(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)598E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年6月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年6月10日、東学党軍と李氏朝鮮政府が、和睦
  朝鮮内で、圧政を行ない人々を虐(しいた)げていた
 政府に対して反乱を起こした東学党軍と、李氏朝鮮政府
 が、全州和約を結び、和睦した。

1894年6月10日、大鳥圭介在朝鮮公使が、陸戦隊を率い漢城
 府(かんじょうふ、ソウルの旧名)に帰任した。

1894年6月10日、山陽鉄道が糸崎駅~広島駅間が開通し、山
 陽鉄道の路線が、広島まで延長された。
  神戸駅~広島駅間の直通列車を、1日3往復の運転を開
 始した。
  2014年7月18日~8月10日に、三原駅(現:糸崎駅)~
 広島駅間開通120周年記念特別企画展が三原リージョン
 プラザで開かれた。

1894年6月11日、全州和約され、農民軍が全州を撤退した。

1894年6月12日、共同撤兵、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結。
  日本を圧迫していた清国。
  日本には、潜在的対清恐怖感があった。
  そして、朝鮮に対して、清国は、宗主権的なものを持
 っていた。
  そして、華夷(かい=中国とえびす)秩序なるものが
 あった。
  この先、日清は、戦端を開くが、明治天皇陛下は、開
 戦には非常に消極的であられた。
  (参考)華夷秩序:かいちつじょ、中国の皇帝を頂点
     とする階層的な国際関係を指す。
      古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ
     世界の中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)
     であるとの考え方に根ざす。
      具体的には、中国皇帝の恩恵を受けるために
     朝鮮など周辺の国々は貢ぎ物をし(朝貢、ちょう
     こう)、代わりに皇帝が王と認める(冊封、さく
     ほう)という形をとった。
      アヘン戦争時は、朝鮮、ベトナムなどが中国
     と「朝貢・冊封関係」を結び、中国を「宗主国
     (そうしゅこく)」と位置づけていた。
      日本は離脱している。
  (参考)清国の意識:清国の戦線詔勅(部分)には、
     下記の様に、朝鮮を属国と完全に意識していて、
     西欧列強がアジアを植民地化して行く中で、力
     を付けつつある日本を完全に排除したかった。
      そして、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留
     めたかった。
      「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属
     領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外
     共ニ知ル所タリ…」
      今(2018年)の中国も、この様な意識でいる
     のだろう。

1894年6月12日、日本の朝鮮派兵先遣隊が、仁川(じんせん、
 ソウルから40キロメートル)に到着した。
  1885年の天津条約に基づく行動。

1894年6月12日、山陽鉄道が、兵庫駅~広島駅間を開業した。
  2軸横扉の客車と荷物車の混成7両列車が、1日15本、
 昼間だけの単線運行を行った。
  岡山県内ルートでは、西大寺、玉島の港町などで、鉄
 道通過反対運動があり、やむなく、これらの市街地をは
 ずした北よりのルートに鉄道を敷設した。
  結果的に、西大寺や玉島は時代の波から取り残されて
 いった。
  この広島までの開通の後、日清戦争が起こり、山陽鉄
 道はその運搬に於いて重要な役割を果たした。
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  (今日の言葉)
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  題:真実は、解き明かされねばならない・・
    この行為は、これからの人類の行く末にも貢献すると確信する。
    そして、今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない方が良いと
    考えられる理由のない国」は・・日本だけだ。
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1818年、アメリカの『本当の奴隷解放者』のフレデリック・
 ダグラスが生まれた。
  アメリカ合衆国は、多くの黒人の方々を奴隷にした卑
 劣な歴史を持っている。
  それも、長い期間に渡って、黒人の方々を虐(しいた)
 げた。
  それも、さらに、卑劣なのは、その黒人の方々を奴隷
 という身分から解放したのは、黒人の方々の自由獲得へ
 の努力と叫びにあったのを・・、
  そしてまた、黒人の偉大な奴隷解放運動家フレデリッ
 ク・ダグラスという活動の結果、奴隷解放がやっとなさ
 れたのに・・、
  この真実の歴史をアメリカ合衆国は隠し、白人のリン
 カーンが解放したのだと虚偽の、そして、真っ赤な嘘の
 プロパガンダ(嘘宣伝)をした。
  この真の奴隷解放者フレデリック・ダグラスは、奴隷
 出身であったため、生誕日の詳細は不明で・・、
  ただ、アメリカのメリーランド州タルボット郡に奴隷
 の子として生まれた・・としか分かっていない。
  人権無視の白人アメリカは、黒人の方々をこの事でさ
 えこのように処理した。
  教育も受けさせないという法律を作った社会だった。
  当然、選挙権は夢の権利だった。
  まったく、人権無視のアメリカ合衆国である。
  また、アメリカ合衆国の最大の卑劣な所は、今・現政
 権の美化を行なっているところだ・・
  現政権の起源が『南北戦争での北軍』にあるとしてい
 る・・そして、その勝利にあるゆえに、この北軍を美化
 し、南部軍を蔑(さげす)んでいる・・そして・・、
  この時の北軍の最高指揮官のリンカーンの記念堂まで
 作って美化し、讃えている。
  南部軍の最高指揮官のリー将軍を悪漢の如くに扱って
 いて・・先ごろも、このリー将軍の銅像を壊すのだとい
 う騒ぎがあった。
  (アメリカ南部の方々にとっては「尊敬するリー将軍」
 である)
  また、当然、アメリカの初代大統領ワシントンを・・、
  アメリカ憲法などをととのえてアメリカ政治をスター
 トさせた功労者を讃えるべきであるのに・・、
  16代大統領のリンカーンが、何の理由か? 記念堂を
 作ってまでして讃えているのである。
  そして、リンカーンが「奴隷解放をした」と嘘の宣伝
 をして美化している・・
  これは嘘なのである・・アメリカは「北部も南部も」
 白人サイドから奴隷解放がなされたのではない。
  北部だって、資本家は、工業資本家は、黒人の方々を
 搾取し、奴隷身分に置いて、その労働を搾取していたの
 である。
  故に、結局、黒人の方々が、血を吐くような努力をし
 ての結果の黒人奴隷解放だったのである。
  最後まで、白人サイドは、黒人の方々を搾取し、虐(
 しいた)げる側に居た。
  キリスト教の有色人種蔑視観に洗脳された白人の人々
 からは「積極的な黒人解放エネルギー・奴隷解放エネル
 ギーは出て来なかった」。
  この黒人のフレデリック・ダグラス氏が、奴隷解放の
 エネルギーの求心力となった方々の一人であった
  彼の数々の苦労・努力を、これから明らかにして行き
 たいが・・白人社会は黒人の方々の歴史を抹殺した。
  しかし、近年、少しづつ黒人の方々の歴史が掘り起こ
 されて来ている。
  このフレデリック・ダグラス・・彼の母は、彼が7歳の
 時に亡くなった。
  彼は、色々な白人奴隷所有者へ次々と売られて行くと
 いう経験をさせられた。
  人種差別のアメリカには、種々の卑劣な法律があった・・
 その一つが、「奴隷の方々へは、教育を与えてはならな
 い」というものだった。
  しかし、このフレデリック・ダグラスは、、12歳の時、
 この法を冒(おか)してまでして、この時の女主人は、
 彼に文字を教えてくれた・・
  だが、この後、彼女の夫がこの事を禁じたため、この
 様な事は行われなくなった。
  しかし、優秀な彼は、この後、街灯の下などで、また、
 使い古した教科書などを使って勉強をし続けた。
  成長するとともに、彼は、あちこちに売り回された。
  農場で働いたり、造船所で働いたり、北部の都市奴隷
 とされたり、売り渡され、苦労を重ねた。
  1838年(20歳)奴隷の境遇から脱出を図る・・逃亡で
 ある・・そして・・
  23歳の時、『反奴隷制協会』で初の演説をした。
  また、反奴隷を訴える新聞も発行する。
  1845年(27歳)本を発行した・・
  アメリカでは、「奴隷に教養がある訳がない」とされ、
 本の発行の機会も与えられていなかった。
  たが、この本は、ベスト・セラーとなった。
  フランス語・オランダ語に翻訳もされた。
  そして、フレデリック・ダグラスは、アイルランド、
 イギリスへもわたり反奴隷運動の活動した。
  1863年(45歳)リンカーン大統領、アンドリュー・ジ
 ョンソン大統領などと奴隷解放や黒人参政権について協
 議をし、黒人の方々の当然の人権を訴えた。
  そして、黒人の方々をまとめて黒人解放の活動をさら
 に実践して行った。
  駐アメリカ占領下ハイチ国合衆国領事をも務めた。
  1872年(54歳)大統領選で、副大統領候補に指名され、
 た。
  奴隷解放者と讃えられている「子供たちの偉人伝『リ
 ンカーンの伝記』は間違っています」・・、
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが・・「間違いです」。
  彼には、「黒人奴隷を解放したい」という「希望や意
 志」は、「まったく有りませんでした」・・、
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 からその様な状況へ至った」「その様な状況を持った」
 という状況でした。
  その様に仕向けたのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』でした。
  また、その組織の働きかけがあったから、その方向に
 流れただけです・・これが真実なのです・・
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  嘘でプロパガンダ(嘘宣伝)された白人権力者たちの
 歴史・認識は代えられなければなりません・・正しい内
 容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には、「有色人種は、黒人は、人ではない」
 とみる歴史が流れて来ております」。
  この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の
 方々の奴隷解放の努力で、黒人の奴隷解放に一旦ちょっ
 ぴり至っても、直ぐに自分たちの利にとらわれ、元に戻
 ってしまうという事も起きたりした。
  悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷
 という原罪がある」と理由づけられた考え方をされてい
 ました。
  キリスト教聖書にも書かれている奴隷制は、疑問なく
 容認するという考え方にありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、当然のごとく、
 奴隷制を容認し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
 この奴隷制寡頭勢力(かとうせい【寡頭制】 少数者が
 権力を握って行う独裁的な形態)は・・、
 自分たちの利が脅(おびや)かされ、自分の意に合わな
 い相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の教義のままに行動
 した。
  その様なアメリカの中でも、共和党は、アメリカ全土
 の奴隷制反対勢力が応援し、育て、強固にした党だった。
  民主党は、奴隷制を容認する党だった。
  この様な中、1861年、南北戦争が起き、リンカーンは、
 この年に大統領に就任した。
  しかし、後代の歴史家が、「南北戦争は奴隷解放戦争」
 と位置付けしているが・・どうしてどうして・・
  この大切な時、このリンカーン大統領の大統領就任演
 説は、『奴隷財産を擁護する論理展開をするという卑劣
 な演説』だった。
  奴隷財産容認論のリンカーン大統領・・だった。
  アメリカ北部の政権は、プロパガンダをしてこの事を
 隠しました。
  リンカーンは、この様な大統領だった・・『何と愚か
 な演説なのだ』と彼に突き付けたい・・
  また、リンカーン記念堂の前に、この事実をはっきり
 説明書きした看板を立てたい。
  リンカーンの擁護派は(ようご、かばい守ること)、
 「奴隷制について、反対するか? 賛成するか? わか
 らない州が存在したから」と、筋の通らない言い訳した。
  それは嘘だ・・奴隷解放が大切な政治信条なら、この
 最大のチャンスに大きな声で、この時こそ訴えねばなら
 ない・・これが常識だ・・、
  その後の行動を見ても分かる・・
  リンカーンのその後の行動からみても、「奴隷解放の
 大統領」とは言えない。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思も
 なく、
  また、黒人の方々への人権無視や・・
  リンカーンの政治的意思の不決断もあって・・、
  また、北部軍首脳部の腐敗もあって・・北部軍は敗北
 が続いた。
  北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する
 危険にさえさらされる緊急事態にもなった・・、
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フ
 レデリック・ダグラス』だった。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認しなかった』。
  フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を
 軍務につかせよ」・・人権を認めよと訴えた。
  さらに、フレデリックは、「奴隷に対する自由が、今
 こそ、国会議事堂から全戦場の砲焔の空高く宣言されな
 ければならない」と、その行動を起こさないリンカーン
 に代わって叫んだ。
  黒人の人権を認めて・・「黒人を軍務につかせよ、そ
 して、黒人解放軍を組織せよ」・・と・・
  そして、さらに、「我等は、北部軍の兵士となって、
 南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚げるであろ
 う」と、世論に向かって叫んだ。
  しかし、愚かにも、リンカーンは、首都ワシントンが
 陥落の事態になっても・・、
  リンカーンは、黒人解放の明言を避け・・「黒人奴隷
 は漸進的に解放したい、一気に解放という事はしたくな
 い」などと黒人奴隷解放への意思表示を避けた。
  この時、卑劣にもリンカーンは、「解放された黒人は、
 アフリカかどこかに植民させたい」と考えていた。
  黒人の方たちを捨てるということ、「棄民」の考えだ
 った。
  当然、黒人の方たちから、強い反対の声が沸き起こっ
 た。
  今のアメリカの原点は、独立戦争で勝ち得た国の形に
 当然、あるが・・、
  南北戦争の北部軍に原点を持つ現政権は、リンカーン
 記念堂を建てた如く・・
  「現在のアメリカ政府をたどって行くと、『南北戦争
 時の北軍政府』へとたどり着く、行き着く」。
  それ故に、アメリカは、当時の北軍の最高位置にいた
 『リンカーン大統領』を誇りとし、「美しくしていたい」
 という気持ちが強くはたらいている・・、
  それ故に、このリンカーンに関して、プロパガンダす
 るアメリカ(北部)が見られ、存在する。
  そして、そのプロパガンダのために見えない「隠され
 た真実」がある・・
  世界の善良な方達のために、この悪影響を与えている
 部分は明らかにされねばならない。
  また、この悪行為は、回り回ってアメリカ合衆国のた
 めにも成り得ない。
  真実は解き明かされねばならない・・これからの人類
 の行く末にも貢献すると確信する。
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1882年7月23日、壬午事変(じんごじへん)
  朝鮮の首都・漢城(現:ソウル)で、この日に起きた
 事変で、親日的な閔妃(びんひ、李氏朝鮮の第26代王・
 高宗の妃)政権の軍制改革に反対して、大院君(たいい
 んくん、興宣大院君、高宗の実父)が軍隊を動かした。
  日本人軍事教官が殺害され、また、日本公使館が焼き
 打ちされたりしたが失敗した。
  この結果、済物浦(さいもつぽ)条約が結ばれた。
  しかし、この後、清国が、「朝鮮支配を強化した」。
  そして、この事変の後、清と日本の軍隊が朝鮮の首都
 である漢城に駐留することになった。
  日本の朝鮮駐留軍より、清の駐留軍の方が勢力が多く
 て強く、それを背景に、守旧派が勢力を拡大していった。
  挽回しようとした開化派は、1884年、クーデターを起
 こし、一時政権を掌握した。
  しかし、清の駐留軍が、実力行使に乗り出したため、
 日本軍は退却して、クーデターは失敗した。
  1885年、日本と清は、天津条約を締結し、両国は軍を
 撤退させ、今後、朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通
 告をすることとした。
.
1930年代、中国の国民党軍の蒋介石は、アメリカやドイツ
 から新型兵器を購入した。
  アメリカは、軍事顧問台を派遣した。
  アメリカの介入が始まる。
  また、これとは別に・・、
  1937年5月1日、アメリカ陸軍航空隊大尉のクレア・L・
 シェンノートは、国民党航空委員会の要請で、中華民国
 空軍の訓練教官・顧問となった。
  蒋介石は、空戦経験の豊富な彼を航空参謀長として遇
 する。
  対日戦について、大戦隊を持つことを蒋介石へ進言し、
 アメリカ政府もこの計画を承認した。
  第二次世界大戦が始まる以前から、戦闘機、武器、パ
 イロットを含むアメリカ正規軍の派遣が始まった。
  ルーズベルトが承認しているれっきとしたアメリカの
 対日宣戦布告であった・・アメリカは秘密にした。
  この事が「ばれて来る」と、初め、ルーズベルトは、
 「ボランティアだ」と嘘を言ったが・・、
  れっきとしたルーズベルトのサインした命令書が、そ
 の後、発見された。
  アメリカは、日本の奇襲によって第二次世界大戦は始
 まったと「嘘を言い続けて来ている」が・・
  真珠湾攻撃前に、「日本が攻めてくる」と書いた新聞
 が、ハワイで発刊されている様に・・
  また、ルーズベルトは、家族や親類に、「明日、日本
 が攻めて来る」と言っていたことも明らかになっている
 様に・・すべては、ルーズベルトの策謀の中に、第二次
 世界大戦は始まった。
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1931年9月18日、柳条湖事件が起きた→満州事変
  満州事変の発端となった柳条湖の満鉄戦爆破事件が起
 きた。
  アメリカにも支援され、さらに、国共合作が成った中
 国・国民政府は強気(つよき)だった。
  「日本を全面排除する」の方針で強気で過激になった
 国民政府は、強気の対応を繰り返した。
  この事変の2ヶ月~3ヶ月前の1931年7月に、「中村震
 太郎大尉事件」が起きた。
  日本の陸軍軍人の中村大尉は、中国の南興安嶺を旅行
 していた、正式なビザも所持しており、まったく合法的
 であったが、中国軍に捕まった。
  (参考)1930年6月27日、陸軍参謀本部員・中村震太郎
     大尉と井杉延太郎曹長が、この日に、洮索(と
     うさく)地方、蘚鄲公爺(そかくこうや)廟近
     くの村落で、奉天軍所属の中国屯墾軍第3団(関
     玉衡指揮)中国兵に捕えられスパイ容疑で、6月
     27日、同大尉と同行の井杉延太郎予備騎兵曹長
     ら4人が射殺された。
      事件は、8月17日、日本側によって公表され、
     前後して起こった万宝山事件とともに、国内世
     論が湧きたった。
      日本は、南京政府に抗議し、陸相・南次郎は
     この機をとらえて満蒙問題を解決するため、武
     力発動を辞さないと声明した。
      また、陸軍は、中国の排日的姿勢の現れとし
     て態度を硬化させ、1931年9月18日の柳条湖事件
     を発端に満州事変に突入した。
      前後して起こった万宝山事件とともに満州事
     変勃発(ぼっぱつ)の一因となった。
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1937年12月7日、蒋介石は、首都とした中国の南京の陥落が
 迫る時、アメリカ軍の手によって、この日、南京を脱出
 した。
  この様にすんなり書けば「そうか!」で終わるが・・?
  南京へ迫る大激戦が行なわれている最悪事態のところ
 で、アメリカが中国の最高指揮官を連れ去るという介入
 行為は・・、
  『中国の司令部の崩壊』を意味した。
  ただでさえうろたえていた中国兵は、司令部が、突然、
 無くなって・・「指揮系統の無い『無秩序の軍』と化し
 た」。
  そして、残された中国下士官が、その自分の命令を聞
 かそうと、自軍の兵を撃つという事態さえも起きる。
  逃げ惑い、逃げ帰る中国の自軍兵へ、「逃げるな!」
 と銃で撃つことさえ起きる。
  アメリカがやったことは、救助の名目で、戦いの中国
 中枢を崩壊させ、壊滅させるという最悪な卑劣行為だっ
 た。
  混乱状態が・・さらなる混乱となった。
  悲劇的事態が、このアメリカがやった「中国司令部崩
 壊行為」で起きた。
  また、アメリカ軍の中国への支援は、スムースに行か
 ない面もあった。
  1942年、アメリカのスティウェル将軍は、この年、軍
 事顧問団長としてジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に
 よって蒋介石の参謀長に任命され、中国に派遣された。
  しかし、その後、共産軍を賞賛し、共産軍を支援する
 姿勢を貫いたため、
  1944年、彼は解任され、彼に代わって、中国戦区の総
 司令官としてウェディマイヤー将軍が派遣された。
  この様に、アメリカは、ベトナム戦争の時も、どっぷ
 りとベトナム戦争に浸かって・・アメリカ正規軍やアメ
 リカの武器・弾薬を使って戦争をしたように、第二次世
 界大戦がはじまる前から、アメリカは、中国で日本と戦
 争をしていた。
  中国よ! 南京で中国司令部と最高指揮官たちを、ア
 メリカが連れ去って、日本の攻撃から救ったと美しく言
 うのは嘘だ。
  中国の一般兵だけが残され、それでなくても戸惑う中
 国兵が、日本兵に追われ、逃げて来る中国の一般兵を、
 中国下士官が「逃げるな!」と統制が効かなくなった自
 軍兵を銃で撃つ・・その様な行為を展示せよ・・
  『 南京事件記念館に展示せよ! 』
  アメリカが、日中戦争に秘密裏に参戦し、卑劣な介入
 をしていたことも展示し・・糾弾せよ!
  また、アメリカは、イギリスなどを巻き込んで、中国
 の蒋介石を援助する「援蒋ルート」で、中国へ武器や弾
 薬を渡し、アメリカ正規軍までが介入し、ベトナム戦争
 と同じように、アメリカ自身が、第二次世界大戦前に、
 日本へ「秘密の宣戦布告をしていたこと」も展示せよ!
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1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、『敗戦が決定的』
 な日本に、次に来る世界を試したいという気持ちが働い
 た。
  アメリカだけが手に入れた新兵器・核兵器・原爆の、
 この巨大な破壊力を世界に見せつけたかった。
  熱心にキリスト教を信仰するルーズベルトには、ため
 されるその有色人種への蔑視観のキリスト教教義に洗脳
 されて、広島への原爆投下に対する躊躇感は、まったく
 無かった。
  そのような経緯の中で、モルモットとなった日本の広
 島に原爆は投下された。
  その真っ赤な灼熱の「巨大な火の玉」の下に居た、日
 常を暮らしていた広島の方々は、原爆雲となって蒸発し、
 巻き昇って行った。
  その巨大な原子雲は、昇天して行った。
  悶(もだ)え苦しみを内へ秘め、天へ昇って行った。
  また、その下にもまだ、一瞬にして変わり果てた人々
 が、もだえ苦しむ数多(あまた)の人々が居た。
  それらの情景の中の一つが・・下記だ・・、
  若い、その女性は、木の根方(ねかた、木の根もと)
 へ来たら、その木を背中にして座り、抱いていた乳飲み
 子(ちのみご)へ乳をあげた・・
  自分に、その先が無いと悟っていた・・間近な死を悟
 (さと)っていた。
  その状況を見た方が、その直前までそうだったのだろ
 うと涙した姿だった。
  木の根方で、一生懸命、乳を飲む子の・・その母親は、
 こと切れていた。
  (事切れる:息が途絶える。生命が終わる)
  広島に原爆が落ちた直後の・・この様な光景が話され
 た。
  あまりにも・・悲惨な・・情景だった。
  乳飲み子に気付いた・・自身も大きな傷を負い・・気
 づき発見したその方は、その若い母親がこと切れている
 事に気付いた・・
  自分自身の命は、長くないと悟った女性は、自身の子
 の命は永遠に続きますようにと祈って、我が子に乳を与
 えたのだろう・・我が子へすべてを与えたいと祈ったの
 だろう・・。
  我が乳を、最後の我が乳を、一生懸命に、飲む我が子
 に、せめてもの安心を得て、その安心を頼りとして、こ
 の母は、命を閉じたのだろう・・絶命したのだろう・・、
  悲惨な事に、母の死を知らぬこの子は、一生懸命、乳
 を飲み、そして、発見された・・発見したその方も被爆
 し、地獄図となった広島の中でさ迷い、必死だったでし
 ょう・・この証言は複数あります。
.
1945年9月、結局、日本人の優しさが、戦後復興をさせた。
  誰もが、確かに、生きるのに必死だった。
  明日(あした)食べるものがない、米が無い・・との
 日本だった・・
  米が無い、なんて、よく言うが、もともと、米なんて
 いう上等なものはない。
  麦だった・・銀シャリが食べたいが庶民の夢だった。
  寿司米(すしまい)だ、こしひかりだは、想像外の世
 界だった・・
  その麦だって・・あったら良い方だ。
  粟(あわ)や稗(ひえ)だ。
  「粟や稗だって言っても」、今の人は分からないだろ
 う。
  鳥や家畜が食べるもの・・、
  当時は、食べるものが無いので、鳥や家畜が食べるも
 のを人間が食べていた。
  また、何でも食べられるものを食べていた。 
  芋の蔓(いものつる)だ・・野の草だ・・
  贅沢なんて言ってられない・・ぎりぎりの生活だった。
  隣近所で・・「栄養失調で死ぬ方まで出た」。
  美食なんて言う世界は、「夢のまた夢」だった。
  それでも・・
  それでも・・日本人の方々の心のどこかに「優しさが
 あった」。
  巷の傷痍軍人の方々へ・・財布の小銭だが渡した人々
 が居た・・
  助け合う・・人々が居た・・
  社会はしっかり形成されていた・・
  戦争の大破壊にも・・壊されてはいなかった・・
  そのような状態の中で、皆は、助け合っていた。
  これが・・日本の戦後復興を支えた・・
  キリスト教の様に、困った時に、「(キリスト教の)
 神の義があるから」という免罪符を与えられて、「隣国
 の富を奪いに行く」という、その様な考え方ではなかっ
 た・・その様な発想は微塵も無かった。
  助け合った・・そこから・・生存を・・切り開いた。
  その優しい心で、戦後復興を成し遂げた・・日本だっ
 た。
.
1979年2月1日、ホメイニー氏が、15年ぶりに、イランに帰
 国した。
  イランは、ホメイニ氏を指導者とする1979年のホメイ
 ニ革命以後、イスラム法学者の指導の下にシーア派イス
 ラム教の厳しい戒律が守られて来た。
  それまでのパーレビ2世国王(モハンマド・レザー・
 シャー・パフラヴィー)は、自由主義的な立場を取り、
 アメリカと親密な関係を築いて来ていた。
  しかし、冷戦下において、欧米や日本などの先進国と
 の石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた
 近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後
 の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入る
 と破綻した。
  それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政
 治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下
 した。
  モハンマドは、テヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外
 出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの事態
 は収拾がつかず・・、
  1979年1月16日に、休暇のためにイランを一時的に去る
 と称して皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后
 や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハ
 マ、メキシコを転々とした。
  ホメイニーは、1979年2月1日に、15年ぶりの帰国を果
 たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メフディ
 ー・バーザルガーンを首相に任命した。
  その後、モハンマドが任命したシャープール・バフテ
 ィヤール首相の指揮下で皇帝への忠誠を誓っていた帝室
 親衛隊、および、イラン陸軍の空挺部隊と内務省の治安
 部隊が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍内部
 の不満分子と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧され
 た。
  バフティヤール首相や帝室親衛隊隊長らは逮捕され、
 バフティヤール首相は、2月13日に、正式に辞任した。
  その後、イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎
 に置いたイスラム共和制をしいた
  その為、アメリカは、ホメイニ革命以来、反イランの
 方向を取った。
.
2018年2月20日、「中国製スマホ使うな」米情報機関、衝撃
 勧告のウラ 日本でも販売
  CIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)など、
 アメリカの情報機関が、アメリカ国民に対し、中国製ス
 マートフォンを使うべきではないと勧告したと、アメリ
 カCNNが報じた。
  情報を不正に改竄(かいざん)したりする機能などが
 あるためというが、問題視された中国企業のスマホは、
 日本でも販売されている。
  大丈夫なのか・・?
  CNN(15日、日本語版)の記事によると、アメリ
 カ上院情報委員会で13日、CIAやFBI、NSA(
 国家安全保障局)、DIA(国防情報局)の高官が証言
 に立ち、
  中国のスマホメーカーが、アメリカ人ユーザーの安全
 を脅かすという見方を示したという。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、同委員会での
 証言で、企業や自治体などで、中国の「ファーウェイ」
 や「ZTE」の製品を使うことを問題視する理由につい
 て説明。
  製品の「情報を不正に改竄したり盗んだりする機能」
 や「密かにスパイ活動を実施する機能」を指摘したとさ
 れる。
  CNNは、「(米政府は)中国政府による情報収集活
 動に利用されることを懸念」とも報じた。
  衝撃的な内容だった。
  (参考)CNN:シーエヌエヌ、Cable News Network。
      タイム・ワーナーの一部門であるターナー・
     ブロードキャスティング・システムが所有する
     アメリカのケーブルテレビ、および、衛星テレ
     ビ向けのニュースチャンネル。
      1980年に、テッド・ターナーによって、世界
     初の24時間放送するニュース専門のチャンネル
     として設立された。
      ジョージア州アトランタに本社を置いている。
.
2018年4月19日、YAHOO!JAPANニュースに記載れていた「危
 ない中国食品 2018[第2弾] 最新回収事件」(文春オンラ
 イン)
  チキンナゲット販売中止以来、中国食品に事件がない
 と思ったら大間違い。
  回収事件は、昨年も、今年も、起きている。
  なぜ中国食品の品質は向上しないのか?
  回収事件の当事者や検疫に引っかかった業者の「告白」
 から浮かび上がるのは、相も変らぬ悲惨な現場の実態。
  まず、次のリストを・・
  日本マクドナルドの中国産チキンマックナゲット販売
 中止事件(期限切れ鶏肉の使用)が起きた、2014年7月以降
 の中国食品「回収事件」をまとめたもの。
  回収された商品名と当該企業の実名を可能なかぎり記
 載している。
  日本中の関心を集めた事件の後も、中国食品が問題を
 起こし続けていることがわかる。
  先週号で紹介した食品衛生法の違反は、港の検疫所で
 基準を超える細菌数や農薬が見つかったもので、いわば
 水際で上陸を食い止められた事例。
  幸いなことにいずれも日本の消費者の口に入ることは
 なかった。
  それに対し、今週取り上げる「回収事件」は、検疫所
 の目を逃れ、いったん日本の市場に出回った食品にあと
 から違反が見つかり、市や保健所などが回収を命じたり、
 自主回収したりしたもの。
.
2018年6月4日、天安門事件きょう29年、中国で強まる人権
 弾圧(産経新聞)
  中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された
 1989年の天安門事件から、4日で29年となる。
  中国共産党は、現在も学生らの民主化運動を「政治風
 波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重
 に規制している。
  人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、
 中国の人権状況は「深刻さを増す一方」だ。
  北京出身の芸術家、楊偉東さん(52歳)は1989年6月3
 日の夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。
  当時、大学2年生。
  戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられ
 る男性が三輪自転車で搬送されていた。
  負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産
 党にやられた」とうめいた。
  楊さんは、未明に、知人の宿舎に逃れ無事だったが、
 同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの
 「再教育」を拒否し、退学処分になった。
  その後、表現の自由を求める芸術家として活動してい
 たが、昨年・2017年6月に、家族とドイツへ亡命した。
  しかし、国外でありながら、今年・2018年5月末から、
 中国人による尾行が目立ち始めたという。
  「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加する
 ことを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
  習近平指導部の下で、弾圧は強まっている。
  昨年・2017年7月に、事実上、獄死したノーベル平和賞
 受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは、法
 的根拠がないまま当局の軟禁が続く。
  今年・2018年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人
 権派弁護士の余文生氏は、2018年4月に、国家政権転覆扇
 動容疑などで逮捕された。
  妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約
 20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
  事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は、2018
 年6月1日付で、習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲
 惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒え
 ていない」と強調。
  「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
.
2018年、日本は、恐ろしいことだが、「北朝鮮の核の最前
 線に居る」・・と、認識しなければならない。
  北朝鮮は、韓国が国境を越えない限り核攻撃はしない。
  朝鮮民族の「同胞意識」である。
  北朝鮮にとっても「朝鮮統一が夢なのだ」。
  その話し合いもなされている。
  北朝鮮は、秘密裏に技術を教えてくれる中国へ「核攻
 撃する理由はない」。
  ロシアも同じだ。
  今、北朝鮮の技術で確実に届く範囲で、「攻撃しない
 方が良いと考えられる理由のない国」は、日本だけだ。
  北朝鮮の核技術とロケット技術の開発は、日本に対す
 るものだ。
  そして、北朝鮮の欲しい生存保証は、「アメリカに求
 めている」。
  だから、北朝鮮は、アメリカに対する抑止力(アメリ
 カからの核攻撃抑止)を持ちたいと考えている。
  そして、北朝鮮の核攻撃が、日本にあった場合、日本
 は、「その第一撃で潰れる」・・だろう。
  (日本は、憲法上、第一波の攻撃の後でなければ反撃
 は出来ない・・となっている・・)
  (まったく、日本人の生存を危ういものにしている憲
 法なのである・・
  「日本人の積極的生存」をないがしろにしている憲法
 なのである・・
  他国が一生懸命生存を、生き残りを考えているのに・・
 である)
  また、その第一波攻撃に対する防衛に成功する、成功
 しないにかかわらず、第二派の核攻撃が、日本に向けて
 行なわれないように、「アメリカの核の傘」が有効に働
 くか?・・である。
  アメリカの「日本への核の傘の実施」は、アメリカ自
 身への核攻撃を呼び込むことになり、実施が何ら抵抗な
 く行われる事は無い。
  そこに、実施の抵抗がある。
  「アメリカの核の傘の実施は、一旦、始まったら、機
 能しない」。
  始まるまでの脅し・・これを大いに行わなければ、な
 らない。
  しかし、日本は、これを、していない。
  日本は、自前の核を持つ以外、子供などの「後の世代」
 に対して「責任は持てないのである」。
  その様な状況下に置かれているのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)597E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月、片倉兼太郎が、諏訪に三全社を設立した。
  片倉兼太郎(かたくらかねたろう、1850年1月12日~
 1917年2月13日、67歳)実業家、製糸資本家。
  現在の片倉財閥の基礎を築く。
  1850年、片倉兼太郎は、信濃国諏訪郡三沢村(長野県岡
   谷市)の豪農の家に生まれる。
  1873年(23歳)実弟・光治と共に10人取りの座繰製糸
   を始め・・さらに・・
  1878年(28歳)32釜の器械製糸場を自村の天竜川河畔
   に設置した。
   後に、光治のほかの弟や従弟らも経営に参加し、得
   られた利益を共有資産として、一族一致団結して器
   械製糸経営を拡大させていった。
  1894年(44歳)10月6日、長野県諏訪郡川岸村に川岸製
   糸所(三百六十釜)を新設し、三全社と称した。
  1895年(45歳)片倉組を結成し、片倉組本部を三全社
   に置き、ここに松本製糸場及び三全社は片倉組所属
   として垣外製糸場(百六十釜)のみを開明社に属せし
   めた。
   兼太郎自らは、組長となり、一族の経営を統率した。
   明治後期以降、県外にも多くの製糸工場を設置して
   行き、
  1903年(53歳)以降、一族は北海道、朝鮮などで農場・
   山林経営に乗り出すとともに、両大戦間期には保険
   業、化繊工業などへの経営多角化を進めて地方財閥
   のひとつに数えられるに至った。
  1910年(60歳)60歳を超えても、「まだ尋常小学校を
   卒えたくらいにしか思っていない」と語ったという
   ほど、常に若々しく精力的な活動を続けた。
  1920年、没後のこの年に、片倉組の製糸経営を継承し
   て設立された片倉製糸紡績株式会社は、世界最大の
   製糸会社といわれた。
   末弟・佐一が養嗣子となり、初代没後、襲名して2代
   兼太郎となる。
  1934年、2代兼太郎没により、嗣子脩一が襲名し3代兼
   太郎となる。
   いかにも豪農の家と思わせる茅葺屋根の生家は現存
   している。
  ・・そして、片倉財閥は・・、
  1873年(23歳)片倉市助が、長野県諏訪郡川岸村(現
   在の岡谷市)で座繰り(ざぐり)製糸を開始したの
   を嚆矢(こうし、物事のはじめ)とする。
   「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎
   (片倉佐一)の手により、製糸業から発展する。
  1895年(45歳)片倉組を設立し、東京京橋に進出する。
   以降、業容を拡大し、一財閥を形成した。
  戦後の財閥解体で解散となる。
  創立50年を記念して、諏訪市に温泉施設片倉館を建設。
  2017年、施設は現在も現役。
   一部は国の重要文化財に指定されている。
  <参考文献>足立栗園『初代片倉兼太郎君事歴』、『片
 倉製糸紡績株式会社20年誌』

1894年5月、『西鶴全集』(博文館刊)など発禁となる。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代、国粋主義的な
 雑誌を創刊した。
  そして、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社など
 関連企業も次々と創業し、日本最大の出版社となった。
  帝国文庫、軍書、稗史(はいし、世間のうわさなどを歴
 史風に書いたもの)、人情本、黄表紙、洒落(しゃれ)本な
 どを網羅(もうら)していた。
  《真書太閤記》は、よく売れた。
  この帝国文庫が発禁処分を受けた。
  1893年3月から刊行を始めた『帝国文庫』は、江戸時代
 の歴史、小説、歌舞伎、浄瑠璃、随筆、紀行文などを収
 録した全50巻で、後に続編50巻が出版され、計100巻とな
 った。
  この当時、類例のない大規模な出版だった。
  大量廉価販売の先駆けとなった。
  本文総ルビ、各冊約1000ページ、一冊50銭・・画期的
 だった。
  好評で、多くの人たちに歓迎され、刊行を重ねた。
  出版開始の翌年・1894年5月、及び、6月に刊行した『
 西鶴全集』上下巻が、風俗紊乱を理由に発禁処分、発売、
 頒布が禁止された。
 この『西鶴全集』は、尾崎紅葉、大橋乙羽による校訂で
「好色一代男」、「好色一代女」、「日本永代蔵」などの
 西鶴の主要な作品がほとんど網羅されていた。
  あらかじめ風紀上問題になりそうな部分は○○という
 伏字とした。
  しかし、発禁処分を受けた。
  新聞に取り上げられ、『読売新聞』は、翌日に、「西
 鶴死す」という見出しで報じた。
  さらに、その後、政府の処分を批判する「西鶴全集の
 発売禁止」を掲載した。
  博文館は、ただちに「発売禁止に着き謹告す」という
 いう新聞広告を掲載し、その中において、同書の発行は
 好評を博し、初版を売り尽くして、再版に移ろうとした
 矢先だったと記し・・、
  「然れども西鶴の遺著尽く風俗を害するものにあらず、
 あに一部の貯めに其の全部を埋没するに忍びんや、故に
 他日其・・」と、将来の再出版を約束した。
  そして、1903年8月、『校訂西鶴全集』の上巻刊行で実
 現した。
  しかし、これが、また、発禁処分を受けた。
  平田禿木から西鶴全集二巻を借用して熱心に読みふけ
 った樋口一葉は、「之があると本当に心強い」と述べた。
  『西鶴の書誌学的研究』の滝田貞治は、この『西鶴全
 集』を、「小説のほとんど大部分を結集したのは、まさ
 に、西鶴復刻史上の画期的事業であった。
  それが、発禁の災厄にあったので、ますます紙価を高
 からしめた」と書いた。

1894年6月2日、閣議が、清国が朝鮮へ派兵したことを受け
 て、朝鮮へ混成一個旅団の派遣することを決定した。
   朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針ノ件
  朝鮮国内乱ニ関シ兵員派遣ニ関スル方針 右御覧ニ供ス
  明治二十七年六月六日 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 明治
 二十七年六月二日 朝鮮国乱民内ニ起リ京城駐在公使官ヨ
 リノ来電ニ拠ルニ官兵頻ニ敗レ乱民益々猖厥ヲ窮ムルノ
 勢アリト云将来乱民京城又ハ其他ノ日本人居留地ニ侵入
 スルコト無キヲ保チ難ク従テ公使館及国民ヲ保護スル為
 ニ兵員ヲ派遣スルノ必要アリ 天津条約第三款ニ依ルニ朝
 鮮国変乱又ハ重大事件アルニ当リ日支両国又ハ一国兵ヲ
 派スルトキハ行文知照スヘシトノ明文アリ故ニ出兵ニ当
 リ将来或ハ清国ト往復関係スヘキノ時機ヲ生スルモ料ル
 ヘカラズト雖、今度ノ事ハ急速ノ事変ニ係リ我カ兵ヲ以
 テ我カ国民ヲ保護スルヲ怠ルヘカラザルカ為ニ清国ト連
 合

1894年6月2日、閣議、朝鮮派兵決議して、衆議院解散。
  この時、西欧列強は植民地争奪合戦の真っ最中で、そ
 の様な世界情勢の中で、日清戦争へ至って行く・・特に、
 アフリカとアジアは、『ヨーロッパ列強(イギリス、フ
 ランス、ドイツ、ベルギー、ロシア)』のアフリカ、ア
 ジア分捕り合戦が同時進行していた。
  特に、地理的に近いアフリカは、弱肉強食の様相で、
 ヨーロッパ列強の最大の餌食となり、領土と資源・利益
 が収奪の的(まと)となっていた。

1894年6月4日、李鴻章が、朝鮮に援兵派遣指令。
  1894年の春、朝鮮の地方の小さな反乱からはじまった
 甲午農民戦争(東学党の乱)。
  この農民軍は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の
 派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を
 示した。
  李氏朝鮮政府は、袁世凱(えんせいがい、中国・清の
 軍人)の示唆により清国へ援軍を求めた。
  清国の北洋大臣・李鴻章(りこうしょう)は、これに
 応じた。
  そして、1894年6月4日、清国の陸海軍を派遣した。
  そして、1885年4月の朝鮮の甲申政変の際に、日清間
 で結んだ天津条約に基づき、清国は日本へ通告した。
  日本は、早い時期から甲午農民戦争のゆくえを注視し
 ていたが、情報は、6月2日に、朝鮮政府が、清国に出兵
 を要請するとの情報を得た。
  日本の対応も速やかだった。
  閣議を開き6000人の派兵を閣議決定し、6月5日、大本
 営を設置、6月12日、派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊
 に、既に来ていた清国軍と朝鮮の布陣となった。
 こうした状況の中、朝鮮政府は、6月10日、農民軍と和
 約を結んで事態を収拾した。

1894年6月5日、大本営を参謀本部内に設置した。
  1893年5月19日、大本営が、勅令第52号戦時大本営条例
   によって法制化された。
   そして、日清戦争において初めて設置された。
  1894年6月5日、この大本営が、東京の参謀本部内に設
   置され、
  1894年8月1日、皇居内に移った。
   その後、当時、東京を起点とする鉄道網の西端であ
   ったこと(広島駅)、また、大型船が運用出来る港
   (宇品港、現・広島港)が有ったことで、前線に向
   かう兵站基地となった広島市に移ることとなった・・
   そして・・
  1894年9月13日、大本営が宮中からこの地に移転した。

1894年6月5日、政府が、ペスト流行の調査のため、北里柴
 三郎らを香港に派遣した。
  この後、ペスト菌を発見する。

1894年6月7日、政府が、清国に朝鮮への派兵を通告し、こ
 の日、日清両国が、相互に出兵を通告した。
  1894年5月、朝鮮で甲午農民戦争が起ると・・、
  1894年6月、李朝朝鮮政府は、鎮圧のために清国に援兵
   を依頼し、そして、次いで日本に援兵を依頼した。

1894年6月7日、長崎港にペスト患者の発生したアメリカ船
 ペリュー号が入港した。
  長崎の人々の不安を呼んだ。
  ペストが怖い病気であるという事は知られていた。
  1899年、神戸で、ペストの疑似症状で13歳の少年が病
   死した時は、新聞は、「ペスト、神戸に侵入」の見
   出しでこれを報じた(「国民新聞」1899年11月11日
   付)
   周辺諸国からの、日本へのペスト来襲を懸念した政
   府は・・、
 1899年11月18日、官報号外で勅令第434号を公布、内務大
  臣は、伝染病予防のために必要と認めるときは物件の
  種類を限りその輸入を禁止できることとした。
  そして、同日、これを施行した。
  勅令公布と同時に、内務省は省令第54号を発令、ペス
  ト予防のため、インド・清国諸港・香港・台湾からの
  襤褸(ぼろ、使い古しの布)・古綿・古着・古紙・古
  皮革・古羽毛類の輸入を禁じた(「国民新聞」1899年
  11月19日付)
  そして、この年・1899年、大阪株式市場で株価が下落
 したが、その原因は、ペストの流行とその検疫励行によ
 って物流や人の移動が阻害されたためと噂された。
  事実、ペストの侵入地と目された神戸付近と、その以
 西の鉄株は、特に売り方が多かった(「国民新聞」1899
 年11月19日付)
  1899年のペスト患者は、「時事新報」(1900年1月1日
 付)によると、総計49名(内・死亡40名)で、内訳は、
 神戸市22名(内・死亡18名)、大阪市21名(内・死亡17
 名)、姫路で1名、そのほか広島・福岡・和歌山・長崎・
 静岡で死亡者各1名ずつと発表された。 
  このままでは、ペストが、神戸・大阪・岐阜を経てや
 がて沼津に至り、鉄路を伝わって東京へ侵入するやも知
 れない・・、
  そう危惧した松田東京市長は、一つの奇策を1900年12
 月27日の東京参事会に提案した。
  それが、鼠20万匹の買い上げ作戦であった(「報知新
 聞」1900年12月30日付)

1894年6月9日、清国軍が、朝鮮の牙山(あさん)に上陸し
 た(日本は6月12日) (6月8日説あり)
  牙山は、ソウルより南に85km・大田広域市より北北西
 65kmに位置している。
  1894年6月8日、葉志超(ようしちょう)総督と、聶士
 成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵
 約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した。
  1894年7月24日時点で3880名に達した。
  (参考)聶士成(じょうしせい):清の軍人。
      日清戦争の際には、提督:葉志超に従って朝
     鮮に赴き、牙山に駐屯した。
      遼東では、大高嶺一帯で日本軍の旅団長・富
     岡三造を戦死させるなど勇戦し、直隷提督に任
     命された。
      下関条約後、清朝は、陸軍の軍制改革を行い、
     北洋陸軍を武衛軍と改め、聶士成率いる30営を
     天津近郊の蘆台に駐屯させ、ドイツ式の軍事教
     練を行った。
      1900年、義和団の乱が発生すると聶士成は、
     鎮圧に努め、京津鉄道を保護した。
      八か国連合軍が侵攻すると、6月13日より天
     津の守備に就いたが、7月9日に戦死した。
      後に、忠節の諡号を贈られた。
  (参考)山西太原:たいげん、中国の山西省の省都。
      黄河の支流、汾河(ふんが)の東岸にあり、製
     鉄・機械工業が盛ん。
      明代に建造された正方形の城壁が残る。
      人口、行政区256万(2000年)
.
  (今日の言葉)
.
  題:規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
    アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
    アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり・・
.
1866年8月16日、ジェネラル・シャーマン号事件
  1866年7月、アメリカ合衆国の帆船であるジェネラル・
 シャーマン号(武装商船)が、李氏朝鮮の羊角島に来航
 し、事件を起こした。
  目的は、通商を求めたとされる・・が・・、
  朝鮮住民の方々が殺戮され、略奪を受けた。
  これに対し、朝鮮側は焼き討ちをし、撃退した。
  当初、朝鮮側の平壌の地方官は、難破船として処理し、
 食糧や薪・水を支給し、退去を命じる方針だった。
  しかし、朝鮮側の使者の舟が、シャーマン号側によっ
 て転覆させられ、使者は捕らえられた。
  そして、さらに、沿岸の朝鮮住民が砲撃を加えられ、
 川を遡行しはじめられた。
  この異常行動に、朝鮮側も攻撃を開始し、数日間の交
 戦状態となった。
  しかし、シャーマン号は座礁し、動けなくなったとこ
 ろを・・、
  1899年9月20日、焼き討ちした。
  そして、乗組員全員を殺害した(焼死や溺死との説も
 ある)。
  1867年1月、アメリカは、アジア艦隊を向かわせ、交渉
 させた・・この交渉は、数度におよんだが黙殺された。
  1871年、アメリカは、この事件の謝罪を求め、再度、
 アジア艦隊の軍艦3隻を向かわせた・・そして、朝鮮半島
 中西部の江華島で交戦した。
  しかし、アメリカは撃退され、開港交渉は失敗した。
  この結果、李朝朝鮮王朝は、一層、鎖国政策を強化し
 た。
  このアメリカのシャーマン号は、ヨーロッパの雑貨を
 積んで、通商を求める目的だったという話もあるが・・、
 平壌に散在する墳墓から宝貨を盗掘する目的もあった。
  朝鮮側は退去を求めたが、強引に開港を迫って来て、
 朝鮮の軍使や積荷を拉致(らち)された。
.
1910年8月29日、日韓併合
  日本と大韓帝国は、1905年、大韓帝国を「保護国」と
 する日韓保護条約を締結した。
  そして、この年・1910年に、「韓国併合に関する条約」
 を結び、この条約に基づいて日韓が併合された。
  1910年8月22日、韓国併合条約が、漢城(現在のソウル
 特別市)で、寺内正毅統監と李完用首相により調印され、
 1910年8月29日、裁可公布により発効した。
  しかし、今・現在における韓国の言い方は・・
  日韓併合をしてからの状況について、韓国の子供たち
 の歴史教科書にも書いているが・・、
  韓国は、「日本に虐(しいた)げられた」と、当然の
 ごとくに書いている。
  これ等の事は、後から立場が変わってから言い出した
 ことで、条約締結時の言い方とまったく逆の言い方とな
 っている・・、
  後からでは、何とでも言えるのであるが、あまりにも
 節操のない言い方である・・
  韓国は、この様な態度は、歴史上、何度もやっている
 事であるが・・恩を仇で返すやり方となっている。
  日韓併合されて、韓国が見違えるように良くなったこ
 とは、種々のデーターや記録が示している。
  だから、日韓併合時には、その様な日韓併合状態であ
 ることが、韓国にとって都合が良かったのだ・・だから、
 条約も結んだのだ。。
  韓国は、後になって、事実をまったくひん曲げている。
  朝鮮・韓国は、江戸時代も、その様な態度を、日本に
 対してとって来た。
  そこに、中国に冊封される韓国があった。
  また、日本に虐げられたと、韓国はデーターを使って
 説明しているが、そのデーターは不確かなデーターであ
 って・・間違いデーターであることが証明されている。
  最近でも、青山学院大学の木村光彦教授の説明でも、
 その韓国の主張は否定されている。
  その1例が、日韓併合によって、韓国・朝鮮人の「米の
 消費量が減った」という韓国の主張があるが・・、
  日韓併合によって、日本が、韓国の米を持ち去った如
 くに言いたいのだろうが?・・これは違う・・間違いだ
 と木村教授は言う。
  これは、このデーターを調査した調査官自身が、デー
 ターを修正しているごとく、間違いデーターである。
  そして、減っているのでは無くて、大した変わりはな
 く・・変化はしてないのである。
  今まで、日本を貶(おとし)めたいという気持ちの韓
 国が、今まで、この間違いデーターで、プロパガンダ(
 嘘宣伝)して来た。
  日本によって、「韓国・朝鮮社会は、激しく窮乏化を
 した」と・・韓国は、自国民にだけでなく、世界へと言
 っているが、間違いデーターに基づく発言となっている。
  人口が3倍に増え、環境改善も著しく、鉄道を張り巡ら
 せ、日本国内より立派なぐらいの学校を建て、ダムを造
 り・・経済発展して、豊かになっているのに、何を言う
 かである。
  まったくひどい韓国の言い方である。
  韓国の子供たちの歴史教科書も、謝罪記事を含めて書
 き直しをしなければならない。
  逆に、日韓併合に刺激された韓国農民の方々が、主体
 性を持って努力し、米の収穫量は拡大しているのである。
  この農業の他にも・・韓国は、会社設立も認められな
 かったと言っているが、これも嘘である。
  実際、朝鮮人による企業設立も多く見られ、朝鮮社会
 の工業化が、急速に進んでいる。
  経済も順調に成長して行った。
  青山学院大学・木村光彦教授は、この様な実際の現実
 を明らかにされている。
  そして、日本は、今・現在につながる、先を見た将来
 展望に基づく開発も朝鮮・韓国にしている。
  朝鮮半島北部のウラン採掘まで・・この当時に、すで
 に、しているのである。
.
1945年5月2日、ベルリン陥落。
  ソ連軍が、ドイツ国会議事堂に赤旗を掲げた(ライヒ
 スタークの赤旗)
  このドイツ国会議事堂(ライヒスターク)は、1933年
 の放火事件以来、ナチス体制下では、公式の目的では使
 用されておらず、完全な修復も成されていなかった。
  この建物内での猛烈な戦闘の末に、1945年5月2日、ソ
 ビエト赤軍は議事堂を制圧した。
  このような時、日本の敗戦も決定的になっていた。
  第二次世界大戦に勝つ見込みは、日本には「まったく
 無かった」。
  この頃、日本は、一生懸命、和平をアメリカやソ連、
 そして、スイスなど連合国側へ働き掛けていた。
  しかし、国民へは、可哀想だが、「あくまで戦うのだ」
 の意思表示をしていた。
  和平を一生懸命に投げかけている日本へは、言を左右
 にして応じる様子を見せなかった「アメリカ・ルーズベ
 ルトと、ロシアのスターリン」だった。
  スターリンは、日本からの和平の働きかけの内容をル
 ーズベルトに話し、その状況、及び、内容は、アメリカ
 に筒抜けだった。
  その様な状況の中で、ルーズベルトとスターリンとの
 間で話がなされたことが、「日ソ中立条約を破棄して日
 本領土を奪え」というアメリカ・ルーズベルト大統領の
 ソ連・スターリンへの『そそのかし』だった・・卑劣な
 事である。
  その為の戦いの準備のためのソ連の時間稼ぎと、アメ
 リカのソ連への武器援助・・ソ連へその為の武器弾薬を
 運ぶ時間が欲しいアメリカが、そこに居た・・(実際、
 アメリカは、船で、日本攻撃のための武器弾薬を、ソ連
 へ運んでいる)・・
  そして、それと、アメリカには、これからの重要な新
 兵器となる原爆の威力を試したいという欲望があった。
  そして、世界へ、その原爆の威力を示す・・その為の
 時間が欲しいアメリカが居た。
  それ故に、和平を進めて、終りにしたくないという事
 情があった。
  だから、この時、日吉に移った日本の地下司令部は、
 苦悩の時間だけが過ぎる場となっていた。
  その日吉の地下司令部を、最初に見た時、この様な事
 情を知らなかった・・その感想・・
  題:終戦間近の最末期・・はっきり見えた・・
    そして、戦争は、そこまで破壊していたのか?
  悲しいことだが、終戦間近の最末期の姿が、はっきり
 見えた気になりました。
  第二次世界大戦の戦争末期、旗艦まで軍艦として戦う
 ため、旗艦に乗っていた海軍司令部は陸(おか)にあが
 った。
  それが、日吉の慶応義塾大学の敷地内の地下に、陸に
 上がった海軍司令部がある。
  ここを見て、ここまでして戦う意味があったのかと、
 まず、思った。
  毎日、何万という膨大な大切な命を失って、日本の方々
 が各地で亡くなっていく・・死んでいる時に、決断でき
 ない最高のトップが居た・・慶応に行って思った、見え
 た。
  当時の、この戦争の責任者、指揮官方の・・トップの
 最上位の人たちは、ただ流されるように、右往左往して
 いた姿が見て取れた。
  勝つ見込みは無いことを、遠の昔に十分わかっている
 のに、そして、いま、その手が打てない状況の中で、こ
 の穴倉の中で、何をしていたのか?
  自分に死がおよぶことを恐れていたのか・・?
  その感がする。
  自分の死に、恐れをなしていた姿が、見れたような気
 がした。
  悲しい、本当に悲しいことだが・・・。
  停戦のボタンが押せないでいたトップたちが、ここへ
 行って、はっきり見えた。
 (参考)き‐かん【旗艦】艦隊の司令長官・司令官が乗
    って指揮をとる軍艦。マストにその司令官の階級
    に応じた旗を掲げる。
  終戦の詔を聞いて、最高戦争責任者の中に、腹に銃を
 発射し、自殺を図った人がいた。
  腹であったため死ねなかった。
  A級戦犯となり「死刑」となった。
  腹に撃っては死ねない。
  知っているはずなのに。
  この地下司令部の壕は、慶応大学の隣の民間人の地へ
 も伸びていた。
  緊急極秘につくられたが、この壕は、アメリカ軍に攻
 撃され、不幸なことに、この隣の民間人の方が亡くなら
 れている。
  送受信アンテナも、離れて設けたりしていたが、アメ
 リカ軍には、はっきり分かっていたようだ。
  誰が戦争を止める「 断 」をするかが、まったくう
 やむやだったとの事・・
  その様な状況の中に「ふわふわ」とあったような・・
  意志を出せない中で、時間だけが過ぎる組織だったよ
 うだ・・
  戦争は、「 そこまで破壊して居た 」のか・・
  ・・と、上記の様に、見学直後に感じたが・・
  実際は、日本は、和平を、一生懸命にしていたが・・
 それに応じない連合国側が居たことが・・その後になっ
 て分かった。
  ルーズベルトは、「アメリカの若者が死なないためと
 称して、原爆を落としたのは・・完全な嘘。
  戦後を見据えて・・日本をモルモットにしたのだった。
.
1945年5月頃、木銃で下から敵を撃滅せよ・・
  弾もでない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか・・
  私の履歴書:商船三井最高顧問・生田正治氏(抜き書き)
  1944年7月には、サイパン島守備隊が玉砕し、本土への
 空襲激化は時間の問題となったため、主要13都市で学童
 疎開が開始された。
  毎朝10時以降に警戒・空襲警報が出れば、昼の給食用
 の芋や代用食のドングリでこしらえたコッペパンなどを
 受け取り、地域ごとに走って帰宅することになった。
  10時以前だともらえないので、毎日10時になってすぐ
 に警報が鳴らないかと、不届きなことを願う日々だった。
  家に帰っても遊び道具はボール一つなく、もっぱら道
 路で仲間と軍艦ゴッコなどの戦争遊びや、高射砲弾の破
 片集めに興じた。
  父に2度目の召集令状が来たのは1944年の夏頃だった
 ろう。
  近くの東横線都立高校駅まで見送り、せみ時雨(しぐ
 れ)の中で敬礼をして乗車していく父の後ろ姿に手を振
 ったのが別れになった。
  1945年2月になると、縁故疎開先もなく、まだ、東京に
 いる全学童に強制集団疎開命令が出た。
  5年生以上約100人は、数人の先生に引率されて4月早々、
 山梨県・小渕沢に向かった。
  当時の小渕沢は文字通りの寒村だった。
  私たち男子約50人は駅前の「寿旅館」に、女子は近く
 のお寺にお世話になることになった。
  朝早く起きて近くのお宮の庭掃除と、荒削りの木銃で
 の厳しい軍事教練。
  何でも米軍は、九十九里浜上陸に合わせて甲府盆地に
 落下傘部隊を降下させるので、その時は、この木銃で下
 から敵を撃滅せよとの命令だった。
  弾も出ない木の銃で、子供に何をさせようとしたのだ
 ろうか。
  毎日午前中は自習だった。
  本を読んだり手紙を書いたりしてなんとなく過ごし、
 午後は勤労奉仕で山に枝払いや薪取りに行かされた。
  いつも腹をすかせていた。
  主食は大豆が8割で、残りの2割が米、麦と雑穀。
  炊くと大豆は膨らむので、見た目には大豆だけのよう
 だった。
  下痢をする者が多かったが、申告しても薬はない。
  決まって絶食療法を言い渡されるのがわかっているか
 ら、食べ盛りの私たちは、誰もがギリギリまで我慢した。
        (参考:日本経済新聞、2011年1月4日)
.
1945年8月6日、アメリカの卑劣な広島への原爆投下
  日本政府の 原爆投下に対する抗議
  カッセーゼ教授は、
  日本政府が、広島に原爆投下に対して、
  「それは、不必要な苦痛を与える非人道的兵器の使用
 を禁ずる国際法原則に違反する」との理由で、
  スイス大使館を通じてアメリカ政府に抗議を行った事
 実に触れ、
  短文の通諜ではあったが、
  立派な主張を提示したと述べている。
        (本:世界が裁く東京裁判、41頁)
  (参考)つう‐ちょう【通牒】 [名](スル)
    1 書面で通知すること。また、その書面。
    2 「通達1」の旧称。
    3 国際法上、国家の一方的意思表示を内容とする
     文書。「最後―をつきつける」
       ・
       ・
2010年12月2日、アメリカが、「世界の警察」を任じられな
 くなった時、日本は?
  景気低迷で疲弊するアメリカ・・、
  横浜で、オバマ大統領と会談した日本の菅首相は、思
 いやり予算の削減が頭にあったが、逆に、オバマ大統領
 から「増額」を求められた。
  厳しい見方の米国議員・・、
  その1:中国の軍事的脅威が増すのに、日本はアメリ
 カ軍のありがたみが分かっていない。 
  その2:沖縄の1万5000人の海兵隊員が中国に上陸して、
 何百万もの人民解放軍と戦うなんて誰も思っていない・・
  在日米軍の大規模な撤収を提唱。
  米国の2010会計年度の赤字、約135兆円・・、
  アフガニスタン戦費が重荷。 
  アメリカ議会の本音:地球の裏側まで面倒を見切れな
 い。
  オバマ大統領は、今のところ、アジアへの軍事的方向
 性は、強める方向。
  しかし、厳しい財政から続けられるかに大きな疑問符
 が周囲に・・。 
  北朝鮮とは事を荒立てたくないという心持ちか?
  アメリカ国防総省のラパン副報道官の言葉:在韓米軍
 を増強する予定はない。
  アメリカ軍のある幹部の言葉:北朝鮮の軍事施設を空
 爆するのは簡単だが、中国がどう反応するかが分からな
 い。
  軍事行動はあり得ない。
  危機管理が専門のユーラシア・グループのイアン・ブ
 レマー社長の言葉:北朝鮮は、ソウル攻撃以外の挑発な
 らば反抗はないと算段しているとみえる。 
  長引くアフガン戦争、長引く景気低迷で、疲弊するア
 メリカ・・、
        (参考:日経新聞、2010年12月2日)
.
2018年3月、中国の全国人民代表大会で・・、
  習近平国家主席は、21世紀半ばまでに、世界一流の軍
 事力を備えた「社会主義現代化強国」と、
  「一帯一路」の推進による中国主導の「人類運命共同
 体」を建設すると宣言した。
.
2018年4月17日、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」
 の恐怖・・という記事が掲載された。
  ドイツの怖(こわ)いところ・・、
  ドイツは、ここ10年間、中国に非常に接近している。
  長いことドイツは、中国の政治体制に目をつぶり、中
 国と一体となって『儲けの話に加わってている』。
  ドイツの頭にあることは、『儲かれば良いのだ』にな
 っている。
  中国主導で進められているAIIB(アジアインフラ
 投資銀行、2016年1月16日に開業式典を行った)にどっぷ
 り浸(つ)かっている。
  アジアでインフラが進み、投資家は儲かる。
  アジアは、徐々に近代化されて行く。
  良さそうに見える。
  ここが落とし穴。
  ここで豊かになるのが、一部の投資家だけ。
  中国と強く結びついた一部の投資家だけ。
  「今までの植民地体制」も、宗主国と一部の民が搾取
 した。
  その宗主国にドイツが加わっている形。
  問題なのがAIIBに「貧困対策が無いこと」。
  民主主義ではない政治体制の国・中国、
  独裁体制の国・中国が、この金のかかわりで影響力を
 強めて行く。
  ドイツは、中国が民主主義国家ではないという大切な
 ポイントに目をつぶっている・・見落としている。
  将来、この様な経緯で、「世界中に、民主主義ではな
 い国々が増えても良い」くらいに考えている。
  政治体制が独裁的で、中国を頂点とする植民体制が広
 がって行く。
  中国の「一帯一路」にはそのような形がある。
  中国の「大きな問題である人権問題」に目をつぶり、
 中国の「勝手な軍事的行動」にも目をつぶっている危険
 がある。
  基本的人権などもない国家・中国と共同歩調をとって
 いる。
  ドイツは、必死で守らなくてはいけないものまで「捨
 て去っている」。
  人民抑圧している国家を許し過ぎていることを、ここ
 で、見直さねばならない。
  中国は、この論に反対したいのなら、「一回でも、自
 由選挙を行なえ」。
  (最新情報資料):中国依存のドイツが味わう「ゆで
       ガエル」の恐怖(2018・4・17)・・
       [15日 ロイター]
        独建設器械大手のバウアーBSAG.DEは、こ
 の数十年間、中国に積極投資を行った多くのドイツ企業
 に比べて、優位な立場にある。
  ドイツ南部バイエルン州を拠点とする、1790年創業の
 バウワーは、中国合弁パートナーの顔色をうかがう必要
 がない。
  上海と天津にある2つの工場は、100%自社で所有して
 いるからだ。
  また、同社が製造する特殊建設機械は、アジア全体で
 販売されており、不安定な中国建設市場における景気の
 波に左右されずにすむ。
  しかし、それでも一族経営の7代目にあたるトーマス・
 バウアー最高経営責任者(CEO)は、中国における自
 社事業の状況や、これまでドイツ企業と政治家が「確実
 に儲かる賭け」とみなしてきた中国との経済関係全般に
 ついて、危惧していると語る。
  「ドイツは、1つのバスケットに卵をたくさん入れす
 ぎた。
  そのバスケットとは中国のことだ」と話す62歳のバウ
 アー氏。
  バイエルンのアクセントが強く、陽気なバウアー氏は、
 ミュンヘンから車で約1時間の距離にあるシュロベンハ
 ウゼンの本社でロイターの取材に応じた。
  同社の懸念は、ドイツで広まりつつある恐れを示して
 いる。
  ここ10年以上、ドイツ経済は、世界金融危機やユーロ
 圏債務問題、大量の難民流入などにも耐え、欧州成長を
 けん引してきた。
  その強さの裏側には、2つのエンジンがあった。
  ドイツの革新的企業が、成長経済が必要とするハイエ
 ンド(高性能、あるいは最高級であるさま)な製品を数
 多く生産してきた。
  また、ドイツは、オープンでルールに沿った世界貿易
 システムから利益を上げることに長けており、そこから
 競争力を得ていた。
  中国は、この両面で重要だった。
  この10年、外国企業に対して徐々に門戸を開く中で、
 中国は、ドイツ製の自動車や機械を驚くべきペースで買
 い上げている。
  ドイツの自動車メーカーは、昨年だけで、米国販売の
 3倍以上に相当する500万台近くを中国で売り上げた。
  しかし、依然として好況が続いているものの、「ドイ
 ツ株式会社」の中国市場に対する見方には、劇的な変化
 が生じつつある。
  習近平政権の下で、中国の開放政策が逆回転を始めて
 いるだけでなく、中国企業も、ドイツ側の予想を大きく
 上回るスピードでバリューチェーン(価値連鎖)の上流
 へ移動してしまったのだ。
  ドイツが抱える中国のコナンドラム(謎)は、欧州が
 直面する、より広範な試練の一角だ。
  ここ数年、内向きな危機対応に追われていた欧州は、
 今後待ち受ける地政学的、経済的リスクに対応するには、
 政治的に分断されており、まだ準備不足の状態だ。
  欧州大陸はいまや、自己主張を強める中国と「アメリ
 カ・ファースト」を掲げるトランプ米大統領の間で、板
 挟みになるリスクに直面している。
  中国におけるドイツ企業の窮状を、密かに「ゆでガエ
 ル」に例える企業幹部もいる。
  常温の水にカエルを入れ、徐々に過熱すると、熱湯に
 なった時には跳んで逃げることもできず、ゆで上がって
 死んでしまうのだ。
  ドイツのクラウス駐中国大使は、ベルリンで先月開か
 れた企業経営者との会合で、ドイツと中国の関係に「地
 殻変動的な変化」が起きると警鐘を鳴らした。
  同会合の出席者が明らかにした。
  「中国とのパートナーシップの新時代について、われ
 われは心構えを呼びかける必要がある」と、ドイツ最大
 の産業グループであるドイツ産業連盟(BDI)の幹部
 は話す。
  「まだ今は黄金時代だが、今後何が起きるかについて
 は重大な懸念を持っている」
  <国家の役割>
  ドイツ企業は、先頭を切って中国進出を果たし、中国
 経済の発展に伴ってドイツに有利な状況をもたらした。
  2国間貿易は昨年、過去最高の1870億ユーロ(約24.7
 兆円)に達し、中国との貿易高がそれぞれ700億ユーロ程
 度だった英国やフランスを大きく凌駕している。
  2017年のドイツの対中貿易赤字は140億ユーロだったが、
 米国が抱える対中貿易赤字3750億ドル(約40兆円)に比
 べればわずかだ。
  世界70カ国で1万1000人を雇用するバウアーは、1990
 年代半ばに同社にとって初の中国生産施設を建設した。
  その当時は、高層ビルや発電所、空港などの基礎工事
 に必要な、同社が誇る黄色の巨大で複雑な掘削機を生産
 可能な中国企業は1社も存在しなかった。
  だが、2013年までに、そうした掘削機を生産できる中
 国の競合企業が36社に増加。
  バウアーCEOは、欧州サプライヤーが共同開発した
 部品を中国に売却したことで、シフトが加速されたと指
 摘する。
  10年前、バウアーの中国工場には1億ユーロ超の売上
 げがあった。
  続く9年のうち5年の年間売上げは、その半分に達しな
 かった。
  現在では、バウアーを含めたドイツ企業は、中国政府
 が自国経済に及ぼす役割を、何よりも懸念しているとい
 う。
  中国は、昨年、サイバーセキュリティ法を制定し、外
 国企業が本社との機密連絡に使う仮想プライベートネッ
 トワーク(VPN)を含めたインターネットに対する国
 家統制を強化した。
  最近では、複数のドイツ企業が、中国合弁パートナー
 の取締役に共産党役員を受け入れるよう圧力を受けてい
 ると苦情を申し立てている。
  バウアーCEOは、習近平国家主席が唱える「中国製
 造2025(メイド・イン・チャイナ2015)」戦略が、ドイ
 ツ製造業の優位を直接脅かすのではないかと懸念する。
  同戦略では、ロボティクスや航空産業、クリーン動力
 で動く自動車など10分野を重点分野に指定している。
  バウアーCEOは、自社の強みを維持するため、デジ
 タル化を急がせている。
  「これは模倣者との競争ではない。
  これは、われわれに取って代わろうとする革新的エン
 ジニアとの戦いだ」と、バウアーCEOは言う。
  「早期に答えを見つけ出さなければ、非常に悪い結果
 を招くだろう」
  <トランプ関税>
  ドイツが抱える不安は、中国に対して数百億ドル規模
 の追加関税を突き付けたトランプ米大統領の懸念に似て
 いる。
  しかし、ドイツ主要企業があまりにも中国市場への依
 存を深めていたため、独政府は中国との衝突を避けてき
 た。
  独自動車大手ダイムラー(DAIGn.DE)は2月、いかに一
 部企業が中国政府を怒らせないよう臆病になっているか
 を自ら体現している。
  チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の言葉
 を引用した、高級車ブランドのメルセデス・ベンツのイ
 ンスタグラム広告が、中国で大きな反発を呼んだことを
 受け、同社はこの広告を削除した。
  その上で、同社のツェッチェCEOは声明を出し、「
 不注意で無神経な過ち」により、中国人に「痛みと悲し
 み」を与えたとして、深い遺憾の意を表したのだ。
  「ドイツの人々が、中国について話すことと、彼らが
 実際に考えていることの間には大きな違いがある」と、
 ベルテルスマン財団のベルンハルト・バーチ氏は言う。
  同財団は、「10年後には、中国が欧州の政治・経済シ
 ステムを大きく損なっている」と題する討論会を、ベル
 リンに本拠を置くメルカトル中国研究所(MERICS)
 と合同で今月行う予定だ。
  中国で活動するドイツ企業のムードも冷めつつある。
  中国のドイツ商工会議所が、昨年後半に行った調査に
 よると、中国内の新たな場所に投資を計画している企業
 数が、久しぶりに会員企業の半数を割り込んだ。
  また、中国に進出したドイツ企業の13%近くが、今後
 2年以内に撤退する可能性があると回答した。
  過去数十年間、中国に対するドイツのアプローチは「
 通商を通じた変化」という言葉で説明することができた。
  だが今や、この戦略は崩壊した。
  政府関係者からは、「ウィン・ウィンの新しい意味は、
 中国が2度勝つということだ」といったブラックジョー
 クも聞こえてくる。
  「緊密な経済関係が、開放を促進することを期待して
 いた。
  だが、明らかにそれは誤った期待だった」と、ある政
 府関係者は語る。
  「彼らは、口ではわれわれが聞きたがっていることを
 言うが、その正反対の行動を取る」
  ドイツ政府も、方針転換を始めている。
  昨年、中国家電大手の美的集団(000333.SZ)による独ロ
 ボット大手クーカ(KU2G.DE)の買収が批判を浴びたことで、
 ドイツ政府は外国企業の投資に対する規制を強化し、欧
 州における買収審査に関する新ルール策定に向けて動き
 始めた。
  昨年12月には、中国当局がソーシャルメディア上の偽
 アカウントを通じてドイツの政治家情報を集めていると
 独情報当局が指摘し、中国側を激怒させた。
  このように公然と非難することはまれで、中国にメッ
 セージを送る意図があったとドイツ政府は述べている。
  今年、予定されているドイツと中国の首脳会談におい
 て、独側はより強硬な姿勢を取る方向だと、政府高官は
 語る。
  しかし、その一方で、欧州連合(EU)の内部分裂や、
 単独歩調を崩さないトランプ米政権と欧州との距離が広
 がっていることから、中国政府に方針転換を強いるのは
 困難だと認識している。
  「中国が、本当に心配しているのは、欧州と米国が、
 中国に対して共同歩調を取ることだ」と、ドイツ政府関
 係者は語る。
  「その意味で、トランプ大統領はまさに中国にとって
 天の恵みだ」
.
2018年5月20日、この日の読売新聞に・・、
  「『日米欧』対『中国』の競争の時代」として、『世
 界秩序』はどの方向へ進んで行くのか・・についての意
 見が記載されていた。
  論者は、JR東海名誉会長の葛西敬之(かさいよしゆ
 き)氏である・・
  それを参考に、その抜粋を以下に記す・・
  「世界秩序は今、第二次世界大戦後、最大の転換期に
 入って来ている。
  それは、中国が世界秩序に対してとって来た曖昧な態
 度を改め、独自の価値観に基づいた新しい秩序作りに着
 手する姿勢を鮮明に打ち出したことで顕在化した。
  米国や欧州は、これまで、中国を国際市場に受け入れ
 て、経済的発展を支援すれば、やがて、中国の民主化が
 進み、自由と民主主義を基盤とする世界秩序に同化する
 と考えて来た。
  だが、中国政府は、自国の市場を閉ざしたまま、自国
 企業の海外市場への進出を強力に支援して、経済成長を
 遂げる一方、国内では、民主的な動きを警戒して、市民
 に対する言論統制を強め、軍備の近代化と増強を急速に
 進めている。
  3月の全国人民代表大会で、習近平国家主席は、21世紀
 半ばまでに、世界一流の軍事力を備えた「社会主義現代
 化強国」と、「一帯一路」の推進による中国主導の「人
 類運命共同体」を建設すると宣言した。
  これを見て、米欧は、中国が権威主義的な価値観に基
 づく独自のシステムを構築し、既存の世界秩序に挑戦す
 る意思表示と受け止め、対応を転換しつつある。
  世界は、異なる価値観に基づく二つのシステム、すな
 わち「自由・民主主義システム」と「新・中華システム」
 の間での競争時代に突入した。
  日本は、「自由・民主主義システム」の最前列に立つ
 ことになった。
  日本にとって喫緊(きっきん)の問題は、勿論、北朝
 鮮の核武装であり、その速やかな非核化である。
  但し、それは、北朝鮮の主体的な動きとして捉えるの
 ではなく、中国の前衛として、さらには、米中関係の一
 端として見るべきである。
  加えて、北朝鮮と国境を接する韓国の北朝鮮への傾斜
 が事態をより複雑にしている。
  韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員
 長による南北首脳会談が4月27日に行われ、「板門店宣言」
 が発表された。
  宣言には、抽象的な言葉が羅列されているが、その含
 意は明らかだ。
  「核のない朝鮮半島」という表現には、北朝鮮の核だ
 けでなく、米国の核をも争点にする底意が感じられる。
  また、「南北終戦宣言と平和協定締結」は、国連軍司
 令部を解散し、在韓米軍を形骸化する狙いをにおわせる。
  しかも、速やかに北朝鮮を非核化する意思は感じられ
 ない。
  総じて板門店宣言は、中国にとっても好ましい内容と
 なっている。
  こうした中で、日本にとって寛容なのは、日米同盟に
 依拠して揺るがない基盤を築くことである。
  力強く自信にあふれて日本と共に行動する米国と、そ
 れを同盟国として支える日本の覚悟が問われている。
  板門店宣言を一読して、「米国は、早晩、在韓米軍の
 撤退を提起するだろう」と感じた。
  韓国の強い要請と積極的な協力が無ければ、在韓米軍
 は機能しない。
  いずれ、撤退を決断せざるを得ないのであれば、「早
 く提起する方が賢明」という判断には理があると思う。
  北朝鮮の核に対する米国歴代政権の曖昧な姿勢が韓国
 民の不安を招き、今日の朝鮮半島情勢の流動化につなが
 ったとも考えられる。
  故に、米国が、新たな決意のもとに、韓国民の真意を
 問い直すことは意味がある。
  その場合、日本の立場は難しい。
  在日米軍に反対する勢力は勢いづくだろう。
  しかし、現実を直視すれば、日本の安全と独立が、今
 日ほど危機に瀕し、日米同盟による抑止力が死活的に重
 要だったことはない。
  「逆もまた真なり」で、米国にとって、日本の防衛と
 その為の米軍の存在は、ますます死活的になる。
  こうした中で、大切なのは強固な日米同盟を堅持する
 事であり、社会・産業分野においても、日米の連係を強
 める必要がある。・・以下略・・
  以下は、TPPへのアメリカの復帰を促す・・と、日
 米の「5G]技術の構築・・「第4次産業革命」の競争
 優位を持つ(中国も、戦略として5G分野を握り、中国
 企業の技術的優位性を保持させ(デジタルシルクロード
 の展開)・・情報戦略・・アメリカは、その中国戦略に
 対抗し、中国企業のアメリカの通信インフラでの使用リ
 スクを回避しようとしている・・この面での競争激化・・
 国家統治の安全保障・・
.
2018年、アメリカは、コントロールが効く日本に、「核を
 持たせたくない」と、「核は持たせない」と、やって来
 た。
  そして、アメリカは、日本の世論操作までした。
  アメリカは、韓国には『論外の国だ』という厳しさで
 やって来た。
  やはり、韓国も核は持ちたいと意識していたが、この
 様なアメリカに不満を持ち、秘めていた。
  ここで、今(2017年)、北朝鮮が核保有国になった。
  そして、この北朝鮮と韓国は、中国の冊封国、もしく
 は、冊封国への道を進んでいる。
  韓国は、「北朝鮮と一体となった国」になりたいと思
 うのと共に、この北朝鮮の「核の傘の下に入りたい」と
 も思っている。
  この意味で、今・現在(2018年)、韓国のアメリカ離
 れが進んでいる。
  あるのは、核保有国となる韓国である。
  北朝鮮の金日成の時からの方針である「核保有」は、
 今・現在、北朝鮮は達成し、韓国と共に核保有の軍事態
 勢に成功したとされる直前となっている。
  規制の効く日本と、ホッタラカシにして来た北朝鮮の
 アメリカの姿勢が・・この、今の状況となっている。
  アメリカは韓国から撤退し、38度線は対馬海峡となり、
 その先には核保有した朝鮮が居るという状況となる。
  その日本では、相変わらず国家の防衛論よりモリカケ
 論に終始する状況が続いている・・
  このまま、なし崩し的に・・隣の家までが核を持つ、
 それに怯(おび)え続ける日本となって行くのか??
  中国に脅されて重要技術を取られるという様な事が、
 隣国へもするような日本となるのか・・??
  そして、新聞に以下のことが記されていた・・
  「中国は、巧(たく)みに日本の親中派を厚遇し、批
 判的な人を冷遇して来た。
  しかし、そうすればするぼど、戦略思考を持つ政治家
 とのあいだの対話が成り立たず、利害調整がしにくくな
 って来た」・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)596E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年5月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年5月16日、北村透谷が自殺(縊死)
  北村透谷(きたむらとうこく、1868年~1894年)評論
 家、詩人。)
  1868年12月29日、相模国足柄下郡小田原で没落士族の
   家に生まれる。
  1881年(13歳)一家で上京し、東京の数寄屋橋近くの
   泰明小学校に通う、翌年、卒業。
  1883年(15歳)横浜のグランド・ホテルのボーイとな
   り、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)政治
   科に入学。
  1886年(18歳)この頃まで、東京専門学校に籍を置く
   が、左翼と知り合い、自由民権運動に参加する。
   学校は卒業はしていない。
    自由民権運動は閉塞してゆく・・、
    大阪事件の際、同志から活動資金を得るため強盗
   をするという計画を打ち明けられ、その行動を勧誘
   された・・苦悩のうちに参加を拒絶し、絶望してそ
   の運動を離れる。
  1888年(20歳)数寄屋橋教会で洗礼を受ける。
  1888年(20歳)石坂ミナと結婚、キリスト教への入信
   を支えにする。
    通訳として麻布教会へ通う。
  1889年(21歳)『楚囚の詩』を自費出版したが、出版
   直後に、その出版を後悔し、自ら回収し、みずから
   廃棄した。
   第一::曽《か》つて誤つて法を破り
   政治の罪人《つみびと》として捕はれたり、
   余と生死を誓ひし壮士等の
   数多《あまた》あるうちに余は其首領なり、
   中《なか》に、余が最愛の
   まだ蕾《つぼみ》の花なる少女も、
   国の為とて諸共《もろとも》に
   この花婿も花嫁も。
   第二::余が髪は何時《いつ》の間《ま》にか伸び
  ていと長し、
   前額《ひたい》を盖《おお》ひ眼を遮《さえぎ》り
  ていと重し、
   肉は落ち骨出で胸は常に枯れ、
   沈み、萎《しお》れ、縮み、あゝ物憂《ものう》し、
   歳月《さいげつ》を重ねし故にあらず、
   又た疾病《しつぺい》に苦《くるし》む為ならず、
   浦島が帰郷の其れにも
   はて似付《につ》かふもあらず、
   余が口は涸《か》れたり、余が眼は凹《くぼ》し、
   曽《か》つて世を動かす弁論をなせし此口も、
   曽つて万古を通貫したるこの活眼《かつがん》も、
   はや今は口は腐《くさ》れたる空気を呼吸し
   眼は限られたる暗き壁を睥睨《へいげい》し
   且つ我腕は曲り、足は撓《た》ゆめり、
   嗚呼《ああ》楚囚! 世の太陽はいと遠し!
   噫《ああ》此《こ》は何の科《とが》ぞや?
   たゞ国の前途を計《はか》りてなり!
   噫此は何の結果ぞや?
   此世の民に尽したればなり!
   去《さ》れど独り余ならず、
   吾が祖父は骨を戦野に暴《さら》せり、
   吾が父も国の為めに生命《いのち》を捨《すて》たり、
   余が代《よ》には楚囚となりて
   とこしなへに母に離るなり。
  1889年(21歳)日本平和会の結成に参画、機関誌『平
   和』に寄稿。
  1891年(23歳)5月、『蓬莱曲』を自費で出版する。
    劇詩で、キリスト教的世界観からインド仏教的世
   界観への屈折がみられる。
    養真堂刊という形で自費出版した。
    蓬莱山つまり富士山の麓(ふもと)・中腹・絶頂を
   舞台に設定、現世を捨ててここにきた気性鋭い内攻
   的な青年に、大魔王が自分こそこの世の物質的な繁
   栄を支配していると同時にその破滅をも支配してい
   る、と告げ、自分に服従せよというが、青年はそれ
   を拒み富士山頂で死ぬ。
    青年は、作者透谷のおもかげを宿す。
    未完の『蓬莱曲別篇(べつへん)』が付載されてい
   て、そこでは青年の恋人の愛が彼の霊を彼岸(ひがん)
   での救いに導く。
  1892年(24歳)評論「厭世(えんせい、この世・人生
   をはかなむ)詩家と女性」を『女学雑誌』に発表。
   「恋愛は人世の秘鑰(ひやく、秘密のかぎ)なり」
  1893年(25歳)島崎藤村らと創刊した『文学界』誌上
   に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」
   など多くの文芸評論を執筆する・・しかし、ロマン
   チシズムの文学論は透谷自体を追い詰め、病気、貧
   困なども加わる。
  1894年(26歳)次第に精神に変調をきたし、評論『エ
   マーソン』を最後に、芝公園で首吊り自殺をした。
    原罪を意識させ、自分は悪いのだを洗脳させるキ
   リスト教・・この様な希望のない性悪説ではなく、
    一切衆生悉有仏性・・皆が持つ希望の仏性・・の
   未来の希望はあるの考え方を持つように・・
  (参考)大般(だいはつ)涅槃経に、「仏身常住(ぶ
     つしんじようじゆう)」:悟りを開いた仏の身
     体は法として永遠に存在する・・
      「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうし
     つうぶつしよう)」:すべての方々、また、生
     きとし生けるもの、すべてが、生まれながらに
     して、仏となりうる可能性(仏性)を有し、す
     べてを悟り得る存在です・・、

1894年5月26日、山形市大火。
  この大火は、山形市南大火と呼ばれ、蝋燭町(ろうそ
 くまち、現:十日町の嘯月あたり)を火元とし、強風に
 よって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け、十日
 町・八日町・三日町・小姓町など、市外南部を中心に、
 17ヶ所に及んだ。
  焼失したのは本家数だけで1,608軒。
  因みに、 ろうそくの製造を家業とする職人が住んでい
 たことから名付けられ・・、
  当時の絵図には「アカシマチ」となっている。
  この町の最上ろうそくは明るく長持ちすると大変好評
 で、徳川家康が夜宴を開いた際、暗いので最上ろうそく
 に取り換えさせたというエピソードがある。
  領主の最上家の将軍家への土産品にも蝋燭は欠かせな
 いもので、慶長10年(1605年)に、家康を訪問した際に
 は千挺(ちょう、1000本)も献上した。

1894年5月26日、綿糸輸出を促進するために、綿糸輸出関税
 を撤廃した。
  この頃、綿花輸入税・綿糸輸出税の廃止運動が行なわ
 れていた・・これは・・、
  1890年に、日本の綿糸生産量は、原料綿花の輸入量を
 上回るようになったからだった。  
  国内の綿花栽培農家を保護するための綿花輸入税や、
 綿織物生産業者を保護するための綿糸輸出税の存在は、
 力がついて来た日本の紡績業の国際競争における足かせ
 となって来ていた。
  そのため、大日本綿糸紡績同業連合会は、1888年以後、
 両税の廃止を働きかけた・・また・・、
  1891年以後に、商業会議所などを巻き込んで本格的な
 運動を開始した。
  これに対して、大日本農会は、国内農家保護の観点か
 ら反対運動を起こし、帝国議会でも議論が行われた。
  だが、郵便報知新聞・日本・東京経済雑誌などの主要
 なマスコミが両税廃止運動を支持した。
  因みに、綿花輸入関税の撤廃は、1896年。
  開国後の近代化で、日本には、綿糸製造産業が、欧米
 の技術を導入して各地に設立されていた。
  そして、その産業を保護するために、産業が確立され
 るまで、その製品の綿糸が外国に流れて、日本の産業が
 育たないことにならない様に、綿糸輸出関税をかけてい
 た。
  しかし、日本の綿糸生産が、外国からの原料(綿花)
 の輸入量を超えるくらいに育ったため、そして、その育
 った日本の綿糸が輸出しやすくするために、綿糸輸出関
 税を撤廃した。
  また、綿花を国内で生産をしていたとしても、日本の
 経済成長、工業発展もあって、綿花を輸入せざるを得な
 い状況になっており・・、
  また、綿花栽培農家は、他の生産物への転換が容易だ
 ったことによって、綿花栽培農家のための保護関税を撤
 廃し、原料綿花のコスト低減のための綿花輸入関税の撤
 廃を行なった。

1894年5月30日、甲午農民戦争で、東学党軍が、ほぼ朝鮮全
 羅道を制圧した。
  李朝朝鮮政府は、清国に援助を要請した。

1894年5月31日、朝鮮農民軍が、全州占領。朝鮮内乱重大化。
  甲午農民戦争(東学党の乱): 乱徒が朝鮮全州を占領。

1894年5月31日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を可決した。
  この年の3月1日の第三回総選挙は、自由党は30近く議
 席を回復し、硬六派は180から40議席も減少していた。
  そして、景気は良く、経済情勢には対立激化の要因は
 なかった。
  しかし、対外硬の面で、激しい対立が続いた。
  野党はなお130の議席を確保した。
  そして、さらに、無所属切り崩し、衆議院を制圧でき
 る可能性出て来た。
  また、マスコミも、国粋派の新聞「日本」や、民友社
 の「国民新聞」にまで反政府側だった。
  そして、また、枢密院や貴族院の一角までが、条約励
 行案支持となっていた。
  対外硬派の狙いは、藩閥政府の打倒にあった。
  しかし、この狙いを越えた行動・・対外硬の行動とし
 て現れて行った。
  また、中国・清側も、日本を弱小国としてみて、強硬
 な態度に相変わらずいた。
  ここに、朝鮮世情の不安定さが加わった。
  始まりは・・6月1日の李朝朝鮮政府が、東学党の農民
 軍に大敗したことにあった・・
  李朝朝鮮政府は、清国に出兵を要請した。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時には、事
 前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約を結んで
 いた。
  この事態になるまでに、日本国内にも、マスコミが騒
 ぐ状況が起きた・・
  清の中国軍の朝鮮出兵に対し新聞論調は一夜にして急
 変した。
  国民新聞を先頭に朝鮮出兵を叫び始めた。
  対外硬もたちまち対清硬に変じた。
  1894年6月2日、衆議院の上奏が却下され、解散した。
  そして、1894年6月4日、出兵が開始された。
  そして、1894年6月5日、大本営が設置された。
  そして、この当時の国際的重要国であるイギリスと、
  1894年7月16日、日英日英通商航海条約の新条約が調印
 された。
  これは、イギリスの日本への支持を示すものでもあっ
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は色々な民族の地・・
    中国は、種々の民族が入れ代わり立ち代わり領有(りょうゆう、
   領地として持つこと)した・・
    例えば・・唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権を正当化するため」に
   自身が漢民族の末裔であることを主張したかった。
.
紀元前1万4000年、今から16,000年前の縄文時代の人骨から
 分かること・・、
  《古人骨と食べ物》 
  米田 穣氏(東京大学大学院新領域創成学研究科准教
 授):
  縄文や弥生の時代の人骨を分析して、当時の日本人が
 何を食べていたかを探る研究が進んでいる・・、
  同位体生態学・・、
  骨を分析すれば、そこから食べていたものを突き止め
 られる・・、
  古人骨に含まれる元素の重い同位体や、軽い同位体の
 比率を調べる・・
  およそ1万6000年前に始まる縄文時代の人骨・・
  亜寒帯の北海道、温帯の本州、亜熱帯の沖縄・・
  北海道では、オットセイの様な海生哺乳類、鮭などの
 魚を主なタンパク源とエネルギー源にしていた。
  本州は、氷河期が終わって森で覆われていて、クリな
 どの木の実を主食にしエネルギー源とし、魚をタンパク
 源としていた。
  これに対し、沖縄では、サンゴ礁で採れる小魚や貝類
 が主体で、これをタンパク源としていた。
  紀元前800年頃に始まる弥生時代は、稲作が伝わる。
  「縄文時代の後期に、本州の人口が減少する・・、
  森で何かが起きて、木の実が採りにくくなったのが原
 因と思われている・・、
  そこで、弥生時代には、稲を積極的に導入し、タンパ
 ク源は、従来同様、魚に求めていた・・、
  米と魚に象徴されるスシ文化は・・弥生時代に確立さ
 れたともいえる。
  でも・・、植物のデンプンをエネルギー源に、魚をタ
 ンパク源にする伝統的な日本食文化の起源は・・縄文時
 代に確立していた・・
  私たちの祖先が、アフリカのジャングルで暮らしてい
 た頃は、果実など植物質の食べ物で胃袋を満たしていて、
  サバンナに出てくると、肉食に転換した。
  初めは、猛獣が食べ残した動物の骨を石器で砕き、骨
 髄などを食べていたと考えられる。
  アフリカを出て・・欧州で進化したネアンデルタール
 人の骨を分析した結果、大型の哺乳類を主に食べていた
 事が分かっている。
  これに対し、人類学の分類上、人と直接つながるクロ
 マニヨン人が、魚や小型の動物を食べていたようで、最
 終氷期(8万~2万年前)の終わり頃、温暖化に向かう
 中で、植物を食事に取り込むようになった。
  火で加熱して糖分に替えたりして、植物のデンプンを
 食べるようになった。
       (参考、日本経済新聞、2010年9月18日)
       ・
       ・
907年、中国の唐が崩壊した。
  これは中国の統一王朝だった。
  これ以来、中国は群雄割拠の分割政権が続く。
  この唐以来の中国統一政権を樹立したのが元(げん)
 だった。
  唐の滅亡後、五代十国となる。
  そして、宋となるが、西夏や遼があり、中国統一王朝
 ではなかった。
  唐は、李淵(りえん)が、隋を滅ぼして建国した。
  李淵は、唐の初代皇帝となり、漢民族だと言われるが、
 漢民族ではない・・、
  学説での実際は・・「鮮卑系の出自であり、本来の姓
 も大野氏である」とある・・、
  鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀~6世紀にかけて、中
 国北部に存在した遊牧騎馬民族であり、漢民族ではない。
  プロパガンダが働いている・・
  五胡十六国時代、南北朝時代に南下して中国に北魏な
 どの王朝を建てているが・・、
  この唐が「漢民族を名乗った」のは、「中原の支配権
 を正当化するため」に自身が漢民族の末裔であることを
 主張したかった。
  そして、この唐が滅ぶと・・中国は五代十国時代とな
 る・・これは・・
  黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)
 と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十
 国)とが、興亡する漢民族を含む『色々な民族』の時代
 だった。
  そして、宋の時代になるが、この王朝は、中国全土を
 配下に収めることが出来ず、遼や西夏が存在した。
  そして、宋は、趙匡胤(ちょうきょういん)が五代最
 後の後周から禅譲を受けて建てた国だった。
  趙匡胤は、河北省古安県の人で、父は後唐の禁軍将校
 だったから「漢民族と名のるだけの人」だった(実際は、
 鮮卑系の人・・遊牧騎馬民族)。
  そして、元(げん)が中国統一王朝を造るが・・、
 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した王朝であ
 った。
  この様に、漢民族が『中国の地の民族などとはまった
 く言えない』・・その様な歴史が存在しているのである。
  この漢民族の現政権の中華人民共和国が、「漢民族が、
 中国古来からの民族だ」の様に言うのは、完全なプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)で、この論理でチベット、ウィグル、
 内モンゴルの諸民族の地を、漢民族の領土にしようと暗
 躍しているのは、まったくの侵略行為となっている。
  そして、元(げん)民族に中国が駆逐され、制覇され
 た時、その国の広大さは、中国全土を飲み込むどころか、
 西は、ヨーロッパの地にまで達した。
  「漢民族の中国」などというイメージは、何処を見て
 も完全に影も形もなく、消え去っていた。
  だから、元(げん)民族が、中国の土地は我が民族の
 土地だと、現政権の中共の如くに言っても同じ理屈で言
 ってもよい・・だから、内モンゴルを漢民族の国土だと
 画策するのは侵略であり、間違い。
  その他の地も、漢民族の屁理屈で奪うのは侵略行為。
  この元(げん)は、東は、朝鮮を、いとも簡単に飲み
 込んだ・・そして・・、
  さらに、その東の日本を駆逐し、太平洋へ出たいと、
 突然の如くに、日本にやって来た。
  13世紀末の事であった。
  しかし、日本を駆逐する事は・・できなかった。
  大軍でもって、二度、日本に襲来を試みたが、目的は
 達せられなかった。
  その二度の日本襲来の軍船を造るために、朝鮮の山の
 木は伐られ、朝鮮の山は、どこも禿山(はげやま)とな
 った。
  三度目の日本襲来を計画したが、朝鮮には、その軍船
 を造るための木は乏しかった。
  そして、時代を経て・・その朝鮮の禿山に緑林したの
 が、日韓併合時の日本だった・・献身的な日本だった。
  この事例もそうだが・・日韓併合時は、日本は、一生
 懸命に朝鮮の国づくりを行なった。
  朝鮮戦争の時、その日本が植林した山に、この様な山
 に復活させた事情をよく知るアメリカ兵が、朝鮮戦争の
 戦いの為、この朝鮮の山へ砲弾を撃ち込むのが忍びなか
 ったと言っている。
  日本が、この様に、美しく復活させた植林した山だと
 思っていたと・・、
       ・
       ・
1941年半ば、徹底的に分析された幻の報告書
  第二次世界大戦の戦争の開戦の前に、日米比較が徹底
 的になされ、現状分析がなされた・・幻の報告書
  戦争開戦前に、現状を詳細に分析した報告書が存在し
 た・・
  しかし、現状認識を封印し、戦争は始められた・・
  その結果は悲惨そのものだった・・報告書の通りだっ
 た・・、・
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  戦争が始められる2年3ヶ月も前・・1939年9月、関東軍
 参謀部で満州国の建設主任から急きょ帰国した陸軍中佐
 の秋丸次朗は、「戦争経済研究班」を取り仕切って、そ
 の報告書を作成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され、知られた。
  秋丸は、米英との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に、一橋大学学長に
 なる中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖をさせられている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  米英との力の差は。
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の1941年半ば・・、
  1941年12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸
 軍首脳らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を1とすると、英米は合わせて20。
  日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降は
 経済力は下降線をたどり、逆に、米英は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが秋丸機関の結論だった。
  列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し、そして続けた、「その結論は国
 策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関はほどなく解散し、現状認識を封印した戦争
 が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が、秋丸の死後、遺品の中から発見され
 た。
  詳細を極めた報告書であった。
         (参考:日経新聞2011年1月3日)
.
1954年、中国は、ソ連からの原爆技術供与の交渉に成功し
 た。
  毛沢東は、アメリカによる、日本への原子爆弾投下以
 来、原子爆弾を持ちたいと強く願い続けた。
  原爆を使ったアメリカに恐怖した・・
  そして、朝鮮戦争中に、そのアメリカから、核攻撃を
 暗示された。
  その際に、毛沢東は、スターリンに原爆製造技術供与
 を要請した。
  この時、ソ連側は、技術供与に消極的だった。
  しかし、その後の1954年、台湾海峡危機や、ハンガリ
 ー動乱を巡るソ連内部の政治混乱が起き・・これを機会
 に、中国はソ連からの技術供与交渉に成功した。
  そして、中国は、1960年代初頭に設立した第9学会(
 北西核兵器研究設計学会)により、核兵器の開発が進め
 た。
  そして、1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプ
 ノール湖にて初の核実験が行なわれた。
  また、1967年6月17日、初の水爆実験が行われた。
  中国は、アジア初の核保有国となった
.
1964年10月16日、中国が、新疆ウイグル自治区のロプノー
 ル湖にて初の核実験を行なった(コードネーム596)
  中国は、1964 年から1996 年まで、東トルキスタンの
 ロプノールの核実験場において、延べ46回、総爆発出力
 22メガトン(広島原爆の約1370発分)の核爆発実験を行
 った。
  1964年10月16日の第1回には、20キロトンの地表爆発型
 の実験を始めて行った・・空中爆発である・・
  そして、最大の核爆発は、1976 年11月17日の4メガト
 ンの地表核爆発だった・・これも空中爆発だった・・
  中国の核実験の実態は、長い間、秘密にされ、不明だ
 った。
  日本放射線防護センター代表の高田純氏は、新疆ウイ
 グル自治区で行われた核実験について・・、
  1964年~1996年に行なわれた中国の核実験によって、
 ここの住民、計19万人の命が奪われたと推定した・・
  また、劣悪な医療環境などの影響もあって・・影響は
 広がり・・約75万人の死者が出たという。
  そして、日本のNHKは、西遊記の製作のために、こ
 のウイグル地域に入った。
  1978年と1979年と、2度も続けて・・、
  このために、女優の夏目雅子さんが、この地へ行った。
  その後、夏目雅子さんに癌ができる。
  1981年の2年後に、甲状腺が腫れ(バセドー病)、この
 手術をした・・、その後に、また、瞼が腫れた・・
  1892年には、腎盂炎になり、そして、子宮内膜症にな
 る・・
  そして、夏目雅子さんは、1985年2月に白血病となる。
  そして、1985年9月に亡くなられた。
  そして、このNHKの番組「シルクロード」を見た日
 本人・27万人がシルクロードへ旅行した。
  その様な時のある日本人青年の体験は・・、
  ローカルバスで南新疆に向けて走っていると、突然、
 「ピカッ」っと光るものを見た。
  その後、バスの中を見渡すと同乗者の皆が「鼻血」を
 流していた・・その光景は、その青年には滑稽にさえ思
 えたという・・しかし、その青年も、自分の鼻に手を当
 てると自分も同じように血を流していたという。
  バスの中は騒然となったという・・
  その後、あの時、被爆したのだと思っているという・・、
  札幌医科大学教授・高田純氏は、中国西域の観光から
 帰国した後に「白血病」「肺がん」「悪性リンパ腫」を
 発症したという方や、その家族から情報が寄せられてい 
 るという・・
.
1964年10月27日、中国が、核弾頭を装備した東風2号Aミサ
 イルが酒泉衛星発射センターより発射され、20キロトン
 の核弾頭が、ロプノールの標的上空569mで空中爆発させ
 た。
.
1967年6月17日、中国が、初の水爆実験を行なった。
  威力2メガトンの熱核爆発で、爆発高度地表130メート
 ルの空中爆発の核実験が行われた。
.
1970年、中国は、この年初頭から1971年にかけて、核兵器
 をチベット高原に輸送し、青海省アムドの北西部先端に
 あるツァイダム盆地に、DF-4ミサイル発射用地を完成さ
 せ、核ミサイルを配備した。
  現在もチベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリ
 ンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用
 地が整備されている。
.
1973年6月27日、中国が、航空機からの原爆投下をした。
  航空機からの投下、威力2.5メガトンの熱核爆発の核実
 験を行なった。
  カザフスタンの報告では、爆発高度は1000メートル。
.
1992年、大量の死者が出された中国の原爆
  この年に、ウイグル人のアザト・アキムベク、ユシュ
 ムべク・ムフリーシ氏は、世界核被害者大会で被曝の状
 況を訴えた。
  そして、1998年に、イギリスのチャンネル4で「Death
  on the Silk road(死のシルクロード)」というドキュ
 メンタリーが放送された。
  日本では、あまり東トルキスタンの被曝の状況が知ら
 されることはなかった・・報道が隠されていた・・
.
2002年8月、中国の核による被害調査を、日本人の大学教授
 が行ない・・、
  核防護学者・高田純札幌医科大学教授による2002年8月
 以降の調査では・・、
  中国が、ウイグル地区で実施した核実験によって、同
 自治区のウイグル人を中心に19万人が急死した・・
  そして、急性放射線障害など健康被害者は129万人に
 のぼり・・、
  そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人
 以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上
 に達すると発表した。
  また、被害は、シルクロード周辺を訪れた日本人観光
 客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要で
 あると同教授は指摘した。
  高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同
 地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データ
 や人口密度などを基礎データとした。
  楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では
 高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを
 放射する「核の砂」が大量に発生し、東京都の136倍に相
 当する広範囲に及んだ。
  同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさん
 で、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広
 島原爆被害の4倍を超える被害者を出した。
  高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中
 国政府の情報の隠蔽も加え、国家犯罪にほかならない」
 と批判した。
  このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモ
 ットにされた」と訴えるウイグル人も現れた。
  ウイグル人医師のアニワル氏は、「中国では、被曝者
 が団体を作ることも、抗議デモをすることも許されない。
  また、国家から治療費も出ない。
  中国政府は、『核汚染はない』と公言し、被害状況を
 隠蔽している。
  そのため、海外の援助支援団体も入れない状況となっ
 ている。
  原爆症患者が、30年以上も放置されたまま」・・
  ・・などとして、中国政府の対応を激しく批判した。
  また、核実験場は、最も近い居住エリアから10キロし
 か離れていなかった。
  そのため、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の
 他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっている。
  そして、漢人であっても、ウイグル自治区に30年以上
 滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となって
 いる。
  また、先天性異常のために歩くことも話すこともでき
 ない「障害児ばかりが生まれる地域」もある。
  中国による同地区核実験については、イギリスBBCが、
 1998年8月に、隠し撮りによるドキュメンタリー「死の
 シルクロード」(27分)を報道し、
  この作品は、ローリー・ペック賞を受賞した。
  アニワル医師も、同作品に同行した。
  この様な事は、中国に利する事ばかりしている日本の
 NHKは行わないだろう。
.
2010年、西側諸国が民主化を煽った。
  「アラブの春」と・・美しい世の中が来ると煽った。
  そして、今、「難民受け入れ」を人道的な問題に絡め
 てとやかく言っているが・・それは、「事後処理をして
 いるごとく」で問題だ。
  これを、とやかく言う前に、この様な難民を発生させ
 ている原点・発生点の問題を追求しなければならない。
  難民を発生させているシリア内戦は、大国によってつ
 くられた紛争である。
  2010年より西側は、民主化を煽った。
  「アラブの春」と美しい世の中が来ると煽った。
  既存の政権が、「遅れた態勢で悪い」ように見せた。
  既存の政権を、次々と壊して行った。
  西側は、「民主主義を根付かせるのだ」が最終目標だ
 った・・が、民主主義が根付いた国は無かった。
  エジプトは、結局、軍制になってしまった。
  リビアは、国の体制がシッチャカ、メッチャカのまま
 で混沌の中にある。
  西側諸国が、かえって悪いことをした結果となった。
  西側諸国は、シリアも、アサド政権の独裁体制を倒し
 たかったのだろうが、難民を生む結果となって、泥沼が
 続いている。
  最初、西側は、アサド政権を倒したいとイスラム国と
 称したISを応援し・・武器を渡した。
  次に、クルド族を応援した。
  アメリカとEUは、このクルド族へ武器を渡してIS
 と交戦させた。
  アサド大統領は、最初から、「我々の敵は、テロリス
 トだ」と言っていたが、アメリカやEUは、聞く耳を持
 っていなかった。
  そして、結局、今・現在(2018年)の泥沼の悲惨な結
 果となっている。
  ロシアは、アサド政権を応援し、大国の代理戦争の様
 相になった。
  ロシアは、IS及びアサド反対派への空爆をしている。
  この難民もEUへ行く。
  アメリカは、何千機ものミサイルをアサド反対派の応
 援のために渡した。
  このミサイルによる難民もEUへ行く。
  EUのドイツは、第二次世界大戦の罪滅ぼしだと、難
 民を受け入れている。
  「非生産的なサイクルだけ」が回っている。
  「みんなが不幸になるサイクルだけ」が回っている。
  アメリカ・ロシアの代理戦争で難民にされた人々が、
 EUに流れ込む。
  そのどばっちりをトルコやEU周辺国などが受けてい
 る。
  トルコの難民は、何と、200万人を越えている。
  かつて、ユダヤの方々が世界中をさ迷ったが、このト
 ルコの難民の方々が世界へさ迷わないで済むようにしな
 ければならない。
  そして、元の国へ帰れるようにしなければならない。
  トルコは、トルコのお金でこの難民を救済している。
  アメリカやロシアは、このトルコを支援していない。
  また、トルコは、EUに支援を要請したが、EUは知
 らん顔をしている。
  何度も無視されている。
  難民の方々は、アメリカ・ロシアを目指せ、問題を作
 った国を目ざせ。
  トルコを反民主主義だと批判するのは間違いだ。
.
2015年9月10日、「ディー・ツァイト」紙に、スラヴォイ・
 ジジェクという哲学者の論文が掲載された。
  (参考)「ディー・ツァイト」紙:ドイツ・ハンブル
     クに本拠を置く、週刊発行される全国新聞。
      質の高い新聞としての評価されている。
      発行部数:488,036、推定読者数:200万人以
     上。
      最も広く読まれるドイツの新聞の一つ。
  (参考)スラヴォイ・ジジェク:スロベニアの哲学者。
      難解で知られるラカン派精神分析学を映画や
     オペラや社会問題に適用してみせ、一躍、現代
     思想界の寵児となった。
  スラヴォイ・ジジェク氏は、この論文の中で・・
  「現在、EUを危機に陥(おとしい)れている難民問
 題は、グローバリズムが原因で、それは新たな奴隷制度
 を形成して行くだろう」と結論付けた。
  そして、そのEUの理念は、「美しく『統合』という
 所に立っている」が・・、
  しかし、それは、美しくEU内だけが統合されている
 だけであって・・
  その美しいEUの統合の外側には、「EUが、自由に
 搾取できる広大な地域・世界が広がっている」という状
 況の中に「美しく統合を目指すEU」がある。
  EUの外側世界が搾取される1例を示せば・・
  2001年、国連が、中部アフリカのコンゴにおける資源
 の不法な搾取について調査した。
  コンゴには、豊かな地下資源がある・・
  それは、ダイヤモンド、金、コバルト、コルタンだっ
 た。
  この豊かな資源を巡って、奪い合いの戦争が起きた。
  コンゴ内戦などである。
  (参考)コンゴ内戦には、コンゴ動乱(1960年~1965
     年)、第一次コンゴ戦争(1996年~1997年)、
     第二次コンゴ戦争(1998年~2003年)がある。
      結局、1960年~2003年、戦争状態が続いた。
      この地には、この他にも、コンゴ共和国内戦
     として(1993年~1994年)(1997年~1999年)
     がある。
  その奪い合いの戦争に・・欲深いグローバル資本があ
 った。
  コンゴは、壊されていた。
  もはや、国家と言えるものは無かった。
  資源を搾取する側のEU諸国をはじめとする外国資本
 が、うごめいていた。
  その外国資本が、コンゴの各部族と結び付いて、利権
 を奪いあい・・追い求めていた。 
  EU諸国をはじめ、その外国資本は、コンゴという国
 家を無視し、コンゴの各部族の首領と結び付いて利得を
 追求していた。
  軍隊を作らせ、麻薬中毒にした少年兵にまで戦わせて
 いた。
  巨額の利益が、EU諸国をはじめとする外国資本へ入
 った。
  その利益が、コンゴの人々へ入ることは無かった。
  コンゴの人々は、鉱山で奴隷のごとくの労働をさせら
 れた。
  または、コンゴの人々は、住民の方々は、「難民とな
 って逃げた」・・逃げ惑った。
  西側が奪った、西側に入った資源は、パソコンやスマ
 ホなどのハイテク機器に使われた。
  1514年から1566年の長きにわたって、EUのスペイン
 のキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、南米・中米・
 北米メキシコ、および、その離島で、インディアスの方々
 の1000万人以上を殺しに殺したが・・このEU諸国など
 の1960年代の蛮行は、そのかつての16世紀の極悪蛮行を、
 再び、現代に行ったごとくだった。
.
2015年10月10日、ドイツのベルリンで、TTIP反対デモ
 が行われた。
  代々のアメリカの政権は、その政治は、一握りの者た
 ちに握られ、繰られている。
  本来ならば、大衆の意思が反映されるべき政治の権利
 が、その大衆が持つべきものが・・奪われている。
  大きな資金を寄せた者・・その寄付した者の力が牛耳
 っている。
  金によって有利に・・金を寄せた力が利する政治へと
 繰られている。
  政治を行なうものは、当然、金を必要としているため、
 金を持つ力に繰られてしまうという状態になっている。
  「その意に沿うという政治」が行われる。
  そこにはアメリカの人々・民衆は登場していない。
  これが、ここアメリカだけの問題に終わらない所に大
 きな問題がある・・世界に波及して行くのである。
  民主主義のアメリカ・・アメリカは戦争をしてまで・・
  「民主主義を根付かせるのだ」という大義を立てて戦
 争までするアメリカが・・その民主主義をないがしろに
 しているという状況になっている。
  この様に、民主主義を売り込むアメリカで、民主主義
 が崩壊している。
  この金を持つ力は、世界で莫大に稼いでいる。
  その稼ぐ力の「稼ぐ行為」に抵抗し、逆らう状況を生
 むのが、世界の各国の法律である。
  その1例を言うならば・・農業・・
  農業の遺伝子組み換え作物の数々の事例がその1例・・、
  例えば、EUでは、ほとんどと言ってよいほど「遺伝
 子組み換え作物は禁止」されている。
  しかし、EUの基準は、アメリカ基準より厳しいので、
 アメリカの輸出サイドは困るのである。
  アメリカは、トウモロコシ、大豆、サトウキビなど、
 そのほとんどが、90%が、遺伝子組み換え作物である。
  だから、ここで、アメリカは、このEUの基準を変え
 させようとする。
  色々と・・言いがかりをつけて・・
  EUで遺伝子組み換え作物で儲けたいからである。
  その他、アメリカは、ホルモン剤で成長を速めた牛を
 売りたがっている。
  また、塩素消毒した鶏肉なども、アメリカは、甘い基
 準でOKとなっている。
  このアメリカの甘い規準に、他国に合わさせようとし
 ている。
  今、EUで問題となっているのが、TTIP(環大西
 洋貿易投資パートナーシップ協定)である。
  アメリカの基準の押し付けで、「どこが、パートナー
 だ」と叫びたい状況にある。
  ここで、アメリカ規準が押し付けられている。
  こんなメカニズムで、アメリカの政治を牛耳った「金
 を持った力」が、他国の基準を変えてまでして、輸出し
 て、儲けようとしている。
  民主主義の欠片(かけら)もない。
  一部の特権セクションの言う事を聞くアメリカ政治で、
 圧力を行使するという一部の君主制の如くの政治的圧力
 行動がなされている。
  2015年10月10日に、ベルリンでTTIPの反対デモが
 行われた。
  このデモは空前の規模となった。
  主催者は、25万人と発表した。
  EUの人々の96%が、このTTIPに反対していた。
  人々は、『消費者の安全がないがしろにされている』
 と主張した。
  このアメリカの甘さが、EUの甘さとなり、「消費者
 の安全基準」の劣化・低下が恐れられている。
  そして、この様なアメリカのやり方を、「民主主義の
 崩壊のシステムだ」と糾弾し、主張している。
  民主主義の本家のアメリカが、自分が、「民主主義を
 壊す最右翼に居ること」に気づいていない。
  お粗末の限りである。
  そして、このTTIPにある『ISD条項(投資家対
 国家間の紛争解決条項)』が曲者(くせもの)である。
  つまり、ある企業が、外国で、現地の企業に比べて不
 当に扱われたと感じたとき、その国の政府を、訴える権
 利があるとしている。
  「感じる」という主観的な、曖昧な、怖さもある。
  その様な曖昧な感じから、「調停裁判所」に訴えられ
 たら、そこでの審議は秘密の非公開で行われ・・
  (直接、利害関係のある人々・大衆が知らない所で審
 議される)。
  そして、その決定が最終決定で、上告もできない。
  そして、この決定(判決)には拘束力があり、従わさ
 れるという状況となる。
  その国にある、各国の法律は無視され、その「各国の
 法律よりも強い決定だ」とされている。
  アメリカという「裁判マニア」の国の御都合に沿って
 いるようになっている。
  『暗黒の決定に従う』、それも、何やら分からぬ仲裁
 裁判所という私的な組織の決定に従わされるという・・
 民主主義のひとかけらもない。
  アメリカ政権に、大金を献金するだろう「ある民間営
 利企業の利益」のために、締結国の法律が無効にされる
 という落とし穴を持っている。
  各国には、今まで、修正したり、改正したりして来た
 洗練された法律がある・・その様な法律を、種々、持っ
 ている。
  その総ての法律が「ないがしろにされ」、その法律よ
 り強い決定だというやり方に、何ら民主主義のやり方で
 ないものが、大手を振って歩き出そうとしている。
  人々の税金などの資金が、その様なやり方で奪われ、
 吸い取られ、吸収されそうになっている。
.
2015年11月12日、難民を受け入れていたスウェーデンが、
 入国検査をするという決定をした。
  これは、事実上の『難民の受け入れ拒否』を意味した。
  これをさかのぼること5年の2010年、「アラブの春」と
 呼ばれる民主化運動が、アメリカやヨーロッパ諸国の西
 側諸国に煽(あお)られて、2010年より始まっていて、
 そして、既存の政権が次々と倒された。
  その結果、よりよい政権が生まれたかと言えば、まっ
 たく違っていた。
  庶民の方々は、その混乱の中に投げ出された。
  西側諸国の横暴で「不幸の中に落とされた」という結
 果となった。
  西側諸国は、民主主義を根付かせるのだとした。
  その結果は、成功したかと言えば、成功した例は「ま
 ったく、無かった」。
  ただ、荒れすさぶ国々ができただけだった。
  そして、その荒れすさぶアフリカ諸国から、地中海を
 渡って、難民の方々が、ヨーロッパへ渡るという事態が
 起きた。
  2015年11月11日、EUとアフリカ諸国の首脳が、総勢
 60人が、マルタ島に集まって、サミットが開かれた。
  議題は、アフリカ情勢を安定させて、難民発生を抑え
 る事だった。
  しかし、EUがすることが出来たことは、アフリカ諸
 国への経済援助しかなかった。
  EUの難民を救済するという理念は悲鳴を上げていた。
  そして、この翌日・2015年11月12日、難民を受け入れ
 ていたスウェーデンが、難民の入国検査をするという決
 定をした。
  これは、事実上、難民の受け入れ停止を意味した・・
 難民受け入れ拒否を意味した。
  スウェーデンは、方向転換した。
.
2015年11月、EU・・「難民問題でゆれて」見えたもの・・
  EU・・「統合だ」「グローバリズムだ」・・と美し
 い理念で始まったEU・・、
  そのEUに、「難民」の話が起きて、ある意味EUの
 実態が見えた、
  難民問題は、ある意味、「リトマス試験紙」だった。
  EUの中から「キリスト教徒なら受け入れる」という
 声が出た・・
  「家族を呼び寄せるのは駄目だ」の声・・
  「EU国境線でしっかり入国審査をする」・・
  「地方自治体の首長の難民拒否の意思表示・・我が町
 で増えてもらいたくない」
  「EU議会内でのドイツ批判・・ドイツの行為はスタ
 ンドプレーだ」
  「ドイツに付き合っていられない」
  「ドイツが難民を呼び込んでいる・・迷惑だ」
  「ドイツが、今さら、連帯なんて言わないでくれ」
  「ドイツは、二つの顔を使い分けている」
  「喜んで難民を受け入れるEU内の国は皆無だ・・難
 民の押し付け合いの戦いの状態」
  「EU国境の防衛だ」との政治家や民の声がする。
  ドイツ国民も、二つに分かれて、シッチャカ、メッチ
 ャカになった。
  難民の受け入れに積極的なメルケル首相の支持率も急
 落した。
  ここまでで・・見えて来た事は・・
  「難民は迷惑」
  「難民はEUに入れない」
  「EU国境で審査する仕組みを作る」
  「世界を感動させた『ワンダフルEU』は、急速に過
 去の話になった」
  「美しい理想で始まったEUは、難民処理で可視化さ
 れ、当初の目標であった統合は、そっちのけで各国が、
 それぞれ自国の利益を死守しようとする姿が・・はっき
 り見えた」
  「人道主義や善意は、背に腹は代えられないになった」。
  難民の方々が、逆に、可哀想な状態に置かされるとい
 うEUの形となった。
  EUなんて営利団体・・結局、自分たちがその特典を
 維持し、あるいは強化する目的の団体と化した・・
.
2015年11月21日、ベルギーは、最大のテロ警戒態勢を引い
 た。
  民主主義。
  アメリカやヨーロッパが、民主主義の教えを垂れよう
 と、その国に関わる(余計なおせっかいを始める)。
  民主主義は良い主義なのだから、我々の行動は正しい
 のだの論理でやる。
  この関わりから事が広がって、その国の利益を収奪す
 る様になる。
  特に、アフリカ・・、
  様々な西側資本が、最後には、アフリカの搾取に余念
 がなくなる。
  巧妙なる収奪行為を行う。
  結局、やっていることは、最後に悪となる。
  草刈り場は、アラブからアフリカへ移った。
  新しい草を刈り取りたいと、年がら年中、こんなこと
 をしている。
  アメリカ・ヨーロッパの街がきれいなのも、この様な
 収奪の結果なのだ。
  そして、難民が生まれる。
  哲学者のスラボイ・ジジェク氏は言う・・、
  「難民が出ないようにしたいのならば、やるべきこと
 は簡単だ。
  それは、それらの国々で儲けている西側資本が手を引
 けばよい」・・と・・、
  そして、さらに、「資源の利益が(西側諸国が収奪し
 ないで)現地に還元される様になればさらに良い」と。
  アラブやアフリカの国家の崩壊は、その諸国が悪いの
 ではなく、欲の深い西側諸国が利益を収奪している結果、
 起きていることなのだ。
  この様な国ばかりになっている。
  強国が、弱い者いじめをしているのだ。
  この荒れた国々からテロリストも発生し、悲惨な事件
 も起きるのだ。
  その様な一つが、2015年11月21日、ベルギー政府は、
 ブリュッセル首都圏に、深刻なテロが発生する可能性が
 あるとして、警戒を最高レベルに引き上げた。
  地下鉄は止まり、店は閉まり、町はシーンと静まり返
 った。
  その街を重装備をした警察官と兵士がパトロールする。
  ベルギーは、コンゴからうまい汁を吸った。
  かつての宗主国だった。
  その様に好きにして来た国々から難民が生まれている。
  難民が出ないようにしたいなら、今までやってきた欲
 深い行為を止め、それらの国々で儲けている西側資本(
 グローバリズムを良い事に儲けまくっているグローバル
 企業)が手を引けばよいだけの話。
  そして、資源の利益は、横取りしないで、現地へ還元
 されるようにしなければならない。
  アラブの国家は、そして、アフリカの国家の崩壊は、
 現地だけの問題ではない。
  西側資本が、利益を収奪することが問題なのだ。
  西側強国が、経済的植民地にしている結果なのだ。
  ヨーロッパ列強が、利益を得つづけたアラブ諸国から、
 また、西側資本が、様々な収奪・搾取を余念なくやって
 きたアフリカから、今、難民がなだれ込んでいる。
  この様な状況となった責任は、なだれ込まれているヨ
 ーロッパ列強諸国にある。
.
2016年2月15日、「アラブの春(2011年)」から5年が経ち、
 アラブ世界の状況はかつてないほど悪いが・・と、一方
 の陰の仕掛人のイギリスのエコノミスト誌が、この日に
 言った・・
  「アラブの春」は、ほとんどの当事国にハッピーエン
 ドをもたらさず、リビアとイエメンは内部崩壊、エジプ
 トとバーレーンは以前より強硬な独裁制となり、シリア
 は奈落の底に・・、
  また、他のアラブ諸国も状況は悪く・・イラクは事実
 上、クルド、シーア派、IS支配地域に分裂した。
  アルジェリアとスーダンは、略奪的な軍事政権に支配
 され、パレスチナは孤立と弱体化を深めている。
  富裕な湾岸諸国でさえ、石油価格の急落や増える若年
 層の高い失業率等、体制が揺さぶられるような深刻な事
 態に直面している・・と・・報じた・・
  「民主主義は良い制度だ」と西側諸国が仕掛けた・・
 だからと言って「よくない方法で根付かせよう」とした・・
 ここが悪かった・・ここから難民が発生した。
  ドイツは、第二次世界大戦で卑劣な事をした、だから
 と、罪滅ぼし的に難民受け入れの基本法を持った。
  しかし、その法は、何ら、「悲惨な難民発生を未然に
 防ぐこと」に寄与していない。
  この点に関して、「無力な対応なのだ」。
  例えば、シリアの内戦は、イラクやリビアと同じく、
 「作られた戦争」で、これに対し、まったく関係ない、
 無力の存在。
  西側諸国は、「民主主義を根付かせるのだ」と、2010
 年から、「アラブの春だ」と煽った。
  そして、次々と既存の政権を壊した。
  しかし、前記した様に、不安定な争いの社会ができた
 だけだった。
  この2015年から2017年と、世界を心配させている難民
 問題も、「シリアのアサド政権を倒すのだ」と西側諸国
 が煽った。
  そして、ISへ武器援助をして戦争を作った。
  そして、卑劣な事に、クルド族へ武器を渡して、IS
 に対峙させた。
  アメリカやEUは、戦争づくりをしている。
  そして、収拾の付かない事態となっている。
  ただ、戦争とまったく関係ない人々が殺され、亡くな
 っている・・そして、難民の方々ができた。
  ロシアの大国も参戦して来て、アメリカとロシアの代
 理戦争の状況となった。
  この逆をされたらどう思うのか?
  この主義が良いのだと、勝手な主義の政権を良いと押
 し付けられたら、アメリカやEUはどう思うのか?
  トルコには、200万人の難民の方々が居る。
  こんなにまで大勢の難民数にならなければならないく
 らい問題はこじれている。
  そして、このトルコの難民は、EUには来てもらいた
 くない。
  EUに行きたい難民の方々が、トルコに留まっている。
  トルコは、その難民にかかる費用を援助してくれ、増
 額してくれと、何度もEUに言っているが、EUは、ま
 ったくの知らん顔となっている。
  逆に、苦しんでいるこのトルコを、ドイツは、「反民
 主主義だ」などと非難した。
  ドイツも厳しい状況に置かれているんだろうが・・
  2019年のドイツの生活保護を受ける人の数は、100万人
 増えると推計されている。
  難民の方の一人当たりかかる費用は、医療費を含めて、
 1ヶ月およそ1000ユーロ。
  1ユーロが約130円だから、130円×1000×12ヶ月×1000
 万円は、1.7兆円が・・今までとは別に増える。
  お荷物のギリシャも面倒を見なければならないし・・?
  結局、ドイツの方々に、先々のドイツの崩壊が見えて
 来た・・、その心配が浮上して来た・・、
  ドイツ国内の難民の方々の宿舎に火がつけられる事件
 が起きるようになった。
  こんな事件が、相次ぐようになった。
  難民を受け入れる態度を表明する自治体の町長に、脅
 迫状が送られて来ることなども起きた。
  キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おとし)め
 る放送はするが、この様な放送はまったくしない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)595E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月29日、日本鉄道本社汽車課直轄の工場を大宮に
  設け、12月10日、操業開始した。
  (1896年9月1日、汽車課から分離し、大宮工場となる)

1894年3月、村井兄弟商会が、両切り紙巻煙草「ヒーロー」
 を発売した。
  紙巻きたばこの起源は、1853年~1856年のクリミア戦
 争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための
 紙で、刻みタバコ葉を巻いて吸ったのが始まりと言われ
 ている。
  しかし、コロンブス以前に、アメリカ・インディアン
 は、乾燥させたタバコの葉を刻んで植物などで巻いて吸
 うことを行っていた。
  1700年には、ラテンアメリカからスペインに向けて紙
 巻たばこ用の紙が輸出されている。
  クリミア戦争以前にも、特に、スペインでは紙巻たば
 こが吸われていた。
  紙巻たばこが、主流となったのは、ヨーロッパや日本・
 中国では第一次大戦後で、アメリカでは第二次大戦後。
  また、一般大衆を欺いている行為が・・ライトたばこ
 など、低タールをうたう製品は「ごまかし」がある・・
 大衆を欺いている。
  欧州では、「ライト」「低タール」といった用語の使
 用を禁止しているくらいである・・
  これは、実際には、減少したニコチン摂取量を補うた
 めに喫煙するたばこの本数が増えたり、より深く吸い込
 むことに、はっきりつながっていて、肺腺がんリスクを
 増大させている。
  マイルドやライトでも、吸い方によって吸い込むニコ
 チン量が急増している。
  2009年、アメリカに、タバコに起因する死亡は、44万
 3,000人であり、アルコールは9万8,334人というデーター
 がある。
  また、たばこを吸う人のうち、約半数は、たばこに関
 連した病気で死亡しているとする調査報告があり、
  たばこを吸う人は、そうでない人に比べて寿命が約14
 年短くなるという指摘もある。

1894年3月、朝鮮国内で東学党の乱。

1894年4月2日、日英通商航海条約交渉が開始された。
  この日、ロンドンで、第1回、日英条約改正委員会が
 開かれた。
  調印は、1894年7月16日・・、
  治外法権が撤廃された。
  これは、イギリスが、ロシア帝国の南下に対して、力
 の増した日本に期待した結果だった。
  内容は、内地開放を代償として、領事裁判権を撤廃さ
 せ、関税自主権も部分的に回復させた。
  また、片務的であった最恵国待遇を相互的だとした。
  この条約の調印の時、イギリス外相のキンバーリー伯
 は、日本の青木駐英公使に対して・・、
  「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的
 地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したこと
 よりも重大なことだろう」・・と、日清戦争が起きると
 いう状況を掴(つか)んだ上で語っている。
  また、独り立ちした日本を承認したという形となり・・
  以降、この年の1894年から翌年の1895年にかけて、同
 内容の条約を、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、
 オランダ、イタリアなど14カ国に調印させた。
  これによって、日本は、法権のうえで、欧米列国と対
 等の関係に入った。

1894年4月8日、ブルックナーの交響曲第5番が初演された。
  グラーツオペラ座(Grazer Oper)

1894年4月10日、愛媛の道後温泉に、道後温泉本館が完成
 した。  
  道後温泉本館は、愛媛県松山市の道後温泉の中心にあ
 る温泉共同浴場で・・別名:愛称が「坊っちゃん湯」。
  1890年、道後湯之町の初代町長として伊佐庭如矢(い
   さにわゆきや)が就任し・・、
    この頃、町の最大の懸案は、老朽化していた道後
   温泉の改築であった。
    伊佐庭は、町長就任に際して、自らは無給とし、
   その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。
    総工費は13万5千円。
    当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、
   あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾き
   かねない無謀な投資だと非難が渦巻いた。
    反対運動は激しさを増し、伊佐庭が命の危険を感
   じるほどだったが、伊佐庭は決定を貫き通した。
    棟梁は、城大工の坂本又八郎を起用し、姿を現し
   た木造三層楼は、当時でも大変珍しがられた。
    伊佐庭は、さらに道後への鉄道の引き込みも企図
   し、道後鉄道株式会社を設立した。
    一番町~道後、道後~三津口間に軽便鉄道を走ら
   せ、客を温泉へ運んだ。
    関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展
   して行った。
  1895年、本館完成の翌年のこの年、文豪・夏目漱石が、
   松山中学の英語教師として赴任した。
    漱石は、その建築に感嘆し、手紙や、後の小説『
   坊つちやん』の中で「温泉だけは立派なものだ」と
   絶賛し、実際に、頻繁に通った。
    手紙では、8銭の入浴料で、「湯に入れば頭まで石
   鹸で洗って」もらえ、3階に上れば「茶を飲み、菓子
   を食う」ことができた・・と・・
    小説では「住田」の温泉として登場する。
    これにあやかって、「坊っちゃん湯」という。
  1994年、国の重要文化財(文化施設)に指定された。
  2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編におい
   て2つ星に選定された。
  2007年3月、美しい日本の歴史的風土100選に、松山城
   と共に選定された。
  2009年、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された。

1894年4月13日、移民保護規則が公布された。
  日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始
 まった。
  今までにない変わりゆく改革の中で、急速な近代化と
 社会変化が起きた。
  農業形態も、経済構造が変わっていくなかの改革で、
 農村部に余剰労働力が生まれた。
  国内や海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われた。
  1868年、横浜在住のアメリカ商人ユージン・バンリー
 ドは、150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーシ
 ョンへ送った。
  また、40人をグアムへ送った。
  この労働者は、「元年者」として知られている。
  日本政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国し
 た。
  近代日本の最初の海外移民だった。
  しかし、この「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい
 酷(ひど)い取扱を受けた。
  明治政府が、救出に乗り出さなければならないほどだ
 った。
  国民を大切にする日本政府は、この「元年者」の失敗
 で、この後、20年間近く、日本人の海外移住を許さなか
 った。
  かわりに、北海道開拓を推進した。
  そして、17年後の1885年、ハワイ「官約移民」で再開
 された。
  これは、ハワイ王国の依頼でもあった。
  アメリカによるハワイ乗っ取りへの対応・・アメリカ
 の行動を抑えたいというハワイ王国の日本に頼った面も
 あった。
  日本人の本格的な海外移住が始まった。
  「官約移民」制度は、日本と独立国であるハワイ王国
 の条約に則った正式な正規な行動であった。
  日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送
 るというものだった。
  1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、
 この制度によってハワイへ渡航した。
  また、この時、数千人の日本人が、太平洋上の木曜島
 (イギリス領)、ニューカレドニア、オーストラリア、
 フィージーなどへ渡った。
  この頃の渡航者のほとんどが、海外への永住をめざし
 た移民ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出
 稼ぎだった。
  そして、1893年、外務省関係者、知識人、ジャーナリ
 ストなどが集まり「殖民協会」を設立された。
  これは、日本も、西洋諸国の様に、国外市場を拡大し、
 海外へ向けて発展しなければならないとしていた。
  この殖民計画事業は、イギリスのオーストラリア移住
 (侵略)などのようには行かず・・失敗した。
  1899年、南アメリカのペルーへ、最初の契約労働者の
 渡航が始まった。
  そして、ラテンアメリカへの日本人渡航は盛んになっ
 て行った。

1894年4月14日、アメリカのニューヨークで、キネトスコー
 プが公開された。  
  キネトスコープは、1891年、トーマス・エジソンによ
 って発明された(1888年説あり)
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、エジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展された。
  1894年4月14日に、ニューヨークのブロードウェイ1155
   番地に、世界初の映画館(キネトスコープ・パーラ
   ー)が設置された。
    キネトスコープは世界的に大ヒットし、その後、
   2年でアメリカのほとんどの街にキネトスコープ・パ
   ーラーが設置された。
    これは、スクリーンに映写されるのではなく、箱
   の中をのぞき込む形だった。
    当時、「ピープショー」とも呼ばれ、ピープ(peep)
   とは、のぞくという意味。
  1895年、一度に多くの人が鑑賞できるスクリーンに投
   影される形の映画(シネマ)が、リュミエール兄弟
   によって発明された(シネマトグラフ)
  1896年11月25日~1896年12月1日、日本で、エジソンが
   発明したキネトスコープが、神戸の神港倶楽部で初
   上映された。
  1897年、リュミエールが発明したスクリーン式の「シ
   ネマトグラフ」が、大阪の南地演舞場や京都で披露
   された。

1894年4月16日、東海道線が、西ノ宮駅~三ノ宮駅間で複線
 開通した。

1894年4月、甲午(こうご)農民戦争
  朝鮮の全羅道(チュルラド)一帯の農民が、東学教徒
 とともに蜂起した。
  これをきっかけに、各地で農民蜂起があいつぎ、東学・
 農民軍は、随所で政府軍を撃破した。
  全羅道と、その周辺の官庁をつぎつぎと占領し、5月末
 には、全洲(チョンジュ)を制圧した。
  朝鮮李朝政府は、清に軍の派遣を要請する一方で、東
 学農民軍の指導者である全琫準(ジョン・ボンジュン)
 と交渉し、両者は和解した・・が・・

1894年4月、北越鉄道株式会社創立願を逓信大臣に提出した。
  (7月26日仮免状下付)

1894年5月1日、中国鉄道発起人が、岡山駅から津山駅・勝
 山駅・米子駅を経て、境駅に達する鉄道建設を出願した。
  (1894年7月14日、線路を岡山駅~米子駅間に改める)
  (1896年4月30日、免許状下付、のち免許線路の短縮を
  申請し、津山駅以北取消した)

1894年5月4日、朝鮮で、農民軍が白山に集結して、甲午農
 民戦争が再び開始された。

1894年5月7日、文官高等試験細則を制定した(閣令第2号)

1894年5月12日、第6特別議会が召集された(開会、15日)

1894年5月14日、イギリスでブラックプールタワーが公開さ
 れた。
  ブラックプールタワーは、ブラックプールにある塔で、
 エッフェル塔に触発されて建設され、この日に開業した。
  高さ:158メートル
  エッフェル塔:324メートル
  東京タワー:332.6メートル

1894年5月15日、第六特別議会が開会された。
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~1894年6月2日解
 散で短い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく対立した。
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語。
      ロシアの東アジア進出により緊迫した国際情
     勢であった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで反政府側の日本
     主義派・・、
      そして、自由党、改進党などの民党連合は、
     政府外交を批判し、また、政費節減・民力休養
     路線と批判した。
      それは不平等条約によって侵されている国家
     主権の回復と、積極的な対外進出を主張してい
     た。
      また、それは、対等条約を実現するためには
     現行条約を励行して、条約の規定のない所で外
     国人を厳しく取り締まり、彼らに不利益を与え、
      対等条約の交渉に列強が応じない場合は、条
     約破棄もせよというものだった。
  この第六回帝国議会で、貴族院議員の近衛篤麿・小沢
 武雄は、議員の二条基弘ほか50人の賛成を得て、「北海
 道ニ鉄道ヲ敷設シ及港湾ヲ修築スルノ建議案」を提出し
 た(建設線路は、函館・小樽間、空知太、網走間、旭川・
 宗谷間)
.
  (今日の言葉)
.
  題:イタリアは敗戦国だ・・しかし、アメリカ・イギリスは戦勝国側にした。
    日本やドイツは、今だに、国連憲章の敵国条項に落としめられている。
.
紀元前160万年、人類の先祖が、この頃、草原の生活で洗練
 された歩き方を始めた。
 160万年前のホモエレクトスだった・・、
 画期的な進化が現れたのだった・・、
 垂直に立つことによって脳は進化し、重く、大きく・・
 言葉の話せる脳への進化だった・・情報伝達力の向上で
 あった。
 アファール猿人の場合は、喉の奥が広くなく、まだ、
 音の種類は狭かった・・が・・、
 まっすぐ立つことによって、喉の奥に空間が出来て・・、
 複雑な音が出せるようになった。
 この脳は、足や手が発達した後に与えられたものだっ
 た・・
 木から降りて、猿と違って、二本の足で立って歩く生
 活になって・・貴方の祖先も・・ここから・・アダムと
 イブもここから・・
  キリスト教のアダムとイブの話の前に、これが無いと
 始まりません・・そうでなければいけません・・その様
 な進化があったのでした・・『進化する力を持つ人間』
 が存在していた・・
  思考を固定化しては、発展はありません・・
  キリスト教は、この最初から間違っていました・・
       ・
       ・
紀元前2万年、フランスの遺跡で、人間が集団で、馬を崖下
 に落とし、狩りをしていた状況が発見された。
 集団で複雑な役割分担をし、言葉で情報をやり取りし
 ・・人間は、さらに、あらゆる面で進化して行きました。
  脳が大きくなった人間・・さらに、この様な複雑な方
 法も手に入れた・・そして、コンピューターにたどり着
 く・・
       ・
       ・
紀元前206年、中国の漢の王朝に、前漢と後漢がある。
  この年、秦が討たれ・・前漢への時代が始まる。
  やっと、漢民族が、歴史に登場・・現れました・・
  中国初の統一王朝だった秦王朝の華夏族・・この秦王
 朝が、この年・紀元前206年、滅亡した。
  (参考)華夏族:かかぞく、漢の時代以前に、中原の
     黄河流域に暮らしていた部族。
  この後、中国は、この秦朝・華夏族を討った漢民族の
 各軍の将帥による群雄割拠の時代となる・・
  漢中、及び、巴蜀(はしょく、現在の四川省)に封じ
 られていた劉邦(りゅうほう、前漢を興した人)が・・、
  紀元前202年に、垓下の戦いで、項羽を討って、中国を
 再統一した。
  (参考)垓下の戦い:がいかのたたかい、中国、漢の
     劉邦が、その勝利を確定的にした戦いで・・
      垓下(現在の安徽省宿州市など)を中心に行
     われた。
      しかし、この戦いが、実際あったのかどうか
     に対して、歴史家から疑問が出されている。
  この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀
 によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年と
 なる。
  今・現在、この漢民族が、チベット・ウィグル・内モ
 ンゴルを完全に漢民族国家にしようと暗躍している。
  また、南シナ海や尖閣諸島、および、沖縄などのその
 他の諸地域をも欲しいと狙っている。
  そして、この中国が使う手が冊封体制(さくほうたい
 せい)・・
  現在、この冊封体制下の国に北朝鮮・韓国が入ってい
 る。
  (参考)冊封体制:さくほうたいせい、中国の皇帝が、
     朝貢をして来た周辺諸国の君主へ、官号・爵位
     などを与えて、君臣関係を結んで、彼らにその
     統治を認める(冊封)・・、
      豊臣秀吉が、必死に、徳川家康を大阪城に来
     させようとしたことと同じ・・
      そして、この冊封は、宗主国対藩属国という
     従属的関係におくことをさす。
      朝貢とは、藩属国の使節が、漢皇帝に朝見し
     て土産の産物を献上することをいう。
      これに対し、皇帝は、回賜として、貢物以上
     の返礼物を与えて皇帝の威徳を示した。
      その状況から、朝貢は、君臣関係を表す政治
     的儀礼であった。
      歴史的に、この漢代における外臣の制度がそ
     の始まりと言われている。
      例えば、朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっか
     い)などは、中国・唐と冊封関係を結んだので、
     東アジアの国際情勢は、唐を中心とした冊封体
     制のなかに組み込まれた状態だったが・・、
      日本は、この時、この体制の外にあって・・
     中国とは対等の隣国関係を保持したなどの経緯
     が歴史上にある。
.
2世紀頃、日本で、一番古い『漢字』の記載事例・・
  日本で、これまで知られている漢字で、最も古いもの
 は、2世紀ごろの土器に書かれたもの・・、
  そして、中国の歴史書に、3世紀のころ、日本と中国
 との間で、手紙のやり取りがあったとする記述がある。
  優秀な日本人は、これを発展させて・・、平安時代に、
 中国にない表音文字の平仮名(ひらがな)や片仮名を発
 明した。
  9世紀前半に入ると、漢字と片仮名が混じった文章例が
 みられ・・さらに発展させた表記法を行なった・・
  表意文字と表音文字の混合させた・・世界にはこの様
 な事例なく、日本唯一の優秀な表記法。
  また、10世紀から、平仮名は、漢字と並ぶ文字として
 認められ、ひらがなで書かれた豊かな文学が花開いた・・
  豊かな芸術が花開き・・世界に誇る最初の長編小説や
 日記文学が書かれ、他国の追随を許さない『孤高の光』
 の輝きがあった・・それを、優秀な日本の女性方が成し
 遂げた・・
  この様な素晴らしさを理解の出来ない、戦後の進駐軍
 のアメリカ司令部のマッカーサーは、日本人を馬鹿にし
 て、こんなに多くの漢字を覚えている訳はないと、日本
 人の識字率テストをしたりした、そして、日本を英語化
 しようとした・・
  日本は、中国から漢字を伝えられたが、日本は、更な
 る、豊かな表現手段として平仮名・片仮名を発明し、表
 音文字・表意文字を駆使して美しく豊かな日本文化を発
 展をさせて行った・・
  今・現在でも、ノーベル文学賞を貰うべき方々は、数
 え切れないほど居られるが・・キリスト教に偏するノー
 ベル委員会が授与しないだけ(キリスト教国に偏る)・・
       ・
       ・
980年、キエフ公国は、黒海の北方のウクライナ、ベラルー
 シ、ロシアの西部を領する地であるが・・、
  この国のウラジミール1世(在位980年~1015年)の意
 向によって、キリスト教東方正教会が広まった。
  ウラジミール1世は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト
 教を見比べた上で、キリスト教東方正教会を選んだ。
  それは、まったく個人的な好みの「卑劣な選択」だっ
 た。
  彼は、4人までの妻が持てるイスラム教に惹(ひ)か
 れた。
  しかし、禁酒の戒律が嫌だった・・それが、イスラム
 教にあったため、東方正教会のキリスト教を選んだ・・
 酒が飲みたかった・・
  これによって、東方正教会がスラブ人の間に広まった。
  キエフ公国は、バザール・ハン国を滅ぼした後、モス
 クワ近くまで支配した。
  しかし、13世紀半ばに、この国は、モンゴル人によっ
 て滅ぼされた。
.
1008年、日本の才女・紫式部が、源氏物語の執筆を始めた。
  古い時代から女性に優しかった日本・・男女平等をは
 じめ、平等の国・日本の才女・紫式部・・、
  この日本の女性が、世界で最初の長編文学を著わした。
  紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。
  彼女の父も、式部省に勤める学者として名高かった。
  この父親が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで
 聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまったという話が
 伝わっている。
  20歳代の頃・・紫式部は、国司として赴任する父親に
 従って越前(福井県)に赴(おもむ)いた。
  彼女は、藤原宣孝(のぶたか)から求婚されていた。
  しかし、この宣孝は遊び者であった。
  それで、紫式部は、返事を先延ばしにしていた。
  その様なところだったので、この事もあって、紫式部
 は、京を離れたのだった。
  越前では、父の秘書として、才能を発揮し、その役割
 を果たした・・そして、広い知識も収めた。
  結局、紫式部は、藤原宣孝と京で結ばれたが、夫に先
 立たれた。
  その後、一条天皇の后(きさき)の彰子(しょうし、
 藤原道長の娘)に仕えた。
  才女の集まる宮廷は、優雅で、知的な社交の場だった。
  優秀な才媛らと、その才能を競った。
  そのような環境から、世界に誇る優れた文学が生み出
 された。
  紫式部日記もこの環境を伝える文学となっている。
  宮仕えを終えた紫式部は、1008年頃から、不朽の名作
 「源氏物語」の執筆にとりかかった。
  全54巻にもおよぶ長編小説だった。
  現代に至っても、なお燦然と輝き続ける人類の宝とな
 っている。
.
1297年、ベネチア共和国の第49代元首のピエトロ・グラデ
 ニーゴは、政治改革案を提案した。
  ベネチアの政治は、非常に民主的な政治を目指してい
 た。
  ベネチアの考え方は・・「この世の仕組みは、あくま
 でこの世の民が決める・・(キリスト教の神ではない・・
 また、その代理人であるキリスト教聖職者でもない)」・・
 とした。
  故に、ベネチアは、力を誇示するローマ法王の「支配
 を及ぼそうとする権力」と対峙した。
  ローマ法王(教皇)が嘆いたほどだった・・「教皇で
 ある自分は、ベネチアだけは違う(支配は出来ない)」・・
 と・・、
  べネツアは、キリスト教司祭でさえベネチアの民・住
 民が選び、ローマ法王の権力を排除した。
  ベネチアの政治体制は、ローマ帝国の長さと同じ500年
 間も続いた。
  ベネチアの為政者の選出も神経を使っていた。
  まず、複雑な手順で、その「選出のための有権者」が
 決められた。
  それから、その有権者らの投票で、元首(ドージェ)
 が選出された。
  そして、さらに、専制的にならないように、元首が、
 補佐官の数名と相談して事を為すというシステムになっ
 ていた。
  それでも・・同じ家から二代目、三代目と続かないよ
 うに・・、
  そして、いつの間にか「君主制に転じていた」なんて
 ならないように注意していた。
  今、世の中が進んでいる21世紀だというのに、独裁的
 な国家・・タミの声を聞かない「中国」や「北朝鮮」が
 存在し、その独裁者が、大量殺戮兵器の核ミサイルを世
 界へ向けている。
  このベネチアの元首・グラデニーゴが、1297年に、政
 治改革案を提案したのも、民主政が形骸化して、ダンド
 ロ家やティエポロ家、モロシーニ家といった名門から元
 首が選ばれることが多くなり、金銭が絡む不正や衆愚政
 治的な動きによって政治が左右されることが多くなった
 からだった。
  しかし、この時、グラデニーゴの提案が受け入れられ
 て、改革が行われたと思ったが・・しかし・・、
  中産階級が大幅な増員という形となって、発言力が増
 していた。
  確かに、上流階層の発言力は抑えられたが、また、以
 前から発言力のない下層民衆と共に、この発言を抑えら
 れた・・
  そのため、上流階層と下層民衆の双方から、グラデニ
 ーゴは攻められた。
  また、ローマ法王もベネチアの台頭を快(こころよ)
 く思っていなかったため・・奸計(かんけい、悪意ある
 はかりごと)を巡らせた・・
  ローマ法王は、反対派と共に、グラデニーゴの失脚を
 画策した・・
  よく歴史上で、政治に首を出すキリスト教法王だった。
  1310年6月15日に、クーデターが勃発した。
  だが、グラデニーゴの対応によって、このクーデター
 は失敗に終わった。
  そして、政治改革を行なうのであるが、グラデニーゴ
 は、何故か?、この翌年、急死する・・毒殺?・・
  反対派の毒殺説が存在する。
  ピエトロ・グラデニーゴ:1252年生まれで、1311年に
 59歳で没した・・、
  元首としての在任は、1289年(37歳)から1311年(59
 歳)の22年間だった。
.
15世紀、この頃になると、スラブ人のモスクワ大公国の勢
 力が拡大し目立った。
  キリスト教東方正教会は、キリスト教の三大分流の一
 つだが・・、
  1054年、東ローマ帝国圏のコンスタンティノポリスと
 ローマの総主教座が、東西に分裂し・・、
  以後、西方のローマ‐カトリック教会に対して、正(
 オーソドックス、正統だの意味)教会として発展した。
  15世紀頃になると、ギリシャ正教会が、オスマン帝国
 の支配を受けるようになり・・主流が、ロシア正教会
 (ハリストス正教会)に移った。
  モスクワ大公国のイヴァン3世(在位1462年~1505年)
 は、ロシアをほぼ統一させ、ビザンツ帝国の最後の皇帝
 の姪を妻に迎えた・・、
  この後、ロシア人が、スラブ系の諸勢力の中心となっ
 て、キリスト教の東方正教会の主導権を握った。
  そして、20世紀になって、その多くが・・共産圏へ入
 った。
.
1637年、哲学者・デカルトの最初の著書「方法序説」が書
 かれた。
  この中で、デカルトは、キリスト教のイエズス会のラ・
 フレーシュ学院で学んでいたが・・キリスト教の数々の
 論理矛盾に対し・・そして、これを、伝統的に受け入れ
 ているだけの学問に対し・・批判した。
  当然、その結論は・・そこには、確実なものは「ほと
 んど見当たらない」と・・、
  最新の科学にも通じていて・・「このデカルトやパス
 カル」は、その合理主義を取った。
  そして、科学的思考も重んじた・・非科学的な論理矛
 盾だらけのキリスト教を嫌悪した。
  デカルト等は、「人間の理性は、非合理なものを断ち
 切る知恵を持つ」・・と説いた。
  そして、絶対王政の下で、「キリスト教会が定めた戒
 律」より・・「個々人の理性による判断」の方が確かだ
 ・・と・・
  そして、その思考法を重んじる近代哲学が広まって行
 った。
  近代哲学は、科学的根拠のないキリスト教の宗教行事
 も・・、
  イエスやマリヤの像を拝(おが)むなどの現世利益を
 求めるキリスト教の非合理なすべての事々を、当然、指
 摘した。
  「誰が救われ、誰が救われないかなど、あらかじめキ
 リスト教の神(主)によって決められている」という陳
 腐さなどを指摘した。
  同時に、キリスト教によって権威づけられた国王の統
 治に対する疑問へも気付かされる。
  また、権威づけられた国王・諸侯側も、キリスト教側
 へ種々の利便を与えた。
  デカルト派の近代哲学者は、「人間が理性を持って判
 断したことに『誤りはない』」と断言した。
  ここから、「より多くの人々が理性的判断を下す」と
 いう『民主主義の望ましさが認識されて行った』。
  民主主義の目覚め・・
  そして、「国王は、キリスト教の神(主)から授けら
 れたものであるから、国王は思いのままの政治を行なう
 ことが出来る」という『王権神授説』は、『否定されて
 行った』・・キリスト教の虚構は崩れて行った・・
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終結した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、あれほど強烈に「植民
 地の収奪をしておきながら、その植民地諸国に対して、
 謝罪など一度もしていない」・・、
  朝鮮は、中国に冊封されていて、なんだかんだと中国・
 清朝の翼下に入りたがっていた。
  強いものに付くという状況だった。
  1894年3月29日に起きた甲午農民戦争の朝鮮国内の反乱
 が抑えきれないと見ると、「中国・清の出兵を要請し、
 助けを求める」というような李氏朝鮮の状況だった。
  日本が、力を付けて、中国・清と対等に行動できるよ
 うになると、朝鮮の態度も変わった。
  そして、日清戦争に日本が勝利すると、朝鮮は清から
 独立することが出来た。
  それとともに、日本の翼下に入って来た。
  日本と朝鮮・・日朝はこの様な関係にあった。
  誠実な日本は、朝鮮の国づくりを一生懸命に行なった。
  他国がしない様な投資を、日本は、一生懸命、朝鮮に
 した。
  しかし、時を経て、時代が変わると、朝鮮は、日本が
 『植民地支配をした』と言い出した。
  日本へ、その謝罪の要求さえもした。
  「もう二度と、この様な謝罪要求などしないから」と
 いう言葉に引っ掛かって、ならば・・と、友好のためと、
 日本が謝罪をすると・・、
  その後に、その様な経緯は捨て去って、その後、「日
 本が謝罪した」と世界に喧伝した。
  ヨーロッパ諸国やアメリカなどより、日本は、朝鮮の
 国造りに貢献しているという日本に対して・・、
  二度と謝罪要求しないという前言はどこ吹く風と、何
 度も謝罪を要求するという態度をとった。
  ヨーロッパ諸国やアメリカは、植民地に強引に自国の
 法律や習俗までも押し付け、植民地収奪をするという事
 までしていた。
  キリスト教の自国の宗教でさえ押し付けた。
  ヨーロッパ諸国やアメリカの強国の植民地へのあくな
 き要求・欲望は極まっていた。
  世界大戦まで引き起こした。
  (第一次世界大戦では、オスマントルコの領有した中
 近東の広大な地域を、イギリスやフランスの勢力下に入
 れた)
  日本の対応は、善意に満ちていた。
  その何よりものその証拠が、朝鮮の人口が3倍にもな
 った。
  衛生状態も、見違えるほど向上した。
  日本と同等、または、それ以上の教育の充実にも、日
 本は努力した。
  産業も起こし、鉄道も朝鮮じゅうにくまなく敷設した。
  ・・など、その例は、枚挙にいとまがない。
  朝鮮からの感謝の言葉もない。
  この貢献の事実は、朝鮮は、認識し、認めよ。
  日本の国民の資金・税金が投入されて、なされたこと
 なのだ。
  また、因みに、第一次世界大戦の勝利側は、イギリス
 帝国、フランス共和国などの連合国側で・・
  一方、敗戦国側の中央同盟国側には、ドイツ帝国、オ
 ーストリア=ハンガリー帝国のほか、オスマン帝国が居
 た。
  このオスマン帝国の中近東の広大な領土が、イギリス・
 フランスの勢力下に入り、この後、色々な問題を引き起
 こす。
.
1944年8月、国際連合憲章が、アメリカ合衆国、イギリス、
 ソビエト連邦、中華民国の代表がワシントンD.C.郊外の
 ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・
 オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設
 立に関する提案」を作成した(~1944年10月)
  そして、1945年6月26日、サンフランシスコ会議におい
 て、51ヶ国により署名された。
  そして、この国際連合憲章の第53条第1項後段(安保理
 の許可の例外規定)は、「第二次世界大戦中に連合国の
 敵国だった国」が、戦争により確定した事項を無効に、
 または排除した場合、国際連合加盟国や地域安全保障機
 構は安保理の許可がなくとも、当該国に対して『軍事的
 制裁を課すことが容認』され、この行為は『制止できな
 い』としている。
  また、敵国の侵略政策の再現に備える地域的取極がな
 されている場合も、安保理の許可がなくとも『敵国に対
 して軍事的制裁を課すことができる』としている・・
  そして、馬鹿らしくも、戦後、70年以上も経た今でも、
 『有効だ』とされている・・「時代遅れの国連憲章」と
 なっている。
.
1945年10月24日、国際連合が活動を開始した。
  国際連合憲章の発効に伴って、国際連合が発足した。
  本部は、アメリカのニューヨーク市のマンハッタンに
 ある。
  韓国は、日韓併合で、第二次世界大戦を、「れっきと
 日本と共に戦った」のに、中国の上海か?どこか?に居
 た日本と対決していた小さいわずかなグループを引き合
 いに出して、都合よく・・「そのグループの後を引き継
 いだ」という言い方を言い出した。
  『だから、韓国は戦勝国だ』という卑劣な言い方を言
 い出した。
  日本にも、日本の敗戦を最初から予測し、確信してい
 た人は多くいた。
  つまり、日本国政府の意思と一致しない人々は多く居
 た。
  日本には、だから・・「その人々の意思を引き継いだ」
 なんて言い出す事はしない・・
  『卑劣な節操のない屁理屈は言わない』が・・
  韓国のその言い方は、『馬鹿者』と言いたいくらいの
 その様な恥ずかしいもの・・。
  韓国兵士・・当時は、日韓併合の兵士(東京裁判で、
 有罪となった兵士の方も居るという状況)も、勇敢に、
 アメリカやイギリスの連合国軍と戦い、日本の将校とな
 って、東京裁判でその軍事行為が裁かれた。
  韓国は、日本と同じ枢軸国として裁かれている。
  また、汚いのは「イタリアだ」。
  ドイツと一緒になって、あれほど戦い、その枢軸国に
 後から日本も加わって、戦って・・、形成が悪くなると、
 イタリアは、クルッと向きを変え、勝っている方へ加担
 して、最高位の人間・ムッソリーニを捕らえて、殺して
 (私刑・リンチ)、戦勝国に化けてしまった。
  そして、アメリカも、イギリスも、その様に遇してい
 るから・・おかしい???
  ドイツの裁判や、日本の裁判の様な事はしていない。
  すべてを不問としている。
  おかしいではないか・・おかしい事が起きているでは
 ないか・・
  誤魔化しが起きている。
  例えば、何人も殺してきた犯人が、ある時、クルッと
 態度を変えて、行動が変わったら、「犯人ではなくなっ
 てしまった」・・という様なもの・・
  こんな話は通らない・・こんな理屈は通らない・・イ
 タリアだって同じ様に裁判を受けるべき敗戦国だ。
  例えば、信長が本能寺で、明智光秀に討ち取られ「明
 智光秀の三日天下」となった。
  その後の豊臣秀吉との戦いに敗れた。
  しかし、秀吉は、光秀の首を取り損なっている。
  光秀の天下は、実態としては、秀吉に、その体制は崩
 されたが・・、
  もしかしたら、光秀は、どこかで態勢を取り直すとい
 う過程にもあった。
  つまり、光秀が敗れて、逃避行の身にはなったが・・
 戦に敗れた時点で終わったとしてはいけない。
  一分の可能性を持って信長を破って手に入れた、光秀
 の天下は続いている。
  実態は、天下は、秀吉に流れて行くのだろうが?・・
 しかし、100パーセントでは無い。
  そして、可能性を求めて逃げ延びた光秀は、逃避行途
 中の山の中で、落人狩りの百姓に討ち取られてはいるが、
 一分の可能性があった光秀の可能性が・・ここで無くな
 ったのである。
  その残っていた僅(わず)かな光秀の可能性を「その
 百姓たち」が奪ったわけである。
  光秀は、可能性はほとんどない状態に居たが、その僅
 かな可能性を、百姓たちが奪い取ったのである。
  つまり、可能性のほとんどない、その可能性は、その
 落人狩りの百姓グループに移った、99.99999・・パーセ
 ントの可能性は秀吉だろうが。
  しかし、秀吉は、この百姓から当然、その残りの
 0.000・・1%を取り返さなかった。
  秀吉は、「100%の天下人では無い」と言えるか??
  これは、屁理屈である。
  こじつけ論理である。
  くだらない論理である。
  しかし、「この様なこじつけ論理」が、イタリアの場
 合にも言われているのである。
  くだらない事に・・アメリカ・イギリスが、このくだ
 らない論理を振り回して、「正義だ」「正しいのだ」と
 言っている。
  アメリカ・イギリスは、この様に・・勝手に自分だけ
 の論理を振り回してやって来た。
  問われるべき罪もないのに・・罪があるのだとして殺
 して来た。
  また、罪を問うべきを問わないで・・公正・公平に行
 なわないで来た。
  お好みで、すべてを処して来た。
  イタリアは、連合国状態になってしまった。
  そして、日本やドイツに対して・・国連の敵国条項が、
 今だに、現在もまだ、存在しているという・・
  これが、アメリカに都合が良いと、いまだに、その状
 態を取って、世界中に、そして、日本・ドイツに押し付
 けている。
.
2014年、ロシアは、クリミアを強引にロシアへ併合させてし
 まった。
  クリミア半島は、地理的にヨーロッパの南端と言えた。
  これは、キリスト教圏とイスラム圏との境界でもあっ
 た。
  この様な位置関係から、古い時代から様々な多様な信
 仰を持った民族が、クリミアに侵入してきた。
  東ローマ帝国の系統の東方正教会のキリスト教徒が、
 ロシアやウクライナへ侵入し、また、クリミア半島へも
 入ってきた。
  また、オスマントルコが、クリミア半島に、イスラム
 教を入れた。
  この様な両宗教の地となって来た。
  また、モンゴル系のクリミアタタールの人々もいる。
  クリミアには、ロシア正教、ウクライナ正教、イスラ
 ム教スンニー派の3者の方々の複雑な宗教的関係がある
 状態となっている。
  大国や強国が、武力で解決する問題ではない。
.
2015年9月、EUへ向かう難民の方々・・それも豊かなド
 イツへ
  幼い3歳の難民の子供が波に漂(ただよ)う悲惨な姿
 はEU諸国へショックを与えた。
  豊かなドイツへ向かう難民の方々・・、
  そのドイツ・・なんとも歯切れが悪く・・その悲惨な
 幼児の姿を見て、難民の受け入れを決めた・・が・・
  元々は、ドイツには、難民を救済するとする基本法が
 あった・・第二次世界大戦時の卑劣な行為の罪滅ぼしで
 あったが・・、
  この頃になると、ニコニコ顔で受け入れるという当初
 のドイツではいられない・・当初とはだいぶ違っていた。
  この3歳児の悲惨な姿の報道後、一時は、態度を変えた
 が・・しかし、ドイツは、『入国審査を再開する』と言
 い出した。
  即刻、ドイツは、アウトバーンで「検問を復活させた」。
  このアウトバーンの検問は、30年ぶりだった。
  この様な事までやり出すドイツだった。
  アウトバーンは大渋滞となった。
  ドイツへ来る列車も運休にされた。
  押し寄せる難民の方々に対し、ドイツは、この様な事
 をした。
  列車で到着した難民の方々は、最初の3日間で3万1000
 人に達した。
  だから、他のEU諸国も、同様な態度を取り出した。
  オーストリアは、すぐさまハンガリー国境に軍隊を派
 遣した。
  チェコも、国境監視を始めた。
  EUの「自由往来」のシェンゲン圏内の取り決めは、
 まったく『無視』の「あるが無きのごとく」だった。
  EUの美しく飾り立てた理念「人、モノ、金、サービ
 スの自由な移動」は、どこかへ行ってしまっていた。
  「シェンゲン協定」も、「ダブリン協定」も、まった
 く捨て去ったEUだった。
  2015年9月だけで、難民の方々は、16万4000人が入国
 した。
.
2015年9月、EUへの、多くの難民の流入が続く・・
  ドイツの豊かさが私たちも欲しいと・・、
  それが得たいと・・難民となってドイツへ流入する、
 押し寄せる・・その難民を受け入れるドイツ・・そうし
 なければならないと・・、
  難民が押し寄せるような良い国に、ドイツの今のお年
 寄り方がしたのだが・・子供たちの為にと一生懸命に働
 いて・・国づくりに励んだ・・今のドイツはその努力
 の結果で・・
  2015年、ドイツの難民の入国数は「80万人と予想され
 た」。
  しかし、その流入は激しく、この数が、100万人に修正
 された。
  人口8000万人の国に、この年だけで100万人を受け入れ
 る。
  この難民の受け入れに「○○万人だ」と上限を決める
 事はおかしいと発言する声・・その様な論理があった・・
  しかし、無制限に難民が入ってくれば・・社会も、労
 働市場も、学校も、混乱してしまう。
  メルケル首相は、自身が、東ドイツ出身で、悲惨な東
 ドイツから豊かな西ドイツへ来たという体験をした人で
 あるため、難民の方々へ理解を示し、難民の方々の身に
 なった発言をしていた。
  そして、「できる」と発言した。
  ドイツ中が、この「できる」で高揚した。
  かつて、第二次世界大戦に至った、あの高揚の様な、
 似た状況にドイツはあった。
  少しでも異議を唱える人間には「非人道的」というレ
 ッテルが張られた。
  下手な発言は、極右だとされた。
  この様な中で、ドイツ社会の中に難民が入って来て、
 定着して行った。
  そして、ドイツが変わり始めた。
  ドイツ社会がきしみだした。
  問題の原点には・・難民を発生させる、そもそもの原
 因があるが、その解決が見えない中に、ドイツへたどり
 着いた難民の方々、そのたどり着いたその場の崩壊が、
 現実となって行った。
  警察沙汰が増加した。
  収容施設は、ぎゅうぎゅう詰めとなった。
  そこで、暴力沙汰が増えた。
  難民の民族と民族の、「民族の違いの闘争」が起きた。
  2015年9月27日、ヘッセン州の収容所で、コソボのアル
 バニア人とパキスタン人の大規模な闘争が起き、400人も
 の難民が暴れた。
  警察官も負傷し、難民の方々も負傷し、その他の多く
 の難民施設でも、一触即発の事態が続いているという状
 態になった。
  言葉も宗教も違い・・昨日までまったく知らない者同
 士が、狭い中に、ぎゅうぎゅうと押し込まれて居るとい
 う欲求不満の塊の社会ができていた。
  警察も限界に来ていた。
  民間の警備会社が投入されたが、警備員には移民系が
 多いので・・火に油を注ぐという結果になった。
  2015年9月28日、警察が、宗教別に収容すると発表した。
  この様な人々が、これからドイツ文化を受け入れて、
 静かに生活して行けるのかという事が「危ぶまれた」。
  この様な時に、ハンガリーは、国境を封鎖した。
  クロアチアも、続いて、国境封鎖した。
  EUの国境が・・閉じられて行った。
  それでも、難民の流れは止まらなかった。
  民族移動が、一旦、始まると止められないのごとくだ
 った。
  難民は、悪路でも、何でも、迂回したりして入って来
 た。
  ユーゴ内乱の時の地雷が残る「地雷地帯」にまで入っ
 てきた。
  10月になって、気温が下がっても、冷たい雨が降って
 も、道がぬかるんでも、難民の行軍はあった。
  スロベニアは、難民の数があまりにも多いので、その
 数に驚いて、軍隊を出し、流入を防ごうとした。
  しかし、その隣のクロアチアは、スロベニアにどんど
 ん難民を送り出していた。
  2015年10月17日、この難民問題が、からんでケルン市
 長の有力候補がナイフ刺された。
  犯人は、『難民政策が気に食わない』のでやったと言
 った。
  10月末の冷たい川に、首まで浸かってでも渡河してい
 る人々の様子が報道された。
  水温は8度だった。
  赤ん坊、お年寄り、子供が、どうなっているのかが心
 配された。
  この様な原因を作っている「元が悪いのだ」が・・?
.
2016年3月13日、テレビ報道は、年がら年中、日本国民の世
 論操作をしている。
  例えば・・
  ☆2016年3月13日、日本テレビ:
  自民党大会での安倍総理の「選挙の為だったら何でも
 する、こんな無責任な勢力に敗ける訳にはいかない」と
 の発言を、悪意ある編集をして内容をまったく変えた・・
  「安倍首相『選挙が為だったら何でもする』」と表示
 をして、「安倍首相の悪印象」を印象付けた。
  またこれは、総理という立場での指導的発言を、首相
 という国の代表に立場を変えるという悪意もある。
  国の責任者にある状況にして、異常発言の状態に編集
 し、放送し、悪印象へと操作をしている・・まったく許
 せぬ日本テレビの放送のやり方。
  日本テレビは、仏教蔑視の放送も年がら年中している。
  悪い場面で、お寺の鐘をゴーンとならしたり、仏壇の
 リンをチーンと鳴らしたりと、年がら年中している世論
 操作・印象操作ばかりする放送局となっている・・テレ
 ビコマーシャルを依頼している企業へも悪印象を与えて
 いる。
  ☆2014年9月10日、テレビ朝日:
  川内原発に関する報道で、原子力規制委員会の田中俊
 一前委員長がいくつかの記者の質問に対して回答を拒否
 した部分のみを放送して偏向した編集をして世論に偏っ
 た印象を与えた。
  ☆2015年6月5日、フジテレビ:
  VTR内で日本についてインタビューに答えている韓
 国人2人について、翻訳の字幕や日本語吹き替えの内容
 と異なる映像を使用し、韓国人が日本を嫌っているかの
 ように放送した。
  ☆2017年7月3日、TBS、
  小池百合子東京都知事が就任あいさつをした際に、握
 手をした映像をカットして「自民党の川井重勇都議会議
 長(当時)が握手を拒否」と放送して、全く事実と違う
 放送をした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。

1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。

1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。

1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  [むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]・・約束を守らない国が[むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]何を言うか・・と言
 いたい[むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]
  [むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]・・一番、歴史を汚してきた国・・[むかっ(怒り)][むかっ(怒り)][むかっ(怒り)]

1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。

1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)

1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。

1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。

1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。

1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。

1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。

1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。

1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。

1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。

1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。

1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)

1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。

1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。

1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。

1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。

1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。

1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年、出来事:
・金玉均が暗殺された。
  1894年3月28日、金玉均が暗殺された(43歳)
  金玉均(きんぎょくきん、1851年2月23日~1894年3月
 28日)は、李氏朝鮮における後期の政治家で、朝鮮独立
 党の指導者だった。
  1882年(31歳)2月から日本に学び、福沢諭吉の支援を
 受け、慶応義塾に学んだ。
  金玉均は、日本の明治維新を模範として、中国・清朝
 からの独立を果たしたいと、その実現を目指し、また、
 朝鮮の近代化も成し遂げたいとした。
  その実現が、清仏戦争が起きた時を好機と見て、1884
 年12月4日、政権打倒クーデター(甲申事変)を朝鮮で起
 こした。
  清仏戦争で清の介入は無いと見たが、清の介入で、事
 件は失敗に終わった。
  その実行は、3日間の政権で終わった。
  日本へ亡命し・・その後・・、
  李鴻章と会うために上海に渡ったが、この地で暗殺さ
 れた。
  福沢諭吉は、金玉均の法要を営んだ。
・東学党の反乱
  1894年3月29日、朝鮮で東学党の反乱が起きた・・そし
 て、広がって行った。
  抑圧され、圧迫されて来た朝鮮農民の方々のこの反乱
 は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とも言わ
 れる・・
  朝鮮王朝(李朝)の重税政策に苦しみ、また、両班(
 りゃんばん、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を
 担った支配階級の身分の者のこと)たちの賄賂横行と不
 正横行などで、民衆の生活は苦しい状況で、その朝鮮政
 府の暴政に対して、農民戦争が起きた。
  そして、東学という宗教的訴えが、狡猾な李朝朝鮮の
 地方官に利用され、逆に、農民が収奪される口実ともさ
 れた。
  農民たちの訴えは、その汚吏(おり、汚職や不正な事
 をする役人)に向けられ、政治的要求へと変わった。
  そして、行動は反乱となり、1894年2月、全羅道古阜郡
 の民乱を契機にして始まり、一応の成果を得て解散はし
 た・・が・・
  その後、政府派遣の官吏の不法弾圧に激怒した全琫準
 (ぜんほうじゅん、東学党の乱の指導者)は、全羅各地
 に呼びかけて、1894年5月、古阜、泰仁で本格的な闘争に
 立ち上がった。
  全羅各地で蜂起した農民軍は、白山に集結、大多数が
 農民で、東学徒は少なく、指導者は東学メンバーだった。
  全琫準らの指導者は、農民軍を軍隊式に編成し、また、
 四大綱領を発表し、広範な農民層の支持を得た。
  農民軍は、黄土峴、長城で政府軍を撃破し、全州を占
 領した。
  政権は、これに驚き、清国に出兵を要請する、その一
 方、農民軍の改革案を受け入れた。
  全州での和約後、農民軍の大半は解散したが、全羅道
 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され、実質
 上の政権機関として機能した。
  朝鮮政府の暴政に対し、次のような詩が朝鮮国内に広
 く伝わった。
  金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高
 くとどろく
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~6月2日解散で短
 い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく、対立した。
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語で、
      この時は、ロシアの東アジア進出により緊迫
     した国際情勢にあった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで、反政府側の日
     本主義派・・そして・・自由党、改進党などの
     民党連合は、政府外交を批判した・・、
      また、政費節減・民力休養路線を主張した。
      不平等条約によって侵されている国家主権の
     回復と、積極的な対外進出を主張した。
      また、対等条約を実現するためには、現行条
     約を励行して外国人を取り締まり、彼らに不利
     益を与え、対等条約の交渉に列強が応じない場
     合は条約破棄もというものだった。
  (参考)現行条約励行運動:
      対外強硬六派いわゆる「硬六派」によって唱
     えられた反政府の言論運動で・・幕末期に江戸
     幕府が諸外国とむすんだ不平等条約について、
     条約正文に明白に規定されていない事項に関し
     てはいっさい外国人の権利を認めず、日本国内
     における外国人の活動や生活を制約することを
     通じて条約改正を行ない、平等条約の実現を図
     ろうというもの。
・日英通商航海条約が締結された。
  1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結さ
 れた。
  陸奥宗光外相(1844年~1897年)の治外法権の廃止交
 渉が功を奏した。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権」の撤廃に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その一事例が、和歌山県沖のノルマントン号事件。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  この不平等な治外法権の権利のため、この事件の裁判
 を担当したのはイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、1894年、ついに、イギ
 リスとのあいだで治外法権の撤廃に成功した。
  陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正に応じた
 ため、他の国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤
 廃を日本は勝ち取った。
・日清戦争
  1894年8月1日、この日、日清両国が宣戦布告した。
  欧米列強、そして、ロシアなどの各国の奪い取りの世
 界が演じられて来たアジアの世界・・、
  ただただ、無節操なその奪い取りの世界・・日本の周
 囲の国々、また、東シナ海・南シナ海などの大部分、ま
 た、日本の北や南に広がる主要な国々が、そのことごと
 くが列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほど
 の恐怖感を感じないではいられなかった。
  また、日本には、列強諸国との不平等条約がまだあり、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様に領土を漁(あさ)る列強に取り巻かれている
 日本の姿だった。
  どの列強各国も、この日清戦争では、日本が敗北する
 だろうと予測していた・・
  それだけ、清の力は強く、また、日本は弱小であった。
  先年の長崎での事件などでは、まったく清に馬鹿にさ
 れている日本だった。
  また、日本は、最強の清国艦隊を見せつけられていた。
  列強諸国は、「アジアの中心は中国」と見ていた。
  しかし、結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  また、列強は、日本での特権を相次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けるという様相
 だった。
  これで、日本が解放されると共に、朝鮮もまた中国か
 ら初めて解放され・・独立国となれた。
  また、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列強
 諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日に、明治天皇陛下が呉行幸のため、広島
 の宇品港へ御出発された。
  これは、日清戦争時に、広島城に大本営が置かれ、明
 治天皇陛下はその行幸をなされた。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
・広島において第七議会(氷川清話)
  第7回帝国議会(だいななかい ていこくぎかい)は、
 1894年10月18日に開会された大日本帝国の帝国議会(臨
 時会)で、開催地は広島市の広島臨時仮議事堂だった。
  日本の憲政史上で、唯一、東京以外の場所で開かれた
 国会だった。
.
1894年、産業:
・紡績工場の数:45
・花王石鹸
  神楽坂に花王石鹸の工場が開設され、ねり歯磨きが製
 造開始された。
・服部時計店
  東京・銀座尾張町角に服部時計店が店を構え、時計塔
 を設置した。
  また、服部時計店懐中時計の製作に成功した。
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことで斬
 新な品揃えだとして、評判が立った。
  当初は、輸入に頼っていて、仕入れた時計は飛ぶよう
 に売れた。
  国産時計は、1892年、服部金太郎が作った精工舎で始
 められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  記録には以下の様に記される・・
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘した」
  「明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町
 に仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させた。
  そして、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
・オーヴィル・ヘンリー・ギブソンが大手ギターメーカー
 のギブソン・ギター・コーポレーションを創業した。
.
1894年、交通:
・甲武鉄道市街線新宿〜牛込間開通、牛込・四ツ谷・信濃
 町の各駅開業。
・カール・ベンツの「ビクトリア」が1000キロの長距離ド
 ライブに成功した。
.
1894年、論・文学・本:
・樋口一葉「大つごもり」
  1894年12月、「文学界」第24号に発表された。
  大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰
 のその女中生活を通じて明治の女性の哀感を描いた。
  一葉の貧乏生活の体験から生まれた作品。
  この年は、一葉が、下谷龍泉寺町(東京都台東区竜泉)
 から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑
 貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念している時期の作品。
  [ 筋 ]・・18歳のお峰が、山村家の奉公人となってし
      ばらくした後、お暇がもらえたため、初音町
      にある伯父の家へ帰宅する。
       そこで病気の伯父から、高利貸しから借り
      た10円の期限が迫っているのでおどり(期間
      延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山
      村家から借りる約束をする・・が・・
・高山樗牛「滝口入道」連載(讀賣新聞)
  1894年4月~1894年5月まで『読売新聞』に連載された。
  平家の滅亡を背景に、斎藤時頼と横笛との悲恋を描く。
  『平家物語』に材を得て、擬古文によって書かれたこ
 の悲恋物語は、『読売新聞』懸賞歴史小説首席(二等)
 の入選作で、大学生某の匿名で発表されて話題となった。
.
1894年、歌・流行・世相:
・この頃から自転車が流行する。
  この前年・1893年、我が国で最初の自転車倶楽部であ
 る日本輪友会が設立された。
  1890年頃から自転車の修理、及び、試作車を手掛けて
 いた宮田栄助が、1893年、本格的に自転車の製造販売を
 開始した。
  1893年、森村兄弟が、東海道をサイクリングする。
  1893年、ダーズリー・ペダーセンは、独創性のある三
 角フレームの自転車を製作した。
  イギリス軍はこれをボーア戦争で使用する。
.
1894年、医・衛生:
・北里柴三郎が香港へ行ってペスト菌を発見した。
  明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、
 思わず声をあげた。
  「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。
  それは1894年6月14日のことだった。
  長年に亘(わた)って人類を苦しめて来たペスト・・、
  多くの人々の命を奪って来たペストの正体を暴いた瞬
 間だった。
  説としては・・古代エジプトやローマの時代からすで
 にあったと言われているこの疫病は、感染力や致死率が
 非常に高かった・・、
  しかし、その原因がつかめず、また、姿が見えないた
 めに大いに恐れられていた。
  そのペストが、この年・1894年に、中国南部で再び発
 生し、香港でも猛威をふるい始めた。
  そこへ原因を突き止めるために北里らは向かった。
  当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区
 では、患者のいない家庭はないほどだった。
  香港政庁は、該当する約12,000坪(約40,000平方メー
 トル)を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させた
 のち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。
  それしか対処の方法が見出せない恐怖の伝染病だった。
  その様な一刻の猶予もならない壊滅的な状況のなかで、
 北里ら一行は、到着するや病死した患者の解剖に急いで
 着手する。
  ところが、いざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、
 すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して
 いる。
  これでは埒(らち)があかない。
  しかし、北里には、経験に基づくある試みたい方法が
 あった。
  それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較する
 こと」だった。
  もし、共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性
 が高い。
  改めて取り出した臓器を調べてみる。
  「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。
  あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。
  ペストの病原菌も同じではないか?」
  北里は、ペスト患者の血液を手に入れた。
  すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた!
  このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に
 見える病原菌へと姿を変えた。
  こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけ
 ばよかった。
  そして、加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定
 される感染経路などが次々と明らかになって行った。
  家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、
 公衆衛生の対策がなされると、香港は、落ち着きを取り
 戻していった。
  その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に
 侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。
  北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらな
 る感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走した。
  そして、ペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底さ
 せ、終息に導けたた。
  1926年以降は、国内で、一度もペストの発生を見ない。
  疫病は静まった。
  一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。
  (テルモ株式会社のホームページを参考にした)
.
1894年、その他:
・葉山御用邸が完成した。
・鹿鳴館が華族会館として払い下げられた(1889年説あり)  
  落成は1883年。
・陸軍板橋火薬製造所で綿火薬が製造開始された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説かれました。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 2
  齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続けられる・・、
  出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラま
 での道のりは、およそ400キロ・・、
  この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けられま
 した。
  仏陀が最後に歩んだこの道を辿ってみますと・・、
  霊鷲山から北西に16キロ。
  仏陀は、ナーランダ村に立ち寄られています。
  行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
 ました。
  王侯貴族からカーストの差別を受けている人たちまで、
 さまざまな階層の人々です。
  仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てな
 く、法を説いたと言われています。
  仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅とし
 て始まりました・・、
.
  ブッダの歩かれた道、あーなんだか、もう本当に夢の
 様な幻想的な風景です・・、
  木があって、なだらかな丘があって、その向こうに、
 また、木陰に白い塔がある・・、
  村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けた
 り、子供達が走り回ったりしていますが・・、
  自然の中に、こんな場所があるなんて、何と贅沢なこ
 となんだろうと感じます。
  ナマステジー・・ナマステジー
  一つの堂に来ました・・あたりを見渡します・・
  暗くて見えませんけども、この中にあるのは仏陀の坐
 像です・・釈迦牟尼坐像・・
  ナマステジー・・
  あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
 仏像は・・?
  仏陀の像です・・お釈迦様の像です。
  何時ごろからあるものなのですか?
  むかしむかしからあります。
  昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
 ですか?
  祖父の親の前から さらに前から・・、
  すごいですねー、これは驚きました。
  この丘の上の小さな祠の中に・・いやー、まさしくこ
 れは仏陀の坐像です。
  ・・イヤー、驚きました。
  素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
 ますが、とにかく立派なのです・・
  シルエットといい、バランスといい それにしても、
 この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
  インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
 致します。
  ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、弟
 子のアーナンダに こう告げます。
  『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
  仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえ
 て、パータリ村を目指して歩みを進めます。
  その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
 いました。
.
  インドの祈りの歌・・
     私は仏陀に帰依します。
     私は仏法に帰依します。
     私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
.
  (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者
     の集団。僧侶の集団。
      広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこ
     ともある。
      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
.
  ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの
 道のり・・
  悪路で自動車は大きく揺れました・・・・
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 3
  インドの聖なる河・ガンジス。
  ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
 およそ2500キロ・・、
  インド最大の大河です。
  仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほと
 りにある小さな村でした。
  現在のパトナ市・・ビハーレ州の州都です。
  人口は、およそ140万。
  米を中心に、農産物の集散地として賑わっています・・
  パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場・・
  この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なん
 だか野菜のバザールの様になっています・・、
  ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニン
 ジンあり・・
  大根もあります・・
  それにしても、大変な賑わいです・・
  ナマステー。
  みかんを見ると、懐かしいですね・・
  どんな味がするんでしょうか・・
  ・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
  戦後のみかんは、こんな感じだったです・・、
  これは旨い・・
  ガンジス河へ向かう・・
  見えてきたなー・・これが ガンジスかー・・
  河辺に来て・・あー 涼しい。
  ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
 流れだけを想像したんですけれど、この辺の水は青いで
 す・・、
  対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
 があって・・、
  あー、こんなにガンジスが、美しいとは・・、
  ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
 やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
 です・・
  おそらく、ここまで70~80キロか、90キロ・・
  どの位あるんでしょう・・
  途中で休み休み、色んなところに寄って来る訳でから、
 ずいぶん掛かったと思います
 ・・けども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
 仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
 く、何か、人生の大河を越えるという、非常に大きな感
 慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあり
 ません・・
  仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきてい
 る人だと思います。
  信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
  その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
 渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
 という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
 経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
 短く描かれています。 
.
   ついで尊師は、
   ガンジス川に赴いた、
   その時、
   ガンジス河は、
   水が満ちていて、
   水が渡し場のところにまで及んでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は
   小さないかだを結んでいる。
   いずれも、
   彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
   そこであたかも力士が、
   屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにその様に、
   僅かの時間のうちに、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に、
   向こう岸に立った。
.
  (参考)大般涅槃経:だいはつねはんぎょう、サンス
     クリット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ-パニル
     ヴァ-ナ ス-トラ 、パーリ語:Mahaaparini
     bbaana-suttanta、タイ語:mahǎprinípphaaná
     sùttantàは、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいは
     つねはん)を叙述し、その意義を説く経典類の
     総称。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅
     槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生、悉有
     仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を
     混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する
     第16経が大般涅槃経と同じもの。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般
     泥洹経」(2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大
     般涅槃経」(3巻)がこれに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の
     分配などが詳しく書かれている。
      これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた「
     大般涅槃経」という大部の経典もある。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 4
  ガンジスの河の上を舟に揺られる・・
  日本も戦争が終わって各地から引き上げる方々も、こ
 の様に川も渡ったでしょう・・
  朝鮮のソウル・・当時、京城(ケイジョウ)といいま
 した・・
  京城には、ハンガンという、当時は漢江(かんこう)
 と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな流
 れがあった。
  また、ピョンヤン(=平壌)という町には、ケドンガ
 ンというのですが、大同江(ダイドウコウ)という名前
 で呼ばれた大きな川があった。
  敗戦になって、引揚者と言いますか、難民となって、
 ピョンヤンから去るのですけれども、その引き上げが始
 まるまでの1~2年の間に、本当にたくさんの日本の人々
 が、そこで亡くなりました。
  夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火
 葬ができますが・・、
  冬は零下20度、30度という寒さ・・、地面はツン
 ドラの様に凍って、ツルハシも立たないほどです・・、
  そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にす
 ることも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1
 メートル以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、
 あちこちに、ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
  毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
 しばしばありました。
  そして、今、ガンジスの川の流れの上に居る・・
  人々の苦悩に・・仏教は答え得るのか・・
.
   その時、
   ガンジス河は水が満ちていて、
   水が渡し場の所までおよんでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
   いずれも
   彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
   そこで、
   あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにそのように僅かの時間の内に、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
   ついで尊師は、
   ある人々が船を求め、
   ある人々はいかだを求め、
   ある人々はいかだを結んで、
   あちらとこちらへ
   行き来しようとしているのを見た。
   そこで尊師は、
   この事を知って、
   その時、
   この環境の言葉を一人つぶやいた。
   『沼地に触れないで橋を架けて、
   広く深い海や湖を渡る人々もある。
   木切れや、つた草を結びつけて、
   いかだを作って渡る人々もある。
   聡明な人々は、
   既に渡り終わっている』
.
  ガンジス河を如何にして渡るか・・、
  それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
 放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
 います。
  仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えられた。
.
  (参考)「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマン
     サラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッ
     チャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 5
.
  インドの仏教歌:
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
.
  ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
 ヴァイシャリーへと向かいました。
  そこは、商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
  仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
 ました。
  その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針を話し合い
 で決める進んだ国でした。
  大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
 賞賛した言葉が記されています。
.
        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
.
  仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
  仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
 まります。
  布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
  修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
 は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
  「俗に染まらず、俗から離れず」
  大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
 残されています。
.
  イヤー、見事な果樹園ですね・・あのー、これは、マ
 ンゴーの木なんだそうです。
  私は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
 思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
 ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
  ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
 なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
 ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
 この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
  そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
  それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
 やかで人間的なエピソードが一つあるんですが・・、
  このマンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、
 ヴァイシァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と
 言いますか、実は、高級娼婦・遊女と言われている人な
 んですが、遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではな
 くて、一夜の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を
 相手にするという様な、しかも教養もあり、音楽的素養
 もあり、文学も出来、詩も詠めるという素晴らしい、高
 名な女性であったらしいんですね・・、
  ・・で、そのアンバパーリーという女性なんですが、
 その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀が滞在して
 いるという事を聞いて、そして、教えを乞いに仏陀のも
 とへやって来ます。
  そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
 感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
 して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
 申し入れます。
  遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
 応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
 こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
 法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
 あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
 うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
.
  仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
 聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
  「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
  しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
 を受けていると、その申し出を断ります。
  貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
 難する者も居ました。
.
  ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
 が出てくるというところがですね、この経典の中での、
 ある種の非常に興味深い所です。
  それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
 女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
 ものがあったに違いありません。
  ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
 見が多かったと思うんです。
  そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
 う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
 「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
 え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
 まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
 の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
 蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
 越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
 感を押さえる事が出来ません。
.
  ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆか
 り)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
  後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
 が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
  仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
 きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
  仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
 ことになります。
  ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
              (つづく)
  (参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )ある
     いはヴリジ国は・・古代インドの国名。
      初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』
     の中で、十六大国のひとつに数えられる。
      首都はヴァイシャリー。
      位置:現在のビハール州北部にあたり、南北
     にはガンジス川北岸から現在のネパールまで広
     がり、西はガンジス川を挟んでマッラ国および
     コーサラ国と隣接していた。
      また、東は現在のビハール州と西ベンガル州
     の州境付近を流れるマハーナンダ川近辺、ある
     いはビハール州を流れるコーシー川までで、ア
     ンガ国と接していたと考えられている。
      民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャ
     ヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデ
     ーハ族など、8つの部族が連合して形成していた
     と伝えられている。
      統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サ
     ンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考
     えられている。
      「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表
     者から成り、国政を取り仕切っていたものと考
     えられている。
      近年、このような古代インドの国家をガナ・
     サンガ国というようになっている。
      宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイ
     ナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、
     仏典は伝えている。
      実際に、ブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイ
     シャーリーを何度も訪問して説法していたし、
     仏教の修行者のための修行道場が設置されてい
     たという記録がある。
      したがって、ヴェーダの宗教に並び、ジャイ
     ナ教や仏教も盛んであったと考えられる。
              (Wikipediaより)
.
紀元前484年頃、「ブッダ最後の旅 6」
  この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
 ました。
  そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
 がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
 と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
 ふけります。
  ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
 本当に大きな病にかかる訳ですね。
  最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
 模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
 最後の旅」 には書かれています。
.
     さて尊師が、
     雨季の定住に入られたとき
     恐ろしい病が生じ
     死ぬほどの激痛が起こった。
     しかし尊師は、
     心に念じて
     よく気をつけて
     悩まされることなく
     苦痛を堪え忍んだ。
     そのとき尊師は、
     次のように思った
     「私が侍者たちに
     別れを告げないで
     修行僧達に別れを告げないで
     ニルヴァーナに入ることは
     私には相応(ふさわ)しくない
     さぁ私は元気を出して
     この病苦を堪(こら)えて
     寿命のもとを留めて
     住することにしよう」と
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。
.
  つまり大変な激痛が生じてですね。
  本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
 陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
 んですね。
  それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
 か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
 るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
 は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
 ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
 こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
 けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
 るように、生易しいものではありません、人間が最後の
 旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
 きていく訳です。
  その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
 そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
 居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
 はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
 深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
 っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
 えるところがあります。
.
  車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
  朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
 それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
  でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
 たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
 まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
 道は、地獄への道でしたね。
  ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
 効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
 そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
 いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
 くづく感じさせられましたね。
  ですから、実感がとってもありますよ。
  まして、私はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
 い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
 わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
 像を絶するものが、あったに違いありません。
.
  仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
 付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
  弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
 と伝えられています。
  病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
 こう言います。
  「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
 分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
  そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。
.
     アーナンダよ
     私はもう老い朽ち
     齢(よわい)を重ね老衰し
     人生の旅路を通り過ぎ
     老齢に達した
     我が齢(よわい)は八十となった
     例えば、古ぼけた車が
     革紐(かわひも)の助けによって
     やっと動いていくように
     おそらく私の身体も
     革紐の助けによって
     もっているのだ。
.
  さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
 て、修行僧達に説きました。
.
     この世で、
     自らを島とし、
     自らを頼りとして
     他人を頼りとせず
     法を島とし、
     法を拠り所として、
     他のものを拠り所とせずにやれ。
.
     アーナンダよ、
     今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
     自らを島とし、
     自らを頼りとし、
     他人を頼りとせず、
     法を島とし、
     法を拠り所とし、
     他のものを拠り所としないでいる
             人々が居るならば、
     彼らは、我・修行僧として
             最高の境地にあるであろう。
.
  あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
 んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
  自分の尊敬する人が居ることは結構である。
  だけど、大事なことは、そういうことであることより
 も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
 ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
 ある。
  ダルマといいますね。
  そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
 して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
 ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
 自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
 しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
 る訳です。 
  仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
 分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
 思いますね。
  それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
  そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
 というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
 も例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
 ますね。
  水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
 まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
 っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
 の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
 ているんだろうと思います。
.
     この世で
     自らを島とし
     自らをたよりとして
     他人をたよりとせず
     法を島とし
     法をよりどころとして
     他のものを
     よりどころとせずにあれ。
               (つづく)
  (参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動し
     ていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まっ
     て集団で修行すること。
      及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳した
     ものである。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、
     蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行
     (外での修行)をやめて一カ所に定住すること
     により、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事で
     ある。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ
     あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるよ
     うになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、
     仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけ
     でなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の
     回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、
     重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安
     居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)
     までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明
     け暮れる。
                  (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)591E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年12月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年12月16日、ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」
 が初演された。(カーネギー・ホール)
  https://www.youtube.com/watch?v=9n8R3x68yuI
  https://www.youtube.com/watch?v=tsi5eJp4EVY
  この曲は、ドヴォルザークのアメリカ滞在中(1892年
 ~1895年)に作曲された。
  アメリカの黒人の方々の音楽が、彼の故郷のボヘミア
 (現在のチェコの西部・中部地方)の音楽に似ているこ
 とに刺激を受けて、「新世界から」故郷ボヘミアへ向け
 て作られた。
  1893年12月15日、楽譜が出版され・・、
  1893年12月16日、ニューヨークのカーネギー・ホール
   にて、アントン・ザイドル指揮、ニューヨーク・フ
   ィルハーモニック協会管弦楽団によって初演された。
   初演は、大成功だったという。
  因みに、日本初演は、1920年12月29日、東京の帝国劇
 場において、山田耕筰指揮、日本楽劇協会によって行わ
 れた。
  また、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』、シュー
 ベルトの交響曲第7(8)番『未完成』とともに「3大交響曲」
 と言われている。
1893年12月19日、衆議院で安部井磐根らの提出した現行条
 約励行建議案が上程された。
  条約改正を遂行する政府は、衆議院の10日間停会を決
 定した。
  第5回帝国議会は、1893年11月28日~1893年12月30日ま
 で開かれたが、星亨・衆議院議長の不信任決議案の可決
 などで荒れた・・星亨は居座った。
  この帝国議会は、与党化した自由党と、野党硬六派の
 対決の議会だった。
  (参考)硬六派は以下の6党だった。
     立憲改進党(自由党との民党連合がうまくいか
      なかったため対外硬派に転向した)
     東洋自由党(かつての自由党左派・大井憲太郎) 
     国民協会(西郷従道・品川弥二郎が下野して1892
      年6月に結成された)
     大日本協会(元「内地雑居講究会」安部井磐根)
     同盟倶楽部(元吏党)
     政務調査会 
  この条約励行建議案提出は、進行中の条約改正の阻害
 になるため、議会が停会となり、解散された。
  また、大日本協会に解散が命じられた。
  大日本協会は、明治政府の外交を柔弱と非難して、「
 条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
  また、対等条約締結以外の一切の条約改正の拒否し、
  また、内地雑居反対論などを掲げた。
  しかし、大日本協会内の一部過激派が、外国人襲撃事
 件を起こした。
  そのために、日英通商航海条約締結を目前とした政府
 の態度は硬化し、条約励行建議案に対抗するために衆議
 院解散が行われた。
  そして、1893年12月29日、突如集会及政社法の対象と
 なる政治団体の指定を受け、その日のうちに、大日本協
 会は度重なる外国人襲撃事件を理由として、解散を命じ
 られた。
  政府与党は抑制的で、また、野党は好戦的だった。
1893年12月20日 筑豊興業鉄道の中間駅~筑前植木駅間が複
 線で開通した。
  筑前植木駅は、福岡県直方市大字植木にある九州旅客
 鉄道(JR九州)筑豊本線(福北ゆたか線)の駅。
  1893年12月20日、底井野信号場~植木間を複線化。
   植木信号所を駅に変更。
  1893年12月20日、信号所から信号場に格上げ、植木駅
   として開業した。
1893年12月23日、フンパーディンク歌劇ヘンゼルとグレー
 テルが初演された(ヴァイマル)
  (参考)エンゲルベルト・フンパーディンク :1854年
     9月1日~1921年9月27日、ドイツの作曲家。
      ジークブルク生まれ。ケルン音楽院などで学
     ぶ。1890年旅行中にワーグナーに巡り会い、助
     手を務めるようになる。
      その後、作曲教師や音楽批評家として活躍。
      代表作品は、ワーグナーの楽劇の手法を組み
     入れたオペラ「ヘンゼルとグレーテル」(1893年)
     オペラ「不本意な結婚」(1905年)など
  (参考)ヘンゼルとグレーテル:グリム兄弟の『子供
     と家庭の童話』に収められた昔話。
      森に捨てられた兄妹が菓子でできた家に行き、
     魔法使いの老婆に捕えられる。
      ヘンゼルは閉じ込められて太らされ、グレー
     テルは下女代りに使われるが、老婆を殺して宝
     石を奪い、かもの助けをかりて家に帰りつく。
  (参考)ヴァイマル:ドイツ・テューリンゲン州の都
     市。面積は84,27 km2、人口は約64,000人。
      1999年に、欧州文化首都に選ばれた。
1893年12月25日、関根常五郎が、墨汁の特許を取得した。
1893年12月26日、毛沢東が誕生した。
  中国共産党中央委員会主席・中華人民共和国初代国家
 主席(~1976年)
  1893年、下層中農の子に生れる・・、
  1911年(18歳)辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参
   加する。
  1913年(20歳)湖南省立第一師範学校に入学し、在学
   中に進歩的青年団体「新民学会」を組織した。社会
   的政治的活動に踏出した。
    五・四運動のなかで、湖南の学生連合会機関誌『
   湘江評論』の編集と執筆にあたる・・、
  1920年(27歳)夏頃からマルクス主義者となって、社
   会主義青年団の地方組織をつくる。
  1921年(28歳)7月、上海における中国共産党創立大会
   に湖南代表として出席する。
  1923年(30歳)6月、三全大会で中央委員に選ばれる。
  1924年(31歳)国共合作が成立すると国民党中央委員
   候補に選出された。
  1926年(33歳)国民党二全大会で再選、さらに、広州
   の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努
   める。
  1927年(34歳)国共分裂後、秋収暴動を組織、指導し
   たが、失敗。井崗山にたてこもる。
  1928年(35歳)4月、朱徳の部隊と合流し、中国工農紅
   軍を組織し、その政治委員となった。
   以後、農村の土地革命、紅軍強化、ソビエト政権樹
   立などのために戦う。
  1931年(38歳)11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和
   国臨時政府が樹立され、主席に選出された。
  1934年(41歳)再選。
   その後、5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦う。
  1934年(41歳)10月、根拠地の移動を余儀なくされ、
   長征を開始、途中の貴州省遵義・・
  1935年(42歳)1月、中国共産党中央政治局拡大会議が
   開かれた際、党中央の指導権を握った。
   1931年以来、日本軍事が強まるなかで、内戦停止と
   一致抗日を呼びかけた。
  1936年(43歳)西安事件を契機に日中戦争勃発する。
   (参考)西安事件:1936年12月12日、共産軍討伐の
      ため、陝西省の西安に駐屯中であった張学良
      麾下の東北軍と楊虎城の十七路軍が、南京か
      ら西安へ督戦(とくせん、部下を激励・監視
      して戦わせること)に来た蒋介石を監禁し、
      国共内戦の停止と挙国一致による抗日を要求
      した事件。
       一時、国民党が西安攻撃の構えをみせ緊張
      状態となったが、斡旋にあたった共産党の周
      恩来の要求を蒋介石がいれたため、1936年12
      月25日に釈放された。
       1936年12月26日のこの翌日、蒋介石は共産
      党と連合して抗日にあたる旨の声明を発表し
      たため、第2次国共合作が進み、抗日民族統一
      戦線の結成がなされた。
       張学良は事件解決直後、蒋介石が南京に戻
      るときに軟禁され、1949年台湾に連行された。
       中国側からの戦争行為によって日中戦争の
      勃発状態となる。
  1937年(44歳)9月、国共合作が成立し、この間、1937
   年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主
   義と経験主義の誤りを批判した。中国独自の革命理
   論を展開した。
  1938年(45歳)『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理
   論的根拠を明らかにし、人民戦争論を打出した。
  1940年(47歳)『新民主主義論』で新民主主義革命の
   理論を深めた。
  1942年(49歳)整風運動を指導した。
  1945年(52歳)『連合政府論』のなかで民主連合政府
   の必要性を説いた。
  1945年(52歳)4月、七全大会で党中央委員会主席に選
   出された。
  1945年(52歳)8月、日本の敗北後、民主連合政府を樹
   立するため蒋介石と交渉を行なった・・国府はアメ
   リカと連携。
  1946年(53歳)夏から解放区に全面的な攻撃を開始し、
   約3年にわたる内戦。
  1949年(56歳)10月1日、中華人民共和国の成立と同時
   に中央人民政府主席に選ばれ、中国の最高指導者と
   なる。
  1954年(61歳)9月、第1回全国人民代表大会で憲法が
   制定され、共和国国家主席に選出される。
  1959年(66歳)辞任し、劉少奇に代わる。
   1945年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の
   政策を指導した。
  1965年(72歳)文化大革命でその先頭に立った(~
   1969年・76歳)まで。
  1972年(79歳)R.ニクソン大統領、田中角栄首相らと
   会見し、国交正常化に努める。
  1976年(83歳)天安門事件で、鄧小平の解任と華国鋒
   の総理就任を提案する。
  1976年9月 83歳で死去。
1893年12月28日 鉄道局出納官吏任命規程が制定された(逓
 信省達第6号)
1893年12月28日 逓信省出納官吏身元保証金取扱規程を制定
 した(公達第542号)
1893年12月29日、衆議院で、再度、現行条約励行案が提出
 された。
  政府方針は条約改正で、陸奥宗光外相が条約励行案反
 対を演説した後、政府は衆議院の14日間停会を命じた。
  また、現行条約励行案を提出した大日本協会の解散を
 併せて命令した。
1893年12月30日、衆議院が解散された。
  星亨議長の弾劾案を衆議院で可決し、伊藤首相は第五
 議会を解散した。
  2回目の衆議院解散だった。
1893年12月31日、参宮鉄道の津駅駅~宮川駅間が開通した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:エリートが、霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
   やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
   占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
   事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
   ことを知らねばならない・・と・・
.
紀元前2350年、アッカド帝国の成立
  アッカド帝国は、チグリス・ユーフラテスの流域(上流
 域から下流域)に成立した帝国である。
  しかし、キリスト教は、モーゼの「エジプト脱出」の
 話を成立させたいため、メソポタミアのウルからヘブラ
 イ人が、エジプトへ向かったとしたい・・
  しかし、このキリスト教の話は、このアッカド帝国の
 領有する地域から考えても無理筋な話となっている。
  キリスト教の成立の最初の方々である「ウルのヘブラ
 イ人」は、このアッカド帝国の領内の上流域へ、チグリ
 ス・ユーフラテス川の上流域へ向かった。
  (エジプトへは向かっていない)
  アッカド帝国時代(紀元前2350年~紀元前2113年)・・、
  この「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニア
 の北にある中心都市「アガデ」の別称である。
  そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッ
 カド語を話すため、シュメール人からアッカド人と呼ば
 れた。
  アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備
 軍を有することで、シュメールに対する軍事的優位性を
 確保すると、統一されたばかりのシュメールに攻め入っ
 てルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方
 からなるメソポタミアの統一を果たした。
     ・
     ・
紀元前484年頃、ブッダが最後の旅に出る。
  ブッダは、最晩年の1年間、最後の旅と言われる旅に出
 られました(入滅は紀元前483年頃)
  多くの弟子と共に、ラージャグリハ(霊鷲山)から降
 り・・そして、旅へ・・
  霊鷲山(りょうじゅせん)は、インドのビハール州の
 ほぼ中央に位置する山。
  仏陀(釈迦佛)が、無量寿経や法華経を説いたとされ
 る山・・、
  誰にもやがて訪れる死・・、
  ハーハーと息を弾ませながら霊鷲山の階段を登る・・、
  人生の旅路の最後で、人は、老いや死と、どの様に向
 き合えば良いのでしょうか・・、
  およそ2500年前、その問いに一つの答えを出した人が
 居ました。
  その人の名は、ゴーダマ・シッタールダ(パーリ語形、
 釈迦。仏教の開祖)
  人々からは目覚めた人・仏陀(ブッダ)と呼ばれまし
 た。
  最後の階段を昇る・・
  ナマステ。ナマステー。
  (遠くから、お経を上げる声が聞こえる)
  (参考)ナマステ: サンスクリット語、インドやネ
     パールで交わされる挨拶の言葉。
  生きること、老いること、病(やまい)、そして死。
  人生は苦しみに満ちている。
  仏陀は、その苦しみと、「共に生きること」を説き続
 けました。
  (キリスト教は「人は生まれながらに原罪があるとし、
 神に救って貰うとした」・・とは違う)
  「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナン
 ガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」・・
  「何という静かな場所なんだろう」。
  仏陀が、最晩年に至るまで教えを説いたこの霊鷲山を
 初めて訪れました。
  ちょうど、齢80を迎える頃に、この霊鷲山に滞在し
 ていた仏陀は、そこから山を降りて、そして、大変困難
 な旅、ガンジスを超えて、北へ北上するという、6ヶ月・
 数百キロにおよぶ旅に出発される・・、
  そして、その最初の出発点がこの霊鷲山・・、
  一体、仏陀が80歳になって何を感じ、そして、大変
 困難な旅に出発する、その最初の動機は何であったんだ
 ろうかというふうに勝手に想像します・・、
  人間というものは、ある時期に達すると、自分の人生
 というものを振り返ってみながら、そして、その自分の
 人生の締めくくりという様なことを 否でも応でも感じ
 ない訳にはいかない訳です・・、
  仏陀が死を迎える・・
  死への旅である、そして、最後の旅である その仏陀
 の死の旅の足跡を、自分の人生に重ねてみる・・、
  不思議な感じとなる・・
  霊鷲山にある仏像・・手を合わせる・・
  悟りを開いて45年・・、
  常に布教・伝道の旅にあった仏陀・・、
  80歳で、ここ霊鷲山を旅立ちます。
  それが最後の旅になりました。
  苦難に満ちた旅の中で、仏陀その人は、いかに老いを
 受け入れ、病(やまい)に耐え、そして、どの様に死を
 迎えたのか・・
  およそ2500年前、釈迦族の王子として生まれながら、
 出家し、苦行のはてに悟りをひらいた仏陀・・、
  その教えは、時を越え、多くの人々の中に広まって行
 きました・・
  人は、何故、苦しむのか、苦しみと如何に向きあうの
 か・・、
  仏教2500年の歩みは、その「問いかけ」の歴史でもあ
 りました。
  21世紀を迎えた今も、人々は変わらず多くの苦しみ
 を抱いています。
  その中にあって仏教は何をなし得るのでしょうか・・
  ブッダ最後の旅 インド
  さまざまな伝説に彩られ、なぞに満ちた仏陀の生涯。
  しかし、その晩年については克明な記録が、いくつか
 の経典として残されています・・、
  大般涅槃経や、ダイパリミッパーナ経。
  そこには、仏陀の死と、最後の旅の様子が記されてお
 り・・、
  霊鷲山から旅立つ前、仏陀は弟子達を集め、悟りに至
 る道について次のように説かれました。
.
  戒律と共に修行して
  完成された精神統一は 
  大いなる果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  精神統一と共に修養された智慧は、
  偉大な果報をもたらし、
  大いなる功徳がある。
  智慧とともに修養された心は、
  もろもろの汚れ、すなわち、
  欲望の汚れ、
  生存の汚れ、
  無明の汚れから
  『 まったく解脱 』 する。 
.
紀元前473年~紀元前463年、第1回仏典結集。
  仏典結集(ぶってんけつじゅう)は、仏教経典の編集
 で・・、
  伝説によると、釈尊の入滅後、弟子たちが王舎城に集
 って釈尊の教えを唱集した(口伝の教法・ダルマを集成・
 整理して、後世に伝えた)
  釈尊に常侍した阿難が経典を暗唱、他の者が唱和し、
 優波離 (うぱり) が律を暗唱、他の者が唱和した。
  こうして釈尊の教えの記憶を確かめ、その正しい伝承
 に努めた。
  これが第1次結集。
  (有能な弟子500人が、マガダ国の首都ラージャグリハ・
 王舎城に集まって行なった)
  この時、釈尊の侍者アーナンダ(阿難)が中心となっ
 て教法が結集され、ウパーリ(優婆離)が中心となって
 戒律(ビナヤ)が結集された。
  100年後に第2次結集を行い、アショーカ王の援助で第
 3次を、カニシカ王の援助で4次結集を行なったという。
  三蔵(経・律・論)の成立をみた。
.
317年、日本へ伝わった大乗仏教は、インドのマウリア朝
 (紀元前317年頃~紀元前180年頃)で繁栄した。
  その後、アフガニスタンのクシャーナ朝(1世紀頃~3
 世紀頃)を経て・・
  中央アジア(西域に紀元前1世紀~紀元1世紀)、
  敦煌を経由し、長安(紀元前1世紀~紀元1世紀)を経
 て中国に伝わった。
  そして、百済(384年)、日本(538年)に伝わった。
  因みに、仏教は、中国に入った後、儒教や道教の持つ
 「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」を取り入れた。
.
6世紀、この頃、インドから達磨(だるま)が、中国へ来て
 禅を起こした。
  その後、6世紀半ば、朝鮮半島を経由して日本に入った。
  高句麗(372年)、新羅(528年)
.
6世紀後半、チベット仏教(ラマ教)ができた。
  4世紀~5世紀のインドでは、バラモン教の呪術、天文
 学、医学、薬学などを取り入れた密教が作られた。
  さらに6世紀後半に、チベットの吐蕃(とばん)王朝が、
 密教を中心としたインドの仏教を学び、それをチベット
 の独自性を融合させてチベット仏教(ラマ教)ができた。
     ・
     ・
1947年、日本人の平均寿命・・男:50.06歳、女:53.96歳
  参考に・・
  2016年、男:80.98歳、女:87.14歳、
  未来の2060年、男:84.19歳、女:90.93歳、
.
1950年、チベットが、中国に乗っ取られている。そして、
 多くのチベットの方々が中国に殺されている。
  以下は、1950年~1976年の間の中国の侵略で死んだチ
 ベットの方々の犠牲者数である。
  戦闘・抵抗活動中での死亡・・432,705人
  処刑死・・・・・・・・・・・156,758人
  拷問死 ・・・・・・・・・・・92,731人
  強制収容所・刑務所での死亡:173,221人
  餓死・・・・・・・・・・・・342,970人
  自殺:・・・・・・・・・・・・9,002人
  計:・・・・・・・・・・・1,207,387人
.
2003年4月20日、朝日新聞が、また、ひどい記事を書いた・・
  それを、百田尚樹氏が、ツイッターに、「昔、朝日新
 聞は、『北朝鮮からのミサイルが日本に落ちても、一発
 だけなら誤射かもしれない』と書いた。
  信じられないかもしれないが、これは本当だ」・・と、
 ツイートした。
  2003年4月20日に、朝日新聞が、東京版朝刊第2面に書
 いたこの記事は・・
  2017年4月24日、朝日新聞の政治部次長は、「確かに、
 書いていました」と認めた。
  そして、朝日新聞は、「一般論で書いた」と言い訳に
 ならない言い訳をした。
  それに対し、世論は・・、
  「核ミサイルを撃ち込まれて、焼け野原になって、皆
 が蒸発して居なくなって、一般論でしたという論理が通
 じる訳はないだろー」・・と、軽蔑(けいべつ)を交え
 て反論した。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領の就任式が行われ
 た。
  アメリカのオバマ大統領が就任したこの年は、アメリ
 カが起こした卑劣な経済犯罪の「リーマンショックの直
 後」だった。
  2009年のアメリカ経済の成長率は、マイナス2.78%と
 いう最悪の状況だった。
  オバマ大統領は、当然、経済を軌道に乗せ、アメリカ
 経済の活力を取り戻したいと考えていた。
  マスコミも、オバマ大統領の1年目は、アメリカ経済が
 全面的な恐慌に近づくくらいのグレートリセッション(
 大不況)を経験したと報じた・・
  1929年~1930年の大恐慌の初期より「大きく落ち込む
 ほどだ」と報じた。
  オバマ大統領は、金融業界と自動車業界の救済を主眼
 点としていた。
  アメリカのデトロイトの自動車企業は、オバマ大統領
 に「30兆円の金を出せ」と言った。
  また、「金融機関には150兆円の金を『緊急だ』と言っ
 て出してるではないか」と言った。
  ゼネラル・モーターズ(GM)や、クライスラーや、
 フォードの三社は、オバマ大統領から注文を付けられた。
  言われたことは・・
  「国際競争力を回復する研究をせよ、努力をしなさい」
 と言われ・・
  そして、その為の研究課題などが言われたが、ピント
 はずれのトンチンカンな返事をした。
  それは、後ろ向きの案ばかりだった。
  「社長の給料を削ります」
  「労働者を減らします(首切り提案)」
  「工場閉鎖をして、経費節減をいたします」・・など
 だった。
  アメリカ国民の方々は、「努力もしないで、競争に負
 けた会社に、国民の金を使うな」と言った。
  日本の鎌田実氏の「頑張るな」が伝染した訳ではない
 だろうが・・? 努力する姿勢はまったく無く、後ろ向
 きの案や姿勢ばかりで・・金だけをせびった。
  鎌田氏もキリスト教徒で、キリスト教の活動方針に沿
 った「頑張るな発言」をよくしていたが・・
  努力もしないで「金ばかりをせびる姿」に、アメリカ
 国民の方々は怒った。
  第二次世界大戦の時は・・、ルーズベルト大統領が、
 第二次世界大戦を起こして、アメリカが恐慌で、「経済
 がどん詰まり状態だったのを打開して、経済を上向けた
 いという策として、この様な卑劣な戦争を起こすという
 手を打ったが・・
  この時は、ゼネラル・モーターズ(GM)などは、タ
 ンクや大砲を、どんどん作って潤(うるお)い、息を吹
 き返したが・・
  この時のオバマ大統領は、ルースベルトの様な卑劣な
 手を使う様な汚い大統領では無かった・・
  そして、そんなに甘くは無かった・・
  当然である。
  アメリカ国民の方々へ「極秘」にして、戦争を起こし
 たルーズベルトとは違っていた。
  オバマ大統領は、当然、この様な卑劣な、非人道的な
 事はしなかった。
  アメリカ共和党も、ゼネラル・モーターズ(GM)な
 どが、自由競争に負けたのは「怠けた自動車企業の自業
 自得だ」と言った。
  「怠(なま)けた君たち自身が、責任を取れ」と言っ
 た。
  「政府は甘やかすな、政府の救済には反対だ」と言っ
 た。
  議事妨害をしてでも反対する・・阻止すると言った。
  正義の共和党だった。
  オバマ大統領も正義の人だった。
  ここで思い出されるのが、キリスト教に偏するNHK
 で・・、
  NHKは、国民の祝日という日のたびに、「特別番組
 を組んで」、長時間番組として「頑張るな」のキャンペ
 ーン放送を常に続けた。
  キリスト教徒の鎌田実氏は、常に、NHKに呼ばれる
 という最大の恩恵を受けていた。
  キリスト教の「頑張るな運動」に同調するNHKだっ
 た。
.
2015年9月4日、EUの難民騒ぎは・・最悪の状態だった。
  当然、難民の方々に「幸せになる権利があった」。
  そして、ドイツには、第二次世界大戦の非人道的行為
 の反省から生まれたドイツ基本法があって・・
  「難民の方々を救済する事が決められていた」。
  豊かなドイツ・・EUで、唯一の経済的に豊かな国。
  その豊かさを求める難民と称する人々。
  存在する格差を縮めたいと、豊かさを求めてドイツへ
 向かう人々。
  ドイツは、自国の基本法を遵守する事は出来なかった・・
 守り切ることが出来なかった。
  国が壊れて行く状況だからだった。
  この様な事態に、さすが、基本法といえども守れない
 ドイツがそこにあった。
  そのしわ寄せが・・「難民通過国のハンガリー」に行
 った。
  ドイツが、事実上、放棄したドイツ基本法のしわ寄せ
 で、ハンガリーに「難民が溜まり出した」。
  ハンガリーも限界を超えた。
  早く言えば・・、「難民救済のお金をやるから来ても
 良いよ」と言った『救済する基本法を持つドイツ』へ向
 かった難民の方々を、ドイツが拒否したようなものだっ
 た。
  唯一の豊かなドイツが、難民の受け入れが、我が国の
 最大の方針ですという「宣言を取り下げた形」となった。
  豊かではないハンガリーは、そのとばっちりを受けた
 形となった。
  しかし、可哀想に、ドイツほど豊かではない、難民を
 受け入れる余裕のないハンガリーに、非難は集中した。
  国が保てないから国境に柵を作れば、「非人道的だ」
 と責められ・・
  難民を受け入れて、その受け入れ施設が、超満杯状態
 になれば、それで待遇が悪くなれば、その待遇が刑務所
 のようだと、非人道的だと責められた。
  やむなく・・「ドイツ行の列車」を、難民が乗った列
 車をドイツへ行く列車を、発車させれば・・何故、発車
 させたのだと責められ、「ハンガリーの首相は独裁者だ」
 と言われた。
  ハンガリーのオルバン首相は怒っていた。
  「この問題は、ドイツの問題だ」と核心を突いた非難
 をドイツに対して行なった。
  結局、グローバリズムを守り切る気概が無いのに、問
 題を他国のハンガリーへ押し付けるところに齟齬(そご、
 意見や事柄が、くいちがって、合わないこと)があった。
  難民の方々は、この両国の間(ハザマ)で、業を煮や
 して(ごうをにやして)、徒歩で、オーストリア国境へ
 向かい始めた・・ドイツへの歩みを始めた。
  ハンガリーから続くその道を歩く列が、何キロも続い
 た。
  その状況が、上空から撮影されて、テレビで放送され
 た。
  「EUの起こした罪」の姿が放映された。
  2015年9月4日に、EUに起きた悲劇だった。
  主犯は、ドイツだった。
  財産もすべてなげうって、病気の方も居られるだろう、
 乳飲み子(ちのみご)を抱えた女性の方々も居られるだ
 ろう・・大人とともに歩く幼子も居ただろう・・
  しかし、EUの誰もがも、救いの手を差し伸べない放
 置された歩く姿がそこにあった。
  キリスト教会の前も通って歩いてドイツへ向かったの
 だろう。
  キリスト教国のEUに起きた事だった。
.
2015年9月4日、キリスト教国のEU国内を歩き出した難民
 の方々。
  難民の方々は、EU諸国が、あまりに冷たいので、強
 硬手段を取った。
  難民の方々は、歩いて豊かなドイツへと向かった。
  EU内の唯一の経済強国のドイツへと向かい出した。
  自分も幸せになりたいと・・。
  ご老人も、乳飲み子を抱える女性も、やっと歩くこと
 が出来る幼児も・・その列は延々と続いた。
  本当は、この列が、ドイツにとっての選別の篩(ふる
 い)の役をした・・
  山を越え、谷も越え歩き・・キリスト教会の前も通り、
 その教会の救済の一人も出ない状況の中を歩き続けた。
  この様な時、哀(あわ)れな3歳児の死体の写真が報
 道された。
  波打ち際に横たわり、波に揺れる幼児の死んだ姿だっ
 た。
  第一に保護すべき幼児が、この様な姿になっていた・・
  そして、その子を保護する親もその海を越えられず、
 この子と同じ運命となったのだろうと想像された。
  この報道が、EUの冷たさを反省させ、驚愕させた・・
 自分の冷たさに改めて気づいたEUだった・・
  以下が、その時の報道・・
  題:幼児溺死写真の反響広がる・・難民受け入れ義務
   で仏独が合意・・
  [3日 ロイター]地中海を渡って欧州を目指す難民
 や移民が急増している問題で、フランスのオランド大統
 領は3日、欧州連合(EU)全域で「難民受け入れを割
 り当てる恒久的で義務的なメカニズム」について、ドイ
 ツのメルケル首相と合意したと語った。
  メルケル首相は、ドイツが近隣諸国より多くの難民を
 受け入れる用意があるとし、「公正で、それぞれの国に
 可能なことを考慮した割り当てやルール」に沿って各国
 が役割を果たす必要があると強調した。
  一方、トルコの観光地ボドルム近郊の砂浜で横たわる
 溺死した幼児の写真が、ソーシャルメディア上で広がり
 大きな波紋も呼んでいることについて、フランスのバル
 ス首相は、「欧州全域で緊急な対応が必要だ」とツイッ
 ターに投稿。
  欧州各国の政治家にも反響が広がった。
  死亡したのは、シリア難民のアイラン・クルディちゃ
 ん(3歳)で、家族らとともにボートでギリシャに向か
 っていたところ転覆し、一緒に乗っていた5歳の兄と母
 親も死亡したという。 ・・以上・・
  この報道を見たEU内に、「この悲劇を見過ごす事は
 罪だ」「トボトボ歩いている難民を救え」という声が高
 まった。
  2015年9月5日、ドイツは発表した、「『例外措置』と
 して、ハンガリーにいる難民を受け入れる」・・と・・
  ダブリン協定を、あっさりと「無視した」。
  しかし・・ドイツは、その後・・この辺について「奥
 歯にものが挟まったように言った」・・、
  「ダブリン協定は、治安維持のために、一時停止した
 だけだ」・・と・・
  とぼとぼ歩く難民の方々へ、バスが差し向けられたが・・
 何とも、先行きが曇るドイツだった・・
  難民の方々も、この行為を疑って、バスに乗ることを
 拒否した・・ハンガリーへ連れ帰される罠(わな)だと
 思った・・ドイツやEUのやることに信頼性を失ってい
 た難民の方々が、そこに居た・・
  ドイツ行の列車も次々と発車していた・・、
  2015年9月5日に、ミュンヘン中央駅に着いた難民は、
 8000人・・、
  そして、その翌日・2015年9月6日は、13,000人だった・・
  「ドイツの人道主義の勝利だ」と報道するドイツ・メ
 ディアもあった。
  しかし、ここまで来れた難民の方々は、体の強い方々
 だけの「一部の人たち」だった。
  また、実は、裏話があって・・お金のある人は、この
 難民を運ぶことを「にわか商売」にした「人の移動手段」
 を使ったという・・だから、また、お金のある人がここ
 まで来れた。
  その様なにわか商売の人が色々と居たという・・
  金さえあれば何でもできたという・・この様な「にわ
 か商売人」を利用できた人たちがたどり着けた・・
  髭剃り屋も居たし・・スマホの充電屋も居た・・物売
 り屋も出ていて、金さえあれば困ることのない状況だっ
 た・・と・・
  また、色々な斡旋業者も出て、難民が困っていること
 を処理してくれたという・・
  つまり、この難民の方々は・・やっとたどり着いたと
 いうボロボロの状態ではなく・・報道陣のカメラにVサ
 インをして笑顔を見せるという人たちだった・・
  多分、本当に困っている難民の方々は、列の後方に居
 て・・どこかで力尽きて、とどまっているのだろう・・
  その方たちは、報道されることは無かった。
  そして、おかしなことに?? この到着した難民の方々
 へ、メルセデス・ベンツ社が言った・・「まさに、この
 様な人々を、この様な人材を、わが社は求めている」と・・
 代表取締りの言葉だった。
  つまり、この到着した人たちは、経済力のある、英語
 も通じる・・
  そして、裕福だった人々が多く、それなりの教育を受
 けている人々だった・・
  ドイツの産業界は、そのことを知っていた・・
  そして、安価で、良質な、やる気のある労働力が手に
 入り込んで来たと・・捉(とら)えていた。
  安い良質な労働力が得られたと喜んでいる産業界だっ
 た・・
  ドイツでは、この後、この難民問題に、ハッピーエン
 ドで終わらない事態が続く・・
.
2018年、現代は、従来、絶対に公開されないとされて来た
 諜報に係(かかわ)る秘密文書が、続々と公開され、こ
 れまで真実とされて来た『歴史』が次々と修正されてい
 る・・この様な時代である。
  また、「マオ」という本には、毛沢東は、二十世紀最
 大の殺人者、大悪党であったという事が、豊富過ぎるほ
 どの事実をもって示されている。
  「敵の中に、秘密の同盟者を持て」という言葉がある。
  これが、軍隊なら何個師団にも相当すると言われてい
 る。
  今・現在、日本の官僚、特に、外務省や宮内庁に居る
 のではと思わせる事が起きる。
  この様な危険性は、識者も言う・・、
  「エリートが霞が関や永田町をはじめ、アカデミズム
 やマスコミなど、日本のあらゆる分野で、指導的地位を
 占めている可能性が、1970年~1980年代のレフチェンコ
 事件当時とは比較にならないほど高いものがあるという
 ことを知らねばならない」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月~1893年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)590E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年11月~1893年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年11月28日、ニュージーランド総選挙(史上初の婦人に
 よる投票)
  被選挙権は、この時に遅れること26年後の1919年から。
  そして、日本の婦人参政権の運動は、「大正デモクラ
 シー」の時期の1924年に、市川房枝氏らが婦人参政権獲
 得期成同盟(1925年に婦選獲得同盟に改称)を結成して
 運動を開始した。
  1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普
 通選挙法」が成立したが、婦人参政権は第二次大戦後の
 1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女に
 よる平等な選挙制度となった。
  翌年・1926年4月の総選挙では婦人議員が39名当選し
 た。
1893年11月29日、衆議院が、星亨の不信任動議を可決した。
 星は辞職を拒否した。
1893年11月、阪鶴鉄道会社が、摂津鉄道を買収した(1897
 年説あり)
  尼崎地域史事典には・・
  摂津鉄道(せっつてつどう):
  1892年、川辺馬車鉄道の輸送力を増強するため馬車を
   蒸気機関車に変えることが計画され・・、
   資本金を10万円から24万円に増資し、摂津鉄道会社
   と改称した。
   この増資の間に大阪資本が進出した。
  1894年、社長の伊達尊親が退任し、大阪の鴻池新十郎
   が社長に就任した。
  1893年12月、路線も伊丹から小戸(おおべ)村(現:
   川西市)までの延長が実・・。蒸気機関車となった
   ため馬車鉄道時代のように官設鉄道の横断が許可さ
   れず、神崎駅の南北に停車場を設けて、乗客は、そ
   の間を徒歩で乗り換えるという事がなされた。
   不便はあったが(貨車は人力で押して横断した)
   尼崎-長洲間10分、長洲-伊丹間12~13分と所要時間
   は大幅に短縮した。
   また、客貨輸送量も飛躍的に増大した。
  1897年、阪鶴鉄道に買収された。
1893年11月、明治座の開場式。
1893年12月2日、衆議院が、議長の星亨の不信任上奏案の動
 議を可決した(12月1日説あり)
  この第2次伊藤博文内閣の第五議会に於いて、衆議院は、
 議長の星亨への不信任上奏案動議を可決した。
  そして、1893年12月5日に、星の1週間の出席停止とし、
  1893年12月13日には、議員除名を決議した。
  そして、1893年12月29日に、衆議院が、現行条約励行
 決議案を上程し、10日間の停会処分を受け・・、
  1893年12月29日、衆議院が、陸奥宗光外相の条約励行
 決議案反対の演説後、再び、14日間の停会を命じられた。
  政府は、大日本協会(対外硬派)に解散命令をした。
  星亨は、1892年の第2回総選挙に当選して衆議院議長と
 なっている・・しかし・・、
  1893年11月に、相馬事件の収賄疑惑によって議長不信
 任案が可決された。
  しかし、議長を不信任となったにも関わらず、議長席
 への着席に固執した。
  そのため、衆議院から除名されてしまった。
  相馬事件は、お家騒動であるが、新興新聞がセンセー
 ショナルに扱って、日本は煽られた。
  (マスコミ報道の是非が問題となった・・マスコミの
 犯罪的な煽りの行動があった)
  この年・1893年、相馬家の関係者が告訴されたり、遺
 体の発掘騒ぎなど陰湿な騒ぎが続いた。
  そして、星は、この年・1893年、後藤象二郎とともに
 取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名された。
  この時、議長解任の決議を数度にわたり無視して登院
 した。
  (参考)現行条約励行運動は、1893年~1894年にかけ
     て、対外強硬六派によって唱えられた反政府の
     言論運動で・・、
      幕末期に、江戸幕府が諸外国とむすんだ不平
     等条約について、条約正文に明白に規定されて
     いない事項に関してはいっさい外国人の権利を
     認めず、日本国内における外国人の活動や生活
     を制約することを通じて条約改正を行ない、平
     等条約の実現を図ろうというもの。
      この頃、イギリスのロンドンで条約改正交渉
     が大詰めに近づいていたので、外国の世論を刺
     激することを怖れた第2次伊藤内閣は、1893年12
     月末に衆議院解散によって苦境を打破しようと
     した。
      しかし、1894年3月1日の総選挙(第3回衆議院
     議員総選挙)では、自由党も硬六派(立憲改進
     党・国民協会など)もともに過半数を獲得でき
     なかった。
      このことから、政府は、厳しい対応をせまら
     れた。
1893年12月3日、山陽鉄道新川線の兵庫駅~新川駅間が営業
 開始した。
  そして、新川駅は、この日、山陽鉄道の新川荷扱所(
 貨物駅)として開業した。
1893年12月5日、松平容保公が亡くなられた・・59歳だった。
  松平容保(まつだいらかたもり、1836年~1893年)は、
 幕末・維新期の陸奥(むつ)会津藩の藩主。
  天保6年(1836年)12月29日、美濃(みの、岐阜県)高
 須藩の城主・松平義建(よしたけ)の子(6男)として生
 まれた。
  会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。
  1852年(16歳)、襲封(しゅうほう、領地を受け継ぐ
   こと)し、陸奥会津藩(福島県)藩主・松平(保科)家
   9代となる。
  1853年(17歳)ペリー来航に際して、井伊直弼ととも
   に国書受理に賛成した・・
   また、本来、京都守衛は、所司代(しょしだい)の
   任務であったが、このペリー来航後、京都守衛は、
   幕府の威権にかかわる重要な問題として浮上した。
   そのため、幕府は、朝廷や諸大名の守衛不備の批判
   を避けるため、彦根藩、津藩を中心とする守衛体制
   をつくった。
  1860年(24歳)桜田門外の変で、井伊直弼が横死する
   と、容保は、幕府と水戸藩との調停にあたった。
   また、幕府の命によって、松平慶永とともに、幕政
   に参与した。
  1862年(26歳)幕府の強い要請により、京都守護職に
   任命された。
   京都守護職は、徳川幕府末期の京都守衛を職務とす
   る幕府官職だった。
  1862年閏8月、京都守護職に就任し、京都の治安維持と
   公武合体の実現に努め・・幕末の困難な政局にあた
   った・・尊攘急進派の長州藩を一掃した・・
   そして、京都の幕府勢力を代表して、孝明天皇の信
   を得て、一橋慶喜とともに公武合体を推進した。
  1863年(27歳)9月30日(文久3年8月18日)の八月十八
   日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩藩ら
   と結んで攘夷親征を計画し、長州藩などの尊攘派を
   京都より追放し・・弟の所司代・松平定敬と京都の
   治安を確保した。
   そして、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永
   (よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗
   城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とと
   もに、参与として朝政に参画した。
   そして、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図
   ったが、内部対立のために失敗。
  1864年(28歳)8月20日、これを好機として禁門の変
   を起こした長州藩・・この戦いでは、薩摩藩・桑名
   藩とともに、長州側を圧倒し撃退した。
  1864年(28歳)長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総
   裁職につき、また京都守護職に復した。
   その後、徳川慶喜と協力して条約勅許問題などで活
   躍した・・が・・
   西南諸藩との対立は決定的となる。
  1867年(31歳)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(
   ちゅうりく、罪ある者を殺す)の宣旨(せんじ)が出さ
   れ・・
  1867年(31歳)江戸幕府の15代将軍の徳川慶喜の大政
   奉還に反対し、武装する・・も・・
   大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、
  1868年(32歳)・・恭順の意を表したが入れられず・・
   鳥羽・伏見の戦いに敗北し、海路、江戸へ・・そし
   て・・慶喜へ再挙を説いたが入れられず・・、
  1868年(32歳)会津戦争では、30余藩の佐幕派列藩同
   盟の中心となって、東北・北陸に兵を展開し、徹底
   抗戦した・・
   しかし、会津城に籠城し、討幕軍に抗戦した・・
   ・・が・・会津若松城で敗れて降伏・・
  1868年(32歳、明治元年)因幡(鳥取藩)に幽囚(永
   預・えいあずけ)となる・・のちに和歌山藩へ・・
  1872年(36歳)謹慎を解かれて、のちに正三位に叙さ
   れた。
  1880年(44歳)日光東照宮宮司となられた。
  明治26年(1893年)12月5日、逝去される、59歳。
  言葉:幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々
 に 朽じとぞ思ふ
  会津戦争で戦死した藩士を追慕して詠まれた。
1893年12月12日 摂津鉄道の尼ヶ崎駅(現:尼崎港)~池田駅
 (現:川西池田)間が開通した。
  既設の尼ヶ崎駅~伊丹駅間を改築さらに伊丹駅~池田
 駅間に新線を延長敷設)した。
1893年12月13日、衆議院が、星亨を除名決議した。
1893年12月15日、三菱社が、三菱合資会社に改組された。
  三菱財閥は、日本の三大財閥の1つであるが・・、
  1870年、土佐藩出身の岩崎弥太郎が、土佐藩の事業を
   継承して、海運事業(九十九商会・つくもしょうか
   い)を創立し、
  1872年、三川(みつかわ)商会に改称。
  1873年、三川商会を三菱商会に改称。
  1874年、拠点を東京に移し、社名を三菱蒸気船会社と
   改称。
  1875年、上海定期航路を開く・・これは、我が国で初
   めての外国定期航路。
   政府の保護のもとにあった日本国郵便蒸気船会社の
   人員・施設を吸収して、社名を郵便汽船三菱会社と
   改称。
   上海のボイド商会と出資し、横浜に船舶修理工場の
   三菱製鉄所を開いた(外国資本との提携の始め)
  1876年、三菱商船学校を設立する。
  1879年、東京海上保険会社を設立(華族と共同出資)
  1880年、横浜正金銀行を設立する。
   また、三菱為換店を設立(三菱の銀行業、倉庫業の
   始め)、
   また、千川水道会社を設立(東京都水道の始め)
  1881年、長崎県の高島炭坑を買収し、経営する。
   また、明治生命保険会社を設立する。
  1884年、工部省管轄の長崎造船所を借り受けた。
  1885年、初代社長・岩崎彌太郎が死去(50歳)
   副社長であった岩崎彌之助が第2代社長に就任した。
   そして、第百十九国立銀行を継承する。
   そして、三菱と、共同運輸両社が合併し、日本郵船
   会社を設立した。
  1886年、岩崎彌之助が、三菱社を設立し、海運以外の
   事業を経営する(吉岡銅山、高島炭坑、長崎造船所、
   第百十九国立銀行、千川水道会社・・など)
  1887年、有限責任・東京倉庫会社を設立する(現:三
   菱倉庫)
   そして、借り受けていた官有・長崎造船所の払い下
   げを受けた。
  1888年、日本石油を設立。
  1889年、三菱社の管事・川田小一郎が、第3代の日本銀
   行総裁に就任した。
   そして、この年、丸の内と神田の官有地13万5千坪の
   払い下げを受けた。
  1891年、小野義真、岩崎彌之助、井上勝との共同によ
   って岩手県盛岡市郊外に農牧場を開いた(1899年、
   岩崎家の所有となった)
  1893年、商法の実施により三菱社を廃し、三菱合資会
   社を設立した。
   社長の岩崎彌之助は監務(後見職)となり、副社長
   の岩崎久彌が第3代社長に就任した(資本金500万円)
   そして、総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各
   部を設置し、分権体制を敷いて、長崎造船所の拡張
   と神戸、下関造船所の新設、そして、麒麟麦酒の設
   立など、事業がいっそう拡大された。
  三菱は、富国強兵政策の明治政府の保護もあって発展
 した。
  主に、海運業に注力(ちゅうりょく、力を注ぐこと)
 するが、造船業・鉱業・鉄道・貿易など、あらゆる分野
 に進出した。
  第二次世界大戦後、GHQの財閥解体にあう。
.
  (今日の言葉)
.
  題:難民に困るドイツが編み出した・・ダブリン協定・・
    ハンガリーのオルバン首相は独裁者だと、ドイツは言った・・
    難民は、EU内を自由通行するな・・と、決められた・・
    自由通行のEUの・・国境に・・突貫工事で塀が作られた・・
.
紀元前8000年、チグリス・ユーフラテスに囲まれた「肥沃
 な三日月地帯」において・・、
  これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼
 育)と農耕(麦類栽培)を主体とした生活が行われるよ
 うになったとみられる遺構が・・、
 紀元前8000年頃のジャルモの地層から発見された。
     ・
     ・
紀元前3500年頃、メソポタミア文明が作られた。
  チグリス・ユーフラテス川は、水源地帯の雪解けによ
 り定期的に増水するため、運河を整備することで豊かな
 農業収穫が得られた。
  初期の開拓地や文化から始まり、エジプトなどよりも
 早く農業が行われた。
  この文明のメソポタミア諸王朝と、エジプト王国は、
 互いに自らが作り上げた文化に高い誇りを持ち続けて、
 相手の科学思想を取り入れようとしないなど、『交易な
 どなされず』にいた。
  ヘブライ人は、アラム人などとの貿易をしていた。
  キリスト教は、ヘブライ人が、メソポタミアからエジ
 プトへ向かったという話にしたいので・・だから、史実
 に反する話をする。
  これは、ヘブライ人が、エジプトへ向かわないと「モ
 ーゼのエジプト脱出」の話が「作り話になる」からで・・、
  しかし、モーゼのこの話は、史実にはない「作り話」
 で、歴史家も、「モーゼの実在を否定している」。
  キリスト教は、無理筋の嘘話を言うが、これもその一
 つ。
.
紀元前3200年頃、チグリス・ユーフラテス川の下流域のウ
 ルクで、紀元前3200年頃、ウルク古拙文字と呼ばれる絵
 文字が生まれた。
  ウバイド期に続く次の時期をウルク期(紀元前3500年
 ~紀元前3100年)と呼び・・、
  この時期は、都市文明の開始期で、都市文明の担い手
 はシュメール人だった。
  ウルク文化期後期には、支配階級や専門職人や商人が
 現れ、ウバイド文化期には認められなかった円筒印章や
 プラノ・コンヴェクス煉瓦が登場した。
  紀元前3200年頃に、ウルクで、ウルク古拙文字と呼ば
 れる絵文字が生まれた。
  ほぼ同時期に、東のエラムでは、原エラム文字や、エ
 ラム線文字が使われ、
  エジプト初期王朝時代では、ヒエログリフとヒエラテ
 ィックが使われていた。
  研究者は、原エラム文字とインダス文字が非常によく
 似ていると指摘している(インドとの交易)
.
紀元前3100年、メソポタミアの楔型(くさびがた)文字は、
  この時より前に出現していた。
.
紀元前3000年頃、ウルク期に続くジェムデト・ナスル期(
 紀元前3100年~紀元前2900年)になると・・、
  紀元前3000年頃、銅にすずを混ぜる青銅合金の製造法
 が発見され、青銅製の武器が作られた。
  銅の供給地は、バット遺跡。
  スズの供給地は、トロス山脈のケステル。
  武器の発達によって、都市国家間は戦乱時代となり、
 ウルクの市域は最大領域に達し、ジェムデト・ナスル文
 化はペルシャ湾岸まで達した。
  しかし、ジェムデト・ナスル期末期にシュルッパクの
 王ウバル・トゥトゥの治世下で、メソポタミア全域が大
 洪水に見舞われ、ウルクの繁栄が終わり、シュメールの
 中心は上流域のキシュに移った。
  (上流域との関係が強いのである・・エジプトではな
 い・・また、ウルク、ウルは下流域。
.
紀元前2900年、初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2350
 年)には、ウル、ラガシュのような多くの新興シュメー
 ル都市国家が成立し、王朝が成立した。
  考古学的に、実在が確認されている最古の王は、紀元
 前2800年頃のキシュ第1王朝の王エンメバラゲシで、
  アワン朝古エラム時代(紀元前2700年頃)、3代に渡っ
 てシュメールを支配したと伝えられる。
  紀元前2700年頃、シュメール下流の都市が繁栄し、キ
 シュはさびれた。
.
紀元前2850年、神聖文字(ヒエログリフ)などのエジプト
 の絵文字は、紀元前2850年頃から使われていた。
  このエジプト文字が、元となってアラム文字、フェニ
 キア文字、ヘブライ文字などが作られた。
  これ等の文字によって、中近東の紀元前2000年~紀元
 前1000年といった極めて古い時代の歴史を知ることが出
 来る。
.
紀元前2600年、この頃と考えられているウルク第1王朝の王
 ギルガメシュは、『ギルガメシュ叙事詩』によってその
 名を知られているが、エンメバラゲシの実在が確認され
 た事から実在が確実視されている。
  シュメールとの交易相手にはen:Majan、ディルムン、
 en:Meluhhaが知られており、この時代には、広大な交易
 網が形成されていた。
  ラガシュの王ウル・ナンシェの碑文に、ディルムンと
 交易していた記録が残っている。
  en:Meluhhaが、インダス文明であるとする説をヘルシ
 ンキ大学のアスコ・パルボラ博士とen:Simo Parpolaら多
 数の学者が支持している。
  楔形文字が、完全な文字体系に整理されたのは、紀元
 前2500年頃である。
  伝説では、ウルク第1王朝の王エンメルカルが文字を使
 ってアラッタに降伏を勧告した(エンメルカルとアラッ
 タの領主。
     ・
     ・
30年頃、この頃、エルサレムの町には予言者が一杯いた。
  吉凶の前兆をめぐって予言者や占師がはびこるという
 エルサレムだった。
  イエスは、儲かるからと、この商売に就いた。
  イエスは、故郷の人から、「予言者とは、いい商売を
 しているな」と言われていた。
.
129年頃、古代ローマの医師・ガレノスが、トルコのペルガ
 モンの裕福な建築家の家庭に生まれた。
  父の支援のもとに、各地で哲学や医学を、アレクサン
 ドリアで学んだ。
  この地は、唯一、医学解剖が許される地だった。
  この地で、彼は、技術を磨き、経験を重ねた。
  27歳(156年頃)の時、故郷へ帰り、ここで剣闘士の
 治療医となった。
  肉を切り裂く流血の競技をする剣闘士の担当医として
 外科医のかけがえのない経験を積んだ。
  30歳(159年頃)を過ぎて、ローマへ行った。
  ローマは、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス
 が即位したばかりだった。
  この地で、ガレノスは解剖の技量を示し、名医として
 の評判を得て、また、名を高めた。
  この評判が皇帝の耳に入り、目にとまった。
  皇帝の侍医となる。
  166年(37歳)、疫病が大流行した。
  この病気がイタリアに到来する頃、ガレノスは、ロー
 マを離れ帰郷した。
  これは口実だった。
  実際は、医学論争での対立から身の危険を感じたのだ
 った。
  ガレノスは、「激昂(げっこう)しやすい人」だった。
  しかし、名医としての名声が、故郷に居る事を許さず、
 ほどなく、皇帝の命で呼び戻され、帝室の侍医となった。
  やがて、北方からのゲルマン人の侵入の脅威が高まっ
 た。
  マルクス帝は遠征をした。
  ガレノスは、随行するようにと言われるが固辞(こじ、
 かたく辞退しつづけること)した。
  180年、マルクス帝が死去する。
  18歳の子のコンモドゥスが帝位についた。
  この帝は、直ちに和平を進め、代償金(損害のつぐな
 いをする・・その金)を支払い北方戦線から撤退した。
  この帝は、簡単にローマ人の威信を挫(くじ)いた。
  そして、この子の帝は、ひいきの側近に政治を任せ、
 怠惰で放埓(ほうらつ、ほしいままに振る舞って酒や女
 に溺れること)な行動を始めた。
  命も再三にわたって狙われるという始末だった・・が、
 結局、側近らの共謀によって殺害された。
  ガレノスは、宮廷の侍医であった、そして、比類なき
 名医であった、それは誰もが認めた・・名声も博した。
  ガレノスに対抗する医学の諸派もあったが、ガレノス
 の晩年頃には、そのほとんどが勢いを失っているほど、
 ガレノスは、地中海世界の医学における唯一の皇帝の様
 な名医だった。
  ガレノスは、また、厖大な著作を残した。
  また、彼は、医学だけに没頭したからこそ、権謀術数
 が渦巻く彼の世界の中(宮廷社会の中)で生きて行けた
 と言える。
  ヒポクラテス以来の誇大医学を集大成し、ルネッサン
 ス期まで西洋医学に絶大な影響を及ぼしたというガレノ
 スだった。
  ガレノスは、200年頃に没した(71歳くらい)
  「現代医学の治療の要(かなめ)は、古代のガレノス
 の時代からさほど変わっていない」と言われているほど
 である。
     ・
     ・
1857年7月、北海道・函館に、五稜郭が起工する。
  フランス式築城術で建設された日本初の稜堡式城郭で、
  天守閣を備えた城郭は持たない。
  当初は、幕末の開港による外国の脅威を念頭に、より
 多くの堀や城累の設置が検討されたが、後に、設計は縮
 小された。
  (参考)稜堡:りょうほ、大砲を主要防御武器として
     設計された城で、多数の大砲が、死角を補い合
     うように造られている。
      16世紀~18世紀のヨーロッパで行われ、日本
     ではこの五稜郭・龍岡城・・
  (参考)龍岡城:たつおかじょう、長野県佐久市田口
     にある日本の城跡で、幕末期に築城され、龍岡
     藩(田野口藩)の藩庁が置かた。
      日本に二つある五芒星形の西洋式城郭の一つ。
      龍岡五稜郭、あるいは、桔梗城とも呼ばれる。
  1854年3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定
   すると、江戸幕府は、松前藩領だった箱館周辺を上
   知して・・、
  (参考)上知:あげち、江戸時代の大名や旗本が、領
     知である知行地(→知行)を官に返すこと。
  (参考)領知:りょうち、土地を領有して支配するこ
     と。
  1854年6月、箱館奉行を再置した。
    箱館奉行所は、前幕領時代(1802年~1807年)と
   同じ基坂(函館山の山麓一帯にある坂のひとつで、
   当時は、松前藩の箱館奉行詰役所があった)に置か
   れた。
    初代奉行の竹内保徳は、松前藩の建物を増改築し
   て引き続き使用する方針を示したが、
    続いて奉行に任命された堀利煕は、同所は箱館湾
   内から至近、かつ、遮るものがなく、加えて外国人
   の遊歩区域内の箱館山に登れば、奉行所を眼下に見
   下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面へ
   の移転が必要だと上申した。
    そして、竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内から
   の艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役
   所四方土塁」を築いて、奉行所を移転する意見書を
   老中・阿部正弘に出した。
    これが、幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定し
   た。
    併せて、矢不来(やぎらい、現在の北斗市矢不来
   (やふらい))・押付・山背泊(やませどまり)・
   弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の
   新改築からなる箱館港の防御策も上申されたが、阿
   部は、これらを同時に築造するのは困難なので、ま
   ず、弁天岬(弁天台場)と築島(着工されず)に着
   手するよう指示している。
  1855年7月、フランスの軍艦コンスタンティーヌ号が、
   箱館に入港した際・・、
    箱館奉行所で、器械製造と弾薬製造の御用取扱を
   務めていた武田斐三郎が・・、
    同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡
   の絵図面を写し取った。
    武田は、この絵図面をもとに、五稜郭と弁天台場
   の設計を行った。
    そして、五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造
   からなる総工費41万両の予算書が作成された。
    当初は、工期20年の計画だったが、蝦夷地警備を
   命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣
   屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の
   各陣屋が、既に、完成していたことから、
    五稜郭や台場の工事が遅れると、箱館市民や外国
   人に対して幕府の権威を失うことになるので、弁天
   台場と五稜郭の築造を急ぐこととなった。
  1856年11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、
   下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎ら
   を、台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、
  1857年7月、五稜郭の築造を開始した。
    建物については、1856年から、郭外北側に役宅を
   建設、
  1861年、奉行所庁舎建設を開始した。
    施工は、土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上
   喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方
   石方請負人・中川伝蔵が請け負った。
    当初は、まず、掘割と土塁工事、
    続いて、建物工事、
    最後に、石垣工事を行う計画だったが、
    この地は、地盤が脆弱で、冬季の凍結・融解によ
   り掘割の壁面が崩落したため、急遽、石垣工事を先
   行させた。
  1864年、竣工。
   1864年6月15日、箱館奉行・小出秀実が、旧奉行所か
   ら郭内の箱館御役所に移転、業務を開始。
    引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や
   付帯施設の工事も行われ、
  1866年、全ての工事が完了した。
    箱館奉行・小出秀実が、奉行所を五稜郭内に移転
   して業務を開始した。
  そして、後に、箱館戦争(1868年~1869年)では、榎
 本武揚率いる徳川幕府軍が入城し、城塞であるとともに
 榎本らが設立した「蝦夷共和国」行政府としても機能し
 た。
.
1892年11月、大倉土木組が、日本土木会社から継承され設
 立された(現:大成建設)
  1873年10月、大倉喜八郎が、資本金15万円をもって大
   倉組商会を創立し、機械などの直輸入貿易をおこす
   とともに諸建造物の造営などに当たった・・これが
   起源。
  1887年3月、大倉喜八郎は、渋沢栄一氏、藤田伝三郎氏
   と共に、資本金200万円をもって有限責任日本土木会
   社を設立し、大倉組商会の業務の内、土木関係に関
   するものを分離し継承・・日本の土木建築業の初め
   となる。
  1892年11月、有限責任日本土木会社は解散し、その事
   業を大倉喜八郎単独経営の大倉土木組に継承する。
  1911年11月、大倉土木組が、株式会社大倉組に合併さ
   れ株式会社大倉組土木部となる。
  1917年12月、株式会社大倉組より分離し、資本金200万
   円の株式会社大倉土木組となる。
  1920年12月、日本土木株式会社と改称。
  1924年6月、大倉土木株式会社と改称。
  1946年1月、大倉土木株式会社を廃し、大成建設株式会
   社と改称した。
  因みに、大倉財閥は、政商・大倉喜八郎が一代で創設
 した財閥で、幕末・維新の動乱に乗じて銃砲販売で台頭し
 た。
  大倉喜八郎は、明治期に軍需物資用達などの政商活動
 や貿易活動を中心に事業を拡大したが、そこで蓄積した
 資本を基礎に、合名会社大倉組(1893年、設立)を持株会
 社とし、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の直系3社を事業
 の中核とするコンツェルン機構が第1次世界大戦期に形成
 された。
  また、大倉喜八郎は、財界の有力者として多数の会社
 の設立に関与し、出資していたため、昭和初期には投資
 先会社数が100社以上にのぼり、巨大総合財閥(三井、三
 菱)には及ばないものの、第二級の資本規模を有する財閥
 に発展した。
.
20世紀初め、この頃、排満革命の機運が中国で高まった。
  汪兆銘(おうちょうめい)。
  清朝の満州人(満州族)に、漢人(漢族)が支配され
 ている中国だった。
  孫文の率いる革命勢力の中で、汪兆銘は頭角を現して
 いた。
  そして、清朝摂政王の暗殺を試みた。
  しかし、失敗した。
  汪兆銘は、捕まって、死刑宣告を受けた。
  汪兆銘は、蒋介石の4年前に生まれ、日本の法政大学に
 留学し、学んでいた・・その様な人物だった。
  死刑宣告を受けた汪兆銘は、幸い、1911年に、辛亥(
 しんがい)革命が起きたため、釈放された。
  中国の愛国者であり、民族主義の急進派であり、親日
 的だった。
  だが、しかし、今(2018年)、中国共産党政権は、「
 漢奸(かんかん、中国の国を売る輩・同国人)」として、
 売国奴呼ばわりをしている。
  しかし、この汪兆銘は、蒋介石と違って「容共路線」
 を主張していた。
  汪兆銘は、病気治療のため渡仏した。
  その間、蒋介石は、中国の実権を握った。
  汪兆銘は、同調して反共に転じた。
  1927年頃まで、汪兆銘は決死で活動し、自分の命をも
 惜しまない「革命の家の姿」であり、孫文の後継者とし
 ての気概があった。
  しかし、反共路線を取る汪兆銘と、親日的な姿に「漢
 奸」の姿を感じさせてしまっていた。
  蒋介石の蔭にアメリカが居て、中国の反日姿勢が強ま
 り、日中関係が悪化するとともに、汪兆銘の「漢奸のイ
 メージが、膨らんで行った」。
  1930年、蒋介石は重慶に政府を移し、アメリカに影響
 され、対日徹底抗戦を主張した。
  汪兆銘は、その方針に異議を唱えた。
  そして、南京に新政府を樹立した。
  そして、戦争で被害を受ける国民が頭にあった汪兆銘
 は、戦争への道ではない日中関係の打開を試み始めた。
  日中の関係を冷静に考える汪兆銘には、中国国民の膨
 大な被害が見えていた。
  何としても汪兆銘は、その視点からも、戦争は避けた
 かった。
  汪兆銘の愛国者の視点は、中国の人たちの犠牲を受け
 る姿から発していた。
  しかし、汪兆銘は、反日派から狙撃され、重傷を負っ
 てしまった。
  しかし、汪兆銘は、方針を変えることなく、和平の道
 を探し求めた。
  汪兆銘は、1944年11月10日に病没した。
  61歳だった。
.
1945年8月15日過ぎに、ソ連は、日本領の南樺太(南のサハ
 リン)に攻めて来た。
  日本の交渉団が・・、
  「8月15日の終戦が過ぎていて、戦争は集結しているの
 で、交渉し、話し合いをしよう」と・・、
  交渉団が、ソ連側へ白旗を掲げて行くと、ソ連は、そ
 の日本の交渉団へ向かって機関銃で日本の交渉団を皆殺
 しにした。
.
1946年、日本新聞協会は、「日本全国の新聞社・通信社・
 放送局が倫理の向上を目指して、戦後間もない1946年に
 創立した自主的な組織です」・・と説明されているが、
 果たして、その通りなのか?
  『隠れ蓑』になっているのではないか?
  日本の新聞ほど、偏頗(へんぱ)な新聞はない。
.
2015年8月27日、オーストリアの首都ウィーン近くの高速道
 路の路肩に、一台の冷蔵車(7.5トン)が乗り捨てられて
 いた。
  見回りの係員によると、猛烈な腐敗臭が漂い、ドアの
 隙間から液体が漏れ出ていた。
  ふたを開けると71体の腐乱死体。
  男性が59人、女性が8人、子供が4人。
  国籍は、大半がシリア人であった。
  オーストリアか、ドイツで、庇護申請しようとしてい
 たと思われている。
  死因は、窒息死だった。
.
2015年8月、ハンガリーの中央駅に、シリア難民が、大勢、
 溜まってしまって、どうしようもない状態になってしま
 った。
  この異常な事態に大騒ぎとなった。
  ハンガリーには、特に、多くの難民が押し寄せていて、
 ハンガリーの人口の1000分の5に当たる難民が流入してい
 る。
  目的地は、ドイツ。
  日本だったら60万人に相当する人数となる。
  この地で、難民が滞る理由は条約(ダブリン協定)の
 決定で・・、
  ハンガリーは、その難民の登録をし、保護し、審査し
 なければならないとされている。
  その条約には、最初にEUに踏み入れた国は、その難
 民に対する「その行為をしなければならない」とされて
 いる。
  これでは、「EUの周辺国」に、難民が溜まってしま
 う事になるのは『明らか』で、難民に困るドイツが編み
 出した。
.
2015年8月末、ハンガリーから、ドイツへ向けて、難民の
 方々を乗せた列車は発車した・・これを許可したのがハ
 ンガリーのオルバン首相だった。
  EUは、豊かな国からEU加盟国が広がって行った・・
 増えて行った。
  そして、時が経て・・その豊かなEUの中心の国を目
 指して難民の方々が押し寄せた。
  最初は、美しい理念で出来たEUのその理念に沿って
 その難民の方々は受け入れていたが・・、
  だんだん、その我慢も限界に・・、
  そして、「痩せ我慢の限界」を超えた。
  そこで、「ダブリン協定」という取り決めが、力のあ
 る豊かなEUの中心となっている国の意向が生きて、取
 り決めされた。
  難民が流れ込んで来るEUの豊かな国に都合のよい協
 定=ダブリン協定であった。
  今度は、難民が通過する国だったEUの周辺国に、難
 民の方々が「通過できずに溜まり出した」。
  しかし、豊かな国へ行きたい難民の方々は、法を犯し
 てまでして豊かなEUの中心の国へ向かった・・難民の
 方々の流れは絶えなかった。
  そのEUの中心の豊かな国も「ギブアップして、お手
 上げ状態となった」。
  難民の方々は、さらに、その先へと向かった。
  ドーバー海峡でも、大々的に国境を越えて行った。
  目指すのは・・イギリスだった。
  イギリスは、手続きも簡単で、景気が良く、仕事を得
 るチャンスがよりあった。
  ユーロトンネルを多くの難民の方々が越えた。
  トラックや列車に飛び乗った。
  当然、イギリスとフランスの国境警備隊が、共同で取
 り締まっていた。
  埒(らち)のあかない「追っかけっこ」が続いた。
  ダブリン協定なんて「機能なんかしてなかった」。
  難民の方々が、溜まりに溜まっているハンガリー・・、
  そのEU周辺国のハンガリーも、事実上、無能となっ
 たダブリン協定の状態を見ていた。
  2015年8月末、ハンガリーのオルバン首相は、ダブリン
 協定を無視して、難民の方々が乗ったドイツ行の列車の
 発車を許可し、命じた。
  列車は、発車して行った。
  途中のオーストリアで、列車は止められるという騒ぎ
 が起きた・・が、結局、オーストリアも、列車を発車さ
 せた(ダブリン協定違反)
  列車は、2日かかって、ドイツのバイエルン州の州都
 ミュンヘンに着いた。
  この列車を発車させたEU周辺国のハンガリーが、E
 Uから非難された。
  ドイツ政府も、このハンガリーを汚い言葉で非難した。
  「ハンガリー政府のオルバン首相は独裁者だ」
  「ハンガリー政府は、反民主主義だ」などと・・、
.
2015年、公正であるべき近代社会・・だが・・??
  ましてや、『グローバリズムだ』と美しい理念を掲げ
 て「国境を取っ払ったEU」・・??
  そこには・・行動を起こされる「格差」が存在した。
  EU内の唯一の経済強国のドイツ。
  このドイツの顔色を他のEU諸国は見る様になった・・
 伺(うかが)うようになった。
  EU外の諸国の民は、「EUには国の垣根はない」と
 言われれば、この豊かな国・ドイツへ行きたいとなった。
  本当の難民なのか?どうか?分からぬ人々も居るとい
 う人々が、ドイツを目指した。
  ドイツは、第二次世界大戦で非人道的行為をしていた
 ため、憲法に難民を救済するような条文があった。
  その様な憲法もあるドイツは、流入する人々を受け入
 れた。
  ドイツのある地方は、ドイツの国柄が変わるほど、ド
 イツという国が壊れるほど・・受け入れた。
  そのうち、ドイツは・・心で悲鳴を上げた。
  EUは、ドイツの意向が働くところとなっていた。
  『ダブリン協定』ができた。
  この協定で、「流入する人々は、EU内での登録は1
 回しか出来ない」と決められた。
  また、EUに入った最初の国で、登録申請しなければ
 ならないと決められた。
  また、EU内の「内国の自由通行の権利」は、この流
 入する人々には「認められない」・・とされた。
  これらの取り決めから見える姿は、EUの内国のドイ
 ツで、流入する人々の難民申請は、事実上、出来ないと
 いう状況だった。
  その結果・・EU圏の周辺国に、どんどん難民と称す
 る人々が増加するという状況となった。
  そして、難民申請が認められても、この人たちには、
 「EU内の自由通行権は認められてない」・・故に、E
 U周辺国に流入する人々が、その場で滞(とどこお)り、
 増加し続けるという状況となった。
  当然、EU周辺国は・・悲鳴を上げた。
  2015年、ハンガリーは、国境の150キロに渡って、突貫
 工事で、高さ4メートルの塀を作った。
  EUは、非人道的だと非難をした(後に、この非難は
 無くなった)
  しかし、この塀を何とかして人々は通過し、続々と流
 入し続けた・・そして、ドイツを目指した。
  列車のチケットがあろうが、なかろうが、ドイツを目
 ざして列車に乗り込んだ。
  これが、2015年8月の様子だった。
.
2018年、アメリカでの黒人の方々への差別の現状。
  アメリカで、黒人の方々が差別されている状況を知る
 データーの一つが・・、
  「公職についている黒人の方々の比率」が『1.5%とい
 う低い比率』であること・・、
  アメリカには、12%の黒人の方々が居られるので、そ
 の低い比率差がお分かり戴けるだろう。
  黒人の方々は、現在の10倍の方々が公職に就(つ)い
 ていても良い状況となっている。
  他国には、平等を求めるアメリカは、キリスト教の有
 色人種への蔑視観に洗脳されて、この例の様に、『黒人
 の方々を差別している』。
  この事は、ユネスコの世界記憶遺産にしっかり登録さ
 れねばならない。
  こんな明白な人種差別は、即刻、止めさせる意味から
 でも、ユネスコへの登録行動を起こす運動を始めよう。
.
2018年、北朝鮮が、核の開発に成功し、また、ミサイル開
 発にも成功し・・、
  そして、日本へ向けた「核ミサイル配備も完了し・・
 これに対する守りをどうするか・・??
  ・・という・・大切なこの時に・・日本は、国内の問
 題で明け暮れている・・、
  広島の原爆どころではない「北朝鮮の威力を増した核
 兵器」が、現実のものとなり・・
  日本に差し向けられているというこの大事なこの時に・・
 しっかり日本を守るべきこの時に・・国内の問題を、ひ
 たすら「ああだ、こうだ」と取り上げている。
  この北朝鮮の大危機から目をそらされている・・
  このそらさせる行為が・・行われている。
  日本の「国民の目をそらさせている」日本の特定のマ
 スコミ・・など・・
  また、北朝鮮は「原爆より巨大な水爆をも持っている
 ・・というのに、この様な、緊急事態が発生しているこ
 の時に??」。
  この緊急事態に対処して日本を守ろうと・・そして、
 日本を守るためには、「憲法を改正しなければならない」
 というこの時に・・この憲法を改正させないようにと、
 「この国民の目をそらさせようと、仕組まれたマスコミ
 行動などがなされている」。
  朝日新聞は、「安倍政権を倒すのだ」とキャンペーン
 を行なっている。
  「憲法改正をさせたくないのだ」という気持ちがそこ
 にはある。
  また、慰安婦問題を追及されて、とうとう朝日新聞は、
 「慰安婦問題の嘘を謝(あやま)らざるを得ない状況と
 なって・・やっとこさ、謝ったが・・その恨(うら)み
 が朝日新聞にはある」。
  朝日新聞は、系列のテレビである「テレビ朝日」も使
 って、連日、この国内問題を放送して、国民の目を惑(
 まど)わせている。
  こんな番組を『提供している企業も、企業だ』。
  安倍政権の支持率も低くなっていないのに、「支持率
 が下がった、下がった」と煽(あお)った。
  そして、今は、国民の方々も、それに惑(まど)わせ
 られて、支持率は下がってきた・・が・・この様なやり
 方で、日本の皆様は繰(く)られている・・日本世論を
 繰っている。
.
2018年、何でもアメリカの真似(まね)をする中国。
  アメリカのルーズベルト大統領が、アメリカ国民の方々
 を繰って、嘘をついて、第二次世界大戦を始めさせたが・・、
  戦争が始まった時に、「私は戦争を作った」と言った
 くらいだった・・ルーズベルト・・、
  また、当然、ルーズベルトは、戦争が始まることを知
 っていて、親族に、「明日、日本が攻めて来るよ」と言
 っていた。
  アメリカのルーズベルト大統領は、日本が先に攻めた
 様に見せかけた・・
  ・・が、実際は・・アメリカが先に、中国で、日本を
 攻めていた。
  この様な大嘘をついて、アメリカ国民の方々や世界の
 人々に嘘をついて、「繰っていた」が・・これを、現在、
 真似しているのが中国だ。
  世界へ工作員を行かせて、その国の世論を操作してい
 る。
  日本にも、大勢の工作員を潜り込ませている。
  そして、日本に行かさせて、「日本国籍を取らせて・・」
  そして、日本国籍を取ったその中国工作員は、「日本
 人の様な顔をして、中国に有利な事をやらせている」。
  中国にとって、一番に怖い事を止めさせようとしてい
 る・・
  その中国が一番怖い事は、『日本にアメリカ軍が居る』
 ということ、そして、『日本の防衛力が強くなるという
 こと』・・、
  この事に対して、一生懸命に妨害をしている。
  その一例が・・沖縄だ・・
  連日、沖縄の人が困るほど・・大騒ぎをしている。
  日本が憲法を改正して、「日本の防衛力が強くなるこ
 とを、最大に恐れている」・・
  だから、一生懸命、日本の憲法改正の足を引っ張って
 いる」。
  憲法改正をさせない様にと、一生懸命、動き回ってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)589E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)589E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月1日、大日本協會が結成された。
  大日本協會(たいにほんきょうかい)は、政治団体で、
  神鞭知常、安部井磐根、大井憲太郎、坂本則美、大竹
 貫一らがかねてより組織していた内地雑居研究会を改変
 したもの。
  (1)外国人への内地開放、内地雑居に反対する内地雑
   居講究会派が、全国的な政治運動展開のために組織
   した。
  (2)領事裁判制廃止のためには、当然、居留地を廃止
   し、内地開放を行わなければならないという主張を
   批判した。
  (3)内地開放を行うか否かの決定権は、条約締結国に
   あると主張した。
  条約改正 (不平等条約の改正) にあたって、第2次伊藤
 博文内閣の外交政策 (外相:陸奥宗光) に反対した。
  内地雑居 (内地雑居問題) を時期尚早とした。
  そして、現行条約の励行を主張した。
  第5議会には、条約励行建議案を提出するなど、対外硬
 派の中心的存在として活躍した。
  10日間の停会ののち、情勢不利とみた伊藤内閣は、12
 月30日議会を解散すると同時に、治安妨害を理由に圧迫
 を加え、大日本協会は解散させられた。
1893年11月1日、東京・日本橋に明治座が開場した。
  明治座は、江戸時代末期の富田某三兄弟の「三人兄弟
 の芝居」という菰張 (こもばり) 芝居が前身で・・、
  (参考)菰張芝居:菰はむしろの意味で、菰を垂らし
     た豪華ではないという感じ・・、
  1873年、両国橋畔の興行禁止にあい、久松町に喜昇座
   (きしょうざ)の名で転身した。
  1879年、改築して久松座と改称した。
   その時の座頭は助高屋高助。
   火事、台風の災を受けるなどして廃座へ・・、
  1885年、千歳座として再建され・・、
   9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、1世市川左団次らの
   名優の出勤する気鋭の座となった。
  1890年、火事で全焼となる。
  1893年11月、座名も日本橋座から明治座と改称・・、
   初世市川左団次はこの座により、この地に新劇場を
   建設し、左団次一座の本拠となる。
   団十郎、菊五郎の拠る歌舞伎座と対抗した。
  1907年、帰朝した2世左団次は、翌年・1908年、新興行
   法を実施して失敗する。
  1912年、伊井蓉峰の手に渡り、さらに中村伝九郎に・・、
  1919年に、松竹の所有となる。
   関東大震災で被災し・・後、浜町金座通りに移る。
   第2次世界大戦にも戦災で焼失し・・、
  1950年、復興し、松竹から独立し、独立劇場となる。
  1957年、失火により焼失。
  1958年、再建、客席1階~3階、客席数1688、大衆演劇
   の中心の独自の講演を組んだ。
  1990年6月、公演を最後に高層ビル化のため取りこわさ
   れた(新劇場建設のための閉鎖)
  1993年3月、新築開場した、18階ビルの中の劇場として
   再開場した。
1893年11月1日、高木惣吉(たかぎそうきち)が生誕した。
  (1893年~1979年7月27日)は、日本の海軍軍人。海兵
 43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。
  東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。
  旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ・・、
  働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たした。
  海軍大学校を首席で卒業する。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)半ばに、海軍省教育局
 長に補職された高木は、早期終戦を模索した。
  しかし、最終的に、東條首相を暗殺して、和平内閣を
 誕生させ、英米間との和平を実現させるべきとの結論に
 達した。
  実際に、暗殺計画を立案したものの、実行直前に東條
 が昭和天皇陛下からサイパンの責任を問われ、内閣総辞
 職を決意したため、未遂に終わった。
  その後、小磯内閣の海軍大臣に就任した米内光政と、
 海軍次官に転補された井上成美から、終戦工作の密命を
 受け、熱海の藤山愛一郎邸を拠点として、鈴木貫太郎内
 閣総辞職に至るまでの期間、各方面と連携をとりつつ戦
 争終結に向け奔走した。
  本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を
 排除しつつ、終戦への基盤づくりを行った。
  終戦直後、東久邇宮内閣の内閣書記官長・緒方竹虎に
 請われ、各省の次官たちを統べる初代の内閣副書記官長
 (現在の内閣官房副長官)に就任した。
  これは少将の高木にとって異例の抜擢人事であった。
  戦後は、公職追放を経て、軍事評論家として「辰巳亥
 子夫」のペンネームで著述活動を行いつつ、海上自衛隊
 幹部学校に於いて山梨勝之進と共に、戦史戦略の特別講
 師を務めた。
  高木が記録した政界諸情報綴は、現在、国立国会図書
 館憲政資料室と防衛庁防衛研究所図書館史料閲覧室に保
 存されており、重要な資料となっている。
  著書に書かれた高木の批判の矛先は、陸軍だけでなく、
 海軍に対しても、戦術から人事に至るまで容赦なく書か
 れている。
1893年11月4日、逓信省官房各局分課章程を制定した。
  11月10日施行。
1893年11月4日、日本鉄道が、隅田川線(現:JR常磐線)田
 端駅~千住町駅間の鉄道建設を出願した。
 翌・1894年11月2日、免許状が下付された。
1893年11月7日、日本を代表する会社である日本郵船の最初
 の遠洋航路であるボンベイ航路が開設された。
  広島丸が就航した。
  この航路の開設は、生易しいものではなかった。
  既得権益を守ろうとの外国の会社からの圧力は大きか
 った。
  それでも、日本を代表とする日本郵船は、積極的に航
 路を拡大して行った。
  国内主要港に、支店、出張所を設け、外国航路では、
 朝鮮半島や中国、マニラ、ウラジオストクまで定期配船
 を行うとともに・・、
  東南アジア、南太平洋、北米などの海洋航路に不定期
 船の運航を始めていた。
  そして、課題が、ボンベイ(現:ムンバイ)への遠洋
 定期航路への進出だった。
  この当時、日本の基軸産業として日本経済をリードし
 ていた紡績業で、インドからの綿花輸入量が急増してい
 た。
  しかし、日本とインド間の航路は、イギリス・オース
 トラリア・イタリアの三社が組織する「ボンベイ・日本
 海運同盟」が支配していた。
  そして、綿花に課せられていた高率の運賃が、わが国
 の産業振興の大きな足枷(あしかせ)・障害となってい
 た。
  1893年のこの年、「本航路上のみならず、貴社の既得
 航路においても激甚な競争を試みる」という外国三社の
 同盟側の強い中止要求があった・・
  ・・が、この要求にもひるまず、日本郵船は、国内紡
 績会社連合会と1年間の輸送契約を結び、ボンベイ定期航
 路を開設した。
  同盟側は、大幅なダンピングをして対抗して来た・・
  その攻撃に対し、日本郵船は、適正価格を守り通した。
  紡績会社の多くが、「自国の海運を守らなければなら
 ない」という強い意識で団結していてくれた。
  これは、大きな力となった。
  2年間、激しい競争に晒(さら)された・・その末、競
 争停止を申し入れて来たのは同盟側だった。
  日本郵船のボンベイ航路は「国際的に認められた」。
  そして、日本郵船は、近海海運会社から遠洋海運会社
 へと事業は拡大していった。
  続いての挑戦は・・欧州航路だった。
1893年11月10日、鉄道局に、鉄道線路調査掛が設置された。
1893年11月10日、特別の理由ある場合以外は、官吏の賞与
 を廃止することに閣議決定した。
  内閣(1893)「官吏賞与ヲ廃止シ・予算編成上庁費其
 他ノ費額標準ヲ定メ・官制改正ニ付二十七年度以降雇員
 俸給ヲ雜給ノ支弁トナスニ付テハ特別ノ技術ヲ要スルモ
 ノノ外月俸十二円以下ト決定ス」『公文類聚・第十七編』
 (国立公文書館所蔵)
  当該閣議決定の前に、明治26年(1893年)勅令第5号に
 より、「文武官及雇員ノ俸給ハ本令施行ノ日ヨリ六箇年
 間其ノ十分一ヲ國庫ニ納付セシム」
  (第1 条)として、雇員は国防対策上の製艦費の負担
 対象者に含まれた(ただし、第2条により「雜給ヲ以テ支
 辨スル雇員」には不適用とされた)ことから、雑給以外
 の雇員が存在したことを窺い知ることができる。
  なお、明治26年勅令第169号により、雇員は明治26年度
 に限り判任官俸給予算定額内より俸給を支給できるとの
 経過措置が取られた。
  この措置は明治27年(1894年)勅令第20号により、さ
 らに1 年延長された。
1893年11月10日、青森・福島・敦賀の各鉄道庁出張所をそ
 れぞれ鉄道局出張所と改称した。
1893年11月10日、逓信省鉄道局各課分掌規程を制定した。
1893年11月16日、筑豊興業鉄道が、九州鉄道会社から機関
 車、および、石炭車を借り受け、鯰田・勝野両炭坑から
 門司行の運炭を開始した。
  (27年1月19日から若松駅構内石炭荷卸しにかがり火に
 代えて電灯を設けた)
1893年11月17日、三井銀行が、田中製作所を買収して、芝
 浦製作所と改称した。
  東芝の前身。
  国の重要文化財指定を受けている機械式和時計「万年
 自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を設計・製作したこ
 とで知られる田中久重が通信機工場を設立した。
  そして、弟子の田中大吉により、1882年に、「田中製
 造所」が設立された。
  1893年、「芝浦製作所」に改称。
  1939年に「三井財閥」系列の下で、「東京電気」と合
 併し「東京芝浦電気株式会社」となった。
1893年11月25日、第5回帝國通常議會が開会(召集)した。
  会期:33日間。
  衆議院議長の星亨が、不信任案を可決されたため、同
 盟倶楽部(後に立憲革新党)の副議長である楠本正隆が
 昇格し、副議長は安部井磐根が就任した。
  貴族院議長は留任し、副議長は西園寺公望が就任した。
  与党化した自由党に対して、民党の立憲改進党に、品
 川弥二郎の率いる国民協会が接近した。
  11月29日、衆議院は、星亨議長の不信任の動議を可決。
  12月1日、衆議院は、星亨が議長の辞職を拒否したので、
   不信任上奏案を可決した。
  12月2日、明治天皇陛下は、「上奏は議長更迭の誓願か、
   議院の不明を謝する意か」と質問された。
   衆議院は、「後者の意」との奏答案を可決した。
  12月4日、衆議院は、農商務省の汚職問題を弾劾する官
   紀振粛上奏案を可決した。
  12月29日、衆議院は、外務大臣の陸奥宗光の条約励行
   案反対の演説後、14日間の停会を命じられた。
  12月30日、衆議院が、解散を命じられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、日本政府は、中国人に限っての入国管理を甘くして来ている。
.
4万年前~1.5万年前、モンゴロイドの人々がアメリカ大陸
 へ渡った。
  (参考)モンゴロイド:形態人類学における人種分類
     概念の一つ。
      日本では、一般に黄色人種・蒙古人種とも訳
     される。
      18世紀、ドイツ人の人類学者ブルーメンバッ
     ハによって分類された。
  4万年前~1.5万年前に、日本人と同じモンゴロイドの
 人々が、ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ達した。
  氷河期の最盛期には、蒸発した海水が両極に氷床とし
 て固定されるため、海水の量が減少して海水準が低下す
 る。
  海面が、現在より約150m程度下がっていたと考えられ
 ている。
  そのため、アジアと北アメリカの間のベーリング海峡
 は陸続きとになり、4~1.5万年前頃に、パレオ・インデ
 ィアンがユーコン地方に達した。
  (参考)パレオ・インディアン:旧石器時代の北米大
     陸に定住していた原始的な古代インディアンで、
     現インディアンの祖先。
  また、1.4~0.85万年前には、アジアから別の移住があ
 ったもよう・・、
  北アメリカの西北部に拡散したエスキモーの祖先、ア
 リューシャン列島に定着した古アリュート、ナディーン
 (北西インディアン)の祖先など・・、
  (参考)アリュート族(ウナンガン族):アリューシ
     ャン列島の島々の沿岸部に約9000年前に移り住
     んだ古シベリア系北方先住民の人々。
      考古学的な発掘異物や文化的遺産から判明。
      アザラシの皮と骨、木材を組み合わせて作っ
     たアリューシャンカヤックでクジラ漁、アザラ
     シ漁を行なう。
      また、ナディーン(北西インディアン):DN
     A解析によると、南北アメリカ大陸に住んでい
     る先住民(ネイティブアメリカン)の方々は、
     全員、シベリア南部(バイカル湖辺り)に住ん
     でいたという・・、
  遠い昔、海峡を越えてアメリカ大陸に達した人々・・
 この人々へ思いをはせれば・・、
  今・現在、アメリカ合衆国に居られるアメリカ・イン
 ディアンの方々・・そして・・、
  アラスカ・極北の地に居られるエスキモーの方々・・、
  アメリカ・インディアンの方々は、誰でも知っている
 様に、アメリカ白人のキリスト教徒によって大虐殺がな
 された・・今、アメリカ・インディアンの方々は絶滅の
 危機にある・・、
  まったく卑劣な行為が行われたものだ。
  また、「その北への思い」をはせれば・・エスキモー
 の方々が・・今・現在、アザラシ漁やクジラ漁をして幸
 せに暮らしている。
  しかし、その中間にあるカナダが・・何故か?この地
 のモンゴロイドの人々の情報がまったくの空白である・
 ・?
  その北と、その南に、モンゴロイドの方々が居て・・、
  何故? カナダの空白地域があるのか・・??
  偶然、その情報が得られた。
  やはり、カナダ・インディアンの方々はいた・・その
 集落の写真を見た・・
  そうだろう、アメリカに居て、エスキモーも居て・・
 その間のカナダに『居ないわけがない』・・と・・
  そこで、かねてからの疑問だったことを知りたいと、
 その写真の表示している方へ連絡を取った。
  種々、質問をさせて戴いたが・・
  「現在のカナダ・インディアンの存在」については、
 その方は、答えを「されなかった」・・答えを避けた。
  私は、その答えで、『答えが解った』・・
  カナダ・インディアンの方々は、絶滅させられている
 ・・と・・、
  アメリカ・インディアンは、銃による虐殺が続き、最
 後の方で、アメリカ・インディアンの方々が食糧として
 いるアメリカ野牛(アメリカ・バイソン)が殺された。
  飢え死に作戦で、アメリカ野牛が、「絶滅寸前まで殺
 された」。
  アメリカ・インディアンの方を、絶滅させようという
 意図の「卑劣な野牛絶滅作戦」だった。
  アメリカ西部の原野に、食糧にしたわけでもないアメ
 リカ野牛の頭だけが、山と積まれていた・・卑劣な事で
 ある。
  カナダ・インディアンの方々の場合は、このアメリカ
 野牛の絶滅作戦が使われたらしい・・
  カナダは、アメリカの北に位置し、さらに、その寒い
 環境の中で、食糧を断たれたカナダ・インディアンの方々
 への打撃は強烈だったろうと想像できる。
  カナダ・インディアンの方々が、今・現在、存在され
 ておられるのかどうか?は、今だに、不明となっている。
  カナダ政府は、「過去の不正な行為を明らかにする」
 という姿勢を、最近、少し示したが・・これ等の情報は
 秘密にしている。
  カナダ政府は、一時は、これではいけないと、自国に
 不利な情報を開示したが・・しかし、この件についての
 不明状態は続いている。
  カナダ・インディアンの方々は、推測だが、完全に絶
 滅させられたため、カナダ・インディアンの方々のサイ
 ドからの情報は出て来ないという状況なのだろう・・
  この件は、国連のユネスコの世界遺産へ登録し・・事
 実を明らかにして行くべきである。
.
紀元前9000年頃、農耕の起こり、牧畜の始まり。
.
紀元前6000年頃、世界各地への農耕の広まり。
.
紀元前3100年頃?~紀元前2890年頃?、エジプト第一王朝。
  古代エジプトにおいて、史上初めて、上エジプト(ナ
 イル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一
 したとされている王朝。
  統一勢力であったかどうかはクエスチョンである・・
  第1王朝以前の王朝の存在も発見されている。
  この王朝の出現を以てエジプト初期王朝時代の始まり
 とされている。
.
紀元前2890年頃?~紀元前2686年頃?、エジプト第二王朝。
  エジプト第2王朝は、先行するエジプト第1王朝よりも
 記録・史料が乏しく、通史的な歴史は、現在のところ復
 元されていない。
  マネトンの記録によれば、第2王朝には9人の王がいた。
  しかし、マネトンの記す王名は、わずかに知られてい
 る同時代史料に登場する王名と一致しない。
  (参考)マネトン:紀元前3世紀初頭のエジプト人神官
     で歴史家。
      ラテン名はマネト。生没年不詳。
      紀元前280年ころ、ヘリオポリスの古文書を用
     いて、ギリシア語で「エジプト史」3巻を著した。
      メネス王からアレクサンドロス大王までの時
     代を30の王朝に分けて、これを古・中・新王国に
     三分する彼の区分は、現在でもエジプト年代学
     の基礎となっている。
      原典は失われたが、その抜粋はユダヤ人史家
     やキリスト教教父の著作に引用され、伝えられ
     ている。
.
紀元前2850年頃、エジプトで大規模な農耕が繁栄。
.
紀元前2800年頃、メソポタミアで大規模な農耕が繁栄。
.
紀元前2686年~紀元前2613年、エジプト第三王朝。
  史上名高いジェセル王の階段ピラミッドを建造した王
 朝であり・・
  この王朝から古代エジプトを象徴する建造物であるピ
 ラミッドが大々的に建設されるようになった。
  一般的に、この王朝の成立を以ってエジプト古王国時
 代の始まりとされる。
.
紀元前2613年~紀元前2498年、エジプト第四王朝。
  古代エジプト文明を代表する建造物であるギーザの大
 ピラミッドを建設した王朝であり・・
  そのピラミッドを建設した王としてクフ王、カフラー
 王、メンカウラー王の名は広く知られている。
  第4王朝期に入ると、スネフェル王が、既存のピラミッ
 ドを基調に、メイドゥームに51度の勾配を持つピラミッ
 ドを造り上げた。
  このメイドゥームのピラミッドは、最初に、四角錐の
 形状を採用しており、その意味では、画期的な建造物で
 あった。
  ただし、これは後に(あるいは建設途中に)崩壊した。
.
紀元前27世紀、階段ピラミッドの最初が築かれた。
  階段ピラミッドは、ピラミッドの最初の形態で・・、
  紀元前27世紀、第3王朝時代サッカラに、宰相イムホテ
 プが設計し、ジェセル王が築いたジェゼル王のピラミッ
 ドがその始まり。
  初めは、日干し煉瓦によって、方形に建立され、ピラ
 ミッド状とすることは想定されていなかったようだ・・
  しかし、幾度もの試行錯誤の末、次々と上部に煉瓦を
 積み上げ・・最終的に、階段状の巨石建造物とした。
  完成時の寸法は、東西約121m、南北約109m、高さ約60m。
.
紀元前2560年頃、クフ王のピラミッド
  世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王に
 よって、紀元前2560年頃、ギザに築かれたギザの大ピラ
 ミッドで、勾配は51度52分。
  底辺は、各辺230m、高さ146mに達する。
.
紀元前2500年頃、黄河流域で大規模な農耕が繁栄した。
.
紀元前2498年頃~紀元前2345年頃、エジプト第五王朝。
  エジプト第4王朝時代に比べ小規模ではあるが、引き続
 いてピラミッドの建設が行われた。
  また、太陽神ラーを祀る太陽神殿が熱心に建造された。
.
紀元前2345年頃~紀元前2185年頃、エジプト第六王朝。
  エジプト古王国時代最後の王朝であり、その初期には
 活発な対外遠征を繰り返して周辺諸国を征服した。
  やがて、第6王朝の中央権力の弱体化とともにエジプト
 の各地で州の長官たちが自立勢力となり、第1中間期と呼
 ばれる分裂の時代が訪れた。
  この王朝の崩壊を以って、エジプト古王国の終焉とさ
 れる場合が多い。
.
紀元前2300年頃、インダス川流域で大規模な農耕が繁栄し
 た。
     ・
     ・
紀元前800年頃、カナートを用いた人工のオアシスを利用し
 た農耕が広まった。
     ・
     ・
476年、西ローマ帝国が、ゲルマン人に滅ぼされた。
  ゲルマン人の流入が起きた。
  故に、今のヨーロッパ人は、昔のヨーロッパ人とは違
 う人種。
  ヨーロッパの多くの王国や諸侯が、ゲルマン人にその
 地位を奪われた。
  今・現在、2018年の日本に、中国人が大量に流入して
 いるが、このゲルマン人の様な事にならなければよいが・・
  知らないうちに、政治や経済、そして、文明などが、
 日本という国が奪われなければよいがという気持ちで、
 以下を書く。
  これら、流入した多くのゲルマン人の王や諸侯が並び
 立った。
  そして、この王や諸侯は、あい争うという戦乱・混乱
 をもたらし、ヨーロッパはその戦争戦乱状態となった。
  ヨーロッパの王、貴族、騎士たちは、その戦乱に明け
 暮れるという世界へ入った。
  科学や学問は、まったく顧(かえり)みられることな
 い時代となった。
  この様な程度の低い、そして、乱れるヨーロッパの状
 態が「300年間も続いた」。
  人種も変わり、政治も変わり、文化も変わった。
  この様な状況に終止符を打ったのがカール大帝だった。
.
768年、カール大帝が、フランク王国の国王となった。
  (在位:768年~814年)。
  フランス名では、シャルルマーニュ。
  カロリング朝の父王ピピン3世の後を、弟カールマン
 (751年?~771年)とともに、フランク王位を継ぎ・・、
  弟の死とともに、771年、単独の王となった。
  このカロリング朝は、アウストラシア宮宰ピピン1世と
 メッツ司教アルヌルフとの家系から生じ、しだいに全宮
 宰職を獲得した。
  (参考)メッツ司教アルヌルフ:580年頃~640年頃、
     ダゴベルト1世の師傅(しふ、貴人の子を養育す
     る役目)。
      俗人でありながらメッツの司教、ついで隠修
     士(修道生活を送る者)となり、後に聖人とさ
     れた。
      彼の息子アンゼギゼルとアウストラシア宮宰
     ピピン1世の娘ベッガとの結婚からピピン家、後
     のカロリング家が栄えたので、特に、後者の始
     祖の一人とみなされる。
  そして、800年のクリスマスの日に、フランク王カール
 大帝が、ローマ教皇レオ3世の手から王冠を受け、ローマ
 人の皇帝とされた。
  これは、西ヨーロッパにおいて、中世キリスト教を肯
 定するという象徴するできごととなった。
  これで、キリスト教は、大きな権威を再び得ることが
 出来た。
  また、キリスト教を受容した強大な部族=フランク王
 国というものを強調した。
  ここまで上り詰めるには・・カロリング朝フランク王
 のカール大帝は、ザクセン族を抑え込んで来た・・
  この事を達成できたことで、カール大帝は、その大き
 な転機をむかえることができた。
  カール大帝は、長期に渡って一連の戦争(772年~804年)
 を行なった・・そして、この戦いによって、ザクセン族
 を征服した。
  そして、執拗に伝統的祭祀を守ろうとするザクゼン族
 の抵抗を押しつぶした、そして、キリスト教を受容させ
 た。
  そして、この強大な部族を、フランク王国の中に取り
 込んだ。
  この戦いは、8世紀からのフランク王国の東方への侵攻
 を開始された。
  ザクセンは抵抗したが、その版図はカール大帝の一部
 にされた・・、
  フランク王カール大帝は、降伏したザクセン人のリー
 ダーであるヴィドゥキントを、キリスト教に改宗させた。
  そして、ザクセン公とした。
  そのザクセンは、ドイツ東部と北部に位置する。
  (参考)ザクセン:ドイツ東部の地方名。
      その名は、西ゲルマンの一部族ザクセン (サ
     クソン) に由来する。
      しかし、地域としてのザクセンの範囲は、時
     代によって変遷した。
      カール1世 (大帝) による征服で、フランク帝
     国に編入され、
      843年、帝国の分割で、ルートウィヒ2世 (ド
     イツ王) の支配する東フランク王国が成立した。
      この頃は、その北部で、ザクセン部族公領 (
     現:ドイツのニーダーザクセン州あたり) を形
     成した。
      オットー1世 (大帝) 以来、神聖ローマ帝国初
     期のザクセン朝のもとでは、帝国の中枢部とし
     て対スラブ東方政策の拠点となり、
      12世紀以降の東方植民を通じてのザクセンの
     領域は、エルベ川以東に大きく広がった。
      この東方の新領域を中心として、15世紀に、
     ウェッティン家のもとで、マイセン辺境伯領を
     も含むザクセン公国が成立したが、
      1485年の国土分割によって、エルンスト家系
     とアルベルト家系に分れ、
      シュマルカルデン戦争(1546年7月10日~1547
     年5月23日)までは、前者が選帝侯国として M.
     ルターの宗教改革運動の中心をなした。
      (注)シュマルカルデン戦争は、カトリック
        教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世
        とプロテスタント勢力(シュマルカルデ
        ン同盟)の間で争われた戦争。
      チューリンゲン地方を含むエルンスト家系の
     ザクセン公国は、それ以後、ワイマール、ゴー
     タなど、いくつかの小領域に分解し (→ザクセ
     ン諸公国) 、
      18世紀には、プロシアの衛星国を形成した。
      ライプチヒ、ドレスデンを中心とするアルベ
     ルト家系ザクセン公国は、鉱山資源に恵まれて
     経済的に発展し、近代のドイツにおけるプロテ
     スタントの指導的国家だった。
.
800年、カール大帝の戴冠式
  カール大帝が、戦勝を重ねて、混乱するヨーロッパを
 まとめ上げ、フランク王国を強固な強大な国とした。
  フランク王国は、現在のフランス・イタリア北部・ド
 イツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイ
 ス・オーストリア、および、スロベニアに相当する地域
 支配する大国だった。
  ほぼ西ヨーロッパの全域に、その勢力を及ぼした。
  このカール大帝に、媚びへつらったのがキリスト教だ
 った。
  800年、カール大帝は、キリスト教ローマ法王(教皇)
 のレオ3世から戴冠された。
  そして、西ローマ皇帝だとされた。
  (カール大帝は、この戴冠に、あまり乗り気ではなか
 ったという)
  この行為は、「虎の威を借りる狐」状態の行為だった。
  これが切っ掛けとなって、西ヨーロッパの君主が、ロ
 ーマ法王から戴冠されるようになり・・
  キリスト教によって「国王に任命される風」な風潮と
 なった。
  キリスト教が、あたかも国王を任命するようにも見え
 た。
  これ以降、キリスト教の権威が高まった。
  そして、キリスト教は、これ等の王や諸侯の保護を受
 けた。
  そして、9世紀以降は、各地に、その保護のもと各地に
 キリスト教会が作られて行った。
  キリスト教聖職者は、庶民へ、「キリスト教になると
 御利益がある」と布教し、また、「イエスや、イエスの
 母マリアの救いがある」と布教した。
.
1096年~1270年、十字軍
  11世紀頃、西ヨーロッパでは、農地の開発が急速に進
 んで、人口も大きく増加した。
  それによって、勢力が拡大した国王や諸侯がそこに居
 た。
  この力を持った国王や諸侯は、更なる領地獲得の欲望
 にかられた。
  ここに悪辣なローマ法王(教皇)がからんだ。
  ローマ法王の悪計(あっけい、邪悪な計略)が働く。
  領地獲得を目指して「十字軍」と呼ぶ連合軍を結成し、
 イスラム圏の領土を奪うという行動を始めたのだった。
  十字軍が結成され、イスラム圏へ攻め込んだ(1096年
 ~1270年)
  しかし、イスラム世界は、学問が進んでいて、キリス
 ト教世界より「科学技術は進んでいた」。
  そして、その裏付けの「優れた兵器」も持っていた。
  例えば、十字軍の騎士の鉄の鎧(よろい)を貫く弓(
 クロスボウという大型の弓)を持っていた。
  キリスト教十字軍は、このイスラム諸国に敗れた。
  しかし、キリスト教世界は、この様な事を隠し、逆に、
 「このイスラム圏は劣っている」と嘘のプロパガンダが
 なされた。
  この様な事で、キリスト教のローマ法王が仕組んだ十
 字軍は大失敗し、この後、ローマ法王(教皇)の権威は
 凋落(ちょうらく)した。
  国王の勢力は拡大し、これを契機に、イタリアの諸都
 市の繁栄が起きたりした。
  また、今までキリスト教に牛耳られてきた人間性を抑
 えられた状況を変える、打ち破る「人間本来の心の叫び
 =ルネッサンス」が沸き起こった(14世紀~16世紀)
     ・
     ・
1930年代後半、中国の蒋介石は、自国の軍備が他国に比べ
 て遅れているため、外国の新型兵器を購入した(アメリ
 カ政府の承認)
  また、アメリカやドイツから外国人軍事顧問を雇い入
 れ軍備の近代化を図った。
  後々、これが、アメリカ正規軍の中国支援の参戦とな
 り、極秘裏による、大統領の署名のある命令で、日本の
 真珠湾攻撃前の、対日参戦に至る。
  アメリカ大統領は、極秘裏の形で対日宣戦布告をして
 いた。
  派兵計画は、アメリカ大統領直属の官僚が行なった。
  資金援助もルーズベルト大統領の関係する中国援助オ
 フィスが担当する形をとった。
  中国とアメリカが一体となって、蒋介石の国民政府軍
 の増強がなされて行った。
  アメリカは、退役させたから義勇軍だと、当初、屁理
 屈を言った・・こんな理屈が通るなら何でもできる。
  条約も何もあったもんじゃない・・、
  何しろ、組織的な活動(政府の関わり)が無ければで
 きない様な規模や行動をアメリカはしている・・卑劣な
 言い逃れをしている。
  アメリカという国は、自国の卑劣な行動を、常に、正
 当化して言う。
  例えば、アメリカが大々的に蒋介石に武器や弾薬・資
 金を援助した援蒋ルートは、ベトナム・タイ・ビルマを
 通っていた。
  その武器・弾薬の支援ルートを遮断しようと日本軍が
 その地へ入ると・・侵略だと言い出した・・自分たちこ
 そ先に侵略していて、この様な言い方をした。
  また、日本は、行動を起こす前に、先に、その目的を
 説明をしていたのにである。
  何しろ、「戦争を作った」と発言したルーズベルトの
 シナリオは、自分たちは何をやっても良いだった・・日
 本は不正だった。
.
1949年、GHQ内に、キャノン機関というスパイ組織がで
 きた。
  マッカーサーは、アメリカが主動するGHQのマッカ
 ーサー司令部内にスパイ組織を作らせた。
  名前を、首領の名をとって「キャノン機関」と言った。
  これは、GHQによる占領中の日本に置いたGHQ参
 謀第2部直轄の秘密諜報機関で・・、
  司令官は、ジャック・Y・キャノン(Jack Y. Canon)
 陸軍少佐・・旧岩崎邸に置かれ、メンバーは26人だった。
  この他にも、下部組織として、多数の工作員を抱えた。
  柿の木坂機関、矢板機関、日高機関、伊藤機関という
 多数の日本人工作員組織を傘下においた。
  目的は、共産圏情報、ソ連・北朝鮮情報、スパイ工作
 摘発など・・
  Z機関(Z-Unit)、本郷機関などとも呼ばれた。
  このキャノンの最後は、1981年、テキサス州の自宅ガ
 レージで、胸に銃弾を2発撃ち込まれて死んだ。66歳。
.
1954年、人種差別国=アメリカ
  「ブラウン判決」が出された1954年、アメリカ11州で
 の白人が通う学校で、黒人生徒が通学できたのは皆無に
 近く・・、
  その比率は、わずかに0.1%だった。
  しかし、この比率が改善されたかというと、その後、
 まったく改善されず、その10年の後も、その数値は、た
 ったの2%だった。
  卑劣な人種差別状態の続くアメリカだった。
  (参考)ブラウン判決:正式には、「ブラウン対教育
     委員会事件判決」、また、「人種隔離違憲判決」
     ともよばれている。
      1954年5月に、アメリカ合衆国の連邦最高裁判
     所が下した、黒人・白人分離問題に関する歴史
     的判決だった。
      アメリカの各州は、19世紀の末に、学校や病
     院、交通機関や公園など、公共施設において白
     人と黒人とを分離する法律、いわゆる人種差別
     法(ジム・クロウ法)を相次いで制定し、黒人
     差別の制度化を図った。
      アメリカ連邦最高裁は、1896年のプレッシー
     対ファグソン事件判決において、屁理屈判決で
     ある「分離はしても平等」なる法理を打ち出し、
      施設や設備が平等であれば人種の分離は合憲
     と判断し、人種の分離に法的根拠を与えた。
      これに対し、ブラウン判決は、「分離された
     教育施設は本質的に不平等」との当然の判断を
     下し・・、
      「分離はしても平等」という法理を明確に退
     けた。
      やっと人種差別国のアメリカに、まともな判
     決が出た。
      分離は、アメリカ合衆国憲法第14条修正のう
     たう法の平等な保護を奪うというものであった。
      判決は、公立学校における黒人・白人共学を
     実現させる長い道程の出発点となったばかりで
     なく、人種の分離や隔離そのものを原理的に非
     とすることにより、アメリカ合衆国の人種関係
     改善に向けて画期的な判決となった。
      公民権運動は、この判決を武器に大きく前進
     した。
.
1964年、人種差別国のアメリカで、公民権法が成立する。
  人種差別をしていないと言うアメリカ・・そして、特
 に、その様に言うアメリカ北部。
  しかし、これは嘘。
  アメリカ北部の政治集団のプロパガンダ(嘘宣伝)で
 ある。
  1964年、黒人の方々の努力によって、公民権法が成立
 した。
  そして、この後、アメリカ南部は、急激に、黒人の子
 供たちの学校へ通う通学率が改善した。
  1966年に15%となり、1968年には18%となり、1973年
 には46%となった。
  しかし、それに対し、アメリカ北部は、アメリカ南部
 の通学率が改善しているこの時に、28%~29%と「改善
 は、まったくなされなかった」。
  アメリカ北部の黒人の方々への人種差別は、相変わら
 ずだった。
  それにしても、アメリカは、白人生徒と黒人生徒を同
 じにしなかった。
  人種隔離を行なった。
  また、白人たちは、黒人の子供たちが通うと、白人た
 ちは、郊外へ移り住んで、黒人の方々を毛嫌いして、精
 神的な差別行為もした。
  1980年の首都ワシントンの白人生徒の比率は、4%とい
 う状況だった。
  他の地域も大同小異で、アトランタ8%、デトロイト12
 %だった。
.
2015年1月19日、今、日本政府は、中国人に限っての入国管
 理を甘くして来ている。
  外国の圧力に屈している。
  この日、中国人の高所得者用(家族を含む)のマルチ
 ビザを法制化した。
  有効期間:5年(更に長期)、訪問先は自由
  おかしいのは、高所得者と言っても、年収を公表する
 必要を要求していない・・という「おかしさ」。
  2011年7月1日にも、日本政府は、「中国人個人観光客
 向けマルチビザ」を解禁している。
  最長3年(移民的な長期)で入出国は自由となっている。
  おかしいのは、今、問題となっている沖縄を最初の訪
 問地としている。
  2010年7月1日にも、中国人向けに、日本政府は、緩和
 策を講じている。
  中国人の対象を1600万世帯として、日本の総世帯数の
 1/3の規模に匹敵するという大多数を対象としている
 (菅直人内閣の時)
  そして、今、住みやすい日本に残ろうという不法残留
 者も急増している。
  そして、不法残留の他に不法在留者もいる。
  日本の警察も追いきれない数だという。
  留置場の房も満杯状態で、北京語で話されたら何を房
 ごとに話しているかがつかめない状態で、混沌としてい
 る状態という・・
  日本の安全保障は大丈夫かの問題・・、
  中国だけに、何故、甘いのか?が不明の状態・・、
  韓国人も「観光だ」と言えばビザ不要だという・・入
 出国が手放しで自由の状態・・、
  中国人と韓国人の大学生は、月に17万円を日本政府か
 らもらえる。
  (日本人学生はもらえないのに)・・
  また、日本人の老齢者と結婚して、3年経つと永住資格
 が貰(もら)えるから、それまで結婚(結果的には偽装
 結婚)をしている事例も増えているという・・
  住みやすい日本に住みたいと・・永住資格を貰ったら
 サヨナラだという・・
  日本の永住資格の大安売り政策の結果だという・・初
 めは、民主党内閣(野田内閣)が始めたのだという・・
.
2015年、今、日本への中国人の流入が急増している。
  2015年のデーターで・・、
  中国人      68万人、
  中国人永住許可者 22万人、
  韓国・朝鮮人   49万人、
  フィリピン人   22万人、
  ブラジル人    18万人 ・・となっている。
  中国人は工作員だという。
  チベットへも、中国は、「中国の国策」として漢民族
 を流入させて、チベット人を上回っている状況にした・・
  チベットの自治領の名称も変える勢い・・チベットと
 いう国が無くなる問題が見えている。
  日本への中国人の流入も、着実に増加の一途となって
 いる。
  また、中国人の永住許可者も、急激な増加となってい
 る。
  その中国人の配偶者・家族の流入も多い状況。
  また、中国人が、日本のアパートを買って、民泊の法
 改正で、中国人を住まわせることも行われているという。
  この様な地域は、日本の警察も入りにくいという。
  そして、今、日本は、中国へ、企業人であれば「10年
 ビザ」を与えている・・中国は、工作員をこの企業社長
 にして、この法律適用がなされているという。
  つまり、中国の元工作員の企業社長が、日本の「10年
 ビザ」を持つことがなされているという。
  また、チベット人をチベットから追い出し、ウィグル
 に流入させて、ウィグル人とチベット人の問題を起こさ
 せるという工作もしているという。
  ウィグル自治領も無くなるだろう。
  中国の漢民族には、清朝という満州族の国を作られた
 苦い経験がある。
  今、日本が手助けして作った旧満州に、まったく満州
 族がいなくなってしまっているという。
  今、長い歴史が続いて来たからと、日本が、これから
 も長く続くと思ったら「甘い今となっている」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)588E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月、日本郵船会社が、青森~函館~室蘭間を結ぶ
 三港定期航路を開設した。
  日本郵船が、青森~函館航路を延長する形で青森~函
 館~室蘭の定期航路を開設した。
  この頃の室蘭は活発な発展のスタートを切ったところ
 だった。
  室蘭市史によると・・
  1892年、夕張鉄道が全通するとともに、北海道炭礦鉄
 道会社(以下、北炭)が石炭積み出しのため、岩見沢・室
 蘭(輪西)間に鉄道を敷設し、現在の新日鐵住金の一門付
 近に、室蘭停車場を開設して、一般旅客の取り扱いを開
 始した。
  同時に、イトツケレップ(現:御崎駅付近)に、貨物専用
 駅を設置し、
  木造桟橋では、石炭の積み出しも開始され、
  この年は、室蘭が大きく飛躍する記念すべき年となっ
 た。
  さらに、1894年、室蘭港が特別輸出港に指定され、石
 炭・米・麦粉・硫黄に限って、海外直輸出が出来るよう
 になってからは、北炭が、小樽港を国内向け石炭の供給
 地とし、
  太平洋の玄関口を占める室蘭港を外国向け石炭輸出港
 としたことにより、室蘭港は、石炭積み出し港として飛
 躍的に発展した。
1893年10月、讃岐鉄道会社が、丸亀駅~高松駅間延長の免
 許を申請した。
  (1895年10月10日免許状下付)
  1893年7月、讃岐鉄道会社は、「丸亀~高松間は経済・
 社会・政治の面からみて、密接な結び付きを有しており、
 この区間に鉄道を敷設することは急務である」という趣
 旨で、丸亀駅~高松駅間の延長を決定した。
  その後、1895年9月(10月?)、鉄道延長の免許証が
 交付され、
  その年・1895年の暮れ、工事に着手・・、
  翌年・1896年のうちには、ほとんど竣工していたが、
 土砂くずれなどの思わぬ事故があり、開通は、1897年2月
 21日となった。
  また、本州・四国の海上の連絡について・・
  高松と本州を結ぶ鉄道連絡船は、1897年頃、讃岐鉄道
 汽船会社によって始められた。
  しかし、本格的には、1903年の山陽汽船による高松航
 路の開通に始まる。
  この時、高松航路は、岡山駅から京橋まで人力車、京
 橋船着き場から三蟠までを小型汽船、三蟠から玉藻丸で
 高松へという形で、乗客にとってはたいへんだった。
  そこで、岡山~宇野間の鉄道敷設と、宇野築港を要望
 の声もあり、1910年、宇野線の開通を待って、宇野~高
 松間の鉄道連絡船が就航した。
  これによって、本州、四国を結ぶ航路の中心は、宇高
 航路となった・・
  また、高松港は、本州と四国を結ぶ四国の玄関口とし
 て確固たる地位をもった。
1893年10月、フランスが、ラオスを植民地化した。
  帝国主義時代になると、ヨーロッパの列強諸国は、ア
 ジア各地を次々と植民地にして行った。
  ラオスもその例外ではなかった。
  ラオスは、ヨーロッパ諸国・列強の侵略に巻き込まれ
 た。
  1885年、フランスは、中国の清と戦争をした。
  その清仏戦争の結果、清は、ベトナムに対する宗主権
 フランスに奪われた。
  1863年、すでに、フランスは、カンボジアを植民地化
 して、植民地化の標的をラオスへ定めた。
  1887年に、黒旗軍が、ルアンパバーン王国に侵攻し、
 壊滅的な打撃を受けたが、フランスに助けられた事件を
 きっかけに、ルアンパバーン王国は、フランスの保護を
 受け入れる道を選択した。
  (参考)黒旗軍:こっきぐん、清朝統治に反対する武
     装闘争したのが始まりだったが・・フランスが
     侵略して来るとその撃退に立ち向かった
      指揮官の劉永福は、ベトナム国王より三宣副
     提督の職に任じられていた。
  (参考)ルアンパバーン王国:メコン川中流域ルアン
     パバーンに18世紀~20世紀にかけて展開したラ
     ーオ族の王朝。
  (参考)ラーオ族:ラオスおよびタイ東北部(イーサ
     ーン)に住むタイ族の一派。
  1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が
 起き、フランスはタイを圧倒し、
  1905年には保護国化(植民地化)を完了し、フランス
 領インドシナが完成した。
  1902年から6年間に渡ってオン・ケーオによる反乱がタ
 ーテーン(セーコーン県)で起こった。
  (参考)仏泰戦争:フランスとタイ(シャム)の戦争。
  (参考)オン・ケーオとオン・コマダムの反乱は、フ
     ランスによる植民地での地下活動で、ラオス南
     部ボーラヴェン高原で起きた愛国的反乱。
      植民地にして、利益を収奪したいフランスに    
     愛国的行為として立ち向かった。
  1940年11月、タイとフランスとの間で、仏印国境紛争
 が起こり、タイは反仏宣伝の一環として対ラオス工作を
 開始。
  ラジオ放送や宣伝ビラ、パンフレットの活用、工作員
 の潜入などを通して行われ、「ラーオ人もタイ人も結局
 は同じタイ系民族である」との民族同胞性を強調するこ
 とによって、抑圧者のフランスに対して抵抗することを
 協力することを訴えた。
  このタイの反仏抵抗に対して、フランスがとった政策
 は、ルアンパバーン王国の強化と文教政策、ラオス刷新
 運動であり、フランスのラオス植民地維持政策であった。
  学校教育を重視し、小学校が各地に新設され、「勤勉・
 家族・祖国」をスローガンに、「母なる祖国・フランス」
 への奉仕が説かれた。
  美しいなの下で、結局、フランスの利益になる様に仕
 向けた。
  この様な政策を広めるために大きな役割を果たしたの
 は、1941年1月に発刊されたラーオ語紙であった。
  しかし、ラオス人のなかに「ラオス」という祖国・国
 民を構想したく、そして、構想するものが現れてきた。
  1945年3月9日、日本軍によって、フランスの武装解除
 が達成された。
  そして、この仏印武装解除後、ラオスの方たちに、祖
 国・国民を構想する動きが活発になっていった。
  第二次世界大戦中、日本の占領下にある1946年、ラー
 オ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言できた。
  日本の「アジアの解放・・大東亜共栄圏の達成」の目
 的の一つが達成された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自己の使命と
   考えていた武士たち』によって実現した改革だった。
    そして・・奴隷国ができるだけ・・、
.
70万年前頃、概ね、この頃から、10万年周期の気候変動が
 見られるようになる。
.
約50万年前、北京原人
  中国北京郊外、周口店の石灰岩洞穴から発見された化
 石人類。
  更新世中期、50万~20万年前の生息と推定されている。
  原始的な石器を用い、火を使った。
  ホモエレクトゥス‐ペキネンシス
.
約40万年前、マンモスは、北東シベリアで誕生したとされ
 ている。
  別の説は、最古のマンモスが、約500万年前~400万年
 前、北アフリカにおいて生まれたと考えられている。
  また、別の説は、マンモスゾウの化石は、これまでお
 もに、ユーラシア北部から北アメリカ北部にかけての約
 11万5000年前から1万年前にかけての地層から発見され
 ている。
  しかし、2001年に、東シベリア海東部のウランゲリ島
 で発掘されたマンモスゾウの化石は、7000年から4000年
 前のものだった・・もっとも新しい発見。
.
約23万年前、ネアンデルタール人が出現した。
  この頃、温暖期のピーク。
  この後、緩やかに寒冷化へと向かい、14万年前頃に氷
 期のピークとなった。
  別の説は、約25万〜3万年前に、欧州と西アジアに住ん
 でいた。
  また、別の説は、第三間氷期およびビュルム氷期第一
 期、年代としては15万年前~3万5000年前に生存していた
 と考えられている。
.
約20万年前~19万年前、ホモ・サピエンス(現在のヒト)
 が出現した。
  別の説は、ヒト属とチンパンジーの共通祖先が分岐し
 たのは・・およそ200万年前~1000万年前・・、
  ホモ・サピエンスとホモ・エレクトスの共通祖先が分
 岐したのは・・およそ20万年前~180万年前と見られて
 いる。
.
約15万年前、マンモスがヨーロッパに現れた。
.
約14万年前、氷期(リス氷期)のピーク。
  この後、急速に温暖化へと向かった。
.
約13万年前~12万年前、温暖期のピーク。
  現在よりも温暖であったと考えられている。
  この後、急速に寒冷化し、約11万年前頃から緩やかに
 上下を繰り返しながら徐々に氷期へと向かった。
.
約12万5千年前、初期のヒト属による火の利用
  日常的に、広範囲にわたって、火が使われるようにな
 ったことを示す証拠が、約12万5千年前の遺跡から見つか
 っている。
.
約10万年前、マンモスは、ヨーロッパから北アメリカ大陸
 にまで生息分布を広げた。
  マンモスは、寒冷な草原での生活に適応していた。
.
約10万年前、現代人(ホモ・サピエンス)が、アフリカを
 出て、世界各地に拡がった。
  (アフリカ単一起源説を裏付けるもの)
  7万年前との説(後述)もある。
  ミトコンドリアDNAの分析では、現代人の共通祖先の分
 岐年代は14万3000年前±1万8000年である。
.
8万1000年前、地球温暖化に伴う海面の急速な上昇が起こっ
 ていた。
  国際研究グループが、気候変動に伴う氷床の拡大、縮
 小は、今まで考えられていたよりも急速に起きる可能性
 があると発表した。
.
約7万3000年前、スマトラ島のトバ火山の大噴火。
  スマトラ島のトバ湖は、この時の噴火によって形成さ
 れたカルデラ湖。
  ここ10万年ほどでは、最大級の噴火とされ、地球の気
 温が数年間3度~3.5度低下した。
  ヒトのDNAの解析によれば、7万年ほど前に、人類の人
 口が1万人以下に激減し、遺伝的な多様性の多くが失われ
 現在の人類につながる種族のみが残った。
  「ボトルネック効果(遺伝子多様性減少)」があった
 と考えられるが、これが、トバ火山の大噴火に関連する
 と考えられている。→ トバ・カタストロフ理論、
.
7万年前、ヒトが、衣服を着るようになり、ヒトに寄生する
 ヒトジラミは、7万年前に2つの亜種、主に毛髪に寄宿す
 るアタマジラミと、主に衣服に寄宿するコロモジラミに
 分岐した。
.
7万年前、この頃のヒトの出アフリカ説。
  7万年前±1万3000年に、ヨーロッパ人と日本人の共通
 祖先が分岐。
.
約5万年前、クロマニョン人
  ヨーロッパ、北アフリカ各地で発見された。
  別の説は、3万5000年前~1万年前に生息し、頭が大き
 く現代人によく似ているが、身長はやや高い。
  文化的には、後期旧石器時代に属し、洞窟壁画などを
 残している。
.
約5万年前、隕石の衝突で、バリンジャー・クレーター(ア
 メリカアリゾナ州)が形成された。
.
約4万年前、オーストラリアに人類が渡島したのは4万2000
 年前~4万5000年前である。
  また、オーストラリア最古の人骨の年代は、およそ4万
 5000年前である。
.
約3万年前、ネアンデルタール人がこの頃絶滅した。
  最古の洞窟壁画
  現在知られている古いものでは、南フランスのショー
 ヴェ洞窟壁画(約3万年前?)がある。
  また、ラスコー(約1万8000年前~1万6000年前)、ア
 ルタミラ(約1万4000年前~1万3000年前)など、多くの
 洞窟壁画がある。
.
約3万年前~2万年以前、モンゴロイドがアメリカ大陸に渡
 った。
  氷河期の時代にベーリング海峡は地続きになっていた。
  この頃、ユーラシア大陸から無人のアメリカ大陸に人
 類が移り住んだと考えられている。
  約1万年前頃までには、南アメリカ大陸の南端地域まで
 到達した。
.
2万6500年前頃、タウポ湖が大爆発を起こす。
.
2万5000年前頃、姶良(あいら)火山が大爆発を起こす。
  姶良カルデラは、鹿児島湾北部(湾奥)において直径
 約20kmの窪地を構成しているカルデラで・・、
  南九州のカルデラ群のひとつで、現在のカルデラを形
 成した姶良噴火は、約3万年前と推定されている。
  桜島火山のマグマ供給源とされる。
.
約2万年前、ウルム氷期(最終氷期)のピーク。
  気温は、年平均で7℃~8℃も下がった。
  そのため、地球上で氷河が発達し、海水面が現在より
 も100mから最大で130mほど低かったと考えられている。
  その後、温暖化と寒冷化の小さな波をうちながら、長
 期では徐々に温暖化に向かった。
.
約1万8000年前、日本海に、津軽海峡を通って寒流である親
 潮が流入し、この影響で、朝鮮海峡あるいは、対馬海峡
 から表層水が流出した。
  (参考)表層水:ひょうそうすい、海や湖などの表層
     の水。
      太陽光が届く深さで、活発に光合成が行われ、
     有機物が生産される。→海洋深層水
.
約1万6500年前、青森県外ヶ浜町にある大平山元I遺跡から
 土器、石器が出土している。
  AMS法による放射性炭素年代測定法の算定による。
.
約1万6000年前、東南アジアにあったとされるスンダランド
 が、海面上昇により徐々に後退した。
  海面の上昇により、他にも、アラスカとロシアの間に
 あるベーリング海峡(氷期には陸続きだった)の海没や、
 大陸と地続きだった日本も徐々に島化が進んだ。
.
約1万4000年前~約1万年前、この頃までに、ヒトがイヌを
 飼い慣らしたと考えられている。
  別の説は、シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタ
 ール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(
 ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下
 顎骨:埴原和郎らが発掘。
  オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古の
 イエイヌとする説がある。
  (参考)埴原和郎:はにはらかずろう、1927年~2004
     年、昭和後期-平成時代の人類学者。
      1972年、東大教授となる。
      1987年、国際日本文化研究センター教授。
      諸人種の歯の形態を比較し、モンゴロイドの
     歯の特徴に注目。
      骨や歯の特徴を統計学的に処理し、性別や年
     齢を推定する方法を考案。
      また、南方系の縄文人と北方系の弥生人が混
     血したことによって日本人は形成されたとする
     「二重構造モデル」を提唱した。
.
約1万3000年前、日本列島が、大陸から完全に離れ、ほぼ今
 の形を整えたと考えられている。
  マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没した。
  対馬暖流は、一進一退を繰り返しながら日本海に流入
 して行き・・、
  約1万年前~8000年前の間に、現在と同じような海洋環
 境になったと考えられている。
.
約1万3000年前~1万年前、温暖化が進行しつつあったが、
 寒冷気候に戻った時期。
  北ヨーロッパなどでは「新ドリアス期」と呼ばれてい
 る。
.
約1万2000年前、この頃は、こと座(七夕の織り姫星付近)
 が北極星だった。
  地球の歳差運動により、北極星は25,920年周期で変化
 している。
.
約1万2000年前、この頃、アメリカ大陸に人類が移動したと
 されている。
.
約1万2000年前、ナイアガラ滝の形成がはじまる。
  解凍した氷河の水で滝の形成がはじまった。
  初期の滝は、現在より10kmほど下流にあり、年1mほど
 のペースで後退しながら現在の姿となった。
.
約1万2000年前、イスラエルのヒラゾン・タクティット洞窟
 遺跡で、農耕開始以前の人々が宴会を開いていた証拠が
 見つかっている。
.
約1万2000年前、ジェームズ・チャーチワードが、著書の
 失われたムー大陸(1926年刊)で、この時期に太平洋上
 に存在したムー大陸が沈んだと証言している。
.
約1万年前、この頃、最後の氷期(最終氷期)が終わった
 とされる。
.
約1万年前、この頃、ヨーロッパ中部の火山活動が終息へ。
  アイフェル高地(ドイツ、ベルギー)や中央高地(フ
 ランス)の火山活動がおおむね終息。
  ピュイ=ド=ドームは約8,000年前まで活動を続けた。
.
紀元前8800年頃、人類が最初に精錬した金属は、銅だった。
  銅製の小玉が、イラクから出土しており、最古の銅製
 品と言われている。
  農耕革命(農耕の開始)
  人類史上、重大な事件の1つとされる。
  この時期より主に磨製石器が使われたことから新石器
 革命(新石器時代)とも。
.
紀元前5300年頃、鹿児島南方の鬼界カルデラで大噴火。
  日本周辺で、ここ1万年間の火山活動の中では大規模
 なものとされている。
.
紀元前5000年~紀元前3000年頃、完新世の気候最温暖期。
  この頃、海面は現在よりも数m(4mから10mまで諸説あ
 り)程度高かったと考えられている。
  → 海面上昇、縄文海進。
.
紀元前約5000年~紀元前4000年、北海道に人類が現れたの
 は、おそらく数万年前といわれている。
  そして、室蘭地方に先住民が住み始めるのは、その生
 活跡から、約7千年から6千年前頃(紀元前約5000年~紀
 元前4000年)とみられ、縄文時代早期の土器が絵鞆遺跡
 から出土する。
  この絵鞆遺跡を含め、室蘭市内では、37カ所の埋蔵文
 化財包蔵地(ほうぞうち)が確認されている。
  (室蘭市史を参考にした)
.
紀元前約4000年、地球上で最後まで生き残っていたマンモ
 スの化石が、ロシア国内の北極海の島(ウランゲリ島)
 で見つかっている。
.
紀元前3000年頃(5000年前)初期の文明が現れる。
  古代エジプト文明、メソポタミア文明など。
  人為による環境破壊が少しずつ表面化。
  塩害、塩類集積、森林破壊、レバノン杉など参照。
      ・
      ・
      ・
紀元前552年、キュロス二世が、イラン高原のメディア王国
 に反旗を翻した。
  キュロス二世・・アケメネス朝ペルシャの始祖。
  紀元前600年頃に生まれた。
  紀元前552年に、イラン高原のメディア王国に反旗を翻
   し・・、
  紀元前539年には、メソポタミアの新バビロニア王国
   を征服し、古代オリエント世界を統一した。
   アケメネス朝を始祖した。
  キュロスが、バビロンに入城した時、その地の王が、
 人望を失っているせいか、ほとんど抵抗らしい抵抗は無
 く、無血入城できた。
  この時、バビロンには、様々な民族が住んでいた。
  キュロスは、ユダヤ人だけではなく、そのすべての民
 族に寛大な対処をした。
  (バビロン捕囚からの解放は、ユダヤ人だけではなか
 った)
  キュロスは、紀元前529年に死去する。
.
726年、東ローマ帝国のレオ3世が、聖像禁止令を発布した。
  聖像崇拝を巡った、東キリスト教会と西キリスト教会
 の対立は激化した(~643年)
  東ローマ帝国の皇帝教皇主義が確立した。
.
756年、フランク王国のピピン3世が、ローマ教皇にラベン
 ナ地方を寄進した。
  ローマ教皇領の始まり。
.
800年、ローマ教皇(レオ3世)によるフランク王国カール
 大帝の戴冠。
  ローマ教皇の東ローマ帝国からの独立。
.

869年、貞観地震(M8.6以上)日本海構造で起きた巨大地
 震と津波。
.
962年、ローマ教皇による東フランク王国(フランク王国
 が分裂して成立した)のオットー1世の戴冠。
  神聖ローマ帝国の成立。
.
1054年、東西教会が完全に分裂した。
  西:ローマ・カトリック教会。
  東:東方正教会。
.
1543年9月23日、鉄砲が種子島に伝来した。
  大隅国の種子島に一隻の船が漂着した。
  100人余りの乗客のほとんどとは言葉が通じなかった
 が、西の村の地頭であった西村織部之丞は、この船に乗
 っていた明の儒者・五峯と筆談し、ある程度が分かり理
 解した。
  そこで、この船を、領主・種子島時堯(たねがしまと
 きたか)の居城がある赤尾木まで曳航した。
  船は、1543年9月25日、赤尾木に入港し、時堯が改め
 て法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせた。
  この船には、2人の商人の代表者が居て、フランシス
 コとキリシタ・ダ・モッタという名だった。
  時堯は、2人が実演した火縄銃2丁を買い求めた。
  そして、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。
  時堯が、射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の
 杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物(つだけんもつ)
 に1丁持たせて送り出した。
  (参考)津田監物:津田流砲術の祖。紀伊の人。名は
     算長(かずなが)。
      種子島で、ポルトガル伝来の銃を譲り受けて
     砲術とその製造法を学んだ。
      1544年、鍛冶屋の芝辻清右衛門(妙西)に鉄砲
     を作らせ、根来寺(ねごろじ)の杉之坊をはじめ
     とする根来衆に広めた。
  そして、さらに、時堯は、残った1丁を複製するべく
 金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。
  また、堺から、橘屋又三郎が、銃の技術を得るために
 種子島へ来て、1、2年で、殆どを学び取っている。
  日本最初の鉄砲鍛冶だと言われている人物には、鉄砲
 伝来の年の1543年に、種子島で既に鉄砲生産に成功した
 八坂清定(金兵衛)らが居る。
  螺子(ねじ)の技術など当時の日本では知られていな
 かった技術が用いられていたため、八板らは苦心をして
 鉄砲を製作した。
  しかし、要領が明らかになると比較的単純な技術で製
 作が可能となり、各地にその生産が広まった。
  種子島以外では、和泉国の堺、紀伊国の根来、近江国
 の国友及び日野などが、代表的な産地であったが、他に
 も、刀剣や農具の生産で知られていた備前国の長船や、
 城下町である鹿児島・仙台も知られた。
  この様に、日本は、どこでも高い技術力を古来から磨
 いて来ていて、それ故に、直ぐに、鉄砲生産に対応する
 ことができていた。
  鉄砲が伝わり、その道理が分かってしまえば、たちま
 ち我が手で作ってしまう日本だった、そして、すぐに、
 日本全国へ広まった。
  そして、時を経ずして「日本は世界一の鉄砲生産国」
 となってしまった。
  丁度、日本史上、唯一の戦乱の時代だったからでもあ
 った。
  そして、この時から32年後の1575年6月29日に、鉄砲戦
 で有名な長篠の戦の設楽原決戦が行なわれる。
  (鉄砲を使った新しい戦法が編み出された)
  織田信長・徳川家康連合軍3万8千と、竹田勝頼1万5千
 が設楽原(したらがはら、愛知県新城市)付近で激突し
 た。
  この戦いは、「鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説となっ
 ている。
  この日の早朝、鳶ヶ巣山(とびがすやま)攻防戦の大
 勢が決したと思われる頃・・、
  設楽原では、敗戦を知って決戦を挑んだ武田軍が、織
 田・徳川軍を、武田軍の得意な騎馬隊を中心にして、次々
 と攻撃をかけた・・戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)
  しかし、騎馬隊は馬防柵に妨げられ、信長の側近部将
 が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びた。
  武田軍は多数の将士を失った。
  そして、織田・徳川軍から追撃され・・武田軍は1万
 名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
  織田・徳川軍の勝利で・・合戦は終結した。
  織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られない
 のに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、
 譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして・・、
  原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土
 屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など・・、
  武田信玄以来の重臣や指揮官にも及び、被害は甚大と
 なっていた。
  騎馬戦法の武田軍に対し、新兵器の鉄砲を組織的に使
 った「足軽の鉄砲隊を中心にした集団戦法」の織田・徳
 川軍の圧勝だった。
  武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られながら、一
 時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠
 城に後退した。
.
1867年、この年、江戸時代から明治へと変わったが・・、
  モーリス・パンゲが、著書「自死の日本史」で以下の
 ような事を書いている。
  「日本の特権階級であった武士は、他の階級によって
 倒されたのではありません。
  外国の圧力の前に、自ら革命を推進し、その為、自ら
 を消滅させるという犠牲を払った。
  革命と言っても、それは、ある階級が他の階級を倒す
 という、普通の意味の革命ではありません。
  武士たちの望みは、日本という国の力を呼び覚ます事
 だった」・・と・・、
  明治維新は、『公(おおやけ)のために働くことを自
 己の使命と考えていた武士たち』によって実現した改革
 だった。
.
1886年、ノルマントン号事件
  イギリスの汽船ノルマントン号が和歌山県の紀伊半島
 沖で暴風雨のため沈没した。
  この時、船長以下26人のイギリス人船員は救出された
 が、日本人乗客25人は全員が見殺しにされて溺死した。
  審査したイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヶ月とい
 う軽い罰を与えただけだった。
  日本国民の不満の声が湧いた。
  政府は、治外法権の撤廃を目指したが、外国に認めさ
 せようと、政府の作った妥協案が、「治外法権とするが、
 外人裁判においては、過半数を外国人とする」とした。
  しかし、日本国民の厳しい反対の反応にあった。
  人種差別の事故だった。
.
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
  この日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界だ
 った。
  祝砲が轟(とどろ)き、山車(だし)が練り歩き、仮
 装行列が繰り出し、祝賀行事一色と化した。
  憲法が発布されると、政府批判の論陣を張って来た新
 聞も、「聞きしにまさる良憲法」「実に賞賛すべき憲法」
 などと讃えた。
  また、憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
  イギリスの新聞は、「東洋の地で、周到な準備の末に
 議会制政権法が成立したのは何か夢の様な話だ。
  これは偉大な試みだ」と書いた。
  イギリスのある学者は、「日本の憲法が、古来の歴史
 と習慣を元とした穏健な立場で作られていることが最も
 賛成できる点である」と述べた。
  ドイツのある法律家は、「議会を両院に分け、衆議院
 の他に貴族院を設けた知恵を高く評価した。
  その理由は、何処の国でも下院(衆議院)は急進的に
 なるものだ。
  その暴走による社会不安を和(やわ)らげるには、国
 に対する責任感と良識のある人々からなる上院(貴族院)
 が欠かせない」というものだった。
.
1968年、日本が、GDPでドイツを抜いた。
  ドイツは、日本が、ドイツの後塵(こうじん)を拝し
 ていた間は、好意的だった。
  ドイツは、日本が、ドイツを越えることは決して許し
 ていなかった。
  鼻の差でも後を走る日本という姿しか、ドイツは容認
 できなかった。
  しかし、この年、日本は、ドイツを抜き去った。
  ドイツは、この時から、あからさまに日本を攻撃する。
  ドイツには、小癪(こしゃく、いかにも生意気で、癪
 に障るようすであること)な日本となった。
  近年、益々、ドイツの日本攻撃が激しくなっている。
  それでも、お人好しの日本は、ドイツを好意的に見て
 いる。
  ドイツは、自国の技術に自信を持っている、また、プ
 ライドを持っている。
  GDPが抜かれたことで、それが傷ついたようにも感
 じたのだろう。
  日本の後塵だけは被(かぶ)りたくないのだろう。
  それにしても、2015年のフォルクスワーゲンの不正ソ
 フトの裏切りは酷かった。
  検査の時は、排ガスが抑え込まれ、普通に走行すると
 きは、ガンガン排気ガスを吐き出して突っ走った。
  検査時の40倍もの排気ガスを吐き出した。
  開いた口が閉まらない大嘘の大嘘を吐くドイツという
 体たらくだった。
  嘘つきドイツは、信用できない国として世界の信用は
 がた落ちした。
  (参考)2015年、ドイツ自動車大手フォルクスワーゲ
     ン(VW)が、排出ガス検査に合格するよう設計
     された不正ソフトウエアを、1千万台以上もの自
     動車に搭載していた。
  この事件の後に、ドイツの恥の上塗り事件が起きる・・
  このフォルクスワーゲンが、さらに不祥事をするとい
 う・・地に落ちたドイツを「さらに信用失墜するという
 事件」が起きていた・・、
  (毎日新聞、2018年2月2日)
  ドイツの自動車大手フォルクスワーゲン(VW)が、
 ディーゼルエンジン車から出る排ガスを人や猿に吸わせ
 る実験をしていたと独メディアが報じ、波紋を広げてい
 る。
  責任を取りVWの幹部が辞任に追い込まれた。
  VWは、2015年に、米国での排ガス規制逃れ事件が
 発覚しており、相次ぐ不祥事に倫理観を問う声が高まっ
 ている。
  独誌シュピーゲルなどによると、実験を行ったのは
 VWやBMW、ダイムラーなどで作る研究機関で、VW
 が主導的役割を果たした。
  独国内で、2013年、ボランティアの被験者25人を対象
 に3時間にわたって排ガスを吸わせる実験を実施。
  2014年には、米国内で猿10頭に4時間にわたって排ガ
 スを吸わせる実験を行ったという。
  独政府のザイベルト報道官は、2018年1月30日、「猿
 どころか人までを対象にした実験はいかなる場合でも倫
 理的に正当化できない」と政府の見解を示し・・、
  ツィプリース経済・エネルギー相は、「越えてはなら
 ない明確な倫理的一線(を越えた)」と厳しい言葉で非
 難した。
  批判の高まりを受け、VWで実験を把握していたとさ
 れるトーマス・シュテーク氏が、2018年1月30日に辞任。
  ミュラー会長も、テレビのインタビューで「実験の事
 実に衝撃を受けた」として謝罪し、再発防止を約束した。
  シュテーク氏は、2002年から2009年まで、シュレーダ
 ー、メルケル両首相の政権で独政府副報道官を務めるな
 ど、政界と近い人物として知られる。
  排ガス規制逃れ事件発覚後も、独政界には自動車業界
 の規制に及び腰な姿勢が支配的で、今回の問題がどのよ
 うな影響を及ぼすかは不明だ。
.
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊
  それまで、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされ
 ていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行、及び、
 国外移住の「大幅な規制緩和」の政令を・・「事実上の
 旅行自由化」と受け取れる表現で発表した。
  このことで、その日の夜に、ベルリンの壁にベルリン
 市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放された・・、
  翌日・1989年11月10日に、ベルリンの壁が撤去され始
 まった・・、
  これによって、1961年8月13日のベルリンの壁着工から
 28年間に亘った、東西ベルリンが遮断されてきた東西分
 断の歴史は終わった。
  東欧革命を象徴する出来事だった。
  この事件を切っ掛けとして、東欧諸国で、続々と共産
 党政府が倒されて行った。
  そして、翌年・1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに
 編入される形で『東西ドイツが統一された』。
  この統一に関わったソ連は、この翌年・1991年12月、
 ソビエト連邦共産党を解散し、各連邦を構成する共和国
 の主権国家として独立、そして、1991年12月25日に、ソ
 連大統領のゴルバチョフが辞任し、ソ連は解体された。
  しかし、この話のすべては、美しく無かった・・、
  このドイツ統一で、東ドイツの実態が分かった・・が・・、
 東ドイツの惨状は、半端なものではなかった。
  だから、この統一による西ドイツの経済負担は、半端
 なものではなく・・
  西ドイツは、この統一による経済負担に、これから喘
 (あえ)いで行った。
  西ドイツの人たちは、統一前、人口と領土が増加する
 なら、消費も増加し、景気も向上するだろうと考えてい
 た。
  しかし、西ドイツが見たものは・・旧東ドイツの完璧
 に破綻(はたん)した財政だった。
  競争力のある産業は、一つもなかった。
  環境も、空気も、地下水も、土壌も、重度に汚染され
 ていた。
  ケムニッツにあるウラン鉱山は、1991年までに、22万
 トンのウラン鉱を産出していたが、安全管理は劣悪で、
 鉱山は閉鎖され、その後、その除染に莫大な費用と年月
 を要した。
  この様な事例が、これだけではなかった。
  山ほどあり・・大きな食肉工場の横の湖には、血と汚
 物でどす黒い赤色となり、異臭を放っていた。
  化学工場の脇の湖には、水面に厚く膜が張り、ぬめぬ
 めと光り、「輝く湖」と呼ばれた。
  東ドイツへ投資しようとしていた人々は、その実態を
 知って、東ドイツへの投資の期待は、一気にしぼんだ。
  その改善経費だけが、天文学的に膨らんで行った。
  西ドイツの人々は、誠実に一つ一つ整備し、解決して
 行った。
  年金を積み立ててない人の年金を払い、医療保険を払
 っていなかった人の医療費を払い、失業保険を払ってい
 なかった失業者を養った。
  東ドイツの失業率は、20%を越えていた。
  西ドイツは、その苦難を乗り越えた。
.
2012年、EUは、ユーロ導入十周年を祝った。
  ドイツは、ユーロの冥利(みょうり、知らず知らずの
 うちに受ける恩恵)を一番授かる国だった。
  そして、EUの多くの加盟国は、EUよりも自分たち
 の国の国益を優先するという事実を、最早(もはや)、
 隠そうともしない状態となっていた。
  どの国も半身に構えていた。
  EUに、全力投球する国は・・無くなった。
  しかし、EUは、動いていた。
  次々と、色々な事が・・決められた。
  その決定の陰には、力あるドイツの意思があった。
  また、それが、尊重されねばならないという空気があ
 った。
  加盟国は、ドイツの事を思って、一応の合意をすると
 いう雰囲気だった。
  何しろ・・ドイツは強すぎた。
  加盟国間に疑心暗鬼(ぎしんあんき)が、うごめいて
 いた。
  (参考)疑心暗鬼:疑心が起こると、(ありもしない
     鬼の姿が見えるように)何でもない事まで恐ろ
     しくなる。
.
2013年、欧州委員会は、ドイツの稼ぎ過ぎに御咎めを出し
 た。
  EU・・、
  美しい理念で作られたEU・・本当に美しいのか?
  「グローバリズムは、良いのだ」を体現したいEUは・・
 果たして・・美しいのか?
  結論を先に言えば・・「奴隷国ができるだけだ」。
  グローバリズムは、「手放しで、美しいと言ってはい
 けない論理・考え方」なのだ。
  (NHK出身の宮崎緑氏は、NHKを退職した後もN
 HKの番組に出て、「グローバリズムはいいのだ、グロ
 ーバリズムはいいのだ」と何度も連呼する様に言ってい
 たが・・そうではないのだ・・NHKは、この様な方法
 などでグローバリズムは良いのだを洗脳する放送局)
  2013年、欧州委員会は、ドイツに対して、「輸出超過」
 をして、好きに稼いでいるドイツに・・『お咎(とが)
 め』を言い渡した。
  (参考)咎め:とがめ、犯した罪や過失を責めること。
     また、それに対する罰。そしり。非難。
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)587E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年10月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年10月26日、第13代東京府知事に三浦安(みうらやす
 し)がなった。
1893年10月26日、『二六新報』が創刊された。(社主:秋
 山定輔)
  二六新報は日刊新聞。
  記事が硬くて、売行きは不振だった。
  そのため、1895年6月に休刊し、
  1900年2月1日、復刊した。
  復刊後は、三井財閥への暴露攻撃、たばこ王・岩谷天
 狗退治、吉原の娼妓の自由廃業キャンペーンなどで世間
 の注目を集め、日露戦争直前には日本一の発行部数を誇
 った。
1893年10月28日、ラベンナ号事件(千島艦事件)の控訴審
 で、上海イギリス高等裁判所は、日本側の敗訴の判決を
 した。
  日本は、イギリス上院に上訴した。
  この事件は、1892年11月30日に起きた事件で、ラベン
 ナ号はイギリス商船。
  日本の立場が牛耳られている時代に、イギリス法廷で
 堂々と争う日本は立派だったが・・その様な日本が、相
 手の土俵で争うのは、まったくその結果は分かったもの
 だった。
  そして、その後にも、イギリス本国の枢密院へも上告
 を決め、とことん争う日本だった。
  1895年7月3日に、枢密院は、上海の判決を破棄して横
 浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&O(ラベンナ
 号の所有会社のピーオー汽船会社)に、日本側の訴訟費
 用約12万円の負担を命じた。
  その後、イギリス外務省の意向を受けた領事館によっ
 て和解が図られ・・、
  1895年9月19日に、日本政府とP&Oの間で和解が成立、
 P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と、
 日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一
 切の請求権を放棄した・・で決着した。
1893年10月28日、チャイコフスキー交響曲第6番の初演。
  この交響曲は『悲愴』という副題で良く知られている。
  https://www.youtube.com/watch?v=wHAfvUFtCIY
  残されている資料によれば、1893年2月17日(第3楽章)
 に作曲に着手した。
  作業は急ピッチで進められ、それから半年後の8月25日
 にはオーケレストレーションまで完成し、
  同年・1893年10月16日(グレゴリオ暦では10月28日)
 に作曲者自身の指揮によりサンクトペテルブルクで初演
 された。
  あまりに独創的な終楽章もあってか、初演では当惑す
 る聴衆もいたものの、この曲へのチャイコフスキーの自
 信が揺らぐことはなかった。
  しかし、初演のわずか9日後、チャイコフスキーは、コ
 レラ、及び、肺水腫が原因で急死した。
  この曲は、彼の最後の大作となった。
1893年10月30日 筑豊興業鉄道会社が、飯塚駅~原田駅、ま
 たは、鳥栖駅間、および、山家駅~吉井町駅間線路の建
 設を出願した。
  (飯塚、原田または鳥栖間については、1894年7月31日
 仮免状下付された、また、
  1896年1月、飯塚駅~長尾駅間等の免許を申請し、1897
 年5月、飯塚駅~長尾駅間の仮免状が下付された)
1893年10月31日、文官任用令、文官試験規則が公布された。
  試験任用制度が確立した。
  奏任官については、原則として高等文官試験に合格し
 た者としたが、勅任官については,自由任用制をとって
 いた。
  奏任官:そうにんかん、奏任によって任命された三等
     以下九等までの高等官の称。
  奏任:奏上を経て、官職に任命すること。
  奏上:そうじょう、天皇陛下に申し上げること。
  勅任官:ちょくにんかん、もとの官吏任命法で勅任に
     よる官。
     一等・二等の高等官。広義では親任官も含む。
  勅任:勅命で官職に任命すること。
  勅命:ちょくめい、天皇陛下の御命令。
1893年10月31日、逓信省官制の公布(勅令第149号)
  鉄道庁を廃止して鉄道局を設置した(勅令第151号、11
 月10日施行)
  逓信省(ていしんしょう)は、交通・通信行政の中央官
 庁で、後、電気・航空行政をも管掌した。
  1885年、内閣制度実施とともに、工部省の電信、灯台、
   農商務省の駅逓、管船の各局管掌事務を引き継いで
   設置された。
  1890年、以降、電話事業、
  1893年、以降、官設・私設鉄道事業を管轄、陸上交通を
   含む広範な行政官庁となった。
   この間、特に、郵便・電信業務の近代化をはかり、日
   露戦争前後の時期にはほぼこれを完成した。
  1908年12月5日、鉄道監督行政は、新設の鉄道院(内閣
   直属)に移り、
  1923年、航空局を陸軍省から引き継ぎ、民間航空事業
   の監督、育成を担当した。
1893年10月31日、技術官俸給令を一部改正した(勅令第168
 号)
1893年10月31日、文官任用令(勅令第183号)・文官試験規則
 (勅令第197号)を公布した。
  文官高等試験合格者を奏仕官として採用した。
1893年10月31日、逓信省鉄道書記補郵便電信書記補及郵便
 為替貯金書記補任用令(勅令第195号)公布
1893年10月、文官任用令・文官試験規則を公布した(高等文
 官試験確立)
1893年10月、夏目漱石が、湯島聖堂内にあった東京高等師
 範学校(校長:嘉納治五郎、筑波大学の前身)の英語嘱
 託教師に就任した。
  夏目漱石(なつめそうせき、1867年2月9日~1916年12
 月9日)小説家、評論家、英文学者、
  江戸の牛込馬場下横町(東京都新宿区喜久井町)に、夏
 目小兵衛直克と千枝の末子として生まれた。
  生後すぐ里子に出され・・また、養子にも出された。
  不遇のうちに幼時を送り、作品にもその影を残す。
  1877年の10歳(9歳?)のころ、養父母の離婚のため、
 生家に戻ったが、こころ落ち付く、やすらかな帰属感を
 抱くことは出来なかった・・父母は必ずしも温かく迎え
 なかった。
  肉親の愛に恵まれなかった漱石・・この孤独な幼年期
 の記憶は・・漱石のこころの奥に秘められ残った・・
  肉親の中にさえある他者と見られる非情な人間を見た
 漱石だった・・
  少年時は、浅草界隈で送り、江戸の町人文化に親しん
 で育ち、漢詩文に親しみ、、
  漢学好きな少年は二松学舎(にしょうがくしゃ)など
 に学んだ・・
  また、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)
 に進むころから、英文学研究を生涯の仕事として選ぶ・・
  また、この大学予備門で正岡子規を知って俳句を学ぶ。
  1893年、東大英文科卒、一時大学院に籍を置く・・後・・
  1895年~1896年、愛媛県の松山中学に赴任(この体験
 は、面白おかしく『坊ちゃん(1906年)』の活発な筆致
 作品となる)、
  そして、1896年~1900年、第五高等学校で英語教師を
 務め・・
  1900年秋、渡英・英語研究の文部省留学生として英国
 留学を命じられた・・英文学者としての道が大きく開い
 て行く・・
  1903年1月、帰国
  そして、1903年4月、東京帝大英文科初の日本人講師と
 なり、英文学を教え、また、「文学論」「十八世紀英文
 学論」「シェイクスピア」などを講じた。
  (前任者の小泉八雲を押しのける形だった・・また・・
  この頃から、正岡子規と親しくなり俳句をよくする)
  高浜虚子の勧めで写生文を手がけ、『吾輩は猫である』
 を手始めに多彩な創作活動を展開した。
  1905年1月、「吾輩は猫である」を、雑誌「ホトトギス」
 に発表して、その軽妙洒脱さが評判となる。
  以後、「倫敦塔」「幻影の盾」「草枕」など溢れんば
 かりの文才を示し・・社会や人間の不正を糾弾する作品
 も書いた・・
  また、「坊っちゃん」も書く。
  その後、1907年、職業作家の志が芽生え・・教職を辞
 し、朝日新聞に入社(専属作家として迎えられ)し・・
  自然主義に対立し、心理的手法で近代人の孤独やエゴ
 イズムを追求した・・、
  この年・1907年に「虞美人草(ぐびじんそう)」
  1908年、「夢十夜」「三四郎」で文壇にゆるぎない地
 位を確立した。
  また、朝日新聞の文芸欄を主宰した漱石は、「現代日
 本の開化」「私の個人主義」などの講演を行なった。
  欧米では漱石の心理小説が注目され、その翻訳に恵ま
 れた。
  「それから(1909年)」「門(1910年)」「彼岸過迄」・・
  1910年、修善寺にあって大患を患った・・これ以後、
 死の危機を自覚した漱石は、生への認識が一層深まり、
 「行人(こうじん、1912年~1913年)」「こころ」「明
 暗」「道草」など、晩作での対策で、さらなる孤独さの
 内面に分け入った。
  自意識の不安と苦悩を著わした。
  晩年は、「則天去私」の境地を求めた
  (参考)則天去私:そくてんきょし、『天に則(のっと)
     り私を去るの意』
      夏目漱石が、晩年に、文学・人生の理想とし
     た境地。
      自我の超克を自然の道理に従って生きること
     に求めようとしたもの(漱石自身の造語)
  正岡子規と交わり、俳句や漢詩に親しんだが・・
  俳句は、約三千句をなし、また、晩年は、気品のある
 文人画も描いた。
  作品の追求した問題は広く深く、日本の巨匠として世
 界に広く紹介されている。
  また、漢詩をよくして、「永日小品」「硝子戸の中」
 などのなつかしい随筆も残している。
  また、師弟関係に恵まれ・・小宮豊隆、森田草平、寺
 田寅彦、鈴木三重吉、安倍能成、高浜虚子などの漱石の
 人脈の山脈が聳えている。
  教師であった漱石は、鈴木三重吉や芥川龍之介、久米
 正雄らの多くの俊英も育てる教師でもあった。
  漱石が残した知友門弟に書いた手紙や葉書も貴重なも
 のとなっている。
  また、妻:夏目鏡子の『漱石の思ひ出』が味わい深い。
  またまた、江藤淳の『漱石とその時代』、同編『朝日
 小事典 夏目漱石』、三好行雄ほか編『講座夏目漱石』全
 5巻、尹相仁『世紀末と漱石』ほか、おびただしい研究書
 のある人物・・それが夏目漱石。
  1916年に歿した・・50歳だった・・少し早い幕引きだ
 った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この地球・・人類が生存できないような状況は「何度も起きている」・・
.
2億5000万年前、爬虫類から双弓類を経て進化した恐竜が
 出現した。
  (参考)双弓類(そうきゅうるい)は、四肢動物のグ
     ループの一つで、頭蓋骨の両側に側頭窓と呼ば
     れる穴を、それぞれ2つ持っている。
      この穴が出来た事でその下部の骨が細いアー
     チ状になっているが、これを解剖学では「弓」
     と呼び、このため学名は「二つの弓 = 双弓類」
     と名付けられた。
  中生代の三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通して恐竜が繁
 栄した。
  恐竜は、気嚢(きのう、呼吸器官)を持ち、低酸素環
 境に対応できた。
  哺乳類の祖先の横隔膜をもつ単弓類は低酸素環境に対
 応できずに衰退した。
  (参考)単弓類(たんきゅうるい)は、脊椎動物のう
     ち、陸上に上がった四肢動物のグループの一つ。
      哺乳類、及び、古くは哺乳類型爬虫類とも呼
     ばれたその祖となる生物の総称。
      共通する特徴としては、頭蓋骨の左右、眼窩
     後方に「側頭窓」と呼ばれる穴がそれぞれ1つず
     つあって、その下側の骨が細いアーチ状となっ
     ていて、この骨のアーチの「弓」が、このグル
     ープでは片側に一つ持っているために単弓類と
     呼ばれた。
.
2億2500万年前、最古の哺乳類のアデロバシレウスが出現し
 た。
  魚類、両生類、爬虫類、鳥類には、4タイプの錐体細胞
 を持つもの(4色型色覚)が多く・・、
  一方、ほとんどの哺乳類は、錐体細胞を2タイプしか持
 たない(2色型色覚)
  哺乳類の祖先は、4タイプ全ての錐体細胞を持っていた
 が、初期の哺乳類は、主に夜行性であったため、色覚は
 生存に必須ではなかったために退化した。
.
2億2000万年前、生物が大量絶滅した(三畳紀末)
.
2億2000万年前、マニコーガン・クレーターの形成。
  カナダにある北アメリカ最大のクレーター(直径約100
 km)。
.
2億年前、酸素濃度が12%まで低下した。
  二酸化炭素濃度は、現代の数倍から10倍程度に増加し、
 この前後は、温暖な気候が続いた。
  これ以降、徐々に、酸素濃度が上昇し、二酸化炭素濃
 度が減少した。
.
2億年前、パンゲア大陸の分裂がはじまった。
.
1億8000万年前、北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸
 へと分裂し・・、
  ゴンドワナ大陸は、その後、西ゴンドワナ大陸と東ゴ
 ンドワナ大陸へと分裂した。
.
1億5000万年前、始祖鳥(鳥類が出現した)
.
1億4000万年前、白亜紀に入ると、西ゴンドワナ大陸は、ア
 フリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、
  その間に、大西洋が成立した。
  また、東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸、及び、マ
 ダガスカル島と、南極大陸、及び、オーストラリア大陸
 に分裂した。
  この分裂が、オーストラリア大陸でのその後の単孔類
 の生き残りや有袋類の独自進化につながる。
  (参考)単孔類:たんこうるい、哺乳綱単孔目に属す
     る動物の総称で、哺乳類であるにもかかわらず
     卵生で、消化管、排尿管、輸卵 (精) 管が同時
     に開口する総排泄孔を持つ。
.
1億年前、恐竜の全盛時代
.
6550万年前、生物が大量絶滅した(白亜紀末)
  この頃、恐竜が絶滅し、アンモナイトも絶滅した。
  隕石の落下による環境の激変を原因とする説が有力と
 考えられている。
  → K-T境界、チクシュルーブ・クレーター
.
6千数百万年前、インド半島の大部分を占めるデカン高原は、
 膨大なマグマが噴出して形成された。
.
約6550万年前、霊長類が出現した。
.
約5500万年前、この頃に現れたアダピス類が、初期の霊長
 類と考えられている。
  これより前の約7000万年前に、北米に出現したプレシ
 アダピス類のプルガトリウスを最古とする考え方もある。
  霊長目で、ビタミンC合成能力が失われたのは、約6300
 万年前であり、直鼻猿亜目(合成能力なし)と曲鼻猿亜
 目(合成能力あり)の分岐が起こったのと、ほぼ同時で
 ある。
  ビタミンC合成能力を失った直鼻猿亜目には、メガネザ
 ル下目や真猿下目(サル、類人猿、ヒト)を含んでいる。
  ビタミンC合成能力を有する曲鼻猿亜目には、マダガス
 カルに生息するキツネザルなどが含まれる。
.
5500万年前、暁新世・始新世境界で、突発的温暖化事件が
 発生し、新生代では、最も高温の時代になった。
  (始新世温暖化極大・始新世高温期)
  その原因として、1500Gtのメタンハイドレートの融解
 などの温暖化ガスの大量放出があり、地表5℃~7℃の気
 温上昇の温暖化が起こった。
.
4500万年前、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸
 に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成した。
.
約4000万年前、南極大陸で、氷河の形成がはじまり、徐々
 に寒冷化した。
  これ以前は、非常に温暖な時期だった。
  → 古第三紀、海水準変動
.
4000万年前~3000万年前、真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザ
 ル)と広鼻下目(新世界ザル)が分岐した。
  一説では、当時のアフリカ大陸で大きな洪水が起こり、
 倒れて流された大木に乗った真猿下目のサルが、当時、
 それ程広がっていなかった大西洋を越えて、南アメリカ
 にたどり着いて、広鼻下目の祖先となった。
.
3000万年前、2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類のう
 ち、霊長目狭鼻下目が、3色型色覚を再獲得した。
  ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存
 に有利だった。
.
2800万年前~2400万年前、狭鼻下目のヒト上科(テナガザ
 ル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒトの共
 通祖先)が、オナガザル上科から分岐し・・、
  同時に、ヒト上科で、尿酸を分解する尿酸オキシダー
 ゼ活性が消失した。
  尿酸が、直鼻猿亜目で、合成能が失われたビタミンCの
 抗酸化物質としての部分的な代用となった。
.
2500万年前、最古の類人猿と思われる化石・・?
  アフリカのケニヤで発見された。
.
約2500万年前、アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成
 がはじまった。
  テチス海が消滅し、造山運動により隆起。→ 新第三紀、
 Geology of the Himalaya
.
2000万年前~1600万年前、ヒト科とテナガザル科が分岐し
 た。
.
約2000万年前、現存する最古の湖が形成された。
  バイカル湖、タンガニーカ湖 → 古代湖
.
約1800万年前~1700万年前、この頃のウマの化石が、岐阜
 県可児市で、1961年と1971年に発見された。
  「アンキテリウム属」の1種で、和名「ヒラマキウマ」
 という。
  日本最古とされていたが、アジアでも最古級であるこ
 とが分かった。
.
1600万年前頃、大和三山の内の畝傍山や耳成山、また、二
 上山も、この頃、火山活動していた。
  「ステゴロフォドン」の頭骨化石の一部が、茨城県常
 陸大宮市で、2011年12月に発見された。
.
約1500万年前、ヨーロッパに隕石が落下、クレーターを形
 成する。
  現在のドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州にある
 リース隕石孔、シュタインハイム・クレーター。
.
約1400万年前、ヒト科が、ヒト亜科とオランウータン亜科
 に分岐したと推定されている。
.
1300万年前、この頃からヨーロッパ、南アジア、東アジア
 などユーラシア各地にも類人猿の化石が現れた。
.
約1000万年前、ヒト亜科が、ヒト族とゴリラ族に分岐した
 と推定されている。
.
1000万年前~500万年前、アフリカで大地溝帯(グレート・
 リフト・バレー)の形成が始まる。
  人類誕生に大きな影響を与えたとする説。
.
約700万年前、ヒト族は、ヒト亜族とチンパンジー亜族に
 分岐したと推定されている。
  猿人の出現。
  直立二足歩行が開始された。
.
700万年前~600万年前、現在最古の人類化石は、中央アフ
 リカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされてい
 る。
  2002年に報告される。
.
推定約600万年前~400万年前、琵琶湖が形成された。
  琵琶湖は、世界に現存する湖の中では3番目に古い湖
 と考えられている。
.
370万年前~100万年前、アウストラロピテクス(猿人)
  最初の人類とされる。
  一定の道具を使用した。
.
約250万年前~180万年前、この頃、石器の使用がはじまっ
 た。
  エレクトス原人が出現する(250万年前)。
  丹沢山地の大爆発(約250万年前)面積1万1750km2、降
 下火山灰のみの体積は2.8km3を超え、火山爆発指数VEIは
 5。
  オルドヴァイ文化、オルドワン石器
  (参考)オルドヴァイ文化:東アフリカのタンザニア
     北部にあり、リーキーらが調査したオルドバイ
     遺跡を標式とする世界最古の旧石器文化。
      その担い手は、アウストラロピテクスで、こ
     の文化は東アフリカに始まり、中央アフリカを
     除くアフリカ全土、および、西アジアにひろが
     る。
      主体となる石器は、円礫、もしくは、角礫の
     一端を打ち欠いて刃をつけ、ものをたたき切っ
     たりつぶしたりするのに用いたチョッパーであ
     るが、その他、肉を切ったりものを削ったりす
     るスクレーパーをはじめ、数種類の石器があり、
     すでに用途によって形態が分化していた。
  (参考)円礫:えんれき、岩石の破片のうち、大きさ
     が2mm以上のものを礫といい、川原の玉石のよう
     な丸いものを円礫、砂利道の砂利のような角張
     ったものを角礫という。
.
約200万年前、フィリピン海プレートに乗って移動してきた
 伊豆半島が、北アメリカプレートに衝突し、富士山や箱
 根などの噴火の引き金になった。
.
180万年前、グルジアのクラ川下流の下カルトリ地方ドゥマ
 ニスィ(ドマニシ)で発見された化石は、ユーラシア最
 古の原人として知られる。
  180万年前~150万年前に、アフリカの地を脱してユー
 ラシア大陸の熱帯・温帯に拡散したらしい。
.
約78万年前、最新の地磁気の逆転。
  地球磁場は、10万年~100万年ぐらいの不規則な周期で
 何度も逆転している。
  この頃の逆転が直近のものである(ブリュンヌ期、約
 78万年前~現在)
  これより前の逆転は、約250万年前(松山期、約250万
 年前~78万年前)
  なお、松山期には、数回の地磁気逆転イベントが存在
 する(約100万年前のハラミヨ亜期など)
   ・
   ・
   ・
紀元30年、イエスが刑死したと言われている年
  イエスの実在性は、ほとんどないが、イエスは、キリ
 スト教を作ったパウロに祭り上げられた。
  イエス本人には、まったくキリスト教を作ろうという
 意思は無かった。
  キリスト教は、ユダヤ教を引き継いでいるが、ユダヤ
 教は、最初、神が多くいる多神教だった。
  また、イエスの母・マリアは、ユダヤ教のエルサレム
 神殿を参詣するユダヤ教徒だったが・・、
  そのマリアの子=イエスも、ユダヤ教を信仰していた。
  (因みに、イエスは、ユダヤ教を信仰する立場で死ん
 でいる。
  つまり、刑死するイエスは、ユダヤ教徒としての信仰
 の中に死んでいる)
  故に、イエスは、「ユダヤ教の神(主)」を信仰する
 ユダヤ教徒だった。
  だから、イエスには、少しもキリスト教を立宗しよう
 という意思はなかった。
  イエスの刑死後、キリスト教が立宗される動きは・・
 「まったく無かった」。
  その様な動きがまったく無い状態の中に、時は過ぎて
 行った。
  エルサレムの街や、その他の街でも、当然、普通の
 日々が流れていた。
  だから、イエスの死後、3日後の、イエスが復活した
 などという騒ぎなどは「まったく無かった」。
  ましてや、イエスが昇天したなどという騒ぎも「当然
 無かった」。
  ただただ、普通の日常が流れていた。
  キリスト教の福音書が、イエスの死後、50年も経って
 から書かれたように・・、
  西暦70年~90年頃に書かれた事からも分かる様に、イ
 エスは忘れ去られ・・何十年とキリスト教の話などは無
 く、少しも表われ出ない時が流れていた。
  最初の福音書は、マルコが書いたが・・この頃には、
 もう、イエスのことは、完全に、誰もがすっかり忘れら
 れていた。
  イエスに関係する者たちは、そのグループは、ユダヤ
 教から「破門の処分」を受けていた。
  その様な状態の中に、時は過ぎて行った、年月が流れ
 ていた。
  この様な状況の中で、キリスト教を作ったというパウ
 ロが居る。
  パウロは、サウロとも呼ばれ、紀元65年に死んでいる
 が・・、
  生前は、テント職人で、ユダヤ教ファリサイ派の人で
 あった・・、
  高名なユダヤ教のラビのガマリエル1世の下でユダヤ教
 を学んだ「熱心なユダヤ教徒だった」。
  パウロは、ユダヤ教の要職の人で、ユダヤ教以外の人々
 を、「上部組織の許可を得て捕まえる役目」をしていた。
  イエスのグループも逮捕対象だった。
  捕まえられた人が死刑になることもあるというパウロ
 の役目だった。
  ある日、逮捕の許可を得ようとして道を行くパウロに
 「ふと、嫌気がさした」のだろう。
  多分、何時(いつ)までこんなことをしているのだろ
 うかと自分の行動を顧(かえり)みて思ったのだろう。
  この時、パウロは転身(てんしん、方針を変える)す
 る。
  ここは、キリスト教の聖書には、美しく書かれている・・
 一転、空は掻(か)き曇り、天からイエスの声が聞こえ
 たと書かれている。
  大きな転換点なので、キリスト教もドラマティックに
 書きたかったのだろう。
  イエスの声で、何でお前は迫害するのかと言ったとい
 う・・パウロの行動を批判した。
  パウロは、この時、自分の行なっているユダヤ教以外
 のグループを許可を得て捕まえるという役のむなしさを
 感じていたのだろう。
  ここで、パウロは、180度の方針転換をする。
  この事が起きたのが紀元34年だという。
  パウロは、宗教の立宗を思い立つ。
  当然、パウロは、ユダヤ教に詳しく精通していた。
  そして、ユダヤ教の聖典に書いてある事と同じやり方
 で立宗の行動をした。
  パウロが考えたことは、イエスの生涯とか、行いとか
 はすべて捨て、無関係とした・・
  そして、イエスの名だけを借りた。
  エルサレム神殿の庶民の経営する屋台などを、暴れ回
 って壊したりするイエスの行動など利用したいとも思わ
 なかったのだろう。
  パウロによって、イエスの人となりは、まったく利用
 されない形でキリスト教は出来上がって行った。
  刑死し、復活し、昇天するというユダヤ教の聖典の形
 にした。
  しかし、だからと言って・・福音書が作られる紀元70
 年~90年頃までは、50年近くの空白の長い年月が流れて
 いたのだった。
  近年、アメリカの研究グループが、4つあるキリスト教
 の福音書を研究・検討したが、その中に、イエスの言葉
 はほとんどないという結果となった、その様な福音書の
 状態だという結論に達した。
  イエスの言葉が一つもないという福音書があるくらい
 だった。
.
70年代、キリスト教の最初の福音書である「マルコによる
 福音書」が書かれた。
  この「マルコによる福音書」は、キリスト教の意に沿
 わない福音書であった・・依って、この後に「マタイに
 よる福音書」が書かれた。
  だから、聖書には、年代的には「マルコによる福音書」
 が先に書かれているが、聖書への掲載は、「マタイによ
 る福音書」が先に掲載され、この「マルコの福音書」は、
 「マタイによる福音書」の後に掲載されている。
  この様な差別は、特定の一部の者にしか明らかにされ
 ていない。
.
80年代、キリスト教の福音書である「マタイによる福音書」
 と「ルカによる福音書」が書かれた。
.
90年代、キリスト教の福音書である「ヨハネによる福音書」
 が書かれた。
.
2世紀、この頃までに、キリスト教の新約聖書に盛り込まれ
 る手紙類などが出揃(でそろ)った。
  しかし、矛盾が多く含むものとなった。
  この矛盾の辻褄(つじつま)を合わせるために、この
 後、キリスト教神学が発生した。
  キリスト教神学の生まれた経緯は、キリスト教の教義
 の深化のためではなかった・・辻褄合わせが、学問の発
 生の因だった・・、
.
180年頃、ローマ帝国内に、キリスト教の五大教会が造られ
 た。
  キリスト教五大教会は、「ローマ」「エルサレム」「
 コンスタンティノーブル」「アレキサンドリア」「アン
 ティオキア」。
.
313年2月、ミラノ勅令。
  ローマ帝国の皇帝のコンスタンチヌス1世(大帝)が、
 キリスト教を公認した。
  コンスタンチヌス大帝が、ミラノで、リキニウス帝と
 会見をした際に発した勅令。
  増大しつつあるキリスト教徒の支持を得ようとして行
 った。
  そして、392年、キリスト教が国教となった。
  以上の様な史実があるとされるが・・??
  厳密に言うと、ミラノで、その様な勅令が出されたと
 いう「歴史的事実はない」。
  ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいて、リキニウ
 スが、313年、ニコメディアで両皇帝の名において発した
 訓令の内容の記録が伝わるに過ぎない。
  これを、キリスト教に偏する後世の史家が、これをミ
 ラノ勅令と呼んだだけの作り話。
  ローマ帝国のキリスト教迫害政策は、4世紀の初期にな
 って、行き詰まった・・そこで、政策のゆるみが出て、
 寛容への動きも出ていた(311年、ガレリウス帝の寛容
 勅令など)。
  しかし、このミラノ勅令と言われるこの頃、帝国が、
 キリスト教の取締りの域を超えて、キリスト教との融合
 の方向へと踏み出した・・歴史の転換点ともいうべき位
 置を示している。
.
381年、コンスタンティノーブル公会議で、再び、三位一体
 神を正統とした。
  そして、教義として確立した。
.
392年、キリスト教が、ローマ帝国の国教となった。
.
395年、ローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂
 した。
  この後、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会と
 は、別々の君主の元で歩んだが・・、
  コンスタンティノーブルの司教が、「ローマ教会の司
 教と対等の立場」を主張した。
  そして、この後の5世紀末に、東西のキリスト教会の反
 目が本格化した。
  ローマ司教は、「単性説」を主張していたコンスタン
 ティノーブルの司教を破門した。
  6世紀に、ローマ司教は、ローマ教皇となった。
  867年には、東西の両教会は、「互いに破門を宣言しあ
 った」。
  1054年、完全に物別れとなり、教会の東西分裂となっ
 た。
.
397年、カルタゴ会議で、「旧約聖書」と「新約聖書」が、
 キリスト教の聖典となった。
.
451年、キリスト教ローマ教会は、権威を強化したいと、こ
 の年のカルケトン公会議で・・異端とされた単性説のコ
 ンスタンティノーブル司教を破門にした。
  5世紀末は、ローマ教会の権威は強大となった。
.
5世紀半ば、ローマ法が作られた。
  キリスト教は、ローマ法と矛盾するところを妥協し、
 習合した。
  そして、キリスト教の戒律は、聖なる部分のみに適用
 されるものとした。
  だから、当然、キリスト教の免罪符を持っていても罰
 せられた。
  だから、当然、強盗が免罪符を持っているからと言っ
 て許されるものではなかった。
.
6世紀、東ローマ帝国が、コスティニアス1世の時に領土拡
 大した。
  ローマも支配下に入れた。
.
6世紀、ローマ帝国内の五大教会の一つのローマ教会の指導
 者であるローマ司教が、ローマ法王(教皇)となった。
  このローマ法王が、キリスト教カトリックの最高権威
 があるとされた。
.
900年、ヨーロッパ大陸は、森林に覆(おお)われていたが、
  この後、そのほとんどが失われてしまった。
  ヨーロッパは、うっそうたる原生林の中の地だった。
  「ヘンゼルとグレーテル」が迷い込んだ森の道に、迷
 い行くとお菓子の家があるという、子供たちの話のよう
 な深い森のあるヨーロッパの地だった。
  しかし、その森も、キリスト教の『地を従えよ』の教
 義・教えによって・・、
  「自然を大切にしない教義」によって、「地を従える
 という自然破壊」を『良い事だと教えるキリスト教の教
 義』によって、ヨーロッパの森は、破壊しつくされた。
  今、古来からの原生林は、ドイツのある地方の一画だ
 けという状況。
  現在のフランスの森林の割合は、23パーセントだとい
 う。
  中世初期は、最も開拓が進んでいるサン・ジェルマン・
 デ・プレ修道院の平野部でさえ、4割以上が森林だった。
  900年頃の想定地図を見ると、『殆ど森しかない』とい
 う状況だった。
  土地の9割以上は、原生の地であり、村の周囲だけが
 切り開かれているという状況だった。
  あるキリスト教修道院は、柱となる大木を手に入れれ
 たのは「神の思し召しだ!」などと喜んで伐採した。
  日本の里山の思想・仏教の思想は・・『山や森と共生
 する』という思想は、キリスト教の思想には「まったく
 無かった」。
  キリスト教の『地を従えよ』の自然破壊を奨励する教
 えに洗脳されたキリスト教徒のヨーロッパ人たちは、「
 自然破壊をすることに何ら罪悪感の無い心にされて」、
 ヨーロッパ大陸の自然を破壊し続けた。
  今、地球は、自然破壊のために、「異常気象が頻発(
 ひんぱつ)」している・・が・・
  キリスト教の罪悪は、この点でも、計り知れない事を
 起こしている。
  「もう人類は、今・現代、すぐに、キリスト教の教え
 を捨てなくてはならない」。
  「罪悪感のない自然破壊」を改めなくてはならない。
  今、地球は、地球上のあちこちで、罪悪感のない森林
 破壊の伐採が行われている。
  「キリスト教に洗脳された自然破壊」が行われている。
.
1520年、ルターのキリスト教の宗教改革活動が始まった。
  まったく金にまみれたキリスト教カトリックだった。
  ローマ法王のレオ10世が、ローマのサン・ピエトロ大
 聖堂を建てたいと、金を集め出した。
  ドイツで、大量の免罪符が売り出された。
  ルターは、これに抗議した。
  ルターは言った、「免罪符なんか持ってなくても天国
 へ行ける」「免罪符を持って居たからって救われない」
 と。
  キリスト教カトリック教会は、ルターを破門にした。
  そして、弾圧を加えた。
  キリスト教教会から、なんだかんだと金を取られ苦し
 んでいた人々は、ルターに同調した。
  また、ドイツの諸侯や、各地の知識人も同調した。
  因みに、キリスト教の信者数の割合。
  カトリック  53%(10.9億人〉、
  プロテスタント17%(3.7億人)、
  東方正教会  11%(2.2億人)、
  その他    19%(3.9億人)、計20.7億人
.
1642年1月8日、この年、ガリレオが失意のうちに亡くなっ
 た。
  ガリレオは、イタリアの科学者で天文学者。
  天文学の父と言われている。
  科学的探究の結果、地動説を説明するが・・キリスト
 教に「異端の考え方だ」とされ、一生、監禁状態の生活
 を強いられた。
  職も失い・・貧困の中に苦しい生活を送らされた。
  長女も付き添って看病をしてくれたが、この最愛の長
 女・ビルジニアにも、ガリレオは先立たれた。
  この長女は、ガリレオの死の8年前、病気で1634年に
 亡くなっている。
  キリスト教は、科学的に非常に遅れた宗教で、非科学
 的な記述に満ち満ちている。
  キリスト教は、「ある時、キリスト教の神が創造を始
 めた」という設定から始まったという話から始めた。
  キリスト教の聖書もその記述から始めている。
  この認識を基礎として、キリスト教の宗教の信仰が始
 まっている。
  因みに、先のガリレオに対するキリスト教の間違いは、
 400年も経って、ローマ法王はガリレオに詫(わ)びた・・
 『謝罪のミサ』を行った。
  『キリスト教の宇宙創造論』も、結論から言えば「間
 違い」で・・、
  この様な話にすると、キリスト教のストーリーの初め
 から話が崩れ去ってしまう・・このストーリーが崩れる
 と・・「キリスト教の神の存在が否定され」・・キリス
 ト教の宗教としての存在も否定されてしまう・・
  だから、この点は、死守したいところだが・・間違い
 だという事が判明して来た。
  キリスト教は、ストーリーの初めから、躓(つまづ)
 いている。
  キリスト教は、聖書の初めに書いてある「キリスト教
 の神が宇宙を創造した」という創造論が確かにあったと
 したい・・が・・
  科学が進歩して来ると、色々なことが分かって来て、
 その科学で分かったことが、キリスト教の聖書に記述し
 てある事と食い違う事が多く・・
   「一致する」と胸をなで下ろすというキリスト教と
 なっている。
  事実は、そうではないという展開となっている。
  この400年前のガリレオは、キリスト教の様になってな
 いと言うって、キリスト教を仰天させ、大騒ぎになった
 が・・キリスト教は卑劣な事にもガリレオを弾圧した・・
  あまりにもひどい・卑劣なキリスト教の弾圧にあって・・
 とうとうガリレオも、やむなく「地球の周りに太陽は回
 っている」と、キリスト教に押し付けられた言葉を言っ
 たが・・
  科学的に間違って居る事を言わされたが・・しかし、
 最後に、ガリレオは、「ガリレオが、その様に言ったっ
 て、キリスト教が言うように、太陽が地球の周りを回り
 始める訳はない」・・という事で・・ガリレオは、『そ
 れでも地球は、太陽の周りを回っている』と言った。
  キリスト教は、科学に照らして間違いだらけの宗教で、
 今・現在は、キリスト教は、『太陽が、地球の周りを回
 っている」とは言わなくなったが、キリスト教にはこの
 様に、「たくさんの訂正事項」の中に、今のキリスト教
 が存在して居る。
  キリスト教は、まったく非科学的な宗教である。
  信じるに値しない。
  このキリスト教に繰られて、洗脳されて、今まで、何
 千万人もの有色人種が、「キリスト教によって殺されて
 来た」が・・本当に悔(くや)しい思いである。
  これは、ローマ法王が、有色人種を「人では無い」と
 言った事から始まった。
  キリスト教には、有色人種への蔑視観がある。
  キリスト教は、科学が進むとともに、その非科学性が、
 ますます立証され、証明されて来ているという状態。
  これからの人類の幸福のためには、絶対、キリスト教
 は「無くさねばならない宗教」・・、
  また、未来の愛すべき「これからの世界を支える子供
 たち」の為にも、絶対、キリスト教を無くして行かねば
 ならない。
.
1821年、メキシコが、スペインから独立すると、今は、ア
 メリカのテキサス州だが、この地は、メキシコのコアウ
 イラ・イ・テハス州という名の州となった。
  例えばの話、あなたの左隣の家が、あなたの右隣の家
 へ、「あなたの家を持って良い(奪ってよい)」と言っ
 たら・・、
  あなたの家は、右隣の家になるのか?
  (右隣の所有する家になるのか?)
  また、例えばの話、本当に例えばの話なのだが・・、
  「日本が、メキシコに、アメリカのテキサス州を持つ
 ことを認める」と言ったら、アメリカのテキサス州は、
 メキシコのものになるのか?
  つまり、この逆のことを、アメリカはしていた。
  アメリカの前には、イギリスがしていた。
  こんな事ばかりを言って、世界にトラブルの種を撒(
 ま)いていた。
.
1876年、オーストラリアの先住民のアボリジニの方々・・
 そのタスマニア島の方々は、3万7000人が住んでいた・・
 が・・イギリスの入植によるアボリジニの方々の銃殺権
 の法律(人権のまったくの無視の卑劣な法律)により、
 この年に絶滅した。
  タスマニア原住民で最後の人となったトルガニナさん
(女性)がこの年に亡くなった。
  また、オーストラリア本土の先住民のアボリジニの方々
 も、イギリス人(オーストラリア人)が、獣狩りのごと
 く、アボリジニの方々を銃で撃っていた。
  『その様な法律があった』というのだから、その「卑
 劣さ」も極まるが・・、
  「今日は、○○匹、獲った」という日記などの記録が
 残されている。
  また、森に罠(わな)が仕掛けられたりした。
  また、ハワイの原住民の方々が、何故か?ある時、激
 減した。
  『伝染病を媒介された』という話がある。
  ハワイの原住民の方々は、予防措置がとられていなか
 った。
  約30万~50万人のハワイの原住民の方々が、何と!9割
 の方々が亡くなり、約4万人となってしまった。
  そして、現在、純血のハワイの方は、約8000人と言わ
 れている・・98%は混血。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)586E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年9月~1893年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)586E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年9月~1893年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年9月11日、万国宗教会議がシカゴで開催された(〜1893
 年9月27日)
  日本からは土宜法龍・野口復堂・釈宗演が参加した。
  日本仏教が、世界へ伝播して行く中に於いて、1960年
 代に、アメリカで『禅ブーム』が起きた。
  これは、世界では、よく知られていることで、「世界
 の禅者」と鈴木大拙は言われた。
  彼のZENに関する英文の著作に端を発していた。
  これ以前にも、このシカゴ万国宗教会議で脚光を浴び
 ている。
  鈴木大拙の禅の師である釈宗演が、日本仏教の代表と
 して演説した。
  鈴木大拙は、師の演説の英訳を引き受けている。
  釈は、この演説で、伝統仏教から脱却し、近代社会に
 合致した新しい普遍宗教としての仏教の可能性を示した。
  キリスト教国・アメリカに、仏教が、真理を体現する
 宗教としての価値があることをアメリカ社会に示した。
  この時、この演説が、『大乗仏教を基盤とする日本仏
 教』を、アメリカ社会に初めて示したという意義があっ
 た。
1893年9月19日、初の自動車用ナンバープレートをフランス
 が導入した。
  世界で最初に設置を義務化した。
1893年10月1日、安倍井磐根ら、外国人雑居を認めて条約改
 正を行う政府の政策に反対し、その運動のため大日本協
 会を結成した。
  神鞭知常、安部井磐根、大井憲太郎、坂本則美、大竹
 貫一らがかねてより組織していた内地雑居研究会を改変
 したもので・・、
  不平等条約の改正にあたって、第2次伊藤博文内閣の外
 交政策 (外相:陸奥宗光) に反対した。
  外国人への内地開放・・および・・内地雑居は、時期
 尚早だとして、現行条約の励行を主張した。
  領事裁判制の廃止の為には、当然、居留地を廃止し、
 内地開放を行なわなければならいという主張を批判した。
  内地開放を行なうか否かの決定権は、条約締結国にあ
 ると主張した。
  第5議会には、条約励行建議案を提出するなど、対外硬
 派の中心的存在として活動した。
  10日間の停会ののち、情勢不利とみた伊藤内閣は、12
 月30日に議会を解散した。
  そして、それと同時に、治安妨害を理由に圧迫を加え、
 大日本協会は解散させられた。
1893年10月5日、南方熊楠(みなかたくまぐす)の論文「極
 東の星座」が、イギリスの「ネイチャー」の懸賞論文第
 1席となった。
  1892年9月21日、熊楠の乗った船は、大西洋を渡り、イ
   ギリスのリバプール港に到着した。
    熊楠は、首都・ロンドンに入り、横浜正金銀行ロ
   ンドン支店長の中井芳楠を訪ねた。
    中井は、和歌山県人で、南方家とは古くからの知
   り合いだった。
    ロンドンでは、下宿代が安い下町に住み、植物標
   本の整理をしたり、カルキンス、アレンなどとしば
   しば植物標本や手紙の交換をする一方、大英博物館
   や南ケンシントン博物館、美術館を訪ねたりしてい
   た。
  1893年8月17日、アメリカ滞在の時より購読していた英
   国第一の週間科学雑誌『ネイチャー』にM・A・B
   なる人の「星宿構成に関する5条」の質問を見出し、
   下宿屋の老婆に借りた不備な辞書をたよりに、答文
   「極東の星座」を起稿した。
    ロンドンで知り合いになった片岡プリンスは、身
   なりこそみすぼらしいが、熊楠の博識の深さに気付
   いた。
    そして、大英博物館の考古学・民俗学部長で富豪
   のサ-・ウオラストン・フランクスに紹介した。
    また「極東の星座」の原稿の指導を受けたことも
   あって、博物館に出入りするようになった。
    科学雑誌『ネイチャー』への答文、「極東の星座」
   は、30日で完成し、それが『ネイチャー』に掲載さ
   れて、一躍有名になり、識者に名を知られるように
   なった。
    以後、しばしば同誌に論文を発表した。
  更に、随筆問答雑誌『ノーツ・アンド・クィアリーズ』
 にも寄稿を始め、多数の論考や答文を発表した。
  熊楠は、帰国した後も、議論に参加し、東洋学の権威
 者としてその名を馳せた。
  熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総
 長ディキンスや、フランクスの後任ダグラス、リード部
 長などとも、親交を深めた。
  大英博物館には、毎日のように通い、収蔵されている
 古今東西の稀覯(きこう、めったに見られないこと)書
 物を読みふけった。
  主として考古学、人類学、フォ-クロア(民俗学)、
 宗教学などを勉強した。
  筆写したノート類は、52冊もある。
  「ロンドン抜書(ぬきがき)」として、今も、南方邸
 や、南方熊楠記念館に保存されている。
  英・仏・独・伊・スペイン・ポルトガル・ギリシャ・
 ラテンなどの小さい字で、ぎっしりと書きこまれている。
  熱心に大英博物館に通ううち、熊楠の博識に感心した
 同館東洋図書部長のダグラスから、館員になるよう勧め
 られたが、自由の身である方がよいと断った。
  しかし、自分の勉強をしながら、同館の書籍目録の作
 成や仏像の名称の考証などを手伝った。
  (『大英博物館日本書籍目録』、『大英博物館漢籍目
 録』の編纂に尽力)
  1897年3月、ロンドンで、中国革命の父といわれる孫文
   と知り合った。
    大英博物館のダグラスの部屋で初めて出会った2人
   は、たちまち意気投合し、毎日のように行き来し、
   時のたつのも忘れて語り合った。
  また、土宜法竜(後年:高野山管長)との出会いは、
 土宜がアメリカ.シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表
 委員として講演し、その後、英国の正金銀行ロンドン支
 店長中井芳楠の家であった。 
  年上の土宜とは、最も心を許しあい宗教学を論じあい、
 その後も生涯書簡の交流がつづく・・、
  熊楠は、その学識が一部の学者などから高く評価され
 る一方で、有色人種だと、東洋人だということでさげす
 まれるようなこともあった。
  1900年9月1日、ロンドンの南ケンジントンの下宿を出
   発し、テームズ川の港で、日本郵船の阿波丸に乗船、
   帰国の途についた。
    その日の日記には、「4時出帆、夜暫時甲板に出、
   歩す」と書かれている。
1893年10月22日、東京市で近代水道起工式(淀橋浄水場予定
 地)
  淀橋浄水工場建設予定地で、改良水道起工式が盛大に
 挙行された。
  参列者のために、上野駅、及び、新橋駅から特別列車
 が仕立てられた。
  来賓は、3000余名の多数だった。
  しかし、府知事の設計告示の1890年7月から、既に、3
 年以上もの年月が経過していて、この起工式に至るまで
 に、様々な紆余曲折があった。
  1890年9月、設計告示後、市会は、水道建設及び関連す
 る道路建設等の費用総額1000万円の市区改正予算を全員
 一致で可決した。
  事業期間は、1891年度から5年間で、財源はすべて公債
 でまかなうこととした。
  当時の東京市の一般財政の規模は、50万円程度に過ぎ
 なかったので、5ヶ年継続事業とはいえ1000万円にものぼ
 る市区改正予算は巨額なものだった。
  公債発行に当たって、市の公債が、政府の公債と同等
 の価値を保証されるよう政府に働きかけた。
  しかし、思うように運ばず約1年が経過した。
  1891年10月、やむなく、東京市は、政府の許否にかか
 わらず市公債の募集を開始した。
  公債発行の遅延で、当初予定した明治24年度の工事開
 始は見送られた。
  しかし、この間、巨額な工事費を投じてまで水道を建
 設する必要はないとの意見を中心とした工事反対の世論
 が高まって来た。
  このため、公債募集を開始したにもかかわらず、着工
 できない事態となった。
  事態打開をするため、市会は、市区改正経済審査委員
 を選任し、問題点の調査検討を行うこととした。
  同委員は、「水料」収入方針を明確にし、道路事業の
 財源の一部を水道建設に充て・・、
  また、公債の一部募集延期、配水工費の分納・助成等
 を決めるなどして、市民の納得を得るよう務めた。
  1892年4月、市会は、前年・1891年12月に提案された用
 地買収の案件をようやく可決することができた。
  用地買収は、淀橋に限らず本郷、芝、新水路予定地等
 施設建設予定の各所で難航するが、買収完了を待たずに
 1892年9月、淀橋工場仮事務所盛土工事に着手し、
 1892年12月から、本工事が開始された。
  明治26年度に入って、施工体制が軌道に乗り、
 1893年の秋、盛大に起工式を開催することができた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:人類は未定の中に生きている・・
.
138億年前、宇宙の誕生・・か・・?
  ビッグバン理論の全盛であるが、その理論を中心とし
 て成立する宇宙の始まり・・本当にそうなのか・・?、
  しかし、今だに解明が進んでいない最初期の宇宙とい
 う現状にある。
  キリスト教の神が創ったという「宇宙創造論」と一致
 するからと、この理論は喜ばれ、そして、もてはやされ
 ている・・が・・、
  しかし、このビッグバン論理の背景にあるインフレー
 ション理論などの大部分が、未(いま)だ推測の域の話
 の展開で・・推測から成立しているだけの理論という段
 階にある・・、
  「しっかりした科学の裏付けのある話」という訳では
 ない。
  しかし、さもその様にあったと思っている人々が多い
 のが現状・・、
  そして、以前は、「ビッグバンから始まった」・・と
 された・・
  しかし、そのうちに、「ビックバンは、急に起きるも
 のではない」のだ・・と言われる様になった・・
  つまり、ビッグバンの『前段階があるのだ』という事
 が分かって来た・・
  そして、それが、確かなのではとなって来た・・
  そして、ビッグバンの起きる前段階があるとされて来
 て・・その前段階は確かに存在するとされて来ているが・・
  ここで困ったのがキリスト教・・
  キリスト教の神が創った宇宙という『創造論』からキ
 リスト教の話は始まる・・
  だから、科学が、「宇宙はビッグバンから始まった」
 と言い出したら・・これだと、キリスト教はこの話の乗
 っかった・・
  このビッグバンが、「キリスト教の神」が宇宙を創っ
 た時だ・・とした・・しかし・・
  しかし、時を経て、そのキリスト教の神が創る前に・・
 「誰かが、そのビッグバンを起こす前段階の所作(しょ
 さ、ふるまい)をしている」・・となった・・
  その所作=ビッグバンを起こす前段階があるのだと・・
  (その所作をしたのは佛なのだろう・・)
  すると・・キリスト教は臆面もなく・・その前段階の
 初めが「ビッグバンだ」と言い出した・・
  今、その状況にある・・が・・??
  ならば、その前段階の前の状態は何なのか?・・と問
 えば・・、
  その前段階の前の状態は・・「時間さえない時代」な
 ので「遡ることは不可能な時代」と逃げた・・??
  それにしても、キリスト教は無理筋の論理を展開する
 ・・??
  ビッグバンは、Big Bangで、大爆発の意味・・、
  大爆発の「前段階の前」は、Big Bang(ビッグバン)
 ではない。
  ビッグバンという大爆発の大膨張があり、後に、宇宙
 の星々となる星間物質が作られた。
  キリスト教の神が創ったという物は、「この宇宙の大
 膨張(大爆発)のビッグバンの時に作られている」とし
 なければ説明はつかないのだが・・??
  それ故、その「前段階の前」に持って行っては、キリ
 スト教聖書に書いてあることと違って来る・・食い違っ
 てしまう。
  キリスト教の神は、6日間、せっせせっせと物を創った・・
 疲れたので7日目に休んだ・・、
  しかし、これも・・おかしい?? 
  ビッグバンは「6日間もかかっていない」・・一瞬だ・・
 だから、Bang(バン)で爆発・・ここも、キリスト教の
 聖書に書いてある通りではない・・
  キリスト教は、最初、「これだ}と乗っかったのは良
 かったが、そうは問屋が卸さない・・キリスト教の筋通
 りにはいかない・・
  キリスト教聖書の話は「作り話」となっている・・昔
 の人の「ただの想像なのだ」・・
  「無謬(むびゅう、キリスト教の神は、絶対、間違い
 はしない)だ」と、屋上屋を重ねる嘘を言う結果となる。
  キリスト教は、必死にもがいて、物質もできていない
 「前段階の前」をビッグバンだと言い、バンでも何でも
 ない段階をバンだと言った。
  また、キリスト教の神が言うような物は、ビッグバン
 で・・宇宙に物質が出来たからと言ったって、すぐに、
 そのキリスト教の神が言う様な物質が出来たわけではな
 い・・
  キリスト教の神は、「創った」「創った」と言ったっ
 て、そんなにすぐに出来る訳のないことを言っている・・
 「ここも嘘だ」と分かる。
  そして・・
  宇宙の終焉(しゅうえん)について・・
  宇宙進化の最終段階の議論に、様々な科学理論が存在
 して、その期限が『有限だ』と言う説だったり、『無限
 だ』という説・・その両方がある。
  宇宙の起源は、また、終焉は・・未確定だらけだ・・
  その終焉の一つが、開いた宇宙は、わずかに減速しな
 がらも永遠に膨張をし続け、熱的死を迎える・・という
 「開いた宇宙の熱的死」・・という終焉の形・・と・・、
  やがて、星間ガスは尽きて、新たな星形成は起こらな
 くなるという「星形成の停止説」・・、
  超巨大ブラックホールが、宇宙に散在した状態で、互
 いに宇宙膨張で離れていくという「ブラックホール成長
 説」・・、
  そして、ブラックホールの温度が外界よりも高い場合
 には、放射を出して蒸発して行くという「ブラックホー
 ル蒸発説」・・、
  そのブラックホールが総べて蒸発した後に、光子エネ
 ルギーが非常に低く、光子から再び物質粒子が生成する
 事はないという「放射のみの宇宙説」・・、
  大統一理論が正しいとして、陽子が崩壊するという「
 陽子崩壊説」・・、
  ビックバンがあるなら、その逆もあるという「ビッグ
 クランチ説」・・
  正の宇宙定数が、「宇宙膨張を加速」している可能性
 が発見され、それなら、ありとあらゆる物理的構造が、
 いずれ素粒子にまでバラバラになってしまい、かくして、
 宇宙は、永遠に加速しながらお互いから遠ざかる素粒子
 だけになってしまうという「素粒子だけ説」・・など・・
 実態は未定・・
.
46億年前、太陽系が形成され始めた。
  太陽は、過去の超新星爆発で散らばった星間物質がふ
 たたび集まって形成された星と考えられている。
.
45億4000万年前、地球が誕生した。
  太陽系の隕石や月の岩石の生成年代から、この頃、原
 始地球が形成されたと考えられている。
  地球が形成された位置は、後に、生命を育むことがで
 きる液体の水を保持することができるハビタブルゾーン
 に位置していた。
.
44億年前、地球最古の岩石鉱物ができた。
  西オーストラリア州のジャック・ヒルズで発見された
 ジルコン粒子のうち最古の物(44億400万±800万年前)
.
40億年前、原始海洋ができた。
  花崗岩(カナダ北部のアカスタ片麻岩)ができた。
  プレートができた。
  この海洋は、原始大気に含まれていた水蒸気が、火山
 からの過剰な噴出と温度低下によって凝結して、雨とし
 て降り注いで形成されたものであった。
.
40億年前、この頃、原始生命が誕生したと考えられている。
.
38億年前、現在、知られている最古の堆積岩が現れる。
  堆積作用があったことから、この頃には、海が存在し
 ていたと考えられている。
.
38億年前、真正細菌(バクテリア)と古細菌(アーキア)
 が出現した(共通祖先)
  共通祖先に近い原始的な生物は好熱性を示すものが多
 く見られる。
.
35億年前、生物活動の化石証拠
  地球上での最古の化石(西オーストラリア・ピルパラ
 地域からのバクテリアの化石)
  メタン生成の痕跡。
.
32億年前、光合成をする生物が現れる。
  藍藻(シアノバクテリア)。
  ストロマトライトは、藍藻(シアノバクテリア)の活
 動で形成された岩石。
  32億年前までには、光合成をする生物が現れ、海中に
 酸素を供給しはじめた。
  二酸化炭素光合成を行う生物が誕生すると、それらは
 二酸化炭素を酸素に変換するようになる。
  さらに、二酸化炭素が生物の体内に有機物として蓄積
 されるようになり(炭素固定)、長い時間をかけて過剰
 な炭素は化石燃料、生物の殻からできる石灰岩などの堆
 積岩といった形で固定される。
.
27億年前、シアノバクテリアが大量発生。
  酸素の供給量が増加。
.
25億年前、縞状鉄鉱層が形成される。
  シアノバクテリアの活動で海中の酸素量が増加し、海
 中の2価の鉄イオンが3価鉄に酸化して沈殿したため形成
 された。
  縞状鉄鉱層の形成が、およそ19億年前まで続き、これ
 以後は形成されなくなる。
.
24億年前、現在分かっている最古の氷期(ヒューロニアン
 氷期、~22億年前)
.
22億2000年前、マクガニン氷河時代(全球凍結)
.
21億年前、ミトコンドリア、葉緑体等に相当する生物と共
 生した真核生物の出現。
.
20億年前、大気中の酸素の増加。
  酸素は初期の生物の大量絶滅と酸素を効果的に利用し
 た生物のさらなる進化を導いた。
  海中の鉄イオン濃度が低下し、海中の鉄イオンが酸化
 し尽くされると縞状鉄鉱層の形成も停止し、余剰となっ
 た海中の酸素が大気中にも多く供給されるようになった。
  大気中の酸素は紫外線と反応しオゾンをつくった。
  オゾン層は、地表に到達するDNAを破壊する有害な紫外
 線が減少させ、生物が陸上にあがる環境が整えられた。
.
20億年前、最初の超大陸(ヌーナ大陸)出現か?(~19億年
 前)
  大陸移動説によれば、大陸は、数億年程度の周期で離
 散集合を繰り返していると考えられ、この頃、ヌーナ大
 陸と名づけられた超大陸が出現したと考えられている。
.
20億年前、酸素濃度が、現代の1/100以上のレベルとなり
 大きくは増加しなかった(~10億年前)
.
10億年前、ロディニア大陸誕生(~7億年前)
.
10億年前、この頃、多細胞生物が出現したと考えられてい
 る(~6億年前)
  多細胞生物は原口 (生物学)の獲得により強力な捕食能
 を有するに至った。
.
8億5000万年前、この頃の1年は約435日。
.
8億年前、大規模な氷河時代であったとされる(~6億年前)
.
7億年前、スターチアン氷河時代(全球凍結)
.
6億5000年前、マリノアン氷河時代(全球凍結)
.
6億年前、酸素濃度が現代の水準に近づく。
.
6億年前、エディアカラ生物群(~5億5000万年前)
  大型の軟体性の生物群であるエディアカラ生物群は、
 地球全体が氷に覆われていた時期(スノーボールアース)
 の直後に出現し、その大部分がカンブリア紀の始まる前
 に絶滅した。
.
6億年前、ゴンドワナ大陸がロディニア大陸から分裂。
.
5億4200万年前、生命の多様化、カンブリア爆発(~5億3000
 万年前)
  カンブリア爆発と呼ばれる生物の多様化が起こる。
  突如として脊椎動物をはじめとする今日見られる動物
 界のほとんどの門 (分類学) が出そろった現象。
  この頃から多くの化石が発見されるようになる。
.
5億3000万年前、 バージェス動物群
  三葉虫などの生物が現れる。
.
5億年前、二酸化炭素の濃度は現代の20倍程度(~4億年前)
.
4億6000万年前、一時的な氷河期(アンデス-サハラ氷期)
 (~4億3000万年前)
.
4億3000万年前、生物の大量絶滅(オルドビス紀末)
  6000光年以内で起こった超新星爆発によるガンマ線バ
 ースト仮説。
.
4億2000万年前、植物の上陸
.
4億年前、節足動物の上陸。
.
4億年前、アンモナイトが現れる。
.
3億6000万年前、生物の大量絶滅(デボン紀後期)
  寒冷化と海洋無酸素事変(海水中の酸素欠乏状態)の
 発生。
.
3億6000万年前、温暖期
  氷河の消滅。
  この頃、大森林が各地に形成され、石炭の元になった
 とされる(石炭紀)
  石炭の原料が地表に積もる。
  光合成により二酸化炭素が減少し、温室効果が減少し、
 寒冷化に向かい酸素濃度が増える。
.
3億6000万年前、脊椎動物(両生類)の上陸
.
3億5000万年前、大規模な氷河時代だったとされる(カルー
 氷期、~2億5000万年前)
.
3億年前、二酸化炭素濃度が現代の程度まで低下する。
  この前後寒冷化する。
  酸素濃度が最高の35%となる。
  これ以降、リグニンを含む樹木を分解できる菌類(白
 色腐朽菌)が登場し酸素濃度が徐々に減少に向い、二酸
 化炭素濃度は増加に向かう。
.
3億年前、昆虫が拡大。
.
3億年前、爬虫類の出現
.
2億5000万年前頃、ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シ
 ベリア大陸などすべての大陸が次々と衝突したことによ
 ってパンゲア大陸が誕生した。
.
2億5000万年前、生物の大量絶滅(ペルム紀)
  地球史の中で何度か生じた生物の大量絶滅の中で最大。
  海生生物のうちの95%~96%、全ての生物種で見ても
 90%~95%が絶滅したとされる。
  メタンハイドレートが、大量に気化し、酸素濃度が著
 しく低下した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)585E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)585E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年7月、奥羽本線の青森駅~碇ヶ関駅間が着工された。
1893年7月、関西鉄道が、四日市駅~富田駅間の建設費の都
 合で四日市駅~桑名駅間に変更認可を受けて着工した。
  1893年6月15日、関西鉄道(現:関西本線)が、桑名駅
   ~名古屋駅間の免許を取得する。
  1894年7月5日、四日市駅~桑名仮停車場間(11.87km)
   が延伸開業し、富田駅と桑名仮停車場が開業した。
1893年8月1日、鉄道庁第三部出納事務所を長野に設置した。
1893年8月5日、日本鉄道が、水戸駅~岩沼駅間鉄道と川口
 から水戸に連絡する60マイルの鉄道建設を出願した。
  翌・1894年2月15日に仮免状が下付)された。
1893年8月5日、日本鉄道会社が、上野駅~秋葉原駅間の貨
 物線高架改築、および、新橋に至る高架線架設について
 出願した。
  のち、出願猶予を申請し再申請はなされずに終わった。
  (参考)日本鉄道会社:日本最初の民間鉄道会社で・・、
     1881年に創設され、東北地方の中心的鉄道とな
     った。
      1906年、国有化した。
1893年8月6日、八王子中心街で大火
  遊廓「新万楼」から出火し、八王子町の八日町・本町
 の702戸を焼く大火が発生した。
  大火後、甲州街道沿い横山町等に散在していた遊廓を
 元横山町妙薬寺裏の田地に移した。
  現在でも、遊郭が立ち並んでいた通りは、片側1車線、
 幅員18.43メートルの幅広い道路として、かつての名残
 を見せている。
1893年8月11日、鉄道庁が、官制を改正した。
  線路調査のための増員。
1893年8月12日、文部省が、祝日大祭日唱歌を公布した。
  学校の祝日大祭日の儀式に用いる唱歌8編を定めた。
  そして、文部省告示で、「君が代」を儀式用唱歌に指
 定した。
  「小学校祝祭日大祭儀式規定」の公布により、小学校
 の祝日・大祭日の唱歌として8曲が定められた。
  公示されたのは「君が代」「勅語奉答」「一月一日」
 「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」
  (参考)勅語奉答:作詞・勝安芳(勝海舟)
           作曲・小山作之助
   あやに畏(かしこ)き天皇(すめらぎ)の
   あやに尊(とうと)き天皇の.
   あやに尊く畏くも 下し賜へり大勅語(おおみこと)
   是(これ)ぞめでたき日の本(ひのもと)の
   國の教(おし)えの基(もとい)なる
   是ぞめでたき日の本の 人の教えの鑑(かがみ)なる
   あやに畏き天皇の 勅語(みこと)のままに勤(いそ
  し)みて
   あやに尊き天皇の 大御心(おおみごころ)に答へ
  まつらん
    https://www.youtube.com/watch?v=l6fVquDNhOY
  (参考)文部省は、1891年に、小学校に祝祭日のお祝
     いの儀式を執り行うよう通達し、その儀式のと
     きに歌う歌を、1893年8月に選定し、『祝日大祭
     日唱歌』を公布した。
      この儀式唱歌の中に、知られている歌「年の
     はじめの ためしとて」で始まる『一月一日』
     がある。
      また、『紀元節』『天長節』が含まれ・・、
      昭和の時代に入ると、明治天皇陛下の遺徳を
     たたえる明治節(11月3日)が新設された。
      明治以来の四方節(1月1日)、紀元節、天長
     節(昭和天皇陛下の誕生日、4月29日)と共に四
     大節(しだいせつ)としてお祝いされた。
      四大節の祝日には、家の門柱には国旗が掲げ
     られ、小学生はよそ行きの洋服を着て登校し、
      儀式では、御影(天皇・皇后両陛下の御写真)
     開扉、君が代斉唱(2回)、御真影(ごしんえい、
     天皇陛下・皇后陛下の御写真)に敬礼して教育
     勅語の奉読をし・・、
      校長の訓話を聞いて、祝日の唱歌を歌った。
      そして、御影閉扉で式が終わった。
      式が終わると、生徒は、担任の先生から紅白
     のお菓子をもらって下校した。
1893年8月12日、第1期長崎港湾改良工事が落成した。
  起工は1882年で、膨大な支出のため工事は中止という
 形での落成となった。
  工事費は31万1261円で、維持管理が不充分であった長
 崎港は、港内の海底が河川より流入した土砂で浅くなり、
 船舶に出入りに支障をきたしていた。
  大規模な浚渫・砂防・中島川変流工事をした。
  中島川は、江戸町と出島の間に迂回させ、西浜町と築
 町、築町と出島が陸続きになった。
  長崎港沿岸を浚渫した土砂で大波止から大黒町にかけ
 ての沿岸を埋立て・・、
  中島川筋3642坪、江戸町岸傍715坪、出島新橋傍1050坪、
 大波止沿岸643坪、突堤傍1906坪の計7956坪・・、
  また、海岸線では、市街地より北部への連絡道路とし
 て時津街道が埋立されて整備された。
  また、この時、長崎街道の日見峠切通と茂木街道の拡
 幅が行なわれた。
  この近代化政策で、市街地外とをつなぐ連絡道路が整
 備された。
1893年8月30日、紀和鉄道が、五条駅から橋本駅を経て和歌
 山駅に至る鉄道建設の免許を申請した。
  1894年7月3日、仮免状が下付され
  1896年4月30日、免許状が下付された。
1893年8月、全国に赤痢が大流行した。
  赤痢で41,284人が死亡した。
  春、赤痢が神奈川県下に流行する。
  四国災害アーカイブスに、この年、6月25日~8月4日ま
 で降雨なく、旱害・・とある。
  1893年~1894年に、西日本で猛威を振るった赤痢の記
 述もある。
  この頃、流行を抑えるため、警察衛生と自治衛生制度
 が導入された。
  警察衛生は、伝染病の蔓延を防ぐために、患者を避病
 院に隔離し、その地域の交通を遮断し、汚染地域の人や
 生鮮食品等の移動を禁止し、劇場などを閉鎖し、集会を
 禁止した。
  その結果、交通の遮断もあり、物価が高騰、ならびに、
 魚介類などの販売禁止で生活難となった。
  工場が閉鎖などになる場合もあった。
  封鎖は、患者住居の一角を警察によって封鎖し、通行
 が制限され、道路の真ん中に塀を立てて、患者の発生し
 た地区を封鎖し、出入口で警察官が立ち番をした。
  地域の衛生委員が中心となって、その家の周囲が石炭
 酸などで、徹底的に消毒された。
  患者は、町ごとに作られた避病院に隔離し・・、
  十分な治療法が確立していない当時の避病院の悲惨さ
 は、この流行から13年後に書かれたベルツの日記にも登
 場する・・、
  「400人の患者に、無経験の医者を含めて8人しかいな
 い、(やむなく)患者の扱いは馬以下の様だった」
  医療の確立されていない当時・・伝染性の強い病気の
 流行は、悲惨という状況で・・このべルツの見た避病院
 は、現在も継続して、存在していて、その病院正面入り
 口の道を挟んだ向かいには葬儀屋が店を構えていた。
1893年8月、関西鉄道が、桑名駅~名古屋駅間を着工した。
  同区間に架設した揖斐川橋梁には、わが国ではじめて
 橋脚の沈井に鉄製楕円筒を使用した。
  (参考)沈井:ちんせん、オープンケーソン、
     防波堤などの水中構造物として使用され、ある
     いは、地下構造物を構築する際に用いられるコ
     ンクリート製、又は、鋼製の大型の箱のこと。
      軟弱地盤や地下水の多い地盤を施工すると、
     水や泥が作業箇所に流入し掘削作業が非常に困
     難になる。
1893年8月、阪鶴鉄道が、大阪駅~舞鶴駅間の鉄道建設を
 出願した。
  12月に、計画路線を延長して福知山駅~和田山駅~八
 鹿駅間を追加出願した。
1893年9月4日、ビアトリクス・ポターが、ピーターラビッ
 ト(子ども向けの絵本)の話を書き送った。
  内容:イタズラ好きのピーターラビットが、マグレガ
 ーさんの庭でいたずらをし、見つかって追われるが、結
 局、脱出することができたという・・内容・・、
  4500万部も売れたオールタイム・ベストセラー作品。
1893年9月7日 房総鉄道の蘇我駅~大網駅間の建設の免許状
 が下付された。
1893年9月8日、加能鉄道が、津幡駅~七尾駅間の鉄道建設
 の願書を、石川県知事に提出した。
  1896年4月30日、免許状が下付された。
1893年9月10日、官営富岡製糸場が、三井高保に払い下げら
 れた。
  この群馬県の富岡製糸場は、2014年に、世界遺産に認
 定され・・、続いて・・、
  2014年の年末に、3棟の建物が国宝に指定された。
  明治政府は、殖産興業で、生糸輸出での貿易や、産業
 振興のために、官営で工場をスタートした。
  この製糸場も、明治時代の後半、一時期、三井傘下に
 あって大きな発展をした。
  この富岡製糸場を払い下げられた三井は、官営の時代
 には、生産効率が上がらなくて赤字経営を続けていた状
 態を・・、
  工女の人々の救済や、失業救済もあって、旧士族を優
 先していた募集形態も改善し、新技術を磨くことを、当
 然のこととして優先した。
  そして、給料も出来高制にし、新しい機械も導入する
 などして赤字経営から脱却した。
  操業は、1987年(昭和62年)に停止し、115年の歴史を
 刻んだ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:一番長い歴史を持つ人類・・日本人の祖先である縄文人が、
   現世人類の中で、最も古い時代に分岐した集団であると分かった。
    そして、グローバルだと財布を一緒に出来るのか??
.
紀元前3万年~紀元前2万年、日本人の祖先である縄文人が、
 アフリカから東アジアや東南アジアに移動してきた現世
 人類の中で、最も古い2万年~3万年前に分岐した集団と
 見られることが分かった。
.
紀元前1500年頃、多数のイラン人が、イラン高原に移住し
 て来た。
  このイラン人は、インド人やヨーロッパの白人と同じ
 アーリア系の民族。
.
紀元前1200年、ヘブライ人(セム系ユダヤ人、キリスト教を
 作る)は、ラクダを家畜化して、この効率化によって勢力
 を大きく伸ばした。
  それまで、ヘブライ人が、運搬用として飼っていた家
 畜はロバだった。
  ロバは、1日以上、水を飲まないと病気になった。
  ラクダは、乾燥と高温に強く、砂漠で何日か水を飲ま
 なくても元気に移動ができた。
  このラクダを手に入れたヘブライ人は、乾燥地で遠距
 離の貿易ができるようになった。
  ラクダの隊商で富を得たヘブライ人は、カナン(パレ
 スチナ)の各地に都市を営んだ。
  そして、ヘブライ王国が作られていく。
.
紀元前1020年、ヘブライ王国の「サウル」が、最初の国王
 となった・・そして・・、
  紀元前1004年~紀元前965年の治世の『ダビデ』が王と
 なり、ペリシテ人を破ってエルサレムを王都とした・・
 次いで・・
  紀元前965年~紀元前932年の治世の『ソロモン』が王
 となった。
  ソロモンは、官僚組織を整(とと)えて、ヘブライ王
 国を全盛に導いた。
  また、ソロモンは、カナン(パレスチナ)の各地の商
 業都市を地方行政の中心とした。
  そして、ヘブライ人の貿易商を統制して、ヘブライ王
 国を商業国家にして全盛にした。
  ヘブライ商人は、この時代、アラビア半島、エジプト、
 メソポタミア、エチオピアなどの広い地域で活躍した。
  ソロモン王とアラビア南部のシバ王国の女王との交流
 の話は有名。
  ソロモンは、国を栄えさせたが、非人道的行為も行な
 い国民の恨(うら)みを買っていた。
  紀元前932年に、ソロモン王が死ぬと、ヘブライ人は、
 二派に分裂し、国も二つに分裂した。
  ヘブライ人の10部族が、ソロモン王に反旗を翻し、『
 ヤロプアム』を王に立てて、サマリアを都とする『イス
 ラエル王国』を作った。
  残りの2部族「ユダ族」と「ベニヤミン族」が、ソロモ
 ンの子の『レハブアム』に付いてエルサレムの地に『ユ
 ダ王国』を立てた(血筋からは、こちらが直系)
.
紀元前1000年、今から3000年前の縄文人は・・?
  この時代の縄文人の全遺伝情報(ゲノム)の解析に、
 総合研究大学院が成功し・・、
  日本人のDNAは、縄文人から12%を受け継いでいる
 ことが分かった。
  また、アイヌ人が縄文人に最も近く、次に琉球人が、
 そして、本土のヤマト人。
  また、縄文人は、アフリカから東アジアや東南アジア
 に移動してきた現世人類の中で、最も古い2万年~3万年
 前に分岐した集団と見られることも分かった。
  縄文人が、日本列島で独自の進化と遂げたと言える。
   (読売新聞、2016年9月2日より)
.
紀元前800年頃、メソポタミア、イラン高原、中央アジアな
 どの乾燥地帯に「カナート」という灌漑施設が、急速に
 広まった。
  このことにより、多くのオアシスが開発された。
  カナートは地下水路で、オアシスからその地下水路で、
 乾燥地の畑に水が供給された。
  食糧の増産・確保ができ、イラン高原、アラビア半島
 などで人口が増加した。
  そして、イラン高原は、有力な交易路となって栄えた。
  また、このオアシス都市群を支配する強国が現れた。
.
紀元前9世紀、預言者と呼ばれるユダヤ教のラビが現れた。
  (参考)ラビ:ユダヤ教の指導者で、律法に精通した
     宗教的指導者の敬称。
      ラビは、ヘブライ語から来た言葉で、もとも
     とは「わが師」「わが主人」という意味。
  ヘブライ王国は、南北に分裂した後、政治は乱れ、信
 仰も乱れ、最高神のヤハウェも軽視された。
  勝手な生き方をする有力者も現れた。
  紀元前9世紀以降、預言者と呼ばれるラビが現れた。
.
紀元前722年、ヘブライ人のイスラエル王国が、アッシリア
 に滅ぼされた。
.
紀元前8世紀、イラン人が、古くからイラン高原に居たエラ
 ム人を追い出し、オアシスに頼る生活をしていた都市群
 を制圧した。
  そして、このイラン人は、紀元前8世紀から盛んにカナ
 ート(地下灌漑水路)を開発し、オアシスの水を広く活
 用して勢力を拡大した。
.
紀元前625年、イラン人のメディア王国が建国された。
  メディアは、やがて、イランと小アジア(トルコ)を
 支配する大国となり、インドとメソポタミアとの間の貿
 易で大きな利益を上げた。
.
紀元前586年、メディア王国が、メソポタミアに本拠がある
 新バビロニアへの圧力を高めた。
.
紀元前586年、ヘブライ人のユダ王国が滅亡した。
  新バビロニアのネブカドネザル2世の侵攻にあって、ユ
 ダ王国が滅亡した。
  この新バビロニアは、エルサレム神殿を破壊した。
  ユダ王国の人々は、新バビロニアの首都であるバビロ
 ンへ連れて行かれた(バビロン捕囚・ほしゅう)
  苦難の状況を強いられ、元ユダ王国の人々は、それま
 でのヤハウェ信仰をユダヤ教へと変えて行った。
.
紀元前537年、この年の初め頃、イラン高原に本拠を置く
 アケメネス朝ペルシャ王キュロス2世は、新バビロニア
 を滅ぼした時、ヘブライ人のエルサレム帰還を許した。
  そして、捕らわれていたヘブライ人へ、エルサレムに
 帰還して神殿を再建することを許す布告を出した。
  総督ゼルバベルと大祭司エシュアに導かれた「流刑囚」
 と「奴隷」や「歌うたい」たちがエルサレムへ戻った。
.
紀元前520年、エルサレム神殿の再建が始まった。
  紀元前515年に、神殿は完成した。
.
紀元前6世紀頃、ゾロアスター教が、イラン高原で活躍して
 いたゾロアスターによって作られた。
  ゾロアスター教は、善なる神と悪なる神との対立する
 世界観で作られている。
  このゾロアスター教の影響を受けたユダヤ教は、「終
 末の時に人間は報いを受ける」という教義を持ち、この
 教義を引き継いだキリスト教も、同じ終末論の教義とな
 った。
  ユダヤ教は、常に、オリエントやギリシャの影響を受
 けていた。
  そして、キリスト教は、その影響された教義によって
 構成された。
.
紀元前5世紀頃、この頃、ユダヤ教が成立した。
  ユダヤ教は、ユダヤ教の少し前にペルシャで成立した
 ゾロアスター教の影響を受け、「最後の審判」の終末論
 は、このゾロアスター教のもの。
.
紀元前333年、この時まで、ユダヤ人は、アケメネス朝ペル
 シャの支配を受けた。
  紀元前538年から205年間続いた。
.
紀元前63年、この時まで、ユダヤ人は、ギリシャ系のアレ
 キサンダーの帝国やセレウコス朝などの統治を受けた。
  そして、この年に、カナン(パレスチナ)の地は、ロ
 ーマ帝国の軍門に下り、ローマ領となった。
  民は、ローマ帝国の重税に苦しむこととなる・・そし
 て・・
  紀元6年、ローマの直轄領とされ、ローマ総督の支配下
   に置かれた・・そして・・、
  紀元63年、カナン野地の民は、苛酷なローマの支配に
   耐えかねて、大反抗の挙兵をした。
   エルサレムの城で1年半、戦ったが・・、
  紀元70年、敗北した。
   エルサレム神殿は破壊された・・そして・・、
  紀元73年、最後の戦いも終わり、カナン(パレスチナ)
   から追われた。
  ローマ帝国は、カナンの地名を「パレスチナ」に変え
 た。
  この「パレスチナ」の名の意味は、ヘブライ人より以
 前にカナンに居た民族「ペリシテ人」の地という意味だ
 った。
  つまり、ユダヤ人の地ではなく、パレスチナ人の地と
 いう意味だった。
  流浪のユダヤ人が発生した。
  この流浪の民には、大きく二つの流れがある・・、
  その一つが「アシュケナジ」という東欧系の人々で、
 イディシュ語(ドイツ語系)。
  もう一つが「スファルディ」の人々・・スペイン系ラ
 ディノ語。
  アシュケナジ系の人々は、紀元1世紀に、ローマ帝国支
 配下のガリア(現:フランス)に集まり住んだ。
  そして、ここから「ドイツ」「ポーランド」などへ広
 がった。
  スファルディの人々は、パレスチナに近い「小アジア
 (トルコ)」に定住し、後に、イスラム帝国が支配する
 「スペイン」などとアラブ圏に広がった。
.
紀元30年頃、イエスが刑死したとされている。
  イスラエルという国は、日本の九州くらいの大きさで、
 今・現代、この地を、パレスチナの方々と土地に対する
 争いが続いている。
  しかし、この地は、まだまだ多くの民族の方々が居る・・
 その様な地・・、
  イエスは、実在していたかが不明な人なのだが、イエ
 スが居たと言われる約2000年前にも、この地には、多く
 の民族の方々が居た。
  そして、この地・カナン(聖書で「乳と蜜の流れる地」
 と言われる狭い、そして、わずかな緑の地)を、多くの
 民族が取り合っていた。
  イエスは、父と共に大工をしていた。
  そして、多分、その父が亡くなったために・・、
  イエスは、父としていたその大工の仕事を止め、幼な
 じみ(馴染)の漁師をしていた仲間たちの数人と、エル
 サレムに出た。
  エルサレムへ行く前、イエスは、従姉妹(いとこ)の
 「洗礼者ヨハネ」の洗礼を受けた。
  そして、ほんのわずかな期間、この従姉妹の行なって
 いること学び、実行した(荒野での断食行)
  そして、洗礼者ヨハネから学んだ事と同じことを言い
 ながら、幼なじみたちと予言者をしようとエルサレムに
 出た。
  イエスの郷里の人が、「予言者稼業とは、うまいこと
 をやっているな」と、イエスに言ったように・・、
  「エルサレムでの予言者稼業は、一番儲かる良い仕事」
 だった。
  それ故に、同じ様なことをする人たちでエルサレムは
 満ちていた。
  エルサレムの町は予言者だらけだった。
  予言者には、公的な立場を持つ立派な身分を持つ人も
 居たが、イエスの様なにわか予言者は、「私的予言者」
 だった・・公的予言者にはなれなかった。
  イエスとその仲間たちは、にわか予言者グループを作
 って、エルサレムのあちこちで仕事を始めた。
  そして、結局、エルサレムの公的機関は、このにわか
 予言者たちを総べて処刑する。
  イエスの活動も・・1年~2年で終わった。
  当時の平均年齢を越えた・・晩年の30歳位の時から始
 めたことだった。
  (この当時の平均年齢は・・26歳~27歳くらいと言わ
 れている)
  イエスは、紀元前6年、または、紀元前4年頃に生まれ、
 紀元30年頃に刑死したとされている。
.
1130年10月18日、朱子(しゅし、1130年~1200年4月23日)
 が中国・福建省に生まれた。
  本名は朱熹(しゅき)で、朱子と尊称された。
  南宋の儒学者で、宋以降の中国、日本の思想界に圧倒
 的な影響を及ぼした。
  地方官としての治績にもみるべきものがあるが、本領
 は、あくまでも壮大な理気の説を基にしたその思想だっ
 た。
  朱子は、程顥、程頤、張載などの北宋道学を集大成し、
 宇宙論、人性論、道徳論のすべての領域をおおう理気の
 思想を完成させた。
  膨大な著作がある。
  『四書集註』 (19巻) 、『周易本義』 (10巻) 、『詩
 集伝』 (20巻) 、『朱子文集』 (100巻、続集 11巻、別
 集 10巻) 『朱子語類』 (140巻) など。
 (参考)朱子学:朱子が大成した儒学。
   格物致知を眼目とする実践道徳を唱えた。
   中国、南宋の朱子、あるいは朱子に代表される人々
  の学説。
   周敦頤 (しゅうとんい) 、程顥 (ていこう) 、程頤
   (ていい) 、張載 (ちょうさい) などの思想を、仏教
  や道教に触発されながら体系化したもので、宋以後の
  中国、朝鮮、日本の中核的思想となった。
   その思想は、万物の構成原質である「気」と、万物
  の理想的なあり方を示す「理」とを中心とする。
   天地、人性、道徳のすべての事象がこの理と気によ
  って説明される。
   それはまた、当時の士大夫の存在意義、その目指す
  方向を、宇宙論的規模での理論づけに成功したもので、
  それ故、この思想は、以後の士大夫社会に、常に、安
  定した力をもち続けた。
   朱子学は、中国では元(げん)以後、日本では江戸
  時代に官学となった。
   日本への流入は、俊仍 (しゅんじょう) に始るが、
  学派としての権威を確立したのは、江戸時代初期の藤
  原惺窩、林羅山からである。
   江戸時代の朱子学者としては、山崎闇斎、新井白石
  などが注目される。
   朱子学の合理的性格は、実証的精神、合理的思考を
  はぐくみ、幕末維新の西欧文化受容の下地を準備する
  ことになった。
 (参考)格物致知(かくぶつちち):物事の本質まで突
  き詰め(=格)て行って、知識を深める(=致)こと。
 (参考)致知(ちち):格致(かくち)とも略され・・、
  (1)朱子学で、知識をきわめて物事の道理に通じる
    こと。
  (2)陽明学で、本然の良知を明らかにして完全なも
    のとすること。
     良知を最大限に発動すること。→格物致知(かく
    ぶつちち)
   『礼記』大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、
  物格而知至」に由来し、儒学史上、さまざまな解釈が
  なされた。
   宋代以降の儒教(宋学)において『易経』説卦伝に
  由来する「窮理」(理を窮(きわ)め性(せい)を尽
  くし以て命(めい)に至る)と結びつけられ、事物の
  道理を追究することとして重要視された。
.
1878年、イギリスは、日本でも「アヘン(麻薬)」を売っ
 て利益を得ようとした。
  あれほど中国で人非人行為をしていたイギリス・・、
  中国で味を占めたイギリスは、日本でもそれをしよう
 とした。
  1878年、アヘンを密輸して来た。
  日本は、それを摘発した。
  イギリスは言った「アヘンは薬です」・・と・・、
  そして、イギリス商人を、治外法権を使って『無罪』
 とした。
  日本国民は怒った・・明治11年のことだった・・、
.
1942年9月9日、日本のアメリカ本土空襲
  「ルックアウト空襲」と言われた・・、
  この日、日本が、アメリカ本土を空襲した。
  日本の潜水艦に乗った日本軍機による空襲だった。
  1942年8月15日、帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)
 は横須賀を出港した。
  アリューシャン列島を通り・・、
  1942年9月7日、オレゴン州沖に到着した。
  零式小型水上偵察機は、天候の回復を待つため、沖合
 いで2日間、待機した・・そして・・、
  1942年9月9日、深夜、空襲の決行に移った。
  田上艦長ら搭乗員が見守る中を、藤田信雄飛曹長と奥
 田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は、76キロ焼夷弾
 2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立った。
  目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してか
 ら内陸へ進み、
  カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊
 の森林部に2個の焼夷弾を投下した。
  森林部は延焼した。
  アメリカ軍の地上からの砲撃も、戦闘機の迎撃もなく
 任務は遂行された。
  「伊25」へ帰還・・藤田機は空襲を終えて「伊25」へ
 の帰還すべく飛行中・・オレゴン州森林警備隊の隊員で
 あるハワード・ガードナーによって発見されている。
  そして、アメリカ陸軍に通報され、アメリカ陸軍航空
 隊のロッキードP-38戦闘機が迎撃に向かっている。
  しかし、防空体制の不備により発見はなされなかった。
  また、この突然の空襲で、アメリカ陸軍や警察が沿岸
 地域を徹底的に捜索した。
  藤田機の帰還後、「伊25」は、沿岸警備行動中の陸軍
 航空隊のロッキードA-29ハドソン哨戒爆撃機に発見され
 攻撃を受けた・・損害なし。
  2回目の空襲が・・、
  1942年9月29日、真夜中に決行された。
  藤田機は、同様に、76キロ爆弾2個を、再び、オレゴン
 州オーフォード近郊の森林部に投下し森林部を延焼させ、
 「伊25」へ帰還した。
  この2回目の空襲も、地上からの砲撃も戦闘機の迎撃
 もなかった・・任務遂行ができ、「伊25」に帰還した。
  「伊25」に、予備の爆弾があったが、アメリカ太平洋
 沿岸部の警備が厳しくなった。
  以後の空襲決行の取りやめを決定した。
  「伊25」は、横須賀の母港へ帰還途中に・・
  1942年10月4日、及び、10月6日、アメリカタンカー(
 SSカムデンとSSラリー・ドヘニー)を1隻ずつ撃沈した。
  そして、太平洋を横断して母港の横須賀へと帰還する
 が・・、
  1942年10月11日の帰還中、ウラジオストクからパナマ
 運河経由でムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦(
 L-16)を、「アメリカ海軍の潜水艦」として撃沈した。
  (日ソ間に日ソ中立条約が締結されており、戦争状態
 にはなかった)
  アメリカ側の被害と反応については・・、サンフラン
 シスコ市内に張り出されたシェルターへの避難案内と、
 日系アメリカ人に対する強制退去命令があった。
  この日本の空襲目的は、最初から人的被害を出すこと
 を目的とした空襲でなかった(アメリカ軍人や民間人に
 死者は発生しなかった)
  また、爆撃前日の雨により、空襲による森林の延焼は、
 本格的な消火活動が行われることなく、自然消火した。
  空襲による直接的被害は少ない。
  しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚
 いたアメリカ政府は・・、
  太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍
 の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与
 えないため・・「軍民に厳重な緘口令を敷き」この空襲
 を極秘扱いとした。
  しかし、まもなくマスコミに知れ渡り、当時、太平洋
 戦線で負け続きであったアメリカ国民を大いに怯(おび)
 えさせた。
  この空襲以降、アメリカ西海岸地域を問わず、アメリ
 カの全ての沿岸部における哨戒活動、及び、防空が、厳
 重なものとなった。
  また、サンフランシスコなどの西海岸地域の大都市に、
 日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が、急
 遽、設置された。
  そして、この空襲作戦の過程において、日本人移民や、
 日系アメリカ人の関与や協力などが一切ない事は明らか
 であるにもかかわらず、有色人種蔑視観の強い、人種差
 別的指向を持っていたフランクリン・ルーズベルト大統
 領の命令によって・・、
  1942年2月から、ハワイを除くアメリカ全土で行われて
 いた日系人の強制収容を正当化する「口実とされた」。
  後日談・・
  1962年の終戦後・・、
  藤田飛曹長は、オレゴン州ブルッキングス市から招待
 を受けた。
  そして、市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲し
 た敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の
 称号を贈られた。
  また、その時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼
 夷弾の破片を贈られた。
  その破片から、かすかに火薬の臭いがしたという。
  また、藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀
 をブルッキングス市に寄贈した。
  この招待があった時、藤田飛曹長は、外務省から伝え
 られたが、その招待の趣旨が知らされていなかったため、
 現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれ
 ない」と思っていた。
  寄贈した軍刀は、戦後、密かに所持していたもので、
 収監されそうになった時、自決するため、荷物に忍ばせ
 て持参したものだった。
  その後、藤田飛曹長は、同市に植林を行ったり、同市
 市民を、日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費
 やした。
  この様な友好の貢献に対して・・後に、ロナルド・レ
 ーガン大統領は、ホワイトハウスに掲揚されていた星条
 旗を藤田氏へ贈った。
  この星条旗と爆弾片は、茨城県土浦市の「まちかど蔵
 野村」に保存され、公開されている。
  1995年12月29日、このエピソードが、この日の放送の
 『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で
 取り上げられ、藤田飛曹長本人も出演した。
  このエピソードは、日本では余り知られる事がなかっ
 たため、ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も、
 「この話は全く知らなかった」と発言している。
  (参考資料)「NEWSポストセブン 2011.12.08 07:00」
  より・・
  米本土爆撃した日本人へ爆撃地から『敬意表したい』
 と招待状・・、
  12月8日は、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃し、太平洋
 戦争が開始してから70年目の日である。
  そして 1942年6月、日本はミッドウェー海戦で敗退。
  戦局は大きく米国側に傾きつつあった。
  そこで、起死回生の一撃を見舞うという意図のもとに
 計画されたのが米本土爆撃計画だった。
  同年7月、伊号25潜水艦の藤田信雄飛曹長が海軍省に呼
 ばれ、作戦を指示された。
  同年9月9日、米西海岸沖600カイリの地点からパイロッ
 トの藤田を乗せた零式小型水偵が、オレゴンに向けて飛
 び立った。
  520個の小型焼夷弾が詰められた76キロ爆弾2個を投下、
 オレゴンの森を火に包んだ。
  歴史上初めて、米国本土が航空機によって爆撃された
 瞬間だった。
  戦後の1962年5月、藤田の元に招待状が届く。
  米国は、オレゴン州ブルッキングス市からのものだっ
 た。
  「貴方の勇気と愛国心に敬意を表したい」と書かれて
 いた。
  爆撃したその地の人々から、なぜ招待されるのか。
  日本で評価されなかった自分が、どうして敵国から敬
 意を表されるのか。
  藤田は、「万が一」の時に備え、伝家の日本刀を荷物
 に忍ばせた。
  いざとなったらこれで割腹自殺する覚悟だった。
  だがそれは杞憂だった。
  ブルッキングス市民は、「米国本土を爆撃したただひ
 とりのサムライ」と心から称えていたのだ。
  藤田は感激し、罪滅ぼしとして、持参した日本刀を寄
 贈した。
  それから36年後の1998年10月、藤田の遺族が同市を訪
 れた。
  1年前に亡くなった藤田の遺灰を、「アメリカ大陸が
 唯一日本機に空爆された地点」と書かれた標識の袂に埋
 めるためだった。
  遺族らが歓迎を受けたのは言うまでもない。
   2011年12月28日号
.
1981年、中国の文化大革命は・・完全な誤り・・
  中国の共産党中央委員会が、毛沢東の死後の1981年、
 文化大革命は、毛沢東による「完全な誤り」と断じた『
 歴史決議』を行なった。
  文化大革命は、鉄鋼生産でイギリスを追い越すと号令
 して多数の餓死者を出した。
  「大躍進」で威信が低下した毛沢東が、奪権目的で発
 動したとされる。
  江青ら4人で組織した「中央文化革命小組」を中心に、
 若者らによる伝統的な権威や道徳の否定が進められ、高
 給幹部や知識人らの迫害、虐殺や冤罪(えんざい)も相
 次いだ。
  1億人が被害に遭(あ)い、死者は1000万人以上に上る
 ともいわれる。
  今・現在、習政権は、贈収賄などの摘発だとして、多
 くの人々を収監しているが、この文化大革命と同じ行為
 だという指摘もある・・政敵の逮捕・監禁・・?
.
1994年、北朝鮮の核兵器開発・・北朝鮮は何度もだました。
  1994年の合意は、北朝鮮が核爆弾の原料となるプルト
 ニウムの抽出が容易な黒鉛減速炉の建設の凍結、及び、
 運転の凍結する・・だった。
  その見返りに、アメリカは、核兵器への転用が難しい
 軽水炉を提供し、軽水炉完成まで年間50万トンの重油を
 提供する約束だった。
  しかし、北朝鮮は・・秘密裏に核開発を継続した。
  2002年10月、ウラン濃縮計画を自ら公表したことで、
 合意事項が守られていないことがはっきりした・・
  合意に基づくすべての協力は、当然、打ち切られ、ス
 トップした。
.
2007年4月21日、第二次世界大戦の原因を作ったアメリカが
 立証された。
  フライング・タイガー戦闘機部隊(第二次世界大戦の
 開始前に、中国で日本と戦っていた秘密の戦闘機部隊)
 のエドワード元大佐が、この日・2007年4月21日に、中国
 を訪問し、この時に、次のことも明らかにした。
  『アメリカは、日本が真珠湾攻撃をする前に、中国で、
 対日参戦していた』。
  アメリカ正規軍による日本本土計画にも、アメリカ大
 統領のルーズベルトは署名したりもしていた。
  (参考)フライング・タイガー:日中戦争時に、中国
     国民党軍(蒋介石軍)を支援したアメリカ合衆
     国の戦闘機部隊。
      追及され、とうとう・・アメリカは義勇軍だ
     と卑劣にも屋上屋を重ねる様な嘘を言った・・
     が・・、
      戦闘機(100機)や、パイロットはアメリカ政
     府が準備し、配備しており、実質、義勇軍の名
     を借りたアメリカの対日戦闘部隊だった。
      そして、次についた嘘が、戦ったのは真珠湾
     攻撃後だと言い出した。
      初めは「ボランティア」と言い、大統領の正
     式な命令書の証拠が発見され、出ると、この様
     な言い方をする卑劣なアメリカとなっている。
      南京事件の日中戦争などにも、アメリカはれ
     っきと参戦していて、真珠湾攻撃の、大分、以
     前からアメリカと日本は交戦していた。
.
2008年12月、北朝鮮の核兵器開発・・北朝鮮は何度もだま
 した。
  2005年、北朝鮮と合意した・・それは、・・
  国際社会による経済・エネルギー支援の提案に対して、
 北朝鮮は、第一段階として、寧辺(よんびょん)の核施
 設の「停止・封印」、
  第二段階で、核施設の「無能力化」とすべての核計画
 の「申告」、
  第三段階で、核施設や核物質の「解体・廃棄」を約束
 した。
  しかし、2008年12月の6カ国協議で、プルトニウムの生
 産量確認や、核施設の検証開始時期をめぐって交渉が決
 裂した。
  政権交代を約1ヶ月後に控えていたブッシュ政権は、拙
 速(せっそく)な対応を繰り返した・・
  それが、北朝鮮に核・ミサイル開発の時間を与えてし
 まい、時間稼ぎを許してしまった。
.
2015年、夢から覚めたギリシャ・・こんな事は、すでに、
 3年前の2012年に起きていたこと・・??
  「命が救われるから」と、手術をしたら死んでしまっ
 た・・ギリシャは、まさに、その様な状態になってしま
 った。
  『グローバル化が良いのだ』と・・、
  だから、EUを作ればいいのだ・・と・・
  その欧州連合に入りなさい・・と・・、
  ギリシャの古代の文明がヨーロッパの根幹にあり、欧
 州連合に加わってもらいたい・・と・・、
  そんなことを言われ・・そして、加わって・・欧州通
 貨のユーロが使えるようになって・・、
  世界から・・物が買いやすくなって・・、
  また、ギリシャへドンドン投資がなされ・・、
  金が流入し・・
  ギリシャ経済が浮上し・・また、浮上させようとされ
 た・・
  ・・が、EUに加入するときには、ギリシャは、既に
 大赤字だった・・
  しかし・・その実態は隠された・・、
  それは、EUが一緒になって隠していて・・
  EU諸国自身も・・その様な後ろめたい国ばかりだっ
 た・・なんてことも分かったりして・・
  ギリシャは、半端ない大赤字の実態なのに・・投資資
 金はどんどん入って来た・・が・・
  その金は、消費に使ってしまって、投資の目的の「新
 たな金を生む」というわけもなく・・
  赤字は膨らみっぱなしの「ぱなし状態」・・
  悲惨な実態が隠されているギリシャは・・バブル状態
 となり・・表面上は豊かなギリシャとなって・・、
  賃金は上昇して・・浮かれ喜んで居た。
  そんな状態が長くは続くはずもなく・・
  その嘘がばれるまでの短い期間をエンジョイするギリ
 シャ正教のキリスト教国だった。
  結局・・当然・・当たり前に・・嘘がばれて・・宴(
 うたげ)の後は・・厳しい借金の山が残った・・
  以前より・・惨(みじ)めなギリシャとなった。
  EUが美しくでっち上げたEUスローガンの「ギリシ
 ャの幕」は下ろされた。
  結果は・・大失敗だった。
  手術で命が救われるからと、手術に臨(のぞ)んだギ
 リシャだったが、当然の手術の失敗のギリシャだった。
  瀕死のギリシャと・・なってしまった。
  「経済は完全な破綻状態」となってしまった。
  そして今、「貸した金は返せ」の『返せコール』の真
 っ最中・・、
  EUは返せと言って・・せっつき・・ギリシャは、せ
 っつかれて売れるものは、皆、売ってしまったギリシャ
 となっている。
  ギリシャの港も中国に売って・・、
  中国の軍艦が来るようになり・・中国は、素晴らしい
 橋頭保が出来た、「世界制覇の重要拠点だ」と喜んでい
 る。
  EUの手術が失敗したギリシャは、『以前より苦しい』
 と・・悲鳴を上げている。
  何とかしてくれと「チプラス氏」を首相に選出した。
  チプラス首相は、「借金を返す方針にするか?」は国
 民に問う・・として、EUの借金返済期限までに、借金
 を返済する行為を無視して、その国民投票期日を決めた。
  最初から返済の話は頭にない状態に、EUなどは『唖
 然』とした。
  ここで、当然、ルールの「ギリシャのデフォルト」「
 債務不履行宣言」「破産宣告」がなされるわけだった。
  金を、一生懸命に貸した「EUの唯一の経済健全国の
 ドイツ」が・・、チプラス首相をぼろくそに言い出した。
  大人の世界、それも世界トップの大人の世界の人たち
 が、子供の世界と同じとなった。
  「チプラスは無能だ」「自己中だ」と悪党呼ばわり、
 ギリシャ国民を奈落の底に突き落とす悪党代表の様に言
 い立てた。
  欧州議会の議長もドイツ人で・・言った・・
  「ギリシャの銀行から金が無くなったのは、チプラス
 のせいだ」
  「糖尿病で、妻の薬が買えないと泣いていた男が居た。
  その責任を、君たちは、どのようにとるのだ」・・と。
  実際、ギリシャは、3年前の2012年に、すでに破綻(は
 たん)していて、社会福祉の金は40パーセントも削減さ
 れて、喘いでいる状態になっていた。
  何も今さら、それを言うか?と言う話。
  診察も手術も受けられない人だらけのギリシャに、す
 でに、なってしまっている。
  とっくの昔の話なのだ。
  チプラス政権のせいではない。
  EUの君たちが、その時の政権としたことが、その様
 にした・・その失敗だからでしょう?・・と、言われか
 ねない様な厭味(いやみ)も言った。
  こんな失敗は、2008年に、アイスランドでも起きてい
 た・・?
  この悪者は、ローンを「異常にやった銀行」が悪者だ
 と言われた。
  こんな事ばかりが起きているEUなのに・・グローバ
 ルさはどこにもない?
  ひっかきまわして『悪くしている』だけ・・
,
2015年7月5日、ギリシャ国民投票が行われた。
  EUなどの国際債権団が、ギリシャ再建策として歳出
 削減策などを提示したが、その受け入れを、ギリシャ国
 民の方々は、「拒否する民意」をこの投票で示した。
  賛成38.7%、反対61.3%で受け入れは拒否。
  そして、その後の話・・、
  EU・・グローバリゼーション・・??
  ヨーロッパをグローバルに統合して皆で豊かになろう
 といいう美しい理念で始まったEU(欧州連合)。
  しかし、ギリシャで躓(つまづ)いている。
  EUは、経済的に弱小な国ばかりだった。
  その弱小国の諸国を支える国は、ドイツだけという寂
 (さび)しい状態。
  そこに、ドイツの支援をとことん食いつぶすギリシャ
 という国が現れた。
  ギリシャが支援を受けて浮上して、困った国をドイツ
 と共に支える国になれればよいが、現実は、ドイツから
 借りた金は返せない、「焦げ付き」となる状態。
  ギリシャの国の資産を売って辻褄(つじつま)を最大
 限とろうとしているが、その売れる資産も先が見え、再
 建策も次々と厳しくなるばかり。
  借金返済免除のカードも何度も出したが、事態はよく
 ならず・・、
  とうとう、チプラス氏に何とかしてもらいたいと、首
 相に選任され、チプラス首相が行なった国民投票で、ギ
 リシャ国民の方々の意思を問えば・・、
  『EUの再建プランの受け入れは拒否する』となった。
  ここでルールは、ギリシャの財政破たん・・なのだが
 ・・??
  とことん行き詰ったEU。
  ギリシャを、財政破たんをさせたくないEU。
  ドイツはとことんギリシャを攻めていたが・・ギリシ
 ャの国民投票の2日後・・そのトーンが変わって来た・・
  ギリシャを厳しく糾弾する声が変わった・・
  「チプラスはごろつきだ」と言っていた声が変わった・・
  厳しくなる一方のギリシャへの再建策の提示への後ろ
 めたさか??
  「金融緩和だ」の声が出て来た・・
  とことん冷え込んだギリシャの景気・・こんな状態で
 ギリシャ経済が回復するわけがない・・の声だった。
  つまり、金融緩和は、景気刺激のために金を供給する
 こと・・、
  おい、待てよ・・こんなことは前にやっていたではな
 いか?・・
  失敗したではないか??・・
  ・・という声とともに・・「人道援助だ」の声が出て
 来た・・
  困っている人がいるのなら、食糧、医療品、エネルギ
 ーなど、必要物資の援助をするのが筋だ・・の声だった・・
  EU加盟国に、こんなになるまで放っておいたのは誰
 だ・・の声まで出た・・
  「ドイツだ」・・と、「ドイツが悪者」の声も出る・・
  ドイツだけを攻めたって?・・という事も出た・・
  ギリシャだって税収の酷さ、税金を払わない国民性と
 でも言える状態・・、
  ギリシャの国鉄でさえ未納の税金の山、
  その調査を2012年に行えば、賄賂の横行が明るみに出
 る・・という国・・、
  ギリシャ経済は、25%の「4分の1が裏で動いていた」。
  汚職の横行も酷い。
  富裕層は・・税金逃れの責任を取れ、
  ギリシャは、ここから直さなければならない国。
  そして、それから投資を促して、雇用を促進して、経
 済が勢いがつくまで社金の返済免除をして・・と
  結局、振出しに戻って来る・・最初、それをしようと
 やっていたら、ギリシャはすべて消費に回してしまって
 いた。
  国の実体が壊れていて・・税をとる方も半分あきらめ
 てしまっていた・・ここまで壊れているギリシャ・・
  とことん借金を免除をしたドイツは・・これ以上は無
 理だ・・の顔をしている・・
  ここで借金の免除をすれば、「何でギリシャだけ??」
 と・・、
  スペイン・ポルトガル・イタリアなどの擬似ギリシャ
 国も、私も私もと言うだろう・・
  ドイツだけの財布に群がるその様な「EU諸国」・・、
  NHKは年収1800万円の高給も珍しくない組織だが、
 NHKが美しく言うグローバリゼーションで、年収200万
 円のあちこちの家の財布と一緒になって、年収400万円に
 なったら、笑って居られるか??
  NHKは、小池知事が実施した様に、「NHKの給与
 半減の法を提出せよ」・・NHKは、日本の人たちの4倍
 の給与を貰っている。
  半減しても・・「それでも2倍だ」。
  これと同じ話の様な・・豊かなドイツがギリシャを救
 えるか?
  グローバルだと財布を一緒に出来るのか?
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)584E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年7月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年7月13日、パークナム事件
  フランスが、「タイ(シャム)の属領のルアンパバー
 ン王国・チャンパーサック王国・シエンクワーン王国と
 タイ領の旧ヴィエンチャン王国」(ラオス地域)の領有
 を迫った事件で・・、
  メナム川下流のパクナム付近(タイ中部の都市、現:サ
 ムトプラカン)で、タイとフランスが衝突した。
  両国は、メコン川流域の国境をめぐって、多年、紛争
 を続けて来ていた。
  この時・1893年7月13日、フランスの軍艦2隻は、タイ
 の首都バンコクに迫り、この武力的な威圧でもって、タ
 イにメコン左岸の土地割譲をはじめ、多くの譲歩を強圧
 的・強引に従わせ、余儀なくさせた(強奪行為)
  この事件は、イギリスを刺激した。
  そして、英仏両国の間にタイを「緩衝国家」とみなす
 協定を成立させる端緒をつくった。
  これまでに・・、
  19世紀後半頃は、フランスとイギリスは、雲南問題を
 抱えていた。
  (参考)雲南問題:イギリスと清朝の間で起きた外交
     問題で、19世紀末~20世紀に起きた中国雲南省
     とビルマとの国境をめぐる問題。
      ビルマを領有したイギリスは、雲南省から貴
     州省、四川省を経て、揚子江流域の自己の勢力
     圏と連絡しようとし、1875年のマーガリー事件
     以後も、中国側地域のビルマ帰属を主張した。
      そして、一部地域を占領するなどした (片馬
     事件) 。
      フランスも、イギリスと同じ様に領土欲から
     インドシナから雲南へ進出した、そして、中国
     の民族意識を大いに刺激した。
      そして、この問題は、雲南の地下資源や、雲
     南経由の通商路の利権開拓を企図したイギリス・
     フランスと中国との問題だった。
      1868年、インド政府は、第1回雲南調査に次い
     で、1874年に、ブラウン大佐が率いる探検隊を
     ビルマ(現:ミャンマー)経由で派遣した。
      北京のイギリス公使館は、通訳にマーガリー
     を送るが、1875年2月21日、雲南・ビルマ国境付
     近で武装した中国人に殺害された(マーガリー
     事件)
      イギリス公使トマス・ウェードは、この事件を
     機に中国・イギリス間の懸案を解決するという表
     向きの目的で芝罘(チーフー)で李鴻章と交渉
     を始め、1876年、芝罘協定が結んだ・・が・・
  そして、1884年~1885年に、ベトナムの支配権をめぐ
 って、清国とフランスとの間で戦争(清仏戦争)が起き
 た。
  この戦争に清軍は敗北した。
  そして、天津条約によって、清国は、ベトナムに対す
 る宗主権を放棄し、フランスの保護国化を承認した。
  この事によって、英仏間の問題も解決した様に見えた・・
 が・・、
  フランスは、新たに雲南より南に位置ある「インドシ
 ナへの進出」を画策した・・常にあるのは・・領土欲・・、
  ただで見ていられないイギリスも、同時期に、ビルマ
 側からタイ北部のシャン地方へ進出を試みる・・、
  この為、フランスも、さらに競って・・イギリスに遅
 れを取らぬように、ベトナム領から当時のタイ領ラオス
 地域への進出を急ぐのだった・・、
  1886年5月7日に、フランスは、鉱山業・林業における
 『優先権を確立』するために・・ルアンパバーンに領事
 館を設置した。
  そして、宗主国タイとの間で、ルアンパバーン条約を
 締結した。
  しかし、1887年に至ると、西双版納(シップソーンパ
 ンナー、中国南部、タイ族自治州、景洪:けいこう市を
 中心に栄えた国家)で、パンゼーの乱(中国、清代の雲
 南イスラム教徒の反乱、1855年~1873年)の残党のチン・
 ホー族による反乱が起きた。
  その為、フランスは、ルアンパバーン王国領内に兵を
 進め侵略した・・そして・・、
  1888年に、シップソーンチュタイ(現:ライチャウ省、
 中心地はディエンビエンフー)を制圧し、手に入れ・・
 掌握した。
  これ以後、この橋頭堡を築いたフランスは・・、
  「ルアンパバーン王国の宗主権はベトナムにあり、ベ
 トナム領を有する仏領インドシナが、ルアンパバーンの
 宗主権を持っている」という『自分に都合のよい立場の
 主張』をしてタイ軍駆逐の侵略を図り始めた・・そして・・
  1892年、オーギュスト・パヴィ(フランス出身の植民
 地行政官)が、仏ルアンパバーン領事に任命された。
  すると、この領事は、以前からタイ政府が提案してい
 た交渉による国境画定案(非戦の提案)を拒否し・・、
  武力をちらつかせて、タイ軍に、ルアンパバーン王国
 領から撤退を求めた・・当然、フランスの好戦的なやり
 方で・・
  タイ政府側のラオス中部のカムムアン県知事プラ・ヨ
 ートムアンクワーンとフランス軍とが衝突した。
  その結果、フランス人将校が戦死した。
  格好のフランスにとって都合のよい言い掛かりができ、
 インドシナに軍事的緊張が走った。
  フランスは、プラ・ヨートムアンクワーンを捕らえた。
  そして、国境画定交渉を拒否していたにも関わらず「
 平和交渉時に将校を殺した」という筋の通らない理屈で、
 有罪判決を出して、投獄した。
  そして、フランス国内では、「タイは、国際常識を無
 視した」という煽(あお)りのプロパガンダ(嘘宣伝)
 が広がった・・「タイへ武力行使を行え!」というフラ
 ンス国民の世論が高まった。
  そして、これによって、より大きな戦いであるパーク
 ナム事件が勃発してしまった・・自分に都合よく作られ
 た事件だった・・やりたい放題だった・・
  1893年7月13日、夕方18時15分、フランス海軍は、2隻
 の軍艦、通報艦「インコンスタン」と砲艦「コメート」
 でチャオプラヤー川のワット・アルンとワット・カラヤ
 ナミトルの間にある運河河口から上流へ進入しようとし
 て・・いつもの様に、格段の差のある武力を行使した。
  天候は雲の厚い雨天だった。
  フランス海軍は、この時、タイの官警から警告を受け
 た。
  しかし、無視した・・そして、侵入を開始した。
  18時30分、雨がやんだ。
  この時、灯台をフランス軍艦が通り過ぎる姿をタイ兵
 が確認していた。
  その数分後、フランス軍艦は、要塞が射程圏に入った
 ことを確認し、戦闘が開始された。
  タイ軍は、オランダ人司令官が指揮するパークナムに
 最近作られたチュラチョームクラオ要塞と、デンマーク
 人副提督Phraya Chonlayutthayothinが率いるタイ海軍の
 軍艦で応戦した。
  要塞には、旧式の6インチ砲が備えられていた。
  また、16個の機雷を敷設していた。
  タイ軍は、指揮系統が西洋化されていたものの、近代
 的軍備のフランス海軍の軍艦には歯が立たなかった。
  10時頃までに、赤子の手をひねる様な戦いで・・フラ
 ンス軍艦2隻が、フランス大使館へ着くと、フランスは、
 すぐさま・・タイ政府に対して「メコン川東岸のフラン
 スへの割譲」を要求した。
  これを、タイ政府は、国家存続を揺るがす大きな問題
 だと、当然、認識した。
  当時のタイの君主であったラーマ5世(チュラーロンコ
 ーン)は、そのフランスの不当な行為である要求を、そ
 の割譲を拒んだ。
  そして、穏便に、賠償金で済ませようとした(日本も、
 幕末、大金を何度も取られた・・)
  そして、タイ政府は、フランスとインドシナ問題にお
 いて対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと
 した。
  しかし、それは失敗した。
  結局、メコン川東岸全域が、フランスへ割譲される事
 となって、タイの領土が奪われてしまった。
  ラーマ5世は、これを、「死刑を待つ死刑囚の様な悲し
 みだ」と言った・・そして、寝込んでしまった。
  一方、バンコク市民は、この異常事態において、混乱
 を極めた。
  フランス軍の発砲を恐れて逃げ惑(まど)った。
  1893年10月、フランスは、平和条約の締結を迫った。
  そして、この条約で、以下の要求を迫った・・
 (1)メコン川東岸のラオス各王国の宗主権の完全放棄
 (2)メコン川の中州すべての割譲
 (3)メコン川西岸25キロ地域の中立地帯化(武装解除)
 (4)カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州で
   の武装解除
 (5)フランス領からタイへの輸入時における関税自主権
   の放棄
 (6)保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイ
   の司法権の管轄外とすること
  ・・と言いたい放題の条件を認めさせた。
  また、一方、フランスは、チャンタブリー県、トラー
 ト県の港の占領もした。
  また、フランス大使館は、この後、仏領インドシナの
 ベトナム人、ラオス人、カンボジア人のみでなく、タイ
 国民(特に、華僑)にまで、ワイロで保護民の地位を与
 えたため、タイの治安は大きく乱れてしまった。
  これに大きく悩んだタイ政府は、1904年に、新たな条
 約を結んだ。
  以下がその内容・・、
 (1)タイが、サイニャブーリー県、および、チャンパー
   サック県を割譲する代わりに、チャンタブリー県か
   らフランス海軍を撤退させること。
 (2)保護民の登録を制限すること(華僑の流入を抑えて
   くれの悲鳴)
  タイ政府は、苦肉の策で問題を妥協・解決し・・、
  1905年1月22日、フランス海軍は、チャンタブリー県か
 ら撤退したが、完全に約束を果たしたわけではなかった。
  いつもの都合のよい嘘行動・・
  トラート県に移動するのみに留まった。
  『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
1893年7月15日、大阪天満橋下流で、淀川の川開きが、初め
 て開催された。
1893年7月22日、文部省が、女子教育のため、小学校に裁縫
 教科の設置を指導した。
  井上毅文相は、文部省訓令「女子就学並裁縫教員に関
 する件」を府県に通達した。
  「普通教育ノ必要ハ男女ニ於テ差別アルコトナク、且
 女子ノ教育ハ将来家庭教育ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナ
 リ、・・今不就学女子ノ父兄ヲ勧誘シテ就学セシムルコ
 トヲ怠ラサルヘキト同時ニ、女子ノ為其教科ヲ益々実用
 ニ近切ナラシメサルヘカラス、裁縫ハ女子ノ生活ニ於テ
 最モ必要ナルモノナル故ニ、地方ノ実情ニ依リ成ルヘク
 小学校ノ教科目ニ裁縫ヲ加ヘルヲ要ス」
1893年7月、御木本幸吉夫妻が、半円ながら、初めて真珠の
 養殖に成功した。
1893年7月、川上清哉らが、恙虫(つつがむし)研究会を設
 立した。
  ツツガムシ(恙虫)は、ダニ目ツツガムシ科のダニの
 総称で、ツツガムシ科に属するダニ類は、日本では、約
 100種が報告されている。
  川上清哉(かわかみせいや)は、1854年、長岡藩(現:
 新潟県)の生まれ・・、
  戊辰戦争で敗れた長岡藩の復興のため小林虎三郎らが
 設立した国漢学校を経て、東京大学医学部に入学した。
  かねてより、ツツガムシ(恙虫)病に興味を持ち・・、
  1878年には、べルツを信濃川へ案内し、東京医事新誌
 に「新験毒虫考」を発表した。
  後、東京大学医学部を中退し・・、
  1887年、「私立新潟県恙虫研究所」を設立した。
  1895年、41歳で病没した。
  恙虫病は、かつては、日本では、新潟県、山形県、秋
 田県などで、夏季に河川敷で感染する風土病で あった。
  戦後、新型ツツガ虫病の出現により、沖縄県や離島な
 どを含め、全国的に発生が報告されている。
  ツツガムシの幼虫は、0.2ミリほどの大きさで、肉眼で
 確認することが難しい。
  アカツツガムシ以外に吸着された場合には、ほとんど
 痛みや痒みを感じない。
  刺された覚えのない発病者も多い。
  つつが虫病リケッチアによる感染症で・・、
  つつが虫病リケッチアを保有するツツガムシに刺され
 て5~14日の潜伏期の後に、
  全身倦怠感、食欲不振とともに頭痛、悪寒、発熱など
 を伴って発症する。
  体温は、段階的に上昇し数日で40℃にも達する。
  刺し口は、皮膚の柔らかい隠れた部分に多い。
  刺し口の所属リンパ節は、発熱する前頃から次第に腫
 脹する。
  第3~4病日より不定型の発疹が出現するが、発疹は
 顔面、体幹に多く四肢には少ない。
  テトラサイクリン系の有効な抗菌薬による治療が適切
 に行われると劇的に症状の改善がみられる。
  重症になると肺炎や脳炎症状を来す。
  北海道、沖縄など一部の地域を除いて、全国で発生が
 みられる。
  発生時期は、春~初夏及び晩秋から冬であるが、媒介
 ツツガムシの生息地域によって異なる。
  我が国では、1950年に、伝染病予防法によるツツガム
 シ病の届け出が始まり、
  1999年4月から、感染症法により4類感染症全数把握疾
 患として届け出が継続されている。
  感染症法施行後の患者数をみると・・、
  1999年(4〜12月)には588人、
  2000年(1〜12月)には急増して754 人が報告された。
  2001年には460人に減少した。
  毎年、数人の死亡例も報告され、依然として命を脅か
 す疾病である。
  治療が遅れると播種性血管内凝固をおこすことがあり、
 致死率が高い。
  本症の予防に利用可能なワクチンはなく、ダニの吸着
 を防ぐことが最も重要。
  因みに、「恙」(つつが)は、病気や災難という意味。
1893年7月、陸奥宗光外相の条約改正交渉。
  1892年、陸奥宗光は、第2次伊藤内閣に迎えられて外務
 大臣に就任した。
  そして、外相に就任した陸奥宗光は、青木周蔵元外相
 を在英国公使に任命し、条約改正交渉に当たらせた。
  1894年に至って、青木公使とキンバレー英国外相との
 間に日英通商航海条約を締結し(1894年7月16日、調印)、
 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功した。
  この条約によって、領事裁判権が撤廃されたほか、関
 税自主権が部分的に回復し、最恵国待遇条款を相互的な
 ものにし、「安政の不平等条約」の改正の第一歩がしる
 された。
  以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印し、ドイ
 ツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。
  陸奥が、外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた
 15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成
 し遂げた。
  これによって、半植民地状態から陸奥宗光伯は わが
 国の「独立自尊」を世界に認めさせた。
  1894年8月、子爵を叙爵した。
  一方、この年・1894年5月に、朝鮮で甲午農民戦争が始
 まると清の出兵に対抗して派兵した。
  不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を
 軟化させた背景には、ロシアの極東進出に対する懸念が
 あった。
  イギリスの条約改正交渉には、「改正後も函館の貿易
 港としての使用を認めること」という交渉条件が付けら
 れていた。
  陸奥は、函館の条件さえ呑めば条約改正に応じるに違
 いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、
 条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と
 打電した。
  返電は、イギリスが条約改正交渉に応じるというもの
 だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:『正義の天からの裁き』は・・起きないのか・・??
.
紀元前3500年、メソポタミアを通覧(つうらん、全体に一
   通り目を通すこと)すると・・
  紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、
   この頃以降に、多数の都市が誕生する。
  紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シ
   ュメール人の文化が生まれた。
    砂漠化が進む気候の中で・・、
    チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、
   その豊かな水で、大規模な農耕をした。
  紀元前3000年頃、メソポタミア地方で普通小麦の栽培
   が始まった。
  紀元前3000年、メソポタミア文明:シュメール人が、
   この頃から都市国家の時代へ入った。
  紀元前2500年頃、シュメール人が、『ウル第一王朝』
   の王国を築いた。
  紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人
   が建設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵
   入し、バビロニアという強大な国を作った。
  紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都
   市「バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に
   覇を唱えた(古代バビロニア)
  紀元前1600年、アーリア人:この頃、イラン高原、メ
   ソポタミア、エーゲ海、さらに、ヨーロッパなどへ
   進出した。
  紀元前1530年、古バビロニアが滅亡した。
   ヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、この頃、
   古バビロニアを滅ぼした。
  紀元前1500年、古代ユダヤ:セム系ユダヤ人(ヘブラ
   イ人)は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、
   この頃以後、ユダヤ人の一部分が、カナン(カナー
   ン、パレスチナ、イスラエル)へ移住した。
  キリスト教は、このメソポタミアの民(ヘブライ人)
 が、チグリス・ユーフラテス川を北へ向かい、そして、
 「乳と蜜の流れる地・・カナン」へ向かう話から始まる。
  そして、このキリスト教の発祥の地「イスラエル」は、
 日本の九州ぐらいの大きさである。
  キリスト教が、異民族とか、異教徒とかとした「ペリ
 シテ人」や「フェニキア人」や「アラム人」は・・、
  「ペリシテ人」はイスラエルの南部に居て・・、
  「フェニキア人」と「アラム人」は、イスラエルの北
 部に居た。
  つまり、この「ペリシテ人」は「鹿児島県の人」のよ
 うで・・、
  「フェニキア人」や「アラム人」は、「福岡県の人」
 や「大分県の人」の様な関係となる。
  キリスト教は、この様に『非常に狭いスケール観』の
 中で展開している宗教なのである。
  結局、このスケール観の中で「鹿児島県」や「福岡県」
 や「大分県」の人々が、「異教徒だ」とか、「異端の人
 だ」として存在していて・・、
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義が展開し、困っ
 たときには、この異教徒からの富を奪う事を、(キリス
 ト教の)神の義があるという免罪符が与えられて、富を
 奪う行為が行われていた・・戦争ばかりの「奪い合いの
 世界」に居た。
.
紀元前1800年頃、この頃まで、メソポタミアと、インドの
 インダス文明との間に強い交流があった。
  文明的な交流が行われる「メソポタミア文明とインダ
 ス文明」は、強いつながりを持っていた。
  多くの考古資料も存在しているが・・、
  メソポタミアはインド文明に影響され、また、インド
 も影響された。
  イラン高原に「スーサ」という地があるが、この地は
 交通の要衝で、種々の人々が往き交った。
  また、文明も発達していた(エラム人のトランス・エ
 ラム文明)。
  この文明のいくつかの要素が、インダス文明の素(も
 と)になった。
  また、インダス文明との関係が強く、紀元前1800年頃
 のインダス文明の崩壊時期まで、メソポタミアの諸王朝
 は、インドの木材や金属を、イラン高原経由で入手して
 いた。
  この交易と共に、人も往き交い、文明も往き交った。
  キリスト教は、メソポタミアに影響されて、関係して
 いるが、この様にキリスト教は、インドのインダス文明
 に「大きく関(かか)わっていた」。
  キリスト教が言う、「一神教の壁があって、インド文
 明の影響は受けていない」という話は、「まゆつば」の
 「嘘の話」である。
  インド仏教のストゥーパ(仏塔)の建設にギリシャ人
 の関与を示す考古資料がある。
  また、メソポタミアの考古資料にインドの物語の史料
 があり、これがキリスト教にも影響を与えている・・な
 ど・・
  人々は、頻繁(ひんぱん)に往き交っていて、また、
 情報も往き交っていた。
  メソポタミアの人々は、エジプトより、イラン・イン
 ド方面に親近感を持っていたようだった。
  メソポタミアとエジプトとの関係は、紀元前6世紀に、
 イラン高原を本拠とするアケメネス朝ペルシャが、メソ
 ポタミアを征服し、また、エジプトも征服した。
  この両地の交流は、この時から始まって、それまでは、
 まったくと言って交流は無かった。
  ユダヤ教の戒律も、このアケメネス朝ペルシャの支配
 の下で、整(ととの)えられて行く。
.
紀元前13世紀後半、ヘブライ人が、メソポタミアからカナ
 ンへ向かった。
  キリスト教を作るこのヘブライ人は、アジア人だった。
  ヘブライ人は、アフリカ北部からアラビア半島、そし
 て、メソポタミアや小アジア(トルコなど)の広い範囲
 に居たセム系の言語を話すアジア人だった。
  セム系の言語を話すアジア人として・・この他に、ア
 ラブ人、フェニキア人、アラム人、エチオピア人、アッ
 シリア人などが居る。
  このアジア人が、キリスト教を作った。
  地球上の世界の三大宗教は、そのすべてをアジア人が
 作っていた。
  ヘブライ人の先祖は、古くはメソポタミアに居た遊牧
 民で、紀元前13世紀後半頃、このカナン(カナーン、パ
 レスチナ)へ向かった。
.
紀元前13世紀後半、キリスト教の聖書に、多神の神々、多
 くの神々が書かれているが・・
  この様に、「乳と蜜の流れる地」と言われたカナン(
 パレスチナ)へ移住して行ったヘブライ人たちは、種々
 の神々を信じる『多神教の民だった』。
  カナンの地も雨の少ない乾燥地だった。
  遊牧の羊を育てるには欠かせない雨、何日も晴天の日
 が続くとヘブライ人たちは、心から雨を待ち望んだ。
  遊牧民のヘブライ人たちは、多神の神々の中でも嵐の
 神であるヤハウェを最高神として重んじる様になって行
 った。
  ヘブライ人だけでなく、このパレスチナ(カナン)周
 辺に居るアラム人や、アラブ人などの諸部族も多神教の
 神々の一つとしてある嵐の神ヤハウェを祭っていた。
.
紀元前5世紀頃、ユダヤ教の教義が確立して行く。
.
紀元前5世紀頃、「ミシュナ(口伝律法)」ができる。
  キリスト教の旧約聖書は、砂漠の地で生きて行くため
 の『マニュアル』である。
  だから、故に、生きるために、この教えは、「何より
 も大切なものだった」。
  環境の厳しい砂漠で、また、その砂漠の狭い地域に、
 多数の部族が居るという状況に、その地域はあり・・そ
 れは、生きるに必須なものだった。
  また、「主(神)」というのは、みだりに「ヤハウェ」
 と神の名を言えないがゆえの「便宜上の言葉」だった。
  信仰は、この『主』が、そのマニュアルの事ごとを、
 上から与えるという「上から目線」の砂漠の地の信仰の
 形となった。
  マニュアルとして、「トーラー(律法)」「ネビイー
 ム(預言書)」「ケトゥビーム(諸書)」の三つがあり、
 「旧約聖書」としている。
  「タルムード(教訓)」は、古くから伝えられて来た
 戒律をまとめたもので、口伝するべきとした。
  それが、紀元前5世紀頃に、「ミシュナ(口伝律法)」
 という書にまとめられた。
  そして、このミシュナに、「ゲマラ(補完)」という
 補足と解説が付いた。
  そして、5世紀~6世紀の頃までに、「ミシュナ」と「
 ゲマラ」を整理した「タルムード(教訓)」をまとめ上
 げた。
  キリスト教の旧約聖書は、ユダヤ教の「聖典(正典)」
 を『拝借したもの』である。
.
紀元前4世紀頃、今は居ないケルト民族の人々が、ヨーロッ
 パ全域(フランス、スペイン、イギリス・ブリテン島、
 イタリア、バルカン半島、小アジア(トルコなど)へ、
 この頃、移動し、生活していた。
  ケルト民族は、近年、注目されて来ている民族で・・
 ヨーロッパ中に、そのケルトの方々は居た(過去形)
  日本人も、このケルトの人々の様な運命にならないよ
 うにしなければならないが??
  (過去形で語られるような民族にならないように・・)
  このケルトの人々の原住地や起源については、いろい
 ろな説・議論がある・・、
  この民族は、ローマ人が、ガリア人と呼んだ人々で・・、
  言語は、インド=ヨーロッパ語族の人々・・、
  紀元前3000年~紀元前2000年、ケルト文化を形成した。
  南ドイツのバイエルン、及び、ボヘミアに、先史鉄器
 時代のケルト人遺跡が出土する・・また・・
  紀元前1500年頃までに、ドイツのドナウ、ライン川沿
 岸の森林地帯に移動し、定着し、文化を形成したとされ
 ている。
  紀元前7世紀~紀元前3世紀に、ガリア、ブルタニア、
 西ドイツ、北イタリア、イベリア、バルカンに移住し・・、
  紀元前5世紀~紀元前1世紀に、ヨーロッパ中部、及び、
 西部で、活躍したとみられている。
  この頃のライン地方の貴族の墳墓、および、出土品は、
 初期ケルトの美術の美しさを見せている。
  紀元前4世紀頃から、フランス、スペイン、イギリス・
 ブリテン島、イタリア、バルカン半島、小アジア(トル
 コなど)などへ移動する。
  紀元前387年(または390年)ケルト人は、イタリアに
 侵入し、アッリアの勝利の後、ローマへ至った。
  (参考)アッリアの戦い:ガリア人(ケルト人)が、
     初めてイタリアを侵略した際に起きた戦いで・・、
      テヴェレ川の支流のアッリア川付近で行われ
     た戦い・・、
      この戦いでローマ側は敗北し、ガリア人(ケ
     ルト人)が、ローマを奪取する経路が開かれた。
      この戦いは、紀元前390年、または、紀元前387
     年に起きた。
  紀元前390年に、ケルト人は、ローマの住人となり、北
 イタリアのアドリア海岸に定着した。
  ケルト人は、ローマにとって不断の脅威となる・・
  そして・・
  紀元前192年までに、ローマの支配権を失う。
  紀元前16年~紀元前10年には、大陸の最後のケルト民
 族の拠点も、ローマの支配下に入る。
  ケルト人の地、ガリアは完全にローマ化した。
  ケルトの民は長身で、戦士は筋骨たくましくあった。
  ケルト人は、混合農耕を営み、音楽や美術の才能にも
 恵まれ、、森の神、泉の神など自然物に基づく多様な神々
 (多神教)を信仰していた。
  そのような話が「金の斧・銀の斧」という子供たちの
 話として、現代にも伝わっている。
  ギリシャも多くの神々を祀る多神教であったが、この
 多神教のヨーロッパに、一神教のキリスト教が入って来
 る。
  キリスト教は、当初、生き残ろうと、盛んにヨーロッ
 パの宗教である多神教と習合した・・節操もなく多神教
 を取り込んだ。
  キリスト教は、次第に、権威と金を得て行った。
  また、ローマ帝国の承認も得て力を得て行く。
  それとともに、ヨーロッパに既存していた多神教のケ
 ルト族を圧迫し殺戮し駆逐して行く。
  今・現代は、ヨーロッパの西端の半島の突端に居るか?
 と言われるケルト民族となってしまった。
  かつては、ヨーロッパ中に居た民族であったが・・、
  そして・・森が広がるヨーロッパの民の多神教の信仰
 が、砂漠の宗教・キリスト教の一神教に変わった。
  中世の暗黒のキリスト教社会を経験する。
  魔女の騒ぎや、異端審問や、ユダヤの方々がヨーロッ
 パ中を逃げ回る時代を迎える。
  ギリシャやイタリアや、また、イギリス、フランス、
 ドイツなど、かつては森の国で・・多神教が信仰されて
 来た国々が、一神教のキリスト教の砂漠の宗教の暗黒の
 経験をすることとなる。
  ヨーロッパの空は、曇り空の如く、全滅する村も出る
 という・・その様な焚刑が行われるという・・惨劇が繰
 り広げられた。
  最近、行なわれるようになったキリスト教の祭りであ
 るハロウィンは、全滅させられたケルト民族の祭りであ
 った・・
  習合して取り入れたキリスト教が、その祭りを、キリ
 スト教の祭りとした・・
  しかし、キリスト教は、この事を言われると、ケルト
 の祭りだと言って逃げるが・・?
.
12世紀、アララト山の命名
  アララト山は、トルコ共和国の東端にある標高5,137m
 の山で・・成層火山である。
  キリスト教の「旧約聖書」に出て来る「ノアの方舟」
 が大洪水の後、流れ着いたとされる山で・・、
  12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。
  「ノアの方舟」・・
  キリスト教の教会でやるような「キリスト教の教義の
 宣伝映画・ノアの方舟」を、NHKは買って、全国放送
 をした。
  NHKは、キリスト教に利する放送をよく行う、多く
 行う放送局である。
  この行為もその一つである。
  「ノアの方舟」の話は本当にあったのだという内容で、
  「その証拠があるのだ」と、その証拠をアララト山に
 求めた話の内容である。
  しかし、キリスト教の教会内でやっている分には嘘の
 話であってもやっても良いが・・、
  公共放送のNHKが、その嘘の話を「本当だ」という
 内容の放送を、日本全国に放送するという事になったら、
 問題である・・
  法律違反となる・・「虚偽の話を本当だ」と、このN
 HKの番組の視聴者に思い込ませる事となる。
  虚偽の話をするという、やってはいけない行為である。
  しかし、キリスト教に偏するNHKは、この嘘放送を、
 虚偽の放送を行なった。
  キリスト教のデッチ上げの虚偽の話「ノアの方舟」が
 実際にあったと言った。
  「実際にあった」と言ったって、「あったあった」と
 形容詞で言うばかりで、その証拠を発掘調査する、探査
 するという行動の映像はあるが、その証拠が発見された
 という話は、まったく「雲の様に霞(かす)んだ中」で、
  ただ「あったあったと言う話」のたぐいであった。
  何だか分からぬ石を示して「これだ」とか、
  大袈裟に、もっともらしく人工衛星写真のアララト山
 付近を示し、放送して、「これだ」と言うだけ・・、
  どこをどの様に証明したのだ?・・と、質問したい話
 が連続するだけ・・?
  その様な「うやむやの話」なので、「もともとがうや
 むや」なので、具体的に説明できない代物。
  その様な放送行為をしておきながら・・今だに、NH
 Kは「嘘の間違い放送だった」と「訂正放送も無ければ」
 「謝罪放送もない」。
  「ノアの方舟」の話が、「真実ではない」という事は、
 今・現代、常識になっているが・・、
  NHKは、その事実を無視して、キリスト教に利する
 放送をした。
  その「ノアの方舟」が虚偽であり、あり得ないという
 話に満ちているが・・、
  その一つが・・「キリスト教の神が、40日間、雨を降
 らし続け、5000メートルを超えるアララト山(この地方
 で一番高い山)の頂(いただき)が隠れるほどの洪水と
 した・・
  そして、地球上の生物のすべてが死滅させた」という
 話である・・
  ノアが救った「一つがいの動物」だけを生き残らせた
 という話である。
  この40日間、雨が降り続いて、5000メートルを超える
 水深の洪水は起こりえない。
  アララト山の標高5,137メートル(世界一のエレベスト
 山を知らない人たちのおとぎ話なので、アララト山とな
 っている)を、40日間で割ると、1日の降水量が128,425
 mmの降水量となる。
  もうこれであり得ないと直ぐ分かる。
  2014年、コロンビアで年間降水量が、3,240mm・・こ
 れが世界一多い降水量記録である。
  それも「年間」である。
  この地域だけに限って雨が降った降水量である。
  ノアの方舟は、「世界中すべてに、猛烈に雨が降り続
 いた」という話である。
  年間のこの数値の39.6分の1にしかならない。
  40日とすると1,584分の1となる。
  この様に、ちょっと考えれば「おかしな話」を、NH
 Kは、このキリスト教の宣伝映画を買って、日本中に放
 送した。
  キリスト教に偏するNHKは、こんな類いのキリスト
 教の「巧妙なる伝道行為」を多くやっている。
  ノアが、世界中の動物を「一つがい捕まえて来る」と
 いう話もおかしいし、方舟に乗せたという話だってあり
 得ないとすぐ分かる・・(どんだけの大きさ??)
  餌(えさ)はどうしたの? 糞尿の処理などの世話は
 どうしたの?・・など、疑問だらけとなる・・
  そして、洪水で流された草木はどうなったの?
  この草木は何故、「ノアの方舟」に乗せなかったの?
  この草木も命があるのだが? などという疑問は、次
 から次と出る。
  この様な話に、NHKは、まったく「疑問を持たない」
 というお粗末な、おかしな公共放送となっている。
.
1587年、バテレン(伴天連)追放令
  フィリピンを拠点にしていたスペインのキリスト教宣
 教師たちには、キリスト教を広める行為と共に、植民地
 獲得・拡大の尖兵となる隠れた要務(ようむ、重要な職
 務・任務)があった。
  キリスト教宣教師たちが、南アメリカを初めとする、
 北米・中米・その離島のすべてのアメリカ大陸で、イン
 ディオの先住民を殺戮し、全滅させて・・領土を奪った
 と同じように・・、
  中国や日本を、武力で奪い取る「征服する計画」があ
 った。
  キリスト教のアメリカ大陸でのその殺戮・全滅行為は、
 凄(すさ)まじく、50年間という超長期に渡り、先住民
 のインディオの方々を、1000万人以上殺すという卑劣極
 まりない行為だったが・・この様な行為が日本で行なわ
 れようとしていた。
  この時、この日本を救ったのが豊臣秀吉だった。
  秀吉は、この様な情報を掴(つか)むと、部下に確か
 めさせた。
  そして、「その情報が間違いない」と分かると、キリ
 スト教宣教師を呼び出し、秀吉・自らが確かめ詰問(き
 つもん、相手を攻めながら、返事を迫って問い立てるこ
 と)した。
  そして、秀吉・自らが、キリスト教が、その様な悪行
 をしていると確認すると、その行為を叱責し、また、フ
 ィリピンのマニラのキリスト教本部へ書簡を送り、「卑
 劣な行為をするな」と言った。
  そして、1587年、バテレン(伴天連)追放令を発した。
  その令の中で、日本の神社や寺院を、キリスト教宣教
 師たちが打毀す行為をしていた事を「止めよ」と言い、
 叱責し・・、
  そして、「20日以内に立ち去れ」と命じた。
  また、キリスト教宣教師たちは、キリシタン大名へ鉄
 砲などの武器や弾薬を渡し、「死の商人」をしていた。
  そして、その領地内で、神社・仏閣を破壊し、好き勝
 手をしていた。
  また、南蛮貿易では、日本の若い女性を連れ去り人身
 売買も行ったりと、倫理観がまったく無い劣悪な行為も
 行っていた。
  「卑劣な輩ども」の形容がぴったりの者どもだった。
.
18世紀、この頃までに、日本は、産業の大きな発展を見た。
  そして、18世紀という偉大な世紀を迎える。
  これまでに起きた産業の発達の中、日本は、ここで、
 教育の必要性を感じ、大事さを感じた。
  武士だけではなく、一般民衆も、盛んに教育を求めた。
  日本の各地に、多くの寺子屋が作られた。
  多くの子供たちが「読み書き・そろばん」を身につけ
 た。
  (参考)読み書き・そろばん:文字・文章を読むこと、
     内容を理解して文章を書くこと、および、計算
     すること、ならびに、それらができる能力を持
     っていること。
      特に、近世末期以降、初等教育における基本
     的な教育内容とされ、また、初等教育で獲得さ
     せる基礎的な能力・学力を言った。
  寺子屋の数は、全国で約1万を数えた。
  その結果、日本全国各地で、町人や農民の生活に即し
 た新しい学問が花ひらいた。
  教育水準は向上し、当時の日本人の識字率は、『世界
 最高の水準となった』。
  町人たちの勤勉さと、倹約を説いた京都の石田梅岩(
 いしだばいがん)は、その代表。
  武士の子弟も、藩が設けた藩校で学んだ。
  この時代、著名な偉人が、多数、輩出した・・
  「本居宣長」「杉田玄白と前野良沢」「平賀源内」「
 伊能忠敬」「林子平」「会沢正志斎」「頼山陽」など・・、
 その偉人たちは枚挙のいとまない状態だった。
  (参考)石田梅岩:(1685年~1744年)心学者、思想
     家。
      社会教化運動のひとつとされる石門心学(せ
      きもんしんがく)の始祖。師は小栗了雲。
      1685年9月15日、丹波国桑田郡(現:京都府)
     の農家に生まれ・・、
      幼くして、一時、京都の商家に奉公に出るが、
      1700年(15歳)で、一旦帰郷する。
      1708年(23歳)で、再び上京し、商家黒柳家
     に仕え、その業に励むとともに、儒学などを独
     学する。
      1728年(43歳)小栗了雲に邂逅(かいこう、
     めぐり会う)し、「心を知る」の課題を「性は
     目なし(無我の境地)にこそあれ」と開悟(かい
     ご、迷いから脱却して審理を悟ること)するに
     至る。
      1729年(45歳)京都車屋町の自宅に、講席(
     塾)を開き、聴講無料、紹介者不要の開放的な
     形式をとって講義・布教に専念する・・
      当初の聴講者はわずかであったが、庶民層に
     門弟が漸増し、大坂に出講するまでに至る。
      その教えは、人間価値の平等や商人の利潤の
     正当性を認めて、説き、「人の人たる道」を追
     求した。
      実戦的倫理思想を分かりやすく説いた・・、
      商業観・人間観において自由さと清新さを示
     し・・京の町人層に歓迎された。
      大坂・河内・和泉などへの出講は、手島堵庵・
     斎藤全門・富岡以直らの人材を得て、心学興隆
     の基礎を築いた。
      1739年(54歳)主著「都鄙(とひ)問答」は、
     門弟の要望を容れた教説の基本原理を記述した
     テキストであるが・・、
      心学教化運動の原点として後世の教育へ深甚
     (しんじん、意味が非常に深いこと)な影響を
     与えた。
      1744年頃(59歳)梅岩が重んじている倹約に
     ついて、人間の本性の洞察にまで思惟(しい、
     心で深く考えること)を深めた『倹約斉家論』
     を出版した。
      1744年、歿、60歳。
.
1924年7月1日、排日移民法が、アメリカで施行された。
  卑劣な法律だった。
  アメリカは、「排日移民法」を作り、日本人を排斥し
 た。
  完全にその根底には、キリスト教の有色人種の蔑視思
 想による洗脳された姿があった。
  今でも、黒人の方々は、アメリカで差別を受けている
 が・・当時の日本も差別され、大きなダメージを受けた。
  精神的なダメージも大きかった。
  また、日本は、国家としても貶(おとし)められた。
  人種としても、文明としても貶められた。
  強い劣等意識を突き付けられた。
  これを、第二次世界大戦に至る大きな要因の一つに挙
 げる学者も多い。
  最初、中国系労働者が排斥され・・そして、日本人に
 代わって来た。
  当時、日本人が、写真だけの見合い結婚をする習慣自
 体も卑下されたりした。
  (移民した日本人の若者が、郷里から写真だけで「お
 嫁さんに来てもらいたい」とプロポーズすることが、お
 かしいとされた)
  やむなく、日本政府は、このアメリカの押し付けを受
 け入れ、1920年に禁止とした。
  今・現代、ロシアは、平均離婚回数が3回だという。
  学生時代に「試し結婚をする」という。
  写真ではなくても、「離婚が目の前にある様な結婚」
 は許されるのか・・、
.
1932年1月28日、上海事変が始まる。
  第一次上海事変が起きた。
  白川義則大将の上海派遣軍と、中国の国民党(十九路
 軍)とがぶつかった・・が・・、
  白川大将は、中国軍を撃退したが、深追いはしないで、
 停戦した。
  これは、『国際連盟で高く評価された行動』だった。
  そして、これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大
 将へ「事変の不拡大」で、「国際連盟との衝突にならな
 い様に」と伝えていた戒めを守ったからだった。
  しかし、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年12月の西
 安事件の後、第二次国共合作によって、一丸となって大々
 的に日本への攻撃を準備していた。
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵しか、
 上海に居なかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で先制攻撃を仕掛けて来た。
  このため、上海の戦闘は泥沼となった。
  急遽、駆け付けた日本兵など・・4万もの日本兵が死傷
 するという大きな死傷者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになり、南
 京へも拡大して行った。
  南京事件の原因は、アメリカに支援された中国とアメ
 リカが起こしていた。
  中国軍の攻撃が、南京進撃の因となった。
  陰で・・アメリカが、中国へ兵器の供給をしていた。
  そして、NHKなどのマスコミが煽(あお)った。
  また、租界は、西欧諸国も、中国に持っていた。
  上海は、日本人の住む租界だった。
  この上海租界に、2000人強の日本兵が駐留していた。
  中国軍は、条約で決められた通りにしているこの日本
 租界へ、アメリカに支援されて、大準備を整えた大軍・
 12万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを、強いら
 れた。
  尚、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリカに
 支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリカ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが・・、アメリカは、その第二次世界大戦の開始以前
 から、この様に・・この上海の戦いの様に、戦争へ介入
 していた。
  そして、戦争は始まり、そして、行なわれる方向への
 行動・支援を行なっていた。
  アメリカ国内では、日本人の移民も不法という法律を
 作って日本を差別し、また、日本人を差別した。
  この様な人種差別の行為も「戦争の大きな原因」だっ
 た。
  当然、日本は、この逆のアメリカ人を差別するような
 事は行っていない。
  アメリカは、本当に卑劣な事を色々するアメリカだっ
 た。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、そして、第二次世界大
 戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大をしようという方針・考
 えは少しもなかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカに支援を受けた中国軍が攻めて来た・・
 そのことから戦争は始まった。
  国際連盟でも評価されたように「日本には、戦争をす
 る意思もなく」、「拡大する意思も、方針も当然なかっ
 た」。
.
1937年8月13日、日中戦争が始まる・・この時、その発端の
 『上海事件(第二次上海事変)』が起きた。
  日中戦争は、1937年7月7日の盧溝橋事件からと言われ
 ているが、これは間違いで・・1937年8月13日の上海事件
 (第二次上海事変)から始まった。
  盧溝橋事件と上海事件の間は、約1ヶ月しかないが、盧
 溝橋事件には戦争になる様相はまったくなく、和平が行
 なわれていた。
  その後に・・国共合作が行なわれ・・日本と戦うとい
 う方針となり・・そして、アメリカの支援を受けた大攻
 撃が始まった・・故に、日中戦争は、上海事件から始ま
 っている。
  故に、日中戦争は、日中(米)戦争と言える。
  ベトナム戦争も、アメリカが、最初から加わっていた
 が・・、
  日中戦争においても、アメリカは司令官を置き、軍事
 顧問団を置き、大きな資金を援助し、多くの武器を供給
 し、秘密裏にアメリカ軍が日本を攻撃したりと、何処か
 ら見ても、日中米戦争の状態、もしくは、日中(米)戦
 争だった。
  アメリカは、アメリカ国民の方々に、この実態を明確
 に説明していないで、国民の目の届かない形(秘密)に
 して戦争を進めていた。
  アメリカは、アンフェアな国なのである。
  世界の目を誤魔化し、世界を繰る国なのである。
.
1939年9月1日、第二次世界大戦がはじまる。
  ドイツの陸・空軍が、ポーランド進撃を開始し第二次
 世界大戦が始まった。
  そして、1941年12月8日、大東亜戦争が始まった。
  日本は、この戦争を、アメリカによって「させられた
 戦争」だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、「私は戦争を作っ
 た」と発言した様な直接的な言葉だけではなく・・
  アメリカ主導の「ABCD包囲網」で、窮地に陥(お
 ちい)らされて、戦争へ『無理に』向かわせられていた。
  (参考)ABCD包囲網:アメリカ(A)、イギリス
    (B)、中国(C)、オランダ (D)が、日本に対し
     ABCD包囲網を作って、通商航海条約の廃棄、日
     本資産の凍結、対日石油禁輸などを強化して、
     太平洋戦争へと向かわせられ、導かれた。
  日本は、ドイツの様な突然の侵攻による戦端開始の理
 由ではなかった。
  日本は、その前から、アメリカが、中国へ武器の支援
 をしていたり、兵力を送って、隠れて、秘密裏に、日本
 と中国で戦っていたりした。
  (参考)この史料が公開されて明らかになっている・・
     アメリカは、ボランティアだと初めは言ってい
     たが、アメリカ大統領の承認した正規軍だとい
     う事も判明している。
  アメリカは、完全に勝つ戦争と思っており、当然、日
 本もそのことは知っていた。
  日本は、戦争になる前から、その様な分析はしっかり
 しても居たし、十分承知していた・・しかし、せざるを
 得ない事態に追い込まれて行った。
  戦争に至らざるを得ない事々を、いくつもなされてい
 た・・戦端を開かざるを得ない事情に追い込めて行かれ
 た。
.
1941年、アメリカによる「戦争に至らせようとする挑発」・・
  例えば、一例として、日本の領海内に、アメリカ巡洋
 艦を侵入させて、日本と衝突事件を引き起こそうとした
 りした。
.
1941年11月26日、ハル・ノート
  「厳秘」と書かれ、また、冒頭に、「一時的、且つ、
 拘束力無し」と書かれていたが・・、
  正式には「アメリカ合衆国及び日本国間協定の基礎概
 要」と称され・・、
  また、アメリカでは「1941年11月26日アメリカ提案」
 と言われている(提案ではなく・・最後通牒)
  この日に、日米交渉において、アメリカ側から和平を
 したい日本側に提示された文書だった。
  交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国
 務長官の名前から「ハル・ノート」と称されている。
  東京裁判で、判事であるインドのパール判事が・・、
  「この様な最後通牒を出されては、モナコでさえ武器
 をとって立つ。
  日本が戦争に至ったのは、当然の行為だった」と言う
 ほど強圧的な内容だった。
  また・・アメリカには、キリスト教の考え方から、「
 先に銃を抜からなければ、罪にならない」という考え方
 がある。
  だから故に、アメリカ西部劇でも「卑劣な殺し屋が、
 善人の農夫を撃ち殺す」という事件が起きる。
  金持ちの牧場主に雇われた殺し屋は、農夫の持つ農場
 を欲しい牧場主の依頼通りに、農夫を撃ち殺す。
  農夫は、愛する妻や息子のために、農場は、売りたく
 なかった。
  ここで、殺し屋が、とことん善人の農夫を虐(いじ)
 め、『人格攻撃の卑劣な言葉』を浴びせる。
  農夫をぎりぎりまで追い詰める悪漢・殺し屋。
  暴発せざるを得ない状況に追い込み、農夫が銃に手を
 掛けた途端、殺し屋は、その農夫を撃ち殺す。
  毎日、毎日、撃ち殺す練習をしている殺し屋には、何
 らいつもの練習通りの行動で、殺し屋には、何ら危険は
 生じていない事態だった。
  毎日、鍬(すき)や鍬(くわ)を持って、銃など持つ
 事のない善人の農夫。
  当然の様に、結果は、リスクは、農夫側に100パーセン
 トあった。
  しかし、キリスト教の考え方は、先に銃を抜いた農夫
 が悪く、殺し屋は無実になる。
  熱心なキリスト教を信仰するアメリカ大統領のルーズ
 ベルトは、この様な考え方を持って日本を徴発した。
  「先に日本に手を出させれば、アメリカは正義だ」だ
 った・・卑劣な考え方だった・・、
  ニューヨーク・タイムズが、その点を指摘したが、「
 その通りだった」。
  卑劣さのあるルーズベルトだった。
  法律に、「過失相殺」とか、「責任相殺」とかの考え
 方がある。
  キリスト教的な考え方を否定している。
  「撃たせた側」も責任は、免れ得ないとしている。
  一方的に片方だけの責任を追及するという考え方は「
 間違っている」としている。
.
1941年12月11日、日独伊三国間単独不講和協定を締結する・・
 しかし、裏切るドイツ。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の頃、すでに、日本は、
 「ドイツは、ロシアに次いで、最も頻繁に同盟や条約を
 破って来た国だった」と知っていた。
  「国際信義に劣る国」と知っていた。
  逆に、日本は、条約などの国際取り決めを、しっかり
 と守る国際信義の高い国だった(今もそうだが)
  しかし、日本は、1941年12月11日、日本・ドイツ・イ
 タリアと、「単独不講和の確約(日独伊三国間単独不講
 和協定)」を結んだ。
  (因みに、連合国側も同じことをやっていた)
  (参考)日本、ドイツ、イタリアのいずれも「相互ノ
     完全ナル了解二依ルニ非サレハ『アメリカ』合
     衆国及英国ノ何レトモ休戦又ハ講和ヲ為ササル
     ヘキコトヲ約ス」
  これは、それぞれ単独では連合国と講和をしないとい
 う協定だった。
  そして、日本は律義に、この協定を、約束を、最後ま
 で守り抜いた。
  日本は、連合国と停戦するきっかけを失った。
  だから、日本は、ドイツが、めちゃめちゃにやられ、
 破壊され、敗北し、そして、ドイツが無くなった後に、
 日本は降伏するという道をたどった。
  しかし、ドイツは、秘密にロシアと講和の交渉を、す
 でに、1943年に行っていた。
  それも、1944年まで、何度も行っていた。
  そして、アメリカやイギリスとも、講和を単独で行お
 うとしていた。
.
1943年11月5日、日本が、大東亜会議を、東京で開催した。
  第二次世界大戦(大東亜戦争)は、「栄光ある戦争」
 という言葉で表現することができる。
  この戦争は、アジアの国々の解放(かいほう、束縛を
 解いて自由になること)につながったことは論を待たな
 い、間違いない事実だ。
  この年・1943年、日本は、アジア各国の首脳を東京に
 招いて「大東亜会議」を主催し、各国の共存共栄を謳っ
 た。
  そして、「大東亜共同宣言」を発表した。
  アメリカや、ヨーロッパ諸国の植民地であったアジア
 各国の自主独立を唱(とな)えたこの宣言は・・、
  21世紀の今日(こんにち)、日本が、日本人が、世界
 へ誇れる行動の史実だ・・財産だ。
  そして、日本人は、この戦いに於いて、大変な団結心
 を示し・・また、目ざましい自己犠牲の精神を示した。
  明日の公正な社会を啓(ひら)く特攻隊などの行動が
 あった。
  (参考)啓く:ひらく、蒙(もう)を啓(ひら)くの意味
     《「啓蒙 (けいもう) 」を訓読したもの》道理に
     くらい者や知識に乏しい者を教え導く。
  命を捧げた日本の若者たちの行動と、その精神は、世
 界のどの国民の方々からも賞賛されている。
  中西輝政京都大学大学院教授は言われる・・、
  「私が、昭和40年代に、イギリスへ留学した時、そこ
 で言われたのが・・『あなたの国には、カミカゼを行な
 った素晴らしい人たちがいた』というものだった。
  私が、少し勉強を怠けていると、『あなたは、自己犠
 牲と大変な頑張りの精神を示した素晴らしい先輩のいる
 国の人でしょう。少しはしっかりしなさい」・・と、外
 国の人から言われたものでした。
  あの戦争で、日本人が示した自己犠牲の精神は、大い
 なる『民族の叙事詩』として、胸を張って子々孫々に伝
 えて行くべきものであり・・、
  日本人の世代が大きく変わろうとする今こそ、そのこ
 とを前面に押し出さなければならない時だ」・・と。
.
1945年8月6日、広島の原爆投下を、40キロ離れたところで
 経験した若松八郎氏は言う・・、
  「学校で変な光を見た直後、ものすごい衝撃が来て、
 空に変な雲が上がるのを見ました。
  幼年学校は、田舎に分散疎開し、私は、市の中心部か
 ら40キロほど離れた吉田という場所に居たので、被爆を
 免れました。
  吉田にあった赤十字の分院に、負傷者たちがトラック
 などで運ばれ・・、
  私たち幼年学校生は、彼らを抱えて、3日~4日、不休
 で病床に寝かせました。
.
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送。
  天皇陛下は終戦の詔勅(しょうちょく)で、「万世ノ
 為二太平ヲ開カムト欲ス」と言われた。
  日本が国として立って行くための基軸の大切さ、孫子
 (まごこ)の世代まで受け継いで欲しいというお気持ち・
 「大御心(おおみごころ)」をお言葉にされた。
.
1945年8月15日、第二次世界大戦(大東亜戦争)、この日、
 敗戦を宣言したが・・、
  日本のこの行動が・・アジア諸国の方々が・・、
 アメリカ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、植民地に
 されて、好き勝手をされていた・・その状況から解放し
 たいという事に関し・・この後・・、
 アジア諸国が独立して行くことで・・日本の目的は叶っ
 た。
  その1例を記せば・・、
  イギリスは、アジア各国の港を押さえ、植民地経営だ
 けでなく、アジア各国の社会資本にまで、イギリスの所
 有物の様に好き勝手に使用したりしていた。
  そして、香港やシンガポールの港さえ押さえ、船の燃
 料だった油や石炭を積むことのできるポイントを押さえ
 たりしていた。
  それを、日本が戦って、植民地を解放をしたことによ
 って、アジアの国々は独立し、植民地は無くなった・・
  そして、この様なイギリスに都合のよかった港も、「
 イギリスだけのものではなくなった」。
  イギリスは、日本を恨(うら)んだ。
.
1945年8月15日、鈴木貫太郎内閣が総辞職した。
.
1945年8月16日、日本政府が、明確に陸海軍に停戦を命じた。
  中国大陸では、9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続いた。
  中国・共産党軍は、陰に隠れて日本とは戦っていなか
 った。
  ソ連軍が、南樺太と満州へ侵攻を開始した。
.
1945年8月16日、ベトミンが独立を期して、総蜂起を発動し
 た。
.
1945年8月28日、蒋介石と毛沢東による国共首脳会談が開催
 された(重慶会談)
.
1945年9月5日、ソ連(ロシア)は、この日まで、不法に日
 本領土を奪い続けた。
  日本の領土の樺太、千島、北方四島に対してである。
  北方四島は、既に、江戸時代から日本の施政権がおよ
 んでいる・・、
  日本人が居住し、住み暮らし、経済活動がなされた地
 で・・ロシア人の「ロ」の字もない、完全な日本である。
  樺太は、日本人が住み始め、その後にロシア人が来て、
 住むようになった。
  その後なって、ロシアは樺太を混住地だと主張し始め、
  その後、日本とロシアの間で色々とトラブルが起き、
 問題は無くならなかった。
  日本とロシアは、千島列島と樺太の交換条約を締結し、
 問題の解決を図った。
  そして、第二次世界大戦の時に、ソ連(ロシア)は、
 アメリカのルーズベルト大統領にそそのかされて、日本
 の領土が欲しいと・・日本領土の各地に、「日ソ中立条
 約」を一方的に破棄して、日本領に攻めて来た。
  そして、日本領土の北方四島、千島列島、樺太などを
 占領した。
  北方四島は、択捉島(えとろふとう)、国後島(くな
 しりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼ
 まいしょとう)で、当然、日本の固有の領土。
  終戦の時、1万7000人の日本人が住んでいた。
  そして、8月28日~9月5日の武力行使で、北方四島や
 千島列島や樺太を奪った。
  現在も、日本へ返還しないで「不法占拠」を続けてい
 る。
.
1945年9月8日、連合国軍が、東京に進駐した。
  以後、都内の建物の600箇所以上を接収した。
  アメリカの日本の戦後統治の草案は、反対意見もあっ
 たが、主流となっていた案は、完全なキリスト教の「シ
 ャロームの考え方・教義」で、完全破壊であった。
  日本の工業力を根こそぎに破壊する・・だった。
  それでなくても、日本は、爆撃で完全に破壊され、荒
 廃し尽くされた状態だった。
  まったく血も涙もない案だった。
  この上に、こんな懲罰を加えるアメリカに正義が、あ
 る訳はなかった。
.
1945年9月10日、GHQが、大本営廃止を発令した。
  (9月13日24時以前に廃止)
.
1945年、勝てば官軍ではないが・・、
  今・現在(21世紀)、敗戦国サイドに居たくないと、
 「我々は、戦勝国だ」と言い出す国や・・、
  戦争もしていないのに、戦勝国サイドに居たんだよと
 主張する節操の無い国や・・、
  また、敗戦が、見えてきたら、戦争遂行者はこいつだ
 と、その一人が全責任あるようにして、捕らえて殺し、
 我々は、だから戦勝国サイドに居ますと言っている国、
 卑怯な国々がある。
  イタリアは、卑劣なリンチ(私刑)で、ムッソリーニ
 を殺した。
  戦後の裁判も行われず、総括して無い卑怯な国などが
 ある。
  連合国の追及の逃れている。
  日本は、堂々と、国際社会の中で事を処して来た。
  日本は、ドイツに共にソ連侵攻などの作戦案があった
 (ドイツから誘われた)、しかし、日本は、ソ連との「
 中立条約があるから・・それを守った」、
  しかし、その後、アメリカのルーズベルトは、その条
 約を破って、日本へ侵攻した方がよい・・その領土は認
 めると、ソ連を誘った・・日本が守った条約を、ソ連は
 破って日本へ攻めて来た。
  ソ連が、以前から、領土を欲しがっていたことを、ル
 ーズベルトは知っていたので・・誘ったのだった。
  ソ連は、その誘いに乗って日本との条約を破って、ア
 メリカの誘いの通りに、日本へ侵攻して来た。
  日本の多くの入植者の方々が、ソ連の戦車に踏みつぶ
 され、機関銃で撃ち殺された。
  中立条約国のソ連が、日本の虚を突いた。
  町でも、野でも、日本人は殺され・・また、日本の女
 性方は強姦され、また、殺された。
.
1946年2月2日 ソ連が、不法にも、全樺太と全千島列島の領
 有を宣言した(2月20日説あり)
.
1946年7月4日、フィリピンが独立した。
  第三次フィリピン共和国がアメリカ合衆国より独立し
 た。
.
1946年8月、インドネシア共和国が独立を宣言した。
.
1946年9月、ベトナム民主共和国が対仏独立を宣言した。
.
1946年12月、フランス軍が共産ベトナムを攻撃開始した。
 (インドシナ戦争勃発、~1954年)
.
1947年8月14日、パキスタンが、イギリスから独立した。
.
1947年8月15日、インドが、イギリスから独立した。
.
1948年1月4日、ビルマが、イギリス連邦を離脱して独立を
 宣言した。
.
1948年2月4日、セイロン(スリランカ)が、イギリスから
 独立した。
.
1949年12月27日、独立戦争の結果、インドネシアの独立が、
 オランダから承認された。
.
1989年6月4日、六四天安門事件(第二次天安門事件)
  民主化を求めるデモ隊と中国軍や警察との衝突。
  多数の死傷者を出した。
  中国の天安門広場の前で、戦車の前に立ちはだかった
 中国市民の英雄・・
  今、どうなって居られるでしょうか?
  日本にも、幾多の若い英雄が、勝敗を度外視して、ア
 メリカの前に立ちはだかった幾多の若い英雄が居られま
 した・・
  昨日までの若い市井の青年たちは、特別攻撃をされて
 行きました。
  トルコのイスタンブールの市民の方々も、戦車の前に
 立ちはだかりました。
  中国・天安門の場合、へしまがった持ち主の居ない自
 転車が、何台も路上に散乱している写真を見ました。
.
2003年7月、中国は、前言を取り消した・・香港のこと・・
  中国の姿勢。
  中国は、昔から覇権志向である。
  「短期の国際協調、長期の覇権志向」である。
  鄧小平が、「今は豊かになることに専念する」は、本
 質は隠して、陰に・・覇権志向がある。
  鄧小平の言葉・・、
  「冷静観察、沈着対応、船光養陶、決不当頭」
  (頭を低くして冷静に観察して、落ち着いて対処し、
 こちらの能力を見せつけてはならない。
  外国との摩擦は・・極力避け、経済発展がある段階を
 越えるまでは隠忍自重し、好機を待て、
  決して先頭に立つな・・
  矛盾は矛盾のまま放置し、将来の解決に備えるにとど
 めよ。
  自らの力を付ける事に、何よりの関心を集中せよ」。
  そして、問題をすべて「政治化する」・・、
  靖国問題、歴史教科書問題・・など、など・・
  また、中国は、言った事を守らないことが、甚(はな
 は)だしい。
  また、言ったことを・・直ぐ変える。
  中国に言わせれば、「君子豹変するものだ」と言いた
 いのだろう。
  言ったことだって、「何時、変るか?」安心していら
 れない。
  鄧小平が、「香港の自由は、今後、百年経っても保障
 する」と言ったが・・??
  2003年7月の6年後に、前言を取り消しとなった。
  香港の1割の市民の方々・60万人の方々が、デモに立
 ち上がった。
  台湾にしたって、明治の日本政府に、「化外の地だ、
 御自由にどうぞ」と、中国は言ったのだ。
  (参考)化外の地:(けがいのち)は、中華文明に於
     いて文明の外の地方を表す言葉。
      中華思想では、中国の権力・法律が行き届か
     ない地方、中国の領土外のことをいい、また、
     その地方に住む民族を「蛮族」と呼んだ。
      中国の古代では、中原から遠く、中華文化の
     影響が薄かった台湾・海南・新疆などのことを
     指す。
  南シナ海の九段線にしたって、「2000年前から、中国
 のものだった」と言っているが、船もない時代のことの、
 裏付けのない事を、中国は言っている。
  覇権を得たいがための妄言だ。
  だから、国際司法裁判所の「中国の権利は及ばない」
 の判決は正しい。
  これ等の事に対処するためにも、日本は、情報を得る
 手段を構築し、また、ミサイルの脅威に対処する手段も
 構築すべき・・、
  戦前、アメリカの画策によって、「日英同盟が破棄さ
 せられた」・・が・・これが、大きな問題点だったが・・
  そして、今、日本は、日米を基軸の中心とすべきだが・・、
  しかし、アメリカには、今ですら、建国以来の覇権志
 向があって・・日本の志向する方向と違って来る時があ
 る・・
  これには、注意しなくてはならない。
.
2015年7月5日、ギリシャの国民投票が行われ・・
  『EUの再建策を受け入れない』・・となった。
  厳しいEUの再建策は、『嫌だ』と、ギリシャの人々
 は、国民投票で意思表示をした。
  金を借りる時は、「にこにこ顔だったギリシャ」だっ
 たが、その金を返す段階になったら・・豹変した。
  この様な事は、こと・・ギリシャに限ったことではな
 いのだが・・? 
  また、ギリシャは、借りた金のほとんどを飲み食いに
 使ってしまっていた。
  ギリシャという国を改善するための投資の金という名
 目の金も、ギリシャは消費に使ってしまった。
  投資で「利潤が生まれる」という展開では無かった。
  ギリシャの人々は、チプラス首相を頼った。
  チプラス首相は、EUを批判した・・、
  「再建策の提案は、EUのルールと基本的な権利を侵
 害している」・・と、
  そして、「そのEUの再建策を受け入れるか?どうか
 は、7月5日の国民投票で決める」とした。
  ギリシャが借りた金を返す期限は「6月30日だった」。
  債務の返済期限を越えた、債務の支払期限を越えてい
 る・・もう、この時点で、返済を無視した話だった。
  EUは、『唖然とした』。
  「新たな融資」にも踏み切れない状態だった。
  ギリシャは、この時点で「アウト」がそのルールだっ
 た。
  債務不履行である。
  ギリシャは、デフォルトとなる訳だった。
  しかし、『うやむや』の空気が流れた。
  ギリシャも『デフォルト』は嫌だった・・避けたかっ
 たが・・EUも嫌だった。
  ギリシャ国内では、急速にユーロが無くなって行き、
 銀行ではお金が下ろせなくなった・・または、少額しか
 下ろせなかった。
  ECB(欧州中央銀行)は、緊急で、ユーロを放出し
 て支援した。
  しかし、この様な状態が長く続くとは、誰も思わなか
 った。
  銀行の業務が滞(とどこお)ると、貿易も止まった。
  NGO(非政府組織)も金が下ろせず、NGOが援助
 している難民救済の業務はできなくなった。
  しかし、そのギリシャの国民投票の結果は、チプラス
 の勝利となった。
  EUの再建策は受け入れないとなった。
  ECB・IMF(国際通貨基金)・EUは、大きなシ
 ョックを受けた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)583E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年6月、帝国海上保険会社が設立された。
  安田火災海上保険の前身の一つ。
  そして、この年、東京火災保険(株)を傘下に入れ、
  翌・1894年、共済五百名社を改組して、共済生命保険
 (資)とした。
  1899年、安田商事(名)を設立し、ここを拠点に金融以
 外の事業へも進出を図ったが、おおむね成功を収めなか
 った。
1893年6月、国産蒸気機関車の第1号が完成した(5月説あり)
  イギリス人技術者の指揮の下、日本初の国産機関車で
 ある860形の1輌が、鉄道庁神戸工場で製造された。
  故に、この860形は、日本国有鉄道の前身である逓信省
 鉄道庁が、自庁の神戸工場で製造したタンク式蒸気機関
 車で、
  記念すべき日本初の国産蒸気機関車(車軸配置2-4-2
 (1B1)で2シリンダ複式の飽和式タンク機関車)である。
  設計と製作の指揮を行ったのは、当時、神戸鉄道局の
 汽車監察方として雇われていた、イギリス人のリチャー
 ド・フランシス・トレビシック・・、
  彼は、当時、イギリス本国で注目を集めていた2シリン
 ダ複式機関車の試作を思い立った。
  そして、森彦三や太田吉松といった日本人の技術者た
 ちを指揮して、1892年10月、本形式の新製に着手した。
  また、実際の製造に携わった神戸工場の工員たちも、
 すべて日本人であり、外国人の工員は一人もいなかった。
1893年7月3日 筑豊興業鉄道会社線の小竹~飯塚間が開通し
 た。
  これによって、直方~飯塚間が全通した。
  かつては、石炭輸送が盛んであって、炭鉱などに通じ
 る多くの貨物支線が有ったが、炭鉱の閉山によって、現
 在はすべて廃止されている。
  現在の列車は、旅客列車のみとなっていて、直方市~
 飯塚市などの市町から、北九州市・福岡市などとの通勤・
 通学路線となっている。
1893年7月10日、東京美術学校で第1回卒業式が挙行された。
  横山大観らの11人が卒業した。
  東京美術学校は、1887年に設立された美術専門学校で、
 日本初の美術教員・美術家養成のための機関だった。
  1886年~1887年にかけて、文部省図画取調掛委員とし
 て、岡倉覚三(天心)およびフェノロサは、欧米調査旅
 行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 もので・・、
  美術学校の組織管理、および、学科教授法も含まれて
 いた・・、
  1887年10月、2人の報告に基いて、勅令により図画取調
 掛および工部大学校内「工部美術部」を統合・改編し、
 東京美術学校が設立された。
  修業年限は2年で、基礎実技と学科を担当する「普通科」
 は3年で、専門科目を担当する「専修科」も設置した。
  取調掛委員長の濱尾新は、事務取扱にとどまり、
  1889年2月の開校後・・、
  1890年に就任した岡倉覚三が、事実上の初代校長とな
 った。
  副校長は、フェノロサが務め・・、
  開校時の他のスタッフは、岡倉を幹事、フェノロサを
 「雇」(外国人教師)としたほか・・、
  教官は、黒川真頼、橋本雅邦(教諭)、小島憲之(嘱
 託)・・、
  後に、川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らを
 加えた。
  教官となったのは、ほとんどが日本画家などの伝統的
 美術家で・・、
  (狩野芳崖も、教授就任が打診されていたが開校直前
 に死去したため実現しなかった)
  伝統美術の振興をめざす岡倉とフェノロサの理念が具
 体化された形となった。
1893年7月11日、御木本幸吉が真珠の養殖に成功した。
  御木本幸吉が三重県の英虞湾で、真珠の養殖に成功。
  真珠5粒をあこや貝のなかから取り出した。
  この真珠は半円のものだった。
  御木本幸吉(みきもとこうきち、1858年3月10日~1954
 年9月21日)実業家。養殖真珠の創始者(ミキモト・パー
 ルとして、世界的に有名)、真珠王と言われる貴族院議
 員。
  1858年、志摩(三重県)の「うどん製造販売業」の長
   男に生まれた。
   幼い頃から、旧藩士や、洋学者のもとへ勉学に通う。
   少年時代には、青物行商など行なって、生計を立て
   た。
   商才もあり、鳥羽沖に停泊したイギリスの測量船に
   青物を売り込み、外国人を相手にする商売のうまみ
   を開眼した。
  1880年(22歳)鳥羽町会議員となる・・また、海産物
   取引などに従事し・・天然真珠の売買も行った。
   進取の精神のある祖父の血を受けた幸吉は、地の利
   を生かす海産物取引に着眼した・・
   そして、干しアワビを取り扱ううちに、真珠へ関心
   を寄せた。
  1887年(29歳)明治天皇陛下の母君(英照皇太后)へ
   真珠を上納する。
   この時を切っ掛けに、真珠貝の増殖に取り組み、腐
   心する。
  1888年(30歳)真珠貝の養殖を試みる。
  1890年(32歳)第3回内国勧業博覧会に、真珠貝(アコ
   ヤガイ)や真珠を出品した・・、
   審査官の動物学者である帝国大学 (現:東京大学)
   の箕作佳吉(みつくりかきち)氏に出会う。
   真珠養殖を決意(アコヤガイの乱獲による絶滅寸前
   を憂えた・・、
   当初は、アコヤガイの養殖を始めて・・、
   後に、真珠そのものの養殖を思い立った・・ここで
   箕作先生らの指導を受ける)
   (着眼したのは、アコヤガイに、ガラスや貝殻など
   で作った半球形の核を挿入すること・・)
   箕作佳吉・西川藤吉・見瀬辰平の各氏らの労苦ある
   指導を受けて・・、
   この後、稚貝の養殖に成功する・・、
   (アコヤガイは、水温8℃以下では死滅する・・
   冬季の湾内の真珠いかだは、冷潮に注意しなければ
   ならなかった・・そのため、西方の温暖な五ヶ所湾
   や、南方の海山町(みやままち)の引本や尾鷲市九
   鬼方面へ移動した)
   さらに、本格的な真珠養殖に着手する。
   幾度かの失敗を重ね、辛苦を重ねる・・
   また、真珠貝の他にも、カキ、エビの他県への移植
   などにも活躍した・・
  1893年(35歳)志摩相島 (おじま、現:真珠島) で養
   殖の成功をみる・・
   そこには・・タンポと呼ばれる金網の籠をつるした
   養殖いかだの点綴(てんてつ、一つ一つを綴り合わ
   せること)する湾の風景があった。
   この時、半円真珠を、初めて市場に出した。
   また、御木本は、養殖真珠に関する資料を収集し、
   相島の施設を整備し、この島を観光の島へとして行
   く・・、
  1896年(38歳)養殖技術に関する特許を取得する。
   この後、数々の特許を獲得・・、
  1899年(41歳)銀座裏に、御木本真珠店を開店。
   この頃から、ほぼ毎年、海外博覧会へ出品。
  1900年(42歳)パリ博覧会へ真珠を出品。
  1905年(47歳)真円真珠の養殖法に成功する・・天然
   真珠と異ならない品質だった。
   以後、これを事業化。・・、
  1907年(49歳)三重県の見瀬辰平氏が、真円真珠の特
   許を得る。
  1919年(61歳)ロンドン市場に売り出す。
   この頃から、ロンドン、ニューヨーク、パリなどに、
   直販店を開設し、「世界のミキモト」としての地位
   を確立して行く・・、
  1928年(70歳)養殖場を志摩郡の英虞湾・田徳島(後
   に、多徳島へ名称変更)へ移転する。
   また、県外へも養殖場を拡大する事に意を用いた。
   事業が成功に導かれたのは、この優良な養殖場が確
   保できた事にもあった。
   そして、3回の外遊の時にも、日本の真珠を積極的に
   宣伝し・・、
   養殖真珠は、日本の重要な輸出品にまで高められた。
   また、販売面において、海外市場の開拓に多大な功
   績を残した。
  1954年9月21日、死去する。96歳・・没後、勲一等が
   贈呈された。
   御木本幸吉の誕生の地には、パールアイランド、養
   殖真珠のモデル工場、真珠博物館、海女実演場など
   がある。
  [言葉]:人間は運と知恵だけでは成功しない。健康が大
     切だ。
  [モットー]:世界中の女性の首を真珠で飾りたい。
1893年7月11日、アフガニスタンとイギリス領インドが、国
 境線を画定した。
  アフガニスタンは、イギリスと第二次アフガン戦争を
 せざるを得なかった。
  1879年、この戦争の結果、アフガニスタンは、イギリ
 スに外交権を奪われ、保護国となった。
  本当は、アフガニスタンの激しい抵抗は功を奏してい
 た。
  そして、事実上は、アフガニスタンは勝利し、イギリ
 スは敗北していた・・が・・、
  しかし、イギリスは、外交渉に於いて・・、
  「イギリスは、アフガニスタンの内政には、一切、干
 渉しない。
  故に、だから、アフガニスタンは、イギリス以外のい
 かなる国とも政治的な関係を結ばない」・・という約束
 を、アフガニスタンから取り付けた。
  これは、事実上のアフガニスタンの『保護国化』だっ
 た。
  そして、また、イギリスは、イギリスになびく、また、
 イギリスに都合のよい「王の擁立に成功した」。
  このアフガニスタンの王と、イギリス領インドとの間
 で、この年・1893年、国境線の画定がなされた。
  この時、アフガニスタンの側が不利であった・・が・・、
 アフガン国王への補助金を、年間120万ルピーから180万
 ルピーに引き上げるという話で・・納得させた・・させ
 られた。
  しかし、無理に確定した、各民族の納得する確定では
 ない「無理があった」ため・・、
 「民族の意思を無視する面」もあったため・・問題を残
 し・・また・・、
  アフガン国王も、『暫定的なものだ』というようなこ
 とも言われていたので、その様に思っていた・・しかし・・、
  しかし、その後、改訂されるようなことは・・行われ
 なかった・・その様な・・イギリスだった。
  インド側にも不満があるし、この様な、『イギリスの
 ペテン的なやり方』は、現代に至っても、問題は解決せ
 ずに・・、
  現代に至っても『引きずる問題』となっている・・
  こういう意味で、イギリスは、世界のあちこちで、こ
 んなことをやって来ていて・・『問題を作る国』だった。
  今・現在の・・ターリバーン政権の誕生や、国際テロ
 組織がからむ問題にもつながっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:結局、中国は、軍拡は無駄だという事を・・理解すべきだ。
.
紀元前3300年頃、この頃からメソポタミアの地に、シュメ
 ール人の文化が生まれた。
  砂漠化が進む気候の中で・・、
  チグリス・ユーフラテス河に集まった人たちは、その
 豊かな水で、大規模な農耕をした。
  河は、定期的な洪水で、肥沃な土を運んで来た。
  紀元前2500年頃になると、このシュメール人は、『ウ
 ル第一王朝』の王国を築いた。
  エジプトは、砂漠と海に守られて、安定した社会だっ
 た・・が・・、
  ・・が、しかし・・このシュメール人の地は、侵入さ
 れやすい地だった。
  アラビア半島や、イラン高原や、アナトリア高原(小
 アジア、現在のトルコ)などから、様々な民族が、メソ
 ポタミアの地へ侵入した。
  そして、シュメールは、セム系のアッカド人に滅ぼさ
 れた。
  アッカド時代(紀元前3350年~紀元前2180年)になっ
 た。
  そして、セム系のアムル人が、紀元前1830年に、メソ
 ポタミア全土を統一し、『古バビロニア王国』を建国し
 た。
  セム系はアジア人で・・アラブ人、ユダヤ人、フェニ
 キア人、エチオピア人などがセム系。
  この古バビロニア王国は、紀元前796年まで続く・・、
  この王国は多神教で、神の総数は4000もあった。
  シュメール時代から受け継がれて来た神があったり、
 アッカド時代に加えられた神々があったりした。
  古バビロニアの時、君主が、マルドゥク神を最高神と
 した。
  メソポタミアも、多神教の神々の中の一つの神を、最
 高神とした。
  多神教から一神へ代わっていく、変化があった。
.
紀元元3000年頃、この頃より、地球規模で雨量の減少が始
 まり・・、
  紀元前1000年頃に至ると、現在の様なアフリカ北部か
 ら中近東を経て、チベットなどのインド北部に至る広大
 な乾燥地が出現した。
.
紀元前2300年頃、インドの北西部のインダス川流域にイン
 ダス文明が作られた。
  インダス文明は、現在、インド南部に居るドラビダ人
 によってつくられ・・、
  農耕に基礎を置き、多神教を信じた。
  このインダス文明は、地球が乾燥化して行く中で、紀
 元前1800年頃に終焉した。
  インドは、紀元前1500年頃に至って、北方の遊牧民で
 あるアーリア人の侵入を受けた・・そして、新たな文明
 となった。
  アーリア人は、この後、インド北東部のガンジス川流
 域に本拠地を移し、農耕を始めた。
  アーリア人は、火で樹木や草を焼く焼畑農耕を行なっ
 た。
  紀元前1200年頃より、アーリア人は、火の神を農耕神
 とする信仰となった。
  この後、一時的に、太陽神やモンスーンの神を農耕神
 としたこともあったが・・、
  アーリア人の民の間には根付かず・・、
  アーリア人の信仰は、バラモン教の形となった。
  紀元前650年頃には、バラモンと呼ばれる司祭者たちに
 よって、ブラフマンが最高神とされた。
  この最高神は、『全世界(宇宙)の創造者』とされ、
  この信仰は、この後に、仏教やビンズー教やキリスト
 教へ影響を与えた。
.
紀元前21世紀頃、この頃から、エジプトの中王国の時代、
 アメン・ラーを最高神とする信仰が広がった。
  だが、この頃のメソポタミアは多神教だった。
  いろいろの神を信仰の対象とした。
  君主が、一時期、マルドゥク神を最高神としたが、民
 衆には定着しなかった。
.
紀元前17世紀頃、中国の殷(いん)(紀元前17世紀頃~紀
 元前1046年)が成立した。
  殷は、中国の王朝で・・文献で、天乙が夏を滅ぼして
 王朝を立てたとされ・・、
  考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。
  殷王朝の軍隊は、氏族で構成され、殷王による徴集を
 受けると、普段は農耕に従事していた氏族の構成員たち
 が武器をとり、出征するという形で軍隊を編成した。
  この軍隊を指揮するのは、各氏族の貴族だった。
  強大な軍事力を誇ったこの殷王朝は、度重なる戦争に
 勝利を収めるために、兵種、戦法、軍備などを発展させ
 て行った。
  その中で、特筆すべきは、「三師戦法」という大量の
 戦車を活用する戦術だった。
  殷王朝が、歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍
 制に変化するのは・・、
  殷の支配域が拡大して、黄河中下流域や、中原など、
 戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場となって行
 ったからだった。
  戦車は、歩兵と共同して戦いを行った。
  1輌の戦車には、3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、
 右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。
  戦車部隊は、5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する
 歩兵15人からなっていた。
  100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人・・、
  25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、
  戦車が、5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成さ
 れていた。
  戦車の運用法では、「三師戦法」が編み出され、これ
 は軍隊を左、右、中の3つの部隊に分け、互いに連携して
 敵に対処するというものだった。
  軍備は、戦車戦に適した戈や矛、弓矢、木製の盾、刀
 などが使われた。
  しかし、紀元前11世紀に、帝辛の代に周によって滅ぼ
 された(殷周革命)
  この殷は、農耕の繁栄をもたらす天の神「上帝神(じ
 ょうていしん)」を祀っていた。
  そして、殷の後半頃に「天(てん)」という最高神に
 なった。
  儒教を開いた孔子は、この天の考えを元に「『天』と
 は人間が従うべき真理である」と言った。
.
紀元前14世紀末、エジプトに、唯一神のアトン神の信仰が
 できた。
  しかし、このアトン神は、まもなく祀られなくなった。
  この一神教のアトン神は、新王国のエジプト第18王朝
 の国王と、アメン・ラーの祭司たちとの対立が切っ掛け
 で作られたものだった。
  エジプト第18王朝は、紀元前14世紀に入ったころから
 次第に国王の権力が拡大していたが・・、
  王都のテーベの神殿を本拠とする最高神アメン・ラー
 の祭司たちが、政治に色々と口を出し、王の政治を困ら
 せ、行き詰まらせ、王の権力を抑えるほどになった。
  アメンホテプ四世(在位:紀元前1377年~紀元前1358
 年)が王となった頃には、アメン・ラーの神殿の祭司た
 ちは、エジプト王国の収入の半分以上を自分たちが、思
 のまま消費するというありさまだった。
  忍耐の限界を超えたアメンホテプ四世は、新たな王都
 を築き、アメン・ラー神に代えて、アトン(アテン)神
 を新たな国の守り神とした。
  彼は、紀元前1373年、王朝発祥の地テーベを放棄し、
 新たな都テル・エル・アマルナを築いた(アマルナ改革)
  ここを、アトン神の聖地とし、神殿を築かせた。
  これは、王権と宗教的権力を一本化することを狙って
 もいた。
  (参考)エジプト第18王朝:紀元前1570年~紀元前1293
     年、新王国時代最初の古代エジプト王朝。
      アメンホテプ4世は、従来の多神教であったエ
     ジプトの宗教を変えて、世界初の一神教と言わ
     れるアテン神信仰を追求した。
      しかし、「実際は二神教であった」とする学
     説もある。
      それは、伝統的なエジプト宗教と同じく・・
     王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされて
     いた。
      神アテンは、アメンホテプ4世だけの神で・・、
      民は、アメンホテプ4世自身を神として崇拝す
     る様に説かれ、このアメンホテプ4世の神が、民
     を救済するという形だった。
  (参考)アメンホテプ4世:紀元前1362年?~紀元前
     1333年?、古代エジプト第18王朝の王(ファラ
     オ)(在位紀元前1353年?~紀元前1336年頃?)
.
1274年、元寇
  この年に、文永の役の元寇があり・・、
  この時は、900隻の船で、3万の中国の「元(げん)」
 の兵が、日本へ襲って来た。
  また、7年後の1281年6月、弘安の役の時は、4400隻の
 船で、14万の兵が襲って来た。
  この時の日本政府の鎌倉幕府は、よく戦った。
  鎌倉幕府の御家人たちは、よく防いだ。
  日本側は、略奪と暴行の被害を受けた。
  中国の元に駆逐された朝鮮軍も一緒になって攻めて来
 た。
  日本の九州へ襲来する前に、日本の「対馬(つしま)」
 を襲っていたが・・、
  その時、朝鮮軍は、日本の対馬の女性方を手籠め(性
 的乱暴)を加え、また、連れ去ったりしていた。
  朝鮮・韓国は、この件については、一言も触れない。
  日本の兵士・御家人たちは、新しい武器の攻撃を受け
 たが、よく戦った・・
  例えば、夜の闇に紛(まぎ)れて、元の船に乗り込み、
 さんざん斬り回ったあげく、船に火をつけて引き上げた
 りした。
  今・現代、中国が、尖閣諸島を奪いに来るときも、こ
 の様な状況になるだろう。
  多数の漁船に、漁師に見せかけた中国兵が、尖閣諸島
 に多数で来襲するだろう。
  2014年10月に起きた、日本の小笠原の珊瑚を奪う時も、
 最多となる212隻が来て、この手を使った。
.
2018年3月3日、アメリカの大陸間弾道ミサイルが『無力化』
 する。
  中国は、IMF(国際通貨基金)の出資金は少ないの
 に(日本より少ない)、自国の武力増強にばかり、金を
 使うという国になっている。
  その中国が、アメリカのICBMを無力化したという。
  日本の『核の傘』でもある「アメリカの核ミサイル群」
 を・・、
  中国が『無力化できる技術』を手に入れた・・という・・
  世界破壊の兵器・・全人類絶滅の兵器となっている核
 兵器。
  この日の読売新聞に・・アメリカの核弾道ミサイルが
 『無力化した』という記事が・・記載された。
  その記事を参考にして・・以下に記述すると・・
  表題は、「中国の『多弾頭型』警戒」「防衛研究所報
 告書」「アメリカのICBM破壊可能」とある・・、
  防衛省の防衛研究所は2日、中国の軍事情勢などに関す
 る報告書「中国安全保障レポート2018」を発表した。
  中国が開発して来た多弾頭型の大陸間弾道ミサイル(
 ICBM)「DF41」の配備が始まれば、『中国の核先
 制攻撃』で、アメリカのICBMを破壊できる態勢が整
 (ととの)うと分析した。
  報告書は、中国に対抗してアメリカがICBMをさら
 に配備数を増やす可能性を説明・・、
  ・・米ソの核軍縮も極めて困難となり・・『頓挫』・・
  中国は、核戦力を秘密にして・・透明性は極めてなく、
 「不透明状態」で・・透明性の欠如で・・これは大きな
 問題・・、
  2017年7月、中国は、渤海湾でミサイル実験を行った。
  その実験は、アメリカ軍を牽制(けんせい)するため、
 「空母キラー」という対艦弾道ミサイルを使用した・・、
  北朝鮮は、偶発的に核ミサイルを発射する可能性が高
 い国・・
  また、中国は、アメリカの「核の傘」を無力化できる
 技術を得たという・・
  その様な中で・・日本だけが「ノホホン」として・・、
 防衛の努力もしないで・・、その足かせになっている改
 善(憲法の改正・修正)もしないで・・、極楽天国状態
 にいる・・周りがどうなっているかも知らないで・・
.
2018年3月6日、中国の軍拡が、アメリカを揺さぶっている。
  標記の表題で、この日の読売新聞に記事がある。
  その記事などから・・その概要は・・、
  中国の軍事費の伸び率は、GDPの伸び率を常に上回
 わる、急激な拡大をしている。
  今年の軍事予算も、対前年比8.1%となって加速して
 いる。
  新兵器も、次々と投入され、力関係が変化している。
  軍トップの習近平中央軍事委員会主席は「世界一流の
 軍隊」を目指している。
  海軍・空軍・ミサイル分野の軍備増強を進め、この中
 国の急速な軍拡は、西太平洋でのアメリカの軍事的優勢
 を揺さぶりつつある。
  中国国産の最新兵器は・・、
 ・ステルス戦闘機・・アメリカ軍の最新鋭ステルス戦闘
   機に対抗して作られた第五世代戦闘機で、2月に実戦
   配備した。
 ・空対空ミサイル・・射程が300~400キロと長く、追尾
   能力も大幅に向上した。
   1月の訓練で戦闘機に搭載した・・今年中に配備する。
 ・攻撃型原子力潜水艦・・1月に沖縄県の尖閣諸島の接続
   水域に侵入した後継艦で、建造中。
 ・空母打撃群・・2020年までに、中国海軍は、3個空母打
   撃群の配備を計画。
 ・空母の配備・・中国海軍の空母1隻が就役、さらに1隻
   が進水済。現在、3隻目を建造中。4隻目から原子力
   空母とする。
 ・空母の戦略的展開・・2025年に、遠洋戦略ができるよ
   うにする。
   (米中の海洋戦力の構図に大きな変動が起きる)
 ・戦闘艦の増強・展開・・空母だけでなく、駆逐艦など
   の「水上戦闘艦艇」増強が大幅に増え、今年末に90
   隻となる。
   (これが、日本、台湾、東シナ海、南シナ海で米中
   が向き合う形になる。
   アメリカは60隻程度が配備限度・・)
 ・ICBM(大陸間弾道ミサイル)・・核弾頭が10個を
   搭載可能(DF41)で、北アメリカ全域を射程に収
   めている。
   命中誤差は僅少(100m)・・今年の前半に配備。
   極超音速滑空兵器が搭載される兵器の開発も進む。
  (参考)極超音速滑空兵器:ミサイル防衛網を突破で
     きる(防衛システムの無力化)
      迎撃は極めて困難。
      中国の新型弾道ミサイル「東風17」
      中国は、実験を7回実施し、6回成功。
      (アメリカより実験回数が多く・・アメリカ
     より進んでいる?・・と言われている)
      地球上の如何なる地点でも1時間以内で攻撃が
     可能。
      超音速(マッハ5~10、マッハ17~22)で飛ぶ、
     または、運動エネルギー弾を攻撃目標へ撃ち込
     む。
      無数の弾丸を極超音速で発射して弾幕を張る
     レールガン。
  (参考)アメリカのトランプ政権も、中国を「最大の
     脅威」と位置づけていて・・、
      2018年1月公表の「国家防衛戦略」で、2019会
     計年度の国防予算に約75兆円強を要求。
      核兵器による抑止力向上、極超音速兵器に対
     するMDなどの研究開発、艦艇などの通常兵器
     の増強などで、総合力で中国との長期的競争に
     打ち勝つ方針を示す。
  日本政府の反応・対応についても、同紙に記載されて
 いて・・、
  急激な拡大に警戒を強め、重大な関心事になっている、
 今後も動向を注視・・、
  中国政策の透明性向上を働きかける。
  中国の予算は、日本の3倍以上・・だが、日本の増額に
 は限度がある。
  現況は、沖縄県・尖閣諸島での中国潜水艦航行など脅
 威が起きている・・偶発的衝突を回避するメカニズムの
 早期運用開始に向けた協議を進めている・・だが、十分、
 機能するかは不透明・・、
  中国の驚異的軍備拡張に対し、防衛省は、今後も、尖
 閣への圧力を強めて来ると見ている・・アメリカの関与
 は不可欠と指摘。
.
2018年3月6日、中国の領土欲
  この日の読売新聞に、「台湾を得たい」という中国の
 方針が記されていた。
  表面上は「台湾統一」という言い方・・、
  それ故、新聞の表題も・・「台湾統一」推進を強調・・
 とある。
  中国の李克強首相が5日に行った政府活動報告で、台湾
 を中国の一部とする「一つの中国」原則に基づき、「祖
 国の平和統一のプロセスを進めなけらばならない」と述
 べた・・とある。
  そして、習近平国家主席も「台湾統一」が悲願で、強
 い意志がある・・と・・、
  李氏は、「両岸(中台)の同胞は歴史の大勢に順応し、
 民族の大義を共に担えば、中華民族の偉大な復興という
 明るい未来を創造できる」と述べた・・と・・、
  「中華民族の偉大な復興」は習氏が掲げる政治目標・・
 と・・、
  台湾も「中華民族」の一員として、世界の政治・経済
 強国への道をまい進する中国の隊列に加わるべきだ・・
 と・・
  中国内では、武力統一を求める声が出ている・・と・・
  ・・以上・・
  中国には、沖縄も中国の領土だという声がある。
  この記事の「台湾」というところを、「沖縄」と置き
 換えて読んでみて戴きたい。
  台湾の次は・・沖縄となる・・
  また、中国は北海道も狙っている。
  新聞は、中国の声を大きく伝えている。
  中国の言いたいことを伝えている。
  中国には、少数民族と言われる諸民族の方々が多く居
 られる・・が・・、
  この様な中国の言い方で、すべての民族が漢民族の下
 で、民族の発言が抑えられて来ている。
  そして、漢民族の政権の下に居させられている・・、
  台湾の本音は「独立」にある。
  中国国内の諸民族の方々も「独立」にある。
  つまり、各々の民族の方々の意思が「まったく無視さ
 れて」・・今まで、この歴史が展開して来たところに・・
 この問題の原点がある。
  そして、この問題に関して・・当事者の各民族の方々
 を阻害して・・当事者の各民族の方々と「まったく関係
 のない外国」が介入して来たというところに、この問題
 の原点がある。
  例えば、第二次世界大戦末期に、アメリカのルーズベ
 ルト大統領が介入して・・
  ソ連が、日本の領土欲しさに参戦し・・日本の領土の
 樺太・千島列島・北方4島をソ連(ロシア)に盗られたと
 いう様なことがある・・
  この時のルーズベルトとスターリンの様な事が起きて
 いる・・、
  この時の、弱まった日本の軍事力をいいことに、けし
 かけられたとはいえ・・ソ連は卑劣な筋の通らない行為
 をして来た・・中立条約を破棄をしてまでして・・、
  つまり、武力の格差が生んだお粗末な歴史展開だった。
  この意味からも、アメリカは、台湾へ核ミサイルを
 供与すべきだ。
  そして、場合によっては、これから、核ミサイル包囲
 網を構築して行くべきである。
  インドも入れたりして行くべきである・・
  中国が行動を起こせば・・『自分だけのみが良い結果
 になる』ということは妄想である・・その様な『妄想は
 するな』という事を理解させるべきである・・、
  つまり、中国が行動を起こせば、『中国を含めて、す
 べてが蒸発する』という時代に入っている・・その様な
 時代なのだ。
  『中国の諸都市も蒸発する』ということも理解すべき
 だ・・
  結局、中国の軍拡は無駄という事を・・理解すべきだ。
.
2018年3月8日、今のチベット
  この日の読売新聞に、今のチベットの状況が掲載され
 ていた・・事は、2008年に起きていた。
  2008年3月14日、チベットの方々が反抗した。
  可哀想に、この行動は、必死のチベットの方々の祖国
 奪還の戦いであった・・が・・「チベット暴動」と呼ば
 れてしまっている。
  今、日本が、これと同じ状況になったとしたら・・、
  日本人は立ち上がるか・・
  そして、その戦いを「日本人暴動」と呼ばれたら・・
  あなたは、どう思うのだ・・?
  今、戦争ではなく・・防衛の大事さを知るべき時なの
 だ・・、
  この時・・明らかに、チベットの方々は、遠い昔から
 住み・・そして、生活をして来たチベットの地を・・今、
 奪われつつある祖国を・・その中に居て・・取り返そう
 と行動を起こした・・
  中国は、漢民族をどんどん移住させた・・、
  今や・・「漢民族の中国人」が一番多い民族となって
 しまっている祖国の地・・、
  この様な国の奪い方をする中国・・
  これに反抗したのが、この行動・・戦いだった。
  「中国チベット自治区」と呼ばれるいるが・・事態は、
 現実は・・まったく反する状態にある・・
  自治はあるのか・・?
  あらゆる抑圧のある中に居て・・
  その一例・・首都・ラサ(日本で言えば東京)で、チ
 ベット民族の方々の宗教抑圧がなされている・・
  信仰の自由のまったく無く、中国好みに抑圧されてい
 る状態・・
  また、長く住んでいる方が・・そこから、半分、暴力
 的に追い出される・・
  まさしく民族差別の圧迫に、チベットの民衆の方々、
 僧侶の方々が立ち上がった。
  「武器などは何もない方々」が、その中国の非人道的
 な抑圧に立ち向かった。
  「素手のチベットの方々」に何ができるのか?
  できる事と言えば、中国の政府機関の施設の破壊・・
 商店の破壊・・放火だった。
  この抵抗は・・青海、甘粛、四川省などのチベット族
 の方々が多く生活している地域にも拡大した。
  (今は、中国の力によって拡散され、散らされている)
  中国政府は軍を出動させ、その力によって、いつもの
 様に抑え込んだ・・天安門の時もそうだった・・
  死者は200名と言われているが・・実際は不明・・
  中国は、外国報道機関などの報道を規制した。
  そして、正確な事も説明していない。
  北京五輪が5か月後にあることから、中国政府がその配
 慮から、今までの様な卑劣なやり方を控えるとみて、こ
 の時が選ばれた・・という。
  インドのチベットの亡命政府は「平和的なデモだった」
 と説明した。
  それが、この様な状況に至らせてしまったと・・中国
 のやり方を批判した。
  また、編集された映像などで(日本のNHKも、よく
 この手を使う)、チベットの方々の悪意の存在が際立た
 せられたという状況も起き、「世界の世論が繰られた」
 という事も起きた。
  チベット仏教の僧侶に変装した人間を出したりした。
  この様な偏見した見方に、正確な情報を提示したのが
 ダライ・ラマ14世だった。
  ダライ・ラマ14世は、アメリカへの訪問時に、シアト
 ルの地元新聞社とのインタビューで、チベット亡命政府
 内の若い方々が不満を持って行動を起こしたという見解
 を示された。
  以降、世界も中国の暴力に反対する意を示した。
  いつもの様に・・中国は、これを機会として、ラサ市
 内にある僧院を封鎖し、僧侶たちを幽閉した。
  日本の沖縄県も、中国は、「自分のものだ」という声
 を発している・・言うのは自由だといっても、言って良
 い事と悪い事がある・・デッチ上げは止めよ・・
  今、沖縄県に多くの中国人が流入し・・その実態を隠
 し・・そして、騒いでいる・・このことが常態化してい
 る。
  そして・・
  2018年3月8日の読売新聞には、『その後のチベット』
 についてが記載されていた。
  習近平政権は、「少数民族に対する政策の成果」を強
 調しているが、力によって抑え込んだだけ・・、
  チベット民族の方々は、信仰の自由や行動の自由は
 厳しく制限されたままという状態。
  その内、沖縄県の方々も外出禁止になるだろう・・
  渡航禁止になるだろう・・
  中国当局の抑え込み、弾圧を恐れて、真実が話せない
 状態となっている。
  「中国への、ゴマすり発言」が公の立場のものが、日
 本でなされている。
  NHKや朝日新聞や・・某政党などは酷いものだ。
  中国国内でも、この状態を・・せいぜい「本当の所は
 よくわからない」と発言する程度で、言葉を濁す・・、
  少数民族の方々が・・民族の催しをしようとすると警
 察車両が・・半端ではない多数の車に取り囲まれるとい
 う。
  巡礼などの移動も「することが出来なくされている」。
  日本などへの渡航もできなくされている(パスポート
 の発給が抑えられている)
  漢民族の公権力の監視下の生活となっている。
  2009年から2017年まで、抗議の焼身自殺をした僧侶の
 方々は「152名以上」と、その示す数が「本当のことを
 知らせている」。
  この様な場合・・中国当局は、焼身自殺をした家族を
 弾圧して、焼身自殺の行為を抑え込むことをしている。
  『漢民族による制覇』を狙う中国政府の形となってい
 る。
  そして、今、習近平は、その立場の任期を撤廃しよう
 としている・・そして、撤廃された。
  永久に、中国の今の立場に留まりたいとしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)582E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)582E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年6月~1893年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年6月15日、関西鉄道の桑名~名古屋間の建設に、免許
 状が下付された。
  関西鉄道(かんさいてつどう)は、大阪府中東部・三
 重県・奈良県・和歌山県を中心に路線を展開した。
  周辺鉄道会社を合併することで路線規模を広げ、名古
 屋~大阪間の独自直通ルート開設を実現した。
  東海道線との間で、壮絶な旅客獲得競争を繰り広げた
 ことで有名。
  その一つが・・、関西鉄道は、昼行1往復・夜行1往復
 で料金不要の急行列車を設定した。
  新式の「早風(はやかぜ)」(後の国鉄6500形蒸気機
 関車)を用いた急行は、同区間を昼行では下り5時間34分・
 上り5時間16分、
  夜行は下り6時間41分・上り6時間3分で走破した。
  この時、官鉄の下り急行列車は名古屋駅~大阪駅間に
 おいて昼行が6時間4分、夜行が5時間20分で走破し、運賃
 も同額の1円21銭であった。
  勝負は・・ほぼ互角という話がある。
  この様な前向きな技術的な「しのぎを削る研鑽」が、
 今・現代、世界に誇る新幹線・リニアモーターカーなど
 の日本の鉄道技術の日本の基底にある。
  この様な旅客サービスや車両技術において先進的な試
 みを行った関西鉄道だったが、この背景には、日本の鉄
 道技術の先駆者である島安次郎が、会社設立の初期に、
 技師として同社に在職していたことがあった。
  関西鉄道の本社所在地は、三重県四日市市浜田町。
  設立は、1888年(明治21年)3月。
  業種が鉄軌道業で、代表者は取締役社長・片岡直温。
  資本金は、24,181,800円(払込額)
  関係する人物は、前島密、鶴原定吉、島安次郎
  ∴上記データは1907年(明治40年)現在。
1893年6月17日、オーストラリアのカルグーリーで金が発見
 された。
  オーストラリアの金は、19世紀末に発見され・・、
  1885年に、ゴールドラッシュが起きている。
  この時は、北東部のキンバリー地区であった。
  その後、南西部のサザンクロスなどでも発見された。
  1892年に、クルガーディでも発見され・・次いで・・
  1893年に、近隣のカルグーリーでも発見されると、大
 規模なゴールドラッシュが発生した。
  現在でも、西オーストラリア州は、国内の金産出量の
 75%を占めている。
  因みに、1893年に金を掘り当てたのは、アイルランド
 人のパディ・ハナン。
  本当は、この金は、先住民のアボリジニの方々のもの。
1893年6月21日、初の観覧車(機械式)が公開された(シカゴ
 万博)
  この世界初の観覧車が誕生した切っ掛けは、フランス
 とアメリカの技術力競争だった。
  この4年前の1889年、フランスは、パリ万国博覧会を
 している。
  この時、フランスの技術を誇ったのが、当時、世界一
 の高さ(312メートル)を誇った「エッフェル塔」の鉄塔
 だった。
  当時、鉄がふんだんに使えるようになって建設技術が
 高度に発達した。
  エッフェル塔はその成果で、目玉となった。
  「鉄鋼時代の幕開けを告げる記念碑的存在」だった。
  1993年になり、アメリカは、このシカゴ万国博覧会で、
 このフランスのエッフェル塔を越えたかった。
  ここに現れたのがジョージ・フェリス。
  彼が考え出したのが観覧車・・高さ75.5メートル、ゴ
 ンドラ数36、各ゴンドラには40の座席と、20人の立ち席、
 1周20分、2160人乗り(全ゴンドラに安全確保のため、係
 員の同乗)だった。
1893年6月22日、三井銀行が合名会社に改組した。
  資本金:200万円。
  この年、三井総領家第10代当主・三井八郎右衛門高棟
 は家政改革に着手し、それまでの三井組を三井元方と改
 称した。
  最高議決機関の「三井家同族会」を設置し、組織の明
 確化を進めた。
  しかし、欧米では、資本主義経済が発展するにつれて、
 合名会社から株式会社へと変遷していて、かつ、企業の
 集中化が行われていた。
  1906年、三井家の副顧問を務めていた益田孝は、欧米
 を歴訪して、三井家同族会に「営業組織に対する意見書」
 を提出した。
  益田は、三井家同族や統括機関である三井元方は法人
 格を持たないため、事業は統括できても、三井銀行・旧
 三井物産・三井鉱山などが無限責任の合名会社では、三
 井家の資産を守れないため、有限責任株式会社化を提案
 した。
  検討の結果、三井家営業組織改正の大枠が決まった。
  主な内容は、
  (1)三井家の11名のみを出資社員とする合名会社を
    設立、
  (2)三井銀行・旧三井物産の株式会社化、
  (3)三井鉱山を三井合名鉱山部とする
 ・・などであった。
  全体の資産を統合し、本社を合名会社として参加に株
 式会社化した小会社を置く形は、イギリスのロスチャイ
 ルド家の様なコンツェルン型とした。
  (HPを参考にした)
1893年6月29日、シベリア単騎横断を成功した福島安正中佐
 が帰京し、宮中に参内した。
  福島安正(ふくしまやすまさ、1852年~1919年)陸軍
 軍人・男爵。
  1852年10月27日、長野県の生まれ・・信濃松本藩士・
   福島安広の長男・・
  1869年(17歳)藩命で東京に出て、開成学校(大学南
   校)で英語を学ぶ。
  1871年(19歳)中退。
  (参考)大学南校:(だいがくなんこう)明治初期の
     政府所轄の洋学校で、1868年、江戸幕府の洋学
     校開成所を維新政府が接収し、開成学校の名で
     復興した。
   司法省に入り、翻訳官から語学力を買われて・・、
  1874年(22歳)陸軍省に移る(文官・陸軍省十一等出
   仕)、次いで武官に転じる。
  1877年(25歳)西南戦争では、山県有朋の伝令使とし
   て従軍。
  1878年(26歳)陸軍中尉。
  1882年(30歳)朝鮮に派遣され、対韓作戦計画の調査
   に従事する。
  1883年(31歳)北京公使館付武官となり、
   満州(中国東北部)およびモンゴル方面を踏査した。
   中国・朝鮮関係の官職を経て、
   語学力に優れ、情報収集と外交に手腕を発揮して行
   く。大尉となる。
  1886年(34歳)インド半島を軍事視察する。
  1887年(35歳)3月、ドイツ駐在武官となってベルリン
   に赴任し、バルカン半島を視察する。
  1892年(40歳)駐ドイツ公使館付武官を辞任し、帰国
   の際、
  1892年(40歳)2月から、ロシアのシベリア鉄道建設の
   状況視察のため、1年4カ月かけて、ベルリンからウ
   ラジオストクへと単独騎馬でシベリアを横断して、
  1893年(41歳)6月、帰国した。世界の注目を集める。
  1894年(42歳)日清戦争(~1995年)の際は、第1軍参
   謀・・帰国後は、参謀本部第3部長、次いで第2(情
   報)部長。
  1900年(48歳)義和団事件に際して、臨時派遣隊司令
   官(少将)として出征する。
  1904年(52歳)日露戦争(~1905年)では、満州軍参
   謀、第2課(情報)課長として出征する。
  1906年(54歳)日露戦争後、参謀本部次長(1908年説
   あり)。中将に進む。
  1907年(55歳)男爵に叙せられる。
  1912年(60歳)関東都督になり満州を担当。
  1914年(62歳)陸軍大将となる(予備役)
   陸軍樹井伊一の情報将校として退官。男爵。
  1919年2月18日、没する(68歳)
  著書:「伯林(ベルリン)より東京へ単騎遠征」
1893年6月30日、ダイヤモンドエクセルシア(Excelsior
 Diamond)が発見された(1905年まで世界最大)
  大きさは970carat (190g)
  エクセルシアは、あまりに大きすぎて売れなかったた
 め、10個にカットされたという。
  因みに、世界最大のダイヤモンド原石は・・、
  1905年、南アフリカのカリナン鉱山(当時の名前はプ
 レミア鉱山)で発見された「カリナン」という石。
  大きさは3106カラット(621.2g)。
  長さ101mm、高さ63.5mm、幅50.8mm。
  鉱山の所有者であったトーマス・カリナンの名前にち
 なんで「カリナン」と命名された。
  この原石が採掘された時、現場の鉱夫は、あまりの大
 きさに、誰かがイタズラをして、ガラスを埋めておいた
 ものと思ったという。
  このダイヤモンドは、1907年に、66歳の誕生日を迎え
 たイギリス国王・エドワード7世に献上された。
  このカリナンをイギリスに輸送するときは、盗賊から守
 るために大騒ぎとなった。
  ダミー船もあり、また、ダミーの石もあり・・など
  厳重な警備アリ・・など・・
  しかし、本物は、普通郵便でロンドンへ送られたとい
 う。
  やはり、ダミーは、何度も、盗賊に狙われたという。
  そしてまた、アムステルダムの研磨所に運ぶ時も大騒
 ぎだったという。
  この時は、イギリス海軍の駆逐艦に積まれたという・・
 が・・これは、ダミーだった。
  本物は、研磨所の責任者が、ポケットに入れて、船に
 乗り、汽車に乗り・・アムステルダムまで運んだという。
  そして、3人の専属研磨職人が、1日14時間の作業をし
 て、8か月かかって研磨した。
  合計で1063カラットの9この大きな石と、96個の小さな
 石となった。
  その一つ、530.2カラットの石には、「ザ・グレート・
 スター・オブ・アフリカ(偉大なアフリカの星)」と名
 付けられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:だから、この様なことを続けるのは・・愚行だ・・と、
    ギリシャのチプラスは見た。
.
紀元前3000年、エジプトの乾燥化
  エジプトは、雨が少なくなった。
  森林や草原の後退が始まった。
  砂漠化に追われた人々は、豊富な水が得られる川の流
 域に集まった。
  このナイル川の水での農耕だけの食糧確保の生活とな
 った。
  狩りの獲物、魚、果実などの恵みを得る生活は、無く
 なった。
  この様な生活の変化から、民は、農業の繁栄をもたら
 す神の祭祀(さいし)を行なった。
  この様な中、広い農地を支配した豪族が現れ・・、
  紀元前2850年に、第一王朝が、ナイル川流域を統一し
 た。
  この王は、絶対的な権威を持つ王だった。
  そして、エジプトの中王国(紀元前2050年~紀元前1778
 年)と
  新王国(紀元前1570年~紀元前715年)の時代の都は、
 エジプト南部のテーベにあった。
.
79年8月24日、ベスビオ火山が爆発し、ポンペイが全滅し
 た。
  大噴火の翌日・8月25日の朝、噴火から約12時間後、
 火砕流と土石流が発生した。
  これによって、ローマ帝国時代のポンペイは全滅した。
 約2,000人が死亡した。
  ポンペイは、ローマ人の余暇地として繁栄し、最盛期
 の人口は約2万人と推定されている。
  18世紀に、発掘が開始された。
  娼婦の館などが発掘された。
  ここで、男女の交わりを描いた壁画が多数、出土した。
  このことから、ポンペイは、「快楽の都市」とも呼ば
 れている。
  火山灰を主体とする火砕流堆積物には、乾燥材として
 用いられるシリカゲルに類似した成分が含まれ、
  湿気を吸収し、また、隙間なく埋め尽くされているた
 めに、壁画などの劣化が抑えられ、当時の状態で、よく
 保たれている。
  食事を用意しているそのままが、一瞬に閉じ込められ
 た姿などが発掘された。
  紀元前90年に起きた同盟市戦争では、ポンペイは、反
 ローマ側に加わった。
  そして、市民権を求めて戦った。
  しかし、翌年の紀元前89年には、ポンペイは征服され、
 ローマの植民都市となっていた。
.
1392年、李氏朝鮮が、朝鮮・韓国の地に存在した。
  この年・1392年、高麗の武将・李成桂太祖が、恭譲王
 を廃した。
  そして、自らが、高麗王に即位し、成立させた。
  この国家は、朝鮮民族の最後の統一国家の王朝だった。
  1910年までの・・518年間もの長い期間、存在した。
  しかし、何ら生産的でない長いだけ王朝だった。
  朝鮮の民は・・虐(しい)げられた。
  李成桂は、この翌年・1393年、早くも中国の権知朝鮮
 国事に封ぜられ、属国化した・・
  朝鮮という国号も下賜され、与えられ・・
  1401年には・・冊封された。
  国号を中国皇帝に選んでもらうという事大主義の極み
 がなされていた。
  (参考)事大主義:じだいしゅぎ、自分の信念を持た
     ないで、支配的な勢力や風潮に迎合して、自己
     保身を図ろうとする態度・考え方。
     勢力の強いものにつき従う行動様式。
  中国が明から清に代わっても、冊封され続けた。
  李氏朝鮮・・この時代は、可哀想であるが、非常に貧
 しい時代だった・・どん底状態の朝鮮だった。
  因みに、日韓併合前の朝鮮庶民は、激しい身分制度の
 下で、最下層の奴隷が『30%を占める異常な社会』であ
 った。
  特権を持つ両班(やんばん)による拷問は、日常茶飯
 に行なわれた。
  女性方は、姓名さえ与えられず、もの同然の扱いを受
 けていた。
  一般庶民の方に至っては、一切の教育の機会も与えら
 れないという状態だった。
  (参考)両班:やんぱん、最上級身分の特権的支配階
     級で、官僚を出すことが出来た階級、身分。
      文官は東班(文班)、武官は西班(武班)に
     分けられていた。
      官位・官職を独占に世襲し、種々の特権・特
     典を受けていた。
  この様な、「棄民状態の国民・庶民」の上に居る両班
 たちの改革もなされないという状態だった。
  また、自浄作用の働かない社会だった。
  日本の様な、優秀な下級武士が、自己犠牲で、日本を
 改革して行ったという状況は、「夢のまた夢」であった。
  この様な李氏朝鮮が、長い時代、続いたという悲劇が
 朝鮮にはあった。
  民は、やむなく、この環境下に暮らした。
  ある人は、日本へ逃げて来た。
  今、難民が、EUへ流れ込んでいる様に・・、
  そしてまた、大国に寄ってしか生きられない国の状態
 の事大主義の時代だった。
  だから李氏朝鮮・・この国は、やむなく中国に冊封さ
 れた。
  中国は、属国としてこの国から利益を得た。
  生きるために、李氏朝鮮は、中国からの使節たちを必
 死に接待した。
  女性の提供は、常態化したその接待の一つだった。
  屈辱的なその行為を、朝鮮は、せざるを得なかった。
  その様な国としての行為は、その屈辱感とともに、心
 の底に沈殿した。
  無いことをあるようにして言う、日本の軍の行為が、
 同様ないかがわしさがあったと、日本の行為だけを、た
 だひたすらに・・ないことを、あるように言うのは、そ
 の沈殿した、鬱積(うっせき)した屈辱感の裏返しの行
 為だった。
  中国へ付くしかない状況の中での、日本への貶(おと
 し)め行為となっている。
.
1494年6月7日、トルデシリャス条約・・世界分割条約
  ローマ法王(教皇庁)は、何の権利もないのに、尊大
 にも、ポルトガルに、アフリカ南端を回って、インドに
 至る航海において、到達した陸地のすべてを、永久に、
 領土としてよいとした。
  スペインも、コロンブスが、アメリカに到達し、探検
 での功績をあげると、ローマ法王へ、この地の領有する
 許可を求めた。
  1494年、ローマ法王は、大西洋を東西に分ける線を決
 めた。
  そして、東で発見されるもののすべてを、ポルトガル
 のものとし、その西は、スペインのものとした。
  このキリスト教のローマ法王の愚行は、キリスト教国
 が、『発見したものはすべて自分のもの』という「盗人
 (ぬすっと)根性」の行為を、何ら悪びれず行なうよう
 に差し向けた。
  それと共に、先住民の方々が、何千万人という途方も
 ない人数の方々が、このローマ法王の愚行発言の行為に
 よって、殺されることとなった。
  また、この後、こんなやり方で、「アフリカも分割さ
 れる」。
  卑劣極まりない事が、世界中で、何度も起きる事とな
 る。
  ローマ法王は、16世紀の初め、そのキリスト教の宗教
 の汚さを糾弾され、抗議の嵐がヨーロッパに満ち溢れた
 時、海外へ向かう方針とした。
  それによって、弱者の先住民の「殺戮の布教」という
 蛮行が行なわれる結果となった。
  こんな卑劣な殺人をともなう布教を行なった。
  この方針を、特に、行なったのが「キリスト教のイエ
 ズス会」だった・・(日本では上智大学系列)。
  日本を植民地にしようとしたのも『イエズス会』。
  豊臣秀吉に見破られて、「禁教令を出さざるを得ない
 状況にした」のもイエズス会。
  この会は、世界中で酷いことをした。
  ザビエルも、このイエズス会のキリスト教宣教師。
.
1948年、この年のイギリスのロンドン・オリンピックに、
 日本は、出場停止処分となった。
  日本の戦った第二次世界大戦後、アジアのイギリスの
 植民地が、次々と独立して行ったので、イギリスは、非
 常に日本を憎んでいた。
  戦争前からイギリスは、「植民地が独立したら三等国
 になってしまう」と、植民地の独立を恐れていた。
  ロンドン・オリンピックに出場できなくなった日本の
 選手たちの為に、オリンピックの水泳競技決勝と同じ日
 に、日本選手権を開催した。
  1500メートル自由形に出場した古橋広之進は、18分37
 秒0で優勝した。
  この記録は、ロンドン・オリンピックの金メダリスト
 の記録より40秒以上も早かった。
  この古橋の快挙に、日本中が喜んだ。
  敗戦に打ちひしがれていた日本の方々へ、元気と勇気
 と、再び立ち上げるんだの復興への希望を与えた。
.
1950年11月10日、NHK東京テレビジョン実験局、テレビ
 の定期実験放送が開始された。
  NHKは、放送法に基づく特殊法人として1950年に設
 立された。
  設立目的は、放送法により「公共の福祉のために、あ
 まねく日本全国で受信できるように豊かで、且つ、良い
 放送番組による国内基幹放送を行うと同時に放送および
 その受信の進歩発達に必要な業務を行い、合わせて国際
 放送および国際衛星放送を行うこと」とされている。
  そして、1926年に設立された社団法人日本放送協会の
 業務を継承している。
  今、このNHKは、中国に非常に有利な放送を続けて
 いる。
  NHKが、「中国に人気がある」と自らを自慢するく
 らいだ。
  『NHKが、中国に一番信頼されている』と言うくら
 い、中国の意向に沿った放送をしている。
  「中国に有利な放送をしている」という理由で、この
 様な状態になっている。
  中国文明は、その歴史を見れば分かる様に、多くの民
 族が入れ代わり立ち代わりして来た。
  そして、世界中に華僑や華人社会を構築して来た。
  それ故に、地理的な関係は薄い。
  今、共産体制が、その結束を図っているが・・、
  その共産体制が崩壊すれば、その中心軸の崩壊ととも
 に、中国の一体性は崩壊する。
  冊封態勢にある北朝鮮も崩壊する。
  また、準冊封状態に揺れる韓国は、完全に中国軸へ揺
 れる行動に入っている。
  その様に、国家の存立は揺れ、危ういものなのだ。
  日本も、国家について「ノホホン」としていてはいら
 れない状態に特にある。
  この様な意味からも、日本の中心軸にある貴重な文明
 は、大切にして行かなければならない。
  その日本の文明を、破壊しようとする行動が、種々・
 色々な方面・所から行動を起こされている。
  日本の文明力が衰退したら、国家としての日本もおか
 しくなる。
  このことを知っておかなければならない。
  日本の国家と文明が、一対一の関係にあるのも、他の
 文明圏と大きく異なる所。
  今、この大事さに気付く人々が希薄になっている。
  ここに、日本の危機がある。
  この様な意味で、NHKは、日本の文明を破壊する活
 動をしている。
  戦争で国家の存亡が揺らいでも、日本の文明の「しっ
 かりした基底」があれば、日本は、日本国家は、しっか
 り立ち直った。
  社会に、この文明を残し、教育にも、しっかり引き継
 がれて行けば、安定したアイデンティティの揺らがない
 結果が存続する。
  「文明のゆるぎないこと」が大切。
  NHKには、この文明否定の衝動がある。
  文明破壊の衝動がある。
  日本の破壊に繋がっている。
  過去にもあった古い体質が、NHKにはある。
  国旗・国家への偏見が、NHKにはある。
  リオ・オリンピックで、NHKは、金メダル表彰の国
 旗掲揚を放送しなかった・・無視した。
  また、国歌演奏も放送しなかった。
  しかし、アメリカの国旗掲揚は放送し、また、アメリ
 カの国歌演奏も放送した。
  それも、そのすべてのシーンを、最初から最後まで「
 カット無し」で放送した。
  NHKは、この様な放送局。
  天皇陛下を無視し、軽視も、NHKはする。
  この様な異常な放送態度を、NHKは説明せよ。
  「放送の編集権でやった」と説明したが、それだけで
 は済まない。
  また、「芸術性からやったのだ」と、説明にならない
 説明で、NHKは、説明責任を果たせずに逃げた。
  NHKは、「芸術」や「編集権」を盾に、偏頗(へん
 ぱ)な片寄ったNHKイデオロギーを、NHKの巨大な
 放送機構を利用して、NHKの一部の偏見イデオロギー
 を放送し続けている。
  ロシアのソチ・オリンピックも、この様な状態だった。
  国家の存立にかかわる所を、大きく足を引っ張り下ろ
 すNHKなのだ。
  日本を貶(おとし)める放送もよくするNHK。
  NHKは、「東NHK(HNHK)」と、「西NHK
 (NNHK)」に分離し、互いに、切磋琢磨する組織に
 して・・改革せよ。
.
1991年6月12日、ピナツボ火山が爆発した。
  フィリピンのルソン島西側にある火山で、20世紀の最
 大規模の世界的大噴火をした。
  噴火する前には、標高が1745メートルあったが、噴火
 によって259メートルが吹っ飛び、標高が1486メートルに
 なった。
  噴煙柱最大高度は、成層圏である40kmに達し、
  火砕流は、18km流下し、
  火砕流堆積物総量は、48~71億m3と推定された、
  噴火直後の温度は、摂氏700度となり、
  堆積深が100mを超えたために、山腹の樹木・生物を全
 滅させた。
  この山の山麓には、1565年以来、スペイン人の殺戮を
 逃れた先住民の方々が居られたが、噴火のピークの予測
 に成功して、難を逃れた。
  大きな火山爆発があると凶作となり、数年後に、世が
 不安定となり、事件が起きる事が多い。
  因みに、日本は、この山の噴火後の防災工事の援助を
 行なっている。
.
2004年、腐りきっているEU。
  ギリシャに「まともな政党」が出た。
  苦しい国は、苦しいなりに、その状況を受け入れて、
 財政再建に努力しなければならないが・・それが当然な
 のだが・・そうは行かないギリシャだった。
  この年、その当然のことをしようという政党が、政権
 の座に就いた。
  たちまち、ギリシャの粉飾の財務状態が明るみに出た。
  EUに加盟する条件の3%は、まるで守られていなか
 った。
  粉飾し、その上、EUへも報告されていなかった。
  逆に、あたかも達成されているかのように見せかけて
 いた。
  ギリシャは、EU加盟の条件など最初から達成されて
 いなかった。
  最初から作り話だった。
  それも、何と! EUの多くの諸国が「3%条項を守っ
 ていなかった」という事も判明した。
  また、何と! ドイツでさえ、3%を大きく上回る赤字
 だった(政府の新規国債発行)
  無責任諸国の集まりのEUだった。
  嘘つき諸国の集まりのEUだった。
  2005年、EUのある機関が、「ギリシャの財政監査を
 させよう」としたら、EUの別の機関が止めさせた。
  隠すためで・・その様なEUとなっている。
  無責任組織のEUは、無責任な条件で、世界に存在し
 続けている。
  当然、隠したギリシャは、借金を増やし続けていた。
  外国の金融機関は、こんな隠したギリシャに金を貸し
 続けていた。
  ギリシャの最高責任者の首相も、ギリシャの財政赤字
 は、手に負えなかった。
  財政立て直しの計画は、先延ばしされた。
  それも、2009年、政権交代となった。
  新しい首相は、3.7%と言われていた赤字を、12.5%に
 訂正した。
  大幅修正をして、今までが大嘘だったことを世界に表
 明した。
  しかし、これも嘘だという事が、後で分かった。
  本当は・・15%だった。
  こんなことには、もう、誰も驚かなかった・・信用は、
 すでに、がた落ちのギリシャで、「ユーロ危機が起きた」。
  2008年には、アメリカの嘘である「リーマン・ショッ
 ク」も起きた。
  「正直者が馬鹿を見る」という・・不誠実な世界だっ
 た。
  ギリシャは、大した産業もない国だった。
  ギリシャの歴史のすべてにおいて、ギリシャには競争
 力が無かった。
  だから、ギリシャ政府は、借金の返しようが無かった。
  だから、ギリシャに入った投資という名目の金は、「
 単なる消費に使われた」。
  ギリシャは、食うために使ってしまった。
  投資の金が、新たな金を生む様なことは・・無かった。
  ただ、経済は、ギリシャに、まだ金が入って来る頃は、
  その金に煽られて、「バブルには・・なっていた」。
  そして、その嘘の経済バブルで、高い賃金が支払われ
 ていた。
  公務員の賃上げも、毎年、続けて行われていた。
  福祉にも、気前よく大盤振る舞いがなされていた。
  ギリシャの国民の方々は、ギリシャ政府の嘘で、実際
 の実情を、まったく知らなかった。
  事実が知れて、嘘がばれれば、破綻は、当然、早かっ
 た。
  誰の目にも、そのギリシャの借金は、「ギリシャが、
 返済できない」ところまで、膨らんでいるという事を知
 ることとなった。
  当然、ギリシャ国債の利回りは高くしないと、誰も買
 わなくなった。
  高くしても嫌だの「御免状態」となった。
  ギリシャは、資金調達に行き詰った。
  嘘つきギリシャの「なれの果て」だった。
  誠実にしなければ駄目なのだ・・何事も!
  ギリシャは、「助けてくれ」と、IMFに言った。
  このIMF(国際通貨基金)を通じて、日本のお金も
 流れている。
  日本は、IMFへの出資額は、アメリカに次いで第二
 位(2018年現在)
  日本は、『IMFを大きく支えている立派な国』。
.
2015年6月22日、EUで、醜(みにく)い駆け引きが演じら
 れた。
  結論から先に言えば、「ギリシャは、絶対に倒産させ
 たくない」のEUだった。
  倒産状態のギリシャを、倒産させることのできない
 EU・・ここに大きな矛盾があった。
  自由経済の嘘の不自由があった。
  2015年6月22日、ギリシャは、改革ブラン(改革計画)
 を、この日の締め切り「ぎりぎりの深夜」に提出した。
  EUの首脳が集まっていた。
  集まっていたって深夜で討議ができる訳でもなく、ま
 た、分析は、これからという状態だった。
  意味がないのを知りながら集まったのは『演技だった』。
  誰も居ないと、ギリシャのデフォルト(債務不履行)
 が決定だと受け取られてしまうのを恐れたからだった。
  それでなくても、前の週に、ギリシャでは、取り付け
 騒ぎが起きていた。
  ギリシャ国民が、貯金の引き下ろしに走る騒ぎがあっ
 た。
  1週間で、6000億円相当額が引き下ろされていた。
  そのような騒ぎを起こさない様にという演技だった。
  また、取り付け騒ぎを防ぐため、ECBは、急遽、ギ
 リシャの中央銀行に金を注入していた。
  こんな状態で、株式市場も極めて混乱していた。
  EU首脳は、明るく振る舞い、演技をした。
  しかし、ドイツの財相とフィンランドの財相は、あか
 らさまに不満を露(あら)わにした。
  「時間と税金の無駄だ」・・と、
  「提出リストには、何ら目新しいもの無い」・・と、
  ギリシャの若者の失業率は、50%近くだった。
  年金は引き下げられた・・公務員は退職させられた。
  公的なサービスも、機能しなくなっていた。
  多くの病院は閉鎖状態・・、
  やっている病院は現金支払いでなければ駄目・・
  薬も現金・・
  医療保険制度が崩壊していた。
  こんなギリシャへ、融資するサイドに居るECB・I
 MF・EUは、もっと引き締めをしなければ・・「援助
 はしない」と言った。
  年金のさらなる削減と増税が加わった・・、
  ギリシャの新しく首相になったチプラスは抵抗した。
  これ以上は無理だ・・の抵抗だった。
  ギリシャの儲かりそうなセクターは民営化されて、外
 国資本のものになった。
  これ以上は限界のギリシャだった。
  それでも・・ギリシャは、改革プランを書いたのだっ
 た。
  EUは、不満だったのだろうが受け入れた・・
  ギリシャのデフォルトだけは避けたかった。
  切れている首をつなげた・・
  これは、体よくギリシャの政治を奪っている姿でもあ
 った。
  現実として、奴隷化しているギリシャの姿が、そこに
 あった。
  ストーリーとしては・・「EUを形成する」という話
 はあるのだが・・実際は・・結局は・・ギリシャは牧場
 に放たれた羊状態だった。
.
2015年6月30日、この日が、ギリシャの返済期限だった。
  EUを作るは、机上の空論だった。
  ギリシャに、その金がない事は明白だった。
  この日が、ギリシャが、IMFへ16億ユーロ(約2250
 億円)の借金返済の期限だった。
  ギリシャのデフォルト(債務不履行)か?
  ギリシャが、新たな援助を受けるには、新たに「財政
 を再建する道筋」を「明確に示す」必要があった。
  財政再建の改革プランを・計画を作り、それをはっき
 り提示して、相手も納得し、承認してという手続きが、
 当然、必要だった。
  ここまでに至るほど金を貸した方も悪かったが、この
 状態に至って・・さらに、貸してあげるから、その返済
 計画を立てよと言っているのである。
  この話し合いが行われたが・・穏便に話はつくという
 生やさしい問題ではなかった。
  両者の言い分は、大幅に食い違った。
  両者に言い分はあった。
  ギリシャには、「無いものは返せない」という気持ち
 が基本にあった。
  だから、その改革プランは、返してもらう側からすれ
 ば「お話にならないレベル」というお粗末さだった。
  何度も、何度も、頭を寄せ合って、折衝し、「これが
 最後だぞ」などという言葉も出て、怒ったり、失望した
 り、気を取り直したりと・・子供がやる様な事をした。
  最後通牒なども、ギリシャは突き付けられた。
  「無い袖は振れない」というギリシャは、薄っぺらな
 改革プランを提出した・・その様なプランしか出せない
 チプラス首相のサイドだった・・
  EUサイドは、お話にならないと、ほとんど匙を投げ
 る状態だった。
  EUがギリシャと関係して、ギリシャは疲弊したとい
 うのが経緯であり、事実だった・・
  だから、この様なことを続けるのは・・愚行だ・・と、
 ギリシャのチプラスは見た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)581E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年5月、本多静六(のち東京帝国大学教授、林学博士)
 が、防雪林について、日本鉄道会社理事委員の渋沢栄一
 に進言し・・、
  野辺地付近の1.7ヘクタールに、スギ2万1196本と、カ
 ラマツ1005本を植林した。
  これが、わが国の防雪林の最初。
  本多静六(ほんだせいろく、1866年~1952年)林学者。
  1866年7月2日、武蔵(むさし)埼玉郡の生まれ(8月11
   日説あり)
   父の急死で生家の柳原家が没落し、少年時代は苦学
   した・・のち本多家の養子となる。
  1890年(24歳)帝国大学農科大学林学科を卒業。
  1890年(24歳)ドイツ留学(ミュンヘン大学)、国家
   経済学博士の学位を得て帰国。
  1892年(26歳)母校の帝国大学の助教授となる。
  1899年(33歳)「日本森林植物帯論」で日本初の林学
   博士となる。
  1900年(34歳)東京帝大教授となる。
  日比谷公園、明治神宮など各地の公園や庭園を設計し
 た。
  1927年(60歳)退官、37年間、教壇に立った。
   この間、国立公園・国定公園の創設、防雪林、水源
   林など造林学の実践に貢献した。
   また、帝国森林会、日本庭園協会を創立した。
   一方、山林、山地を自ら買って育成した。
  1930年(63歳)自らの森林の5000ヘクタールの美林を
   育英事業のために、郷里の埼玉県に寄付した。
   東大名誉教授となってからは、道徳の訓話の講演を
   行なったり、色々と人々を助けた。
  1952年1月29日(85歳)死去。
  日本最初の林学博士。
  国立公園設立に尽力した。
  著書:「本多造林学」「造林学前論、全5巻」「造林学
 本論、全5巻」「造林学後論、全3巻」。
  論文:「日本の植物帯殊ニ森林帯ニ就テ」「我国地力
 ノ衰弱ト赤松」「新人正観と新生活」
1893年6月6日、寺島宗則(62歳) 死去。
  寺島宗則(てらじまむねのり、1832年~1893年)薩摩
 (さつま)鹿児島藩士。外交官、政治家。伯爵。
  1832年5月23日、薩摩国出水郷脇本(鹿児島県阿久根市)
   の郷士・長野祐照の次男に生まれる。
   幼くして、伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子(よう
   しし、家督相続人となる養子)となる。
  1842年(10歳)蘭語学習を始める。
  1847年(15歳)江戸に遊学し、川本幸民らに蘭学を学
   ぶ。伊東玄朴の象先堂塾頭を経て・・、
  1856年(24歳)幕府の蕃書調所教授手伝となるが・・、
  1857年(25歳)薩摩(鹿児島)藩主・島津斉彬の要請で、
   鹿児島へ帰藩・・製鉄、造船、ガス、写真、電信な
   どの藩近代化事業に携わる。
   西洋文明技術の実際を会得する。
   藩医であったが・・幕府の蕃書調所教授手伝の復職
   となる。
  1861年(29歳)12月、幕府の第1回幕府遺欧使節に傭医
   師兼翻訳方の資格で福沢諭吉らと随員として随行し、
   ロンドンに2年間、滞在した。
  1865年(33歳)3月、薩摩藩遣英使節の一員として出水
   泉蔵の変名で留学生を率いて渡英する。
   帰国後、幕府に仕え開成所教授となる。
   2度にわたる西欧体験から雄藩連合政権を主体とする
   統一国家構想を説く。
   明治維新後、新政府に出仕。
   参与外国事務掛、神奈川府判事、神奈川県知事、外
   国官判事などを経て・・、
  1869年(37歳)外国官判事、外務大輔となる。
   創業期の外務省の整備充実に尽力、電信事業や造幣
   事業にも大きな功績を残した。
   その後、駐英大弁務使(駐英公使)を経て・・、
  1873年(41歳)10月、朝鮮問題で下野した副島種臣に
   代り、外務卿に就任、参議を兼務。
   樺太=千島交換条約の締結、江華島事件の処理など
   にあたった。
   懸案の条約改正交渉では、法権ならびに税権双方の
   同時回復は困難とみて、法権回復を棚上げし、関税
   自主権回復に全力を注ぐ。
  1878年(46歳)アメリカの治外法権を確認する一方、
   日本の関税自主権回復を承認させ、成功した。
   そして、日米約定 (吉田=エバーツ協定) を締結す
   る。
   イギリス人アヘン密輸入事件や検疫規則拒絶事件で、
   法権回復放棄に対する批判が強まった。
  1879年(47歳)引責辞職。
   結局、イギリス・ドイツの反対で日米約定は実施に
   いたらず無効となった。
   だが、相互対等の論理に裏打ちされた外交姿勢は、
   欧米に対する自主外交、アジアに対する条理外交と
   して評価された。
  1884年(52歳)伯爵。
   文部卿、法制局長、駐米公使、元老院議長などの要
   職も歴任し、
   そして、晩年は、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院
   副議長などもつとめている。
   人となり深沈寡黙、経済にも一見識をもつ優れた政
   論家として日本に貢献した。
1893年6月7日、インドのマハトマ・ガンディー(24歳)が、
 最初の市民的不服従を行う。
  インドの反英闘争を開始した。
  1947年に、インドの独立は実現できたが、この時から、
 54年も要した・・イギリスの弾圧が厳しかった。
  この独立も、ガンディーが念願した統一国家ではなく、
 イギリスのくちばしが入って、バキスタンが分離独立す
 るという状況だった。
  この翌年・1948年(79歳)ガンディーは暗殺される。
  ガンディーは、1888年、18歳の時に、弁護士になるこ
 とを目指しイギリスに留学した。
  カーストのメンバーから反対されたが決行した。
  ロンドン大学などで猛勉強し、弁護士資格をとる。
  一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。
  しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうま
 く行かず、南アフリカで成功したインド人商人の依頼で
  1893年(24歳)アフリカへ渡った。 
  当時、南アフリカには、ブール人の建てたナタール、
 トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金や
 ダイヤモンドが発見されて、インド人移民が、その労働
 力として、大勢、来ていて・・、
  クーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従事し、
 差別されていた。
  ガンディー自身も、ダーバンからプレトリアに向かう
 列車で、乗車拒否されるという差別に会ったくらいだっ
 た。
  さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士
 として差別との戦いが始まった。
  それが、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動
 の始まりだった。
1893年6月12日、清水次郎長(本名:山本長五郎)が 死去した。
  (1820年~1893年、74歳) 幕末から明治の侠客。
  1820年1月1日、駿州(すんしゅう)清水港の海運業者の
   子・・清水の船持船頭・雲不見(くもみず)三右衛
   門の3男に生れた駿河の人。
   元旦生まれは不祥との伝説から、生後まもなく母方
   の叔父で、米問屋「甲田屋」の山本次郎八の養子と
   なる。
   (のち、次郎長と略称する・・これは、次郎八方(か
   た)の長五郎で、相続人の意)
  1835年、幼くして悪党の評があり、悪さと無学の15歳
   時、隣国で甲斐国民大奮起という一揆が起こったの
   を尻目に、家の金を持ちだし、浜松に米の買い占め
   に走ったのが幕末風雲録に次郎長登場の始まり・・、
   養家が没落したので、博奕(ばくち)に手を出し、賭
   場(とば)に出入りするような博徒となったといわれ
   るが・・、
  1839年(19歳)旅の僧に人相を見られ「命数25歳を出
   ず」と言われて、「じゃあ太く短く生きる」とヤク
   ザになった。
  1843年の23歳のとき、賭場のもつれから博徒に重傷を
   負わせて他国に逃げ、無宿渡世(むしゅくとせい)に
   入る。
   これを、次郎長本人は、喧嘩で相手を殺したと思い
   込み清水を出奔した。
   三河の寺津治助にわらじを脱ぎ・・、
   喧嘩に明け暮れてあだ名はゴロ長と言われる・・
  1845年(25歳)甲斐の紬文吉と、駿河の和田島太右衛
   門の喧嘩を仲裁して売り出す・・、
   やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち・・、
  1848年、28歳で、江尻大熊の妹おてふを娶(めと)る。
  1850年(30歳)保下田久六を助勢し、一の宮久左衛門
   と争った(この年、国定忠治刑死)。
  1885年頃、30歳代半ばは、次郎長の危機の時代・・、
  1858年(38歳)甲斐の祐典仙之助と不和、讃岐の金比
   羅に詣でたのち・・
  1859年(39歳)久六を殺害。
   決戦前の金比羅詣では、実父の金比羅信仰を継いだ
   もの。
  1860年(40歳)久六斬り祈願成就に、森の石松を金比
   羅に代参させ・・、
   その帰路に、石松が都田一家に殺される・・と、そ
   の仇を討って三河を勢力圏に収めた。
   この頃、宿敵・黒駒勝蔵が現れる。
  1864年(44歳)山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗
   って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、
   縄張り外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」
   を、この年に創出した。
   この年(1864年)の黒駒方の雲風亀吉と2度にわたる
   三河の抗争、平井村の役(1864年)と呼ばれ、博徒抗
   争史上かつてない抗争だった。
  1866年(46歳)東海道を名古屋までおさえた清水一家
   が、伊勢路制圧に着手したのが、この年・1866年の
   荒神山の争いだった。
   神戸長吉と穴太徳の縄張争いで・・長吉方につき、
   大政(山本政五郎)の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦す
   る大瀬半五郎の別働隊を三河の寺津で合流させ、
   吉良仁吉を大将に荒神山に向かわせた。
   仁吉は戦死した。
   その報復に、次郎長は、千石船2隻に手勢480人、銃
   40丁、槍170幹、米90俵をのせた隊をもって伊勢に
   上陸し、穴太徳と、その後ろ盾・丹波屋伝兵衛を屈
   服させた。
   その武器調達は、国定一家3代目・田中敬次郎によっ
   た。
  以上の抗争の中で、山梨甲州の侠客・黒駒の勝蔵らと
 張合って伊勢の荒神山で対決して勝ち・・、
  また、伊勢桑名の安濃徳(あのうとく)ら博徒ともたび
 たび抗争し・・、
  東海道一円をその支配下に収めた。
  王政復古の維新後、東征軍は進撃を有利にするために
 次郎長を懐柔し、
  1868年(48歳)東海道総督府判事、伏谷如水(ふせやじ
   ょすい)から旧悪を許され帯刀の特権を得た。
   苗字帯刀を許され、探索方に用いられてから・・、
   幕末の偉人・山岡鉄舟らとまじわり・・また・・、
   囚人を使役して、富士山麓(さんろく)の開墾などの
 社会事業も行い、
  汽船を建造して清水港発展の糸口をつけたり・・、
  また、清水港の整備などにつくしたりと、精力的に社
 会活動を多く手掛けた。
  任侠の鑑のように伝えられ、神田伯山(かんだはくざん)、
 広沢虎造(ひろさわとらぞう)らにより、浪曲や講談に取
 上げられている。
  これは、次郎長の養子・天田五郎(あまだごろう)(愚
 庵(ぐあん))が、『東海遊侠伝』(1884年)を刊行して
 から・・、
  1893年(明治26年)6月12日、没。74歳。
   葬式には1000人前後の子分が参列したという。
  墓所は、梅蔭寺(清水市)、法号・硯量軒雄山義海居士。
.
  (今日の言葉)
.
  題:以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑古鳥(かんこどり)が鳴いている。
    あの時、造った船の処分にも困っている。
.
紀元前7万年~紀元前1万年、ビュルム氷河期
  この時、ヨーロッパは氷の中だった。
  この地球の寒冷化の時、この寒冷化によって南方に下
 りた偏西風が、サハラ砂漠北部や、アラビア半島北部、
 イラン高原に雨を降らせ、緑の草原にした。
.
紀元前1万年(1万2000年前)~紀元前8000年(1万年前)
  この頃、地中海の東側(シリア、パレスチナなど)の
 沿岸部で、もしくは、北部あたりで農耕が始まったと考
 えられている。
  この農耕の始まりと同じ頃、シリア、パレスチナ、イ
 ラク北部のあたりで、羊を飼育する牧畜が始まり・・、
  当時、農耕生活のかたわらで羊を飼ったようだ。
.
紀元前8000年、この頃まで、エジプトや、サハラは豊かな
 草原であった。
  自然の恵みに、様々な神々を祭り、感謝をしていた。
  山々、木々、草原、川など、あらゆるところに神々が
 宿り、居て、食べ物や恵みが得られると感謝していた。
.
紀元前8000年~紀元前6000年、エジプトやサハラが乾燥化
 して、砂漠化して行く。
  人々は住むことは出来なくなった。
.
紀元前8000年頃、この頃から、気温は急速に上昇し、サハ
 ラは乾燥し、砂漠化した。
  しかし、紀元前6000年頃から、気温は、さらに上昇し
 始めた。
  サハラ砂漠と、アラビア半島全域と、イラン高原が、
 緑の地となった。
  そして、高温期が終わり、約5000年前(紀元前3000年)
 ころに、気温が下がって行くと、再び、サハラ砂漠、ア
 フリカ北岸、アラビア半島、イラン高原などが、乾燥地
 となって行った。
.
紀元前6000年頃、この頃から紀元前3000年頃までの約3000
 年間、エジプトは、緑の豊かな地であった。
  雨も多かった。
  エジプト文明の形成も、この気候に関係している。
.
紀元前6000年頃、エジプトや、サハラに緑の草原が広がっ
 た。
  人々は、すでに原始的農耕を身に付けていて、狩猟や
 漁業、果実・野菜の採集と共に、農業を行なっていた。
  次第に、農業で繁栄をもたらしてくれている神に感謝
 する様になる。
.
紀元前6000年~紀元前5000年、ユーラシア大陸、アフリカ
 大陸の各地に農業技術が伝えられた。
  サハラ周辺、デンマーク、東アジアのシルクロード周
 辺、インド、中国などの各地へ・・、
.
紀元前4000年、日本で原始的農耕が始まる。
  福井県若狭町の鳥浜(とりはま)遺跡などから、日本
 の縄文時代前期に、原始的な農耕が行なわれていたこと
 が明らかになった。
.
紀元前4000年、アメリカ大陸の農耕
  アメリカ大陸の先住民のインディアンの方たちが、カ
 ボチャの栽培を始める。
.
紀元前3000年、砂漠化が進んだ。
  農耕は、河の周辺で行われた。
  有力な君主が現れた地域は、大規模な農耕も行われ、
 多神教から一神教が芽生えて行く。
.
紀元前3000年頃~紀元前30年、古代エジプト
  古代エジプトは、紀元前3000年頃に始まった第1王朝か
 ら・・、
  紀元前30年に、プトレマイオス朝が共和制ローマによ
 って滅ぼされるまでの時代をいう。
  この古代のエジプトでは、多くの神々が祀られていた。
  太陽神ラー、テーベの町の守り神アメン、あの世の神
 オシリス、天空の神ホルス、大地の女神イシス、ミイラ
 造りの神アヌビス、ナイル川の神アヌケトなど数百の
 神々。
.
1368年、中国に明(明朝)が建国される。
  この明朝の領土は、万里の長城の以北・・つまり、満
 州はその領土に含まれていない。
  ここは、満州族の地だった。
  そして、この明は、現政権の中国と同じ漢民族だった。
  現政権の中国が、どの様な理屈なのか?この地を領土
 としているが・・?
  また、理屈にならない理屈を言って、南シナ海を我が
 物の様にしているが・・?、
  当然に、国際司法裁判所は、中国のこの言い分は通ら
 ないと判決して、「中国の敗訴」として、中国の言い分
 は排斥された・・が・・、
  中国は敗訴したにもかかわらず、依然と南シナ海を我
 が物としている。
  しかし、仮に、中国のこの言い方、論理の立て方が通
 るのであるのならば、「南シナ海は、日本のものだ」「
 日本の領土だ」。
  中国の明朝の時代、中国の明政府は、南シナ海に出没
 していた日本の倭寇(わこう)を取り締まってくれと、
 当時の日本の政府の室町幕府へ頼んで来た。
  この様な史実がある以上、日本の船が南シナ海をすで
 に往来し、行動していたのである。
  中国の現政権の言い方をすれば、南シナ海の環礁や諸
 島は、『日本の領土である』。
  今後、この地を埋め立てて、日本の諸施設を造るが、
 異議を言わない様に、中国へ前もって言っておきたい。
  当時の日本政府の室町幕府は、この時、中国政府の明
 朝の要望通り、倭寇に指示し、取り締まり・・、
  そして、日本は、前向きに、中国の明朝政府と解決を
 している。
  日本と中国・明朝政府は、「勘合貿易を始めよう」と
 いう取り決めをして、平和裏に解決している。
  (参考)倭寇:(わこう)は、一般的に、13世紀から
     16世紀にかけて、中国大陸の沿岸部や朝鮮半島、
     一部内陸、及び、東アジア諸地域において活動
     した私貿易、密貿易を行う貿易商人。
  (参考)勘合貿易:(かんごうぼうえき): 室町時代、
     幕府と中国の明との間で勘合符を用いて行われ
     た貿易。
      3代将軍・足利義満が、1401年、明との国交を
     回復すると、1404年、日本と明との間に勘合符
     制を設け、勘合符による貿易を始めた。
      140年間、続いた。
.
1894年、日本は、朝鮮・韓国の鉄道建設などの社会資本の
 充実に、本当に誠意をもって尽くした。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授の自著の
 「日本人の税金で賄(まかな)われた朝鮮の鉄道建設」
 の項には、以下の様な記述がある。
  事実である。
  日本を貶(おとし)めているばかりの韓国は、以下の
 記述を、心して読みなさい・・、
  「鉄道は、未開国を近代国家に育成する機能を発揮す
 るための必要不可欠の動脈であり・・、
  市場経済の血管である・・、
  鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、人類の
 生活向上と幸福の増進にも欠かせない・・、
  道なき山野に・・鉄道が敷設された事が・・、
  日本政府の目的がどこにあろうと、朝鮮民族にとって、
 長い間の地獄のような世から脱する事につながったこと
 は論をまたない。
  1894年、日清戦争勃発を契機として・・、
  朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、当時の李朝は、
 財政・経済に対する基礎的知識もなく、交通・鉄道に関
 する認識もなかった。
  1896年「京仁線(ソウル~仁川間)」38.9キロの鉄道
 敷設権を、日本企業「京仁鉄道合資会社」が、アメリカ
 人のモールスから買収して、1900年7月8日に、全線を開
 通させた。
  これが、朝鮮で最初の鉄道だった。
  ちなみに、日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年
 で、その28年後のことであった。
  従来、今までソウル~仁川間の往復は、5日から6日も
 かかっていた。
  ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」
 と呼び、その「鉄馬」に乗って一日中、往復を繰り返し
 て楽しんだと伝えている。
  往復で5日~6日の所要時間は、2時間~3時間に短縮さ
 れた。
  何とありがたい事であろう・・、
  元来、両班とは、働かずに、農工民が生産したものを
 優先的に処分する権利を保有していたから、「鉄馬」に
 乗って一日を消費して、それを最高の享楽と感じたのだ
 ろうことは容易に想像できる。
  「京釜線(ソウル~釜山間)」450.6キロは、「京釜鉄
 道〉株)」が、1905年1月1日に、全線を開通させた。
  京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だ
 った。
  それに対して同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総
 額)は、784万円だったから、自力での鉄道敷設は夢でし
 かなかった。
  それまでフランスやロシアも競って鉄道敷設権を獲得
 したが、その資金の裏付けもなく、工事の着工もできな
 かった。
  アメリカのモールス(京仁川敷設権取得者)も事情は
 まったく同じで・・、
  彼らが頼りにしたのは李朝であったが、以上のような
 財政事情で、まったく実現の可能性が無かった。
  その様な事情から、日本企業が、この難局を切り抜け、
 京仁・京釜線が敷設された事は、天佑神助(てんゆうし
 んじょ、天や神の助け)というべきであった。
  京義線(ソウル~新義州間)は、フランスのグリール
 が敷設権を取得したが、これも日本が買収して、建設を
 受け継ぎ、1906年4月に、全線を開通した。
  京義線と馬山浦線の建設費、は3138万円で、したがっ
 て、京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると、
 6638万円になる。
  この6638万円は、日本人の血税で賄われた。
  ・・が、その活用は、日本人・朝鮮人共用であり、朝
 鮮側の享受した利益は莫大なものであった。
  もしも、1896年~1906年の1円が、今の10万円に相当す
 るとすれば、6.6兆円であり・・、
  それを、2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに
 換算すれば、79兆6560万ウォンに相当する(2003年11月
 現在、物価指数による換算)。
  こうして、1910年の日韓併合時には、既に全国1039.7
 キロの路線が完成した。
  これに続き、日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時
 代に、湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
 1917年には、会寧~清津間が開通した。
  併合後に、朝鮮総督府が、鉄道敷設に投資した費用は、
 次ページの一覧の通りである。
  日本の斎藤実総督は、1921年9月に開催した「産業調査
 委員会」の提議によって、吉林~会寧間の敷設計画と、
 それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、その概要は、以
 下の通りであった。
  鉄道建設12ヵ年計画、
  期間:1927年~1939年、
  総経費:3億円、
  路線:図們線(雄基~潼闕鎮)156キロ、
  恵山線(恵山鎮~吉州)142キロ、
  満浦線(順天~満浦)286キロ、
  東海線(安辺~浦項・釜山~浦項)549キロ、
  慶全線(晋州~全州・院村~漂陽)251キロ、
  計1384キロ
  また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、1930年末までに
 完工した路線は、次の通りである。
  鉄道建設状況(1930年末)
  京釜線 450.6キロ、
  京仁線 38.9キロ、
  馬山浦線 40.1キロ、
  鎮海線 20.6キロ、
  京義線 499.3キロ、
  兼二浦線 13.1キロ(黄州~兼二浦)、
  平壌炭鉱線 23.3キロ(大同江~勝湖里)
  平南線 55.3キロ(平壌~鎮南浦)
  博川線 9.3キロ(孟中里~博川)、
  竜山線 6.7キロ(竜山~唐人里)、
  新義州貨物取扱所線 1.8キロ、
  湖南線 260.7キロ、
  群山線 23.0キロ(裡里~群山)
  慶全線・慶全北部線 25.3キロ(裡里~全州)、
  光州線 36.4キロ(松汀里~漂陽)
  京元線 223.7キロ、
  威鏡線 617.6キロ(元山~会寧)
  川内里線 4.4キロ(竜漂~川内里)、
  清津線 9.0キロ(輪城~清津)
  会寧炭鉱線 10.6キロ(会寧~鶏林)
  北青線 9.4キロ(北青~新北青)、
  遮湖線 4.9キロ(会山~遮湖)
  鉄山線 3.0キロ(羅興~鉄山)、
  平元西部線 67.0キロ(西浦~新倉)、
  東海線・東海中部線 148.8キロ(大邸~慶州)、
  東海北部線 31.4キロ、
  図們線・図們西部線 59.6キロ(会寧~潼闕鎮)
  図們東部線 31.4キロ(雄基~訓戒狭)
  その後、新倉~高腹間の平元線146.8キロ、吉州~恵山
 鎮間の恵山線141.6キロ、順天~満浦間の満浦線286.6キ
 ロ、釜山鎮~蔚山線70.8キロなどが、開通した。
  その他にも、総督府は、私設鉄道に対する補助を行な
 ったが、1915年~1930年までに、その総額は4000万円を
 超えた。
  1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は、
 67ページ下段の表の様に飛躍的に発展しており、物流の
 活発化を裏付けている。
  こうして、1945年の終戦の日まで、鉄道網の拡張は続
 けられた。
  その総延長は、6632キロ、駅の数は762、従業員数は
 10万527名に達した。
  それまでの姿・・「人間の背中に頼っていた李朝時代
 の物流」・・、
  それ以前の李朝時代の物品の交流は、褓負商ボブサン
 (行商人〉に頼っていた。
  たとえば、全州チョンジュの行商人(褓負商ボブサン)
 は妻子とともに、全州名産の生姜(しょうが)と櫛(く
 し)を背負って、平壌ピョンヤンまで3週間余りかけて歩
 き、そこで販売する。
  次に、人力車も通れない道を、再び、歩いて、元山ウ
 オンサンに行き、昆布と干魚を売りさばくという具合だ
 った。
  時間が予定以上にかかったり、滞在が伸びたりしたら、
 利益は見込めない。
  その様を想像しただけでも、道路やインフラ整備を怠
 った李朝が、百姓にとって、いかに苛酷な統治者であっ
 たかが分かる。
  この場合でも、馬を使うのが普通だが、馬には人間以
 上の経費がかかる。
  結局、運搬道具として、牛馬ならぬ人間の背中が最も
 利用されることとなった。
  朝鮮には、遠い昔から運搬具として「チゲ」というも
 のがあって、今も農村では欠かせない道具だが、肩に掛
 ければ荷重が背中全体に、公平に分配されるから肩が痛
 くないという特徴がある。
  嶺東には、蜂蜜の生産は多いが、塩が無く、平安道ピ
 ョンアンドでは、鉄の生産が多いが蜜柑・レモンは無く、
 ハムギョンドでは、朝鮮人参の生産は多いが、綿布は生
 産されない。
  この様な地方特産品を、鉄道の敷設によって流通させ
 ることが出来れば、住民の生活向上につながることは言
 を俟(ま)たない。
  暗黒の国土に、鉄道が開通し、日本の先導で、ようや
 く近代化のきざしが、朝鮮にも見られるようになった史
 実は、否定できない。
.
2015年、急速に悪化の道をたどるギリシャ。
  こうなると、EUに入る前のギリシャの方が幸せだっ
 たと思えた、言えた。
  EUに入ったら、一時は、ウキウキと良くなったよう
 に見えたが、今の時点は、最悪の状態になって、プライ
 ドまで無くなされたという状態となった。
  それまでは、豊かな人も、豊かでない人も、皆が、そ
 れなりに陽気に生きていた国だった。
  今は、「外国に支配されている」という国になってし
 まっている。
  ギリシャ国民は、その様に感じ、屈辱感の中に居た。
  ギリシャ人は、EUを憎んだ。
  特に、ドイツを憎んだ。
  この様な時に、ギリシャにチプラス氏が現れた。
.
2015年1月26日、EUを構成しているギリシャ・・このギリ
 シャ議会総選挙に於いて、チプラスの率いる党が第一党
 となった。
  そして、この男は、この日に、40歳でギリシャの首相
 の座に就任した。
  過去150年間で、最年少のギリシャ首相だった。
  因みに、このチプラスは、約5年前の2009年10月4日の
 ギリシャ議会総選挙で、チプラス(35歳)は初当選し、
 党首に就任していた。
  そして、急激に、国民の支持を得て、首相となった。
  この状況は、第一次世界大戦の後に、ドイツのヒトラ
 ーが、第一次世界大戦で戦勝した諸国に、過激な賠償金
 を押し付けられて、喘(あえ)いでいた時と同様だった。
  この時のギリシャの国民の方々も・・喘いでいた。
  ギリシャ国民の方々は、このチプラスに・・酔った。
  アレクシス・チプラス:トルコのマルマラ地方にある
 クルクラーレリ県のババエスキからギリシャとトルコの
 住民交換で、ギリシャへ移ったギリシャ人の移民三世と
 してアテネ郊外で生まれた・・
  この男は言った・・、
  「ギリシャ人の給与を、以前の給与に戻す」
  「解雇された公務員は、再雇用する」
  「民営化されたものを、元の公営にする」
  「EUやIMFから借りている債務は・・返済しない」
  「貧乏人が、これ以上、苦しむようなことはさせない」
  「国の復興は、金持ちの金でやる」。
  絶望していたギリシャ国民は・・沸いた。
  チプラスが引っ張って来て就任させた大学教授の新し
 い財務大臣も言った・・、
  「新興財閥(オリガルヒ)の絶滅」
  「国民が貧しくても、幸せに暮らせる国をつくる」
  EUの議長が、ギリシャに、すっ飛んで来た。
  討議は・・平行線をたどった。
  険悪な状況となった。
  EUから押し付けられた「緊縮財政」を「占領下」と
 表現し、反発した。
  ギリシャの自国を、さも占領軍から解放するという雰
 囲気だった。
  EUの組織は、「呆然(ぼうぜん)」と見つめていた。
  チプラスが、選挙に勝って政権を取ったのは、明らか
 にドイツの敗北だった。
  ドイツは、ドイツなりに、自国民・ドイツ国民を説得
 して、ギリシャ救済資金を捻出して、救済努力をしてい
 たが・・ギリシャから恨(うら)まれ、こんな結果とな
 ってしまった。
  あたかも、日本が、朝鮮・韓国へ大資金を投入し、与
 えて、鉄道を引き、道路を造り、学校を造り、人口が3
 倍になるような健全・健康な社会づくりをしたのに、数々
 の貢献をしていたのに、感謝もされず、御礼も言われず
 に、ただただ、しつこく貶(おとし)める事ばかりされ
 ている様な状況だった。
  EUは困った。
  ギリシャ経済が壊れると、金融市場が壊れること・・、
  これが、世界に拡散する心配・・、
  計り知れない悪影響が生じること・・、
  ユーロという国際通貨も破綻する恐れもある。
  今、EU内で、言われていること・・
  「ユーロを守る必要があるのか?」
  『EU存立』の基本への疑問である・・???
.
2018年2月21日、「かくれキリシタン」の実像
  標記の題で、(読売新聞、2018年2月21日)が、最新の
 研究成果に基づいた記事を書いていた。
  キリスト教がイメージで作った話は、『すべて嘘』だ
 という事が分かる。
  日本は鎖国をして、キリスト教を弾圧した・・それか
 ら逃れたのが「かくれキリシタン」というのが、キリス
 ト教の作り話だが・・これが「完全に違っている」とな
 った。
  キリスト教は、この筋で、世界遺産に認定されようと
 運動をしているが、その根拠は崩れた。
  研究の結果、現在のキリスト教のほうこそが変わった
 という「逆の結果になった」。
  変容したのはキリスト教のほうで・・変わったのはキ
 リスト教だった。
  つまり、弾圧で変わったというキリスト教の言い分は
 まったくの嘘で間違いで、事実はこの逆。
  「かくれキリシタン」の方々は、隠れてもいなくて、
 当時の布教された時の「まま」を保持している方々とい
 う事が分かった。
  当時、宣教師が来た時のままの「聖水を使って病気を
 治す儀式をする」とか、「オラショを唱える」とかで、
 研究の結果、「弾圧で宗教を変えたのではない」と分か
 った。
  また、弾圧で宗教を変えたとか、習合したとかではな
 く、「かくれキリシタン」が寺の檀家(だんか)になり、
 また、神社の氏子となった。
  弾圧で宗教を変えたのではなく、「並存」して来ただ
 けなのだ。
  だから、「かくれキリシタン」の家に、御前様と神棚、
 仏壇、弘法大師をまつる壇がずらりと並んでいる。
  逆に、この地域の藩は、厳しい禁教は行なわなかった
 という事も分かった。
  そして、貧しい「かくれキリシタン」などというイメ
 ージが、キリスト教によって作られているが・・、
  この地域は、江戸時代は、捕鯨もしたり、農業もした
 りで、豊かな地域で、しっかりした経済基盤が形成され
 ている地域だったということも分かった。
  2018年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
 の世界遺産登録の申請は取り下げるべきだ。
  キリスト教の特有の「作られた古来からの変質した『
 推測』で申請している」に過ぎない。
  日本は、ヨーロッパの様な酷い弾圧はしていないのだ。
  キリスト教は、日本もヨーロッパのような酷い弾圧を
 したと「悪宣伝する」が・・、
  江戸幕府は、当人ではなくても、家族や友人が「キリ
 シタンを止めた」と言えば許したという優しい取締りだ
 った。
  刑の執行をする場合も、刑場の矢来(やらい、竹を組
 んだ囲い)の一部を開けておいて、逃げられるようにし
 ていたくらいだった。
  逆に、キリスト教側が、「殉教することが救われる道
 だ」と殉教する事を勧めるという卑劣な行為をしていて、
 子供連れで、奉行所に名乗り出る親子が居たくらいだっ
 た。
.
2018年、日本人は、優秀であるから、江戸時代もよく勉強
 した。
  日本人は、皆、優秀であるから、庶民に至るまで、よ
 く勉強した。
  上層の階層が優秀というパターンは、他国には見られ
 るが・・、
  日本の様に、庶民に至るまで、教育熱心で優秀という
 国はない。
  日本のどこの地方にも、教育機関が、この江戸時代の
 時から、あちこちにあった。
  そして、外国から、書籍を、どんどん、よく輸入して、
 よく勉強した。
  外国語もよく勉強して、その外国の書籍の内容をよく
 理解した。
  江戸時代には、すでに、これから日本は、「どうすれ
 ばよいか」の方向付けは・・出来ていた。
  明治時代になって、すぐ、国の改善の方策が、次々と
 採用され、実行されて行った。
  見事と言うほかはない見事さ・素晴らしさだった。
  日本の国民も、武士から庶民に至るまで、良く理解し、
 よく従い、国づくりをした。
  富国強兵。
  そして、国の基幹物資である『鉄』を手にする方策が、
 その一つとして、重点項目として推し進められた。
  八幡製鉄所などの建設が、国策として推し進められた。
  日本は、この明治の時代より、この鉄を造る技術を磨
 き、世界のトップの道を歩んで来た。
  経験を重ね、歴史を重ねて、秘蔵の技術も色々持って
 いた。
  日本の貿易面で、日本を支えて来た。
  しかし、この長い年月を経て得た、この日本の最優秀
 な技術を欲しがった国があった。
  中国だった。
  日本は、大切な技術を渡たさざるを得なかった。
  日本は、大切な技術を渡してしまった。
  国防力のない日本は、脅されたと言う人がいる。
  何しろ、明治時代以来、日本の開国以来、培(つちか)
 って来た日本の製鉄技術の「大切な所の技術」を、中国
 へ渡してしまった。
  日本は、それでも10年間は大丈夫と思っていた。
  準備期間や、習熟期間などが必要で、まだ、10年間は
 平気と思っていた(新幹線技術も奪われたが・・)。
  しかし、最新の技術を得た中国は、それから、オース
 トラリアの鉄鉱石を、大量に買い付けた。
  オーストラリアは、大量に買ってもらえるので大喜び
 だった。
  中国は、会社規模でやるのではなく、国の規模でそれ
 をやるので、その規模は考えられないくらいの、とてつ
 もない規模で実施して行った。
  そのとてつもない大量に買い付けた鉄鉱石を、中国へ
 運ぶので、鉄鉱石運搬船のフル操業となった。
  それでも足りないので、船会社は、新しい船を造ろう
 と発注した。
  船会社は好景気に沸いた。
  発注した船が、すぐできる訳ではなかった。
  中国は、日本から得た新技術の製鉄所を、あちこちに
 建てた。
  中国のやることは、想像を超える、今までの規模を越
 えた。
  土地も広いし・・。
  そして、どんどんオーストラリアから買い付けた鉄鉱
 石で、鉄をどんどん造り続けた。
  鉄のシェアは、たちまち、中国がトップになった。
  日本が10年などと言っていた日本の地位は、たちまち
 中国に奪われた。
  鉄は、中国からどんどん世界へ供給された。
  中国は、どんどん世界へ鉄を売った。
  鉄は、値崩れもした。
  日本のお家芸の一つだった製鉄は、傾き始めた。
  日本の製鉄会社は、経営が悪化して、統合したりして、
 のたうち始めた。
  それでも、中国は、どんどん鉄を造り続けた。
  当然、鉄は、だぶつき始めた。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国の計画生産だった。
  在庫がたまる状況になった。
  それでも中国は、鉄を造り続けた。
  国のシステムが、その様にせざるを得ない共産主義の
 システムだった。
  過剰在庫の山の状態となった。
  完全に鉄は、中国にイニシアチブを取られた。
  かつての日本の立場は影も形もなかった。
  日本のお家芸の製鉄も、静かに沈み行く太陽の如くの
 産業となった。
  日本がイニシアチブをとっている時代は、需要と供給
 を見ながら、ヨーロッパの製鉄所や、韓国の製鉄所など
 とバランスの取れた「世界への鉄の供給」となっていた
 が、中国が、一気に参入して、大ナタを振(ふ)るう様
 な生産をして、バランスある供給なんて言う状況ではな
 く、「中国の鉄の在庫の山を、世界が見る」という状態
 となった。
  技術の改善を、常にしながら、生産と消費をつなげて
 来た日本の作り出した姿は、今は、過去のものとなった。
  ことは、国防力のない日本が、強引に中国に最新の製
 鉄技術を盗られた所から始まった。
  以前のような、鉄鉱石の運搬発注のない船会社も、閑
 古鳥(かんこどり)が鳴いている。
  あの時、造った船の処分に困っている。
  当然、会社の業績は低空飛行状態となった。
  墜落しかねない状態となった。
  中国という共産主義国は、この様な事をする国なのだ。
  人が有り余るほどいる国。
  金は、国の方針一つで、人民元を、輪転機を回して刷
 れば、いくらでも刷れる。
  ありがたく、それで、鉄鉱石を売ってくれる。
  日本を、ある事ない事を言って脅(おど)し、また、
 実際にはない話のデッチアゲの南京事件のことで虐(い
 じ)めれば、おいしい技術も渡してくれる。
  こんなことが展開している。
  今(2018年)は、「南京事件は言わないことにした」
 と言っている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)580E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年5月~1893年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年5月18日、小学校の授業料の無料化の勅令
  市町村の財政の許す限りに於いて、小学校の授業料を
 徴収しない旨の勅令が出された。
  学制発布から明治20年代まで、義務教育費は住民負担
 や、受益者負担に頼っていた・・が・・、
  1888年の市制・町村制、
  1890年の地方学事通則、改正小学校令により、義務教
 育費は市町村の負担とされた。
  しかし、その後も、授業料は徴収されていた。
  『義務教育への完全就学』を実現するためには、授業
 料を廃止して、無償制を実施する必要があり、日本は、
 それを目指した。
  そのため、時の政府(井上毅文相)は・・、
  1893年6月、初等教育への国庫補助と、授業料の低減・
 廃止という方針を定めた。
  そして、同年・1893年、勅令によって、尋常小学校に
 おいて『授業料ヲ徴収セザルコトヲ得』と定めた。
  これによって、授業料徴収の義務づけを廃止した。
  そして、徴収するかどうかを、市町村の裁量に委ねる
 こととした。
  授業料の低減や廃止を促進するためには、授業料に代
 わる財源を国が保障する必要があった。
  そのため、また、政府は、1893年、小学校教員の年功
 加俸(勤務年数に応じて本俸に加えて支給する給与)に
 要する経費を国庫補助する制度として「市町村立小学校
 教員年功加俸国庫補助法」案を帝国議会に提出した。
  1896年の市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法、
  1900年の市町村立小学校費国庫補助法の制定で、国に
 よる財源保障制度ができた。
  このことによって・・、
  1900年から義務教育の無償制を実施することができた。
  そして、就学率は急上昇した。
1893年5月19日、防穀令問題で、朝鮮政府が11万円の賠償
 金を支払うことで妥結した。
1893年5月19日、戦時大本営条例が公布された。
  大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみ
 の天皇陛下直属の最高統帥機関として、勅令第52号戦時
 大本営条例によって法制化された。
  この勅令は、1893年5月22日に公布された。
  明治期の日本の海軍の建設にあたっては、初め、軍令
 の専掌機関はなく、海軍省が軍令と軍政を一元的に管掌
 していた。
  1884年、海軍省内に外局として軍事部が設置され、初
 めて軍令をつかさどった。
  1886年、軍事部が参謀本部の海軍部となる。
  1888年、参軍のもとの海軍参謀本部となる。
  1889年、海軍大臣のもとに戻って海軍参謀部となった。
  1893年、海軍省から独立して、天皇陛下に直隷する海
 軍軍令部となった。
  作戦、編制、情報、通信、戦史などをつかさどった。
  1933年、軍令部に改称するにあたって、海軍省との間
 に業務互渉規程を設け、権限を大きくした。
  海軍軍令部の長は海軍軍令部長と称し、参謀総長と並
 んで、天皇陛下の統帥権の最高の輔弼(ほひつ)する機関
 とした。
1893年5月20日、海軍軍令部が設置された。
  このことにより、海軍参謀本部は廃止された。
  この日に公布された海軍軍令部条例で設置され、軍政
 と軍令を分離した。
  (参考)軍事権は、軍令権と軍政権から成り、軍令権
     は作戦・用兵に関する統帥権を言い・・、
      明治憲法の下では、日本はドイツをモデルと
     した。
      また、軍令権は、内閣の権能外に独立して、
     天皇陛下が直接掌握するものとした。
      また、軍政は、軍事行政のことで・・、
      軍事諸機関、各部隊の建設維持、管理、教育
     などを実行し、作戦、兵力の運用の計画実行は
     軍令に属して軍政と区別された。
1893年5月23日、大阪鉄道が、高田駅~桜井駅間を開通させ
 た。
  この時、王寺駅~高田駅間を延伸する形で、高田駅~
 桜井駅間(9.66km)が開業した。
  この桜井線は、現在、奈良県奈良市の奈良駅から、奈
 良県大和高田市の高田駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR
 西日本)の鉄道路線(地方交通線)であり・・、
  2010年3月13日から、「万葉まほろば線」(まんよう
 まほろばせん)の愛称が使用されている。
  路線距離は29.4キロメートル。
  歴史が古い路線であるが、その後に出来た路線へ利用
 客が流れている状況となっている。
  沿線には、万葉集に詠まれた名所や史跡が多く、車窓
 からは三輪山や、大和三山を望むことができ、奈良駅か
 ら桜井駅までは山辺の道(山の辺の道)に沿っている。
  愛称を制定したりして、利用者増に努めている。
1893年5月25日、大阪の赤坂村事件
  https://www.youtube.com/watch?v=tnsIa680Vtg
1893年5月26日、鉄道土工定規並縦截面曲線定規を制定した。
  (第一部長達第566号、鉄道土工定規に関する規程の最
 初)
  土工定規とは、土工事を施工する場合、遣形(やりか
 た)の標準となる道路や鉄道の標準断面の形状。
  幅員・路盤・犬走りなどの寸法、形状や切盛りののり
 面勾配を規定したもの。
  (参考)遣方:(やりかた) 基礎工事に先立ち、建物
     の位置や基礎の高さを示すための仮設装置。
1893年5月27日、東京弁護士会の創立総会。
  東京弁護士会は、120年以上の歴史を有し、会員数約
 8,000人を超える会員数を誇る、日本最大級の弁護士会。
  東京代言人組合(東京弁護士会の前身)は、1880年(
 明治13年)6月29日に結成・・とある。
  因みに、第一東京弁護士会の理念:第一東京弁護士会
 は、1923年(大正12年)5月8日に創立され、弁護士の使
 命である基本的人権の擁護と社会正義の実現、司法制度
 の発展と弁護士の地位向上を図るために活動しています。
 当弁護士会創立当時は、弁護士は地方裁判所検事局の検
 事正の監督下にあったため、弁護士の使命である基本的
 人権の擁護と社会正義の実現は、著しく制限されていま
 した。
  1949年(昭和24年)になって、新たな弁護士法の下に
 当弁護士会が主導的に活動し、日本弁護士連合会が創立
 され、弁護士が完全に自治権を確立し現在に至っており
 ます。
  当弁護士会の会員である弁護士は、在野法曹として徳
 性を磨き、謙譲と協和の精神をもって事に当たり、国民
 の模範となるべく研鑽を続けています(HPより)
1893年5月、伊東祐亭が常備艦隊司令長官になる。
  伊東 祐亨(いとうすけゆき、天保14年5月12日(1843
 年6月9日)~大正3年(1914年)1月16日)は、日本の武
 士(薩摩藩士)、海軍軍人、華族。
  元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。
  初代連合艦隊司令長官を務めた。
  通称は四郎左衛門、四郎。
  号は碧海。
  家紋は庵木瓜。
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄、弟に海
 軍大尉・伊東祐道、海軍大佐・窪田祐章。
  薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場
 町に生まれる。
  飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身(伊東祐安の養子
 で弟の右衛門の子孫という)。
  開成所にてイギリスの学問を学んだ。
  当時、イギリスは、世界でも有数の海軍力を擁してい
 たため、この時、祐亨は海軍に興味を持った。
1893年5月、前年のラベンナ号事件で、政府は、ラベンナ号
 の船会社ピーオー汽船に、85万円の損害賠償を請求する
 訴訟を、横浜イギリス領事裁判所に起こした。
  ピーオー汽船も、日本に対して10万円の賠償請求を行
 い、却下されると、さらに、上海イギリス高裁に控訴し
 た。
1893年5月、陸軍板橋火薬製造所で、無煙火薬の製造が始ま
 った。
  2017年6月17日の東京新聞に・・、
  16日に、国の文化審議会が史跡に指定するよう答申
 した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存
 する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の
 産業遺産として価値が認められた。
  区は、製造所跡を、史跡公園として整備。
  東京五輪・パラリンピックがある2020年に一部オープ
 ンし、2023年に全面開業する。 
  特に、貴重とされる射撃場は、1877年にできた。
  小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実
 験室から延び、50メートルあったうち30メートルが今も
 残る。
  現在は、区立加賀公園として使われている場所の築山
 には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的があ
 る。
  また、敷地の一部は、戦後の一時期、理化学研究所(
 理研)板橋分所として使われた。
  共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一
 郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建
 つ。
  史跡公園は、面積約1万3000平方メートル。
  区は、本年度中に、跡地を所有者から購入。
  2020年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、
 区の産業史を学べる博物館を開館する。
  2023年には、射撃場を復元するなどする。
.
  (今日の言葉)
.
  題:まったく怪しい中国・・「アメリカFBIが、孔子学院を捜査」
  「スパイ容疑か・・スパイの巣窟か」「《親中派》育成機関か」
.
紀元前200万年、氷河期に入った(~紀元前8000年)
  地球には、定期的に氷期(=氷河期)がやって来た。
  200万年前~1万年前(紀元前8000年)までを「氷河時
 代」と言う。
  そして、その後の紀元前8000年~現代を「後氷期」と
 言う。
.
紀元前20万年、現在の人間と同じ形質を持ったホモ・サピ
 エンス(新人)が出現した。
  このホモ・サピエンスは、二度の氷期を乗り越えた。
  「リス氷期」「リス・ビュルム間氷期」「ビュルム氷
 期」を経て現在に至った。
.
紀元前14000年~紀元前1000年、縄文時代には、カキ漁が
 行なわれていて、貝塚からは、全長40~50センチメート
 ルの巨大なカキ殻が多く出土する。
  縄文時代人は、この様なカキを、日常的に食べていた。
.
紀元前6000年頃、サハラやアラビア半島では、緑が広がり、
 恵み多き環境の地に人々は生活していた。
  この人々は、多神教を信じ、恵み多き地の神々に感謝
 していた。
.
紀元前3000年、この頃まで、サハラやアラビア半島は、緑
 豊かな草原の地だった。
  気候は、恵みの雨が多い、現代より高い気温だった。
  人々は、森や草原から、豊かな自然の恵みが得られて
 いた。
.
紀元前3000年頃、この頃から気候が変動し、緑の地が急速
 に後退した。
  人々は、大きな河から水を得ることが出来る地へと移
 動して、集まった。
  気候の乾燥化によって、自然の恵みを得られる機会が
 減った。
  人々は農耕を行なった。
  その地の側には、砂漠が広がっていた。
  大河の河の水の恵みによって安定した社会が築かれ、
 エジプトやメソポタミアには、偉大な優れた文明が発生
 した。
  「貧ずれば鈍す」。
  砂漠の地では、生きるのに精一杯だった。
  人類の4大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、
 黄河)は、すべて大河の地に生まれている。
  また、最近の考古学の成果から、この他にも、イラン
 の古代に、湿潤な恵みの雨の多い地に「トランス・エラ
 ム文明」があると注目され・・、
  また、中国のもう一つの大河である長江(ちょうこう、
 揚子江)の長江文明(ちょうこうぶんめい)も注目され
 ている。
  水のない砂漠の地の生活は悲惨だった・・、
  人間は、当然、置かれた環境によって変わる。
  砂漠の地は、わずかな雨の水を集積し、生(は)え、
 そして、育った草を食(は)む羊(ひつじ)。
  その羊が、さらに、体内へ取り込んだ草のエネルギー
 を、さらにさらに蓄積し、その集積された羊によって生
 かされている民。
  その天候に、大きく左右される砂漠の民は、当然、そ
 の根本にある僅かな天よりの恵みの雨に感謝し、その恵
 みの雨をもたらした天に感謝した。
  その命の頼りの天からの雨が途絶えた時、民は天へ祈
 った。
  生存への大切な雨の恵みをもたらして下さい・・と、
  見えない力へと祈った。
  その天にある見えない力=神へ、確かなる生存を成就
 させて下さいと祈った。
  天への一神へと祈った。
  一方、雨に恵まれる、まったく、前記の砂漠の地と真
 反対の地は、そちこちへの恵みの雨に、そちこちに萌え
 出ずる草木に感謝する。
  差別なく公平に、恵みの雨を受け戴いて、そちこちに
 恵みの草木(そうもく)が萌え出ずることに感謝する。
  そのそちこちの恵みをもたらして戴いた神・仏に感謝
 する。
  分け隔てなく、公平に与えられた恵みに、平等の素晴
 らしさに感謝する。
  平等の仏教が生まれる。
  雨に恵まれ、幸(さち)に恵まれた地の宗教が生まれ
 る。
  それに比して、恵みの少ない地は、生存への信仰とな
 る。
  飢える時は、隣国の富を奪って良いと説く、(キリス
 ト教の)神の義があるからと、免罪符を与えて洗脳する。
  当然、戦いの地となる。
  生存を賭(か)けた戦いの地となる。
  悲惨な殺し合いが続く地となる。
  民は、この様な状態に辟易する。
  当然、戦いなどしたくない。
  いい加減にせよ・・敵を愛せよという気持ちとなる。
  すべてが、環境が、「なせる業(わざ)」である。
  恵みの少ない環境の中で、当然に至る思考の中に、キ
 リスト教はあった。
  こうなるべき運命の宗教であった。
  悲しい地でのストーリーの中で生まれた宗教。
  何の特別さもない。
.
14世紀、惣(そう)
  日本の中世・鎌倉時代末期から室町時代の農民たちは、
 自分たちの自治組織である『惣(そう)』を作り・・、
  村の神社や寺などに集まって寄合(よりあい)を開き、
 林野の共同利用や、用水路の管理や、祭りなどの行事や、
 村の掟(おきて)などを相談して決めた。
  この惣が発達すると、領主のむやみな介入を締め出し、
 年貢の納入を請け負う地下請(じげうけ)を行なったり
 した。
  また、いくつもの惣が、目的を同じにして結束して、
 幕府へ、徳政を求めたり、武士の地元からの追放や、関
 所を取り払うことを求めて、武器を持って立ち上がる土
 一揆(どいっき)を起こすこともあった。
  惣は、鎌倉時代末期から室町時代の農村の自治組織の
 ことで、村落共同体の運営機関としての惣が代表的なも
 のである。
  名主の中から選ばれた乙名(おとな)・年寄・沙汰人(さ
 たにん)などを中心に、寄合によって掟(おきて)を定め、
 入会地(いりあいち)・灌漑(かんがい)用水などの共同管
 理や年貢納入の請け負いを行ったりした。
  その寄合の構成員の総意によって事を決していて・・、
 日本は、すでに、この時代にも、民主主義的に事を決し
 ていた。
  鎌倉時代末期から、日本の各地に発達していて、農民
 層の自立化が進行して行った。
  そして、従来の名主層の構成員に、農民層も加わって
 行った。
  惣の発達には地域差があり、後進的な地域では地侍(
 じざむらい)層が中核をなす惣も見られた。
  また、名主層の力が残存している地域もあった。
  先進的な惣としては、近江の平野地帯の惣は、名主・
 平百姓(ひらびゃくしょう)を含めた多数の構成員を要
 して、平百姓の惣内部での力も大きかった。
  重要事項の決定に際しては、一同で一味神水(いちみ
 しんすい)を神前に供え、その水を一同で飲み、団結を
 強めた。
  農繁期には、労働力の助け合い・共同利用なども行わ
 れ、農民の日常には不可欠な組織となっていた。
  京都や奈良を中心に、各地で起きた徳政(とくせい)
 一揆も、惣を基盤にして、各地の農民が連絡を取って蜂
 起した。
  また、戦乱に際しては、村を守るために堀をつくり、
 砦(とりで)を築くことなども行った。
.
16世紀頃、中世、日本の農業は、様々な技術で、改善・改
 良がなされた。
  生産力が高まった。
  米と麦の二毛作も始まった。
  牛や馬を用いて田や畑を耕すことも行われた。
  灌漑(かんがい)に水車を用いることも行われ、草を
 刈って肥料にしたり、牛馬の糞も肥料として用いられた。
  (15世紀の初めに、日本に来た朝鮮の使いは、日本の
 水車の便利さに驚いているという記録がある)
  商品作物の栽培も盛んになり、桑(くわ)・こうぞ・
 漆(うるし)・荏胡麻(えごま)・藍(あい)などが作
 られた。
  それらの作物によって手工業が興き、麻の栽培に加え
 て、16世紀に、綿の栽培も伝えられ始まった。
  (日本の綿は、平安・鎌倉時代にもあった・・年貢と
 しての記録がある・・しかし、栽培は広く普及していな
 かった)
  手工業では、京都の西陣織、博多の絹織物、美濃の和
 紙、灘の酒、能登の輪島塗などがある。
  また、農具の鋤(すき)・鍬(くわ)や、刀を作る鍛
 冶職人、また、鍋や鎌などの日用品を作る鋳物職人が現
 れた。
  農業や手工業の発達で商業も活発となった。
  そして、交通の要地や寺社の門前では。定期的に市が
 開かれ・・始まった。
  取引には、中国から輸入された銅銭が使われ、産業が
 活発化すると、物資輸送が盛んとなり、それを管理する
 問丸(といまる)、馬に荷物を載せて運ぶ馬借(ばしゃ
 く)、高利貸しの土倉(どそう)や酒屋が活躍した。
  また、座が出来た。
  座は、同業者組合で、管理者から営業権を得る代わり
 に、生産や販売を独占する権利を得た。
  そして、さらに、江戸時代の日本の田園は素晴らしか
 った。
  荒廃したイギリスの農場を建て直そうと、イギリスが
 参考にしたのが、この日本の田園だった。
  イギリスの田園は荒れた、この時、イギリスが良い田
 園として、理想の田園として参考・見本としたのが江戸
 時代の日本の田園だった。
.
1853年7月8日、黒船来航
  この日の午後5時、浦賀沖にアメリカ船のペリーが来航
 した。
  これが、非常に有名で、これで、日本が目を覚ました
 ように言われているが・・、
  その前から、日本へは、色々な外国船の来航があった。
  それまでの経緯・・、
  1842年6月、イギリス軍艦の来日計画があると伝わった。
  1844年3月、フランス船が琉球に来た。
  1844年7月、オランダ国王の開国の勧告書簡が来た。
  1845年5月、イギリス船が琉球に来る。
  1845年6月、オランダ国王の開国の勧告を拒否した。
  1845年7月、イギリスの測量船が長崎に来る。
  1846年閏5月、アメリカの東インドシナ艦隊の司令官・
   ビッドルが浦賀に来航した。
  1846年6月、フランスのインドシナ艦隊が長崎に来た。
  1848年5月、アメリカ捕鯨船が西蝦夷地に漂着した。
  1848年7月、フランス船が琉球に来た。
  1849年閏4月、イギリス軍艦マリナー号が、浦賀に来た。
  1851年1月、中浜万次郎が、アメリカ船に乗って琉球に
   上陸した。
  1851年12月、イギリス軍艦が、琉球に来た。
  そして・・
  1840年6月28日~1842年8月29日には、卑劣なアヘン戦
 争が、清とイギリスの間で行われていて・・
  イギリスの卑劣な腕力を使った中国・清いじめで滅多
 打ちにして・・、
  その後、麻薬のアヘンを中国へ持って行くという『ア
 ヘン貿易』する・・、
  麻薬アヘンを使った・・イギリスという国としての卑
 劣な行動を、あくどい利益獲得だけの卑劣な行動を・・
 日本は、初めから・・じーっと見ていた。
  その卑劣さ、悍(おぞ)ましさを知っていた。
  1853年にアメリカが来たりしたが・・江戸幕府は・・
 『アヘンを持って来るな』と、ヨーロッパ列強とアメリ
 カに、幕府は、しっかり言っていた。
  アメリカとヨーロッパの列強各国は了解したようだっ
 た。
  それは、後ろに居るしっかりした武士軍団が見えてい
 たからだった。
  この様な事まで言わないと、やりかねない倫理観のな
 い目先の利益を追求するばかりの欧米列強諸国だった。
  当然、種々の形で、欧米列強は日本を狙っていた。
  卑劣な事をいろいろ考えていたのだろうが・・意味の
 分かる件は以下である・・(当然、卑劣な事は、歴史上、
 隠されている)
  アメリカは、日本近海で捕鯨をしていた・・そのため、
 その燃料と水が欲しくて・・と言われているが・・それ
 だけではなく、アメリカは、インディアンを駆逐して、
 西部海岸のカルフォルニアに至った時から日本を狙って
 いた。
  その頃、アメリカは中国貿易の通商ルートが確立した・・、
  そのため、その寄港地として日本は最適だった。
  当時の蒸気船には、大量の燃料が必要だった・・その
 補給基地として日本が必須の地だった。
  また、アメリカは、蝦夷を捕鯨基地として利用したい
 と考えていた。
.
1912年2月12日、清の滅亡
  1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立され・・、
  清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は、1912年2月12日、
 正式に退位し、ここに清は、276年の歴史に幕を閉じ、完
 全に滅亡した。
  この時、満州とチベット以外には、辛亥革命の武装蜂
 起の独立運動が起きていた。
  満州の地は、この清朝滅亡後に、中華民国が清朝領土
 の継承を主張したが・・、
  外満洲は、アイグン条約、及び、北京条約で、ロシア
 帝国に割譲されていて・・また・・、
  内満洲の旅順・大連は、日露戦争までは、旅順(港)
 大連(湾)租借に関する条約でロシアの租借地であった。
  そして、日露戦争後は、ポーツマス条約により、戦勝
 した日本の租借地となった。
  そして、この満州は、「黄塵万丈」で「塵埃にまみれ
 て人が居る」という地で、人もほとんどいない地に、勤
 勉なる日本人が入植し、荒地を開墾した。
  イギリスやアメリカは、人が居る「美味しい所」に入
 って、中国の地の利益を得た。
  そして、鉄道などの権益を奪っていた。
.
1917年2月23日、ロシア革命
  (2月革命、1917年2月23日~1917年2月27日)
  (10月革命、1917年11月7日~1918年)
  ロシア革命が起きた時に、日本は、イギリス・フラン
 スから、再三、出兵を懇請された。
  日本は、出兵するにしても、コサックの協力が無けれ
 ばできないと考えていた。
  また、アメリカやイギリスなどの連合国は、日本のシ
 ベリア出兵(1918年8月~1922年10月)を強く要請した。
  アメリカやヨーロッパの列強は、都合のよい時には日
 本を利用し、また、都合が悪くなれば干渉した・・常に、
 この様な態度だった。
.
1919年6月28日、ベルサイユ条約
  フランスのベルサイユで、第一次世界大戦における連
 合国とドイツの間で講和条約が締結された。
  ヒトラーの誕生は、何も、ヒトラーを擁護し、弁護す
 るわけではないが・・、
  このヒトラーが生まれた責任は、ドイツだけの責任で
 はない。
  第一次世界大戦の戦勝国にも「大いなる責任がある」。
  この責任から逃れてはならない。
  大いにその責任を感じ、歴史の教訓として胸に刻み付
 けなければならない。
  戦勝したから「すべて、こちらが正しいのだ」と卑劣
 な事々を、戦勝諸国は、一方的に苛酷な諸事項を、ドイ
 ツに押し付けた。
  結局、これが、解決されない新たな「お粗末な問題」
 を生んだ。
  そして、解決しなかった問題を、第二次世界大戦をし
 なければならないという「愚かな経過」をたどることと
 なった。
  ドイツは、返済不可能な賠償金の支払いを課された。
  出来ないことを成せと言われた。
  まったく愚かな復讐的な戦勝国の要求だった。
  ドイツ国民は疲弊した。
  また、精神的に大いなる屈辱を与えられた。
  ドイツ国民の方々は、絶望の縁に落とされた。
  1933年、ヒトラーが政権をとった。
  第一次世界大戦の戦勝諸国が、このヒトラーを生んだ
 といっても良い状況だった。
  第一次世界大戦後のベルサイユ条約の場は、ドイツを
 吊るし上げる「復讐のリンチ」が行われた話し合いと言
 ってもよい状態だった。
  苛酷な賠償金は、卑劣極まりない決定だった。
  何ら戦勝諸国側に反省点の見られない愚行が行われて
 いた。
.
1922年12月30日、ソビエト連邦の樹立
  ソビエト連邦は、1917年のロシア帝国を倒したロシア
 革命を起源としている。
  ロシア社会民主労働党の多数派で、ウラジーミル・レ
 ーニンが率いるボリシェヴィキは、臨時政府を転覆させ
 て、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 (1936年、ロシ
 ア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称) を設立した。
  この十月革命(1917年11月7日)を皮切りに、革命派の
 赤軍と反革命派の白軍との間に、ロシア内戦が開始され
 た。
  赤軍は、複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、名目上労働
 者、および、小作農の代表として振る舞ったソビエトを
 通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援した。
  1922年、共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカース、
 ウクライナ、白ロシア各共和国を統合し、ソビエト連邦
 を形成した。
  1922年12月には、第1回ソビエト連邦全連邦ソビエト大
 会が開催され、
  1922年12月30日に、ロシア連邦共和国、ウクライナ社
 会主義ソビエト共和国、白ロシア社会主義ソビエト共和
 国、ザカフカース連邦の4国が平等な立場で加盟するとし
 たソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。
  このロシア革命後のソ連誕生の直前・・、
  くすぶるシベリアの地に、商人と称するアメリカ人が、
 鉄道沿線一帯に出没した。
  特に、東部において目立ち、カムチャッカ・サハリン・
 沿線州占領の準備だという観測がもっぱらだった。
  イギリス・フランスは、申し合わせた様に、オムスク
 を中心に、バイカル湖以西に活躍し、反革命派に多額の
 資金を投じた。
  反革命派や中立派は、次第に、イギリス・アメリカ・
 フランスに頼ろうとする傾向が強まって行った。
.
1940年6月14日、ドイツによって、パリが陥落した。
  モーロワが、カナダへ亡命した。
  「フランス敗れたり」を書いたアンドレ・モーロワは
 言う・・、
  「国民は、祖国の自由の為には、いつでも死ねるだけ
 の心構えが無ければ、やがて、その自由を失う」と。
  その『精神の強さ』や「道徳心」を持てと。
  そして、第二に、「国民の団結」を言う。
  そして、「外国の影響から世論を守ること」を言う。
  「自らの思想を擁護するのは、それ自体間違っていな
 い」と、
  しかし、「その思想の故に外国から金を貰うのは犯罪
 である」という。
  1940年、このモーロワは、ヒトラーのフランスの占領
 を受け入れず、カナダべ亡命した。
  モーロワは、フランスからの移民の人々の多いケベッ
 クの町で、依然として、7月14日のフランスの建国記念日
 に、たくさんのフランス国旗が翻っていたのを見た。
  フランスの三色旗が、誇らしげに翻っていたのである。
  モーロワは深い感銘を受けた。
  そして、叫ぶ・・「フランスよ、祖国に忠誠であれ」
 と・・、
  フランス国家が最大の危機の時、「祖国への忠誠」が
 最も大切と訴えた。
  フランスの国を失った最も大きな理由が「これなのだ」
 と訴えた。
.
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立した。
  日本は鈴木貫太郎内閣になった。
  鈴木貫太郎は穏健派で、第二次世界大戦の日本降伏の
 方針を持ち、明らかに降伏の協議に入りたいとしていた。
  アメリカも、その状況を知っていた。
  そして、日本とモスクワ日本大使館との連絡が始まる。
  「日本と中立条約のあるソ連」への降伏の仲立ちの件
 である。
  アメリカは、この日本とソ連との交信電文を(暗号解
 読して)読み、すべてを知っていた。
  アメリカは、手に取るように、日本の降伏への動きを
 改めて確認していた。
  確実に、近いうちに、終戦となる状況になる事を、ア
 メリカは、この事からも知っていた。
  しかし、アメリカは、原爆を投下した。
  反撃力の完全に落ちている日本へ、アメリカは、原爆
 を投下した。
  アメリカは、戦争を早く終わらせるためという屁理屈
 を言った。
  もう終わる状況にあったのにである。
  それも、広島と長崎に、二発も投下した。
  そして、アメリカ国務省内では、「日本の工業力打破」
 が叫ばれていた。
  また、「ドイツは、農業と牧畜以外に生活の糧は認め
 ない」という暴論が叫ばれていた。
  しかし、ドイツと日本の居なくなった後に、極東に、
 ロシアの力に対する思慮に欠けていたと、アメリカは、
 後に後悔し、反省した。
.
1947年3月、買い出し(2)
  連日の空襲に打ちのめされた街の人々は、食べる物を
 求めて農村へ買い出しに行った。
  買い出しに来られた農家の方にしたって、貴重なお米
 だった。
  そのお米を、分けて差し上げたが、そこで終わらない
 親切さ、優しさがあった。
  この分けて差し上げた方に、確実に持って帰って戴き
 たいと・・、
  そこで、駅で「お巡りさんの取締り」をしていないか
 を、わざわざ家人の方に、駅まで見に行かせて戴いた。
  その返事が来る間、町から買い出しに来た小さな子供
 を連れた若い女性は、農家のその奥様の接待を受けた。
  農家の御手製の漬物とお茶で、若い町の女性は、町で
 の連日の空襲に会ったこと、その中で夫を失ったことな
 どを話したりした。
  農家の奥様の同情を、また更に戴いたりした。
  駅での取り締まりはしてないと教えてくれたその家人
 の方の親切があった・・
  その時、持って行った着物だって、持って行く側にす
 れば、思い出もあるだろうし・・その着物を、手放した
 くもないのだろうが、農家の方にしてみれば、その着物
 の柄や、その色合い、年齢に相応かなど、決して満足す
 る着物ではなかっただろう・・が・・、
  また、苦労して米作りをした家人の方にしたって、不
 要不急の着物であった・・、それより今は、食べる物・
 お米の方が大切で・・、
  それを見ず知らずの、今日、突然、お米と代えて下さ
 いと訪れて来た人に急に言われて、そのすべてを悟(さ
 と)って、「いいですよ」と応じて戴けた農家の方の「
 やさしさ、思いやり、親切」・・まったく頭が下がる「
 ありがたいことだった」・・その様な事のある日本だっ
 た。
  家人の方も、農家の奥様のやることに、何も言わずに
 同意されていた・・そのような日本だった。
  その様な優しい心遣いのある日本が、李朝末期のどん
 底の貧しい朝鮮・韓国を助けた。
  共に豊かになろうと・・道路を造り・・鉄道を引いて、
 電車を走らせ・・国づくりには教育が大切だと、学校を
 造り・・、
  それも、日本より立派な学校を造り・・衛生環境の劣
 悪なのも朝鮮・韓国の国づくりの状態を悪化させている
 と、衛生環境の改善も一生懸命に行って、朝鮮・韓国の
 人口が3倍にもなるという実績を残し、朝鮮・韓国の方々
 は、皆、喜んでいた。
  街並みも見違えるほどに良くなり、山には木を植え、
 この後の朝鮮戦争の時、この山へ日本人が一生懸命に植
 林したことを知っているアメリカ兵が、「その山に、戦
 争で爆弾を投下するのが、申し訳ないと、忍びないと、
 嫌だった』と・・言っている。
  町の建物を造り、ダムも作り・・誠実な日本・・
  だがしかし、この恩を仇で返す韓国。
  しつこく日本を貶(おとし)める行為をする韓国。
  遠い昔から、この様な事をする韓国・朝鮮で・・
 韓国・朝鮮は、日本へこの様な事をして来た。
  感謝の言葉もない。
  御礼の言葉もない。
  昔からやって来た非礼の韓国・朝鮮なのだが・・
  おかしいのではありませんか?
  『人の道』を外しているのではありませんか?
.
1964年、アメリカで公民権法が制定された。
  アメリカは、「自由だ」「平等だ」と他国には言うが、
 自国の足元を見なさいと言いたい。
  アメリカには「登録係官」という者が居て、この係官
 が、自分のお好みで「様々な異なった選挙投票の基準」
 を作り、黒人の方々の投票行動を排除することを「影の
 目的」として存在した。
  勿論、彼らなりの、WASP(ワスプ、W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)な
 りの理由は付けられていた。
  また、「慣行だ」とか、「手続き上で必要」だとかと
 理由を付けて、黒人の方々の投票行動を排除し、差別し
 た。
  選挙投票の際に「読み書き能力テスト」を行なうとい
 う差別は有名・・悪名高き行為となっている。
  アメリカは、投票権行使における卑劣な人種差別国で
 ある。
  1964年、黒人の方々は、公民権法の制定を勝ち取った。
  そして、その翌年・1965年、投票権法を制定させて、
 一層の強化をした。
  そこには、「何人も、人種、肌の色、宗教、あるいは、
 出身国を理由に、次のような施設で差別、若しくは、隔
 離されてはならない」という一文がある。
  この様な法律を作らなくてはならないアメリカは、劣
 悪な遅れた国となっている。
  黒人の方々は、ホテル、レストラン、映画館、旅館、
 劇場、コンサートホール、スポーツ競技場、展示場、娯
 楽施設、教育施設などなど・・で差別されている。
  また、近年、「逆差別」という言葉を用いた差別が行
 われている。
  この事の発端は、そもそも、アフリカで、幸せな生活
 をしていた黒人の方々を、人権を無視して、白人アメリ
 カ人が、その黒人の方々を強引にアメリカに連れて来た
 事に始まる。
  まったく黒人の方々の意見や希望を無視して、アメリ
 カへ連れて来られた非人道的行為に始まっている。
  つまり、白人アメリカ人による「完全なる権利回復を
 行なう責任がある」。
  その為に、すべてを排して、目的達成に向けて努力せ
 よ、行動せよ・・、
.
2010年、ギリシャは、1,100億ユーロ(約16兆円)の支援を
 受けた。
  不誠実な行動をして、嘘をついたギリシャの末路。
  グローバルに連合しようという名目で出来たEU・・、
  そんな美しい話は、今(2018年)はないEU・・、
  そのEUの一員のギリシャは、大嘘をついた結果とし
 て、今は、『途上国のような国』に成り下がっている。
  その被害者は、ギリシャ国民の方々で・・、
  ギリシャ国民の方々は、高騰した医療費で、医者にも
 かかれる状態にない。
  最悪の異常状態となったギリシャ・・今、その救済に、
 戦場に駆け付ける「国境なき医師団」の方々が、乗り出
 すという状況となっている。
  最後の手段がとられねばならないギリシャの状況に陥
 (おちい)っている。
  まったく憐(あわ)れな状態の国となっている。
  それで、今は、ギリシャは、国全体が「うつ病」の様
 になり、また、栄養失調にかかった様になっている。
  これが、グローバリズムを標榜したというEUの加盟
 国かという状態となっている。
  「楽ばかりを追求」し、「プレゼント状態の金」を貰
 うギリシャの末路だった。
  2010年、ギリシャは、IMFとECBとEUから、
 1,100億ユーロ(約16兆円)の支援金を貰う羽目に陥った。
  その時の条件は、厳しい財政緊縮の条件「今までの様
 な、甘い、じゃぶじゃぶ金を使うようなことをするな)
 と言われ・・、
  また、金融引き締め(出費をしっかり押さえよ)と言
 われ・・、
  構造改革せよ(今までのような甘いやり方を変えよ)
 と言われた。
  ギリシャは、福利厚生費を切り捨てた(ここは、どこ
 の国でもやる事だが、ギリシャは切って捨てた。日本の
 ような教育補助や助成はもちろん無し・・そんな話は夢
 の夢)となった。
  ギリシャの産業は停滞した。
  失業者が、あっという間に、街にあふれた。
  今までのギリシャへ流れた金で儲けて、莫大な富を築
 いていたのは、一握りの「金融界の人間」と「実業界の
 人間」だけだった。
  ギリシャの一般国民の方々は・・被害者だった。
  国民の方々の生活は・・破壊させられた。
  ホームレスが増えた。
  自殺者が増えた。
  職のない人間が増えた。
  医療費が、ほぼ倍額となった。
  医療費補助は・・40パーセント削減となった。
  医療を受ける事の出来る国民は・・居なくなった。
  しかし、この国民の側に立って行動する政治家も・・
 居なかった。
  製薬会社は、多額の賄賂を病院や医者に渡した・・
 そして、儲けた・・医療制度が破綻し崩壊しているのに、
 利益を上げた。
  当然、「ギリシャ国債」なんて怖くて買われる状況で
 はなくなった。
  2011年9月、ギリシャ政府は、長期国債の金利を20%
 を越すような条件を付けて・・、やっと、売ることが出
 来た。
  金が無いので金を貸してくれ・・ギリシャ国債を買っ
 てくれ・・と言ったって、高い金利の支払いまで約束し
 て・・やっと買ってもらえた・・
  信用のない国にと・・落ちぶれた。
  正直にやって来なかった「酬い(むくい)だった」。
  明日は野となれ山となれ式の計画放棄の無責任体質が、
 この様な状態を招いたのだった・・
  誠実な努力もしないでいたからだった・・
  国民は、苦しいと抵抗し、デモもしたが・・
  「IMFは、きっぱりと拒否した」・・当然だった。
  その国民の行動は、初めだけで・・消えた。
  正直が一番なのだ・・
  誠実が大切なのだ・・
  相手を騙(だま)したり・・嘘をついたりするするこ
 とは、駄目なのだ。
  キリスト教聖書には、「誠実に居よ」「正直にせよ」
 などと一言も書かれていない・・、
  うまく行くなら「嘘も言え的」な事ばかりである・・
 困ったら「隣の国の富みを奪え」である。
.
2010年5月、ギリシャ救済の援助プランが実施され始めた。
  どうしようもないギリシャに、IMFとECBとEU
 は、必死に金の援助をした。
  2010年5月から2400億ユーロ(約34兆円)という莫大な
 金の援助プランを実行していた。
  その上に、2012年3月には、ギリシャの負債免除までも
 行なった。
  ギリシャの個人の債務者の負債の半分以上を「無いこ
 ととした」。
  一気にこれで、ギリシャは、1000億ユーロ(約14兆円)
 の借金を消してもらった。
  ドイツ国民は援助疲れしていた。
  国際機関が入ると、ギリシャの汚職体質が明るみに出
 た。
  また、放漫な経営体質も明るみに出て、その癒着の酷
 (ひど)さが次々と明るみに出た。
  誰も、ギリシャの自力更生を信じるものは居なくなっ
 た。
  ギリシャの緊縮財政は、当然、実施されねばならなか
 った。
  ギリシャは大不況となった。
  種々の機関が民営化され、外国資本の手に渡った。
  ギリシャへ投資する者もなく、投資話しは行き詰った。
  年金は削除され、賃金もカットされた。
  税金は増税となり、消費は落ち込んだ。
  失業者は街にあふれ、バブルで回していた経済は「完
 全にストップした」。
.
2015年12月20日、変化するカナダ
  先住民族迫害を正式に認めた。
  そして、調査開始へ・・、
  世界中で右傾化が進む中、10年ぶりに保守党からの
 政権交代となったカナダでは、中道左派政党である若き
 自由党党首ジャスティン・トルドー首相(43歳)によっ
 て変革が進められている。
  多様性を重視する新閣僚。
  総選挙後の勝利宣言演説のなかで、「真の変化をもた
 らす」と約束した通り、11月4日に発表された新閣僚は、
 首相を除く30人が男女半数ずつ、年齢もバランス良く
 入閣。
  さらに、障害を持つケント・ヘ氏、先住民の血を引く
 ジョディ・ウィルソン・レイブルド氏、アフガニスタン
 から難民としてカナダに移住したマリアム・モンセフ氏
 (30歳)など、様々なバックグラウンドを持つ議員が入
 閣した。
  先住民族迫害を正式に認める。
  そして、ついに長年の問題となっていた先住民族の迫
 害を、トルドー首相が認め、先住民族の女性約1200
 人が殺害・誘拐等で行方不明になっている事件の調査を
 開始すると発表した。
  調査は、来年春に始まる予定で、2年間で4000万
 ドル拠出するとしている。
  連邦警察によると、1980年から2012年までの間に殺人
 事件の被害者となった先住民女性は1017人で・・、
  先住民女性がカナダの女性全体に占める割合は約4%
 だが、カナダで殺害された女性の約16%を占める(4倍)
  男性に関しても、先住民の男性が、殺害事件の被害者
 となる確率は、それ以外の男性の7倍にもなる。
  こうした現状に対し、先住民族や、活動家が、調査を
 開始するよう何度も政府に求めてきたが、ハーパー前首
 相は調査を拒否してきた。
  さらに、6月に発表された「真実と和解の委員会」の
 報告書では、1874年に始まったカナダ政府の同化政策に
 よって、先住民の子供が差別や虐待をされた事実が明ら
 かになっている。
  それによると、120年以上にわたって先住民の子供 約
 15万人が同化政策によって、「インディアン寄宿学校」
 に親元から引き離されて強制的に入れられ、差別や虐待
 を受けてきた。
  この寄宿学校は、1883年から1998年までの間に、カナ
 ダ各地に約130校存在し、政府の補助金を受けキリス
 ト教教会が運営してきた。
  1940年代には、先住民の学齢期の子供約3分の1が、
 これらの施設に入れられ、6000人が虐待によって死
 亡したとされている。
  この報告書では、これらの実態を「文化的ジェノサイ
 ド」と激しく非難している。
  この政府の同化政策に対しては、ハーパー前首相が
 2008年に、公式に謝罪し、政府の資金でインディアン寄
 宿学校で起こったことを調査し、記録するために「真実
 と和解の委員会」を設立。
  さらに、約4400億円を補償金として支払っている。
  一方、今でも、約140万人の先住民が存在している
 が、一般カナダ人と比べて収入は低く、失業率も高い。
  新政権は、まずは、殺害事件の全国調査を開始するこ
 とを発表したが、先住民の環境改善のためには、教育予
 算の大幅増額や、先住民法の見直しなど課題が多く残っ
 ている。
  変革するカナダ
  カナダでは、景気後退、格差拡大で不満が高まる中、
 中間層の所得税減税、富裕層の増税、インフラ整備など
 の経済政策への期待から政権交代が実現した。
  アメリカでも、中間層が過半数を割り、世界中で格差
 が拡大している。
  トルドー首相は、多様なバックグラウンドを持つ議員
 を入閣させた理由を、「2015年だから」としたが、他の
 国では、右傾化が進み、移民排斥など世界中での動きも
 出つつある。
  男女平等も程遠い。
  2015年になっても、20世紀と変わらず戦争は起こり、
 テロの恐怖に怯えている。
  世界各国が、シリア難民受入の縮小や空爆参加を決め
 る中、トルドー新政権は、2万5000人のシリア難民
 受入を発表し、ISISへの空爆参加を中止するなど独自の
 道を進もうとしている。
  また、イノベーション、サイエンス、経済発展省も、
 新たに発足、環境省を環境・気候変動省と名前を変え、
 先進国の中で最も対策が遅れている気候変動にも取り組
 む。
  さらには、ハーパー前政権時に定められた「着用禁止
 法」によって禁止されていたニカーブ(イスラム教徒の
 衣装)の着用も許可されることになった。
.
2017年、中国へ逃げた北朝鮮の脱北者を、中国は北朝鮮へ
 その脱北者を渡した。
  渡された北朝鮮は、その脱北者が妊娠している場合、
 中国人の子だと、「北朝鮮の血が、けがれる」と堕胎さ
 せ、または、母親の眼の前で殺す事をした。
  この事は、国連も事実として、この事を掴んでいる。
  この事について、中国は目をつぶっている。
.
2018年2月27日、まったく怪しい中国
  この日の読売新聞に、「FBI、孔子学院を捜査」「
 スパイ容疑か」「《親中派》育成に警戒」「アメリカ議
 会証言」という表題の記事があった。
  ・・その概要は・・
  アメリカ連邦捜査局(FBI)が、中国政府が国外で
 の中国語と中国文化の普及拠点としている「孔子学院」
 の一部に対し、捜査に乗り出している。
  FBI高官がアメリカ議会で証言した。
  アメリカ国内でのスパイ活動などへの捜査という。
  アメリカ国内では、孔子学院が「親中派」育成の場に
 なっているとの警戒感が強まっている。
  FBIのクリストファー・レイ長官は、孔子学院の活
 動が、アメリカ学術界で中国に対する「無邪気な(安心
 的見方)」を広める手段になっているとして「懸念」を
 示し・・、
  「我々は注意深く(孔子学院を)見ており、中には
 捜査に発展したものもある」と述べた。
  アメリカ情報機関が、孔子学院を通じて中国政府と直
 接の提携関係にあるアメリカ国内の100校以上の大学に
 ついて、中国のスパイ活動の潜在的拠点となりかねない
 として警戒している・・、
  中国は、2004年以降、世界120以上の国・地域に450ヶ
 所以上の孔子学院を設け、アメリカ国内でも約100ヶ所に
 開設された。
  孔子学院には「中国政府の意向が強く働く」ことから、
 「学問の自由や言論の自由が侵害される」との懸念も高
 まり、アメリカ国内では最近、孔子学院を閉鎖する動き
 も出て来た。
  孔子学院に対して透明性を高め、カリキュラムをアメ
 リカの大学側にすべて委ねることを求める法律案作りが
 着手されている。
  中国の宣伝工作へのアメリカの視線が今後も厳しくな
 るのは必至。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)579E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年4月~1893年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)579E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年4月~1893年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年4月、敦賀~富山間の鉄道建設に着手した。
  北陸本線の歴史・・、
  北陸本線は、全線が官営鉄道として建設された。
  1889年、長浜駅~敦賀港駅間が、東海道線の支線とし
   て開業した。
  1892年7月6日、鉄道敷設法により線路取調委員を設置
   した。
  1892年8月より、北陸線の調査を開始した。
  1893年2月10日、帝国議会第一回鉄道会議に「敦賀ヨリ
   福井金沢ヲ経テ富山ニ至ル百二十三哩五十七鎖余」
   に係る「線路ノ形勢設計ノ概況」が提出され、
  1893年2月16日、これをもとに工事着手順序及び年度別
   予算が決定された。
  1893年4月8日、鉄道庁敦賀出張所、及び、鉄道庁第三
   部敦賀派出所を設置して、敦賀~森田間の線路実測
   に着手し、
  1893年8月、これを終えて着工した。
1893年5月1日、シカゴ万国博覧会が開催された(〜10月30日)
  シカゴ・コロンブス記念万国博覧会や、世界コロンビ
 ア博覧会とも言われる。
  日本からも、絵画、彫刻などが多数出展した。
  アメリカは、「アメリカ発見」から400年を大々的に
 祝った。
  そして、自国の達成しつつある「文明」の進歩と産業
 の躍進を誇示した。
  そこに、世界の列強の仲間に入りたいというアメリカ
 があった。
  しかし、その蔭で、『キリスト教に洗脳された有色人
 種蔑視行為をする』という「後進国以下の行為」を行な
 っていた。
  アメリカの先住の方々であるアメリカ・インディアン
 の方々や、アフリカの方々、また、南太平洋などの方々
 を・・、
  また、当時、アメリカやヨーロッパの植民地で「未開」
 だとか、「野蛮」だとかと蔑視していた方々を、会場の
 片隅に見世物として展示した。
  「珍奇な見世物」とした形・見方で展示した。
  この万博のメインの展示場は、「白い都市」ホワイト・
 シティと名付け、白人の文明を誇示した。
  白人文明の進歩を成果に光を当てていた。
  キリスト教が蔑視し、マインド・コントロールする有
 色人種の方々には、その白人優越に対する「影の役割」
 を担(にな)わせた。
  「白人優位」「優勝劣敗」のキリスト教思想が当然の
 様に誇示されていた。
  1例を言えば、インディアンの方々には、インディアン
 の方々が培って来た、長い年月に育んで来た『独自の文
 化』があり、独自な花が開いていた訳だったが・・。
  それらの貴重な多様な文化のすべてを、「ことごとく
 破壊したこと」を『進歩だ』と誇示して展示した。
  インディアンの方々の『固有な文化』にはまったく意
 を配っていなかった。
  殺戮や破壊の成果を「誇示して展示」していた。
  マヤ文明も、インカ文明も、同時に破壊されて、無く
 なって、それが、「白人の成果だ」と誇示していた。
  紀元前2000年から、メキシコの中央高原には、トウモ
 ロコシ栽培を中心とする「定住農耕村落」が出現し、そ
 の文化を継続して持っていたが・・その方々の文化は、
 消滅させられた。
  アメリカ・インディアンの方々の、コロンブス到着時
 の人口推定値は、過去には、北米に100万人とされていた
 が、最新の研究成果において、北米に200万人~500万人
 とされている。
  また、最も多い場合には、北アメリカに980万人~1800
 万人の方々が生活を享受していた。
  この多くの方々を、卑劣にも、あらゆる手を使って、
 銃を使って殺戮し・・、
  また、インディアンの方々が食糧とした野牛が居なく
 なればインディアンの方々も居なくなるだろうと・・野
 牛狩りをしたりとして、インディアンの方々を殺戮した。
  また、中南米には、1500万人とされていたが、最新の
 研究成果において、中南米に3700万人~5400万人とされ
 ていて、最も多い場合には、中南米に8000万人~1億人と
 いう研究値がある。
  この様な方々が、白人によって激減したことは、まっ
 たく悲しむべきこと、忌まわしい事である。
1893年5月5日、アメリカで金融恐慌となった(1893年恐慌)
  この前兆の1つは、1893年2月23日に、過剰に拡大を続
 けていたフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道が
 破産した事だった。
  この10日後に、大統領に就任したグロパー・クリーブ
 ランド大統領は、大統領就任と同時に金融危機に対処し
 始め、経済危機の主たる原因と考えられていたシャーマ
 ン銀購入法を撤廃するよう議会に働きかけ、成功した。
  経済悪化が明らかに懸念されたので、大衆は銀行に殺
 到し、現金を引き出し、銀行取り付け騒ぎとなった。
  イギリスにおける金融危機と、ヨーロッパの貿易量の
 減少が重なっていて、投資家はアメリカの株を売った。
  そして、兌換のアメリカドルを得ようとした。
  大衆も銀証券を金に換金しようとした。
  アメリカは金の兌換を停止した。
  銀と銀兌換紙幣の需要が落ち、銀の価格と価値が下落
 した。
  債券保有者は、当然、額面価格割れを恐れた。
  同時に、ナショナル・コーデージ・カンパニーや、ノ
 -ザン・パシフィック鉄道などの多くの会社が破綻した。
  その総数は15000社、500銀行など・・シッチャカ・メ
 ッチャカだった。
  失業率も19パーセント、中流層も抵当債券が払えず、
 建てた家から追い出された。
  無人の屋敷が、幽霊屋敷の様に並んだ。
  この恐慌は、当時までアメリカ合衆国が経験した最悪
 の経済不況とされた。
  イギリスを中心とする世界経済の構造変化の最終段階
 だった。
  銀価格の低下でイギリス植民地のインドは大きな影響
 を受けた。
  また、イギリスの植民地オーストラリア経済も大きな
 影響を受け厳しい恐慌となり持続した。
1893年5月10日、アメリカ連邦最高裁が、トマトを野菜と裁
 定した。
  これは、関税がからんだ裁判だった。
  アメリカで、輸入する場合、果物には関税がかからな
 いが、野菜には関税が課せられた。
  輸入業者はトマトは果実だと主張した。
  官僚は野菜だとして、この論争がエスカレートした。
  判決が、野菜だとした理由は・・「畑で育てられ、デ
 ザートにならないから」だった。
  しかし、植物学では「果物」である。
  しかし、アメリカの法律では「野菜」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:20xx年に、国防を怠った日本国民が、天国へ行って、
   天国で日本の先人たちが・・核攻撃の対処をしなかった
   日本国民の大打撃・消滅を見て、「落つる涙は」と詠(
   うた)うだろう。
.
8世紀、地中海がイスラム教徒の勢力下となる。
  コロンブスは、生涯、自分が到達したアメリカの地を、
 インドだと思っていた。
  彼は、1492年、アメリカ海域の西インド諸島に到達し
 た。
  スペインが、このコロンブスに西へ向かわせたのは、
 8世紀以降、地中海が、ほぼ全域に渡って、イスラム教徒
 の勢力下にあったからだった。
  特に、13世紀の末に、オスマン・トルコ帝国が成立す
 ると、西ヨーロッパのキリスト教徒は、地中海を通るこ
 とが出来なかった。
  キリスト教徒は、東へ勢力を拡大する事が出来ずに、
 また、南へも、勢力拡大することが出来なかった。
  止むを得ず、西方へ向かうしかなかった。
  コロンブスが、水平線に消える船影を見て、地球は丸い
 と知って、西への探検に向かったという話は、キリスト教
 国によくある美しく仕上げた嘘話・作り話で・・、
  キリスト教の美化話である。
  また、キリスト教国は学問・芸術が非常に進んでいた
 という話も「酷(ひど)い作り話」で・・、
  イスラム圏が劣った地域と蔑(さげす)むのは、世界
 に対する卑劣なプロパガンダ(嘘話)である。
  事実は、まったく逆で、イスラム圏は、学問・芸術な
 ど「すべてにおいて」素晴らしく進んだ社会だった。
  キリスト教国より数段高いレベルにあった。
  また、進んだ軍事力において、圧倒していた。
  キリスト教国は、大切な医学を、イスラム圏に頼らざ
 るを得ず、イスラム諸国に医学を教えてもらい、留学生
 を派遣していた。
  また、種々の学問の教えを受けていた。
  この様な恩恵を受けている国々へ、この恩知らずのキ
 リスト教国は、キリスト教の聖職者の「嘘とあおり」で、
 十字軍を派遣したりする。
  そして、1494年6月7日には、トルデシリャス条約とい
 うとんでもない自分勝手な条約をする。
  世界は自分たちのもの、その世界を分け合おうという
 条約である。
.
16世紀後半、桃山文化(~17世紀初め)
  日本の文化は、「現世を楽しむ開放的な文化」と言わ
 れる。
  これらの日本の文化は、庶民の間から湧き上がって来
 た・・そして、世をより豊かに楽しんだ。
  それに比較して、ヨーロッパの文化は、不埒な方法で
 権力と資金力を独占したキリスト教が、芸術家たちを独
 占して・・描かせ、また、作曲させたのとは違う。
  平等な世の中から、高い芸術性を持った庶民の中から
 様々なジャンルで生まれた。
  大阪の堺の千利休は、「質素なわび茶の作法」を完成
 させた。
  庶民から大名まで、その「茶の湯」の文化を楽しみ味
 わった。
  また、庶民の間には能楽が生まれ、日本人特有の深い
 精神性の高い芸術を完成させた。
  長谷川等伯は、日本水墨画の秀作「国宝:松林図屏風」
 を描いた。
  絵師として狩野派の狩野永徳・狩野山楽らは城郭や寺
 院の襖絵を飾った。
  華麗な姫路城など日本人の建築技術は、早くから高度
 な技術域に達し、その技術が縦横無尽に発揮されていた。
  天守閣を高く聳(そび)えさす桃山文化は、日本人の
 優秀さを示す一つの証左(しょうさ、証拠、また、証人)
 となっている。
  人々は、色とりどりの衣服を身にまとい、小唄を楽し
 み、踊りに興じた。
  その豊かさは衣服にも表れ、麻の他に、木綿も着るよ
 うになったり、また、小袖(こそで、小さい袖の、和服
 の普段着)が流行したりした。
  17世紀の初めには、出雲の阿国(いずものおくに)と
 いう女性が、「阿国かぶき」を始め、大いに流行した。
  これは、後に、歌舞伎へと発展して行く。
  また、この頃、楽器の三味線(しゃみせん)が琉球(
 沖縄県)から流行して来た。
  この楽器の流行と共に浄瑠璃(じょうるり)が広まっ
 た。
  この浄瑠璃は、この後、人形あやつりと結び付いて、
 人形浄瑠璃となった。
  (参考)浄瑠璃:平曲や謡曲に発した、琵琶(びわ)・
     扇拍子による音曲(おんぎょく)の語り物と、そ
     れを承(う)け三味線を使って発展した諸派の音
     楽との、総称。
  (参考)人形浄瑠璃:三味線と浄瑠璃に合わせて人形
     をあやつって演ずる、日本固有の人形劇。
.
1598年、豊臣秀吉が死す。
  スペインのフェリペ2世は、キリスト教宣教師たちを
 アジアへ派遣した。
  宣教師たちは、中国を武力征服をすることをスペイン
 へ報告した。
  そしてまた、日本への征服と利用価値があることにつ
 いても報告した。
  しかし、1598年、豊臣秀吉が死んだこの年に、このフ
 ェリペ2世も死んでしまった。
  スペインの日本征服は実行されなかった。
.
1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、侵略などと言われるいわれはない。
  侵略と言われる理由はまったく成立していない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
.
1920年代、「ワシントン軍縮条約」の1920年代は、「タガ
 をはめられた」と感じた日本があった。
  ドイツも同じく、似たような安全保障の不平等感に悩
 んでいた。
  また、国民も大変な屈辱感を抱いていた。
  それが、世論や軍部内の不満をつのらせ、やがて「ロ
 ンドン軍縮会議」をめぐる日本の政治の大混乱、そして、
 満州事変という経過となる。
  「主権の不平等」は、自国民の平静さを損する。
  「ロカルノ条約」さえなければ、ドイツにナチズムは
 起らなかった。
  例え、ヒトラーに政権ができたとしても、あのような
 過激な再軍備路線に走ることはなかった。
  今、日本は、「国家の防衛主権」を、まったく剥奪さ
 れている。
  日本は、「自ら課した拘束」だとマインド・コントロ
 ールされて来た。
  そして、最良の選択だと洗脳されて来た。
  この不安全な安全保障のハンディキャップに気付いて
 も、看過して来た。
  だが、今こそ、日本国民は自覚し、目覚めなければな
 らない。
  この状態から脱却しなければならない。
  今だに、戦後体制下に押し込められていることの「危
 (あや)うさ」に・・気付かねばならない。。
  明治時代、この点、フリー・ハンドを持っていた。
  その点、現在、独立状態になれない、「タガをはめら
 れた中」にいる。
  仮の話であるが、この点について、アメリカが、理解
 を示さないのであれば、一旦、日米安全保障条約を停止
 (破棄)すべきである。
  今・現在、確かなる変革が必要である。
  緊急事態が起きているのである。
  しっかり、憲法も改正せよ。
.
1940年5月10日、アイスランド侵略
  アイスランドへ、イギリスが侵攻した。
  アイスランドは中立国である・・が・・
  イギリスは、この国を侵略した(フォーク作戦)
  イギリスは、アイスランドの重要な港を手に入れよう
 とした。
  イギリスは、アイスランドの首都(レイキャビック)
 へ上陸し、侵略作戦は開始された。
  アイスランドの抵抗もなく、速やかに通信網を封鎖し
 た。
  そして、不法にもドイツ系住民(民間人)を拘束した。
  アイスランド王国政府は、同日、「この侵攻は、国の
 独立を甚だしく侵す」と抗議し・・また・・、
  「すべての損害の補償を求める」と抗議文書を出した。
  この様な歴史のあるイギリスとアイスランド。
  今(2017年)、イギリスでは、「アイスランド人、お
 断り」という言葉が流行(はや)り、行き交っている。
  また、イギリスは、非常に閉鎖的になっていて、
  スコットランドの独立騒ぎを根に持っていて・・
  また、「スコットランドと言わないでくれ、グレート・
 ブリテンと言ってくれ」と言っている。
  イギリスでは、アイスランドの方たちが差別を受けて
 店にも入れないという。
  また、イングランドという言葉でなく、「グレート(
 偉大)」という語が入った「グレート・ブリテン」と言
 ってくれと言うイギリス人となっている。
  相変わらず、スコットランドは、独立したがっている。
  卑劣なイギリスから逃げたがっている・・、
.
1943年1月24日、カザブランカ演説
  この日のルーズベルトのカサブランカ演説で露呈した
 「ルーズベルトのキリスト教にマインド・コントロール」
 された「シャロームの考え方」:「ドイツと日本を、完
 全破壊して後、シャローム(完全破壊の後の平和)が訪
 れる」は、米国務長官コーデル・ハルには、その考え方・
 方針が、完全に間違っているという問題点が、はっきり
 見えていた。
  ハルは、これを聞いて「復讐というほかない」と思っ
 た。
  そして、ルーズベルトの気づかぬ点に考えが及んだ。
  ルーズベルトが言うように「ドイツを牧畜農業国家に
 すると、工業力を抹殺して、この地域が安定的になり行
 くと思っているのか?」、
  「欧州経済そのものも破壊し尽くすという事に気付い
 ているのか?」
  「気づいて居ないから(こんな演説を)するのだ」と
 激しくハルは反発した。
  隣に座る陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、「(
 徹底的破壊の)懲罰的なやり方は、必ずや、復讐心を起
 こさせ、いずれ、新たな戦争の引き金になる」と・・、
  キリスト教の「シャロームの考え方」にマインド・コ
 ントロールされたルーズベルトの考え方を批判した。
  イギリスのチャーチル首相も、みるみる怒り始め、「
 こんな馬鹿げた考え方はあるか」と、
  「イギリスを、ドイツの屍(しかばね)に鎖で縛り付
 けるのか?」と・・ののしった。
  イギリス外相のイーデンも、強い反対をした・・
  にもかかわらず、ルーズベルトの考えは頑(かたく)な
 だった。
  キリスト教は、自分たち・仲間には甘いが、他には、
 異端には、死とか、必要以上に厳しいが・・このルーズ
 ベルトも、同じだった。
  後に、スティムソンは、この時、イギリスは、ケベッ
 ク会談で、60億ドルの経済支援の約束を得ている・・
  このため、イギリスは、この借款問題があったので強
 く反対に出られなかったと明かした。
.
1945年8月6日、アメリカの政治家が言った・・、
  「日本が戦争を止めたと言わなかったから、原爆を落
 としたのだ」・・と・・、
  この様な論理が、成立する訳はない。
  この論理は、言い換えれば、「お前が、喧嘩を止めた
 と言わなかったから、俺は、お前を刺したのだ」となる。
  殺すことまでする必要が無いのに、殺す行為をすると
 いう事である。
  卑劣な行為の理由にならない擁護となっている。
  つまり、是認の理由にならない理由でもって、是認さ
 せるように見誤らせている。
  だから故に、これを正当化の理由とするなら・・まっ
 たく自分勝手な、自分を正当化したいが為だけの論理と
 なる。
  つまり、愚論であり暴論である。
  どんな事情があろうが、原爆などという大量殺戮兵器
 を、当時、既にあった国際法違反の行為(一般市民の非
 戦闘員の殺戮が確実に起きると分かっている行為、その
 悪行為を意識して違反行為をした)
  過大な行為の『刺す』という行為、また、『原爆投下』
 という極悪・無益な過大な行為をした・・となる。
  アメリカの政治家の発言は、屁理屈の、まったくの子
 供の論理である。
  こんな論理を振りかざすアメリカの政治家が居るとい
 うアメリカの政界は、軽蔑の極みに成り下がっている。
  原爆開発者のオッペンハイマーは・・、
  「日本は、すでに敗けていた、原爆を落とす必要はま
 ったくなかった(投下の正義はなかった)」と言った。
.
1947年3月、買い出し
  「買い出し」と言っても、今の若い方たちは、何のこ
 とを言っているのか、分からない方が多いでしょう。
  辞書には・・、
  第二次大戦中や戦後の食糧不足の時代に、都会に住む
 人が、食糧を買い求めるために農村に出かけた。
  食糧が欠乏する都市部の住民は、農村へ主食などの買
 い出しに行った・・と説明されている。
  そして、当時の写真には、食糧の遅配・欠配で、休日
 は買い出しの人で混雑する上野駅(1947年2月)とか・・
  買い出しを終え、列車に乗り込む人たち(1947年3月)
 千葉・飯岡駅、列車は鈴なりの人となっている。
  つまり、買い出しは、戦後の食糧難時代が主に語られ
 ている。
  日本の政府は、「食べ物を分け合って食べよう」と、
 配給制度を作った・・が、それも、そのうち、「欠配」
 と言って、配給制となっていた米などの食糧が配給され
 ず、食糧を得られなかったりした。
  困った日本の方たちが、そこに居た。
  栄養失調(えいようしっちょう)になって死ぬ人が居
 るくらいだった。
  これは、新聞記事に出るという珍しい事ではなく・・
 近所の某さんが栄養失調で死んだと話題になるような状
 態・・身近な状態だった。
  また、配給される合法な食べ物だけを食べることを守
 った裁判官が、「餓死する」ことも起きるという日本だ
 った。
  「法律を守る立場の裁判官」だから、「違法な食べ物」
 は食べる事は出来ないと、配給される食べ物だけを食べ
 ていた方だった。
  この頃、成年者への米の配給は「1日、お茶碗1杯」、
 代用食の大豆やサツマイモも、遅配や欠配となった。
  そこで、闇ルートとなる「買い出し」に行かなければ
 生きては行けなかった。
  写真:手に入れた食糧をリュックに入れ満員の列車に
 乗り込む人たち(1946年9月)埼玉・鶴瀬
  その買い出し列車は、超満員で、窓から乗り降りし屋
 根やデッキにまで乗客があふれた。
  値段は、米1キロ20~40円、麦1キロ15~25円、サツマ
 イモ1キロ5円程度だった。
  また、手持ちの晴れ着や袴、コートなどを食糧に換え
 ることが多く、箪笥の中の着物を少しづつ持ち出して、
 米などに代えた、タケノコの様に、うす皮を剥がされて
 行くので、これを、「タケノコ生活」と言って、この言
 葉が流行した。
  一般の人たちは、何でも食べていた。
  野原の草は当たり前。
  話によく出るのが「さつま芋のつる」を食べた話。
  「それでも、甘くておいしかったよ」と言う方も居る。
  「芋のつるは、良い方だったよ」という言葉も出る。
  食べる物のない時は、「芋のつる」は甘くて美味しく
 感じたよ・・大根もよく食べたよ・・空き地という空き
 地は、皆、畑にして、大根が取れれば、食べ物が無いか
 ら、毎日、大根ばかり食べていたよ・・と・・、
  誰もが「ひもじい日本」・・それでも、皆が助け合っ
 た・・そこに、優しい日本の方たちがいた。
  「向こう三軒、両隣(むこうさんげん、りょうどなり)」
 という言葉があった。
  その近所の方々と特に助け合った。
  そして、優しい農家の方たちも居た。
  農家の方たちが使うだろうと思われる「ザル」を売り
 に行くと、同情してくれて、よく買って戴けた。
  自分も竹藪を持っていて、ザルを作っているだろうに、
 困っているから売りに来るのだろうと「買って戴けた」。
  「下駄」も良く買って戴いたという。
  その優しい農家の方々へ、食糧も求めた。
  戦争が続いたので、農家の方々も豊かな食糧の備蓄が
 あった訳でもないのだろうが、その様な中から思いやり
 の食糧を分けてくれた。
  「銀シャリが食べたい」が町の人たちの夢だった。
  農家の方々も、空襲で悲惨な目に合っている町の人々
 に同情して戴いていた。
  「ヤミ米の買い出し」・・法律を逃れる「ヤミ物資」
 である。
  農家の方たちもそれを承知で、目の前の困って助けを
 求めて来ている町の人々へ・・食べ物を分けて戴けた。
  「木更津」という言葉がよく出た。感謝と共にこの言
 葉が何度も出た。
  「高崎」へも、あちこちに買い出しに行ったと・・、
 八高線に乗って行ったと・・寒い北風の中に待たされた。
  親切な方が、米を売ってくれそうな農家の方を探しに
 行っている間、寒風、吹きすさぶ中で、その返事が来る
 のを待った。
  皆が、押し合いへし合いで、帰りの汽車に乗りこんだ・・、
 線路の所に落ちた人が居て、なかなか列車が出発できな
 かったなど・・、皆が必死だった・・しかし、基本的に、
 皆・日本の人には優しさがあった。
  朝の超早くに、向こう三軒両隣(隣組)の年長の方が
 迎えに来て、一緒に出掛けた時もあった。助けてくれて
 いたのだった・・、
  ヤミ米は、当然、取り締まり対象となっていた。
  お巡りさんが摘発していた。
  「駅で、取締りしているか見て来てあげる」と・・農
 家の方が、わざわざ取締りをしているか?を駅まで見に
 行って戴いたこともあった。
  お巡りさんに捕まって、すべてを没収されて、すべて
 が水泡に帰し、悔しい思いを話したおばさん・・遠くま
 で買い出しに行ったのに・・と悔しそうに言う・・、
  戦争末期に夫を亡くして、「そういう事情なら・・」
 と許されて・・お米も没収されなくて・・裏からそっと
 出されて・・そういう事なら、それをもっと早く言えば
 「取り調べもしなかったのに」と言われた・・と・・、
  袋に入れた重い米・・それを体に巻き付ける。
  一杯持って帰りたいが、重いし、体がその米で冷える。
  お巡りさんに見つけられやすくもなる。
  プロのお巡りさんも分かっていたのだろう・・、一目
 で見破っていたのだろう・・幼い子を連れた・・若い女
 性・・幼い子を家に置いておけなくて、一緒に買い出し
 に出かけた女性・・
  この様な状況を経て生き延びた・・日本中がこの様な
 状態を切り抜けた。
  列車と言ったって、今のようなスマートな列車ではな
 くて・・蒸気機関車で・・レトロだなんて言って居られ
 る状態ではなかった・・トンネルに入ると、客席は煙が
 充満して煙くさかった・・窓を開けていると、目に煤(
 すす)が入って痛かった・・
.
1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が署名された。
  正式名称は、「朝鮮における軍事休戦に関する一方国
 際連合軍司令部総司令官と他方朝鮮人民軍最高司令官お
 よび中国人民志願軍司令員との間の協定」。
  「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争
 行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規
 定した。
  そもそも朝鮮戦争は、北朝鮮の一方的な侵略開始から
 始まった。
  南側は、何ら悪くない。
  1950年6月25日に、金日成が率いる北朝鮮軍が、中華人
 民共和国(共産中国)の毛沢東と、ソビエト連邦のヨシ
 フ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線となって
 いた38度線を越えて、南側の韓国へ侵略を仕掛けたこと
 によって勃発した。
  そして、この戦争で、共産中国は、数百万人もの国連
 軍の兵士と韓国軍兵士を殺戮した。
  しかし、この責任は問われていない。
  うやむやにされている。
  しかし、朝鮮戦争の前の戦争である大東亜戦争(第二
 次世界大戦)の日本の責任は、「しつこく問うアメリカ」
 となっている。
  日本には、国連の敵国条項(敗戦国条項)が今だに生
 きていて、適用されている(名指しされていないと言う
 が屁理屈である)
  これは、おかしいのである?
  新しい国連の在り方が作られるべきである。
  また、その後の戦争である朝鮮戦争時の・・、
  韓国へ戦争を仕掛けた北朝鮮が悪いのであって、それ
 に加担した共産中国が悪いのである。
  アメリカは、これをうやむやにして、その前の戦争の
 日本の責任ばかりを今だに問うている。
  また・・、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)で、日本と戦ったのは
 中国の蒋介石軍の国民政府軍である。
  日本が敗戦となって、この戦争の戦勝側に居た中国は、
 だから、蒋介石軍の国民政府軍が戦勝者である。
  だから、戦勝国の連合国が作った国際連合の常任理事
 国に入ったのが、蒋介石の国民政府の中国だった。
  これは、正しい筋の話だった。
  しかし、アメリカは・・またまた、アメリカの勝手な
 論理を登場させて・・日本と戦ったこともない共産中国
 を常任理事国にした。
  アメリカから離れて、勝手に歩き出したソ連。
  そのソ連と冷たい戦争が始まって・・米ソ冷戦で・・、
  アメリカは、共産中国を取り込みたかった。
  共産中国を、同じ共産圏で、ソ連側へ行かせたくない
 ために・・
  1971年、台湾に居る国民政府の中国に詰め腹を切らせ
 てしまった。
  北京政権に国連・常任理事国の座を与えた。
  「平和愛好国」だとした。
  朝鮮戦争で、共産中国が参戦し、数百万人もの人々が、
 国連軍と韓国人が共産中国軍に殺されたが、その戦争責
 任を問う事が、だから、できない。
  ただただ、言いやすい相手の日本の戦争責任を、共産
 中国より以前の、昔の戦争責任を、日本の戦争責任を言
 う卑劣なアメリカとなっている。
.
1974年12月、ギリシャ共和国が生まれた。
  3人に1人が公務員という国=ギリシャ・・まったく変
 な国。
  皆が、なりたいと思うと公務員になれる不思議な国。
  1974年12月、ギリシャ共和国が生まれた。
  そして、その翌年・1975年、EC加盟が申請された。
  ギリシャには、産業と言えば農業しかない。
  そして、経済は、「高いインフレ率」を示していた。
  貿易収支は大赤字で、高い失業率であった。
  巷には失業者があふれていて、この様な状況では、E
 Cに加盟できる条件ではまったくなかったが、何故か?
 この翌年の1976年に、ECは、ギリシャと加盟の交渉を
 始めた。
  そして、1981年、ギリシャの政権が交代し、この新政
 権は、早急なECの加盟はないとしたが、その方針は転
 換され、この年・1981年に、ECの加盟条件が満足して
 いないにもかかわらず、何故か?ギリシャは、ECに加
 盟した。
  この年のギリシャの負債は、GDP比30%近くという
 異常値だった。
  しかし、この後の加盟後、ギリシャは、膨大な補助金
 を貰い、その補助金漬けが続く状況となった。
  当然、ギリシャは、この補助金漬けで『潤った』。
  しかし、これは解決につながらなかった。
  1980年代、豊かな補助金を貰い続けるギリシャは、確
 かに「潤うギリシャ」となったが、「虚構の豊かさ」の
 中にあるギリシャだった。
  ギリシャは、安楽だけを求めた。
  ECの補助金は、何ら有意義に投資される訳でもなく、
 補助金は・・どこかに消えた。
  ギリシャの借款は、1990年には、GDP比80%に跳ね
 上がっていた。
  構造改革や財政縮小の「苦が求められることは無かっ
 た」。
  ただただ、プレゼント状態の補助金だった。
  ただただ、プレゼントを貰うだけの「天国の住人状態」
 と化していた。
.
1990年、腐っているEU
  この年に、政権の座に就いたギリシャの首相は、他の
 首相と比べれば、偉かった。これが当たり前なのだが・・?
  この首相の名をコンスタンディノス・ミツォタキス首
 相と言う。
  彼は、初めて、ギリシャの財政立て直しをしようとし
 た。
  お粗末な事に、この時が初めてであった。
  しかし、長年の甘い浪費に慣れた(堕落した)ギリシャ
 国民は、彼のする種々の苦しい再建の施策に耐えられな
 かった。
  彼の政治は・・3年で終わった。
  大いなる不満が高まり充満し、爆発した。
  短命な「正当の首相」だった。
  そして、1993年に、横領の前科で辞任した前首相のパ
 パンドレウが、あっという間に返り咲き、政権の座に就
 いた。
  そして、この『政党』が、ギリシャに怪しげな事を始
 める。
  1993年には、GDPの13%が赤字だったギリシャが、
 すごい勢いで、この常態化したギリシャの赤字が減り始
 めた。
  1998年には、2.5%だとギリシャは発表した。
  ユーロ圏への加盟には、「3%以下」にならなくては
 ならない。
  ギリシャは、あっという間にこの条件をクリアした。
  2000年、晴れてギリシャのユーロ圏への参入が正式に
 決まった。
  この時、ギリシャの赤字は1%だった。
  ギリシャの財政は、素晴らしく健全となった。
  多くの専門家は、まったく信じていなかった。
  しかし、EUの担当者たち、財務大臣たちは、警告が
 あるのを無視し、目をおつぶりになった。
  そして、ギリシャのユーロ導入を認めた。
  2001年、ギリシャにユーロが導入された。
  ギリシャは、それまで、高い利子を付けなければ売れ
 なかったギリシャ国債が売れた・・ユーロの信用でよく
 売れた。
  低い金利でも、ギリシャの国債はよく売れた。
  低金利で、ギリシャは、資金を得られるようになった。
  多くの外国の金融機関が、ギリシャへ金を貸しまくっ
 た。
  本当を知っている人も、見ないふりをして儲けまくっ
 た。
  ギリシャ国民の方々は、何も知らないで、巷(ちまた)
 に溢(あふ)れる金に沸き立った。
  こんなことが、いつまでも続く訳は無かった。
  ギリシャの借金は膨れ上がっていた。
  「楽アレバ・・苦アリ」。
  キリスト教のプレゼント思想・プレゼント体質もこれ。
  楽ばかりを求める宗教=キリスト教。
  ギリシャは、キリスト教ギリシャ正教の国。
.
2001年、韓国にとって、中国が最大の貿易パートナーとな
 った。
  韓国は、いつの時代も、可哀想な立場にいる。
  大国の間で、いつも揺れ動いていた。
  今、韓国が、最大限、意を配らねばならない国は、『
 中国』。
  その為に、昔からやって来た事と同じことを、今、日
 本に対してやっている。
  その様に、昔から、韓国は、「自分の立つ瀬」を作っ
 て来た。
  韓国の事大主義。
  韓国は、歴史の中、そのほとんどが、「事大主義の中」
 に居た。
  日本との併合関係を選択したのも、その事大主義から
 だった。
  「日本の侵略だ」というのも明らかに「こじつけ」で、
 日本の侵略で併合したと言う言い方が、日本との併合の
 次の時代になっているから、前の日本との併合時代を否
 定して悪く言い、今時点の事大主義による選択を肯定す
 る必要から言っている。
  (参考)こじつけ:関係のない物事を無理に理由をつ
     け関係づける。
      また、無理に理屈づける。
  今、アメリカとの関係が終了して、中国との関係へ移
 る状況にある。
  2001年から、韓国の代々の貿易パートナーは、アメリ
 カでなく中国になった。
  因みに、事大主義とは、自ら進んで「時の大国に仕(
 つか)えること」で、地位の向上と、安全を図ろうとす
 ることと説明されている。
  そして、その事大主義の韓国の中国との貿易額は、2002
 年には、30%もの急激な伸びで、ますます、中国との関
 係を緊密なものにした。
  また、2000年には、100万人の韓国人が、中国へ訪れて
 いて、中国に長期滞在する人も6万人居る。
  留学生も、1万5000人も居る。
  留学生は、今や、アメリカを抜いて中国が最大となっ
 ている。
  中国から韓国へ行く人も増加していて、2001年には、
 45万人が訪問している。
  中韓接近は驚くべき速度で進んでいる。
  韓国は、外交でも、当然の様に『中国重視』姿勢とな
 っている。
  軍関係の協力関係も、「日ごとに強まっている」。
  韓国世論も、「これからのアジアの中心は中国だ」と
 いう声が強くなっている。
  アメリカの元国防総省のジェームズ・アワー氏も言う、
 「中国が、朝鮮半島に、かつてない野心を抱き始めた」
 と・・、
  そしてまた、中国は、「東アジアへの影響力を(19世
 紀以前)のレベルにしたいとしている」・・とも言う。
  韓国は、中国の核が怖い。
  当然、北朝鮮の核も怖い。
  日本だけが・・のんびりと・・している。
.
2003年、カダフィ大佐が、大量破壊兵器の廃棄を宣言した。
  そして、核開発に関係する膨大な資料をアメリカに渡
 した。
  そこには、核弾頭の設計が「中国モデル」である事を
 はじめ、中国の関与を示すものが、多数、含まれていた。
  中国の隠れた支援があった。
  また、パキスタンの核が、中国によって造られている
 事は、パキスタンの「核の父」アブドゥル・カーン博士
 の証言などで、既に、はっきりしている。
  さらに、パキスタンは、北朝鮮にも、ウラン濃縮技術
 を提供していることが、カーン博士の証言で確実となっ
 た。
  つまり、中国から流れた核の製造技術が、パキスタン
 を通じてリビアへ流れ、そしてまた、北朝鮮にも流れた。
  そして、2018年の緊迫した事態となっている。
  すべての元凶が中国となっている。
.
2004年、欧州憲法の制定も、結局、成らずに終わった。
  民意が反映する選挙を経ない者が、EU政治を繰る。
  EU国民も、今、誰が自分たちを政治しているかを知
 らないし、知ろうともしない。
  EUは、こんな事態となっている。
  EUで決めたって各国が批准しなければ、まったく無
 関係となるから・・ついに「関心ない」になったのか? 
  例えば、2004年に、欧州憲法を制定する準備が着々と
 進んで、その調印も終わった。
  しかし、結局、批准が進まず、おじゃんとなって断念
 されてしまった。
  EU国民は、EU憲法など望んでいないことが、はっ
 きりした。
  この様な風潮を助長しているのが、今は、EUを脱退
 したイギリスだった。
  イギリスは、『団結壊し』の張本人だった。
  イギリスは、言いたいことを言って、EUの各取り決
 めや法律を採択するか?しないか?イギリスが自由に選
 べるという「イギリスの勝手し放題」を、他のEU諸国
 に公式に認めさせた。
  また、イギリスには適用されないという「特別扱いの
 条約」など、イギリスの我儘(わがまま)が通用する連
 合となっていた。
  一生懸命に決めても、ザルの様に漏れる話し合いがな
 されている。
.
2016年4月8日、ギリシャの港(ビレウス港)が中国に買わ
 れて・・中国のものとなった。
  着々と進む中国の世界制覇・・、
  民主主義的な組織だとは言い難い「非民主主義組織の
 EU」。
  最高の権力を持つEU内の組織が、何らEU国民の・・
 「民衆の選択」・「選挙の洗礼を受けていない」。
  民主主義を標榜する訳のEUが、EUの民衆が、自ら
 が選択したという覚えのまったく無い人間たちによって
 牛耳られているという組織となっている。
  その組織の決定権での下で、生活をさせられている。
  そして、様々な義務が課せられている。
  矛盾の多いEUとなっている。
  ギリシャが大嘘をついてまでして、大赤字の国家財政
 を隠してまでして、「EUに入りたかった理由」は・・、
 『ユーロ』という強い国際通貨を使いたかったからだっ
 た。
  それで、大嘘つきを演じてしまった。
  不正義、極まりない行為である。
  「あの強い通貨を使うことが出来る様になれば、すべ
 てが解決する」のギリシャの行為だった。
  「あの強い通貨が、手に入れば、何でも買える」だっ
 た。
  日本人は、『円』という国際通貨を、何とも思わない
 で使って、その恩恵に浴しているが・・、
  日本は、誠実に働いて、国づくり・社会づくりをして
 来て、その努力の結果だという、しっかりした実績、し
 っかりした日本経済に支えられた国際通貨の『円』の今
 があって・・その円のありがたみは、当たり前の様に感
 じられて、何ら「そのありがたみ」を感じられない日本
 人となっている。
  世界中の国々が、円を『信用して』両替してくれる。
  しかし、「ドイツ・マルク」や「中国・人民元」は、
 ちょっと違う・・格下にある。
  ギリシャは、この様な「ユーロ」という国際通貨を使
 える国になることを夢に見た。
  自国の通貨が、一気に国際通貨になるという夢だった。
  日本が、今、世界で、円によるODAで、しっかり援
 助をしているが、この様な意味からも、被援助国の方々
 も「円のありがたさ」を感じている。
  ユーロを手にしたこのギリシャによって、今、ヨーロ
 ッパが、バラバラになろうとしている。
  誠実が一番なのだが・・、それだけ、巧妙なギリシャ
 の粉飾は、大きな罪づくりだった。
  ギリシャは、華々しくオリンピックをやったりして、
 擬制し、世界中を欺(あざむ)いた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。
  世界中が騙(だま)されて、。ギリシャへ投資した。
  世界中の銀行が、ギリシャに融資した。
  逆に、これが、ギリシャを破滅に近づけ、破綻(はた
 ん)を早めた。
  ギリシャは、バブルとなった。賃金は3倍になった。
  バブルという事は、終りが近いということ。
  ギリシャ政府も、誠実ではなかった。お手上げだった
 から、その様にしたのか?
  ギリシャ政府は、まともな国家予算が立てられなかっ
 た。
  国家の破綻の終末状況だった。
  予算運営もせず、予算監視もせず、ただ、木偶の坊(
 でくのぼう)政府と成り下がった。
  借金スパイラルが回った。
  「放漫」の二字のギリシャだった。
  この様な悪の体質は、根が深かった。
  中国から借りた金も返すことが出来ずに、ギリシャの
 港を明け渡した・・
  中国の軍艦が来る港となってしまった・・中国は、イ
 ギリスにやられたことを、今、その同じことを、ギリシャ
 でやっている。
  「返済できないなら・・金は借りるな」の当たり前が
 出来ないギリシャだった。
  (参考)2016年4月10日、産経ニュース
  ギリシャは8日、同国最大の港であるピレウス港の売
 却契約について、中国海運最大手の中国遠洋運輸集団(
 コスコ・グループ)と正式に調印した。
  ピレウス港は、地中海の海運の要衝で、アジア・中東
 地域から欧州への玄関口にあたり、今後、中国の欧州進
 出に拍車がかかる可能性がある。
  コスコ・グループは、中国政府の管理下にある国有企
 業で、今回の買収は、習近平指導部が主導する形で進め
 られた。
  現地からの報道では、中国側は、ピレウス港を運営す
 る国営会社の株式の67%を2段階に分け、計3億6850万ユ
 ーロ(約450億円)で取得する。
  中国側は、このほか港湾整備・開発に3億5千万ユーロ
 を投資する予定。
  当初は、株式51%分の取得にとどめ、これらの投資の
 実行を受け5年後に残りの株式を買い取る。
  中国は、すでにピレウス港のコンテナ埠頭(ふとう)
 の運営権を握っていた。
  ギリシャは、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)
 の支援を受けて財政再建中で、同港などの国有資産の民
 営化は支援実行の条件。
  当初は、民営化に反対したチプラス政権も現在は推進
 姿勢に転じている。
  首相府付近では、この日、民営化反対のデモも行われ
 た。
.
2016年6月23日、イギリスのEU離脱
  イギリスの欧州連合国民投票法に基づく投票が行われ、
 EU離脱が決定した。
  EU(欧州連合)に加わり、そして、居るという存在
 理由・・、
  EUの欧州連合条約に以下のような意味が書かれてい
 る・・、
  『連合は、人間の尊厳に対する敬意、自由、民主主義、
 平等、法の支配、マイノリティ(差別や構造によって社
 会的に弱い立場の人たち)に属する権利を含む人権の尊
 重という価値観に基づいて設置され・・、
  これらの価値観は、多元的共存、無差別、寛容、正義、
 結束、女性と男性との間での平等が普及する社会におい
 て、加盟国に共通する・・、
  EUに至る前の、かつては、資源やエネルギーを取り
 合う戦争ばかりの次元の低い状態から脱却したいと、
  その為には「財布を一緒にしよう」という様な高い理
 念を掲げた。
  しかし、それを、やって来てみて・・結局、行き着い
 たところは、皆が「エゴをむき出すような社会連合の姿」
 となってしまった。
  グローバリズムを標榜するが、一歩もその高い理念に
 は近づけない国々となった。
  隣の家と財布を一緒にすると言ったって、自分の子供
 には美味しいものを食べさせたいというような話で行き
 詰っている。
  レベルが、下がっているのである。
  皆が、加盟国が、結局、「わが家は、より豊かな生活
 をしたい、させたい」となってしまった。
  イギリスは、結局、EUを離脱したが・・、
  イギリスは、初めから不満が多かった。
  はっきり言って・・イギリスは、自分好みにEUがな
 らないなら、EUを去るという、「脅しでもってEUに
 迫った」が、結局は・・去った。
  EUに、色々と要求を出したイギリスだった。
  受け入れられないなら「EUを去る」のほとんど脅し
 のイギリスだったが・・EU側は、イギリスに去られて
 は困るのである。
  政治力は下落するし、アメリカへのパイプは細くなる
 し、世界の金融市場での馬鹿にならないイギリスの力も
 利用できなくなる。
  そして、イギリス離脱で、「EU懐疑派」の勢いが増
 すのが怖いという状態となった。
  イギリスのEUを離脱で、EUの統合力を増す・強く
 するという方向性はさらに弱まった。
  EUの理念も縮小し、ひびが入って行く事態を迎えて
 いる。
  標記のEUの理念がまぶしくなっている。
  イギリスは、EUによる通過自由で、イギリスに流入
 して来る多くの「東欧市民」に困った。
  そして、最近は、EU諸国に流入した難民が、通過自
 由で、イギリスを目ざして流入して来る事に困っていた(
 移民流入問題)
  EUの理念が、そっちのけで、「メリットとデメリッ
 ト」が天秤にかけられるという判断が働いた。
  標記の「EUの理念による判断」はまったく無かった。
  因みに、EU諸国の本音として・・、
  「EUの多くの国は、国の主権を移譲(ゆずる)をし
 てまでして、EUを強大にしたいとは思っていない」。
  しかし、その様に位置づけられているEU内で、水面
 下での覇権争いは、静かに、そして確実に進行していて、
 グローバル化、グローバリズム何て言う大局的見地に立
 った話は『絵に描いた餅』となっている。
.
2018年1月1日、NHKのニュースが殺人事件から始まった。
  平成30年、NHKのニュースは殺人事件から始まった。
  これに対し、民放のテレビ朝日は、安倍首相の今年の
 決意や抱負を伝え、経済界首脳の今年の展望・抱負が続
 き、外国指導者の声も伝えた。
  この差は何だ?
  『殺人事件が好きなNHK』はこんなことを年がら年中
 やっている。
  NHKの殺人事件好きには辟易(へきえき)する。
  国民をまったくバカにしているNHKとなっている。
.
2018年、今、中国の核ミサイルは、日本の都市のすべてを
 照準としている。
  日本の大都市・東京・大阪・名古屋・福岡の4大都市だ
 けなどという甘いものではない。
  ちょっとした規模の日本都市のすべてに、中国の核ミ
 サイルが飛んで来るという状況となっている。
  それに対して、日本の防衛力で、それを防げるかと言
 えば・・、
  その中国の攻撃核ミサイルの1割ぐらいには「迎撃ミサ
 イルを飛ばせる」という防衛力である。
  命中率の話ではない・・、
  迎撃ミサイルで、「迎え撃つために発射できる」とい
 うレベルである。
  日本の防衛装備の力が「その程度だ」という事である。
  つまり、中国が、日本を狙って、やろうとやれば、ほ
 ぼ無防備の日本に、核ミサイルが飛んで来るという実情
 になっているという事である。
  北朝鮮も、すでに、日本に届く核ミサイルを持ってい
 る。
  アメリカに届く核ミサイルが無い現時点で何とかしよ
 うと騒いでいる状況である。
  国防を怠って来た日本は、国防をしっかり考えなけれ
 ばならない。
  『戦争』と『国防』は違うのだ。
  この肝心な「日本の国防」を行なおうとすると、日本
 国憲法が最大の障害となっている。
  平和憲法というが、日本の国防が非常に弱いという上
 記の様な状況から「まったくそぐわない状況」となって
 いる。
  「中国や北朝鮮にとっては『平和』である」のであっ
 て、日本にとっては、「まったく平和な状態ではない」。
  日本国憲法の前文は、戦後、70年を経て、まったく上
 記の様に実情に合わなくなっている。
  この憲法前文から書き直さなければならない。
  日本民族の「存亡の危機」を救えなくなっている。
  日本国憲法の前文には・・、
  「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われ
 らの安全と生存を保持しようと決意した」・・とあるが、
  決意したって、上記の様に、その様な現状ではないの
 である。
  愛する日本の人々を、「座して死を待つ」状態にして
 いる。
  その様な最悪事態に置いている状況をつくっている。
  日本国憲法の前文は・・
  「平和を愛する日本国民の公正と信義に信頼して、わ
 れらの安全と生存をしっかり保持する責任を意識し、
  しっかりした国防につとめる努力を怠らないと決意し
 た」・・としなければならない。
.
20xx年に、起こりうる可能性の高いこと・・
  1467年の応仁の乱の時には、以下のような和歌が詠ま
 れた。
  「汝(なれ)や知る、都は野辺(のべ)の夕雲雀(ゆ
 うひばり)、上がるを見ても、落つる涙は」
  (おまえは知っているだろうか、都はすっかり焼け野
 原になってしまった。
  夕方、都からヒバリが飛び立つのを見ても、涙がとめ
 どなく落ちてしまう)(「応仁記」より)
  1467年に、応仁の乱が始まり、細川氏の東軍と、山名
 氏の西軍に別れ、京都を主な戦場として、11年間、戦い
 は続いた。
  この戦いの結果、室町将軍の権威が衰えた。
  また、古くからの大名の実権も衰えた。
  下の者が実力を持ち、新興の大名が生まれた。
  山城(やましろ、京都府)では、地侍(じざむらい)
 らが守護を追放して、8年間の自治を行なう山城国一揆が
 起こったりした。
  また、加賀(かが、石川県)では、浄土真宗の信徒ら
 が、守護大名の支配に反抗して一向一揆を起こした。
  信徒らによる自治は、約100年間つづいた。
  この戦乱が、日本で最大と言われているが・・
  今・現時点で思えば・・まったく小規模な戦いである。
  今、日本は、「日本全土が焼け野原になってしまう」
 「日本全土が蒸発してしまう」という危機にある。
  20xx年に、国防を怠った日本国民が、天国へ行って、
 天国で日本の先人たちが・・核攻撃の対処をしなかった
 日本国民の大打撃・消滅を見て、「落つる涙は」と詠(
 うた)うだろう。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月、大阪~神戸間で電話が開通した。
  3月25日時点での契約者数は、大阪141、神戸74。
  また、この頃、「モシモシ」という言葉が流行した。
1893年3月、筑豊興業鉄道が、若松駅構内炭積用桟橋架設工
 事一部竣工し、使用を開始した。
1893年4月1日、直江津線の横川~軽井沢間(11.3km)が開
 通した。
  碓氷峠は、日本で初めてのアプト式を採用した。
  これにより上野から直江津までが全通した。
  鉄道局は、難所の碓氷峠を日本で初めてのアプト式軌
 道を採用した。
  これまで、1885年に、高崎~横川間が開通していた。
  また、このアプト式は、1963年に、廃止された。
  また、この時、同時に、横川・丸山(信)および矢ヶ崎
 (信)・軽井沢間を複線として使用を開始した。
  そして、アプト式蒸気機関車による旅客列車4往復の運
 転を開始した。
  (運転時分:下り1時間18分、上り1時間20分、中間に熊
 ノ平信号場を設けた。
  なお、開通まで、碓氷馬車鉄道会社が、鉄道馬車によ
 って客貨を輸送していた。
1893年4月1日、西多摩郡・北多摩郡・南多摩郡の多摩3郡
 が、神奈川県から東京府へ移管された。
  三多摩の名の由来はこれ。
  水路の関係(水源問題)で・・東京の上水道の水源が
 多摩地区で神奈川ではなく、管理面で東京府へ移管しよ
 うとなった。
  きっかけは、1886年のコレラの大流行。
  この時、「多摩川上流で、コレラ患者の衣服が洗濯さ
 れた」という噂が広まった。
  (実際は、洗濯したのは水道水に影響しない多摩川支
 流であったが・・)
  東京への上水道となる玉川上水への汚染は無かったが、
 この後、管理面を一貫して強化するため、東京府へ移管
 する事となった。
  因みに、明治維新頃、この地は、「品川県」「韮山(
 にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)
 県」だったが、
  1871年の廃藩置県で、神奈川県の所属となっていた。
1893年4月1日、鉄道局本庁が逓信省構内へ移転した。
1893年4月1日、長崎電灯株式会社が開業した。
  長崎市内に初めて電燈がついた。
  68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
1893年4月2日、秋山好古(34歳)が、多美(23歳)と結婚した。
  陸軍少尉のころ、下宿していた旧旗本・佐久間家の長
 女・多美と結婚に至った。
1893年4月8日、青森~福島間の鉄道建設のために、青森に
 鉄道庁出張所を設置した。
  また、敦賀~富山間の鉄道建設のため、敦賀に、また、
 鉄道庁出張所を設置した、青森・敦賀に鉄道庁第三部派
 出所を設置した。
1893年4月11日、「文官判任以上退官賜金ノ件」改正公布(
 勅令第20号)
  朕茲ニ文官判任以上ノ者退官賜金ノ件ヲ裁可ス。睦仁
 (明治天皇陛下)、内閣総理大臣山縣有朋、大蔵大臣伯
 爵松方正義、勅令第九十八号、文官判任以上ノ者在官満
 一年以上十五年未満ニシテ退官シタル者ニハ退官現時ノ
 俸給半箇月分ヲ以テ在官年数ノ一箇年ニ当テ其年数ニ応
 スル金額ヲ一時支給ス但非職満期ニ由リ退官シタル者ハ
 其在職最終ノ俸給額ニ依リ之ヲ給ス、本令施行前ニ満年
 賜金若クハ一時賜金ヲ受ケタル者又ハ前項ノ賜金ヲ受ケ
 タル者再ヒ任官シ自後退官シタルトキハ前項ニ掲クル在
 官年数ヲ春再任ノ日ヨリ・・云々
1893年4月14日、出版条例を廃止して出版法を公布した(4
 月13日説あり)
  出版物取締り法規で、1869年5月の出版条例 (行政官達
  444号) と、1887年12月の出版条例 (明治20年勅令76号)
 を引継いで、新聞、定期刊行雑誌を除くすべての文書図
 画と、学術関係などの雑誌を取締りの対象とした。
  出版法は、基本的には、出版条例を踏襲したが、出版
 物の発行要件で、出版にあたっては発行日から到達すべ
 き日数を除いて3日前に内務省へ2部納本することとし
 た。
  また、出版届けを出すことや、出版物の末尾に発行者・
 印刷者の氏名・住所を記載することなどを決めた。
  そして、違反した場合には、執筆者・発行者の処罰の
 ほか、 出版物・紙型などの没収まで及んだ。
1893年4月15日、版権法が公布された(4月14日説あり)
  版権(はんけん)は、著作権の旧称で、出版権である
 著作物を複製・発売する権利を決めた。
  1899年に、著作権法 (明治32年法律第39号)(旧著作権
 法)が公布されるまでの間に用いられた。
  この当時の「版権」は、現在の著作権法での著作権と
 は異なっていて、著作物のうちの一部である「図書」な
 ど(概ね、現在の著作権法での「言語の著作物」にあた
 る)についての権利であって、
  脚本、音楽、写真、映画等は、その対象とされていな
 かった。
1893年4月、「集会及政社法」 改正
  1890年の「集会及政社法」では女性の政談集会や、政
 治結社への参加を禁じられていた。
  この法律の撤廃は女性運動の重要な課題となった。 
  日本の政府は、早くから女性への権利に目覚めていて、
 すでに、1871年には、津田梅子ら5人の女性をアメリカ合
 衆国に留学させていて、1872年には学制を発布して、「
 男女平等の義務教育」を実施していた。
  また、1874年には、東京に女子師範学校(現:お茶の水
 女子大学)を設立していた。
  アメリカは、まだ女性が差別されていて、アメリカで
 女性の参政権が認められたのは1920年である。
1893年4月、津村順天堂が開店し、婦人薬の「中将湯(ち
 ゅうじょうとう)」を発売した。
  ツムラの婦人薬、中将湯、第2類医薬品
  (1)更年期障害(のぼせ、不眠、イライラ)、冷え
    症に
  (2)16種類の生薬の婦人薬
  (3)創業以来のロングセラー商品
  効能・効果:産前産後の障害(貧血、疲労倦怠、めま
 い、むくみ)、血の道症、更年期障害、不安神経症、月
 経不順、月経痛、頭痛、肩こり、腹痛、腰痛、冷え症、
 のぼせ、めまい、耳鳴り、不眠症、息切れ、動悸、むく
 み、感冒
.  
  (今日の言葉)
.
  題:核兵器の攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の1が蒸発してから、
   防衛出動するというのである・・
    今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
.
紀元前5万年、アボリジニの方々が、スンダランドからオー
 ストラリアに来た。
  その時以来、延々と、アボリジニの方々は、オースト
 ラリアに住み続けた。
  完全に、オーストラリアの地はアボリジニの方々の地
 となった・・国となった。
  だが、しかし、その時から50000年以上も後になって、
 キリスト教の白人たちがやって来た。
  今、紀元2000年が過ぎた頃である。
  このアボリジニの方々が、オーストラリアを国にして
 来た『50000年という年月』にどのくらいの重みがあるの
 かを考えて見なさい。
  1642年に、オランダ人のアベル・タスマンがタスマニ
 ア島を発見した。
  (このタスマニア島のアボリジニの方々も、白人キリ
 スト教徒に、この後、絶滅させられる)
  そして、このアベル・タスマンは、この後、ニュージ
 ーランドを発見している。
  17世紀末に、イギリス海賊のウィリアム・ダンビアが
 オーストラリア西海岸に上陸した。
  (結局、このイギリスがオーストラリアを奪う)
  このダンピアノ報告を受けたイギリス王立協会は改め
 て調査船を派遣した。
  1766年、イギリスは、ジェームス・クックを派遣し、
  1766年10月7日にニュージーランドを発見し、
  1770年4月20日に、オーストラリア東海岸を発見した。
  1770年4月29日に、シドニー南方のボタニー湾に上陸し
 た。
  クックは、この東海岸一帯をイギリス国王ジョージ3世
 の名において領有すると宣言した。
  (「天の名において、この領有を認めない」)
  そして、この地を「ニュー・サウス・ウエールズ」と
 命名した。
  そして、18世紀に後半に至ると、イギリスは、この地
 の開発を本格的に進めることにした。
  この計画の当初より、全住民のアボリジニの方々の殺
 戮が計画(全滅計画)として卑劣にもあった。
  そして、資源獲得と囚人対策があった。
  イギリスという国のこの方針により、先住民のアボリ
 ジニの方々は殺戮され始めた。
  アボリジニの方々に言わせれば、当然、『私たちの地
 が、イギリスに侵略された』となった(これが正論)
  そして、アボリジニの方々は、動物の狩りをされるよ
 うに射殺され続けた。
  「今日は、○○匹を獲った」と書かれた日記が残され
 ている。
  もしアボリジニの方々が、この逆の行為をしたら『正
 当』とイギリスは認めるのか?
  イギリスは、その考え方を受け入れられるのか?
  自分たちは、アボリジニの方々に対して行っておきな
 がら、その行為を、当然、受け入れられないだろう。
  その様なことを、イギリスはしたのだ。
  アボリジニの方々が、最新式の武器を持って、イギリ
 スへ上陸し、イギリスがやったことと同じことをやった
 なら、その行為を、イギリスは、認められるか?
  アボリジニの旗を立て、領有したと宣言したら・・、
  「君たちを同じことをしているのだ」という論理は、
 認められるか?
  イギリスに問う?
  または、悔い改めて懺悔せよ。
  キリスト教聖職者たちが、陰の任務として、『侵略の
 尖兵』としての任務を与えられて、世界のあちこちで植
 民地化の可能性を探るスパイ行為にうごめいていたが・・
  最悪の暗躍の極悪行為をしていたが・・
  すべての悲劇は、ここから始まった。
  アメリカ大陸のインディオの方々は、1000万人を越え
 る、途方もない数の方々が殺された。
  悪の殺戮行為を、歴史上、長い長い期間、やって来て
 いる。
  いい加減止めれば良いものを・・
  今・現代も、『形を変えて』、日本などで、色々な工
 作をしている。
  放送媒体にも潜り込んでいる、NHKにも潜り込んで
 いる。
  官僚にも、教育界にも、その他にも潜り込んでいる。
.
712年、古事記が、献上された。
  日本現存の最古の歴史書であり、文学で・・、
  この古事記に、既に、日本には『民の声は天の声』の
 考え方があった。
  この様に、『民主主義の心・考え方』は、日本古来か
 らの考え方・在り方だった。
  偉大な日本は、現代が理想としている民主主義を、す
 でに、見通し、そして、遠い昔から、実現していた。
  この書は3巻あり、序 (上表文) に、天皇陛下の天武
 天皇の命によって、稗田阿礼 (ひえだのあれ) が「誦習
 (しょうしゅう、書物などを口に出して繰り返し読むこ
 と)」していた『帝紀(皇室の記録)』『旧辞(神話・
 伝説)』を、元明天皇の命によって、側近の太安麻呂 (
 おおのやすまろ) が「撰録」し・・、
  712年(和銅5年)に、献上した。
  しかし、「誦習」「撰録」の具体的内容については諸
 説があり・・、
  天地の始りから推古天皇の時代までの皇室を中心とす
 る歴史が記され・・、
  その内容は、伝説を含む話や歌謡、系譜で・・、
  誦習を、「稗田阿礼の暗唱」という説もある・・、
  古事記原文は・・、
  「時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。
 人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれ
 ば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代
 の旧辞を誦み習はしめたまひき。」
  ここの「誦み習はしめ」が、「暗唱説」と「誦習説」
 となっている。
  ただ、当時の字である漢文の古い記録の古語を、節を
 つけて朗々と訓読する技術を持っていた人・稗田阿礼と
 解されている。
.
1066年、イギリス人は、ノルマン人の国。
  イギリスは、1066年に、フランスのノルマンディ地方
 を支配していたノルマン人が、イングランドを征服して
 建てられた。
  だから、元々、フランスに居た民族だった。
  故に、イギリス王は、フランスにも、広大な領地を持
 っていた。
  このフランスで、国王による統一の動きが強まりと、
 このイギリス王の地が絡んで戦いが始まった。
  経済的に重要な毛織物の中心地フランドル地方、天然
 の良港ボルドーを巡るフランス南西部での英仏の対立が
 激化して行って、戦争が起こった。
  このいざこざは継続して行く・・、
  その時から約271年後の1337年、フランス王は、イギリ
 ス領のボルドーと、この地方・アキテーヌ盆地を取り返
 そうとする。
  しかし、イギリス王エドワード3世は、自分の母が、
 フランス王の妹だったことを理由に、フランス王位を要
 求した・・そして、武力行使に出た・・派兵した。
  こうして戦端が開かれた・・
  長い長い戦いの幕「百年戦争(1337年~1453年)」の
 愚かなる戦いの幕が開いた。
  フランス貴族は分裂した。
  その為、戦いは一貫して、イギリスに有利に展開した。
  戦争中の1347年~1351年に、恐ろしい伝染病であるペ
 ストが、ヨーロッパ全土に蔓延し、大流行した。
  キリスト教の教義による「天のみ清浄」という洗脳で、
 地は汚(けが)れたものとされ、糞尿を道にまくという
 例の様な不衛生さが町を汚し、ペスト菌を媒介するネズ
 ミが増え・・ペスト流行をさらに悪化させた。
  このペストの大流行で、ヨーロッパ人の3分の1の人た
 ちが死んだ。
  1428年に、キリスト教の神がかり的な話で、神のお告
 げがあったとジャンヌ・ダルクという少女が登場する。
  白い馬にまたがり、聖母マリアの旗を持っていた。
  フランスは戦況を盛り返した。
  しかし、迷信だらけのキリスト教が、またも、この少
 女を魔女として、焼き殺してしまう。
  ジャンヌ・ダルクは、1431年に、19歳で、キリスト教
 聖職者の汚い「引っ掛け尋問」で魔女にされてしまう。
  ノルマンディ地方の都市ルーアンで「魔女」として処
 刑された(焚刑で焼き殺された)
  1453年に、イギリス軍が、ドーバー海峡に面した都市・
 カレーを除くフランス領土を放棄する事で戦争は終わっ
 た。
  イギリスは、ブリテン島だけとなった(スモール・ブ
 リテンの誕生)
  この後、バラ戦争(1455年~1485年)を始める。
.
1096年、第一回十字軍、
  とても聖戦などは言えないような戦いで、無実の住民
 の虐殺が実態の様相だった。
  イスラエルの住民の5万人のほとんどは殺された。
  そして、本来の目的の様に略奪が行われた。
  残った住民は、1万人に満たなかった。
  イスラム教徒側は、最初、何のための攻撃だかが理解
 できなかった。
  キリスト教聖職者(ローマ教皇のあおり)は嘘をつい
 た。
  何らエルサレムを奪ったなどとの行為は無かった。
  それなのに十字軍の行為は行われた。
  この様に、企てられた悪行の軍隊だった。
  しかし、卑劣にも、この様な企てが何回も行われる。
.
1774年、アメリカ第一回大陸会議
.
1776年7月4日、アメリカが建国された。
  大陸会議がアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆
 国が成立した。
  それから・・アメリカは、建国以来約240年・・その内、
 219年間、アメリカは戦争をしている。
.
1821年、オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦
 争から始まった(~1829年)
  アメリカは、「グローバリゼーション」を提唱してい
 るが・・、
  そして、これで、新しい人類社会の舞台が作れると主
 張しているが・・、
  これは明らかにアメリカの世界を繰る方策で・・、
  「アメリカ化」を目指していることは明らか・・、
  当然、アメリカの国益に通じる「アメリカの都合よい」、
 「アメリカが考えるグローバリゼーション」となってい
 る。
  このオスマンの時代の状況も・・これだった・・、
  オスマン世界に対抗したのが・・イギリス・フランス
 などだった。
  大きく強くなったオスマン帝国のイスラム世界に、手
 を焼いた(儲けが得られないと)イギリス・フランス・
 オーストリア・ロシアは・・、
  この時は・・「ナショナリズム」が良いのだと、しき
 りに言った。
  そして、オスマン帝国内の諸国・民族の自立心を呼び
 起こさせ・・オスマン帝国崩しを行なった。
  それによって・・オスマン帝国は、内部から崩壊して
 行った、そして、とうとう解体してしまった。
  今、アメリカは、このグローバリゼーションを行なっ
 ている・・この逆の立場・・目的は同じ・・、
  だから・・日本へ、しきりに、「グローバリゼーショ
 ンが良い」と吹聴している・・、
  日本を、かつてのオスマン帝国の様に「弱体化しよう
 としている」。
  オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦争か
 ら始まったが・・、その為、イギリス・フランス・ロシ
 アは、ギリシャの独立を支援した。
  そして、オスマン帝国の主力艦隊を壊滅させた。
  そして、1829年には、ロシアが、アドリアノープル(
 現:エディルネ、トルコ最西端の都市)を占領し、ギリ
 シャとセルビアの独立をオスマン帝国に認めさせた。
  そして、ギリシャは、イギリス・ロシアなどに支えら
 れて、ドイツから貴族を王様として招いて、ギリシャ王
 国を建てた(1830年)。
  まったく自分たちの都合よい様に・・グル(共謀者)
 となって武力行使をして、作った。
  そこには、利益のみが優先し、論理の正しさや、正義
 などは・・まったく無かった。
  また、自分の利益を保持したいイギリスは、このオス
 マン帝国の混乱を利用して、東地中海で、国益を得たい
 と、エジプト=トルコ戦争で、エジプトを支援した。
  1830年代に、オスマン帝国から独立させた。
  そして、1840年に、エジプトの太守の世襲を認めた。
.
1904年4月22日、ロバート・オッペンハイマーが生まれた。
  ユダヤ系アメリカ人の物理学者。
  第二次世界大戦の時、アメリカのロスアラモス国立研
 究所の所長として、マンハッタン計画を主導し、原子爆
 弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たし、原子爆弾
 を作り上げた。
  このオッペンハイマーに次の言葉がある・・、
  「既に負けている日本に落とすべきではなかった」
.
1945年4月26日、リチャード・リー・アーミテージが生まれ
 た。
  アメリカ合衆国の軍人、政治家。
  アメリカのアーミテージ元国務副長官の言葉:
  「(靖国神社の参拝について)他国から参拝するなと
 指図されるようなことがあれば、逆に、必ず参拝しなけ
 ればならない」。
.
1945年8月6日、広島の市民の方々が生活する家々を見なが
 ら接近したアメリカ軍機は、原爆を、その市民の方々の
 真上に「アメリカが下した命令通り」に投下した。
  キノコ雲が上がった。
  そのアメリカ軍機は、命令通りにその後の偵察をした。
  キノコ雲が上昇したあとには、何もない、蒸発した姿
 しかなかった・・、
  何もかもが蒸発した広島の町しか見えなかった。
  少し前にはあったあの市民たちが生活する姿は・・
 一瞬にして、何もかもが変わって・・無くなっていた。
  蒸発した町を見た「投下したアメリカ兵」は・・
  『何ていう事をしたんだ』と叫んだ・・
  これが、まともな人間の気持ち・・である、
  そして、この後、命令とはいえ、この卑劣な行為が重
 くこの米兵の人生を変えて行った・・
  今・現在は、ミサイルという兵器でなされる攻撃であ
 る・・
  何十発、何百発と・・、
  一度に、何発も発射される可能性のある攻撃・・この
 様な事態が考えられている。
  広島・長崎のような町々が・・いくつも生まれる・・
  ミサイルという人間が乗務しない飛行物体によって・・
  広島・長崎の時にはあった「かすかに残されたこの投
 下した人間の思い」もないという無機質な大攻撃が今・
 現代には存在する。
  しかし、日本は、憲法の鎖にしばられ、この憲法解釈
 から・・この様な攻撃に対して・・まったく苦しい防衛
 が強いられている。
  「1発目の核攻撃は甘受しなければならない状況に置
 かれている」・・と、国会で答弁された・・憲法がこの
 様に答えさせた。
  『最初の1発目の原爆攻撃で生き残った日本人が、防衛
 に出動する』という形・憲法の形となっている。
  普通の人間なら・・これでは、防衛だなんて・・これ
 では呼べない形となっている・・と
  日本人の死んだ人を山と積んでからでないと、憲法に
 よって、防衛の形はつくれない・・と
  現憲法のために・・防衛がある様で、ない形となって
 いる。
  中国の習近平が、オーストラリアで・・、
  「○○年には、日本は無くなっている」という発言の
 言葉があるが・・この言葉が、不気味に頭によぎる・・
 残る。
  疎(おろそ)かにされている日本の防衛が、完全に馬
 鹿にされている。
.
1945年8月6日、広島・長崎の原爆で亡くなった方たちは、
 まったくと言って死ぬべき理由が無い方々だった。
  アメリカは、「アメリカの若い兵士が救われた」と腹
 が立つ屁理屈を言ったが、
  アメリカは、「原爆投下を正当化している」が、
  投下の目的は、誰の目にも明らかのように「世界で、
 アメリカだけが保持した『極大な破壊力を持つ兵器』の
 世界への誇示」だった。
  アメリカは、誰の目にも明らかな様に、「戦後を、唯
 一保持する魔の破壊力の兵器で、世界を牛耳りたい、そ
 れをアメリカができる」・・だった。
  圧倒的軍事力による世界への君臨が、この時、意識さ
 れていた。
  広島・長崎の、あまりにも多い犠牲者の方々は、まっ
 たく死ぬべき理由のない「アメリカの卑劣な考え方」か
 ら実施がなされた犠牲者となられた。
  そのあまりにもひどい卑劣な破壊力は、アメリカは、
 実験場で事前に実施して、「事前に、充分、分かってい
 た」。
  しかし、広島・長崎に投下し、実施した。
  キリスト教の有色人種の蔑視観に洗脳された白人キリ
 スト教徒のアメリカにとって、「投下すべきではないの
 抑止」に働かなかった。
  だから、戦後の世界制覇への君臨の欲望の成就が、優
 先されてしまった。
  戦後、アメリカに対抗するだろう国・ソ連が、はっき
 り見えていた状況の中で、広島・長崎の方々を「無為に
 殺した」。
  ソ連は、そのアメリカの圧倒的破壊力を保持する軍事
 力に服従する道を取らず・・対抗する方針を選んだ。
  世界は、原爆を保持する二つ大国の対立構造となった。
  アメリカのイメージした「希望的なアメリカ一極支配
 体制」などという虚構の体制にはならなかった。
  次に、原爆保持数で圧倒しようという無益な競争が始
 まる。
  アメリカが、立脚した「圧倒的軍事力で世界制覇する」
 は、世界が真似て、その後、「世界の方針」となった。
  米ソの二大対立構造が世界へ波及した・・中国が、こ
 の方針で台頭した。
  そして今、アメリカと同等のの対抗軸に、中国も、今・
 現代、存在するという悲しむべき状況にある。
  アメリカが、「銃の無い社会」が実現できない様に、
 今、世界は、核兵器のない社会から遠く離れてしまった。
  そしてさらに、今、30歳代の若輩の者が「私のテーブ
 ルの上に『核兵器のボタン』がある」と言う世界となっ
 てしまった。
  広島・長崎の市民の方々への人命軽視のキリスト教に
 洗脳された判断から、この様な残酷な残念な経緯を至っ
 てしまった。
  人類は、キリスト教によって「大きく道を踏み外して
 しまった」。
  自国民優越思想を植え付けるキリスト教は、「異教徒
 は殺せ」の異端排除のキリスト教教義によって助長され
 る。
  この様なキリスト教だという事をまったく知らない明
 治の日本の諸兄は、ただ西洋崇拝の感情からキリスト教
 に寄した。
  しかし、だが、新島襄の様に、日本で聞いたキリスト
 教宣教師の美化する話と、実際、理想を抱いて渡ったア
 メリカに住んで見て、体験し、その相違の大きさに落胆
 した。
  新島襄も、自らも、有色人種として差別を受け、また、
 あちこちで毎日、差別される有色人種の姿を見て、キリ
 スト教の限界を、ここに至って「やっと知った」。
  キリスト教思考では人類は救えないと・・、
  すべての元凶は、キリスト教に由来すると・・、
.
1947年2月20日、アメリカを主体とする占領軍の総司令部(
 (GHQ)が、輸出品に製造国名の記載を命令した 。
  (Made in Occupied Japan)
  そして、アメリカの総司令官のダグラス・マッカーサ
 ー将軍の言葉・・
  「戦争において、軍略上、最も効果的な武器とされる
 ものは、食糧、その他の物資を外部の補給源に依存して
 いる兵力を、完全に封鎖する事である。
  日本軍が、ついに無益な抵抗を止めざるを得なくなっ
 たのは、他ならぬ・・この武器によってであった」。
  今・現在、食糧自給率が他の国より極端に低い日本が
 「まさしくこの状態にある」。
  農業を大切にしない日本。
  しかし、アメリカは、自国の農産品を日本へ売りたい
 がために、さらに、日本の農業潰(つぶ)しにかかって
 いる。
  まさしく、マッカーサーの言葉状態に、今の日本が、
 さらに、なって行く。
  だから・・これは、何も戦時中の事だけではない。
  今・現代、日本は、考えられないくらい「食料自給率
 が低い国」となっているのである。
  とうとう・・食糧自給率が、30%以下となった。
  (それも、改善されずに、年々、下がっている)
  そして、アメリカの農作物を買わされている。
  今、日本人は、「天国の極楽とんぼの状態に、贅沢に
 食べ物をパクパク食べているが??」、
  国の食糧倉庫は・・乏しいものである??
  戦後・・日本が、あれほど悲惨に日本の諸都市が、ア
 メリカの無慈悲な無差別爆撃で破壊されても・・日本に
 は、『あの時、豊かな農村があった』。
  戦後の奇跡の復興と言ったって、この豊かな農村、ま
 た、この地へ、農作物を買い出しに行った「食べるもの
 のない都市の人たち」へ、着物など、直ぐに必要という
 物でも無いものと交換してくれた『優しい農家の方々』
 が、豊かな農産物と共に、日本の農村には、大勢、居ら
 れた。
  この農村の優しさが、空襲で何もなくなって困ってい
 る人々への優しい心が、『戦後の爆発的復興の起爆剤と
 なった』・・
  これを知ってか知らずか・・今の日本がある。
  しかし、今、アメリカは、日本の『命の源泉』の、こ
 の農村の農業を壊している。
  今の日本は、自転車操業の食糧サイクルの中で、「天
 国の極楽トンボの食糧状態」の中で、問題の深刻さに気
 付いていない。
  マッカーサーが言う様に、かつての日本軍の様になら
 ないように・・、
  中国が、南シナ海を、自分の領土にしたい目的の一つ
 が・・これ。
  日本の物資を運ぶ「シーレーンの遮断」。
  日本の首ねっこを掴みたいのだ。
  リスキーな日本は、目覚めなければならない。
  無頓着な・・お人好しな・・温厚な日本人・・死ぬ直
 前まで・・その死が迫っている事が分からぬ民族・・、
  偉大なる功績と、長い歴史を持つ日本が・・日本文化
 が・・その中で豊かに育まれて来たが・・その明日は・・
 これほど儚(はかな)いものだったのかと憂える時代の
 中に、今ある。
  すべてをアメリカに依存して・・それで良しとして・・
 自らの努力を・・知らないふりをして・・放棄している。
  「国防をする」を「戦争をする」と取り違えて・・ま
 ったく「自らを守ろうとしない」・・
  20XX年に、天国で、天国へ行った日本人へ、「国防の
 努力を怠(おこた)ったからですよ」と言われるだろう。
  また、「アメリカが守ってくれる」と言ったって・・
 「ここに来てしまったのですね」と言われるだろう。
  アメリカにしてみれば、アメリカの都市のその一つに・・
 核が落ちるという事を考えたら・・、
  日本に核が落ちたからって、安易に核反撃をする手が
 縮(ちぢ)こまってしまうということ・・
  自らを守ることを、他人に頼っていては始まらないの
 だ。
  核の傘は、「夢の傘である可能性が高いのだ」。
  今、日本は、スイスの武装中立国の様に、スイスの様
 な核を持った武装中立国の様に・・ならねばならぬ。
  テレビで、非武装中立を論じた者がいたが・・殺され
 てもいいのか?と聞かれて、「良い」と元気に言ったそ
 の御仁が・・
  「そのことを、あなたの妻や子にまで押し付けるので
 すか?」と問われて、返事に窮したが、
  そして、ああだこうだと言ってはいたが・・最後に自
 虐的に「お花畑論理でした」と絞り出すように吐いた言
 葉が、「その実態を表わしている」。
  自分だけなら勢いよく格好良く言ってはいたが、愛す
 る人々、妻・子供・日本の方々のこと・・他の人々の命
 の話しに話が及ぶと、その無責任論理の展開が出来ない
 ことを・・ここに至って知る。
  無責任論理で「妻や子と一緒に自殺行為は出来ない」
 ということを・・やっと知る・・
  愛する妻や子にも、他の人々にも「生きる権利がある」
 ・・当然・・
  その人々を守り抜く責任もある。
  安易な非武装中立論は唱えられない・・
  「国防」と「戦争」は違うのだ。
.
1962年10月22日 、キューバ危機。
  アメリカは、キューバに、ソ連軍のミサイル基地が建
 設中であると発表した。
  そして、抗議し、その撤去を要求した。
  そして、1962年10月22日以降、アメリカは、183隻の戦
 艦と1190機の戦闘機を動員して、キューバの海上封鎖を
 実施した。
  アメリカ大統領のJ.F.ケネディは、キューバから攻撃
 があった場合には、ソ連によるものとみなして報復する
 とした。
  アメリカの海上封鎖に、ソ連が譲歩してミサイルを撤
 去し、衝突は回避された。
  第三次世界大戦の直前だった。
  これまでの経緯・・、
  1959年1月、キューバに、カストロの革命政府が成立し
   た・・そして・・アメリカは、
  1961年1月に、キューバ、アメリカ両国は断交した。
  1961年4月、ケネディ政権は、反カストロ分子のキュー
   バ侵攻を援助したが、これに失敗した(ピッグス湾事
   件)。
  1962年1月、米州機構からのキューバを除名し、食糧・
   医薬品以外の全面禁輸などにより、政治的・経済的
   なキューバの孤立化をはかった。
.
1984年、イギリスのサッチャー首相が、EUに拠出してい
 る金が、馬鹿らしくなって、「返してくれ」と拠出金払
 い戻しを要求した。
  「不労所得の金」と、「汗水流した金」は差別せよ。
  インターネット決済の場合、その様なシステムを導入
 して、汗水流した金の価値を上げよ。
  例えば、汗水流した学生のアルバイトの金には、コン
 ビニでの買い物をした場合、2割安くする・・とか。
  逆に、ギャンブルや競馬で得た大金の場合は、2割余計
 に支払わせるとか・・と。
  ここで思いがおよぶのが、キリスト教のこと・・何し
 ろ、キリスト教は、楽して手に入れる事しか教えない。
  その極端が、困ったら隣国の富を奪え・・(キリスト
 教の)神の義があるから、その様な行為は許されるのだ・・
 と説く。
  そして、その隣国の富をとことん奪う事を教える。
  「生娘は生かしておけ」とか、「奴隷にせよ」とか、
 「○○人は男だけ殺せ」とか、「△△人は皆殺しにせよ」
 とか・・と・・こんな事ばかりが聖書に書かれている。
  この様に、自己の利益にさといキリスト教民族は、自
 民族に利益をと、なりふり構わず、他民族を殺してまで
 して、自民族の利益を得ようとする・・、
  今、EU諸国は、「自己の主権の明け渡しにつながる
 件には反対し、反発を強くしている」。
  だから、EUが、まとまる訳が無い。
  EUのどの国も、「EUへの自分たちの拠出金」を少
 なくなるようにし、また、逆に、EUの歳出において、
 「自国に、より多くの補助金が入ってくるように画策す
 ることに奔走する」。
  その様な事に、「なんだかんだと理屈を付けて右往左
 往している」。
  何ら大所高所の観点のない「キリスト教民族が利益を
 自己へ引き入れようとする様な行為となっている」。
  楽ばかりを追い求めるキリスト教。
  プレゼント話の多いキリスト教。
  貰うことが常態化した国は、「EUからの補助金は、
 すでに重要な常態化した収入源」と位置付けている。
  貰うことが当然と化している。
  グローバリズムの音頭で始まったEUなんて、何ら美
 しくもなんともない。
  補助金を当てにする、貰うのが常態化したぐうたらを、
 さらにぐうたらにしている。
  だから、EUの予算交渉は熾烈(しれつ)を極め、「
 ヨーロッパは一つ」、「皆で協力して助け合うのだ」と
 いう理念は影も形もない。
  ヨーロッパが一つになるという理念は・・、
  逆に、各国のエゴがむき出しでぶつかり合い、「その
 理念と真逆」という真実の姿をまざまざと見せつけてい
 る。
  たっぷりと補助金を貰ったギリシャは、その国民性「
 宵越しの金は持たない」の使い方を「し続けている」。
  何ら国の発展に寄与していない補助金となっている。
  EUは、「人間、生きるに大切な食料確保」に注力し
 ている。
  どこかの国の様に「天から食べ物が降って来る」かの
 ような施策は取らない(日本はまったくダメ)
  この点、EUは、しっかり農業を大切に補助し保護し
 ている。
  全歳出の45パーセントは農業に対する補助金となって
 いる。
  この大きな財源に対して、毎年、熾烈な奪い合いが演
 じられている。
  「自国以外はすべて敵」の心境となっているEU内諸
 国となっている。
  そして、その補助金に対して、国別に格差をつけて差
 別化している。
  この様にしなければならない理由は、それなりにあっ
 たのだが、これが穏便にすまない訳となっている。
  抗議の嵐が錯綜しているEUとなっている。
  各国の恨みつらみも生じている。
  かつて、資源やエネルギーを仏独が取り合って戦争ば
 かりしていた愚かな状態を乗り越えようとして出来たE
 Uで、今、補助金の取り合いという新たな抗争・争いの
 事態が起きている。
  そして、開発補助金。
  これも、EU歳出の30%を占める大きな財源で、同じ
 様に取り合う事態が演じられている。
  嘘の報告書まで作って裏切りの奪い合いとなっている。
  オリーブ畑が広がっているはずなのに岩山ばかりの地
 だとか、オリーブの木の1本もない事態とか、車が無い所
 に道路を作る話とか、羊も居ない所に牧畜補助金・・な
 どなど・・と・・、
  こんな人を欺(あざむ)く取り合いとなっている。
  美しくもなんともない。
  賄賂も蔓延している部門もあるという、また、補助金
 の獲得がなされると、「個人の獲得金」に様に思って使
 われるとか・・
  日本が、朝鮮・韓国へ、どんどん金をつぎ込んで、共
 に豊かになろうと、山野に植林し、鉄道を引き、道路を
 作り、ダムを造り、学校を作り、衛生環境を良くしよう
 と邁進し人口が3倍にするなど、こんな姿の一端も無い。
  これに頭に来たイギリスのサッチャー首相は、1984年、
 イギリスが拠出した金を返してくれと、拠出金の払い戻
 しを要求した。
  イギリスは、EU拠出金の65%を支払わないで済むよ
 うになった(毎年の免除)
.
2013年12月、日本の大学の「英語化」の動きが活発になっ
 てきた。
  「英語化」とは、大学で英語による授業を増やすこと
 のほか、外国人教員の増員、留学生の増員、事務業務の
 英語化、などなどなど・・など・・
  仮の話であるが・・今、アメリカ全土の小学校の授業
 を・・、
  ハワイ州も、そして、アラスカ州も、そのアメリカ全
 土の州の小学校の授業を・・「日本語でしなさい」とし
 たならば、
  その様にすると、「アメリカの技術力が向上する」し、
 また、「アメリカ全土の道徳心が向上する」し、「アメ
 リカが、より幸せになる」からと、
  この様な理由を挙げながら、半分、強制的に、「アメ
 リカで行なわれている英語(米語)の授業を止めさせて」、
 アメリカ全土の子供たちの、小学生の授業を変えさせた
 ら、アメリカの方たちは、どのように思うだろうか?
  「そうするメリットがあるのですから」と言われ、
 「有無を言わせず」、「小学生の授業の日本語化が行わ
 れたら」・・、
  アメリカの方たちは、どのように思うのだろうか?
  何しろ、良い所が、色々とあるのですよ・・と。
  日本語にしないのは、おかしいでしょう・・と。
  アメリカは、フィリピンで、「このような事」を、や
 った・・やらされた
  そして、日本でも、戦後、アメリカはやろうとした・・
 そして、止めた・・だが、今また、やろうとしている。
  フィリピンの方たちの言葉を取り上げ・・、
  今、フィリピンは英語化している。可哀想に・・。
  母国語教育でなければ技術は育たない。
  母国語教育で文化をはぐくみ進化しなくてはならない。
  ・・・
  グローバル化の必要性が叫ばれる中、大学の「英語化」
 が進んでいる・・が
  英語の授業を増やし、英語が母国語の教員を増やし、
 留学生を増やし、事務職員にも英語が堪能な人たちを増
 やす。
  そうしなければ世界との競争に負けると国はいう。
  そのための予算ならつけるという施策の結果、各大学
 は競うように英語化に突き進んでいる。
  だが、在米25年の佐藤匠徳・奈良先端科学技術大学
 院大学教授は「こんなことをしていると日本の競争力が
 下がる」という・・・なぜか?
  授業の英語化すると・・当然、授業の質が低下する。
  日本語の質の高い言語を使わないマイナスと・・、
  日本語という母国語レベルに遠く及ばない語彙数、語
 彙の深さ・質などが低下した授業の質が高いと言えない
 のは説明する必要はない。
  (英語という言語は質的にまったく劣っている)
  キリスト教聖職者が、現代ではまったく使われなくな
 ったラテン語を、組織から要請されて習得するのに一生
 を費やしているという人もいる・・人生を無為に、無駄
 に時間を喪失している・・という話にも通じる(時間と
 労力の無駄遣い)
  英語が話せたから「グローバルな人間だ」は、アメリ
 カのプロパガンダ・嘘話し・・、
  英語がペラペラでも・・その筋のことがわからなけれ
 ばいつまでも阿呆である。
  英語に力を入れる偏った勉強は阿呆づくりとなる。
  特に幼児期からは悲惨だ。
  グローバルなら中国語だと言う御仁も居る。
  世界一の投資家はアメリカからシンガポールに移住し、
 御子息に中国語を習わせている。
  凋落の英語を嫌った。
.
2014年1月1日、中国の最新データーによる人口は、13億6072
 万人。
  人口調査するごとに人口が増える中国。
  最近では、「一人っ子政策の強制」によって、生まれ
 た子を届け出ないで隠し、その子が、調査で新たに見つ
 かり登録される。
  中国は、これを、頭をかかえないで、この人口を領土
 拡張に使っている。
  チベットへ行かせ、チベットの地は、とうとう漢民族
 が、一番多いという場所になってしまった。
  民主主義の世の中、住民の意思が尊重される、その住
 民の意思が、何をやっても「漢民族の意思」となった。
  チベットの地は、当然、チベットの地ではなくなって
 行く。
  そして、チベット民族への圧迫も行なわれていて、チ
 ベット民族が拡散され、追い出されることが、同時に行
 われて、チベットは、ますます漢民族の地となってしま
 った。
  日本へ難民となって来ている方が嘆き、本を出されて
 いる。
  中国は、こんなことを、「内モンゴル」でもやってい
 る。
  「ウィグル自治区」でもやっている。
  これらの地の名前は、近いうちに、漢民族の州の名が、
 「漢民族の州だ」として名付けられるだろう。
  チベット・モンゴル・ウィグルは消えるだろう。
  かつて、満州族の多くいた地、日本が満州国の建国を
 助けて差し上げたが、今は、そこに満州族は居ない。
  殺されたのか? 追い出されたのか?
  文化大革命時には、想像できないくらいの自国民を中
 国は殺した・・中国は、この様なことが何度も起きると
 いう国なのだ。
  何かが起きたのだ・・そうでなければ、この様な極端
 な変化は起きない訳だ。
  そして、この様な行為が、中国国内だけではなくなっ
 ている。
  オーストラリアの牧草地が、ドンドン中国人に買われ、
 今、中国人オーナーの牧場が多くなっている。
  その中国人オーナーが、オーストラリア人を雇うとい
 う逆転現象が起きている。
  金のある中国が、今、問題になっている。
  金を貸したギリシャが、その金の返済ができなくなっ
 たら、ギリシャの港を中国の軍艦が寄港できる形にして
 しまうという、金の力で、軍事的影響力の拡大を行なっ
 た。
  こんなことは、スリランカでも行っている。
  また、中国の狙いは、尖閣諸島だけではなく、この様
 な土地買い上げが、沖縄でも行われている。
  そしてまた、北海道の安い土地が、中国によって買い
 占められている。
  土地を現金化して大都市へ出たいという日本人の地主
 から買い上げている。
  かつて、バブルの頃、日本の東京の土地の値段で、ア
 メリカ全土が買い占められると言われた。
  金さえあれば何でもできると、今、中国は、その行動
 をしている。
  だから、今、北海道の「すすきの(薄野)」は、中国
 に乗っ取られたという。
  また、札幌に中華街の中国人町を造る計画が進行中と
 いう。
  日本の公的機関がそこへ地下鉄を通すという手伝いを
 しているという。
  今、中華街の某中国人の店に、毛沢東の肖像画が飾ら
 れていることの異様さや、異常さを不気味に感じている。
  また、何故か? 中国人のラーメン屋には、どこも、
 中国寄りの記事を書く朝日新聞が置いてある。
  この様な気になることが増えている。
.
2017年、サイバー攻撃に長(た)けた中国
  サイバー攻撃とは、コンピューターネットワーク上で、
 特定の国家、企業、団体、個人に対して行われるクラッ
 キング行為で、政治的、社会的理由に基づき、社会に混
 乱をもたらしたり、国家の安全保障を脅かしたりするこ
 とを目的とする破壊活動。
   そして、通信などのネットワークに侵入し、壊したり
 データを盗んだりし、市民生活や企業、政府、軍の活動
 に被害を与え・・、
  アメリカは、企業情報を中国が盗み、大統領選にロシ
 アが介入したと指摘した。
  しかし、アメリカのネット侵入による情報収集も、オ
 バマ政権時に発覚したりした。
  そしてさらに、データーを盗むだけではなく、相手を
 混乱させる目的からデーター改ざんなどもされている。
  このインターネット工作で、中国は、アメリカの最新
 鋭の『核弾頭技術』の情報を得た、集めていた。
.
2018年、アメリカは、現実的な使用可能な小型原爆で抑止
 力を向上させる必要がある・・とし・・、
  また、アメリカは、先制攻撃もあり得るとした。
  (参考)先制攻撃:先に攻撃すること、
  これを、別な表現をすれば・・
  今・現代、当然、日々、技術は進歩をしている・・、
  第二次世界大戦時に生まれた原子爆弾の威力も「格段
 に強力に、より大きくなっている・・
  原爆が生まれた直後の頃は、広島・長崎の都市が蒸発
 する爆発威力であったが・・、
  今・現代は、1発の原爆で、東京都・神奈川県・埼玉
 県・千葉県が蒸発する威力となっている。
  または、「日本は3発の核爆弾で蒸発する」とも言わ
 れている。
  アメリカは、この様な核爆弾を、広島・長崎投下型の
 核爆弾にする・・と・・、
  若しくは、さらに使いやすい小型爆弾を持つ方向に行
 く・・とした。
  そして、日本の防衛(国防)の考え方が、国会で議論
 されているが・・、政府は次の考え方を示した。
  日本の防衛(国防)は、日本国憲法に則(のっと)り
 実施されなければならないのは当然であり・・、
  その防衛姿勢を具体的に言えば、相手の武力攻撃があ
 った後に、防衛力発動を行なうという事となる。
  (憲法の攻撃武力の行使抑制でこの形になる)
  しかし、攻撃を受けたからと言って、最小限での防衛
 力発動となる。
  そして、その対応に於いて、日本は防衛のための武器
 だけの姿勢に留める。
  この様に大変厳しい防衛戦略となっている(憲法によ
 る抑制のために・・)
  例えば1例、ミサイル攻撃を受けた日本は、『1発目は、
 その攻撃を甘受しなければならない』。
  憲法に則って防衛を実施する形と言えば、この様な形
 となる・・と・・日本政府は示した。
  この占守防衛の形は、日本政府の一貫した形として来
 た・・これは、今後も変更せず堅持すると・・(以上)
  誰もが、楽しく、幸せな毎日を過ごして見過ごして来
 た日本の防衛・・しかし・・、
  その日常の平和・幸福を突き詰めて行くと、この様な
 形の上に立脚している・・砂上の楼閣なのだ・・
  1発目は甘受する・・つまり、関東平野の諸県や都が
 蒸発してから、防衛に動き出すということだ・・、
  もしくは、攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の
 1が蒸発してから、防衛出動するというのである・・
  今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月4日、グロバー・クリーブランドが第24代米大統
 領に就任した(第2期)
  恐慌と共に大統領になったような民主党の大統領であ
 ったが、恐慌から抜け出すことが出来なかった。
  労働者のストライキが頻発した。
  シカゴのプルマン寝台車会社のストライキは大規模と
 なり、アメリカ鉄道組合も同調し、ストライキは24州
 におよぶ大ストライキへと発展した・・
  グリーブランドは、連邦正規軍を出動させ、指導者を
 投獄の要求をし、ストライキはやっと収まった・・
  しかし、全米労働者の憤懣は最高潮に達した・・
  そして、内政の数々は失敗し、民主党は壊滅した。
  この二期目の彼の政治を、評論家は・・、
  「想像力がほとんど無く、国の経済的災害に圧倒され
 た大統領だ」と批判した。
  彼の一期目の政治は、先住民のインディアンから借り
 受けていた牧草地の契約を無効にした・・そして、放牧
 業者、および、インディアンの方々の双方の生活を苦し
 める様な政治をした。
  ただ、外交政策で良いことをした。
  実業界の利益追求から仕組まれたハワイ併合問題を認
 めなかった・・アメリカのペテン政策に正直に反対した。
1893年3月9日、朝鮮政府が、防穀令による日本側の損害を
 4万円余りと報告した。
  因みに、1891年12月、朝鮮政府に対して14万7000円の
 損害賠償の請求を行なっていた。
  1897年4月、11万円の賠償と公使召喚で妥結した。
1893年3月10日、象牙海岸地域がフランスの植民地となる。
  貿易商品が象牙であったことに由来して命名されたコ
 ートジボワールとガーナの沿岸部のこの地を、
  ヨーロッパ列強諸国はアフリカ大陸分割に乗り出し・・
 フランスはサハラ砂漠の北側(アルジェリア、モロッコ、
 チュニジア)だけでなく、サハラの南側(ニジェール、
 セネガル、マリ、トーゴ、コートジボアールなど)の広
 大なアフリカ地域を植民地にして行った。
  1843年に、フランスが、この象牙海岸の沿岸のアシニ
 などの諸首長と保護領条約を締結を経て・・
  1893年、フランスが植民地とし、フランス領植民地コ
 ートジボワールが誕生して65年間の植民地が始まる。
  公用語をフランス語にする。
  因みに、コートジボワールは、フランス語で「象牙海
 岸」という意味であるが、1985年に、国際機関がフラン
 ス語の国名を意訳しない様に求める決議を行なったので、
 『国名』を言う時は「コートジボワール」と言わねばな
 らない。
  そして、1960年になって、やっと、コーヒー・ココア
 農民組合を基盤にした、独立運動を主導したウフェボア
 ニが中心になり、フランスから独立を勝ち取ることがで
 きた。
1893年3月16日、鉄道庁長官に、松本荘一郎が就任した(井
 上勝依願免官)
  松本荘一郎は、播磨国(兵庫県)生まれ、大垣藩(岐
 阜県)藩士の推薦を受け同藩に出仕した。
  大学南校に入り、1870年、アメリカ留学して土木工学
 を学ぶ。
  1876年、帰国し、東京府御用係となり、そして、開拓
 使御用係、工部権大技長、
  鉄道庁に入り、鉄道庁長官となり、全国の鉄道敷設に
 貢献する。
  1898年に、帝国鉄道協会を設立している。
1893年3月17日、川越大火が発生し、1,302戸が消失した。
  20時15分頃、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で発
 生、旧城下の養寿院門前から火災発生の一報で半鐘が鳴
 り、町の消防22組が総出で消火作業に当たったが、
  北からの強風・連日の晴天続きによる空気の乾燥・消
 火用井戸水の使い果たしなどから火勢は土蔵の間を縫い
 短時間で南町・本町・多賀町・江戸町・上松江町・連雀
 町・鍛治町・相生町・志義町・久保町・鉄砲町・北久保
 町・南久保町・東明寺相生町・高澤町・猪鼻町に拡がり
 計17町を焼失。翌18日8時に鎮火した。
  当時の町域の3分の1に相当する1,302戸を焼失した。
  当地は、埼玉県で最も栄華を誇った商人の街だが、火
 の回りが速く、家財道具を持ち出せず全財産を失った者
 も出た。
  死者・負傷者は出なかった。
  罹災者1,014人は、光西寺や栄林寺などの寺院や川越学
 校などに設けられた11ヵ所の救助所に収容された。
  地元商人たちも、次々、金品を寄贈し、また、当地に
 縁の深い渋沢栄一らの義援金・現金・米・醤油などの生
 活物資に至るまでの救援もあり、
  商人たちは、耐火性に優れた蔵造りを、東京から職人
 を招いて再建に当った。
  大火後、2年から3年で、200棟を上回る蔵造りが建設さ
 れるという早さだった・・団結・協力・助け合いの強さ
 だった。
1893年3月20日、郡司成忠海軍大尉らの63人が、千島探検に
 出発した。
  郡司成忠(ぐんじしげただ)海軍大尉は幸田露伴の兄
 で・・、
  1875年、千島樺太交換条約の締結後、ロシアに対する
 脅威から北方の警備・防衛、千島開拓の必要を感じ、志
 を抱いた。
  海軍大尉まで進んだが、自らの志の実現のために、1893
 年に予備役となった・・そして、報効義会を組織し・・、
  1893年3月20日、35人が、ボートに分乗して東京を出発。
  19人は青森県鮫沖で死亡するが・・、
  16人が占守 (シュムシュ) 島に上陸、探検し、
  越年中に10人が死亡。
   その間、拓殖方法などを研究調査・・そして・・
  1896年、60人余りの同志を募り、家族とともに占守島
 に移住した。
  そして、部下と開発にあたって、農業、漁業の開発・
 開拓に成功した。
  日露戦争の開戦後に、カムチャッカへの進撃を行なっ
 た。
  しかし、失敗し、捕らえられ捕虜となる・・が、脱出
 を行なった。
  そして、海事・国防思想の普及や、北辺の警備・防衛
 思想の重要性を説いた。
  因みに、占守島は千島列島北東端の島で、日本の領土
 である。
  少なくとも、サンフランシスコ条約締結以来、領有権
 の帰属は未確定で、ロシアの実効支配下の島と言える。
  この占守島は、第二次世界大戦の終結後の1945年8月18
 日に、ソ連が不法にも、この占守島に卑劣にも攻撃を仕
 掛けて来た。
  そして、占守島の戦いが起き、8月21日まで続いた。
  終戦後であったが、優秀な日本軍は応戦し撃滅した。
  しかし、終戦後であったため、日本軍は武器を置いた。
  この根拠ない戦闘を仕掛けられた優秀な日本兵たちは、
 決して戦いに敗けてはいなかったが、法的根拠のない状
 態で(拉致状態で)シベリアへ連れて行かれた。
1893年3月26日、北海道炭砿鉄道の手宮~桟橋間が開通した。
  北海道炭砿鉄道は、単なる鉄道会社ではなかった。
  創立時は、室蘭~空知太間、および、夕張・空知の両
 炭鉱支線の鉄道を敷設し、
  あわせて、幌内・幾春別鉄道の払下げを受けて、鉄道
 業を営む鉄道会社でありながら、
  同時に、幌内炭鉱の払い下げを受け、幾春別・空知・
 夕張などの諸炭山から石炭を採掘し、石炭の輸送・販売
 を行なう石炭業を兼営した。
  その後、回漕業、骸炭(がいたん、コークスのこと)
 製造業、山林業などを兼営する。
  そして、1906年以降は、製鉄業、電灯業、煉瓦業、製
 材業を兼営し、
  1907年には、日英共同事業として日本製鋼所を設立す
 る。
  しかし、日露戦争後に経営危機に陥り・・
  1913年に、三井財閥の傘下に吸収された。
1893年3月29日、目黒火薬製造所・白金火薬庫が、海軍省か
 ら陸軍省(東京陸軍砲兵工廠)へ移管された。
  そして、軍用火薬や、坑山用火薬の製造及び貯蔵を行
 う。
  1893年度は、12万kgでしかなかった火薬製造量は、順
 次、設備の拡充に努めた結果、1897年度には、55万kgに
 達した。
  1923年、関東大震災で被災したため、群馬の岩鼻(高崎
 市)に施設を移転した。
  ここは、1878年、海軍の火薬製造所として建設が進め
 られ、1885年に完成していた。
1893年3月29日、三重県松坂市が大火となる。
  町の約半数に当たる1500戸余りが焼失した。
  午後7時頃、魚町二丁目あたりから出火、折からの烈風
 にあおられ、中町の松阪警察署に移り、伊勢(参宮)街
 道沿いの家並など、町の中心部のことごとくに延焼し、
 中町から愛宕町一帯が焼失した。
  翌3月30日の午後3時頃まで燃え続けた。
  罹災戸数:1318戸、罹災人員:4152人
  県庁から白米を送るなど、県内外から多くの義捐金や
 救助米が寄せられた。
  また、火災後の片付けのほか、罹災者への焚き出し、
 宿舎の提供、町内医師の無料診療・施薬、教員たちの「
 火災緊要書類調製」などが自主的に行われ、救助と復旧
 が図られた。
1893年3月、山縣有朋(やまがたありとも)が枢密院議長と
 なる(1838年~1922年)
  軍人・政治家、陸軍大将・元帥。
  1838年6月14日、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間とい
 う軽輩の家に生まれた。
  家庭的には恵まれず、母は5歳のときに病死し、妻:友
 子との間に3男4女をもうけたが、山県の死後も生きたの
 は次女のみであった。
  吉田松陰の松下村塾門下生として尊攘思想を学ぶ、
  1859年(21歳)藩命で、伊藤博文ら5名と京都に派遣さ
   れ、以来、尊王攘夷運動に参加した。
   この時の伊藤博文との関係が、この後に重きをなす。
  1863年(25歳)奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営司
   令となる。
  1864年(26歳)英米仏蘭の4国連合艦隊と交戦して負傷
   (4国艦隊下関砲撃事件)
  1868年1月(30歳)戊辰戦争に参加する。
   大村益次郎の姿を見て、この後、継いで行く・・、
  1869年(31歳)西郷従道と共に渡欧する。
   ヨーロッパ諸国の軍制を視察、この後、陸軍創設・
   徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努め
   て行く。
  1870年8月(32歳)帰国直後、兵部少輔となる。
   数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任、そのため、実
   質上、明治維新政府軍部の最高首脳となった。
  1871年8月29日(33歳)廃藩置県の実施となる、また、
   山県の兵部大輔就任が重なった。
    直ちに、国軍の創設に着手する。
    薩摩・長州・土佐の3藩の1万の兵で、親兵を組織
   するとともに、
    東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の4鎮台を設
   置した。
    ヨーロッパでは数百年を要した兵権統一の大事業
   を一気に実行した。
  1872年(34歳)兵部省が廃止となり、代わって陸軍・
   海軍両省が設置され、陸軍大輔に任じられる。
  1873年(35歳)陸軍卿となる。
  1877年(39歳)2月、西南戦争、征討参軍となる。
  1878年(40歳)初代参謀本部長。
   参謀本部、監軍本部を設置し、統帥権の独立(参謀本
   部を陸軍省から独立させ)を進め、
    軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と、
   軍令(統帥)の区別を明らかにした。
  1878年(40歳)「軍人訓誡」
  1882年(44歳)「軍人勅諭」を発布。
  1885年(47歳)初代内相。地方制度を整備する。
    第1次伊藤博文内閣で、はじめて軍務外の内務大臣
   に就任した。
    黒田清隆内閣でも引き続き内相を務める。
  1887年(49歳)官僚制度の出発点となる文官試験制度
   を施行した。
    国のエリートが国の組織に加わりやすくした。
  1888年(50歳)市町村制を公布(翌年施行)した。
    内務卿になるまで、陸軍卿(初代)、近衛都督、西
   南戦争(1877年)における征討軍参謀、参謀本部長な
   ど陸軍の枢要ポストを歴任した。
  1889年(51歳)12月~1891年5月、組閣(第1次山県内
   閣)
  1890年(52歳)この年まで内相を兼ね、全国を包括す
   る警察制度の実現にも努めた(1900年3月治安警察法
   公布)。
  1890年(52歳)陸軍大将
  1891年(53歳)元勲礼遇
  1892年(54歳)第2次伊藤内閣の司法大臣
   伊藤博文と共に明治政府の指導的立場となる。
   内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任して行く。
  1893年(55歳)枢密院議長
  1894年(56歳)~1895年、日清戦争、第1軍司令官
  1898年(60歳)~1900年9月、組閣、再び首相に・・、
   以後、元帥に、そして、元老格として陸軍、政界、
   官界、警察に、そして、内政、外交のお目付け役と
   なる。
  1898年(60歳)元帥
  1900年(62歳)5月、軍部大臣現役武官制を設ける。
  1904年(66歳)~1905年、日露戦争、参謀総長兼兵站
   総監
    両戦争後に戦史編纂。
  1909年(71歳)朝鮮での伊藤博文暗殺。
    軍および政界を支えた。
    大正期(1911年)になると制肘力は衰え・・、
  1921年(83歳)宮中某重大事件で、山県が主張する婚
   約解消論が敗れると、小田原の古稀庵に閉じこもり、
   第一線を退く・・、
  1922年2月1日(85歳)死去。
.
  (今日の言葉)
.
  題:近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
   限界に達している。
    グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義や
   資本主義が、レールを踏み外している。
    日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う問題が
   必ず、何らかの形で噴出する。
.
紀元前5万年、ベーリング海峡を渡って、東ユーラシア大
 陸の人々がアメリカ大陸へ渡った。
  また、約3万年前~1万3000年前のウルム氷期の最寒期
 とされる頃に、ベーリング海峡地域は陸地化していて、
 いわゆるベーリンジアとなっていた。
  ユーラシア大陸のモンゴロイドは、このベーリング地
 峡を渡ってアメリカ大陸に進出した。
  (参考)ベーリンジア(ベーリング陸橋):現在のベ
     ーリング海峡付近に、上部洪積世の氷期に陸化
     していた陸地のこと。
      人類の新大陸への渡来の経路、および、時期
     と深くかかわりあう、その古環境とともに注目
     されていて、ベーリンジアいわれる。
      氷河形成による海水面低下により出現したも
     ので、陸橋が存在していたのは約5万年前から約
     3万5000年前までの期間と、約2万5000年前から
     約1万年前までの期間だという。
  日本には、「血は争えない」という言葉がある。
  ベーリング海峡が、まだ地続きだった頃、だから、大
 昔の大昔、日本などの東ユーラシア大陸の人々が、その
 地続きのベーリング海峡を歩いて渡って、アメリカ大陸
 へ行った。
  そして、とうとう、風の吹きすさぶパタゴニアまで、
 南アメリカ大陸の南の最南端まで行き着いた。
  だから、アメリカ大陸、北米・中米・南米、そして、
 その離島まで、その東ユーラシアの人たちで満ちた。
  北アメリカ大陸を見ても、北はアラスカなどのエスキ
 モーの方々、そして、アメリカ合衆国のアメリカ・イン
 ディアンの方々、その隣のメキシコ・インディオの方々。
  しかし、「カナダが未定となっている・・空白となっ
 ている」・・??
  何故なのだ??
  そこにも、人が居たわけだ・・東ユーラシアからの人
 が・・。
  そして・・それが・・分かった。
  最近、カナダへ旅した方の写真に、今は居ないカナダ・
 インディアンの方々の集落の写真があった。
  このカナダ・インディアンの方々の記念館もあった。
  「このカナダ・インディアンの方々は、今、存在して
 いるのですか?」との質問をした・・、
  かつてからの、以前からの疑問だったことを質問させ
 て戴いた。
  その方は、「黙って」居られた。
  その方の「その答え方」から答えは分かった。
  その方の答え方は、「そうだろう」と予想は出来てい
 た。
  やはり、「血は争えなかった」。
  隣国の富を、(キリスト教の)神の義があるからと、
 隣国の人々を殺戮してまでして「奪う事を是認する宗教」
 に洗脳されて、アメリカ合衆国と同じことをやっていた。
  カナダは、特に、「バッファロー狩り」で、食糧を奪
 う方法で、カナダ・インディアンの方々を絶滅させてい
 た。
  特に、アメリカ合衆国より寒冷の地・カナダでは、こ
 の攻撃方法は、たまらなかっただろう。
  このカナダの、特に、悲惨な事は、生き残りの方々が
 居ないことだ。
  また、完全に、その事実が覆い隠されている事だ。
  この悲惨な行為をしたという事を懺悔して、すべての
 事実を、すべての史実を、世界へ公表して、懺悔し尽く
 すべきだ!
  また、国の半分を返還して、完全絶滅させた「カナダ・
 インディアンの方々」を祈念すべきだ。
  (参考)血は争えない:この「血」は、『血統』(先
     祖から代々受け継がれてきた血のつながり、血
     すじ)を意味する。
      そこから、血=親、先祖を意味し、
      「子は、親と同じ道を歩むものが多い」とい
     うことを表している。
.
紀元前800年、ギリシャに、「民主主義が発祥した」と言う
 が・・、
  今・現代、民主主義が発祥した当時の民族とは、まっ
 たく違った民族となっている。
  その様なギリシャが、今、その様なことを言えるのだ
 ろうか?
  「かつて、民主主義を発祥させたギリシャに住んだ『
 かつてのギリシャ民族』とは違う・・今・現代のギリシ
 ャ人」とは言える。
  だから、それを言うなら、但し書きを付けて言わねば
 ならない。
  日本だって、今の様な移民政策をしていたら、この素
 晴らしい遺伝子を持つ日本民族とは違う日本民族となる
 であろう。
  素晴らしい素質と業績を持つ今の日本人は、消えて無
 くなってしまっているだろう。
  ギリシャは、紀元前800年に、民主主義を発祥させたが、
  紀元前2世紀に、ローマ帝国に組み込まれ、国柄ががら
 りと変わった・・風土もがらりと変わった。
  また、15世紀には、オスマン帝国に駆逐された。
  1829年に、ギリシャは、2600年間以上もの空白の期間
 を経て、やっと、ギリシャという国としての再興がなさ
 れた。
  ・・が、しかし、かつての、アテネはないと言って良
 い状態となっていた。
  荒れ果てて、人口もほとんど居なくなっていた。
  ほんのわずかな数・・4千人程度を数える程度だった。
  そして、この時、ギリシャ人ではなく、ドイツ王子が
 ギリシャ王となった。
  この様な歴史のギリシャには、スラブ民族が流入した。
  そして、アラブ民族が流入した。
  そして、さらに、ラテン民族が流入した。
  色々な民族が流入して、移民と言えば移民かもしれな
 いが、まったく栄光のギリシャは、何処に引き継がれた
 のか?と問えば、探しても見つからない様な状態となっ
 ていた。
  陸続きであって、民族の単一性が保たれたなんて、完
 全に言えない状態となっている。
  ギリシャの地域に居る古代とまったく違った「ギリシ
 ャ人と名のる人々」となった。
  日本もこの様になるのだろうか?
  アメリカだって、すでに、「ピルグリム・ファーザー
 ズの人々」とは、まったく違った人々が、国民となって
 しまっている。
  (参考)ピルグリム・ファーザーズ:アメリカに渡っ
     たイギリスのピューリタン(清教徒)たち。
.
16世紀~18世紀、フランスは、アンシャン=レジームの社
 会・政治体制だった。
  国民は、三つの身分に大別されていた。
  第一身分がキリスト教聖職者で、この層が最上位で虐
 げていた。
  そして、第二身分が貴族、第三身分に市民や農民が居
 た。
  キリスト教聖職者は免税特権を持っていた。
  この状態を風刺した絵が残っているが、「市民の上に
 石を乗せて押しつぶし、その石の上にキリスト教聖職者
 と貴族が乗っている」。
  社会のうまい汁を吸うキリスト教聖職者と貴族を糾弾
 している。
  市民や農民は、手足をばたつかせて喘(あえ)ぐ社会
 だった。
  アンシャン=レジーム・・旧体制。
  この圧迫がフランス革命の素地(そじ、もととなるも
 の)・・
.
17世紀後半~18世紀初頭、元禄文化
  日本の社会も安定し、農村における商品作物の発展と、
 それを基盤として都市町人の豊かなる台頭による産業の
 発展があり、経済活動が活発化していた。
  その様な社会の中で、文芸、学問、芸術が著しく発展
 した。
  庶民の生活・心情・思想などが、出版物や劇場を通じ
 て表現されていた。
  小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左
 衛門、絵画の尾形光琳や菱川師宣、工芸の尾形乾山、儒
 学の貝原益軒や新井白石、古学の山鹿素行や荻生徂徠、
 国学の賀茂真淵などは、日本の歴史上、凛然と輝く存在
 となっている。
  日本の施政者は、国民が豊かに安心して暮らせれば、
 国全体が栄えるという事を知っていた。
  また、天皇陛下の御役目は、国民が平和に暮らせるよ
 うにと祈る事だった。
  日本人は、古来より「殿様も農民も、一つの船に乗り
 込む」という人たちだった。
  日本には、古来より自然発生的な民主主義があり、何
 もヨーロッパに教えられたというものではなかった。
  この様な日本、この様な徳川の治世、古い昔からの日
 本の状態を、ヨーロッパからみれば「まったく信じられ
 ない」と感嘆の声を上げるに違いない。
  日本は平和で豊かな国だった。
  ヨーロッパのフランス革命のような、虐(しいた)げ
 られる農民の方々が、特権階級の貴族やキリスト教会に
 対して、武力によって革命を起こしたのとは、まったく
 違っている社会だった。
  ヨーロッパは、上の者が下の者を徹底的に蔑(さげす)
 み、下の者が上の者を徹底的に恨(うら)み憎(にく)
 む構造だった。
  革命では、長年(ながねん)鬱積(うっせき)したそ
 の憎しみからギロチンの嵐となった。
  日本は、何千年も持っていた「同じ船に乗っている」
 という感覚の社会だった。
.
17世紀末、ロシアが、カムチャッカ半島まで来た。
  ロシアは、生活することが難しいこの地・極寒の地で、
 生活する食糧などの生活必需品を求め、1792年に、ロシ
 アの最初の使節であるラックスマンが、日本へ派遣され、
 江戸幕府に通商を求めた。
  江戸幕府は、これを拒絶した。
  すると、ロシアは、日本人が居住して日本領となって
 いる樺太(サハリン)や、択捉島(エトロフ島)の日本
 の拠点を襲撃した。
  幕府は、松前藩に、北海道東部(東蝦夷)も管轄地(
 直轄地)として与え、ロシアに備えさせる国防任務をさ
 せた。
.
1786年、最上徳内が、日本の領土である国後島・択捉島を
 探検した。
  また、その北の得撫島(うるっぷとう)も探検し、日
 本の領土と主張し得る足跡を残した(~1799年)
  日本固有の領土の北方4島と得撫島が、この時、確定
 された。
.
1789年7月14日、フランス革命
  この日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機として、フラ
 ンス全土に騒乱が発生した。
  このフランス革命で60万人もの方々が命を落とした。
  圧迫される民衆が、止むに止まれず起こしたフランス
 革命のバスティーユ襲撃。
  (参考)止むに止まれぬ:やめようとしても、やめら
     れない。そうするよりほかない。
  フランス革命が起きる前の社会情勢は『卑劣な最悪社
 会』だった。
  特に、権力を得たキリスト教聖職者が民衆を圧迫して
 いた。
  市民革命のフランス革命は、起きるべくして起きたの
 だった。
  農産物の不作もあって物価は高騰し、庶民の不満は頂
 点に達していた。
  1789年10月5日、パリの数千の女性方が武器を持って雨
 の中を、パリ市役所前の広場に集まった。
  そして、ヴェルサイユ宮殿に乱入し、国王と議会に、
 食糧を要求した。
  一部は暴徒と化し、ルイ16世は、この圧力により人権
 宣言を承認して、女性たちに連れられてパリのテュイル
 リー宮殿に家族と共に移り住んだ。
  ルイ16世一家は、これ以降、パリ市民に監視下で暮ら
 した。
  この様な市民の爆発が起きる原因、その圧迫の原因者
 は、貴族とキリスト教聖職者にあった。
  特に、キリスト教聖職者は悪辣だった。
  革命勃発以後、キリスト教聖職者などの特権階級の多
 くが、国外逃亡をしなければならないくらいだった。
  特に、1792年5月~1794年10月まで、キリスト教は徹底
 的に攻撃された(キリスト教は弾圧と称しているが?)。
  また、革命勃発以来、キリスト教聖職者の追放と、キ
 リスト教会への憤懣が爆発し、破壊と略奪が続いた。
  この様な状態を引き起こしたキリスト教は、それまで、
 権力と金を欲しがって行動していた。
  信徒を増やしたり、信徒が欲しいなんて全く関係ない
 という状態だった。
  権力のあるものにすり寄り、自らも権力を得て行った。
  そして、世俗の王を越える地位さえ得た。
  「キリスト教の教会前の門にヒザまづいて許しを乞う
 王さえいた・・カノッサの屈辱(1077年1月)』
  キリスト教聖職者は、民衆の搾取に関して、貴族に決
 して劣らず悪辣だった。
  生活も王侯貴族並みの贅沢三昧な生活をしていた。
  また、愛人も王侯貴族なみの数の愛人を囲っていた。
  キリスト教に偏するNHKは、決してこの様な放送は
 しない・・日本を貶める放送ばかりをするNHKとなっ
 ている。
  キリスト教は、納税の義務からも逃れていた。
  しかし、逆に、民衆からは、苛酷に税金を奪い獲った。
  18世紀後半、フランス革命の前の頃、キリスト教聖職
 者は、莫大な教会税を民衆に課していた。
  民衆は8割が農民だった。
  この農民が、貴族とキリスト教会を支えていた。
  民衆は、重い年貢の他に、地代、塩税、人頭税、賦役
 労働、水車使用料・竈(かまど)使用料などを支払わさ
 れた。
  裁判権も奪われ(キリスト教裁判所)好き勝手、やり
 たい放題に虐げていた。
、 フランス革命は、起きるべくして起きた。
  民衆は爆発した・・だから、フランス革命は残虐な復
 讐劇を演じた・・公開のギロチン刑の嵐が現出した。
  その後も、反乱が起き、恐怖政治が起き、大量殺戮が
 起き、キリスト教と貴族の圧迫の反動は「まったく卑劣
 な状況」となった。
.
18世紀後半、イギリスで綿糸をつくる紡績機や、綿糸で布
 を織る綿織物の分野で、早く大量に製品を製造できる機
 械が次々と発明された。
  また、石炭を燃料とする蒸気機関も改良され、紡績機
 や織機などの動力として用いられるようになった。
  人々は大きな工場に集められ、集団で働くようになっ
 た。
  生産量は飛躍的に増大した。
  人々も、かつての毛織物に代わって、インド産の木綿
 を原料にした綿織物の衣服を着た。
  かつては田園だった所に、黒い煙を吐き出す工場が立
 ち並ぶという都市が出現した。
  鉄道も発達し、工業を中心とする社会に変化して行っ
 た。
  19世紀半ばには、約50年遅れて、この生産システムが、
 フランス、ドイツ、アメリカに広がった。
.
1808年、間宮林蔵が、樺太全土をほとんど探検し、間宮海
 峡を渡って、大陸のアムール川流域まで探検した(~1809
 年)
  アングロ・サクソン風に言えば、樺太全土は日本の領
 土である。
  また、アムール川流域も日本の領土である。
.
19世紀末、李氏朝鮮(りしちょうせん)は1392年から1910
 年にかけて朝鮮半島に存在し、朝鮮王朝、朝鮮封建王朝
 と呼ばれた。
  1392年、高麗の武将・李成桂太祖(女真族と言われる)
 が恭譲王を廃して、自らが高麗王に即位した事で成立し
 た。
  朝鮮という国号は李成桂が、明の皇帝から下賜された。
  そして、1401年、明から冊封を受けた。
  17世紀以降、中国王朝が清に変わっても、引き続き冊
 封されていた。
  李氏朝鮮は貧しく、特に、末期の朝鮮半島は、大変貧
 しく、どうしようもない国だった。
  宗主国の清国と、ロシアと日本の間を右往左往した。
  そして、結局、日本に併合を求めて来た。
  改革開明派は、特に強く日本に期待し、求めた。
  日本は、国際条約に基づき、保護国として併合を行な
 った。
  国際社会は、至極当然のようにして何も言わなかった。
  アメリカやイギリスの様に武力によって併合したので
 はない。
  また、日本は、アメリカやイギリスの様な収奪はしな
 かった。
  資本を投下して、インフラの整備をして行った。
  また、あらゆる面の改善を行なった・・その結果、衛
 生環境も見違えるほど向上し、朝鮮半島の人口は『3倍
 になった』。
  また、捨てられ、忘れ去られていたハングル文字を復
 活させた・・また、普及させた・・
  今、ハングルが、韓国で便利に使われているのは、こ
 の時の日本の改善のお蔭。
  学校教育も充実させた・・学校をどんどん作った。
  朝鮮半島は、中国の宗主国の習慣におもねってハング
 ル文字を忌避し、漢字を使っていたが、日本がハングル
 を使いやすく合理的だと復活させた。
  清の冊封体制へのごま摺り体質を変えた。
  アメリカは、可哀想に、フィリピンを強引に異国の言
 葉・英語化したが・・、
  日本は、納得の上で、韓国・朝鮮に存在したもので、
 この様に改善した、今、韓国は、そのハングルが無けれ
 ばやっていけない社会となった。
  これは福沢諭吉の卓見だった・・
  諭吉のハングルと漢字の「漢字かな混じり」は優れた
 提案だった。
  この効果があり、朝鮮半島の教育は、急速に普及した。
  識字率は飛躍的に高くなった。
  近代化への路も急速に進んだ。
  この様な事を知っている東南アジアの国々は、韓国と
 違って、日本に本当に『期待した』。
  正しい行為は理解されている。
  この様な日本の『自立した独立国家としての形』を待
 望している。
  正しい日本の行為は、今、日本の財産となっている。
.
2016年、放送大学は嘘を教える。
  この様な講座なら聞かない方が良い。
  例えば1例、アメリカ合衆国のバッファローは乱獲され
 て絶滅寸前まで行ったと教えたが、これは嘘。
  正しくない。
  正しくは、先住民の方たちの絶滅を計画して、この目
 的のために、インディアンの方たちが食糧としていたバ
 ッファローを狩り続けた。
  その目的だけの為に、ひたすらバッファロー(アメリ
 カ野牛)を殺した。
  アメリカ・インディアンの方たちが、自分たちの生き
 る糧だから、大切に狩りをして来た大切なバッファロー
 を、無意味に、ただアメリカ・インディアンの方たちを
 絶滅させたいと、アメリカはバッファロー狩りをした。
  その写真が残っている。
  バッファローが無意味に大量に殺され、アメリカ西部
 の野原に山と無残に積まれている・・という写真がある。
  そして、そのバッファローの山の上に、アメリカ人(
 白人)が誇らしげに立っている。
  しかし、放送大学はこの事にまったく触れない。
  真実を放送しない。
  わざわざ日本国民の電波を使って「嘘講義をしている」。
  誤認混同を起こす嘘講義をやっている。
.
2018年、もはやEUという国は、いや、EUという地域は、
 国境線の内に閉じこもる地域と化した・・国々と化した。
  EUは、理想を掲げたが、どこかで道を誤った。
  今は、広がったEUの国境線の内に閉じこもる「理念
 とはまるで違った国・加盟国らの姿になった」。
  グローバリズムは終わった。
.
2018年、日本に来て、日本の国籍をとっても、日本に来る
 前の国の国柄を持っていて、前に居たた国の国柄を壊し
 たくないと、前の国の国柄を愛し、失いたくないとして
 いる、日本の国籍を取った日本人たち。
  日本の国柄を壊す、日本に来たこの人たち。
  韓国や中国から来た人に、この様な状態になっている
 人が多く居る。
  特に、最近、不気味なのは、日本人の様な顔をして、
 積極的に日本を壊す行動・実力行使をしていること。
.
2018年1月22日、「グローバル化にきしむ米国」と、この日
 の読売新聞は掲載している・・、
  「破綻するアメリカ」の著者・会田弘継氏(大学教授)
 が発言している。
  今、アメリカの中間層は、絶望感と疎外感を抱いてい
 るという。
  一部の富裕層のみの所得の伸びとなっている経済で、
 中間層は、置いてきぼりというより、貧困層に次々と脱
 落している・・と・・、
  そして、この層は、グローバリズムの要請である多文
 化主義などが「押し付けられている」と反発を感じてい
 る・・と・・、
  そして、グローバル化が、先進国の中間層以下を根源
 的に苦しめる構造になっている・・と・・、
  そして、これが、もはや一国では解きがたい難問とな
 っている・・と・・、
  近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
 限界に達している・・と・・、
  国家や民主主義を動かしてきた近代の制度が崩れ、バ
 ラバラとなる遠心力が働いていて、違いばかりが強調さ
 れている・・と・・、
  深い構造的な変化が起きて、巨大な精神的破綻が起き
 つつある・・と・・、
  グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義
 や資本主義が、レールを踏み外している・・と・・、
  日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う
 問題が必ず、何らかの形で噴出する・・と・・、
  所得の分布割合などを見れば、日本もすでに、20世紀
 前半(後退した)水準に近づきつつあり、庶民の怒りが
 暴動(日比谷焼き打ち事件の様な)に転化しうる可能性
 は十分にある・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年2月3日、日比谷練兵場跡地を日比谷公園とする旨、
 東京市が告示した(1903年に開園)
1893年2月5日、大村益次郎の銅像の除幕式が、靖國神社で
 行われた。
  日本初の西洋式銅像の序幕だった。
1893年2月6日、鉄道会議が、北越線の直江津~新潟~新発
 田間、
  山陰山陽連絡線の姫路~鳥取~境間、
  舞鶴線の京都~舞鶴間、
  和歌山線の高田~五条~和歌山間、
  中央線の八王子~諏訪~西筑摩郡経由名古屋間の線路
 を答申した。
1893年2月9日、パナマ運河疑獄で、フェルディナン・ド・
 レセップスらが有罪判決を受けた。
  F・レセップスはスエズ運河の成功で、国民的英雄だ
 った。
  このF・レセップスが、1880年に創設したパナマ運河
 会社は、パナマ運河建設に着手したが、設計上の誤りや、
 黄熱病や、雨期の氾濫などのために、工事が進まず、ま
 た、経理が乱脈であったため、数年後に資金が欠乏した。
  F・レセップスは、富籤(とみくじ)を認める新法律を
 制定することを政府筋に要望し、議会は、1888年6月に、
 この法律案を可決した。
  しかし、翌年・1889年2月、この会社は、多数の小株主
 の金を吸上げたまま行きづまり、破産した。
  これを隠そうとして、新聞や議会を買収、6億フランの
 社債を募集する立法を通過させた。
  しかし、1892年の秋、右翼の反ユダヤ人主義新聞『自
 由言論』によって、ユダヤ人の金融資本家 J.レイナック
 らが、パナマ会社と政府、大新聞の間に入って総額500万
 フランを贈賄したことが暴露された。
  贈賄工作に直接関わったのは、財務顧問のジャック・
 ド・レーナック男爵と、コルネリウス・エルツで、
  レーナックは右派を、エルツは急進派を担当していた。
  しかし、2人の対立から、レーナックは、贈賄先リスト
 を反ユダヤの新聞『ラ・リーブル・パロール』紙に持ち
 込んで事件発覚のきっかけを作ったのだった。
  調査の結果、100名以上の議員が連座する収賄事実が判
 明した。
  翌年・1893年の公判で、前土木相と会社重役が有罪判
 決を受けたが、他の容疑者は政治的配慮から不処分とな
 った。
  レセップスは精神錯乱の末1894年に病死した。
  レイナックは死体(自殺)で発見され、
  レイナックをゆすっていたもう1人のユダヤ人銀行家
 のC.ヘルツは、イギリスに逃亡した。
  政府もこの事実を認め、大スキャンダルとなったが、
 自殺者1名と数名の実力者が有罪になっただけで、もみ消
 された。
  急進社会党の党首 G.クレマンソーまでが連座して、政
 界を退き、第三共和政は右傾化して行った。
1893年2月9日、ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」が、
 ミラノのスカラ座で初演し、大成功だった。
  原作は、シェークスピアの『ヘンリー4世』と『ウィン
 ザーの陽気な女房たち』
  内容は・・、
  放蕩(ほうとう)で大酒飲みの老騎士ファルスタッフに
 恋文を渡された二人の女性(フォード夫人とページ夫人)
 が、お互いの恋文が同じ文面であることに気付き、女性
 たちが示し合わせ、機知を働かせてファルスタッフを懲
 らしめるという物語。
  その合間には、フォードの娘ナネッタと青年紳士フェ
 ントンの恋物語もあり、最後はファルスタッフが降参し、
 ナネッタの恋も成就してめでたく幕となる。
  老騎士フォルスタッフとウィンザーの町の人々の愉快
 な人間関係を軽妙に描き、とくに、生気あふれる人物描
 写のみごとさは比類ない喜劇となっている。
1893年2月10日、 「建艦之詔勅」
  軍艦建造費をめぐり政府と議会の対立ははげしく、2月
 10日詔勅が出されるに至り、解決した。
  帝国議会が、軍備削減を可決したため、内廷費の下付
 と官吏俸給の一割納付で、軍備を拡張することが詔勅に
 よって決まった。
  (建艦費補充は、官吏の俸給の1割納付と内廷費30万円
 ずつを6年間下付による)
  衆議院、政府弾劾奏上を議決。
  伊藤首相は勅諚によってこれを回避した。
1893年2月11日、筑豊興業鉄道の直方~金田間が開通した。
1893年2月15日、線路取調委員を廃し、線路調査掛を設置し
 た。
1893年2月23日、ルドルフ・ディーゼルがディーゼル機関の
 特許を取得した。
  ルドルフ・ディーゼルは、ドイツ人(生まれはフラン
 ス・パリ)で、幼少時代をフランスで過ごすが、普仏戦
 争で、一家はフランスから退去させられた。
  一家はロンドンに移住し、ディーゼルは、母国ドイツ
 に移り工業を学ぶ道を選択した。
  1880年に、ミュンヘン工科大学を主席で卒業した。
  この後、ディーゼルは、パリに戻り、製氷工場の設計・
 建設を手がける。
  ディーゼルは、フランス語とドイツ語両方に堪能で、
 両国から技術特許を取得することができた。
  このことは、単に、仕事上の利点だけでなく、両国の
 技術を同時に学べるという利点がディーゼルにあった。
  ディーゼルは、冷凍の仕事の関係上、熱効率の向上を
 目指していた。
  この頃のエンジンは蒸気機関のみで、水を沸騰させた
 水蒸気でピストンを動かすという蒸気機関の仕組みを改
 良しようとした。
  そして、水より沸点が低いアンモニアに着目した。
  そして、アンモニアを使った蒸気機関を開発した。
  しかし、試運転で爆発事故を起こしディーゼルは重傷
 を負った。
  この事故で、ディーゼルは既存の蒸気機関の改良では
 なく、新たな動力機関を開発したいとした。
  種々、努力の結果、1893年、新たな内燃機関の論文・
 「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の
 理論と構築」を発表した。
  そして、この年、これによって特許を取得し、ディー
 ゼルエンジンの理論的な基礎を築いた。
  彼の研究は、ドイツの企業人の後援を得て改良され、
 1900年に、パリ万博に開発された内燃機関を出展した。
1893年2月25日、大石正巳在朝鮮日本公使が、朝鮮政府に対
 して防穀令における日本商人の損害賠償を請求した。
  日韓通商章程に基づく輸出禁止令であったが、担当地
 方官の手落ちで予告期間が短く不足していた。
  この問題は紛糾し、日本商人は、14万7000円の損害要
 求を出した。
  伊藤博文が清の李鴻章に斡旋を依頼して、これによっ
 て1893年年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結し
 た。
1893年2月28日、山陽鉄道の旅客運賃率が、上等は下等の2
 倍、中等は下等の1.5倍とすることで認可された(3月21日
 実施)
1893年2月、三友銀行のが廃業した。
1893年3月3日、日本体育大学の前身、日本体育会体操練習
 所の設立が認可された。
  設立当初は、体育(体操)教員養成を企図していたわ
 けではなかった。
  ただ、国民の体位、体力の向上を図るために「国民体
 育の振興」を目指した。
  これは、会員制の体育クラブで、現在のスポーツクラ
 ブやフィットネスクラブのようなものだった。
  しかし、国民一般の理解を得られなかった。
  民間体育(社会体育)の振興だけではなく、学校とい
 う窓口を通して事業の展開を行うという方針となった。
1893年3月4日、弁護士法が公布して、これにより代言人制
 度は廃止となる。
  日本の弁護士制度は、明治となって近代的司法制度が
 導入され、それとともに誕生した。
  その名称は代言人(だいげんにん)と言い、その地位
 は決して高いとは言えなかった。
  しっかりした資格制度も存在していなくて、悪質な者
 も居た。
  この年・1893年になって、近代的な「弁護士法」が制
 定され、初めて「弁護士」という名称も使われる様にな
 った。
  この頃の弁護士は司法省(検事正)の監督の下におか
 れ、その独占業務も法廷活動も限られていた。
  また、弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、
 試験制度も異なっていた。
  この様な状態は、1936年の法改正まで待たねばならな
 かった。
  また、1949年の新しい弁護士法が制定されて、国家権
 力からの独立性も認められた。
  そして、この年、日本弁護士連合会が結成され、司法
 試験によって裁判官、検察官、弁護士を一元的に選ぶこ
 ととなった。
  (史料)弁護士法(1893年)
  朕帝国議会の協賛を経たる弁護士法を裁可し茲に之を
 裁可せしむ
  御名御璽
  明治26年3月3日
             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
             司法大臣   伯爵山縣有明
  法律第7号 弁護士法
  第1章 弁護士の資格及職務
  第1条 弁護士は当事者の委任を受け、又は裁判所の命
     令に従い通常裁判所に於て法律に定めたる職務
     を行うものとす。但し、特別法に因り特別裁判
     所に於て其の職務を行うことを妨げず。
  第2条 弁護士たらんと欲する者は左の条件を具ふるこ
     とを要す。
   第一 日本臣民にして民法上の能力を有する成年
      以上の男子たること
   第二 弁護士試験規則に依り試験に及第したること
                    (以下略)
.
  (今日の言葉)
.
  題:人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・
    そこに蒸発した広島の人が居たことだけがことづけられた・・
.
18世紀初め、日本の経済活動は活発だった・・江戸の人口
 は100万人を超え、世界一の人口だった。
  鉱業の、佐渡(新潟県)の金山や生野(いくの、兵庫
 県)の銀山、足尾(栃木県)の銅山が開発された。
  生産された金・銀・銅からは貨幣が造られ、全国に流
 通したほか、ヨーロッパに輸出された。
  その他、酒造、漆器(しっき)、陶器、鋳物などの産
 業も発達し、各地で特産品がつくられるようになった。
  江戸幕府は、江戸を中心とする東海道などの五街道を
 整備し、宿場を設けた。
  関所を置いて、人々の通行を管理し、また、手紙を運
 ぶ飛脚制度を作り、交通・通信の便宜をはかった。
  将軍の所在地となった江戸は、「将軍のおひざもと」
 と呼ばれ、商人や職人が多数集まり、18世紀の初めには
 人口100万人を超えた。
  当時、世界最大の都市となった。
  大阪は、米、木綿、醤油(しょうゆ)、酒などの様々
 な物産の集散地となり、「天下の台所」と呼ばれて栄え
 た。
  各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却
 を商人に依頼した。
  集められた物産の多くは、菱垣廻船(ひがきかいせん)
 や樽廻船によって江戸に運ばれた。
  京都は、朝廷が所在する文化の都として、また、西陣
 織や漆器・武具・蒔絵(まきえ)など高級な工芸品を生
 産する手工業都市として栄えた。
  江戸、大阪、京都は、合わせて三都(さんと)と呼ば
 れた。
  この他にも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それ
 ぞれの地域の特性と伝統を生かして発展した。
  この17世紀末のパリの人口は56万人、18世紀中頃のロ
 ンドンは60万人だった。
  また、日本の金・銀は、この頃のヨーロッパの経済に
 影響を与えるほどだった。
  また、この頃は、西日本の方が、農業や諸産業が発達
 していた。
.
1700年、江戸時代には、「ゆい」とか「もやい」とかの様々
 な相互扶助・助け合いの慣行があった。
  「ゆい」は、田植えなどで互いに力を貸し合うことで、
  「もやい」は、村で共同作業をして、利益を分け合う
 ことだった。
  また、没落した農家を協力して救い、再興する事もし
 ていた。
.
1901年、アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」は、
 驚きの目をもって日本の行政を報道した。
  「台湾統治を、日本は、奇跡的に成功させました」と
 報じた。
  中国(清国)からも「化外の地」として『関係ないよ』
 と見放されていた台湾を、毛嫌いされていた未開の地を、
 日本は、『瞬く間(またたくのま)に文明化した」と報
 じた。
  台湾は、オランダが統治した時もあったが、日本の様
 なこと・・行政は出来なかった。
  オランダは、インドネシアを数百年に渡って植民地に
 して、「うまい汁を吸って来た」が・・、
  インドネシアの方々から「苛酷(かこく)な搾取」を
 するばかりだった。
  この台湾の日本のような統治は、まったくと言ってし
 てなかった。
  このような発想・考え方は出来なかった。
  キリスト教は「隣国の富を奪うように教えている」が、
 この様な搾取の考え方に洗脳されていた。
  植民地は、収奪する地としか見ていなかった・・見れ
 なかった。
  日本は、第一次世界大戦などの戦争の後に、領土が割
 譲された場合でも、そこを搾取の対照とは見なかった。
  日本は、第一級の人材を派遣して、いかに文化的に豊
 かになってもらうか・・共に豊かになれるかを考えた。
  「より文明的な生活をしてもらうか」という事を第一
 義的に考えた。
  だから、学校の整備をした、そして、インフラの設置
 から始めた。
  電気を引いた・・水道を引いた・・鉄道を走らせた。
  道路を作った・・山に木を植えた・・などなど・・ダ
 ムも造った・・、
  日本は、まったく搾取の対象としていなかった。
  学校教育には、特に、基本だと力を入れて充実させた。
  日本の内地以上の国立大学まで作った。
  アメリカやヨーロッパの植民地では、まったく想像で
 きない様な、「このような事をした」。
  アメリカやヨーロッパは、自分たちだけに都合の良い
 形になることを優先した・・英語化したり、自分に都合
 よいことをした。
  また、インドは、可哀想な支配のされ方を、イギリス
 からされた。
  イギリスのインド支配は酷かった。
  搾取する対象としか見ない以上に、また、奴隷以下の
 扱いをした・・また、命を取った・・奪った。
  並木道にインドの方々が首つりにされて、その並木道
 のどの木にも、その様に木に吊るされたインドの方々が、
 いつまでも吊るされるという考えられない悪辣さだった。
.
1910年9月30日、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が、
 設置された。
  この朝鮮総督府は、第二次世界大戦の終了後も廃止さ
 れる事なく続けられた・・それが都合よいと続けられた。
  日本の敗戦にともなう連合国の指示によって業務を停
 止する通達があるものとしていた・・
  そして、政務総監・遠藤柳作によって、呂運亨らに独
 立に向けて朝鮮建国準備委員会の組織化の打診があった。
  しかし、この朝鮮総督府の行政は、その後も継続され
 た。
  行政権限が、北緯38度線以南の占領行政機関となった
 時になってアメリカ軍政庁へ引き継がれた。
  「日韓併合」の本にも書いてあるが、総督府時代の35
 年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足は、1428
 万円に上った。
  そればかりではなく、日本は、温かく韓国・朝鮮半島
 を支援していた。
  例えば1例だが・・司法と警察分野などに、日本政府が
 直接支出した金額は、立替金の数倍の9000万円以上があ
 る。
  現在の朝鮮・韓国の歴史では、この『日本の特別な特
 恵的支援』には一言も言及が無く、ふれていない、勿論、
 感謝の言葉もない・・ただ、侵略だけを強調している。
  これが如何に偏狭な史観であるかを、韓国は自覚しな
 ければならない・・
  その様にしなければ、将来は開けないことを韓国・朝
 鮮は知らなければならない。
  1910年8月29日には、明治天皇陛下から臨時恩賜金とし
 て3000万円が与えられた。
  日本は、何かと、色々と、韓国・朝鮮に温かく接して
 いた。
  また、韓国・朝鮮が、日本政府から借用していた2651
 万円も、日本の温情・優しさから、特に、言及しない状
 態にされた。
  しかし、2017年の韓国の発言などの状況を見ると、日
 本国民の納得に十分な所が得られ無い状況なので、以上
 のことは、改めて韓国の感謝の言葉が心からないならば、
 そっくり返金して戴くこととする方向へと行くべきだ。
  (この最後の卑劣な言い方は、韓国大統領の言い方を
  真似ているのだ)
.
1918年、ロシアに革命が起きている頃、ある日本人が、こ
 の革命の地に居た・・ロシアのシベリアの地に・・そし
 て、この革命を見ていた。
  その時、不安定な世情に、民心は揺れていた。
  「各地のコサック、及び、将校団は、日本軍の援助を
 熱望していたが、教育家、宗教家は、有色人種の後援を
 厭い(いとい、嫌って避ける)、米英などの白人の援助
 を願いつつあった」と。
.
1943年10月21日、東京で「出陣学徒の壮行会」が行われた。
  ある学徒出陣の一学生が書き残した・・、
  「大東亜の建設、日本の隆昌を願って、それを信じて
 死んでいく」・・と・・、
  (参考)隆昌:りゅうしょう、盛んなこと。栄えるこ
     と。隆盛。
  結果的に、アジアの諸国は、植民地収奪の社会から
 解放されて、独立し、自分で努力して得たものは、横取
 りされず、収奪されずに、自分のものとすることが出来
 るという、当然の社会が実現され、到来した。
  そして、「20世紀はアジアの時代」という時代が到来
 した。
  そして、21世紀は、それにさらにまして、輝かしく発
 展するアジアの国々で、アジアは、あちこちでキラキラ
 と輝きだしている。
  日本も、おかげさまで、平和を享受できる国になって
 います。
  あなた方の学徒出陣、若くして散ったあなた方の命は
 報われています。
  アジアの繁栄を開かせて戴いた・・その礎(いしずえ)
 となっておられます。
.
1945年5月27日、松岡金平(まつおかきんぺい)、ミャン
 マー(ビルマ)のモールメイン市街にて戦死・・陸軍少
 佐。21歳。
  1923年8月10日生まれ、富山県出身、静岡高等学校を経
 て、1943年10月東京帝国大学経済学部に入学。
  1943年12月1日、富山市東部第四十八部隊入営。
  松岡金平氏・陸軍少佐の遺言:・・、
  死の解決は一つ、自分の信ずるところに、満足して死
 ぬことである。
  それは自分の場合には、新たなる日本の建設、新しき
 大東亜の建設である。
  新しきものの建設、より偉大なるものの創造、これこ
 そ自分の生命を宿すに足るものである。
  自分のつたなき生命が、偉大なる日本とともに、新し
 き大東亜と共に生きて行くのだと信ずるなら、喜んで死
 んでゆける。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカは日本の広島市の人々
 の上に原爆を投下した。
  多くの方々が殺されたと言うより、「蒸発してしまっ
 た」。
  私の知人は、お母さんの指輪だけが台所に残されてい
 た・・と・・漏らした・・
  外したことのないお母さんの結婚指輪が、お母さんの
 骨も何もなく、ただ、台所の跡で見つかった・・と言わ
 れた。
  蒸発した方々を含めて、2ヶ月~4か月以内に16万6000
 人の方々が亡くなった。
  えいえいと築いてきた、そして、継続して来た「広島
 の歴史」、「家族の何もかも」が空気となった。
  すべてが消えた・・そして、長崎が・・蒸発させられ
 た・・女性の方々も、子供たちも・・すべてが蒸発させ
 られた。
  人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・そ
 こに蒸発した広島の人が居た。
  表通りのパン屋さんの歴史も蒸発した・・裏通りの本
 屋さんも、そして、横町のおばさん方のおしゃべりも、
 なにもかもが・・蒸発させられた・・跡形もなくなった・・
 1000年も、2000年も続いてきた営みのすべてが・・痕跡
 を残さず消えて無くなってしまった。
.
1945年8月6日、キリスト教国のアメリカという国は、「赦
 すということが大切だ」と言う・・
  ならば・・「赦すという事が大切だ」というなら・・、
 「原爆を落とす前に、広島の方々や、長崎の方々を赦し
 てもらいたかった」・・、
  「真珠湾の奇襲をしたから、当然だ」の言い方は『当
 然ではない』・・奇襲ではない・・アメリカは知ってい
 たではないか・・
  ましてや、「戦争を作ったのはアメリカ」・・ルーズ
 ベルト・アメリカ大統領も言っているように・・ルーズ
 ベルトは、はっきり、第二次世界大戦がはじまった時、
 「戦争を作った」と言った。
  彼の策略で、第二次世界大戦が始まったことは、歴史
 が証言している・・示している。
.
1945年、20世紀はアジアの世紀と言われるが、この年から、
 「アジアの繁栄の世紀」が始まった。
  「きけ、わたつみのこえ」の本で、「大東亜の建設」
 の注釈に、「日本を盟主に、アジア諸国の繁栄をはかる
 構想」とある。
  日本は、何と言われようと、この戦争の後に、アジア
 の方々が、アジアの各国は・・独立したのだ。
  これは、歴史の事実だ。
  イギリス・アメリカなどの欧米列強国から独立したの
 だ。
  それまでは、列強各国は、アジア諸国を植民地として、
 やっている事と言えば「利益の収奪」しかやってない。
  「(キリスト教の)神の義がある」と、自分勝手な「
 免罪符をデッチアゲテ」、自分たちは何でもやっていい
 のだと、自分の利になる事だけをしていた。
  植民地にされたアジア諸国の方々が苦しもうが、その
 痛さを感じず、ただただ、自分たちだけに利益が舞い込
 む事だけに邁進(まいしん)していた。
  何と言われようが、事実が・・アジアの国々の方々は
 もだえ苦しんでいた・・その様なアジアの国の方々は、
 解放されて、自由になれて、独立して、自分たちで稼い
 だものは、横取りされずに自分たちのものになり、当然
 のこと、自分たちの努力で自分たちの「幸せが享受でき
 るようになった」。
  これからは、「アジアの世紀だ」と言われるような時
 代を作った・・ますます、その様になって来ている。
.
1946年5月3日、東京裁判が開廷した。
  戦後、アメリカは、「すでにあった国際法」で裁かれ
 ずにいる・・一般市民の殺戮(広島・長崎の原爆投下や
 東京大空襲などの都市へのじゅうたん爆撃)は、れっき
 とした国際法違反・・この「既存の国際法」で裁かれる
 べきを裁かれずにいる。
  そして、「国際法に無い法律」を、さも存在した様に
 (わざわざ自分好みに作って)日本を裁いた。
  こんなことが・・「正義だと言えるわけがない」
  戦後の不公正な裁判は「正義ではない」。
  ここで正義が実現しなければ、国と国の『真の和解』
 は難しい。
  法律がないのに、アメリカは、日本を裁いた事を謝罪
 せよ。
  アメリカは、事後法を作って(法律がないのに、事が
 起きた後に法律を作って、法違反していると裁く、まっ
 たく筋の通らないこと)日本を裁いた。
  逆に、その時に有った国際法を、アメリカは自国に適
 用しなかった。
  アメリカは、日本の一般市民を狙って大量殺戮をした。
  これは、既にあった、当時に有った国際法に違反して
 いたのにである。
  しかし、この罪については、アメリカ合衆国はホッカ
 ムリした。
  まったく卑怯な事を、アメリカはしている。
.
1960年、日本が、実質経済成長率が約13%という高い伸び
 を示した。
  この年以来、10年間の年平均の伸び率が、10%を超え
 るという高率となった。
  この頃から、1979年代の初め頃までを、高度成長期と
 呼ぶ。
.
1981年、ギリシャが、EC(欧州共同体)に加盟した。
  そして、よりグローバル化しようとユーロ(欧州連合
 における経済通貨同盟で用いられている通貨)が造られ
 たが、ギリシャは、このユーロに、2001年に加盟した。
  しかし、卑劣な事に、ギリシャは、巧みな粉飾をして
 誤魔化していた。
  EC側は、この時、一部が、この事に感づいていた。
  しかし、ギリシャは、ヨーロッパの祖であり、
  また、民主主義の本家であるギリシャを、ECに加え
 たいばかりに、見て見ぬふりをした・・これが、後々、
 EUの命取りとなる。
.
1993年、EC(欧州共同体)が、EU(欧州連合)になっ
 た。
  より高いレベルでヨーロッパは統合したいと、グロー
 バリズムの夢が広がった。
  しかし、今(2017年)、そのEUは、「絶望にさいな
 まれている」。
  ヨーロッパの民主主義の理想を作るという夢は、かな
 り色あせてしまった。
  その夢が壊れる切っ掛けとなったのが、皮肉にも民主
 主義の元祖のギリシャだった。
  ギリシャが、最悪の財政状態だということを隠したと
 いう嘘と、そのギリシャに対するドイツの高圧的な態度
 が嫌われ・・タガが外れた。
  ギリシャを救える国が、ドイツしかないというのも、
 ギリシャの程度を越えた最悪財政と共に、最悪だった。
  また、押し寄せる難民の問題があった。
  難民救済に対する理想的な事を言っていたドイツも、
 その方針も、絵に描いた餅と化した。
  グローバリズムも・・「苦労バリズム」と化した。
  また、2011年になって、EUのお荷物国・イタリアが、
 流れ着くアフリカからの難民の多さに悲鳴を上げた。
  この時、ドイツが言い放った・・、
  「イタリアに来た難民保護は、イタリアの義務だ」・・
  冷たく突き放した。
  EU各国は、「ドイツに、EUの連帯などと言われた
 くない」という気持ちとなった。
  今、EUの連帯は、「風前の灯火(ともしび)状態」
 にある。
.
2004年、2ユーロ記念硬貨・・ユーロ圏で使用できる法定通
 貨を決めた。
  ギリシャは、2ユーロ硬貨にギリシャ神話のエウロベを
 刻んだ(各国が自由にデザインできる)。
  エウロベは、ヨーロッパの元(もと)を作ったと言わ
 れている。
  ギリシャは、それにプライドを持っている。
  EUに入ったというのに、「ギリシャという『国のプ
 ライド』をEUに、やはり、持ち込んだ」。
  連合を作ったからと言ったって、家族が大切な様に、
 国も大切なのだ・・が現れた。
  家族の様に、国からも離れられないのが実態なのだ。
  頭で思っても、心まで変えられない・・それが人間。
.
2016年、個人投資家として有名なジョージ・ソロスが中国
 から逃げた。
  ユダヤ系アメリカ人の投資家・投機家で、「イングラ
 ンド銀行を潰した男」と言われる凄腕男。
  2006年に、著作の邦訳の出版に合わせて来日したソロ
 ス氏は、当時、国際的に話題になっていた靖国神社問題
 への関心から、靖国神社と遊就館を訪問した。
  そして、次のような事も言った・・、
  かつて日本は、「正常な国家」とはいかなるものかと
 いう新たな模範を、世界に指し、誇らかに宣言した。
  日本は、世界、及び、各地の主要な国際統治機関の支
 援、困窮はなはだしい地域に対して行ってきた感銘深い
 規模の援助と救済によって、恐怖を手段とするよりも信
 頼の構築を目ざす国際社会が正しいとして、鮮烈な指針・
 インスピレーションを示し、また、泉源となり、投資の
 対象となってきた。
.
2017年12月12日、慰安婦像でもめていたサンフランシスコ
 市長のリー氏(65歳)が急死した。
  リー氏は、12月11日、市内で買い物中に倒れ、12日に
 亡くなった。
  中国移民の両親の間にワシントン州で生まれた。
  2011年に、サンフランシスコ市で初のアジア系市長と
 して当選した。
  今、アメリカでは、不法移民が1100万人という。
  このとてつもない多数の不法状況に、アメリカ国内は
 不満の声が多くなっている。
  「職を奪われる」「治安が悪化する」などが理由。
  また、サンフランシスコ市は赤化(共産化)が完了し
 ていると言われている。
  中国共産党の働きかけが最終段階になっていると言わ
 れている。
  慰安婦問題には、陰で操っている中国の存在がある。
  その慰安婦像建立を承認したサンフランシスコ市長の
 エドウィン・M・リー市長の何故かの急死・・?
  また、以下のニュースがある・・、
  当然、韓国に、自国の「名折れだ」の声もある。
  (参考)名折れ:なおれ、名誉をきずつけられること。
     名をけがすこと。不名誉。
  【ソウル=ニューシス】イ・ヘウォン記者=
  アメリカで、韓国人売春婦店舗を運営した事業主とそ
 の一党が、韓・米警察の連係共助で大量に捕まった。
  ソウル警察庁国際犯罪捜査隊は、韓国人売春業者サイ
 トを作ってアメリカ広告サイトに掲載した疑惑(売春斡旋
 など行為に関する法律違反)で韓国系アメリカ人キム某
 (38歳)を逮捕し拘束したと19日明らかにした。
  犯行を共謀し加担したキムの母親ハム・某(63歳)種と
 ウェプティジャイノキム某(42歳)など一味3人と売春事業
 主5人、売春女性40人などが、アメリカ捜査局が現地で、
 現行犯逮捕し、検挙し捜査中となっている。
  警察は、キムは、2014年3月からこの4月13日まで、ア
 メリカ、ニューヨークとニュージャージー一帯の29の売
 春業者のサイトを作って、アメリカ・オンライン広告サ
 イトにあげた。
  キムは、アメリカ捜査機関の取り締まりを避けるため
 に国内サーバーでサイトを作ったりして、広報代でも多
 額な手数料を稼いでいた。
  キムは、月570万ウォンほどの収益を上し、儲けた金で
 外車などを買っていた。
  韓国に戻っているキムを除いた残り一党は、アメリカ
 捜査機関が立件し、捜査中であり、売春女性40人は国外
 送還を進めている。
  警察関係者は、「アメリカ警察との協調・協力を通じ
 て、キム一党の犯罪収益金を還収する一方、売春女性送
 出ブローカーに対しても捜査する方針」と話した。
  これに関連して・・今、世界中で韓国人売春婦が問題
 となっている。
  2004年になってやっと売春禁止法が制定された韓国。
  だが、施行10年目を迎えて海外へ行く売春婦が急増し
 ていることが明らかになった。
  すでに、2010年の時点で、外国で売春する韓国人女性
 は全世界で約10万人いるとみられ、国別では日本に約5
 万人、オーストラリアに約2500人、グアムには約250人が
 滞在している。
  また、アメリカで23.5%が韓国人売春婦というデータ
 ーで、国別で断然トップで1番多い。
  また、2017年10月28日、東京・鶯谷で、韓国からの売
 春婦の多さにデモ『朝鮮人売春婦追放デモ』が行われた。
  その他、この類のニュースは多数あり。
  韓国・朝鮮は、中国に冊封されて来た長い歴史があり、
 国を挙げて接待し、また、可哀想だが、女性方が、中国
 へすべてを投げ出してかしずくかねばならないという状
 況の中に長く置かれて来た。
  ある意味、この破廉恥な歴史を隠そうと中国は韓国へ
 金を出して、無実の日本を悪者にしていると言える。
  また、韓国自体にも「女衒(ぜげん)」に対する後ろ
 めたさがある。
  こんな事をしなければ、韓国経済が成り立たないとは?・・
 と、泣いた韓国高官の話もある。
  韓国の卑劣さに、こんな事を書かねばならないことを
 憂(うれ)える。
.
2017年12月25日、この日の読売新聞に、「中国の工作」に
 対して、「各国が警戒している」と報じた。
  中国による外国政界や世論への工作が活発化している
 ことが相次いで明らかになったという。
  その為、各国は警戒を強めているという。
  そして、これは、習近平政権の中国の国家による方針
 だという。
  習近平は、世界第二の経済力を背景にして、自国の中
 国に、有利な体制を作ろうとしているという。
  自国・中国に有利な政治行動をとってもらう国を増や
 したい・・
  国際秩序形成において、中国主導で動く体制を浸透さ
 せたい・・、
  オーストラリアで、その様な巧妙な工作が起きていた
 り・・、
  そこで、オーストラリアは、「海外からの献金を禁止
 する法案」を議会に提出した。
  野党議員が、中国から多額の献金を受け取っていて、
 そして、党の方針に反した「南シナ海問題における中国
 の領有権を支持した」。
  ニュージーランドでは、国会議員に中国出身者が居て、
 その議員が、「中国スパイとみられる行動をした」との
 疑惑が生まれた。
  シンガポールでは、中国系の大学院教授が、「シンガ
 ポール以外の情報機関と連携」して、シンガポールの「
 政策や世論を操作し影響を与えた」・・国外追放となる。
  この情報機関は中国だと見られている。
  中国には、れっきとした「外国での政治・世論工作を
 担う部署」がある・・それが、共産党中央統一戦線工作
 部(統戦部)。
  外交官となって、操作する対象国の政治家と関係を持
 ち、人脈とする・・また、有望な中国人と関係をもって、
 同じく人脈として利用するのが手口。
  最近は、SNSによる工作を活発化させている。
  ドイツでは、ドイツ情報当局が、SNSで引っ掛から
 ない様に、中国の諜報活動についての警告を出した。
  中国のスパイ機関が、偽の経歴で、2017年だけでも
 1万人以上のドイツ人との関係を持ち、政界や官界に賛
 同者・協力者を作っている・・と。
  アメリカは、この様な情報を持っていて、アメリカ上
 院が「中国の影響力が拡大」をテーマとして公聴会を開
 いた。
  アメリカ上院議員は、「中国の政策批判者を脅迫しよ
 うとしている」と警鐘を鳴らしている。
  第二次世界大戦前後のアメリカ大統領だったルーズベ
 ルトの側近に、うようよと共産主義者が居たことは有名。
  そのあまりの酷さにびっくりしたアメリカは、その後
 に、「赤狩り旋風が吹き荒れた」。
  昔から、中国は、年がら年中、こんなことを、やって
 いるのだ。
  この様な事例は、まだまだ一杯ある。
.
2017年、EUの崩壊の恐れ・・
  今、ヨーロッパで起きているのは、共産主義国・ソ連
 の崩壊にも匹敵する人類最大の社会実験が、ガラガラ崩
 れていく事態・グローバリズムの崩壊である。
  EU崩壊の恐れがある。
  その実験の置き土産は、過剰な難民・移民の流入と共
 に、「テロリストの流入」だった。
  同時に、「ドイツの理想主義」も崩壊した。
  やはり、人智を超えた未知部分があって、矛盾が生じ
 た。
  これは、日本も他山の石とは出来ない問題で・・、
  かつて、理想と希望にあふれてEUが誕生したのだが・・、
  それから20年、EUの危機・ユーロ危機の到来は早か
 った。
  ドイツは、ボロボロになってしまった。
  最大の原因者であり、その債務者であるギリシャは、
 債権者の「EU、IMF(国際通貨基金)、ECB(欧
 州中央銀行)」の要求を、「やり方が民主主義に反する」
 と非難までして背を向けている。
.
2018年1月26日、この日の読売新聞が、アメリカが「核戦力」
 をもっと使用しようと、核戦力の役割を「拡大しようと
 する方針だ」と報じた。
  今、アメリカは、「核戦力体制見直し(NPR)」で、
 「核兵器による抑止」の役割拡大を打ち出す方針を固め
 た。
  通常兵器での攻撃には、従来、通常兵器で応じるとし
 ていたが・・、
  「通常兵器への反撃にも、核による報復を排除しない
 戦略を掲げ、小型核の開発を盛り込む」と・・、
  また、日本などの同盟国に対する「核の傘」を万全に
 する方針も明記される見通しだ・・と。
  2月初旬に公表される予定。
  オバマ前政権は、「核兵器の役割を縮小」を明記した
 が、今回は大きな方針転換をした。
  今回は、北朝鮮による核・ミサイル開発や、中国やロ
 シアの軍拡などで、前回策定時から脅威が大幅に高まっ
 たとの認識を踏まえ、核抑止の強化路線を明確にした。
  「核以外によって住民や基幹施設への大規模な攻撃」
 の場合、核以外であっても・・基本戦略として、核によ
 る報復をすることが「あり得る」としている。
  核攻撃以外の攻撃であっても、核で報復する可能性を
 排除しないとした。
  敵国の主要都市に壊滅的打撃を与える戦略核兵器に比
 べて、爆発力を抑えた小型核兵器の検討を盛り込む。
  敵国の基地や中枢施設の破壊を狙うときに使用するこ
 とが想定されている。
  また、読売新聞は、核使用のハードルが下がったり、
 核開発の競争が激化することの恐れを指摘している。
  今、アメリカは攻撃される可能性が高まっているが、
 その様な中でも、同盟国に対しても核兵器による「核の
 傘」を含む拡大抑止を確実に提供し続ける方針を明記す
 る見通しだという。
  潜水艦発射型の新たな開発も進めるという・・以上。
  この小型核を、日本への攻撃抑止力として、日本の
 潜水艦にも搭載すべきだ。
  日本国民、女性や子供をしっかり守れる体制を早くし
 っかり作るべきだ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年1月22日、2世、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が
 死去した(78歳)、歌舞伎脚本作者
  江戸歌舞伎を大成し、近代の劇への橋渡しをした人。
  世話物を得意とし、散切(ざんぎり)物・活歴(かつれ
 き)物も試みた。
  「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」「三
 人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「天
 衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」などを
 書いた。
  (参考)散切物:明治維新以降の風俗を世話物として
     取り入れた歌舞伎の演目。
  (参考)活歴物:活歴は活 (い) きた歴史の意味で、
     明治初頭から明治20年代にかけて、9世市川団
     十郎によって上演された史実尊重の時代狂言。
1893年1月23日、アプト式機関車が試運転された。
  貨車2両を連結して推進運転を行った。
  横川~熊ノ平間に40分を要し、熊ノ平~軽井沢間に30
 分を要した。
  しかし、故障がおきて試運転は中止された。
  翌日以降、故障箇所を修理して、また、試運転を続行
 した。
  しかし、牽引が40トンを超えて連続運転すると缶圧が
 下がって、途中で停止してしまった。
  これは、指導したイギリス人が、アプト式の蒸気機関
 車の運転経験が無く、運転の操作方法を間違ったことに
 よった。
  この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね、
 練習運転を重ねた。
  3月末に至って、やっと営業運転のめどが立った。
  この様な経緯の中、この試運転の苦労が一般に伝わり、
 1893年2月、衆議院で、この碓氷線が、鉄道輸送の任に堪
 えられるか否か等について議会質問がなされた。
  井上鉄道局長官の答弁は・・、
  「アプト式は、近年の発明であるため、雇外国人に経
 験者がおらず、1月より、日々、試運転を行っている。
  現時点では、当初の目的に達していないが、鉄道とし
 ての効能を失うことは絶対に無い」・・と答弁している。
1893年1月31日、島崎藤村や北村透谷らが参加して、ロマン
 主義の月刊文芸雑誌「文学界」を創刊した。
  巌本善治の『女学雑誌』から派生し独立した同人雑誌。
  1893年1月~1898年1月まで58冊が発行された。
  島崎藤村、北村透谷、平田禿木、樋口一葉、上田敏、
 田山花袋らが書いた。
  1949年3月から、文芸春秋新社(後の文芸春秋)の発行
 する商業文芸雑誌へとつながっている。
1893年1月31日、日比谷公園が開園した。
  16万1636平方メートル(東京ドームの12.4倍)の都立
 公園。
  元の大日本帝国陸軍近衛師団練兵場である。
  付属として、日比谷公会堂、大音楽堂、小音楽堂、陳
 列場、日比谷図書文化館、テニスコート、児童遊園、軽
 飲食店、資料館、緑と水の市民カレッジ、松本楼など・・、
  震災時に清廉な水道水が無償で給水することが出来る
 災害用給水槽(水量:1500㎥)が設置もされている。
  ここに、幕末の時点、北側に御用屋敷・萩藩毛利家・
 佐賀藩鍋島家、南側に三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福
 知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩
 北条家の各上屋敷があった。
  明治になると、大名屋敷が廃され更地となって日比谷
 ヶ原と呼ばれた。
  1871年に、陸軍操練所が設置された(1885年、日比谷
 練兵場と改称)
  1893年、東京市が軍から払い下げを受け、日比谷公園
 と命名された。
  1901年、公園の設計が、種々なされたのち、ドイツ留
 学を終えたばかりの本田静六の案で決定され、
  1902年4月、着工・・
  1903年6月1日、仮開園した。
1893年1月、衆議院で軍艦建造費が否決された。
  第4議会が、軍艦建造費支出をめぐって政府と民党が対
 立した(~2月)
  この頃の世界は、アメリカ・ヨーロッパによる植民地
 化の真っ盛りであった。
  このような時、日本は軍艦建造費で対立し、否決され
 ていた。
  8年前の1885年、日本は内閣制度を発足させ、伊藤博文
 が初代の内閣総理大臣になっていた。
  憲法発布は、この4年前の1889年だった。
  幕藩体制が壊れ、やっと近代国家ができて来たという
 この時だった。
  中国の清は、どんどん大艦(大型軍艦)を建造してい
 た。
  政党も未発達な双葉マークの議会だった。
  この翌年、清と対決する日本が、この時、あった。
  1890年の第一議会から、日清戦争が始まる1894年の第
 六議会まで、議会と政府は、毎回、激しい対立を繰り返
 していた。
  第一議会の1890年は日本は凶作で米騒動が起き、産業
 界も恐慌で綿紡績業の操業短縮があると状況。
  世界も恐慌で生糸の輸出も駄目という時だった。
  第二議会の1891年は、景気は少し良くなったものの銀
 価格の低落で経済は波乱含み、生糸の輸出も少し好転し
 たがまだ不十分の状態、その中、政府と民党とは激しく
 対立し、伊藤博文の政治も足を引っ張られ、挙国一致で
 はなかった。
  1892年の第三特別議会は、選挙の大干渉でもめ・・、
 選挙戦で殺されるものが多数出るという状態。
  それでも、民党が多数当選し、政府側が敗れるという
 状態だった。
  議会は、当然のごとく、選挙戦での政府の激しい干渉
 が問題化して、もめ、激しい対立となった。
  政府は、軍艦建造費、製鉄所設立費、鉄道関係法案を
 提出するが、ことごとく否決されていた。
  しかし、中国の「膨大な軍事費による軍拡は見えてい
 る」という日本だった・・まさしく今・2017年~2018年
 頃の日本の状況とまったく同じだった・・
  もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮
 の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・卑劣
 な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご
 機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
  そのような時、日本の議会は、まだ、未発達で、もめ
 ていた。
  その様にならずに済んだ方々の働きが、どれだけあり
 がたかったか・・である。
  ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目な
 のである。
1893年1月、鉄道小包郵便取扱手続が制定された。
  この明治時代から、長年、郵便小包とともに小口荷物
 輸送の一翼を担っていた。
  鉄道小荷物輸送は、旧国鉄だけでなく地方や、大都市
 圏の一部の私鉄でも行われていた。
  国鉄の小荷物営業に関連して、駅構内での荷物積み下
 ろし業務や、トラックによる駅からの荷物集配業務等を
 受託する国鉄の関連企業があり、「鉄道荷物会社」と呼
 ばれていた。
  日本全国で21社存在したが、鉄道小荷物営業廃止の影
 響を受け、転廃業する社も生じた。
  存続している企業には「ジェイアール東日本物流(旧・
 東京鉄道荷物)」「ジェイアール西日本マルニックス(
 旧・大阪鉄道荷物)」等がある。
  しかし、1927年、鉄道省と運送業者が始めた集荷・配
 達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあた
 るとされている。
  1976年(昭和51年)1月20日、大和運輸(現在のヤマト
 ホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」のサービ
 ス名で行ったのが、宅配便のサービスの始まり。
  最初は関東地方のみで、1日目の取扱量は11個だった。
  通販へつながった経済効果は絶大。
  偉業(いぎょう、偉大な事業、優れた仕事)のスター
 トだった。
1893年2月1日、御真影・教育勅語の奉置方を各区郡役所、
 および、学校に布達した。
  学校への「御真影」下付の最初は、1874年5月だった。
  天皇陛下の巡行で、徳川将軍家に代わる新しい時代を
 民衆に知らせた。
  また、一般民衆も「参拝」「謹拝」をした。
  また、「県庁正殿二玉座ヲ設ケ県官順序ヲ遂フテ拝賀
 ス 但シ四日ヲ期シテ全管ノ衆庶二参庁参拝ヲ許ス」
 〔1874 (明治7 )年1 月, 筑摩県〕の史料の様に、御
 真影参拝がすでに行われていた。
1893年2月1日、プッチーニの歌劇「マノン・レスコー」が
 イタリアのトリノのレージョ劇場で初演された。
  当時、広く知られた恋愛小説の原作のオペラ化とあっ
 て好意的に受け入れられた。
  そして、これによって、、プッチーニは、「新進気鋭
 の作曲家」として高い評価を得た。
  フランスの小説家アベ・プレボーの代表作で、 1731年
 に、半自伝的小説『ある隠遁した貴族の回想と冒険』 (
 7巻) の最終巻として出版された。
  正式題名は、『シュバリエ・デ・グリューとマノン・
 レスコーの物語』・・、
  華美と贅沢を好み、愛と本能のままに生きる美少女へ
 の愛のために一切を捨て、破滅する聖職者志望の名門出
 の青年の悲恋物語。
  心理描写にすぐれ、この時代の代表的恋愛小説だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね・・
   そして、震災時に清廉な水道水を無償で給水する
   そして、もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・
       卑劣な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
   そして、ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目なのである。
   そして、討究し、奥深さが、育まれていた。
   そして、人々は安心して生活の向上を目指した、働いた。
   そして、日本は、世界から「極東の憲兵」という言われ方をした。
   そして、その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる。
   そして、まだ、あの憲法なの・・?
   そして、NHKが、中国寄りの放送態度をする。
   そして、どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
   そして、日本は・・ここが狙われている・・
.
427年、インドのナーランダに佛教大学が建てられた。
  インドのビハール州、ナーランダ中部にある世界最古
 の大学の一つ。
  ナーランダの佛教大学の遺跡は、予想をはるかに超え
 る広さを持っている・・広大で深遠なものだった。
  その大規模さは、日本の国立大学の比ではない。
  その遺構の規模は、縦5キロ、横11キロにおよぶ・・、
  1600年も前に、よくも造ったものと感嘆する・・、
  その遺構内には、赤レンガの大講堂から会議場、僧坊、
 教場、研究室、礼拝場などが見事な配置をもって建ち並
 ぶ・・、
  そして、そこで、数千人の学僧が集まって哲学や芸術、
 そして、医学や数学を討究(とうきゅう、深くつっこん
 で研究すること)していた。
  仏教の奥深さは、この様にして育まれた。
  インド政府が苦しい財政にもかかわらず、これを土中
 から1000年ぶりに完全に発掘した・・、
  偉大な事業だった。
  この事は、インド国民の方々に、どれほど強い誇りを
 抱かせたことか・・
  また、人智の奥深さを極める行為がなされた史実が明
 らかにされたことに、世界は感謝して、感嘆した。
  如何に古代インドが、先進的で素晴らしい文化の国で
 あったかを、哲学の王国であったかを、再び、目の前に
 立証された。
  この地に立つと、あらためてその偉大さに実感する。
  玄奘法師のような中国の学僧たちが、何故、あれほど
 までに危険を冒して、インドに行くことを望んだかが納
 得される・・
  世界最高の真理探究の地であった。
  憧憬と期待が・・真理を求める学僧たちの心を揺さぶ
 ったインドだった。
  この地は、ゴータマ・ブッダが訪れ、マンゴーの木立
 の下で説法をした。
  ここは、居住型の学校で、10,000人の生徒と、1500人
 の教員が、理想的な環境の中で思索し、探求の世界に居
 た。
  チベットの記録によると、インドの仏僧・竜樹(150年
 ~250年頃)が講義を行なったとされている。
  645年の唐の時代には、唯識派のシーラパドラが、玄奘
 三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部におよぶ経典を中国に持
 ち帰った・・しかし・・、
  1193年、イスラム人の侵略によって大学は破壊された。
  (参考)竜樹:りゅうじゅ、インド仏教中観(ちゅうが
     ん)派の祖・・仏教を大成した。
      南インド出身・・若くして一切の学問に通じ、
     欲望は苦の原因であると悟り、出家した・・、
      出家して仏教を学び、後、ヒマラヤ山中で老
     比丘(びく)より大乗経典を与えられ、大乗仏
     教の基盤をなすことになる・・「
      「空(くう)」の思想を哲学的に基礎づけ、
     後世の仏教思想の全般に大きな決定的影響を与
     えた。
      一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の
     注釈書を多数著して宣揚した。
      著作:「中論頌(ちゅうろんじゅ)」「大智度
     論」「十住毘婆沙論」など。
      サンスクリット名:ナーガールジュナ
.
1671年、菱川師宣は、町人の風俗を描いた浮世絵を始めた。
  (参考)菱川師宣:ひしかわもろのぶ、1618年~1694
     年、浮世絵を確立した最初の浮世絵師
      それまでは、絵入本の単なる挿絵でしかなか
     った浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一
     枚の絵画作品にまで高めるという「重要な役割」
     を果たした。
      初めは、無記名で、版本の挿絵を描いており、
     初作は、1671年に刊行された噺本「私可多咄(
     しかたばなし)」であるとされている・・、
      翌年・1672年に、墨摺絵本「武家百人一首」
     (千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師:
     菱川吉兵衛)を明らかにした。
      その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・
     絵本を数多く手がけた。
      「浮世百人美女」(1682年)刊「浮世続」(
     国立国会図書館所蔵)、(1683年)刊「美人絵
     づくし」(ボストン美術館所蔵)などに、市井
     の女たちを描写し、評判高く、生涯において100
     種以上の絵本や、50種以上の好色本に筆をとっ
     た。
  江戸の町、世は、戦いのない平和な社会だった。
  武士や庶民の間には学問が発達した。
  武家の社会では、儒学が時代を安定にして、平和な社
 会の構築に役立つとして、奨励された。
  朱子学の林羅山、陽明学の中江藤樹、
  「農業全書」を著(あら)わして農学を集大成した宮
 崎安貞、
  方程式の解法や円周率を発見したりし、数学(和算)
 を確立した関孝和など・・数限りない偉人が輩出される
 社会だった。
.
1700年頃、江戸の社会になって・・平和な社会が到来した。
  人々は安心して生活の向上を目指した・・働いた。
  江戸幕府の中央政府も、また、各藩の地方政府も農地
 の拡大に努めた。
  干潟や河川敷などで、新田が、どんどん活発に開発さ
 れた。
  また、大規模な新田開発が各地で行われた。
  江戸幕府が開かれてから100年の間に、全国の農地は
 2倍となった。
  また、農機具の改良・開発も行われた・・
  深く耕すことができる「備中鍬(びっちゅうくわ)」
 や、脱穀が能率よく素早くできる「千歯こき(せんばこ
 き)」などができ、農作業の能率が向上した。
  干鰯(ほしか)や油粕(あぶらかす)の肥料も用いら
 れるようになった。
  また、染料の原材料である藍(あい)や紅花(べにば
 な)、
  そして、麻布の麻や、綿布(めんぷ)の綿(わた)、
  菜種油(なたねあぶら)の菜種などの商品作物の栽培
 も広まった。
  また、養蚕(ようさん)も盛んになった。
  この様な農業の発展を受けて、他の産業も発展した。
  各地の城下町の建設も進み、家屋の建築も盛んで、木
 材需要も高まり・・林業が盛んになった。
  肥料の干鰯需要も活発で、その大量生産のため房総(
 今の千葉県)での網による漁業が盛んになったり、
  土佐(今の高知県)のカツオ漁やクジラ漁、
  そして、北海道のニシン漁やコンブ漁、
  瀬戸内海の塩田の製塩業も発展した。
  日本中が大開発の時代だった。
  また、産業の発展に付随して必要な交通も発達し、道
 路も拡充して行った。
.
1900年7月13日、アムール川(黒竜江)事件
  義和団の乱(1900年)が発生した時、義和団員の一部
 が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(現:ロシア・
 アムール州州都)を占領した。
  かねてから、満洲全域への進出を計画していたロシア
 は、義和団と欧米列強を相手にしている清国側が、満洲
 に関わる余裕はないと見た・・考えた。
  そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル号は、
 河上より銃撃を開始した・・そこで戦端は開かれた。
  何事も強引なロシアだった。
  1900年7月16日、ロシアは、ブラゴヴェシチェンスク事
 件で、混住する清国人約3,000名を、同地から排除するた
 めに虐殺した。
  さらに、1900年8月2日~8月3日にかけて、黒龍江・
 璦琿(あいぐん)事件では、義和団に対する報復として
 派兵されたロシア兵約2,000名が、黒河鎮に渡河上陸して、
 またまた、清国人を虐殺した・・この様な事を繰り返す
 ロシアだった・・、
  その結果、この時期に、清国人の約25,000名が、ロシ
 ア兵に虐殺された。
  死体は、アムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のよう
 に川を下って行ったと言われている。
  これらの事件によって、江東六十四屯から清国人居留
 民は一掃された・・清の支配は失われた。
  (参考)江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん):
     アムール川(黒竜江)の左岸(東側)に広がっ
     ていた広い地で中国人居留区。
      ロシアの都市ブラゴヴェシチェンスクの南側
     (ゼヤ川より東)の一帯に64ヶ所の村落があっ
     たためこう呼ばれた。
  これらの事件と、これに続くロシアの東三省の中国東
 北部の、ロシアによる荒っぽい占領・・そして・・
  都合のよい時には日本に助けを求め、また、都合の悪
 い時は干渉するというヨーロッパ・アメリカの列強の干
 渉・三国干渉以来、高まっていた日本での対ロシア警戒
 感が、特に、一層、高められた。
  当時、世界最大のロシア陸軍と言われていた・・、
  この軍隊でもってロシアは、さらに、アムール川から
 南下をして行こうと、その機会を狙っていた。
  日本は緊張し・・世論も緊張した、そして、反ロシア
 大集会が、日本各地で開かれた。
  ロシアは、次に、朝鮮を狙い、そして、朝鮮を蹂躙す
 ると見られた・・
  シベリアを東へ東へと領土を拡張して来たロシアの領
 土欲は・・留まることを知らなかった・・止まりそうも
 なかった。
  そして、かつての「元の襲来」の様に、その次は日本
 へ侵略して来るに違いないと見られた・・その様な恐怖
 の世論の見方だった。
  そして、ロシアの行動が、日本の安全保障上「非常に
 危険な状況」となり、やむなく日露がぶつかり合う事に
 なって行く。
  中国の各派は、一致して、「ロシアの江東六十四屯占
 領の合法性を認めなかった」。
  第二次世界大戦後の、1991年以降・・
  中国とロシアが、長年の領土紛争に終止符を打つべく
 アムール川沿いの国境画定を行った際、
  江沢民総書記とボリス・エリツィン大統領による条約
 の中で、中華人民共和国は、正式にこの地に対する主権
 を放棄すると承認した。
  なお、中華民国(台湾国民政府)は、法律上は江東六
 十四屯に対する主権を「まだ放棄していない」。
  中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今
 でも「中国領」として表示されている。
.
1900年8月4日、北清事件(北清事変)・・天津を出発し、籠
 城者の救出へ向かった。
  列強各国が、日本に助けを求めて来た(ある意味、利
 用しようとした)
  本「誰のために」(石光真清の手記 4・中公文庫)に、
 以下の記述がある・・、
  明治33年(1900年)の中国市民の(ロシア軍による)
 大虐殺につぐ侵攻以来、大スラブ帝国の三色旗を翻し、
 君臨していたロシア軍が、木綿服で着ぶくれたみすぼら
 しい中国軍に武装を解かれて、国境のかなたに追われ行
 く姿を眺めた時、私は、歴史の変転の激しさと無情さを、
 眼と耳と胸にしみじみ感じた。
  (注意)北清事件と義和団事件とは違う・・、
     義和団事件(1899年~1900年)は、ヨーロッパ・
     ロシア・アメリカなどの列強の国々が、中国の
     領土を分割して、その土地を支配するという植
     民地化したいと、また、租借したりと中国に進
     出した。
      この事に対して、義和団という信仰集団が団
     結して反乱を起こし反抗した。
      義和団は、「扶清滅洋」という言葉を掲げた。
      扶清滅洋(ふしんめつよう)は、清朝を助け
     て、ヨーロッパ・ロシア・アメリカなどの列強
     を討ち滅ぼすの意味。
  北清事件(北清事変)は、1900年に起きたが・・、
  イギリスが、何度も、日本軍の参加を要請した・・
  そして、列強各国もこぞって日本の参加に賛成して、
  日本は、その様な状態のなかで、第五師団を派兵した。
  義和団の力が強く、手をこまねいていたからだった。
  義和団兵と清国兵に囲まれた籠城者を救出したかった。
  日本を主力とする列強各国の連合軍は、天津城を完全
 に占拠した。
  そして、ここで師団主力の集結をし、その集結を待っ
 て・・、
  1900年8月4日に、天津を出発した・・北京籠城組の救
 出の途についた。
  連合軍の総兵力は、22,000人だった。
  義和団・清国軍は、この数より多く、まさっていて、
 士気は高く、頑強に抵抗した。
  新聞記者だった菊池寛は以下のように書いた・・
  「真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破
 して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を敗北させ、
 屍を踏んでわが公使館に達していく、いかにも日本軍ら
 しい、やり方であったと思う」と。
  「救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。
  殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け
 出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。
  60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであっ
 た」。
  日本は、この時の救出に大きな貢献をした。
  この時から、日本は、世界から「極東の憲兵」という
 言われ方をした。
.
1945年秋以降、GHQ(連合国総司令部)が、言論統制を
 行なった。
  新聞、雑誌、図書を含む出版物、通信、放送、映画、
 演劇、郵便などの検閲を始めた
  そして、GHQは、1928年1月1日から1945年9月に至る
 まで、刊行される図書の没収を指令した。
  卑劣な言論統制と思想統制を、日本に対して行なおう
 として、この様な事を始めた。
  アメリカは、『言論の自由の国』というが、まったく
 の嘘・・日本へは、この様な卑劣な事を行なった。
  自由に書籍などに日本人が触れるという事は出来なく
 された。
  日本全国の図書館や書店、そして、流通経路から没収
 がなされて行った。
  「言論の自由で、民主主義を達成するのだ」と言って
 いるアメリカが、この様な「野蛮な事をした」。
  没収されて読むことが得出来なくされた本は、7000種
 に及んだ・・「GHQ焚書図書」
  世紀の最大の歴史学者アーノルド・トゥインビーは言
 う・・、
  「その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる」
 と。
  アメリカは、フィリピンを植民地にして、卑劣にも、
 その言葉を奪った。
  フィリピンを英語化した。
  フィリピンの言葉を奪うという卑劣な事を行なった。
  今、アメリカは、日本を英語化しようとしている。
  まさに、日本の歴史と言葉を、アメリカは奪い、トゥ
 インビーが言うように、日本を滅ぼそうとしている。
  没収されたこの時の出版物は、アメリカに送られ、メ
 リーランド大学へ譲渡された(プランゲ文庫)
  原稿やゲラ、そして、検閲の為の調書類も含まれてい
 た。
  図書とパンフレット(71000タイトル)
  新聞(18047タイトル)、雑誌(13799タイトル)
  報道写真(約10000枚)、ポスター(90枚)
  地図(640枚)、検閲関連文書(600,000枚)
  1945年9月~1948年7月:事前検閲
  1948年8月~1949年10月:事後検閲
  日本人も雇われて検閲を行なった・・1947年のピーク
 時には8,100人居た(高給だった)
  アメリカ人軍属や将兵も加わり、総勢8,700人によって
 検閲が行われた。
  出版社は出頭を命じられた。
  占領軍への批判は厳しくチェックされた。
  (司令部に対する批判、憲法の想起行為、検閲制度、
 アメリカ合衆国への批判、英国に対する批判、極東軍事
 裁判批判、連合国に対する批判、第三次世界大戦への言
 及、大東亜共栄圏、戦争犯罪人の擁護、占領軍兵士と日
 本女性との交渉、抑えられた報道の公表などなど、口を
 閉ざされたタブーが一杯あった)
  そして、戦争肯定の内容や武士道に関するものは没収
 となった。
  戦前・戦中のものも没収された(5万冊以上がアメリカ
 へ送られ、アメリカ議会図書館と国立公文書館へ持って
 行かれた)
  日本側も原爆への記述を自主規制して気を使った・・
 これを「日本人の自己検閲」と言われた。
  研究書である「ドイツ戦争心理学」「航空心理」「国
 防心理学要論」なども没収された。
.
1947年5月3日、日本国憲法が施行された。
  日本は、アメリカの占領下であり、この様な体制下で
 行われた行為は「違法」という論理がある。
  憲法無効論は、日本国憲法の制憲過程に重大な瑕疵が
 あり、無効であるとするもので・・、
  また、日本の平和条約締結にともなって自動失効して
 いるとの論もある。
  憲法無効・失効論の述べるところは、憲法失効にとも
 ない、大日本帝国憲法を唯一の法源とすべしというもの
 があり・・、
  これは、あくまで、手続き上の議会主義的正統性に関
 するもので・・、
  旧憲法の改正手続きに則り、速やかに新たな自主憲法
 を策定すべしという論(石原慎太郎等)、
  ないしは、憲法の正当性を確保するべく日本国憲法を
 改正すべし(小沢一郎等)との論。
  アメリカ占領軍が、急遽(きゅうきょ)作って、成立
 はさせた現行憲法という成立に後ろめたさがある。
  この現行憲法の成立に携わった老齢となったアメリカ
 人は、「まだ、あの憲法なの・・?」と言ったという・・、
.
1960年、全国の映画館数が、7457館とピークに達する。
.
1988年、参議院の法務委員会で梶山静六国家公安委員長が、
 「(新潟の)アベック失踪事件は北朝鮮のものたちの疑
 いが濃厚」と答弁した。
  それまで、日本は、この拉致事件を隠ぺいする体制に
 あった。
  そして、この拉致行為は、2002年に、小泉首相が北朝
 鮮へ訪朝した際に、国防委員会委員長・金正日は、北朝
 鮮が拉致したと初めて認め、謝罪した。
  また、「死亡」したとされる8人に関する「死亡診断書」
 などの情報を提出したが、これらはすべて捏造であった
 ことを日朝実務者協議(2004年11月)で認めた。
  日朝平壌宣言では「国交正常化の後」、「経済協力を
 実施」することとなっているが、日本政府は「拉致問題
 の解決なくして国交正常化はありえない」と繰返し述べ
 た。
  その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉
 致被害生存者について、一時帰国を条件に、2002年10月
 15日に、帰国が実現した。
.
1992年10月17日、アメリカのルイジアナ州で、ハロウィン
 の仮装をして、訪問する家を間違って訪ねた日本人留学
 生の青年が射殺された。
  16歳の高校2年生という未来ある青年だった。
  英語教師の母親の影響で、夢のアメリカ留学だった。
  ハロウィン特有の変なメーキャップなどはしていない
 という状態であるのに、
  また、間違えた家自体もハロウィンの装飾がしてある
 というハロウィン一色の状況の中で、
  また、日本人留学生は、異常な行動を示したという事
 でもなく、ちゃんとドアのベルを鳴らして訪問したとい
 う普通の行動と意思を示し、行動していたのにである。
  そして、間違えて行ったその家の相手に、「パーティ
 に来ました」と、はっきりと来た理由を示し、挨拶して
 いるのに・・、
  この男は、この日本人留学生の心臓を狙って撃った。
  威嚇射撃や、足元をを狙うなどの行動は一切せずに、
 心臓を撃った。
  殺意があるとしか言えないアメリカ人だった。
  しかし、アメリカの更に卑劣なことは、この卑劣な行
 為に対して、全員一致で無罪判決を下した。
  屋内に侵入した者への発砲は、この州の法律でも発砲
 はやむを得ないとされているが、この日本人留学生は、
 屋内に入ってもいないのに無罪とされた・・人種差別の
 なにものでもない・・アメリカは、この様な人種差別判
 決がいくらでもある。
  また、その卑劣さは、近距離(2メートル前後、弾が外
 れることはないという近距離)から心臓を狙うという、
 「殺人の意思しか持たないという行為」をされて未来あ
 る人生を閉じた日本人留学生の高校2年生だった。
  この様な有色人種蔑視判決は、黒人の方々が、特に、
 多く受け、そして、泣いている・・「卑劣なアメリカ」
 となっている。
.
2013年3月11日、東日本大震災二周年追悼式において、NH
 Kが、中国寄りの放送態度をする。
  NHKは、完全に中国に牛耳られている。
  公共放送の立場であるのに「もってのほかである」。
  NHKは、NHKの建物内に、中国だけに「中国のた
 めの特別スペース」を与えている。
  国民の受信料で成り立っている公正であるべき放送局
 のNHKが、「何故?中国だけに、この様な特別待遇を
 与えているのか?」
  また、NHKは、放送態度においても、中国寄りの放
 送をする。
  例えば1例、「東日本大震災」の「二周年追悼式典」の
 中継をしていた時、式典を主宰していた日本政府は、台
 湾を国賓として招待していた。
  しかし、この様な立場の「台湾代表が、献花するシー
 ンをカットして放送を中断した」。
  中国の力が働いていたと言われている。
.
2015年8月、移民や難民と称してEUに流入する人々・・、
 そのすべてが、本当の移民や難民なのか?
  EUへの数限りのないその流入は、まず、ハンガリー
 を経由していた。
  はじめのうちは「人道が叫ばれた」。
  しかし、とめどない、その多すぎる流入に対し、最初
 に悲鳴を上げたのが、このハンガリーだった。
  ハンガリーは、2015年8月から、国境線にその流入を防
 ぐ鉄条網の塀を築き始めた。
  EUは、初め、そのハンガリーの行為を非人道的と非
 難した。
  その声が、一番、大きかったのがドイツだった。
  しかし、1年も経つと、その声を上げるEUの国は、
 まったく無くなった。
  そして、塀を作っているEUの国は、ハンガリーだけ
 ではなくなった。
  多くのEUの国が、国境に軍隊を動員して、国境警備
 をして・・流入を防いでいるという「今となっている」。
  どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
  そして、EUには、その行為を非難する声は、最早(
 もはや)、「まったく、ない」。
  ドイツでさえ、流入する人々の受け入れを規制し始め
 た。
  このドイツの、この規制以上に、他のEU諸国は、ド
 イツへ流入した人々を戻されるのではないかと恐れてい
 る。
  この様な事から、EUの「内政が乱れる」という懸念
 が強くなっている。
  超過剰に流入する人々によって、EUの形は揺らぐ。
  国柄が壊されていくEU諸国。
  以前のドイツ文明が、フランスの国柄が、オーストリ
 ーの雰囲気が・・無くなって行く、壊されて行く。
  グローバリズムで起きた状況が・・この様な結果の状
 況となっている。
.
2017年、日本は・・ここが狙われている・・
  日本の要石(かなめいし)を・・、
  だから、工作員はここを狙っている・・、
  ☆ 政治機構に潜り込む・・政党などへも・・
  ☆ 官僚機構に潜り込む・・特に、外交などの外務省
  ☆ 要な場所・土地・地域・ゾーン・・
  ☆ 教育の現場に潜り込む・・日教組を支配する。
  ☆ 放送媒体を牛耳る・・特に巨大放送媒体のNHK
  ☆ 国旗・国歌を否定する・・シンボルの否定
  ☆ 伝統的儀式の破壊と、考え方・道徳の破壊
  ☆ 日本の古来からの伝統の破壊
  ☆ 日本の要(かなめ)技術を奪う
  ☆ 人間関係・家族・家系の破壊
  ☆ 宗教を牛耳る・・などなど・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)574E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)574E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年、歌・流行・世相:
・流行:松の内に、トロロ汁を食せば、感冒にかからない
  という行為が流行し、山芋の値段が急騰した。
・流行:芸人の間で写真入の名刺が流行る。
・流行:碑を建てること
・流行:花合せ(3人で遊ぶ花札の遊戯のひとつ)
・流行:紙風船(花びら形の色紙を、袋状にはり合わせて
  作った玩具。息を吹き入れて膨らませ、手のひらで打
  ち上げて遊ぶ)
.
1893年、発明:
・ディーゼル(ドイツ)が、ディーゼルエンジンを発明し
 て自書で原理を理論的に解説した。

1893年、医・衛生:
・天然痘流行で11852人が死亡し、また、赤痢で41284人が
 死亡した。
.
1893年、環境・災害・防災:
・1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、ア
 メリカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  1000頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、約60,000,000頭も居た。
  この様に多かった野牛を白人アメリカ人は殺した。
  99.9987%のアメリカバイソンを、殺してしまったとい
 うアメリカ人だった。
  0.0012%しか生き残っていなかった。
  日本へ鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の理由が、このバ
 イソンは、アメリカ・インディアンの方々(先住民)の
 大切な食糧だった。
  アメリカ・インディアンの方々の絶滅作戦の一環でこ
 のバイソンを射殺しまくった(非人道的な極悪行為)
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置し、腐るがままにした(動物愛護の話もあったもの
 でもない)。
  1870年代中期の写真がある。
  バイソンの頭骨を積み上げた山の写真。
  その山の頂上で、白人アメリカ人が誇らしげに立って
 いる。
  この関係者が集めただけでも、この様な山のようなバ
 イソンが殺されたことを示している。
  30メートルもの高さがあろうかという巨大なバイソン
 の頭蓋骨の山・・そして、今・現在、そのアメリカ・イ
 ンディアンの方々が絶滅に瀕(ひん)しているという現状。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カ・インディアンの方々だったのに・・、
  長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来たアメ
 リカ・インディアンの方々のすべてを奪い取った。
  白人アメリカ人は、自分だけ良ければ良いというキリ
 スト教の教えに洗脳されて、この様な最悪行為をしたの
 だった・・キリスト教の神の義があれば、やってもいい
 のだという「まったく勝手な教義」に洗脳された輩の行
 為だった。
  アメリカ政府が、その行為を率先して奨励していた。
  卑劣極まりない。
.
1893年、その他:
・清水次郎長が死去した。
・自殺者調べ、1887年:5,823人、1988年:5,256人、
       1889年:5,852人、1990年:7,479人、
       1991年:7,499人、1992年:7,240人、

1893年1月1日、「度量衡法」が施行された。
  度量衡取締条例(明治8年8月5日太政官達第135号)を
 継承して、1891年3月24日に公布され、
  1893年(明治26年)1月1日に施行された(明治24年3月
 24日法律第3号)
1893年1月7日、星亨が、自由党の演説会で改進党を攻撃す
 る演説を行い、両派が対立した。
  改進党との対立が激化の結果、自由党は、政府の伊藤
 博文に接近して行った。
  1893年1月12日、衆議院は、明治26年度(1893年度)予
   算案を修正(軍艦建造費削減、官吏俸給・官庁経費
   の減額など871万円を削減)して議決した。
  1893年1月16日、政府が、「予算案修正は不同意」と表
   明した。
  1893年1月23日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を上程し、
   15日間の停会を命じられた。
  1893年1月26日、貴族院が、田畑地価修正法案を否決し
   た。
  1893年2月7日、衆議院が、181対103で、内閣弾劾上奏
   案を可決した。
  1893年2月10日、「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」
   の詔書が出された。
   内容:「軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年
   間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製
   艦費補助にあてることを命ずる」(建艦詔勅・和衷
   協同の詔勅)。
  1893年2月22日、衆議院が、予算案を修正(製艦費を認
   め262万円のみ削減)し、可決した。
  1893年2月26日、貴族院が、修正予算案を可決した。 
1893年1月8日、全国新聞記者同盟が、「新聞紙条例」の改
 正運動(交渉)を開始した。
  そして、1893年2月に、出版法・版権法、集会及政社法
 が先に成立した。
  その出版法・版権法の条文には、「新聞紙法」の文字
 が盛り込まれており、新聞紙法の成立が織り込まれてい
 たにもかかわらず、結局、新聞紙法案は同議会において
 成立をみなかった。
  そして、1897年、第10議会に、ようやく条例改正とい
 う形で改正が実現した。
  新聞紙条例改正は、議員によって他の言論関係条例の
 改正よりも重視されていたにもかかわらず、その改正の
 ハードルは高く、改正の実現に時間がかかった。
1893年1月16日、アメリカがハワイを奪い始めた。
  アメリカ公使の要請によりアメリカ海兵隊がイオラニ
 宮殿を包囲した。
  1893年1月17日、共和党が政府庁舎と占拠し、王制廃止
   とハワイ臨時政府樹立を宣言した。
  1893年1月22日、ハワイ王国でリリウオカラニ女王が廃
   位された(ハワイ王国の滅亡)
  1893年1月16日の出来事・・、
  ハワイのカメハメハ王朝の滅亡への策謀・・、
  アメリカ合衆国の息のかかったものが実権を得た。
  アメリカ合衆国からの移民で、アメリカと関連の深い
 サトウキビを扱う業者らが、さらに親米的な政権を打ち
 立てるため、政権の転覆を計画した。
  アメリカ海軍の軍艦ボストンは、首謀者サンフォード・
 ドールとロリン・A・サーストンを保護する名目でホノル
 ルに到着し、リリウオカラニは幽閉状態となった(デッ
 チアゲによる政権転覆)
  1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の
 廃止を宣言した。
  翌年の1894年7月4日に、ドールはハワイ共和国の成立
 を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。
  サンフォード・ドールは、アメリカ合衆国メイン州出
 身の白人のキリスト教プロテスタント宣教師の家に生ま
 れた。
  そして、ハワイに移り住み、アメリカ合衆国の多国籍
 企業であるドール・フード・カンパニーを創業したハワ
 イのパイナップル王を従弟(いとこ)に持った。
  ドールの家はハワイで政治的な力を持って行き、また、
 ドールはハワイ王の弁護士となった。
  そして、1887年に至って、アメリカ合衆国系の経済人
 や政治家やサトウキビ農場主らが結成した政治組織・ハ
 ワイ連盟が武装蜂起に参加した。
  そして、白人市民たちが民兵組織を作った。
  そして、アメリカ合衆国生まれのドールは、その民兵
 の武力組織を後ろ盾にハワイ王の退位を迫った。
  そして、アメリカ人たちの系統の政治組織・ハワイ連
 盟は、ハワイ王・カラカウアに退位の代わりにアメリカ
 人のサーストンの起草して作った憲法を受け入れる様に
 迫り、受け入れさせた。
  この憲法は白人のみに投票権があるとした。
  不公正なそして不平等な憲法であった。
  そして、先住民のハワイ人を排除する目的で、一定以
 上の収入や資産があることを条件としていた。
  結局、アメリカ合衆国から来た白人のアメリカ系およ
 びヨーロッパ系の者たちだけに選挙権があるという憲法
 だった。
  これで選挙をすれば結果は明らか、表面は合法的に見
 えるが、不公平な基準のもとに白人のアメリカ系とヨー
 ロッパ系にハワイは乗っ取られることになった。
  この不名誉な憲法を武力で認めさせたので「銃剣憲法」
 と蔑(さげす)んで言われている。
  ハワイ王及びハワイ王室および大多数のハワイの先住
 のハワイ人の方々は実権を失った。
  ドールは最高裁判所判事になった。
  この後、余りにも横暴な白人のやり方に、ハワイ王の
 妹のリリウオカラニ女王が、1891年に、白人と対立して
 即位した。
  そして、白人が銃剣で作った憲法を廃案にして新しい
 憲法を起案した。
  ハワイは騒然となった。
  白人たちは危機感を持った。
  1893年1月16日、アメリカ合衆国は、アメリカ海兵隊を
 出動をさせ、ハワイ王宮・イオラニ宮殿を包囲した。
  翌日の1月17日には、ハワイを銃剣憲法で奪った白人た
 ちは、ハワイの政庁舎を占拠した。
  そして、ハワイの王政は廃止だと宣言した。
  そして、臨時政府が打ち立てられたのだと叫んだ(宣
 言した)。
  ドールは大統領に就任した。
  そして、合法政府だと周りの国に言わせた(承認させ
 た)。
  臨時政府は、アメリカ合衆国と併合したいと意思表示
 した。
  そして、ハワイの臨時政府の大統領にアメリカ合衆国
 の大統領が兼務する形で就任した。
  その後、報告書が出されるなど、半分、演技と思われ
 ることをやったりしたが、結局、ハワイは、アメリカ合
 衆国の一つの州となった。
  今、大多数だった先住民のハワイ人の方々は影も形も
 ない。
  この最後のハワイの女王であるリリウオカラニ女王の
 心を謳った、若い女王によって作られた「アロハ・オエ」
 がある。
  この歌は、白人たちの横暴を暗喩していると言われて
 いる。
  強引な国を乗っ取る行為に抗議していると言われてい
 る。
  また、女王は日本へ助けを求めたという話もある。
  多くの日本人が居たことも関係していると考えられる。
  その日本人たちの誠実な生活態度を見ているからだっ
 た。。
  1893年のハワイ王国の滅亡への動きは下記・・
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を潰(つぶ)して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り行為・侵略だった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して喜び歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的どおり・・
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
   そして、富を吸われ続ける庶民は、もっと怒らなければならない。
   そして、外国から「ポルノレベルだ」と軽蔑されている。
   そして、何故?、日本の自衛隊は、アメリカ軍に信用されて、
       韓国軍は信用されないのか?
   そして、EUでは、どこの国も本音は移民に大不満。
.
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのダリウス大王が、西
 はエジプト、トルコから・・東はインド国境におよぶ史
 上最初の大帝国を建設した。
  そのダリウスが、自分の宮殿として作らせたのがペル
 セポリス。
  ペルセポリス:ペルシアのダリウス(ダレイオス1世と
 もいうペルシャの3代目の王)の建設したアケメネス朝の
 首都で・・、
  紀元前330年、アレクサンドロス大王によって破壊され
 た。
  現在のイラン南西部の都市・シーラーズの近郊に遺跡
 が残っている。
.
紀元前5世紀、オリエント世界の最初の大帝国の統一者・ダ
 リウス一世とクセルクセス王が、三度、ギリシャの奥深
 くに侵入し、戦ったが、スパルタやアテネの連合軍に敗
 北した(ペルシャ戦役)。
  この後、アテネは繁栄し、ギリシャ文化が完成した。
  これを通して、世界文化への貢献したという点で、画
 期的な意義を持つ。
.
紀元前331年、ペルセポリスの裏に「慈悲の山」と呼ばれる
 丘がある。
  そこに登り眺めると、この年、アレクサンダー大王の
 軍によって放火された「ペルセポリス炎上」の情景がよ
 みがえる。
  このマケドニア王の侵略戦争によって、どれだけのハ
 レムが燃え、女たちが引きずられ、男たちが虐殺された
 事であろうか・・、
  それからこの宮殿も焼失し、砂に埋もれ、ペルシャは
 幾度も異民族の支配を受け、王朝も四転五変した。
  そして、1925年に、パーラビ王朝が成立し、イランの
 独立がなった。
.
1582年6月21日、本能寺の変
  織田信長が、本能寺で「明智光秀が謀反(むほん)」
 と聞いた時、「是非(ぜひ)に及(およ)ばず」と言っ
 た。
  「信長公記」に書かれた言葉。
  信長の近くにいて、生き残った奥務めの女性が、この
 言葉を聞いていた。
  良し悪しなんかを判断したりする必要は無い!
  議論する暇などない、四の五の言わずにやれ!
  光秀をとやかく言うとか、和睦なんかとかに頭を巡ら
 す暇などない・・攻めてきたのなら戦うだけだ!
  蘭丸から「明智が者と見え申し侯」と聞いただけで、
 聞き返し確認することもなく、また、その他の情報を得
 ようともしなかった信長だった・・
  すべてを、その一言で分かった信長・・明智ならやる
 だろう・・と・・、
  この「是非に及ばず」を聞いた後、信長から離れてい
 た信長の息子である織田信忠がいる妙覚寺へ駆け込み、
 救援を求めた人物が居た。
  その人物を弥助と言い、キリスト教宣教師のアレッサ
 ンドロ・ヴァリニャーノが所有する黒人奴隷だった。
  救援に向かった信忠、戦い敗れて(多勢に無勢)この
 弥助は捕らえられる・・しかし、光秀は解放した。
  そして、後、結城秀康の側近として仕えたという。
  結城秀康は越前北の庄藩の初代藩主、そして、越前松
 平家宗家初代。
  因みに、この黒人の弥助は、勇敢に秀光軍と一生懸命
 戦ったという。
.
1808年、フェートン号事件。
  イギリスの軍艦のフェートン号が、長崎港に侵入した。
  そして、当時、イギリスと対立していたオランダの長
 崎商館をイギリスへ渡せと要求した。
  そしてまた、オランダ人を2人を捕らえたり、乱暴狼藉
 をした。
.
1837年、モリソン号事件
  日本は、1825年に異国船打払令を出していた。
  その12年後の1837年、浦賀(神奈川県)に、アメリカ
 船のモリソン号が来た。
  幕府は、モリソン号を砲撃し打ち払った。
  高野長英は、1838年に、日本の近海にはイギリスが支
 配する国が多くある。
  イギリス船は絶えず航行している状態で、この後、日
 本が海上輸送をするようになった時、その様に外国船の
 打ち払いをやっていては、今度は、逆に、日本の海運の
 邪魔をするようになるだろう」と言った。
  (注:高野長英は、イギリス船と勘違いしていた)
.
1890年、「うたかたの記」森鴎外の短編小説が、雑誌「し
 がらみ草紙」に発表された。
  識者は憂えた。
  1886年8月13日の夕の7時、バワリア王ルードビッヒ2世
 は、発狂し、ステルンベルヒの湖に身を投げ、死んだ。
  王は恋に悩んでいた。
  ドイツ留学中の森鴎外は、この事件に、驚き、心に衝
 撃を受け、1篇の創作をした。
  「うたかたの記」である。
  この時、鴎外自身も、あるドイツ少女と恋し、「うた
 かたの恋」を経験していた。
  鴎外が日本へ帰国した後、この少女は、鴎外を追い、
 日本へ来た。
  遠い日本へ、一心、はるばる来た、その娘を、鴎外は
 追い返した。
  若い鴎外に、その悲愁が、湖水に投身した美貌のバイ
 エルン国王に重なった。
  国王は、国の十数万の民の事も忘れ、恋に囚(とら)
 われたという。
  急峻な山の中にある国、その山の中腹に、贅沢な城を
 築いた。
  大工事に多くの犠牲になった民が居た。
  「国王のロマンの中の民」へ心がおよぶ。
.
1895年、孫文が日本へ逃れた。
  日清戦争の終結後に、孫文は、広州での武装蜂起(広州
 蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本へ亡命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって、政治団体・玄洋社
 の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京で
 の活動費と生活費の援助を受けた。
  また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋
 敷は犬養毅が斡旋した。
  長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢民族。
  その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめた
 い(満州族の風習)」と言ってきた。
  この年・1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて
 興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成し
 た。
  ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
  清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が放棄して大動
 乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
 蜂起が中国で起きた・・各省が、これに呼応して独立を
 訴える辛亥革命に発展した。
  当時、孫文はアメリカにいた。
  独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命政府
 をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを誰にする
 かで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
 はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  翌年になって・・1912年1月1日、孫文を臨時大総統と
 する中華民国が南京に成立した。
  孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこと)
 する臨時政府が南京に樹立されて、国号を中華民国と改
 め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
  しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(えん
 せいがい)が、共和政体を宣言するに至ったので、孫文
 は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位を譲った。
  だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わせる
 時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に逃れ、中華革命党を組織した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、イギリスは長江流域に、ロシアは東三省(と
 うさんしょう、中国東北部)、フランスは広東、広西(
 こうせい、広西チワン族自治区)、雲南など・・を。
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。

1917年2月23日、ロシア革命(二月革命)
  ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ
 地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ニコライ2世は、軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥー
 マ(ロシアにおける議会)には停会命令を出した。
  しかし、鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして
 労働者側についた。
  (史料)ロシア革命の時、ハルピンは無政府状態に陥
 (おちい)り、本月7日同地総領事は外務大臣に出兵準備
 を請願したる次第なり。
  9日黒沢中佐よりの電報によれば過激派の外務大臣トロ
 ツキイは、労兵会にて、日本は露国に宣戦することなか
 るべきも自己の為め如何なる奇策を行なうやも計り難し
 と述べたり。
.
1924年12月、中国の錦朝線が開業した。
  中国(支那)大陸における最大の利権国であるイギリ
 スが、満蒙の利権や儲け話を掘っておくわけはない。
  錦州から赤峰に至る錦赤鉄道を計画し、その第一歩と
 して錦州から朝陽に至る錦朝鉄道の敷設権を秘かに獲得
 していた。
  たまたま第一次世界大戦があって着工が遅れていた。
  この様なイギリス利権に対し、日本も、同様な利権を
 求めた。
  しかし、日本人が一生懸命努力をしても、イギリス人
 たちに、その利権はさらわれて行った。
  歴史・・、
  1921年4月、錦州駅~北票駅間の建設が開始された。
  1924年12月、「錦朝線」として開業した。
  1933年2月、金嶺寺(現:北票南駅)~凌源駅の建設が
   開始された。
  1933年10月、凌源駅~平泉駅間の建設が開始された。
  1934年4月28日、平泉駅~承徳駅間の建設が開始された。
  1936年6月16日、錦州駅~承徳駅間が全線開通して「錦
   承線」に改称された。
  1938年11月、承徳駅~古北口間が開通し、「錦古線」
   に改称された。
  1945年、日本の敗戦、および、国民党軍の補給路遮断
   のために共産党軍によって古北口~承徳間が廃止さ
   れた。
  1953年、京承線建設のための測量が開始され、承徳~
   古北口の旧線は大坡道~拉海嶺間の連続四段スイッ
   チバックが非常に非効率であることから、新線を作
   り直すことになる。
  1960年、承徳~古北口間が新線が開通し、京承線とし
   て開業した。
  全長は、447キロメートル。
  中国からは感謝の言葉の一つもない。
.
1929年、大恐慌が起きた。
  アメリカ・イギリスの先進諸国は経済的打撃が大きく、
 大幅に経済が縮小した。
  しかし、日本及び日本傘下の朝鮮・台湾は、若干、停
 滞する程度で、経済が発展し進展した。
.
1932年3月1日、満州国が建国された。
  日本は、満州の建国を応援した。
  その建国の理念に「五族協和」があった。
  しかし、民族のるつぼというべきカナンの地の宗教=
 キリスト教には「異民族排斥の考え方・教義」の「異教
 徒は殺せ」があった。
  しかし、この様な考えとはまったく違う理念「五族協
 和」の下に満州は建国された。
  日本が応援する満州には、満州人(女真族)も、ウィ
 グル人も、モンゴル人も、「皆、懐に抱かれる」の考え
 の下にあった。
  しかし、今・現在(2017年)、この地に満州人はまっ
 たく居なくなったという・・殺されたのか? 移住させ
 られたのか?
  そして、今・現在(2017年)、中国は、チベットの地
 へも、ウィグルの地へも、モンゴルの地へも、漢民族を
 大量に入れて(移住させて)、どの地域も一番多い民族
 は漢民族という地へと変えた・・
  その様な形で、国柄を変えて、すべてが漢民族の地と
 している行為が行なわれている。
  沖縄が、北海道が、この様な憂き目にあわないとは言
 い切れない状況の現在となっている。
  対馬は、韓国人の移住が酷(ひど)いという。
  中国は、武力を伴う「力によって」この行為を遂行さ
 れている。
  チベットの場合、チベット仏教の僧侶の方々が、自分
 の身を焼くという悲惨な形の抗議行動を行なっている。
  2016年の時点で、160人以上の僧侶の方々が、尊いこの
 行動をなされた。
  ベトナム戦争時においても、アメリカの「力による抑
 圧」に対し、ベトナムの仏教僧侶の方々が、やはり、焼
 身することによって抗議活動がなされた。
  まったく痛ましい事である。
.
1938年、日本・朝鮮・台湾がつくるグループは、1913年以
 来、飛躍的に発展した。
  F・ヒルガート著の「工業化の世界史」には、世界各
 国の工業生産の伸長率が記されているが・・、
  その著によれば、1913年=100として、1938年の時点で、
 1番伸長したのが朝鮮で560(5.6倍)、2番が日本で510
 (5.1倍)、3番が台湾で490(4.9倍)となっている。
  これに対し、アメリカは150(1.5倍)、イギリス120
 (1.2倍)である。
  この数字を見ても、いかに素晴らしい発展を、日本・
 朝鮮・台湾がしていたかがわかる。
  韓国は文句を言う理由はない・・
  アメリカ・イギリスの4倍以上の伸長をして発展をして
 いた。
  この時の世界の平均の伸長率が180であるから、アメリ
 カ・イギリスが特に悪いと言う訳ではない。
  この時代は、不景気の時代であった。
  その影響下に、それなりにアメリカ・イギリスも受け
 けていたという所だった。
  ただ、日本・朝鮮・台湾のグループは、その世界不況
 の影響を受けずに、破竹の発展を遂げていた。
  だから、台湾は、日本統治時代を感謝している。
  国が発展したと、しかし、朝鮮・韓国は、この事に、
 まったく触れずに日本を貶(おとし)めてばかりしてい
 る。
  恩を仇で返す国となっている。
.
1947年6月8日、日教組(日本教職員組合)が出来た。
  日教組は、子供たちの「個性を育てるのだ」とか、「
 感性を育てるのだ」とかという理屈で、何でも好き勝手
 に、教師自らやり、また、子供たちにやらせていて、そ
 れを良いとしている。
  この「個性」と「感性」を育てるという名目で、日教
 組は、子供たちを「自由放任」にする。
  下手に日教組の教師が口を出さない方が「良いのだ」
 という方針でいる。
  だから、子供たちの思った通りのことが出来る。
  そして、「何でもあり」の状態となる。
  卒業式でクラッカーを「バン!」と鳴らす。
  「個性のある卒業式ではないか」という理屈で問題に
 されない。
  この様な子供たちが育って、成人式の式場でも、クラ
 ッカーを「パン!」と鳴らす、
  酒に酔って式場で大声を上げる・・
  この様な人間が出来てしまう・・日教組方針の教育の
 結果がこの状況となっている。
  教師が口を出さないという日教組方針は間違っている。
  何ら指導をされない子供たち・・子供たちの教育を受
 ける権利が無視されているという状況にある事に、日教
 組は気付かない。
  放任していることで・・個性が育てられているので・・
 教育しない放任が「教育なのだ」と日教組は言う。
  これは詭弁である。
  キリスト教徒のアメリカ人たちは、アメリカに渡って
 来た初期に、厳寒期のアメリカの厳しい環境の地で越冬
 ができずに、若い女性を殺して食したが、この殺人を越
 冬のために殺したのだと、「悪」という論理を薄めたり、
 隠したりしているが、この論理と同じ詭弁なのだ。
  日教組も教師の立場を放棄している事に気付いている
 が、気付かないふりをしている。
  また、中には洗脳されて気付きもしない教師がいる。
  教育の破壊現象が起きている。
  教師の本分が尽くされていないのを気付かない。
  悪の指導をしている日教組は、鉄面皮に、半分、悪と
 分かっていても「よし」としている。
  卒業証書を校長先生から、後ろ向きでもらったり、背
 中に、垂れ幕を付けた服装で卒業式に出たり・・、
  教師もジーパンとジャージーで・・「アメリカの作業
 服姿で出席」したり、国旗・国歌をないがしろにしたり・・、
  この様な「何ら指導がなされていない」状況にしてい
 る日教組の指導方針に問題の原点がある。
.
1971年、この頃のトルコ労働者の夢は、西ドイツやスエー
 デンに行き、そして、働き、そこで、ドイツの女性と結
 婚して、永住して、もう二度とトルコに帰って来たくな
 い、
  そして、今、大量に人々は流れている。
  このトルコ・・まだ、9割の家に電気が来ていない。
  ドイツの産業は、安い労働力だと大喜びしている。
  今、日本も同じことをしている・・中国人と韓国人の
 大量流入となっている。
.
2013年3月11日、東日本大震災二周年追悼式が行われた。
  東日本大震災の震災一周年の追悼式で、民主党政権は
 台湾にひどいことをした。
  台湾代表は、各国大使と同じ席すら与えられず、一般
 の招待者と同じ二階席に行かされ、指名献花も無かった。
  総額300億円近い、アメリカに次ぐ額の募金をしてくれ
 た国に対して、この態度は極めて失礼と言う以上に非人
 間的だった。
  二周年追悼式は、自民党の時は、台湾を国賓として参
 列して戴いた。
  中国と南北朝鮮は欠席した。
  中国は、台湾を国として認める態度に反発した。
  韓国の欠席理由は、いつもの様に「意味不明の話」が
 伝わってきた。
  ここに記すのも馬鹿々々しい話だった。
  安倍首相は、台湾を国賓として参列して戴いたことに
 ついて、「礼節を大切にしたい」と語った。
.
2016年4月15日、アメリカの1%か、せいぜい数%の大金持
 ちが、富の99%を所有している。
  まったく不公平なキリスト教国・アメリカという国で
 ある。
  この富の不平等さは、「まったく卑劣だ」と・・唾棄
 する以外にない。
  当然、『民の富を収奪しなければ』こんなことが出来
 る訳がない。
  99%の大多数の民の富が、せいぜい数パーセントの大
 金持ちによって奪われるという封建状態の政治となって
 いる。
  これを、「格差」という言葉でマスコミは綺麗に表現
 する・・「掠奪状態的だ」などと露骨に糾弾したりはし
 ない。
  そして、この格差は、「ますます、拡大している」。
  こんなきれいな表現で、この問題を終わらせてはいけ
 ない。
  合法的とされる現行の法律規制のなかで、民の富を収
 奪している「ほんの一部の金持ちたち・富豪たち」。
  民へ利益還元すべき事も行わずに・・
  「民への分配」をしないから、この富豪たちのところ
 に富が、『ますます蓄積』されて行く。
  当然、社会システムが、適切ではないのだと言える。
  適切なら・・こんな極端な状況になる訳はない。
  この調整の方法の一つが「税制」である。
  税の財源を、当然ながら富が蓄積している所へ求める。
  それが当たり前なのだが・・
  金持ちや、富を蓄積している大企業へ求めるのが当然
 なのだが・・、
  ここにグローバル化なる「お化け」がある・・
  グローバル化が進んでいるので、税を高くすると、恩
 になった母国を、恩も何も関係ないと、その母国を出て
 行ってしまう。
  だから、「おいしいグローバル化への道」を大きな声
 で叫ぶ輩・グループが居る。
  ある意味でキリスト教もグローバル化を利用したいた
 めにグローバル化を叫んでいる。
  大企業やお金持ちが、逃げて行っては母国にとっては、
 元も子もなくなってしまう。
  今、世界一の投資家が、アメリカからシンガポールへ
 移っているが、個人的にもこの様な事がなされているが、
 (そして、子供には中国語を習わせているという)この
 様な事が簡単になされてしまう。
  限りなく税金を0へ向けて行かねばならないという性格
 を持ってしまう。
  むやみやたらに大企業に税はかけられない。
  逆に、大企業が国外に逃げるのをつなぎとめる様にと
 税金を安くする行為がなされている。
  または、逃げた大企業は戻っておいでと・・
  これを、今、アメリカのトランプ大統領がやっている。
  そしてまた、他国の大企業に進出してもらいたい国は、
 税金を安くして大企業誘致に懸命になる・・大富豪も同
 じに・・、
  税金の安い海外へ資産を移したりしないようにと・・
  その様なことのできない大多数の貧民は、「それは税
 金逃れだ」に見える・・
  それを躍起にやる世界になっている。
  (読売新聞、2016年4月15日)で、三木義一氏が、税負
 担を軽くするには「節税」「脱税」「租税回避」の三つ
 があり・・、節税は合法、脱税は違法、税制回避は節税
 と脱税の間にあるグレーゾーンだと言う。
  租税回避が、「タックスヘイブン」だ。
  (参考)タックスヘイブン:「租税回避地」という意
     味で、外国資本&外貨獲得の為に、意図的に税
     金を優遇(無税または極めて低い税率)して、
     企業や富裕層の資産を誘致している国や地域。
  産業が無い国や地域が、外国から投資を呼び込むのに
 つかっているが・・有効。
  「パナマ文書」が世界で取り沙汰されている。
  利益追求する大企業が、活用したいという面があり、
 利益拡大を求める大株主も租税回避を促している面があ
 る。
  多くの税負担をすべき富裕層や大企業が、国境の外へ
 と逃げる。
  国境の外の法律の届かない所へと逃げる。
  社会の破綻である。
  節操のなくなった大企業や大金持ち層が、こんな事を
 今、している。
  日本に育てられた子供や家族、残した日本の人たちに
 大きくしてもらった大企業が、恩も何も感ぜずに、日本
 から出て行く。
  「パナマ文書」に、国の模範となるべき「国のリーダ
 ーたち」が、自己だけの利益追求の欲に負けて、名を連
 ねている・・公表された名は、ここでは伏せるが・・
  世の末の形相を呈している。
  税のシステムの破綻行為をしている。
  アイルランドと言う国も、この手を使って大企業を誘
 致している。
  民主主義の破壊行為国となっている。
  周辺国からの苦情に、「税率の決定は各国の権利だ」
 と「けつまくりの反論」をしている。
  (参考)尻を捲る:しりをまくる・けつをまくる:
     居直ること。物腰を急に変えてけんか腰の様相
     を呈することなどを意味する表現。
  アイルランドへ、国際社会があってこそ、貴方の国・
 アイルランドも成り立っているのでしょうと反論したい。
  大企業は多国籍企業となり、大富豪も、莫大な資金を
 投入して節税と称して税金逃れをしている。
  アメリカというキリスト教国は、この流れに節操なく
 先鞭をつけた・・グローバル化が都合が良いと・・
  富を吸われ続ける庶民は、もっと怒らなければならない。
.
2016年、日教組は、「国際理解」という事を完全にはき違
 えている。
  また、意図的に詭弁(きべん)を弄(ろう)し、日本
 を冒涜している。
  また、日教組は、「ジェンダーフリー」を運動方針に
 している。
  だから、「ひな祭りなどの伝統文化」を否定している。
  この様な自分たちだけの判断基準を、子供たちに押し
 付けている。
  何でも屁理屈を付けて、理由なき理由を付けて反対す
 る日教組。
  日教組のこの言い掛かり的に、日教組の組織に付いて、
 文句を言うならば、日教組の組織は、圧倒的に、男性が
 多い組織になっている。
  故に、女性の日教組の組合員を増やせ、そして、どう
 しても女性組合員が増えないなら、女性組合員と同数に
 なるまで、男性組合員を減らせ。
  こんな男女格差のある組合員数は、ジェンダーフリー
 に反する。
  女性組合員と同数になるまで、男性の日教組の組合員
 の首を斬れ。
  毎日、この事を教室で、児童・生徒に言って洗脳教育
 せよ、マインド・コントロールせよ。
  そうすれば自分たちの主張が、程度の低い詭弁だと分
 かるだろう。
  もういい加減に、子供たちを繰る日教組活動を止めよ。
  頻繁に、性教育をするのが正しい訳がない、それも、
 だんだん過激な性教育をするようになっている事を日教
 組は反省せよ。
  また、低学年に、無節操に秘め事を話すことも悔い謹
 めよ。
  これは、電車の露出狂と同じ行為だという事に気付け。
  何も知らぬ子供たちへ、2時間も過激なレベルの性教育
 をするというのは「犯罪だ」。
  こんなことを6回も、7回もやるという。
  それも複数の露出趣味的手合いの教師が、複数で組に
 なってやるという。
  こんな異常さが許される訳が無いことを気付け。
  そんな行為、教育の名の下の犯罪行為をする権利はな
 い。
  10歳になるか、ならぬかの幼い子供に対して、教育と
 いう名に隠れた「言葉による性犯罪」である。
  「ペニスの洗い方」を多くの10歳の子供たちが、居並
 ぶまででリアルに話す必要はない。
  話したら犯罪行為だ。
  あまりに露骨なので、これ以上は控えるが、この紙上
 でも具体的指摘表現を憚(はばか)る犯罪行為をしてい
 る日教組の教師たち。
  外国から「ポルノレベルだ」と軽蔑されている。
.
2017年、我が国政府が表明している安全保障の方針・・
  我が国を守り抜く総合的な防衛体制の構築
 ☆厳しい安全保障環境の中、戦略環境の変化や国力国情
  に応じ、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備
  し、統合運用を基本とする柔軟かつ即応性の高い運用
  に努める。
 ☆政府機関・地方公共団体・民間部門との間の連携を深
  め、武力攻撃事態等から大規模自然災害に至るあらゆ
  る事態にシームレスに対応するための総合的な体制を
  平素から構築していく。
 ☆その中核を担う自衛隊の体制整備に当たっては、統合
  的・総合的視点から重要となる機能を優先しつつ、各
  種事態の抑止・対処のための体制を強化する。
 ☆核兵器の脅威に対しては、核抑止力を中心とする米国
  の拡大抑止が不可欠であり、その信頼性の維持・強化
  のために米国と緊密に連携していくとともに、弾道ミ
  サイル防衛や国民保護を含む我が国自身の取組により
  適切に対応する(抜粋)
 https://www.cas.go.jp/jp/siryou/131217anzenhoshou/gaiyou.html
.
2017年、日教組は、「強制だ」と言って拒否し、最終的に、
 それを排除する行為をする。
  与えれば・・『強制だ』と言う。
  自分たちが好きなこと、すきなものには、その様な事
 は、当然、言わない。
  ・・が、しかし、「自分たちが気に入らないものに、
 『強制だ』と言って受け入れない。
  『強制だ』を、受け取り拒否の看板にしている。
  指示・指導をしても「強制だ」と言う。
  結局、自分たちの好き勝手をしている。
  しかし、自分たちの給料は貰う。
  たまには、「強制だ」と受け取りを拒否をしてみなさ
 いと言いたい。
  結局、「管理されたくない」というところに帰結する。
  自分の好きな事「だけ」を・・自分の好きにやりたい
 のだ。
  自分たちの好きに、「子供たちを教育したい」「自分
 たちの好きに洗脳したい」なのだ。
  だから、「法律で決まった事もやらない日教組」とな
 っている。
  日教組の、教師の、好きに、子供たちをマインド・コ
 ントロールをしたいのだ。
  日教組は、「強制」という言葉で、自分たちの好きで
 ないことは、『強制的に拒否』し、強制的に排除し、受
 け付けない。
  日教組は、この様な方法で、自らのイデオロギーを子
 供たちに『強制』している。
.
2017年、韓国軍は、アメリカ軍にまったく信用されていな
 い。
  それは、朝鮮戦争の時から始まっていた。
  昨日・今日、始まったことでは無い。
  朝鮮戦争という激戦を戦う中で、気が付くと周りに韓
 国軍が居なかったという窮地をアメリカ軍は体験した。
  アメリカ軍は、冷や汗をかく様なことを、朝鮮戦争の
 時から何度も味わされて来た。
  韓国軍の幹部が嘆(なげ)く・・「何故?、日本の自
 衛隊は、アメリカ軍に信用されて、韓国軍は信用されな
 いのか?」と・・この韓国軍幹部の漏らし嘆いた言葉の
 答えはこれだった。
  これに対し・・「日本軍は、いつの時でも、正面から
 堂々と来た」・・「汚い事は一切しなかった」・・「こ
 の様な戦い方をするのは日本軍だけだ」とアメリカ軍は
 その裏付けを話した。
.
2017年、日教組の子供たちへの思想教育は『大罪である』。
  日教組は、まだ、発達途上の子供たちの頭に、洗脳教
 育をし、マインド・コントロールをしている。
  「日の丸」や「君が代」の日本の国柄を示す根本を壊
 そうとしている。
  「日の丸」「君が代」は戦争になるからと、何ら脈絡
 のない恐怖をたたき込んでいる。
  「天皇陛下」を「天皇」といい、恐怖の対象のように
 教える。
  絶対尊称は使わない日教組。
  「日の丸」の赤は、日本によって殺された人々の血の
 色だと、どぎつい表現の悪印象をマインド・コントロー
 ルするやり方で、子供たちを洗脳している。
  日教組に言わせれば、赤だって、黒だって、黄色だっ
 て、こんな言い方で「日本のすべてを悪く言いたい」の
 だろうが??
  『いかにして平和を守るか?』という、本来、教えな
 ければならない事の微塵も日教組は教えない。
  教えるべきことをしない日教組のお粗末となっている。
  『いかにして戦争を抑止するのか?』という、これこ
 そ教育すべき課題で・・、
  この様な重要な教育課題を放棄している日教組となっ
 ている。
.
2017年、ECという形を使ってドイツは伸びた。
  EUでは、どこの国も本音は移民に大不満。
  今、香港が、チベットやウィグルと同じように、どん
 どん中国本土の中国人がどんどん入って、香港が中国化
 しているという。
  数年働いて、お金がたまると、家族を呼び寄せるとい
 うパターンとなっている。
  オーストラリアにも、どんどん中国人が入って、その
 様な中国人は、積極的な行動家なのでオーストラリアの
 子供たちが駆逐されるという。
  日本のゲームばかりして「のほほんとしている子供」
 は移民に駆逐される。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)573E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)573E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年、出来事:
・内閣:第二次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・小学校の祝祭日の唱歌として「君が代」などが選定され
 た。
・海軍省が、下瀬火薬を水雷用として採用した。
・シカゴ万博(1893年5月1日~10月3日)
・エジソンが映画を発明した。
・野口英世が医師の書生となった。
・スウェーデンのスヴェン・ヘディン(地理学者、探検家)
 が、トルキスタン(西はカスピ海、東は中国、北はアラ
 ル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、
 イラン国境に及ぶ地域 )や、西蔵(せいぞう、チベット
 の西南部分)や、新疆(しんきょう、ジュンガル、モン
 ゴルとウィグル)の調査をした(~1897年)
・アメリカ移民の親米派によるクーデターで、ハワイに共
 和国が誕生し、ハワイ王国が滅亡した。
・松平容保が没した(1835年~1893年、58歳)
・毛沢東が中国湖南省に生まれた。
 中学校も師範学校もこの省の都の長沙で過ごした。
.
1893年、国際:
・ハワイ王国が滅亡させられた・・アメリカの属領となる
 (1893年1月22日)
・アフリカのギニアが、1890年にセネガルから分離してフ
 ランスの植民地となった。
  この後、フランス領ギニアと改称。
  そして、対フランス戦争が、1891年から7年間続いた。
  フランス領コートジボワールは、1880年代からヨーロ
 ッパ列強によって激しくアフリカ諸地域が争奪される卑
 劣な「アフリカ分割」が始まると、1893年に、フランス
 の植民地フランス領西アフリカとされた。
・モロッコで、スペインとリーフ地方のベルベル人との間
 で3次にわたり「リーフ戦争」が勃発した(~1925年)
 ヨーロッパの武力の強い国が、弱小のアフリカの国を好
 きに掠奪した。
.
1893年、経済・金融・貿易:
・アメリカに始まった恐慌は、各国で、恐慌の同時性とな
 って現れ、特に、鉄鋼、自動車、建設の諸部門では、ア
 メリカおよび西ヨーロッパ(EC)において深刻でだっ
 た。
.
1893年、物価:
・薬飴煉製20銭(7日分)
.
1893年、産業:
・御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した。
・エルモア・マニュファクチャリング・カンパニーが設立
 された。
 アメリカのオハイオ州クライドの自動車メーカー。
 最も小型は、1904年型の「エルモア・コンバーチブル・
 ラナバウト」で、4人が乗車でき650米ドルで販売された。
 当時市場で最も安価な自動車だった。
.
1893年、交通:
・新橋汽車課汽車監督雇のイギリス人フランシス・ヘンリ
 ー・トレビシックが、機関車・客車・貨車・線路縦断面・
 転車台・信号機・分岐器等の形式図面集を作った。
・北陸線の敦賀駅~今庄駅間の葉原トンネルが着工された
 (空気圧縮機のシュラム式削岩機を用いて掘削した)
・神戸・京都・横浜・品川の各停車場に連動装置を設備し
 た。
 連動装置は、駅構内の信号機と転てつ機を関連づけて全
 体的な保安機能を実現して、列車を安全に運行させるた
 めの装置のこと。
・下等車に「うすべり(薄縁、布の縁を付けたござ)」を
 取り付けた。
.
1893年、食:
・神谷傳兵衛が浅草「みかはや銘酒店」で日本初のカクテ
 ルを発売した。
 神谷バーの看板メニューでもあった。
 「夢のカクテール」と呼ばれて太宰治や林芙美子ら数多
 くの文学作品にも登場した。
.
1893年、報道:
・文学の分野が不振だというが、さかんだった時期などな
 い。これからの問題だ(毎日新聞)
・東京弁護士会の創立。
 予想どおり、発言者が多く、大声ばかりの混乱の会議(
 東京日日新聞)
.
1893年、論・文学・本・芸術:
・勝海舟『開国起源』、洋装3冊(宮内省出版)
  旧幕臣の勝海舟が編纂した書で、1893年に成った3巻で、
 日本がどのようにして開国し、開国後どのような外交を
 行なったかを記述した。
  対象とした時期は、1830年代~1867年まで。
  前半は重要な事件の項目別に、後半は編年体に構成さ
 れている。
  条約、幕府の達(たっし)、外国公使と老中との対話
 書、外国奉行をはじめ諸幕臣の上申書や評議書などを全
 文引載し、ところどころに勝が解説を付した。
・本:文芸雑誌 「文学界」 創刊
 1898年1月まで58冊発行された明治のロマン主義の月刊誌。
 北村透谷、島崎藤村、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田
 山花袋らが書いた。
・本:「西伯利(シベリア)地誌」刊行(1893年12月出版)
 参謀本部:出版者、
 漢族と対立しているモンゴル族など歴史・社会・文化の
 深い理解が必要だった。
 軍事活動に民族学の知識が必要だった。
・本:陸羯南「原政及国際論(げんせいおよびこくさいろ
 ん)」 (1893年8月刊)
 西欧諸国は、自国に不利益な場合は守らないという万国
 公法なんて存在する意義があるかという論を張る。
 西洋キリスト教国の専横だと見る。
 西洋の規準を西欧以外に押し付けると見る。
 国の主権の平等性は無いと主張する。
 遵守の義務を負わされるのは、アフリカ・南洋・東洋の
 国だけだと主張する。
 今・現代にも、大いに通用する論を張っていた。
・本:井上円了「妖怪学講義録 第1号」
 妖怪学は、応用心理学の一部分として講述するものにし
 て、これに「学」の字を付するも、決して一科完成せる
 学を義とするにあらず。 ...
 今これを集録し、その部類を分かち、さらにその後、研
 究したる事実を増補し、左に「妖怪学講義」として掲載
 することとなれり。
 これを講述するは、哲学ならびに心理学研究に志ある者
 に、裨益(ひえき、ある事の助け・補いとなり、利益と
 なること)するところあるは明らかなり。
・本:田鎖綱紀「新式速記術」
 たくさりこうき、1854年8月、南部藩士の次男として盛岡
 在田鎖村で生まれる。
 15歳で上京し、大学にまなび、誌上で速記を始めて見て、
 1872年、カーライルから速記を見せられ、速記を学ぶ。
 1880年、東京麹町元園町に下宿し、日本語速記法の立案
 に努力した・・10年がかりで草案活動を続け、1882年9月
 19日、時事新報に「日本傍聴記録法」を発表した。
・本:東京書籍出版営業者組合「図書総目録」
 出版情報の基盤整備・・1902年に東京書籍商組合が上記
 名に改名され、改組され、9回に渡って刊行した「図書総
 目録」の序文には以下のように書かれている・・、
 「書籍と読書家との間に立つ所の目録が無かったならば、
 読書家の求める題目に就いて、又著者に就いて如何様な
 書籍が世に行はれてゐるといふ事、又読書家の求める書
 籍が如何様な出版事項の下に在るといふ事などが、一向
 に不明であるであらう」・・と。
・本:叢書「帝國文庫」
 1893年~1897年の博文館が発行した文学の叢書。
 毎月2冊発行した。全50冊。
 軍書、稗史(はいし、世間の噂などを歴史風に書いたもの)、
 人情本、黄表紙(絵を主として会話や簡単な説明で筋を
 運ぶ滑稽文学)、洒落(しゃれ)本(主に江戸で刊行され、
 遊離での遊びと滑稽を描写した読み物)などを網羅した。
 「真書太閤記」は特によく売れた。
・本:叢書「平民叢書」 (出版年:1984年説あり)
 出版者:民友社
 6冊(第1~10巻、号外合本)
 第1巻、19世紀之大勢
 第2巻、世界経済上之変動・・
 第9巻、哲学変遷史、附・近世哲学の大勢
・本:叢書「拾二文豪」(出版年:1903年説あり)
 著者:塚越芳太郎
 出版者:民友社
 トルストイ、滝沢馬琴、近松門左衛門、柿本人麻呂及其時
 代、シエレー、バイロン、頼山陽及其時代、トルストイ、
 シルレル、ユーゴー、エマルソン、ジョンソン、新井白石、
 カーライル、荻生徂徠、マコウレー、ヲルヅヲルス、ゲー
 テ、
・論:坪内逍遥「我が國の史劇」
 坪内逍遥は、1893年10月~1894年4月にかけて早稲田文学
 に、演劇における「小説新髄」ともいうべき「我が国の史
 劇」を発表した。
 日本で最初の史劇論である・・史劇=歴史劇。
 「史劇とは、件の個々の人物をば、專ら過去の世間に取り、
 且つ之れを過去の特殊なる事情境遇の間に立たしめて、件
 の千占唯一體なる自然人間の甼等旨を殊なる過去相のうち
 に現示せんと力むるもののみ。」。
・論:伊東忠太「法隆寺建築論」
 東京帝大大学院に在籍していた伊東忠太が、この年、「法
 隆寺建築論」を発表した。
 中門や金堂内部の柱の中間部は、膨らんだエンタシスで、
 これはパルテノン神殿などの円柱と同様のものと論じ・・、
 そして、これは、古代ギリシャ建築の影響であるとした。
 これに気付いたのは、伊藤が最初という訳ではないが・・、
 伊藤のこの論が世に広まった。
 そして、この法隆寺観が、当時の建築学界に受け入れられ、
 大勢が同意するところとなった。
 そして、この時代の支配的認識の枠組みとなった。
 (古代ギリシャ文化的な法隆寺観の原点となる)
・「老猿」(高村光雲)この年のシカゴ万国博覧会に農商務
 省の依頼で個人出品した。
.
 (今日の言葉)
.
 題:逆に、かつてのアメリカと強い結びつきのあったヨーロッパが
  疑問の行動をとる・・クエスチョンだ・・??
.
紀元前430年、ギリシャのアテネという都市は、直接民主制
 だと・・理想的な様に言われ・・今・現代、その様に語
 られている。
  この当時を、よく見てみると、その直接民主制の政治
 に参加できた人は3万人。
  この人々の意見が、平等に、公正に、どのように諸意
 見が聞けたのか?・・そして、諸意見が言えたのか?
  そして、その諸意見がどのように討議され・・、
  そして、どの様にその討議の意見が収斂(しゅうれん)
 され、収れんが図られて・・理想論に近づいたのか??
  3万人の集団が・・できたのか??
  これは、非常に・・疑問である・・
  また、これ以外にも、この時代、アテネ市民は12万人。
  9万人が除外されていた。
  それが、女性と未成年者であり・・男尊女卑があった。
  また、8万人の奴隷が、市民でもなく、数も数えられる
 こともなく存在していた。
  奴隷という卑劣な地位に置かれ、考えの下に置かれた。
  この人々には、政治の「せの字」もなかった。
  これの、「どこが理想的だ」というのだ。
  人権さえ認められない人々が存在し、また、女性を除
 外するという卑劣な社会だった。
  こんな卑劣な社会を「理想だとデッチ上げる」のが、
 ギリシャを原点だと言う「ヨーロッパのプロパガンダ(
 嘘宣伝)」だ。
  そして、結局、この仮想を原点とするヨーロッパは、
 キリスト教を宗教とする国々は・・
  良く見れば仮想で空虚な状態を・・しっかりした原点
 を持っているのだとプロパガンダせざるを得ない・・そ
 して、それを引き継ぐキリスト教国のアメリカも、「正
 統なのだ」と同じ様にプロパガンダする・・嘘の話なの
 だ。
.
1753年、J・P・プラッシーが生まれた。
  キリスト教の宗教性を、学問的に究めるための聖書学
 という事を始めたJ・P・プラッシーが、この年に生まれ
 た(1753年~1826年)。
  そして、この学問は、時代が進むほど、研究が進めば
 進むほど、
  キリスト教の悲劇が極まって行ったという経過をたど
 った。
  そのキリスト教の悲劇は、新約聖書学という近代の学
 問で、厳密に、精緻に、研究をすればするほど、万人を
 説得できるような、確実不動のイエス像の再構成の見通
 しが、暗くなって来ることであった。
  研究によって再建されたイエス像は、たかだか蓋然性・
 妥当性の域を出なかった。
  例えまた、再建されたとしても、イエスの思想は、新
 約思想の部分にしかならず、全体になり得ないというも
 のだという事が判明した。
  また、この部分的なイエスの思想を使って、新約思想
 の本質を探ろうとしたら、原始キリスト教団の多くは、
 切り捨てられてしまうという結果となった。
  また、そのイエスの思想は、その肝心な神学的根拠が
 明白ではない。
  つまり、
  『キリスト教は、基礎からしっかり積み上げられるよ
 うな宗教ではない』と、分析された結果となった。
  砂上の楼閣的な宗教だとの研究結果になって行った。
  キリスト教は、研究が進めば進むほど、宗教として成
 り立ちえない事が明白になって行った・・その様な、研
 究の歴史となった。
.
1863年、朝廷の攘夷の要求に押された幕府は、この年、各
 藩に攘夷を行なうよう命じた。
  これを受けて長州藩は、下関海峡を通過するアメリカ
 商船に砲撃を加え、攘夷を決行した。
.
1882年3月、伊藤博文は、「憲法取調の大命」をうけ、横浜
 を出航し、この年の5月に、ベルリンに到着した。
  ドイツの憲法学者グナイスと、モッセらに付いて講義
 を受けた。
  しかし、伊藤博文に、憲法の神髄を教えたのは、その
 後、8月8日、オーストリアに行き、ロレンツ・フォン・
 スタインに教えを受けた後だった。
  伊藤博文は、その感激を、その歓喜を、岩倉具視へ手
 紙で伝えた。
  「スタイン博士の講和は私の感格を興起(こうき、勢
 いが盛んになること)せしめました」と。
.
1923年、日本郵船は、長崎~上海間に週2便の日華連絡船「
 上海丸」「長崎丸」を就航した。
  長崎市民にとって上海は「下駄ばきで行ける外国」と
 なった。
.
1956年、地方教育行政法(「地方教育行政の組織及び運営
 に関する法律」の略称)が施行された。
  会社に入って、「入社」して、その会社の「社則」や、
 「社旗」や、「社歌」に対しての信義(しんぎ、真心を
 もって約束を守り、相手に対する務めを果たすこと)を
 果たし、重んじなければならない。
  そこを、「内心の自由」を主張して、反対を唱えたら・・、
 「退社が言い渡される」「減俸が言い渡される」・・と
 なる。
  これは当たり前だ。
  公立小学校~大学においても同じだ。
  今、日本で、「内心の自由」だからと、奔放な行為が
 日教組・教職者によって行われている。
  国旗や国歌を無視している。
  そして、それを、子供たちに押し付けている、子供た
 ちが見ている。
  それが、「思想」や「信条」に変わったって同じだ。
  私立においても同じだ。
  例えば、私立のキリスト教系学校において、「内心の
 自由」「思想」「信条」を主張して、キリストに反目し
 たり、イエスに反目したりしたら、その教職者の立場は、
 必ず失われる。
  国であろうと、地方自治体であろうと同じだ。
  何ら変わる所はない。
  教えられる側、児童や生徒には、罪はない。
  毅然とその罪を問わないところに問題がある。
  会社に忠誠を誓わない社員には、即、退社を命じるの
 と同等。
  法律で決まっていることをしない「法律違反者」を取
 り締まらずにいる異常な状態は改善されなくてはならな
 い。
  この問題を長らく放置し、法律違反者を野放しにして
 来た「お目つけ部署」が、この様な状況にした・・ここ
 が悪かった。
  締まりのない無法状態となってしまった。
  「教育長の指導なり、命令が、まったく無視されてい
 る」と報告を受けているのに、「困った事だ」で手をこ
 まねいていて、終りにしている。
  地方教育行政法43条の2項に、「上司の命令に忠実に従
 わなければならない」とある。
  この法律に違反しているのが、はっきりしているのに
 だ。
  違反しているのに、この上司(教育長)は、何年も、
 事態を改善しないで、手をこまねいて放置していた。
  職務命令が出せない「保身の教育長」が、見透かされ
 た。
  日教組と対立する事をしない、または、怖いと・・職
 務をまっとうしていない。
  日本は、この様な教育長を糾弾する部門が必要な国に
 なってしまった。
  だから、国や国民と、何ら関係ない日教組が、「日本
 の根幹の教育を牛耳る事態」となってしまった。
  いい子になっている教育庁・教育委員会との間に挟ま
 った「校長先生」が、大勢、自殺する日本になってしま
 った。
  日教組委員長が、北朝鮮に何度も行くような組織、そ
 して、職員から集めたカンパを北朝鮮に渡し媚(こび)
 を売るような組織・・日教組。
  (参考)地方教育行政の組織及び運営に関する法律
    (服務の監督)
    第43条:市町村委員会は、県費負担教職員の服務
     を監督する。
     2、県費負担教職員は、その職務を遂行するに当
     つて、法令、当該市町村の条例及び規則並びに
     当該市町村委員会の定める教育委員会規則及び
     規程(前条又は次項の規定によつて都道府県が
     制定する条例を含む。)に従い、かつ、市町村
     委員会その他職務上の上司の職務上の命令に忠
     実に従わなければならない。
.
2017年、日教組とキリスト教が連携し、提携している。
  キリスト教の歴史で・・キリスト教を宣教していく過
 程で・・、
  キリスト教は、「信徒が増えてほしい」「金が欲しい」
 「権威が欲しい」・・と、あらゆるものと「くっついた」。
  他国の宗教の教義さえ、節操なくどんどん取り入れた。
  「宗教として、節操のない事でも、何でもやる」とい
 うキリスト教の体たらくだった。
  イエスの誕生日も、全く不明であったが、当時、隆盛
 を誇っていたミトラ教の「盛大に行われていた『冬至の
 祭り』の日」をイエスが誕生日としてしまった。
  馬小屋での誕生も、当時、その様な話が、あちこちに
 あったがそれを取り入れた。
  また、自分の宗教に無かった「天使」も、他宗教から
 持って来た。
  そして、真似たと思ったら、「大天使」の例のごとく
 天使をどんどん作った。
  そして、その天使たちをキリスト教のヒエラルキー(
 序列)と同じく、上下をどんどん作って言った。
  「ヒエラルキーのキリスト教」と言われる如く、序列
 の宗教性が強くなって行く。
  地場の宗教の「相手の教義」さえどんどん取り入れた。
  それは、信徒を増やしたい、金が欲しい、権威が欲し
 いが故の行為だった。
  権威が欲しいとして取った策の1つが「大学とくっつく
 こと」だった。
  特に、頭をもたげて来ていた大学の医学関係とだった。
  当時は、町の人たちは、人々が頼りにしていた人は、
 『助産婦さんたち』だった。
  農家の女性が、豊かな伝統を引き継いで、また、豊か
 な知識で・・助産婦の仕事以外にも・・病気からも人々
 を救っていた(医師の役目もしていた)。
  大学医学とつるんだキリスト教は、この助産婦の方々
 を狙った・・弾圧した。
  キリスト教は、この助産婦の方々を「魔女」に仕立て
 て攻撃した。
  そして、世間を煽(あお)って・・殺した。
  夜、野草を煎じて薬を作っている姿を「魔女だ」と言
 いふらした。
  町の皆が来るキリスト教会が、この悪行為の中心だっ
 た。
  キリスト教の魔女裁判所が、キリスト教会内に作られ、
 キリスト教聖職者が裁判官になり、拷問が行われ、絶対、
 生きて帰って来れない状況で監禁され・・殺され、魔女
 にされた女性の財産は、キリスト教会に没収された。
  焚刑に使った薪の代金まで、キリスト教会は請求した。
  この1例の様な悪行為は、まだまだ、キリスト教には
 たくさんある・・一杯ある。
  『東洋医学の漢方』のように、西洋にも薬草学が立派
 にあった。
  しかし、この西洋の薬草学は、キリスト教のこの魔女
 殺しの悪行為によって滅んでしまった。
  そして、今、キリスト教とつるんでいる日教組は・・、
 「日の丸」「君が代」を、この魔女の如くに「忌み嫌わ
 れるもの」として・・排斥している。
  また、何事にも偏頗(へんぱ)に考える癖のある日教
 組には・・、「『いただきます』という丁寧語を使って
 はいけない」という指令・指示がある・・教義がある。
  キリスト教と同じ様に、「害ある教義」の如くに唱え
 ている。
  「『いただきます』が差別を生む」というのがその理
 屈である。
  人間関係に上下関係を生んでいると言う。
  そんなことを言ったら、キリスト教なんて上下だらけ
 のヒエラルキー(序列)宗教だ。
  だから・・日教組は、提携しているキリスト教の「こ
 の序列の差別を治すこと」をするべき・・、
  日本語には「丁寧語」の他に「謙譲語」という言葉が
 あり、日本の素晴らしさ、良さを作っている。
  こんな日教組教師に、子供の教育を任(まか)せてい
 ると、言葉の使い方も粗雑になり、ガサツになってしま
 う。
  国語の勉強以前の問題だ。
  また、日教組は、儀式を、「権威を押し付けるものだ」
 と言う。
  儀式を悪いことだとする(ならば、提携しているキリ
 スト教のミサの宗教儀式はどうなるのだ?)
  日教組は、儀式の「厳粛さを感じさせるのもいけない」
 と言う。
  何でもかんでもいけないとして、やりたい放題にさせ
 ている。
  こんな教育だから、成人式で暴れる新成人が出来てし
 まう。
  日教組は、クラッカーを鳴らすのも自由と教える。
  踊り出すのも自由であると教える。
  自由が良いのだと洗脳する。
  「パーン、パーン」とクラッカーが鳴る卒業式がある
 が、日教組の考え・指導・意向で行なわれている。
  こんな日教組の洗脳がなされている子供たちなので、
 成人式も大騒ぎに騒ぎ出すのだ。
  あるべき姿を教えないで、自由だから何をやっても良
 いと間違ったことを教える日教組に責任がある。
  日教組もキリスト教も、日本の文化・良さを壊したい
 としている。
  日本の国柄を壊したいとしている。
  キリスト教が、「頑張るな」という運動をしている・・
 勤勉な日本の良さを否定している。
  キリスト教は、楽にする話ばかりをしている。
  受けの良い・・「いいとこ取りの宗教」となっている。
  結婚式のキリスト教・・、
  そして、「プレゼント」だとか、「眼前の楽な話ばか
 り」をする宗教となっている・・深さはない。
  日教組もこのキリスト教に洗脳されている。
.
2017年、スリランカと中国の結びつきが強くなっている。
  中国の一帯一路政策の一端で、今、中国のスリランカ
 での巨大プロジェクトが動いている。
  中国が、この様にスリランカを重視するのは、スリラ
 ンカの位置が、シーレーン(海上交通路)の重要な位置
 を占めているから・・、
  シーレーンの要衝がスリランカなのだ。
  中国は、今、インド洋沿岸の国々で、次々と港を建設
 している。
  『真珠の首飾り』と言われる戦略を進めている。
  スリランカの最大の都市・コロンボの大プロジェクト
 は、習近平国家主席が出席して起工式が行われた。
  中国の第一の国家事業だ。
  今、強大な埋め立てが進められている。
  25万人が暮らす巨大な港湾都市を造るとされている。
  東京ドーム60個分の広さの土地で、投資金額が1600億
 円という。
  国際金融センターが設置され、港湾都市のモデルを作
 ろうとしている。
  2014年からすでに工事は始められ・・、
  スリランカ金融の中心地にしようとしている。
  この様なスリランカにインドは気をもむ。
  しかし、インドとスリランカは、2009年まで内戦が続
 けられていた。
  中国は、スリランカ政府に武器を提供した。
  そして、中国の存在感を高めた(かつて、アメリカが
 中国でやったこと)
  内戦が終了後、「スリランカ最大援助国としての地位」
 を確保した。
  かつて、第二次世界大戦直前、アメリカが、中国に武
 器を大援助して、日本に対抗させて、中国を戦わせて、
 日本の疲弊を狙ったように・・中国も最大のスリランカ
 の武器援助国となった。
  中国とインドは国境でもめている如く、犬猿の仲だ。
  スリランカ南部の小さな漁港・ハンバントタの場合は、
 中国は巨額な金を貸し付けた。
  そして、それをもとにして、開発が進められているが・・
 大きな問題がある・・そこが・・中国の狙いなのか??
  この港が利用される頻度は、1日に1隻・・程度。
  まったく理屈に合わないことに・・中国は金を出して
 いる・??
  何でか?? ここに中国は金を貸し付けて港を作るの
 か??
  返済が滞るのは目に見えている。
  中国が貸した金の額は・・9000億円・・こ様な巨額・・
 スリランカは、中国に対してこの様な債務を負っている
 という。
  『返済するのに400年かかる』と、スリランカのカルナ
 ナヤケ財務相は言った・・お手上げだと言いたいように・・、
  そこで・・、
  スリランカ政府と中国政府が取り交わした『合意文書』
 には・・見た目が美しくことが書かれていた・・、
  債務の軽減のために・・
  「中国へバンドン港の99年間の運営権を与える」、
 そして、その「治安警備の権限も与える」・・だった。
  スリランカ海軍に変わって『中国海軍』が警備を行な
 う・・と・・、
  スリランカ港湾局会長は・・言った、『これでは、中
 国の植民地だ』
  『どんな中国の船が入港してくるのか? 私たちには
 まったくわからない』・・と・・、
  そして、地元の僧侶は、『植民地化への道だ』、『大
 きな国の小さな国に対するやり方だ』・・と、
  内戦が終結した後、インドとスリランカとの間に「し
 こりが残った」・・その隙間に入って来た中国。
  2015年、インドのモディ首相が、28年ぶりに、スリラ
 ンカを訪問して、「関係改善に努めている』が・・??
  また、2016年4月に、インドによる経済協力を約束する
 関係強化も進められているが・・??
  そして、スリランカ東部のトリンコマリ港のインドの
 手による開発も始められたが・・??
  また、モディ首相は、インドから移り住んだインド系
 タミル人の人たちの地を訪ね、1万棟の住宅建設をすると
 約束したが・・?? 
  「同じ民族です」と繋がりの強さも話したが・・??
  スリランカの人々からも・・「インドとスリランカは
 家族なようなものです」との声も聞かれたが・・??
  インドは、中国の一帯一路の路線に多きな疑念の気持
 ちを持っている。
  2017年、北京で行われた一帯一路フォーラムに、イン
 ドは出席をボイコットした。
  インドの周辺国で進む、中国の拠点づくりが、「イン
 ドの大きな脅威」となっている。
  そして、インド外務省は言う・・、
  「中国の一帯一路は、国の主権を侵し、また、逆に、
 開発支援を受けた側が借金で苦しんでいる」と非難した。
  インドの隣の国・パキスタンでの中国がやる建設では、
 インドが主張している領土・国境を侵していて、これも、
 「インドの主権にかかわる」と強く批難されている。
  これに対し、案の定、中国も強く反発した。
  強い武器を持つ中国は、強気で押し切る態度を続けて
 いる。
  中国・潜水艦のスリランカ港の入港を、スリランカ政
 府は拒否した。
  また、これを、インドは、「中国による挑発だ」と言
 った。
  アメリカは、2006年に、インドに対する政策を大転換
 して、民生用の原発技術や、核燃料を提供する原子力協
 定を結んだ。
  これまで、アメリカは、NPT=核拡散防止条約にも
 参加しないで核兵器開発して、核保有するインドに対抗
 し・・30年間、関係が冷え込み・・関係が途絶え、対抗
 していた・・これを、大転換した。
  やはり、アメリカは、「中国と対する事・・対抗する
 こと」・・これを第一義(最も大切な根本的な意義)と
 した。
  インドは今、最大のアメリカ製武器の輸入国となって
 いる。
  それまでは、2006年までは、すべてロシアから買って
 いた。
  今、インドとアメリカの結びつきは強い。
  日本もインドとの結びつきは強い。
  これに、オーストラリアも入って・・4か国となってい
 る。
  インド政府筋も、この4か国との結びつきが強まる方向
 にあると発言している。
  この様な、世界での経過の中にある中国・・韓国との
 結びつきは強い・・が・・
  中国は、中国が捏造した南京事件で日本を虐(いじ)
 め、そして、中国にそそのかされた韓国は、無実の慰安
 婦問題で、日本を虐めて、中国の言いなりになっている。
  世界に慰安婦像を建てるのは、中国の金となっている。
  しかし、この図も、だんだん世界にその真の姿が分か
 られて来て、理解されなくなって来ている・・
  この後、ますます、バカにされる様になって行くだろ
 う・・そして、最後は、逆に、反発されることとなって
 行くだろう。
  中国と強く結びつく北朝鮮の核は、非常な脅威で、韓
 国は、その脅威によって北朝鮮に接近しているが・・そ
 の道は先細りとなるであろう。
  逆に、かつてのアメリカと強い結びつきのあったヨー
 ロッパが疑問の行動をとる・・クエスチョンだ・・??
  利益に目がくらんで・・金だけの状態で・・理念や理
 想はそっちのけの醜(みにく)い姿を見せている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月24日、「民法・商法施行延期法」が公布された(
 11月24日説あり)
  御雇い外国人のフランス人・ボアソナードは、フラン
 ス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法など
 を参考にして、10年の歳月をかけて日本民法を起草した。
  種々の国内の手続を経て、1890年4月と10月に分けて民
 法が公布された(「旧民法」という)
  しかし、批判が始まり、施行を延期して内容を修正す
 べきだという延期派と、予定通り施行すべきだという断
 行派との間に激しい論戦が起きた(民法典論争)
  今までの日本の良き美俗(びぞく、うるわしい風俗や
 習慣)を破壊するなどという意見が出た。
  1892年、民法商法施行延期法律案が帝国議会に上程さ
 れ、1892年5月に貴族院で、1892年6月に衆議院でそれぞ
 れ可決され・・、
  そして、この日、民法及商法施行延期法律が公布され
 た。
1892年12月、大阪角座で、大谷馬十(おおたにばじゅう)
 らが、初めて男女混合劇を上演した。
1892年12月、正岡子規が日本新聞社に入社した。
  東京帝国大学国文学科を中退して、入社した日本新聞
 社に、福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷
 川如是閑らがいた。月給15円。
  そして、、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、『
 獺祭書屋俳話』を連載、俳句、短歌の革新運動を進め写
 生論を提唱した。
1892年12月12日、伊東祐亨(いとうすけゆき)が、横須賀
 鎮守府司令長官となる。
  伊東祐亨(1843年6月9日~1914年1月16日)武士(薩摩
 藩士)、海軍軍人(元帥海軍大将)、華族(伯爵)。
  初代連合艦隊司令長官。
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄。
  飫肥(おび)藩主伊東氏に連なる名門の出身。
  開成所でイギリスの学問を学んだ。
  勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗
 光らと共に航海術を学ぶ。
  戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
  1882年、海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比
   叡」の艦長を歴任。
  1892年12月12日、海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官
   兼海軍将官会議議員を拝命。
  1893年、常備艦隊長官を拝命。
  1894年の日清戦争に際し、7月18日に連合艦隊司令長官
   を拝命・・その約2ヶ月後・・
  1894年9月17日12時50分から始まった黄海海戦。
   日本の連合艦隊と、清国の北洋水師(中国北洋艦隊)
   との間の海戦では、戦前の予想を覆(くつがえ)し
   て、清国側の大型主力艦を撃破した。
   (日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗
   艦「定遠」は7220tと、倍近い差があった)
   黄海の制海権を確保し、この戦いの転回点となった。
1892年12月8日、乃木希典(のぎまれすけ)が、近衛歩兵第
 1旅団長となった。
  乃木希典(1849年12月25日~1912年9月13日)武士(長
 府藩士)、軍人(陸軍大将)、教育者、伯爵。
  「乃木坂」に名を残している人。
  長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、
 80石)と壽子(ひさこ)との三男として、江戸の長府藩
 上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生
 まれた。
  兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲し
 い、という願いが込められて幼名は無人(なきと)。
  10歳まで生活した江戸の長府藩上屋敷は、かつて、赤
 穂浪士の武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの
 間預けられた場所であった。
  無人も赤穂浪士に親しみながら成長した。
  幼少時は虚弱体質で、臆病だった。
  友だちに泣かされることも多い子供だった。
  父の教育は、極めて厳しかった。
  「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。
 寒いなら、暖かくなるようにしてやる」と述べ、無人を
 井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。
  16歳の源三(無人を改め)は、学者となることを志し
 て父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県
 下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒
 歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。
  玉木家は、乃木家の親戚筋であった。
  文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔した
 ことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述
 べ、源三の弟子入りを拒絶した。
  しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之
 進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。
  1864年10月(15歳)から、萩藩の藩校・明倫館の文学
   寮に通学。
   一方で、1864年12月から一刀流剣術も学び始める。
   この年、友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊
   を組織。
  1865年(16歳)第二次長州征討が開始されると、
  1865年(16歳)5月、萩から長府へ呼び戻される。
   長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率い
   て小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)
   に加わる。
  1866年(17歳)長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に
   入学(復学)。
   この後、越後方面に進軍していた報国隊に加わりた
   いため(藩が出陣を許さなかった)何としても出陣
   したいと脱藩。
   しかし、脱藩して馬関(現・山口県下関市)まで来
   たところで捕まり、明倫館に戻される。
  1868年(19歳)2月、報国隊の漢学助教となる。
  1868年(19歳)11月、藩命により伏見御親兵兵営に入
   営してフランス式訓練法を学ぶ。
  1869年(20歳)8月、京都河東御親兵練武掛となる。
  1870年(21歳)2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練
   兵教官として、馬廻格100石を給された。
  1870年(21歳)2月、一刀流修業も「目録伝授」となる。
  1872年(23歳)1月3日、黒田清隆の推挙を受け大日本
   帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属す
   (大抜擢)
  1875年(26歳)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に
   任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に
   赴任した。不平士族の反乱の恐れ。
  1876年(27歳)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)
   で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる「秋月の乱」が
   起きる・・乃木は、他の反乱士族との合流を図るた
   め東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在
   する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)において
   これを挟撃して、反乱軍を潰走させた。
    秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩
   の乱が起こった。
    この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、
   学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍
   に参加したことに対する責任をとるため自刃した。
  1877年(28歳)2月5日、西郷隆盛が私学校における幹
   部会議で挙兵を決断した。この情報を政府はいち早
   く政府側は察知した。
  1877年(28歳)2月14日、鎮台司令長官・谷干城の命を
   受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加した。
    乃木は、小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16
   日に熊本を出発し、17日夜に福岡に着、そこで薩軍
   の鹿児島出発の報を受けた。
    乃木は、この西南の役で各地で激戦・死闘を展開
   する・・田原坂の戦い・・など、重傷を負って野戦
   病院に入院するも、病院から脱走して戦地に赴こう
   とした。
   (この時の後遺症で左足がやや不自由となる)
    乃木は、薩摩軍に包囲される窮地もある。
    連隊旗も失うということもあり、「待罪書」を送
   り、厳しい処分を求めたりもした。
  1878年(29歳)1月25日、東京の歩兵第一連隊長(抜擢)
  1878年(29歳)2月14日、旧薩摩藩藩医の娘・お七(結
   婚後・静子〉と結婚。
  1883年(34歳)2月5日、東京鎮台参謀長に任じられる。
  1887年(38歳)1月、政府の命令で、陸軍少将・川上操
   六とともにドイツ帝国へ留学(1888年6月10日まで)
   ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉
   デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義
   を受ける。
    次いで、ベルリン近郊の近衛軍に属し、ドイツ陸
   軍の全貌について学ぶ。
    また、軍医として留学中の森林太郎(森鴎外)と
   も親交を深め、その交友関係は以後、長く続く。
    帰国後、乃木は軍服を常に着用し、生活はとこと
   ん質素にした・・芸妓の出る宴会は絶対出席せず。
    これを、作家・松田十刻氏は、「復命書」で軍紀
   の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく
   振舞わねばならないと考えての結果と分析している。
    乃木は、第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩
   兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古
   屋)となった・・しかし・・、
  1892年(43歳)病気を理由に2度目の休職に入る。
   休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(
   現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農
   業に勤しんだ(上司との意見の相違か?)
    その姿を「農人乃木」と呼ばれた。
  1892年(43歳)12月8日、10か月の休職を経て復職し、
   東京の歩兵第1旅団長となった。
1892年12月、この月に刊行した『鉄道線路各種建造物明細
 録』(第1・第2編)によると、この時期の官設鉄道におけ
 る踏切道設置箇所は番舎の設備ある箇所313、番舎の設備
 のない箇所4828計5141箇所。
1892年12月、筑豊興業鉄道が、若松に工場を開設した。
  若松製作所設立(後の国鉄若松工場)
  この鉄道は・・、
  1891年、筑豊若松~ 直方間が開通し・・、
   日本経済の近代化に大きな役割を果たした筑豊の石
   炭輸送の産業鉄道として活躍した。
  1897年10月、九州鉄道と合併した。
   石炭輸送が拡大するにつれ、九州鉄道と競合するこ
   とになり、両社株保有株主からの要望が強くなり、
   この年の10月に、九州鉄道と合併し、国及び地域の
   近代化・発展に貢献した。
  明治時代に入った日本は、鉱山解放、鉱区の出願が自
 由とした。
  1887年以降、大手資本が参入して、生産規模が拡大し
 て従来の川ひらたによる水運が限界となり、陸運鉄道の
 敷設、積出港としての若松港、洞海湾の開発が緊急課題
 となった。
  そこで、この筑豊興業鉄道が、北九州地区で九州鉄道
 に次いで二番目に敷設された私設鉄道となった。
  1891年8月、若松~ 直方間開通時の機関車は4両、石炭
 貨車(6t)は95両であったが、送炭量の増大にあわせて、
  1896年、機関車30両、石炭貨車は1022両まで飛躍的に
 増加した。
  一方客車は、19両から22両と殆ど増えておらず、典型
 的な石炭輸送の産業鉄道であった。
  機関車は、米国から輸入、石炭貨車は当初英国から購
 入し、逐次、国産車も新設された。
  これらの修理に、1892年、若松駅構内に若松工場を創
 設した
.
  (今日の言葉)
.
  題:大東亜共栄圏:ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が・・、
    日本の敗戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加した。
.
1745年、伊能忠敬が生まれた(1745年~1818年)
  伊能忠敬がつくった伊能中図(ちゅうず)は非常に正
 確な地図で、この地図の存在を知った西洋列強は、日本
 の技術の高さに驚いた。
  この地図は、今、東京国立博物館の所蔵されている。
  また、同様に田中久重(ひさしげ、1799年~1881年)
 の「からくり人形(弓曳童子、トヨタコレクション蔵)
 は、複雑な驚くべき動きをする。
  現代の科学技術から見ても非常に高度である。
  田中は、電気機器メーカー東芝の創始者。
  この歴史ある会社・東芝が、今、元アメリカの会社の
 債務を被(かぶ)り、会社が無くなるほどの窮地にある。
  アメリカの策にはまった感がある。
.
1860年代、日本の浮世絵が、この頃からヨーロッパへ数多
 く渡った。
  新鮮なその画風が、ヨーロッパの芸術家たちへ大きな
 衝撃と影響を与えた。
  浮世絵は、ロンドン万国博覧会(1862年)やパリ万国
 博覧会(1867年)を機に、広くヨーロッパへ紹介された。
  浮世絵は、浮世(世の中)の名の通り、江戸の町人た
 ちの浮世を題材に、日本人の日常生活を、芸術的に美し
 く表現されていた。
  日本の繊細な絵師たちは、木版画の特徴を良く生かし
 た。
  一方、19世紀後半のヨーロッパは、キリスト教の抑圧
 で宗教画や神話画のみが描かれるという時代だった。
  その抑圧から脱却したいと、もがいている時だった。
  新しい絵画を求める機運が高まっていた。
  フランスでは「モネ」「ドガ」「ルノアール」「セザ
 ンヌ」など、印象派と呼ばれる画家たちが、新しい芸術
 運動を展開していた。
  その様な時に、浮世絵は海を渡って行った。
  万国博覧会で浮世絵に接したヨーロッパの人々、キリ
 スト教世界に圧迫されていた芸術家をはじめとした人々
 は、その日本の明るい、町人などの人々が生活をエンジ
 ョイする姿に感動した。
  その奔放な構図や大胆な色彩にも衝撃を受けた。
  そこには、人々が幸せな生活をしている姿が描かれて
 いた。
  梅を愛(め)でる安藤広重の「名所江戸百景」の「亀
 戸梅屋敷」に感銘を受けた「ゴッホ」は、「花咲く梅の
 木」を描き、まるまる真似た、「模写だ」と言える行動
 をするぐらいの衝撃と影響を与えた。
  日本の画家たちの明るい先見性ある絵画に魅せられた
 西洋絵画界の人々が「そこに居た」。
  非常に多くの西洋画家たちが、節操なく真似た、そし
 て、模範とした。
  葛飾北斎の北斎漫画は、彼らの教科書的存在だった。
  「ジャポニズム」という一つの流れを示す言葉も生ま
 れた。
  陰鬱なキリスト教文化から脱却したい人々へ、新しい
 時代にふさわしい人間や自然の自由な見方を教えた。
  日常の中に美があるという「素晴らしい偉大な見方」
 を示した。
  美は天に求めなくとも、キリスト教のその様な固定観
 念から脱却して・・、
  その日常・実生活を大切に大事にする「その日常の周
 りにこそある」という事を示した。
  完全なる虚構のキリスト教の「天のみある」という固
 定観念を否定した。
  今を生きるあなたの周りにこそ「幸せや喜びがある」
 という事を教えた。
  伊勢参りを楽しむ人々、美しい富士山を愛でる人々、
 川遊びを楽しむ人々、夜の屋台のソバ屋を取り囲む人々、
 一生懸命に桶を作る職人、川を渡る人々、旅にあって茶
 屋で茶を楽しむ旅人・・その例はつきない・・人々が、
 生を楽しむ江戸時代の平和な姿が数限りなくそこに描か
 れていた。
.
1880年代、純潔十字軍が社会浄化運動を行ない、アメリカ
 純潔連合、アメリカ自警協会、アメリカ社会衛生協会な
 どの組織がつくられ、アメリカ女性の娼婦を「白人奴隷
 (性奴隷)」と表現し卑しめた。
  そして、卑劣な行為なのが、公娼制度を「白い奴隷制
 度」とセンセーショナルに扱って、女性方を貶(おとし)
 めた。
  また、第二次世界大戦の時、パリへアメリカ軍が入っ
 た時、アメリカなどの連合軍によって制圧されたパリで
 は、ドイツ人と親密であった女性たち(性の関係者)を、
 頭を刈って、服を引き裂いて、市中を引き回した。
  この人権無視の行為、女性方へ、これ以上ないという
 卑劣な貶め行為をした。
  この完全に人権を無視した「このアメリカ軍の行為」
 は裁かれねばならない。
  また、無実の日本の従軍慰安婦問題を、韓国は、これ
 だけをひたすら取り上げて問題にするが・・
  韓国は、在韓米軍慰安婦問題を、まったくうやむやに
 している・・握りつぶしている。
  また、韓国は、日本女性を強姦し犯した行為、辱(は
 ずかし)めた行為についても目をつぶっている。
  また韓国は、ベトナム戦争の時、元寇の時などなど、
 自国の都合の悪い話には目をつぶっている。
  しかし、ひたすら日本を貶める行為だけは行なうとい
 う卑劣なやり方を世界で続けている。
.
1946年2月26日、アメリカ主体の占領軍のダグラス・マッ
 カーサー最高司令官の言葉・・
  「降伏後も、日本本土の封鎖は継続され、拡大強化さ
 れている」
.
1948年、アメリカが、卑劣にも、言論封鎖した本「アメリ
 カの鏡・日本」が出版された。
  ヘレン・ミアーズは、1920年代から日米両国が開戦す
 る直前まで東洋史・地政学を研究し、二度にわたって中
 国本土と日本を訪れ調査した人。
  第二次世界大戦の間は、ミシガン大学、ノースウェス
 タン大学などで、日本社会について講義をしていた。
  そして、連合国軍占領下の日本で、GHQの諮問機関
 「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働
 基本法の策定に大きな役割を果たした。
  その様なアメリカ人のヘレン・ミアーズは・・アメリ
 カへ帰国後の1948年、「アメリカの鏡・日本」を書いた。
  その中で、ヘレン・ミアーズは、戦争原因について、
 以下のように書いた(概要を記す)
  「戦争原因を種々分析し考究すると、アメリカは、思
 想や人種的に見ていて、経済的な要因をアメリカは、完
 全に認めていない。
  (アメリカは、独りよがり的に正義の行為をしたと、
 理念的側面のみを言いたいのだろうが)、
  事実が・・実際に行われたアメリカの政策や、アメリ
 カ政府の公式な説明などを分析すると、『日本政府の理
 解や解釈が正しい』と裏付けられる。
  アメリカは、アメリカ企業や、イギリス企業のために、
 『日本の貿易競争力を抹殺しよう』としていた。
  この目的を達するためのアメリカの政策や、イギリス
 の政策を・・実施しようとして引き起こしたものだ。
  この戦争は、日本というアジア民族が、アジアの中に
 台頭するのを好ましくないとして阻止したものだ。
  この様な経済的要因に戦争原因が、明らかにあること
 に対して、アメリカは認めたくないとしているが、実際
 は、日本の解釈が正しいと裏付けられている。
  アメリカのイデオロギーによるところに戦争原因があ
 るという主張は、完全に否定される。
  (記述)日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ
    人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと
    信じこまされた。
     しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、
    同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な
    国家であったといえる。
     開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国
    際社会において欧米先進国の行動に倣(なら)い、
    「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されて
    きたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌す
    るのは当然の成り行きだった。
     以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、
    我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡と
    いえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行
    動を裁けるほど、アメリカをはじめ連合国は潔白
    でも公正でもない。
     また、日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構
    想は、アメリカのモンロー主義と同様、そのよう
    な構想・主義は、「西洋の原則」として広く認め
    られている。
.
1961年9月22日、アメリカで、黒人の方々が、また、差別さ
 れた。
  黒人の方々は、白人アメリカ人のその差別行為に対し
 て服従していた今までとは違い、その卑劣な差別を無く
 そうとの行動を始めた。
  1961年の出来事は悲惨だった。
  あらゆる差別がなされていたが、バスの差別への抵抗
 行動についてその概略を記すと・・、
  抵抗行動をする黒人たちの「乗客たち」が、そろって
 団結し、『白人用の待合室』に入ろうとした時、警備に
 あたっていた警官たちが、その黒人たちを逮捕した。
  理由は、治安妨害と警官の命令に対する不服従だった。
  今まで、この様な場合、白人アメリカ人たちが殴り掛
 かっていたのだが、今回は、その様な暴漢たちの行動を
 起こさせないためだったからと後から説明された。
  ミシシッピ州選出の上院議員とケネディ司法長官との
 間で、事前に打合せられていたことだった。
  白人優越主義が充満し染まったアメリカだった。
  このミシシッピ州のバーネット知事は、「黒人は、わ
 れわれ白人とは違う。
  キリスト教の神が、黒人を罰するために、彼らを白人
 とは違う姿にお創りになったのだ」と、公言するような
 社会だった・・知事だった。
  逮捕された「乗客たち」は、全員が有罪とされた。
  罰金刑が言い渡されたが、罰金を払わないで監獄に入
 ることを望んだ、それが、あくまで抵抗する行為の態度
 だと判断された。
  「自由のための乗車運動のこの運動家たち」は、監獄
 に連行された。
  この様な事件が、アメリカのあちこちで起きるという
 卑劣なアメリカの状態だった。
  監獄は、これ等で捕まった黒人の方々の群れで充ち溢
 れた。
  この年・1961年9月22日、州際交通委員会は、「州境を
 越えて運行する車両は、『人種、肌の色、信条、出身国
 の違い』によって座席を区別してはならない」と、当然
 の決定をした。
  また、「これらの車両は、『人種差別をしているター
 ミナルを使う事は出来ない』とした。
.
1973年、オイルショック
  1970年代、株価の下落幅は緩やかながらも、世界恐慌
 が本格化した1930年代のそれよりも底が深かった。
  1973年10月6日に、第四次中東戦争が勃発した。
  これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)
 加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格
 を1バレル3.01ドルから5.12ドルへと1.7倍に引き上げる
 ことを発表した。
  翌日・1973年10月17日に、アラブ石油輸出国機構(O
 APEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決
 定した。
  また、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は、
 1973年10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退する
 までイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)
 への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。
  さらに、1973年12月23日には、石油輸出国機構(OP
 EC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月
 より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると
 決定した。
  日本の消費者物価指数は、1974年は23%上昇し、「狂乱
 物価」という言葉まで生まれた。
  OPEC諸国の国際収支黒字は、1973年には、10億ド
 ルであったが、1974年には、約700億ドルと急増した。
  一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は、1970
 年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった。
  100年近く続いた石油価格の安値が、1970年代に破ら
 れた。
  このような時、インドネシアをはじめとするASEA
 N諸国は、日本を頼りにするばかりでなく、日本をでき
 る限り助けようとしてくれた。
  アイゼンハワー政権のダレス国務長官が、日本が講和
 独立後に、朝鮮戦争特需に代わる新たな経済市場が必要
 と考えた時に目をつけたのが東南アジア市場だったが、
 東南アジア諸国の指導者たちも、この方針を支持し、日
 本企業の東南アジア進出を支援した。
  1973年の、OPEC(アラブ石油輸出機構)が中東戦
 争を有利に運ぶために、石油供給を削減して、石油ショ
 ックが起こったこの時に・・、
  日本政府は、内密にOPECのリーダーであるサウジ
 アラビアのフェイサル国王に、日本向け石油の供給増加
 を依頼したのだが・・、
  その際に、同じイスラム教徒として、国王との仲介を
 してくれたのが、アラムシャ副首相やモハメッド・ナチ
 ール首相らインドネシアの指導者だった。
  彼らは、次の様に語って、日本への支援を求めた。
  (大東亜戦争によって)キリスト教徒(オランダ)に
 支配されていた我々イスラムの民を救い、その独立を支
 援してくれたのが日本であり、日本は、イスラムの味方
 だ。
  2005年、小泉首相の靖国参拝に関して、中国政府が、
 ヒステリックな批判を繰り返していた時にも・・、
  ちょうど、訪日していたインドネシアのバンバン・ユ
 ドヨノ大統領は、「国のために戦った兵士のお参りをす
 るのは当然のことだと思う」と参拝を支持した。
.
1989年、日米構造協議(にちべいこうぞうきょうぎ)
  日米構造協議は、アメリカと日本の間で、日米貿易不
 均衡の是正を目的として・・、
  1989年~1990年の間、計5次開催された2国間協議、
  ・・と、公式に説明されているが・・
  これは美しく「公式に説明されている言い方」で、日
 本の人々は、これにプロパガンダ(嘘宣伝)され、洗脳
 されている。
  そして、さらに、1993年に、「日米包括経済協議」と
 名前を変えて、1994年からはじまる、「年次改革要望書」
 「日米経済調和対話」と、日本はさらに要求をされ続け
 ている。
  表面上は対等とされているが、これが曲者(くせもの)
 である。
  アメリカは、毎年、「日本は不公正だ」と言って、日
 本に「要求事項を突き付けて来ている」・・それだけ。
  これが、日本国民の皆が働いて、そして、稼いだお金
 が、アメリカへ流れ出れているシステム。
  「日米の衝突、ドキュメント構造協議」という本には、
 「これは、第二のアメリカによる、日本への占領政策だ」
 と書かれている。
  アメリカは、今、現代でも、日本から利益を吸い上げ
 ている。
  日本を属国のようにしている・・日本の国の施政権に
 まで口をはさんで来ている。
  完全に内政干渉状態となっている。
  しかし、それを言ったってアメリカは、そんなことに
 お構いなしでやって来ている。
  同時に、『日本の大切な国柄』まで壊そうとしている。
  日本は、それに、「反発できない仕組み」に置かされ
 ている。
  アメリカのやり方は、「国会議員などの議員」「官僚、
 監督官庁など」「企業、業界団体など」・・など・・と
 多岐に渡って「広範囲に攻めて来る」。
  いつもの「アメリカのやり方」で・・自国へ利益が
 転がり込むように・・利益が得られるなら「礼儀も、節
 操も、道義も、正義も、何も関係ないの状態」で・・や
 って来る。
  長い間、黒人の方々が、「奴隷という『人間としての
 人権・自然権』まで剥奪されて、アメリカの建国を成
 し遂げた・・影の真実の功労者であるように・・、
  今、日本が、日本の国柄を壊されながら「アメリカに
 利益を吸い取られている」。
  (参考)自然権:法的規定以前に人間が本性上もって
     いる権利。
      伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成
     原理に援用した際に生れた近代的な観念。
  日本は、常に貢がされている。
  まったく対等な立場にない状態で「日米構造協議で、
 日本の、アメリカへの貢システムが行われている」。
  中曽根首相は、感極まって、「日本人の一人一人が、
 アメリカ商品をもっと買え!」と叫ぶような、数々の歴
 史が、延々と数限りなく連なっている・・
  この様な日米構造協議で、一方的に要求が突き付けら
 れている。
  (建前は双方で公平となっているが、しかし、違う・・
  一方的に要求を突き付けられている)
  日本は、常に貢がされるという、まったくの対等な立
 場にない状態で、日本の、アメリカへの貢システムが行
 われている。
  キリスト教国=アメリカは、「(キリスト教の)神の
 義があれば」という理屈で、何をやっても良いという頭
 にある、正義なんだという頭でやって来る。
.
1993年11月1日、欧州連合(EU)が発足した。
  1951年、パリ条約が調印され、欧州連合(EU)の統
   合の始動である欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が
   設立された(1952年説あり)
   これによって国際的な部門統合の動きが始まった。
   ECSCは、超国家主義と国際法の原理に基づいて
   設立し、ヨーロッパの経済に寄与しようとした。
    また、加盟国間での統合によって、仏独間で繰り
   返された悲惨で無益な資源の取り合いなどの争いを
   避けようとした。
    後になって、ヨーロッパ合衆国の樹立の考えが出
   て、欧州防衛共同体と欧州政治共同体という2つの新
   たな共同体の設立が案出された。
  1957年3月25日、ローマ条約が調印され、欧州連合の2
   つの基本条約(欧州経済共同体設立条約と欧州原子
   力共同体設立条約)が調印された。
   1958年1月1日、ローマ条約が発効したが、この後、
    大幅に修正された。
  1958年~1969年、フランスのシャルル・ド・ゴール大
   統領の影響が大きい時代で、欧州が統合される形で
   はなく、国家が連合されるという形が良いのだとい
   う意見が強まった時代。
  1970年、欧州政治協力(EPC)が発足した。
  1979年、欧州通貨制度(EMS)が設立された。
   欧州統合への進展はあるが、2度の石油危機などによ
   って各欧州国家は内向きにあった時代。
  1985年、域内市場白書が採択された。
  1986年、単一欧州議定書が調印された。
   これによって非関税障壁の撤廃などにより巨大な市
   場が誕生した。
  1993年11月1日、マーストリヒト条約発効によって、
   EUが誕生した。
  2005年5月29日、フランスが欧州憲法条約を否決した。
  2016年6月23日、イギリスがEUを離脱した。
    欧州連合離脱国民投票で離脱派が多数となって、
   イギリスは、離脱が決定した。
    欧州統合の拡大が果たして良いのか?の質が問わ
   れる時代となった。
  このイギリスがEUを離脱したのは、英連邦はどうな
 るかの問題もあった。
  イギリスが中心となっているこの連合が、EUという
 ヨーロッパ連合に入るのか?という事に対して・・
  「英連邦諸国もヨーロッパ連合に入る」かの方向?
  結局、イギリスのEU離脱はその問題に答えを出した
 行動だった。
  EUという統合は、良い面だけが見られている。
  しかし、そのEU周辺国は、逆の面からみると、「あ
 るグループから仲間はずれにされている」という面があ
 る。
  教室で「いじめグループがつるんでいる」という状況
 が作られている。
  EU内という「仲良しグループが上手くやっているだ
 け」で、EU周辺国が経済的に困ることに対して「お構
 いなし」という問題である。
  今(2017年)時点、EUは壊滅への道を歩いている。
  名前だけが美しい「グローバル化」への動きの衰退が
 始まっている。
  権力で、名前だけ美しくしたアメリカ主導のグローバ
 リズムの虚構が明確になって来ている。
  何故か? キリスト教という宗教がこの一翼を都合よ
 く利用している。
.
2015年、中国の偉大なる金融規模
  かつては、日本のメガバンクが並んだ銀行の資産ラン
 キングに、今、その状況は、まったく変わって・・中国
 の銀行が並んでいる。
  世界の銀行総資産ランキング(USドル、billion十億)
  1、中国工商銀行(中国)3616
  2、中国建設銀行(中国)2939
  3、中国農業銀行(中国)2817
  4、HSBホールディングス(イギリス)2670
  5、中国銀行(中国)2629
  6、BNPパリバ(フランス)2400
  7、JPモルガン・チェース(アメリカ)2350
  8、三菱UFJフィナンシャルG(日本)2323
  9、バンク・オブ・アメリカ(アメリカ)2140
  10、クレディ・アグリコル(フランス)1911
  以上の様に・・何と!中国が世界を制している状況な
 のだ。
  上記を国別にすると
  1、中国12001(46.0%)
  2、アメリカ4761(18.3%)
  3、フランス4311(16.5%)
  4、イギリス2670(10.2%)
  5、日本2323(8.9%)
  計  26066
  以上の様に、世界の約半分を持つ中国と、「圧倒的な
 中国の時代」となっている。
  この金融力で、金の力で中国はあらゆることをやって
 いる。
  上記は、約1/10兆円と見ることが出来る。
  中国は、日本の国家予算の約12年分の規模に相当する。
.
2017年10月、中国は変わった・・中国は経済成長をしてい
 る・・そして、政治的に中国はより強国になるという目
 標に向かって、今までと違った方針を採り始めた・・
  その方針変更の一つが、中国へ行った企業が、中国の
 共産主義体制に組み込まれるという行動が、され始めた。
  中国のGDP成長率は、2008年から2010年にかけて、
 6.4%から12.2%へ、倍近くに跳ね上がった。
  因みに、2017年7月期~9月期は、6.8%である。
  中国経済は、以前ほどではないとしても拡大を続けて
 いる。
  また、中国の都市部の公共工事や企業の設備投資を示
 す固定資産投資は、前年の7.5%増、
  不動産開発投資は・・・8.1%増、
  個人消費は・・・・・ 10.4%増、
  輸出は・・・・・・・・7.5%増となっている。
  習近平国家主席は、「2010年の2倍にする」という目標
 を立てたが、ほぼ達成のメドをつけたとした。
  そして、2035年から今世紀半ばには、「総合的な国力
 で世界トップレベルの国家になる」という。
  そして、これからは「質の高い成長を目指す」と強調
 した。
  今、中国で、党の企業への関与が強まっている。
  中央規律検査委員会という中国の国家組織は、企業と
 いう民間企業の中に、党組織(共産党組織)を設置させ
 ている。
  そして、共産党員が監督を行なっている(国家の監視
 下に置かれた企業という形になった)
  外資企業でさえ・・70%がこの党組織を設置している。
  共産党の企業に対する関与も強まっている。
  「企業の統治が、党に乗っ取られる可能性が増してい
 る」。
  もう完全に中国は、投資対象国ではなくなった。
  資本が奪われるだけ、
  また、特許などの知的財産や、技術ノウハウなどが奪
 われるだけ、
  そして、国家レベルですべてが奪われるだけ・・、
  共産党の一党独裁の政治形態が、如実に企業経営(私
 企業の経営)に関与して来て・・、
  その民間企業も、共産主義の社会形態を構成する一部
 だと処理されていく・・共産党組織社会の中へ組み込ま
 れて行く・・、
  国民を利さない企業は悪だ・・、
  企業だけが利するのは悪だ・・、
  『企業努力で利益を得た』との論理は成立しないのだ。
  企業利益は、中国の国家と中国国民へ、総べて還元せ
 よ・・になって来た。
  中国の共産主義体制に組み込まれて行く外資企業・・、
  (この外資系企業というのが、日本や世界から中国へ
 行った企業のこと)
  中国で儲けさせて戴くは、昔の甘い夢となった。
  「中国での営業展開で企業を大きく伸ばすは、過去の
 話となった」。
  共産主義の北朝鮮を、陰で支援し、「核とミサイルを
 持たせた・・中国」。
  この北朝鮮とともに、かつての様な共産圏グループを
 陰で形成している・・中国。
  その中国に、かつて共産圏の国だった東ドイツで育っ
 たメルケル氏(アンゲラ・メルケル首相)が裏で連なっ
 ている。
  今、このドイツが、中国との結びつきを強め、中国経
 済と大きく関(かか)わっている。
  (参考)メルケル氏:アンゲラ・ドロテア・メルケル、
     第8代ドイツ連邦共和国首相、
      家系は、共産圏のポーランド系でポーランド
     人の祖父がドイツに徴兵されて来て定住。
      メルケルは、ハンブルグ生まれだが、生まれ
     てすぐに共産圏の東ドイツへ移住。
      そして、東ドイツで弟1人と妹2人が生まれ
     ている。
  中国は、このドイツまで超高速鉄道で結ぶのだと、一
 帯一路を謳(うた)い上げている。
  やる事のスケールは大きい。
  資源のない日本が、かつて・・、
  その大切な資源を、輸入ができないという・・締め付
 けられるという・・「卑劣な攻撃」を受けた・・
  ABCD包囲網が作られて、ニッチモサッチモ行かな
 い状況にされた・・、
  米びつには食べるコメが無い、工場を動かすにも石油
 が無いという状況にされた・・が・・、
  今、中国は、南シナ海を封鎖して、かつてのABCD
 包囲網と同じことをしようとしている。
  資源がまったく無い日本・・、
  また、食糧自給率が他の国では考えられないくらい低
 いという日本・・、
  (自分の国で作っている食糧だけでは、日本国民は飢
 え死にする・・飢餓になる)
  今は、パクパク食べているが・・、
  日本は海で囲まれた特殊事情の国・・という事は、陸
 路で何とかあちこちから運び込むという事が出来ない国。
  これが最大弱点なのだ・・日本という国は・・、
  これを脱するには、日本が中国の従属国となって、南
 シナ海を、日本へ石油や食料を運ぶ船を通らせてもらう
 他はなくなって来るという状況が・・起きる。
  かつて、アメリカがやったことを・・、
  (アメリカは策動してパナマを手に入れた)
  何でもアメリカがやったことを真似る中国が、アメリ
 カがやったABCD包囲網と同じことを、今、南シナ海
 でやろうとしている。
  (参考)ABCD包囲網:第二次世界大戦が起きる直
     前、アメリカ(A)が、イギリス(B)、中国
     (C)、オランダ(D)に呼び掛けて、
      日本へ石油や食糧・鉄などあらゆる資源・原
     料などの物資が入らない様に、経済包囲網を張
     った。
      「首を絞める事と同じ」卑劣な事をやった・・
     これが戦争の原因となった。
      結局、軍事力が弱い国は、何でもやられてし
     まうのだ・・卑劣な事でも何でも・・
.
2017年12月23日、ベトナムの独立戦争を助け、そして、戦
 った日本兵の父は・・
  この様な記事が、この日の読売新聞に記された。
  「ベトナム北部に住むベトナム人姉妹が、第二次世界
 大戦(大東亜戦争)後も、進駐先の同国・ベトナムに留
 まり、再び、植民地にしようとするフランスとの独立戦
 争に、ベトナムに加わって、ベトナムの独立を助けた父
 親の元日本兵を探している。
  父親は、1954年に、目的を達して日本に帰国して以降、
 消息が不明となった。
  来年は、日越外交関係樹立45周年にあたり、姉妹は「
 交流が一層活発になるこの機会に、父の消息にも関心を
 寄せてほしい」と願っている。
  姉妹は、タンイエン県在住のグエン・ティ・ミーさん
 (69歳)とグエン・ティ・ビンさん(64歳)。
  姉妹が、1975年に、53歳で亡くなった母親から聞いた
 ところでは、グエン・バン・マオというベトナム名を使
 っていた父親は、第一次インドシナ戦争終結の1954年、
 ベトナム政府の方針で日本に帰国した。
  父親に関する文書類は、写真1枚を除いて、すべて破棄
 され、日本名も不明となった。
  マオさんは、第二次世界大戦後、自らの意思と使命感
 でベトナムに残り、ホー・チ・ミンらの率いるベトナム
 独立同盟軍(ベトミン)に参加した。
  そして、同県のベトミンの軍事学校で教官を務めた。
  同校の近くの商店主だった母親が、26歳の時に、二人
 は結婚して、家庭を持った。
  マオさんは、帰国する際、妻に、「私は、日本で革命
 運動をしなければならない。あなたは、ここに居て下さ
 い」と言ったという。
  ミーさんは、「よく肩車をしてくれる優しい父だった。
 妹を抱いた母と私が、父を乗せて去っていく車に泣きな
 がら追いすがろうとしたことを覚えている」と話す。
  父の去った後、母親も病気がちになり、治療費の捻出
 のために自宅を売らねばならなかった。
  姉妹は、木を切って薪にして売り、生活をしのいだ。
  「父親との再会はあきらめていた」が、今年(2017年)
 天皇陛下と皇后陛下の両陛下が、ベトナムを御訪問なさ
 り、その際、元残留日本兵の家族と両陛下との面会が実
 現したとニュースで知り、「父の消息だけでも知りたい
 との思いが募ってきた」と話す。
  ハノイ在住で、元残留日本兵の調査を続けている小松
 みゆきさん(70歳)は、「軍事学校の教官だったという
 事は、旧日本軍でもそれなりに地位にある人だったはず」
 と指摘し、
  「1954年に、第1陣として帰国した約70人の中にいる可
 能性が高い」としている。
  ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が、日本の敗
 戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加したな
 どとされる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月13日、渋沢栄一襲撃事件
  水道鉄管を外国製を主張する渋沢栄一への凶徒襲撃事
 件が起きた。
  結局、国産の鋳鉄会社の納入遅延や不良品の不正納入
 などが発生して、大部分の鉄管は外国製品を輸入し、使
 用するに至った。
1892年12月18日、チャイコフスキーバレエ「くるみ割り人
 形」が初演された。
  チャイコフスキーが作曲した『眠れる森の美女』が、
 1890年に成功し・・
  その次作として、マリンスキー劇場の支配人であった
 イワン・フセヴォロシスキーは、ドイツのE.T.A.ホフマ
 ンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』 を原作と
 するバレエを構想した。
  そして、再度、チャイコフスキーに作曲を依頼した。
  筋は、ホフマンの童話に基づき、マリウス・プティパ
 が台本を手掛けた。
  そして、振付も担当する予定であった。
  しかし、プティパは、リハーサル直前に病に倒れ、振
 付は、後輩のレフ・イワーノフに委ねられた。
  初演は、この日、サンクトペテルブルクのマリインス
 キー劇場で行われた。
1892年12月20日、伊達宗城(だてむねなり) が逝去した。
  (1818年9月1日~1892年12月20日、75歳)
  伊予宇和島藩8代藩主、伯爵、政治家。
  1818年、江戸に生まれる。
  1827年(9歳)4月、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子と
   なる。
  1828年(10歳)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子
   となったが、
  1829年(11歳)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれ
   ない藩主宗紀の養子となる。
   宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、
   貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。
  1844年(26歳)養父の隠居に伴い藩主に就任する。
   宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、
   木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。
   幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、
   更に長州より村田蔵六(大村益次郎)を招き、軍制
   の近代化にも着手した。
   福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩
   主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。
   この四賢侯は、幕政に積極的に意見を言い、老中首
   座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
   阿部正弘死去後、1858年(40歳)に大老に就いた井
   伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。
   13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、
   宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは、次期将
   軍に一橋慶喜を推した。
   一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。
   直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂とな
   り、一橋派は排除された(安政の大獄)
   これにより宗城は、春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎
   を命じられた。
   養父の宗紀は、隠居後に実子の宗徳を儲けており、
   宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、
   藩政に参画した。
   謹慎を解かれて後は、再び、幕政に関与する。
  1862年(44歳)薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を
   幕府が支払うことに反対した。
   その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である
   島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。
  1863年(45歳)末には参預会議、
  1867年(49歳)四侯会議に参加し、国政に参与したが、
   短期間に終っている。
  1866年(48歳)イギリス公使ハリー・パークスがプリ
   ンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同
   艦を訪問した。
    パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴
   で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国
   旗を交換し、
    さらに、同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪
   問の際には、日本の将来について、天皇陛下を中心
   とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、
   外国人とも積極的に交流した。
  1867年(49歳)12月、王政復古の後は新政府の議定(
   閣僚)に名を連ねた・・しかし・・
  1868年(50歳)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・
   奥羽列藩同盟寄りであったので、薩長の行動に抗議
   して、新政府参謀を辞任した。
  1869年(51歳)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設の
   ためイギリスからの借款を取り付けた。
  1871年(53歳)欽差全権大臣として清の全権李鴻章と
   の間で日清修好条規に調印し、その後は、主に外国
   貴賓の接待役に任ぜられた。
   しかし、その年に中央政界より引退。
  1881年(63歳)日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウ
   アを接待し、それに対する返礼として勲章を授与さ
   れている。
   カラカウアより宗城に授与された勲章は、宇和島伊
   達文化保存会に保存されている。
  1884年(66歳)宇和島伊達家は、華族令によって伯爵
   を授けられた。
  1891年(73歳)養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によ
   って侯爵に陞爵された。
  1892年、東京の今戸屋敷で病没された。享年75歳。
1892年12月20日、大阪紡績工場で火災。
  大阪紡績会社三軒家工場火災
  明治のこの頃、綿製品が日本最大の輸入品だった。
  そこで、明治10年代(1876年~85年)に、政府は、同製
 品の国内生産化を進めるため、紡績業の育成を国策とし
 て取り上げた。
  そして、2000錘の糸を紡ぐ紡績機を輸入し、資金面で
 保護し奨励策を行った。
  しかし、2000錘という規模の小ささや、水車を原動力
 とすることからくる立地条件の制約、国産原料の不適正、
 経営、技術上の未熟などがあり、成功しなかった。
  この時、第一国立銀行頭取の渋沢栄一は、輸入綿糸の
 巨額なことに驚いて、当時の代表的な綿関係商人や貿易
 商に呼びかけて、
  また、旧大名や華族たちの資金を活用し、錘数1万500
 錘という大規模な大阪紡績会社(現・東洋紡)を設立した。
  1882年11月、大阪三軒家工場落成した。
  1883年の翌年7月、操業を開始し、近代紡績産業確立へ
 の基礎を作った。
  しかし、この日、業界のトップを走っていた、同工場
 が大火災を起こした。
  第二号工場2階南端にある第39号ミュール紡績機の運転
 が突然止まり火を噴き、
  こわれたガラス窓から吹き込んだ風によってあたり一
 面が火の海と化し、火元の二号工場を始め一号工場も全
 焼した。
  特に、二号工場3階の綛場(かせば:製品の仕上げ工場)
 で、夜間修業中の多くの女子工員が作業をしていたが、
 火の回りが早く、逃げ場を失い階段で折り重なって倒れ
 た。
  95人が死亡、22人負傷、紡績機3万台が焼損した。
  しかし、同社は、この災害を逆に最新式の紡績機導入
 の機会ととらえて一新し、いっそう業績を上げたという。
  (参考:大阪府編「大阪百年史:近代紡績業の生成」
1892年12月22日、横川~軽井沢間軌条の敷設終了(碓氷峠
 がアプト式)
  着工より1年9ヶ月という驚くべき短工期で、500人あま
 りの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の方々お蔭で工事
 は完成した。
  横川~軽井沢間の路線決定までは紆余曲折があった。
  1884年より本格的測量が始まり、ケーブルやループ、
 スイッチバック等、複数のルートが候補にあがり、そし
 て、選定された。
  その後の現地踏査の結果、和美峠・入山峠・中尾線の
 3ルート案に絞られたが、急勾配のため、技術的に、ま
 た、予算的に困難であり、政府は決定に苦労していた。
  1890年、欧州留学中の技師から、ドイツのハルト山鉄
 道のアプト式を碓氷峠に採用してはどいうかという報告
 があった。
  アプト式を前提にして3ルート案を比較研究した結果、
  1891年2月、最短ルートとなる中尾線ルートをアプト式
 で建設することが決定された。
  1891年3月19日に着工。
  パウナルをはじめとする欧州から来た鉄道技師達が設
 計を行い、本間英一郎らの日本人技師と一丸となって建
 設にあたった。
  途中に熊ノ平信号場を設け、随道26ヶ所、橋梁18ヶ所、
 最大勾配66.7パーミル。
  全線距離11.2㎞、このうち約8㎞の最大66.7パーミル急
 勾配区間にラックレールを敷設、途中4箇所の普通軌道と
 の接合点にはエントランス(枕木とラックレールとの間
 にバネを設置し、機関車のピニオンとラックレールがス
 ムーズに噛み合うようにした区間)が設けられた。
  横川から丸山信号場までの約2㎞は25パーミル、熊ノ平
 信号場内は平坦線とし給水・給炭設備(全列車が熊ノ平
 に停車し蒸気機関車に給水を行った)が設けられた。
  当時は、軌道資材の製造技術がまだ無かったため、ア
 プト区間の鋼鉄製枕木などドイツ製が多用された。
  1892年7月には横川機関庫が新設された。
  1892年12月22日、着工よりわずか1年9ヶ月で多くの犠
 牲者の方々のお蔭で工事は完了した。
  この工期は、当時の技術水準としては驚くべき短さで
 あった。
  橋梁などに使用された煉瓦は、埼玉県川口や軽井沢塩
 沢などで製造された。
  その数、約1000万個と言われている。
  当時の技術を結集して作られた建築物のこの遺構は、
 100年以上の風雪を耐え、今なおしっかりと残っている。
  この工事の資材運搬には、碓氷馬車鉄道が活用された
 が、馬車鉄道は碓氷線開業とともに廃業した。
  (参考:碓氷線概史)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国による外国政界や世論への『工作が活発化』
   していることが相次いで明らかになり、各国が警戒
   を強めている・・
.
16世紀~18世紀、この間の300年間、ヨーロッパは、戦乱に
 明け暮れた。
  それとともに、驚くほど軍事技術が発達した。
  同じく、この間の250年間、東アジアは、そのヨーロッ
 パとは逆に、対照的に、平和な時代にあった。
  日本も、1600年の関ケ原の戦い以降、267年間の平和な
 江戸時代であった。
.
1770年、インドからイギリスへ輸出された綿織物の輸出額
 は、この年、150万ポンドだった。
  この輸出額は、1800年に、ピークとなり350万ポンドの
 約2.3倍になった。
  以後、1800年頃から始まったイギリスからの綿織物輸
 出は、このインドからの輸出を圧迫し始め、インドの輸
 出量を漸減させた。
  1820年には、イギリスからの輸出に、インドからの輸
 出は追いつかれ、同等額となった。
  そして、1830年には、インドからの輸出はとうとうゼ
 ロとなり、無くなった。
  イギリスに追い付かれてから10年間という急激な衰退
 をさせられたインドだった。
  その後も、イギリスからの輸出は増え続け、1840年に
 は600万ポンドに達した。
  この様な経緯の中で、インドは完全に経済破たんのお
 手上げ状態で、インドの方々は、多数の労働者や職人の
 方々が失業した。
  1857年に至って、イギリスに雇われていたインド兵士
 (セポイ兵)が、イギリスの圧迫に抵抗して反乱を起こ
 した。
  イギリスに好きにやられて、いいようにやられて、不
 満の極致にあった
  インドの手交業者や農民の方々は、このセポイ兵と一
 緒になって反抗した。
  インド全体の、全国的なイギリスに対する不満の爆発
 となった・・インド全体の反乱となった。
  イギリスは、自国が儲かれば良いのだの、自国の利益
 のみに捉われ、「インドは我々の植民地だ」として考え、
 インドへの配慮はまったくなされなかった。
  イギリスの大工場で安く大量生産された製品で、イン
 ドの方々の生活基盤を完全に奪い、破壊した。
  その逆に、インドの植民地で大きな利益を得ていたイ
 ギリスは、贅沢品だった貴族だけの飲み物の紅茶の例の
 様に、イギリスの一般庶民にまで普及するような潤った
 社会となっていた。
  犠牲のインドの収奪の利益を享受した。
  完全にインドの富を吸い上げていた。
  それとともに、また、中国・清から輸入するこの高価
 なぜいたく品の紅茶など、多額の支払いが生じていた。
  イギリスは狡猾に、この支出を何とかしたいと「卑劣
 な事を考える」。
  イギリスは、支払いのための銀の流出が膨大となる事
 に対しての対策は・・、
  このイギリスの卑劣な対策は、「極悪の極致に達して
 いた」。
  安い植民地のインドの労働力を使って「麻薬のアヘン
 を作らせて、それを、中国へ売って、支払いの銀の流出
 を止めようと・・卑劣に考えた」。
  それが実行された・・中国の方々は、当然、「麻薬ア
 ヘンの中毒」となった・・そして・・中国は亡国状態と
 なった。
  中国政府は、何度も何度も、アヘンの禁止令を出した。
  しかし、イギリスは、それに関係なく卑劣に売り続け
 た。
  逆に、それに、言い掛かりをつける。
  イギリスは、「自由貿易を妨げた」と自分勝手な、自
 分に都合の良い屁理屈をつけて、イギリス軍艦を出動さ
 せた・・そして、戦争を仕掛けた。
  国防力の弱い中国・清は、イギリスに勝てる状況では
 なかった。
  それでも、中国・清は、2年間、一生懸命、戦った。
  しかし、圧倒的な力の差のあるイギリスに屈した・・
 そして、不平等な、屈辱的な条約を結ばされた。
  どこまでも卑劣なイギリスだった。
  中国は、イギリスの植民地の様な「半植民地となった」。
  この様な情報は、しっかり、日本の英俊(えいしゅん、
 特に優れている人)な人々は掴んでいた。
  その状況を日本へ伝えた一つが、「オランダ風説書」
 だった。
  それを、しっかり読んでいた。
  またさらに、素晴らしい事は、この書を、教育水準の
 高かった日本の庶民の方々も読んだ。
  そして、日本の庶民の間に広まった。
  汚いやり方をするこのイギリスの行状は、日本の庶民
 に知れ渡った・・、
  「この汚いイギリスめ!ひどい事ばかりしやがって」
 という気持ちにさせた。
.
1940年7月末〜9月初、杉原千畝がビザ発行をする。
  杉原千畝の謎の幾つかに、新しい視点を加えて考察し
 た研究者に・・「満州国外交官をなぜ辞めたのか?」と
 いう疑問があった。
  杉原千畝にはキャリアが無かった・・
  ノンキャリア(普通の職員)だった杉原が・・ソビエ
 トとの北満鉄道の譲渡交渉に成功して脚光を浴びた。
  それで、満州国で仕事を与えられた・・活動する場を
 持った。
  しかし、何故か? 満州を棄てた。
  人間関係がうまくできなかったと言われている。
  橋本欣五郎大佐との関係が考えられている。
  陸軍は、杉原に多額の報奨金を用意した・・そして、
 陸軍のスパイ・謀略の要として活躍してもらいたいと思
 った。
  杉原は、外交関係職員としての情報関係に関わってい
 た。
  ソ連は、杉原を国外退去処分にしたように、結果的に、
 その活動は見破られていた。
  杉原は、情報を得るためにロシア人(ソ連人)を妻と
 したが、逆に、スパイをされていたとも言われている。
  日本は、その様な杉原を、リトアニアに派遣した。
  やはり、外交職員としての情報を得る仕事としてだっ
 た。
  リトアニアのカウナスにおける「六千人の命のビザ」
 といわれる行為も、立場上、ビザ発行の立場にない杉原
 の権限外の行為だった。
  故に、日本に帰国後、日本の外務省から処分を受けた。
  杉原を、差別したり、虐(いじ)めたりする意味では
 ない・・当然の処分だった。
  キリスト教は、ここを嘘を言って杉原を美化した。
  立場にない杉原は外交電報の分析から、杉原が確信犯
 的に外務省本省と駆け引きを行った。
  権限のあるビザ発行ではなかった。
  当然、「権限外の事はするな」と外務省に言われてい
 た・・ここを、キリスト教は、「ドイツと同盟をしてい
 た日本は、ユダヤの方々を差別して、ビザ発行はするな
 と日本は杉原に言った」と、またまた、日本を貶める「
 嘘八百」を言った。
  日本はユダヤの方々を差別していない。
  ビザの発行をしていた。
  日本は、ドイツへ、逆に、「ドイツの様にはしない」
 とはっきりと言っていた。
  この様な経緯の中で、無効の私文書である「ビザらし
 きもの」を杉原は発行した。
  ユダヤの方々は、日本が差別していないことをすでに
 知っていて。
  日本と関係している満州へ逃れて来た。
  満州は、「ビザがあろうが、なかろうが」、ユダヤの
 方々を受け入れた。
  杉原の様なびザが無くても、受け入れた。
  そして、日本の神戸で受け入れた。
  ユダヤの方々を乗せた船が、日本に到着するとき、日
 本政府の船が出迎えたくらいだった。
  杉原のビザの行為は、無くても良い話だった。
  ビザ発行の行為を、「本省(外務省)の指導を無視し
 たのではない」と、「人道的行為だ」と、妻の幸子と共
 に一緒に「ビザ発行の行為」をして、妻を証人にしたい
 と考えていた。
  研究者は、ポーランドからやって来たユダヤ難民の方々
 は、「必ずしもナチスの迫害だけではなく、ソビエトの
 脅威にもさらされていた」と言う。
  杉原が、ユダヤ難民にビザを発行したのは、1940年7月
 末〜9月初めである。
  この時は、1939年9月、独ソのポーランド分割が起き、
  そして、1941年6月の、独ソ戦争勃発の直前の期間とな
 る。
  1939年11月には、ソビエトのフィンランド侵略(冬戦争)
 があり、1940年には、バルト三国併合が進められた。
  ドイツの脅威だけではなく、ユダヤの難民の方々は、
 ソビエトの脅威にも囲まれていた。
  ナチスのユダヤ人迫害は、戦時中から連合国側には知
 られていたが、日本人は知らなかった。
  一般の日本人が知ったのは、戦後10年もしてからだっ
 た・・
  戦後に、ソビエトが管理していたアウシュヴィッツ収
 容所が、ソビエトの誇張した情報操作(400万人の死者数
 など)を経て・・白日の下になった。
  また、隠された史実が明らかになった・・ユダヤの方々、
 難民の方々に冷酷な態度を、イギリスやアメリカ、フラ
 ンスはとり続けていた。
  このことは、日本では、ほとんど知らされていない。
  フランスのヴィシー政権などは、ナチスに言われなく
 ても、『独自に』、一万数千人のユダヤの方々が殺され
 ることを知っていても、その前提で、収容所への移送行
 為をしていた。
  1939年、ユダヤ難民を乗せてパレスティナに寄港した
 「タイガーヒル号」を委任統治国イギリスは、不法難民
 として銃撃し、「撃退」した。
  イギリスは、アラブの石油利権に拘(こだわ)り、戦
 後もユダヤ人の移民を妨害し続けた。
  ハンブルクを出てアメリカ保護領だったキューバまで
 行きながら、アメリカは、「移民法の定員」を理由に拒
 否した。
  結局、引き返し、難民の大半がアウシュヴィッツに送
 られた(セントルイス号事件)。
  これらの事件に前後して、ポーランド人やリトアニア
 人によるユダヤ人襲撃(ポグロム)も各地で頻発し、多数
 のユダヤ人の方々が殺されていた。
  国外脱出を試みても成功するとは限らない。
  ドイツ、チェコ、ルーマニア、至る所でユダヤ人の方々
 の財産は没収されていた。
  国外に逃れても、一定の金額を持たない人は入国を拒
 否され、引き返せば収容所行きが待っていた。
  アメリカやヨーロッパの態度が、この時のユダヤの方々
 に置かれていた状況だったのだ。
  また、因みに、東条英機も、ユダヤ人の方々を保護し、
 同時代の満州国、上海、神戸のユダヤ人の方々を、日本
 が保護した事例は多い・・
  杉原の行為以前に、この様な行為を、日本は、既に、
 行なって、ユダヤの方々を救っていた。
.
1945年6月4日、沖縄戦において、アメリカ軍が、日本人の
 捕虜を連行しないことは、一般的に知られていたが、「
 黙認されていた」。
  みんなが知っていて、日本兵を連行しないで殺戮して
 いた。
  太平洋の戦場における連合軍将兵は、『しばしば故意
 に』、降伏した日本軍将兵を殺害していた。
  アメリカ合衆国の、オーストラリア将兵の書いた日記
 についての研究論文を発表したリチャード・オールドリ
 ッチによれば、連合軍将兵は、捕虜を処刑したと、
  ダワーは、「多くの例がそれを告げている・・(中略)
 ・・捕虜となった日本軍将兵は、即座、もしくは、収容
 所への連行途中に死亡した」とされていると・・、
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことは『よくあることだ』としてい
 る。
  この分析は、イギリスの歴史家ニール・ファーガソン
 も認めていて、支持している・・、
  1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告によれば、
 アイスクリームと3日間の休暇だけが約束されており・・
 (中略)・・アメリカ軍将兵に降伏した日本将兵を殺害し
 ないよう説得すること」としていると述べている 。
  それほど、捕虜の日本の将兵が殺されていた・・、
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  (1%の捕虜しか・・捕虜として生き延びられなかった・・
 99%の日本兵は、捕虜となっても、故意に、わざと殺さ
 れていた)
  その同じ年に、連合軍最高司令部により、捕虜を捕ら
 ないことにより情報収集に影響を及ぼしていたため、「
 捕虜を捕らない」方針を抑える努力するよう勧告・・、
  (酷い状況なので回りくどい言い方をしているが・・
 早く言えば、あからさまに言えば、途中で殺すなという
 勧告)、情報を取るための日本将兵を降伏させ捕虜とす
 ることを奨励させた。
  また、ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日
 本軍捕虜の比率を改善改善する処置をとり、1945年中頃
 までには1:7に改善されたと付け加えている。
  (今まで100分の1しか生き延びれなかったが、7分の1
 が生き延びられるようになったという話で・・、
 しかし、まだ、85%の捕虜の日本兵が・・殺されていた)
  とくに有名な話が・・1945年6月4日に始まった沖縄戦
 において、アメリカ軍が日本人の捕虜を連行しないこと
 は、一般的に知られていて、黙認されていた。
  シュトラウスは、卑劣にも、「捕虜の連行が危険だか
 ら」と言い訳した。
  だから、「部隊を危険にさらすという理由から、上官
 が捕虜を連行することに反対していた・・」と言う。
  (バターン行進なんかで、日本は、捕虜を殺しもしな
 いで、何万という捕虜を丁寧にしていたのにである)
  アメリカは、捕虜を連行する場合、しばしば、「彼ら
 を連行するには、あまりにも面倒があったため」という
 理由で、輸送途中で射殺した。
  ファーガソンは、「日本軍将兵や、ドイツ将兵が、降
 伏することによる不名誉や懲戒処分などを恐れたわけで
 なく・・、
  むしろ、捕虜となっても殺されるかどうかということ
 が兵士にとって重要であり・・、
  殺される場合ならば(殺されると分かっているならば)
 当然、戦うほうを選択した」・・と・・、
  捕虜という生き延びる方策を示して、そして、捕虜に
 して殺すという卑劣さを批判している。
  この様に、アメリカ軍などの連合軍による戦争犯罪は
 多い(第二次世界大戦)・・卑劣なアメリカ軍だった。
.
1946年5月、このとき開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)
 に、インド代表判事としてラダ・ピノード・パール判事
 が派遣された。
  この東京裁判で、インドのパール判事だけが「全員無
 罪」を判決し、主張した・・しかも、アメリカを批判し
 た。
  インドの法学者で、ヒンドゥー法を専攻し、コルタカ
 大学教授で、国際連合国際法委員長だった。
  パール判事は、判事全員一致の有罪判決を目指す動き
 に反対した。
  また、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国によ
 り作られた『事後法』であり、事後法をもって裁くこと
 は『国際法に反する』などの理由で、「被告人全員の無
 罪」を主張した(「パール判決書」)
  このパール判事の考え方は、「当然の正義」となって
 いる。
  この東京裁判の「落とし穴を後から作って、その穴に
 落とすという卑劣なリンチ(私刑)」は、今後、永久に
 批判されることとなる。
.
1981年1月4日、ミャンマー第33回独立記念日に・・、
  自国民であるミャンマー人でも授与されていない 「ア
 ウンサン勲章 (ビルマ独立運動闘士)」 を7人の日本
 人に対して授与するとミャンマー政府が発表した。
  両国の関係者を驚かせたが・・、
  受賞者7人全員は、鈴木敬司大佐を含む元「南機関」
 (大日本帝国陸軍所属)メンバーであった。
  このことを、「 恩を忘れない・・ ミャンマー」とア
 ジアの人々へ賞賛と感動を与えた。
  ミャンマーの建国記念日には行進が行われるが、今で
 も最初に演奏する曲は 『軍艦マーチ』となっている 。
  他にも、日本の軍歌 『日本陸軍の歩兵の歌』 『愛馬
 進軍歌』などをそのまま使われている。  
  日本以外のアジアの国でも、130年前に作られた大日本
 帝国の曲『軍艦マーチ』を大切にして戴いている。
.
1989年4月15日、天安門事件(大量虐殺事件)
  4月15日の総書記の死の追悼行動から始まり、6月3日深
 夜から6月4日未明にかけて起きた虐殺で終わった。
  政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっか
 けだった。
  胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に
 10万人の人々が天安門広場に集まった。
  抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から
 自然発生的に始まった。
  統制がなされておらず、指導者もいなかった。
  抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキ
 スト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を
 要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれ
 ていた。
  デモは、最初は、天安門広場で、そして、広場周辺に
 集中していたが、のちに、上海市を含めた国中の都市に
 波及していった。
  鄧小平の決定により、5月19日に、北京市に戒厳令が布
 告された。
  武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知
 識人たちは、学生たちに対し、デモの平和的解散を促し
 た。
  しかし、学生たちの投票で強硬派が多数を占め、デモ
 継続が強行されたため・・首都機能は麻痺に陥った。
  1989年6月4日未明、中国人民解放軍は、軍隊と戦車で
 北京の通りに移動した・・そして、民主化を求めて集結
 していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、無
 差別に実弾を乱射した・・武力弾圧と大量殺戮を行なっ
 た。
  (市民に向けて、無差別発砲や装甲車で轢き殺し、多
 数の死傷者となった)
  1989年6月5日付の文書に、中国軍が、重武装部隊を早
 い段階から投入し、殺傷能力が高すぎるため国際条約で
 使用が禁止されている銃弾を使用するなどしていたとの
 記載もある。
  衝突のあと、中国共産党当局は、広範囲に亘って抗議
 者とその支持者の逮捕を実行した・・
  外国の報道機関を国から締め出した。
  自国の報道機関に対しては、事件の報道を厳格に統制
 した。
  戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は、総書記ほか
 全役職を解任された。
  そして、2005年に死去するまで、自宅での軟禁下に置
 かれた。
  中国の隠ぺいによって、犠牲者数がまちまちであった
 が・・、
  事件後29年を経た2017年12月25日の読売新聞に、イギ
 リス外務省の機密公文書を、イギリス公文書館が開示し
 た事でわかった。
  以下、その記事の抜粋・・
  天安門事件・・「最低死者数:1万人」推計・・
  発生直後に、中国政府関係者が「1万人」と推計してい
 たと、イギリスの駐中国大使が、イギリス本国に伝えて
 いた機密公文書が開示された。
  中国当局が公式発表している死者数は319人。
  中国当局が当初から、相当数の犠牲者が出ているとの
 認識を持っていた可能性が出て来た。
  文書は、武力鎮圧の翌日の1989年6月5日に、アラン・
 ドナルド駐英大使が、イギリス外務省に送ったもの。
  「信頼できる情報源」で、中国の中央政府に当る国務
 院関係者から得たという情報に基づき、武力鎮圧の状況
 を詳述している。
  文書では、「民間人死者の推計は最低1万人」と記載し
 ている。
.
2014年4月8日、日本の新潟県佐渡の「道の駅」の土地が1円
 で・・中国に買われた。
  「中国人の旅行者を呼ぶから」と言われ、そして、売
 ったという。
  今、日本の土地を爆買する中国であるが、この日の日
 付で産経新聞に以下の記事がある・・、
  道の駅、研修施設に「1円売却」、深まる中国依存
  佐渡島の表玄関・両津港から約3キロ。
  県道65号を車で10分ほど走ると、道の駅「芸能とトキ
 の里」(佐渡市吾潟)に着く。
  ところが、目立つ場所に「学校法人・新潟国際芸術学
 院佐渡研究院」の看板が掲げられ、レストランも土産店
 もない。
  この施設はもともと、JA佐渡と佐渡汽船グループが
 設立した「佐渡能楽の里」が運営していたが、観光客の
 減少で経営不振となり解散。
  絵画教室などを運営する学校法人・新潟国際芸術学院
 (東富有理事長、新潟市中央区)が、建物部分(延べ床
 面積約3600平方メートル)を1円で購入した。
  同学院は、土地もJA佐渡から無償で借り受け、1923
 年6月から研修施設として利用している。
  「持っていても税金がかかるだけ。二束三文でも手放
 したかった」。
  地元のベテラン市議は、「1円売却」の経緯をこの様
 に話した・・後略・・
.
2017年8月28日、中国の資本力が・・世界中でうごめく
  アメリカの超金持ちのエスタブリッシュメントの1%の
 人々は、アメリカの政治を動かしている。
  所得格差は、さらに広がっている。
  現時点の資本主義のメカニズムが、彼らに金が集まる
 ようになっている。
  かつて、日本に、バブルと呼ばれた時代、日本の東京
 の土地代でアメリカ全土が買えると言われた。
  資本主義システムがその様な流れにさせた・・
  日本の「東京の土地の価値」が、「アメリカ全土の土
 地の価値」以上であるから、購入可能となったという。
  そんなことが出来るからと言ったって「やる様な日本
 ではない」が、資本主義システムの流れの中で、その時
 代は・・その様な状況になっていた。
  アメリカのエスタブリッシュメントの方々が持つ資本
 力で、『世界の土地を買おうとすれば、バブルの日本が
 アメリカ全土を買えたように、やろうと思いさえすれば、
 それは、かなりの事が可能だろう」。
  今、中国の銀行が、かつての日本の銀行の様に、世界
 のトップを占めている。
  中国の4大銀行の勢いは凄い。
  今、ドイツが、中国へすり寄っているが、その様な勢
 いのある中国なのだ。
  中国資本が、オーストラリアの農場を買い占めている
 という。
  その中国農場主の下で働く人が、オーストラリアの人
 なのだという。
  中国は、この資本力で世界を牛耳ろうとしている。
  AIIB(アジアインフラ投資銀行)で、また、一帯
 一路構想で、巨大な資本力を背景に、世界を牛耳ろうと
 している。
  その中に、日本の土地の買い漁(あさ)りがある。
  北海道の山が買われ、町が買われて、今、北海道が凄
 いというが・・東京の不動産も、「中国が、良いお得意
 さんだ」という。
  参考:2017年8月28日・・産経ニュース
  中国資本の買収「とんでもない事態が進行」
  特別ツアー参加者が報告書 
  2017年7月に、産経新聞社が実施した北海道をめぐる特
 別ツアーの参加者が、訪問先の様子などをまとめた報告
 書を作成した。
  特別ツアーは、産経新聞連載「異聞 北の大地」(産
 経ニュースでは「北海道が危ない」で掲載)の筆者、宮
 本雅史編集委員が案内役として同行し、外国資本に買収
 された北海道の森林や水源地などをめぐるという内容だ。
  7月23、24の両日に開催され、本紙読者ら20人が参加し
 た。
  報告書を作成したのは「新しい歴史教科書をつくる会」
 (東京都文京区)の越後俊太郎事務局長で、写真をふん
 だんに使ったリポートに仕上がっている。
  例えば、航空自衛隊千歳基地や千歳空港を見渡せる千
 歳市内の中国人別荘地に関しては「空港を監視できる位
 置にやすやすとつくられてしまっている。
  安全保障上、相当に問題あり」と指摘し、中国資本が
 買収した伊達市内の山林内にあるゴルフ場跡地について
 は「買収されて6年以上にもなるが、商売なら「なぜ放置
 されているのか?」理解に苦しむ。
  造成された土地などを手っ取り早く手に入れ、「中国
 人流入の受け入れ先」として活用しているのではと勘ぐ
 りたくなる」と分析している。
  喜茂別町にある中国人専用のプライベートゴルフ場に
 ついても「関係者以外立ち入り禁止」の看板があること
 を踏まえ、「『私有地につき、立ち入り禁止』となれば、
 中をみることができない。
  ここに多くの中国人が入り込んでしまえば、その調査
 は事実上かなり難しくなる」との見方を示し、「つまり
 日本にいながら『治外法権』の場所ができあがってしま
 う。
  これもまた、安全保障上、極めて危険と言わざるを得
 ない」と警鐘を鳴らした。
  表紙を含めた全13ページの報告書の「まとめ」では、
 「(北海道の土地が)中国資本に買われている問題につ
 いては、一応の認識はあったが、実際に現地を訪れ、本
 当にとんでもない事態が進行していることを肌で感じる
 ことになった」と率直な感想を記している。
  さらに、越後氏は「中国資本は決してもうけるために
 土地を買ってなどいない。
  飛行場の近くの高台、港の苫小牧市(中略)、多くの
 中国人が外部と接触を断っても自給自足できるよう、山
 奥の広大な土地を確保して、宅地・水源・電力を準備す
 る。
  これは中国が『きたるべき時』のために備えを着々と
 進めているとしか考えられない。
  非常に背筋の凍るような思いがした」とし、法規制の
 必要性などに触れた上で「この問題に気づいた人間が、
 できる範囲で声をあげ、取り組むほかない」と締めくく
 っている。・・以上
  また、【世界ミニナビ】中国資本の旺盛な土地買収は
 極北にまで・・の記事もある。
.
2017年12月25日、TOKYO・MXの番組名「ニュース女
 子」で、以下の様な発言があった・・、
  「対馬が、韓国にどんどん買われている」
  「対馬は韓国の看板ばかりで、また、韓国語ばかり」
 ・・と・・、
  そして、対馬の現状について・・
 「土地、ホテル、料理店、釣り宿などが韓国資本家に
 よって買収が対馬の至る所で行われている」・・と・・、
  そして、これ以上に・・「日本人の名義が借りられて、
 買占めが行われている」・・と・・、
  しかし、日本人の名義であるため、その実態は掴(つ
 か)めないという。
  地方自治体が掴む数字以上に、土地や建物の買収は進
 んでいるものと見られている。
  廃業した民宿が、民宿のお手伝いさんの名義で買収さ
 レたりしているという。
  また、「大亜ホテル」というホテルが韓国資本によっ
 て建てられた。
  税制優遇がなされたという話があるが、韓国資本によ
 る対馬での観光業で、利益金は韓国に還元される(日本
 の利益にはならない)。
  厳原町の中心街は、「アリラン通り」と呼ばれる様に、
 また、地元向け薬局が、韓国人に買収されて韓国料理店
 に変わった様に、韓国人向けの看板、居酒屋、レストラ
 ン、免税店などハングル語に溢れている。
  アメリカには、安全保障上の問題があれば、外国企業
 の買収を止められる「エクソン・フロリオ条約」がある。
  アメリカは、事後法を作って買い戻したり、中国資本
 の買収が酷い時に、オバマ大統領が「NО」と言ったこ
 ともある。
.
2017年12月25日、中国による外国政界や世論への『工作が
 活発化』していることが相次いで明らかになり、各国が
 警戒を強めている・・
  こんな記事が読売新聞に記されている・・
  金のある中国は、その金に物を言わせて、何でもやり
 始めている・・
  以下は、その内容の概要・・
  習近平(シージンピン)政権は、世界第2の経済力を背
 景に、自国に有利な政治行動を取る国を増やし、中国主
 導の国際秩序を浸透させようとしており、そうした活動
 の一環とみられる。
  「外国勢力が、(オーストラリアの)政治プロセスに
 影響を与えるため、前例がなく、ますます巧妙な工作を
 している」
  豪ABC放送(電子版)によると、オーストラリアの
 ターンブル首相は5日、海外からの献金を禁止する法案
 を議会に提出し、背景をこう説明した。
  同国では、野党・労働党のサム・ダスチャリ上院議員
 (当時)が、中国人企業家から多額の献金を受け取り、
 南シナ海問題で、党の方針に反して中国の領有権主張を
 支持したことが政治問題になっていた。
  (日本にも、この様な政党や議員が居るのか??)
  ターンブル氏は、中国を標的にした法案ではないと強
 調しつつ、「ダスチャリ氏は、オーストラリアを売り渡
 した」とも述べた。
  中国外務省の耿爽(グォンシュアン)副報道局長は、
 定例記者会見で、法案について「中国に対する偏見に満
 ちている」と反発した。
  工作活動の一端は、ほかでも明るみに出ている。
  ニュージーランドでは9月、中国出身の国会議員を巡る
 「中国のスパイ」疑惑が取りざたされた。
  議員は、「スパイではない」と否定した。
  シンガポールでも8月、政府が、リー・クアンユー公共
 政策大学院の中国系の教授(現在は米国籍)が「外国の
 情報機関と連携してシンガポールの外交政策や世論に影
 響を与えた」として、妻とともに国外追放したと発表し
 た。
  地元メディアなどは、この情報機関を中国とみている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月1日、甲武鉄道会社が、中等および上等の賃率を
 低減した。
1892年12月3日、皇族方の肖像の販売が黙許(もっきょ、
 無言の内に許すこと)される。
  京都大学の研究によると、従来の「御真影」の研究で
 は、
  天皇陛下を「現御神」とする国体イデオロギーを民衆
 に植え付けて行った「イコン」としてとらえられていた。
  だが、そうした「御写真」のすべてが、そうした儀礼
 の対象となっていなかったと説明する。
  この様な「御写真」は、全体から見ればごく少数に過
 ぎないと説明する。
  明治以来、皇室の御写真の大多数は、学校や官庁など
 の公共空間ではなく、各家庭の内部に持ち込まれていた。
  明治期より、市中で手に入れることが出来、新聞や雑
 誌にも掲載されていた。
  雑誌界は、1890年代の頃より、皇室グラビアを読者獲
 得のための貴重な品として、重用していた。
  また、新聞は、1920年代のころには、皇室写真が紙面
 に載らなかった日を探すのが難しいほど、新聞社は、天
 皇陛下の御一家の方々の写真を用いる様になっていた。
  今、NHKや一部マスコミが、国家イデオロギーの話
 をして・・悪のイメージを作ろうとしているが・・
  「国体イデオロギー形成だ」のイメージを植え付け、
 そして、洗脳しようとする国を貶めるプロパガンダだ。
1892年12月4日、関西鉄道会社が、鉄道局との間に連絡運輸
 の契約を締結した。
  12月15日から、会社線各駅と官設鉄道大阪・京都・馬
 場の3駅相互間で連絡乗車券を発売した。
1892年12月9日、東京湾北部でM6.2クラスの地震が発生した。
  (6月3日説あり)
1892年12月12日、坪井航三(49歳)が、海軍兵学校の校長
 となる。
  坪井航三は、周防国三田尻(現 山口県防府市)の出身。
  1843年4月、医師・原顕道の二男として生まれ、藩医・
   坪井信道の養子となった。
  1863年(20歳)庚申丸(長州藩で建造された西洋式帆
   船)に乗り、外国船の砲撃に参加した。
   遊撃隊士として戊辰戦争に従軍。
   日本海軍の発足後は、甲鉄艦副長を務めた。
  1871年(28歳)アメリカ海軍アジア艦隊の司令長官ジ
   ョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドで乗艦実習
   をした。
  1872年(29歳)離任し帰国するロジェーズ少将に従い
   渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレ
   ッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)
   に学んだ。
  1873年(30歳)12月、官費海外留学生の一斉帰国命令
   に従い・・、
  1874年(31歳)7月、帰国した。
   帰国後、第一丁卯艦長となる。
  1894年(51歳)日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務め
   る。
   単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦、黄海海戦に勝利。
   特に、黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、
   優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主
   導権を握ることに成功する。
   日清戦争が始まるまで、日本海軍は、連日、単縦陣
   と横陣の二手に分け模擬海戦を行ったが、坪井の主
   張する単縦陣がいつも勝った。
   しかし、当時、横陣を有利とする主張も強く、単縦
   陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。
   彼は、単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘
   のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さな
   かった。
   黄海海戦で、清国海軍の軍艦に乗り日本海軍の動き
   を見たフィロ・マクギフィン米海軍少佐は・・、
   「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利し
   て有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値
   する」と、日本海軍の単縦陣を高く評価した。
   以後、単縦陣は海戦のセオリー(理論。学説)とな
   った。
1892年12月13日、第1回鉄道会議を招集して、議員より広軌
 道建議案を提出した。
  1869年11月、明治政府は、廟議で、東京~京都間の幹
 線鉄道、東京~横浜間、京都~大阪~神戸間、琵琶湖近
 傍~敦賀間の支線を敷設することを決定した。
  この鉄道網を実現するためには、まず軌間(ゲージ)
 を決定しなければならなかった。
  日本の鉄道の軌間は、当時、イギリスの植民地であっ
 たオーストラリアやニュージーランドと同じ3フィート
 6インチ(1067ミリメートル)の狭軌で敷設された。
  そのプロセスの詳細は不明である。
  しかし、当時、民部兼大蔵大輔であった大隈重信の回
 顧では・・、
  1870年4月、建築師長のお雇い英国人エドモンド・モレ
 ルと会見したとき、軌間の説明を受け・・、
  「元来が貧乏な国であるから、軌幅は、狭い方が宜か
 らう」と答えたという。
  当時、イギリスでは、ゲージ論争が活発に行われてい
 て、経済発展が遅れている地域では、4フィート8イン
 チ半の広軌道よりも、狭軌道の方が適しているという議
 論が優勢であった。
  そうしたなかで、井上も、「多少欧人の諸論を研究」
 したが、「我国の如き山河多く、又、屈折甚しき地形に
 在りては、三呎六吋ケージを適当とす」と判断した。
  すなわち、イギリスなどで採用されている4フィート
 8インチ半のゲージでは、「過大に失して不経済」であ
 り、
  「殊に、当時の勢にては、広軌にて百哩を造らんより
 は、寧ろ、狭軌にて百三十哩を造らんこと国利最も多か
 らん」と考え、狭軌を採用するよう大隈に進言した。
  その結果、廟議も、3フィート6インチの狭軌道を採
 用するにいたった。
  1892年に、銀行条例が改正され、第十五銀行が積立金
 を株主に割り戻すと、
  華族は、大金を得た。
  雨宮は、かねて、「日本の鉄道を広軌に改築せねばな
 らぬ」と考えていたので・・、
  500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築するという
 計画を立て、華族に、出資を促すと多くの賛同を得た。
  そこで、参謀次長であった陸軍の川上操六を動かして
 補給利子を得ることにし、さらに、井上勝にも同意を求
 めたが、「豈に図らんや、井上は、頑として応ぜなかっ
 た」。
  井上の軌制論は、次第に動揺した。
  1900年5月、鉄道時報社の記者のインタビューで、鉄道
 が、「今日の如く発達するなれば、無論、欧米の通り広
 軌道が適当だ」と・・広軌改築をほのめかした。
  しかしながら、井上は、なお・・、
  「今日でも、鉄道を速成するには、矢張、現行のゲー
 ヂが或る意味に於ては適当ならん」と・・、
  鉄道をさらに延長するには、狭軌道の方がよいとも述
 べている。
  その後、日露戦争を経て・・
  1906年3月、鉄道国有法が公布されると、井上は、はっ
 きりと広軌改築を主張するようになった。
  井上は、駕籠を主要な乗り物としていた時代に、狭軌
 道を採用したのはやむを得なかった。
  むしろ、狭軌道を批判するほど経済が発展したことを
 喜ぶべきであると強弁しているが・・、
  一方で、3000マイルの路線を、一昼夜のうちに、広軌
 に改造したというアメリカの事例をひきながら、日本で
 も、「広軌改造」を実行すべきであるとした。
  1909年5月の、それから3年後、井上は・・、
  「只慙愧(ざんき)に堪へない事が一つある、夫れは、
 我国に鉄道が出来てから四十年になる、其時、なぜ、ゲ
 ージを四呎八吋の広軌にして置かなかつたのか、
  日清戦役には、彼の様に勝ち、日露戦役にも彼の様に
 勝ち、露国を満洲より追ひ払ふやうな進歩を我国に予期
 して居たならば、マサカ、狭軌にしては置かなかつたに
 と、余は、全く先見の明がなかつたのを頗る(すこぶる、
 大いに)愧(は)ぢて居る次第だ」と、鉄道創業期に、
 狭軌鉄道を採用したことを心から悔いた。
  (2013年、釧路公立大学で講演された老川慶喜氏の論
 文を参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん買われ、
    逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人になっているという。
    日本の北海道も中国化しているという・・、
.
815年、嵯峨天皇が、近江へ行幸された時、梵釈寺(ぼんし
 ゃくじ)の僧・永忠(えいちゅう)より茶を献じられた。
  後に、嵯峨天皇は、茶の栽培を命じられた。
  信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町は、その様な地。
  俳人・小林一茶は・・、
  「しがらきや 大僧正も 茶摘み唄」と詠んでいる。
.
16世紀、スペインについて、本は次の様に記述する・・、
  「16世紀まで、西欧諸国に大きな支配力をふるったこ
 の国は、いま国民総生産(GDP)は低くても、国土の
 いたる所に珠玉の様な文化遺産を残している」・・と・・
  しかし、この文化遺産と言ったって、南米・中米・北
 米の先住民の方々、インディオの方々から奪った金で作
 ったもの・・
  インディオの方々は、今、そのほとんどが絶滅させら
 れている。
  わずかに残った種族の方々が、存在はしては居るが・・、
  このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たち
 が、人類史上で最悪の事を、長年に渡ってしでかし、全
 滅させた。
  キリスト教の考え方・教義から「この卑劣な行動とな
 った」。
  わずかに生き残ったインディオの方々は、この殺戮者
 から逃げることが習慣となっていて、今でも山の中を走
 り回っている・・留まることを村のタブーとしている・・
 この可哀想な習慣・性(さが)となっている・・
  山の中で走る行動が・・悲しい習性となって続けられ
 ている・・
  また、別の地域のある村では、男性が総べて殺されて、
 このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの
 強姦によって・・その村人のすべてが混血の人となって
 しまった・・
  この様な悪行の状況の結果が、今のスペインにある。
  キリスト教に偏向するNHKは、日本を貶める放送だ
 けをしていて・・この様な放送はしないというNHKと
 なっている。
.
1758年、今も、中国の地で苦しむウィグルの方々・・
  ジュンガルは、17世紀に有力になったモンゴル人の部
 族の方々の事で・・オイラト系である。
  族長ガルダンはチベットのダライ=ラマと結び、内モ
 ンゴルのハルハ地方に進出した。
  康煕帝は、内モンゴルに2度出兵してガルダンを攻め、
 ガルダンを自殺させた。
  ジュンガルは、なおもチベットに入り、抵抗を続けた
 ので、康煕帝は、皇子をチベットに派遣しジュンガルの
 勢力を排除し、チベットを支配下においた。
  ジュンガルは、その後も、タリム盆地を拠点に清朝へ
 の抵抗を続けたが、雍正帝に続いて、乾隆帝時代にも激
 しい清側の攻勢を受け、1758年に滅亡した。
  その支配領域は、清朝の藩部の一つ、「新疆(新疆ウ
 イグル自治区)」となった。
  (参考)オイラト:モンゴル民族の中の有力部族で、
     チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴ
     ル帝国解体後も、モンゴル高原西部を中心に活
     動していた。
      15世紀に強大化し、一時、その族長エセンが、
     全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。
      エセンは、明に侵攻し、1449年には、土木堡
     (現在の河北省張家口市)で明の皇帝正統帝(
     英宗)を捕虜としている(土木の変)。
      その後、モンゴル高原東部のモンゴル人、い
     わゆる韃靼(タタール)のダヤン、ついでアル
     タンに討たれ、衰えた。
      17世紀に、再び、中央アジアに勢いを盛り返
     し、ジュンガルとして知られるが、1757年、清
     に討たれ滅亡した。
  そして、中国の資源は、『人』。
  チベットやウィグル自治区へ、この地域へ、中国の人
 (漢民族)を、多量に、多数を、送り込んでいる。
  チベットの方々が多く住む地や、ウィグルの方々が多
 く住むから自治区とされたこの地は、今や、一番多く住
 んで居るのは『漢民族となってしまった』。
  民族の多さで自治区となっていたその国は、今、おぼ
 ろげに・・人為的になされている。
  だから・・東京なんて・・1300万人が住んでいるなん
 て、中国の人口を考えれば『笑い話』・・少数の小民族
 なのだ。
  日本の10倍以上の中国の『人口大国』が・・やろうと
 思えば、日本人なんて少数民族となってしまう・・明日
 のチベットや、ウィグルや、モンゴルの如く・・そして、
 消された満州族の如くになる・・
  今、チベットやウィグルや内モンゴクルが「消されつ
 つあることを思え!」。
  満州人が多いので、日本が、かつて、建国を助けてあ
 げた満州国は、中国は、その後、一生懸命、漢民族を送
 り込んだ・・そして、今、満州国は消滅している・・
  そして、今、その満州人はどこに行ってしまったのか?・・
 殺されたのか?・・その満州人は居ないという・・
  満州国は、今は、完全に過去の話、おとぎ話の様にな
 っている・・
  沖縄なども、中国には、中国のものだという声もある
 というが、何でも言う中国なのだが・・??
  NHKが、中国に媚(こび)を売っているのが、なん
 とも気持ちが悪い・・??
.
1854年2月、アメリカのペリーが神奈川に上陸した。
  そして、約500名の兵士も上陸した。
  ペリーの『日本遠征記』には、下記の記述がある・・
  「(日本人には)読み書きが普及しており、見聞を得
 ることに熱心である。
  ・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質
 的進歩、当代の歴史についてもなにがしかの知識を持っ
 ており、我々も多くの質問を受けた」
  「日本人が、ひとたび文明世界の過去・現在の技術を
 有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバル
 となるであろう」
  「日本人は一生懸命に働くが、時々の祭日をもって埋
 め合わせをし、また、夕方や暇なときには勝負事や娯楽
 に興じる」
  「若い娘は姿よく、美しく、立ち居振る舞いは大変に
 活発で自発的である。
  それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているため
 に生じる、品位の自覚から来るものである」
.
1856年8月21日、日米和親条約に基づき、この日、下田に
 着任したアメリカ総領事ハリスは・・、
  日本とあめりかが、貿易を開始するために、新たに
 通商条約を結びたいと要求した。
  幕府は、朝廷の許可を得てから条約を結ぼうとした。
  政治の権限を、朝廷から与えられていた幕府が、この
 様な手順を踏んで、「朝廷の許可を得ることをするのは
 前例のない事だった」。
  アメリカを撃退する「攘夷をするか?」・・「通商条
 約を結んで開国するか?」・・
  この問題は、国論を二分する大問題となった。
  京都の朝廷は、にわかに国政の中心舞台となった。
.
1863年6月25日、下関戦争
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもって攘夷実行を約束し
 た。
  長州藩は、馬関海峡(現:関門海峡)を通過する外国
 船への砲撃を実施した。
  しかし、逆に、米仏の報復に逢い惨敗した。
  高杉晋作は、下関の防衛を任せられ、この6月に、廻船
 問屋の白石正一郎邸において、身分に因らない志願兵に
 よる奇兵隊を結成した。
  そして、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とした。
  しかし、1863年9月に、教法寺事件(8月16日、奇兵隊
 と他の隊とのトラブル)の責任を問われ総監を罷免され
 た。
  京都では、薩摩藩と会津藩が結託したクーデターであ
 る八月十八日の政変(1863年9月30日)で長州藩は追放さ
 れた。
  1864年1月、晋作は、脱藩して京都へ潜伏した。
  桂小五郎の説得で、2月には、帰郷するが、脱藩の罪で
 野山獄に投獄され、
  1864年6月に、出所して謹慎処分となる。
  1864年8月20日、長州藩は、「禁門の変」で敗北して朝
 敵となった。久坂玄瑞は自害した。
  8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4
 カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された。
  この事によって、晋作は、赦免されて和議交渉を任さ
 れた。
  24歳の晋作は、交渉の席で(通訳を務めた伊藤博文の
 後年の回想では)講和会議で、連合国は数多の条件とと
 もに「彦島の租借」を要求してきた。
  晋作は、ほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「
 領土の租借」についてのみ「頑として受け入れようとは
 しなかった」。
  結局、取り下げさせることに成功した。
  (古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)
  これは、清国の見聞を知っていた晋作が、「領土の期
 限付租借」の意味するところは、「日本の植民地化であ
 る」と深く見抜いていたからだった。
  もし、この要求を受け入れていれば、日本の歴史は大
 きく変わっていたと伊藤は自伝で記した。
  幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩は、幕府
 への恭順は止むなしとする保守派が台頭した。
  1864年10月、晋作は福岡へ逃れ、平尾山荘に匿われた。
  しかし、晋作と同じ派の家老の処刑を聞いて、再び、
 下関へ帰還した。
  1864年12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、
 石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で
 挙兵した。
  後になって、奇兵隊ら諸隊も加わった。
  そして、元治2年(1865年)3月、晋作は、俗論派の首
 魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。
  そして、この月、晋作は、海外渡航を試みたいと長崎
 でイギリス商人グラバーと接触するが、反対された。
  1865年4月、晋作は、下関開港を推し進めたことにより、
 攘夷・俗論両派に命を狙われた。
  そこで、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ
 逃れ、日柳燕石を頼った。
  1865年6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
  元治2年(1865年)1月11日付で、晋作は、高杉家を廃
 嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、
  1865年年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。
  慶応3年(1867年)3月29日、新地100石が与えられ、谷
 家を創設して初代当主となる。
  (明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名
 し現在に至る)。
  高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
  再度の長州征討に備え晋作は、防衛態勢の強化を進め
 た。
  慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が
 桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩
 長盟約が、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の
 仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。
  1866年5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その
 途次、長崎で、蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を
 購入した。
  慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐(四境戦争)
 では、晋作は、海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦
 闘指揮を執った。
  周防大島沖で、幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半
 七が率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。
  小倉方面では、艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊
 を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させた。
  その後、小倉城近くまで進撃したものの肥後藩・細川
 家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
  しかし、7月20日、将軍・徳川家茂が死去すると、7月
 30日に、肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が
 撤兵した。
  幕府軍総督・小笠原長行も、海路で小倉から離脱した。
  残された小倉藩が、8月1日、小倉城に火を放ち逃走し
 た・・このため幕府軍の敗北が決定的となった。
  幕府の権威は大きく失墜した。
  これは、翌年の慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと
 つながった。
  その後、晋作は、肺結核を桜山で療養するが、慶応3年
 4月14日(1867年5月17日)に死去した。享年29(満27歳)
 だった。
  臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・
 山県狂介・田中顕助が立ち会ったという。
  奇兵隊は、長州藩の正規兵とは別に創設された軍隊で、
 長州藩の正規兵は、武士で構成されていたが、武士階級
 は全体の1割に過ぎず、この武士だけでは戦えないと判断
 した高杉晋作が、農民であれ商人であれ志があれば入隊
 を認めるという規則を設けて創設した。
  身分制度にうるさい当時の封建社会では画期的な軍隊
 だった。
  全体の構成は、武士が半分、農民四割、商人その他一
 割だった。
  この奇兵隊に習い、身分を問わない軍隊が、次々に長
 州で創設された。
  それらを総称して「諸隊」と呼ばれた。
  諸隊は、最も多い時期で400隊を数え、一大兵力として
 長州を支えた。
  奇兵隊は、1864年の禁門の変以降、四カ国聯合艦隊と
 の対決、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争と主要
 な戰場で活躍し、その存在感を増した。
  地元の下関では・・次のような声もある・・
  「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒
 れくれ者の集まりだった。
  仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじ
 ゃった。
  やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町
 の者は噂した」との声もある・・また・・
  奇兵隊隊士・金子文輔の日記には、隊士数人で、俵山
 温泉(現:長門市)に湯治に行ったら・・、
  「余輩入浴すれば他の浴客皆去る」(文久三年九月四
 日の条)・・とある。
  奇兵隊は、身分を問わず入隊できた。
  そして、入隊希望者は、諸隊に入れば武士として取り
 立ててもらえるという噂があった。
  しかし、実際、赤根武人が、士気高揚のために藩へ願
 い出たが、「却下された」。
  入隊は、原則的に「志ある希望者」となっていたが、
 実際は・・「半ば強制的に入隊させていた」こともあっ
 たという。
  農民の記録では、「命(めい)により入隊」させられ
 た者も多く・・、
  「自分たちこそが明治維新の原動力」という自負があ
 りながら、充分な論功行賞も行われないまま「使い捨て」
 となった。
  家に戻っても、次男・三男は、養子にも行けず、
  耕す田畑もなく・・嫁も貰えない。
  冷や飯を食わされるだけの余生という状況は、彼らに
 とって受け入れられなかった。
  このこともあって、高杉晋作が、萩で評価されたのは
 ずっと後の時代になってからだった。
  しかし、やはり・・日本の気概(きがい、困難にも屈
 しない強い意気。気骨)を見せ、イギリスに、その様な
 日本人の姿を見せ、植民地化を封じた晋作は、「これだ
 けでも、大きな仕事をした偉人だった」。
.
1867年11月15日、坂本龍馬、暗殺される。
.
1868年4月6日、五箇条の御誓文
  明治天皇陛下が、新しい国づくりの大方針を明らかに
 し、明治政府の基本方針を示された。
  一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スへシ
  (会議を開いて、広くみんなの意見を出し合い、すべ
   ての政治は世論に従って決めるべきである)
  一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経綸ヲ行フヘシ
  (身分の違いをこえて、みんなの気持ちを一つにし、
   国を治める施策をしっかり進めるべきである)
  一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシ
   テ倦マサラシメンコトヲ要ス
  (公家と武家が一体となり、一般の庶民でもその望み
   がかなうようにし、人々の気持ちが飽きて嫌になる
   様なことがないようにする必要がある)
  一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道に基クヘシ
  (古くからの悪い習慣をやめて、世界に通用する正し
   い道理に従うべきである)
  一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ
  (智識を広く世界に求めて、大いに天皇陛下が国を治
   める事業の基礎をふるいおこすべきである)
.
1868年(明治元年)、政府は、農民が、田畑に何を作付け
 するかは自由であるとし、田畑の売買も認めるとした。
  さらに、政府は、全国の地価(土地の金価格)を定め、
 土地所有者を確定して、『地券』を公布した。
  地券には、所有者・面積・地価・地租(税金)などが
 記されていて・・
  この地券を元に、1873年、政府は、地租改正に着手し
 た。
  地価の3%にあたる地租を、貨幣で納める制度に改めた。
  これにより、政府の歳入は安定した。
  土地所有者に、納税の義務を課し、財政基盤は固めら
 れた(江戸時代は米を物納した)
.
1871年8月29日、廃藩置県
  日本の2回目の無血革命。
  大久保利通らの新政府の指導者たちは、全国の藩を一
 挙に廃止した。
  薩摩・長州・土佐の各藩から集められた天皇陛下直属
 の約1万の御親兵を背景に・・、
  1871年7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(元
 の江戸城)に集め、天皇陛下の名において廃藩置県の布
 告を言い渡した。
  廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止して、中央
 集権制の下での地方組織である県を置くことで、藩に残
 されていた「軍事と徴税の権限」をも新政府のものとし
 た。
  これによって、農民から集められた年貢は、藩ではな
 く、新政府の管理下に入ることになった。
  武士は失業したが、武士の禄は、その後しばらく、新
 政府が肩代わりして給付した。
  新政府は、反乱を恐れていたが、大きな混乱はなかっ
 た。
  新たに置かれた県には、新政府から派遣された県令(
 県知事)が治めることになり・・、
  日本は、統一された中央集権国家となり、中央政府の
 権力が高まった。
  1871年7月、全国に、3府(東京府、京都府、大阪府)
 302件が置かれ、半年後には3府72県となり・・、
  1888年に、ほぼ現在の区分となった。
.
1872年、学制が発布された。
  「必ス邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事
 ヲ期ス
  (カナラズムラニフガクノコナクイエニフガクノヒト
 ナカラシメンコトヲキス)
  「学事奨励二関スル仰セ出サレ書(ガクジショウレイ
 ニカンスルオオセイダサレショ)」より・・
.
1873年、徴兵制が公布された。
  20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて
 兵役に服することになった。
  今、日本も、体験入隊者には「特別な栄誉を与える制
 度」を設けるべきだ。
  今、中国からの人が自衛隊に多く入隊しているという。
  この逆が・・果たして「あるのだろうか」??
.
1941年12月1日頃、日本が、ハワイの真珠湾を攻撃する1週
 間から10日ぐらい前のこの頃、ハワイの新聞に、「日本
 が攻めて来る」という記事が掲載された。
  それも、大々的に大きな字による報道だった。
  また、ルーズベルト大統領の言葉に、「私は戦争を作
 った」という言葉がある。
  また、この新たな事実・・ハワイの新聞報道による事
 実がある様に・・、
  アメリカは「奇襲だ」「奇襲だ」と言うが、これは完
 全な嘘という事が、歴史が、また、明らかにした。
.
1961年、アメリカは、ベトナムで卑劣な「枯葉剤を撒く」
 ・・「汚い・卑怯な手」を使った。
  この枯葉剤を撒くことを、何と、1975年までの15年間
 も続けた。
  この事によって、多くの死産が起き、また、奇形児が
 生まれた。
  戦争が終わった後でも、長くベトナムの方々を苦しめ・・
 影響の大きい悪の行為、卑劣な行為をアメリカは行った。
  これは、ベトナム戦争で、敵のベトコンの秘密ルート
 を見つけるためで・・、
  密林の樹木の葉が茂る事で、ベトコンの動きが見つけ
 られないために、この樹木の葉を枯らす「魔の薬剤」を、
 盛んに、アメリカは撒き続けた。
  この場所は、日中戦争の時に、日本の敵の中国・蒋介
 石軍へアメリカが、武器弾薬を与え、そして、支援した
 「援蒋ルート」の一つだった。
  (援蒋ルートは何本もあった)
  アメリカは、また、ベトコンの敵が、ベトナム住民の
 人々の家へ隠れるため、ベトナム住民の方々の家を焼い
 た。
  その住民の方々と共に、「ベトコンの敵を殺戮するの
 だ」として、住民の方も、もろとも、焼いた。
  村全体を「一気に焼いてしまう事」も行なった荒っぽ
 い卑劣なアメリカだった。
  女性も子供もお構いなく、この様な攻撃をするアメリ
 カだった。
  延々と長い期間に渡って、この攻撃は行われ続けた。
  ナパーム弾という燃焼性の高い薬剤を使った爆弾を投
 下して、無差別に、すべてを焼き殺した。
  大変多くの、言葉では言い尽くされないほど多くの方々
 が、ベトナムの方々が、一般住民の方々が・・焼き殺さ
 れた。
  日本軍は、いつの時でもしっかり軍服を身に着けて戦
 い、戦わない方々へ危害が及ばない様にしたが・・南京
 攻略戦の時も、中国軍はこの様な卑劣な事をした・・軍
 服を脱いで一般住民の中に隠れた。
  日本は、この住民の中に隠れた中国兵と戦ったが、一
 般住民の方々へ向かって爆弾などは、当然、投下する様
 な卑劣な事はしなかった。
  このベトナムのような、アメリカ軍の様な、卑劣な戦
 い方はしなかった。
  まったく、ベトナムでの、アメリカ軍の戦い方は、卑
 劣で荒っぽかった。
  非人道的な・・忌(い)むべき、蔑(さげす)むべき
 戦い方のアメリカだった。
  一般住民の方々が、何人、無為に殺されたというのか・・
  この事こそ、東京裁判ではないが、「ベトナム裁判を
 開催して、アメリカを糾弾すべきである」。
.
1962年9月30日、こんなに近代になっても、アメリカは、ま
 だ、あちこちで人種差別をしていた。
  人種差別国=アメリカは、黒人の方々を差別し、事件
 も多発していた。
  この日、ミシシッピ州のオックスフォードにあるミシ
 シッピ大学で、かつて、朝鮮戦争で戦功をあげた戦士の
 黒人の方ジェームズ・H・メレディス氏の入学を巡って、
 卑劣な人種差別の妨害行為が発生した。
  あまりにも卑劣なので詳細は記さないが、死者が2人出
 て、
  また、多くの方々が重軽傷を負った。
  非常に大規模な抵抗・騒ぎだった(アメリカ白人たち
 は人種暴動を言った)
  大統領は、ジョン・F・ケネディだった。
  内戦のような状況だった。
  南北戦争を思わせる人種抑圧社会のアメリカだった。
  この中心に卑劣な「根っからの白人優越主義者」の知
 事ロス・R・バーネットが居た。
  結論を先に言えば「この黒人学生・メレディス氏は、
 入学を勝ち取った」。
  成績優秀で、翌年の1963年8月に、このミシシッピ大学
 を見事に卒業した。
  メレディス氏は、この後、公民権運動の熱心な活動家
 になった。
  まだまだ、人種差別国=アメリカは、公民権運動をし
 なければならないという状況の人種差別国の状態を続け
 る。
  アメリカ各地に、黒人の方々を奴隷として虐げ、そし
 て、その後も、延々と続く人種差別の虐げ行為、アメリ
 カ各地に懺悔の銅像を立てよ。
  これから、まだまだ、公民権運動が展開されねばなら
 なかった。
.
1974年1月15日、西沙諸島(パラセル諸島)の戦い(~1974
 年1月20日)
  西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を巡って、中国(
 中華人民共和国)とベトナム共和国(以下、南ベトナム)
 が武力衝突し、交戦した。
  海戦によって、中国艦隊が、南ベトナム軍艦1隻を撃沈
 した。
  そして、南ベトナムが支配していた島嶼(とうしょ、
 島。島々)に部隊を上陸させて・・占領した。
  中国政府は、この戦いで、島々を占領した後、中国人
 を移住させて住まわせたり、中国人民解放軍を駐屯させ
 たりして、支配を強化した。
  この南シナ海にある既存の島での建設や、埋め立てに
 よる人工島の建設は、主に、ベトナムとフィリピンが何
 十年も行って来ていた。
  ベトナムは21島、フィリピンは8島の領有権を主張して
 いる。
  台湾とフィリピンは、領有権を主張する島の一部に軍
 を駐留させているが、ベトナムはUNCLOSの規則に
 従って島には軍を置いていない。
  (参考)UNCLOS:通称・略称は国連海洋法条約
     で、17部320条の本文などで構成されている。
  中国は、南シナ海での建設に出遅れたが、これまでに
 ない規模で、今、建設を進めている。
  過去1年半の間で、中国は、これまでのどの国よりも
 多くの建設を行った。
  また、中国は、他の国が行ってない事をしている・・
 それは、兵器を配備する事をしている。
  アメリカは、東南アジア諸国による建設行為には反応
 を示さなかったが、中国の動きに対しては、積極的に反
 対姿勢をとっている。
  南シナ海で、アメリカ海軍は、第二次世界大戦以降、
 継続的に活動している。
  カーター国防長官は、今後も活動を続ける確固たる意
 志があると表明している。
  アメリカは、南シナ海は公海であり、同海域での領有
 権は、「海洋法に関する国際連合条約(UNCLOS)」
 によって決められるべきだとしている。
  この南シナ海問題で、中国は、大きな読み間違い・錯
 誤をしている。
  中国の姿勢の根底には「大国意識」がある。
  南シナ海問題で、「ベトナムとの問題が大きくなって
 も、簡単に解決できる」と思っていた。
  中国の大国が、ベトナムとの二国間交渉によって、大
 国の圧力を見せながら「解決できる」と見ていた。
  しかし、「そのように事が運ばない世界」となってい
 る。
  このベトナムに、インドなどが接近し、「ベトナムが、
 ロシアから潜水艦を買うと、訓練施設の提供をした」。
  潜水艦の要員の養成には、シュミレーターが必要だが、
 この様な施設での養成の協力を行なう事になった。
  (インドは、ロシアから、すでに、同型の潜水艦を購
 入している)
  インドのベトナムを助ける介入となり、日本もこのベ
 トナムやフィリピンの沿岸警備隊に巡視艇を供与した。
  また、ベトナムは、オーストラリアとの戦略対話とイ
 ンテリジェンスの共有を始め、有益情報が受けられるよ
 うになった。
  中国の思惑通りにいかなくなっている。
  中国の台頭は、周辺国の協力関係を強固にした。
  二国間で、大国の思惑で、解決できると考えても、そ
 の様な「大国のエゴが通る世界ではなくなっている」。
  しかし、南ベトナム軍は、この西沙諸島の戦いで、哨
 戒艇ヌータオが撃沈され、
  哨戒艦リ・トン・キェトも大破したほか、残る2隻も損
 傷し、人的損害も多数の死傷者が出たほか、49人が捕虜
 となり、うち1人はアメリカ人の軍事顧問だった。
  因みに、中国軍は、掃海艇「389号」が大破したほか、
 駆潜艇「274号」も損傷した。
  人的損害は、中国側によると戦死18人、負傷者67人で
 あった。
  中国海軍の勝因は、速力や武装、特に、近接戦に有利
 な速射砲の数において中国艦が優っていた。
  ベトナム艦は、船体こそ大型でも速力が遅くて武装も
 大口径砲が少数しかなく、より小型の中国艦に圧倒され
 た。
  また、戦術面でも、ベトナム側は、速力のばらつきが
 大きいためもあって、陣形を組んでおらず、しかも不利
 な接近戦を自ら挑むなどの問題があった。
  この戦いの結果、西沙諸島から南ベトナムの勢力は追
 い出され、完全に中国の実効支配下に置かれることとな
 った。
  中国軍は、永興島に4階建ての建物やヘリポートを整備
 し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させるなど要塞化を進
 めた。
  今まで、ベトナム戦争終結後から、ベトナム統一を遂
 げたベトナム社会主義共和国(旧・北ベトナム)政府が、
 中国に対して西沙諸島の領有権を主張して、外交交渉を
 求めたが、中国政府は応じて来なかった。
  1988年には、中国は、2600m級の本格的な滑走路を有す
 る飛行場まで完成させ、南シナ海支配の戦略拠点として
 いる。
  1988年、中国軍は、ベトナム支配下にある南沙諸島(
 スプラトリー諸島)にも侵攻すると、ベトナム軍を撃破
 して、ここも勢力下においた(南沙諸島海戦)。
.
1991年11月26日、アメリカが、フィリピンのスービック軍
 港(スービック海軍基地)から撤退した。
  アメリカは、10年間の使用期限延長を望んだが、フィ
 リピン上院は拒絶し、1991年11月26日に、返還された
  遡(あかのぼ)ること19世紀、アメリカは、フィリピ
 ンを植民地にした。
  まったく卑劣な事をした。
  この事により、今、フィリピンの方々は、完全にアメ
 リカを嫌っている。
  フィリピンの方々は、1898年の米西戦争(アメリカと
 スペインの戦争)以来、アメリカが、スペインに代わっ
 ての卑劣な侵略以来、フィリピンの方々は、アメリカに
 怒りを感じていた。
  そして、20世紀の1991年11月26日、フィリピンの方々
 は、アメリカをスービック海軍基地から追い出した。
  アメリカ兵による、フィリピン女性への強姦などにも
 その心底に怒りがあった。
  第二次世界大戦の時にも、アメリカ兵が、フランスの
 パリへ入った時、パリの町の至る所で、あからさまにア
 メリカ兵は、パリの女性(パリジェンヌ)を犯し、強姦
 した。
  あまりにも目にあまる状況だったので、パリ市長が、
 アメリカ軍上層部へのクレームを申し入れるような酷(
 ひど)い状況だった。
  やはり、このフィリピンにおいても、同じ卑劣な行為
 をアメリカ軍兵士はした。
  この事にも、フィリピンの方々は怒りを感じていた。
  フィリピンの上院は、16対17の票決でフィリピンから
 のアメリカ軍の撤退を決定した。
  この時、フィリピンの方々は、喜び浮かれた。
  これほどアメリカ軍は、フィリピンの方々を抑圧して
 いた。
  アメリカは、どの国へ侵攻、進駐しても、その国の女
 性の方々を犠牲にしていた。
  何の改善も見られず、同じ破廉恥を続けていた・・ア
 メリカはこの事から逃げていた・・まったく無責任状態
 だった。
  日本は、第二次世界大戦後、「慰安所を作れ」と、ア
 メリカから言われ・・日本は言われた様に作ったが・・
 卑劣な事件は、後を断たなった。
  アメリカ兵が銃を持って病院を襲い、看護婦をはじめ、
 妊婦の方々まで犯した・・この様な事件が多発していた。
  また、通学中の小学生が襲われ犯されたり・・あまり
 の多さに、アメリカは、『その様な新聞報道はするな』
 と命じるくらい、報道規制をかけるくらい酷いアメリカ
 だった。
  サンフランシスコにこの銅像を立てよ!
  フィリピンの方々の喜びは、この様なアメリカ軍を追
 い出した喜びだった。
.
2017年、今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん
 買われ、逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人
 になっているという。
  日本の北海道も中国化しているという・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月5日、東洋自由党に日本労働協会が設立される。
  東洋自由党は、この日に、大井憲太郎を中心とする自
 由民権運動の左派が組織した。
  これに先立って大井は、大阪事件の関係者ら急進勢力
 とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成した。
  そして、自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党して、小久保喜七、新井章
 吾らの大阪事件に連座した人々と新党を結成した。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので・・、
  対外強硬策を軸とした反政府活動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行した。
  そして、さらに、政綱実現のための機関として普通選
 挙期成同盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおいて、
 労働者や貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4議会と第5議会において、4人の代議士を出したが、
 その過激な政策のため、議会主義と相いれず、1年あまり
 の活動ののち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らは、その後、国民協会、熊本国権党などの国家
 主義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月8日、第27回アメリカ大統領選挙が行われた。
  第24代アメリカ大統領グロバー・クリーブランド(任
 期:1893年3月4日~1897年3月4日)が選出され、返り咲
 いた。
  この大統領の1期目は、旱魃(かんばつ、長い間雨が降
 らないで、田畑などが乾いてしまうこと)に苦しむテキ
 サスに、穀物種子を支給するための特別支出金を「認め
 なかった」。
  そして、インディアンの方々から不法に借り受けてい
 た牧草地の契約を「無効にした」。
  インディアンの方々の生活を苦しめ大統領だった。
  この頃、鉄道網の行き過ぎた拡大の問題があった。
  1893年から深刻な恐慌が始まった。
  ストライキが頻発した。
  この大統領は、ストライキを鎮圧するため、連邦正規
 軍を派遣して、抑圧した。
  また、ストライキ指導者を投獄するように要求した。
  労働者の不満の中に、やむなくストライキは収まった。
  この頃、アメリカは西部の開拓も終わり、次の目標で
 ある「海外の領土」に食指を伸ばす論議が活発だった。
  (他国の領土を侵略して行こうという侵略主義が花盛
 りのアメリカだった)
  この大統領は、キューバの砂糖算出を注目した。
  また、この地は、戦略的に重要な場所だとした。
  ハワイなども注目されていた。
  (アメリカの太平洋・大西洋の領土漁りの時代が始ま
 った)
  イギリスとギアナとベネズエラとの取り合いの紛争も
 始まっていた(1895年~1896年)
  この大統領は、1908年に死去し、国葬が行われた。
1892年11月29日、第4回帝國議會が開かれた(~1893年2月
 28日)(通常会)
1892年11月、(氷川清話)勝海舟が、日光に保晃会(ほこ
 うかい)の碑を建てた。
  保晃会は、二社一寺(二荒山神社、東照宮、輪王寺)
 の社寺長職を中心として、社寺修繕に協賛した会で・・、
 1879年(明治12年)に設立された。
  日光の社寺は、江戸時代には、幕府によって、定期的
 な修理が、日光の町に常駐した職人集団によって行われ
 ていた。
  それは、その時代時代の最高の技術水準でもって行わ
 れていたが・・
  明治となって・・幕府からの援助が絶たれ、また、
 1871年に政府によって発せられた神仏分離令が影響して、
 荒廃した。
  そこで、この会は、この二社一寺の修理修繕を行なう
 善行に乗り出した。
  初代会長には松平容保が就かれた。
  碑は、勝海舟が、石碑を石巻から特別な東北本線の汽
 車で運び、字も文も勝海舟が書いた。
  碑の大きさは、高さ約6m、幅3m、石の厚さ30cm、
  しかし、1897年(明治30年)に、日本政府は、「古社
 寺保存法」を制定し、文化財の保護に乗り出した。
  日光には、「日光社寺修繕事務所」が設置され、政府
 及び二荒山神社、東照宮、輪王寺によって組織された。
  そして、社寺の修理を担当した。
  専任の技師を置き、その指導・監督のもとに、破損の
 著しい建物から順次、根本的な修理が行われた。
  そして、1929年には「国宝保存法」が制定され、
  さらに、1950年には「文化財保護法」が制定され、
  「日光の社寺」の建造物は、それぞれ「国宝」ならび
 に「重要文化財」に指定された。
  1998年には、世界遺産に推薦された区域が「史跡」に
 指定された。
  現在、建造物の修理工事は、専門技術者のいる(財)
 日光社寺文化財保存会(旧日光社寺修繕事務所)が各所
 有者から工事を受託して行なっている。
  修理方法は、破損の程度によって、根本的な修理(解
 体修理・半解体修理)と維持的な修理(屋根葺替・部分
 修理・塗装修理)とに分けらる。
  修理の際、専門技術者が詳細な調査・設計・管理にあ
 たり、修理完了後は修理の記録を取りまとめた修理工事
 報告書を作成している(長く技術が保存される)
  建造物彩色技術は、「文化財保護法」で定められてい
 る「選定保存技術」として(財)日光社寺文化財保存会
 が技術保持団体として認定されている。
  また、修理技術者の実務研修も実施されていて技術の
 向上を図っている。
  1999年に、世界遺産に「日光の社寺」という登録名で
 登録された。
  登録範囲:日光東照宮
       日光二荒山神社(別宮・本宮を含む)
       日光山輪王寺(大猷院霊廟も含む)
  登録対象物:国宝9棟、重要文化財94棟、合計:103棟
       および「日光山の景観」
  登録理由:人間の創造的才能を表現する傑作
       人類の歴史上重要な時代を例証する建築様
      式、建築物群、技術の集積または景観の優れ
      た例。
       顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存
      する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的
      作品と直接にまたは明白に関連するもの。
      (以上の登録基準をクリアした)
1892年12月1日 正岡子規(25歳)が、新聞「日本」に入社
 した。
  1880年(13歳)旧制松山中学(現・松山東高)に入学
   した。
  1883年(16歳)同校を中退して上京。
   受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。
  1884年(17歳)旧藩主家(松山藩)の給費生となり、
   東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学
   した・・そして、常盤会寄宿舎に入った。
  1890年(23歳)帝国大学哲学科に進学した。
   しかし、文学に興味を持つ。
  1891年(24歳)国文科に転科した。
   この頃から「子規」と号して句作を行った。
  松山中、共立学校で同級だった秋山真之(あきやまさ
 ねゆき、海軍軍人、日露戦争時に東郷司令長官の下で作
 戦担当参謀)と、松山在住時からの友人であり、
  また、共通の友人として勝田主計(しょうだかずえ、
 大蔵官僚、政治家、大蔵大臣、文部大臣)がいる。
  東大予備門では、夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと
 同窓だった。
  大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で・・
  1892年(25歳)新聞『日本』の記者となり、家族を呼
   び寄せ、そこを文芸活動の拠点とした。
  1893年(26歳)「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくは
   いわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
  1894年(27歳)夏、日清戦争が勃発する。
  1895年4月(28歳)近衛師団つきの従軍記者として遼東
   半島に渡った。
   上陸した2日後に、下関条約が調印されたため、
  1895年5月(28歳)第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(
   鴎外)等に挨拶をして、帰国の途についた。
    その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
  1895年7月(28歳)須磨保養院で療養したのち、松山に
    帰郷。
  喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」
 と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトト
 ギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
  1897年(30歳)俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)
   を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句
   の世界に大きく貢献した。
   漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
  1900年8月(33歳)大量の喀血
  1902年9月(35歳)死去。満34歳。
   東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
       痰一斗糸瓜の水も間にあはず
       をとゝひのへちまの水も取らざりき
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
    武力のない状況の中で、領土を奪われ続けた日本があった。
.
1552年1月29日、日本に来たザビエルは、宣教師の派遣先に
 「どうか、もっと優れた人を日本に派遣してください」
 と手紙を書いている。
  そして、「どうか適当でない人物は、派遣しないでほ
 しい」とクレームを言っている。
  キリスト教宣教師のレベルが低かったことを愚痴ると
 ともに、キリスト教宣教師を超越する、日本のレベルの
 高さがあり、このザビエルの言葉となった。
  ザビエルは、1549年に日本に来ているから、日本に来
 て3年間を経て、つくづく、このことを感じたのだろう。
  また、ザビエルは、日本人を、「これは、今までに発
 見された中で最も優れた国民です」と言っている。
  また、「日本人に勝る国民は見当たらないのだろうと
 思います」とも言っている。
.
1564年、家康が、この年に、『徳川』に改姓した。
  キリスト教のシャロームは、平和を意味するというが?
 このキリスト教の言うヘブライ語のシャロームには、「
 戦って異教徒が居なくなった地の平和」の意味していた。
  キリスト教は、戦争を否定する宗教ではなく・・、
  キリスト教の基本的考え方に、「(キリスト教の)神
 の義によれば、人を誅しても良い」がある。
  キリスト教は、一事が万事、この考え方であるから、
 民族が飢えに窮した時、「(キリスト教の)神の義があ
 るから」と、隣国の富を奪いに行った(この様な戦いの
 多くの記述が聖書にはある)
  その行為を許すキリスト教という宗教だった。
  朱子学では、主君を説く・・、
  その主君に、二種類の主君があると説く・・、
  その一つが「王者」であり、もう一つが「覇者」であ
 ると・・、
  そして、絶対的な忠誠を尽くすべき相手は、覇者では
 なく「王者だ」と説く。
  それは、「覇者」は、力で相手を倒して天下を取った
 者の事だが・・、
  「王者」は、「徳」で天下を治める人を意味する。
  家康は、この事を知っていた・・それで、元々の姓で
 あった「松平」を「徳川」に改めた。
  また、家康の改姓の意見として以下の説明もある・・
  改姓には2つの理由あり・・、
  1つが、1564年(永禄7年)、家康は、三河の国を事実
 上、支配下に置いた事で、朝廷に三河の領主である事を
 認めてもらい、それに相応しい官位を求めた。
  しかし、松平家は土豪であり、官位は名門しか貰う事
 が出来なかった。
  そのため、松平姓のままでは官位を得る事は難しく、
 近衛前久に間に入ってもらって、神祇官の吉田兼右に、
 家康の希望に沿う姓を探してもらった。
  その結果、「徳川」という姓が、家康の希望に適うも
 のとなり・・
  改姓の勅許を得て、同時に、従五位下・三河守に叙任
 された。
  三河守は、かつて、三河を領有していた今川義元と同
 じ官職であり、これによって、名実共に三河の領主であ
 ることが示された。
  2つ目が、徳川に改姓する事で、松平姓との家格の違
 いを表した。
  家康が、徳川に改姓した当時の松平氏は、14~16家に
 分かれていた。
  そして、一門衆的な同盟関係で結ばれていた。
  家康が、徳川に改姓する事で、他の松平一族との家格
 の違いを示した。
  そして、松平一族との関係をそれまでの同盟関係から
 徳川と松平との主従関係へと変えようとした。
  元康から家康への改名については・・、
  家康は、8歳から12年間を今川家の人質として駿府で過
 ごした。
  元康の「元」は、今川義元から一字拝領したもので、
 それは、松平家が今川家の支配下にある事を示していた。
  1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間で織田信長に討
 たれた時、家康は、義元の子・氏真に「義元の弔い合戦
 をするように」と進言したが、氏真は動かなかった。
  氏真が、いっこうに動かないので、家康は家臣からの
 進言もあって、今川家と断交した。
  そして、織田信長と和睦し、同盟を結ぶ道を選んだ。
  そのため、家康の元康から家康への改名は、今川家と
 の決別を意味していた。
  尚、家康は「源義家」を尊敬していたので、「家」の
 字はその「義家」から採ったものという。
.
1590年6月23日、八王子城の戦い
  小田原城の落城の10日前、八王子城で激しい戦いがあ
 った。
  八王子市は、東京都内で最多の人口56万人を要するが、
  豊臣秀吉が、日本を制覇する直前、この八王子の地は、
 戦国大名の北条氏が治めていた。
  山梨方面からの敵に備えるため、北条氏照は、1582年
 頃、この地・八王子の深沢山(標高460m、因みに、この
 近くに有名な高尾山・標高600メートルがある)の中に城
 を築いた。
  安土城を模したと言われている。
  しかし、城の命運は短かった。
  1590年6月、築城されてから8年後、豊臣秀吉の家臣だ
 った前田利家や上杉景勝らの軍勢が、当時、超一級の軍
 勢が押し寄せた。
  これから始まる小田原城攻めの前哨戦として、攻めて
 の軍勢ははやっていた。
  八王子城は、わずか半日で落城した。
  小田原城の落城の10日前のこの戦いを知る人は少ない
 が、そして、戦いは半日と短いが、その戦いは激烈を極
 めた。
  豊臣側の犠牲も大きかった。
  事実上、この戦いで、日本の戦国時代の幕が降ろされ
 たと言える。
  後に、日本を手中に収めた徳川家康は、この地を重要
 視し、天領とし、軍事・交通の要衝とした。
  宿場町「八王子宿」として栄え、また、八王子は、「
 桑都(そうと、八王子の異称。養蚕業や絹織物の生産が
 盛んであったことから)」として栄えた。
  また、八王子織物として発展した。
  ピークは、1965年に迎え、発展は続いていた。
  ネクタイは、全国の6割~7割が、八王子産と言われた。
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1808年、北方の地を探検していた間宮林蔵が、江戸幕府の
 命により、松田伝十郎に従って樺太を探索した。
  間宮林蔵は、樺太を探検し、その全貌を確認した。
  樺太が、島である事も確認した。
  この時以来、この地に日本人が居住した。
  当然、アングロサクソンなら、この地を我が領土・日
 本の領土と主張する・・その様にしていた。
  だから、この時、この地は同様に、我が日本の領土と
 なった。
  時が経て、後になって、ロシア人がこの地に来た。
  また、時が経て、ロシア人がドンドン来るようになっ
 た。
  先住して居た日本人は、江戸幕府へ、この樺太の地へ
 もっと日本人を送ってもらいたいと要請した。
  そのうち、ロシア人は主張した・・「ロシアは、樺太
 が、日本人とロシア人の『雑居の地』と認めて貰いたい」
 と言って来た。
  日本は、時の経過の中で、ロシアに、この様に言われ
 るようになってしまった。
  そして、「樺太が、ロシアの言う様に、日本人とロシ
 ア人の雑居地だと認めさせられた」。
  しかし、先住である日本人と、後から来たロシア人と
 の間で、度々、紛争が起きる様になった。
  このような時、イギリスは、日本とロシアが戦争をす
 れば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと言って
 来た。
  この時、日本は時代が変わって、明治政府になってい
 た。
  ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
  日本は、ロシアとの戦争・衝突を避けるために、1875
 年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結んだ。
  樺太をロシアに渡し、その代わり千島列島が日本の領
 土であるという事にしたのだった・・が・・
  領土なんて、こんな形で、簡単に奪われてしまうもの
 なのだ・・
  今、あなたが居る地も・・あなたの子供たちの時代に
 は、どこかの国のものになっているかもしれません。
  今、「国防」と「戦争」をごちゃ混ぜにして、「大切
 な国防の必要性」を否定する人が多い状態の現状がある。
.
1818年、フレデリック・ダグラスが生まれた(~1895年)
  黒人のフレデリック・ダグラスが、本当の「奴隷解放
 の父」である。
  アメリカのWASP(W:白人、AS:アングロサク
 ソン、P:キリスト教プロテスタント)たちが、嘘で作
 り上げた「リンカーンの奴隷解放の父」は偽物(にせも
 の)である。
  リンカーンは奴隷解放の父ではない、逆に、「有色人
 種への蔑視観を持った弾圧者」であった。
  特に、インディアンの方々への「虐殺命令」はその極
 みである。
.
1827年、最初の黒人新聞「フリータイムズ・ジャーナル」
 が、ニューヨークで創刊された。
.
1829年、デビッド・ウォーカーが、「アピール(訴え)」
 をボストンで公刊した。
.
1830年、全国黒人集会が、アメリカのフィラデルフィアで
 開催された(大規模な「黒人集会運動」の始まり)
.
1831年、アメリカのバージニア州で、ナット・ターナーら
 の奴隷たちの反抗行動が起きた。
  アメリカの白人たちは卑劣にも暴動と称した。
.
1831年、ウィリアム・L・ガリソンが、「リベレーター(
 解放者)」をボストンで発行した。
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1832年、ニューイングランド奴隷制反対協会が設立された。
.
1833年、アメリカ奴隷制反対協会が設立された。
.
1840年、アメリカで奴隷制廃止を掲げる自由党が、黒人の
 方々の努力で結成された。
.
1840年、世界反奴隷制大会が、一番多く奴隷貿易をしたイ
 ギリスのロンドンで開催された。
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1845年、アメリカが、傲慢な汚い手を使って、メキシコの
 地・テキサスを併合した。
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1946年、メキシコ戦争(~1948年)
  アメリカが、汚い方法でメキシコの領土を奪って行く、
 戦争となった。
.
1862年、アメリカの首都・ワシントンで奴隷制度有償廃止。
  黒人の黒人奴隷制廃止主義者のダグラスらは、自由党
 に入党し、
  1844年、ジェイムズ・バーニーを大統領選挙に出馬さ
 せた。
  そして、その自由党の綱領には、すでに、「首都ワシ
 ントンの奴隷制廃止」の要求が掲げられていて、たとえ
 如何なるところでも奴隷制度は自然権に反すると表明し
 ていた(首都ワシントンでさえ、この様な状態)
  黒人の方々は、この約20年も前にすでに、この要求を
 掲げていた。
.
1863年、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・ダグ
 ラスが、黒人奴隷の解放や黒人の立場の改善について、
 リンカーン大統領と協議した。
  しかし、南北戦争が終わってもアメリカ社会の改善は
 見られなかった。
  そして、黒人の方々は失望し、白人たちと平等になる
 という夢を捨て、アメリカのある地域で黒人の方々だけ
 で社会を作ろうという運動をして行った。
  ダグラスは『あきらめるな』と説いた。
  そして・・最近になって、ようやく、アメリカで黒人
 の方々の歴史に、日が当たって来た。
  今まで、黒人の方々の歴史は、白人アメリカ人たちに
 よって隠されて来ていた(このダグラスの活動なども・・)
  「アメリカの民主主義」とアメリカが言ったって、ア
 メリカ民主主義の「民」には、黒人の方々の『民』が抜
 け落ちているという軽蔑すべき状況にあった。
  不当なアメリカの地で、不滅の偉業を成し遂げている
 黒人の黒人奴隷解放運動家も、忘却の彼方へ消し去られ
 ようとしていた。
  アメリカは、黒人の方々を、白人と平等の立場に置く
 ことを頑(かたく)なに拒絶した。
  「不利な条件の下で黒人の方々が、どれほど偉大な事
 を成し遂げようとも、アメリカは、卑劣にもそれを抹殺
 した」。
  20世紀のダクラスと言うべきW・E・Bデュボイスは、
 「白人世界で黒人であることは、単に、個人としての侮
 辱や機会喪失だけを意味するものではない」と・・「偉
 大な功績までも抹殺される」と嘆いた。
  そして、ダグラスを発掘し研究したフィリップ・S・
 フォーナーは、「偉大なフレデリック・ダグラスの名前
 は、リンカーンの名前と並び置かれるべきだ」と言った。
  この事は世界記憶遺産に登録すべきだ。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条(奴隷制
 度の廃止)」が制定され・・『卑劣な奴隷制度を決めて
 いたアメリカ合衆国憲法』が、やっと、修正された。
  しかし、まだ、黒人奴隷の方々が、奴隷という卑劣な
 身分から解放されるという訳ではなかった。
.
1865年、アメリカで、クー・クラックス・クラン(KKK)
 が、テネシー州で結成された。
  卑劣な事に、この黒人の方々を殺戮する白人集団は、
 全米に急速に拡大されて行った。
  何と、400万人が所属したという記録がある。
.
1866年、公民権法が成立。
.
1868年、憲法修正第14条(黒人の公民権付与)成立。
.
1869年、版籍奉還
  新政府の中心となっていた薩摩藩、長州藩、土佐藩、
 肥前藩の4藩は、藩主が願い出て、その藩の領土(版)と
 人民(籍)を天皇陛下に返還した。
  他の藩も相次いでこの行動を模範にして整然と従った。
  完全な無血革命であった。
.
1871年、日清修交条規
  第1条:日清両国は友好を深め、互いに領土を尊重し合
     う。
  第2条:もし他国からの不当な干渉があれば、両国は相
     互に援助し合う(一部要約)
.
1876年、小笠原諸島を日本の領土とした。
  各国の承認を得た。
  英国船が、英国旗を、すでに、立てる事をしていたが、
 アメリカが反対して日本の領土と確定した。
  日本は、すでに、江戸時代に幕府がこの地を調査し日
 本の領土としている(日本は、碑を建てている)
  日本人が居ないという状態で、無人島で、国旗を掲げ
 たら、「自分の領土だ」と主張できるとしたら・・その
 国の領土になるのだとしたら、世界中が紛争だらけにな
 る。
  アボリジニの方々が、既に、先住し生活をしているの
 に、英国に奪われたという例もある。
  はたして、この逆が成立するのか・・
  アボリジニの方々が、英国へ行って、アボリジニの旗
 を立てたら、イギリスはアボリジニの方々の国になるの
 か・・
.
1890年、カール・ベンツが、この年に、四輪自動車ビクト
 リアを完成させ、時速32キロメートルで走った。
.
1936年10月、スペインのトレドを奪いとったフランコ将軍
 らの反乱軍は、マドリードのスペインの首都を目の前に
 しながら、それから2年6ヶ月、マドリードに入ることが
 出来なかった。
  世界中から、スペイン人民戦線政府の危急を聞いて駆
 け付けた義勇兵による国際旅団が、このマドリード防衛
 のために戦い、フランコ軍の占領を防いだ。
.
1945年7月28日、B-25爆撃機がニューヨークのエンパイアス
 テートビルディングに衝突した、14名の死者。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカが広島に原爆を落と
 し、また、長崎に原爆を落したのは・・、それも非常に
 多くの人々が、その一発の原爆で死ぬと分かっているの
 に・・、
  自国の、アメリカの実験場で確かめているのに・・、
  その悲惨さを「まざまざと見て知っている」のに・・、
 広島に落とし、また、二日後に、その卑劣な兵器・原爆
 を長崎に落とす・・この様な最悪な卑劣な事をしたアメ
 リカ・・、
  日本は、すでに、滅茶苦茶にすべてが破壊されて・・、
  反撃が出来ない状態であったのに・・、
  その様な日本に・・アメリカは原爆を落した。
  その必要性は・・「完全になかった」・・
  なのに・・原爆を落としたアメリカだった。
  総べて、100%アメリカの勝利で、すべてが支配下にあ
 る状態の中で、「原爆など落す必要の無い日本」・・
  日本の敗戦は決定的だった・・その様な所に・・、
  アメリカという国は・・原爆と言う最悪の卑劣な兵器
 を使った。
  石油という国の活動の大本(おおもと)を断って・・、
  日本の国の活動の血液の石油を断ったアメリカ、
  日本をその様な状態にしたアメリカ、
  その様なことまでしたアメリカが、終戦の直前の日本
 は、その「石油さえまったくない状態」の日本、
  さらに、すべての工場などの生産手段がすべて破壊さ
 れている日本、
  この日本が、アメリカに立ち向かえる状況は『皆無』
 という状況の中に・・
  原爆を落す必然性はまったく無いのに・・落した、
  アメリカが言う「落す理由の屁理屈な論理」は、「ア
 メリカの兵士を救った」という理由で・・「まったく成
 立する理由ではなかった・・論理ではなかった」。
  石油がどうなっていたかだけでも考えれば、その確実
 なその先(落す必要ない)が明確に見え・・、
  そして、アメリカの論理が屁理屈である事も明確に見
 える。
  アメリカは、次の展開する社会を見ていた・・まった
 くの自分だけの利益で・・論理性が無いのにやった・・、
  まったくの新しい兵器を手に入れた状況の中のアメリ
 カが居た。
  脅威の破壊力のある新兵器・原爆、その威力を『実際
 に』使ってみたかった。
  そのアメリカの『卑劣な心の犠牲』となった広島・長
 崎の方々だった。
  心から怒りが湧く・・「実施してみたい・・その誘惑
 に負けたアメリカ」があった。
  真珠湾のアメリカの卑劣な嘘も「歴史が、明確にアメ
 リカの嘘を立証している」・・そんなことは言えないよ
 と・・、
  本当にアメリカは嘘を言い続けて歴史を歩んで来た。
  インディアンの方々のこと、黒人の方々のこと、隣国
 の領土を奪ったメキシコのこと、ハワイ諸島など太平洋
 の島々を奪ったこと、フィリピンの大統領が怒った様に、
 フィリピンでやったこと、中国・蒋介石と隠れてやった
 卑劣なことごとなど・・キリスト教国・アメリカの歴史
 はこの事々が連なっている。
.
1947年6月8日、日本教職員組合が設立された。
  日教組と略称されるこの組織は・・左派と呼ばれるグ
 ループに牛耳られた。
  その活動の結果、『左派系諸国と親密』となっている。
  日教組の委員長が北朝鮮へ何度も挨拶に行くという活
 動などをしている。
  そして、日教組の「平和学習」は、洗脳学習となって
 いる。
  未熟な子供たちが繰られている。
  戦争の恐怖ばかりで脅す教育法を採っている。
  冷静に考えるという教育方法ではない。
  平和とどう守るべきかの肝心な教育はされていない。
  どうしたら戦争は起きないのだろうという肝心な教育
 もなされていない。
  日教組の平和学習のパターンは・・
 ☆戦争は悪い⇒戦争はしたくない⇒憲法に戦争しないと
  書いてあるから⇒憲法は改正しない・・、
 ☆戦争は怖い⇒戦争に関係ない人も死ぬ⇒戦争は怖い事
  ばかりだ・・、
 ☆戦争に賛成する人は家族が死んでもいいと思っている
  人⇒家族が死んででも戦争に勝ちたいと思っている人・・、
 ☆憲法が戦争しない様にしている⇒憲法がなくなれば戦
  争が起きる⇒戦争が起きれば家族が死ぬ⇒私は生きて
  いたい・・、
 ☆戦争はしたくない⇒戦争で死ぬのは残酷⇒憲法を守り
  たい・・。
  戦争の恐怖を植え付けて、憲法改正は悪だと「政治的
 イデオロギー」を子供たちに洗脳している。
  常に、このパターンの結論に子供たちを導く「マイン
 ド・コントロール」になっている。
  日教組の平和学習は、「いかに平和を守るか?」や、
 「いかにして戦争を抑止するか?」の肝心な教えなけれ
 ばならない点、学ばねばならない点が、完全に欠落して
 いる、欠けている。
  まだ、精神的に未熟な子供を「いいように繰る」。
  これこそ思想教育となっている。
  日教組はそのことに口をつぐんでいる。
.
1953年3月11日、アメリカの卑劣な人種差別行為の「ジム・
 クロウ」に対抗する黒人の方たちが、バスの座り方を自
 由にした・・当然の主張だった。
  卑劣な「ジム・クロウ」が横行するアメリカ。
  公園・公衆トイレ・駅の待合室・水飲み場などの公共
 施設などにおいて、どこでも『黒人の方々は差別された』。
  また、民間施設でも、レストランの室内のトイレは、
 白人専用」で、レストランの脇の外に、ペンキで殴り書
 きで乱雑に『ブラック』と書かれた粗雑なトイレが、黒
 人の方々のトイレだった。
  それでも、レストランに入れるのは良い方で、映画館・
 ホテル・キリスト教会・喫茶店などで、黒人の方々の利
 用は排除された。
  バスの座席は、前が白人専用で、黒人の方々は、バス
 の後部へ追いやられた。
  黒人席が満席になっても、白人席に空席があって、座
 ることができても、そこに、黒人の方々は座ることは出
 来ず、後部に立ったままに居るしかなかった。
  この様な時、1953年、黒人の方々の抵抗の抗議を発す
 る行動が起きた。
  ルイジアナ州の州都バトンルージュで、黒人指導者が、
 当然の主張「誰でも空いている席には座ることが出来る」
 を市条例で制定をすることを強く求めた。
  しかし、こんなことも市は決める事は出来なかった。
  市は、「黒人は後部座席から席を占め、白人は前部座
 席から席を占める」と決めた。
  これは、卑劣な差別の追認だった。
  市は、これで要望に応えたとした屁理屈を言った。
  黒人の方々は、この条例が、施行された1953年3月11日、
 バスの前から座り始めた。
  バスの運転手には、黒人の方は居なくて、全員が白人
 だったが、このバスの運転手がこの黒人の方々の行動に
 抗議した。
  白人のバス運転手のストライキにまで発展した。
  州司法長官の採択が必要な事態まで大きくなり、市条
 例は、州法違反とされた。
  まったく卑劣な事態が起きるアメリカだった。
.
1955年12月1日、人種差別行為を懲りなく続ける「人種差別
 国=アメリカ」のアラバマ州の州都モントゴメリーで、
 また、卑劣な事件が起きた。
  仕事に就かれた黒人女性のローザ・パークス女史は、
 バスに乗って帰宅の途についた。
  長い立ったままの仕事で、体はくたくたに疲れていた。
  バスの前部の白人専用席のすぐ後ろの席に座った。
  ある停留所で白人たちが乗って来た。
  バスの白人の運転手は、ローザと共に居た3人の黒人乗
 客に席を譲る様に命じた。
  他の3人の黒人の乗客は、すぐ運転手の命令に応じたが、
 ローザ・パークス女史は、静かに、そして、はっきりと
 「ノー」と拒絶した。
  彼女は、警察に逮捕された。
  これが、始まりだった。
  これには、『人間の尊厳と自由を否定するアメリカ』
 の軽蔑すべき様相が示されていた。
  当時のモントゴメリーの人口は、白人75000人、黒人の
 方々45000人だった。
  バスの利用者の3分の2は黒人の方々だった。
  黒人の方々は結束して「バス乗車拒否運動」を始めた。
  この運動を指導したのが、弱冠26歳のマーティン・ル
 ーサー・キング師だった。
  キング師は、インドのヒンズー教の指導者のガンジー
 師を敬愛していて・・、
  キング師は、このガンジー師と同様の「非暴力的抵抗
 行動」を展開した。
  1955年12月5日から、「バス乗車拒否運動」は開始され
 た。
  卑劣な事に、アメリカの権力を持つ政治家や、経済的
 権力を持つ白人銀行家や、白人の実業家、白人判事とい
 う社会の権力を持つ者たちが、アメリカ社会の高い社会
 的、経済的な階層からも弾圧が加えられた。
  アメリカの中軸に居る人でさえ、黒人の方々へ人種差
 別した。
  また、暴力行為を行うKKKの白人集団も加わった。
  卑劣な事に、立場を利用して、社会的地位のある者た
 ちは、警察権力を動かした。
  この抵抗運動の黒人の指導者たち・100人以上を逮捕さ
 せた。
  そして、留置所に拘留させた・・そして、告訴までさ
 せた。
  卑劣な白人たちのアメリカ社会だった。
  白人たちの暴力集団・KKKは、黒人の方々へ暴力を
 働き続けた。
  この輩たちは、逮捕されることはなかった。
  白人キリスト教会の差別に耐えられずに作った黒人の
 方々の教会が爆破された。
  指導者の黒人のキング師にも危害が加えられた。
  キング師の家には爆弾が投げ込まれた。
  しかし、黒人の方々の結束は固かった。
  弾圧や暴力にインドのガンジー師の無抵抗主義で耐え
 た。
  バスの乗車拒否運動のために、自家用車の相乗り組織
 もできた。
  遠い道を歩いて通う黒人の方々も多かった。
  白人たちは、この様な卑劣な行為を1年間も続けた。
  1956年11月13日、連邦最高裁判所は、「バスの人種隔
 離は違憲」との判決をやっと下した・・当たり前の判決
 だった。
  それによる命令が、モントゴメリー市へ、1956年12月
 20日に下された。
  正義の通らない、卑劣な社会のアメリカの、まだ、最
 近の事件だった。
  アメリカ社会は、まだ、未熟な遅れた社会にある。
  それは、遅れた宗教=キリスト教の教義「有色人種蔑
 視観」に影響されている。
  この事件は、黒人の方々の輝かしい結束が証明された
 事件だった。
  黒人の方々の『栄光の史実』がまた一つ増えた事件だ
 った。
.
1957年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー、第34代ア
 メリカ大統領の二期目の任期が始まった(~1961年1月20
 日)
  この再選される前、前年の秋の大統領選に、再選され
 ることを狙っていたアイゼンハワー大統領は、黒人の方々
 を虐げるアメリカについての発言を避けていた・・ダン
 マリを決め込んでいた。
  この様に、アメリカは、まったく卑劣な状況にあった。
  黒人のルーシーという女学生が、勉学に就くことに対
 し、差別をしていた。
  アメリカ中が・・国全体がこの事で揺れていた。
  しかし、アメリカ大統領のアイゼンハワーは、大統領
 選に再選されたいために、何も言わない作戦を取った・・
 大統領の地位にあるのに、国が大揺れに揺れているのに、
 何も必要な措置を取らないという態度を決め込んだ。
  「国民感情に関わる問題では、法の実施にあせりは禁
 物で性急に事を運べはかえって禍を招く」と言い訳を言
 った。
  そして、さらに、人種差別主義者の行動を弁護する発
 言さえした。
  アイゼンハワーは再選された。
  この様な、同じ問題が、また、アメリカのアーカンソ
 ー州のリトルロックで起きた。
  1957年8月29日に、知事がやはり、再選されたいために
 人種差別をした。
  9人の優秀な黒人の学生を、入学させようと決定してい
 たリトルロック・セントラル高校。
  入学決定の裁判所の命令が、既に、判決されていたに
 もかかわらず、新学期が迫ったこの時、三選を目指して
 いた州知事(オーベル・E・フォーバス)は、選挙戦を
 有利にしようと、新学期が始まる前日の9月2日に、「も
 しも、明日、(黒人との)人種共学が強制的に実施され
 るなら、私はこの地域の平和と秩序を維持する事は出来
 ない」と声明した。
  そして、突然、250人の武装した州兵を、リトルロック
 高校へ出動させた。
  そして、学校を包囲する強硬手段をとった。
  卑劣な事に、表向きは「平和と秩序を維持する」であ
 ったが、実際に与えられた任務は、「黒人生徒の登校を
 武力によって阻止する」ということだった。
  この州兵以外にも、この事に刺激された大勢の白人群
 衆も集まった。
  彼らは、罵声と暴力的威嚇をした。
  黒人学生は、やむなく登校をあきらめた。
  だが、連絡の取れなかった一人の黒人の女学生が、一
 人で登校して来た。
  この女学生(エリザベス・エックスフォードさん)は、
 たちまち、これ等の白人暴徒たちに取り囲まれ、「黒ん
 坊(ニガー)を殺せ」などの叫びと怒号を浴びせられ、
 やはり、登校は出来なかった。
  こんなことが延々と続くアメリカ・・黒人の方々は虐
 げられている・・卑劣なアメリカ・・これ以下は、軽蔑
 を込めて略す・・、
  リンカーンの話は「まったくの絵空事」のアメリカ・・
.
1971年、色川大吉氏は、東京経済大学の名誉教授だが、著
 書「ユーラシア大陸思索行」で言う・・、
  異質なもの、人々、文化、環境を見て歩き(1971年)、
 そのユーラシア大陸における都市構造の様々な方と、文
 明の諸類型を発見し、それによって、日本の社会の人間
 関係のあり方の特質や文化的位置を、一層、際立たせる
 事に役立つと考えた・・と・・、
  つまり、異質さの中に、自分たちとの、その異質さに
 自分たちをより分かり、また、分かることによって自分
 たちをより際立たせることに役立つと、
  自分たちの発展のためには、異質さこそ必要だと。
  多様さの中に、異質もあって、自らの発展も実現でき
 る・・と。
  キリスト教は、異質をこの様には、まったく見ない、
 見れなかった。
  また、その様に『見るな』と、マインド・コントロー
 ルし、洗脳した。
  異質を異端と捉(とら)え、異質排除・異端排除のキ
 リスト教の教義によって「異端は、殺された」・・異端
 審問・・
  「異教徒は殺せ」のキリスト教教義・考え方だった。
.
1990年9月、日本の地価が、ピークに達した。
  数字上、東京都の地価が、米国全土の地価と同等にな
 った。
.
1995年、移民で壊れて行くイギリス。
  経済での復活の可能性が無くなったイギリス。
  また、グローバル化の風潮が、国柄(くにがら、その
 国の特質・持ち味)を破壊し、薄めさせ、国の影がかす
 れて行く。
  イギリスが熔けて無くなって行く。
  企業経営者・作家の河添恵子氏のYouTubeを御覧くださ
 い。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  この20年、ヨーロッパ全体も壊れて来ている・・と・・、
.
2005年2月、日本とアメリカの外務大臣と防衛大臣が、中国
 への関与政策などを話し合った。
  (日米間の緊密化の努力、東アジアへの対応などに、
 日本の能動的な地域政策の構築が、今後、より必要)
  日米両国の外務、防衛大臣で構成される「日米安全保
 障協議委員会(2+2、ツー、プラス、ツー)」は・・、
 2005年2月に、両国の共通目標を確認した。
  国際テロの根絶、民主化の推進、開発支援、地域協力、
 中国への関与政策のすべてが、共通戦略目標に中に入っ
 ている。
  従って、地域と国際社会の平和、安定、繁栄のために
 共通戦略目標の実現のための日米間の協力を緊密化する
 努力とともに、米国の東アジアへの関心に対応するため
 にも、日本も能動的な地域政策の構築が求められている
 ・・と・・、
.
2007年9月10日、アメリカの雑誌・タイム(TIME)が
 名誉棄損をした・・名誉棄損裁判で負けた。
  インドネシアの最高裁判所は、ジャカルタ地方裁判所
 と控訴院の判断を覆し、インドネシアのスハルト元大統
 領に対する『タイム・アジア』の名誉毀損を認定した。
  損害賠償1兆ルピアの支払いを命じた。
  訴えの対象となったのは、スハルト大統領が270億米ド
 ル以上(320億ドル)の金を海外に移したとする記事。
.
2016年1月1日、ヒットラーの「我が闘争」が、この日から、
 再出版された。
  著作権が切れたためで、今までは規制されて来た(イ
 ンターネットでは読めたが・・)
  戦後この様な時間が流れたのに、相変わらずの「情報
 管理社会」の今がある。
.
2016年2月29日、アメリカの人種差別
  (読売新聞、2016・2・29)の記事に・・、
  アメリカ合衆国が白人偏重だとある・・、
  キリスト教の考え方に影響されたアメリカ合衆国が、
 白人偏重だと批判されている。
  その1例となっているのが・・『アカデミー賞』。
  騒動の発端は、2016年1月のアカデミー賞候補者の発表。
  男優、女優の計20人が、2年連続で「全員白人」と判明
 した。
  「旧態依然の白人至上主義だ」と批判に火が付いた。
  こんな人種差別は、「ノーベル賞」でも行われている。
  白人キリスト教社会がしている人種差別は、今・現代
 でも延々と行われている。
.
2017年12月8日、蒋介石の弾圧、究明推進
  この日の読売新聞に標記の記事がある・・
  そしてまた、「台湾で法案可決」「銅像など撤去か」
 の表題もある・・
  日中戦争の時、アメリカが隠れて支援した蒋介石、そ
 して、日中戦争にアメリカは参戦して、蒋介石と一緒に
 なって日本と戦った・・真珠湾のはるか前にアメリカは
 日本と戦っていた・・アメリカは『それはボランティア
 だ』と言ったが、大統領の命令書が見つかって、アメリ
 カのウソがばれた・・
  この標記の件の記事を抜粋して書くと・・
  「台湾で国民党の独裁政権を率いた蒋介石、蒋経国父
 子時代の政治弾圧の真相究明などを推進する法案が5日に
 可決された。
  独裁下で弾圧された民主化活動家を中心に結成された
 与党・民進党による『歴史清算』の一環。
  台湾メディアは蒋介石の銅像が一掃される可能性を伝
 えている。
  台湾では日本による統治が1945年8月15日に終わった。
  その後、国民党支配が始まり、同党が中国大陸で共産
 党との内戦に敗れ、台湾に移った後は権威主義的な統治
 が強化された。
  1947年2月には、煙草(たばこ)を売っていた台湾出身
 女性を役人が殴打したことをきっかけに住民の国民党へ
 の不満が爆発。
  全土に広がった抗議行動を国民党が武力弾圧した「2・
 28事件」が起きた。
  国民党が敷いた戒厳令が全土で解除された1992年11月
 までの間には、共産主義者や国民党独裁に反対する台湾
 独立派を弾圧する「白色テロ」も行われ、被害は20万人
 に上るとも言われる。
  中国から来た外省人と戦前から台湾に住む本省人との
 分断は、今も傷痕を残す。
  今回可決した法律は、こうした人権侵害などをただす
 事が目的で、行政院(政府に相当)に設置される専門委
 員会が真相究明と被害者の名誉回復を進める。
  蔡英文総裁は6日、「目的は和解であり闘争ではない。
  (この過程を経て)違う台湾に生まれ変わる日が来る
 事を望む」と述べた。
  法律には「公の施設や場所にある権威主義統治社会の
 象徴」を撤去、改名するという条文がある。
  蒋介石をたたえ、巨大な銅像を展示する中正記念堂が
 「最初の対象」(聯合報・れんごうほう、台湾の日刊紙)
 になるとの報道もある。
  名称に蒋の別名「中正」を付けた約200の道路、約30の
 学校、蒋介石の肖像画をデザインした貨幣や紙幣が対象
 になる可能性も指摘され、行政院が否定する一幕もあっ
 た。
  (参考)白色テロ:為政者や権力者、反革命側(君主
     国家の為政者あるいは保守派)によって政治的
     敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動の
     こと。
  (参考)行政院(ぎょうせいいん):中華民国におけ
     る「国家の最高行政機関」(中華民国憲法53条)。
      内閣と各省庁を併せたものに相当する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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