欲しがった。
  このアメリカの日本へのアプローチを「日本は断った」
  このことから・・日本とアメリカは背中を向け合う関
 係となった・・そして、日米戦争へとつながる一つの要
 因となった。
.
1900年8月、義和団事件が鎮圧された。
  ロシアは、北清事変(義和団事件のこと)に乗じて満
 州の牛荘(にゅーちゃん、遼寧省の重要な開港)を占領
 した・・そして、最終的に約20万の兵力を侵入させ、侵
 略行為を行なった。
  清国の暴動は、1900年8月、国際的な話し合いの下に結
 成された8ヶ国の連合軍によって鎮圧された・・日本は、
 各国に請われて参加し、中心的に活躍した。
  ロシアは、暴動鎮圧後も占領を続けた。
  ロシアの脅威は、この様な状況だった。
  満州や朝鮮などのロシアの軍事占領という増大するロ
 シアの脅威への対応策として・・、
  「同じ様にロシアを脅威と感じているイギリスと同盟
 し、ロシアの強硬行為を止めさせる」か、
  「ロシアとの協定を求める」か・・との・・「日英同
 盟」と「日露協和(協商)」の2つの選択肢の検討がなさ
 れた。
  元老の伊藤博文と井上馨は、「日露協商に積極的でだ
 った」。
  駐露公使を務めた栗野慎一郎によると・・、
  伊藤は、ロシアは強国で、万一、戦いとなった場合、
 当時の日本の軍備では、到底、ロシアに勝つという勝算
 はない・・、
  ロシアの極東における利益や希望を、ある程度までや
 りたいようにやらせ、容認し、その代わり日本の朝鮮に
 おける行動を認めさせようと考えていた。
  伊藤は思った・・イギリスという国は、自分勝手な都
 合ばかりを行なっている国だと・・謀る(たばかる、計
 略を巡らして、だます)ようなことばかりをする国だと・・、
  その様なイギリスとの連合は「効果が薄弱である」と、
  イギリスは、ロシアやフランスから敵視されているし、
  満州地方を豊かな有望な農業や商工業の栄える地にし
 て行くにはロシアと協調する・・
  また、目前の問題を解決するためにも、日露協商を結
 ぶのが先務である・・と・・
  日英同盟では頼りない・・実現の可能性はない・・と
 考えていた。
  一方、井上は、1901年11月、日英同盟交渉の進捗を見
 ながら、ロシアに滞在する伊藤へ・・
  「英国は、慣習にあらざる攻守同盟を急速に断行せん
 とする、真意解きがたし、我を利用して英国の難を避け
 んとする策にあらざるや」、
  イギリスは、焦(あせ)っている様だった・・井上に
 は、日本が利用されるように見えた。
  さらには、「若し日英同盟成立せば、露独仏対清攻守
 同盟を決行する必然ならむ」との電報を送った。
  2人の元老は、イギリスに対する不信感が強かった。
  同盟の実現性とその効果に対する疑念も強かった。
  伊藤には、三国干渉当時のイギリスのやり方が強く印
 象付けられていて・・イギリスに対する失望感が深く記
 憶されていた。
.
1901年12月、日英同盟に決した元老会議
  日露協商派と日英同盟派の対立は、1901年12月の葉山
 での秘密の元老会議(桂首相、小村外相、山本海相も参
 加)で、「日英同盟の締結が参加者全員の賛成を得た」
 ことにより決着した。
  小村外相は、この会議で提示した「日英同盟に関する
 意見書」の中で、日露協約と日英同盟を対比して示し、
 説明した。
  小村外相は、日露協約は「ロシアの侵略主義」から長
 い和局の維持の保証とはならない・・と・・
  (第二次世界大戦でも中立条約を破って日本を侵略し、
 日本の領土を奪った国・・ロシアとはこの様な国)、
  一方、日英同盟は、ロシアの野心を制し、比較的長期
 間にわたって平和を維持できる・・と分析した。
  また、イギリスは、東洋での領土は(十分持っている
 ので・・管理を越えている状況)増えることを好まず、
 現状を維持しつつ、通商上の利益を図ることを求めてい
 ると・・分析した。
  ロシアの侵略性が、南下政策が、東アジアの最大の火
 種であると分析した。
  この様なロシアが、朝鮮まで駆逐し、日本と、直接、
 接する様な状況になることが、日本の安全保障上の最大
 の脅威と捉えていた・・そして・・
  1902年1月30日、日英同盟がロンドンで調印された。
.
1924年11月28日、孫文は、この年に、北京で発生した政変
 (馮玉祥・ふうぎょくしょうクーデター)に応じて、広
 東から北京に赴く途中で神戸に立ち寄り、「大アジア主
 義」演説を行った・・
  「日本人よ! 西洋覇道の鷹犬となるか、あるいは東
 洋王道の干城となるか」。
  (参考)鷹犬:たかいぬ、鷹狩りに用いる犬。
  (参考)干城:かんじょう、国を守る武士・軍人。
  孫文は、神戸で頭山満(とうやまみつる)と会談した
 翌日に行った講演。
  神戸商業会議所など5団体を対象として、現在兵庫県庁
 となっている場所にあった旧制神戸高等女学校講堂にお
 いて行われた。
  (参考)頭山満:玄洋社の代表の立場で、玄洋社は、
     自由民権運動の結社であった向陽社を改名して
     結成された。
      中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠
     縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流が
     あった。
      また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政
     界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)
     や篤志家としての側面も持つ。
      早い時期から日本の海外進出を訴え、同時に、
     朝鮮の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドの
     ラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボ
     イ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の
     民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行
     った。
.
1933年11月17日、アメリカ、ソ連を承認。
  アメリカが、この年、ソ連を承認した・・が・・この
 頃のソ連は、「革命と内乱と策謀を輸出する」と公言ま
 でするような国だった。
  そして、昔から今も、中国の『お家芸』は、「政治工
 作」と「宣伝工作」であるが・・共産国家の策謀は、い
 つの時代も行われている。
  そして、「ニューヨーク・タイムズ」というアメリカ
 の新聞も、嘘記事で世界を惑(まど)わせた。
  日本の朝日新聞も、嘘記事をよく書いているが・・、
  朝日新聞は、慰安婦問題をデッチ上げて、すっかり、
 日本は、その間違った記事の様な国と思われて、日本は
 すっかり貶(おとし)められているが・・、
  因みに、また、この様な嘘記事ばかりを書く朝日新聞
 が、中国の文化大革命時代にも、中国讃美の嘘記事を書
 いている。
  文化大革命で、1000万人以上もの中国の方々が殺され
 ているにもかかわらず・・朝日新聞は、中国の文化大革
 命を「バラ色に書き」・・成功していると嘘記事を書き
 続けた。
  標記のアメリカのニューヨーク・タイムズも、1920年
 代終わりから1930年代に、特に、嘘記事を書いてばかり
 いた。
  この頃のアメリカの政界も、共産圏の「政治工作」に
 翻弄(ほんろう)されていた。
  1933年に、アメリカ大統領となったフランクリン・ル
 ーズベルトの周りには、側近から官僚など、大量に工作
 員に溢(あふ)れていた。
  1933年には、アメリカは、ソ連を承認した。
  ソ連は、この頃、コミンテルンを擁し、世界中に「革
 命と内乱と策謀を輸出する」と公言までする様な国だっ
 た。
  アメリカや世界が、はまっていくその一つの要因が、
 前記したニューヨーク・タイムズで・・、
  特に、この新聞社の記者(ウォルター・デュランティ)
 が曲者(くせもの)だった。
  この記者は、ソ連へ、1920年代終わりから1930年代、
 特派員として派遣された。
  1932年に、ピューリッアー賞を受賞するが、この記者
 は「眉唾(まゆつば)記事」ばかり書いた。
  記者デュランティは、「ハニー・トラップ」に引っ掛
 かっていた。
  その為、デュランティは、まったく「ソ連の対外スポ
 ークスマン」のような記事を書いた。
  これに、世界が踊らされた。
  ウクライナの人々が、ソ連の仕組んだ行為で、何百万
 人もの餓死者を出ているというのに・・それをまったく
 報じず・・
  逆に、「ウクライナ農民は、豊かな穀物収穫を享受し
 ている」と報じた。
  そしてまた、デュランティは、「ウクライナを飢餓だ」
 と報道しているのは「デマ報道だ」と嘘を報じた。
.
1941年11月20日、この日から11月25日にかけて、日本とア
 メリカは、開戦になるかもしれないという切羽詰まった
 状況で、最後の交渉が重ねられた・・
  この様な時・・、
  交渉は、色々な案の中からB案で、両国の合意が成っ
 て、交渉がまとまりそうになった・・
  この時・・ここで、工作員が暗躍する・・
  アメリカ大統領であるルーズベルト政権の中枢には、
 コミンテルンのエージェントが要所要所に入り込み、「
 日米開戦をうながす謀略」を行なっていた。
  日米交渉がまとまろうとしていたが、この工作員によ
 ってぶち壊され、破たんさせられ、戦争に突入した。
  また、最後通牒となったハル・ノートが出され、日本
 は、戦争の道へ追い込まれて行ったが、ここにも、工作
 員の影が満ちていた。
  この様な工作員の裏世界で暗躍した一人が、中国のコ
 ミンテルン情報員の陳翰笙(ちんかんしょう)だった。
  陳は、回想録「四つの時代と私」で言っているが・・
  アメリカの共産党シンパ(共鳴者)や、アメリカ政権
 内部に潜(もぐ)り込んで工作し、また、ハル・ノート
 の裏で潜り込んだコミンテルン工作員たちを繰る要(か
 なめ)にいる中心人物だった。
  この中国の工作員の陳は、これ以外でも、色々な所で
 日本を貶(おとし)め、そして、策にはめていた。
  そしてまた、アメリカ東海岸で反日を煽(あお)る活
 動もし、日本を吊るし上げる集会を、数々、開いたりし
 た。
  アメリカ世論へ、大きな影響を与えた。
  中国は、今・現代も、多くの人間を使って、また、超
 多額の資金を使って、日本やアメリカや、世界のあちこ
 ちで工作活動を行なっている。
  因みに、陳は、1897年に生まれ、1928年にシカゴ大学
 を卒業し、1924年にベルリン大学で博士号を取り、26歳
 で北京大学の教授になった。
  この時、コミンテルンに入る。
  中国の別派に弾圧され、1928年にモスクワに逃げる。
  ここで、ゾルゲに会う。
  1929年、ゾルゲを助けて、一緒に上海に来る。
  さらに、陳は、東京でもコミンテルンのつながりを作
 り、また、中国共産党のコネクションも作る。
  そして、モスクワの指令を受け、アメリカへ行き、情
 報誌でのプロパガンダ活動をし、日本をはめて行く。
  功が奏し、アメリカ世論は繰られる。
  そして、クライマックスは、日本の努力によって日米
 交渉での「開戦に至らない道」が見えた時・・
  工作員からの情報を得て、その裏で、それをぶち壊す
 事に暗躍する。
  それは、1941年11月20日から11月25日にかけて、日本
 とアメリカの開戦になるかもしれないという切羽詰まっ
 た最後の交渉を重ねている時、色々な案の中でB案でま
 とまりそうになった。
  その時、ルーズベルトの一番の側近、工作員だったラ
 フリン・カリーは、ホワイトハウスから電報を打った。
  重慶で蒋介石の顧問をしていたラティモアへ電報を打
 った・・
  その内容は・・
  「もうB案で日米交渉はまとまってしまうかもしれな
 い」。
  「これを阻止するために、蒋介石から『日米妥協に断
 固反対する』という電報を打つべきだ」・・と指示した。
  そして、蒋介石は、アメリカを脅した。
  「日米が妥協すれば、もう米中関係はおしまいだ」。
  「中国国民は、アメリカから離れる」。
  「そうなれば、日本との戦いは総崩れになる」。
  「逆に、アメリカが、日本との戦争に踏み切れば、絶
 対、日本に勝てる」・・と・・
  蒋介石は、第二次世界大戦が開戦されると、「これで
 救われた」と漏らした。
  (蒋介石の日記「大事長編」に記されている)
  そして、最終的に、日米の合意をぶち壊したのは、「
 ハル・ノート」を起草したハリー・デクスター・ホワイ
 トだった。
  このホワイトも、カリーも、GRU(ロシア連邦軍参
 謀本部情報総局)のメンバーだった。
  (ソ連の情報関係文書にはっきり記されている)
  アメリカ内部のソ連の手先(コミンテルン工作員)に
 よって、「日米開戦が押し止め(おしとどめ)られ得た
 合意・・そして、解決」が、合意直前でぶち壊された。
  そして、ソ連は、日ソ中立条約を破棄し、第二次世界
 大戦が集結している後まで、日本の領土を奪った。
  日本領の南樺太、日本領の千島列島、日本領の北方四
 島を・・不法に奪った。
  今・現在も、ソ連は、「不法占拠を続けている」。
.
1950年代、マッカーシズム
  1950年代に、アメリカ合衆国で発生した反共産主義に
 基づく社会運動、政治的運動。
  アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッ
 カーシーによる告発をきっかけとして、「共産主義者で
 ある」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、
 マスメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。
  アメリカの第32代大統領のフランクリン・ルーズベル
 トの側近から官僚、そして、その他の広い範囲に共産圏
 の工作員がうようよといた・・工作員だらけだった。
  その為、日本との戦争にまで至ってしまった。
  その反動もあって、1950年代に、アメリカはマッカー
 シズムが起きた。
  今・現在の日本も、中国の工作員がうようよと居て、
 スパイ天国となっている。
  このアメリカのマッカーシー旋風は、アメリカの情報
 機関が、ソ連スパイ・工作員の暗号を解読していること
 を惑(まど)わし、隠すためにも行った。
  ソ連のスパイの情報をリークして議会で追及している
 という形にした。
  ホワイトや、カリーや、アルジャー・ヒスは、アメリ
 カでの最も高位についたソ連のスパイだった。
  これは、「ヴェノナ文書」にも記されている。
,
1970年代、社会党委員長を務めた勝間田清一は、KGB(
 ソ連の情報機関で秘密警察のソ連国家保安委員会)から
 金を貰っていた。
  この事をばらしたのが、イギリスで発行された「ミト
 ローヒン文書・第二部」だった・・この記事に書かれた。
  ミトローヒンは、KGBの元文書課長で、1980年代に
 膨大な秘密文書(トラック一台分の文書と言われるくら
 いの膨大な文書)を持ち出して、イギリスへ亡命した。
  これが、今、少しづつ公開されている。
  この勝間田が、衆議院副議長になり、また、勲一等旭
 日大綬章を貰っている。
  日本が、スパイ天国と言われる由縁(ゆえん)。
  勝間田のスパイ行動は、KGB工作員のレフチェンコ
 の証言とも一致する。
  今、「しめしめ、巧(うま)く行った」と思っている
 奴等も、これから機密文書が公開されて来るから、これ
 から将来、安穏としていられない・・確実に、人物評価
 は駄目になって行く。
  これから、あちこちの機密文書が公開されて来て、昭
 和史は、徐々に、大きく塗り替えられて行く。
.
1989年、オウム真理教が、東京都で宗教法人の認証を受け
 た。
  麻原彰晃 (本名・松本智津夫、1955年~2018年) が
 1984年に始めた宗教。
  坂本堤弁護士一家殺害事件 (1989年11月) 、松本サリ
 ン事件(1994年6月) 、目黒公証役場事務長拉致・殺害事
 件 (1995年2月) 、東京地下鉄サリン事件 (1995年3月)
 など、数々の凶悪事件を引起した。
  村山富市首相の時(在任期間:1972年12月11日~1980
 年5月19日、1983年12月19日~2000年6月2日)・・
  この村山首相は、破防法(破壊活動防止法、昭和27年
 法律240号)のオウム真理教への適用に反対した。
  その理由は、「嫌疑のある団体に強制捜査をすること」
 だった。
  その結果、甘い捜査となり、オウム真理教の犯罪を防
 げなかった。
  また、日弁連(日本弁護士連合会)は、強硬に、破防
 法適用に一番反対した。
.
1991年12月25日、ソ連崩壊
  この日のソ連大統領のゴルバチョフの辞任に伴って、
 ソ連は崩壊したが・・、
  このソ連崩壊後、クレムリン秘密文書公開により・・、
 「社会党がソ連から援助を得ていた」ことが明らかにさ
 れた。
  (当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した)
  また、戦前から、ソ連コミンテルン工作員が、たくさ
 ん日本に潜り込んでいた。
  戦後も、共産主義国家から、この様な事がなされ、こ
 の様な工作員に協力する日本人が、ソ連のスパイとして
 暗躍した。
  今・現在、中国からの潜入が多い。
.
2018年、中国の「集団指導体制」なんて言ったって「言葉
 の遊び」。
  一握りの者たちが行なう制度となっている。
  集団という言葉を使う事が「おこがましい体制」・・
 「おかしな状態の体制」・・「擬似集団」の指導体制。
  「擬似集団指導体制国家」「見せかけ集団の指導体制
 国」「擬似集団・見せかけ集団の独裁指導体制」。
  民意を反映させる自由な選挙が無い。
  「見せかけ集団の独裁政権」が一般市民を牛耳る。
  あってはならない、今の中国の政治の姿。
  一般市民の声が政治には反映しない「遅れた政治体制
 の国=中国」。
  一握りの者たちが、一般市民を搾取する政治の国=中
 国」。
.
2018年、中国は、共産主義
  しかし、資本主義経済社会に入ってきた。
  共産主義は、ソ連の滅亡で、「共産主義の人類最大の
 実験は終わった」と言われた・・
  そして、自由主義経済・資本主義経済の勝利の様に言
 われたが・・?
  そして、それを勝利として喜んだが・・果たして、「
 そうなのか?」。
  共産主義の国が、すべて無くなった訳ではない。
  中国という極大な共産主義国家が存在し続けている。
  ソ連とともに、すべての共産主義国家が無くなった訳
 ではなかった。
  中国は思うだろう・・「自由主義経済社会こそ矛盾だ
 らけ」「その資本主義経済こそ破綻すべきだ」・・と・・
  今・現在、どこの自由主義経済、資本主義経済国家も、
 札を刷る輪転機を回して、「泡のような価値を作ってい
 る」。
  今・現在、その泡の価値が世界に充満している。
  どこの国も、こんなことを「知らんぷりしてやってい
 る」。
  中国も、こんな簡単な事ならと、自由主義経済・資本
 主義社会に入って来て、何処の国もやっているように、
 輪転機を回しに回している。
  今・現在、中国の借金は、「3800兆円」だという。
  「人民元を刷れば、それで済むから」「輪転機を回し
 に回している」。
  世界中に、人民元を吐き出し続けている。
  中国は、景気が悪くなると、泡の金をどんどん刷って、
 「マンションをどんどん作った」。
  今はゴーストタウンとなっている。
  経済成長は、その恩恵で「成長は続けた」が・・?
  簡単な行為の「金を刷って架空の経済を伸ばし」、武
 器もどんどん作った。
  軍拡は・・好きなだけ拡大した。
  中国の債務は・・「只今、3800兆円」。
  中国は・・出口は意識していない。
  これは、「リーマン・ショック」の無責任行為どころ
 ではない。
  桁(けた)違いもけた違い。
  日本でも、「大きい会社は、潰せない」と言われたが、
 借金の大き過ぎる会社は、逆に、潰せなくなるという経
 済社会なのだ。
  中国は、これを知っている。
  中国の最高級幹部は、中国政権がいつか潰れると、自
 分の自由になる金(超大金)を、アメリカやスイスに移
 している。
  中国の金が泡になっても、移した金はドルなどに代わ
 っているから泡にならない・・だから、その様にした。
  その時には、その国で生きようとしている。
  家族をアメリカに住まわせている中国の大幹部も居る。
  娘のアメリカ留学は、当たり前・・誰でもやっている。
  日本の「借金の出口」を言う前に・・中国のこの事を
 言うべきだ。
  中国がやることは、「超インフレ操作」。
  共産主義社会の中国は、何でもできる・・「中国を超
 インフレ」にして、過去の借金を「無価値の様にする」。
  過去の借金から逃れられる。
  中国は、いざとなったらこれをやる予定・・、
  為替も・・いじくりまわる・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)608E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月26日、日朝盟約
  大日本大朝鮮兩國盟約(だいにほんだいちょうせんり
 ょうごくめいやく)
  日本政府と朝鮮政府が両国同盟(攻守同盟)に調印し
 た。
  内容:
  第1条:この盟約は清兵を朝鮮国より撤退させ、朝鮮
     国の独立自主を強固にして、日朝両国の利益を
     増進することを目的とする。
  第2条:日本国は清国に対し攻守の戦争を遂行する、
     朝鮮国は日本軍の進退及びその食糧準備に、出
     来得る限りの便宜を提供すること。
  第3条:この盟約は清国との平和条約が締結されるま
     で続くものとする。
  史料:
  大日本大朝鮮兩國政府ハ日本曆明治二十七年七月二十
 五日
  朝鮮曆開國五百三年六月二十三日ニ於テ朝鮮國政府ヨ
 リ清兵撤退一節ヲ以テ朝鮮國京城駐在日本特命全權公使
 ニ委託シテ代辦セシメタル以來兩國政府ハ清國ニ對シ既
 ニ攻守相助クルノ位置ニ立テリ就テハ其事實ヲ明著ニシ
 倂ニ兩國事ヲ共ニスルノ目的ヲ達センガ爲メ下ニ記名セ
 ル兩國大臣ハ各々全權委任ヲ奉シ訂約シタル條款左ニ開
 列ス
  第一條 此盟約ハ清兵ヲ朝鮮國ノ境外ニ撤退セシメ朝鮮
     國ノ獨立自主ヲ鞏固ニシ日朝兩國ノ利益ヲ增進
     スルヲ以テ目的トス
  第二條 日本國ハ清國ニ對シ攻守ノ戰爭ニ任シ朝鮮國ハ
     日兵ノ進退及ヒ其糧食準備ノ爲メ及ブ丈ケ便宜
     ヲ與フヘシ
  第三條 此盟約ハ清國ニ對シ平和條約ノ成ルヲ待テ廢罷
     ス可シ
  此レカ爲メ兩國全權大臣記名調印シ以テ憑信ヲ昭ニス
  大日本國明治二十七年八月二十六日
          特命全權公使 大鳥圭介(印)
  大朝鮮國開國五百三年七月二十六日
          外務大臣 金允植(印)
.
1894年8月29日、芳川顕正(よしかわあきまさ)が、文相
 を第2次伊藤内閣で兼任した。
  因みに、芳川顕正は、1893年に、第2次伊藤内閣で司法
 大臣に就任し、続く第2次松方内閣でも留任した。
  また、この間の1894年に、文部大臣を臨時兼任したの
 だった。
  そして、1896年には、内務大臣も兼任した。
  そして、芳川顕正は・・、
  1885年6月9日に、ハワイ王国:王冠勲章ナイトグラン
 ドオフィシルを授賞し・・また・・
  1885年9月29日に、デンマーク王国:ダコブログ勲章コ
 マンドール・プルミエールクラスを、すでに、受賞して
 いる。
  芳川顕正は・・1842年1月21日~1920年1月10日、80歳、
  明治・大正時代の官僚、政治家、伯爵、徳島生まれ。
  浅野玄碩より医学を学び、高橋文昨の養嗣子となる
  1862年(20歳)、長崎で医学修業の傍ら、何礼之、瓜
 生寅 に英学をまなび、伊藤博文と知り合う。
  1867年(25歳)、鹿児島に赴き、海軍所の賓客として
 航海、数学、兵学書の翻訳に当たる。
  1868年(26歳)、芳川と改姓。徳島の洋学教授となる。
  1870年(28歳)、伊藤の推薦で大蔵省にはいる。
  1871年(29歳)、伊藤博文と渡米し、貨幣・金融制度
 調査に従事。
  帰国後・・紙幣頭、工部大丞、工部大書記官、電信局
 長などを歴任した。
  1879年(37歳)から翌年にかけてイギリス出張で万国
 電信会議に出席。外務少輔、工部少輔を経て、
  1882年(40歳)から3年間、東京府知事を務め、地区改
 正や築港に尽力した。
  その後・・内務大輔、内務次官として山県有朋内務卿・
 内相を補佐。
  1890年(48歳)、第1次山県内閣の文部大臣となり、教
 育勅語の制定に関与した。
  以後・・司法、内務、逓信の各大臣を歴任した。
  この間、宮中顧問官兼内蔵頭、兼帝室会計審査局長、
 中央衛生会長などとなる。
  1900年(58歳)~1904年(62歳)、貴族院伯爵議員。
  1910年(68歳)以降、一時の中断を除いて枢密顧問官。
  1911年(69歳)、この年まで、国学院大学学長、皇典
 講究所総裁を務める。
  1912年(70歳)~1917年(75歳)、枢密院副議長。
 長崎時代、英国帰りで会話はできても読み書きが不自由
 な伊藤博文に英文法を教えたのが、官途(かんと、官吏
 になること)に就くきっかけとなった。
  著作:『越山遺稿』
.
1894年8月29日、文部省が、体育の奨励に関して訓令を発し
 た。
  「体育及び学校衛生に関する訓令」で、身体の発育期
 にある児童に活発な運動を推奨し、国民の健康な身体の
 育成を図った。
  小学校の運動会などが盛んになった。
.
1894年8月31日、川上音二郎一座が浅草座で「壮絶快絶日清
 戦争」の上演を開始した。
  戦争劇ブームが起きる。
  1894年8月初め、30歳であった川上音二郎は、芝居の脚
 本を書き、認可を警視庁に申請した。
  この申請の認可は、1894年08月21日に下りた。
  戦争の実態を見ていない音二郎、実際の戦況とはかけ
 はなれた内容であったが、若い演者たちが体当たりで演
 じる活劇は評判となった。
  1894年10月7日まで芝居を打った音二郎は、1894年10月
 22日から戦地視察に出発した。
  朝鮮の仁川や平壤、そして、鴨緑川を渡って清国の九
 連城まで訪れた。
  そして、約一ヵ月後に帰国した。
  音二郎は、この時の見聞をとり込んで仕上げたのが「
 川上音二郎戦地見聞日記(川上音二郎従軍日記)」で・・、
  1894年12月3日~12月23日まで、市村座で上演された。
  また、翌年・1895年1月、横浜の港座でも公演した。
  描いた場面は、戦地視察をした俳優の本人が演じると
 いう事で、観客に、そのリアルさを予感させた。、
  九連城で、直接、傷を負った小島中尉から聞き、また、
 託された手紙を内地の家族に届ける場面(五幕目)であっ
 た。
  そして、実際は、この小島中尉は、手紙を音二郎に渡
 した数時間後に亡くなっている。
  音二郎は、小島中尉夫人に戦死をも告げなくてはなら
 なかった。
  この芝居は、川上一座の呼び物であった体を張った戦
 闘(乱闘)シーンとは対照的に、実際の愁嘆場(しゅうた
 んば、泣き悲しむ悲劇的な場面)を盛り込んだ・・その
 様な「川上音二郎戦地見聞日記」となった。
  戦場の実地を見とどけて来て、それをすぐに舞台にの
 せるという状況・・その迅速さに、実際が知りたいとい
 う観客は期待し、そして、喝采した。
  劇界には、歌舞伎と新派劇の二つのジャンルが成立し
 た。
  戦争劇ブームが起きた。
.
  今日の言葉
.
  題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
.
紀元前260万年~紀元前250万年、世界最古の石器
  ヒト属(ホモ属)によるものは、エチオピアはアファ
 ール盆地のゴナ (Gona) にある化石人類遺跡で発見され
 た『オルドワン型礫石器群』(新生代新第三紀鮮新世後
 期)
  ホモ・ハビリスによるものと推定される。
  『磨製石器の最古のものは日本の岩宿遺跡』・・
  日本の群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじ
 ゅくいせき)で出土したもの、人の手によって磨きがか
 けられた石器としては、これが「世界最古」の石器であ
 る。
     ・
     ・
紀元前7万5000年頃、世界最古の装身具の貝殻ビーズ
  南アフリカ共和国の都市ケープタウンの300km東に所在
 する『ブロンボス洞窟遺跡』にある約7万5000年前の地層
 から、大きさが完璧に揃っている上に、例外なく開口部
 の反対側の同一箇所に孔が開いている巻貝の貝殻が60個
 あまり発見された。
  孔は、ビーズ飾りを作るための、紐の通し孔であった
 と考えられている。
.
紀元前3万5000年頃、世界最古の楽器
  マンモスの牙や鳥の骨で作られた横笛
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴェービッシェ・アルプにある『ホーレ・フェルス洞窟』
 の後期旧石器時代オーリニャック文化遺跡で発見された。
.
紀元前3万5000年頃、世界最古の絵画
  『ホーレ・フェルスの洞窟壁画』
  洞窟は、南ドイツのシュヴェービッシェ・アルプにあ
 り、壁画は、オーリニャック文化によるもの。
  後期旧石器時代に当たる約3万5000年前に描かれたと推
 定される。
.
紀元前3万2000年頃、世界最古の動物形象による像
  ライオンマン(ライオンレディー)
  ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州はシュ
 ヴァーベン・アルプのローネタール(はぐれ谷)にある
 ホーレンシュタイン・シュターデルの洞窟(ホーレンシ
 ュタイン山の『シュターデル洞窟』)から出土した、後
 期旧石器時代のオーリニャック文化に属すると考えられ
 る象牙製の彫像(女神像)で、世界最古の動物形象によ
 る像とされる。
  発見当初は、ホラアナライオンの雄をモデルとした男
 神像と見なされて「ライオンマン」と呼ばれたが、雌を
 モデルとした女神像説も論じられるようになったため、
 「ライオンレディー」とも呼ばれる。
.
紀元前2万3000年頃、世界最古の釣針
  日本の『沖縄県』で発見された貝殻製の釣針。
.
紀元前1万8000年頃、世界最古の土器
  中国『湖南省』で発掘された約1万8000年前の土器
  また、日本の『大平山元I遺跡』の縄文土器(約1万6500
 年前)や・・
  『シベリア』で発掘された土器(約1万4000年前)も世
 界最古と言われている。
.
紀元前1万2000年頃、世界最古の陶器
  日本の長崎県にある福井洞窟で発見された約1万2000年
 前のもの。
  2009年には、中国で湖南省で1万4000年前~2万1000年
 前の陶器が発見された。
.
紀元前1万2000年頃、世界最古の縄・紐
  フランスにある『ラスコー洞窟』の最奥部で発見され
 た約1万2000年前以前のもの・・現存する最古の縄。
  後期旧石器時代マドレーヌ期(約1万8000年~約1万2000
 年前)に属する遺物。
.
紀元前9000年頃、漆器
  日本の北海道函館市南茅部地区にある『垣ノ島遺跡』
 から出土した漆塗り装飾品。
  約9000年前~約6500年前(縄文時代早期前半)に属す
 る土坑墓から、2000年8月11日に発掘された推定年代約
 9000年前の副葬品。
  本体は朽ち果て、漆塗りを施された表面部だけが残っ
 た。
  ただし、2002年12月28日に発生した火事でほとんどを
 焼失した。
.
紀元前8800年頃、銅器
  銅製の小玉:『イラク』で発見された。
  なお、世界最古の銅製食器や銅製調理用具としては、
 紀元前4000年頃のパレスチナの『Nahal Mishmar遺跡』
 で発見されている。
.
紀元前3700年頃、青銅鈴
  中国の夏の時代、二里頭文化で作られた。
.
紀元前3500年頃、青銅器
  メソポタミアで銅に錫を混ぜて青銅を加工した。
.
紀元前3300年頃、世界最古の粘土板文書
  シュメールの都市『ウルク』の遺跡第4層から出土した。
.
紀元前3000年頃、貨幣
  宝貝:タカラガイの貝殻に貨幣価値を与えた物。
  殷代後期の中国。
.
紀元前2570年、世界最古の港湾施設:エジプトクフ王の港
  クフ王時代に使われた世界最古の港。
  スエズの南方約180キロにあり、現在は、船を係留する
 ためのロープを固定する石のみが現存している。
.
紀元前2100年頃~紀元前1950年頃、鉄器
  トルコの『カマン・カレホユック遺跡』から出土した
 小刀のような鉄器。
  紀元前2100年頃から紀元前1950年頃に属する遺構から
 発見され、これによってヒッタイト起源説が更新された。
.
紀元前14世紀、世界最古の墨文書
  文字が刻み込まれた卜占用亀甲獣骨に残る墨の跡:紀
 元前14世紀の殷代中国。
.
紀元前13世紀頃、現存する最古の橋:アルカディコ橋
  ティリンスとエピダウロスを結ぶべくミケーネ人が建
 造した石橋であり、持送りアーチ橋。
  地元住民によって現在も使用されている。
.
紀元前670年頃、鋳造貨幣
  エレクトロン貨:リディア王国第2代国王アリュアッテ
 スが、治世初期に当たる紀元前670年頃に造らせた。
.
紀元前1世紀以上、最も古い時代の種子から発芽・成長した
 顕花植物 大賀ハス
  1952年7月18日に開花した。
  日本の千葉市。
  種子は弥生時代の遺跡(泥炭層)から出土したもので、
 間接的年代測定がなされた。
  1952年の時点で2000年以上前(紀元前1世紀末以前。弥
 生後期V期前半以前に由来と推定された。
  その開花は「世界最古の花 生命の復活」」として雑誌
 『ライフ』にも取り上げられた。
.
578年、世界最古の企業:金剛組
  古代日本の摂津国難波で敏達天皇7年(578年)に創業。
  以来、長らく宮大工組織として活動を続け、近代以降
 は主に寺社を手がける総合建設会社となっている。
  2005年に、事業譲渡するまでは「創業者一族が経営を
 続ける現存企業」として世界最古でもあった。
  事業譲渡後も企業として「世界最古」には変わりない。
.
601年、世界最古の木造建築物:法隆寺金堂および五重塔
  日本の斑鳩宮近郊(現・奈良県斑鳩町域)に、推古天
 皇9年(601年)、聖徳太子によって建立された。
.
1232年、日本最古の港湾施設:和賀江島
  日本の最古の港湾設備であり、現存する世界最古の人
 工の港である。
.
1600年頃、財閥:住友財閥
  その歴史は400年以上前にさかのぼる。
.
19世紀半ば、イギリスのこの時代ほど不平等な時代は無か
 った。
  「女王は、二つの国民の上に君臨する」と言われるほ
 ど、イギリスのその不平等さは際立っていた。
  また、「(イギリスでは)上層民と下層民の分断は酷
 (ひど)い。
  (このイギリスの)二つの階層では、教育も、食べ物
 も、法律も異なる」と言われるほど最悪の低劣さだった。
  そして、イギリスは、この遅れた差別状態から長らく
 脱却できなかった。
  脱却できたのが、なんと、最近で、サッチャー氏がこ
 の悪習を変えた。
  この分断された状態を変えることをしたのはサッチャ
 ーだった・・20世紀に至ってやっと、この固執した意識
 の変革に手が付けられた。
  だから、サッチャーは、20世紀最長の政権を持った。
  「二つの階層を越える一つの国民」という意識が掲げ
 られ、悪弊にあった頑固な信条が変える社会的努力がな
 れて行った。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に起きた・・が、中国も、
 この戦争に加わっていた。
  『日露中戦争』だった。
  共産圏の国家が、いかに完璧に「秘密を保つことが出
 来る」かには驚くばかりだった・・、
  この事からも分かる通り、共産圏外交が、特務工作に
 よって、民主主義国における世論操作を、いかに巧みに
 展開できるかである・・感嘆すべき凄さである・・、
  中国の政治と外交は、帰結する所は、宣伝謀略工作に
 ある・・と言える。
  2016年においても、盛んに、アメリカのシカゴの新聞
 社の権利を手に入れたりして活動している。
  分析を精細に行なえば、共産主義諸国が行なう、表(
 おもて)の発言や「報道」と、裏の真意・実態が大きく
 かけ離れているという事が判明するのは日常茶飯事であ
 る・・、
  場合によっては、180度違う事がよくある・・、
  昨日は土砂降りでも、臆面もなく、次の日は「カラッ
 と晴れる」という具合である・・、
  また、当然、その逆もある(韓国もこれ)
  一喜一憂したり、振り回されたりしないのが肝心・・、
  中国は、特に、古来から「政治とは謀略の営み」と見
 てきた面がある・・、
  「それに長けている」のが『優れているという見方』
 の国である。
  中国の歴史の大きな転換点に、この特務工作、情報活
 動、謀略が、常に、決定的役割を果たして来ていた。
  日本は、ある意味、誠実であった、あり過ぎた・・、
  これが、日本の特質であり、国際的に信頼を得る所で
 もあるが、しかし、見方を変えれば未熟だった。
  情報収拾や諜報と言われる領域まで、そして、工作と
 言われるところまで・・習熟して行くべき。
  (日本はスパイ天国とも言われている。スパイが、う
 ようよ、あちこちに居る)
  憲法も誠実に守り過ぎた、関係するところは変えて行
 くべきである・・、
  「平和は本当に、いいなあ」と、戦争を体験なされた
 方々が、嘆息なされておられるが・・、
  北朝鮮も、生き延びるため、また、生き残るため、「
 核とミサイル」を持った・・
  日本も、のほほんとしていては滅亡があるだけ・・生
 き延びる方策を真剣に問う必要がある今である・・
  日露戦争に参戦していた中国だった。
  ロシアと中国の秘密条約によって、中国は参戦してい
 た。
  教科書に書かれていない史実である・・
  しかし、この様な歴史の事実を条件に入れて、現実を
 処さなければならない・・
  (参考)日露戦争:この戦争は、1904年2月8日~1905
     年9月5日、日本とロシア帝国(秘密裏に中国も
     参戦)との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満
     洲南部と、日本海を主戦場として戦った戦争・・
      南下するロシアに対峙するために、日本の陸
     軍部隊は韓国領内を北上し、5月に、鴨緑江を渡
     った。
      最初の戦闘で、ロシア軍を敗退させた・・
      また、南山の戦でも激戦の末に優位を占めた・・
      6月、満州軍総司令部が編成され、総司令官に
     大山巌、総参謀長に児玉源太郎を任命され、そ
     の下に、第1軍から第4軍が統轄されることにな
     った。
      8月末~9月初め、遼陽の戦は、日露両軍が、
     総力を結集した戦闘となった。
      双方ともに、2万名以上の損害を出すという激
     戦となり、ここでも、ロシア軍は後退した。
      しかし、日本軍の被った打撃も深刻なものが
     あった。
      両国は、アメリカ合衆国の仲介の下で終戦交
     渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマ
     ス条約により講和した。
  ロシアの南下政策の下で、日本の安全保障が脅かされ、
 日露の戦端が開かれたのだったが・・、
  ロシアの狙いは、満州の租借権と、関東州の租借権が
 欲しかった。
  また、鉄道施設権などの利権も欲しかった。
  そして、満州にロシア軍を常駐させ、利権を完全に掌
  握する占領状態にしたかった。
  そしてまた、その利権を朝鮮半島まで拡大したかった。
  強圧的な勢いで、まだ弱小とみられていた日本へ圧力
 をかけていた。
  アジア各国は、また、世界も、日本が勝つとは思って
 いなかった。
  アメリカは日本寄りにいた。
  この時、この戦いの観戦武官が世界から来ていた。
  その国々・・アメリカ、イギリス、ドイツ、オースト
 リア、イタリア、スペイン、スイス、スエーデン、ノル
 ウェー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国
 などの13カ国、70人以上の武官だった・・
  この後、アメリカの日本を見る目が変わった・・
.
1905年10月12日、アメリカは、日露戦争で得た日本の満州
 の権益が欲しかった・・日露戦争後に・・
  そのアメリカ政府の意向を受けたハリマンが、日本に
 やって来た・・
  そして、日本の桂太郎首相と会談した。
  日露の講和条約締結は、この1ヶ月半前の8月29日であ
 り・・調印は、1ヶ月前の9月5日である。
  アメリカは、満州の権益が欲しくて日露の調印が済む
 と、すぐにすっ飛んで来た。
  日露戦争では、日本の肩を持つ(かたをもつ、一方の
 味方をする)アメリカだったが・・この会談後、アメリ
 カの態度は一変する。
  この会談で、日本は、アメリカの満州鉄道の共同経営
 の要求を断わった。
  セオドア・ルーズベルト大統領も言っている・・、
  「私は、従来、日本びいきであったが、ポーツマス会
 議開催以来、日本びいきでなくなった・・」・・、
  ハリマンも・・
  「日本は十年後に後悔することになるだろう!」と激
 怒した。
  アメリカ国内では反日機運が高まって行った。
  アメリカに、戦いで得た権益を渡していれば・・
  日本は、アメリカとの「共同経営の満州」という形に
 していれば・・歴史は変わっただろう。
  ヨーロッパ諸国は、すでに、中国の権益を得ていると
 いうこの時・・中国へ出遅れたアメリカ・・他の欧州列
 強諸国が美味しい中国の汁を吸っている後から行くアメ
 リカの焦りがあった。
  岡崎久彦氏・渡部昇一氏は言う・・、
  「満州の経営を日米共同で進めていけば、日米の会戦
 はなかったのかもしれません・・が・・
  それでは、欧米のアジア植民地化に、日本が、加担す
 ることになるではありませんか」・・、
  アメリカは、日本を障害物として、また、脅威として
 扱う様になって行く。
.
1906年、「世界には三つの嘘がある。嘘と、大嘘と、統計
 である」
  この言葉を、この年に、アメリカのマーク・トーエン
 が「ノース・アメリカン・レビュー」で発表した・
  そして、世界に広まった。
  トーエンは、この語句を、19世紀のイギリス首相のベ
 ンジャミン・ディズレーリ(1804年~1881年)のものと
 紹介した。
  There are three kinds of lies: lies, damned lies,
 and statistics.
  しかし、この言葉は、ディズレーリの著作には見られ
 ない。
  日本にも、「統計で嘘を言う方法」という本があるが、
 さも本当の様に統計の数字を見せられて、嘘のことを信
 じさせられるという話が展開されている。
  (参考):本「データはウソをつく、科学的な社会調
     査の方法」(ちくまプリマー新書) 谷岡 一郎
.
2018年、題:アメリカの対中政策が「本気になって来た」。
    欧州は、中国で儲けたいと、中国寄りであったが、
    アメリカ政権の狙いが分かって来た・・
    同時に、中国の軍拡主義・覇権主義の危険性が分
   かって来た。
 ・今、アメリカでは、ニューヨークタイムスやCNNの、
  「嘘つきニュース」や「間違いニュース」が暴(あば)
  かれて来ている。
   また、日本でも、マスコミなどの論理的正統性の薄
  い「気取った論理の破綻(はたん)」が起き始めてい
  る。
 ・イランの核凍結期間が非常に短いにもかかわらず、目
  的を果たしていないのに、欧州は妥協して「イランを
  許してしまった」・・
   しかし、トランプ大統領は、たずなを緩(ゆる)め
  ず「けしからん、これではだめだ」と言って、正しい
  論理を展開している。
 ・イランは、中東のテロリストたちに「武器を送り、資
  金を送り、内戦を支持し」、欧米とまったく違う事を
  している。
   しかし、欧州は、「その様な不正を黙認」しようと
  している。
 ・トランプ大統領は、サウジアラビアを重視している。
  サウジアラビアは女性の免許を取らせた。
   そして、皇太子が石油だけでは食べていけないと次々
  に改革をしている。
   しかし、カナダは間違いを犯している。
   国家を強く統一しようと、ほかの部族に厳しい事を
  している・・この様な他部族へのサウジアラビアの行
  為を取り上げて、この理屈だけで、カナダは制裁処置
  をしようとしている・・
   この様なカナダの行為は間違いだ・・カナダのやる
  ことはきれいごとだ。
 ・北朝鮮とイランは、核で共同研究している。
   この様な台頭を許すのか?
 ・ロシアのパイプラインは、今までウクライナを通って
  いた。
   そのロシアが、ウクライナと違法な戦争を行ない、
  占領した・・だから、ウクライナはそのパイプライン
  を止めた。
   ロシアとドイツは仲が良いので、ロシアは、ドイツ
  にパイプラインを引いた・・そして、石油を得たドイ
  ツがEUの各国へ石油を配るという役をし始めた。
   ドイツが、石油の蛇口の役をしている(恩を売る行
  為をしている)・・結局、ロシアの言う事を聞く奴を
  探すという役をドイツはしている。
   トランプ大統領はそれを指摘する、ドイツに、「い
  つからロシアの捕虜になったのだ」と・・、
   これは、ドイツは言われて当然である。
   ロシアに利することばかりを、石油が欲しくてヨー
  ロッパはしている・・という「異常事態となっている」。
   シリアの件でも、イランの件でも・・そうである。
   アメリカの大統領選での「ロシア疑惑がある」が、
  トランプ大統領は、ロシアに対して公平である。
   ドイツのメルケルへ「捕虜だ」と言った・・これは、
  非常に正しい指摘だ。
 ・ドイツは、中国との関係でもおかしい。
 ・アメリカ副大統領のフェンス氏が、ついに、中国とさ
  れるウイグルの人権問題を取り上げた・・
   中国の政治制度を、ついに取り上げる様になった。
   今までは、中国とアメリカは、経済戦争と言われて
  来た、お金の問題と言われて来たが・・、
   アメリカは、中国の政治問題についても言及するよ
  うになって来た。
   トランプ政権の対中政策が「本気になって来た」。
   この様な事を考えると、ドイツの在り方が大変おか
  しく・・問題がある。
 ・アメリカの対中国赤字は、「30兆円以上ある」が・・
  しかし・・
   トランプ大統領が、本当に狙っているのは・・中国
  の覇権主義を止めようとしていることにあって・・経
  済問題の先にあることを狙っている・・
   世界の経済に激震が走ってでも、経済を干上がらせ
  てでも、今までのような展開を変えようとしている・・
   中国は、えげつなく得た金でもって、覇権を得よう
  とする・・その様な中国の行為・・、
   例えば、発展途上国に対して、インフラ開発をして、
  それを借金漬けにして、結局、その国を、中国の言い
  なりにするようにするやり方。
   あるいは、ハードやソフト的に武器を、どんどん買
  い占めて、4倍ゲームで兵力を高め、軍拡している中
  国・・、
   中国の覇権主義、軍拡主義・・これを支える中国の
  経済・・、
   だから、そこを叩いて、ストップさせようとしてい
  る。
   それの真意が分からず、そのトランプ政権のやり方
  を批判していた欧州諸国は・・そのやり方に、「よう
  やく気付き始めた」・・(まだ、半分しか理解できて
  いない欧州諸国)・・
   中国の毒、中国の弊害に、ようやく気付き始めた欧
  州諸国・・、
   中国の邪悪なやり方にようやく気付いて来た。
   日本のマスコミも、トランプ大統領のやり方に気付
  かず、今まで、「単なる不動産屋」だとかと蔑(さげ
  す)んでいた。
   トランプ大統領は、今までのアメリカ政権がやって
  来なかった様な「経済と安全保障を関連した政策を遂
  行している」。
 ・2018年8月、ライフェルト・メタル・スピニングという
  ドイツの会社が中国に買収されそうになった。
   これに対し、ストップ命令が出されるはずだった・・
   この会社は、宇宙船や原子力発電所・核兵器、そし
  て、戦闘機など、非常に先端の高い技術・ノウハウを
  持っている会社で・・、
   ドイツ政府は、安全保障面や、公的秩序を不安定に
  する恐れがあると、中国へ渡ってしまうとリスクが増
  し、危険度が高まる恐れがあると、ストップをかけよ
  うとした・・、
   買収しようとした中国(企業)は、この動きを察知
  して、ドイツメディアが報道したから、中国は買収を
  撤回した。
   また、送電大手のゴジュッツヘルツという会社につ
  いても、ドイツ政府は、この会社の株の20%を取得す
  ると言い出した。
   この会社の株は、ベルギーの会社が80%を取得して
  いて、後の20%は、豪州の会社が取得するはずだった。
   2016年のクウカ事件・・産業用ロボット大手のクウ
  カが、中国の家電大手に買収された。
   この様な状況が続けば、技術がすべて中国に流出し
  てしまう・・まずいのではないかと・・
   クウカは、軍事用ロボットもやっているし・・、
   このクウカのロボット技術は、アメリカの最新鋭ス
  テルス戦闘機のF35の製造にも使われている様な「高
  度な技術が詰まったロボット技術」、
   NATO(北大西洋条約機構)は、アメリカから国
  防費を上げろと言われて来た。
   そのことに対して、欧州は、「アメリカの横暴だ」
  と言って来た・・が・・、
   欧州は、言われて当然なのである・・
   NATOは、アメリカに「おんぶに、だっこ」だっ
  た。
   それに、この様にクウカの買収を許して、アメリカ
  軍の軍体制を危険に陥(おとしい)れている。
   これを契機に(遅きに失しているが)、これから、
  対中国に関し、規制対象を、「国防だけ」から「IT、
  通信、電力、水道など戦略的重要分野」に広げた。
 ・ドイツの筆頭銀行のドイツ銀行の筆頭株主は、中国企
  業である・・ドイツの金融分野もこの様な状況・・、
   これから重要な電気自動車の「肝心かなめのバッテ
  リー」の工場を、中国は、ドイツに進出させて、すで
  に、広大なドイツの土地を買い占めた。
   そこで、独占的に、電気自動車のこのバッテリーを
  使うように仕向けて行こうという戦略・・、
   産業および生活必需品の自動車分野で牛耳ろうとい
  う中国の作戦・・
   ドイツにない技術でドイツを制する方針・・、
   あらゆる手を講じてドイツを飲み込もうとする中国・・
   EUの盟主であるドイツを牛耳ろうとする方針・・、
   獅子身中の虫ではないが、肝心かなめの重要部分、
  中心に入り込んで、すべてを制覇しようとする中国の
  戦略・・、
   オープンな西側の市場で、中国は、どんどん技術を
  盗んでいる・・そして、重要技術を奪って行く、自由
  主義経済システムの制度を利用しているので合法的だ
  が(悪用と言える)・・それを利用して奪い取り、そ
  れを中国に持ち帰って、中国の閉鎖された市場の中で
  培養して行く・・、
   そして、その奪い取ったものをどんどん大きくさせ
  る・・
   大きくなると・・
   発展途上国にも売りつけて、西側から奪ったもので
  商売をし、利益を得て、また大きくなって行く、その
  様なやり方で閉鎖市場で大きくなった巨大中国国有企
  業が・・、
   ここまで大きくなって来ると、逆流が始まる・・開
  かれた欧米市場に出させて行く・・出て行く・・
   そして、欧米の開かれた自由市場で、巨大な中国の
  官製企業が、同業他社を食いつぶして行く・・、
   元々は西側の技術であったものを使って・・この様
  な展開をさせている・・展開が起きている・・中国に
  牛耳られて行く結果が起きている。
   共産主義の地の東ドイツ出身のメルケルの感覚は、
  西側で育まれた感覚とは違う・・西側の感覚は持ち合
  わせていない・・だから、中国の話に乗りやすいとい
  う傾向がある。
 ・一帯一路で・・中国は発展途上国へ行き、政府高官に
  賄賂を贈って・・
   マレーシアの前首相(ナジム)などの例であるが・・
  桁外れの何十億という賄賂を贈った。
   そして、国内インフラを勝ち取った・・(メキシコ
  の新幹線もそうだった)、
   しかし、その後の中国のやり方は、まったく、マレ
  ーシアの経済発展に寄与していない・・、
   中国から労働者を連れて行って、マレーシアの人々
  の雇用にもならない・・
   また、高利で金を貸し付けて、返済ができないと見
  るとスリランカの港の様に「99年の租借をする」とい
  う手を使う。
   香港と同じ・・英国は香港を返したが、99年後、中
  国は返すか?
   一帯一路の実態は・・「覇権戦略」なのだ。
   2008年1月、中国の物資を積んだ試験運行の貨物列車
  が、北京からベルリンへ運行された。
   これが、一帯一路のやり始めであった。
   習近平は、2013年から言い出したが、その兆候はす
  でにあった。
   中国・共産主義国家のやり方に鈍感なメルケル。
   中国国民党の時代もドイツは中国と蜜月だった。
   ナチス・ドイツでさえ軍事援助や金の援助をしてい
  る。
   中国とドイツ=中独は・・中毒症状だ。
   チンタオ(青島)の恨み・・
   1750年頃から、ドイツは中国に手を付け始めた・・
  この頃からすでにやっていた・・、
   ドイツは、イギリスに対抗して、中国への直行汽船
  を走らせた。
   また、巨大戦艦の定遠・鎮遠はドイツが作って、日
  本を脅威に慄(おのの)かせた・・
   日本を圧迫した戦艦を造って中国へ与えたドイツ・・
   203高地で、日本陸軍は多くの兵を亡くしたが・・
  この時の要塞もドイツが造っている。
   1897年、ドイツは、ドイツ人宣教師を殺害されて、
  これを口実にして、ドイツは、中国へ出兵した・・中
  国侵略行為を始めた。
   山東省に出兵したドイツ兵・・その中心都市の青島
  は、ドイツに占領され、ドイツの拠点となった。
   さらに、ドイツは、有無を言わさず兵を常駐させた。
   ドイツは、勝手し放題で、山や港に砲台を築いた。
   海には、ドイツ東洋艦隊を常に置いた。
   また、この拠点から、ドイツは、南太平洋の諸島を、
  軍事的に管轄し、掌握した。
   ドイツは鉱山が欲しかった・・そして、銀行、鉄道、
  会社、教会、食肉処理工場などを造った。
   チンタオビールはドイツのビール・・、
   当時、東洋の真珠とか小ベルリンと呼ばせた。
   第一次大戦でドイツは敗け、これらが、戦勝国の日
  本の管轄に移る・・、
   ドイツは一切の権益を失った・・ドイツはこれを恨
  んだ・・「チンタオの恨み」という・・、
   しかし、このドイツ怨みは第二次世界大戦の当時ま
  で続いた・・怨みがましいドイツの恨みは、陰湿にも
  長く続いた・・、
   満州事変の後、日本の足を引っ張ろうと、中国国民
  党軍の近代化をドイツは行なう・・、
   ドイツは、さらに、中国へ、重要で有能な軍人を送
  り込む・・、
   「ドイツの電撃戦」を考え出したような大物人材ま
  で送り込む・・、
   そして、また、ドイツは、あらゆる兵器を輸出した。
   中国人技術者までドイツ呼んで教育した。
   この人材に、中国に帰って、あらゆる重要兵器の国
  産工場を作らせた。
   毒ガス製造工場まで作ろうとした。
   生物兵器などの科学研究所などは作っている。
   この様な中国が、第二次上海事件を中国国民党は日
  本に戦いを仕掛けて行く・・
   日本はやむなく応戦した・・、
   ファルンケンハウゼンというドイツの将軍は、蒋介
  石に「消耗のゲリラ戦に持ち込め」と言った・・
   日本軍を疲弊させよと言った・・
   ドイツは、見返りに鉱山資源を求めた。
   鉄道も作って軍の移動をしやすくした。
   日本の軍の消耗はこれらによって大きくなった。
   これ等の資金は、「アメリカが支援した」。
   JPモルガン、スタンダード石油(ロックフェラー
  財団)などのアメリカ資金が膨大に入った・・
   また、それと共に、ドイツが財政出動した・・
   この様に、膨大な資金が中国へ提供された。
   ドイツもこれで潤い、より大きな軍事大国へとなっ
  て行く、
   ナンバーワン軍事大国へとドイツがなって行った。
   そして、ナチス・ドイツが台頭して行った。
   巨大化させる栄養が、大きくする栄養である巨大な
  資金が・・世界を回って・・この様な状況が作らせた。
   ドイツは、卑劣なことに・・日独防共協定を結びな
  がら(三国同盟の前に結ぶ)中国へ、武器を密輸の形
  で与え続けた。
   中ソ不可侵条約を締結したことで、ナチス・ドイツ
  のヒトラーは態度を硬化させた・・
   ヒトラーは、「中国への密輸を止めよ」と言った」
  が、しかし、契約済みの兵器などは輸出しなけらばな
  らないという屁理屈で、ヒトラーの命令・指示を聞か
  ずに、ドイツは、兵器を中国へ与え続けた。
   ドイツは潤った。
   この潤った金で、強くなった軍事力が、イギリス・
  フランスに対して向かった。
   1938年になって、やっと、ドイツは、中国から手を
  引いた。
   この時まで、なんだかんだと続ける卑劣なドイツだ
  った。
   三国同盟の時もまだ、中国と関係を続ける裏切りド
  イツだった。
   そして、1年を経て、やっと手を切った。
   しかし、最近、新事実が分かったが、スエーデンの
  第三国を通じて、ドイツは、まだまだ、中国と関係を
  続けているという卑劣なドイツだった。
   陰湿でしたたかなドイツだった。
   最近でも、大切で重要なロボット技術を「中国へ売
  り渡したドイツ」だった。
   重機大手クラウスマッハイも、中国に買収された。
   磁気浮上の技術を持っている非常に高度な重要な会
  社(リニアモーターカー技術)
   この技術が軍事転用できるから恐ろしい。
   というより、重要な軍事技術となる技術なのだ。
   空母のカタパルトは、電磁式だが、これに使える。
   中国もロシアも持っていない技術である。
   中国・ロシアは、ジャンプ式の遅れた方式となって
  いる。
   ドイツは、中国が一番欲しい技術を持った会社を売
  り渡した。
 ・中国の一帯一路を、ドイツも一体となってやって行き、
  中国と共にドイツはユーラシア大陸を手のうちに入れ
  たいとしている。
   トランプ政権はそれを止めようとしている。
   あの冷戦時代も、ドイツは中国へ武器を渡し、売っ
  ていた裏切り国である。
   儲かればよいという獅子身中の虫の国・ドイツ・・、
   中国は、ドイツをあてにしている、頼りにしている・・
 ・トランプ大統領は、心配する東欧諸国に、「アメリカ
  が安い石油やその他のエネルギーを売ってやるから安
  心しなさい」と言っている。
   ドイツを通っているパイプライン、ドイツが配る形
  になっているこの形の骨抜きをしている。
   ドイツの大きな顔は、「架空の顔だ」と言っている。
   アメリカのエネルギー供給の話は、ロシアの横暴も
  控えさせている。
   シリアがあのような戦乱の地でなければ、中東の石
  油のパイプラインがこの地を通り、ヨーロッパへ中東
  の石油が流れる、そして、ロシアが潰される・・
   ロシアにとって、シリアが戦乱の地となっているこ
  とがロシアの石油が売れることに通じている。
 ・イランを締め付けないと北朝鮮が安心する。
   イランと北朝鮮がくっつく。
   ヨーロッパ諸国はここが甘い・・イランに甘い。
   イランを締め付ければ、北朝鮮も干上がる。
   イランをやるときは、主力はイスラエル軍になる。
   サイバー攻撃を含めてやる・・
   それを見て・・「北朝鮮よ! 約束通りしなければ、
  次になるのはお前だ」というプレッシャーになる・・
 ・参考に以下のユーチューブを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=jNjFIc0l3Fk
  【Front Japan 桜】知事死去と沖縄左翼のシナリオ/
   中国の正体に気付いたドイツ~野口裕之/ 金正恩か
  ら視える米世界戦略/ 山根辞任にみる戦後日本/ 廃祀
  を叫ぶ古賀誠[桜H30/8/9]
   野口裕之(産経新聞政治部専門委員)
   昭和33年生まれ。昭和59年、産経新聞社入社。防衛
  庁、外務省、官邸記者クラブキャップなどを歴任。平
  成11年には北朝鮮の弾道ミサイル・テポドン1号の発
  射準備をスクープし、新聞協会賞を授賞する。著書に
  「ヤバすぎて笑うしかない狂人理論が世界を終わらせ
  る」(共著)、「野口裕之の『安全保障読本』」など。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)607E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年8月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年8月24日、鉄道会議規則が改正された。
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、日本において1892年
 6月21日から1949年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定めら
 れた「鉄道会議規則」(明治25年勅令第51号)に基づい
 て鉄道担当官庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省
 →運輸省)に設置された諮問会議で・・、
  鉄道敷設法で定められた鉄道建設の順序や鉄道公債の
 発行などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成されていた。
.
1894年8月25日、『日清戦争実記』が創刊された。
  博文館が写真を多用して収録した「日清戦争実記」を
 出版した。
  大評判になった。
  陸軍測量部員の小倉倹司らの従軍撮影によった。
.
1894年8月25日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  北里柴三郎が、破傷風菌を純粋培養して病原菌のペス
 ト菌を発見する(6月14日説あり)
  北里柴三郎は、日本政府よりペストの蔓延していた香
 港に調査派遣されていた。
  ヨーロッパで黒死病と呼ばれて恐れられ、人類を脅(
 おびや)かし続けてきたペストの病原菌が、1894年6月14
 日、流行下の香港で、北里柴三郎が発見し、滞在中にま
 とめた論文が英国の著名な医学誌ランセットに掲載され
 た。
  そして、翌週、同じく香港でフランスのアレクサンド
 ル・エルサンも見つけ、彼の論文は、フランスのパスツ
 ール研究所年報に掲載された。
  北里は、もう一つの分株菌をドイツのコッホ研究所に
 送っていた。
  それを検証するとまぎれもなくエルサンと同一の菌だ
 った。
  しかし、北里柴三郎は最初の発見者とされず、1897年、
 ベニスで開催された万国衛生会議で、その結果が報告さ
 れ、二人が共に発見者とされた。
  1967年、ペスト菌が属する細菌群が再分類されること
 になった。
  その機に、おかしなことに、新しい学名が「エルシニ
 ア・ペスティス」とされ、エルサンの名前だけが付けら
 れてしまった。
  この経緯を知ったアメリカ合衆国のカリフォルニアの
 二人の研究者が、北里柴三郎の発見の真実は明らかにさ
 れるべきだと考え、関係する膨大な論文や記録、当時の
 研究環境なども含め精査し、徹底的に分析を行った。
  発見の真偽に焦点を当てた調査のその結論は、「北里
 柴三郎は、確実に、確かに、香港でペスト菌を研究して、
 論文の大部分は的確に特徴を記載していて、彼にもその
 発見の栄誉を与えるに十分である」という結論に達した。
  この総括的論文は、1976年、アメリカ微生物学会の機
 関誌に発表され、北里柴三郎の発見の事実をめぐる論争
 に終止符が打たれた。
  香港の発見から82年後のことであった。
  ペストは、中世ヨーロッパの経済や文化にまで大きな
 影響を及ぼし、世界で一億人をはるかに超える死者を出
 した、人類史上最大の脅威だった。
  二人の挑戦者が成し遂げたその病原菌の発見は、世界
 の医学史に残る偉業で、不正義な事に、学名にこそ名を
 残してはいないが、その最初の発見者が、日本人の北里
 柴三郎だったことは、疑う余地もない真実だった。
  1894年6月14日、北里柴三郎は香港でペスト菌を発見し
 て、イギリスの著名な医学誌「The Lancet」は8月11日号
 にその速報を、さらに、同月の8月25日号には、北里自身
 の論文を、すでに、掲載していた。
  北里よりやや遅れて、6月20日または23日に、やはり、
 香港でペスト菌を見つけたフランス国籍を持つスイス人
 のアレクサンドル・エルサンという発見の順序だった。
  彼は、古巣であるフランスのパスツール研究所に論文
 を送ったが、そして、その論文は、9月に、同研究所の年
 報に掲載されたが、発見と発表の共に、北里柴三郎より
 後だった。
  ペストは、過去に二度のパンデミック(世界的大流行)
 を起こし、1億人を優に超える犠牲者を出した恐るべき伝
 染病・・この伝染病は、三度目の大流行地の香港で、つ
 いに北里柴三郎・・次いで、エルさんの二人の研究者に
 より正体が暴かれた。
  これによって、ペスト菌は「キタサト・エルサン菌」
 とも呼ばれるが、その発見者名には不正義な残照が残っ
 た。
  光学顕微鏡で細菌を見るとき、多くの細菌は透明に近
 いこともあり観察は容易ではない。
  そのため、あらかじめ細菌標本を染色して見やすくす
 ることが行われる。
  その染色法の代表格として、デンマークのハンス・グ
 ラムが考案した『グラム染色』がある。
  グラム染色で紫色に染まる菌は「グラム陽性」、染ま
 らない菌は「グラム陰性」と分類される。
  そして、世界の微生物学界を巻きこんだこの混乱は、
 ペスト菌がグラム陽性か陰性かをめぐる北里とエルサン
 の意見の違いから始まった。
  エルサンは、1894年のペスト菌発見を報告した論文中
 で「ペスト菌はグラム法によって染色しない」と述べて
 いる。
  これに対し、北里は、ペスト菌発見時の論文では「グ
 ラム染色に関して今は言及できないが、その点について
 は後日報告したい」とした。
  その理由は明確ではないが、北里はグラム染色液を香
 港に携行しなかったのではないかと言われている。
  そうだとすると、もし北里が染色液を持って行ってい
 たら、その後の混乱は回避できたのかもしれない。
  ペスト菌を発見してから2年後の1896年、北里はついに
 グラム染色について結論を出す。
  1896年12月に行われた東京医学会において「ペスト菌
 はグラム陽性である。
  エルサン菌はグラム陰性であるので、自分のペスト菌
 とは異なる。
  どちらが真性ペスト菌であるか、第三者の公平な決定
 を待ちたい」と報告した。
  しかし、まさにその1896年12月、台湾でペストが発生
 した。
  届けられた台湾のペスト菌をただちに調べると、それ
 はエルサン菌と同じグラム陰性であり、北里が主張する
 グラム陽性ではなかった。
  やがて「北里菌は本当にペストの病原菌なのだろうか」
 という疑いが、ささやかれるようになった。
  やがて、1899年になると、神戸にもペストが上陸。
  北里は自分の目でペスト菌がエルサンの主張どおりグ
 ラム陰性であることを確認し、その年のうちに、グラム
 陽性の「北里菌」説を取り下げた。
  しかし・・『その2年前』の1897年に、エルサンと北里
 の菌は、全く同じペスト菌であることが、すでに証明さ
 れていた。
  ドイツの細菌学者ウィルヘルム・コッレは、北里とエ
 ルサンが香港でペスト菌として採取した標本、そして、
 その後、世界各地で集められたペスト菌を細かく分析し
 た。
  その結果、北里菌もエルサン菌も同じグラム陰性のペ
 スト菌であり、また、世界中のペスト流行地で集められ
 た菌とも同一のものであることを証明した。
  北里の「ペスト菌はグラム陽性」という主張は退けら
 れたが、北里がペスト菌の発見者だということは証明さ
 れた。
  この結果は、その年に開催された万国衛生会議でも報
 告され、北里とエルサンは共に発見者であることが認め
 られた。
  また後に、コッレ以外にも2人の研究者が同様の確認を
 行ったが、結果は同じであった。
  万国衛生会議の記録により、北里への疑いは晴れたと
 思われた。
  事実、その後に発行され、多くの文献でも引用されて
 いるレーマンとノイマンの細菌学マニュアルにも、「ペ
 スト菌」の項には発見者として北里とエルサンが併記さ
 れている。
  1976年、北里のペスト菌発見をめぐる不明瞭な状態は、
 意外な形で決着する。
  いままで活発な論議を繰り広げていたヨーロッパでも、
 日本でもない「アメリカの研究者」が詳細な論文を発表
 した。
  サンフランシスコ陸軍研究所のビベルと、カリフォル
 ニア大学のチェンは、19ページを費やし、この問題に第
 三者的な立場から分析を加えた。
  香港での活動内容、ペスト菌発見時の状況、発見時の
 論文の対比、意見の対立、矛盾点の確認と問題点、細菌
 学上の分析、検体汚染の可能性、北里の再評価、臨床的
 応用など、多項目にわたり客観的な検証と評価がなされ
 た。
  その結果、エルサンと同様、北里も香港でペスト菌を
 発見したことは間違いないと結論づけた。
  この論文は、この問題に関する報告の事実上の決定版
 とされており、北里はペスト菌の発見者として確定され
 た。
  エルサンが、「ペスト菌はグラム陰性」という結論を
 出したのが分かっているのに、なぜ北里は2年も後になっ
 て「グラム陽性」を主張したのだろうか?
  日本へ戻った北里は、香港から持ち帰った多くのペス
 ト患者の血液標本をグラム染色した。
  するとグラム陰性の「エルサン菌」以外に、「グラム
 陽性の菌もあることがわかった」。
  香港調査団に参加し、現地でペストにかかって敗血症
 を起こした2人の日本人の血液からも、グラム陽性の菌が
 検出された。
  「グラム陽性のペスト菌もある」と、そのときは言葉
 で・・北里は「これもペストの病原菌とすべきではない
 か」と考えた。
  ペストに罹患すると、まず脾臓やリンパ節などの腺が
 腫れ・・その腺を切開して組織を顕微鏡で見ると、「エ
 ルサン菌」が見られる。
  さらに、ペストが重症化し、敗血症に進んでくると、
 血液中にも菌が出てくる。
  その血液を顕微鏡で見ると、エルサン菌と似てはいる
 が「グラム陽性を示す菌が現れる」。
  これはおそらく、ペストが重症化し、抵抗力が衰えた
 患者に二次感染をした、
  たとえばレンサ球菌などではなかろうか。
  ペストの本質を敗血症にあると考えていた北里は、自
 分が香港で発見したペスト菌を打ち捨てても、こちらの
 「北里菌」が重要だと考えた。
  以上が、檀原氏の見解。
  実際の診療を考えれば、ペストを診断するとき、いち
 いちリンパ節を切開するわけにはいかない。
  したがって患者の血液中の菌で診断しようというのは、
 より現実的な手法。
  また、ペストが進行すると、結局は、敗血症で死亡す
 ることが多いのだから、治療のことを考えれば、敗血症
 を起こすとき増えてくる菌に注目するのも医学的。
  学問的な結果としては報われなかったが、北里は、常
 に、実際の診療や予防の役に立つ研究を心がけていた。
  その「実学」を重んじる北里の考え方が、1897年の「
 伝染病予防法」、1899年の「開港検疫法」など、伝染病
 を予防するための法律の整備、さらには、ネズミ駆除な
 どによる感染経路の分断対策として生かされ、日本は「
 ペストのない国」となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の通らない無理を
   強いたのだろう・・歴史的、科学的智識の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
.
紀元前46億年以前、太陽系の形成・・地球が誕生する直前
  太陽は、過去の超新星爆発で散らばった星間物質がふ
 たたび集まって形成された『種族Ⅰ』の星と考えられて
 いる。
  また、太陽系には、鉄や、金や、ウランといった重元
 素が多く存在している。
  これらの重元素の成因は、質量の大きな高温の星の内
 部での元素合成と・・、
  その後に発生する超新星爆発によって作られ・・宇宙
 空間にまき散らされた・・という過程が、最も可能性が
 高いシナリオとされている・・、
  太陽系は・・46億年前に形成され始めた。
.
紀元前45億4000万年、地球が誕生した。
  太陽系の隕石や、月の岩石の生成年代から、この頃、
 原始地球が形成された。
.
紀元前44億年、最古の岩石鉱物
  現在、知られている最古の岩石鉱物が現れた。
.
紀元前40億年、原始海洋ができた、そして、プレートがで
 き・・そして、プレートが移動し始める。
  この頃、花崗岩(カナダ北部のアカスタ片麻岩)がで
 き、プレートができ・・
  古い変成岩に含まれる堆積岩の痕跡などから、43億年
 前~40億年前頃に、海洋が誕生したとみられ・・
  この海洋は、原始大気に含まれていた水蒸気が、火山
 からの過剰な噴出と温度低下によって凝結して、雨とし
 て降り注いで形成された。
  また、この頃、原始生命が誕生したと考えられている
 (生命の起源)
  マントル対流の作用で、プレートの移動が始まる。
  物理的・化学的に安定した物質として知られるダイヤ
 モンドに着目した学者が・・、
  ダイヤモンドは、安定して存在するため、地中で起き
 た出来事を記録していると考えた・・
  いわば「タイムカプセル」として機能することが知ら
 れているが・・この事から、ダイヤモンドを使って過去
 の地中の様子を推察する研究を行なった。
  研究グループは、南アフリカのカープバールクラトン
 から採掘された、世界でも最も古いとされるダイヤモン
 ドの標本3つを、ヨハネスブルクのアフリカ博物館から借
 り、放射性年代測定することで、ダイヤモンドを含む岩
 石(母岩)が、35億年前~31億年前に誕生したことを突き
 止めた。
  また、この後の研究で、ダイヤモンド内部の成分のう
 ち、窒素15/窒素14、炭素13/炭素12の同位体構成比を調
 べることで、ダイヤモンドが結晶化したマントル内部で
 はなく、地表付近の地殻で窒素15同位体がドープ(添加)
 された事を突き止めた。
  これは、ダイヤモンドが、プレートテクトニクス(大
 陸移動)の動きによって地中に引きずり込まれたことを
 意味していた・・
  「早ければ35億年前にはプレートテクトニクスが始ま
 っていた」と、プレートテクトニクスの起源について結
 論づけた。
.
紀元前35億年、大陸移動(プレートテクトニクス)の始ま
 り・・
  この地球の「大陸の形成」と「大陸の移動(プレート
 テクトニクス)」の発見は・・
  1910年、ドイツのアルフレッド・ベゲナーは、大西洋
 をはさむ南アメリカとアフリカの海岸線の形が、その凹
 凸が、偶然とは思えないほど一致している・似ていると
 気付いた(1912年説あり)
  そして、この両大陸は、元は一つの大陸と考えれば、
 古い地層の連続や、氷河の痕跡や、2億年前の生物の分布
 (古生物のグロソプてリスやメソサウルス)などが無理
 なく説明でき・・
  大陸は、無理なく分裂し、移動し、今の姿になったに
 違いないと考えた・・が・・この当時、この説は、世に
 認められなかった。
  ベゲナーの死後、20年の後、大陸移動説は見直された。
  その切っ掛けは、海底の大山脈(海嶺)の発見だった。
  海嶺は、地上では見られないほど長い海底火山の連な
 りだった。
  その総延長は、6万キロメートルにも及んでいた。
  溢れるマグマは、海水で冷やされ厚さ数10キロメート
 ルの枕状溶岩の岩盤が形成され・・これがプレートで・・
  地球の表面は、10数枚のプレートから成っていた。
  ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋
 プレート、北アメリカプレート、南アメリカプレートな
 どで・・このプレートは、様々な方向へ移動していた・・
  また、海底だけでなく、大陸も移動していた。
  マグマは、鉄を含有していて、冷える時に地球の磁気
 に影響され、磁気を帯びる。
  この磁気は、その後、消えることなく、この岩盤が生
 まれた時の方向を保ち続ける。
  1500万年前、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 たことも分かった。
  そこで、岩石の方向が分かれば生まれた年代が分かっ
 た。
  例えば、東太平洋海嶺の岩石の地磁気の方向を調べる
 と・・、
  海嶺の軸に対象に分布した岩石の地磁気の逆転が記録
 されていた。
  また、その生まれた岩石の年代の分布からプレートの
 移動速度が分かった。
  東太平洋海嶺の場合、1億6000万年前に生まれてから、
 日本付近に移動し、到達していた。
  そのプレートは、日本列島の手前の日本海溝で沈み込
 み・・海溝がその為に出来ていた。
  日本列島の太平洋岸には、縞模様の岩石が良く見られ
 る。
  砂岩と泥岩の積み重なった地層が、時には褶曲もして
 いる。
  沖縄から関東まで1600キロに及ぶ地層は「四万十帯(
 しまんとたい)」と呼ばれ・・
  この四万十帯が、日本列島の誕生する姿を教えた。
  この地層は、砂層と泥層の互いに分布する砂泥互層で・・、
  この砂層を顕微鏡で観察すると、すべて陸地を作る花
 崗岩の破片だった。
  風化が少ない事から、一気に堆積した事が分かった。
  また、泥層を顕微鏡観察すると、断面は細かい砂と泥
 が縞模様を作り、静かにゆっくり堆積したことが分かっ
 た。
  これ等の堆積が、周期的に変化する場所で、1982年、
 国際研究として、四国沖が掘削された、そして、この南
 海トラフの浅い構造を調べた。
  その掘削された試料の上層の550メートルは、30センチ
 ほどの砂の層と、5センチの泥の層が交互に重なっていた。
  この砂の層を顕微鏡で見ると、火山を起源とする砂粒
 がたくさん含まれていた。
  この四国沖には、170万年間、火山は無い・・ならば、
 この火山性の砂はどこから来たのか?
  その試料と比較するため、沖縄から関東に至る川の砂
 のすべてが調べられた。
  すると、この南海トラフの砂は、富士川の砂によく似
 ていた。
  化学組成を分析すると伊豆・箱根火山の砂に似た特徴
 が含まれていた。
  掘削地から約600キロも離れた所の砂が、何故、南海ト
 ラフに堆積したのか?
  その富士川の源流は、激しく隆起をし続ける南アルプ
 スである。
  この山の岩石が、急流の富士川を下り、細かくなり、
 そして、駿河湾に堆積する。
  この堆積物が、巨大地震を引き金として、影響され、
 海底をなだれの様に移動する・・乱泥流と言われる・・
 移動速度は30キロ/時間・・
  駿河湾付近では、周期的に繰り返される地震で、大量
 の堆積物が、乱泥流となって600キロ離れた南海トラフに
 達し、30センチの砂の層を形成した・・
  そして、500年ごとに乱泥流が繰り返され・・その後は、
 ゆっくりと泥の層が降り積もって形成された。
  こうして55万年かかって、南海トラフの堆積層が作ら
 れて来た。
  1970年代、堆積岩に含まれる微小な化石が取り出せる
 方法が開発された。
  採集されたサンプルに、3%のフッ化水素を加えて、岩
 石の表面を溶かす・・そして、プランクトンの化石を残
 す。
  これを顕微鏡下で拾い上げて、これに金を蒸着させて、
 電子顕微鏡で観察する。
  膨大なサンプルを研究した結果、放散虫というプラン
 クトンの年代的な変化が明らかになった。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、(「放射状の棒」
     の意味)は、原生生物の一群で、主として海の
     プランクトンとして出現する単細胞生物。
      珪酸質などからなる骨格を持ち、そのため微
     化石として発見される。
  こうして放散虫の種類によって地層の年代が特定でき
 る様になった。
  この方法で、四万十帯を調べてみると、普通とは逆に、
 上層が古く、下が新しかった。
  フィリピン海プレートは、3~4センチ/年の速さで南海
 トラフに沈み込んでいる。
  1980年、反射式人工地震波によって南海トラフの地下
 構造が調べられた。
  その結果、モデル実験の実験室実験と同様に、褶曲し
 ていた。
  玄武岩層のプレートの沈み込みで、上層に堆積した層
 は次々に圧縮され、褶曲した付加体となった。
  やがて、次々に付加された付加体は、隆起して陸地と
 なって行った。
  この褶曲が、四万十帯の下の層が新しい層という理由
 となった。
  岩石の磁気の方向の伏角で、岩石の誕生した緯度が調
 べられた。
  すると、四万十帯の岩石は、様々な年代の岩石が入り
 混じっている事が分かった。
  特殊な地層も発見された・・7000万年前の泥岩、その
 隣に1億3000万年前の枕状溶岩があるという状態だった。
  また、1億年前の放散虫化石が含まれる岩石と・・、
  陸地の堆積物を含まない遠い海洋の遠洋性堆積物によ
 る岩石だった。
  赤や緑の頁岩(けつがん)は、9000万年前に・・陸地
 に近い所は、粘土や放散虫が堆積したもの・・赤い石灰
 岩は、1億3000万年前のプランクトンの化石で出来ていた・・
 堆積した場所は、赤道付近である・・
  7000万年前の乱泥流堆積物・・乱泥流堆積層・火出灰
 層と泥岩の互層・チャート・枕状溶岩・・これらの様々
 な岩石が混在する900メートルの層(メランジュ)・・
  メランジュは、「かき混ぜる」という意味。
  1億3000万年前、赤道付近の海嶺で、枕状溶岩が生まれ、
 その上にナンノプランクトンが堆積するナンノ石灰岩が
 堆積する。
  1億年前頃に、中緯度までプレート移動して来て・・
 この上に、放散虫が堆積したチャートを作り・・風で運
 ばれた赤い粘土が、頁岩となってその上に堆積する・・
 陸地に近い南海トラフで、7000年前頃、泥や火山灰が積
 もり・・また、乱泥流堆積物も乗り、沈み込むプレート
 から剥ぎ取られ付加体となり・・隆起して、やがて、地
 上に現れる。
  1億3000万年の時間と、3000キロの移動距離で出来上が
 って来た岩石が、プレートの運動で混ぜ合わされて形成
 された。
  こうして四万十帯が出来上がった。
  こうした付加体が、日本列島を形成するという考え方
 ができた。
  四万十帯と中央構造線に挟まれた「秩父帯」にもメラ
 ンジュがある。
  つまり、プレートの沈み込みによって作られた付加体
 である。
  そして、ここのチャートは、四万十帯より古い3億5000
 万年前~1億8000万年前にかけて、赤道付近で降り積もっ
 た放散虫の化石からできている。
  四万十帯より古い乱泥流堆積物もある。
  秩父には、四万十帯にない武甲山のような石灰岩の大
 きなブロックがある。
  塩酸で石灰岩の表面を溶かすと、3億年前のウミユリや
 フズリナやクサリサンゴなどが現れる。
  赤道地域の珊瑚で形成された石灰岩は、鹿島沖の日本
 海溝に、1億年前に出来た海山(第一鹿島海山)が沈み込
 もうとしている。
  人工地震波で見ると、プレートに曲げの力が働いて、
 石灰岩は分断され、半分は海溝に崩れ落ちている。
  こうして剥ぎ取られた海底の海山は、付加体の一部と
 なって取り込まれ、やがて地上に現れる。
  1億5000万年に、これが起きたのが武甲山の石灰岩の山
 の頂(いただき)。
  日本列島に、4億年以上前の岩石を含む黒瀬川構造体が
 ある。
  高知県横倉山・・ここには、4億年前に堆積した地層の
 凝灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
  また、鱗木(りんぼく)の化石は、この四国とオース
 トラリアと中国だけに見られるタイプである。
  陸の植物である鱗木の化石が、破壊されないで見つか
 るのは、分析学の発達によって分かったことは、4億2000
 万年前、アジアの大部分が赤道付近にあったということ
 だった。
  シベリア・北アメリカ・中部アジア・東アジア・北ヨ
 ーロッパ・南アメリカ・アフリカなど・・、
  その後、プレートの運動によって、2億6000万年前、ア
 ジアを造る大陸が北上して行った。
  北上・阿武隈・黒瀬川地塊、秋吉海山列、チーヌス海
 海嶺・・、
  2億年前、北半球では、チベットプレート、イザナギプ
 レート、ファロランプレートの上にある大陸が衝突して
 アジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、
  海溝では、秩父帯などの付加体が形成された。
  1億3000万年前、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き・・、
  長さ1000キロにわたる付加体が、断層帯に沿って移動
 し、中央構造線が出来上がった。
  7000万年前、プレート(イザナギプレート)の沈み込
 みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
  1900万年前、大陸(ユーラシアプレート)の縁の地溝
 帯に海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万年~300
 万年の間に、日本海が出来上がった(1450万年前)。
  800万年前、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
  その後、500万年前、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付
 加して丹沢山塊などを作った。
  50万年前、伊豆半島の衝突が始まった。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地で・・、
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 ている。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作る。
  それ故、火山の列は、海溝に並行して作られることに
 なる。
  地震の震源が、海溝に並行して分布するのも、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まるためである。
  昭和61年12月、伊豆大島噴火、この様な太平洋岸での
 火山の噴火や地震が多く発生する。
  昭和49年5月、伊豆半島沖地震、
  太平洋岸の海辺に貝殻を含む岩石が良く見られるが、
 これは地震によって隆起した岩石で・・、
  太平洋岸にある段丘も、プレートによる隆起が作り出
 したもの。
  今も日本列島の沖、百数拾キロの沖にある海溝には、
 海洋プレートが沈み込み、付加体を造り続けている。
.
紀元前7億年~紀元前6億年、ゴンドワナ超大陸の存在
  大陸の移動は、大陸の集合と分裂の繰り返し・・
  6億年前、ゴンドワナ超大陸が南半球から赤道にかけて
 あった。
  ゴンドワナ超大陸の真ん中に太平洋スーパープルーム
 が上昇してきたことによって、ゴンドワナ超大陸は分裂
 しはじめた。
.
紀元前4億2000万年、この頃、アジアの大部分は赤道付近に
 あった。
  鱗木(りんぼく)の化石は、日本の四国と、オースト
 ラリアと、中国だけに見られ・・、
  陸の植物である鱗木の化石が破壊されないで見つかる
 のは、分析学の発達によってわかったのだが、この頃、
 アジアの大部分は赤道付近にあったことだった。
.
紀元前4億年、日本列島にある黒瀬川構造体には、この年代
 にできた岩石を含んでいる。
  また、高知県横倉山には、この頃に堆積した地層の凝
 灰岩がある。
  ここの三葉虫の化石は、4億年前のオーストラリアの三
 葉虫の化石によく似ている。
.
紀元前3億5000万年~紀元前1億8000万年、日本列島を形づ
 くる四万十帯より古い「秩父帯」ができた。
  この秩父帯は、この頃、赤道付近で降り積もった放散
 虫の化石からできた。
  また、この頃のウミユリや、フズリナや、クサリサン
 ゴなどから造られた石灰岩が秩父帯にはあり、その有名
 な山が武甲山で、セメントが作られている。
.
紀元前2億6000万年、プレート運動によって、アジアを造る
 大陸が北上して行った。
.
紀元前2億年、ゴンドワナ超大陸が分裂(ぶんれつ)した後、
 大陸がふたたび集合してパンゲア超大陸が生まれた。
  アフリカと南アメリカ大陸の間、ヨーロッパと北アメ
 リカ大陸の間、今の大西洋(たいせいよう)にそって、
 大西洋スーパープルームが上昇して来た。
  そして、ふたたびパンゲア超大陸が分裂しはじめた。
  また、この頃、北半球では、チベットプレート、イザ
 ナギプレート、ファロランプレートの上にある大陸が衝
 突してアジア大陸が作られた。
  その大陸の縁(へり)に、プレートの堆積物が付加し
 て黒瀬川帯などが作られ、海溝では秩父帯などの付加体
 が形成された。
.
紀元前1億6000万年、日本に到達するマントルが出来た。
  日本に到達するマントルができた東太平洋海嶺・・こ
 こから1億6000万年かかって、日本付近に移動して来た。
.
紀元前1億5000万年、武甲山が地上に隆起した。
.
紀元前1億3000万年、日本列島を形成する一要素の「枕状溶
 岩」が造られた。
  また、日本列島を形成する一要素の「赤い石灰岩」は、
 この頃のプランクトンの化石から出来た。
  この岩石の堆積した場所は赤道付近の海嶺。
  そして、その上にナンノプランクトンが堆積するナン
 ノ石灰岩が堆積されてできた。
  また、この頃、プレート(イザナギプレート)の北上
 によって、ユーラシアプレートの大陸の縁に横ずれ断層
 が起き、長さ1000キロにわたる付加体が断層帯に沿って
 移動し、日本列島の中央構造線が出来上がった。
.
紀元前1億年、日本列島を形成する一要素の1億年前の放散
 虫化石が含まれる岩石が形成された。
  (参考)放散虫:ほうさんちゅう、「放射状の棒」を
     意味する・・原生生物の一群。
      主に、海のプランクトンとして出現する単細
     胞生物で、珪酸質などからなる骨格を持ち、そ
     のため微化石として発見される。
  この放散虫の岩石の上に、風で運ばれた赤い粘土が、
 頁岩となってその上に堆積した。
  また、この頃にできたのが鹿島沖の日本海溝にある海
 山(第一鹿島海山)で、今、日本海溝に沈み込もうとし
 ている。
.
紀元前9000万年、日本列島を形成する一要素である「赤や
 緑の頁岩(けつがん)」が、この頃に作られた。
.
紀元前8300万年、パンゲア超大陸は分裂を続け、太平洋と
 大西洋(たいせいよう)のスーパープルームが断続(だ
 んぞく)的に活動した時期・・
  このスーパープルームの活動で、海洋底(かいようて
 い)に火山活動によるいくつもの巨大(きょだい)な火
 山の台地(だいち)である海台(かいだい)ができた。
.
紀元前7000万年、日本列島を形成する一要素の「乱泥流堆
 積物」がこの頃に出来た。
  この乱泥流堆積物は、この後、火山灰層と泥岩の互層
 や、チャートや、枕状溶岩などとかき混ぜられメランジ
 ュと呼ばれる層となる。
  メランジュはかき混ぜるという意味。
  そして、この頃、プレート(イザナギプレート)の沈
 み込みによって四万十帯の付加が始まった。
  こうして赤道付近に生まれたアジアプレートが、アジ
 ア付近に様々な地層を運び、海溝(古日本海溝)で混ぜ
 合わされて、日本列島の土台が作られていった。
.
紀元前1900万年、大陸(ユーラシアプレート)の縁(へり)
 の地溝帯に、海が侵入して、海底の拡大が始まり、200万
 年~300万年の間に日本海が出来上がった(1450万年前)
.
紀元前1500万年、地球の磁場は、度々、南北が逆転して来
 た。
.
紀元前800万年、水没し、沈み込んでいた東北日本が、太平
 洋プレートによる沈み込みで隆起が始まった。
.
紀元前700万年、初期猿人がアフリカに出現した。
  二足歩行をした・・
  そして、猿人へと進化して行く。
.
紀元前500万年、伊豆・小笠原孤の高まり隆起が付加して丹
 沢山塊などを作った。
.
紀元前200万年、猿人(能容積500㏄、ゴリラもこの程度、
 木製の道具を使ったか?)から原人(能容積500㏄から
 1200㏄、石器を使うようになる)へ移り変わって行く・・
  そして、この原人がアフリカから出ていく(180万年
 前)・・
  ジャワへ180万年前から160万年前に至る・・
  ジョージアへ170万年前に至る・・
  アジアへ160万年前から120万年前に至る・・
  ヨーロッパへ100万年前に至る・・
  そして、各地で人種が形成されていく・・
.
紀元前55万年、日本列島を形成する要素の一つの堆積が始
 まる。
  日本列島形成の一例・・55万年前から、55万年かかっ
 て南海トラフの堆積層が作られて来た。
  この堆積層が、プレートテクトニクスによって列島を
 作っていく。
.
紀元前50万年、伊豆半島の衝突が始まる。
  その力で、本州に褶曲山脈が作られた。
  伊豆半島は、巨大な海底台地となる。
  伊豆・小笠原弧の高まりは、次々に本州に衝突して来
 た。
  海洋プレートの水分の作用で温められマントルが熔け、
 火山の列を作った。
  火山の列は、海溝に並行して作られた。
  また、地震の震源が、海溝に並行して分布し、プレー
 トの沈み込みによって歪が溜まる。
.
紀元前40万年、ネアンデルタール人は、約40万年前に出現
 し、2万数千年前に絶滅したとみられるヒト属の一種・・
  ただし、新しい学説では、以前の学説よりも約1万年早
 く4万年前に絶滅していたと新しい化石年代は示している
 とする。
  そのネアンデルタール人は、花を敷いて葬送したとい
 う。
  また、身体的に欠陥のある人(手の悪い人)を丁重に
 葬ったという遺跡があるという。
.
紀元前20万年、旧人(能容積1500㏄、現代人とほぼ同じ容
 積)から新人(ホモ・サピエンス)へ・・
  この新人(ホモ・サピエンス)がアフリカから出てい
 く・・
  ホモ・サピエンスの化石はアフリカか中東からしか出
 土しない。
  その他の地域から、ホモ・サピエンスの化石が出て来
 るのは紀元前5万年前くらいの年代からとなる。
  ヨーロッパからの化石の出土も紀元前4万年くらい前か
 らとなる。
  南アジア・東アジア・オーストラリアも、どんなに古
 くても紀元前4万年くらい前からの化石の出土となる。
.
紀元前6万年~紀元前4万年、大陸に地続きだった日本列島
 に、あらゆる方向から人類がやって来た・・
     ・
     ・
     ・
1982年、日本列島の成り立ちを調べるために、国際研究で、
 四国沖が掘削された・・
  そして、その南海トラフの浅い構造が調べられた。
.
2018年、アイヌの方々が、「日本列島の先住民だ」と、今・
 現代の2018年に主張する・・その様な会に出た。
  しかし、これは、大間違い。
  日本列島が、まだ、大陸と地続きだった頃、今から6万
 年前から4万年前に、アイヌの方々が日本列島に来て、そ
 して、交雑もしないで日本列島に居たのであるならば、
  また、それ以後も、アイヌの方々が交雑もしないで今・
 現代に至って居るというのであるのであるならば、日本
 列島の先住民と言えるが、その様な状態であったとは、
 まったく言えない・・その様な状態ではなかったので、
 アイヌの方々が、先住民であると、到底、言えない。
  6万年前から4万年前から、地続きの日本には、あらゆ
 る方向から人々が日本列島にやって来た・・アイヌでは
 ない。
  また、人間の交雑は、最近、ネアンデルタール人の血
 が交雑されて、我々の血に混ざっていると科学が証明さ
 れたが、人間の交雑は、この様に広い範囲で交雑されて
 いて・・アイヌだけが交雑されないで来たとは、到底、
 言えない。
  大陸と地続きの頃から、あらゆる方向から人間が日本
 列島にやって来た・・それらの人々・・
  また、それ以降も、引き続き、日本列島にやって来た
 人々・・
  それらの方々が、広い交雑の中から「日本列島の先住
 民の人々」を形成し、出来上がった。
  その人々が、本州の人々や、津軽の人々や、九州の人々
 や、北海道の人々や、会津の人々や、四国の人々や、無
 土器の人々や、縄文の人々などなどとなった・・そして、
 本州人やアイヌの人や琉球の人や熊襲(くまそ)などな
 どとなった。
  6万年前や4万年前から日本にやってきた人々から見れ
 ば、そんなことは、最近の事なのだ。
  アイヌの方々だけが先住民だなんて、到底、言えない。
  それも、そのことを政府に認めさせたというが、筋の
 通らない無理を強いたのだろう・・歴史的、科学的智識
 の裏付けのない馬鹿々々しい話だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)606E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月16日、日英通商航海条約が締結された。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃された。
  安政五ヶ国条約の一つとして結んだ日英修好通商条約
 にかわって、この日、駐英公使・青木周蔵(しゅうぞう)
 が、イギリス外相のキンバリーと調印した。
  この条約は、1899年7月17日に発効し、最初の対等条約
 となった(陸奥(むつ)条約とも呼ばれる)
  日本は、この条約に準じて、他の欧米諸国とも法権の
 回復の新条約を締結した。
  これ等の不平等条約を発効させて、明治初年以来の懸
 案の条約改正交渉に成功した。
  日本も、やっと、欧米列強と対等の国際的地位に立つ
 ことが出来た。
  キンバリー英国外相は、この条約の成功は清国の大兵
 を敗走させるよりも日本の地位を高めたと祝辞を述べ、
 日本の立場に理解を示した。
  また、陸奥宗光外相も、日清戦争にイギリスの理解と
 援助を期待できるとした。
  この条約で、領事裁判権は取り返すことが出来たが、
 まだ、関税自主権の回復はできなかった。
  この関税自主権の回復は、1911年4月3日の新条約(小
 村条約)の調印による税権回収を待たねばならなかった。
.
1894年7月29日、東京府庁舎が落成した。
  設計は、妻木頼黄
  建設場所は、麹町区有楽町(現在の有楽町駅前)
  当初、東京府庁舎は、東京市幸橋門内(現在の内幸町
 一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されていた。
  そして、1898年に、東京市庁舎も完成した。
  1943年の第二次世界大戦中に、東京市 と東京府 が廃
 止され、東京都が設置された。
  建物は戦災で焼失した。
  1955年3月、敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会に
 よって文化財指定された。
.
1894年7月、日清戦争により、長崎の清国人に引揚命令が下
 された。
  しかし、長崎県知事の以下の諭告(ゆこく、さとし言
 い聞かせること。また、その言葉)によって、、、267人
 の中国人が残った。
  「仮令(たとえ)日清両国間に如何なる関係あるも、
 在留人民に対し充分の保護を与ふるは、当然の儀に付、
 反目敵視粗暴の挙動無之様相心得べし」と。
.
1894年7月、北海道庁が、帝国大学工科大学教授・田辺朔郎
 に鉄道・港湾・疏水・運河などについての調査を依頼す
 る。
  1894年8月から、田辺は、北海道鉄道ルートを調査開始
 した。
  また、北海道庁内に鉄道調査会が設置された(技師の
 委員は田辺、廣井、佐藤だった)
  (参考)田辺朔郎:たなべさくろう、1861年12月2日~
     1944年9月5日、土木技術者、工学者。
      琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関
     門海底トンネルの提言を行なうなど、日本の近
     代土木工学の礎を築いた。
      北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線
     鉄道開発に着手し、狩勝峠の名付け親。
      1896年、北海道庁長官を務めていた岳父(が
     くふ、妻の父)北垣国道に請われ、東京帝国大
     学を退任し、北海道庁鉄道部長として北海道官
     設鉄道の計画・建設にあたる。
      アメリカの科学誌『サイエンティフィック・
     アメリカン』に論文掲載される。
.
1894年7月、陸軍省の依頼によって、日本鉄道が目黒駅~
 品川駅間にある大崎駅から分岐して、東海道線の品川駅
 ~大森駅間にある大井に接続する軍事専用線(品川西南線)
 の起工を行なった(8月下旬竣工)
  これは、連絡駅の役目にあった品川駅における貨車の
 滞貨があったため、日清戦争の関係もあって円滑輸送を
 図るべく、陸軍省が逓信省鉄道作業局に路線建設工事を
 委託させて、1894年8月、大崎駅~大森駅間に陸軍省直通
 短路線を開通させた。
  因みに、日本の最初の鉄道の開業と言われる新橋~横
 浜間の全線開業より先に・・、
  1872年6月12日には、品川駅~横浜駅間が先行して仮開
 業していた。
.
1894年7月、甲武鉄道会社が、陸軍省の委嘱を受けて、青山
 練兵場への軍用線、および、青山軍用停車場の建設に着
 手した。
  これは、現在の千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の神宮外苑
 あたりに突貫工事で、1894年9月17日に、青山軍用停車場
 を開業させ、1894年9月23日から軍用輸送を開始した。
.
1894年7月、阪鶴鉄道会社に、神崎から三日町、および、
 篠山町近傍を経て、福知山(京都鉄道)に至る鉄道の敷設・
 運輸営業の仮免状が下付された。
  1929年4月30日、免許状下付。
  (参考)阪鶴鉄道:はんかくてつどう、大阪から福知
     山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線、および、
     その路線を運行していた鉄道会社。
.
1894年8月1日、日本と清国は、互いに宣戦布告をした。
  天津条約によって小康状態はあったが、日清戦争が
 公式に始まった(~1895年)
  まず出兵し、朝鮮を力で抑え、属国だとして扱って来
 た大国・清への挑戦が始められた。
 ・清国と和破れる(氷川清話)
  中国・清国の宣戦布告書には、『朝鮮は、我が大清の
 直轄の属領』と書かれ・・
  また、『200年余も修めて来た』と言っている。
  清国の宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ我大清ノ藩屏(
 ハンペイ:直轄の属領)タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修
 メルハ中外共ニ知ル所タリ…」
  (参考)職貢:しょくこう、中国王朝皇帝に対する周
     辺国や少数民族の進貢(しんこう、みつぎ物を
     差し上げること)
  清は、この様な意識と態度だった。
  ただのあいさつ代わりの御中元だったかもしれない?
 また、みかじめ料的なところもあった・・
  それに対し・・
  日本は、『朝鮮は自主独立の国』とし、そして、清国
 は、日本の行為に妨害ばかりして来ていた・・、
  また、朝鮮も、『自主独立の国』との回答を日本に寄
 せ、助けを求めて来ていた。
  この時点で、外国は清国が勝つとみており、また、清
 国も勝つと考えていた。
  そして、1888年には、すでに、山縣は、内閣総理大臣・
 伊藤博文に、「軍事意見書」で以下のことを述べていた・・
  「我国の政略は朝鮮を、自主独立の一邦国となし、欧
 州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有(りゃくゆう、
 奪い取って自分のものとすること)するの憂いなからし
 むに在り」
.
1894年8月1日、新聞報道に対する政府方針
  1891年の大津事件に於いて、自由な新聞報道が外交に
 係るこの事件の性質上、大いに問題となった。
  その様な新聞報道の自由性に関し、この日清戦争の開
 戦時も、重大な政府の関心事となった。
  しかし、政府は、この開戦時に、新聞報道に神経を尖
 らせはしたが、政府は新聞検閲は実施しなかった。
  そして、1894年8月1日に・・、
  「外交又ハ軍事ニ関スル事件ヲ新聞紙雑誌及ヒ其ノ他
 ノ出版物ニ掲載セントスルトキハ行政庁ニ其ノ草稿ヲ差
 出シテ許可ヲ受クヘシ」という緊急勅令第134号を公布し
 た。
  しかし、効果的な対策とはならなかった。
.
1894年8月11日、九州鉄道の熊本駅~川尻駅間が開通した。
  九州鉄道は、1894年8月1日に、九州各地の軍隊が門司・
 小倉に集結したが、特に、熊本第6師団の兵員輸送に大き
 な役割を果たしていた。
  また、この日、1891年8月の鳥栖~佐賀間開通以来の新
 線として熊本駅~川尻駅間が開通した。
  熊本駅~宇土駅間は、橋梁工事が多く、経済不況と相
 まって工事が遅延していた・・九州鉄道は工事期限を延
 長した。
  (参考)九州鉄道:きゅうしゅうてつどう、明治時代
     に存在した九州の私設鉄道会社。
      北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003
     年から九州鉄道記念館として利用されている。
.
1894年8月20日、広島駅~宇品駅間の仮設軍用鉄道が開通し
 た。
  山陽鉄道の広島駅~宇品駅間の5.8キロが竣工した。
  陸軍省から委託された軍用鉄道仮設工事だった。
  1896年10月、陸軍省から借り受け
  1896年12月、改築工事に着手
  1897年4月、竣工し
  1897年5月1日、開業した。
.
1894年8月20日、暫定合同条款(ざんていごうどうじょうか
 ん)
  日本は、朝鮮と暫定合同条約を調印した。
  「大日本・大朝鮮、兩國政府ハ、日本暦明治二十七年
 七月二十三日、朝鮮暦開國五百三年六月二十一日、漢城
 ニ於テ兩國兵ノ偶爾衝突ヲ興シタル事件ヲ治メ竝將來朝
 鮮國ノ自由獨立ヲ鞏固ニシ且彼此ノ貿易ヲ奬勵シ以テ益
 兩國ノ親密ヲ圖ラムカ爲メ茲ニ合同條款ヲ暫定スルコト
 如左
  一 此度日本國政府ハ朝鮮國政府ニ於テ内政ヲ改革セ
   ムコトヲ希望シ朝鮮政府モ亦其ノ急務タルヲ知覺シ
   其ノ勸告ニ從ヒ勵行スヘキ各節ハ順序ヲ追テ施行ス
   ヘキコトヲ保證ス・・」
  内容・・
  大日本・大朝鮮両国政府は、日本暦明治27年7月23日・
 朝鮮暦開国503年6月21日、漢城に於て両国兵の偶爾衝突
 を興したる事件を治め、竝に将来朝鮮国の自由独立を鞏
 固にし、且彼此の貿易を奨励し、以て益両国の親密を図
 らむが為め、茲に合同條款を暫定すること如左
  一.此度日本国政府は、朝鮮国政府に於て内政を改革
   せむことを希望し、朝鮮政府も亦其の急務たるを知
   覚し、其の勧告に従ひ励行すべき各節は、順序を追
   て施行すべきことを保証す。
  一.内政改革の節目中、京釜両地及京仁両地間に建設
   すべき鉄道一事は、朝鮮政府に於て其の財政未だ裕
   ならざるを慮り、日本政府若は日本の或会社に訂約
   し、時機を見計ひ起工せむことを願ふと雖も、目下
   委曲情節ありて其の運に及び難し。
    依て良法を案出し、可成丈速に訂約起工の運に至
   るを要す。
  一.京釜両地及京仁両地間に於て日本政府より既に架
   設したる軍用電信は、時宜を酌量して條款を訂立し、
   以て其の存留を図るべし。
  一.将来両国の交際を親密にし、且貿易を奨励せむが
   為め、朝鮮政府は全羅道の沿岸に於て一通商港を開
   くべし。
  一.本年7月23日王宮近傍に於て起りたる両国兵員偶爾
   衝突事件は、彼此共に之を追究せざるべし。
  一.日本政府は、素と朝鮮を助て其の独立自主の業を
   成就せしめむことを希望するに因り、将来朝鮮国の
   独立自主を鞏固にする事宜に関しては、両国政府よ
   り委員を派し会同議定すべし。
  一.以上開く所の暫定條款は、畫押盖印を経たる後、
   時宜を酌量し大闕護衛の日本兵員を以て一律撤退せ
   しむべし。
  右暫定合同條款内永遠に循守す可き者は、後日更に條
 約として遵行すべし。
  此が為め、両国大臣記名盖印以て憑信を昭にす。
             大日本国明治27年8月20日
             特命全権公使 大鳥 圭介
             大朝鮮国開国503年7月20日
             外務大臣 金 允植
  (参考)京仁鉄道:けいじんてつどう、朝鮮の京城 (
     現:ソウル) ~仁川間に日本の資本によって敷
     設された朝鮮最初の鉄道。
      1896年、アメリカ人 J.モールスが、朝鮮政府
     からソウル~仁川間の鉄道敷設権を得た。
      しかし、資金調達ができなかったため、翌年
     の1897年から日本が資金を出して権利を受け、
     敷設への準備を開始した。
      1897年、京仁鉄道引受組合を設立、工事開始。
      1899年、合資会社に改組。
      1900年7月8日、開通した、全線約 38.9km。多
     額の日本の資金が投入された。
  (参考)京釜鉄道:けいふてつどう。日本政府と財界
     の援助のもとに、朝鮮の京城 (現ソウル) ~釜
     山間に敷設された鉄道。
      1898年9月、資本金2500万円、取締役会長・渋
     沢栄一で京釜鉄道会社が設立され、
      1902年同8月、着工、多くの紛糾を経て
      1904年、完成。
      中国の鉄道との連結のため広軌軌道の1435mm
     とした。
      ソウル~釜山間 450km。 多額な日本の資金が
     投入された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の疑惑の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしまった。
    そして、EUがギリシャを突き放した・・支援は失敗だった・・
    ギリシャの実態は悪化している
    EUの美しい理念なんて「絵に描いた餅」なのだ・・
.
1295年11月3日、モンゴルのイルハン朝の第7代君主ガザン・
 ハンが、1295年10月4日にバイドゥを討ち破り、この日に
 君主の座に就いた。
  即位初年の勅令(ヤルリグ)で、イスラーム以外の主
 要建造物の破壊命令を発した。
  すなわち、仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾ
 ロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発
 せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会
 堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙った。
  既に、テグデル・ハン時代に、テグデル自身も含め、
 モンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、
 このガザンの治世になって、イルハン朝は、既存のモン
 ゴル国家体制や慣習などを維持しながらも、国家規模の
 イスラーム化を推進して行った。
  中国のモンゴル時代のペルシャ史料「集史」に、オゴ
 タイ・ハーンの言葉で・・、
  「チンギス・ハーンの法令:一人回教徒を殺したら、
 罰金は40バリシ。
  一人漢人を殺したら、賞金は一匹のロバと同じ」。
  モンゴルのハーンたちは、文化水準が高く、財務が得
 意な回教徒を重要視した。
  モンゴルの各地の役所に、モンゴル人と一緒に回教徒
 が並んで居た。
  また、役所の制度にも、役職にも、回教徒が上層部に
 居て優遇されていた。
  その様な規則もある、科挙、近衛部隊、官職の相続、
 兵器の装備など。
  これは、漢人上層の時、金と権力の集中現象が起き、
 それが看過できない程度になったこともあったからだっ
 た。
  因みに、「集史」(しゅうし)は、イルハン朝の第7代
 君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相
 であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史
 書で・・、
  イラン・イスラム世界、さらに言えば、モンゴル君主
 ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発
 展を記した記録として極めて重要な文献。
  モンゴル史の部分の編纂には、ガザン自身も多くの情
 報を口述し、これがモンゴル史の根本となったことはラ
 シードゥッディーンも序文で述べているが・・、
  これらのことからも「集史」は、ガザン自身の見解が
 色濃く反映された歴史書。
  その性格のため「集史」は、ペルシア語で編纂された
 歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語
 やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシ
 ア語の用語も多く含まれている。
  このため「集史」は、モンゴル帝国が持つユーラシア
 規模の世界性をまさに体現した希有の資料とされている。
  (参考)ガザン・ハン:1271年~1304年、イル・ハン
     国第7代の君主。
      在位:1295年11月3日~1304年5月17日
      中央集権的諸改革を断行し、イスラム教に改
     宗してイラン人との融和を図った。
      学問・芸術を奨励した博学・多才の帝王。
.
1862年9月14日、生麦事件が起きる。
  武蔵国橘樹郡生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区生麦)
 付近において、薩摩藩主・島津茂久(忠義)の父・島津
 久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人たちを、供回り
 の藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した。
  イギリスは、日本にこの賠償を要求した。
  そして、江戸幕府に圧力をかけるため、軍艦を横浜沖
 に集結させた。
  日本の法では、また、やり方では、この様な場合、馬
 を下り、そして、殿さまに敬意を払わなければならない
 のであり・・
  この場合の様に、馬から降りもしないで、乗ったまま
 で・・しかも、殿様の行列の進行を止め、そして、途切
 れさせ、さらに、その前を素通りするという行為は、も
 っての外の最低の不敬行為であって、この様な不敬が生
 じた場合、切り捨て御免をしても良いというのが、この
 時の日本の法であった。
  何処から見ても、薩摩藩の行為は正しかった。
  しかし、イギリスは、優位な立場を主張した。
  武力などの優位な立場を主張した。
  また、イギリスには「有色人種蔑視観」があった。
  見下す感情を持っていた有色人種の日本に於いて、白
 人のイギリス人が切り捨てられたことを怒った。
  幕府は、この事態に開戦もあり得ると、その危機を触
 書で庶民へ知らせた。
  また、将軍家の菩提寺であった増上寺の寺領だった現・
 横浜の石川村は、増上寺の荷物の避難先となった。
  そして、有事の際には、増上寺に駆け付け事にもなっ
 ていて・・増上寺の寺領の村々の人足たちは、中目黒村
 (増上寺領、目黒区)に交代で詰めた。
  また、戦いを想定した準備をした・・厚木街道などの
 付け替え工事が行われ、その人足などに、連日の負担も
 あった。
  幕府だけでなく、その周辺地域も、色々とその対応が
 なされた。
  結局、薩摩は、イギリスと戦争をすることになり、そ
 の結果、莫大な金をイギリスに盗られた・・
  そして、幕府までもが、イギリスに莫大な金を取られた・・
  国防力のない日本は、強国・イギリスに好き勝手に大
 金を取られた・・
  そして、この他にも色々と金を取られる日本という時
 代だった。
.
1940年、マンシュタイン計画
  日本と違って、ドイツの卑劣なところは、第二次世界
 大戦を事前に、計画的に、侵略する事を計画したことだ
 った。
  ドイツは、日本と違って、完全に侵略の意思があって、
 そして、戦争を始めた。
  その内の一つの「マンシュタイン計画」は、第二次世
 界大戦中の1940年に行われた「ナチス・ドイツのフラン
 ス侵攻」の主要計画だった。
  これは、1939年にフランツ・ハルダーが考案した計画
 を修正したものだった。
  故に、ドイツの第二次世界大戦は、弁解の余地が無く、
 事前の計画に基づいた侵略戦争だった。
  何年も、計画を前もって準備して、そして、意図的に、
 機械化部隊によって、電撃的に侵略を行なって行った。
  しかし、この様な大きな犯罪を、この様な行為を・・、
 戦後、ドイツは、まったく謝罪をしていない。
  日本とは「まったく違う」この様な極悪行為を、ドイ
 ツは、謝罪なしで戦後を過ごして来た。
  そして、さらに、ドイツは、この大犯罪の「戦争犯罪
 の賠償も一切していない」。
  ユダヤの方々への虐殺については、ニュルンベルク軍
 事裁判の「人道への罪」のホロコーストという大犯罪に
 対する賠償だけしかしていない。
.
1940年7月、フランス中部の都市ビシーに、ビシー政権が
 成立した。
  ペタン元帥が、上下両院の合同会議の統治権を持つ「
 正式な、そして、合法性のある政権」だった。
  ペタンは国家主席となった。
  そのため、アメリカやソ連なども正統政府の扱いをし
 た。
  しかし、フランスの国土の約5分の3を占める領土は、
 ドイツ軍が占領していたため統治は及ばなかった。
  ヨーロッパでのユダヤ人への迫害は、偏(ひとえ)に、
 他の事はさておき、ドイツだけのものではない。
  フランスもユダヤ人迫害の責任は逃れ得ない・・逃れ
 ることが出来ない。
  ドイツに占領された頃のフランスには、対ドイツ協力
 の政権であるこの「ビシー政権」ができた。
  強制収容所へ送られるユダヤの方々が、殺されるとい
 うことを知っていながら、このビシー政権は、ユダヤの
 方々を強制収容所送りを行なった。
  この様な政権が、連合軍に打倒されたのだから「フラ
 ンスは敗戦国」というのが常識である。
  しかし、連合国は、その判断を甘くして、フランスを
 連合国側へ入れてしまった。
  イギリスに亡命していたドゴールが、巧く立ち回って
 戦勝国側らしくなった。
  しかし、こんな行為は・・まゆつばである。
  また、「スイス」も、「バチカン教皇庁」も、「東ヨ
 ーロッパ諸国」も、「ソ連」も同罪である。
.
2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、一
 切、ドイツの報道のすべてで無視された・・一切、報道
 される事は無かった。
  ナチス・ドイツの計画表では、ユダヤ人とジプシー(
 ロマ)を絶滅させたら、次は、ポーランド人、ウクライ
 ナ人・・という順序で、次々に、民族を消し去ることに
 なっていた。
  そして、この当時、ドイツの成年男子の二人に一人は、
 ナチスの協力者だった。
  そして、ドイツの卑劣で卑怯なのは、この様な真実を
 消したいため、日本を悪く言い続けた。
  その為、中国や韓国の言い分だけは報道するが、日本
 の主張は「まったく無視した状況」となっている。
  南京問題も、慰安婦問題も、尖閣諸島の問題も、10年
 も前から、ドイツは、中国と韓国の言い分だけを報道し
 て来た。
  日本を貶(おとし)めるNHKは、馬鹿なNHKは、
 この事を知っていて、「日本を貶める番組を作ってドイ
 ツに提供した」・・よくこんなことが出来るのかと憤り
 が湧く・・
  マスコミに繰られたドイツは、日本を肯定している人
 は、わずか28%で・・日本を否定する人々が46%と、日
 本を良くないと見ている人が18%も多い。
  この原因は、ドイツの新聞が、マスコミが、すべて日
 本を悪く報道する結果から、この様な状況になっている。
  因みに、中国は、肯定5%、否定90%、否定が85%も多
 くて最悪。
  次が、韓国で、肯定15%、否定79%で、否定が64%も
 多い。
  ドイツは、この次の第3位に、日本を否定する国になっ
 ている。
  安倍首相も、徹底的に悪く書かれている。
  経済が日本に抜かれ、ベンツなどの工業部門も、日本
 に抜かれ・・この日本が、ドイツを追い抜いたところが
 心地よくないと思っている。
  日本政府の「日本の主張」も・・ドイツの報道はとり
 あげない。
  2014年4月30日、安倍首相が、ドイツを表敬訪問しても、
 一切、ドイツ報道のすべてで報道される事は無かった。
  朝日新聞の嘘報道も、事実を否定したいために利用し
 ている・・、
  だから、日本の閣僚が、例えば、一つの嘘と判明した
 証言を使って全否定するのは、ドイツのホロコーストが、
 まったく無かったと否定する様なものだという言い方で
 ドイツのマスコミは報道したりする・・、
  朝日新聞の吉田清治の嘘行為をあばいても、全否定は
 出来ないと言っている・・
  こんな欺(あざむ)く報道の仕方で、ドイツの国民の
 方々を繰っている。
  書く必要もない韓国の嘘を付け加えて、日本の拉致し
 た女性たちには「15歳から6歳の少女たちが、多数、含ま
 れていた」と、まったく存在しない嘘まで書くという報
 道ぶりとなっている。
  日本の外務省が抗議すると、尾ひれはひれを書いて、
 さらに、外務省から攻撃にさらされたと書く始末となっ
 ている。
  そして、日本外務省は、「間違いだと言った報道」の
 証拠も示さなかったとも書く始末となっている。
.
2014年11月6日、メキシコが、中国の高速鉄道の導入の契約
 を破棄した(総距離210キロ、5000億円規模)
  この契約破棄の背景には、中国によるペニャ・二エト
 政権への贈賄疑惑が一大スキャンダルに発展したことも
 あった・・、
  結局のところは、技術の劣る中国製造の高速鉄道は危
 ないという判断があった。
  (資料)
  メキシコ、中国勢受注の高速鉄道契約を破棄
     (2014年11月7日 / 17:07)
  [メキシコ市 7日 ロイター] メキシコ政府は6日
 遅く、ペニャニエト大統領が、中国国有企業を中心とす
 る企業連合が受注していた高速鉄道建設をめぐる契約を
 破棄したと発表した。
  同企業連合だけが応札していたことに批判が高まって
 いた。
  メキシコ政府は新たな入札を行う方針。
  高速鉄道は、首都メキシコ市と中部の都市ケレタロを
 結ぶ計画。
  議員らは、中国国有の中国鉄建を中心とする企業連合
 を政府が特別扱いしたと非難していた。
  (資料)
  中南米で、中国の高速鉄道の建設計画が次々と失敗に
 終わっている。
  2009年の夏に発表されたベネズエラでの450キロの高速
 鉄道計画は、現在ではほとんどが放棄状態となっている。
  中国の建設スタッフは、すでに現地を去り、関連工場
 は廃墟となり、金目のものはすべて持ち去られた状況と
 なっている。
  中国メディアの言い分は・・、
  ベネズエラは原油輸出国だが、原油価格の暴落で経済
 危機に陥った・・だった、
  また、高速鉄道が完成しても電力不足の深刻なべネズ
 エラでは車両を走らせられないし、ベネズエラ政府もこ
 れを維持できないと報道した。
  ブラジルの場合、中国は鉄道事故を起こしているため、
 入札自体が出来ないとした。
  (資料)
  2015年12月26日、産経・・(抜粋)
  メキシコの高速鉄道計画が迷走の末に事実上頓挫し、
 波紋を広げている。
  中国企業がいったん落札したが、撤回されたあげく、
 メキシコのペニャニエト政権に対する贈賄疑惑など大ス
 キャンダルに発展し、世界中から批判が殺到。
  追い込まれたメキシコ政府は原油安と財政難を理由に
 計画そのものを棚上げした。
  しかし、高速鉄道の本格的な海外進出プロジェクトの
 モデルにと期待していた中国側は激怒し、補償を求める
 騒ぎに拡大している。
  メキシコ政府は1月30日、2015年予算からの歳出の2.6
 %削減などを柱とする財政緊縮策を発表した。
  緊縮策に同国が鳴り物入りで導入しようとしていた高
 速鉄道計画の棚上げが含まれていた。
  ペニャニエト政権は、原油安による財政悪化を受けた
 措置だとしているが、額面通りに受け取る関係者は多く
 はない。
  メキシコの高速鉄道計画は、メキシコ市と中部の都市
 ケレタロを最高時速300キロで結ぶもので、経済成長を牽
 引する柱として、ペニャニエト政権が各国から参画する
 業者を募った。
  三菱重工や川崎重工、ドイツのシーメンス、米国のゼ
 ネラル・エレクトリック(GE)など世界の名だたる企
 業が動いたが・・、
  昨年11月の入札には、中国鉄道建設総公司が率い、中
 国の車両メーカーの中国南車が中心となるコンソーシア
 ム(企業連合)のみが単独応札し、落札した。
  (資料)
  2018年7月16日、インドネシアは「中国に騙された」と
 後悔している。
  この様な状況になっているのは、高速鉄道計画(ジャカ
 ルタ~バンドン間・約140Km、2019年開業予定)。
  ほぼ、日本の新幹線方式での導入が確実視されていた
 が、中国の「財政負担ゼロ」という誘惑に騙されてしま
 った。
  ジョコ大統領は、円借款を利用する日本の新幹線方式
 の導入のオファーを蹴った。
  2016年1月に、盛大な起工式を行ったが、なかなか本格
 的な工事は進まなかった。
  中国側は「土地収用が終わらなければ出資しない」と
 一転して態度が変わった。
  今月(2018年7月)、工事全面スタートと発表したが、
 来年4月の大統領選挙には、絶対に間に合わない。
  再選を目指すジョコ大統領の実績として、選挙対策の
 PRにしようとの目論見は崩れ去った。
  過去に、インドネシアは、素晴らしい仕様書に騙され、
 粗悪航空機を導入してしまったことがあった。
  それは、中国製プロペラ旅客機MA60(中国名は新舟60)。
  墜落事故や、多くのトラブルを起こす欠陥機だった。
  この教訓が、高速鉄道の決定に生かされてなかった。
  (資料)
  じゃかるた新聞、2015年9月5日、日中案とも不採用 
 高速鉄道計画見直し 大統領 「両国に外交的配慮」 
 「中速鉄道」に変更
  ダルミン・ナスチオン経済調整相は4日、高速鉄道計
 画を見直す方針を明らかにした。
  ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)大統領の意向と
 して、ナスチオン経済調整相が谷崎泰明駐インドネシア
 大使に伝えた。
  インドネシア政府は、日本と中国が受注を目指してき
 た高速鉄道事業のどちらも採用せず、替わりに同区間で
 時速200~250キロの「中速鉄道」の導入を目指すことで、
 再度検討する方針。
  ナスチオン経済調整相は4日、経済調整省で谷崎大使
 と会談し、高速鉄道の計画案を採用しないことを伝えた。
  谷崎大使によると、インドネシア政府はジャカルタ~
 バンドン間(150キロ)が高速鉄道を採用するほどの長距
 離区間ではないことと、同事業には政府予算を投入しな
 い政権の意向に沿わなかったことが最終的な見直しの理
 由と説明した。
  日本と中国いずれの提案もインドネシア政府が事業の
 一部を負担する内容だった。
  谷崎大使は「(高速鉄道計画は)前政権からの要望だ
 ったため非常に残念だが、大統領が決めたことなので結
 果を受け止める」と述べた。
  政府当局者によると、ジョコウィ大統領は側近に「い
 ずれかを採用すると、負けた国に恥をかかせる。
  日中のメンツを守りたかった」と述べ、日中への外交
 的配慮も見直しの背景にあったことをにじませた。
  ナスチオン経済調整相は、高速鉄道に代わり、同区間
 で「中速鉄道」導入を検討すると表明。
  同相は高速鉄道よりも10分ほど到着が遅れるが、30~
 40%ほど支出を抑えられると述べた。
  「中速鉄道であれば、日中両国以外にも投資を希望す
 る国が複数ある」とさらなる競争を示唆した。
  日本の提案してきた高速鉄道事業は、ユドヨノ前政権
 時の2013年に、首都圏投資促進特別地域(MPA)構想
 で合意された事業。
  ジャワ・スマトラ経済回廊の発展の中心に位置付けた
 同構想のもと、日本側は官民一体で提案を続けてきた。
  ユドヨノ政権から昨年引き継いだジョコウィ政権は、
 ジャワ島以外へ投資を誘致する方針を示し、均一な経済
 発展政策を掲げる。
  ジョコウィ政権は、高速鉄道事業に政府予算を投入し
 ないと明言していた。
  日本政府は、2013年3月、鉄道などのインフラ輸出拡大
 策を検討する「経協インフラ戦略会議」を設置した。
  インフラ関係受注額を2020年に約30兆円にするとの目
 標を掲げ、新幹線輸出はその柱の一つだ。
  日本勢はインドネシアのほか、シンガポールとマレー
 シア、タイ、インド、米国のテキサス州やカリフォルニ
 ア州などの高速鉄道計画で新幹線システムの輸出に向け
 て活動を続けている。
  今回の中国との受注合戦では、日本案は建設実績や安
 全面をアピールした一方で、中国案に比べ初期投資の負
 担の大きさが指摘された。
  これまでに日本の新幹線の導入が実現したのは台湾の
 み。
.
2015年、この年のシリア難民危機が起き、深刻化したが、
 ドイツやスエーデンの移民の割合は、人口の20%を上回
 っており、国の形が大きく変貌して来ている。
  特に、ドイツ・・その国家は壊れて来ている。
  「かつて」という修飾語を付けてしか語れなくなって
 来たドイツとなっている。
  「かつてのドイツ文化」「かつてのドイツ哲学」「か
 つてのドイツ音楽」などとしか語れなくなっている・・、
  それを語ると「カタルシスに堕ちた」と言われるとい
 う状態となっている。
  (参考)カタルシス:解釈に2説あり、感情を純化する
     とするルネサンスからレッシング(ドイツ啓蒙
     思想の代表者)にいたる倫理的解釈と、感情の
     うっせきを瀉泄 (しゃせつ) するとする解釈が
     ある。
      舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることに
     よってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心
     の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解
     放し、それにより快感を得ること。
  ヨーロッパの文化も、この様に共に壊れて来ている。
  バッハとかベートーベンとか、この様なクラシックを
 聞く人が居なくなっている。
  特に、若い人の間では、激減現象が起きている。
  日本人がイメージするドイツの姿は、過去のかつての
 時間の中に過ぎ去ってしまっている。
  ドイツのクラシック音楽会に来るドイツ人は、ほとん
 どがお年寄りの人たちだけ・・バッハやベートーベンも
 予想しなかっただろうという状態・・、
  日本は、クラシック音楽を聞きに行く若い人たちが多
 いが・・、
  また、日本の医師は、「カルテをドイツ語」で書くが、
 当のドイツは、「カルテを英語で書いている」という状
 態・・ドイツ文化は壊れて来ている。
  そして、ドイツを美しく語ったその一つだった「マイ
 スター制度」も・・これも化石の状態となっている。
  親がマイスターであっても、子供を昔どおりのやり方
 で跡継ぎにしようとは考えないドイツとなっている。
  マイスターは過去のものとなっている・・
  ドイツは、大量の移民の流入と共に、文化や国家が壊
 れて来ている。
.
2018年6月24日、オーストラリアのシンクタンクが、日本の
 安倍首相を2位に信頼できる指導者とした。
  オーストラリアのシンクタンク、ローウィー研究所が
 調査レポート「2018 LOWY INSTITUTE POLL」を公開した。
  ☆リーダーの信頼度ランキング
  1位、イギリス、メイ首相、信頼できる68%、
  2位、日本、安倍首相、信頼できる66%
  3位、オーストラリア、マルコム・ターンブル首相
     信頼できる63%
  4位、フランス、エマニュエル・マクロン大統領
     信頼できる61%
  5位、中国、習近平国家主席、信頼できる43%
  6位、インド、ラーム・ナート・コーヴィンド大統領
     信頼できる37%
  7位、アメリカ、ドナルド・トランプ大統領
     信頼できる30%
  8位、ロシア、ウアジーミル・プーチン大統領
     信頼できる19%
  9位、北朝鮮、金正恩朝鮮労働党委員長
     信頼できる5%
.
  ☆国別のグローバル信頼度ランキング
  1位、イギリス・・90%が信頼できる
  2位、日本・・87%が信頼できる
  3位、フランス・・84%が信頼できる
  4位、インド・・59%が信頼できる、40%が信頼できない。
  5位、アメリカ・・55%が信頼でき、44%が信頼できない。
  6位、中国・・52%が信頼でき、48%が信頼できない。
  7位、ロシア・・71%が信頼できない、28%の信頼できる。
  8位、北朝鮮・・90%が信頼できない、8%が信頼できる。
.
2018年7月30日、EUが、ギリシャを突き放した。
  この日の読売新聞に・・、
  欧州連合(EU)が、ギリシャを突き放して、もう支
 援はしないとした・・と書いた。
  新聞の表題は・・、
  「ユーロ圏の支援、来月終了」「ギリシャ、遠い自立」
 「職安に長い列・高い税率に悲鳴」・・とある。
  そして、写真は・・、
  「アテネ市内の職業安定所が、詰めかけた人であふれ、
 入り口の外に座り込む人たち」・・を写している。
  また、表示しているデーターは・・、
  ギリシャ経済が、支援を始める前よりも悪化している
 ことを示している・・(何のための支援だったのか?)
 まったく改善がなされていない。
  失業率:2010年、12.7%→2017年、21.5%
  貧困率:    27.7%→    35.6%
  GDP成長率: -5.5%→     1.4%
  債務残高のGDPに対する割合:146.2%→178.6%
  そして、今まで嘘をつき、騙して来たギリシャの経歴
  2009年10月、政権交代を機に、ギリシャの財政赤字の
   過少申告の嘘が発覚する→財政危機へ落ち込む
  2010年5月、第一次支援、ユーロ圏と国際通貨基金(
   IMF)が1100億ユーロ(約14兆2000億円)の支援
   を決定
  2011年11月、ギリシャ政権が交代、欧州中央銀行出身
   のパパデモス政権の誕生
  2012年3月、第二次支援、ユーロ圏が1300億(約16兆
   8000億円)ユーロの支援を決定。IMFも支援決定。
  2015年1月、ギリシャ政権がチプラス政権に交替、EU
   などが言う緊縮政策に反対する政権が誕生。
  2015年7月、ギリシャとEUのつばぜり合いで、ギリシ
   ャ支援が失効し、事実上の債務不履行状態に、ギリ
   シャは陥(おちい)った。
  2015年8月、第三次支援:ユーロ圏が860億ユーロ(約
   11兆1000億円)をすることに決定・・EUが折れた。
  2017年7月、ギリシャが、一部の国債発行の再開を決定
   した・・誰が国債を買うか?
  2018年6月、ユーロ圏が支援終了を決定した、見放され
   た。
  2018年8月、第三次支援が終了する。
  庶民は高い税率に悲鳴を上げている・・例えば、アテ
 ネで果物店を営む50代の男性経営者は、「税金が高すぎ
 て利益はほとんど出ない」と悲鳴を上げる。
  IMFは、この様な高率の税収入などで2016年に黒字
 に転換したとした。
  しかし、ギリシャは、成長を先導する産業が乏しく、
 緊縮財政は企業の撤退や消費低迷を招き、失業率は高止
 まりした。
  ギリシャは、黒字が出せる普通の国になれるのか?
  国民の考えは、ユーロ圏の支援がなければ駄目だ、支
 援終了に反対が47%居る。
  また、今後、黒字転換したまま、景気も回復するとい
 う見方は出来ないとするギリシャ国民の方々が43%と、
 否定的見方の人々が多数を占めた。
  また、ギリシャ経済産業研究所は、ギリシャの経済再
 建に向けて、産業創出による歳入増加と雇用拡大が不可
 欠で、法人税などの引き下げで海外投資を呼び込む必要
 があるとしている。
  しかし、ギリシャの選挙が、来秋までに総選挙が予定
 されている・・そして、その選挙に立候補予定の「EU
 の緊縮財政政策に反旗を翻した」チプラス氏が、早くも
 緊縮財政を緩和する考えを示している。
  ギリシャは、「緊縮政策は放棄」し、「放漫財政」に
 逆戻りをする懸念が出ている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)605E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月25日、高陞号(こうしょうごう)事件が起こった。
  日本への返事を無視して、朝鮮への兵員増強をしよう
 としている中国の清国・・、
  その様な行動を控えさせたいという日本・・、
  陸奥宗光外相は、「回答期限の25日以降は、清国の軍
 艦ないし兵員輸送船を攻撃しても外交上問題ない」とい
 う旨を海軍側に伝えた。
  最後通牒の回答期限を過ぎれば、清国の回答無視の決
 定により、清国軍の兵員増強・増派を確認した時点で、
 その行動阻止の行動がとれるという意味だった。
  7月24日、第一遊撃隊は、牙山湾内にて清国軍艦「済遠」
 「広乙」が護送する陸兵1000名を乗せた輸送船「飛鯨号」
 の船団と出会ったが、回答期日前であったため、そのま
 ま素通りさせた。
  そして、回答無視が確定した7月25日が来る。
  7月25日午前10時8分、清国陸兵1100名(乃至1500名)
 が乗船するイギリス船籍商船「高陞号」は、日本艦艇の
 指示を受けて豊島沖に停船した。
  7月19日の日本が清国へ出した最後通牒で、日本艦隊に
 よる朝鮮西岸の海上封鎖を予期した清国直隷総督兼北洋
 大臣の李鴻章は、イギリス商船をチャーターして陸軍兵
 を搬送させる策を取っていた。
  第一遊撃隊司令官・坪井航三少将は、指示を無視した
 「済遠」の追撃に向かった為、「浪速」艦長・東郷平八
 郎大佐が、このイギリスを敵に回しかねない難局に当た
 る事になった。
  東郷大佐は、浪速を高陞号から900メートル離れた位置
 に停留させると人見善五郎大尉に高陞号の臨検に向かう
 よう指示した。
  人見大尉は、カッター船に乗って高陞号に赴き、武器
 を手に殺気立つ清国兵達に囲まれた中で、高陞号船長ガ
 ルス・ウォルズウェーと面談した。
  浪速も警戒態勢をとって、砲門の狙いを定めていた。
  清国兵も迂闊には手を出せなかった。
  人見大尉は、高陞号の船籍と目的を尋ねて「英国ロン
 ドンのインドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マセソ
 ン社所有のイギリス船籍商船である事」と、
  「清国政府にチャーターされ陸軍兵1100名と大砲14門
 その他を朝鮮・牙山港へ搬送する途中である事」を確認
 した。
  続けて、高陞号を浪速に随行させるよう求めるとウォ
 ルズウェー船長は承諾した。
  人見大尉は、浪速に帰還し、その旨を東郷大佐に報告
 した。
  東郷大佐が、自艦浪速に続くよう英文の手旗信号を送
 ると高陞号から「重大事態発生」の信号が返って来た。
  清国兵の反抗が起きていた。
  その反抗を読み取った東郷大佐は、再び、人見大尉を
 高陞号に向かわせた。
  そして、可能ならウォルズウェー船長を浪速に移乗さ
 せるよう指示した。
  しかし、清国兵は、イギリス人が船を降りるならば殺
 害すると脅迫した。
  ウォルズウェー船長は、高陞号を天津・大沽港に引き
 返させるという妥協案を提案した。
  それを受けた東郷大佐は、まず、船長に高陞号から離
 れるようにとの英文信号を送った。
  返信は、「こちらからは離れられない状態だ、そちら
 から船を送ってもらいたい」だった。
  東郷大佐は、「それは出来ない」と信号して、再び、
 「船を離れるように」と送信した。
  この交信は、高陞号が清国兵に乗っ取られていて、叛
 乱状態にあって、その非戦闘員の資格を喪失した確証を
 得る為だった。
  高陞号の船上の清国兵は騒ぎ出していて、すでに、停
 船してから4時間ほどの時間が経過していた。
  東郷大佐は、攻撃の警告を発した。
  7月25日13時45分、東郷大佐は、浪速のマストに攻撃警
 告の赤旗を掲げた。
  だが、高陞号船上はざわつくばかりで、反乱状態にあ
 り、返信も無い状態だった。
  混乱などが起き、状況の改善は無く、進展無しと判断
 した東郷大佐は魚雷発射を命じた。
  魚雷接近で、清国兵が動揺し、その隙を突いてイギリ
 ス人船員達が海に飛び込んだ。
  その状況を見て、東郷大佐は、すぐさまカッター船を
 出して救助に向かわせた。
  魚雷は不発に終わった・・
  清国兵たちは、海を泳ぐ船員達に銃撃し始めた・・そ
 のため、複数名が殺害された。
  この様な中、日本水兵は、ウォルズウェー船長を含む
 イギリス人船員3名の救出に成功した。
  その後、東郷大佐は、やむなく右舷砲2門の砲撃で高陞
 号を撃沈した。
  この高陞号事件は、この後、日英間の問題となった・・
  しかし、結論的には・・東郷平八郎大佐を評価する声
 が上がった。
  8月4日、イギリス政府は、長崎に英国海事裁判所を開
 き、8月7日に結審したが・・、
  この裁判は、ウォルズウェー高陞号船長に過失が無い
 事を証明するものだった。
  続いて、上海において開廷された英国海事裁判では、
 8月17日の結審宣告で、日本軍艦の行為は正当であるとの
 判決が下った。
  日本政府に対する賠償請求を放棄する勧告がイギリス
 本国政府に伝えられた。
  イギリス政府が、この勧告を受け入れた事で高陞号事
 件は決着した。
  その後、国際法を熟知し、厳格な判断を下した浪速艦
 長・東郷平八郎大佐を評価する声が上がった。
.
1894年7月25日、豊島沖(ほうとうおき)の海戦
  豊島沖は、朝鮮の泰安半島(たいあんはんとう、黄海
 に突き出た半島)の西方にあるが・・
  一方、この日、第一遊撃隊司令官・坪井航三少将が、
 指示を無視した清国艦の「済遠」の追撃に向かったが、
 清国艦と交戦状態となった。
  日本艦隊は巡洋艦3隻、清国側は巡洋艦2隻、砲艦1隻。
  日本側はほとんど損害はなく、清国艦隊は巡洋艦1隻が
 陸岸に乗上げて爆発し、砲艦は降伏し、巡洋艦1隻だけが
 かろうじて脱出した。
  この日、7月25日午前7時、この第一遊撃隊は、牙山湾
 の出口付近にある豊島沖にてスループ艦「武蔵」と通報
 艦「八重山」と合流する予定だった・・この時、牙山港
 から航進して来た清国艦「済遠」「広乙」と遭遇した。
  この清国艦2隻は、前日の清国兵員輸送船を牙山港に届
 けた後、続けて天津・大沽港から到着する輸送船「高陞
 号」を出迎えに行く所だった。
  同日7時52分、南西方向に進み黄海に出ようとする「済
 遠」「広乙」と、北上する第一遊撃隊の両艦隊が、距離
 3000メートルまで近づいた時、突然、攻撃が加えられた。
  豊島沖に轟音が響いたが・・どちらかの砲弾が発射さ
 れた。
  清国側は、日本艦艇が先に砲撃したとした。
  日本側の報告には、「吉野」が国際海洋法に則って「
 礼砲」を放つも「済遠」は返礼せず戦闘準備をし、やが
 て実弾を発射をして来た・・と、
  因みに、
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなっていた。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  この様な事から、国際法で守られるはずの戦場の日本
 の病院が襲撃される事例も発生した。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  日本の貶める番組ばかりを製作して放送するNHKと
 なっている。
  また、日本が、この様な海戦で、「何故、強かったか?」
 と言うと・・、
  中国・清が、イギリスにあれほどアヘン戦争で、嫌と
 いうほど痛めつけられ、辛酸な目に遭わせられたと言う
 のか・・殺され、国が亡びるほどアヘンを売り込まれ、
 廃人だらけにされ殺されているのに、その喉(のど)元
 が過ぎれば「朝鮮や日本を居丈高に脅し」、虐(いじ)
 めにかかっている。
  その様な行為で・・散々辛酸な目をなめて来て、分か
 っている中国・清のはずだが・・、
  「何故、同じ様なことをするのだ」と、日本は、その
 不正義を見かねていた、そして、立ち上がった。
  日本の艦隊には、「その正義観があった」、だから強
 かった・・兵の士気も上がったのだった。
  日本は、明治の開国以来、富国強兵策でやって来て、
 この様な状況を生むまでに精進して来た・・
  欧米列強は、中国・清が勝つだろうと予測していた・・
  その様な予測の差を、日本は、逆転させていたのだっ
 た。
  今まで、欧米列強が、力を誇示し、中国や朝鮮・アジ
 ア諸国、そして、インドなど、好き勝手に力を誇示して、
 うまい汁を吸っていた・・日本は、その様な姿に憤(い
 きどお)りを抑(おさ)えながら、日本は国を富ませて、
 兵を強くする努力をして来ていた・・
.
1894年7月25日、政府派遣の伝染病研究所長・北里柴三郎が
 香港でのペスト流行実地調査の帰途、長崎に立ち寄った。
.
1894年7月25日、下総鉄道の佐倉駅~佐原駅間の建設仮免許
 状が下付された。
  成田山新勝寺は、江戸時代も江戸っ子に親しまれ、明
 治の鉄道の時代になっても、鉄道で結ぼうという構想は
 早くからあった。
  1887年(明治20年)に、本所駅~市川駅~ 佐倉駅~佐
 原駅間を結ぶ構想の武総鉄道が設立され・・さらに・・、
  1889年(明治22年)に、佐倉駅~成田駅~佐原駅間を
 結ぶ構想の北総鉄道が設立された。
  しかし、当初、千葉県は、東京への交通手段で鉄道と
 利根川水運の両方があると、競合し、共倒れするのでは
 ないかと恐れた。
  そして、利根運河ができている以上、同地域には鉄道
 は不要だとの見解になった。
  この様な経緯で、この路線の建設は大分遅れた。
  やっと、この年・1894年(明治27年)になって、本所
 駅~市川駅~佐倉駅間に総武鉄道(後の総武本線)が開
 通した。
  そして、成田までの開通はまだまだ先だった。
.
1894年7月26日、播但(ばんたん)鉄道の姫路駅~寺前駅間
 が開通した。
  播但線は、兵庫県姫路市の姫路駅から兵庫県朝来市の
 和田山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線
 (地方交通線)で・・播但鉄道は、この姫路駅~寺前駅
 間が開業すると同時に設置された。
  この路線は、山陽本線と山陰本線を結ぶ陰陽連絡路線
 で・・阪神大震災によって、神戸周辺の鉄道が不通にな
 った時は、バイパス路線として活躍した路線だった。
  関西の代表的な非電化路線であった。
  そのため、1972年(昭和47年)に、蒸気機関車の廃止
 時は・・、
  また、1992年(平成4年)3月14日の客車列車全廃時に
 は、それぞれ多くの鉄道ファンが沿線に詰めかけた。
.
1894年7月27日、甲午改革(こうごかいかく)が開始された。
  1894年(甲午の年)から1896年にかけて、朝鮮にて内
 政改革が行なわれた(第一次甲午改革)
  日本のアドバイスによって、金弘集政権の下で、官制
 の改革による国政事務と宮中事務が分離され、また、銀
 本位制が採用され(通貨改革)、身分差別の撤廃、拷問
 の廃止など、広範囲な改革が行われた。
  金弘集(きんこうしゅう⇒キム-ホンジプ )政権は開
 化派の政権で、近代化のための改革法令を発令した。
  清国の外交官・黄遵憲の著書『朝鮮策略』を持ち帰っ
 て国王・高宗に上呈し、開化政策推進の契機とした。
  常に、外交の前面に立ち、欧米各国との修好通商条約
 の締結、日本との交渉などに携わった。
.
1894年7月28日、日清戦争: 成歓(せいかん)の戦い
  1894年6月8日、中国・清国の葉志超(ようしちょう)
 総督、聶士成(じょうしせい、軍人)山西太原(山西省
 の省都の太原)鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、
 歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日、3880名に達した。
  1894年7月23日午前2時、日本軍の混成第九旅団(歩兵
 四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。
  1894年7月25日、朝鮮が、清国の宗主権破棄を宣言した。
  大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請する。
  1894年7月26日、混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)
 にその旨が伝達された。
  1894年7月28日、日本軍が、牙城に篭る清国兵を攻撃す
 るため出発した。
  1894年7月29日午前3時20分、佳龍里おいて清国兵の攻
 撃によって、歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大
 尉が戦死する(日本側初の戦死者)
  他数名が死傷(安城の渡しの戦い)
  1894年7月29日午前8時30分、日本混成第9旅団が、成歓
 の中国・清陣地を制圧した。
  大島旅団長は、清国軍の主力が牙山にあるとして、7月
 29日午前、全旅団に牙山へ向け出発を命じる。
  1894年7月29日午後3時頃、牙山に到達する、すでに、
 清国軍は敗走。
  この作戦での日本兵の死傷者は88名・・清国兵は500名
 以上の死傷者。
  清国兵は、武器等を放棄し、平壌まで逃亡。
  この安城の渡しの戦いで、歩兵第21連隊の木口小平二
 等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話
 がある。
.
  今日の言葉
.
  題:対中・・経済戦争・・
    人民元「国際通貨化の脅威」に立ち向かえ・・
    共和党のトランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
   罰する」と息巻いている。
    消費税増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通りの増税に
   追い込む根回しだ。
.
1905年8月、日露戦争の講和会議が開かれた。
  そして、1905年9月5日(日本時間)に調印された。
  アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス
 海軍造船所において、大日本帝国全権・小村寿太郎(外
 務大臣)とロシア帝国全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で
 会議がなされた(~1905年9月4日)
  当初、ロシアは、強硬姿勢を貫き・・、
  「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロ
 シアは負けてはいない」。
  「まだまだ継戦も辞さない」・・と主張していたため、
 交渉は暗礁に乗り上げていた・・が、
  日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると
 判断しており・・
  また、この調停を成功させたいアメリカは、ロシアに
 働きかけることで事態の収拾をはかった。
  結局、ロシアは、満州、および、朝鮮からは撤兵し、
  日本に樺太の南部を割譲するものの・・、
  戦争賠償金には一切応じない・・というロシア側の最
 低条件で交渉は締結した。
  この条約によって、日本は、満州南部の鉄道、及び、
 領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲
 得した。
  しかし、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあた
 る20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得するこ
 とはできなかった。
  そのため、条約締結直後、戦時中の増税による耐乏生
 活を強いられてきた国民によって「日比谷焼打事件」な
 どの暴動が起きた。
  そして、日露戦争に日本は勝利をしたが、その後のこ
 の交渉の時点で、日本は、情報戦で、狡賢いロシアにし
 てやられている。
  それは、日本が「正直で律義な国民性」から約束を守
 ったためだった・・、
  逆に、ロシアは、約束を守る様な事はまったく無かっ
 た。
  日本は、日露双方が合意に達するまでは、交渉の中味
 は、記者・ジャーナリストには漏らさない・・という約
 束を最後まで律儀に守り続けた。
  それ故、日本からは、何の情報も発信しなかった。
  それに対し、ロシアは、情報を漏らす行為を行なって
 いた・・約束破りの行為をしていた。
  それも、ロシア側に都合が良い色付けをし、脚色した
 情報を、アメリカやヨーロッパの記者たちに与えた。
  さらに、ロシアが不誠実で汚いのは、キャビアや高級
 料理や酒でもてなし、接待漬けにして、懐柔して情報操
 作をしていたことだった。
  律儀で正直な日本との差は歴然で、それまで、日本を
 応援してくれていたアメリカ世論もロシア贔屓(ひいき)
 となって行った。
  ロシア全権代表のウィッテは老獪(ろうかい)で汚か
 った。
  また、「日本は賠償金を欲しがる強欲国家だ」とか、
 ロシアの嘘情報やリークで情報が漏らされ、世界は情報
 操作され、日本の国家イメージは悪くされていた。
  日本の全権代表・小村寿太郎は、忠実に約束を守った。
  戦争に勝利した日本は、その後の情報戦で、汚いロシ
 アに、結果的にこの様にしてやられた。
  第二次世界大戦後に、アメリカにデッチ上げられた東
 京裁判だって、「裁く法律が無いのに裁判をする」とい
 う嘘裁判のアメリカだった。
  後から事後法を作って裁くという「虚偽の演技をする
 嘘つきアメリカ」だった。
  再審すれば「全員無罪」のインチキ裁判だった。
  (参考)事後法の禁止:事後法 ex post facto lawに
     よってさかのぼって処罰することはできないと
     いう原則。
      行為後に施行された刑罰法規に遡及効を認め
     て施行前の行為を処罰することは許されない、
     という遡及処罰禁止の原則。
      罪刑法定主義の重要な内容をなすもので、ア
     メリカは、こんな基本的な事を侵してまでして
     東京裁判を行なって、日本を罪に落とした。
  東京裁判のこの時に出された検事側の資料だって、根
 拠のない、信憑性(しんぴょうせい)のない、信頼が出
 来ない資料が提出されたり、誤訳されたり、改竄(かい
 ざん)されたりした資料が多かった。
  東京裁判は、再審して、全員無罪にするべきなのだ。
  こんな、嘘の話を根拠にして、戦後の機構が成立して
 いる・・馬鹿々々しい事がらを根拠にして機構を作って
 いる。
  もう、そろそろ、その国連などの嘘付システムを、世
 界の機構を・・見直すべきだ。
  中国が、「実事求是」(事実に基づいて真理を検証す
 る)というなら、南京事件の嘘を白状せよ、デッチ上げ
 を白状せよ。
  南京攻略戦は、そもそも、上海で、アメリカと共に、
 戦争を仕掛けた中国に「事の発端がある」のだ・・
  また、日本は南京入城後に、自治委員会を作って、占
 領を止め、食糧の配給を始めたりして、努力しているの
 を感謝せよ。
  自分たちだけが、中国の人々を見捨てて、重慶へサッ
 サとアメリカに助けてもらって逃げ出したのに、自分た
 ちだけ助かればいいと「逃げるという卑劣さ」なのに・・、
  日本は、住民登録まで行ってしっかり管理したりして
 いるのだ。
  秩序回復にも努めたりしているのだ、虐殺などをする
 訳がない。
  東京裁判では、この様な時に虐殺をしたという。
  また、その根拠にし、証拠にした「陥都血涙録」とい
 う中国国民党の士官の郭岐の書いた回想録がインチキな
 のだ。
  これに書かれたことを「日本がした」とされた・・何
 の裏付けも取らず。
  宦官(かんがん)の伝統がある中国人がやる様な事を
 日本兵がしたという・・デッチ上げなのだ。
  また、流暢な中国語で会話をしながら、悪いことをし
 ている日本兵など・・作り話の記述が多い・・これらは、
 まったく嘘話なのだ。
  南京の外港の下関(しあこわん)の放火が日本軍によ
 るものとされているが、これは、中国軍が、南京から逃
 げ出す時に放火したものと、はっきりしているのだ・・、
  こんな嘘の話ばかりなのだ。
.
1931年3月1日、満州国が建国された。
  元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には、満州人で
 ある清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
  この地の土着民族としては、濊貊・粛慎・東胡・挹婁・
 夫余・勿吉・靺鞨・女真などが生活していた。
  (参考)濊貊:わいはく、紀元前2世紀の中国東北部に
     いた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫
     余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道に
     いた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にい
     た濊の後裔とされる。
  (参考)粛慎:しゅくしん、満州(中国東北地方及び
     外満州)に住んでいたとされるツングース系狩
     猟民族。
  (参考)東胡:とうこ、春秋戦国時代から秦代にかけ
     て内モンゴル東部から満州西部に住んでいた遊
     牧民族。
  (参考)挹婁:ゆうろう、後漢から五胡十六国時代(
     1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在
     したとされる民族・・消えた民族・・日本民族
     もこの様にならねば良いが・・国のことを疎(
     おろそ)かにして居たら・・この様になる・・
  (参考)夫余:ふよ、中国東北部(満州)にかつて存
     在した民族およびその国家。
  (参考)勿吉:南北朝時代に、高句麗の北から満州地
     域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から
     長白山一帯に居住していたと思われる。
      粛慎、挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前
     身。
  (参考)靺鞨:まつかつ、隋唐時代に中国東北部、沿
     海州に存在した農耕漁労民族。
      南北朝時代における「勿吉(もつきつ)」の
     表記が変化したものであり、粛慎、挹婁の末裔。
  (参考)女真:じょしん、満洲の松花江一帯から外興
     安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけ
     て居住していたツングース系民族。
      民族の聖地を長白山とする。
  以上からも分かる通り・・漢民族の「かの字」も出て
 来ない・・この地は漢民族の地ではないのである・・女
 真族(満州族)の五族協和は正解なのである。
  朝鮮半島の西北の地域で、中国の東北部(中国のたん
 こぶの様に突き出た地域)は、今・現代は、中国の領土
 となっているが・・、
  中国は、ここは「化外の地」としていた。
  中国は、「この地は化外の地で、中国とは関係が無い」
 としていた。
  万里の長城の外の地域で、それも、万里の長城から「
 はるか北方の遠隔の地」で、
  中国が領土だと主張するような地ではなかった。
  韓国は、この地に朝鮮族が居るので、今・現代、「こ
 の地は朝鮮の地だった」と、小学校で教えている。
  かつて、日本は、この地に多く住む満州族(女真族)
 の方々に「建国を手助けして、満州国が建国された」。
  そして、この地は、満州族以外の人々もいる状況から
 「五族協和」を理念とした。
  (参考)五族協和の理念:満州族を主体とするが、朝
     鮮族、蒙古族、朝鮮族、漢族、日本族、白系ロ
     シア人など協和して住む地とした・・後に、逃
     れて来たユダヤの方々も受け入れた。
  しかし、今・現在、領土欲の強い中国が、化外の地だ
 と言っていた中国が、自分の領土だとしている。
  そして、また、チベットや、ウイグルや、内モンゴル
 の地も、漢民族の中国は、自分の領土にする行為を行な
 っている。
.
1985年、ローマ条約が発効した。
  EUの母体である欧州経済共同体(EEC)の設立条
 約(ローマ条約、1958年発効)において・・、
  加盟国間で人、物、サービス、資本が自由に移動でき
 る共同市場を創ることが目指された・・が・・
  その後、1985年に、西ドイツ、フランス、ベルギー、
 オランダ、ルクセンブルクの5カ国が「人の移動の自由」
 の実現に向けて、域内国境を段階的に撤廃することに合
 意した(シェンゲン協定)
  国境を無くしたEU・・人の往来が自由・・これは美
 しく見える・・
  「ヒトの自由化」・・しかし、その後、そうは問屋が
 卸していない・・、
  ギリシャ・ポルトガル・スペイン・イタリアなどに、
 金になる仕事が無い。
  そこで、これ等の国々の特に優秀な若い人たちが、ド
 イツへ、そして、北欧へと向かう・・人の往来の自由だ
 から・・当然、稼げる国へと向かう。
  高学歴の優秀な青年たちが・・高学歴で優秀なコンピ
 ューター技師、弁護士、会計士、音楽家やアーティスト
 など、才能ある者たちがが自由に移動する・・流出する。
  優秀な頭脳労働者たち・・高い収入を出先で得て・・
 もう故国へは帰りませんと・・帰るつもりは「まったく
 ない」という状態・・
  優秀な人材が生み出す富は、彼ら・彼女らの故国では
 なく・・ドイツや北欧諸国へ行ってしまう・・、
  ヨーロッパの南の諸国は、高齢者や失業者ばかりの国
 となる・・、
  故国を去った優秀な人材たちは、ヨーロッパの北の国々
 の富の蓄積に貢献する・・、
  EUの目指す理想づくりは・・絵に描いた餅・・実態
 は、ヨーロッパの格差づくりをしている事になる・・「
 皮肉な結果となっている」・・、
  だからと言って、その様な優秀な人々を追い返す事は
 出来ない。
  今・現在、これと同じ事が、日本で起きている。
  中国が、優秀な日本の「超エリート狩り」をしている。
  1割、2割なんて話ではない。
  また、2倍、3倍なんていう半端な給料ではない。
  中国は、経済システムで動かす国ではない。
  中国は、「国策で動く国」・・、
  日本の超優秀なエリートを桁違いの超高級な給料で引
 き抜いて行く・・という国策。
  ノーベル賞をどんどん取る遺伝子を持つ日本の超エリ
 ートを引き抜き続ける国策だ。
  中国という国は、自分の国に利益があるとすれば、札
 束で叩く様なことを、臆面もなくやる国・・、
  今、ドイツも、EU諸国も、「中国の金にものを言わ
 すやり方」に、節操も無く「なびき」、そして、牛耳ら
 れている。
  中国は、腹の中で笑っているだろう、
  「この欲深な、強欲な者どもよ」と・・、
  金さえ見せれば何でもできる・・と・・
  金で、中国に魂(たましい)を抜かれた者どもとなっ
 ている。
.
2015年11月、中国・人民元が国際通貨に・・その問題点
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  中国の根底の国家戦略の一つに、「人民元」の「国際
 基軸通貨化」がある。
  その為にも、その世界に通用する基軸通貨の裏付けの
 為にも、中国は、軍事力の増強を、せっせとやって行く。
  そして、その行き着く先には「米ドルを超える人民元」
 の基軸通貨化がある。
  アメリカに「とって替わる中国」が最終目標・・、
  その為には、荒っぽい事も、やるだろう、今までやっ
 て来た様に・・、
  中国は、自国民さえ、1000万単位で殺してきた。
  そんな世界が現出して行く可能性もある。
  こんな予想が杞憂に終わることを祈るのみである。
  (資料)
  田村秀男(産経新聞特別記者)の記事を以下に記す・・
  人民元「国際通貨化」の脅威に立ち向かえ・・
  異形の党支配経済、延命は決定的!?
  国際通貨基金(IMF)は2015年11月末の理事会で、
 中国の人民元を来年秋から特別引き出し権(SDR)の
 構成通貨(現在はドル、ユーロ、円、ポンド)への追加
 を決める。
  元は国際通貨としてのお墨付きを得ることになるが、
 単なる経済事案ではない。
  通貨とは基軸通貨ドルが示すように、国家そのもので
 あり、経済のみならず政治・外交・軍事すべてを根底か
 ら支え、運営を誤れば揺るがす。
  中国の場合、元は共産党通貨であり、それを世界で通
 用させることは、破綻しかけた共産党指令経済を延命さ
 せることはもとより、対外的な膨張を助長させる。
  日本にとっては脅威の増大を意味する。
  共産党中央が指令する中国経済は、事実上マイナス成
 長に落ち込んでいる。
  習近平党総書記・国家主席の中国は手負いの巨大怪物
 も同然だが、愚かではない。
  習氏は、米英が仕切る国際金融市場の総元締め、国際
 通貨基金(IMF、本部ワシントン)に元を国際準備通
 貨として認定させる道を付けた。
  現在の代表的な国際通貨はドル、ユーロ、円、ポンド
 であり、IMFの国際準備通貨単位である特別引き出し
 権(SDR)を構成している。
  SDRは帳簿上で記載されるだけで、流通するわけで
 はないが、各国中央銀行は通常、SDR構成通貨建ての
 金融資産を準備通貨として保有するので、民間はSDR
 を構成する通貨での支払いや決済に安心して応じる。
  これまでの人民元は、韓国のウォンや東南アジア各国
 の通貨同様、ローカル通貨であり、これらの各国は外貨
 準備を積み上げながら、外貨の流出を防ぐと同時に、外
 資が流入するように金融、財政政策を調整しなければな
 らない。
  元の国際通貨化が、党支配経済存続の鍵になるという
 切実な事情は2つある。
  現在の中国は、外貨の流入が細り、資本の流出に加速
 がかかり、外貨準備が急速に減少している。
  もう一つ、元資金を使った対外融資や投資を増やす対
 外戦略上の必要性である。
  中国は、固定資産投資主導による高成長路線が限界に
 来ており、このままでは経済崩壊してしまいかねない。
  それを打開するためには、国有企業の再編成など合理
 化・競争力強化策が必要だが、党幹部の既得権益調整に
 手間取るので短期間では実現不可能だ。
  手っ取り早いのは、対外投資を増やして、輸出を増強
 することで成長率を引き上げる方法だ。
  その決め手とするのが、中国とユーラシア大陸及び東
 南アジア、インド、中近東・アフリカを結ぶ陸と海の「
 一帯一路」のインフラ・ネットワーク整備構想である。
  習近平政権は、その投融資を行うための基金や国際開
 発金融機関を相次いで発足させようとしている。
  代表例が、年内設立をめざす多国間のアジアインフラ
 投資銀行(AIIB、本部北京)である。
  AIIBは、国際金融市場でドルなど外貨を調達して
 インフラ資金とする計画で、英独仏など欧州や韓国、東
 南アジア、ロシアなどが参加したが、世界最大の債権国・
 日本と国際金融シェアが最大の米国が参加しないことも
 あって、AIIBの信用力は弱い。
  このために、国際金融市場での長期で低利が必要とな
 るインフラ資金の調達は困難だ。
  それを打開するためには、中国が元資金を提供するし
 かない。
  しかし、元がローカル通貨である以上、元による決済
 は限られる。
  翻って、元が国際通貨になれば、その障害は少なくな
 る。
  元が国際通貨になるためには、ドル、ユーロ、円、ポ
 ンドと同様、SDR構成通貨への組み込みをIMF理事
 会が認定することが前提となる。
  IMF理事会審議の鍵を握るのは英国など欧州と、I
 MFの唯一の拒否権保有国・米国である。
  厳密に言うと、SDR認定事項は最重要案件とはみな
 されず、議決権シェアで7割以上の賛成があれば、米国
 の拒否権を無効にできるが、SDRの新規発行は米国の
 賛同が必要だ。
  したがって米国の同意がないと、元が加わった後のS
 DRの追加配分に支障が出る。
  習氏は、米欧各国に対し、実利を提示することで、抱
 き込みを図ってきた。
  日本は対米追随なので、対日工作の必要はなかった。
  足元をみられた欧州 詭弁にやられる米国の甘さ
  2015年10月下旬の習氏の訪英は大成功だった。
  キャメロン首相の発表によると、習主席訪英中に決ま
 った中国の対英投資案件の総額は約400億ポンド(約
 7兆4000億円)。
  さらに、習氏は、ロンドンに人民元建ての国際決済セ
 ンターの特権を提供し、元建て国債の発行を表明した。
  これに応えて、キャメロン政権は「国際通貨元」支持
 を表明した。
  ドイツ、フランスなど残る欧州主要国も自国市場に元
 の国際決済業務の拡大を期待して、なだれを打つように
 元のSDR組み込みへの支持を表明した。
  米国はどうか。
  ルー米財務長官は3月時点では元のSDR認可には反
 対表明したが、習氏の訪米後の10月6日には、「IMF
 の条件が満たされれば、支持する」と表明した。
  6月の上海株暴落後の中国当局による市場統制や8月
 の元切り下げは金融市場自由化原則に逆行する。
  ところが、オバマ政権は態度を軟化させた。
  上海株式市場の統制は緊急措置であり、元切り下げに
 ついて「元の市場実勢に沿う改革の一環」とする北京の
 説明を大筋で受け入れたのだ。
  習政権は6月の上海株暴落以降、党・政府指令による
 経済支配を強化している。
  これだと、だれが見ても国際的に自由利用可能である
 というSDR通貨認定条件に反するはずだが、IMFは
 そう見ない。
  フランス出身のラガルド専務理事は3月下旬の訪中時
 に、「元のSDR通貨承認は時間の問題だ」と習氏に約
 束している。
  IMFは8月、上海市場の統制を当面は容認すると同
 時に、元をより大きく市場実勢を反映させる改革案を示
 せば、元を来年9月からSDR通貨に認定してもよい、
 というシグナルを送った。
  市場原理とはおよそ無縁な小出しの自由化でよしとす
 る、対中国だけのワシントンの二重基準である。
  習氏は9月訪米時、ワシントンの甘さにつけ入った。
  「中国は輸出刺激のための切り下げはしない。元を市
 場原理により大きく委ねていく改革の方向性は変わらな
 い」
  「中国政府は市場安定策を講じて市場のパニックを抑
 制した。今や中国の株式市場は自律回復と自律調整の段
 階に達した」
  「外貨準備は潤沢であり、国際的な基準では依然とし
 て高水準にある」
  「人民元国際化に伴って、外貨準備が増減することは
 極めて正常であり、これに過剰反応する必要はない」
  中国伝統の白を黒と言いくるめてみせるレトリックで
 ある。
  8月11日の元切り下げは過剰設備の重圧にあえぐ国有
 企業が背後にあるが、4%台半ばの元安にとどめざるを
 えなかったのは、資本逃避が加速したためだ。
  元相場を市場実勢に反映させると言うなら、外国為替
 市場への介入を抑制すべきなのだが、実際には元買い介
 入によって元の暴落を食い止めるのに躍起となっている。
  株式市場は自律的に回復しているというが、当局が市
 場取引を制限しているために、上海株の売買代金は6月
 のピーク時の4分の1まで雌伏したままだ。
  外準減少が正常、というのも詭弁である。
  資金流出は加速し、元買い介入のために外準を大幅に
 取り崩す。
  国内の資金不足を背景に対外債務は膨張を続け、「高
 水準の外準」を大きく上回る。
  外準を支える対中投資の大半は香港経由であり、その
 うちかなりは外資を装った中国の投資家で、ほとんどが
 党幹部に直結している。
  建前上は厳しい資本流出入規制を実施している中国で、
 特権を駆使する党幹部だけがその網の目をくぐれる。
  言い換えると、中国は党支配体制だからこそ資本逃避
 が慢性化する構造になっている。
  習氏が党総書記就任前の12年前半にわずかずつ人民元
 を低めに誘導すると、資本逃避が起きた。
  あわてて元を高目誘導したらデフレ圧力が高くなった
 ので、14年前半には再び元安方向に修正したら、やはり
 資本逃避が再発する。
  景気の方は14年初めから停滞感が強くなる一方である。
  中国当局発表では14年は7%台半ば、15年も7%弱の
 実質成長を続けているが、モノの動きを忠実に反映する
 鉄道貨物輸送量は前年同期を下回り、以来マイナス幅は
 拡大するばかりである。
  その場合、金利を下げ、元安にするのが景気対策とい
 うものだが、すると資本逃避で国内資金が不足する。
  元のSDR通貨認定は、北京にとってまさに焦眉の急
 である。
  人民元帝国誕生で軍拡も加速
  米英の国際金融資本にとって中国はグローバル金融市
 場の中の巨大なフロンティアである。
  小出しでも中国の金融市場の対外開放や自由化は、米
 金融界にとって中国市場でのシェア拡大を有利に進めら
 れる。
  北京は特定の米金融大手を一本釣りにして特権を与え
 るからだ。
  ゴールドマン・サックス、シティグループなどは江沢
 民政権時代以来、とっくに党中央と気脈が通じあってい
 る。
  ニューヨーク・ウォール街代表者が政権中枢を担うオ
 バマ政権では、グローバル金融市場に中国の元金融を取
 り込むことが国益とみなされるだろうし、元そのものが
 脅威となる日本と利害が微妙に異なる。
  中国の対外貿易規模は日本のそれの3倍以上であり、
 すでにアジアでの元建て貿易は円建てを超えている。
  中国は「国際通貨」元を振りかざしながら、アジア全
 域を元経済圏に塗り替えるだろう。
  日本の銀行や企業は元金融や元建て決済を認可しても
 らうために、北京の顔色をうかがうしかない。
  それは、日本外交の手足を縛る。
  すでに金融界は浮き足立ち、「中国嫌い」で評判の麻
 生太郎財務相ですら、中国側に東京に元決済センター設
 置を要望する始末だ。
  中国との通貨スワップに頼る韓国はますます北京に頭
 が上がらなくなる。
  国際通貨ともなれば、中国は刷った元で戦略物資やハ
 イテク兵器を入手できるようになり、軍拡は一層進む。
  これでは日本は立ち上がれぬ・・危機意識なき財務官
 僚たち
  日本としての今後とるべき策は、何が何でも元の完全
 自由変動相場制移行と資本市場の全面自由化を早期に実
 行させることだ。
  国境を越える資本移動の自由化は、外国資本や金融機
 関による対中証券投資や融資の制限の撤廃、さらに中国
 市場からの引き上げを自由にすることを意味する。
  元の自由変動相場制は、元の対ドルや対円相場の変動
 を自由にし、中国当局による市場介入や管理を取り払う。
  中国が元を乱発すれば、元相場は暴落不安が起き、中
 国からの資本逃避が起きる恐れがある。
  SDR通貨として認定されても、通貨の国際的な信認
 は国内の政策次第で失われる。
  そんな懸念から、北京は金融や財政政策で自制せざる
 をえなくなる。
  つまり、市場のチェック機能を持たせることで、元の
 暴走にブレーキをかけられる。
  党による市場統制力は次第に弱まるだろう。
  考えてみれば、これまでの中国の人民元管理変動相場
 制は中国のとめどない膨張を支えてきた。
  管理変動相場制のもとでは、自由変動相場制とは全く
 異なって、対ドル相場は人為的に安定させられる。
  元の安定を背景に、中国にはこれまで順調に外資が流
 入し、その外資の量に応じて中国人民銀行は元を刷り増
 しし、国有商業銀行、国有企業、地方政府に資金を流し
 込んで、不動産開発を進めて、投資主導による高度成長
 を達成した。
  国有企業は増産しては輸出を増やしてきた。
  ところが、不動産投資も国有企業の増産投資も過剰と
 なり、景気は急降下し、地方政府や国有企業の債務は膨
 張を続けている。
  鉄鋼などの過剰生産は、安値での輸出攻勢を引き起こ
 す。
  半面で、鉄鉱石など一次産品の国際商品市況は急落し、
 産出国経済を直撃している。
  市場需給を無視した党主導による金融は世界経済不安
 の元凶になっているのだ。
  来年は米大統領選挙だ。
  日本としては米国のまともな勢力と組み、元の変動相
 場制移行と金融自由化の早期実行を北京に迫るしかない。
  仮に北京が為替や金融の自由化を約束したところで、
 実行するはずはない。
  何しろ中国の国際ルール無視ぶりは目に余る。
  中国は2001年末、難交渉のうえに世界貿易機関(
 WTO)に加盟したが、ダンピング輸出、知的財産権無
 視などが横行している。
  国内総生産(GDP)統計は偽装の産物だというのが
 国際常識だ。
  外交・軍事では南シナ海の砂地埋め立てと軍事拠点化、
 絶え間のない外国に対するサイバー攻撃と、あげればき
 りがない。
  人権の尊重、言論・表現の自由は、自由で公正な金融
 市場ルールの下地のはずだが、党中央にはその意識のか
 けらもない。
  米国とはそれでも、日本の危機意識を共有できる余地
 はある。
  正式候補に決まるとは限らないが、民主党のヒラリー
 氏はウォール街に批判的で対中警戒派だし、共和党のト
 ランプ氏は「大統領になれば、中国を為替操作国として
 罰する」と息巻いている。
  日本として、元のSDR化で習近平政権は軍事を含む
 対外膨張路線をひた走るだろう、と伝えるべきだ。
  問題は通貨・金融を自省の専管事項とする財務官僚だ。
  IMFにおいて中国のSDR通貨工作のなすがままに
 した。
  そればかりか、IMFで精を出しているのは、消費税
 増税をIMFに対日勧告させて安倍晋三政権を予定通り
 の増税に追い込む根回しだ。
  語るに落ちる裏切りぶりである。
  たむら・ひでお 昭和21(1946)年生まれ。
  早稲田大学政経学部卒。
  日本経済新聞社に入社し、ワシントン特派員、米アジ
 ア財団上級フェロー、香港支局長などを歴任。
  平成18年に産経新聞社に移籍し、編集委員、論説委員
 を兼務する。
  著書に『アベノミクスを殺す消費増税』(飛鳥新社)、
 『人民元の正体』(マガジンランド)など多数。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)604E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月19日、日本が、中国・清へ、日本の手交(しゅこ
 う、手渡すこと)した最後通牒の回答期限である7月24日
 を過ぎても、中国・清が、日本へその返事もしないで、
 中国軍の朝鮮への増派をするならば(それは、朝鮮に対
 する宗主国ぜんとした威嚇行為であるとともに、同時に)
 日本に対する威嚇行為(敵対)と見なす・・との内容の
 最後通牒を中国・清へ送りつけた。
  そしてまた、この様な無視の行為をする中国・清の態
 度であるならば、陸奥宗光外相は、回答期限の7月25日以
 降は、清国の軍艦などへ日本が攻撃をしても、「外交上
 の問題はない」の旨を日本海軍へ伝えた。
  日本は、今まで自重し、清の強引な行動を静観して来
 たが、また、影で工作する清の態度を静観して来たが、
 この時点では、はっきりした毅然たる態度を示すという
 方針に替わっている。
.
1894年7月20日、この日の午後、大島公使は、この様な状況
 になっては、毅然たる態度を示すべきとの方針において、
 自主独立の国としてありたいと日本へ伝えている朝鮮に
 対し、清国の宗主権を認めさせられている『中朝商民水
 陸貿易章程』を、廃棄をしなさいと伝えた。
  また、中国・清が「朝鮮は属邦である」とし、その属
 邦保護を名目として、朝鮮の「自主独立を侵害」する清
 軍の撤退について、朝鮮の考え方を7月22日までに伝えて
 もらいたいと伝えた。
  これは、1636年~1637年の丙子の役(へいしのえき、
 清の朝鮮への一方的侵略行為)の一例の如く、過去から
 何度も、中国・清から度々の武力行使を受け苦渋してい
 る朝鮮が、また、日本も清から脅され、威圧行為も受け
 ているという、その様な状況に於いて、その様な清軍を
 退けられないのであれば日本が代わって駆逐するとの含
 意があった。
.
1894年7月20日、総武鉄道の市川駅~佐倉駅間が開通した。
  開業120周年となる2014年に、記念行事が行なわれた・・
 以下は、そのことを伝える記述・・
  ~おかげさまで120周年! 120年間の感謝を込めて~
  総武本線市川~佐倉間は開業120 周年を迎えます!
  1894 年(明治27年7月20日に総武鉄道(市川~佐倉間)
 が開通し、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅が2014年に
 120 年目を迎えます。
  JR東日本千葉支社では、お客さまに感謝の気持ちを
 込めて「総武本線開業120周年記念イベント」を開催しま
 す。
  7月20日には、市川駅・船橋駅・千葉駅・佐倉駅で120
 周年記念入場券発売やスタンプラリー、写真展やコンサ
 ートなど楽しいイベントを開催します。
  また、120 周年記念号として寝台特急「あけぼの」号
 で運行されていた寝台車両24系を使用した「市川~佐倉
 120周年号」で行く日帰りの旅コースと「120周年千葉青
 森号」で行く夜行列車の旅コースの旅行商品をインター
 ネットで限定発売します。
  ぜひ、120 周年で盛り上がる市川駅・船橋駅・千葉駅・
 佐倉駅へ遊びに来て下さい。
.
1894年7月23日、連合艦隊が佐世保港を出港した。
  この日の午前11時、強硬に陸兵増派をしようとしてい
 る清国の行動を止めさせようと、海上封鎖の任務を帯び
 た伊東祐亨中将が率いる連合艦隊が、佐世保港から朝鮮
 半島の京畿湾へ向けて出港した。
.
1894年7月23日、日本は、清軍撃退依頼を出すようにと大院
 君へ伝えた。
  朝鮮政府内にある過去からの清国の武力行使と圧力に
 屈し、清国の属邦体制を止むなく認めて受け入れている
 派(親清派)と・・、
  この強圧的な清に対して、日本に助けを求める親日派
 が朝鮮政府内にあって・・、
  親日派であった金玉均が、清国によって暗殺される如
 く、陰に陽に中国は強引な行動をしていた。
  その様な清の属邦体制を止むを得ず受け入れている現
 政権の王政派(閔妃)に対する親日政権の大院君に清軍
 撃退依頼を出すようにと伝えた。
  日清戦争の原因となった甲午農民戦争の清軍の鎮圧出
 兵も、清の工作員が暗躍して出兵要請を朝鮮に出させて
 いる。
.
1894年7月23日、この日の日本の「国民新聞」には、「今や
 我国は清国と開戦するの最高潮に達す」と記されている・・
 また・・
  この翌日の7月24日の「時事新報」には、「一刻も猶予
 せず、断然支那を敵として我より戦を開くにしかざるな
 り」とあり・・この時点に至っては「戦わざるを得ない」
 という新聞論調で、完全に開戦の方向で一致していた。
.
1894年7月23日、日本が、朝鮮王宮へ軍を派遣し、強硬策を
 行なった。
  そして、午後5時、大島旅団長が朝鮮国王に面会する。
  一人も死者は出ていない、そして、この日の内に幕営
 地に引き上げている(中国・清はまったく関係ない)
  襲撃ではない・・また、日清間の交戦も無い・・
  この日の午前零時30分、公使より電報、「作戦通り実
 行せよ」と・・
  行動部隊の第六中隊が、迎秋門が破れなかったので、
 囲壁を越え、内部より鋸と斧で門扉を開く(午前5時頃)
  第七・第五中隊が王宮に入る、そして、光化門・建春
 門も内部より開門した。
  この間、守備の朝鮮兵は抵抗する者もなく、また、皆、
 北方へ逃走。
  午前4時20分~午前7時半、双方から銃撃が起きる。
  抵抗した一部の朝鮮兵は、北方の王宮囲壁を出て、白
 岳の方向に逃走する。
  国王は雍和門内に居て、山口大隊長が、日本軍兵を門
 内に入れない代わりに韓兵の武器交付を要求した・・承
 諾された。
  また、大隊長は国王に拝謁した、「我が兵士は玉体を
 保護するために居て、決して危害の及ばざるを期すべし。
 殿下幸いにこれを諒せよ」と・・
  (参考)諒:りょう、おもいやる。明らかにする。ま
     こと。
  午後5時、大島旅団長が王宮に入り国王に面会した。
  夕方、日本軍は歩兵第二十一連隊第二大隊」に「王宮
 の守備」を命じたほか若干の部隊を王宮周辺要地に留め、
 午後5時から午後6時の間に幕営地にひきあげた。
  これは、公使館と旅団が協議して計画していたことだ
 った。
  この行為に対し、列強諸国からの批判は無く、誰かが
 殺害されたという事でもなかった。
  しかし、日本政府からはこの様なことをするなとの指
 令が出ていた。
  しかし、この行為は、朝鮮の人々の反日意識を高めた・・
  この点からも、すべき行為ではなかった。
  この様な行為は中国・清もしていて、朝鮮の人々は清
 に対しても反感を持っていた。
  しかし、この後、この行為で王宮内の財貨宝物が略奪
 されたと、「してもいない行為を、した」とプロパガン
 ダ(嘘宣伝)に使われた。
  清国の宋主権行使に苦渋していた朝鮮を救うとしても
 やり方が良くなかった。
  天皇陛下も、この事件に対し、また、武力行使に対し
 疑問を御明示されている。
  また、上記の午前4時頃撃ち合ったと言ったって、日本
 のこの行動の目的が・・、
  清に宋主権を主張されて、不満の中で属邦状態に身を
 置いている朝鮮が・・、
  陰に陽に日本に助けを求めている現状の朝鮮が・・
  日本が替わって「やらねばならないのだろう」と方針
 を決め、清軍撃退依頼を出しなさいと言っても、親清派
 と親日派とが押し合っている朝鮮・・
  そして、この度のこの行動・・態度を決めなさいとの
 この王宮へ押し寄せた行動であって、朝鮮兵と撃ち合い
 になったって、朝鮮兵と戦うことが目的ではないので、
 朝鮮兵を撃ち殺すこともない。
  この撃ち合いで戦死者の一人も出てない。
  助けようとしている日本なのだ・・朝鮮兵を撃ち殺す
 訳がない。
  今、中国が、ウイグルや、チベットや、内モンゴルで、
 取締りの名目で、ばちばち、ウイグルやチベットや内モ
 ンゴルの方々を殺しているが、それとは訳が違う。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、ヨーロッパの終焉が言われている・・というより、
   ドイツの差配するヨーロッパとなっている・・
   ドイツの経済に頼らざるを得ないEUなのだ・・
   そして、そのドイツが、中国に経済的救済を求めている形で
  中国に近づき、中国は、どんどんドイツに大量発注している・・
   そんな関係のドイツと中国・・そのドイツの軍事技術が、
  どんどん中国に入ることが懸念されている・・
   中国はそれを望んでいる・・
.
紀元前5万年~紀元前4万年、この頃、ユーラシア大陸から
 人類が、寒い極北の地を通って、そして、地続きだった
 凍てつくベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸へと行っ
 た。
  この時、この極低温の地を、人類が行けたのは、体温
 の低下を防ぐための衣類・着物があったからだった。
  その様な防寒性能の良い着物が作れたのは、『縫い針』
 の発明があったからだった。
  この当時の縫い針が、シベリアから出土している。
  人類のこの発明の智慧が、その活動範囲を拡大してい
 たのだった。
  この様な歴史的な知識や、科学的知識のない北海道の
 政治家が、議会の討論の中で、「北海道は無土の地だっ
 た」と、人の居ないと地だったと言った。
  「人類が広い広範囲な活動をしていた」などという状
 況の知識の「まったく無い理解状況」の中で、政治的議
 論と判断と決定がなされている。
  人類の広い活動範囲とともに、広い人類の結婚・交雑
 が行われていて、日本列島は5万年前から、また、4万年
 前という遠い遠い昔から、広い活動とともに結婚・交雑
 の歴史の中にあった。
  アイヌも琉球も、また、本州も、その人類の交雑の歴
 史が続いて来ていて、その遺伝子的にも、そのことが証
 明されている。
  アイヌだけが特別ではない。
  中国の仕掛ける「アイヌ独立論」は、自国の抱える別
 民族である「チベット民族の方々の独立活動」「ウイグ
 ル民族の方々の独立活動」「内モンゴル民族の方々の独
 立活動」などの独立運動を相対化したいための仕掛けな
 のである。
     ・
     ・
1193年、北方十字軍
  ローマ法王(教皇)のクレメンス3世の、1193年の呼び
 かけが発端だった。
  いつも、戦争を呼びかけるキリスト教ローマ法王(教
 皇)だった。
  この時のキリスト教の「北方十字軍」は残虐だった。
  この東方遠征時には、そこの住民は「ほとんどが皆殺
 し」にあった。
  卑劣な被害を受けた地域は、現在のポーランドからバ
 ルト三国におよぶ一帯で、多くのスラブ人の方々が住ん
 でいた。
  キリスト教が、討伐の対象とする『正当な理由は無か
 った』。
  せいぜい、キリスト教にとっての異端の宗教を信じて
 いる「異端の民だ」という程度だった・・何も悪いこと
 はしていない。
  プロセインという国を作ったが、ドイツ騎士団(ドイ
 ツ騎士修道会)が多く、悪行為の実行団だった。
  現時点においてキリスト教が卑劣な事は、この一事例
 の様な「過去の暗黒の歴史」を示しても、「私たちは、
 そんな悪いことしていない」と嘘を言っている事である。
  また、キリスト教は、卑劣なキリスト教の教義も必死
 に言い換えをしている。
  まったく反省のそぶりも見せないキリスト教であり・・
 ここに問題の根源がある。
  (参考)北方十字軍:ほっぽうじゅうじぐん、バルト
     十字軍とも言われる。
      キリスト教カトリックの王であるデンマーク、
     スウェーデン、ポーランド、そして、リヴォニ
     ア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始され
     た十字軍のことで、北ヨーロッパ、および、バ
     ルト海沿岸南東の異教徒に対して蛮行が行われ
     たカトリック教会諸国の同盟によって行われた。
.
1636年~1637年、丙子の役(へいしのえき)
  韓国の南漢山城(ナムハンサンソン)が関係し・・、
  南漢山城は韓国の世界遺産であるが、標記の丙子の役
 の時、中国・清が、朝鮮(李氏朝鮮)を侵略した。
  この丙子の役の最も熾烈な47日間の戦いを描いた映画
 「南漢山城」が、今、韓国で評判になっているという。
  中国・清が、朝鮮を侵略すると、君主と家臣らは敵を
 避けて南漢山城に隠れた。
  寒さと飢えが襲う・・絶対的な軍事的劣勢の状況・・
 清国軍に完全に包囲された絶体絶命のその時・・
  国家と国民を守らなければならないという吏曹判書チ
 ェ・ミョンギル(イ・ビョンホン)と・・
  (参考)吏曹:いじょ、李氏朝鮮に置かれた行政機関
      判書:ばんそ、官職
  清国軍の攻撃に最後まで相対して戦って大義を守らな
 ければという礼曹判書キム・サンホン(キム・ユンソク)、
  (参考)礼曹:いぇーじょ、李氏朝鮮の行政機関
  そして、その間に立った仁祖(パク・ヘイル)の煩悶・・
  その攻勢はより深くなって、中国・清国の無理な要求
 と圧迫はより一層強まるっていく・・この様に映画は描
 かれるが、
  この丙子の役となるとき・・清国との戦いが決定的と
 なった時、李氏朝鮮は、日本に援軍を乞う事も検討した・・
  今の韓国もそうであるが、陸続きの中国は、容易に朝
 鮮に侵略できるため・・朝鮮半島は中国の冊封体制下に
 置かれる状況に常にあった・・
.
1904年~1907年、ドイツは、ナミビアを侵略した。
  土地を奪われたナミビアの人々(ヘレロ民族の方々)
 は、当然、反抗を開始した。
  しかし、武器や装備に各段に勝るドイツが勝つのは当
 たり前だった。
  (槍と銃の戦い・・この様な卑劣な戦いをドイツは行
 った)
  ドイツは、ナミビアのヘレロ民族の人々を大殺戮し、
 殺して、そして、強制収容所へ入れた。
  そして、強制収容所に入れた人々に強制労働をさせた。
  しかし、結局、最後には、ドイツは、この方々も皆殺
 しにした・・血も涙もない卑劣なドイツだった。
  ヘレロ民族の人々は全人口の8割の人々が、ドイツに殺
 されてしまった・・言葉に尽くせぬ卑劣さだった。
  「20世紀最初のジェノサイド」と言われている。
  (参考)ジェノサイド:その共同社会や民族を滅ぼす
     ほどの大量殺害。集団殺戮(さつりく)。
  この蛮行は「ヘレロ・ナマクア虐殺」と言われている。
  これは、上記の様に、ドイツ領南西アフリカ(現・ナ
 ミビア)において、ドイツが先住民族(ヘレロ民族の方
 々)に対して行った虐殺で、アフリカ分割の動きの中で
 行われた。
  ドイツのこのヘレロ民族への攻撃は、1904年8月、ドイ
 ツのロタール・フォン・トロータ将軍によって行われた。
  三方から包囲して、カラハリ砂漠に追い込み、殺戮し
 た。
  また、1904年10月には、ナマクア族も蜂起したが、同
 様に、武器を持たないのも同然の人々を、ヘレロ民族同
 様に、「赤ん坊の手をひねるがごとくに虐殺した」。
  この様な民族虐殺を容易に行うドイツは、この後、ユ
 ダヤの方々への民族虐殺の行為へとつながって行く。
.
1933年3月23日、ドイツ国会が、ヒトラーの全権委任法を可
 決した。
  これによってドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党
 (ナチ党)の権力掌握がなされた・・
  そして、これ以降、反ユダヤ主義が国是となったドイ
 ツにおいて・・様々なユダヤ人の方々に対する迫害が行
 われた。
  ドイツでは、第二次世界大戦の勃発の後、ナチス内部
 では、「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」
 を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユ
 ダヤ人を拘束し、強制収容所送りを始めた。
  ドイツは、この「600万人のユダヤの人々の殺害」以外
 にも数々の卑劣な行為がある。
  「ロマ(ジプシー)・シンティ」「何千人もの精神障
 害者」「多くの同性愛者の殺害」「占領地のSS」「ド
 イツ国軍による戦争犯罪」「60万人から80万人と言われ
 る犠牲者が出たレニングラード包囲」「ワルシャワのゲ
 ットー破壊」など。
  ドイツは、これらの過去を正しく清算しなければなら
 ない。 
  今までの清算の仕方には欺瞞に満ちたところがある。 
  その様な過去への態度なら・・また認識の仕方なら、
 また、同じ様な蛮行を繰り返す事になるだろう・・、
  そして、今、利益優先で中国と悪だくみをしている。
  (参考)受権法・・ドイツのヒトラーが率いるナチス
     政権下のこの年・1933年に制定された「全権委
     任法」が代表例。
      議会の承認なしに、政府による立法権行使を
     認める法律の総称。
      ナチスは、委任法で、政府が定めた法律に矛
     盾する憲法規定の効力を失わせた。
      憲法自体を空文化させることで、独裁体制を
     固めて行った。
.
1937年11月、アメリカは、この月、中国国民党の蒋介石や
 重い責任を持つ軍人を南京から連れ去り、これから南京
 城での戦いが始まるという事態に、中国司令部を無くし
 て、南京の戦いはシッチャカメッチャカにした・・
  (この翌月の1937年12月に、日本軍の南京入城という
 時だった)
  そして、南京事件が「でっち上げられた」のである。
  何しろ・・秘かに中国側に味方して、戦いに参戦した
 アメリカは卑劣で・・南京戦が乱戦となった主犯は、ア
 メリカだった・・
  このアメリカによって重慶に連れ去られた中国の中枢・
 司令部の国民党・・
  この中国国民党の国際宣伝処に所属していたアメリカ
 人のセオドア・ホワイト(ジャーナリスト)・・
  この男は、自叙伝で回想し、くだらないことを書いて
 いる・・
  重慶に逃れた国民党政府は、自国に有利な事なら何で
 もした・・そして、どんな嘘でもついた・・。
  南京事件のデッチアゲも朝飯前だった・・
  嘘をつくこと、騙すこと、中国とアメリカは、共に、
 日本に対抗して行くのだとアメリカに納得させるためな
 ら、どんなことをしても良いと・・それは必要な事だと・・
  その様に考えていた・・と書く。
  そして、宣伝目的で作られた嘘の数々・・
  そして、その嘘写真・・誤記を装って書かれた嘘の数
 字・・それらが宣伝されて行った・・
  そして、それらが、一人歩きをし出し・・「真実」と
 して定着して行った・・と。
  その様な中で、嘘八百の中の馬鹿馬鹿しい話の一つが・・
 以下である・・
  蔡黄華というデッチ上げられた中国女性が、日本の兵
 士を数人殺したという・・
  そして、逃走して、反日ゲリラの首領になったという
 「真っ赤な嘘話し」を作り上げて記事にした。
  これに、多くのアメリカ人記者が飛び付き、この女性
 の写真を要求して来た。
  中国国民党の宣伝部は、腰に二丁拳銃を下げた中国人
 女性の写真を作った。
  この中国人女性は、アメリカで、国民党の蒋介石総統
 夫人の宋美齢に次ぐヒロインになった。
  世界のどこにもいないという「架空の人物」がもては
 やされるというアメリカだった。
.
1942年、ドイツは、国で慰安婦施設を経営していた。
  レッキトシタ証拠が、いくつもある、卑劣な行為をし
 ていたドイツ。
  ドイツには、慰安婦について後ろめたい過去がある。
  ドイツは、1942年の時点で、約500のドイツ軍が運営す
 る慰安婦施設があった。
  その運営される慰安婦施設が、ドイツ軍当局へ報告し
 ている書類など、多数の証拠が存在し、その内容は明ら
 かとなっている。
  その書類の一つが、調査報告書の形で・・、
  ドイツ国防軍の専属か、否か? 
  民間人の利用もできるのか?とか・・
  娼妓の人数や年齢は?とか・・、
  性病の予防処置をしているか?とか・・、
  一人の娼妓の客の最高数は?とか・・、
  コンドームの使用状況は?・・など、微に入り細に入
 り報告させている。
  ドイツ軍が完全管理している実態があった。
  そして、この事が、1977年に、本として克明に実態が
 書かれ、出版され、公知の事実となった。
  本は、フランツ・ザイトラーにより書かれ、本の表題
 は、「買春・同性愛・自己毀損、ドイツ衛生指導の諸問
 題、1939年~1945年」。
  ドイツには、国軍によって、組織的で、規模の大きい
 慰安婦制度がれっきとしてあった。
  ドイツは、この事を後ろめたく思っていた。
  その事もあって・・ドイツは、日本の「韓国がでっち
 上げる慰安婦問題」を、自分たちの汚点を消したいとし
 て、「日本の真実の説明」に一切耳を貸さずに、ドイツ
 の新聞などマスコミは、韓国の嘘のプロパガンダの言い
 分だけを公表した。
  また、ドイツ国会も、決議案を採決しようなどという
 破廉恥で卑劣な行為に及ぶほどだった・・結局、採決に
 は至らなかったが、ドイツの卑劣さが国会レベルにまで
 至っていた。
  まったく韓国の卑劣な嘘宣伝に踊らされているドイツ
 となっていた。
.
1945年5月2日、ドイルのベルリン陥落
  ドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官のヘルムート・
 ヴァイトリングが降伏して・・ベルリンは陥落した。
  ヒトラーは、すでに、1945年4月30日に自殺している。
  そして、ドイツの戦後が始まるが、ドイツには1200万
 人のナチスに加担した人々・ナチ党員が居た。
  このナチ党員らは、何ら罪を問われること無く、戦後
 の時間を過ごして行った・・そして、そのままとなった
 ドイツが、今、存在している。
  アメリカも、このナチス加担者のナチ党員の罪は問わ
 なかった。
  ドイツの一般国民と同じように戦後を過ごさせて来た。
  何ら責任を取らないナチ党などの人々が、ドイツの中
 で一般のドイツ人たちと同じように過ごしてきた。
  謝罪も何もしない人々が、一般の人々と同じように過
 ごしてきた。
  ドイツという戦後のドイツ政府は、このことに目をつ
 むり、一緒になって謝罪も何もしないで戦後を過ごして
 きた。
  そして、ドイツのやることと言ったら・・「ナチスは
 悪いことをした」「ナチスは、600万人のユダヤ人の殺害
 をした」というけれど・・、
  「ナチスは、悪いことをしたけれど・・」とまでは何
 度も何度も言うが、肝心の謝罪の言葉なしに戦後を過ご
 して来た。
  世界に対するドイツの欺瞞の態度が今・現在もある。
.
1945年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線における、ドイ
 ツが戦争に敗れる前後において・・ソ連兵による婦女暴
 行が50万件もあった・・
  また、アメリカ兵による婦女暴行も19万件もあった。
  1945年4月16日、ソ連は、ベルリンの攻囲作戦を開始し
 た。
  昼も夜も、ベルリンを砲撃した。
  昼も夜も、その砲撃音は、常にベルリンに鳴り響いた。
  電気もガスも水も・・ストップした。
  ベルリンから脱出できなかった、ベルリンから逃げそ
 びれた市民の200万人の人々は・・防空壕内に逃げ、生き
 延びていた。
  そのほとんどが、その圧倒的多数が「女性と子供たち」
 だった。
  そして、12万人の乳幼児がいた。
  1945年4月26日、ベルリンは完全に包囲された。
  そして、1945年5月2日、ベルリンは陥落した。
  この攻防の最中から、この後の時の中で、ソ連兵やア
 メリカ兵による婦女暴行などの蛮行は行われた。
  婦女暴行の他にも、家宅侵入や略奪など、その阿鼻叫
 喚(あびきょうかん、人々が苦しみ泣き叫ぶような、非
 常にむごたらしい状態)、その中でレイプが行なわれた。
  この時だけのベルリン市の女性の犠牲者だけでも9万500
 人から13万人だという。
  二つの主要病院の報告だけであるから、そのデーター
 は少な目であっても、しっかりした信頼できるものと言
 える。
  この様な悲劇は、1944年の末から始まっていた。
  ドイツの敗退が始まると、東方のドイツ領土から兵士
 だけでなく、ドイツの一般市民も脱出し、ドイツやベル
 リンを目指した。
  また、追放されるドイツ人たちも居た。
  その逃避行をする人々は1200万人から1400万人いた。
  着の身着のまま・・ドイツを目ざし、飢えと寒さ、そ
 の様な中、多くのドイツ人が虐殺にあった。
  死者と行方不明を合わせ300万人だという。
  日本を貶(おとし)めてばかりいるNHKは、この様
 な事は一切放送しない。
.
1945年、第二次世界大戦の戦後、ドイツはパニックとなっ
 た。
  流言飛語が飛び交った。
  「1910年から1925年までに生まれたドイツ人の青年は、
 不妊手術をされる」
  「ドイツの市町村長は、全員がクビになり、強制収容
 所から解放されたユダヤ人が取って代わる」
  「ドイツの各都市は、計画的に略奪される手はずにな
 っている」。
.
1988年、この年に、日本に帰化した蔡善花氏が大切なこと
 を教えてくれた・・話された・・
  韓国が漢字を捨てたが・・??
  日本でも、アメリカの戦後のGHQが、日本に日本語
 を捨てさせようとした・・英語化しようとした・・
  日本に、漢字を捨てさせようとした・・
  無知からGHQは、「日本は、漢字があるから文盲率
 が高く・・民主化が遅れているのだ」とした。
  この時、日本は、知識人が反対し、GHQを説得し、
 疑(うたぐ)るGHQを納得させるために、「日本人に
 テストを実施した」・・
  そうしたら、ほぼ100%の日本人の出来の凄い良さの結
 果で、「日本人の知性・知識の高いことが立証された」。
  馬鹿なGHQも「びっくり」という過去の史実がある
 が・・
  韓国は・・漢字を捨ててしまって、廃止し、ハングル
 文字だけにした。
  今、韓国の若い人たちは、漢字が読めない状態になっ
 ている。
  当然、漢字で書かれた過去の史料や文献・資料が読め
 ない。
  それで何が起きたか?というと、『知性の劣化』。
  (参考)知性:ちせい、物事を知り、考えたり判断し
     たりする能力。
  この様な恐るべきことが韓国で起きていると・・日本
 に帰化したエッセイストの呉善花さんがそのことを何度
 も書いたりして、発表されている。
  韓国は、同時に自分たちの歴史も失っている。
  (参考)呉 善花(オ・ソンファ、1956年~)は、韓国
     生まれの評論家、日本研究者。済州島出身。
      大東文化大学(英語学専攻)卒業後、東京外
     国語大学地域研究研究科修士課程(北米地域研
     究)修了。
      拓殖大学国際学部教授。元韓国籍で日本に帰
     化。
      子供時代を済州島で過ごす。
      1980年に、韓国軍に入隊しながら大邱保健専
     門大学を卒業。
      1983年に訪日、日本で働く韓国人を題材とし
     た『スカートの風』を出版。
      戦前に日本在住経験のあった母親からの影響
     もあったが・・そして・・
      学校教育によって一時は反日主義に傾倒して
     いたが、訪日後にさまざまな葛藤を経て知日派
     になった。
      韓国併合を全否定しない・・日本の自虐史観
     の改善を求めている・・
      韓国では・・親日派、「韓国を卑下する書籍
     を出版してきた」という否定的評価を受けてい
     る。
      また、韓国における漢字復活論支持者であり、
     自著でもたびたびハングル専用教育の弊害につ
     いて言及している。
      1988年に、日本へ帰化。
      韓国による入国拒否という行為に遭っている。
      2007年10月1日、済州島在住の母の葬儀で韓国
     へ入国しようとしたところ、日本での「反韓的
     な活動」が理由で、韓国当局から入国禁止措置
     が取られていたため、済州国際空港で一時入国
     を拒否された。
      これに対し、呉の要請により、在済州日本国
     総領事館は、日本人への人権侵害との申し出を
     し、韓国入管は呉の入国を認めた。
      2013年7月27日には、親戚の結婚式への出席の
     ために韓国へ入国しようとしたが、仁川国際空
     港で完全入国拒否(本国送還命令、韓国入国法
     76条)となった。
      ルーツを朝鮮半島に持ちながら、韓国に対し
     て批判的な評論活動を引き続き行なっているこ
     とが影響したとされている。
      卑劣にも、大韓民国当局は、拒否の理由を明
     らかにしていない。
.
2013年5月、今、韓国は、「なんだかんだ」と言っているが、
 何と言おうと、実際は「日本の統治は良かった」と思う
 韓国の人々が、大勢、生きている。
  その方々が、口を開かなくても、事実は、実際は、良
 いのだから・・だから、心では「(韓国)政府は何を言
 ってんの? 日本に感謝しなければならないのに、貶(
 おとし)めてばかりで・・」となっている。
  しかし、これからは、その方々が亡くなって行かれ、
 居なくなる。
  その時、(韓国)政府にプロパガンダ(嘘宣伝)され
 た韓国の人々は、本当にそう思って、始末が悪くなるだ
 ろう・・、
  「日本の統治は良かった」と実感した人たちが、大勢、
 生きている時は良かったが・・結局は、プロパガンダさ
 れた人々だらけになるだろう。
  半分、中国に冊封されて日本の貶め行為の政治行動を
 し続けるだろう。
  そのような事件が、2013年5月に起きている。
  「日本の統治は良い事だったと、私は思っているよ」
 と言った韓国の95歳のお年寄りが、若い男に殴り殺され
 ている。
  実際の日本の素晴らしい統治に感激した韓国のお年寄
 りが、「日本の統治は良かったよ」と口にしたら・・、
  韓国の嘘の反日教育を受け、洗脳された若者が、「そ
 んなわけはない」と韓国のお年寄りを殺すという事件だ
 った。
.
2017年、ドイツに入って来た移民は、結局、社会の下層に
 しか居られないのが実情で・・、
  経済的にも、社会的にも不満を持っている人間と化し
 た集団となっている。
  そこで、「iS(イスラム国)」に流れ込んでいる。
  ドイツ国籍は取れても、社会の最底辺に据え置かれて・・
 そして、ドイツに反感を抱く。
  今、ドイツには、「サラフィスト」と呼ばれるイスラ
 ムのウルトラ過激派・超過激派が、どんどん増えている。
  日本も、「労働移民」という都合のよい考え方で判断
 しているが、そんな様に都合よく行く訳はない。
  移民は、人間という複雑な行動や考えをする対象であ
 るという認識を・・自分に都合よく、夢のような解決・・
 そんな夢想しての政策を決める様な事はない様に・・、
  (参考)サラフィストを恐れるフランス・・
     2016年4月4日、ヴァルス首相は、「フランスの
     サラフィストはイスラム教徒の1%にすぎないが、
     イデオロギー、文化的闘いに成果を上げつつあ
     る」と表明し、警告した。
      サラフィズム(サラフィー主義)・・イスラ
     ム過激派と一口に言っても、国の歴史・宗教・
     政治的背景によってさまざまなグループがあり・・
     サラフィズムは、イスラム原理主義を守り、キ
     リスト教徒や他宗教徒を敵とみなし、真正イス
     ラム国カリファ再建の「聖戦(ジハード)」を
     掲げている。
      サラフィズムがフランスに入ったのは、特に、
     1991年、アルジェリアのイスラム救国戦線が選
     挙で圧勝したのに、与党が無効としたため武装
     イスラム集団(GIA)との内戦が10年続いた
     頃・・
      ムスリム人口の西洋での増加とともに、イス
     ラム過激派や原理主義サラフィズムもフランス
     に入って来て・・サラフィズムの影響下、ニカ
     ーブを着た女性イスラム教徒も増加した・・郊
     外への移民家族の集中化のなかで、ムスリムの
     コミュニティ化が進んで行った・・
      サラフィズムには3系統あり・・
      武装・過激化を提唱する?「革命的サラフィズ
     ム」・・、合法・政治的にイスラム主義国家を
     目指す、エジプトのムスリム同胞団に通じる「
     政治的サラフィズム」・・そして、「サラフィ
     ズム・キエティスト」は、政治に関係なく伝統
     的布教に努め、テロリズムでヨーロッパを恐怖
     に陥れる「イスラム国」を強く批判している。
      シリアに向かうフランス青少年(現在600人、
     女性200人、160人戦死)は、アッラーのための
     ジハードにまい進している・・
      パリやブリュッセルのテロ犯の大半は、元犯
     罪者か麻薬ディーラーで・・自国には懲役か失
     業しかないと絶望するニヒリスト青少年らは「
     イスラム国」、アッラーのために自爆テロを続
     けている・・
      聖戦に憧れる多くの青少年が、家族と断絶し
     てイスラム教に改宗する・・
      ヨーロッパ社会での差別、屈辱を、神やムハ
     ンマドのための?「聖戦」によってヨーロッパに
     復讐し反抗しようとする・・
.
2018年、今、ヨーロッパの終焉(しゅうえん、終わり)が
 言われている・・というより、ドイツの差配するヨーロ
 ッパとなっている。
  (参考)差配:さはい、指図してとりさばくこと。
  ドイツの経済力に頼らざるを得ないヨーロッパとなっ
 ているから・・経済力の強いドイツが牛耳る・・「ドイ
 ツ帝国」の再来と言われている。
  しかし、そのドイツ・・、中国の購買力で息を吹き返
 した自動車のベンツの如(ごと)く、このベンツ以外は
 影が薄くなって来ているドイツの状態・・、
  ヨーロッパは、その様なドイツに頼らざるを得ず・・
 「ドイツの力と意思に決定づけられている状況」となっ
 ている。
  EUは、「EUの衣装を身にまとったドイツ帝国」の
 状況が強くなっていると言われているが、そのドイツ・・
 各部の地盤沈下が酷(ひど)く・・中国に救いを求めて
 いる。
  ベンツだけの救済だけでなく・・その為、中国が主導
 するAIIB(アジアインフラ投資銀行)へ、このドイ
 ツだけでなくEU諸国が、こぞって参加している・・
  腐肉に群がるハイエナのような状況になっている。
  今、ドイツは、移民が酷く・・ドイツでは、どこの幼
 稚園や小学校でも、外国系の子供たちの方が多いという
 ケースがたくさんある。
  今、ヨーロッパの終焉が近づきつつあると言え・・そ
 のヨーロッパの文化も消えていく状況・・町並みも消え
 て行く状況。
  中国に近づいて、中国の軍事力の増強にテコ入れする
 ことが恐れられている・・
  ドイツの技術が、中国に注入されることが恐れられて
 いる。
  ドイツの軍事技術が、どんどん中国に入ることが懸念
 されている・・中国はそれを望んでいる・・、
 (追伸)先日、テレビで放送されたが・・、
     オーストリアの世界遺産の美しい街並みの満々中に
     超近代的は高層ホテルが建つ話がある・・景観ぶち壊しホテル
      もう世界遺産より食う方が先・・背に腹は代えられぬという
     ヨーロッパとなっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)603E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月17日、御前会議で慎重な審議を重ねられ、開戦が
 確認された・・そして、最後通牒が送られた。
  回答期限は、朝鮮に対しては7月22日、中国・清国に対
 しては7月24日とした。
.
1894年7月17日、海軍軍令部長が中牟田倉之助から樺山資紀
 に交代した。
  海軍軍令部は、1893年5月20日の「海軍軍令部条例」に
 より設置された。
  この頃の海軍の建設にあたって、初めは、軍令の専掌
 機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌してい
 た。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置されて、
 初めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部は参謀本部の海軍部となり、
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となり、
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して天皇陛下に直隷する海軍
 軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
.
1894年7月18日、総武鉄道の佐倉駅~銚子駅間の建設仮免許
 状が下付された。
.
1894年7月19日、イギリスの第二次調停案への回答期限を、
 7月24日と清に通告した。
.
1894年7月19日、朝鮮の望む自主独立と・・宋主権を行使し
 主張する清国・・、
  「断固なる処置を施すの必要あり」の訓令を受けた大
 鳥公使は、朝鮮が清国と結んでいる諸条約の廃棄を提案
 した。
  つまり宗属関係の撤廃、清国軍の撤兵、ソウル~釜山
 間の軍用電信の架設、日本の兵営建設などを示し、朝鮮
 政府に手交した(7月20日)
.
1894年7月19日、海軍連合艦隊を編成し、伊東祐亨が初代司
 令官に就任した。
  日本海軍初の聯合艦隊を編成した。
  司令長官は伊東祐亨中将だった。
  日清戦争開戦が現実のものになってくるにつれて「警
 備艦隊」というのはふさわしくないという意見が出た。
  一時は、警備艦隊を常備艦隊に統合する案が出たが、
 当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊
 を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって
 「連合艦隊」を組織するという案を出した。
  これが連合艦隊編成のきっかけとなった。
  以降、日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成され
 た。
  1923年(大正12年)以降、常設となった。
.
1894年7月19日、別子銅山新居浜精煉所の煙害をめぐり農民
 が精煉所を襲撃した。
.
1894年7月20日、日本汽船の長崎~上海航路が運航停止と
 なった。
  日本郵船の庸船「アンゼルス丸」だけが、イギリス国
 旗を掲げて週1回就航した。
.
1894年、この頃から1902年頃にかけて、外務省の「霞倶楽
 部」、農商務省の「采所クラブ」、陸軍省の「北斗会」、
 政友会の「十日会」と次々に記者クラブが生まれ・・、
  さらに、1905年には、司法省の「司法記者倶楽部」、
 1907年には、内務省の「大手倶楽部」、1910年には「兜
 会」が組織された・・が・・、
  まだまだ新聞のイメ−ジは悪く、政府も省庁も、記者た
 ちを車夫、馬丁と同様に思われ、扱われていた。
  記者室も玄関先の控え所にちっぽけな場所を与えられ
 ただけだった。
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  (今日の言葉)
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  題:これから先の風景は・・、人口の急増と都市化、
   エネルギー消費の爆発的増大、CO2排出量の急増・・
   これ等のすべての先には地球温暖化と異常気象がある。
   海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるという。
   この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
  原子力発電へと行かざるを得ない。
   人類が、生活に必須のその電力を得るためには・・、
   その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明白と
  予測されている。
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紀元前5600万年、日本列島:始新世(5600万年前~3400万
 年前)頃からその原型が形成された。
  中新世(2,300万年前~530万年前)に、日本海が形成
 されてユーラシア大陸と分離した。
  中新世になると・・今度は、日本列島が大陸から引き
 裂かれる地殻変動が発生し、大陸に低地が出来始めた。
  2100万年前~1100万年前には、さらに断裂は大きくな
 り、
  西南日本は、長崎県対馬南西部付近を中心に時計回り
 に40度~50度回転し・・、
  同時に、東北日本は、北海道知床半島沖付近を中心に、
 こちらは反時計回りに40度~50度回転したとされる。
  これにより今の日本列島の関東以北は南北に、中部以
 西は東西に延びる形になった。
  いわゆる「観音開きモデル説」である。
  そして、およそ1500万年前には、日本海となる大きな
 窪みが形成され、海が侵入してきて、現在の日本海の大
 きさまで拡大した。
  1600万年前~1100万年前までは、西南日本(今の中部
 地方以西)のかなり広い範囲は陸地であった。
  東北日本(今の東北地方)は、広く海に覆われ、多島
 海の状況であった。
  その後、東北日本は、太平洋プレートなどによる東西
 からの圧縮により隆起して陸地となり、現在の奥羽山脈・
 出羽丘陵が形成されるにいたった。
     ・
     ・
紀元前1500万年、日本列島が今の位置に来た。
  日本列島が今の位置にやって来たのは1500万年前。
  その形は現在と同様ではなかった。
  気温や海面の変化、氷河の拡大・縮小などに起因する
 ダイナミックな変動を繰り返しながら、現在の日本列島
 の姿へとなった。
     ・
     ・
紀元前500万年、日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来
 上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前。
  その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。
  その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間
 氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こっ
 た。
    ・
    ・
紀元前100万年、デニソワ人
  2010年3月25日付のイギリスの科学雑誌『ネイチャー』
 に、マックス・プランク進化人類学研究所の研究チーム
 は、発見された骨のミトコンドリアDNAの解析結果か
 ら、「デニソワ人」は、100万年ほど前に現生人類から分
 岐した未知の新系統の人類と発表した。
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紀元前80万4000年、「ネアンデルタール人」と「デニソワ
 人」の祖先が分岐した。
  2008年、ロシア西シベリア・アルタイ山脈のデニソワ
 洞窟で子どもの骨の断片が発見された。
  2010年12月23日、マックス・プランク進化人類学研究
 所などの国際研究チームは、『ネイチャー』に論文を掲
 載した・・その内容は・・、
  見つかった骨の一部は、5歳~7歳の少女の小指の骨で
 あり、細胞核DNAの解析の結果、デニソワ人はネアン
 デルタール人と近縁なグループで・・、
  80万4000年前に、現生人類であるホモ・サピエンスと
 の共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先
 が分岐し、
  64万年前にネアンデルタール人から分岐した人類であ
 ることが推定された。
  デニソワ洞窟は、ネアンデルタール人化石発見地のう
 ち最も近いイラク北部シャニダール遺跡から、約4000km
 の距離を隔てている。
  メラネシア人のゲノムの4%~6%がデニソワ人固有の
 ものと一致することから、現在のメラネシア人にデニソ
 ワ人の遺伝情報の一部が伝えられている可能性が高いこ
 とが判明した。
  また、中国南部の住人の遺伝子構造の約1%が、デニソ
 ワ人由来という研究発表も、スウェーデンのウプサラ大
 学の研究チームより出されている。
  ネアンデルタール人と分岐した年数も、35万年ほど前
 との説もある。
  ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・
 リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯か
 らデニソワ人は体格はネアンデルタール人と同じか、そ
 れよりも大きいとみている。
  概略のところは、40万年前~30万年前にアフリカを出
 て、中東を経て、ヨーロッパに拡がった集団がネアンデ
 ルタール人に・・、
  中東を経て、アジア内陸部に移動した集団がデニソワ
 人になった。
  それに遅れて、6万年前~5万年前に、アフリカを出た
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、まず、中
 東でネアンデルタール人と交わり、さらに、アジア内陸
 部でも先住者のデニソワ人と交雑し、世界中に拡がって
 現在に至ったという推定もある。
  ネアンデルタール人やデニソワ人は、その後、絶滅し
 てしまったが、アフリカ土着のネグロイドを除く現在の
 現生人類遺伝子のうち数%は、ネアンデルタール人由来
 である。
  中東での現生人類祖先とネアンデルタール人との交雑
 を示す研究成果は、2010年5月に発表されているが、
  2010年12月に、アジア内陸部におけるデニソワ人とも
 現生人類祖先は交雑したとする研究結果が出たことから、
 この結果が正しければ、過去には異種の人類祖先同士の
 交雑・共存は「通常のことだった可能性が出てきた」。
  (この例の様に、我々の祖先は、広い交雑域の中に、
 長い長い年月に居た・・アイヌと琉球は別民族というキ
 リスト教系大学の独断は、まったくの科学性のない主観
 的見解である)
  なお、アジア内陸部で、デニソワ人と交雑した現生人
 類祖先は、その後、長い期間をかけてメラネシアなどに
 南下していったと考えられている。
  また、中国方面に移住したグループは漢民族となり、
 高地に移住したグループはチベット人の「別民族となっ
 た」。
     ・
     ・
紀元前40万年、ネアンデルタール人がアフリカを出た。
  40万年前~30万年前に、アフリカを出て、中東を経て、
 ヨーロッパに拡がった集団・ネアンデルタール人に・・、
  中東を経てアジア内陸部に移動した集団がデニソワ人
 になった。
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紀元前35万年、日本列島にナウマン象が現れる(~1万7000
 年前に絶滅)
  ナウマン象は、約35万年前に日本列島に現れ、約1万
 7000年前に絶滅した。
  日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(間宮・
 宗谷・津軽・対馬海峡)を通って、色々な動物が渡って
 来たと考えられている。
  さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡って来
 た。
  最終氷期に大陸と繋がった北海道だけは、マンモス動
 物群が宗谷陸橋を渡ってくることが出来たので、それら
 の混合相となった。
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紀元前20万年、人類の起源のホモ・サピエンスが、アフリ
 カに登場した。
  人類はアフリカに誕生したあと、数回にわたってアフ
 リカからユーラシア大陸へと移動した。
  しかし、現在のように地球の広い範囲に拡散移動した
 のはホモ・サピエンスの登場以降のことである。
  現代に生きる人類の起源を遺伝学的に研究すると、20
 万年前ごろにアフリカにいた人類集団の一つにその起源
 をたどれる
  ホモ・サピエンスが全地球的な拡散をはじめたのは、今
 から5万年前頃であった。
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紀元前12万年、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)の
 前期旧石器などの遺物が発見されている。
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紀元前12万年、デニソワ人の旧人が日本列島に居た。
  現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前にアフ
 リカを出発し、それ以前にはアフリカ外には分布してい
 なかった。
  従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)
 を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
  日本列島に現生人類(ホモ・サピエンス)が現れるの
 は4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハ
 プログループD1b (Y染色体)の起源年代とおおむね一致す
 る。
  (参考)デニソワ人:ロシア・アルタイ地方のデニソ
     ワ洞窟(ロシア、中国、モンゴルの国境に近い
     地域)に約4万1千年前に住んでいたとされるヒ
     ト属の個体および同種のヒト属の人類である。
      デニソワ洞窟は、アルタイ地方の中心都市バ
     ルナウルから約150km南方に位置する。
      Homo sapiensの亜種とされることが多い。
      ネアンデルタール人と並んで、我々現生人類
     であるホモ・サピエンス・サピエンスに最も近
     い化石人類である。
      また、現生人類の一部(メラネシア人など)
     と遺伝子情報を部分的に共有する可能性が高い
     としている。
      マックス・プランク進化人類学研究所の研究
     チームは、発見された骨のミトコンドリアDN
     Aの解析結果から、デニソワ人は100万年ほど前
     に現生人類から分岐した未知の新系統の人類と
     発表した。
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紀元前11万年、気候が冷涼になった。
  約11万年前には気候が涼しくなり始めた。
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紀元前9万年~紀元前8万年、日本列島での人類の足跡は、
 9〜8万年前(岩手県遠野市金取遺跡・中期旧石器)に遡
 (さかのぼ)る。
  この時代に属する遺跡は、日本列島全体で数千ヵ所と
 推定されている。
  地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終
 末から完新世初頭までである。
  (参考)更新世:こうしんせい、地質時代の区分の一
     つで、約258万年前から約1万年前までの期間。
      大陸の形は現在とほとんど変わらないが、氷
     期・間氷期の氷床の拡大・縮小による海水準変
     動に伴って、海岸線の位置が移動した。
      更新世の後期では海水準にして百数十メート
     ルの変動があった。
      海水準が低下した時期は、現在浅い海である
     海域の多くが陸地となっている。
  また、日本列島は、氷床によって大陸と陸続きだった。
  完全に渤海は氷床に埋まり、また、黄海も完全に氷床
 に埋まり、東シナ海も北半分は氷床に埋まっていた。
  また、対馬海峡も氷床で埋まり、台湾も大陸と氷床で
 埋まり地続きだった。
  人類は容易にこの氷床上を歩いて日本に渡って来れた。
  また、樺太と大陸は地続きで、樺太から北海道、本州、
 四国、九州は、氷床があり歩いて渡れる状態にあった。
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紀元前6万年、現生人類(ホモ・サピエンス)が東アジアに
 到達した。
  アフリカを出た私たちホモ・サピエンスの祖先は、5
 万年前〜6万年前頃には、東アジアにまで到達していた
 と考えられている。
  研究者の多くは、4万年前頃に、旧石器時代の遺跡が急
 激に増えることから、現代人につながる人々が少なくと
 もその頃に日本で暮らしていたと考えている。
  ところが、実際は、さらに古い遺跡も見つかっている。
  岩手県遠野市では、8万5000年前~5万年前と推定され
 る遺跡が見つかり、石器も出土している。
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紀元前6万年、板状の木製品が出土した。
  板状の木製品は、明石市西八木遺跡で、約6〜5万年前
 の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の
 木製品(加工痕のある木片)が出土した。
  この木片は、長さ23.4センチ、最大幅4.8センチ、厚さ
 4ミリで、少なくとも2種類の石器で加工されている。
  用途はまだ分かっていない。
  この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の
 板ということになり、旧人が工作した板ということにな
 る。
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紀元前5万年、日本の遺跡・竹佐中原遺跡
  長野県飯田市で、竹佐中原遺跡が発掘調査された。
  この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が
 出土した。
  石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、
 植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス
 年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新
 しいことが分かった。
  4か所から出土した石器は、2グループに分けることが
 でき、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初
 め頃)、
  もう一つは、3万数千年前〜5万年前のものであること
 推測された。
  つまり、中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変
 わる時期の遺跡とされた。
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紀元前4万年~紀元前3万年、日本列島で世界最古の磨製石
 器が作られていた。
  氷河期に日本列島は大陸と陸続きになり日本人の祖先
 は獲物を追って日本列島にやって来たとされてきたが、
 近年の研究では、氷河期の最寒期でも津軽海峡、対馬海
 峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってき
 た。
  また、舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島
 産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見さ
 れていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日
 本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道
 されている・・しかし、この時期には、船の遺物は発見
 されていないため少数の意見である。
  一方、約4万年前の後期旧石器時代早期より黒曜石の採
 掘が続けられた栃木県高原山黒曜石原産地遺跡群では、
 知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
  また、4万年〜3万年前には、世界最古の磨製石器が製
 作されており、すでに日本では独自の文化が形成されて
 いたことが分かった。
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紀元前4万年、ナウマン象の骨製品
  長野県の野尻湖遺跡で、約4万年前の地層(日本考古学
 用語では「土層」とも言う)からナウマン象の骨製品が
 まとまって発見された。
.
紀元前3万8000年、野尻湖湖底遺跡
  約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した動物を解体す
 る場所であったと推定されている。
  長野県上水内(かみみのち)郡信濃町野尻にある遺跡。
  野尻湖は、斑尾(まだらお)山と黒姫山に挟まれた標高
 約650mの高原に位置し、遺跡は湖西岸の立ケ鼻という岬
 付近の湖底に所在する。
  1948年、地元住民が偶然ナウマンゾウの臼歯を発見し、
  1962年から湖底や湖畔の発掘調査が始まり、以後、継
 続的な調査が行われている。
  ナウマンゾウやオオツノジカなど大型哺乳類の化石、
 ニホンジカ・イノシシなど中・小型哺乳動物の化石とと
 もに、剝片によるナイフ形石器、象牙を加工した骨角器
 などが出土し、約4万年前の旧石器時代の人々が狩猟した
 動物を解体する場所であったと推定されている。
  最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は
 野尻湖湖底遺跡はじめ各地から報告されており、そうし
 た動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してき
 た可能性は考えられる。
  つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さ
 えも想像される。
  この期の遺跡の調査例は少ない。
  石器や生活道具類が発見される程度である
  野尻湖で狩りが行われた決定的な証拠はまた発見され
 ていないが、骨製品がその可能性を示唆している。
  ちなみに、ゾウ1頭の肉で50人の集団が45日分のカロリ
 ーを確保できたと推定されている。
  縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中
 で大きな比重を占めていたが・・、
  旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が
 主体であったようだ。
  旧石器時代人は、主として狩猟によって食糧を得てい
 たと言える。
  当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの
 大型哺乳類の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなど
 の中・小哺乳動物の骨が発見されている。
  そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・
 サイトも発見されている。
  このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩
 人たちであったと思われる。
  竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないの
 は、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り
 返していたからだとも推定されている。
  当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたという。
  この様な大きな移動量は、日本人の形成に於いて、北
 海道から沖縄まで、長い歴史の中で、その血の混合が均
 一になされていた。
  日本の旧石器文化が、シベリアとの強い関連性がある
 ことが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離
 頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。
  その移動の広さは想像以上である。
  日本は、酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、
 日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能
 性がある。
.
紀元前3万3000年、日本列島の後期旧石器時代は、約3万5000
 年前に始まり、縄文時代へと移行する約1万5000年前まで
 の約2万年間続いた。
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紀元前3万年、沖縄の洞穴で発見された子供の骨は初期現代
 型新人の特徴に一致する。
  沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で、1968年に発見さ
 れ・・、
  約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、
 国内では最古級の人骨である。
  最近の検討によると、初期現代型新人の特徴に一致す
 るという。
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紀元前2万8000年~紀元前1万1000年、後期旧石器時代
  後期旧石器時代は、コナラ、クリ、クヌギを主体とし
 た落葉広葉樹林が西日本から東日本を覆うようになった。
.
紀元前2万8000年~紀元前1万年、日本の後期旧石器遺跡が
 4000ヶ所を超える。
  1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(現・群馬
 県みどり市)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
  日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。
  現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が
 確認されている。
  これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1万2000年前
 の後期旧石器時代に残されたもの。
.
紀元前2万7000年、地球の寒冷化が進行する。
  2万9000年前を過ぎる頃から、地球規模で急激に寒冷化
 が進行し、約2万5000年前を前後する頃には最終氷期最寒
 冷期を迎えた。
.
紀元前2万年、この頃、海面が最も下がった、現在より120
 メートルも低下していた。
  本州と四国、九州、それから屋久島、種子島も陸続き
 で、また、ロシアと北海道も陸続きで・・、
  縄文人の祖先たちやマンモスは、ユーラシア大陸から
 歩いて日本にやって来た。
  この頃は、黄河の河口が、現在の韓国の済州島の南あ
 たりにあり、黄河の水が、狭くなった対馬海峡から日本
 海に流入したことによって、日本海が淡水化していたこ
 とが分かっている。
  その為、新潟は、今、おいしい海産物があるが、2万年
 前は、日本海がほぼ淡水だったため、魚はほとんど採れ
 なかった。
  また、関東平野は、海面が下がったことで、深い谷が
 たくさん出来ていて・・、
  関東平野にできたその大きな谷に、7000年前の海面上
 昇で海水が流れ込んで来た。
  その7000年前の海面上昇は、関東の内陸部、例えば、
 川越あたりから貝塚が発見されていることからも明らか。
 (明星大学教育学部・長谷川裕彦准教授)
.
紀元前2万年、最終氷期の寒冷期で、海面が120メートル以
 上も低下していた。
  現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は
 全世界で120m以上も低下しており・・、
  日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の
 大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在
 の日本海は、ほとんど塩湖だったと推定されています。
  このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大き
 な影響をあたえました。
  最終氷期の最盛期である約2万年前の植生は、北海道南
 部から中央高地にかけては亜寒帯性針葉樹林で・・、
  それより西側は温帯性針葉・広葉の混交林が広範囲に
 拡がっていった。
  暖温帯広葉樹林である照葉樹林は、西南日本の太平洋
 側沿岸の一部と南西諸島に後退していた。
  約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、
 海面が上昇し、現在の海陸分布ができあがった。
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紀元前2万年、日本最古の後期旧石器時代の住居跡。
  日本の住居跡遺跡が整った形で発見された。
  大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡」で、約2万2000年前
 の極めて形の整った径6メートル、深さ20センチメートル
 の円形竪穴住居が発見された。
  外周に柱穴を持つもので、径10センチぐらいの材を20
 本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施し、そ
 の上を草や皮で覆った構造が考えられる。
  この住居跡は、構造がよく分かった上にサヌカイト製
 のナイフ形石器や翼状剥片が、約200点も一緒に出土した。
  (参考)サヌカイト:讃岐岩(さぬきがん、サヌカイ
     ト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台
     周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺
     で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。
  調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉な
 どがあり、熱のために赤色化していたことで、火が使わ
 れていたことが分かる。
  土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。
  礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲
 に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化してい
 て、調理施設に関連したものと考えられている。
  一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、
 火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考
 えられている。
  そのほか、死者を埋葬する土坑墓が見つかっている。
  死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこ
 にベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものが
 ある。
  シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋
 葬する習俗が遅くとも2万年前には出来ていたらしい。
  旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中し
 ている箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、
 土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。
  集落の規模と構成はまだ分かっていない。
  竪穴住居といえば、縄文時代や弥生時代の住居形態を
 想起するが、竪穴住居が旧石器時代に遡っただけでなく
 旧石器時代人が石器だけでなく木を使っていたことが分
 かった。
  木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップ
 などの生産用具を作り、生産効率を上げることが出来る。
  径10センチくらいなら、今の建築材料の柱の太さとそ
 う変わらない。
  それを20本も、木の柄の付いた斧で木を倒したとされ
 ている。
.
紀元前1万8000年、沖縄県出土の人骨が判定された。
  2010年(平成22年)2月4日、沖縄県教育委員会は、沖
 縄県石垣市白保(石垣島)の新石垣空港建設敷地内にあ
 る白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ)か
 ら発見された人骨について、琉球大学や東京大学などと
 研究を進めた結果、そのうち1点(約8cm×約11cmの20代
 から30代前半の男性の頭頂骨)が放射性炭素年代測定で
 約2万年前のものと分かったと発表した。
  また「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変
 遷に関する総合的研究」の分析では、発見された人骨片
 のうちの右頭頂骨片に対して、20416±113年前(BP)とい
 う推定年代値を得た。
  これは放射性炭素によって直接ヒト化石の年代を推定
 した値としては国内最古のものであった。
.
紀元前1万6000年、浜北人の年代測定の結果
  浜北人は、静岡県浜北市(現・浜松市浜北区)根堅(
 ねがた)の石灰石採石場で、1960年から1962年に発見さ
 れた頭骨片と四肢骨片(鎖骨・上腕骨・寬骨・脛骨)の
 人骨化石である。
  上・下2つの地層から出土した。
  それぞれの層から出た獣骨の年代を加速器質量分析(A
 MS)法による炭素年代測定での結果は、上層が約1万4000
 年前、下層出土の脛骨が約1万8000年前を示した。
.
紀元前1万4500年、世界最古級の土器が日本から出土した。
  世界でも最古級(約1万6500年前)の土器が青森県の
 大平山元遺跡から出土した。
  旧石器時代の終末に、九州では、豆粒文土器(長崎県・
 泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現した。
  一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出
 現期のこの頃の土器の役割はまだ十分解明されていない。
  この青森県外ヶ浜町大平山元遺跡出土の土器に付着し
 た炭化物のAMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法
 で1万6500年前と出た。
.
紀元前1万4000年、日本列島の旧石器時代は、人類が日本列
 島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6000年前と考
 えられている。
  無土器時代、先土器時代ともいう。
.
紀元前1万年、上部港川人が発見された。
  1967年〜1969年に、1万2000年前のものと考えられる人
 骨(上腕骨・尺骨・寬骨・大腿骨2点・脛骨2点・距骨・
 第1中足骨)の断片が発見された。
  これは、日本本土で多く発見されている縄文人の骨格
 的特徴によく似ており、上部港川人と呼ばれている。
  港川人は、沖縄県八重瀬町(旧具志頭村)港川の海岸
 近い砕石場で発見された。
  港川人は、1万8000年前(旧石器時代)に生きた人骨化
 石に対して発見場所にちなんで付けられた名称で、
  1967年に発見された港川人の人骨は、約1万7000年~
 8000年前頃のものと推定された。
  国内で発見されている更新世化石人骨の中で体全体の
 形が分かるほど残っているのは港川人だけであることも
 あり、日本人のルーツを研究する上で重要な資料とされ
 ている。
  頭蓋骨は現代人よりも少し大きく、堀が深い顔立ちで
 頬骨がはり、鼻筋が高い。
  縄文人と似ている特徴をもつこの港川人は、人類の謎
 を解き明かす上で、非常に重要な存在と考えられており、
 今後、更なる調査が行なわれている。
.
紀元前5000年、気温上昇により海面が上昇した。
  縄文時代前期の7000年前、今より気温は2度、海面は2
 メートル高かった。
     ・
     ・
     ・
2018年、日本の主食の米が、いざという時に、日本人の食
 を助けてくれる米が、今、そのシステムが働かないよう
 になろうとしている。
  2018年から、その様な自体になるだろうと予測されて
 いた。
  日本は、食糧における安全・安保のために、政府は、
 米という穀物は、日本人の命の糧とした政策をとって来
 た。
  しかし、圧力を受けて、その政策を放棄した。
  米への圧力と言えばTPPでも攻められていた。
  「日本の生命線だから・・」という説明に耳を貸さな
 い態度を見て来た。
  近い将来、人口と、その人口のための食糧のバランス
 が不安定となる事が確実視されている。
  現在、日本は、長い間、国民の食の安定・安全・安保
 を担ってきたシステムを、制度を止める。
  2018年をもって終了としている。
  どこのファミリー・レストランでも、家族連れの方々
 が、楽しそうに食事をされているが、その食のシステム
 が変わる。
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
.
2020年代、アメリカが、経済的に、また、予算的に、その
 緊迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
.
21世紀のこれからの政治は、その国際政治の主舞台は、か
 つての欧州・大西洋から、アジア・太平洋へとシフトす
 る。
.
21世紀のこれから先の風景は・・、
  人口の急増と都市化、
  エネルギー消費の爆発的増大、
  CO2排出量の急増・・これ等のすべての先には地球温暖
 化と異常気象がある。
  海水温が2度上昇すると、台風の強度は2倍になるとい
 う。
  この様な中、世界の趨勢(すうせい)は静かに着実に
 原子力発電へと行かざるを得ない。
  2014年には、160兆円が世界で電力投資されているが、
  2035年には、それが200兆円に達すると試算されている。
  その投資の主要部分が、原子力発電が占めることが明
 白と予測されている。
.
2027年、JR東海のリニア中央新幹線が開業する予定。
.
2034年、日本の人口が1400万人減少すると言われている。
.
2040年、日本の896市区町村が消滅する可能性があると予測
 されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)602E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年7月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年7月9日、別子銅山新居浜精錬所の煙害に抗議して、
 農民の850人が、精錬所に対し実力で抗議行動をした。
  その被害農民の方々は、操業停止を求めていた・・
  そして、その要求を実現すべく新居浜分店への襲撃状
 の過激な行動となった。
  会社側は、その被害農地を買い上げることで解決しよ
 うとした・・
  1895年、農民代表は、住友大阪本店と補償交渉をする
   ことになった。
   そこで時の鉱業所支配人・伊庭貞剛は・・、
   「住友家の家名を汚すようなことがあってはならな
   い」と、足尾の二の舞を避けるべく、瀬戸内海の無
   人島への精錬所移転を計画した。
  1895年、四阪島を買収、
  1896年、着工、
   総費用は、当時、銅山年収の1.5倍以上に相当する170
   余万円を要した・・しかし・・
  1899年、別子で大洪水が発生、設備半壊、500名が死亡
   する大被害があり・・四阪島への移転は2年遅れて・・
  1904年、操業開始となった。
   移転してみると・・期待に反して被害は減らず、む
   しろ汚染地域が拡大した・・、
  1908年には、米麦とも収穫量が激減した。
   愛媛県会は、県知事と農商務相への陳情決議と被害
   救済建議案を全会一致で可決した・・、
    愛媛県選出代議士も連署して除害命令と被害救済
   建議案を衆議院に提出した・・、
    被害郡の町村長も、連署して上申書を農商務相へ
   提出した・・、、
    自治体関係者は、こぞって農民側に立ち大会社・
   住友を追求した。
    しかし、被害の補償額を巡って折り合いは付かな
   かった・・、
  1910年、農商務相の調停で、煙害賠償金の支払いと、
   農作物の生育に重要な期間に、10日間の操業停止が
   決着した。
    政府は、日立、小坂銅山など全国的に激しくなっ
   てきた鉱毒問題に対処するため鉱毒予防委員会を設
   置した・・、
    その専門家の政府指導で・・
  1915年に、建設費35万円で、低い煙突6本を四阪島に
   設置した・・しかし・・これも効果無く失敗・・、
    その後、高い煙突を建てたり、電気集塵機を導入
   して排ガス浄化に努めた・・が・・効果は薄く・・、
  1939年、やっと解決策が出て来た・・
   SO2(亜硫酸ガス)中和工場(脱硫)完成により、
   ようやく賠償金を大幅に減らすことができた。
  住友鉱業の煙害では、足尾鉱毒とはまったく異なり、
 被害農民は県、国、会社に強く訴え、会社側の対応を引
 き出し・・、
  会社側は、被害防止に前向きな対応を図っていた。
  支配人・伊庭貞剛は、煙害を受けた銅山周辺に植林を
 積極的に進め・・今では緑が回復している。
  (この植林事業が、今日の住友林業の元になる)
  田中正造は、足尾に比べて前向きな住友の対応を評価
 した。
  しかし、技術的な知識不足から多額の費用をかけた移
 転、低煙突建設ともに効果がなく、
  1939年までに、被害農民に支払った賠償金等は総額730
   万円に上った。
  (参考:西田進氏HP、http://www.nishida-s.com/index.html
.
1894年7月12日、イギリスの調停案も拒否し・・金玉均も
 暗殺するという清・・その清との日清の会談も決裂し、
 小村公使が、清国政府に第二次絶交書を手交した。
  清の軍人・袁世凱は、朝鮮で画策して、朝鮮国王の名
 で清国の出兵を要請させ・・
 (まったく、朝鮮は、自主独立しているという状態では
 ない状態)、
  清は、表面は美しくして出兵しているが、実態は、朝
 鮮を操作するという状況だった
  清の出兵は、1894年6月8日に清は軍を出兵させ、牙山
 に上陸させた・・
  (日本に通知してから行動する・・という条約は、無
 視され・・事後報告の状態だった)
  この様に中国・清の工作員の軍人が横行する朝鮮の状
 態で、清のやりたい放題だった。
  日清間では、撤兵問題も話し合われたが、宋主権を持
 つという意識の清は強く、話し合いは紛糾した。
  開戦せざるを得ない状況が出て来て、日本は、開戦に
 当たって、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロ
 シアなどの関係各国に対し、清国に対する開戦を通告し
 ている。
  現在の中共(中華人民共和国)も、ある意味、この時
 の様な冊封体制下の様な振る舞いをしている・・(北朝
 鮮は、完全に冊封体制下に置かれて、朝貢しているがご
 とくとなっている)・・そして、覇権を誇示している・・
 完全に、現在の北朝鮮は中国への朝貢状態で・・韓国も
 飲み込まれている。
  この時も、この様な状況下にあり、日本は第二次の絶
 交書を手渡した。
  過去には、1886年には、中国・清の誇る北洋艦隊が、
 最新鋭艦の「定遠」や「鎮遠」(当時の日本海軍にとっ
 て化け物のような巨大戦艦だった・・当時の世界最大級
 の大砲を備え、また、装甲も厚く、東洋一の戦艦だった)
 などを連ねて、長崎に示威している中国だった・・
  中国水兵は、完全な優越的態度で、長崎で事件を起こ
 したり・・日本を馬鹿にして暴れ回った。
  そして、そこには、大国・清に侵攻されると恐れてい
 た日本があった。
  日本は艦隊をそろえようにも景気が悪く、予算が不十
 分だった・・長い間、希望がかなえられなかった・・
  しかし、景気が良くなると日本は艦を作って行った・・
 また、イギリスの指導も受けた。
  日本は海軍国と言われるが、当時の日本は、海軍力に
 自信が無かった・・
  山形有朋陸軍大将が、元勲の井上馨へ・・
  「(黄海)海戦に大勝したのは予想外」という意味の
 ことを書き送ったくらいだった。
  その様な実情を知ってか知らぬか、野党は対外硬だっ
 た。
  また、マスコミもこの対外硬の論を張った。
  1894年6月28日、日英間で条約改正交渉中のイギリス外
 相が調停に乗り出す動きを見せた・・更に・・
  1894年6月30日、ロシア公使ヒトロウォは陸奥と会談、
 「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵とい
 う希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時
 撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負
 うことになる旨忠告する」と申し入れた。
  これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかっ
 た。
  1894年7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答
 した・・、
  「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、
 反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていない
 のではないかと考える。
  日本政府は、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」
 と・・、
  1894年7月9日、清の総理衙門総領大臣(外務大臣に相
 当)慶親王が、「日本の撤兵が先だ」としてイギリスの
 調停案を拒絶した。
  1894年7月10日、ドイツとの対立を重要視していたロシ
 ア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁
 じていた・・さらに・・、
  1894年7月10日の同日、駐露公使・西徳二郎より、これ
 以上ロシアは干渉しない、との情報が外務省にとどいて
 いた。
  1894年7月11日、伊藤内閣は、清の調停拒絶を非難する
 とともに、強引なる主張ばかりをする清・・、
  その清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣
 議で決定した。
  1894年7月12日、そして、この第二次絶交書を手交した。
.
1894年7月16日、ロンドンで、日英通商航海条約の締結が
 なされた・・
  外務大臣の陸奥宗光が調印した。
  この条約によって・・領事裁判権が廃止され・・、
  関税率が引き上げられ、関税自主権の一部を回復した・・
  安政五カ国条約以来の不平等が、やっと修正されて・・
 日本の法権が回復したのだった。
  そして、この日英通商航海条約の調印は、日本の朝鮮
 での行動を、また、行為を、「イギリスが認めた」とい
 うことを示していた。
  イギリスには、過激な侵略的な動きをするロシアに対
 する恐れがあった・・
  この面での日本の行動に期待していた・・
  ロシアに対する防壁としての日本の役割に期待してい
 た。
  朝鮮では・・朝鮮の東学党の乱を契機として、日清間
 に緊張が発生していた。
  この日英通商航海条約の締結の後、他の欧米諸国とも
 同様の条約を調印し、日本の国際的地位は飛躍的に向上
 した。
  日清戦争の始まる直前の、この日英通商航海条約が調
 印されたことは・・江戸期からの悲願の差別の条約が、
 やっと、改正されたのだった。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという状況のアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカは、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から「40年の月日」が経っていた。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権の撤廃」に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その事例一つが、和歌山県沖のノルマントン号事件だ
 った。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  まず、この治外法権のため、事件の裁判を担当したの
 がイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、この年、1894年、つい
 に、イギリスとの間で、治外法権の撤廃に成功した。
  そして、陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正
 に応じたため、他の国々もあとに続き・・、
  15か国から治外法権の撤廃を勝ち取った。
  そして、この調印直後、日清戦争が始まった。
  1894年8月1日、この日に、日清両国は宣戦布告した。
  欧米列強の奪い取りの世界が演じられてきたアジアの
 世界の中で・・、
  ただただ、その無節操な奪い取りの世界の中で・・、
  日本の周囲の国々・島々、また、東シナ海沿岸の大部
 分など・・、
  また、日本の北や南に広がる主要な島々が、ことごと
 く列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほどの
 恐怖感を感じないではいられなかった。
  そして、日本も、列強諸国による不平等条約があって、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様な領土をあさる列強に取り巻かれている日本の
 姿・・、
  列強各国は、日清戦争で、日本が敗北するだろうと予
 測していた・・
  それだけ、清の力は強く、日本は弱小とされていた(
 長崎での事件などで清に馬鹿にされている日本だった)
  列強諸国は、「アジアの中心は中国だ」と見ていた。
  結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  そして、日本に対する彼ら列強は、日本での特権を相
 次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けただろう。
  この様な状況の日本の解放と共に、朝鮮も中国から初
 めて解放された。
  独立国となれた。
  そして、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列
 強諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:自分だけが・・良い子にならないように・・
.
約4万年前頃~約4400年前、アフリカから始まった人類の拡
 散~偉大なる人類のうねりが世界へ・・そして・・
  日本人は、遠い遠い昔のこの頃、旧石器時代から縄文
 時代の中期と言われるこの頃・・日本人の大陸からの移
 動がなされていた。
  この頃、大陸と日本列島は地続きだった・・そんなそ
 んな遠い昔、大陸から移動して来た日本人が形成がなさ
 れて行った。
  その長い間の長い長い期間、日本列島に於いて、血は
 混ざり合い、そしてまた、混ざり合い、その混血によっ
 て日本人の形成はなされて行った。
  アイヌの方々の祖先も、琉球の方々の祖先も、その仲
 立ちの本州などの島々の祖先も、その混血によって形作
 られて行った。
  そんじょそこらの数百年の歴史しかない国々とは訳が
 違っている。
  数百年の歴史しかない者たちが、数万年の歴史を持つ
 先住民の方々を殺戮して出来たような国とは訳が違う。
  オーストラリア・ラテンアメリカ・カナダ・アメリカ
 合衆国などとは訳が違う。
  日本列島の遺跡を分析してみても、その文化が混ざり
 合っていく経緯が分かる・・
  日本列島への渡来のルートは、ユーラシアの各地から
 さまざまなルートで日本に流入した。
  特に、1万2000年前までは、日本は、大陸と陸続きであ
 ったため、流入は容易であった。
  この時の日本人の集団は、狩猟採集を主としていた。
  DNA(デオキシリボ核酸、遺伝子の本体)的には、
 現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団
 だった。
  この旧石器時代の日本人が、そのまま混血がなされな
 がら、結婚がなされながら縄文人へと発展した。
  (参考)デオキシリボ核酸:DNAと略記され、遺伝
     子の本体であり、真核細胞では核膜に包まれ、
     核の中に塩基性蛋白質であるヒストンと会合し
     た状態で存在している。
  今、分子人類学が進展している・・そのDNAから見
 ると・・母系が辿れるミトコンドリアDNAハプログル
 ープと、父系が辿れるY染色体グループがある。
  ミトコンドリアDNAハプログループの研究によって
 アフリカを人類の起源とする説が証明された。
  そして、その民族集団の移動のルートも辿れるように
 なった。
  日本人のミトコンドリアDNAハプログループで特徴
 的なのはハプログループM7aがある。
  琉球諸島とアイヌに比率が高く本州が少ない分布とな
 っている・・しかし、その一体的な形質が証明された。
  この発生は、台湾付近で日本を最大の集積地(最も頻
 度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島、中国東
 北部へ北上し、北上の上限がシベリアとなっている。
  また、人間の祖先がアフリカを出た後、イランからア
 ルタイ山脈を経由し、「北ルート」で到達したとする説
 と・・、
  インドから東南アジアを経由したルートで到達したこ
 とが分かるという。
  父系が分かるY染色体グループから見ると、最初に日
 本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万年前
 ~3万年前にやってきたD1b系統である。
  D1bは、日本に多く見られる系統であり、アイヌ88
 %、沖縄県約50%(4%~56%)、本州約36% (31%~39%)で、
 東アジアではほとんど存在しない。
  日本人を特徴づけるD1bである。
  D1系統は、4万年程前に、二つのグループに分岐し、
 日本列島に至り誕生した(それがD1b)
  ミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統
 樹様にして見てみると・・他集団との類似性がみられる
 が・・日本人集団に近いのは中国人集団であり、その次
 にカンボジア人集団であるという結果となる。
  また、日本人集団は、中国人集団、マレーシア人集団、
 ポリネシア人集団などと近縁で、「アジア・モンゴロイ
 ド」としてまとめられる。
  「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、
 次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順
 で、「ネグロイド」とは最も離れている。
  斎藤成也氏ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム
 中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを
 一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人
 と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行わ
 れた。
  その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっ
 とも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄
 にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。
  一体とした民族を裏付ける結果となった。
  今、キリスト教系大学で語られる、アイヌ・琉球人は
 別民族という論は、まったく主観的に主張されているだ
 けで、まったく科学的裏付けのない根拠のない論理であ
 って、結果を見間違っている・・、
  その論理性は、まったく浅い主観的分析で、ある意味、
 感情論的主張となっている・・、
  (何故か?中国が言う「アイヌ独立論」とつながる主
 張の様に感じられる)・・
  (今、キリスト教系大学では、孔子学院など中国との
 つながりが強い行為が行われている)
  (参考)アメリンド:ヨーロッパからの移住民による
     虐殺が始まる以前より、アメリカ大陸に住んで
     いた諸民族の総称。
      狭義では、北米大陸に居住するイヌイットと
     アレウト、さらには、エスキモーを除いている。
      カナダとアメリカ合衆国の先住民(カナダ・
     インディアンとアメリカ・インディアン)をさ
     すこともあるが・・、
      中南米に住むインディアンも含む・・、
      そして、スペイン語でインディオと呼ばれ 、
     その言語は、約160の語群に分けられる 。
      キリスト教系大学で語られる「言語が違えば
     別民族」という論理で行けば、このインディオ
     も160の別民族となってしまう。
  (参考)オーストラロイド:オーストラリア先住民
      (オーストラリア・アボリジニー)とその類
      縁の人種をいう。
       やはり、この人種もヨーロッパからの移住
      人(イギリス)による虐殺に会った。
  (参考)コーカソイド:白色人種、ヨーロッパ人種と
     もいう。
  (参考)ネグロイド:類黒色人種。アフリカ‐ニグロ
     イド・エチオピア人種・コイサン・ピグミー・
     メラネシア人など。
  以上の様な、科学的知識を根拠に持たない者たちが、
 日本国内で、中国の働きかけで、アイヌ独立論を振りま
 いたり・・、
  北海道は無土の地で、人が居なかったと言ったり・・、
  白老町に、100億円もの国民の税金で、アイヌ民族の為
 の箱物を建てるとか・・
  馬鹿馬鹿しい話があちこちで展開している。
  この他にも、いっぱいこの類の無智の話が展開してい
 る日本となっている。
  それよりも、遺伝子的にもまったく別の民族であるチ
 ベット・ウィグル・内モンゴルの民族の方々の地が、漢
 民族というまたく違う民族によって・・まったく関係が
 無い民族によって、奪われようとしている。
     ・
     ・
34年、実質的に「キリスト教を作ったパウロ」は・・、
  この年に、テント職人のパウロは回心する(60年説も
 あり)
  サウロという名前でも呼ばれたこの男が・・本業のテ
 ント作りのかたわら、信仰するユダヤ教の業務もしてい
 た。
  その業というのは、ユダヤ教に敵対する宗派の人たち
 を、上部の組織の許可を得て、捕まえ、そして、突き出
 すという役目だった。
  下っ端役人という所だった。
  捕まえられた者の中には、死刑になるものも、当然、
 多く居た。
  長い間、この役目にあって、当然、多くの人たちが、
 このパウロによって捕まって、命を落とした・・
  その人の数も、決して少ない数ではなかった・・
  多くの人々を死へ追いやったパウロだった。
  パウロも、つくづくこの行為の罪作りな所に嫌気がさ
 した・・
  いつまでこんな罪作りな事をやっているんだろうと、
  ある日、自分を顧(かえり)みる事もあった・・、
  「人の命をとりあげて、自分が生きる」という姿を顧
 (かえり)みる事もあった・・、
  パウロは、ある日、突然、けじめをつける時が来る・・
  この役目の罪作りなところに嫌気がはっきりとさした。
  ここを、当然、キリスト教は美しく書く・・
  「天が一転かき曇り」・・「天からイエスの声が聞こ
 えた」・・、
  『サウロよ、何故、我々を痛めつけるのだ』・・と、
  そして、パウロは、この後、キリスト教を作って行く・・
  宗教を作ることを思い立つ・・、
  この後、まだ、キリスト教ができるまで何十年と、ま
 だまだ、かかったが・・、
  その間、パウロは、ユダヤ教を良く知っていたので、
 そのユダヤ教の正典に書いてある通りのことをやる。
  違う所は、イエスを利用するところだった。
  もしかすると・・何十年か前に、パウロが上部の許可
 を得て捕まえたイエスを思い出したのかもしれない。
  イエス逮捕のきっかけは、パウロがからんでいたのか
 もしれない・・
  パウロが役所に突き出したかどうかは不明だが、パウ
 ロは、何十年も以前のイエスを思い出した。
  パウロは、何十年も経て、作ろうとしたキリスト教に
 イエスを利用しようと思った。
  しかし、パウロは、イエスの生い立ちなどはすべて捨
 てた・・
  ただ、イエスの刑死を利用しただけだった・・
     ・
     ・
1453年、キリスト教の東方正教会の本山のあったビザンツ
 帝国は・・、
  この年に、オスマントルコ帝国に滅ぼされた。
  全盛期のオスマントルコ帝国の領地は、ローマ帝国領
 とほぼ同じという・・広大なものだった。
     ・
     ・
1859年7月1日、横浜港が開港した。
  横浜港は、1858年7月29日に締結された日米修好通商条
 約に基づいて、この日に、武蔵国久良岐郡横浜村に開港
 した。
  いわゆる「安政の開国」による開港五港での開港だっ
 た。
  横浜港が開港すると、欧米の商人は、日本人と筆談の
 できる中国人を、仲介役(買弁:ばいべん、中国で、外
 国の貿易業者との仲立ちをした業者)に伴って横浜に来
 た。
  また、中国人の中には、活版印刷などの新しい技術を
 持つ者も居た。
  そして、明治の初めには、横浜の華僑は、約1000人を
 数えた。
  人々は、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地に集
 まって住み、中華街を形成して行った。
.
1894年3月28日、朝鮮の指導者・金玉均が、中国・清によっ
 て暗殺された・・中国・清の横暴な行為だった。
  この朝鮮の指導者・金玉均は、日本の福沢諭吉と師弟
 関係にあった。
  福沢諭吉は、この金玉均に、何かと心配りをしていた。
  金玉均は、福沢諭吉に指導を仰いだ・・、
  金玉均は、遅れている朝鮮の近代化について、福沢諭
 吉に相談した。
  その一つが・・諭吉は、朝鮮に於いて新聞を出す事を
 勧めた。
  そして、朝鮮で使われなくなっていたハングル文字の
 良さを見抜いていた諭吉は、そのハングル文字を使って
 新聞を出す事を勧めた。
  そのハングル文字は、今では、朝鮮では、なくてはな
 らない文字となっている。
  (朝鮮・韓国は、この福沢諭吉に感謝しなければなら
 ない)
  そして、資金のなかった金玉均に、福沢諭吉は、新聞
 用の活字を日本で身銭を切って、自分の金で作らせた。
  そして、それを持たせて、朝鮮へ帰らせた。
  そこまでして、福沢諭吉は、一生懸命に朝鮮の事を思
 っていた。
  この福沢諭吉の一例の様に、日本は、本当に誠実に、
 親切に、朝鮮の事を思って、色々と行動を起こしていた。
  しかし、この金玉均は、朝鮮で横暴な行動をする中国・
 清国に暗殺されてしまう。
  また、ここまでしている日本に、まったく理解を示さ
 ない今・現在の朝鮮・韓国・・、
  今・現在も、朝鮮・韓国は、「なんだかんだ」と色々
 と、日本を貶(おとし)め続けている。
.
1924年、未来の宗教は・・・
  ジョーゼフ・キャンベルの言葉 : 
 「未来の宗教はどうしても仏教に近づいていくだろう」
  (参考)ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell)、
     1904年3月3日~1987年10月30日
     アメリカの神話学者、文学者、講師
     比較神話学や比較宗教学で有名。
  彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なもの・・、
  彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という
 文に要約される・・
  1924年、キャンベルは家族とヨーロッパを訪れた。
  船に戻った時、彼は、ジッドゥ・クリシュナムルティ
 と遭遇した。
  彼らは、アジアの哲学について議論した。
  そのことが、キャンベルの長い人生の中でヒンドゥー
 教とインドの思想について興味を持たせるきっかけとな
 った。
  この旅行の直後、彼は、キリスト教カトリックの宗教
 を棄て、キリスト教の活動を止めた。
  すでにラテン語を流暢に話せた彼は、彼の言語の幅を
 広げるため、日本語を身につけようとした。
  (参考)ジッドゥ・クリシュナムルティ:1895年5月12
     日~1986年2月17日、インド生まれの国際的宗教
     哲学者、思想家、教育者
      人は組織、信条、教義、聖職者、儀式によっ
     て真理に到達することはできず、ただ、自己認
     識によってのみ真理を見出すことができると説
     いた。
      「真理は道なき大地にあり、そこに到達でき
     るのはいかなる宗教や教派でもない」
      「物事をあるがままに直視し、自覚により自
     らの置かれた状況を凝視すること」
      すべての物事が、時間的にも空間的にも互い
     の条件付けによって成り立つという彼の考えは、
     仏教の縁起説と同様で、我執を問題とし、ある
     がままの観察による我執からの解放を目指すと
     いう点でも、仏教と基本的なスタンスは同じ。
      インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得
     る・・首座 (仏陀の化身) に任命された。
.
1939年8月31日、朝鮮の新聞である「東亜日報」が・・、
  朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)が・・朝鮮の女
 性を、本人の意思に反して、強制的に慰安婦にした罪で
 処罰されたと報じた。
  朝鮮語による・・朝鮮人の記者によって書かれた記事
 で・・朝鮮人の警察官が捕まえて、処罰したという事で
 ある。
  日韓併合中のことで、日本政府が、人道的にも劣ると
 罪を厳しく処罰していたことを明らかに示している。
  今、韓国が、日本を貶(おとし)めようして言ってい
 ることは、完全な嘘でデッチアゲである。
  今、韓国が、日本政府や日本の軍が、慰安婦に強制的
 関与をしていたと言っていることは、まったくのデッチ
 アゲで嘘である・・真実は、その逆で、「取り締まって
 いた側である」・・
  やっていたのは朝鮮人の業者・女衒(ぜげん、뚜장이)
 である。
  韓国よ、嘘を言うのはいい加減に止めなさい!
.
1948年春、表意・表音文字・・
  聞きなれないこの言葉・・この表意表音文字を持つ日
 本民族は素晴らしいのである。
  この文字によって、日本の文化や科学が、輝かしい飛
 躍をして来た・・素晴らしい結果を歴史に残している。
  ただの「表音文字だけで暮らすアメリカ」が、その対
 極にある。
  事例を言えば・・『東』。
  これは、朝、木の向こうに、日が昇って来たところを
 表わしている。
  そして、「ひがし」とか、「とう」とかと読む。
  「ひがし」という音は、日が昇る方向を表わす・・東
 の意味である。
  陽が沈む西は、横に引かれた1本の線が、海の水平線
 で、口の陽が、その水平線から沈んだ状態、縦の2本の
 線が水平線から日が沈んだという意味を表わしている。
  これが「にし」とか、「せい」とかと読み、陽が沈む
 方向の意味の「西」を表わしている。
  「東」も「西」も表意であり、「ひがし」「にし」と
 表音ともなって、その意味を伝え、目的を果たしている。
  だた、その1字だけで、この様な機能を持っている優
 れた文字を持つ日本民族なのである。
  ただ、だらだらと長い英語とは違うのである。
  この様な事を知らずに、GHQのマッカーサーは、日
 本を英語化しようとした。
  英語化されたら、愚民化政策だ。
  日本の学者が、必死に止めたから良かったものを・・
  愚かなアメリカ主体のGHQであった。
  また、こんなに多くの文字を知る訳はないと、日本人
 を馬鹿にしたマッカーサーのGHQは・・テストをした。
  そうしたら・・テストをしたら・・その結果の素晴ら
 しいこと・・日本人の優秀さにびっくりしたGHQ・マ
 ッカーサーだった・・、
  漢字テストの識字率が97.9%というほぼ100%の出来栄
 えの凄さだった。
  世界で最初に書かれた長編小説の作家、それも女性の
 紫式部の「源氏物語」・・
  この深い・・味わい深い意味も、日本語でなければ読
 み取れなくなる。
  因みに、英語に、31文字の単語を発見した時はびっ
 くりした・・
  これでは、日本語だったら俳句ではなく、短歌まで出
 来てしまうと思った・・
  表音文字だけの英語・・順列組み合わせだけの英語・・
 馬鹿みたいに超長い単語が生まれてしまう・・
  また、因みに、1948年の春、馬鹿なGHQが、日本の
 教育状況と日本語に対する無知と偏見から、「日本語は
 漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりに
 くいために民主化を遅らせている」とした。
  日本を、英語化するべきだとした。
  自分に都合の良い言葉に変えてしまおうということだ
 った。
.
1960年代半ば以降、電卓市場には、新規参入が相次いだ。
  大手電機メーカーから事務機器メーカー、計測器メー
 カーまで、最大で40社ほどを数えた。
  電卓競争が勃発した。
  切っ掛けは、アメリカ半導体メーカーのテキサス・イ
 ンスツルメンツの8桁の電卓用のLSI(大規模集積回路)
 を標準化し、各社に売り込んだ。
  1971年に、5万円を切る電卓が世に出回ると、カシオは、
 すぐさま、3万8700円の『ASー8』という機種を売り出
 した。
.
1972年、国内ボウリング場がピークだった。
  2016年の4倍の約3700店があった。
  1970年には、ボウリングの女子プロボウラーの中山律
 子さんが、初のパーフェクトと達成した。
  1970年代前半は、日本は、空前のボウリングブームに
 湧いた。
.
2014年7月30日、ウイグル人虐殺、ヤルカンド県大規模虐殺。
  国が奪われつつあるウイグル・・漢民族による虐殺が
 起きている、続いている・・
 ヤルカンド民衆蜂起その1:7月28日早朝、ヤルカンド県
  イシュクル郷警察署と政府が幾つかの集団の襲撃を受
  けた。
   その後、漢民族・中国の治安当局は襲撃集団を武力
  で弾圧した。
   その後、当郷に属する14、15、24村の村民が蜂起を
  起こし、手に棍棒、斧などの物を持ち村役所、中国人
  移民の商店などを襲撃した。
 ヤルカンド民衆蜂起その2:7月30日、漢民族・中国の当
  局は、イシュクル郷周辺を包囲し、蜂起に参加した民
  衆を徹底弾圧した。
   RFAウイグル語放送は現地情報として、すくなく
  てもおよそ120人が死亡と伝えた。
   死者の詳細が不明なのである。
   今、ヤルカンド県全域に非常事態令が敷かれた。
   外部との通信は全て遮断された。
 ヤルカンド民衆蜂起その3:7月30日、ウイグル農民が、
  大規模蜂起を起こすのは1990年4月のアクトゥ県バレー
  ン郷農民蜂起が起きて以来24年振りだった。
   当時のバレーン郷蜂起も、結局、漢民族・中国の当
  局に残虐に弾圧された。
   現代のウイグル抵抗運動におけるシンボル的抵抗事
  件として歴史に刻まれた。
 ヤルカンド民衆蜂起その4:7月30日、今回のヤルカンド
  民衆蜂起も、近年における中国政府のウイグル人に対
  する激しい弾圧に対するウイグル農民の大規模抵抗と
  して、24年前のバレーン郷蜂起と同じ歴史的意義があ
  る・・、
   漢民族の中国政府の弾圧に対し、ウイグル人は不屈
  であると、はっきり宣言したと表明した。
 ヤルカンド民衆蜂起その5:7月30日、ウイグル民族運動
  指導者ラビヤ・カディール女史が昨日声明を発表し、
  中国政府に過剰な武力を使わないよう呼びかけ、ウイ
  グル人に対する弾圧政策を直ちに中止することを要求
  した。
   外国メディアによれば、民衆の襲撃は5箇所で同時に
  起き、6時間継続した、という。
   (参考:ニュースソース:毎日新聞)
  2014年8月1日、緊急拡散・・ヤルカンド県で31日約800
 人の蜂起民衆が警察署二箇所を襲い、そこにいる特殊警
 察、武装警察と衝突し、多数の死傷者が出た模様。
  漢民族・中国の中共軍は、カシュガル駐屯の第六機械
 化師団を緊急出動させ、全面虐殺を行ったという。
  また・・下記の連絡がある・・、
  2014年7月28日から、ヤルカンド県及びその周辺地域で
 中国・中共軍、武装・特殊警察部隊による大規模な虐殺
 が行われています。
  真相がよくわからない。
  緊急事態です。
  多くのウイグル人が、老弱男女問わず、殺されていま
 す。
  最新ウイグル語情報によれば、ヤルカンド県の民衆蜂
 起地域(イリシュク)郷などでは中共軍、警察部隊の大
 規模虐殺でウイグル人老弱男女問わず3000人以上が殺害
 された模様。
  このような大規模虐殺が起きたのは、2009年7月5日夜
 起きたウルムチ大虐殺以来です。
.
2017年6月、欧州連合(EU)は、昨年(2017年6月)の国
 連人権理事会で、中国の人権状況を批判する声明を準備
 したが、ギリシャの反対で挫折した。
  ギリシャは、2010年の経済危機でEU内で「お荷物」
 扱いされた時、中国に支えられた恩義があった。
  今、EU内の「中国の代弁者」となっている。
  EU内で、中国に代わって主張する者となっている。
  結局、中国の金の勢いで、中国の不正についての正し
 い意見が抑えられるという事態が、EU内で起きている。
  この様な事が、世界中で起きている。
.
2018年2月23日、アメリカのFBIが、中国の孔子学院をス
 パイ容疑などで捜査対象とした。
  アメリカ社会の脅威だとした。
  アメリカ連邦議会上院の情報委員会の公聴会で、クリ
 ストファー・ライFBI長官は、アメリカにある中国政
 府対外機関「孔子学院」について、スパイ活動などの違
 法行為に関わる疑いで、捜査の対象にしていると公言し
 た。
  英メディア・ビジネスインサイダーによると、ライ長
 官は公聴会で、複数の孔子学院に対して、中国共産党思
 想のプロパガンダ拡大だけでなく、アメリカ政府関連の
 情報までも違法に入手するスパイ活動にかかわっている
 容疑があり、捜査していると述べた。
  ライ長官は、アメリカ政府機関「中国問題に関する連
 邦議会・行政府委員会(CECC)」の委員長を務める
 マルコ・ルビオ下院議員の質問に応える形で、次のよう
 に述べた。
  「世界におけるアメリカの軍事、経済、文化、諜報力
 を引き下げる目的で、中国は、『国家主導』で動いてい
 る」
 「これを国家の脅威のみならず社会の脅威ととらえ、ア
 メリカは全面的な対応を取る必要がある」・・と。
  因みに、日本にも、何故か?キリスト教系大学の桜美
 林大学に孔子学院がある。
  キリスト教組織と中国のつながりは強い・・、
  この公聴会に出席した国家情報局(DNI)局長のダ
 ン・コート氏も、FBI長官の会頭に合わせて、中国へ
 の危機感を露わにした。
  また、中国による世界的な浸透工作を調べるため、す
 でに複数の機関が調査を行っていると明かした。
  中国は、大量の資金を使って世界のあらゆる面に情報
 工作をしている。
  この様な事は、中国は、昔からやって来た。
  南京事件も、「起きてない南京事件を有るものとして」、
 中国は、大金を使って、世界に喧伝(けんでん、世界や
 世間に言い、はやし立てること)している。
  中国は、初め、起きても無い南京事件を「ある」と言
 い、その人数は2万人と言った。
  その人数は、今、中国は膨らませ、今では、中国は30
 万人が殺されたと言っている。
  しかし、この南京事件は、1938年当時、国際連盟に、
 中国は「2万人」と申し立てた。
  しかし、起きてもいない南京事件に対して、国際連盟
 は、「当然、その中国の申し立てを拒否した」。
  当然、起きても居ない南京事件であるが故に、その中
 国の申し立ては受け入れられなかった。
  しかし、中国は、大量の金を使って宣伝映画を作って、
 欧米諸国へ向けて嘘を発信続けていた。
  結局、欧米社会だけでなく、日本人でさえその中国の
 工作の嘘に巻き込まれてしまう。
  実際は、挹江門事件(ゆうこうもんじけん)の一例が
 ある様に、中国の督戦隊(とくせんたい、中国の自軍の
 後ろで監視し、戦うように仕向ける部隊、だから、逃げ
 る自軍の兵士・中国軍に対してでも撃つ)が逃げるな、
 日本と戦えと、逃げる自国兵を撃ったり(この事件の場
 合、中国・国府軍第36師212団)、乱れに乱れた中国兵や
 一般市民は、揚子江の唯一の南京出口で、我先に逃げ惑
 う市民を数少ない船の取り合いで銃に撃たれるという状
 態・同士討ち状態だった。
  何しろ、肝心な司令部を、アメリカが秘かに参戦して、
 中国軍の味方して、蒋介石や中国司令部を連れ去ってし
 まっていた。
  救出の名の下に、司令部を無くなしていた・・統制の
 効かなくなった中国軍の乱れによって殺された人々があ
 また居た。
  中国は、卑劣にも、嘘の宣伝を欧米諸国にして、ゆが
 められ、捏造された情報が、中国政府の悪意ある工作で、
 さらに深く浸透している。
  それに紛動(ふんどう)された欧米諸国は、故無き間
 違った非難を、日本にするという状況になっている。
  中国政府は、「日本は、卑劣な国家だというイメージ
 宣伝」をしつこくして、世界は「それが真実だ」と思い
 込まされるという状況となっている。
.
2018年7月6日、中国の領土拡大工作
  今、中国が、ウイグルやチベット、そして、内モンゴ
 ルを必死になって自分の領土にしようとしている・・、
  その動きの一端が分かる数日前の記事が、この日の読
 売新聞に載っていた。
  その表題、および、内容は・・、
  「ウイグル族を顔認証・・当局、街中に監視カメラ」
  中国でイスラム教を信仰する少数民族・ウイグル族が
 多く暮らす新疆ウイグル自治区で、監視カメラと最新の
 顔認証技術を使った住民監視が強化されている。
  2009年7月に、区都ウルムチで起きたウイグル族による
 大規模暴動(抵抗)の再来は許さないとの習近平政権の
 断固とした意思を反映した施策だが、変わらぬ強権統治
 にウイグル族の不満はくすぶり続けている。
  (参考)ウイグル族による大規模抵抗:2009年6月、中
     国広東省の玩具工場でウイグル族と漢民族の労
     働者が衝突した事件を発端に、新疆ウイグル自
     治区ウルムチで7月5日、ウイグル族の学生らが
     抗議デモを行った。
      一部が過激化して漢民族・中国の治安当局と
     衝突する大規模な活動に発展し、当局発表で197
     人が死亡、1600人以上が負傷した。
  ・・漢民族主体の当局とウイグル族の衝突は、過去、
 何度もあった。
  中国政府は、「イスラム過激派によるテロ警戒」名目
 でウイグル族への監視を強めている。
  ウイグル族が集まる所、モスクなどの周辺は特に厳し
 い。
  カシュガル中心部の「エイティガール寺院」では、一
 帯に多数の監視カメラと複数の検問が設置されている。
  武装警官が3人1組で頻繁(ひんぱん)に巡回し、緊張
 感でいっぱい。
  マスクをしている記者に、強い口調で、「顔が隠れて、
 いけない」と。
  ウルムチには16万台の監視のカメラが設置されている。
  最新の顔認証技術を使った監視体制となっている。
  事前登録した要警戒人物の顔が認識されると、公安当
 局に情報が瞬時に伝わる仕組みになっている。
  最近、40倍の費用を投入した。
  また、最新技術の導入を急ピッチで進めている。
  街中では、スマートフォンの抜き打ち検査が行われて
 いる。
  保存データーに反政府活動的なものがあれば、即、拘
 束・逮捕される。
  1930年代~1940年代に、ウイグル族を中心にした「東
 トルキスタン共和国」が生まれたが、1949年に、中華人
 民共和国が建国された後、漢民族・中共軍が侵略・進駐
 し、分離・独立の行動が抑えられた。
  1955年に、ウイグル自治区が設置されると漢民族がト
 ップに就いた。
  共産党書記がトップになる制度にされた。
  分離・独立の動きを抑える管理が強められた。
  学校でも中国の標準語が教えられ、独自の言語が無く
 なる方向性にある・・
  また、宗教文化も失われる方向性がとられた。
  漢民族とウイグル族との貧富の差も酷く、深刻な状況。
  天然資源は豊富だが、漢民族の主動で開発がなされて
 いる。
  その恩恵にウイグル族は浴していない。
  街中で、物乞いするウイグル人も多い。
  ウイグル人は収入が少なく、結婚できない状況だとい
 う(ウイグル人が増えては困るため・・)
.
2018年、日本と北朝鮮との関係だって、日本がしっかり対
 応して来なかったからと言うが・・??
  日本にしっかりした国防力の裏付けがあれば、「拉致
 された方々を取り返しに行った」。
  その様な国防力を持たせなかったのが「アメリカ」。
  安全保障条約があるからと、日本を守ってやるからと・・
  そう言ったって、その裏付けで取り返し行動を起こし
 て、その時、アメリカがその安全保障上の支えになるか
 は、不明・・、
  だから、故に、実施に踏み切れなかった。
  こんなことは、今・現代でも同じ・・、
  他国に頼っていては・・らち(埒)があかない・・
  北朝鮮から核ミサイルが、日本にぶち込まれたら・・、
 二発目の核ミサイルを防ぐために、アメリカは、核ミサ
 イルを北朝鮮にぶち込むか?・・否である。
  アメリカは、北朝鮮の核ミサイルが、アメリカの都市
 にぶち込まれることを思ったら、日本のための核ミサイ
 ル使用を躊躇(ちゅうちょ、決心が決まらず、手が縮こ
 まる)する。
  国は、自(みずか)らが守らねばならない。
  これは・・歴史が教えること。
  『国は自らが守れ!』
  直ぐに「非核三原則」を撤廃せよ!
  アメリカから、即、一隻、アメリカ兵付き、核ミサイ
 ル付きで、原子力潜水艦を購入せよ!
  日本に向けての核ミサイルが発射されたら、即、この
 核爆弾が日本に着弾する前に、この原子力潜水艦の核爆
 弾ミサイルが発射されますと宣言せよ!
  その様な・・しっかりした裏付けを持って拉致された
 方々を返せと言い、返す様子が無いならば、即、奪還作
 戦を実施すべき・・、
  日本の将兵の指揮下にある、日本兵とアメリカ兵によ
 る核ミサイルを持つ原子力潜水艦の存在をしっかり相手
 に意識させる・・、
  日本は、もう、通常兵器は不要・・、
  核武装に向かうべきなのだ・・、
  今、世界は、『一方的に消滅する世界』ではないのだ。
  『共に消滅する世界』となっている。
  「瀬戸際防衛」の時代なのだ。
  タイトロープの上を行く世界・・、
  核ミサイルが、1発も落ちて来ないからと安心はするな。
  結局、一旦、ことが起きたら、放射能で、地球上の全
 生物は死滅する状況・・、
  天に唾を吐いた者も・・結局は死がある時代なのだ・・
  営々と何百万年も・・人類が築いてきた長い長い歴史
 が・・終わる時なのだ。
  キリスト教の「シャローム」の教義は、間違いなのだ。
  「シャローム::キリスト教徒以外の誰も居なくなっ
 た後の平和」という状況を求めるキリスト教の教義は間
 違い・・、
  キリスト教は、その様な平和を望む・・、
  キリスト教徒も、共々(ともども)、皆、完全にすべ
 てが居なくなってしまう・・その様な時代なのだ・・、
  キリスト教徒だけが生き残るは・・間違い・・そうは、
 ならない・・、
  キリスト教徒だけが行けるという「キリスト教の天国」
 だって、キリスト教徒に殺された人々が、満ち満ちてい
 て・・、
  キリスト教徒のあなたが行ったって、恨み怨みつらみ
 を言われるだけ・・、
  自分だけが・・良い子にならないこと・・
  キリスト教は、「自分だけ、いい子になる宗教」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)601E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月25日、高等学校令が公布された。
  この法律によって、高等中学校を高等学校と改称した。
  これは、旧学制の高等学校で・・、
  帝国大学、および、官立大学に、ほとんど独占的に進
 学できる学校だった。
  選ばれた少数エリートの特権的な学校だった。
  ドイツのギムナジウムや、フランスのリセなどヨーロ
 ッパの伝統的な中等学校に似ていて・・、
  第一 (東京) 、第二 (仙台) 、第三 (京都) 、第四 (
 金沢) 、第五 (熊本) の5校があった。
  その後に、第六 (岡山) 、第七 (鹿児島) 、第八 (名
 古屋) 高等学校が設置された。
  1918年の学制改革によって、公立、私立の七年制高等
 学校 (尋常科4年、高等科3年) が設けられ、国立も増設
 された。
  以後に増設された学校は、新潟高等学校、松本高等学
 校など・・所在地の地名を冠した名称とした。
  1940年現在32校あり・・国立 25校、公立3校、私立4校
 で、その後の変化は、あまりしていない。
  第2次世界大戦後、学制改革によって多くが新制大学の
 一部となった。
  単独で新制大学となったものもあり・・、
.
1894年6月30日、イギリス・ロンドンのタワー・ブリッジが
 完成し、開通式が行われた。
  1886年に着工していた・・
  民謡の「ロンドン橋落ちた」のロンドン橋とは違う・・
 このロンドン橋は、この橋のすぐ上流にある。
  テムズ川に架かる橋で、二つのゴシック風の尖塔があ
 る。
  上下2層の鉄橋で、下橋ははね橋で、船舶の通行時には
 現在でもハの字型に上方に開く。
  可動方法は、初期は蒸気機関で水をパイプに通し跳開
 部の端に水圧を掛け、シーソーの原理を利用して開閉し
 た・・現在は、電力を利用している。
  上方の橋は尖塔をつなぐ高さ40メートルのガラス張り
 の歩道(有料)で、この歩道から金融街のシティーのオ
 フィス街やシティーホールが見渡せる。
  第二次世界大戦時は、ドイツの爆撃目標となり、また、
 V2ロケットの目標となり、1944年8月2日に、V1ロケ
 ットの1発が命中し、車道部分が被災した。
  因みに、ロンドン橋は、西暦46年に、ローマ人によっ
 て架けられた木製であった。
  1013年、スヴェン1世が率いるデーン人が侵攻して来て、
 エゼルレッド2世によって焼き落された。
  (参考)スヴェン1世:960年~1014年、デンマーク王(
     在位985年~1014年、ノルウェー王(在位985年
     ~995年、1000年~1014年)、イングランド王(
     イギリス王、1013年~1014年)を兼ねた。
  (参考)エゼルレッド2世:968年~1016年、イングラ
     ンド王(イギリス王、在位978年~1013年、1014
     年~1016年)
      デーン人に侵略されるごとにイングランド(
     イギリス)は「デーンゲルド」という退去料を
     支払った。
      度重なる支払いでイングランド(イギリス)
     財政は大きな負担となった。
      デーン人のイングランド(イギリス)攻撃を
     恐れ、国内のデーン人を虐殺したり(デーン人
     を怒らせ逆効果)・・また・・
      ノルマンディー公国と友好関係を結んだり、
     その公国のリシャール1世の娘エマと結婚したり
     した。
      1013年のデーン人の侵攻時には、その攻撃に
     屈し、ノルマンディー公国に逃れた。
.
1894年6月30日、勝海舟が従二位に叙せられた。
.
1894年6月2日、伊藤首相が第六議会を解散した。
  世界の列強は帝国主義の真っただ中、欧米列強による
 植民地化が進行中であった。
  国の守りをやっと固めて来た日本・・、欧米の植民地
 化の手から逃れて来ていたが・・、
  アジアの最強国は、急速に軍備を増強して来ていた中
 国・清であった。
  その清に追い付こうと軍備を固めたい日本だったが、
 厳しい財政状況に置かれていた。
  1890年~1891年は、不況下の第一議会だった。
  農作物は凶作で各地に米騒動が起きていた。
  産業界も恐慌で綿紡績も操業を短縮するという状況だ
 った・・生糸輸出も減退した。
  第二議会では軍艦製造費など減額決議した。
  第三議会でも、政府提出の軍艦建造費や鉄道関係法案
 などが否決される状況。
  第四議会の頃、やっと経済も好転の兆しが見え・・し
 かし、海軍省の軍艦製造費は減額される状況だった。
  1893年の第五議会になって、やっと、企業にも新たな
 勃興の機運が見えて来た。
  対外的には、ロシアの極東進出が強く浮き出て来てい
 た・・1892年のウラジオストック軍港の建設と、1892年
 11月のロシア東洋艦隊の日本に来航して日本脅しの示威
 行動があったりした・・
  そして、甲申事変などの朝鮮状況の不安定・・
  その中にあって、中国・清の地位強化の強硬策があっ
 た。
  その様な状況の中で、事態を解決のために切り開いて
 行きたい日本があった・・関税自主権回復の問題もあっ
 た・・欧米列強の圧力の回避に苦心する・・
  そして、イギリスとやっと条約改正交渉が進む・・
  そして、第六議会・・対外硬論のある厳しく、そして、
 激しく対立した議会だった。
  メディアは反政府側の論を張っていた・・対外硬の論
 調だった・・軟弱外交だと批判し、世論を操作した。
  1894年5月31日、対外硬六派連合が、政府弾劾上奏案を
 大差で可決させた・・対外硬の内容で、政府は惨敗
 し、絶体絶命の窮地に陥(おちい)った。
  1894年6月1日、不安定な朝鮮の甲午農民戦争で、朝鮮
 政府軍が大敗した・・そして、清国が朝鮮へ出兵する動
 きとなる。
  1894年6月2日、衆議院は上奏却下で解散された。
  1894年7月6日、イギリスとの条約改正の最終案で合意
 の方針となる。
  1894年7月16日、日英は新条約に調印する。
  イギリスは、日本支持を示した。
.
1894年6月、勝海舟が、初めて日光廟に詣でる(氷川清話)
.
1894年6月、勝海舟、「幕府始末」を著わす。翌年、出版。
(氷川清話)
.
1894年6月、山陽鉄道の広島工場が開設された。
.
1894年6月、浪速鉄道が、軌間を2フィート6インチ(76.2c
 m)から3フィート6インチ(106.7cm)に変更した(
 40%広くなった)。
  軌間は、鉄道の線路における2本のレールの内側と内側
 の間の幅のことであるが・・、
  JRの在来線は106.7cmで、新幹線は143.5cmであ
 る。
  因みに、新幹線の軌間の143.5cmは世界的に「標準軌」
 であるが、日本では間違って「広軌」と呼ばれた。
  日本は狭軌の不都合さから、何度も標準軌への改軌論
 への提案があったが、やっと新幹線で実現した。
  また、因みに、琵琶湖疎水のインクラインは220.0cm
 である。
  そして、秋田新幹線や箱根登山鉄道の一部区間では、
 1本の線路に2つの軌間のレールを置いて(三線軌条にし
 て)異なる軌間の線路をそのまま直通運転することがな
 されている。
  また、奥羽本線および田沢湖線は、線路を敷きなおす
 改軌をして、ミニ新幹線の山形新幹線と秋田新幹線を開
 業している。
.
1894年7月4日、ハワイ共和国が独立を宣言した。
  大統領のサンフォード・ドールが独立を宣言した。
  ドールの一家は、ハワイ王国において、政治的支配力
 を強めつつあった裕福なアメリカ人移民によるエリート
 社会の一員であった。
  ドールは法律家となって、ハワイ王カラカウアやその
 妹リリウオカラニの弁護士として、また友人として仕え
 た(裏切りのアメリカ人)
  1887年、ドールは、この年に起きたアメリカ系の経済
 人・政治家・サトウキビ農場主らが結成した政治組織=
 ハワイ連盟の武装蜂起に参加している。
  ハワイ連盟は、白人市民たちからなる民兵部隊ホノル
 ル・ライフル連隊の後ろ盾を得てカラカウア退位を迫っ
 た・・そして・・
  ハワイ連盟は、カラカウア王に退位の代わりに、アメ
 リカ人の内務大臣ロリン・A・サーストンが起草した新憲
 法を受け入れさせた・・
  この強引で、強制した憲法を、「銃剣憲法」と蔑(さ
 げす)んで言われる・・卑劣な行為だった・・
  この憲法は、日本からの移民を含む、すべてのアジア
 系移民の投票権・・一切の投票権を奪った(有色人種蔑
 視行為)
  また、資産額や収入額が低い人々を締め出したため、
 先住民のハワイ人の方々も選挙権を剥奪された。
  結局、白人アメリカ人の国になってしまった。
  ハワイ国王の権利も極端に無くなされた。
  ハワイ王室や大多数のハワイ人の方々の政治力は無く
 なり、完全な武力によるハワイ国の強奪状態だった。
  そして、この後、ハワイ王室も無くなされる。
  これ等の事は、国連の世界記憶遺産に登録せよ!
.
1894年7月5日、関西鉄道の四日市駅~桑名駅間が延伸開通
 した。
  関西鉄道は、現在のJR東海とJR西日本が保有する関西
 本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・
 奈良線・大阪環状線という広い範囲に展開した鉄道会社
 だった。
  名古屋~大阪間の独自の直通ルートを開設したりして
 官営鉄道(官鉄)と壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたこ
 とは有名。
  また、旅客サービスや車両技術において先進的な試み
 を行ったことでも知られるが、この背景として、日本の
 鉄道技術の先駆者と言われる島安次郎が初期に技師とし
 てこの会社に在職していた。
.
1894年7月6日、アメリカの24代大統領のグロバー・クリー
 ブランド大統領(民主党)がストライキ(Pullman Strike、
 プルマン・ストライキ)の鎮圧のために軍隊を派遣した。
  1年前の1893年には、世界恐慌が、最悪状態で発生し
 ている。
  ストライキは、1894年5月から、シカゴから始まってい
 た・・そして、全国規模に発展・拡大して行った。
  そして、ストライキ発生にプルマン豪華車輌会社が関
 係していた。
  この会社に働くには会社の社宅に入らねばならず、ま
 た、商店を所有し、町の図書館や教会や水道やガスを所
 有していた。
  会社は、4セントで買った水を10セントで売った、また、
 33セントで勝ったガスを約7倍の2ドル25セントで売った。
  物も会社の店で買わねばならす、社宅に住まねばなら
 ず、会社が決めた料金はどんな料金でも会社に支払わね
 ばならなかった。
  そして、会社は絶えず金を取り立てた。
  二週間目の週末ごとに、会社は給料から差し引いた。
  家賃などが差し引かれれると、わずかな金しか残らな
 かった。
  1893年に、不況から大幅な賃金の値下げが行なわれた。
  それにもかかわらず、株の配当は高く維持し、不況に
 も関わらず特別配当まで行った。
  従業員の委員会が、賃下げ撤回を要求したが拒否され
 た・・そして、委員会のメンバーの3名が解雇された。
  粘り強い交渉だったがことごとく拒否された。
  ストライキ宣言が発せられた。
  アメリカ鉄道労働組合が動き出したが、ことごとく拒
 絶された。
  抗議の行動を起こした人たちまで解雇された。
  この行き場のなくなった事態に、全国規模のストライ
 キが宣言された。
  経営者サイドの対処の仕方は、連邦政府を巻き込む戦
 法だった。
  24の鉄道会社によってつくられた経営者協会は、スト
 ライキ破りを導入した。
  そして、その上、軍隊の出動を要求した。
  そして、何ら深い考えをしないクリーブランド大統領
 は、シカゴ市町やイリノイ州知事に何ら相談なしに、頭
 越しに、シカゴへ連邦軍を投入した・・出動させた。
  正確な情報も知らないで、官吏で済むところをと批判
 された。
  軍隊を動かす権利を持つ者の「安易な行動」が起こさ
 れたのだった。
  大統領の返事は、「正確な郵便物の配送は、行わなけ
 ればならない」・・だった。
  平和裏に行われているストライキに対しての大統領の
 異常反応だった・・核のボタンではなかったから良かっ
 たが・・??
  逆に、鉄道会社の雇っていた治安官代理が、連邦軍の
 到着で興奮し、火事を起こしたり、銃を発射して市街戦
 を起こしたりした。
  軍隊も群衆めがけて発砲し、市民に死者が出た(20人
 ~30人)
  この様な事態に出て来たのが司法だった・・
  司法が、「差し止め命令」というストライキ破りの「
 新たな手段」を提供した。
  この後、経営者サイドは、この手をよく使った。
  プルマンのストライキ労働者たちは、差し止め命令を
 「紙のガトリング機関銃」と呼んだ。
  差し止め命令に従わないと、法廷侮辱罪で捕まり、投
 獄された。
  今や、経営者は、労働者の武器を奪い取ったのだった。
  経営者は、裁判所へ出かけてストライキの活動禁止の
 命令を出してくれと要求すれば済むようになった。
  99%、裁判所はその要求に応じた。
  ストライキ指導者には、法廷侮辱罪が適用されるのが
 常だった。
  裁判所は、経営者の行なっている事業の期待は「無形
 の財産」で、ストライキは、この財産を脅(おびや)か
 すという論理だった。
  裁判所は、この事業への期待の無形の財産こそ守らね
 ばならないこと、保護しなければならないこととした。
  労働者は、自らの経済状態を改善する権利を奪われて
 しまった。
  アメリカの最高裁判所が、「シャーマン反トラスト法」
 でもって、この差し止め命令に合憲性を付与した。
  この後、約40年間、この理屈に合わない不正義な状態
 がアメリカで続くことになる・・
  アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカという国は、「屁理屈が通る国なのである」。
.
紀元前4万年、こんなに遠い昔に・・日本人は日本列島に
 やって来た・・
  ウルム氷期と言われる約7万年前~1万年前のこの氷期
 の紀元前4万年に、日本人は日本列島に来た。
  このウルム氷期に、アジア大陸から日本列島に移った
 後期旧石器時代人が、縄文人の根幹をなした。
  大陸と日本列島は、まだ、地続きだった。
  遠い遠い昔から、日本人は民族として成り立って来た・・
 その様な、長い長い長い歴史を持っている。
  先住民の方々が居る事にお構いなく・・武力によって
 先住民の方々を殺戮し・・最近と言いたいほどの近年に、
 国を作ったアメリカ、カナダ、そして、ラテンアメリカ、
 そして、オーストラリアなどとは・・訳が違う。
  この様な一連の事は、ユネスコの世界記憶遺産に登録
 すべきである!
  ウルム氷期直後の厳しい自然環境が改善されて、生活
 も安定化していくと、日本列島全域の縄文人の骨格は頑
 丈となって行った。
  独自の身体形質を得て行った。
  長く続いたその縄文人の時代・・その縄文時代の終末
 期から弥生時代にかけて、再び、アジア大陸から新石器
 時代人が、西日本の一角に渡来した。
  その地域では、急激に、新石器時代的身体形質が生じ
 た。
  混血が急激に進んだ・・が、和して進んだその身体的
 形質の変化は・・直接及ばなかった地域もあり、その地
 は、縄文人的形質をとどめた・・そして・・、
  その後「徐々に均一化」がされて行った。
  地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文
 化の変革による身体形質の変化はあっても、現在、なお
 縄文人的な形態を持っている。
  歴史的資料としては、種子島の横峯遺跡から約3万年以
 上前の土層(地層)から、日本国内最古の調理場跡が発
 見されている。
  また、南九州の地層は、火山灰による時代の確認が容
 易である・・、
  そして、愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、
 放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨
 が発掘された。
  せいぜい数百年のアメリカ合衆国・オーストラリア・
 カナダ・ラテンアメリカなどの、先住民の方々の殺戮に
 より成り立った国々とは「まったく違う」のである。
      ・
      ・
紀元前6年、キリスト教のイエスが生誕したと言われている。
  しかし、イエスという人間は、作られた可能性の高い
 「想像上の人物」である。
  でっち上げられてできたという可能性が高い人。
  「ある狭い地域のみ」の噂話的存在であった。
  それ故に・・周辺地域にはまったくその痕跡は無い。
  証拠が無い・・ましてや・・外国に、その存在の証明
 できるものは「まったく無い」・・「皆無状態」なので
 ある。
  また、キリスト教の重要人物である「モーゼ」も、は
 っきりと「歴史学者から存在否定される」・・存在証拠
 が無い人間なのである。
  キリスト教を作ったヘブライ人は、チグリス・ユーフ
 ラテス川の下流域の・・メソポタミア文明の領域の「ウ
 ル」に居て・・、
  キリスト教聖書は、このウルの人々が旅立つところか
 ら始まる。
  聖書に書かれる地・カナン(パレスチナ)「乳と蜜の
 流れる地」へ向けて旅立つ話から始まる。
  彼らは、牧畜をしながら北へ向けて、チグリス・ユー
 フラテスの上流へ向けて旅立った・・川の流域が、メソ
 ボタミア文明の栄えた地でもあったからだった・・
  チグリス・ユーフラテス川を遡(さかのぼ)り、川の
 上流域に来て・・それから・・カナン(パレスチナ)へ
 向かって行った。
  しかし、これでは・・「モーゼのエジプト脱出」の話
 が浮き上がってしまう・・モーゼは何時?活躍したの?
 という事になってしまう・・その様な話になり、浮いて
 しまう。
  キリスト教は・・ここで・・史実を捻じ曲げようとし
 た。
  つまり、ウルからエジプトへ向かったとした。
  しかし、これは、キリスト教聖書を「無謬だ」として、
 「間違いはないのだ」とする人たちの作り話なのだ・・
 デッチアゲ話なのだ・・、
  この当時、メソポタミア文明の地とエジプトとは、ま
 ったくと言うほど・・その交流は無かった。
  メソポタミアは、イラン高原の文明の地との交易が多
 く、その地へ「インドの木材」などが、メソポタミアの
 地を経由して・・交易が頻繁になされていた。
  その結びつきは「強く」、「長く続いた」。
  インダス文明とメソポタミア文明は、お互いに影響し
 合い、また、このメソポタミアを経由してイラン高原の
 地の文明とも結びついていた。
  (エジプトとは関係は無かった)。
  (参考)紀元前1500年、古代ユダヤ:ヘブライ人(セ
    ム系ユダヤ人)は、チグリス・ユーフラテス川の
    北方域のシリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
     この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カ
    ナーン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  この史実による正しい話で困っているのが、キリスト
 教聖書の「モーゼのエジプト脱出」の話。
  しかし、実際は、そのモーゼの実在性も否定され、史
 実における実証性も無いという状況・・となっている、
  後になって・・ヘブライ人は、カナンの地に着いてか
 ら後は、エジプトと関係を持った・・が・・(その前は
 まったく無かった)
  カナンの地に来て・・飢えると、ナイル川の恵みを求
 めてエジプトへ流入した(エジプト脱出の逆)
  エジプトの地も寛大で、その民を受け入れた。
  流入したカナンの民は「下働き」をした。
  エジプトとカナン(パレスチナ)の地との出入りは年
 がら中行われていて・・出入りは自由だった。
  この様な事は、キリスト教聖書にも書かれていて、カ
 ナンからエジプトへ行った人が、エジプトで出世して、
 カナン(パレスチナ)の地の家族をエジプトへ呼び寄せ
 ている・・
  この様な事が、キリスト教聖書に書かれている。
  キリスト教聖書は、必死の生き残りの「民族のマニュ
 アル」で・・家族が、民族が、厳しい環境下で如何に生
 き延びるか?・・の伝承である。
  そして、後に・・書となったものである。
  民族が生き残るのが最大の目的であるため、その教え
 る所は・・自民族のみに有利に書かれ・・現代に「そぐ
 わないものとなっている」。
  「他民族の生娘(きむすめ)は、生かしておけ」(隣
 国へ富を奪いに行った時、生娘は殺さないで生かしてお
 け)」とキリスト教は教える・・
  自民族の繁栄の為に、他民族の女性を、自民族の子供
 を産ませるために殺すなという教え・・
  (他民族の男性などは・・「殺せ・殺せ」とキリスト
 教の神は叫んでいる)・・キリスト教はこの様な教えな
 のである。
  故に、だから、逆に、「自民族の娘は、他民族へ嫁に
 出すな」となる・・そう教えている。
  民族の生き延びることのみ教えるキリスト教聖書で、
 当然、今・現代では、他民族との軋轢(あつれき)ばか
 りが生じる・・戦争の生まれる教えで・・まったく過去
 の過ぎ去った『無用の教え』となっている。
  今・現在では、『害悪を与える教えとなっていて』、
 『存在してはいけない教え』となっているのである。
  キリスト教の周囲に戦争が多く起きるのも、その教え
 が原因している。
  現代社会に「まったくそぐわない教え」である。
  キリスト教は、「無くなさなければならない宗教」で
 ある。
  キリスト教のイエスは、紀元0年に生まれたとされて、
 西暦が制定された・・が・・
  そもそも、そのイエスの実在性はないという存在。
  また、その誕生年は、紀元前4年と訂正された。
  そして、さらに、お粗末な事に、また訂正がなされ、
 今現在は、紀元前4年、若しくは、紀元前6年だとされて
 いる。
  架空の話なので・・この話は、そのどちらでもよいが・・
 問題なのは・・架空の話のキリスト教が原因で戦争が多
 発していることである・・
  この戦争を無くす意味でも・・「キリスト教は無くさ
 ねばならない宗教」となっている。
  そのイエスの復活の話も、「弟子だけが見ている」と
 いう状況・・この様なことごとによって構成されている
 キリスト教・・一部の限られた人によって書かれ作られ
 構成され・・間違い・矛盾・害悪は多い・・
  キリスト教は、『弱者を殺す宗教』となっている・・
      ・
      ・
1938年3月4日、韓国(当時は朝鮮)には、「女衒(ぜげん、
 뚜장이)」という女性を食い物とする「卑劣な商売の者」
 たちが居た。
  この者たちは、国(韓国・朝鮮)に帰って、若い女性
 方を買い、性風俗関係の仕事をするところへ売った。
  若い女性方は、体を売るという状況に置かれた。
  当時、韓国(当時は朝鮮)は貧しかったため、その女
 性方の両親も、やむなく自分の娘がその様な状況になる
 ことを受け入れた。
  また、朝鮮・韓国のその若い女性も、貧しい親を助け
 ようと、納得して、その「女衒(ぜげん、뚜장이)」を
 やることに従った。
  この「女衒(ぜげん、뚜장이)」は、中国国内の街中や
 韓国朝鮮の街中で、商売を行なった。
  そして、その一部、この様な「女衒(ぜげん、뚜장이)」
 たちの中に、日本の軍隊と共に行動する者たちが居た。
  この事が捻じ曲げられて、日本が貶(おとし)められ
 ている。
  この様な事を日本が行なったとされている・・まった
 くひどい嘘である・・
  標記の日にちの日本軍の書類がある。
  それは、「女衒(ぜげん、뚜장이)」たちが、朝鮮・韓
 国で、女性方を集める時、「誘拐行為などをするな」と
 いう「注意を与える書類」である・・、
  また、「それに類するような行為」も絶対してはなら
 ないという「注意を与える書類」だった。
  そして、また、「軍の名前を不正に利用したりしない
 様に」と言っている。
  この様な不正をしたら厳しく罰すると言っている。
  「女衒(ぜげん、뚜장이)」の不正を厳しく戒(いまし)
 めている。
  この様な史実が、色々とはっきりとあるが、韓国は、
 日本を貶めようと、「無いことを有る様に嘘を言う」。
  韓国・朝鮮は、江戸時代の昔から、この様な事を日本
 に対してやって来た国だった。
  また、別の史料には、日本の警保局(けいほきょく、
 1947年まで存在した内務省の内部部局)が、「国際法を
 遵守しなさい」と募集行為に対して指導している・・
  また、「婦女売買や誘拐などを禁じている」ことを言
 って知らしめている。
  韓国の言う事は、まったく根拠のないデッチアゲのこ
 となのである。
.
1992年~1993年、日本政府と韓国政府は、協同して慰安婦
 問題の調査を行った・・
  結果、韓国政府の言う事は、「根も葉もないデッチア
 ゲ」という結果となった。
  この様な調査結果や、事実に反して、日本を貶め続け
 る卑劣な韓国となっている。
  1992年から1993年、日本政府と韓国政府は、慰安婦問
 題の調査を合同で行った。
  この日韓両政府の調査ですら、韓国の言うような「日
 本政府、あるいは、日本軍による強制連行の根拠となる
 証拠は無かった」。
  まったく韓国の言い分が否定された。
  まったくというほど見つからなかった。
  しかし、韓国政府は、この様なはっきりした経過、事
 実があるのに、史実があるのに、日本を貶め続けている。
.
2011年、「ドイツと中国」の「2国間政府サミット」が、
 定期的に開催されることになった。
  今、ヨーロッパ世界が、中国の「金に繰られている」
 状況となっている。
  イギリスのメイ首相は、中国へ行って中国を賛美する
 発言をしている・・讃美して「ゴマすり発言」をしてい
 る。
  その見返りに、中国は、1兆4000億円規模の商談を手
 土産に与えた。
  こんな形でヨーロッパ中の国々が、「中国の金に目が
 くらんでいる」。
  2011年からは、ドイツと中国は、「2国間政府サミッ
 ト」を定期的に開催して、ドイツは、どっぷりと中国に
 飲み込まれている。
  ギリシャは、中国に港を渡している(借金返済ができ
 なかったため・・結局、中国の金で牛耳られている)
  かつて、アメリカのルーズベルト政権の周りに、秘密
 裏に、「共産スパイ(工作員)」が満ちていて・・こん
 な状況が後になって分かったが・・ルーズベルト政権の
 政治が繰られていた・・こんな事もあって、日本とアメ
 リカの戦争にも至った・・、
  今、ヨーロッパ中の国々が・・中国の金に繰られてい
 る。
.
2018年、今・現在も、キリスト教は、節操なくその教義を
 変え続けている。
  キリスト教は、ヨーロッパに入る時、ヨーロッパの宗
 教を取り入れた。
  そのことによって、ヨーロッパの人々に受け入れても
 らおうとした。
  キリスト教の歴史は、この例の様に、節操なく、臆面
 もなく教義を変えた。
  他宗教との習合の歴史だった。
  キリスト教は、恥ずかしげもなく、節操なく他宗教と
 習合した。
  キリスト教の教義なんて「あってないがごとし」だっ
 た。
  キリスト教の天使だって、まったく影も形も無く・・
 そのようなものだった。
  今では、限りなくキリスト教の神に近いという「大天
 使が存在している」が・・居るが??
  馬鹿々々しくなるくらい「キリスト教は変容」してい
 る。
  天使の居なかったキリスト教は、他宗教から天使を拝
 借した・・取り入れた。
  今やキリスト教の天使は、昔から、最初から、居た様
 な顔をしている。
  キリスト教の教義の重要な部分を占めている。
  「イエス・キリストも知らない天使」を取り入れて、
 平然としているキリスト教・・、
  キリスト教とは、この様な宗教・・
  信じるに値しない・・
  イエスの誕生日だって、最初は無かった。
  キリスト教は、当時、他の宗教で盛んに盛大に催して
 いる「冬至の祭り」を取り入れた。
  イエスの誕生日とした。
  クリスマスの始まりだった。
  馬小屋で生まれた話や、博士を追って星が動く話も、
 当時、あちこちにあった話。
  キリスト教は、節操なくこんな事ばかりして来て、結
 局、自分の宗教理念に誠実ではなく、ふらふらと宗教理
 念を変えに変えて来た。
  故に、齟齬(そご、事柄が、食い違って、合わないこ
 と)が、あちこちに生じた。
  その都度、キリスト教は、その辻褄(つじつま)合わ
 せに狂奔(きょうほん、狂ったように、辻褄を合わせを
 する)した。
  「キリスト教神学の発生」は、悲しいかな、このため
 に発生した。
  キリスト教は、今・現在でも、その辻褄合わせに狂奔
 し続けている。
  結局、嘘をつく行為となっている。
  キリスト教は、その様にしなければ時代に取り残され
 る宗教であるからだ。
  今・現代では・・キリスト教は、「魔女は生かしてお
 いてはならない」などとは言わない。
  中世の頃のヨーロッパでは、盛んに、キリスト教は、
 この事を言った。
  そして、資産家の女性を魔女に仕立てて、キリスト教
 裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が「火あぶりの刑
 の判決を下し」、多くの女性の方々が、可哀想に、火あ
 ぶりにされた。
  そして、その女性の資産を我が物に、キリスト教のも
 のとした。
  しかし、今・現代では、キリスト教は、そのキリスト
 教の教義「魔女は、生かしておいてはならない」を、お
 くびにも言わない。
  キリスト教は、何時(いつ)の時代も、その教義をコ
 ロコロ変え、結果、嘘をつき続けている。
  信じるに足る宗教ではない・・害あって益なし。
  今、キリスト教は、「シャローム」の教義を変えてい
 る・・まったく恥ずかしいこの教義を変えている。
.
2050年、未来の話だが・・、
  この頃になると、地球上のほぼすべての水域で漁獲量
 が減少し、ほとんどが小型種になる。
  マグロが食べられるのは・・我々が最初で最後か・・
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている・・
  漁獲量について、「2050年までに、地球上のほぼすべ
 ての水域で漁獲量が減少し、ほとんどが小型種になる」。
  これは、国連環境計画(UNEP)が会議中に発表した
 予測である。
  原因は乱獲や水質汚染。
  回転すし店で、大型種のマグロを楽しめるのは、私た
 ちの世代が最初で最後かもしれない。
  魚だけでなく自然資源が喪失する。
  だから会議の本質は経済活動のあり様を問うものだっ
 た。
  日本は、木材や食料など自然資源の多くを輸入に頼る
 が、輸入元の国々が、「『緑の』国民経済計算」構想に
 参加し、そうした価値を価格に上乗せする事も考えられ
 る。
  (参考)『緑の』国民経済計算」構想:世界銀行のロ
     バート・ゼーリック総裁が発表した、森や海な
     ど生態系の経済価値を評価して、政策に反映さ
     せる構想)。
  乱獲や乱開発をしないといった原則を守る原材料の生
 産や調達にお墨付きを与える認証制度も討議された。
  パーム油では、「RSPO(持続可能なパーム油のため
 の円卓会議)」が「持続可能な原料」との認証を与える。
  イギリス・オランダの巨大企業のユニリーバは、「我々
 のパーム油は2015年までにすべて持続可能な供給源から
 にする」と宣言した。
  日本の企業は、多様性保全に取り組む企業ネットワー
 クの発足にかかわったが、行動指針には「配慮する」「
 努める」など心掛けの言葉が並んだ。
  日本の企業に危機感が足りない。
  世界は、地球環境の保全を前提にした新しい経済へと
 歩みを進めている。
  編集委員:小森敦司氏(朝日新聞、2010・11・9)
  (追伸)因みに、キリスト教は、「地を従えよ」とい
     う教義・考え方がある。
      我々人類のために、地は従えるものだの思い
     込ませである。
      結局、この洗脳によって、自然破壊となる。
      深い森林に覆われていたヨーロッパ大陸に、
     森林が無くなってしまったのはこの思い込ませ
     による。
      豊かな、微生物も含めて、自然の恵みはまっ
     たく無くなってしまった。
      今・現在、森や海など生態系の経済価値を評
     価する時代に入っているが、やっと、キリスト
     教の思い込ませの否定の感覚が認識されて来た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)600E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月20日、明治東京地震が起きた。
  午後14時4分、東京湾北部を震源とする地震が起きた。
  南関東直下型地震。
  1892年に設立された震災予防調査会により詳細な被害
 調査が行なわれた。
  これは、詳細調査がされた初の地震だった。
  震源の深さ約40~60キロメートル、地震の規模はマグ
 ニチュード7.0
  東京・横浜・川崎で被害が多く、死者は計31人。
  内訳:東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人、
  (たちばなぐん、神奈川県・武蔵国にあった郡)、
  建物の全半壊130棟
  内訳:東京府90棟、神奈川県40棟、
  負傷者157人。
  煉瓦(れんが)造りの建物が被害を受けたほか、煙突の
 倒壊が多く、「煙突地震」ともよばれた。
  首都直下型地震と同種のものと考えられている。
  浅草の凌雲閣(12階建て)が一部損壊・・また・・
  東京麹町山下町の宮内庁の建物(鹿鳴館)も被災し、
  後に、鹿鳴館は修復後、土地・建物が華族会館に払い
 下げられ・・、
  1927年に、徴兵生命保険(のちの大和生命保険)に売
 却された。
.
1894年6月21日、日本政府が清国に対して行った、朝鮮の共
 同改革案の申し入れを、中国・清国が拒否した。
  清から依頼された「南下政策のあるロシア」は、日清
 両国が朝鮮から撤退する事が都合よく・・その為・・
  1894年6月25日、ロシアのギルス外相は、ロシア駐日公
 使を通じて陸奥外相へ、同時撤退について、清国と共に
 合意するようにと伝えた。
  これに対し、陸奥外相は、朝鮮内政改革の必要性を力
 説した・・
  無条件での撤兵は出来ないと回答した。
  ロシアは、日清両国の主張の食い違いを知り、清の李
 鴻章の依頼の調停を打ち切った。
  この頃、ロシアが気になっていたのは朝鮮に強い宋主
 権を行使する中国・清国だった・・、
  ロシアは、「清国が、いずれ朝鮮を清国の一省に変え
 てしまうとの企(たくら)みが北京に存在するかもしれ
 ない」という懸念も感じていた・・、
  さらに、「朝鮮の国内問題に対する清国の断固たる干
 渉」が気になっていた・・、
  この様な状況から、朝鮮国王が、ソウル駐在のロシア
 の代表に対して、朝鮮をロシアの保護下に置いてほしい
 との要請ともなった・・大国ロシアにすがりたい朝鮮・・
 強引な清から離脱したいという朝鮮だった・・、
  ロンドンタイムスが、朝鮮・ロシア間に、朝鮮の保護
 に関する「密約」があると報じた・・が・・この件は「
 誤報」とされたが・・実際は、二度にわたる「朝露密約」
 の試みがなされた・・、
  そして、親日的な甲午改革政権を倒したのが、ロシア
 とつながっていた朝鮮の親露勢力だった。
  また、ロシアには、この強い姿勢の清国とロシアとの
 公然たる衝突に至るかもしれないという懸念が生まれて
 いた・・また、反面・・、
  清国が朝鮮を隷属化を控えているのは、「この露清間
 の緊張感」が存在する故だと・・ロシアは感じていた。
  清と露間にも紛争の可能性が存在した・・
  また、朝鮮国王の側近に、外交顧問という資格でデニ
 ーというアメリカ人が居て、朝鮮の利益を清国に対して
 有利に差配(さはい、指図してとりさばくこと)してい
 た。
  また、朝鮮は、アメリカと、弱小の朝鮮軍に対し、朝
 鮮軍編成のためのアメリカ人教官の派遣について交渉な
 どの要請を行なっていた・・、
  このアメリカと、中国・清国などの存在が複雑さを増
 す要因だった・・
  例えば、朝鮮が困難な状況に陥った場合、アメリカが
 政府として、国として動くのか?という懸念があった。
  これ等の問題の根本に、朝鮮の貧困があった。
  まず、問題の発生があれば、清国の出費で、清が動き
 大勢は維持されるだろう・・清国軍の前衛(ぜんえい、
 警戒・護衛・攻撃のために前方に置く人員)が構成され
 るだろうとロシアは見ていた。
  そして、これに、西欧列強も朝鮮に関わっていて、朝
 鮮は縮小された国際秩序の場だった。
  そして、ロシアの南下を恐れたイギリスに支持されて、
 中国・清国軍の居る朝鮮に派遣された日本軍・・、
  そして、この朝鮮共同改革案の日本の提案に対して、
 清国の拒否が一因となって、日清間の緊張が高まり、日
 本政府は、対清国との初めの対決表明である第一次絶交
 書を送ることとした。
  日本は、朝鮮政府に対し清国と朝鮮との関係、つまり、
 「属国(朝鮮):宗主国(清国)」という宗属関係につ
 いて問いていて、それに対して朝鮮側から日本に、「自
 らの国は自主国である」との回答を得ていた。
  (清国の強引なる清国軍の駐留状態で、朝鮮を属国と
 して扱おうとする不当な行動をとる清だった)
.
1894年6月21日、鉄道局臨時軍用貨物鉄道輸送手続を制定し、
 施行した。
.
1894年6月22日、清国の日本の朝鮮共同改革案の拒否に対し
 て、 御前会議で、朝鮮内政の単独改革が決議された。
  日清戦争の原因について開戦をやむなしとした外務大
 臣陸奥宗光は・・、
  「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争は
 その意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想
 している(『蹇蹇録』岩波文庫)
  また、三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の「大人のた
 めの近現代史」(東京大学出版会、2009年)では・・、
  「朝鮮は、それ以前の近世における国際秩序において、
 中国の属国として存在していた。
  それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝
 鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
  いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであ
 ったということ」と説明している。
.
1894年6月22日、陸奥外相が、清国公使に対し第一次絶交書
 を提出した。
  宗主国然としている清国・・体よく侵略行為をしてい
 る強国・清国の冊封体制の摩擦から発していた・・ロシ
 アやアメリカ・ヨーロッパも絡(から)んでいるアジア
 の大勢の変化・改革の序章・始まりだった。
.
1894年6月22日、陸軍省が、戦時死体認識票を制定した。
  軍隊において、兵士の個人識別用に使用されるもので・・、
  第二次世界大戦中のイギリス軍では、切れ目のついた
 円形の金属板を手首にチェーンで巻きつけ・・、
  アメリカ軍は、長円形の金属板に穴を空けチェーンな
 どに通して首から提げて使用した。
  日本の陸軍では、小判型の真鍮板を上下の穴に紐を通
 して胴体にたすき掛けにして装着した。
.
1894年6月23日、国際オリンピック委員会が設立さらた。
  この年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵が、近代
 オリンピックの設立を提唱し、フランスのパリ・ソルボ
 ンヌにヨーロッパなど各国のスポーツ関係者が集まり、
 オリンピック競技会の復興が決められ、委員会が結成さ
 れた。
  初代会長は、ギリシアの D.ビケラス。
  オリンピック競技大会を4年ごとに開催すること、その
 開催都市を選定することを主要活動とした。
.
1894年6月24日、フランスのカルノー大統領が暗殺された。
  リヨンで演説後・・イタリア人のアナーキスト、サン
 テ=ジェロニモ・カゼリオに刺された。
  翌日の6月25日に死亡(サディ・カルノー暗殺事件)
  パリのパンテオンに埋葬された。
  この様なテロに国際社会全体が脅威する状況の時代だ
 った。
  1890年代は、最新の発明であるダイナマイトが、国王
 や大統領、閣僚を次々と襲う状況だった。
  また、政府の建物も標的となった。
  上層階級は下層階級の反乱に対する懸念を強めて行っ
 た。
  労働者はみな潜在的犯罪者、アナーキストはみなとに
 かく叩きのめすべき「狂犬」として語られれた。
  1894年のこのカルノー大統領暗殺を受けて、諸国の政
 府と警察部門は、何らかの手を打つ必要に迫られた。
  最初に、国際協力を提案したのはイタリアだった。
  国際テロの温床と見なされていたイタリアは、これを
 汚名挽回の機会にしようとした。
  「人類に対する犯罪」、マッキンリーの後継者セオド
 ア・ルーズヴェルト(任期:1901年~1909年)はテロリ
 ズムをそう呼んだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:グローバリズムの名の下に・・自国に有利なことを企(たくら)む
.
紀元前4万年、日本人が日本列島に来た時、日本列島もまだ
 しっかり形成されていない頃で、その地と大陸は、地続
 きだった。
  それは、アフリカからスタートした人類の地球上での
 拡散の一コマだった。
  このような時、やはり、4万年前~1.5万年前には、こ
 の日本人の形成と同じ様に、モンゴロイドの人々が、地
 続きのベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ渡って
 行った・・アメリカに達していた。
  日本人の形成は、この「ウルム氷期の狩猟民」と、そ
 の後の、「弥生時代の農耕民」とが渡来した「遠い遠い
 昔のこと」だった。
  何度かの渡来の中で、長い長い長い年月を経て、日本
 国土全体における混血が繰り返されて・・日本国土全体
 で繰り返されて・・日本人が形成されて行った。
  それと比較して・・、
  現代と言っていいほどの最近の・・その最近の1614年
 のアメリカのピルグリム・ファザースのアメリカ・イン
 ディアンの方々の地での殺戮と侵略とはまったく違う。
  また、6万1000年前から・・5万2000年前とも、また、
 12万5000年前とも言われているオーストラリアの地に来
 たアボリジニの方々も同様だった・・
  このオーストラリアの地へ、最近とも言いたいくらい
 の1788年に来て、アボリジニの方々を法律まで作って殺
 戮し(アボリジニの方々を殺しても良いという卑劣な法
 律)、侵略し、植民地としたイギリス・・、
  また同様に、最近と言いたいくらいの16世紀の時に、
 ラテン・アメリカの各地に来て、侵略し、全滅と言いたい
 くらいに蛮行を繰り返したスペイン・ポルトガル(この
 時、ローマのバチカンは、先住民の方々を「人間ではな
 い」と言い、つまり、人間ではないから殺してよいと言
 い)・・長い年月、殺しに殺す行為をしたスペインとポ
 ルトガル・・
  このインディオの方々の殺戮を繰り返したスペインと
 ポルトガルとも、まったく違うのだ。
  しかし、今・現在、日本人のこの遠い昔の成り立ちを、
 この最近の蛮行と同じように語って、誤魔化そうとする
 行為がなされている。
  日本の場合は、完全なる混血であった・・その日本の
 数々の遺跡を分析すると、だんだん文化が混在化して行
 くのが分かる・・これは、混血での一体化を証明してい
 る・・
  アメリカ・インディアンの方々や、また、インディオ
 の方々や、そしてまた、アボリジニの方々と同じような
 状況とされる卑劣な言行・・日本人となった経緯が、ヨ
 ーロッパ人の蛮行と同じとされる卑劣な言行がなされて
 いる。
  まったく歴史的、科学的根拠を無視した論理が展開さ
 れている。
  この様な事が、盛んに、今・現在、工作員によってな
 されている。
  また、今・現在、チベットの方々の地が、そして、ウ
 ィグルの方々の地が、そしてまた、内モンゴルの方々の
 地が、最初は自治区だなんて言っ誤魔化していたが、
  この完全なる別民族の地が・・今・現在、漢民族を、
 政策として流入させて、漢民族の地と化する行為が「盛
 んになされている」。
  これと似たような流入が、今・現在、日本においても
 なされている・・特に、沖縄県や北海道、帝国主義的な
 侵略流入が、今・現在、日本に於いて「盛んになされて
 いる」。
     ・
     ・
19世紀以来、学術的なキリスト教神学研究者達は・・、
  『キリスト教の聖書の福音書は、現実世界の歴史で起
 こった事についての信頼できる記述ではない』という決
 定的な論証を、常に行って来ている。
  科学者たちは・・研究者たちは・・誠実である・・
  聖職者たちとは違う・・
  バートランド・ラッセルの言葉 : 
  知的な意味で 著名な人々の 圧倒的多数は・・
  キリスト教を信じてないが・・、
  大衆に対してそのことを隠している。
  なぜなら・・、
  彼らは自らの収入が減ることを恐れているからだ。
 (キリスト教の聖書の記述の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、ま
 ず、降伏を勧告しなさい。
  もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その
 全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばなら
 ない。
  しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲
 しなさい。
  あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、
 あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
  ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべて
 あなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
  あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり
 品を自由に用いることができる。
  このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対して
 であって、
  次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
  あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に
 属する町々の息のある者は、一人も生かしておいてはな
 らない。
  ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エ
 ブス人は、
 あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさね
 ばならない。
  (この申命書の様な記述が、キリスト教聖書には満ち
 満ちている・・この様な文を読まされて・・洗脳される
 子供たちのことを思いなさい・・こんな時間が週に2回も
 あると泣いて訴えた生徒も居た)
.
1882年、アメリカで、『中国人排斥法』が制定された。
  強制収容や国外追放の処罰を課すことで、中国人労働
 者の移民を一時的に停止させた。
  この後、日本人がターゲットにされた。
.
1884年7月7日、ソウル条約が調印された。
  朝鮮が、中国の圧力に屈し、中国・清国との間で結ん
 だこの条約は、藩属関係をも表明する内容となっている。
.
1886年初頭、苦し紛れに朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  中国・清の朝鮮に対する宋主権の行使は酷(ひど)か
 った。
  朝鮮は、その重圧から逃れようと、ロシアを大国と見
 て、「ロシアに庇護を求めた」。
  この1886年初頭に、朝鮮は、ロシアに援助を求めた。
  朝鮮は、「自主独立の国家でありたい」と強調した。
  そのロシアは、1860年代に、すでに、沿海州を侵略し、
 その領土を取り、自分の領土とし・・そして・・、
  1872年には、ウラジオストックを軍港にするというロ
 シアで・・、
  南下政策のロシア、領土欲満々のロシアだった。
  そのロシアの侵略性を警戒したイギリスは、清の権力
 にひれ伏すその朝鮮にも、ロシアの手が及ぶと見ていた。
  朝鮮のロシアを頼りとする行動からも、その成り行き
 は容易に想像された・・そして・・、
  そのロシアの南下政策を警戒したイギリスは、清国の
 居る朝鮮へ日本のかかわりを支持した。
  1894年6月16日、この様な状況の中で、既に清国軍が居
 る朝鮮へ、日本は、仁川に軍を派遣した。
  この後、朝鮮に圧力をかける清と、日本はぶつかり合
 う。
  因みに、日清間には、先に条約で(1884年12月、天津
 条約)、朝鮮に、日清のどちらかの国が軍を派遣したら、
 他の国に照会することが義務付けられていた。
.
1929年、この年から始まった世界大恐慌には、アメリカが
 自国産業保護のため関税を引き上げると、各国が報復関
 税を化した。
  (今・2018年と同じような状況・・)
  第二次世界大戦の原因の一つの始まりだった。
  経済においても、戦争の原因作りのアメリカだった。
  そして、各国で、外国製品を締め出す「ブロック経済」
 化が進み・・、
  輸出を増やすために通貨の切り下げ競争も起こった。
  世界の貿易量は、約4年で「3分の1に縮小した」。
  世界経済が・・深刻な不況に陥(おちい)り、第二次
 世界大戦の一因となって行った。
.
1931年9月18日、満州事変が起きた。
  NHKはじめ日本のマスコミは、満州事変の後、戦争
 を煽(あお)った。
  新聞は部数の伸長を目論んだ行為だった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変
  中国の蒋介石軍(中華民国軍)は、アメリカに武器・
 弾薬を援助されて、大部隊で上海の日本租界を包囲し、
 この日、大攻撃をかけて来た。
  この戦いから、日本軍の南京への進軍が開始され、い
 わゆるデッチアゲラレタ「南京事件」が起きたとされる
 のだが・・
  そして、この戦いから、日中戦争が始まり・・第二次
 世界大戦へとつながっていくのだが・・、
  この頃、父を朝日新聞の記者として持つ人が白状する・・
  言うことは、当時、やはり朝日新聞の中にも、「南京
 へ追撃するべきと主張する派」と、「南京への追撃は控
 えるべきだとの主張する派」の二つの派があった・・が、
 しかし、
  社内が南京へ追撃すべきとする派が強くなり、歯止め
 も効かなくなり、「行け行けどんどん」となったという
 ことを白状し・・証言している。
  この様に、NHKをはじめ「日本のマスコミ」は追撃
 することを煽った・・
  アメリカに支援された中国軍の先制攻撃に対する追撃
 の論調となった・・ここが分岐点であったが・・その方
 向を決めた。
.
1990年、イラクが、クウェート侵攻をするとアメリカは、
 反フセインとなった。
.
2003年、アメリカは、スンニー派のフセイン政権を倒して、
 イラクで比較的多数のシーア派の政権を誕生させた。
  何で自分勝手に他の国に介入するのだ・・??
.
2016年1月、アメリカと、他の5カ国の6カ国が、イランの経
 済制裁を解くと発表した。
.
2016年11月17日、大統領になる予定のトランプ氏が、台湾
 総統との異例の電話会談をした・・その意味・・、
  2016年11月17日に、安倍首相とトランプ次期アメリカ
 大統領がニューヨークのトランプタワーで初会談を行っ
 た。
  トランプ氏は、他国の首脳から早期の会談要請が殺到
 するなか、安倍首相との会談を最優先させた。
  しかも、自宅に招くという厚遇ぶりで、日本を重視し
 ている姿勢を見せた。
  会談後に、安倍首相が「信頼できる指導者だと確信し
 た」と述べた。
  トランプ氏は、「素晴らしい友好関係を始めることが
 できてうれしい」と述べるなど、会談が有意義であった
 ことを強調した。
  安倍首相の素早い動きには、中国も驚いた。
  安倍首相は、トランプ氏の当選が確定した日の翌朝す
 ぐに電話で祝意を伝えた。
  中国はそれに焦り、11月9日、CCTV(中国中央電視
 台)は習近平主席がトランプと電話会談したというニュ
 ースを流した。
  ところが、トランプ氏側から「していない」と否定さ
 れた。
  安倍首相が電話会談した以上、習近平も会談したこと
 にしないと、大国の指導者としてのメンツが潰れると思
 ったらしい。
  14日になって実際に電話会談をしたようで、いずれに
 しても、恥をかかされたかたちとなった。
  さらに、12月2日(アメリカ時間)には、トランプ氏は
 台湾の蔡英文総統と電話会談をした。
  これは、1979年のアメリカと台湾の断交以来初めての
 ことだった。
  しかも、自身のツイッターで、「台湾総統が今日、私
 に、大統領選勝利に祝意を表したいと電話をくれた。あ
 りがとう!」と書き込んだ。
  「ThePresident of Taiwan」と、あたかも独立国家の
 元首のように扱っていた。
  当然、台湾では大きく報じらた。
  トランプ氏への期待が非常に大きくなっている。
  安倍・トランプ会談について、中国共産党の機関紙で
 ある「人民日報」の国際版「環球時報」は「朝貢だ」と
 書いた。
  ・・が、蔡英文との電話会談については王毅外相が「
 台湾側のくだらない小細工だ」と嫌味を言った。
  これは、中国のパニック状態を象徴していた。
  中国は、かなり衝撃を受けた。
  なにしろ、トランプ氏は、数十年来の絶対的タブーを
 破ったのだった。
  即座に不快感を表明し、アメリカにも抗議したという。
  王毅外相は台湾を批判しているが、トランプ氏のこと
 は批判していない。
  トランプ氏と衝突するのを避けたかったのだろう。
  あくまで、台湾が仕掛けたというスタンス。
  しかし、トランプ氏は、かなり中国を意識した行動を
 している。
  「自由時報」(2016年12月3日付)によれば、当日は
 シンガポールのリー・シェンロン首相、フィリピンのド
 ゥテルテ大統領、アフガニスタンのガーニ大統領とも会
 談しているが、ツイッターには蔡英文氏のことしか掲載
 していない。
  これは意図的にやっていること。
  中国の反応を見るためだという・・、
.
2018年、EUから、当初の美しい理念は消えた・・
  そして、ある意味「全体主義理念のEU」が、ここに
 現れた。
  世界世論は、「EU各国の個別の事情に配慮せず、財
 政規律を過度に重視するEUの政策が、反発を招く一因
 になっている」・・と、指摘しているが・・、
  そしてまた、経済格差の是正が、「EUの課題だ」と
 しているが・・、
  援助ばかり受ける国や、限りなく援助ばかりをする国
 (援助ばかりをさせられる国)など・・、
  その格差の方こそ、最初に、解決すべき問題なのでは
 ないのか?・・と・・、
  そもそも、EUとして、まとまる必要性があったのか?
  原点からかい離した存在になっている・・と・・、
  その様な現状が、求めるものだったのか?・・と・・、
  ぶら下がり国家の救済の結合なのか?・・
  それで良いのか?・・と・・、
  努力するものが正当に評価されて報われ・・努力もし
 ないものが、その行動の厳しい評価を甘受(かんじゅ、
 甘んじて受けること)する社会でなければならないので
 はないか?・・と・・、
  努力もしない国家を助けて「善人顔をするな!」の声
 も・・、
  当然、必要なのは信賞必罰社会。
  (参考)全体主義:ぜんたいしゅぎ、全体の利益を第
     一とし、個人の価値は全体に奉仕する点でだけ
     認める(政治上の)主義。
  (参考)信賞必罰:しんしょうひつばつ、功績ある者
     は必ず賞し、罪過ある者は必ず罰すること。賞
     罰を厳格にすること。
.
2018年2月2日、中国、欧州で影響力拡大
  ドイツと言えば、今や、その経済力で強力な立場にあ
 る。
  今、ドイツは、EUが形成されて、そのリーダー的地
 位にある。
  また、「ドイツ圏」と称せられる「ドイツへニコニコ
 顔を向ける国々」に、「ベネルクス」「オーストリア」
 「チェコ」「スロベニア」「クロアチア」などがある。
  また、そのドイツ圏へ近づきたいという「ロシア嫌い
 な国々」がある・・、
  それが、「ポーランド」「スウェーデン」「フィンラ
 ンド」「バルト三国」・・など、
  この様に・・「ドイツ帝国圏」と称すべき大きな領域
 が存在する。
  そのドイツに付いて行くのか?
  成り行き上、付いて行かざるを得ない・・とする国々
 があるが・・この様に、ドイツのパワーは大きくなって
 いる。
  EU圏内では、ドイツの一人勝ち状態にある。
  そして、このドイツが、非常に強く中国と関わってい
 る・・
  このことが、現時点(2018年)で、世界の大きな関心
 事となっている。
  世界のバランスが、ここから崩れて来る。
  ヨーロッパの国々は、中国に違和感を持っていない。
  中国は、アジアでは、帝国主義的な国で・・領土欲で
 もって振る舞い(例、南シナ海など・・)、アジア諸国
 では、その様な中国に対しての警戒感が強いが・・
  ヨーロッパ諸国は、こぞって中国が主導するAIIB
 (アジアインフラ投資銀行)に参加した。
  そして、最近(2018年2月2日)の読売新聞によれば・・
  「中国、欧州で影響力拡大」の表題の記事がある。
  そして、副標題に・・「英首相訪中、EU離脱、混乱
 に乗じる」とある・・
  その内容は・・、
  英国のメイ首相は、訪問先の中国・北京で、中英関係
 について「『黄金時代』を引き続き前進させる」・・と
 述べ・・、
  経済を中心とした関係強化を進める姿勢を鮮明にした。
  英国の欧州連合(EU)離脱の混乱に乗じて、欧州で
 の影響力拡大を図る中国のもくろみは、今年に入ってマ
 クロン仏大統領、メイ氏と続く主要国首脳の「中国詣で」
 で着々と進んでいる・・中略・・
  中国側も、(英国が)EUの単一市場からの脱退を控
 え、中国との間で自国に有利な内容の自由貿易協定(F
 TA)を結びたいメイ氏にとっての「焦点」が経済協力
 にあることを見透かしている。
  李氏(李克強・りこっきょう首相)は、「両国関係は
 英EU関係が変化しても変わらない」と述べ・・、
  金融や貿易などでの協力推進を強調した。
  中国商務省によると、今回の訪中で、両国は、総額約
 90億ポンド(1.4兆円)に上る商談に合意するという。
  英国が離脱した後のEUを支える仏など主要国も、英
 国のEU離脱を支持するとともに、「米国第一」に突き
 進むトランプ米政権への警戒感もあり、中国との関係強
 化に拍車をかけている。
  中国としては、北朝鮮や貿易問題で、米側からの圧力
 を受ける中、EU内の「反トランプ」の雰囲気をうまく
 すくい取り、欧米諸国の結束を崩す思惑がある。
.
2018年6月18日、日本の航空会社のJALとANAが、卑劣
 な事に、台湾の事を「中国台湾」と表記する事にすると
 したと発表した。
  毎日新聞2018年6月18日 17時34分
  航空会社 JALとANA、台湾を「中国台湾」表記
 【台北・福岡静哉】中国政府が、外国の航空会社に対し
 ホームページ(HP)などで台湾を「中国台湾」などと
 表記するよう要求している問題で、日本航空(JAL)
 と全日本空輸(ANA)は18日までに、中国人客向け
 のHP上で台湾の表記を「中国台湾」とした。
  ただ、台湾人客向けのHPでは、両社ともこれまで通
 り台湾を他の国・地域と同列に表記している。
  中国の要求を受け入れる一方、台湾にも配慮した形だ。
.
  中国は、台湾を「中国の領土」とするが・・、
  台湾は、「中国の一部ではない」との立場。
  中国は、各国の航空会社に明確な表記を要求し、応じ
 なければ行政処分を科すとした。
  JAL、ANAの広報部は、「各HPを利用するお客
 様にとって分かりやすく受け入れられる表記にした」と
 説明した。
  だが、台湾外交部(外務省)は18日、両社に抗議す
 るコメントを出した。
  中国政府は5月25日、要求を通知した44社のうち
 18社が表記を変更し、残り26社も7月25日までの
 変更を承諾したと発表した。
  英メディアによると、米政府は米大手航空3社に対し、
 要求を無視するよう求めたという。
.
 【台北時事】日本航空と全日本空輸が、中国向けの公式
 ホームページなどで、「台湾」を「中国台湾」と表記の
 変更をしていたことが分かり、台湾外交部(外務省)は
 18日、対日窓口機関の台北駐日経済文化代表処(大使館
 に相当)を通じて厳重に抗議するとともに、表記を元に
 戻すよう求めると発表した。
.
  産経新聞、6月6日、アメリカでは、政権が「中国台湾」
 などの表記をしない様にと要請。
  「中国要求に従うな」米政権、台湾表記問題で米航空
 会社に要請 英紙報道
  【ワシントン=塩原永久】中国政府が外国航空会社に
 対し、ウェブサイトなどで台湾を中国の一部として表記
 するよう求めている問題で・・、
  英紙フィナンシャル・タイムズ(電子版)は6日まで
 に、トランプ米政権が米国の航空大手に中国の要求を飲
 まないよう要請したと報じた。
  米政府当局者がユナイテッド航空など大手3社に伝え
 たという。
  同紙によると、米政権はユナイテッドやアメリカン航
 空、デルタ航空に対し、自社のウェブや地図上で中国当
 局の基準に沿った「中国台湾」などの表記をしないよう
 要請した。
  中国民用航空局が4月、36社に対し、台湾や香港、
 マカオが中国の一部であることを明確に表記するよう改
 善を求める書簡を送付したとして、米ホワイトハウスは
 先月上旬、抗議する声明を出していた。
  ただ、米航空大手は「米政府と緊密に協議しながら対
 応を検討している」(デルタ)などと対応に苦慮。
  中国路線は成長市場で、中国国内の空港への着陸を不
 許可とする中国側の制裁措置が大きな懸念となるためだ。
  欧米メディアによるとオーストラリアのカンタス航空
 などが中国の要求を受け入れる方針を示した。
.
  (関連)2018年3月2日、米国で「台湾旅行法」成立す
     れば、戦争に発展も=中国英字紙
     [北京 2日 ロイター}中国国営英字紙チャイ
     ナ・デイリーは2日、米国で台湾との関係強化
     を目指す「台湾旅行法」が成立した場合・・、
      台湾を巡る戦争に発展する可能性があると警
     告した。
      同法の内容は、全レベルの米政府職員に台湾
     への渡航と当局者との面会を許可し、同時に台
     湾当局者に対し「敬意のこもった条件で」訪米
     し米政府当局者と会うことを許可するもの。
      トランプ米大統領の署名を待つばかりとなっ
     ている。
      チャイナ・デイリーは論説記事で、法案が成
     立すれば台湾の蔡英文総統は台湾の主権をいっ
     そう強く主張することになるだけだ、と強いト
     ーンで主張。
      「蔡総統が主権を主張すれば、中国では台湾
     の離脱を阻止するための『反国家分裂法』発動
     が避けられなくなるだろう」と述べた。
      さらに「その場合、米国は国内法に基いて台
     湾のために行動を起こさざるを得ず、地獄に転
     落するのは簡単だという見解に実態を与えるだ
     けだ」と警告した。
      中国は蔡総統が正式な独立を志向していると
     みているが、総統自身は現状を維持したいとし
     ている。
      一方、台湾側は「台湾旅行法」を歓迎した。
.
2018年6月19日、中国の手先と化しているNHK
  NHKワールドで、NHKが、中国の工作通りのアイ
 ヌ民族についての放送をしていた(pm13:40)
  NHKワールドという番組で、世界に向かって、中国
 の工作の宣伝の「ごますり番組」の様だった。
  中国に媚(こび)、日本を貶(おとし)める事をして
 来たNHKが、また、その様な番組を、また、放送して
 いた。
  中国が、ことさら言う、アイヌは、日本人とは違うと
 いうその片棒担ぎを世界に宣伝していた。
  NHKが、「そうではない」というのなら、この様な
 作り方で、「青森県」や「山形県」や「秋田県」や「岩
 手県」や「宮城県」や「福島県」や「栃木県」などなど・・
 日本のすべての県を、この様な作り方で番組を作って世
 界に向けて放送せよ!
  日本の各県は、バラエティーに富んだ、それぞれ特徴
 のある県なのだ『という事を説明せよ』・・アイヌだけ
 では誤解を与える。
  何故? NHKは、アイヌだけを番組を作って放送す
 るのだ?
  アイヌの方々は、遺伝子情報的にも「まったくの日本
 人と同様なのだ」・・この様な事は番組内でまったく言
 ってない・・説明していない・・、
  琉球と言われる沖縄県の方々も同様に、遺伝子情報的
 にはまったく同一の縄文人を祖先としている。
  何万年もの・・長い長い間(西暦2000年の何十倍もの
 長い長い間)・・日本列島を移動して来て、混血を重ね
 て来た同一民族なのだ。
  何を血迷ってNHKは、中国の言う「アイヌ独立論」
 の片棒を担ぐ番組を放送するのか?・・
  それも、世界へ向かって放送するNHKワールドで・・?
  何万年もの遠い昔から、日本列島には日本人を形成す
 る人々が数度にわたってやって来た。
  その人々が混血し・・混血を繰り返し・・日本人を形
 成して行くのだが・・
  その数度に渡る混血の仕方に差があるから・・地方の
 差ができたのであって・・総べて、中国の言うアイヌ独
 立論は、陰謀の結果の論理であって、NHKが賛同して
 わざわざその番組を作って放送するに及ばぬのだ!
.
2018年、中国(現在の中華人民共和国、漢民族政権)は、
 グローバリズムの名の下に漢民族の工作員を近隣諸国へ
 潜り込ませている。
  この国の前のこの地・中国は、満州族(女真族)が、
 清国という国を形成し・・、
  中国の政治を行なう『満州族の地だった』。
  そして、その満州族政権は、漢民族に変わられた。
  (参考)満州民族:まんしゅうみんぞく、(満洲族、
     まんしゅうぞく)は・・、満洲(中国東北部、
     沿海州など)に発祥したツングース系民族。
      古くは女真族といった。
      17世紀に、現在の中国、および、モンゴル国
     の全土を支配する清を興した。
  その満州族は、大東亜戦争の終戦まで、「満州」とい
 う国を建国していた。
  その地域は、中国の政権が、「化外の地」だとした。
  その地は、「我々・中国とは関係のない地だ」とした。
  「異民族の地だ」とした「万里の長城の北方」の「万
 里の長城の外の地域」であるとした。
  しかし、中国の現政権・中華人民共和国になって、こ
 の地を我がものだと考えを変えた・・そして、領土とし
 た。
  その満州国を無くした。
  そして、今・現在(2018年)、そこに居た満州族の方々
 は、まったくと言って良いほど、かつては、一杯居た満
 州族のその方々は、居なくなってしまっているという。
  殺されたのか? 
  何処かに追いやられたのか?
  満州族の方々の痕跡は、まったく無いという。
  国とは、「ある地域」に「ある民族」が居て・・そし
 て、成り立つが・・、
  中国の現政権は、満州族を消して、かつての満州国の
 痕跡を消した。
  国とは、この様にして奪われるもの・・、
  今、日本人は、「のほほん」と幸せに暮らしている・・
 この国・日本も、この様に簡単に奪われてしまう。
  盤石な日本にするためには、しっかりした日本という
 国への意識を持たなければならない・・そうでなければ、
 満州国の様に、日本も消え去ることとなる。
  今、チベットが、盛んにこの行為をされている。
  また、ウィグルの方々の地が・・、
  そして、内モンゴルの方々の地が、盛んに国や民族の
 痕跡が消されている・・漢民族の地と化している・・
  これを、漢民族の中共は、「グローバリズム」と美し
 く誤魔化す。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)599E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年6月12日、鉄道敷設法の一部改正を決定した。
  中央線や、その他5線の篠ノ井線・鹿児島線などを第1
 期線に追加し、篠ノ井線の起点を篠ノ井と決定した。
  鉄道敷設法(てつどうふせつほう)は、国が建設すべ
 き鉄道路線を定めた日本の法律で・・、
  1892年6月21日に制定された旧法と、同法を廃止し新た
 に1922年4月11日に制定された改正法がある。
.
1894年6月12日、実業教育費国庫補助法が公布された。
  井上毅文相の実業教育振興政策に基づいて制定され、
 実業学校に国庫補助金を交付することを定めた。
  裁可:1894年6月11日、公布:1894年6月12日、施行:
 1894年9月1日
  朕帝国議会ノ協賛ヲ経タル実業教育費国庫補助法ヲ裁
 可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
  明治二十七年六月十一日
            内閣総理大臣伯爵伊藤博文
            大蔵大臣渡辺国武
            文部大臣井上毅
  法律第二十一号
  実業教育費国庫補助法
  第一条:実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度金十五
      万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
  第二条:公立ノ工業農業商業学校、徒弟学校及実業補
      習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムル
      トキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付ス
      ヘシ
  地方官庁ノ認可ヲ経タル農工商組合ニ於テ設立シタル
 実業学校ハ文部大臣ノ特別ノ認定ニ依リ前項ニ準スルコ
 トヲ得
.
1894年6月14日、北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。
  1894年6月18日、北里柴三郎が、ペスト菌発見を公表
 した。
  この報告は、翌日の1894年6月19日の午前に内務大臣に
 伝えられた。
  そして、1894年6月21日に、新聞は報道した。
  北里は、さらに、コッホ研究所や、香港政庁を通じて
 イギリス植民地大臣に伝え、そして、このニュースは、
 世界へも伝えられた。
  北里は、研究成果を発表しようと、1894年7月7日に、
 論文を一気に書いた。
  これが、「ペスト病の原因調査第一報」だった。
  これは、ペスト菌に対する単なる報告書ではなかった。
  まず、異例ともいえる「ペスト病」検証報告書だった。
  そして、これには、続けて、ペスト菌発見に至る過程
 が記述されている。
  この記述は、ペスト菌に対する観察が精緻を極め、か
 なり長文に渡って説明されていた。
  そして、その中で問題となった部分・・専門的にもな
 る「グラム染色」に関わる件があった。
  北里は、この「グラム染色」の結論を書かなかった。
  「かのグラム氏複染色法を用い得るや否やは、後日を
 もってこれを報道すべし」として、結論を先送りしてい
 た。
  ここが問題とされた。
  北里が、もし、「ペスト菌はグラム陰性である」と記
 述していれば、その様な問題は発生しなかった。
  このグラム染色法は、デンマークの医師・グラムが開
 発したもので、菌の分類法である。
  菌が、「陽性」か、「陰性」を問う。
  北里柴三郎の論文は、後日、日本の官報に1894年7月31
 日と1894年8月1日の2回に分けて掲載された。
  緻密な調査報告書だった。
  また、北里には、この報告書の主要部分をまとめたド
 イツ語の論文もあった。
  このドイツ語論文を、イギリス人医師のラウソン国家
 医院副院長が読んだ。
  そして、このラウソンが、この論文を、イギリスの伝
 統と権威を持つ医学雑誌「ランセット」に掲載しません
 かと北里に薦めた。
  世界的権威のある雑誌であった。
  北里は、名誉ある事ですからとお願いした。
  そして、ラウソンが、自ら、英訳を買って出た。
  北里は、その好意に感謝し依頼し、即座に英訳され、
 北里の同意のもとに送付された。
  この論文は評価され、直ちに、掲載となり、8月1日号
 と8月25日号に掲載された。
  内容は、ペスト菌の発見を伝え、その論文と共に、標
 本の図解やイラストも掲載されていた。
  そして、そのイラストには、正しくペスト菌の形態も
 捉えていた。
  北里柴三郎が、明らかに、顕微鏡下にペスト菌を捉え、
 観察していることを示している証拠だった。
  さらに、北里は、コッホ研究所にドイツ語論文と共に、
 塗抹標本と培養菌を送っていた。
  コッホ研究所では、この菌で、追認試験が行われ、「
 北里柴三郎のペスト菌」は明らかにペスト菌で、「グラ
 ム陰性」であると確認された。
  今日のペスト菌についての常識である「グラム陰性・
 卵円形・短小棹菌」がここでも立証された。
  確かに、北里柴三郎は、1894年6月に、香港でペスト菌
 を発見したのだった。
  北里柴三郎が、流行の早期に、ペスト罹患の危険の中
 を香港へ積極的に行ったのが、ペスト菌発見に功を奏し
 た。
  ペスト患者が多くなると、種々の型のペスト菌も発生
 して、真のペスト原因菌の発見を複雑にする。
  (患者数が多いと発見はできないとも言われている)
  ただ、染色される菌についても北里は触れてもいた。
.
1894年6月16日、日本政府が、清国に朝鮮の内政改革を共同
 で行う提案をした。
  陸奥外相が、清国に朝鮮内政の共同改革を提起した。
  清国が、共同での改革に合意しなければ日本は単独で
 でもこれを行いますと提案した。
.
1894年6月20日、清の李鴻章が、ロシアに日清間の調停を依
 頼した。
  ロシアには南下して行きたいという「南下政策」があ
 り、この調停依頼自体が問題だった。
  問題を複雑にするだけの「干渉行為」ともなった。
  ロシアは、自国の南下政策上、日清両国の朝鮮撤兵を
 表明した。
  しかし、このロシアの南下政策を警戒していたイギリ
 スは反対し、日本を支持した。
  ロシアは、1860年代に、沿海州にどんどん侵略し始め
 ていた・・そして・・、
  1872年(この時から20年も前)から、すでに、ウラジ
 オストックを海軍基地を軍事基地にして、建設を完了し
 ていた。
  (今・現在の南シナ海・・中国の屁理屈で領土だとさ
 れ、基地化しないと初めは言っていたが・・今はミサイ
 ルやレーダーも配備している)
  この頃、朝鮮と関係していた国は、日本だけでなく、
 ロシア・清国・・そして、アメリカ・イギリス・ドイツ
 が朝鮮と関係していた。
  1884年、ロシアは、朝鮮と条約を結んだ(露朝修好通
 商条約)
  この時までは、ロシアは、アメリカやヨーロッパが、
 朝鮮の鎖国状態を開こうとしていたことに反対していた。
  そして、抵抗をしていた。
  (朝鮮の鎖国状態を維持させようとしていた)
  これは、ロシアが朝鮮に進出したいという下心(した
 ごころ、表に現わさず、ひそかに心の中で考えているこ
 と)があったためだった。
  また、ロシアは、朝鮮に進出するアメリカやヨーロッ
 パ諸国が、積極的に進出する事に対して、さらなる軍事
 的脅威が増すと考えていた。
  ロシアは、沿海州などの侵略において、ロシア人の入
 植を進める上で、朝鮮から食糧など、特に、家畜を得た
 いとしていた。
  故に、この露朝間の交易は拡大していた。
  この様な状況の中で、フランスが、朝鮮の開国を目的
 として、1866年に、フランス艦隊を朝鮮に出撃させた・・、
 また、1871年には、アメリカ艦隊が来た・・そして、開
 国を迫った。
  この時、アメリカは、ロシアから共同歩調をとる様に
 求められた・・が、しかし、拒否した。
  ロシアは、朝鮮から利益を得ることはなく、「形勢を
 観望的にする」としていた。
  この様な荒れる朝鮮情勢の中で、1876年2月、日朝修好
 条規が締結された。
  この時、日本は、ロシアも、朝鮮と同様な条約を結ば
 ざるを得なくなるだろうと見ていた・・ロシアが進出し
 て来るだろうと見ていた。
  そして、朝鮮は、宗主国・清国の主導で欧米への開国
 が実現された。
  今・現在、日本は、軍事的に弱い状況にあるが・・こ
 の様に、軍事的に弱い朝鮮は、この時も、主導権を持ち
 得ず、清国が宋主権を行使するという様な状況だった。
  清国の思惑は、日露の朝鮮に対する関係を牽制するも
 のでもあった。
  (結局、自国の宗主国的な立場を維持したいのだった)
  1882年5月、清国の仲立ちで、米朝修好通商条約が締結
 され・・、
  1882年6月には、同様に、清国の仲立ちで英朝間の、そ
 して、独朝間の同内容の条約が調印された(イギリスと
 ドイツとの条約)
  この様な状況を見て、ロシアは焦った・・色々画策す
 るが失敗に終わる・・この様に各国が渦巻く展開が続く・・
  この様な時、朝鮮は清国の属邦ではあるが、内治外交
 とも自主である趣旨の朝鮮国王のロシア皇帝あての照会
 が手渡された。
  日本は、米英独と共同歩調的な中にいた・・
  そして、朝鮮は、この様な中で、壬午軍乱後(1882年
 10月)の清国の重圧から脱するために、隣接国たるロシ
 アとの間で清国の仲介を得ずに条約を締結したい旨を申
 し入れていた・・特に、朴泳孝・金玉均は朝鮮が自主独
 立の国家であることを強調した。
  朝鮮は、大国たるロシアへの期待があった。
  日本も、この朝鮮の清国からの独立を確認をしたいと
 した。
  露朝条約が締結されると、1885年10月、ロシア大使が
 ソウルに着任した。
  大使館も開設され、朝鮮国王周辺の対露働きかけなど
 で朝鮮の政局に影響が及ぼされた。
  1888年、ロンドンの「タイムズ」が、朝鮮保護を約す
 る露朝間の『密約』が結ばれたと報じた・・これは誤報
 だった・・
  この様に、各国が策謀する朝鮮周辺だった。
  また、ロシア太平洋艦隊に対して、朝鮮沿岸を監視せ
 よとの命令が、ロシア政府から発せられたりした。
  また、朝鮮保護、朝鮮領土保全の多国間条約締結、ロ
 シア人軍事教官派遣などの命令が、ロシア政府から出さ
 れ、1885年6月、ロシア外交官がソウルへ派遣された。
  1885年4月、イギリスが巨文島を占領した。
  1886年、ロシア海軍省で、新浦(馬糞島)の獲得が検
 討された(不凍港獲得関係)
  しかし、ロシアが見たものは、大院君(全渓大院君、
 李氏朝鮮の第25代国王・哲宗の父)の釈放帰国に伴う清
 国勢力の優勢さと、朝鮮国王の不満の充満状態だった。
  1886年初頭、ロシア政府は、朝鮮国王からの援助要請
 があったが、清国の対朝武力干渉さらに朝鮮併合は、隣
 接する地の沿海州の安全を脅かすと危惧した・・そして、
 朝鮮の清国からの自立を慎重に検討した。
  ロシア政府は、清国によって朝鮮併合がなされるかも
 しれないと危惧していた。
  1886年秋、露清間で、朝鮮の安全保障に関する交渉の
 合意がなされた。
  この間、朝鮮国王廃位が取りざたされた。
  朝鮮は、可哀想だが各国からいい様に扱われていた・・
  だから、1910年に、日本に併合されて、安定した国の
 状態となり、衛生的な国にもなり、人口が3倍にもなり、
 国が栄えた時のことを、それを体験された朝鮮の御老人
 方は、「良かったよ」と言ったのだった。
  それまでの朝鮮は、各国列強にいい様に扱われていた。
  1888年5月、極東問題特別会議が開かれた。
  この会議は、極東のロシア領の現地のロシア当局と、
 極東諸国に駐在するロシア外交官の会議であったが、
 決議された事の1つに・・、
  「ロシアによる朝鮮獲得については、朝鮮は経済的に
 貧しく、軍事的には長い海岸線の故に防衛困難であり、
 外交的には朝鮮侵略は英清(イギリスと中国・清)との
 決裂をもたらすとして、この様な事をしない」・・とな
 った(領土欲の満々のロシアだった)
  そして、朝鮮が弱小である故、中国・清か日本の支配
 下に入るだろうが・・いずれの場合も、ロシアに対する
 脅威になる・・とした。
  そして、仮に清国が、朝鮮を恒久的に制圧するような
 ことになれば、中国海域での海軍の示威(じい、威力を
 示すこと)あるいはロシア国境近くの朝鮮海岸地方の一
 次的占領といった措置をとることとした。
  ロシアは、日本は行動を起こさないと無視した判断を
 している。
  この結果、1888年8月、ロシア・清国が朝鮮領土保全に
 関する条約を結んでいる・・また・・、
  1894年6月の清国の朝鮮出兵に対し、ロシアは、日本の
 出兵より危惧していた。
  1894年6月8日に、天津でロシア公使は清の李鴻章に、
 「清国は情報を故意に誇張し、朝鮮への対処をしている」
 とくぎを刺し・・「反乱が鎮圧され次第、直ちに撤兵を」
 と言っている。
  逆に、ロシアのカッシニ駐清公使は、日本の駐清臨時
 代理公使の小村寿太郎に対し、「日本の派兵の必要を認
 めていた」。
  清国の李鴻章は、「清は宗主国による属邦保護の旧例
 に従い朝鮮の要請により行ったものだ」と言い、
 「ロシアとは無関係」と言った。
  すでに中国の清国軍が居る朝鮮に、日本は、この様な推移
 の中、6月16日、仁川に上陸する。
  この後、日本と清国の角がぶつかり合って行く・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:工作員が一杯・・スパイ天国となっている日本・・あちこちで暗躍している・・
.
紀元前1万3000年以前、日本の縄文時代は、紀元前13,000年
 頃から約1万年以上もの長い間続いた。
  その間に作られた土器の形や色など、また、住み方・
 家などが、だんだん変わって行った。
  また、その縄文(じょうもん)時代より以前・・、
  縄文時代より前の旧石器時代の人々は、マンモスなど
 の大きなえものを追いかけて、日本列島の中を移動しな
 がら生活をしていた・・
  その様な遠い昔からの歴史が、日本列島全体にある。
  そのため、住んでいたのは、すぐに移動ができるテン
 トのような家だったと考えられている。
  縄文時代になると、人々は、長い間、同じところで生
 活できる家を作った。
  みんなで集まって生活するようになった。
  これが、「村(ムラ)」の始まりだった。
  縄文時代の代表的な家を『竪穴住居』と言った。
  この住居は、地面を掘って何本か柱を立て、上に屋根
 を設けた。
  半地下式の家だった。
  ムラのなかには、竪穴住居だけでなく、太い柱を使っ
 た大きな建物や、みんなが集まる広場、死んだ人を埋葬
 する墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚・・など
 が作られていた。
  また、ストーンサークルとも呼ばれる、いくつもの石
 を直径30~50メートルの大きな円形にならべた環状列石
 も見つかっている。
  ムラの周り広がる「クリやクルミなどの森」は手入れ
 がなされた。
  ここから、生活に必要な食料や木材を手に入れること
 ができる「縄文里山」として大切にされていた。
  縄文時代の人々は、丸木舟に乗って海をわたり、遠く
 はなれた場所の特産品を手に入れていた・・交流・交易
 をしていた。
  縄文時代の遺跡には、本州でしかとれないヒスイとい
 う美しい石が北海道で見つかったり・・、
  また、逆に、北海道の黒曜石が、本州で見つかったり
 している。
  また、暖かい南の海でしかとれない数種類の貝が、北
 海道で見つかっている。
  縄文人は、日本列島の広い領域を行き来していた。
  縄文の人々は、これらのヒスイや貝などを使って、首
 かざりや、腕輪などのアクセサリーを作っていた。
  また、とても硬い黒曜石は、先を鋭くとがらせて、狩
 (か)りに使う石ぞくや石やり、ナイフなどにしていた。
  縄文時代にも、日本列島での全国規模の交流が行われ
 ていて、人々やモノや情報の活発な動きや交換があった。
  そして、この縄文時代の住居である竪穴住居が、従来、
 考えられて来た茅(かや)が葺(ふ)かれた形ではない
 ことが分かって来た。
  茅が葺かれていたという痕跡がまったくないからで、
 逆に、「土(つち)の屋根」という痕跡が発見されてい
 る。
  例えば、岩手県一戸町の御所野遺跡に、火事にあって
 燃えてしまった縄文時代の住居があった。
  火事で、柱などの木部が炭化したため、腐敗菌に木質
 部が腐敗されずに残った。
  その様な腐らなかった竪穴住居の柱の部材の脇に焼け
 た土が、また、部材の間に堆積していた。
  それが、屋根部分の土だと推測された。
  また、茅には「ガラス質」が含まれているが、この住
 居跡からは、屋根に使われていただろう茅のガラス質が
 あまり検出されず、「屋根が茅だ」という痕跡が否定さ
 れ、「土葺きの竪穴住居の屋根」と推測された。
  また、土葺きの竪穴住居の焼却実験もなされ、この遺
 構の通りの様になることも実証された。
  この様な遺跡が、日本各地で発見され、北海道でも発
 見された。
  北海道の入江・高砂貝塚遺跡や、東北地方、関東地方
 などで発見された。
  縄文人は、日本全土で「土葺きの竪穴住居」に住んで
 いた。
  また、ガラス質を含む硬い茅を刈り取る道具の存在の
 可能性も無い事が、その裏付けにもなっている。
  今、北海道庁の会議で、北海道には、この様な縄文人
 は居ないという答弁がなされている。
  まったく、歴史的事実を無視した非科学的な議論がな
 されている。
  北海道庁の会議では、「無土の地」という間違った答
 弁がなされている。
  誰も居なかったという意味で、この様な間違った認識
 の議論がなされ、この様な間違った認識の議員が、北海
 道政を動かし、行なっている。
  そして、また、北海道の白老町では、北海道は「アイ
 ヌ民族の地だ」ということで、白老町の中のある地域を
 アイヌ民族に返還するという間違った話が進んでいると
 いう。
  しかも、国の金が、我々の税金の金が、100億円もの金
 が投資され、この記念館の箱物が建てられるという。
  また、この様な北海道に、中国が暗躍して、「アイヌ
 民族の独立の話」が画策されているという。
  まったく馬鹿げた話が北海道には一杯ある。
  日本民族の祖先の縄文人の歴史が、そして、その縄文
 人以前の旧石器人の存在が、まったく無視された企て(
 くわだて)が進んでいる。
.
17世紀、キリスト教化したいと、暗黒のヨーロッパ中世に
 キリスト教は暗躍した。
  ヨーロッパのキリスト教司教領で、キリスト教の教義
 などの洗脳が影響し、子供だけでなく、地域全体が憑依
 (ひょうい、霊が乗り移り、異常状態で踊りまくる)す
 るという事件が起きた。
  感受性の強い子供の心を、結果的に、弄(もてあそ)
 ぶ事が起きている。
  キリスト教のお祭り「ハロウィン」が、日本で、無邪
 気に行われているが・・、
  そして、この魔女などが関連するこのお祭りに、小さ
 い子供が参加しているが・・、
 また、小学校では「国際感覚を身につけよう」という美
 名のもとに、公的小学校も含めて「ハロウィン」が行な
 われ、
 キリスト教系学校の学生が、喜々として駆けつけ、一緒
 になってやっているが、これは美名の下に行われるキリ
 スト教の「巧妙なる伝道行為」です。
 アメリカでも問題となり、裁判事例が多い「巧妙なる伝
 道行為」です。
 そして、この魔女が関連しているこの事例で、子供たち
 に何が起き?、影響したか?・・という事例・・、
 キリスト教には、「神を恐れよ」という教義がある。
 魔女事件の場合、キリスト教は、この教義によって権威
 を得ようとした。
 また、教勢を拡大したいとした。
 その為、「魔女は生かしておいてはならない」の教義が
 あるキリスト教は「死も辞さない」という姿勢だった。
 「死も辞さない」と言っても自分ではなく、相手を死に
 至らしめる行為でもって権威を得ようという目的だった。
 この例の様に、キリスト教の歴史は、周りに死の影や戦
 争が満ちる歴史となった。
  魔女事件の場合、年端(としは)の行かない3歳・5歳・
 7歳・12歳の子供達が憑依(ひょうい)した。
  これは、広がりやすい性質を持っていた。
  17世紀、キリスト教司教領で、子供だけでなく、地域
 全体が憑依するという事件となって起きた。
  魔女だと言われた女性が、自(みずか)らキリスト教
 聖職者の居る魔女委員会に申し出て、「多くの人々の体
 内に悪霊を祈り込んだ」と言った。
 すると、この町に憑依した、憑(つ)かれた主婦や子供
 達、大勢の群れが、この司祭領や隣接する地域にさ迷い
 出て来た。
 憑依した人たちは、未成年者が多い状況だった。
 町は混乱した。
 飛び火しやすいこの現象は、飛び火して行った。
 スウェーデンの場合は、プロテスタントの村だった。
 憑依した子供たちが現われ・・、
 子供達は意外と大人が何をやっているかを知っていて・・、
 大人たちの言動から、魔女とはどういうものかを見聞き
 し、よく知っていた。
 日頃から、キリスト教聖職者は、魔女の定型を話をして
 いた。
 怖い事に・・感受性の強い子供達は、特に、憑依しやす
 い状況で、親たちは、自分たちで救う事を断念するくら
 いだった。
 親たちは、当局へ原因の魔女の撲滅をする様にと押しか
 けるという騒ぎとなった・・、
 国王の調査委員会が取り調べるという事になり、騒ぎは
 ますます拡大して行った・・
 また、多くの他の村々へ伝染して行った・・、
 憑依した魔児たちは、無数の大人たちを告発した。
 「魔女の踊りをしていた」「悪魔のシナゴーグへ行った
 りしている」、それを見たと・・、
 ある村は、70人の女性と15人の子供が火炙りとなりまし
 た。
 これは、国境も越えて広がって行きました。
 ドイツで起きた事例では、ほとんどが10歳以下の子供
 でした。
 子供達は、キリスト教の教義と魔女を自己流に織りなし
 て語りました。
 想像力の強い子供達は、「魔女のサバト」「天国の幻視」
 「最後の審判と地獄の使者」を語り、告げるという状態
 でした。
  驚くことに「デーモン(悪魔)との性交渉」の詳細な
 証言に、裁判官(キリスト教裁判所の聖職者の裁判官)
 もびっくりしている状況でした。
 (参考)とし‐は【年端/年歯】 年齢のほど。年齢。
    としのは。「―のいかない子」
 (参考)ひょう‐い【憑依】 [名](スル) 霊などがの
    りうつること。「悪霊が―する」 」
.
1804年12月2日、ナポレオンの戴冠式
  ナポレオンは、自(みずか)ら戴冠した。
  ローマ法王(教皇)のピウス7世は、ナポレオンの後ろ
 で、何もしないで静かに座したままだった。
  キリスト教が、何の役にも立たないことを知っていた
 のである。
  逆に、キリスト教の仮の権威がある如くの戴冠がなさ
 れ、その後、各地の王や諸侯が、キリスト教に教会を建
 ててあげたりする「おかしさ」を知っていた。
  ナポレオンは、俊英の皇帝だった。
  キリスト教の」虎の威を借りる狐」状態を知っていた。
  何ら、キリスト教に権威も何にもないのに、王位の冠
 (かんむり)をキリスト教が授けるようにする振る舞い
 の害を知っていた。
  このキリスト教は、自分の宗教の伝道より・・「金を
 得ること」と「権力を得ること」を、一生懸命にやって
 来ていた。
  それに気付いたナポレオンは、自分だけではなく・・
 自分の妃(きさき)の戴冠式も、ナポレオンが自ら、妃
 に戴冠した。
  キリスト教聖職者による戴冠を排除した。
  今までは、種々の王や諸侯の戴冠式の戴冠は、キリス
 ト教の聖職者が行なって、ある意味「キリスト教聖職者
 が、あたかも、冠(かんむり)を授けているように見え
 ていた」。
  ナポレオンに、その馬鹿げた虚構が見えた。
  今、キリスト教国・アメリカでは、大統領の就任式に、
 キリスト教の聖書に手を置いて宣誓する儀式が行われて
 いるが・・、
  あれほど、アメリカの初代大統領のワシントンが、キ
 リスト教色の排除と、キリスト教の影響力を排除しよう
 とした心が、「理解されていない状況」へと、今、アメ
 リカはあり、後退している。
  この初代大統領ワシントンは、アメリカ合衆国憲法を
 作る時にも、キリスト教の影響力を排除することに非常
 に心を砕いた。
.
1937年12月8日、日本軍は12月8日には南京を包囲した。
  そして、1937年12月9日、日本軍は中国軍に対して無血
 開城を勧告した。
  中国軍は、開城勧告を拒否し、応じなかった。
  やむなく、日本軍は、勧告に応じない南京城を1937年
 12月10日、攻撃を開始した。
  1937年12月12日、南京防衛司令官の唐生智が逃げた・・
 一般兵たちを置き去りにして・・逃亡した。
  また、蒋介石を連れ去って、司令部を崩壊させたアメ
 リカ・・それで、司令部が崩壊し、混乱している中国軍
 が、なおさらに、南京防衛司令官の逃避で、まったく統
 制のされてない状態となった。
  そしてまた、統制の効いてない南京の中国軍の大半が
 組織的撤退を知らされていない状態で・・、
  また、日本軍の迫る頃から混乱が続いていた南京城は、
 逃げる人々にあふれ、中国軍が撤退することを知ってい
 ても安全に逃げられない状況であった。
  中国軍は、自軍の中国兵を、塹壕に足を縛って置き去
 りにしたりした・・塹壕に置き去りにして、防戦させる
 という卑劣なこともした。
  唯一の逃避路である北部の長江へつながる?江門では、
 中国軍の仲間を撃つことを躊躇しないという中国軍は『
 督戦隊を置いた』。
  中国軍の撤退する側と同士撃ちとなった (?江門事件)
  (参考)督戦隊:とくせんたい、軍隊において、自軍
     部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに
     勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは、降伏
     する様な行動を採れば、攻撃を加え、強制的に
     戦闘を続行させる任務を持った部隊のこと。
      この場合、中国軍が、自軍の中国軍を撃ち、
     中国兵を戦う事を仕向けた。
.
1937年12月12日、?江門事件(ゆうこうもんじけん)
  アメリカが介入して、中国軍の最高司令官である蒋介
 石が連れ去られ、中国軍の司令部は崩壊し、中国軍は乱
 れに乱れていた。
  督戦隊が置かれることまでされて、中国兵は戦わせら
 れた。
  あちこちで中国兵同士が撃ち合った・・その一つが?
 江門事件だった。
  1937年12月12日の夜、?江門事件が起きた。
  南京城へ進撃する日本軍の攻撃によって、中国軍は敗
 走に敗走を重ねた。
  その中国軍の一部隊が敗走して、?江門を通り抜けよ
 うとした。
  その部隊は、中国国民政府軍87師と第88師、そして、
 教導総隊の潰走兵だった。
  その潰走(かいそう、戦いに敗けた兵士や隊が、四分
 五裂になって逃げること)する兵士たちと、それらを武
 力阻止する中国軍の督戦隊である国府軍第36師212団とが
 衝突した。
  中国軍同士の激しい撃ち合いとなった・・その双方の
 発砲で、瞬く間に約1000名の中国軍兵士が死亡した。
.
1937年12月13日、この日、混乱に次ぐ混乱の中で、中国軍
 は総崩れとなり南京城は陥落した。
  陥落時にも、南京城の北側から長江の対岸へと逃げよ
 うとした非常に多くの兵隊や一般人が、舟もない中で渡
 河しようとして、混乱の中で撃たれたり、途中で溺れ死
 んだりした。
.
1937年12月13日、中国の南京を日本軍が攻略した。
  この時、いわゆる南京事件が起きたとされているが・・
 まったくの嘘。
  戦勝国のアメリカは、裁く事が出来る法律が無い事か
 ら・・、
  「その裁くための法律を、わざわざ後から作ってまで
 して、東京裁判を裁くという・・卑劣な、戦勝国のアメ
 リカのやりたい放題のやり方で、東京裁判を裁いた」。
  この不当な、また、不法な、戦勝国のやりたい放題の
 東京裁判でさえ、この南京事件はあったとした。
  南京事件をデッチアゲタ。
  そのデッチアゲの南京事件の中国の犠牲者は「2万人」
 と言った。
  それを、中国の現在の政権・中華人民共和国(中共)
 は、だんだんその犠牲者数を増やして行った。
  「無いもの」を「ある」と言い・・そして、その数を
 だんだん増やすという行為を行なった・・よくあるパタ
 ーンを行なった。
  そして、今・現在に至った時点で、その犠牲者数を「
 30万人」と言っている。
  中共の好きに膨らませたこの30万人も、この後には、
 さらに、大きく風船のように膨らんでいくだろう・・
  だが・・この嘘つきの中国の中共の味方をする書物で
 さえ、この数を10万人としている。
  まったく言いたい放題の・・信用の出来ない中共など
 となっている。
  しかし、お粗末な事に、この中共に、ゴマすりをよく
 する「村上春樹は、本で40万人と書いた」・・
  村上春樹よ! 証拠を示せ! この嘘つきめ!
  この一件は、アメリカが、中国軍の最高指揮官の蒋介
 石(現政権の共産党軍ではない)を・・、
  そして、その司令部の最高将校の重要要員を、「救出」
 の名の下に、戦い真っ最中の南京から連れ去った・・
  このために起きた「中国軍の大混乱が原因」で、この
 大混乱・大混戦の原因は、アメリカが作った。
  また、この様に卑劣な参戦をしていたアメリカ軍こそ
 が、「東京裁判で裁かれるべき」だった。
  司令部の居なくなった中国軍は哀れな惨状を示した。
  当然の結果として・・乱れに乱れて、中国軍兵士は逃
 げ惑った。
  惑い、そして、逃げる自国の兵士を「逃げるな」と、
 置き去りにされた中国軍の下級将校たちは、自国軍の兵
 士へ向かって狙い撃ちをした。
  この様な卑劣な事態が起きた。
  東京裁判では隠された・・
  卑劣な裁判だった・・
  この様な南京攻略戦は、様々な事態の中で戦われた。
  また、卑劣にも、中国兵は、逃げられないと悟ると、
 軍服を脱いで、民間人の中に隠れた。
  これでは、民間人に被害が及んでしまう・・民間人が
 戦闘員と見間違われてしまう・・しかし、助かりたい中
 国兵は、この様な卑劣な事までした。
  そして、そこから日本兵を狙撃するという戦い方もし
  その民間人の中にある銃の探索が行われた・・当然・・
  民間人へ被害が及ぶことが分かっていても、中国兵は、
 民間人の中に卑劣に隠れた。
  当然、その民間人に隠れている中国兵と戦わざるを得
 ないという日本軍の事態だった。
  この様な様々な中の南京攻略戦だった。
  「修羅の状況」である。
  アメリカに援助された中国・蒋介石・国民政府軍は、
 「重慶」という中国の奥地へ拠点を移した。
  新しい都とした。
  これは、日本を叩きたいアメリカが、「日本の消耗」
 を狙っていたのだった。
  そして、アメリカは、延々と「援蒋ルート(蒋介石の
 中国軍を援助するルート)」を使って、厖大(ぼうだい、
 非常に大きく、多量なこと)な武器や弾薬を中国軍へ援
 助する。
  「日本との戦争ありきのアメリカ」
  そして、この先の第二次世界大戦ありきを決めてかか
 っているアメリカだった。
  この事の初め・・元々、アメリカは、厖大な武器・弾
 薬を支援して、中国・蒋介石軍に、上海を大軍で包囲さ
 せていた。
  その様な形で、中国・蒋介石軍は日本に迫って来た。
  上海の国際租界の中の日本租界へ向けて攻撃を開始し
 て来た(1937年8月13日、第二次上海事変)
  この時から、そもそもの戦いは始まった。
  アメリカの支援の下で、中国・蒋介石軍が、先に戦争
 を開始した。
  この武器・弾薬を与えて「アメリカが、焚き付けて始
 まった」・・その様な戦いだった。
  ルーズベルトが、第二次世界大戦がはじまったとき、
 「戦争を作った」と言ったが・・まさしくこの時以来の
 ことだった。
  キリスト教に偏して、日本を貶めてばかりいるNHK
 は、この事を隠し、まったく、この様な事を放送しない。
  この時、NHKはじめ日本のマスコミは、「戦争を煽
 った」。
  この時、上海事変で、蒋介石軍の攻撃を受けて、日本
 は戦い・・、
  そして、この戦いを・・日本が収めたとき・・、
  日本は、この時点で終わらせようとした。
  世論には、戦争を仕掛けた中国の蒋介石への思いに、
 「撤退し、逃げる蒋介石軍を追討するか?否か?」の判
 断において、国内には賛否の両論があった。
  この様に揺れている時に、NHKはじめマスコミは「
 囃(はや)し立てた」。
  このため、南京への追討否定派の意見はなくなった。
  NHKはじめ日本のマスコミは、常に、日本の戦いを
 煽り立てた。
  そして、進軍が決定すればすれで・・その進軍の様子
 を、「微に入り、細に入り報道」して「煽った」。
  そして、戦後の1948年11月13日・・、
  東京裁判の南京事件の責任者とされた日本の将軍に・・
 死刑判決がなされると・・、
  朝日新聞は、自らが勝ち誇ったように、「この一訴因
 で絞首刑」と記して報じた。
  NHKとこの朝日新聞は、今・現在、自社の一室を中
 国へ与えるという特別な事をしている。
  嘘の慰安婦問題をデッチ上げた朝日新聞と、そのNH
 Kは悪である。
.
1937年12月16日、中国の南京において、中国軍は、一般人
 民の中に隠れて、一般人民を卑劣にも盾にして、日本軍
 を狙い撃ちした。
  その掃討が、この日まで続いた。
  盾にされた中国の一般人民は、たまったものではなか
 った。
  南京での中国兵は、卑劣な行為である「軍服を脱いで
 戦う事をした」。
  軍服を着ていない一般人が戦うということではなく、
 今まで軍服を着ていた中国軍人が、その軍服を脱いで、
 一般人のふりをして戦った。
  軍服を着ていた中国兵が、着ている軍服を脱いで、人
 民の中に隠れて、日本軍と戦った。
  人民を盾とする卑劣な戦い方をする中国兵だった。
  日本軍は、その掃討(そうとう、残っている敵兵を撃
 ち払うこと)を行なったが、掃討戦は、1937年12月16日
 まで続いた。
  人民の中に隠れた卑劣で卑怯な中国兵、盾にされた中
 国人民・・この一般の中国人に犠牲者が出ない訳は無か
 った。
  上海戦から南京戦までの日本の戦死者の総数は24,000
 名に達した(戦病死者を含む)。
  この数は、日本軍の最高司令官である松井大将の日記
 にある数字で、ほとんどの戦死者が上海戦によるもの。
  一方、中国側のデーターについては、国民党軍軍政部
 長の何応欽上将の軍務報告に33,000名とある。
  何しろ、中国軍は、一般人民を盾にして、その人民の
 盾の陰から日本軍を狙撃するという卑劣な戦い方をした。
.
1943年、ソ連のスパイ機関が、アメリカ国内からソ連のモ
 スクワへ、スパイした内容を報告するのを、アメリカは
 知った・・そして、その傍受をする。
  この様な事があったと、1995年になって「VENON
 A(ベノナ)文書」が公表された。
  この文書が公開され始めて、戦中から戦後にかけて、
 この様なコミンテルンが、アメリカ国内で盛んに活動し
 ていたことが分かって来た。
  (参考)コミンテルン:共産主義インターナショナル
      Communist Internationalの略称。
      第3インターナショナル、第3インターとも呼
     ばれる。
      1919年3月にモスクワに創設され 1943年5月ま
     で存続した各国共産主義政党の国際統一組織。
      第1インターナショナル (1864年~1876年) 、
     第2インターナショナル (→社会主義インターナ
     ショナル、1889~1914) の崩壊後、V. I.レーニ
     ンらは、第1次世界大戦中から、新しい第3イン
     ターナショナルの創設を目指して活動を続け、
     30ヵ国の共産主義諸政党あるいは革命的組織の
     代表50余名をモスクワに集めて、1919年3月2日
     ~1919年3月6日、コミンテルン第1回大会を開い
     た。
      コミンテルンは、第2インターナショナルに比
     べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、
     ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
      また、民主的中央集権の組織原則をとり、コ
     ミンテルン執行委員会の指導のもとに活動する
     ことが定められた。
  そして、アメリカでのその実態が明らかになった。
  これは、カーター・クラークというアメリカの将軍が、
 ルーズベルト大統領にも秘密にして始めたプロジェクト
 だった。
  アメリカ陸軍の超秘密の暗号解読機関が、ソ連情報部(
 KGB、GRU)が、アメリカ国内からモスクワの本部
 に、報告する電報を傍受し、解読していた。
  解読作業は、1943年から始まり、1945年位から進捗す
 る。
  すると、ソ連のスパイが、ぞろぞろと判明した。
  国務省や財務省の官僚をはじめ、官庁のスタッフ、そ
 して、知識人、映画関係者、作家など広範囲な人のソ連
 スパイの存在が明らかになった。
  今・現在も、日本に盛んに中国の工作員が、日本に潜
 り込んでいるが、このアメリカの様な事になっていると
 言える。
  今・現在、沖縄県や北海道の中国化が急速に進んでい
 る。
  このベノナ文書で、ルーズベルト政権(ワシントンの
 連邦政府)に、常勤スタッフだけで200人以上、正規職員
 以外には300人くらいのソ連工作員(スパイやエージェン
 ト)が居た・・この事が確定的に判明した。
  (参考)エージェント:(1)代理人や代理店。また、
     仲介業者。(2)国家の秘密業務で働くもの。
  この影響が、1933年から1952年の約20年間、ルーズベ
 ルト大統領政権から、次のトルーマン大統領政権にまで、
 ソ連に繰られていた。
  今の日本も、非常に注意しなければならない時にある。
.
1979年1月、日米・コンピューター開発競争・・日本潰しの
 IBMスパイ事件へ
  1979年1月、IBMは、従来の中・小型コンピューター
 の5倍から6倍という抜群のコストパフォーマンスのI
 BM4330を発表した。
  これは、プラグコンパチブル機に対抗してそれらに致
 命症を与えるに充分な価格設定とおもわれた。
  事実、このために有力なコンパチブルメーカーであっ
 たアイテル社は痛手を負い、関連部門をナショナルセミ
 コンダクタへ売却した。
  そればかりか、IBMとコンパチブルでないイギリス
 のICL(International Computers Ltd.)も、主力工場
 であったウインズフォールド工場を閉鎖する事態におい
 こまれた。
  ところが、日本のメーカーは、わずか1ヶ月遅れで対
 抗機種FACOM130Fを出荷した富士通をはじめと
 して、各社ともIBMに追随してきたのである。
  しかも、1980年11月、IBMの特に強い超大型コンピ
 ュータの分野でも、IBM3081D(9.5MIPS)を発表
 した時すでに、日立は10.2MIPSのM200Hを、
  そして、IBMのコンパチブルではないが、日本電気
 のACOS1000は15MIPSという当時の最速の機種を
 発表しており、IBMは、日本のコンピュータに先を越
 されていた。
  この様に、日本のメーカーは、すくなくともハードウ
 ェアについては、IBMの技術に追い着き・・、
  半導体チップでは、日本の方が信頼性などの点で優れ
 いるとも言われるにまでに至っていた。
  そこで、IBMは、日本のコンパチブル機を振り切る
 決め手として、基本ソフトウェアであるOS(オペレー
 ティング・システム)を解析しにくくすることにした。
  それまで、磁気テープで供給してきたOSの機能を一
 部ファームウェア化してしまった。
  こうすれば、コンパチブルメーカーはOSを解析する
 までに相当時間を必要とする。
  1981年12月、こうして、この8000語ほどファームウェ
 ア化されたOSをもつIBM3081Kを発表すると共に、
 3081が、31ビットアドレッシングを採用している新しい
 アーキテクチャであること明らかにした。
  そして、IBMは、アーキテクチャが変わっても360シ
 リーズ以来のアプリケションソフトを実行できる新しい
 OS、MVS/SPを提供した。
  この31ビットアドレッシングと、新OSの高度なファ
 ームウェア化は、コンパチブルメーカー対策としては強
 力で・・、
  富士通、日立が、このファームウェアを解明するには
 2年はかかるとみられた。
  そのため、あせった日立が、新OSのソースリストを
 中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのを、
 FBIのおとり捜査にひっかかり摘発されたのが、1982
 年6月23日だった(IBMスパイ事件)
  この結果、IBMは、日立に多大な賠償金とIBMの
 技術情報が使用されているかどうかの製品検査権を認め
 させた。
  これにより、IBMは、日立の動向を掌握することが
 でき・・、
  いざとなれば、日立にコンパチブル機を作らせないこ
 ともできることになった。
  また、IBMは、この事件に直接関係なかった富士通
 に対してもOSの酷似をもって、富士通を訴え、実質的
 に著作権を認めさせた。
  日立や富士通は、IBMコンパチブルの路線をとる事
 になって行く。
.
1982年6月22日、IBM産業スパイ事件(アイ・ビー・エム
 さんぎょうスパイじけん)は、1982年6月22日、日立製作
 所(以下、日立)や三菱電機(以下、三菱)の社員など
 計6人が、米IBMの機密情報に対する産業スパイ行為を
 行ったとして逮捕された事件である。
  この事件は、各日本メーカーとIBM米本社との間の
 事件で、同日本法人である日本アイ・ビー・エム株式会
 社は無関係であり、同社関係者にも寝耳に水の事件であ
 った。
  IBMと日立は、翌年・1983年に和解した。
  また、1984年より、当初は当事者外であった富士通と
 IBMの交渉も進められ、1988年に和解した。
  1981年、IBMは、アドレスを31ビットに拡張し
 (System/370-XA)、オペレーティングシステム (OS) の
 一部をファームウェア化して互換機を作りにくくしたメ
 インフレームコンピュータの3081K を発表した。
  互換機メーカーであった日立は、 3081K に関する技術
 文書をNAS(ナショナル セミコンダクターの汎用コンピ
 ュータ部門で、日立からOEM供給を受けていた)から入手
 した。
  一方、かねてからコンサルティングで日立との取引が
 あったペイリン・アソシエーツ社から 3081K に関する報
 告書の売り込みがあった。
  日立はその目次を見て、NASから入手済みの資料に酷似
 しており、両方の文書が何らかの共通の資料に基づくも
 のと判断。
  ペイリン社に対して、「その資料は既に持っている。
 しかし、それは一部と思われるので、他にもあるなら購
 入したい」と伝えた。
  ペイリン社の社長ペイリーは、元IBM従業員であり、
 日立がIBM3081Kの資料を入手済みであることをIBMの
 ボブ・エバンズ(当時、副社長)に通報。
  結果として、FBIによるおとり捜査が行われ、日立
 と三菱の社員が逮捕されることになった。
  刑事事件自体は、1983年2月、司法取引により決着した。
  しかし、IBMは、日立に対して民事損害賠償訴訟を
 起こした。
  ・・IBM産業スパイ事件は・・、
  日立と三菱がスパイをやった、という程度の、企業が
 行き過ぎただけの話だと思われている・・が・・、
  1959年、日本のコンピューター開発、この年には、東
 京大学が中心となって、東芝・日立が協力し、TACが
 完成した。
  (参考)TAC:Tokyo Automatic Computerは、東京
     大学が開発したコンピュータで、一般に東大と
     東芝が共同開発したとされていて、大変な難産
     の結果、うまれた。
      東芝が協力していない部分や日立製作所が協
     力した部分があり、1959年に、最終バージョン
     が完成した。
  (参考)FUJIC:富士写真フイルムにおいて開発
     された我が国初の電子計算機で、真空管式電子
     計算機だった。
      レンズ設計に使用することを目的として岡崎
     文次により開発された。
      1949年より、岡崎は研究を開始した。
      1952年3月から、メモリ関係の研究と並行して
     全体の組立てが行われた。
      1955年11月に、電子通信学会電子計算機研究
     専門委員会の見学会で、動作のデモンストレー
     ションが行われた。
      1956年3月初めに完成し、栄誉ある我が国最初
     の電子計算機となった。
      真空管を約1,700本使用した2進法3アドレス方
     式の電子計算機で、記憶装置には超音波水銀遅
     延線(255語)が採用された。
      論理回路のクロック周波数は約30KHzであった
     が並列演算回路を採用し、加減算0.1ms,掛算1.6
     msと、当時としては比較的高速であった。
      目標はレンズ設計において人手計算の1,000倍
     であったが、約2,000倍の性能を実現した。
      2年半の間小田原工場で社内外の計算に使用さ
     れ、その後、早稲田大学に寄贈され、現在は国
     立科学博物館に保存されている。
  上記の様に、日本は、コンピューター開発の先端を歩
 んでいた。
  国の予算をつぎ込んだ国家プロジェクトとしても進め
 られ、目標は大きく野心的でさえあった。
  研究課程は難航し、何度も設計変更を繰り返した。
  1964年には、通産省の予算で富士通・沖電気・日本電
 気が共同でFONTACを作成した。
  (参考)FONTAC:年々輸入が増大していた大型
     コンピュータ分野に、通産省は補助金を交付し
     て大型コンピュータの国産化を狙った。
      1962年7月、そのために、富士通信機製造(現:
     富士通)、日本電気、沖電気の3社により日本電
     子計算機技術研究組合が設立された。
      FONTAC(Fujitsu-Oki-Nippondenki-
     Triple-Allied Computer)は、この3社の3年に
     わたる共同研究によって完成された大型コンピ
     ュータだった。
      1964年11月に完成し、日本電子工業振興会に
     納入された。
      FONTACシステムは、主コンピュータと
     して高速大容量の記憶装置と多数の入出力チャ
     ネルを持つ大型2進計算機を、衛星コンピュータ
     に可変語長のFONTAC Sub Iと固定語長のFONTAC
     Sub IIを使用し、主コンピュータと衛星コンピ
     ュータは密接に結合された。
      FONTAC Centralは、1語42ビットからなる2進
     法のコンピュータで、固定小数点の数値は、デ
     ータ36ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビッ
     ト、浮動小数点の数値は指数部9ビット、仮数部
     27ビット、フラグ4ビット、パリティ2ビットよ
     り構成された。
      記憶装置として30mil/サイクルタイム2.2μs
     の磁心記憶を使用し、最大65,536語の容量を実
     現し、演算速度として固定小数点加減算/乗算
      4.4μs /25.2μs,秒浮動小数点加減算/乗算
      15.4μs /30.8μsの性能を有した。
  1962年7月、この共同研究で開発された技術を基に、
 CPU(中央処理演算装置)を担当した富士通信機製造
 (現:富士通)は、FONTAC Centralを一部改良し、FACOM
 230-50として商用化した。
  1964年11月、FONTACは、この3社の3年にわたる共同研
 究によって完成された大型コンピュータで、1964年11月
 に完成し、日本電子工業振興会に納入された。
  この頃から、各社が「コンピューターの作り方」を理
 解し、独自開発を開始した。
  日立のHITAC、富士通のFACOM、日本電気のNEAC、東芝
 のTOSBAC 、三菱のMELCOM、沖電気のOKIMINTAC・・
  コンピューターは、これから確実に産業の中心となる
 というのは明らかだった。
  1970年代初頭、IBMは、巨大メーカーに成長しつつ
 あった。
  日本国内だけで、6社も、互換性のないコンピュータ
 ーが乱立していて、これでは、日本のコンピューターは、
 大企業に潰されてしまうリスクが存在した。
  通産省は、「国内で、IBMに対抗できるコンピュー
 ターを育てる」ための方策を取った・・それは・・
  1) IBMと技術提携を行わない、IBM互換機路線
  2) IBMに対抗できる大企業の互換機路線
  3) 日本独自路線
  2 の大企業は、ハネウェル社。
  1960年代、アメリカには、8つのコンピューターメー
 カーがあった(「IBM と7人の小人」と呼ばれた)
  ハネウェルはその一つでありながら、1970年に MULTICS
 の技術を持つGE社と合併し、力を伸ばしていた。
  通産省は、国内の各社は上のいずれかの道を選び、提
 携することが求められた。
  富士通と日立はすでにIBM互換機を作成していたた
 め、互換路線を選んだ。
  日本電気はすでにハネウェルと提携していた。
  東芝も、すでにGEと提携していましたが、GEがハ
 ネウェルに吸収合併された。
  そこで、日本電気と東芝も提携し、ハネウェル互換路
 線を選んだ。
  三菱・沖電気は「取り残された」形で提携し、独自路
 線を歩むことになった。
  富士通と日立は提携し、技術的な交流は図りつつもお
 互い独自に、IBM System/370 の互換機を作成していた。
  (IBM との技術提携はない)
  ただし、IBM で System/360 (370の旧世代機)を設計
 した技術者で、後に独立したジーン・アムダールの会社
 と富士通は提携し、技術的ノウハウを得ていた。
  1981年、IBM はこうした「互換機」が世界中で増えて
 いたため、設計を一部変更して、性能を上げるとともに
 互換機を作りにくくした、System/370-XA を発表した。
  日立は、この「設計変更」の詳細を入手しようとして、
 IBM のおとり捜査に引っかかった。
  1982年、社員5名が逮捕され、この時、三菱社員1名
 も逮捕された。
  三菱は、当初、「独自路線」グループでしたが、この
 頃には余りに強くなった IBM の互換機を作ろうとしていた。
  この刑事事件は、司法取引により決着した。
  しかし、IBM から、民事損害賠償訴訟を起こされた。
  System/370-XA は、各種回路が特許で守られていたう
 え、それまでは後から読み込まれるソフトウェアであっ
 た「OS」の一部を、ハードウェア内に持つようになって
 いた。
  System/360 や 370 の頃は、同等の機能の回路で置き
 換えも可能でしたが、370-XA の特許は強力で、簡単には
 回避できなかった。
  また、BIOS に関しては単純な回路ではなく、プログラ
 ム…著作物です。
  著作権の場合「類似したもの」を作ったとしても、盗
 作としてアウト。
  少なくとも、この時点では IBM はそのような認識で動
 いていた。
  ずっと後に、IBM・コンパックが BIOS の著作権を争い、
 現在は違う認識となっている。
  結局、日立は IBM の許可を得ずに機械を販売しないこ
 と、訴訟費用は全部日立が負担すること、ソフトウェア
 やインターフェイスなどに関して、使用する対価を払う
 こと…などを条件に和解した。
  日立からすれば、IBM 互換路線に「お墨付き」を貰っ
 た格好で、この後も互換路線を進んだ。
  富士通も日立の訴訟に危機感を持ち、同様の取引を結
 びますが、徐々に IBM 互換路線から非互換路線にシフト。
  いずれにしても、通産省の狙った「独自技術による互
 換」という路線は無くなってしまった。
  この頃は、IBM が強くなりすぎてハネウェル社もコン
 ピューターから事実上の撤退。
  特に、吸収合併したGEの互換機は消滅し、GE互換
 だった東芝も撤退、同じグループだった日本電気にコン
 ピューター部門を売却した。
  独自路線だった三菱・沖も、先に書いたように三菱が
 IBM互換路線に進もうとして、スパイ事件に発展した。
  沖電気は、コンピューター本体は断念して、周辺機器
 製造に特化した。
  国策だった3グループ化は大失敗となった。
  日本のコンピューター産業は死んでしまう…。
  「IBM産業スパイ事件」とは、そうした危機的な状
 況を意味した。
  翌1983年、日本電気がスーパーコンピューターの新シ
 リーズ、SX-2 を発表します。
  この SX-2 は、世界で初めて GFLOPS を超えたコンピ
 ューターで、同時に初めてアメリカ以外のコンピュータ
 ーが速度で世界一になった機械だった。
  日本のコンピューター産業復活を狙った。
  この後、急に力を付ける日本のコンピューター業界に
 アメリカが危機感を感じ、1980年代後半から1990年代前
 半の貿易摩擦につなげて問題化する。
.
2012年3月、日本企業の大切な機密技術が、海外企業に盗ま
 れるという、流出した事例は多々ある。
  2012年3月には、工作機械大手のヤマザキマザックから
 設計図などの情報を不正取得したとして、愛知県警が中
 国籍の元社員を逮捕した。
  2012年4月には、新日本製鉄(現・新日鉄住金)が、高
 機能鋼板の製造技術を流出させたとして、元社員と韓国
 鉄鋼大手ポスコを相手取り、1000億円の損害賠償訴訟を
 起こしたりした。
.
2014年3月14日、この日の新聞やテレビなどの大手報道機関
 は、東芝のNANDフラッシュメモリに関する研究データ(機
 密情報)を韓国の大手メモリメーカーであるSK Hynixに
 提供した不正競争防止法違反(営業秘密開示)の容疑で、
 元技術者を警視庁が13日に逮捕したと報じた。
  元技術者(S容疑者)は、東芝とNANDフラッシュメモリの
 共同開発で提携してきたアメリカSanDiskの日本法人に勤
 務していた。
  この事件について、3月14日付けの読売新聞オンライン
 版では、S容疑者は、2007年4月から2008年5月にかけて、
 東芝四日市工場の管理サーバーに保存されていたNANDフ
 ラッシュメモリの研究データをUSBメモリに無断でコピー
 して持ち出し・・、
  2008年7月に、転職したSK Hynix(当時はHynix Semicon
 dcutor)に、持ち出した研究データを提供した。
.
2014年3月、技術流出・・日本政府の対応
  技術の流出防止と保護が極めて大切=東芝技術の流出
 問題で官房長官
  [13日 ロイター]菅義偉官房長官は、13日午前の会
 見で、東芝(6502.T)の技術が海外に流出したとの一部報
 道に関連し、技術の流出防止と保護が極めて大切との見
 解を示した。
  この問題について見解を求められた長官は、報道内容
 については承知しているが、個別事案についての言及は
 控えたいとした。
  その上で一般論と断りながら、「技術立国であるわが
 国にとって、守るべき技術の流出防止と適切な保護にし
 っかり取り組んでいくことが極めて大事だ」と強調した。
  政府として、知的財産戦略本部(本部長:安倍晋三首
 相)が、2013年6月に策定した「知的財産政策ビジョン」
 において技術・営業秘密の保護や強化の取り組みを打ち
 出していると語った。
  共同通信などによると、東芝のフラッシュメモリーの
 研究データを韓国の企業に不正に流出させた疑いが強ま
 ったとして、警視庁は13日までに、不正競争防止法違反
 容疑で、東芝と提携していた半導体メーカーの元技術者
 の逮捕状を取った。
.
2016年11月24日、アメリカは、中国を市場経済国と認めず 
 貿易摩擦激化へ
  アメリカ政府は23日、中国を世界貿易機関(WTO)
 協定上の「市場経済国」(自由な市場で経済運営が行わ
 れている国)とは認めない方針を明らかにした。
  日本も追随する方針。
  中国政府の優遇措置に支えられた中国鉄鋼メーカーな
 どのダンピング(不当廉売)を問題視。
  反ダンピング税を課しにくくなる「市場経済国」とは
 認定できないと判断した。
  中国は、WTO加入から15年を迎える来月の市場経済
 国移行を主張してきたが、米国の反対で事実上、不可能
 となった。・・以上・・(参考:毎日新聞)
  2017年12月12日、中国は「市場経済国」か? アメリ
 カ、認定に反対表明 WTOを試す「リトマス試験紙」
  世界貿易機関(WTO)の制度上の「市場経済国」認
 定を中国政府が求めていることについて、米国が正式に
 反対する通知をWTOに送付した。
  通商上の不利な扱いを受け続けることになる中国は反
 発しており、米中間の摩擦が再燃している。
  トランプ米政権がWTOを「機能していない」と批判
 する中、中国の認定問題は、米国のWTO脱退の引き金
 となりかねない火種となる可能性がある。
  米欧が共同戦線
  米政府がWTOに通知を送ったのは11月中旬。
  欧州連合(EU)も中国の市場経済国認定に反対して
 おり、米国は通知を通じてEUへの賛同を表明した。
  通商分野で米国とEUは対立するケースも多く、米欧
 が「異例の共同戦線」(米メディア)を張った。
  ・・以上・・(参考:産経新聞)
  アメリカは、中国を市場経済に組み入れ、そして、豊
 かになり、社会も開かれ来れば、政治システムも変化し、
 欧米的なシステムを受け入れて来ると見て、その様な意
 味からも、中国に対し甘やかす政策を取って来た。
  しかし、事は、その様な思惑の様には進展して来なか
 った。
  この問題は、今、気が付いたことではなかった・・が・・
  中国が、これまで経済を拡大できたのは、この恩恵だ
 った・・
  しかし、中国は、ありがたいという態度は表わさない・・
 心の底ではその様に思っているのかもしれない・・が・・
  そして、アメリカは、中国にはそのような態度をとっ
 ても・・日本に対しては厳しい態度を取り続けた。
  例えば、最新鋭の技術を取り上げる事をすることはし
 ても、日本へ提供をすることはしなかった。
  また、日本の企業が、最先端の技術を開発する事を妨
 害さえした。
  NECが、独自のコンピューターを開発するのを妨害
 した。
  三菱などが新しい技術を開発しようとすると、「研究
 員が犯罪を犯した」などと言いがかりをつけて阻止した。
  別の観点から見ると、アメリカは、中国を簡単に抑え
 られると見ていたと考えられる。
  中国は石油が不足している。
  代替エネルギーの開発も遅れている。
  この事例の様に、中国の技術は、アメリカからの提供
 が無ければ高度な製品が作れないなど、中国を抑え、コ
 ントロールできるとみていた。
  しかし、アメリカと中国は、これから貿易や通貨を巡
 って緊張度はさらに上がって行くと指摘されている。
.
2017年3月、日本学術会議が、大学などの軍事的研究を否定
 する声明を出した。
  軍事的研究と言ったって、この日本学術会議の人たち
 も含めて、日本人・国民を守る自衛隊などの研究をする
 ことまで否定した。
  日本国民を守る研究をしてはいけないと言い出した。
  まったく卑劣な声明である。
  「日本を攻めてくる勢力に利する行為」を行なってい
 る。
  どんな理屈があって、こんな事を言っているのだろう
 か?
  どんな論理があって、こんな声明を出しているのか?
  日本国民の命を守るという大切なことを放棄している。
  その様な研究をしてはいけないとした。
  日本国民の税金を使って日本学術会議の大学などは研
 究をしている。
  ならば、すべての研究費を辞退せよ!
  また、守るべき日本国民の税金で建てられた大学など
 の施設で研究ができるという恩恵に答えていない。
  また、日本国民から給料をもらい、自分や家族を養う
 金を貰っていながら・・この様な声明を出したという事
 になっている。
  ならば、自分の立場や給料も辞退せよ!
  まったく矛盾している、反逆している、日本学術会議
 や大学だと言える。
  そして、2018年6月9日の読売新聞によると、あろうこ
 とか?? 北海道大学という国立大学が、この日本学術
 会議の声明を受けて、防衛省の研究をしないと決めたと
 いう。
  中国や北朝鮮に、日本の存在が危うくなっているこの
 今・現在、この様な行為をしている
  (この様な事をするのは、この大学だけ)
  今まで、北海道大学は、研究をして来たけれど、これ
 からはしないとしたという。
  防衛省は、船体の摩擦抵抗を軽減する研究を、2016年
 度から委託していた。
  防衛省は、北海道大学の意向を尊重せざるを得ないと
 している。
  日本の国立大学の北海道大学・・何もかもが国民の御
 世話になっているこの大学が、この様な行為をする・・
 国民の為になる研究をしないと・・している。
  まったく理屈の立たない行為をした。
  北海度と言えば、沖縄県とともに、中国が暗躍してい
 るところ・・色々と工作をするところ。
  中国の国家的重要人物・要人が来て、中国の息のかか
 った農場を視察したりするところ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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