(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1892年11月23日、ピエール・ド・クーベルタンがオリンピ
 ックを提唱した。
  クーベルタンは男爵で、1863年生まれのフランスの教
 育者。
  古代オリンピックを復興させ、「近代オリンピックの
 創立者」と言われている。
  歴史書のオリンピアの祭典の記述に感銘を受け、古代
 オリンピックの復興を演説し、近代オリンピックを提唱
 した。
  そして、賛同者によって国際オリンピック委員会が設
 立されて・・、
  1894年6月23日、パリで、スポーツ競技者連合の会議が
 開催された時、その席上で、古代オリンピックにならっ
 た近代オリンピックの開催と、その為の国際オリンピッ
 ク委員会(IOC)の設立が決定された・・そして・・
  1896年のアテネ・オリンピックの開催につながった。
  この時、オリンピック讃歌が演奏された。
  この讃歌は、この第1回の大会のために、ギリシャの詩
 人パラマが詩を書き、同じく、ギリシャのオペラ作曲家
 スピロス・サマラスが作曲した。
  この後、この曲は忘れられていたが・・
  1958年、東京で、IOC総会が開催される間際、日本
 のIOC委員である東竜太郎へ、ギリシャのIOC委員
 から「第1回アテネ大会のオリンピック讃歌の譜面が見つ
 かった」と連絡が来た。
  その古い楽譜を、日本人が編曲し、また、訳詩して、
 62年ぶりに復活させた・・そして、集まったIOC委
 員の前で演奏した。
  集まった委員たちは感動し、以後、この曲を正式なオ
 リンピック讃歌とすると決定がなされた。
  因みに、東京オリンピックの開催は、1964年。
  五輪のマークも、クーベルタンが考案し、1920年のア
 ントワープ大会以降、開会式で使われている。
  彼は、第2代の国際オリンピック委員会の会長となって
 いる。
  しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加す
 ることにこそ意義がある」は、彼の言葉ではない・・他
 人の言葉を引用しただけ・・、
  また、クーベルタンは、社会進化論の信奉者で、「優
 れた人種は、劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよい」
 と考えていた。
  1936年のナチス・ドイツのヒットラーの主催するベル
 リン大会を、クーベルタンは非常に喜んだ。
1892年11月24日、民法・商法の施行延期法を公布した。
  1890年に公布された旧民法は、1893年1月から実施され
 ることになっていた。
  しかし、1889年の東京大学法学士会の「民法は天賦人
 権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意見
 の発表から論争が起こった。
  穂積八束(ほづみやつか、東京帝国大学法科大学長、
 衆議院議員、法典調査会査定委員)などは、国情にそぐ
 わないなどの意見を述べた。
  穂積の言葉である「法出デテ忠孝亡ブ」は非常に有名
 となった。
  因みに、氏は、日本法律学校(現在の日本大学)の設
 立に参画している。
  また、この翌年の1890年に公布された民法典、および、
 商法典の実施可否を巡って、延期派と断行派に国論を二
 分するはげしい論争が起こった(民法典論争)
  1880年以来、本格的な編纂が開始された民法は・・、
  1890年4月に、フランス人ボアソナードの起草になる財
 産法の部分が、同年・1890年10月に、日本人委員の起草
 になる身分法の部分が、いずれも元老院・枢密院の審議、
 修正を経て公布され、1893年1月1日から施行されること
 になっていた。
1892年11月25日、第四通常議会が召集された。
  第4回帝国議会の開催、1892年11月29日開会~1893年2
 月28日閉会 (通常会)
1892年11月27日 伊藤博文が、交通事故に遭遇した。
  伊藤博文の人力車が馬車と衝突し、伊藤首相は、しば
 らく意識不明の重体となった。
  井上馨内務相が、この日に臨時首相代理となり、1993
 年2月27日までの約2ヶ月間を務めた。
  この頃の道路は、今・現代の様では、当然、無く・・、
 非舗装で、雨が降れば水が溜まるところもあった。
  この頃は、自動車が表れる直前の頃で、人力車や馬車
 が一般的な乗り物だった。
  現代の自動車の様に、多くの台数が道を往来していた
 訳ではないが、けっこう事故は多かった・・、
  因みに、自動車は、1907年頃から利用され始める。
  また、自動車の出初めには、自動車を避ける方法を人々
 が慣れていなくて・・上手ではなく事故が多くなった。
  危険を感じ・・くもの巣を散らす様に逃げ惑ったとい
 う・・そのため、かえって車に轢(ひ)かれたという。
  運転手側、歩行者側、共に、双葉マークだった。
  多いのが馬車との接触事故、車におどろく馬の暴走に
 伴う事故が頻発した。
1892年11月28日、讃岐鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
  讃岐鉄道は、香川県にあった会社線で、高松から琴平
 まで・・金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立
 された。
  この会社は、1890年に、女子の出札社員の募集をした
 が、成功しなかった。
1892年11月30日、千島艦事件(11月25日説あり)
  愛媛・松山沖で、日本の軍艦の水雷砲艦「千島」が、
 イギリス船と衝突し、沈没した。
  乗組員70人余が溺死した。
  沈没補償を巡って、日英両国間で係争事件となった。
  フランスで建造され、フランスから神戸へ回航中の日
 本の軍艦・水雷砲艦「千島」が、イギリス商船・ラヴェ
 ンナ号と、愛媛県堀江沖で衝突し、千島が沈没し、74名
 の乗務員が溺死した。
  日本政府は、ラベンナ号に不当航行の過失があったと
 して、翌年・1893年5月に、その所属会社P&O(ピーア
 ンドオー)汽船会社を相手取って、85万円の損害賠償を
 請求して、横浜のイギリス領事法廷に出訴した。
  これに対し、会社側は、逆に、10万円の損害賠償を求
 めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求が不当だとされて、反訴が却
 下された。
  会社側は、その判決を受け、上海(シャンハイ)の領事
 法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は第一審判決を破棄して、会社側
 を支持した。
  そのため、日本の世論は、その不当性と日本政府の処
 置を非難し、湧きたった。
  野党の反政府諸派が、議会内外でこれを利用して、第
 二次伊藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対する運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年7月、枢密院は、上海領事法廷の判決を破棄して、
 横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、ふたたび横浜領事庁で争われることになった。
  1895年9月、和解となって、和解が成立した。
  会社側は、訴訟費用のほか、英貨1万ポンド(邦貨9万
 余円)を支払う事となり、事件は落着した。
1892年11月30日 伝染病研究所が設立された。
  (北里柴三郎・福澤諭吉・森村市左衛門らによる大日
 本私立衛生会伝染病研究所・・)
  北里柴三郎博士によって、最初の伝染病研究所が東京
 の芝公園内に建設され、設置された。
  福沢諭吉師が、北里博士に協力し、無償で別邸を貸与
 した。
  土地は福沢の所有で、研究資材は森村市左衛門の寄付
 によった。
  (参考)森村市左衛門:武具商・陶磁器業などを営ん
     だ森村財閥の当主。
      遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身で、旗
     本屋敷などに出入りする武具商。
      日米修好通商条約で横浜が開港されると、横
     浜で外国人から洋服・靴・鉄砲・懐中時計など
     を仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
      この頃、中津藩の福沢諭吉と知り合った。
  ここは、後に、大日本私立衛生会の所属となり、研究
 所を国へ寄付し、内務省の管轄となった。
  1914年(大正3年)12月、 私立伝染病研究所(現・東
 京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され、
 東京大学に合併される時、
  初代所長・北里柴三郎は、移管に反対して所長を辞任
 した。
  この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉
 に辞表を提出し、総辞職となった(伝研騒動といわれる)
  本来の目標の遂行に懸念を抱いた北里柴三郎は・・、
  1914年11月5日に、新たに私費を投じて、私立・北里研
 究所を設立・創立して、信念を貫いた。
  1918年、北里研究所が社団法人として認可された。
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  (今日の言葉)
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  題:200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かったら・・
    それを防ぐことは不可能という現在の日本がある。
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1223年、運慶(うんけい)が没した。
  運慶の生年は不祥である。
  運慶は、仏師であり、南都(現:奈良県)を拠点とし
 た奈良仏師の流れを引いている。
  宇治の平等院(京都府)の阿弥陀如来坐像(国宝)は
 定朝(じょうちょう)が造立した。
  運慶は、この流れを汲む。
  定朝以後、仏師は三つの派に分かれた。
  それが、「院派」「円派」「慶派」で、運慶は慶派で、
 運慶の父・康慶には、この「運慶」の他に「快慶」「定
 慶」らがいる。
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1598年、キリシタン大名が武器の供給を受ける。
  キリスト教は、日本で弾圧を受けたと一方的に言うが、
 これは嘘、いつものキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  キリスト教から、武器や弾薬の供給を受けた九州の弱
 小の不利な状態の大名は、そのキリスト教宣教師からの
 武器・弾薬の供給をあてにした・・そして、キリシタン
 大名となった・・背に腹は代えられずで、信仰上でキリ
 シタン大名になったのではなかった・・それ故、息子や
 孫の代ではキリシタン大名ではなくなっている。
  この大名たちは、武器・弾薬供給者のキリスト教宣教
 師たちに頭が上がらなくて・・キリスト教宣教師たちの
 やりたいことを好きにやらさせた。
  キリスト教宣教師たちは、信徒を煽(あお)って、信
 徒と共に、仏教寺院や神社などを破壊し打毀(うちこわ)
 した・・弾圧した。
  この様な最中(さなか)、長崎県曙町(あけぼのまち)
 にある、悟眞寺は開かれた・・抵抗・弾圧の中に開いた。
  この長崎県のキリスト教勢力の強い状態の中、浄土宗
 を布教しようと、厳しい弾圧を受けながら、僧・玄故(
 げんこ)上人は弾圧に立ち向かった。
  日本は、キリスト教を弾圧したと言うのはキリスト教
 の嘘宣伝であって・・
  また、例えば、長崎出島のオランダ商館が、キリスト
 教式の埋葬の仕方で、埋葬を行いたいと江戸幕府に願い
 出れば・・、
  1654年に、幕府は、その許可を出し・・そして・・
 出島近くの墓地で、希望のとおりに埋葬が行なわれた。
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1871年12月23日、岩倉使節団が出発した(~1873年9月13日)
  この岩倉使節団が、欧米に2年間近く派遣された時、
 伊藤博文は、大使の岩倉具視に次ぐ副使となった。
  到着して、英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演
 説した。
  その中で、伊藤は、数百年続いた我が国の古い制度は、
 「1個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃され
 た」(廃藩置県の事を言っている)と述べた。
  そして、日本の国旗にある赤い丸は、「今まさに洋上
 に上ろうとする太陽を象徴し、我が日本が欧米文化のた
 だ中に向けて躍進するしるしであります」と述べた。
  これを聞いた聴衆は、万雷の拍手をした。
  この演説は「日の丸演説」と言われて有名。
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1874年、殖産興業に関する「大久保利通の建白書」・・
  「そもそも国の強弱は、人民の貧富によるものであり、
 人民の貧富は物産の多少とかかわりがある。
  そして、物産の多少は、人民が工業に励むかどうかに
 根差すが、そのおおもとは、何処の国でも政府の指導奨
 励によるのである」。
  国の中心に居た大久保利通は、外国の機械を購入し、
 また、外国の知識人を招聘した。
  惜しまず資金をこの面に投入した。
  そして、速やかな技術の日本への定着を狙って、製糸
 や紡績などの官営工場を建設した。
  そして、その要点を掴(つか)んで来ると、その工場
 を民間に払い下げ、進んだ外国技術の広範な国内定着を
 して行った。
  江戸時代に、すでに、日本にあった近代的工業生産の
 意識が、この時、大きく花開いて行った。
  それを支えたのが、日本の高い教育水準にあった人た
 ちだった。
  日本に、すでにあった土台の上に、導入した西洋技術
 がより成熟して行った。
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1877年(明治10年)5月、幕末の志士・桂小五郎(木戸孝允、
 鞍馬天狗のモデルとも言われている)が死去した。
  そして、この年、東京大学が、最初の総合大学として
 設立された。
  そしてまた、民間でも慶應義塾、同志社、東京専門学
 校(早稲田大学の前身)が設立され、日本に西洋の学問
 が定着して行った。
  それにつれて、医学や物理学、そして、化学などのあ
 らゆる分野で、日本人による本格的研究が始まり、そし
 て、世界的な業績を残す人々が出始めた。
  世界的な発明や発見が、相次いで生まれて行った。
  その主な方々だけでも・・、
 ・北里柴三郎(破傷風血清療法の発見)、
 ・志賀潔(赤痢菌の発見)、
 ・野口英世(黄熱病の研究)、
 ・鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、
 ・高峰譲吉(ジアスターゼの創薬)、
 ・木村栄(緯度変化の研究)、
 ・大森房吉(地震計の発明)、
 ・長岡半太郎(原子模型の研究)らの方々だった。
  また、文化・芸術に関する方面でも日本人の優秀さが
 示されて行った。
  文学者としては・・、
 ・写実主義の坪内逍遥(小説神髄)、二葉亭四迷(浮雲)、
 ・ロマン主義の島崎藤村(若菜集)(詩集)、与謝野晶
  子(みだれ髪)(歌集)・・そして・・、
 ・ロマン主義から自然主義への動きの中に国木田独歩(
  武蔵野)、田山花袋(布団)、石川啄木(一握の砂)
  (歌集)、森鴎外(舞姫)(高瀬舟)、夏目漱石(吾
  輩は猫である)(こころ)・・など・・、
  新しい日本の文学の出発点には、坪内逍遥が居た。
  そして、日清戦争の前後に、人間の自由な感情を重視
 するロマン主義が起き、島崎藤村らが活躍した。
  日露戦争の頃には、人生や社会の現実をありのままに
 描く自然主義文学が盛んになって、田山花袋らが注目さ
 れた。
  森鴎外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小
 説を書いた。
  また、明治時代の芸術面では、西洋の近代芸術が、堰
 (せき)を切ったように押し寄せて来る中で、日本の伝
 統文化とは何かを深く考えた時代だった。
  文明開化の頃、日本の古い仏像や美術は価値のないも
 のとする欧米崇拝の風潮となった。
  これによって多くの仏像や寺が壊され、捨てられた・・
 また、貴重な芸術作品が海外へ流出した。
  これを救ったのが東京大学の外国人教師であったフェ
 ノロサだった、また、岡倉天心だった。
  伝統芸術を保存する事と復興する事に努めた。
  日本の芸術作品の価値が再評価された。
  狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
  洋画では、高橋由一や浅井忠らが写実的な油絵を描い
 た。
  また、彫刻では高村光雲らが活躍した。
  音楽では滝廉太郎らが活躍した。
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1884年12月4日、朝鮮で甲申事(こうしんじへん)変が起
 きた。
  金玉均(きんぎょくきん、1851年~1894年)が、朝鮮
 で政変(クーデター)=甲申事変を起こした。
  しかし、中国・清国軍が介入して3日で失敗した。
  この頃、朝鮮は、清国の冊封国として、属国化してい
 た。
  しかし、その清国との関係は、崩壊の危機にあり、国
 を守るにはこれに依拠するより、この従属関係を打破し
 て、独立近代国家の形成を図らなければならないとして
 いた(金玉均らの急進改革派の独立党の考え)
  この朝鮮の急進改革派は、日本との連携を強化したい
 とした。
  しかし、事変は失敗し、金玉均は日本に逃れた。
  金玉均は、後になって、中国に渡り、上海で暗殺され
 た。
  金玉均らの急進改革派は、明治維新後の日本のように
 自主独立の国を目指し、また、明治政府の進める殖産興
 業政策の様に新しい朝鮮を生み出し、近代化したいとし
 ていた。
  ここには、この8年前の1876年の日清修好条規によって、
 朝鮮を開国に踏み切り、独立国家として見る内容・姿に
 目が開かせられていた。
  また、清国の様な見方「朝鮮を冊封国として利益を収
 奪する対象の属国」としては、日本は、まったく見なく
 て、朝鮮を「開国した独立の国家としたい」としていた。
  その日本の考え方に、金玉均らは、朝鮮の開化を目指
 した。
  そして、1870年代の後半より、日本に接近していた。
  金玉均は、近代技術の導入と軍事力強化のために洋務
 開花論を唱えた朴珪寿の影響を強く受けた。
  また、1879年、開化派の李東仁を、金玉均らは、日本
 に密入国させた。
  そして、福沢諭吉や後藤象二郎などの日本の先人らと
 接触させ、交流も深めていた・・
  金玉均らの開化論は、一朝一夕で出来た開花論ではな
 かった。
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1891年6月、川上音二郎一座が、東京で初めて、壮士芝居を
 開演した。
  満都の人気を集めて大当たりした。
  1891年2月、自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤
 の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こした。
  そして、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯
 の日座で旗揚げをした。
  川上は、企画性にすぐれ、また、事業家でもあった。
  また、妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やが
 て宿願の東上ができることとなった。
  1891年6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東
 京・鳥越の中村座で上演し、大評判となった。
  この川上の成功は、「壮士芝居」の元祖・角藤定憲の
 あとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「
 新派」発生への糸口になった。
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1894年7月25日、日清戦争が始まった(~1895年11月30日)
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなって来た。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  自国の兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  だから、国際法で守られるはずの戦場の日本の病院が
 襲撃された。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  不公正な卑劣な放送姿勢のNHKとなっている。
  日本の貶める番組ばかり製作して放送するNHK。
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1894年9月17日、黄海海戦(清との海戦))
  清国は、目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)には、
 清国と日本は、所有する軍艦は共に3隻であったが、清国
 は大型艦で、日本の艦艇は貧弱だった。
  しかし、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力となった(2017年の中国と日本との差の様に)。
  日本も中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)から、
 艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清に追い着
 くことは、しばらく出来なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くようになった。
  この様な中で、1894年9月17日に、黄海海戦を、日清
 両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦したりした。
  また、平城近くでも戦っている。
  日本軍は、九州や沖縄から出撃して行った。
  この黄海海戦は、日本海軍・連合艦隊と清国海軍・北
 洋艦隊の間で戦われた海戦で・・、
  『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われた世界史上初の大
 規模な海戦』だった。
  この海戦の結果、日本は勝利をおさめた。
  清国海軍は、大幅に戦力を低下させ、黄海と渤海の制
 海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所は、黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煤煙を確認し
 た。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取って急接近した。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻で、第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・速射砲で猛烈な砲
 火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く、30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災が発生した。
  この様な戦いが延々と続いた。
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射した。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊が集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
 他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追撃
 態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始し、命中度が高く、艦首から沈没した。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退する。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を開始した。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗、大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁し、放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進したが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、威海衛の戦いをする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈、4隻は鹵獲(ろ
 かく、戦いで得る・ぶんどる)して日本海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は降伏。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に始まるが・・、
  日露戦争の開戦前・・、ロシア帝国は、満州から兵力
 を引かず・・、
  逆に、シベリア鉄道によって兵力を増強し続けた。
  日本とロシアの兵力差は、完全にロシア有利だった。
  ロシア:日本の兵力差は・・、
  歩兵・・1740:156大隊、
  騎兵・・1085:54個中隊、
  火砲・・12000:636門、
  総兵力・・207万人:20万人、
  戦艦・・11:6、
  装甲巡洋艦・・12:6、
  巡洋艦・・10:12、
  総トン数・・45:26万トン。
  ロシアは、圧倒的な大国だった。
  そして、満州は、ロシア兵だらけだった。
  また、ウラジオストクと大連が、ロシアの軍港で、完
 全に日本はロシアの脅威に囲まれていた。
  そして、ロシアは、1900年に起きた義和団事件を口実
 に、満州へ2万の兵を送り込んで来た。
  そして、そのまま居座った。
  そして、朝鮮半島の国境を越えようとしていた。
  この時、外交官の小村寿太郎の意見が、『日英同盟を
 結ぶべき』の意見だった。
  この意見が政府を動かし、政府の方針となった。
  1902年、日英同盟は締結された。
  因みに、義和団は、郷村(ごうそん)の自衛組織を基
 盤とした「中国の伝統宗教の流れをくむ組織」で、外国
 人を排斥し、殺害行為をし・・、
  そして、北京の各国公使館を包囲した。
  その為、日本やイギリス、アメリカ、ロシアなどの8ケ
 国が連合軍を送り、鎮圧した。
  日英同盟において、イギリスは、東アジアに勢力を拡
 大するロシアを押さえたいとしていた。
  ロシア勢力拡大への懸念から日英同盟を結びたいとし
 ていた。
  ロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ、また、軍事
 力も10倍以上だった。
  そして、満州の兵力を増強し続け、朝鮮国境をついに
 越えた。
  そして、朝鮮北部に軍事基地を建設し始めた。
  この勢いは止まる気配はなく、放置すればロシアの強
 大な勢力圏が構築され、領域は不安定な状況となること
 がはっきりしていた。
  日本は、手遅れになることを恐れた。
  ロシアの強硬な進出が原因だった。
  朝鮮は、ロシアの支配下に入りつつあった。
  イギリスやアメリカは、朝鮮半島が、ロシアの支配下
 になることを望まなかった。
.
1904年2月8日、日露戦争
  日露戦争は、日本の生き残りをかけた、安全保障上の
 戦いだった。
  当時、世界最大の陸軍大国だったロシア。
  日露戦争は、何処の国も日本が敗けるだろう、日本が
 勝利することは無いだろうと見ていた。
  巨人に挑(いど)む小さな日本の漫画をフランスの新
 聞が掲載しているが、世界中の見方は、まさに、この漫
 画のごとくだった。
  しかし、世界中の予測に反し、日本の勝利で終わった。
  これは、植民地にされていた人々へ希望を与えた。
  将来の民族の独立の夢を描かせた。
  ヨーロッパで、この結果を、特に、喜んだ国は、長年、
 ロシア帝国に抑圧されていたフィンランド、ポーランド、
 トルコの人々だった。
  この国々の人々は、日本の勝利を熱烈に歓迎した。
  しかし、有色人種への蔑視観がある白人キリスト教国、
 特に、アメリカに、将来、白人社会を脅かす有色人種と、
 日本は見做され、「警戒すべき黄色人種」という黄禍論
 が巻き起こった・・これが、世界大戦へつながっていく。
 ☆中国革命の父・孫文の言葉・・、
  「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対
 する大いなる希望を抱くに至ったのです」。
 ☆インドの独立運動家で、後の首相ネルーの言葉・・、
  「もし、日本が、最も巨大なヨーロッパの国に対して
 よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインド
 が成し得ないと言えるだろう?」。
 ☆イランの詩人・シーラーズイーの言葉・・、
  「立憲制によってこそ日本は偉大になった。
  その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来るのだ」。
 ☆エジプト民族運動の指導者ムスタファー・カミールの
 言葉・・、
  「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせ
 てやった唯一の東洋人である」。
.
1905年9月5日、日露戦争が終わる。
  日露戦争で、隠れた逸話となっている話が・・、
  「陸軍大将の乃木希典は、日露戦争の後、敗れたロシ
 アの将軍の助命に奔走した。
  助命のための様々な努力をした」。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)において、アメリカは、
  日本の将兵を罪に落とす法律を後から作ってまでして、
 日本の将軍を殺したが・・、
  まったくの正反対の不正義な行為をしたアメリカだっ
 た。
  この卑怯な卑劣な、後から法律まで作って罪に落して
 殺す不正義な行為は、長く歴史に書き留められることに
 なる。
.
1928年2月、初めての普通選挙。
  有権者の数が、人口の約20%で、それまでの4倍近くに
 増えた。
  この選挙の結果、政友会が第一党になった。
  1925年に普通選挙法が成立し、納税額にかかわらず25
 歳以上の男子全員が選挙権を得た。
.
1937年12月17日、南京に入城し、式典を行った。
  日本の中世において、日本の武士は、正々堂々とお互
 いが名乗りを上げて戦った。
  自分が、敵に対して戦う者であると『明示』し(どこ
 の誰だかを言った)、そして、戦った。
  また、武具をはっきり付け、身を固めているので戦う
 者いだと「敵にもはっきり分かった」。
  これは、戦わない者に類が及ばない様にという、戦う
 者の「配慮でもあった」。
  戦わない者が死ぬ様なことが無いようにという「心配
 り」だった。
  それが武士であり、武士道であり、日本人の優しさだ
 った。
  しかし、近代になると、この戦わない者を逆に狙うと
 いう「ならず者的な輩」が出て来た。
  「軍需工場を狙います」とアメリカ国内で了解を得て
 いた原子爆弾を、広島・長崎の町の真ん中に、一般市民、
 女性や子どもたち、赤ん坊も居る人たちが生活する真上
 に、アメリカは原爆を落した。
  中国兵も、いつの時代も、「敵の裏をかく・卑怯な事
 を常にする」という歴史にあるが・・、
  中国兵は、軍服を脱いで、逆に、一般庶民の中に隠れ
 た。
  一番「やってはいけないこと」をやった。
  軍服を脱いで、一般庶民の姿をして、一般庶民の中に
 隠れて、日本兵を狙い撃ちにした。
  一般市民に類が及ぶと分かっていても、中国兵は、こ
 のやってはいけない、一番否定されている「軍人の卑劣
 行為」を南京で行った。
  一般市民に類がおよぶと分かっていても、中国兵は、
 この卑怯な事をした。
  やむなく、一般市民に混じる中国兵と戦う羽目に陥(
 おちい)った。
  蒋介石の司令部は、自分たちの兵士を置いて、先に逃
 げるという、これも一番やってはいけない最悪な卑劣な
 事をして逃げた。
  アメリカが、この司令部を一般の兵士より先に連れ出
 すというハレンチな事をやって、日中戦争に参戦した。
.
1996年12月、日本版NSCへの一歩・・
  日本に、いざという事が起きた時・・国民の命を守る
 ために・・
  緊急事態が起きた時、迅速な対応が図れるため、内閣
 総理大臣の判断によって、自衛隊の部隊が迅速対処でき
 るようになった。
  安保会議、及び、閣議で決定された「我が国の領海、
 及び、内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」
 により、自衛隊の部隊が、わが国の領海、及び、内水で
 潜没航行する潜水艦に対して浮上・掲旗要求、退去要求
 を行うにあたり、あらかじめ閣議において、その基本方
 針と手順を決定しておいた。
  これにより個々の事案発生時に、改めて個別の閣議決
 定を経ることなく、内閣総理大臣の判断により、自衛隊
 の部隊が迅速に対処し得るようになった。
  「日本版NSC」を機能させるために、こうした手法
 を検討する余地があるかもしれない・・と、政府は説明
 している。
  朝日新聞など、日本を何かと正視していないメディア
 のアンケート調査は、「まゆつば」である。
  アンケート調査なのだから正しいのだというが、これ
 が、「データで嘘を言う方法」という本もある如く、嘘
 が作られている。
  メディアは言う、「国民に調査をすると、第一位に経
 済対策をしてくれ」と答えている。
  「北朝鮮などの脅威に対する対策への要望は、その後
 だ」となっている・・と。
  これは、「今日そして明日、まず、女房・子供が、飯
 を食わせられるようにしてくれ」という国民の声であっ
 て、差し迫っている飢餓を回避したいという要望なので
 ある。
  そして、結局、広島・長崎の方々の様に、「火だるま」
 になることから、愛する人々を救いたいという要望の先
 に来ている結果なのである。
  アンケートの取り方に「仕掛けがある」のである。
  一つを選べとなっている。
  現政権への最重要課題となっている。
  ならば、「まず、飢えないようにしてくれ」が第一位
 の声になる・・
  メディアは、この様な仕方で嘘をついている。
  「実験計画法」という学問があるが、実験結果におい
 ても、非常に微妙な差によって結果が大きく違って来る
 ことは常識なのである。
  実験をした人の違いによっても、同じ実験をしている
 のに結果が違ってしまうとか・・、
  実験した日時の違いによっても結果が違ってしまうと
 か・・
  実験なんかは、同じことをすれば、同じ結果になるか
 と言えば、「そう簡単にはならない」のである。
  ましてや、色々な想念が頭を巡っている人間に対する
 アンケートにおいて、その設問の仕方などで大きく変わ
 って来るのは当たり前なのである。
  アンケートを受けた時、アンケートを取るメディアが
 自分たちの考えている理想としている結果に導こうとし
 ている質問側のアンケートの取り方に遭遇した事がある・・、
  この様なことで、国の大切な問題である国防に関する
 ことが・・、
  戦後・70年以上すぎているのに、疎かにされて来て・・
  そして、このアンケートの様な日本の今がある。
  200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かった
 ら・・それを防ぐことは不可能という現在の日本がある
 のにである。
  それでも、国防論を後回しにするのか・・
  今日・明日の食べる事が大切なのか・・

1996年(平成8年)、皇后宮(きさいのみや)陛下御歌
  海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
  あまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ
  (歌意)
  この日本の國の海も山河も平野も總べて國の爲に生命
 を捧げた數多の英霊の御魂によって護られてゐます。
  皇后陛下のお言葉
  慰霊の旅では、戦争の被害の最も大きかった四地域を
 訪れましたが、この訪問に重ね、戦争で亡くなった全て
 の人々の鎮魂を祈りました。
  戦争により、非命に倒れた人々、遺族として長い悲し
 みをよぎなくされた人々、更に戦争という状況の中で、
 運命をたがえた多くの人々の上を思い、平和への思いを
 新たにいたしました。
.
2005年12月9日、「男女共同参画基本計画改定にあたっての
 要望書」
  自由民主党が、過激な性教育・ジェンダーフリー教育
 がなされている状況を調査するための「実態調査プロジ
 ェクトチーム」を結成した。
  そして、内閣府に於いて検討されている首記の件につ
 いて、過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プ
 ロヘクトチームは、2005年3月に発足以来、10ヶ月間にわ
 たり、実態調査したりして、教育の正常化を目指すため
 論議を重ねて来た。
  そのための全国的な実態調査も行い、寄せられた3500
 もの実例を調査・分析した。
  その結果、「ジェンダーフリー」という名のもと、過
 激な性教育が行われ、また、「家族の否定教育」が行な
 われていることが分かった。
  同時に、教育現場でこの様な暴挙が堂々と行われてい
 る根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的(しいてき、
 論理的な必然性なく、思うまま)に解釈し、組合組織の
 活動方針としていることなども現場での調査で確認され
 た。
  文献にも、以下のような記述がある・・、
  日教組は、「ジェンダー・フリー」を推進した。
  ジェンダー・フリーには、ひな祭りなどの伝統文化を
 否定する。
  「球技を男女一緒させる」という話もある。
  その場合、女性を保護する意味もあって「(一緒に)
 球技をさせると、男子と女子の差がある」と質問しただ
 けで、「それは男女差なのか?」という言葉が返って来
 る。
  偏頗(へんぱ、片寄って不公平なこと)な性差イデオ
 ロギーで押し切る日教組である。
  女性の良さの話をしようと「女らしさ」と、男という
 「男らしさ」を話に出したら、それを頭から否定する。
  これでは、逆に、日教組は、「女性を虐げている」こ
 とになる。
  日教組は、「中性」が良いという。
  「男性」と「女性」を否定している。
  世に存在している「男性も駄目」「女性も駄目」と主
 張している。
  こんな立場で、教育ができる訳がない。
  こんな変な考え方から発展して、「専業主婦」という
 言葉すら使うなという。
  そして、この教育を子供たちにする。
  日教組は、「性に捉われないのが良い」と悦に入って
 (えつにいる、満足して喜ぶ)いる。
  女性の良さを美化し、逆に、男性の良さは美化できな
 い日教組の組織。
  古い封建的観念を否定的に持っている、また、まった
 くの封建的観念に浸っているという日教組。
  こんな組織で明日ある教育ができる訳が無い。
  また、日教組は言う、「男らしさ、女らしさを否定し
 ない、しかし、それにとらわれないものを大切にする」
 と。
  しかし、これは、詭弁(きべん、道理に合わない、言
 いくるめの議論、ごまかしの議論)なのだ。
  女らしさ、男らしさを否定しないと言いながら、「女
 らしさ」という事を否定している。
  「とらわれない」ために、女らしさを言い、男らしさ
 も言うのが正解なのが分からない。
  その様な封建的観念の論者となっている。
  広く封建的観念から脱却できない日教組となっている。
  また、文献に、下記の様な記述もある・・、
  日教組に感化された教師たちが、性教育という錦御旗
 を立てて・・教室で何をしでかしていたのかは、子供た
 ちにした、その詳細は分からないが・・その教師の話が、
 何であったかを、家に帰って来た子供の行動で分かる。
  その母親が仰天したのは、何も知らなかった子が、妹
 の上にまたがって腰を振っているのを見て、母親は、卒
 倒しかけたという。
  教師が、こんなことまで実演した。
  日教組に感化された教師が、教室でやったことは、い
 たずらに興味を持たせ、焚き付け行為をしたということ
 だった。
.
2011年3月11日、東日本大震災(M9.0)、日本海溝で起き
 た巨大地震と津波・・
  宮城県東南東沖などの一帯を震源地とする未曾有の大
 震災。
  1000年に1度と言われた規模。
  死者は、2万名を越える残念な災害が起きた。
  震災直後、混乱の中、決してパニックになることなく、
  当然のごとく暴動や掠奪も起きず、整然とした行動が
 とられ、ボランティアの方たちと、その後の行動をした。
  世界中は、震災報道もしたが、日本人のその後のこの
 様子も、称賛の中で報道した。
  日本の民度の高さを称賛した。
  公共心や道徳心に驚嘆した。
  その根を支える性善説の宗教心に驚嘆した。
  長く日本人の心にあったものは失われていなかった。
  少子高齢化とか、長いデフレなどで、社会は縮小して
 いると言われ、マイナス・マインドが洗脳され、マイン
 ド・コントロールされているが、何ら日本人の特質は、
 失われていず、
  逆に、その特質は磨きがかかり、高い資質になってい
 ると言える。
  何しろ前向きに性善説的に物事をとらえ、日本の長い
 歴史で蓄積した潜在能力を引き出して行くことが、肝心
 なのである。
.
2017年11月27日、日英が地位協定の協議へ
  (読売新聞、2017年11月27日)に表記の表題の記事が
 載った。
  これは、日本とイギリスの両政府が、自衛隊とイギリ
 ス軍が、互いの国で円滑に活動できるようにするため、
 法的な立場を明確にする「協定を締結しよう」との方針
 を決めた。
  今後、協議を重ねて行くが、協定の名は「訪問部隊地
 位協定(VFA)」。
  昨年・2016年、イギリス空軍が来日し、初の2国間訓練
 が実現した。
  来年・2018年には、イギリス海軍の最新空母を日本近
 海に展開して、海上自衛隊と訓練を行うほかに・・、
  陸上自衛隊とイギリス陸軍との共同訓練も実施する方
 向で検討中。
  防衛省幹部は、「日英間の信頼関係をアピールし、ア
 ジア太平洋の抑止力につなげる狙いもある」と。
  日英は、12月の2プラス2で、新型空対空ミサイルの試
 作についても合意する。
  試作品は、2023年度頃の完成を目指す方針。
  イギリスなど6カ国が共同開発した中距離空対空ミサイ
 ル「ミーティア」に、日本製の高性能センサーを組み合
 わせて命中精度を向上させるという内容。
  装備品の共同開発が実現すれば、同盟国のアメリカ以
 外では初めてとなる。
  日英の安保協力は、すでに、安倍内閣の下で推進され
 て来ていて・・、
  2013年7月に、装備品の共同開発を進める協定を結んで
 いる。
  そして、2014年度から、ミサイル技術の共同研究も始
 めている。
  また、今年・2017年1月には、自衛隊とイギリス軍が、
 弾薬などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACS
 A)を締結している。
  また、今年・2017年8月~9月には、メイ英首相が来日
 して国家安全保障会議(NSC)に出席し、「日英の安
 保協力をさらなる高みに引き上げる」ことを確認してい
 る。
  (参考)訪問部隊地位協定:共同訓練や災害救援など
     で一時的に国内で活動する外国軍の法的地位を
     定める協定。
      長期駐留を前提にした日米地位協定と異なり、
     事件・事故の裁判権などは含まないケースもあ
     る。
      日本では2014年に協議入りしたオーストラリ
     アとのVFAが近く合意に達する見通し。
.
2017年、今、ドイツは、アメリカとの関係が、安全保障上、
 国の命運を握るという死活的だった時代は、今・現代、
 去っている。
  ドイツは、グローバル化が正しいのだとの風潮に煽(
 あお)られ、その流れの中で移民も受け入れて来た。
  15年間続けた移民も、100万人を越えた。
  移民は、「ドイツに同化するより」ドイツの文化を破
 壊し、過去のものとした。
  ある地域からは、すっかりドイツ文化が消えた。
  その移民は、難民として人道的面もあったが、あまり
 の流入数、その多さ・・その異質の文化や習慣も、その
 数と共に一緒に入って来て、過去からの「いつものドイ
 ツの日常」は消え去った。
  今、また、その「移民の家族」を呼び寄せる問題が起
 きている。
  移民・難民は、ドイツの生活レベルの高さから、その
 ほとんどがドイツに定住している。
  そして、その地域と周辺ドイツとの格差問題も生まれ
 ている。
  (新しくドイツ人となった元移民・難民の人々と、ド
 イツに居た人々との格差問題)
  グローバル化が正しいとしたアメリカは、主に、経済
 的理由から、アメリカのエスタブリッシュのグローバル
 企業の論理から「その正しさが唱(とな)えられた」が、
  建国からの移民の流入で、「人種のるつぼ」とアメリ
 カは化したが、その人種間の異質文化を乗り越えること
 が出来ずに、人種差別行為に明け暮れている。
  異質な人々を、中世のヨーロッパで、特に、ユダヤの
 方々がその対象とされ、「ゲットー」という特定地域を
 決められて押し込められた・・
  この如く、今・現代において、アメリカで、黒人の方々
 をゲットーに押し込めている(ニューヨークの黒人街な
 ど)
  結局、グローバル主義の行き先に、いつの時代になっ
 ても乗り越えられない人種問題が横たわっている。
  人間の本質を尊重する、その個性を尊重する、その違
 いを尊重する・・が正しいが・・それを乗り越えること
 が出来ないのが実態となっている。
  「グローバルだ」と無理に混ぜ、軋轢(あつれき)を
 乗り越えろと命じるが、結局、非人道的行為を引き起こ
 す事態・始末になっている。
.
2017年12月1日、ロシアが、千島に対艦ミサイル
  標記の表題で(読売新聞、2017年12月1日)が報じる・・、
  また、その表題は、「配備計画、北方領射程、米に対
 抗か」とある。
  ・・以下に、それを参考に記すと・・
  ロシア紙イズベスチヤ(29日付)は、ロシア軍が千島
 列島マトゥア島(日本名:松輪島)とパラムシル島(日
 本名:幌筵島・ほろむしるとう)に基地を建設し、地対
 艦ミサイルを配備する計画を進めていると報じた。
  アジア太平洋地域で活発に展開するアメリカ軍に対抗
 する狙いとみられる。
  ロシア軍は来年(2018年)、マトゥア島とパラムシル
 島で、最新型地対艦ミサイル「バル」(最大射程120キロ)
 と「バスチオン」(同600キロ)の配備に取り掛かると
 いう。
  専門家が派遣され、基地建設のための調査やミサイル
 の配備場所の選定に入っているという。
  ロシア軍は昨年(2016年)11月に国後島に「バル」を、
 択捉島に「バスチオン」を配備し、両島に計3500人の兵
 力を駐留させている。マトゥア島に地対艦ミサイルが配
 備されれば、カムチャッカ半島から北方領土の択捉島ま
 で射程に入るといい、同紙は「オホーツク海を押さえ、
 沿海地方とサハリン州を敵の攻撃から守ることができる」
 としている。
  マトゥア島とパラムシル島は第二次世界大戦中、日本
 軍が対米防衛の拠点として重視し、滑走路や港湾を整備
 し兵力を配置していた。
  軍事専門家のアレクサンドル・モズガボイ氏は同紙に
 「(当時の)日本人は両島の戦略的な重要性を理解して
 いた。
  現在の国際情勢を考慮すれば、ロシアの軍事力の配備
 は理に適っている」と指摘した。・・以上・・
  アメリカのルーズベルト大統領が、第二次世界大戦(
 大東亜戦争)の時、ソ連のスターリンをそそのかして、
 日本を攻める武器・弾薬までも、ソ連にまで運んで、日
 本と戦えと言った・・
  そしてまた、日本の領土を取っても、アメリカは何も
 言わないという「うまい話」でそそのかして、日本を攻
 めさせ(国際法違反で成立しない戦いまでして)日本か
 ら奪った地に、今度は、日本やアメリカを攻撃するミサ
 イルが配備された・・と、報じたニュースだった。
  こんなことを、アメリカのルーズベルト大統領がして
 いなければ、この地に、日米安保のミサイルが配備でき
 ていたであろう。
  この様な事から、北方領土・千島列島・南樺太は、日
 本に返還がなされる可能性は完全に薄い(ロシアの国際
 法違反のままの状態となる)
  また、トランプ大統領の行動が、この様な形で、事態
 が展開して来て・・、一(いち)・・北朝鮮だけではな
 く、ロシアが敏感に反応し・・ますます、高性能な武器
 に囲まれた地となった。。
  事態はますます、日本が孤立する状態となった。
  丸腰状態の日本が居る状態となっている・・防衛に責
 任を持て!
  (戦争は嫌だ・・戦争反対だと叫んでいるだけで・・
 女性や子供たちを・・家族たちが守れるなら・・戦争が
 起きないのなら・・苦労はいらない)
  その世論を繰っている・・恐怖心を起こさせているだ
 けのNHKの罪は重い!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月12日、官吏の勤務時間を、夏期を除き、退庁時
 間を1時間延長した。
  これによって、拘束8時間制となった(閣令第6号) (
 11月22日説あり)
  因みに、江戸時代の幕藩体制の頃の武士の執務時間は
 6時間だった。
1892年11月14日、高等官官等俸給令公布(勅令第96号)
  この法令によって、親任官以外の高等官が9等分され、
 親任官・一等官・二等官が勅任官、三等官から九等官まで
 が奏任官と定められた。
  (参考)官庁に勤める者を、官吏と管吏でない者(嘱
     託・雇員など)に分け、
      官吏は、高等官と判任官にわけた。
      また、高等官は、親任官と勅任官と奏任官に
     分けられた。
      親任官は、天皇陛下の親任式を経て任命され、
      勅任官は、高等官一等と二等を言い、
      奏任官は、高等官三等~九等を呼んだ。
1892年11月14日 山田顕義が死去した。
  山田顕義(やまだあきよし、1844年~1892年)陸軍軍
 人・政治家。
  1844年10月9日、山口県(長州長門・萩藩士)に生まれ
 た・・藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都を中心に尊王攘夷に
 活躍し、蛤御門の変に敗れ、品川弥次郎らと御楯隊(み
 たてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに、
 元治(げんじ)の内戦にも活躍。
  1864年8月20日(20歳)の禁門の変に参加した。
  1864年(20歳)の江戸幕府の長州征討では高杉晋作の
 下で「丙寅丸」の砲隊長として幕府艦を撃破した。
  1868年(24歳)の戊辰戦争では東征大総督参謀として、
 越後、東北、箱館・五稜郭と奮戦し功をたてた。
  明治維新後となって・・
  1869年(25歳)兵部省に出仕し、兵部大輔・大村益次
 郎の下で兵部大丞(ひょうぶだいじょう)を務めた。
  大村の死後は、遺志を継いで兵制の確立に力を注いだ。
  1871年(27歳)陸軍少将、そして・・、
  1871年12月23日(27歳)岩倉遣外使節に理事官として
 随行して随行し、フランスをはじめ、欧米の兵制を視察
 した。
  1873年(29歳)帰国して東京鎮台司令長官となった。
 また、清国特命全権公使を拝命した。
  1874年(30歳)佐賀の乱が勃発し、司法大輔(しほう
 たいふ)を兼任して、その鎮圧に当った。
  1874年(30歳)台湾出兵の閣議決定に反対を唱えた。
  1877年(33歳)西南戦争の際は、別働の征討第2旅団司
 令長官として活躍した。
  1878年(34歳)陸軍中将(西南戦争の功による)
  1878年(34歳)刑法草案審査委員となり、法典編纂事
 業に寄与する一方、元老院技官を兼任・・そして・・
  1879年(35歳)参議に就任、内務卿、工部卿を兼任し
 て歴任。
  1882年(38歳)皇典講究所の設置に関与する。
  1883年(39歳)司法卿になる。
  1884年(40歳)伯爵を授けられる。
  1885年(41歳)内閣制度創設以後も、第一次伊藤博文
 内閣の司法相に入閣し務めた。
  1887年(43歳)この年から法律取調委員長を務め「法
 典伯」の異名をとるほどの熱意で、刑法はじめ法典編纂
 に尽力し、法典の整備をした。
  1889年(45歳)大隈重信外相の条約改正案に「大審院
 に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれて
 いたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされる
 と、帰化法の制定を閣議に提案し、外国人判事の採用を
 可能にしようとした。
  1889年(45歳)皇典講究所の所長に就任し、また、日
 本法律学校(のちの日本大学)、国学院を創立した。
  1890年(46歳)民法はフランス人ボアソナード、商法
 はドイツ人レースラーの原案起草を得て、共にこの年の
 公布にこぎつけた。
  しかし、フランスに範をとる民法が、日本の国情に合
 わないという法典論争の議論が起こった。
  山田は早期施行を主張したが、結局、両法ともに施行
 されなかった。
  1891年(47歳)大津事件では、担当大臣として大逆罪
 適用を主張した。
  1891年5月(47歳)大津事件が無期徒刑の判決直後に辞
 任、病気のためだった。
  第一次伊藤内閣の司法相、黒田・第一次山県・第二次
 松方の各内閣でも司法相を歴任(1891年・47歳まで)
  1892年(48歳)枢密顧問官となったが・・
  1892年11月11日、死去、49歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留しているのではない・・
    アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統領に提出されたメモ
.
1676年、ナサニエル・ベイコンの反乱。
  アメリカ・バージニアで起き、黒人の方々の抵抗・反
 乱として初めてのものだった。
  弾圧による不満の極致にあった黒人奴隷の方々が立ち
 上がった。
  これに不満を抱いていた開拓者も加わった。
  この年に、メリーランドでも反乱が起きた。
  1739年9月9日、サウスカロライナでカトーの黒人奴隷
   の反抗。
   これは最大の蜂起と言われている。
   捕まった奴隷の方々は、そのほとんどが処刑された。
   生き残った少数は、西インド諸島の市場に売却され
   た。
   サウスカロライナ州議会は法律を作って、黒人奴隷
   の方々の移動を制限し、また、教育も制限し、組合
   結成も制限した。
  1770年3月5日、自由黒人クリスバス・アタックスが、
   「ボストンの虐殺」で軍の銃弾に倒れた。
   イギリスの締め付けが厳しい事で反抗した。
  1773年1月6日、「フェリックス」、解放を求める奴隷
   の請願書
  1773年4月20日、ピーター・ベステスと他の奴隷、解放
   を求める請願書 
  1773年6月、マサチューセッツのハッチンソン総督・オ
   リヴァー副総督の本国あて私信が暴露される。
   植民地人の自由を制限することを主張していた。
   マサチューセッツの黒人が、議会に自由を求める請
   願書を提出。
  1775年、イギリス軍に参加する奴隷には自由を与える
   という、破廉恥な方法で兵士を集める「バージニア
   総督・ダンモア卿の布告」
  1776年、独立宣言が行われる年になって、やっと、ア
   メリカ軍が自由黒人の軍隊参加を承認した。
   後追いの処置となっている。
   黒人嫌いのリンカーン大統領は、黒人の軍隊参加を
   渋っていた。
   黒人の方々は、何度、頼んでも許可しないリンカー
   ンを軽蔑し、すでに、軍隊へ飛び込んで参戦してい
   た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法が制定された。
  「3/5条項」や奴隷貿易存続などを承認したことにより、
 このアメリカ憲法が奴隷制度を容認する状態となる。
.
1790年、フランス領ハイチで奴隷革命が起きた。
  そして、1803年に黒人共和国が成立した。
  アメリカの黒人奴隷の方々は、これに大いに勇気づけ
 られた。
.
1793年、アメリカで逃亡奴隷取締法が成立した。
  この年、イーライ・ホイットニーが、綿繰機を発明し
 た。
  これが綿花栽培の発展の契機となる。
  そして、この綿畑に黒人奴隷の方々が、大勢、連れて
 来られる。
.
1794年、アメリカ白人のキリスト教教会が、黒人差別をす
 ることに対して、黒人のリチャード・アレンが、最初の
 黒人の教会をフィラデルフィアに設立した。
  この年には、奴隷制反対協会の全国大会が、フィラデ
 ルフィアで開催されている。
.
1896年、アメリカというキリスト教国が、『黒人差別をし
 ても良い』という判決を出した。
  まったく破廉恥な軽蔑すべき判決で・・、
  施設などが平等であれば、黒人を白人から隔離しても
 その行為は憲法違反にはならない・・という連邦最高裁
 判所の判決で・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という卑劣な判断だった。
  こんなにはっきりした明確な人種差別行為を、アメリ
 カ特有な屁理屈で「人種差別ではない」として人種差別
 を行なった。
  この判決が、アメリカの基本的考え方として適用され、
 どこでも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々を差別す
 るという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、宗教的な偏見で、明ら
 かに筋が通っていない事でも、アメリカ特有の屁理屈か
 ら「不正義」を「正義」としてしまう。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」に適用された。
  このアメリカという国の「人種関係全般を支える法的
 原理」になった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われる。
.
1900年6月20日、義和団事件(~1901年9月7日)
  この事件で、中国は、列強各国に賠償金を支払う事に
 された。
  アメリカは、この金を、キリスト教関係へ流した。
  そして、中国でのキリスト教の布教活動を活発化させ
 た。
  キリスト教系の学校が、多数、創設された。
  また、多数のキリスト教宣教師が中国へ渡った。
  アメリカでの募金活動も広がった。
  そして、キリスト教系の人と莫大な金が中国へ流れた。
  (しかし、結果的にキリスト教信徒は増えなかった)
  1927年、一地方軍閥にすぎない蒋介石が、北京に政府
 樹立の宣言をするや、アメリカは承認して中央政府とし
 た。
  キリスト教宣教師は蒋介石と連合した。
  この動きの中にアメリカ雑誌の「タイム(TIME)」
 「ライフ(LIFE)」創立者のヘンリー・ルースが居
 た。
  しかし、信徒が増えないという状況で、募金打ち切り
 と宣教師の引き上げが検討されるようになった。
  そこで、キリスト教宣教師たちが使った手が、日本を
 貶(おとし)めて、アメリカにおいて、再び、中国に関
 心を向けさせるという手だった。
  キリスト教牧師のマギーは、南京市民を撮影して、ア
 メリカの政府関係者や、新聞記者に見せて、反日を煽っ
 た・・中国への同情と関心を喚起した。
  この例の様なキリスト教関係者の反日行動があちこち
 でなされた。
  上海のボイントン宣教師は、新聞記者や外交官へ、テ
 ィンパーリィ記者(オーストラリア人記者、実は、中国
 国民党宣伝機関のイギリス支部責任者)が金で依頼され
 て執筆した南京事件などを吹聴した。
  この様な色々な行動の中で、アメリカにおける反日感
 情が作り出されて行った。
  1937年に至って、ルーズベルト大統領の「日本を疫病
 患者に見立てた卑劣な批難演説」となる。
  そして、日本が戦争に負けて、東京裁判に於いて、キ
 リスト教聖職者のマギーは、証言で、見てもいない日本
 のありもしない卑劣な行為を言い続けた。
  反対尋問に於いて、マギーは、見ても居ないことを、
 延々と色々、言っていることが一つ一つ嘘だと暴露され
 た。
  特に、キリスト教宣教師たちの語ったその言葉の嘘・
 悪口・雑言はその極致にある(エスピー報告)
  当時の日本側の馬淵逸雄中佐(上海派遣軍報道部)も
 以下の様に指摘している・・
  「それ(南京の外人記者)にもまして悪影響の種をま
 いたのは、アメリカ宣教師たちの悪質デマ通信であった。
  あたかも入城した日本軍が鬼畜の行動をしたかのごと
 く通信をし、世界の対日感情を悪化させた・・(中略)
  首都・南京の占領も、この二つの事件(パネー号事件、
 および、レディバード号事件)とキリスト教宣教師のデ
 マ宣伝とによって、その対外的価値を半減した」・・と。
  今でも、キリスト教は日本を貶めている。
  そして、日本のシンボルである「国旗」と「国歌」に
 対しての貶め行為は酷いものである。
  この貶め行為が、日本に定着して来ると「表から消え
 る」というキリスト教である。
  キリスト教に偏するNHKは、盛んにその肩代わりを
 している。
  そして、そのNHKの息のかかる「放送大学」も、N
 HKにゴマを摺っているのか、盛んに日本を貶めている、
 また、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしている。
.
1901年、官営の八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始
 された。
  それに伴い、造船業も発展を遂げた。
  日露戦争の後には1万トン以上の造船も可能となった。
  『日本の産業革命』と言われる時代が始まった。
  日本のこの目ざましい近代産業の発展は、江戸時代以
 来の民間の高い教育水準がそこにはあった。
  また、国民の勤勉さがあった。
  四民平等の施策によって、国民に自分の努力と工夫に
 よって人生が切り開かれる社会体制があり・・、
  また、渋沢栄一(埼玉県深谷の豪農の生まれ)の様な
 有能な民間の実業家が、多数、登場した。
  また、日本の施策が優秀で、日本の発展のための的確
 な施策がなされて行った。
  重点的になされた「交通網の拡充」も最適切だった。
  産業の発展を支えた。
  1889年には、東海道線の新橋~神戸間が全線開通した。
  そして、全国の鉄道網が拡大して行った。
  また、馬車などの通行が可能なように、道路も整備さ
 れて行った。
  地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道
 筋に変わって、駅周辺が新たに発展した。
  農村も様々な副業が試みられ、生活水準も向上した。
  米食が普及し、人口も着実に増加して行った。
  子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して
 工場の労働者になる人々も、多数、出る状況にあった。
.
1905年9月5日、日露戦争が、日本勝利で終わった。
  日露戦争の後、ロシアは、東アジアでの動きを止めた。
  南下政策もあきらめた。
  そして、活動拠点を、再び、ヨーロッパへ移し、進出
 を模索した。
  ヨーロッパの情勢は、そのため、緊迫するものとなっ
 た。
  ドイツは、すでに、1882年に、オーストリアとイタリ
 アとで三国同盟を結んでいた。
  そして、海軍力を強め、海外へ進出をした。
  これを恐れたイギリスは、ロシアとフランスに接近し
 た。
  ロシアは、1891年に、フランスと露仏同盟を結び、ま
 た、1907年には、イギリスと英露協商を結んだ。
  また、1904年には、英仏協商が結ばれている。
  そこで、この三国(イギリス、ロシア、フランス)は、
 1907年に、三国協商を結びドイツを包囲し、ドイツなど
 の三国同盟と対峙(たいじ、にらみ合って対立すること)
 した。
  これによってヨーロッパは、緊張が高まって行った。
  この時、日本は、1902年に、日英同盟を結び、1905年
 の日露戦争の戦勝の後、1907年には、ロシアと日露協約
 を、また、フランスと日仏協約を結んだ。
  日本は、三国協商の三国とのつながりを強めた。
  この頃、バルカン半島に緊張が高まった。
  民族の独立を目指す運動が高まった。
  この地域に利害を持つイギリスをはじめとする三国協
 商の列強諸国と、ドイツをはじめとする三国同盟の列強
 諸国は、この独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。
  そのため、バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」
 と呼ばれた。
  一触即発の緊張状態となり、この状態が続いた。
  これは、東アジアの中国の軍閥が割拠する頃の状況と
 同じ様な緊張状態だった。
  バルカン半島で、ヨーロッパ列強各国がうごめくこと
 が良くて、「満州ではダメ」なんて言えない状態だった。
  こんなことをしでかして来たヨーロッパ各国が、満州
 で日本をとやかく言うような事が出来るのか・・?
  そして、結局、1914年、オーストラリア皇太子夫妻が、
 ボスニアのサラエボで、親ロシアのセルビア青年に殺さ
 れると(サラエボ事件)、これを切っ掛けとして第一次
 世界大戦を起こしてしまった。
  他人(ひと)の事をとやかく言えない状況をやってい
 た。
.
1905年、日清戦争後、中国から、日本の近代化に学ぼうと
 して、多数の留学生が日本に来て・・そして・・
  1905年、孫文は、東京で留学生を中心に中国同盟会を
 結成した。
  そして、三民主義を掲げて、清朝を打倒する運動を開
 始した。
  1911年、中国では、民衆の反政府運動と軍の反乱が結
 び付いて、多くの省が清朝からの独立を宣言して、辛亥
 革命(しんがいかくめい)が起きた。
  1911年、そして、この年、南京に革命派の代表が集ま
 って孫文を臨時大総統に選びんだ。
  1912年の翌年に、中華民国の成立を宣言した。
  首都は、南京に置かれた。
  清朝政府の実力者だった袁世凱(えんせいがい)は、
 この革命派と結び、皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。
  そして、その引き換えに孫文から大総統の地位を譲り
 受けた。
  しかし、袁世凱は、大総統に就任してから、自己の権
 力強化を図った。
  袁世凱は革命派を弾圧し始めた。
  その後、中国は、統一性を失って行った。
  権力を持つ地方政権である大小の軍閥が発生すること
 によって、各地方がバラバラに支配されるようになった。
  この一地方軍閥が蒋介石。
.
1917年2月23日、2月革命(~1917年2月27日)
  ロシアの崩壊はこの日のデモが切っ掛けだった。
  日本と衝突した日露戦争の際の1905年の第1次ロシア
 革命、
  第一次世界大戦中の第2次ロシア革命は、いずれも民
 衆の暴動から始まった。
  その中から1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエ
 ト=ロシアが誕生し、最後の皇帝ニコライ2世は処刑さ
 れ、ロマノフ朝は終わりを告げた。
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわ
 せてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、
 デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ロシアは、ドイツとの戦争が長引いて、庶民は食糧難
 にあえいでいた。
  そして、都市の市民に暴動がおこり、これに兵士が加
 わった。
  これを契機としてロマノフ王朝が倒れた。
  国外に逃亡して革命の機会を待って居たレーニンは、
 直ちに、この機会を利用した。
  レーニン派は、武装蜂起し、兵士と労働者を中心にし
 て、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府を作った。
  そして、他の党派を武力で削除し、共産党の一党独裁
 体制を築いた。
  ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対
 する国内の勢力との内戦に没頭した。
  ロマノフ王朝の皇帝一族を処刑し、また、共産党が敵
 とみなす資本家、キリスト教聖職者、地主、貴族、知識
 人らの多数を処刑した(ロシア革命)。
.
1917年12月、日本の軍艦の艦隊が編成されてヨーロッパへ
 派遣された。
  1902年に日英同盟が結ばれ、また、1907年には日仏協
 約や日露協約を結んだ日本は、第一次世界大戦において、
 この三国協商の側について、ドイツなどの三国同盟側と
 戦った。
  ドイツの潜水艦が、イギリス・フランスなどの協商側
 の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦をしている事
 から、日本は軍艦を地中海へ派遣して(イギリスの要請)、
 マルタ島を基地として、三国協商の輸送船団を、ドイツ
 の潜水艦から守った。
  また、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島
 (チンタオ)を攻撃した(この近くに有名な租借地・威
 海衛はイギリスの租借地がある)。
  また、日本は、太平洋の赤道以北のドイツ領の島々を
 攻撃した(赤道以南はオーストラリアおよびニュージラ
 ンドが統治)。
  また、遼東半島の関東州などのドイツ租借地を攻撃し
 た(因みに、ドイツやイギリスは、中国のあちこちに広
 大な租借地を持っている)
.
1918年、シヘリア出兵
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ソビエト政府の共産主
 義に強い警戒心を抱いていた。
  長年、シベリアを勢力圏におさめ、南下するロシア及
 びソ連の脅威を、日本も受けていた。
  このアメリカ・ヨーロッパ諸国・日本は、ロシア領内
 で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、革命阻止と、
 シベリアへの影響力を持つことを目的に、共同して出兵
 した。
.
1921年、第二回全黒人地位改善協会大会が開かれた。
  アメリカは、とことん黒人の方々を虐(しいた)げる
 国だった・・軽蔑すべき国だった。
  アメリカの自国だけでなく西インド諸島やアフリカの
 新大陸にまでその魔の爪先を伸ばして・・虐げた。
  黒人の方々は、リンチや人種的抑圧、その他さまざま
 な差別を激しく非難した。
  そして、抵抗行動として「税金の不払い」「黒人差別
 法の無視」「暴力には『手段を選ばぬ』自己防衛」をと
 った。
  1921年に、ニューヨークで開かれた第二回全黒人地位
 改善協会大会は、アメリカの全地域から集まっただけで
 なく、西インド諸島や南アメリカ、アフリカからも多く
 の黒人の方々が集まった。
  この黒人指導者のガーウェイは、「アフリカ帝国」の
 樹立を宣言し、自らその臨時大統領に就任した。
  黒、赤、緑の三色の国旗も制定した。
  このガーウェイの行動の重要な所は、この後に、アメ
 リカ全土を席巻する「公民権獲得運動」への発展して行
 くところだった。
.
1923年3月3日、タイム(TIME、雑誌)が、ヘンリー・
 ルースによって創刊された。
  アメリカにおける初の週刊ニュース雑誌だった。
  2009年の発行部数は340万部。
  また、ヘンリー・ルースは、1936年11月23日、アメリ
 カで写真を中心としたグラフ雑誌の「ライフ(LIFE)」
 を創刊している。
  この雑誌は、1967年~1970年頃に850万部の最盛期の
 最高発行部数を記録した(1972年12月29日の1862号で休
 刊した・・1978年に復刊したが、2000年に再び休刊)
  このヘンリー・ルースは、中国の山東省に生まれた。
  父は、北京で布教活動に従事していた医師だった。
  そして、この父親は、中国で、燕京大学(えんきょう
 だいがく)をはじめとするミッション系大学を設立に貢
 献した。
  (因みに、この燕京大学は、1952年、中国政府によっ
 て解体されている)
  そして、このヘンリー・ルースは成長して、アメリカ
 に戻ると、上記した様にニュース週刊誌『タイム』と、
 写真週刊誌『ライフ』を創刊した。
  ヘンリー・ルースは、『タイム』の表紙に蒋介石を使
 った。
  そして、『ライフ』には、日本軍の爆撃にあったとい
 う赤ん坊の嘘のデッチアゲ写真を載せた。
  中国への同情を掻き立てるためであり、募金を募って
 蒋介石を支援した。
  メディアの媒体を使って日本を貶(おとし)め行為を
 盛んにした。
  アメリカの国民の方々の反日感情を掻き立てた。
  「ライフ」も「タイム」も反日で、親中国の宣伝誌だ
 った。
  (今・現在も、アメリカでは、巨大な中国資本で、日
 本の悪宣伝が行われている。
  サンフランシスコでは、韓国の慰安婦像の建立を中国
 が支援している)
  また、キリスト教宣教師の父を持つ、このヘンリー・
 ルースは、宣伝媒体・映画も使った。
  ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を製作して、
 野蛮な日本を掻き立てた。
  そして、その日本と戦うけなげな中国というイメージ
 を盛んに宣伝した。
  2018年(来年)、日本のキリスト教は、これと似た方
 法で日本を貶める映画を公開する予定だという。
  遠藤周作の「沈黙」の原作を改作して、嘘でデッチ上
 げて作り直し、キリスト教を美化して、日本を貶める映
 画を公開する予定だという。
.
1923年、日英同盟がワシントン会議で失効した。
  当時のイギリス外相のバルフォアは・・、
  「20年も維持し、その間、二回の大戦に耐えた日英同
 盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったと
 しても忍び難いものがある。
  だが、これを存続すればアメリカから誤解を受け、こ
 れを破棄すれば日本から誤解を受ける。
  この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある
 大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」・・と。
.
1928年、老将軍の張作霖は、この年まで満州を支配下に置
 いていた。
  張作霖は、北京の「中央政府」に権力を得たこともあ
 ったが、満州の地の地方的軍閥で・・張作霖は、満州を
 自分の私領と思っていた。
  そして、二度、満州の独立を宣言した。
  1928年、張作霖が爆死すると、息子の張学良が、父の
 領地と軍を引き継いだ。
  張学良は、親イギリス的で、統率力は父ほどではなく
 低かった。
  その為、「共産系匪賊(ひぞく、集団を成して略奪な
 どを行なう賊)」に荒らし回られた。
  住民の心は、張学良の政治を悪政と感じ、張学良から
 離れていて、独立を求める気運の中にあった。
  中国情勢は混沌(こんとん、区別が立たず物事が入り
 混じっている状態)としていた。
.
1937年8月13日、中国の南京で起きたこと・・この日、蒋介
 石軍が、突然、上海の日本租界を攻撃を始めた(第二次
 上海事変)
  この攻撃から南京事件につながる日中戦争が始まった。
  この頃、日本は、軍を引き上げようとしていた。
  日本政府は、1937年7月28日、揚子江沿岸に在留してい
 た日本人約29,230名の引き揚げを訓令した・・そして・・
  1937年8月9日までに上海への引き揚げを完了していた。
  また、軍も引き上げようとしていた。
  そして、アメリカは、中国の数々の軍閥の中で、中国・
 蒋介石軍を支援した。
  まだ、中国国内のあちこちに、色々な軍閥が割拠して
 いるのに・・、
  1928年6月、この蒋介石が、北京で政府を作ったと宣言
 したからというのがその理由だった。
  ただそれだけの理由だった。
  そして、アメリカは、この蒋介石へ、武器・弾薬を与
 えた。
  日本の消耗を狙った消耗戦があった。
  日本が消耗したら、今度は、自分が出て行くつもりだ
 った。
  アメリカは、後になってベトナム戦争の時もこの作戦
 を使った。
  そして、イギリスは、中国で膨大な権益を持っていた。
  そのため、日本と連合して、時には治安行動を行なう
 という事もあった。
  (1902年~1923年、日英同盟を結んでいた・・特に、
 第二次日英同盟の時に攻守同盟を結んだ・・そして、第
 三次日英同盟の時に、日本は、第一次世界大戦を連合国
 として参戦した)
  1937年のこの時に、上海に居た日本軍は、日本に戻ろ
 うとしていた。
  この様な時、アメリカの支援を受けた蒋介石軍は、多
 くのその支援物資とともに、屈指の精鋭部隊である3万人
 の大部隊で、上海の国際共同租界の日本人区域を包囲し
 た・・ここから日中戦争が始まった。
  そして、1937年8月13日、攻撃を仕掛けた。
  この時、上海に居た日本軍は少数であった。
  日本軍の内訳は、上海陸戦隊2200、日本に引き揚げよ
 うと漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300など4000人だ
 った。
  日本に戻ろうとしていた日本軍は、日本へ戻ることが
 出来なくなった。
  当然、その戦闘を行なうという状態となった。
  日本領事は、国際委員会を招集して、中国軍の撤退を
 要求した。
  しかし、中国軍は攻撃されたからだと真っ赤な嘘を主
 張した。
  そして、また言った「中国軍は攻撃されない限りは攻
 撃しない」と・・まったくの嘘の話を主張した・・中国
 は、中国側の責任を全く認めなかった。
  日本は、やむなく派兵を要請した。
  戦いは拡大して行った。
  この戦いの詳細は・・1937年8月13日午前10時半、中国・
 蒋介石軍は、日本軍陣地に対して機関銃による射撃を、
 突然開始する事から始まった。
  物資の豊富な蒋介石軍は強力だった。
  午後5時頃には、中国軍はあちこちの橋を爆破した。
  砲撃も激しかった・・日本軍は応戦した。
  そして、5時頃、戦いが収まりそうにないと判断した日
 本の司令官は、全軍の戦闘配置を指令し、激烈な戦闘が
 開始された。
  長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊
 司令長官)は、戦争回避をしたいと考えていた・・、
  長谷川中将は、1937年7月から、華北での戦火拡大から
 考え、中国軍はすでに開戦を意図していると察していた。
  日本への攻撃を意図した蒋介石は、中国・蒋介石軍を、
 無錫や蘇州に20万人以上の大部隊を待機させ、戦争の準
 備を整えていた。
  戦いが始まって、日本は、この様な状況も察知し、こ
 の部隊への爆撃命令が出された。
  日本艦艇も蒋介石軍機によって空襲された。
  この蒋介石軍の空襲で、フランス租界や国際共同租界
 も爆撃された。
  路上にいた729人が即死し、861人が負傷した。
  また、避難所も蒋介石軍に空襲され1012人が死亡、1007
 人が負傷し、民間人の多数が犠牲となった。
  これも、中国・蒋介石軍は、日本軍機によるものだと
 嘘を承知で誤った内容を発表した。
  日本の爆撃も、九州から渡洋爆撃をするなど拡大した。
  この様な戦闘の結果、1937年11月中旬頃、日本は、や
 っと、その蒋介石軍を退けることが出来た(3ヶ月間の戦
 いだった)
  蒋介石軍は、南京へ退却して行った。
  ここで、日本軍は、日本に凱旋できるはずだった。
  「上海戦を制すれば、ただちに軍事行動を停止し、欣
 然(きんぜん、よろこんで)日支の友交をおさむるに吝
 (やぶさ)かならず(軍令部第一部甲部員/支那事変処理)」
 ・・喜んで日支の友好に努める・・だった・・
  退却する蒋介石軍を追撃するか否かの時に、日本のマ
 スコミ(NHKを初めとする日本のマス・メディア)は
 報道で煽った・・そして、参謀本部から11月19日に追撃
 命令が出た。
  日本には、追撃することに対しての反対意見もあった。
  報道の煽(あお)りでこの意見が封じられた。
  南京に入場するときに、日本では「ちょうちん行列」
 で祝った(1937年12月13日)が、この様に、日本国民を煽
 ったNHKをはじめ日本のマスコミは、大きく軍の行動
 の判断を狂わし、動かした。
  南京へ向かう日本軍を、NHKはじめマスコミは、そ
 の都度、詳細に報道し、その報道に日本国民は煽られた。
  「南京城に日章旗が翻(ひるがえ)るまで」とNHK
 はじめマスコミは報道合戦を繰り広げた。
  1937年12月7日、南京に・・日本軍が迫ると、アメリカ
 は、蒋介石や蒋介石軍の司令部の者たちを、アメリカ軍
 の2機の飛行機やパイロットまで出して連れ去った。
  アメリカは、『救出』と言いたいのだろうが、これは、
 完全に日本軍と蒋介石軍との戦いへの介入だった。
  アメリカの参戦だった。
  ここで起きた悲劇は、多くの蒋介石軍の兵士が置き去
 りにされたことだった。
  この事から悲劇が始まった。
  アメリカによって、中国・蒋介石軍の指揮・命令系統
 が無くなされた。
  指揮・命令系統のない中国・蒋介石軍の兵士が戦場に
 残された・・卑劣な状態である。
  可哀想なのが中国の一般の方々・民衆の方々だった。
  指揮・命令系統のない蒋介石軍兵士は、一般の中国民
 衆を守れる状態ではなくなった。
  逃げ惑う中国・蒋介石軍兵士となった。
  その逃げる兵士を、蒋介石軍の下級将兵が、自軍の兵
 士へ向かって「逃げるな」と銃撃した。
  この様な「乱れに乱れた南京の状況」が現出した。
  降参して来る右の蒋介石軍兵士が、左から、やはり、
 降参して白旗を上げて来る蒋介石軍兵士が騙して銃撃す
 るという事もあって、右の兵士も左の蒋介石軍兵士とも、
 再び、銃撃戦になるという事も起きた。
  また、中国軍艦が、白旗を上げて降参しているので、
 日本の軍艦が近づいて行くと魚雷を発射して逃げるとい
 う中国軍艦のやり方・・、
  中国は、騙したってなんだって勝てばよいという考え
 方のやり方を昔からやって来た。
  騙される方が悪いという、国際法もあったもんじゃな
 いという中国だった。
  三国志(歴史書)を読めば分かる。
  日本の様に正々堂々と戦うのを良しとするのではなく、
 騙し合いの中国・世界である。
  卑怯なことだってなんだってやるという国だった。
  また、最悪なのが・・中国の民間人に隠れて、民間人
 の服に着替えて(軍服を脱いで)、そして、日本兵を狙
 撃して殺すという卑劣な卑怯な方法を多用した。
  こんなことをしては、中国の民間人に類が及ぶ(るい
 がおよぶ、他人の非が降りかかり、巻き添えを食う)の
 を分かっていてもやるという中国兵だった。
  まともな兵士なら、絶対、やってはいけない卑怯な行
 為だった。
  (日本を貶める事ばかり放送するNHKは、この様な
 事をまったく放送しない。日本を貶めてばかりいる)
  中国の庶民の方々を守る責任のあるものを奪い去った
 アメリカは、その指揮系統を無くしたアメリカの罪は非
 常に重かった。
  上海で・・攻撃を開始された日本は、アメリカが沖縄
 を攻めて来たように、南京まで攻めて行ったのであって、
 当然、侵略ではない。
.
1940年7月、アメリカの予備選で、黒人の方が排除されると
 いう事態が起きた。
  黒人の方々が投票することが出来ないという事が起き
 たのである。
  まったく卑劣な事がテキサス州で起きた。
  この事は、最高裁まで争われるという裁判になった。
  しかし、何と! テキサス州の最高裁判所は、その黒
 人の方への排除は適法だったと判決した。
  裁判所は、「政党の私的行為だから」とその判決理由
 を述べた。
  選挙には、すべて政党はつきものである・・この判決
 は、アメリカ特有の屁理屈だと言いたい。
  アメリカ大統領につながる予備選が私的行為である訳
 がない。
  この原告の黒人の方の投票できなかった事に関しての
 この屁理屈判決は、連邦最高裁判所まで持ち込まれた。
  ここでやっと、この4年後の1944年4月に、先の判決が
 ひっくり返り、「黒人の方の主張が認められた」。
  アメリカという国は、最近まで、この様に低劣な人種
 差別が激しい国だった。
  今・現在においても、完全に、この卑劣な人種差別が
 無くなっているとは言えない国である。
  「歴史のないアメリカ」は、まだまだ未熟な国なので
 ある。
.
1950年、卑劣な人種差別国・アメリカは、朝鮮戦争(1950
 年)の頃になって、やっと、アメリカ史上、初めて、「
 黒人の方々が、差別を受けず、白人と隔離なき統合され
 た軍隊」として動員された。
  リンカーンの奴隷解放なんてどこにあるのかというア
 メリカだった。
  1945年になって、やっと、アメリカ大統領が、大統領
 行政命令で連邦レベルで黒人差別を否定したことによる
 結果で、州法が制定される実施例が出た。
  この年に、ニュージャージー州とニューヨーク州に、
 雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制
 定した。
  (アメリカ北部の州も、やっと、この様な法令を制定
 した。
  アメリカ北部は人種差別をしていないなんて言うのは、
 完全なアメリカのプロパガンダ・嘘宣伝である)
  人種で雇用を差別することが、やっと、禁止された。
  肌の色や出身国や信条で、就業機会の差別をしてはい
 けないとされた。
  就業を妨げたりしてはいけないとされた。
  まったく遅いアメリカの法令化だった。
  しかし、まだまだ、卑劣な事に、州内の色々な公共施
 設における人種差別に関しては、そのままとされた。
  黒人の方々が、白人と同じ『市民的権利』を持つとす
 ることが出来ないアメリカだった。
  (トイレの差別など、乗り物の差別など・・などなど)
  この後、長くアメリカは、あらゆるところで『この差
 別を続けた』、今でもあるとさえ言える軽蔑すべき状態
 にある(この銅像を建てなさい・・)
  まったく差別のない日本とは大きく違う劣悪な人種差
 別国アメリカである。
.
1964年、アメリカに公民権法が、やっと、成立した。
  黒人の方々への差別を無くす法律がやっと成立した。
  (差別行為者はWASP)
  黒人の方々の大変な苦労がやっと実った。
  そこに、何と多くの黒人の方々の血が流された事であ
 ろうか・・
  そこには、白人・アメリカ人の悍ましい(おぞましい、
 身震いするほど嫌な感じ)人種差別の行為があった・・
 厳しく糾弾されるべき行為があった。
  黒人の方々の長い絶えざる広範な闘いが、そこに必要
 だった。
  (この闘いの指導者である黒人のキング師は暗殺され
 た)
  リンカーンの奴隷解放宣言は何だったのだろうか・・?
  何ら生かされていないというアメリカだった。
  キリスト教国・アメリカのWASP(W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)の
 差別行為・圧迫行為は酷(ひど)かった。
  しかし、この卑劣な差別は、まだまだ、アメリカで続
 いている。
  キリスト教の教義「有色人種蔑視観」の洗脳により根
 深くアメリカに根付いてしまっている。
.
1971年8月24日、『核の傘」は幻影・・
  アメリカは日本を守らない。
  アメリカの「対日政策の見直し」により、核の傘は日
 本防衛の為ではないと明記された。
  アメリカの核の傘で守られているというのは幻想。
  本「仮面の日米同盟」の52頁などに、以下のような意
 味の記述がある・・、
  在日しているアメリカ軍は、日本防衛のために在日し
 ているのではない
  アメリカ軍の日本を防衛するコストはゼロである。
  「国家安全保障検討メモ(NSSM)122号」における
 「対日政策の見直し」の指示を受け、国務省が1971年8月
 24日付けでキッシンジャーに提出した文書ちょり・・
  「日本を協力的にとどめることを確保するコストには
 次のようなものが含まれる。
  核の傘の維持と米抑止力の信頼性。
  核の傘は、いずれにしても米国が自国の防衛のために
 疑いなく維持するので、核の傘の提供によって、日本の
 防衛に対する直接的なコストはかかっていない。
  日本国内、および、その周辺に配備されたアメリカ軍
 部隊は、アジアにおける米国の他の防衛公約を満たすの
 が第一の目的であり、日本防衛の為ではない」
.
1971年12月29日、アメリカ軍の駐留は、日本防衛ではない。
  日本は、目を覚まさねばならない。
  日本は、日本防衛のために立ち上がらなければならな
 い。
  アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留している
 のではない・・
  アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統
 領に提出されたメモより・・、
  「在日アメリカ軍は、日本本土を防衛するために駐留
 している訳ではなく(それは日本自身の責任である)、
 韓国、台湾、及び、東南アジアの戦略的防衛の為に駐留
 している。
  北大西洋条約機構(NATO)と違って、日本とは、
 統合司令部に関する取り決めがなく、何らかの種類の統
 合計画もない・・
  このように、在日、及び、在沖縄米軍基地は、ほとん
 どすべてがアメリカ軍の兵站の目的のためにあり、戦略
 的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。
  こうしたより大きい立場からの安全保障の思考は、日
 本自身の安全保障を直接的に損ねる、と我々は感じるか
 もしれないが、この見解は、多くの、多分ほとんどの日
 本人には共有されていない。
  日本人の多くは、アメリカ軍の存在は脅威とみなして
 おり、アメリカ軍の使用によって、日本自身が作り出し
 たわけではない紛争に日本を巻き込む恐れがあるとみて
 いる」。
  春名幹男氏著「仮面の日米同盟」(47頁~48頁)
  https://www.youtube.com/watch?v=RUtjdMpJZdk
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月、神戸工場で、汽車監督リチャード・フランシ
 ス・トレビシックの指導のもとに、1B1形タンク機関車の
 製作を開始した。
  リチャード・フランシス・トレビシック(1845年~1913
 年)は、イギリスの鉄道技術者で、蒸気機関車の発明者
 の一人であるリチャード・トレビシックの孫。
  リチャード・フランシスは、1888年に来日し、お雇い
 外国人として、主に官設鉄道・神戸工場の汽車監察方な
 どを務めた。
  1904年まで、勤務している。
  日本初の国産蒸気機関車となった860形蒸気機関車の製
 作を指導し、その後も、独特な様式を持った機関車を数
 種類製作した。
  弟のフランシス・ヘンリー・トレビシックも、鉄道技
 術者で、兄よりも早く1876年に来日した。
  そして、官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任し
 た。
  兄弟ともに、日本の機関車技術の向上と定着に大きな
 役割を果たした。
1892年11月1日、黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊した。
  万朝報(よろずちょうほう)朝報社、社主:黒岩涙香。
  小型4ページの日刊新聞で、「一に簡単、二に明瞭、三
 に痛快」の編集方針のもとに社会正義に根ざした。
  相馬事件や〈蓄妾の実例〉などの上流社会のスキャン
 ダル記事や娯楽記事、社会記事や多様な雑報記事、涙香
 の翻案探偵小説などを載せて発展し、江戸っ子の人気を
 博した。
  1893年に、山田藤吉郎の経営していた再刊の《絵入自
 由新聞》を合併した。
  1900年頃から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客
 を迎え、社会批判を展開し、進歩的色彩の強い言論新聞
 となった。
  日露開戦前には、一時、非戦論を主張したが・・、
  日露戦争を前にして黒岩が主戦論に転じたため、非戦
 論の内村、幸徳らは退社した。
  また、報道体制の確立にもおくれをとったため、新聞
 界の主流から次第に離れ、大正期憲政擁護運動で一時的
 に人気を回復したが、
  1920年、黒岩の死後衰退、
  1940年9月、『東京毎夕新聞』 (1910年:創刊、1941年:
 廃刊) に吸収合併された。
  なお、社会事件を表現する「三面記事」は、この万朝
 報の4ページ立ての3面に記載されたことに由来する。
1892年11月1日、北海道炭礦鉄道会社線の追分駅~夕張駅間
 (42.8km)が開業した。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役
 目を担った。
1892年11月1日、旅客運賃を改正し、下等100マイル未満は
 1マイル1銭2厘、100マイル以上220マイル未満は1銭、
  220マイル以上は8厘とし、中等は下等の5割増し、上等
 は下等の2倍半となる。
  また、全線にわたり、小荷物配達扱を開始し、配達作
 業を内国通運に請けおわした。
  (東京では日本橋から2里以内、地方では駅から1里半以
 内が配達区域だった)
1892年11月6日 大井憲太郎が、東洋自由党を結党した(11
 月5日説あり)
  大井憲太郎、樽井藤吉らを中心とする自由民権運動の
 左派が組織したが・・、
  これに先立って、大井は、大阪事件の関係者ら急進勢
 力とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成して、
 自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党、小久保喜七、新井章吾ら
 大阪事件に連座した人々と新党を結成するに至った。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので、対外強硬策を軸とした反政府活
 動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行、
  さらに、政綱実現のための機関として普通選挙期成同
 盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおき、労働者、
 貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4、5議会において、4人の代議士を出したが、その過
 激な政策のため議会主義と相いれず、1年あまりの活動の
 のち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らはその後、国民協会、熊本国権党などの国家主
 義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月6日、ホームズ彗星が発見された。
  この年、エドウィン・ホームズが発見した。
  2007年10月24日~25日未明(日本時間)にかけて、ペ
 ルセウス座の付近にあったホームズ彗星は2日足らずの間
 に17等星から2等星台にまで(約40万倍)明るくなった。
  明るく黄色い“星”として肉眼でも容易に見ることが
 できるようになった。
  この様な急激な増光(アウトバースト)は、彗星から
 大量のガス、または、チリが突然放出されたことによる
 ものと説明されている。
  なお、この彗星は、1892年に、発見された時も同様の
 アウトバーストを起こしていた。
1892年11月8日、米国大統領選挙でグロバー・クリーブラン
 ドが勝利し(返り咲き)第24代大統領となる(在任期間:
 1893年3月4日~1897年3月4日)
  ニューヨーク州のグロバー・クリーブランドが、現職
 の大統領ベンジャミン・ハリソンを破って復帰し、アメ
 リカ史の中で唯一返り咲きを果たした大統領となった。
  クリーブランドは、1888年の大統領選挙では、一般投
 票でハリソンに勝っていたが大統領となれず・・、
  1892年では、一般投票、選挙人投票共に勝利した。
1892年11月10日、東京下谷に市村座が開場した。
  市村座は、江戸三座の一つで、江戸時代中期から後期
 にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝
 居小屋だった。
  これを、官許三座とか、公許三座と言った。
  市村座は、1663年頃、興行権を村山座から譲り受けた
 名義1世市村羽(宇)左衛門(3世市村羽左衛門)が創
 設したのに始まる。
  そして、この年に、下谷二長町(にちょうまち、現在
 の台東1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転し
 た(開場式:11月12日)
1892年11月11日、国民新聞、「最暗黒の東京」を連載開始。
  国民新聞に、松原岩五郎の貧民街の様子を取材した「
 最暗黒之東京」の連載が始まった。
  今の日本は、夢のような良い社会になったが・・この
 当時は、まだまだ日本は貧しかった・・この様な社会が
 あった。
  この新聞は、1890年2月1日に、徳富蘇峰が創刊した日
 刊紙で・・、
  記者の松原岩五郎は、スラムに入り込んで、残飯屋の
 様子などを『最暗黒の東京』にまとめた。
  松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ
 15貫目=約56㎏)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目
 およそ5〜6銭ほどで販売した。
  ・・以下、その一節・・
  タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や
 焦げ飯など、膨大な量を荷車で運んだ。
  《この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆そ
 の界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌
 鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならず
 というべく。
  我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(
 じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ご
 とに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重
 箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、
 岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(う
 つわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退
 (ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)か
 ばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て
 来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構
 えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら
 福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言う
 べく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ
 先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭お
 くれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越
 に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に
 譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物
 屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。
  そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等
 は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)
 の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くる
 なれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以
 てす》
  ある日、士官学校からの出物が止まり、「飢饉」状態
 が3日続きました。
  松原は厨房に頼み込んで、豚エサの餡殻、肥料用のジ
 ャガイモ、洗った釜底のご飯などを持って帰ると、人々
 は大喜びで我先にカネを出し始めました。
  松原は、豚のエサに値段をつけて売る自分の姿を見て、
 「世の中で語られる道徳や、行われる慈善は、必ずしも
 本当の道徳や慈善ではない」と痛恨の叫びをあげるので
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:擬制とされた事で、押し通した・・
.
紀元1世紀~2世紀、日本で、この時、既に、字が用いられ
 ていたらしいという証拠が発見された。
  (読売新聞、2017・11・15)によると、福岡県筑前町
 の薬師の上遺跡(弥生時代中期~後期)から完全な形の
 硯(すずり)が出土した。
  専門家は、「弥生時代に、日本で文字が書かれていた
 可能性を示す発見」とした。
  硯は、長さ15.3センチ、幅6.3センチ、厚さ0.9センチ。
  薄い墨の痕跡が数か所あることが分かった。
  現代のような墨だまりはない。
  朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん、粘
 土で固まってできた水成岩で、板状でやわらかく、薄く
 てはがれやすい)製・・、
  そして、形も似ている事から硯だと判断された。
  一緒に出土した土器から1世紀~2世紀とされた。
  これまで弥生時代の硯は、福岡県糸島市の三雲・井原
 遺跡や松江市の田和山遺跡などで破片が見つかっていた。
.
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)
 が生まれた。
  中大兄皇子の和歌に次のものがある・・、
  妹(いも)が家も 継ぎて見ましを
  大和(やまと)なる 大島の嶺(ね)に
  家もあらましを
  万葉集(日本最古の和歌集、巻二・九一)
  〔訳〕愛する君よ、君を、いつも身近に目にしていた
    いのにそれができなくてもどかしい。
     君の家が、大和の大島の嶺(みね)の頂(いた
    だき)に在(あ)って欲しいものだ。
     そうすれば、いつも君のことを目にしていられ
     るのに。
  都(みやこ)が飛鳥(あすか)から難波(なにわ)に
 遷(うつ)って大化の改新(たいかのかいしん)と呼ば
 れる新政が行われていた時のこと・・、
  若き皇太子の中大兄(なかのおおえ、後の天智天皇・
 てんじてんのう)には旧都飛鳥(あすか)に残してきた
 恋人がいました。
  鏡王女(かがみのおうきみ)です。
  いつもその人を身近に感じていたいために、家が山の
 頂上に在ればいいのに・・と、恋人たちは思いもよらな
 いことを思っていた。
  そして、この恋歌を受けとった鏡王女の返歌は・・、
  秋山の 木(こ)の下隠り(したがくり)
  行(ゆ)く水の 我こそ増(ま)さめ
  思(おも)ほすよりは
  万葉集(巻二・九二)
  〔訳〕秋の山々の落葉の下を流れ行く水のように、皇
    子(みこ)をお慕い申し上げるわたくしの心は、
    皇子が、わたくしをお思いくださる御心よりも深
    うございましょう。
     お逢いしとうございます、わたくしも。
  秋の山々の落葉を伝い、流れゆく木の下蔭(したかげ)
 の水は、目には見えませんが、実は大量の水を湛(たた)
 えています。
  王女の歌はその水に、中大兄のへの愛を託したもので、
 黄葉(もみじ)した秋の山々を背景に、深い愛情がつつ
 ましく語られています。
  鏡王女については、近年の発掘調査などにより、舒明
 (じょめい)天皇の皇女で、中大兄の異母妹ではないか
 と言われています。
  王女の御陵(ごりょう)を訪ねた時、遅咲きの満開の
 桜に包まれた王女は千年の眠りについていました。
  (国文学者・石丸晶子氏の文があまりにも美しいので
  参考にさせて戴きました)
.
1866年、アメリカのこの年の南北戦争の後、アメリカが奪
 った新領土と植民地・・、
  アメリカは、本当に、侵略国家だった。
  ミッドウェー諸島(1867年)、
  アリューシャン列島(1867年)、
  アラスカ(1867年)、
  フィリピン(1898年)、
  ハワイ諸島(1898年)、
  グアム島(1898年)、
  ジョンストン島(1898年)、
  ウェーク島(1899年)、
  米領サモア(1899年)、
  パルミア島(1912年)、
  そして、中国の利権獲得へ
.
1905年、ベンガル分割令が出された。
  これは、イギリスのカーソン(インド総督)が出した
 命令で、インドの方々の反イギリス闘争の分裂を狙った。
  しかし、逆に、インドの方々の自治要求運動が激化し
 た。
  しかし、イギリスは、さらに強くベンガル分割令反対
 運動を抑えつけた。
  帝国主義の植民地支配が強まる中で、インドの民族運
 動・反イギリス闘争も力による強い抵抗となって行った。
  イギリスのインド総督を狙ったテロ事件などが起こっ
 た。
  第一次世界大戦が始まると、反イギリス闘争を進めて
 いた革命家は、好機と考えて、武装蜂起を計画するグル
 ープも現れた。
  1915年には、ラホール事件の武装蜂起が鎮圧されて。
  逮捕者が4000人、処刑された方が800人・・という犠牲
 者を出してしまった。
  この時の英雄的な行為者の一人ラース=ビハリー=ボ
 ース氏は、日本に助けを求めた、そして、亡命した。
  これらの過激な反イギリス闘争は、「ガダル(反乱の
 意味)」と呼れた。
  (アメリカの黒人の方々の反抗を、「暴動」と呼ばさ
 れて、悪の印象操作をされたプロパガンダ・嘘宣伝を思
 い出す)
  イギリス当局は、1915年に、インド防衛法を制定し、
 インド人の方々の政治活動の自由を制限した。
  そして、危険人物を予防拘束するという卑劣な事を行
 なってまでして取り締まった。
  インドの方々の抵抗運動が功を奏し、イギリスのイン
 ド担当相のモンタギューは、1917年に、第一次世界大戦
 の後に、インドへ自治権を与えることを約束し、宣言し
 た・・しかし・・
  卑劣にも・・その約束を無視して、イギリスは、一転
 してインド支配の強化に乗り出した。
  1918年には、ローラット法を制定し、翌年、施行して
 弾圧を強化した。
  インドの方々は、反イギリス闘争を激化させた。
  第一次世界大戦(1914年~1918年)の後、民族自決の
 気運が、さらに、高まった。
  新たに国民会議派の指導者となったガンジーによって、
 1919年~1922年に、第1次非暴力・不服従運動(サティヤ
 ーグラハ運動)が盛り上がった。
  1919年4月6日、ガンジーの指導の下に、全国的なハル
 タール(同盟休業)が行われた。
  インド最初の組織的な民族運動が展開された。
  イギリスは必死に弾圧した。
  一部のインドの方々は暴徒化し、アムリットサール事
 件が起きた。
  非暴力主義の指導者ガンジーやネルーは、約束されて
 いたインドの自治権の返還をイギリスへ要求した。
.
1908年3月、アメリカの大艦隊が日本に来た。
  日本を威圧する目的だった(脅し行動)
  また、大艦隊の威勢を世界に誇示する目的だった。
  日本の戦艦が7隻しかない時に、このアメリカの艦隊は
 16隻だった。
  戦艦は白く塗られていた。
  幕末の「黒船」に対して、「白船」と呼ばれた。
  日本は、国をあげて歓迎した。
  横浜に入港した日には、日本の人たちは、小旗を振っ
 て歓迎し、万歳を連呼した。
  アメリカ海軍兵たちは、パーティ攻めにあった。
  また、アメリカ兵たちを乗せた列車が駅に着くと、1000
 人もの小学生が、アメリカ国家を歌って迎えた。
.
1914年、全黒人地位改善協会(世界黒人開発協会アフリカ
 社会連合:UNIA-ACL)が設立された。
  黒人解放指導者の黒人のマーカス・ガーベイは、1887
 年にジャマイカで生まれた。
  アメリカの様な卑劣な黒人差別の無いジャマイカで育
 った。
  1912年(25歳)イギリスのロンドンに向かった。
  1914年(27歳)ジャマイカに帰国。
    ガーベイは、アフリカから来た幾人かの黒人から、
   つぶさに白人のアフリカ侵略の話を聞いた。
    その白人の卑劣な植民地主義と、人種的抑圧に強
   い憤(いきどお)りが沸いた。
    このことから全黒人地位改善協会を設立した。
  1916年(29歳)3月23日、アメリカに渡った。
    黒人のための職業訓練校を、ジャマイカに建設す
   る資金を集めるためだった。
  1916年(29歳)5月9日、ニューヨーク市で最初の講演
   を行った。
    全黒人地位改善協会の本部をニューヨークに移転
   させた。
    そして、機関誌を発行した。
    機関誌名は、「黒人世界(ニグロ・ワールド)」
   と言った。
    彼の運動は、たちまち、多くの黒人の方々の支持
   を集めた。
  1919年(32歳)までに、各地に30の支部を持ち、機関
   誌の「黒人世界」は、たちまち有名になった。
  1922年(35歳)会員数は、アメリカだけで200万人、全
   世界で400万人となった。
   (1920年8月、アメリカで400万人の記述もある)
    しかし、ガーベイの最後は悲惨だった。
    アメリカ合衆国の政治的意図があったと言われて
   いる事だが・・、
  1925年(38歳)ガーベイが投獄された・・そして・・、
  1927年(40歳)釈放され、ジャマイカへ強制送還され
   た。
  1929年(42歳)ジャマイカで初の政党を設立した。
  1935年(48歳)イギリス(ロンドン)へ行く。
  1940年(53歳)6月10日、死去した。
  ・・それから24年後・・
  1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイを、ジャマ
   イカの国民的英雄に選出した。
.
1917年7月17日、白鹿丸(はくしかまる、11,000載貨重量ト
 ン)が進水した。
  浅野造船所(後の日本鋼管鶴見)で建造された大型貨
 物船。
  この頃、日本で建造された汽船の中で最大の白鹿丸が、
 この日に進水した。
  この頃、日本の造船業界は、空前の好景気の中にあっ
 た。
  第一次世界大戦という景気刺激があった。
  軍需品の輸出も急増していた。
  重工業も急速に発展した。
  また、三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、
 造船などの多角経営で急速に力を伸ばした。
  戦争の形態が、国家を挙げての総力戦で行う形になっ
 ていて、これが、この様に関係する世界となった。
.
1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は、
 『人種差別撤廃』提案成立のため、各国と交渉を開始し
 た。
.
1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  この会議で、日本は、「国際連盟規約に、人種差別撤
 廃条項を盛り込む決議」を提案した。
  (あまりにも、白人社会に、有色人種の差別が多く、
 卑劣で、レベルの低い社会が現出していたので、日本は、
 その様な行為を無くそうとして提案した)
  この提案に対して、「白人の移民しか許さないという
 白豪主義のオーストラリア」は、強硬に反対した。
  また、アメリカは、自国の西部諸州が、「勤勉で優秀
 な日本人移民を排斥する運動」を起こしたりしていて、
 有色人種差別をしているという社会情勢からも反対した。
  しかし、日本の正義の提案は、世界の有色人種国家か
 ら賛意を集め、また、注目も集めていた。
  そして、当然、投票の結果は11対5で、日本の提案は多
 数意見となった・・賛成多数だった・・そして、議決さ
 れる予定だったが・・
  しかし、議長役のアメリカのウィルソン大統領が、重
 要な議題は「満場一致を要する」と独断で決定し・・、
  そして、「否決だ」と宣言した。
  日本の当然の正義の提案は、世界から多大な共感を得
 ていたが、「世界の意見とはならなかった」。
  公正な『正義の社会を築く』ことに棹(さお)をさす
 アメリカだった。
.
1919年1月18日、パリ講和会議
  第一次世界大戦の戦後処理のため、パリで講和会議が
 開かれ、そして、ベルサイユ条約が結ばれたが・・、
  日本は、戦勝した五大国(アメリカ、イギリス、フラ
 ンス、日本、イタリア)の一国として出席した。
  戦勝国は、アメリカの参戦で勝つことが出来たので、
 アメリカのイニシアティブによって進められ、最後には、
 アメリカの提案を受け入れた。
  アメリカの代表は、アメリカの最高責任者である大統
 領のウィルソンだった。
  ウィルソンは、14カ条の提案をした・・、
  ・保護貿易の廃止。
  ・軍備の縮小。
  ・民族自決に基づく植民地問題の公平な解決。
  ・あらゆる国家の政治的独立と領土保全を目的とした
   連盟の設立・・など。
  そして、1920年、アメリカの提案どおり国際連盟が発
 足した。
  しかし、アメリカは、提案者でありながら、国内の意
 見統一が図れないという理由で、アメリカは、国際連盟
 に参加しなかった。
  また、苛酷な賠償金の返済を、敗戦国のドイツへ課し
 たため、ドイツは卑劣な巨額のその賠償金の返済に喘(
 あえ)いだ。
  結局、この解決を求めた行為が、まったく無駄となっ
 て、逆に、第二次世界大戦の誘発の原因を作った。
  アメリカの「他の国の意見をあまりにも聞かない独裁
 的な、また、独断的な行動」が、何ら解決を与えた事に
 はならななかった。
  第二次世界大戦の悲劇が、また、生まれる事になった。
  また、卑劣にも、アメリカは提案しておきながら、国
 際的な解決の場である国際連盟に参加しないという状況
 に居つづけた。
.
1921年12月~1922年2月、ワシントン会議、
  この会議で、日本は、不利で、不公正な、海軍主力艦
 の保有率に決められた。
  アメリカ・イギリスの4割も少ない艦船しか持てなくさ
 れた。
  (アメリカとイギリスが連合軍を組めば、日本は、そ
 の30%の主力艦しか持てないという状態に、大幅に制限
 された)。
  だが、日本は、まじめに、よくこの約束を守った。
  また、アメリカの差し金(さしがね、陰から人をそそ
 のかして、あやつること)で、日英同盟が、この時に解
 約させられた。
  また、中国の山東半島を返還させられた。
  日本は、条約や、第一次世界大戦の勝利国としての功
 績として、正式に条約によって得ていたが、返還の圧力
 がかけられ、返還するに至った。
  何故だか、日本だけに、不利な条件が押し付けられた。
.
1927年4月18日、南京国民政府が樹立された。
  1927年4月、上海クーデターを起こした共産党勢力や
 労働組合を、蒋介石は粛正を行なった・・そして・・、
  1927年4月18日、南京に南京国民政府を樹立した。
  (参考)上海クーデター:1927年4月12日、中国におい
     て、北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こ
     していた労働者を、右派国民革命軍(司令官:
     蒋介石)が、武装解除の命令に応じないで抵抗
     したため、デモを行っていた労働者・市民に対
     して発砲し、虐殺した。
  アメリカやイギリスは、この蒋介石が、南京を首都と
 して「南京政府を樹立する」と、これが、中国の中央政
 府だとして承認した。
  この蒋介石の様な軍閥は、中国のあちこちに居たのに
 である。
  何ら蒋介石が中央政府とされる理由も無いのに、アメ
 リカ・イギリスは、南京政府を中央政府だとした。
  まったくのお好み決定だった。
  リットン調査報告でさえ、「中華民国」を「中央政府
 だ」という考え方は、「法的擬制(ほうてきぎせい)」
 に過ぎないとしていた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は異なっているものを、
     法的取扱いにおいては同一のものとみなす。
      そして、同一の効果を与える。
      そして、この擬制は反対の事実の主張を許さ
     ない。
      つまり、この事例では、蒋介石の政府は、実
     質的にも中央政府ではないが・・、
      法的取扱いに於いて、中央政府だとみなし、
     反論は許さない。
  だから、南京政府は、たまたま、外国勢力から中央政
 府だとみなしてもらって、認められているだけだった。
  ならば、満州に居た人たちが、満州国を建国したこと
 と「どこが違うのだ・・?」
  アメリカは、後から、違うと言い出したが・・?
.
1932年3月1日、満州国が建国された(建国宣言)
  中国は、今現在(2017年)、漢民族が政権を取ってい
 る・・毛沢東も漢民族である。
  過去の中国の歴史には、色々な民族が、中国の政権を
 取って来た。
  この中国の地・領域には、種々の民族が政権を形成し
 て来た歴史にあった。
  そして、中国の領域には、昔から今でも、色々な民族
 の方々が居る・・生活している。
  そして、問題は、アメリカ・イギリスが、漢民族の蒋
 介石政権を「中央政府だ」と承認したところから始まっ
 た・・
  (1928年11月に、アメリカが、そして、1928年12月に
 は、イギリスとフランスが・・漢民族の蒋介石を、中央
 政府だとすると都合が良いとして決めた・・漢民族に、
 この領域を与えたこととなった)
  そして、さらに、問題を深刻化しているのは・・この
 アメリカなどの決定に端を発している事なのだが・・
  今・現在の中国の政権の中華人民共和国(中共)の漢
 民族の政治指導者は・・その地に生活し生存している種々
 の方々・民族の独立権を奪っているところにある。
  中国領とされた新疆ウイグル自治区は、この先、ウイ
 グルの「ウ」の字も無くなって中華人民共和国(中共)
 の領土そのものだと主張されるだろう。
  「チベット自治区」もそうだ・・このチベットの「チ」
 の字も無くなるだろう。
  このチベットの地に・・どんどん漢民族が流入してい
 る・・させている。
  人口比が逆転して来ている・・チベット人は排除され
 ている・・殺されてもいる・・どこもかしこも、こんな
 調子である。
  内モンゴル自治区は影が薄くなっている。
  この地域は、大幅な行政区画の変更が行われて中国名
 の省の名が付けられてしまった。
  内モンゴル人民共和国は、一時、可哀想な事に、歴史
 に名を止(とど)めるだけの地位に落され、置かれた。
  かつて、立派な独立国を形成したことがあるこの民族
 の地であるのにである(今は中共に組み込まれてしまっ
 ている)。
  南シナ海も、急に、我が領域だと中共は主張し、国連
 の主要機関である国際司法裁判所が中共の領域ではあり
 ませんよと言ったって、「関係ない」の態度をとってい
 る・・中共とは、このような国なのだ。
  かつて、中国は、万里の長城を築いたが・・その万里
 の長城の先は、「化外の地」で「関係ない地」で、我々・
 中国とは関係ありませんよとした。
  その様な地の・・万里の長城のはるか北の「中国が化
 外の地とした満州」に、「満州人の居住する地」に、日
 本は、手助けをして「満州国を建国した」。
  今・現代、中共は、この歴史に懲(こ)りたのか?
  この地から満州人の方々を追い出した。
  今・現代、チベットで、中共が、チベットの方々を追
 い出し、どんどんと漢民族を送り込んでいるように。
  結局、今・現代、かつての満州国があった地は、今・
 現代、漢民族が多く住む漢民族の中共という国になって
 いる・・ほとんど満州人は居ないという。
  中共は、沖縄も、「俺のものだという声」を発してい
 る声が聞こえるが、時の経過とともに、この様なやり方
 で、今・現代の沖縄の方々は追い出され、漢民族が住む
 沖縄となる可能性は・・否定できない。
  日本の「満州人の方々の満州国を建国した行動」は・・、
  日本は、当時、一番多かった満州人の方たちの国とし
 て独立の手助けをしたが・・「満州人の方たちだけの国
 では無いという理念」を掲(かか)げた。
  「満州人の方たちと共に五族協和の理念」を掲げた。
  「満・蒙・漢・韓・和の五民族が協調して暮らせる国」
 を目指した。
  この理念ゆえに、ユダヤの方々が逃れて来た時も大き
 く手を広げて受け入れた。
  この満州の中に漢民族も入っていて、排除は、当然、
 していない。
  その建国の手続きにおいても、それまで、アメリカや
 イギリスなどの米欧列強の国がやって来た事と同じにや
 り、また、「法と秩序に最大限配慮」してやった。
  アメリカも国連も、最初、何も問題にしなかったごと
 くである。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に学んだ様にして手
 助けした・・法を守る努力をした。
  終始、アメリカや米欧列強の様にやった。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に対する責務である
 とさえしていた。
  日本は、漢民族を追い出してはいない。
  しかし、群雄割拠して、あちこちに出来ていた中国の
 一つである軍閥(張学良)に対してだけは、秩序を保つ
 警察行動を行なった・・責任を果たした。
  中国の蒋介石の国民政府が、国連に提訴し、問題とな
 ったが、この中国の一地方の軍閥の蒋介石が、国連に提
 訴して、問題となった(アメリカ・イギリスが提訴した
 のではない)
  そして、アメリカや国連は、当初の態度と違えて、こ
 の段階から、一方的に自分たちが根拠なく承認していた
 国民政府(蒋介石)側に立った。
  問題は、まったくないのにである。
  問題は、国際事件となった・・仕立てられた。
  満州人の居るこの領域が、歴史的に、漢民族の統治す
 る地となったことが無いという「化外の地としている地」
 を、アメリカなどの米欧列強は、その状況を変えようと
 した。
  しかし、アメリカなどの米欧列強は、中共の前政権の
 清国と条約を結んだ・・そして、その清国は、満州人の
 政権だから、満州王朝だから、満州の領域まで、外国に
 付与された特権が及ぶのだと言った。
  だからと・・ここからアメリカなどの米欧列強の屁理
 屈が始まった・・、
  「だから、(漢民族の)国民政府に、満州まで主権を
 及ばせる権利がある」・・と。
  前記の()部分を、アメリカなどの米欧列強は擬制(
 ぎせい)している。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。法律で、異なるものを法
     律上同じと見なして、同じ効果を与えること。
  結局、アメリカなどの米欧列強は、この擬制で押し切
 った・・筋が通らぬ無理を通した。
  自分たちの利益のために。
  中国(国民政府)は、筋が通らない事が分かっていた
 ので、この主権を主張する事は出来なかった。
  アメリカなどの米欧列強の世界史なんて、どこを見て
 も、その底を掘り下げて行くとどこもかしこも、皆、こ
 んなもの・・無理を押し通す・・
  その基本には、キリスト教の「有色人種への蔑視観」
 と、その裏返しの「白人の優越観」がある(見下し観)。
  これが、すべてを狂わせている・・素直な正義が通ら
 ない世界となっている。
.
1947年7月21日、オランダが、再び、インドネシアを植民地
 にしようと、インドネシアに侵略した。
  このオランダを含む連合国が、第二次世界大戦後の東
 京裁判で、日本を「侵略の罪」で裁いている最中に・・、
  その日本を侵略したと裁く・原告側に立っていたオラ
 ンダは、インドネシアに「露骨な侵略」をしていた、そ
 して、インドネシアの方々を殺戮していた。
.
1965年9月30日、9月30日事件が起きた。
  インドネシアの方々の、その近代の歴史は、オランダ
 の植民地支配の苦痛の歴史だった。
  その苦痛から逃れ出られたのは、インドネシアの初代
 大統領になった国民的英雄・スカルノ氏らの功績だった。
  旧日本軍は、このインドネシアに残り、この推移に大
 いに貢献し、アジア解放の目的の一つを果たした。 
  1000人の日本兵は、日本に帰らず、インドネシアの独
 立戦争を助けた・・、
  国の代表となったスカルノ氏は、当然のこととして、
 オランダの植民地体制を壊した。
  また、アメリカなどの外国企業の資産を接収し、外資
 の排除も図った。
  また、オランダの手先になっていた華人の影響も排除
 し、地場産業の振興を図った。
  自立経済の樹立を目指した。
  アメリカとスカルノ政権は険悪となった。
  アメリカのCIAが、スカルノ政権の転覆をはかって
 いるという「うわさ」も流れた。
  この様な状況の中、イギリスの肝いりでマレーシアが
 建国されると、この国との関係も厳しくなり・・、
  インドネシアは、国連も脱退をせざるを得ない状態に
 なった(国際的孤立化)。
  そして、インドネシア国内の一体化も崩れて行った・・
 アメリカの工作か??
  その様な国内状況から、今でも不明部分が多いが9・30
 事件が起きた。
  この日、大統領親衛隊第一大隊長の率いる部隊が、軍
 事行動を開始した。
  翌日までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ
 局を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、「イン
 ドネシア革命評議会」の設置を宣言した。
  この様な経緯の中で、スカルノ氏からスハルト氏への
 権限移譲が行なわれた。
  そして、この9月30日事件の翌年・1966年2月、インド
 ネシア軍の指導的立場となったアリ・ムルトポ准将が来
 日した。
  そして、佐藤栄作首相、福田赳夫外相と会談した。
  ムルトポ氏は、次のように訴えた・・、
  「東南アジアは、これまで、アメリカ・ソ連・中国の
 代理戦争をして来ました。
  このアメリカ・ソ連・中国を入れないようにASEA
 N(東南アジア諸国連合)という垣根を作ります。
  1967年に、その構想を発表します。
  中国、ソ連、ベトナムに対抗する政治連合です。
  共産国の出方次第では、軍事連合にするかもしれませ
 ん。
  しかし、我々が、政治団体とか軍事団体を結成すると
 言えば、アメリカに壊されてしまうので、当分の間は、
 文化、観光、経済の団体という形の覆面をするつもりで
 す。
  日本にぜひ協力して戴きたい」・・と。
  日本の気付かない新たな動き・・9月30日事件以降の
 インドネシアやマレーシア、シンガポールなど東南アジ
 アのリーダーたちの思いは・・、
  「もうこれ以上、巨大な諸国・・象の様に(アメリカ、
 ソ連、中国)に、我々の士地を荒らされてはかなわない」
 と考え、ピースゾーン(平和地域)としてのASEAN
 建設に一致して動いていた。
  日本は、スハルト大統領体制が発足すると、直ちに、
 大規模なODA(政府開発援助)を供与して、インドネ
 シア政府を支援した。
  1967年、ムルトポ准将の言葉通り、タイ、フィリピン、
 マレーシア、インドネシア、シンガポールと反共を国是
 とする5カ国でASEANが誕生した。
  1976年、総理大臣に就任した福田赳夫は、
 翌年・1977年、東南アジア諸国を歴訪し、マニラで、A
 SEANを全面的に支援する事を約束した。
  この演説は、「福田ドクトリン」として、ASEAN
 諸国から、今でも高く評価されている。
.
1981年1月20日、アメリカと中国は、一体的な軍事関係が
 樹立されている。
  この時に、ロナルド・レーガンが、第40代アメリカ大
 統領になった(~1989年1月20日)・・が・・、
  このレーガン政権時代、マイケル・ビルズベリーは、
 政策計画のための防衛補佐官を務め、「レーガン・ドク
 トリン」と呼ばれる秘密援助プログラムの実施を担当し
 た。
  1975年~1976年に、アメリカが、中国との情報と軍事
 関係を樹立することを勧告する外交政策と国際安全保障
 に関する記事を発表されたが・・、
  このロナルド・レーガンや 、 ヘンリー・キッシンジ
 ャー 、 ジェームズ・シュレシンガーが公式に推薦した
 この提案は・・、
  カーター・レーガン政権時代のアメリカの政策となっ
 た。
  そして、このマイケル・ピルズベリー(米国防総省顧
 問)の言葉・・、
  「かつてアメリカは、日本に黙って中国軍を支援して
 来た」・・と語った。
  (参考)マイケル・ピルズベリー:
  1945年、米カリフォルニア生まれ。
    米スタンフォード大学卒業(専攻は歴史学)後、
   米コロンビア大学にて博士課程を修了。
  1969年~1970年、国連本部勤務を経て、
  1973年~1977年、ランド研究所社会科学部門アナリス
   ト、
  1978年、ハーバード大学科学・国際問題センターのリ
   サーチフェロー、
  1981年、国務省軍備管理軍縮庁のディレクター代行、
  1984年、国防総省政策企画局長補佐、
  1986年~1990年、議会上院アフガン問題タスクフォー
   ス・コーディネーター、
  1992年~1993年、国防総省総合評価局特別補佐官、
  1998年~2000年、国防総省特別公務員(米国国防科学
   委員会)、
  1997年~2000年、米国防大学客員研究フェロー、
  2001年~2003年、国防総省政策諮問グループメンバー、
  2003年~2004年、米中経済・安全保障検討委員会シニ
   ア調査アドバイザー、
  2004年以降、現在も国防総省顧問を続けながら、ハド
   ソン研究所中国戦略センター所長を務める。
     米外交問題評議会と米シンクタンクの国際戦略
   研究所(CSIS)のメンバーでもある。
   著書:『Chinese Views of Future Warfare』『China
 Debates the Future Security Environment』などがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月8日、ラフマニノフ前奏曲嬰ハ短調が、モスクワ
 にて初演された。
  モスクワ電気博覧会の祝賀会において、作曲者(セル
 ゲイ・ラフマニノフ)自身によって、初演された。
  この初演の後、演奏会全体の中からこの曲のみが取り
 上げられ、「熱狂を捲き起こった」との記事が掲載され
 た。
  https://www.youtube.com/watch?v=p9zSyYd04EU
  セルゲイ・ラフマニノフ(1873年~1943年)ロシアの
 作曲家、ピアニスト、指揮者。
  裕福な貴族の家系の出身だが、セルゲイの生まれた頃
 は、一家は、すでに、かなり没落していたようだった。
  セルゲイは、多感な才能を感じさせる子供だった。
  4歳の頃、すでにその才能を気づかされた。
  姉たちの家庭教師が、セルゲイの音楽の才能に気付い
 た。
  そこで、ペテルブルグからピアノ教師が呼び寄せられ
 た。
  しかし、9歳の時、ついに、一家は破産し、所領は売ら
 れた。
  ペテルブルクへ移住し、まもなく両親は離婚した。
  音楽の素養のあった人物・父は、セルゲイの下を去っ
 た。
  奨学金の助けを受け、セルゲイの音楽の才能を目覚め
 させるペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学した。
  しかし、話は順調にはいかなかった・・
  学校を抜け出しスケートをするという状況で、12歳の
 時には、全学科の試験で落第するという状態だった。
  悩んだ母は、親戚のピアニストに相談し、モスクワ音
 楽院に転入する事にした。
  モスクワに寄宿した家=ズベーレフ家のスベーレフは、
 厳格な指導をする事で有名なピアノ教師だった。
  ピアノ演奏の基礎を叩き込まれた。
  また、このズベーレフ邸には、著名な音楽家が訪れる
 という家で、セルゲイは、あの有名なチャイコフスキー
 に才能を認められた、そして、目を掛けられた。
  モスクワ音楽院では、多くの著名な先生から様々な音
 楽的知識を学ぶというセルゲイだった。
  セルゲイが、この様な師のスベーレフ邸を去るのは、
 セルゲイが、作曲への衝動が押さえきれなかったからで、
 この点でセルゲイは、師・スベーレフの作曲の禁止の指
 導と対立した。
  彼は、父方の叔母の嫁ぎ先の家に身を寄せた。
  1891年には、18歳で、モスクワ音楽院ピアノ科を首席
 で卒業した・・そして、卒業生に与えられるという大金
 メダルを得ての卒業だった。
  セルゲイ・ラフマニノフは、この年・1891年、ピアノ
 協奏曲第1番を完成させた。
  1892年には、このモスクワ音楽院の作曲家を卒業し、
 卒業制作として歌劇「アレコ」を書き上げ、金メダルを
 授けられた。
  そして、1892年10月8日、前奏曲嬰ハ短調を初演した。
  聴衆は熱狂した。
  翌年・1893年11月6日、チャイコフスキーが亡くなる。
  セルゲイ・ラフマニノフは追悼のために「悲しみの三
 重奏曲第2番」を作曲した。
  この後の彼・・すべてが順調だったという訳ではなか
 った。
1892年10月12日、アメリカで忠誠の誓いの暗誦が初めて行
 われた。
  (アメリカ) 忠誠の誓いは、アメリカ合衆国への「忠誠
 心の宣誓」である。
  忠誠の誓いは、しばしば合衆国の公式行事で暗誦され、
  アメリカ合衆国議会の会期もまた、忠誠の誓いの暗誦で
 開始される。
  また、アメリカの多くの公立学校では、星条旗を掲げ
 て「忠誠の誓い」というのをしている。
  日本の公立学校でも、同様の事をするべきであるが・・、
 まったくなされる様子はない・・それどころか・・
  日本のNHKに代表されるマスメディアは、『日本貶
 め行為』を盛んに行っている。
  また、キリスト教が、宗教とは別であろうに、日本の
 貶め運動を盛んにしている。
  キリスト教は、日本の国旗である「日の丸掲揚反対」
 し、
  そして、日本の国歌である「君が代の斉唱の反対」を
 している。
1892年10月14日、両毛鉄道会社の旅客運賃改正認可されて、
 賃率1マイル(=1.61㎞)について下等100マイル未満1銭
 2厘、 100マイル以上220マイル未満1銭、 220マイル以上
 8厘、中等は下等の5割増し、上等は下等の2倍半となった
 (11月1日から実施された)
1892年10月19日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複
 線工事が完成し、翌日の10月20日から使用開始した。
  (荒川橋梁の複線工事完成は、1896年4月1日)
1892年10月19日 東京九段の靖国神社(当時:東京招魂社)
 の大村益次郎の銅像が竣工した。
  (除幕式は翌年・1893年2月5日に執行された)
  因みに、靖国神社は、旧称を東京招魂社といい、戊辰
 戦争以降に日本国内外の事変・戦争で戦没した軍人・軍
 属を祭神とする神社。
  また、大村益次郎は、江戸時代の1824年に、長州藩の
 医師の長男として誕生し、オランダ医学を学ぶ傍ら西洋
 兵学を修め、後に、長州藩の兵制の近代化に貢献した。
  西洋式装備の常備軍「奇兵隊」の整備・育成を始めと
 する成果は、幕府軍を撃破した第二次長州征伐における
 戦いで遺憾なく発揮された。
  戊辰戦争渦中の上野戦争では、彰義隊を一日で鎮圧す
 るなどの活躍をした。
  兵制化を指導するなど、後の日本陸軍創設の中心人物
 でもあった。
1892年10月22日 最初の特別大演習が栃木県で開かれ、明治
 天皇陛下が統監(とうかん、統轄し監督すること)され
 た。
  明治天皇陛下が御行幸し、市内向明館が御在所となる。
  天皇陛下の天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大
 演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、およ
 び、近衛師団が参加した。
  総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となった。
  これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は「御幸が原」
 と呼ばれるようになった。
  1892年10月26日、観兵式
1892年10月28日、筑豊興業鉄道会社線が開設され、直方駅
 ~小竹駅間(6.2km)が開業した。
  直方駅は、1891年8月30日に筑豊興業鉄道によって開設
 され・・、
  1899年から、筑豊地区の石炭輸送の拠点駅とするため
 に拡張工事が行われ・・、
  筑豊炭田の各地からやって来る石炭車がここで行き先
 別に編成しなおされて送り出されるようになった。
  13本の仕分け線が設けられ、2つの出発信号機が設置さ
 れ、若松・西八幡・上戸畑へと送り出されていた。
  ヤードに、照明灯が設けられ、昼夜を分かたず列車を
 送り出す作業が行われていた。
  1910年3月には、新駅舎が建設された。
  しかし、第二次世界大戦後は、エネルギー革命によっ
 て石炭の出荷が減少、筑豊地区では1958年から石炭輸送
 が減少に転じた。
  これによって直方駅作業も縮小され、1984年2月1日、
 貨物取り扱いが廃止された。
1892年10月29日、伊沢修二の呼びかけで、国立教育期成同
 盟会が発足した。
  1892年12月に、第一回請願書(東京府伊沢修二以下
 10162名)で帝国議会に提出し・・また・・、
  1893年2月に、第二回請願書を提出している。
  伊沢修二(1851年~1917年)は教育運動家で、高遠藩
 (長野県伊那地方)の下級武士の長男に生まれ、
  1870年(19歳)藩の貢進生(こうしんせい、各藩から
   推薦を受け大学南校に入学下生徒のこと)として大
   学南校に入学した。
  (参考)大学南校:神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡
     に設置された。
      洋学教育を担当し、1870年7月の「本校」閉鎖
     後に制定された「大学南校規則」によれば、外
     国人教師による外国語の課程である「正則」、
     日本人教師による日本語の課程である「変則」
     から構成され、外国語学・西洋地歴・数学など
     を科目とする「普通科」修了ののち法理文の各
     「専門科」に進学することになっていた。
      また、同年以降、各藩からの貢進生募集(259
     藩より300余名)や海外への官費留学生派遣(日
     本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)
     などの施策も行った。
  1872年(21歳)文部省出仕。
   第一番中学幹事、愛知師範学校校長を歴任。
  1875年~1878年(24歳~27歳)師範学科取り調べのた
   め高嶺秀夫、神津専三郎とともにアメリカに派遣さ
   れ、ブリッジウォーター師範学校で教育学を学ぶ。
    帰国後、東京師範学校に勤め、
  1879年(28歳)校長。
   かたわら、体操伝習所主幹、音楽取調掛長などに任
   命され、洋式体操、および、小学唱歌の創始と普及
   に貢献した。
  1886年(35歳)文部省編輯局(へんしゅうきょく)局
   長となり、教科書の編集出版行政に従事。
  1888年(37歳)東京音楽学校初代校長。
  1890年(39歳)国家教育社を創立して社長となり、国
   家教育主義運動を起こす。
   そして、1890年5月、全国教育者大集会の席上、「同
   志ノ人士ヲ糾合シ以テ一社ヲ設クル」よう提案した。
   そして、賛同した教員・教育関係者たちを中心に結
   成された・・そして・・、
   1890年10月、教育勅語発布をうけて、教育勅語の普
   及を活動の中心に据えるとともに、「国立教育運動」
   を主導した国立教育期成同盟会を設立した。
  1891年(40歳)官を辞し、国家教育社に拠り、学制改
   革運動(→学制)、義務教育費国庫負担運動(→義
   務教育)などに挺身。
  1895年(44歳)台湾総督府随員として台湾へ、学務部
   の創設に努力し、
  1896年~1897年(45歳~46歳)学務部長。
   帰国して貴族院議員となる。
  1899年~1900年(48歳~49歳)東京高等師範学校校長。
  1903年(52歳)楽石社を創立し、吃音矯正、視話法の
   普及に尽力した。
  著書:『教授真法』(1875年)、『学校管理法』(1882
 年)、『教育学』(1883年)、『視話法』(1901年)な
 ど。
  1958年には『伊沢修二選集』が刊行された。
1892年10月、豊田佐吉(25歳)が、東京浅草で機屋(はた
 や、反物を作る家、はたを織る家)を開業した。
  豊田佐吉(とよださきち、1867年~1930年)はトヨタ
 自動車へつながる人である。
  日本で最初の木製の豊田式自動織機の発明者、実業家。
  1867年2月14日、静岡遠江(とおとうみ)吉津村に、父:
   豊田喜一郎:機大工(はただいく)の長男に生まれ
   た・・貧農でもあった。
   新学制によって初等教育を受けた最初の世代だった。
   名古屋に出て織物工場の職工となる。
   若い頃から織機改良に関心を持ち、発明家を目指し、
   小型の織機の製作にも打ちこんだ。
  1890年(23歳)木製人力織機を開発した。
   次々に改良織機を生み出した。
  1897年(30歳)豊田式木製動力織機を発明した。
  1898年(31歳)60台の織機で綿布の生産を開始した。
   やがて三井物産の援助を得て事業を本格化した。
  1899年(32歳)自動織機の特許を受ける。
  1905年(38歳)日露戦争終結。
    この後、まもなく発明した軽便で輸入品より遥か
   に廉価な力織機は、地方中小織物業の力織機化を急
   速に推進するうえで重要な役割を果たした。
    佐吉は、小幅の半木製の織機から広幅の鉄製織機
   に至るまで各種の織機を次々に発明し、発表した。
    ものつくりへのこだわりは、佐吉をバックアップ
   した三井物産との意見対立を招くこともあった。
    また、この年、名古屋織布会社を創立し、三井物
   産と中京・関西の資本家が出資して、佐吉と共に織
   機の大量生産と販売を試みた・・成功しなかった。
  1906年(39歳)豊田式織機株式会社を創立した・・成
   功しなかった。
  1910年(43歳)経営陣と対立して独立。
  1924年(57歳)杼換(ちょかん)式自動織機を完成した。
  1926年(59歳)豊田式自動織機が完成し、これを量産
   するために、同年、トヨタ自動車の前身である豊田
   自動織機製作所(現:豊田自動織機)を設立した。
   「世界の織機王」の名声を得た。
  1929年(62歳)マジックルームと称されたこのプラン
   トの特許使用権は、イギリスのプラット社に自動織
   機の特許権を譲渡されたが、その譲渡代金は、自動
   車開発資金に充用され、豊田自動車成立の礎石のひ
   とつとなった。
  1930年10月30日、逝去した。64歳。
   事業家として腕をふるうかたわら、内外150件に及ぶ
   特許を確立した。
   独創的なアイデアとして注目された環状織機は、い
   くつかの特許を得たが、完全に仕上げられないまま
   世を去った。
   勲三等、藍綬褒章を受章。
.
  (今日の言葉)
.
  題:こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、
    忘れることのできない夜の会合は終わった・・アジア解放の一つの顕彰
.
1607年、イギリスが、北アメリカ領土(現:アメリカ)の
 最初の恒久的植民地を建設した(現:バージニア州、ジ
 ェームズタウン)
  1619年、20人のアフリカ黒人の方々を、オランダ船に
   よって、ジェームズタウンへ拉致して来た(イギリ
   ス人たちは、卑劣にも「輸入した」と称した)
    卑劣にも、アメリカに植民して、早々に、黒人の
   方々を人家畜の様に使役して、国づくりを始めた。
    アメリカを創ったのは、「アフリカ黒人の方々だ」
   と言ってよい。
    しかも、1620年のピルグリム・ファザーズが来る
   前である。
    この様な黒人の方々を顕彰する記念堂を建設する
   べきである。
  1620年、ピルグリム・ファザーズと自画自賛する輩た
   ちが来た。
    その者たちの41人が、船上で「メイフラワー誓約」
   に署名する。
    しかし、先住民のインディアンの方々を完全に無
   視していた。
  1641年、マサチューセッツで、「奴隷制度は正しいの
   だ」と法律に決めた。
    国づくりの早々に、奴隷制を合法化するという非
   人道的行為が行われた。
    以後、これが悪例として真似され、他の植民地で
   もこれに倣った。
    アメリカは、最初から奴隷を合法とし、奴隷とさ
   れた黒人の方々によって建設がなされて行った。
  1663年、バージニアで、最初の大規模な奴隷にされた
   黒人の方々の『大規模な反抗行動』が起きた・・当
   然の行動だった。
    アメリカ白人たちは、この異議申し立ての行動を
   『黒人暴動』と破廉恥な言い方をして、黒人の方々
   を弾圧し、蔑視した。
  1672年、イギリスが、王立のアフリカ会社を設立させ
   て、大規模な『奴隷貿易(人身売買行為)』を始め
   た。
    イギリスは、国の政策として、国策として、イギ
   リスという国が先頭に立って、卑劣な行為「黒人の
   方々を拉致して来て、その黒人の方々を物の様に売
   る」という犯罪行為を始めた。
.
1881年10月5日、アトランタ博覧会が開かれた。
  この博覧会には、33の州とアメリカ合衆国外の6つの国
 から1,013点の展示品が集まった。
  しかし、デトロイトの新聞が、自虐的に・・、
  「アトランタの博覧会には、テネシー州のリンチも、
 アメリカの特産物として出品されるべきであった」と書
 いた。
  (リンチ・私刑で、黒人の方々が、黒人蔑視思想であ
 まりにも多く、アメリカのあちこちで殺されていた)
  アメリカでは、卑劣な行為(黒人の方々への殺戮行為)
 が、リンチ(私刑〉として横行していた。
  この様に低劣なアメリカ社会に対し、黒人の知的な開
 放家デュボイスは、リンチ事件に対して・・、
  「我々は、そうしたことに、いつまでも耐えて行くつ
 もりはない。
  仮に、死ななければならぬものなら、(キリスト教の)
 神よ、乾草の様にではなく、人間らしく身を滅ぼさしめ
 よ」と言った。
  キリスト教は、その教義「異教徒は殺せ」と、「有色
 人種への蔑視」によって多くの異教徒と有色人種を殺戮
 して来た。
  そして、黒人のデュボイスは、「せめて人間らしく殺
 してくれ」と叫んだ。
.
1905年9月4日、日本は日露戦争に勝利し、アメリカ東部の
 ポーツマスで、『ポーツマス講和条約』をロシアとの間
 で調印した。
  そして、日本は、1905年10月10日、この講和条約を批
 准し、ロシアは、1905年10月14日に批准した。
  この講和内容で、「日本は、ロシアから南満州鉄道の
 営業権を譲り受けた」。
  (ロシアは、東清鉄道の内、旅順~長春間の南満洲支
 線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡した)
  しかし、まだ、この後も、この満州地域の北には、常
 に、ロシア(ソ連)の脅威が、この後も存続し続けた。
  また、中国は、国民政府軍と共産党軍がぶつかり合い、
 この満州に向かって、南から国民政府軍が、力をおよぼ
 して来ていた・・満州はその様な空白地域だった。
  (南からも、北からも圧迫が続くという状況)
  そして、アメリカにとって・・、革命をした共産主義・
 ソ連は、それまでの帝政ロシアより「ずっと危険な対抗
 勢力」の存在となった。
  共産主義・ソ連は、アメリカなどの『帝国主義を否定』
 した。
  共産主義・ソ連は、帝国ロシア時代のアメリカなどの
 米欧列強との『不平等条約』を認めず・・、
  また、アメリカなどの米欧列強が、特権を享受してい
 るシステムの『基盤そのものを否定』し、直撃した。
  そして、中国の蒋介石・国民政府が、アメリカなどの
 米欧列強にとって都合がよく・・、
  そして、中国・国民政府の蒋介石が、南京に軍事政権
 を樹立すると、これを中央政府として承認した。
  これは、中国のおけるソ連勢力を弱める目的もあった。
  そして、これでも、アメリカなどの米欧列強は、中国
 国内に高まって来ている民族主義による、外国人排斥運
 動の高まりを恐れていた。
  また、これまで、アメリカなどの米欧列強が、帝国主
 義の直接手段で、中国から奪って来た以上の「力と革命
 的スローガン」で、ソ連が、中国の権益の獲得行動をす
 るのではないかと恐れた。
  この様な状況の中で、満州事変が起きた。
  また、この頃、アメリカなどの米欧列強が、中国での
 権益を守り、権益を拡大しようとする行動において、ア
 メリカなどの米欧列強同士の対立が生じていて、潜在的
 な大きな問題となっていた。
  争っているのは、ただ単に、日本と中国という構図で
 はなかった。
  ロシア革命によって、より攻撃的なソ連が生まれ、そ
 のソ連が加わったという複雑な様相の中国だった。
  満州事変を、アメリカなどの米欧列強が承認した「中
 国・南京政府」が、国際連盟に提訴したことにより、こ
 の事のみが、特に、国際舞台の上に上がり、とやかく論
 議されることとなった。
  この満州鉄道だって、アメリカなどの米欧列強も、利
 権(鉄道租借権)を中国から得ていた。
  日本も、同じ様に条約によって、正式に、また、法的
 に得た合法的財産となっていた。
  アメリカなどの米欧列強が、その自国の財産を守るた
 めに、中国に軍隊を駐留させているが・・これと同じよ
 うに、日本も軍隊を駐留させていて、そして、それは、
 何らおかしなところがある訳ではなかった。
  (日本は、条約によって正当に駐留させている訳であ
 って・・侵略なんかではない)。
  アメリカなどの米欧列強は、上海、天津など、あちこ
 ちに軍隊を駐留させ、軍艦を中国の河川に往来せさてい
 るという状況だった。
  満州事変も、日本の財産を守るための警察行動だった。
.
1910年~1930年、第一次大戦の頃より、アメリカ南部の黒
 人の方々は、ブラック・ベルトと呼ばれたその地帯から、
 アメリカ北部の都市へ移住した。
  ジェームス・アレンは、その数を、100万人以上にのぼ
 ると推定している。
  しかし、この黒人の方々も、北部において差別された。
  都市生活に慣れていない彼らに待っていたものは、「
 南部も、北部も変わらないアメリカの人種差別」だった。
  キリスト教に洗脳された差別だった。
  賃金は安く、住居も「ゲットーと蔑(さげす)み呼ば
 れた隔離された貧民街の一区域」に押し込められた。
  住む自由も与えられなかった。
  「日本を貶めるだけのNHK」は、決してこの様な事
 を放送しない。
  1919年の夏を頂点として、この頃に頻繁(ひんぱん)
 に起きていた黒人の方々の抵抗行動は、こうした社会的
 背景があった。
  1919年7月のシカゴで起きた人種反抗は最大であった。
  黒人の方々の「栄光の抵抗行動」の歴史的事実となっ
 ている。
  逆に、白人アメリカ人にとっては、非人道的行為・差
 別をしたという「歴史的汚点」となっている。
  この時、白人アメリカ人は、黒人アメリカ人を差別し
 て「黒人の方々が、泳いではいけないという海」を勝手
 に決めた。
  17歳の黒人青年は、イカダに乗って遊ぶうちに、知ら
 ない間に、うっかりこの地域に入ってしまった。
  これが始まりだった。
  黒人青年は、何ら悪くは無かった。
  この様な区域を作った白人アメリカ人に「すべての悪
 さ」があった。
  しかし、黒人青年は、白人アメリカ人たちに殺されて
 しまった。
  黒人の方々の抗議の嵐は3日間も続いた。
  人種戦争の様相と化した。
  そして、23人の黒人の方々が殺され(白人の死者数は
 15人)、傷つけられた黒人の方々は1342人(白人178人)・・
  また、数百軒の黒人の方々の家屋が焼き払われた(焼
 かれた白人の家屋は・・ほとんどなし)。
  因みに、この年、日本は、国際条約の場で、「人種差
 別撤廃」を提案している。
  1919年1月14日に、パリに到着した日本全権団は、人種
 差別の撤廃提案を成立させるために、各国と交渉を開始
 した。
  しかし、米欧各国の思惑から成立しなかった。
  そして、このアメリカで差別を受けていた黒人の方々
 は、この講和会議の日本の人種差別撤廃案に期待をして
 いた。
  日本の説明で・・うまく運んでいたが、アメリカのウ
 ィルソン大統領が『議長裁定』により法案を成立させな
 かった。
  この事に対し、アメリカ黒人の方々は、自国政府の行
 動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発させ、その卑
 劣さを訴えた。
  悲しいかな・・この行動においても、多くの黒人の方々
 の多くの命が失われた(この様な事を放送しないNHK
 ・・日本を貶める放送はよくするNHK)
.
1927年3月24日、南京事件
  こう名付けられる事件を、アメリカは起こした。
  アメリカは、中国・南京で、アメリカ戦艦を使い、南
 京砲撃の武力行使をしている。
  日本領事館などを含む外国領事館と居留民に対する砲
 撃だった。
  日本の政策は、この事件によって大きく変わった。
  その意味で、重大なアメリカの武力行使だった。
  しかし、アメリカは、自国民を守る「警察行動だ」と
 言った。
  (しかし、これと同じ様な事変である、満州事変は、
 警察行動ではないと、アメリカは主張した)
  (参考)事変は、「異常な出来事」のこと、そして、
     「非常の出来事」のこと)
  満州事変は、当初、アメリカは何も言っていなかった
 が・・後になって、このトラブルのことを過大に扱った。
  アメリカは、後になって、「ことさら大きくしたい」
 アメリカに変わった。
  この頃、中国は盗賊だと言い訳を言うが、中国・正規
 軍がトラブルを、色々と起こしているという時世だった。
  また、この事件の3日前の1927年3月21日には、中国の
 国民政府軍(蒋介石軍)は、上海を占領している。
  そして、この日の前日の1927年3月23日には、南京を攻
 略しようと「南京城を包囲」している。
  完全に、中国・国民政府軍とアメリカは、共同戦線を
 張って、中国において日本を攻めて来ていた。
  宣戦布告なしの、アメリカの中国における「日本との
 戦端が開かれた事実」の一つである。
.
1927年、中国革命軍が、イギリスの租借地を攻撃して取り
 返した。
  中国は、漢口と九口を、1861年に、イギリスの租借地
 にされ・・、
  1898年には、その租借地領域を拡張されているが・・
  1927年のこの時、中国革命軍は、この租借地を攻撃し、
 イギリス軍を駆逐し、この地を取り戻した。
  アメリカは、満州事変を、「日本が侵略した」と言い
 つのるが、中国にしてみれば、アメリカなどの米欧列強
 の方が、広い地域を奪っていて、ひどいと感じていた。
  この戦闘は、この中国の不満が爆発した戦いだった。
  因みに、アメリカは、上海、天津、温州に租借地を持
 っている。
.
1928年、中国・清朝が滅亡した後、中国各地には、私兵を
 抱(かか)えた軍閥が群雄割拠した。
  孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦
 い国内統一を目指した・・『戦国時代の様相』だった。
  そして、1928年、蒋介石は、北京を抑えて新政府を樹
 立した。
  今・現代、まだ、その様な戦国時代から、中国は100年
 も経っていない・・
  その様な国・・文化は熟成していない・・
.
1929年10月24日、アメリカに始まった世界恐慌は、世界を
 経済的混乱に陥(おとしい)れ、苦しめた。
  1922年に、イタリアに「ファシズムの政府」が生まれ、
 独裁政治を始めた。
  これが、ムッソリーニのファシスト党だった。
  そして、1935年に、このファシズムのイタリアは、エ
 チオピアへ侵攻した。
  そして、このファシズムが、1929年の世界恐慌後、経
 済混乱に苦しみ、経済的に困窮する国々に広がった。
  アメリカ発の恐慌は、この様な世界を現出した。
.
1929年、大きくなるナチス党
  ドイツは、第一次世界大戦後、巨額な賠償金を背負わ
 されて苦しんだ。
  物価は高騰した。
  庶民は生活に苦しみ、不安の中に暮らしていた。
  ここに生まれたのが「ヒトラーの率いたナチス党」だ
 った。
  ヒトラーは、「民族の栄光の復活」を掲げた。
  国民も賛同して行った。
  1929年に始まった世界恐慌は、ナチス党を大きくした。
  恐慌によるドイツ経済の悪化と・・、
  ベルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が
 合意されると、ドイツ国民の反発を呼び、ナチス党は支
 持を集めて行った。
  (ヤング案は、1929年9月1日に遡及して適用された・・、
  ドイツの支払いは遅滞した。
  また、世界恐慌の経済混乱の影響があっても・・、
  当事者各国の協調によって、このヤング案は堅持され
 た)
  1932年7月、選挙でナチス党(ナチ党)は、全584議席
 中230議席を獲得し、ついに第一党となった。
  そして、翌年の1933年1月30日には、ヒトラーのナチス
 党は、政権を握り、ヒトラー内閣が発足した・・そして、
 独裁体制を作った。
  ここから酷い世界史が始まった。
  切っ掛けは、アメリカから始まった世界恐慌と第一次
 世界大戦のドイツに対する苛酷な責任追及だった。
.
1930年、世界恐慌、日本に波及、不況状態となる(前年の
 1929年に起きたという説がある)、
  日本の農村は、アメリカ向けの生糸の輸出額が激減し
 たことによって・・、
  農村の暮らしは、極限の貧しさに一気に転落して行っ
 た。
  この昭和恐慌・・娘を身売りさせるという悲しい話も
 聞いた・・まだ、日本は発展途上の国だった・・
  ほぼ1932年頃まで続く・・、
  この年・1930年、ロンドン軍縮会議で、日本は、不利
 な協定を受け入れざるを得ない状況となった。
  軍部から不満の声が出た。
  また、政府が、野党から厳しく攻撃された。
  この様な世情不安の時、浜口雄幸首相は、暴漢に襲わ
 れ重傷を負い、そして、1831年8月26日、死に至った。
  経済も波乱状態の上に、政治も波乱の時代だった。
.
1931年9月18日、アメリカやヨーロッパの列強諸国は、初め、
 満州地域への関心は「まったく無かった」・・
  ほとんどと言ってよいほど「関心の欠片(かけら)」
 も無かった。
  だから、当初は、アメリカは、日本の行動を、当然、
 侵略だなんて言っていない。
  その様な歴史的記録は一切ない。
  アメリカは、後になって、都合で「侵略だ」と言い出
 した。
  当初は、アメリカは、ただ単に、日中双方に、事変の
 戦闘を停止するように求めただけに過ぎなかった。
  また、同様に、国際連盟も、同じ様に、戦闘の停止を
 求めたに過ぎなかった。
  そして、国際連盟は、それ以上を問題としないで「休
 会に入ってしまった」ほどだった。
  そんな調子だった・・が・・後から、火がついたよう
 に日本を攻めて来た・・
.
1931年9月18日、そして、アメリカは、この時の満州事変が、
 後になって、自国に有利に使えそうだと、ことさら過大
 に取り扱われてしまう様になった。
  アメリカはじめ米欧列強の植民地で起きたことは、国
 内の事件として処理されていたが・・ことさら、日本の
 事は過大に取り扱われた。
  特に、この満州事変がそうであった。
  中国が国連に提訴したが、アメリカなどの入れ知恵の
 感がする。
  例えば、イギリスは、植民地のインドで、インドの方々
 を、さも猛獣狩りをするようにして、インドの方々を、
 毎日のように、殺戮していたが・・、
  また、道の木々に、インドの方々を吊るして殺し、そ
 のままの「吊るしたまま」にして・・インドの方々は、
 同胞の方々のその様な状態を、毎日、見せつけられると
 いう状況だった・・が・・、
  また、アメリカは、フィリピンで、60万人ものフィリ
 ピンの方々を殺戮するという様なことをしていたが、
  これらが、国連で討議されるようなことはなかった。
  国内問題とされ、「警察行動によってだ」とされた。
  しかし、満州事変は、ひたすら拡大的に取り扱われた。
  アメリカなどの米欧列強の思惑通りの推移だった。
.
1933年5月31日、塘沽協定(とうこきょうてい)が、この時、
 河北省塘沽において日本と中国との間に締結された(停
 戦協定)。
  これによって、柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的
 衝突は停止された。
  この中国との停戦協定が結ばれ・・1934年3月1日には、
 溥儀(ふぎ)が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行
 した。
  国務総理大臣(国務院総理から改称)に、鄭孝胥(後
 に張景恵)が就任した。
  満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのも
 と、満州には、日本の重工業が発展したりして、経済成
 長をした。
 中国人が、著しくその様になった満州へ流入して来た。
  (参考)五族協和:ごぞくきょうわ、満州国の目指し
     た理念で、「和(日)、韓、満、蒙、漢(支)」
     の五族が協調して暮らせる国を目指した。
  (参考)王道楽土:おうどうらくど、満州国の建国理
     念で、アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武
     による統治(覇道)ではなく、東洋の徳による
     統治(王道)で造るという意味。
  この地域は、荒野も多かった・・種々の民族が住む地
 でもあった。
  ロシアが不凍港が欲しくて模索し、ウスリー河、アム
 ール川流域を手に入れたりした様に、確定的な地ではな
 く・・、
  また、近年まで、中国とロシアが国境で揉めたがごと
 くの状況であった。
  また、必ずしも、中国の領土という事でもなく・・、
  しかし、ここに先住する多くの民族の独立の権利は、
 喪失させられてしまった。
  今・現在、満州国があった地には、ほとんど満州人は、
 居なくなってしまった状態だという。
  チベット人の方々が、チベットに居られなくなってい
 る様に・・
  因みに、万里の長城のはるか北方のこの地は、中国は
 「化外の地としていた」。
.
1935年、アメリカ外高官のマクマリーの中国情勢について
 の見解・・、
  「人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法
 的義務を軽蔑し、目的実現のために向こう見ずに暴力に
 うったえ、挑発的なやり方をした。
  そして、力に訴えようとして力で反撃されそうな見込
 みがあるとおどおどするが、敵対者が何か弱みのきざし
 を見せると、たちまち威張り散らす・・
  中国に好意を持つ外交官たちは、中国が外国に対する
 敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ、一二の国が
 我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをしてくれるだ
 ろうと説き聞かせていた」。
  また。。、
  幣原喜重郎(元外務大臣)の中国の外交に対する見解・・、
  「日本は、不平等条約の辛酸をなめ、その撤廃を図(
 はか)るにあたっては、列国を攻めるよりもまず己(お
 のれ)を攻めた。
  打倒帝国主義などと叫ばずして、まず静かに国内政治
 の革新に全力を上げた。
  帝国主義時代において、我々の先輩の労苦は容易なら
 ざるものがあったが、国内の近代化が達成されると、列
 国は快く対等条約に同意した。
  日本は、外国人が治外法権を享有(きょうゆう、当初
 から、初めから持つこと)した時代でも、列国の帝国主
 義を呪うことなく国を進歩させた。・・
  我々は、必ずしも日本の先例の通りにしろという訳で
 はないが、シナ(中国)が早く平等の地位を占めること
 を望むがゆえに、同国官民の自重を求めざるを得ない」。
  中国に、ロシア革命の影響を受けて外国人排撃の暴力
 が横行していた頃に対する言葉・・、
.
1936年12月12日、西安事件
  西安(シーアン)は、中国・陝西省(せんせいしょう)
 の中心都市で、古都・長安である。
  中国・共産党は、抗日で国共両党が協力することを呼
 びかけた。
  しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そ
 の後に、日本軍と戦うという方針を変えなかった。
  国民党軍の戦いの方針は次第に変わって行く・・、
  中国国内には、ロシア革命に刺激されて、外国勢力の
 排斥の風潮があったが・・、
  アメリカに武器・弾薬を供給されている国民党軍は、
 当然、外国勢力の米欧は敵ではなく、外国勢力で日本だ
 けを敵として認識させられて行く。
  共産党軍は、圧倒的な兵力を持つ国民党軍に追い詰め
 られた。
  満州地方の軍閥で、日本軍に駆逐された張学良は、蒋
 介石に、共産党及び共産党軍を討伐する事を命令されて
 いたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していた。
  張学良は、1936年12月12日、蒋介石を西安で監禁した
 (西安事件)。
  そして、共産党との内戦の停止を迫った。
  そして、強引に同意させてしまった。
  この様に拘禁された蒋介石が西安に来た理由は・・、
  共産軍が、国民政府軍の共産党の討伐戦により21万人
 から7万人まで大幅に勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省
 に追い詰められていた。
  このため、蒋介石は、共産軍を殲滅する最後の軍議を
 西安で開いて、20個師団と100機を超える航空機を投入し
 て2週間から1月間以内に、8年間にわたる対共産党軍戦を
 終わらせようとしていた。
  蒋介石の言葉(将軍たちへの訓示)・・
  「剿匪(共産党軍を殲滅する意味)の完全成功まで、
 いまや最後の5分間の段階に来ている。
  各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動して
 ほしい」・・と、繰り返し命令した。
.
1937年12月、中国の国民政府軍の蒋介石が、南京が陥落し
 たので、さらに、中国奥地の重慶へ首都を移した。
  そして、対日戦を続けた。
.
1947年7月21日、オランダが、インドネシアに侵攻した。
  オランダは、戦後、インドネシアを再び植民地としよ
 うと不当な戦争をした・・それは侵略戦争と言えた。
  オランダはインドネシアを侵略した。
  日本によって、インドネシアを追い出されていたオラ
 ンダは、そのままで過去300年以上の甘い汁を吸い続けた
 利権をあきらめるような国では無かった。
  (参考)オランダは、日本へ、1941年12月10日に、宣
     戦布告した・・そのため、日本は、インドネシ
     アのジャワ島へ上陸部隊を送った。
      オランダ軍は、1942年3月10日に、日本軍に
     全面降伏した。
      日本は、オランダ軍に監禁されていたスカル
     ノ(後のインドネシア大統領)やハッタなどの
     指導者を解放し、協力体制を取った。
  卑劣にも、オランダの副総督ファンモークは、スカル
 ノの独立宣言を無視した。
  そして、インドネシアの港町スラバヤに、イギリス軍
 とともに上陸した。
  欧米列強は、いつも、卑怯である・・弱小国に、いつ
 も、この様に連合を組んで侵略する。
  (街のやくざが群れる様に・・日本も、まだ近代化し
 ない幕末に、これでやられ、大金をむしり取られた)
  オランダのファンモークは、「インドネシア人は、日
 本軍が降伏した現在、オランダ軍が上陸すれば、インド
 ネシアは、直ちに、元通り従順な植民地になるに違いな
 い」と考えた。
  しかし、「インドネシアは、日本軍によって羊が虎と
 なっていた」とオランダは驚愕した。
  (日本は、すでに、自衛ができるようにと、インドネ
 シア軍を教えていた(郷土防衛義勇軍・ペタの育成)・・
 それは、オランダの差別的な弾圧政策と雲泥の差があっ
 た)
  イギリス軍は、連合軍の管轄として、日本兵の武装解
 除、本国輸送などの役割を果たすために来たという名目
 もあったのだが(言い逃れ)・・このインドネシア独立
 戦争に関わり、大きな犠牲を出した。
  それ故、1946年11月になって、軍隊を撤退させた。
  しかし、オランダは諦めなかった。
  1947年7月21日に、戦車、飛行機、機関銃で武装した部
 隊約10万人を投入した。
  (この後、オランダは、1948年12月19日にも、二度目
 の大規模侵攻をする)
  そして、大規模な攻撃に出た。
  インドネシア共和国軍は独立に燃えていた。
  しかし、兵員こそ200万人もいたが、武器は、大東亜
 解放の旧日本軍から秘密裏に渡された小銃4万丁ほどに
 過ぎず、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。
  オランダ軍は、瞬く間にジャワの大部分と、スマトラ
 油田地帯を含む産業地帯を占領した。
  オランダの「明らかな侵略戦争」は、世界中の非難を
 浴びた。
  国連安保理は、「オランダの敵対行動の即時停止」と
 「平和的手段での解決」の決議案を採択した。
  しかし、オランダは、この決議案を受け入れて、停戦
 に応じるかと見せかけたが、占領地域からの軍隊撤退を
 拒否した。
  外交交渉は暗礁に乗り上げ、局地的戦闘が続くという
 状態だった・・
  国連決議なんて何の役にも立たない状況だった。
  1948年12月20日、オランダは、再度、空挺部隊による
 第二次攻撃を開始し始めた。
  オランダとのインドネシア独立戦争では、日本軍人の
 数千人が、戦後も、インドネシアに残って、インドネシ
 ア軍を助け、共に戦った。
  その日本人英雄の中には、インドネシア国立英雄墓地
 に祀られている人々もいる。
  国際世論は、特に、インドを始めとするアジア諸国は、
 オランダによる都市の無差別爆撃に激しい非難を浴びせ
 た。
  (アメリカが、日本にも散々やった、無実の市民が居
 る都市の無差別殺戮爆撃である)。
  国連安保理も、1949年1月28日、オランダに対して、イ
 ンドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。
  アメリカ議会の中では、これ以上、軍事行動を続ける
 ならば、マーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済
 復興援助)を打ち切るべきだという声が出た。
  これが、最終的にオランダを諦めさせた。
  結局、国連による非難決議だけでは、オランダの侵略
 に対する有効な阻止手段とは・・悲しいかな・・ならな
 かった。
  3年半の独立戦争で、インドネシアが払った犠牲は、
 死者:80万人、負傷者:1000万人を超えた。
  しかし、オランダは謝罪するどころか、戦費を賄(ま
 かな)うためにオランダが発行した軍票60億ドルのイン
 ドネシア政府による弁済、オランダ人官吏への恩給支給、
 オランダ人所有の不動産の権利承認などを要求した(臆
 面もない不当な要求)
  (参考)臆面もなく:おくめんもなく、遠慮すること
     なく、図々しく・・
  インドネシア政府は独立確保のために、オランダの要
 求のすべてを呑んだ。
  ここまでしてから、やっと、再度の侵略の心配がなく
 なった1963年に、インドネシアは、「オランダの要求を
 否認する」という声明を出した。
  その時の外相であったルスラン・アブドルガニー氏は、
 次のように語った・・、
  「インドネシアは、ようやく力がついてから、全世界
 の見ているところで、オランダとの約束を全部破り捨て
 ました。
  つまり、植民地主義と戦うには力がなければ勝てない
 のです。
  オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が
 与えてくれたおかげで我々は独立することができました」
 と語った。
  エピソード・・、
  1945年8月16日の終戦の翌日、前田精海軍少将は、スカ
 ルノとハッタを自らの公邸に受け入れ、インドネシア独
 立宣言の打ち合わせを行った。
  この会議は、8月16日23時から始まり、翌・8月17日の
 午前2時過ぎまで続いた。
  会議には50人ほどが出席していた。
  その間にも、多数の青年グループ達が会議の結果を待
 っていた。
  日本人は、前田の他に日蘭商業新聞記者・吉住留五郎、
 第一六軍軍政監部司政官・三好俊吉郎、海軍嘱託・西嶋
 茂忠が同席した。
  後に、インドネシア共和国初代外務大臣となるスバル
 ジョは自著の中で、1945年8月17日未明に行われた独立
 準備委員会による独立宣言に関する会合について・・
  「こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、忘
 れることのできない夜の会合は終わった」と述懐してい
 る。
  1976年(昭和51年)、前田は、インドネシアの建国功
 労章を授与された。
  アジア解放の大東亜戦争の一つの顕彰であった。
  (参考)顕彰:けんしょう、功績などを一般に知らせ、
     表彰すること。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:*(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年9月、ロシア皇帝のアレクサンドルⅢ世は、シベリア
 鉄道建設反対派の蔵相・ヴィシネグラツキー(1849年~
 1915年)を更迭した。
  この当時、ロシアは首相職がなく、蔵相職が事実上の
 政府の最高責任者だった。
  シベリア鉄道の建設計画は、1882年に、アレクサンド
 ル3世によって決定され、
  1891年から実行に移された。
  (全長8000キロに及ぶ膨大な計画で、建設費が巨額の
 ための着工遅れた)
  この時の蔵相がヴィシネグラツキー。
  このヴィシネグラツキー蔵相は、財政均衡を重視し、
 鉄道建設に、終始、難色を示して来ていた。
  しかし、皇帝は、人口の稠密(ちゅうみつ、ちょうみ
 つ、隙間もないほど多く集まっていること)状態の改善
 と、
  当時、中国において、イギリスとドイツが半植民地化
 して、美味しい汁を吸い、勢力拡大していた。
  これに、対抗して加わりたいとした(このロシアと、
 この後、日本はぶつかる)
  また、イギリスは、アムール河やウスリー河の地域を
 も侵略・拡大しつつあり、覇権を獲得しつつあった(中
 国の最大の植民地獲得国・イギリス)
  この地域の人口1200万に対して、ロシア人7万3000人
 (0.6%)という、ほとんど居ないという状況だった。
  しかし、ロシア皇帝は、鉄道敷設によって、この地域
 の領土確保をしたいとした。
  皇帝は、建設着工式に、皇太子のニコライ2世を出席さ
 せ、日本にも立ち寄らせ・・大津で暴漢に襲われる事件
 が起きた。
  ロシア経済は、急成長していたものの、まだ、植民地
 収奪の先輩の西洋列強諸国に比べると劣っていた。
  皇帝は、鉄道反対派のヴィシネグラツキー蔵相を解任
 し、鉄道建設を良く知るウィッテを蔵相に任命した。
1892年10月1日、小包郵便業務が開始した。
  小包郵便取扱(小包郵便法を実施した)
  日本は、郵便制度の超先進国で、日本において通信制
 度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した
 「大化の駅制」だった(645年の大化の改新時に、唐にな
 らって日本は始めた)。
  この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚が出現
 する。
  戦国時代には、大名の書状送付に飛脚が頻繁に利用さ
 れるなどの発達を経て・・、
  徳川時代(江戸時代)には、幕府の整備により、武家
 や町人までもが利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度
 が発達した。
  また、幕末期には、開国され、各国領事館も設置され、
 その公文書が蒸気船や軍艦によって運搬させた。
  また、日本国民の手紙も便乗させた(領事館郵便)
  そして、これが、業容を拡大し、独立の局舎を設けて
 専任の従業員を抱えた。
  これが在日外国郵便局で、アメリカ・イギリス・フラ
 ンスが、横浜・兵庫・長崎に持った。
  この在日局は、各国の郵便ルールに従った。
  切手販売、手紙引受、押印という基本的な業態が行わ
 れた。
  因みに、横浜の居留地では、サザーランド切手が使わ
 れた。
  明治時代に入って郵便となり・・、
  1870年5月、駅逓権正となった前島密が、太政官に郵便
 制度の創設を建議した。
  1870年6月、前島が上野大蔵大丞に差添し、渡英したこ
 とで、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲
 と各地の官史に引き継がれた。
  1871年1月24日、「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃
 銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する
 一連の太政官布告が公布された。
  1873年、そして、特に、それまでの法制を改めた1873
 年の郵便規則が布(し)かれ・・、
  1882年、郵便条例・・そして・・
  1892年、小包郵便法が補完された・・そして・・、
  1900年、旧郵便法が、明治憲法下で公布され、統合さ
 れて、近代的な郵便法制が確立した。
  日本は、郵便事業は、大切な国家事業であるとの認識
 で精力的に進められて来た。
1892年10月1日、乗車綴切符取扱手続を制定し、施行した。
  「綴切符」は、1冊100枚つづりで、上・中・下等に共
 通して使用できた。
  乗車区間・運賃など、発売の都度、記入する方式だっ
 た。
1892年10月1日、両毛鉄道会社が、日本鉄道会社への業務委
 託を解除して、業務の自営を開始した。
  両毛線は、関東平野の北部を東西方向に結び、栃木、
 佐野、足利(あしかが)、桐生(きりゅう)、伊勢崎(いせさ
 き)、前橋などの都市を連ねているが・・、
  これ等の都市は、江戸時代から機業地(きぎょうち、
 絹・木綿その他の布を織る事業地)として知られ、
  この地域を相互に連絡する目的で、1888年~1889年、
 両毛鉄道によって開業した。
  (新前橋~前橋間の一部は、1884年に、日本鉄道によ
 り開業する)
  そして、日本鉄道への統合を経て、1906年に国有化さ
 れた。
1892年10月1日、シカゴ大学が開校した。
  アメリカのイリノイ州シカゴにある私立大学で・・、
  1890年に創立された。
  ロックフェラー財団の経済的援助と、初代学長ウィリ
 アム・レイニー・ハーパーをはじめ、歴代学長の識見や
 指導力によって急速に発展した。
  都市社会学を開拓・推進したシカゴ学派。
  初代総長W・R・ハーパーは、真の学術研究中心大学
 の創造を目ざし、学部課程のカレッジ教育、大学院教育、
 専門職業教育、地域社会へのサービス奉仕、大学出版部
 活動など、高等教育の活動と考えられるものはすべて大
 学に取り込もうとして取り入れ、研究重視の新しい総合
 大学の創造に尽くした。
  1896年、教育実験学校を設置
  1919年、オリエント研究所が設けられ、
  1920年代、シカゴ学派と呼ばれる都市社会学の研究者
   が輩出・・、
  1929年、30歳で第5代学長になった教育学者ロバート・
 R・ハッチンズ(1899年~1977年)は・・、
  古典による一般教育カリキュラムを導入、ジョン・デ
 ューイの教育実験学校の設置、四学期制の創始(クォー
 ター制)、成人のための公開講座やプログラムの開始、
 大学前期教育としてのジュニア・カレッジの考え方、女
 性に対する平等な教育や就職機会の開放(シカゴ・プラ
 ンによって特色あるカレッジ教育)を行なって、アメリ
 カ高等教育の先駆けとなったことから大学の名を高から
 しめた。
  大学の課程、研究分野として生物、自然、社会、人文
 などの科学領域 (学部、大学院共通) があり、大学院の
 専門部門として商学、神学、法学、医学、社会事業など
 がある。
  また、成人対象の経営など実学系プログラムも含む一
 般教養を学ぶグラハム・スクールも擁している。
  そして、学部課程よりも、大学院レベルの学生数が圧
 倒的に多い。
  図書館、研究所、病院などの諸施設を有し、成人教育
 講座、通信講座も置かれている。
  2003年現在、教員数2160人、学生数約1万3400人(学部
 課程の学生は約4400人)。
1892年10月4日、乾電池の発明
 世界で初めて、日本人の屋井先蔵(やいさきぞう)が、
 完全な乾電池を完成させ、特許を出願した。
  佐久間象山(1811年~1864年)は、すでに、日本人とし
 て初めて電池(ダニエル電池:液体式か?)を製作してい
 たが・・、
  1863年、世界に誇る日本人による乾電池の発明者:屋
   井先蔵が、新潟県長岡の越後長岡藩士屋井家に生ま
   れる。
  1869年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られる。
  1875年(13歳)東京の時計店の丁稚となるが、病気の
   ため帰郷する。
    そして、修理工として年季奉公をした後、東京高
   等工業学校(現・東京工業大学)の入学に臨むが失
   敗。
    独力で永久自動機などの研究をする。
  1885年(22歳)電池で正確に動く「連続電気時計」を
   発明した。
    しかし、使用した電池が、液体式のダニエル電池
   などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結し、使え
   なくなった(乾電池の開発動機)
    日中の会社の仕事をしてから後の、夜に、電池開
   発を続けた。
    3年間の平均睡眠時間は3時間程度だった。
    東京物理学校(現:東京理科大学)の実験付属の
   職工ともなって頑張った(屋井は産学協同の先駆者
   とも言える)
    正極(+極)に薬品が沁み出し、金具腐食が起き
   て使えなくなることが問題だった。
    この点の改良に悩まされ、苦労した・・しかし・・
   炭素棒にパラフィンを含浸することにより解決策を
   見い出した。
  1887年(24歳)「乾電池」が発明された。
    しかし、日本における乾電池の特許の第一号は、
   屋井ではなく、高橋市三郎となっている。
    海外では、ドイツのガスナー、デンマークのヘレ
   センが、1888年に、乾電池の特許を取得している。
  1891年(28歳)「連続電気時計」が特許として認めら
   れた。
    (わが国の電気に関する初めての特許)
    また、この年に、繁(しげ)と結婚をしている。
  1894年(31歳)に、日清戦争が勃発し・・、
    ある日、発行された号外で、満州において使用さ
   れた軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載された。
    従来の液体型の電池が使われていたら、満州の寒
   気で使用できなくなっていたが、
    乾電池であるから、満州の寒気に乾電池だけが使
   用できた。
    号外で、「満州での勝利は、ひとえに乾電池によ
   るもの」と報道された。
    新聞は、この乾電池が、屋井のものであることを
   聞きつけ、取材され、翌日の新聞にこれが書かれた。
  1910年(47歳)屋井乾電池販売部を、神田区錦町一丁
   目に新築して立ち上げ、同時に浅草神吉町に工場を
   設け、乾電池の本格量産にとりかかった。
    現在の乾電池のスタイルを確立していた。
    海外品との競争にも勝ち、国内乾電池界の覇権を
   掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまでうたわ
   れるようになった。
  1927年6月1日(63歳)若いころからの刻苦勉励がたた
   ったのか? 屋井は、胃がんに侵された。
    そして、急性肺炎を併発して急逝された。
   (享年63歳4か月だった)
    残念なことに、屋井乾電池は、後継者を得なかっ
   た・・そして・・
  1950年(昭和25年)屋井乾電池の名が、乾電池工業会
   の名簿から消えてしまった。
  2014年、世界最大の技術者団体、電気電子技術者協会
   であるIEEEマイルストーン(IEEE=The Institute
   of Electrical and Electronics Engineers 、本部
   米国)が、この年、屋井先蔵らの栄誉を顕彰した。
  尚、エピソードとして、要確認情報だが・・、
  発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許
 を取得はできなかった。
  (特許取得料が高額で出願できず・・もし、世界特許
 に出願していたら、日本に特許料が入り、国も潤ってい
 たであろう)
  また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池
 などという怪しいものが正確に動くはずがない」という
 見方で、屋井先蔵の乾電池は全く売れなかった。
  さらに、持病の為に寝込む日が続き、生活は貧窮を極
 めた。
  さらに、屋井先蔵の乾電池の価値を知った外国人が、
 万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばら
 くの間、世界で最初に乾電池を発明したのが、屋井先蔵
 であると認知されなかった。
  (電池工業会のホームページなどを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず1隻・・買え!!
.
紀元前1200年頃、ペトラ遺跡
  エドム人がペトラ付近に住み始めた。
  1985年、ユネスコの世界遺産に登録された・・、
  また、2007年、新・世界七不思議に選出された。
  ペトラ遺跡は、ヨルダンにある遺跡。
  死海とアカバ湾の間にある渓谷(岩礁地帯)にあり、
 自然の崖にある要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を
 防ぐのに適している所)となっている。
  紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居
   住した。
  紀元前300年頃に、文化が発祥・・、
  紀元前1世紀頃から、立地条件の良さから、古代ナバテ
   ア人の有力都市として栄えた。
   エドム人たちは、南へとナバテア人たちに追いやら
   れた。
   ナバテア人は、アラビア付近の貿易を独占し、栄え
   た。
  紀元前64年、ローマのポンペイウス将軍に、ナバテア
   人は支配下に置かれた。
   ローマは、ナバテアの自治を認め、課税した。
   ローマ風建築の造営が始まった。
  紀元後105年、ペトラが反乱を起こすが(武力の格差)、
   ローマに降伏させられる。
  紀元後106年、ペトラとナバテア人は、ローマの属州と
   して完全に組み込まれた。
   この頃から、墓を使わなくなる。
  紀元後365年、地震が起き(363年説あり、ガリラヤ地
   震)、多くの建物が崩壊し、また、水路網も破壊し
   た。
   この後、キリスト教を受け入れ、キリスト教に改宗
   させられる。
  5世紀初め、大洪水が起きた。
   完全な岩礁地帯であるので、農業は出来ない。
   また、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内をその水
   が流下(りゅうか、流れ下ること)して行った。
   都市は流された。
   ナバテア人はダムを作って対策を取った。
  6世紀後半まで生存した。
   水道管を通して給水設備を作り上げた。
   ナパテア人は、砂漠に水を引くことで農業が可能と
   なった。
   雨水を貯水した。
   テラコッタ(粘土で作った素焼きのもの)によって
   水を浸透しにくくして貯水し、また、水を通した。
   王宮には巨大なプールがあった。
  663年、イスラム帝国によって征服された。
   ペトラは、次第に衰退へ向かう・・、
  748年頃(749年説あり)また、ガリラヤ地震が起きた。
   大きな被害が発生し、ついに、ナパテア人はペトラ
   を断念し、放棄する。
  1812年、スイス人探検家(ルートヴィヒ・ブルクハル
   ト)が発見し発表した。
  20世紀初頭から発掘調査がなされ始めた(現在も続行
   中)
  2014年現在でも、なお85%が未発掘となっている。
   荘重(そうちょう、厳かで重々しいこと)な東側入
   口は有名、宝物殿(エル・カズネ)、列柱通り、ロ
   ーマ劇場、宮殿の墓、北の壁、大神殿、凱旋門、翼
   を持ったライオンの神殿、博物館、砕石場、水路、
   ダム、ローマ兵の墓、べビのモニュメント・・など
.
19世紀、欧米列強は、自分たちの植民地の卑劣な虐(いじ)
 め支配を、歪曲した言い方で正当化した。
  19世紀は、「重荷を担った白人」とか、「未開民族の
 啓蒙」とか・・という言葉で正当化し、この言葉が新聞
 紙面に踊った。
  20世紀になると、「解放」とか、「後進地域の自決権
 と民主化を行なってあげた」だった。
  いずれの時も、自分たちの搾取の行為を、勝手に、ま
 た、都合のよい言葉で正当化し、自分たちの利益を非人
 道的行為で得ていた。
  そして、アメリカは、第二次世界大戦後、日本を「元
 の島国に戻すという方針の目的を持った」。
  そして、アメリカは、中国を、ロシアの対抗勢力にし
 ようと考えた。
  アメリカの勝手な「やりたい放題」だった。
  そして、世界へ向かって「日本は、狂暴で貪欲だから
 だ」と説明し、アメリカは正当なのだと宣伝した。
.
1897年11月、中国の山東省で、ドイツ人カトリック宣教師
 が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
 が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府か
 ら同地を租借地として奪った。
.
1905年7月、アメリカの黒人の方々の解放へ向けての活動で
 ある「ナイアガラ運動」の第1回会議が開かれた。
  これは、アメリカにおける公民権運動の先駆となった
 運動で・・、
  アメリカの黒人社会運動家W・デュ・ボイスの呼びか
 けだった。
  教員や編集者などの急進的な黒人の代表者の方々が、
 黒人の権利獲得のために、黒人を組織化しようとした。
  第1回会議は、1905年7月に、ナイアガラ瀑布付近のカ
 ナダ領フォートエリーで・・、
  W・デュ・ボイスら黒人知識人が集まり・・、
  すべての黒人の方々が、差別反対運動を展開すること
 を訴える宣言をした。
  そして、人種や、皮膚の色に基づく差別の撤廃、成年
 男子の普通選挙権、教育の機会均等などを発表した。
  第2回会議は、翌年・1906年8月に、J・ブラウンの蜂
 起の地であるバージニアのハーバーズフェリーで行われ
 た。
  そして、黒人の方々のための完全な人権の確立、公共
 施設における差別の撤廃、だれとでも交際できる権利の
 獲得、黒人保護のための効果ある法律の制定、子弟の教
 育の保障を要求をした。
  1909年、資金難やワシントン派との抗争などの影響で、
 運動体としては大きく成長できず、この年、全国黒人向
 上協会の前身にあたる全国黒人委員会に合体することに
 なった。
  組織としては発展的解消ということになった(1910年
 説あり)
  組織体の解消とはなったが、その果たした役割は大き
 かった。
  この「ナイアガラ運動」という知的な黒人の方々によ
 って、黒人差別制度に対する抵抗運動を起こしたことは、
  また、「近代的な黒人解放運動家」が、少数だが、再
 び、戦闘的積極的な黒人の方々が立ち上がって行った。
  また、1881年には、アラバマ州のタスキーギに、黒人
 の方々のための「職業教育の大学」が創設された。
  徳性のある中産階級の黒人の方々が生まれ、白人と尊
 重し合う階層の人々が生まれることを目指した。
.
1906年、アメリカのサンフランシスコ市の教育委員会が、
 日本人や朝鮮人学童の隔離教育を決定した。
  極東の異人種に対する卑劣な隔離政策。
.
1910年8月、日韓併合
  日本は、アメリカやイギリスが、植民地支配としてア
 ジアでやっていた略奪一方の植民地搾取行為と違って・・、
  日本が、朝鮮・韓国でしたことは・・、
  朝鮮・韓国社会に役立つこと、社会インフラの巨大投
 資をするなど、多岐にわたって行った。
  しかし、韓国は、なんだかんだと日本を貶(おとし)
 める。
  ダムを作り、鉄道を引き、学校などを建てて教育制度
 を充実させ、行き渡らせたりなどなど・・その日本の貢
 献をまったく評価しないで無視する・・逆に、日本を貶
 める。
  2014年の韓国の教科書には、ありもしない記述がなさ
 れている。
  それは、「鉄道建設のための用地買収に応じない反日
 地主を捕らえ公開銃殺をした」と、感受性の鋭い子供た
 ちの教科書に、この様な嘘記述をした・・、
  これは、まったく根拠のない嘘話であり、作り話であ
 る。
  何で、今まで、「徒歩で行かなければならない所」を、
 鉄道敷設をして、「すぐに行けるようにしますよ」と言
 われて反対し、死ぬ様な事までの行為をするのか??
  本『歪められた朝鮮総督府』には・・、
  「総督府が、民衆や義兵を、実に十万人単位で虐殺し
 た」という嘘があると記したものだが・・、
  なぜ日本人は、韓国人ばかりを虐殺したのか、他地域
 では起きていないことを、「した」というのか? その
 原因など・・どう考えても理由がわからない。
  この韓国の虐殺話は嘘で、作り話なのである。
  十万人単位の虐殺の記録が、『まったくない』という
 状況なのである。
  しかし、韓国は、「虐殺された、虐殺された」の話だ
 けが存在するという状況にしている。
  感謝の「かの字」もない。
  その膨大な死体は・・どう処理されたのか?
  ナチスのようにその処理場が必ずある訳だ。
  そして、その処理場があって、行為があったと言える
 のだ。
  その様な事の立証も、証明も、韓国は出来ない。
  特殊な処理工場や大きな遺構など、なんでも韓国は立
 証できるはずなのだが、その立証行為もできないし、立
 証しようともしない。
  ただただ、日本に対して悪口を言うだけ・・、
  韓国の言うその虐殺人数の痕跡が何もないという事は、
 ただ、嘘を言うだけ、デッチ上げを言うだけとしか言え
 ないこととなる。
  韓国という国は、昔からこの様な国なのである。
  日本がそれをしたというなら、日本側にその特殊部隊
 が居る訳だ。
  半端な数ではない、その人数は、昨日・今日、殺され
 たという程度の話ではない、行為ではない、そんな簡単
 にできる行為ではない。
  韓国の誠実な立証行為が必要な話なのだ。
  万単位の人間の死体が埋められたというなら、必ず分
 かる人数で、規模なのだ。
  発掘すれば多くの、大量の遺骨が出る訳だ。
  その、何一つ、韓国は立証していない、立証できない
 事という話に、これまでの時間の流れが立証している。
  そんなウソ話を、韓国は、子供の教科書に記述して、
 何も知らない子供を繰っている・・洗脳している。
  日本に対する嫌悪感を、ただただ、植え付けている・・、
.
1910年、日韓併合について、アメリカとイギリスは反対も
 しなかった・・それは、条約による正式な「双方の合意」
 に基づくものとの当然の見方をした。
  世界も、当然、その見方であった。
  しかし、嫌日国家の韓国は、その様には考えない。
  アメリカとイギリスは、逆に、日本に朝鮮(韓国)に
 『居てもらいたい』と考えていた。
  積極的な「日韓併合・賛成論」なのである。
  ロシアが、朝鮮(韓国)に居る事が許せなかった。
  また、朝鮮(韓国)自身も、また、中国も、西洋勢力
 が朝鮮(韓国)に居るより、日本が居る方が良いとした
 事実があった。
  そして、「西洋勢力から遠ざかりたい」とした。
  それまでの欧米列強のえげつない収奪に辟易していた。
  また、アメリカ・イギリスの本当の狙いは中国であっ
 て、朝鮮(韓国)はどうでも良かった(美味しい中国だ
 けで十分だと)
  その証拠に、1870年代半ばまで、朝鮮(韓国)は、何
 ら、欧米列強と関係のない状態に置かれていた。
  関心外の朝鮮(韓国)だった。
  日本は、その間、数々の戦いを列強各国と行っていて、
 痛い目に会い、罰の大金を払わされていた。
.
1910年8月、日韓併合のこの頃、「日朝同祖論」という思
 想が日本に風靡した。
  そして、日本では、朝鮮(韓国)人との結婚を奨励し
 たりした。
  朝鮮(韓国)を特別に大切に扱おうとして、『血縁共
 同体』を強調した。
.
1910年8月、日韓併合がなされて、朝鮮(韓国)の内政は、
 正されて行った。
  それまでの韓国の国内は乱れに乱れていた。
  アメリカ人のハルバートは、本「朝鮮滅亡」に書いて
 いる・・
  「裁判は、金の力で正義の秤(はかり)が上下する」
 と・・、
  また、「文明国なら、たちまち民衆の反乱を呼び起こ
 すに相違ない様な不正かつ野蛮な事件を見聞きしないで
 済む日はない」と・・云々・・とある。
.
1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)で清朝が滅んだ。
  ラストエンペラーの溥儀(ふぎ)が紫禁城を追われ、
 中華民国が生まれた。
  しかし、いくつもの軍閥が入り乱れて勢力争いをする
 という乱れた状況となった。
.
1919年11月7日、日本が、日本委任統治領「南洋群島」を、
 ヴェルサイユ条約の批准によって委任統治を開始した。
  (~1945年8月15日まで、ポツダム宣言受託により領有
 権を放棄したとされている)
  第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約(
 1919年6月28日)によって、日本が委任統治をする事にな
 った。
  日本は、南洋庁を置いて、島々を開拓し、産業の扶植
 を行なった。
  そして、学校を建て、教育も行った。
  第一次世界大戦では、アメリカは、日本にドイツと戦
 いなさいと言って、ドイツが敗れるとドイツの持ってい
 た太平洋上の島々(南洋群島:北マリアナ諸島、パラオ・
 マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を日本にくれた。
  国連のお墨付きの承認の日本の委任統治領となった。
  しかし、この様なアメリカは、第二次世界大戦の後は、
 アメリカは、日本のこの領土を得た。
  アメリカ信託統治領「太平洋諸島」とした。
  そして、アメリカは、終戦後すぐに、ビキニ環礁にお
 いて、原子爆弾の実験をし、放射能で汚染した。
  そしてまた、その後、水爆実験場ともして、幾度とな
 く核実験の放射能汚染で、住民の方々を泣かす様な行為
 をした。
  悲しいかな、住民の方々は、核アレルギーの精神疾患
 を持つ様な方々にされてしまった。
.
1922年2月6日、九カ国条約(ワシントン)
  ワシントンでの会議によって・・、
  第一次世界大戦で、日本は、ドイツに対してアメリカ
 と共に戦ったが・・、
  そのドイツから得たドイツの中国権益の返還などを・・、
  この時、後になっての1922年に、アメリカなどから求
 められた。
  ドイツの権益を得る時、日本は、国際法上においての
 問題もない「中国との条約」を交わしていた。
  日本は、条約で、中国の主権を尊重し、領土保全と門
 戸開放も確認し、機会均等も確認してもいた。
  この時の「山東省のドイツ権益(膠州湾)」の返還な
 どが求められ・・決められた。
 この九カ国は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリ
 ア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国・・そして、
 日本の九カ国だった。
  何で、条約で「いいですよ」と了解した中国が居るの
 だ・・と言いたい・・アメリカの命令・・、
  アメリカは、中国の大都市に大租界を持ち、軍隊を駐
 留させ、中国の河川や海上に自国・アメリカの砲艦を遊
 弋(ゆうよく、艦船があちこちを航行すること)させて、
  そして、治外法権の特権を持っていた。
  そして、中国以外にも、アジアのあちこちに覇権を持
 つ第一の大国だった。
  また、中国での勢力権を持って支配していた。
  国際連盟は、日本と満州との結びつきについて、何ら
 非難するという事もなく認める形にあったのだが・・
  つまり、アメリカは、れっきとした中国の大覇権国で
 あり、アメリカより狭い日本の満州との関わりに、非難
 が起きる状態ではなかった。
  この様な日本を、アメリカは、「日本が侵略した、侵
 略した」と称した。
  日本が侵略国なら、アメリカこそ「大侵略国」だった。
  つまり、アメリカは、アメリカの勢力圏だと思ってい
 た中国に、日本が来て・・「その日本が目障りとなって
 来ていた」。
  また、日本の勢力圏を取りたいためもあった。
  そこには、「まだ弱小国である日本」が、中国に勢力
 圏を持ったという蔑視観もあった。
  日本が、アジアの小国が、西洋列強の様な事をやった
 という面を咎(とが)めた。
  アジアの民族が、そのアジアに、勢力圏を持つという
 怖さもあった。
  歴史的には、「アメリカ・イギリスによる膨張する日
 本を抑え込む行動」と記されている。
  幕末に、「列強の連合」に押え込まれた日本であった
 が、この時も、この状況の様に、日本は、また、抑え込
 まれる立場に置かれた。
  また、この時、アメリカが合意し、アメリカとの間で
 交わされていた石井・ランシング協定も破棄された(手
 のひら返し)
  この九カ国条約は、「アメリカの外交上の勝利」と言
 われた。
  しかし、この条約の卑劣な所は・・また、劣った所は、
 『チベット人、トルキスタン人、モンゴル人、満州人、
 回教徒の方々などの存在を無視し、このすべてを、漢民
 族に与えた』ところにあった。
  これ等の民族の方々の「独立権をも無視した」・・
  これが、今・現在においても、虐げられ、苦しめられ
 ている状況が、今なお続き、現出し、その苦悩が極まっ
 ている。
  アメリカなどの列強の「欲得で世界をいじくった」『
 未解決の大きな罪』となっている。
.
1922年11月13日、アメリカ連邦最高裁判所が、「黄色人種
 (日本人を指している)は、『帰化不能外国人』であり、
 帰化権はない」とする判決を出した。
  まったく、驚くべき破廉恥な判決である。
  人種差別の悪が極まった判決である。
  この様な判決を出す国自体をさえ軽蔑する。
  この判決は、『すでに帰化した日本人の権利』まで剥
 奪できるとした。
  また、第一次世界大戦で、アメリカ兵として従軍し、
 死を賭して戦った日本人移民(日系アメリカ人)にまで
 帰化権を(時を遡って)認めず、剥奪した。
  (注)法律を、時を遡って適用するという事はあり得
    ない行為・・
  この時の判決の趣旨説明は・・
  「1790年当時の(帰化)法の立案者が考えたことは、
  アメリカに居住していた黒人やインディアンを除外す
 る目的で作られたが、
  これら2人種だけを、当時は除外の対象としていたとい
 うのは真実かもしれないが、
  法律立案者の意図が、その2人種だけに限られると解釈
 するのは法の肯定的形式を無視することになり、
  本規定は、黒人とインディアンを除外すると言ってい
 るのではなく、
  実質的に、自由白人のみを「帰化権有資格者」に含め
 ると言っているのであって(白人優越思想)、
  つまり、法の意図するところは、建国の父が白人とし
 て認めていた人のみに市民権を授与し、
  逆に、それに当てはまらない何者にもこれを拒否する
 という事だ」・・と・・、
  さらに、アメリカは、『ケーブル法』を制定し、二世
 女性にまで直接的な攻撃を加えた・・、
  ケーブル法は、いかなるアメリカ人女性でも、「帰化
 不能外国人」と結婚した場合、「アメリカ市民ではなく
 なる」と規定した。
  (市民権剥奪で脅して、白人女性の日本人との結婚を
 否定し、拒否した)
  そして、またさらに、アメリカは、1924年に、さらに
 さらに『異常な法律』を制定する。
.
1933年9月、フランクリン・D・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、在任期間:1933年3月4日~1945年4月12日)
 の言葉・・、
  「朝鮮(韓国)の独立は、その戦略的位置に鑑(かん
 が)み、日本の死命を制する大事であった。
  したがって、日本は、朝鮮(韓国)が名実ともに独立
 する事を心から願っていたのである。
  しかしながら、独立は悪政に潰された。
  朝鮮(韓国)国民の能力を超えるものであった。
  朝鮮(韓国)が、中国、または、ロシアの手に落ちる
 のを防ぐため、日本は二度の戦争を経て、朝鮮(韓国)
 を保護下に置くことを宣言した。
  この実験は失敗した(戦争には勝ったが・・)。
  そこで、1910年に締結した併合条約によって、日本は、
 (朝鮮・韓国の)廃墟の上に新しい朝鮮(韓国)を建設
 する責任を担ったのである」。
  水野錬太郎「現代の日本」1933年9月
.
1940年、アメリカが、中国に武器・弾薬を渡していたが、
 その「援蒋ルート」が、日本軍によって、1940年の北部
 仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐によって遮断された。
  アメリカは、1937年の日中戦争が始まって以降、秘密
 裏に、中国・国民政府(蒋介石)軍へ武器・弾薬などを
 援助した・・、
  また、後に、秘密裏に参戦もして、日本軍と交戦して
 いた。
  時を遡って、この事を見てみると・・、
  第一次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメ
 リカで、1929年、株価が大暴落し恐慌が起こった。
  不況の波は世界中におよび、怖(おそ)ろしい世界恐
 慌となった。
  悲惨な世界恐慌の嵐にもまれて日本は苦しんだ。
  この恐慌の後、日本国内に、ドイツやソ連のような国
 家体制の下での統制経済を理想とする風潮が広がった。
  また、1933年頃から、広大な植民地を持っていたイギ
 リスやフランスなどは・・経済のブロック化を行なった。
  イギリスやフランスなどは、本国と植民地との経済的
 な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自
 給自足を図りつつ、高い関税をかけて圏外の商品を締め
 出すブロック経済の政策をとった。
  日本は、この後、このブロック経済から締め出される
 という卑劣な虐(いじ)めに会う。
  また、さらに、ABCD包囲網という卑劣な連合体制
 で、よってたかって経済的孤児とされた。
  大切な物品の輸入が出来ない状況とされた。
  まったく、国が存立の出来ない状況に置かれ、このた
 め、自衛のための戦争をせざるを得ない状況に追い詰め
 られて行った・・第二次世界大戦へ至る道へ追い込まれ
 て行った。
  日中戦争においても、アメリカは、中立を守っている
 風を装った・・が・・、
  卑劣な事に、中国・国民政府(蒋介石)を秘密裏に支
 援していた。
  蒋介石を援助するルートという意味の「援蒋ルート」
 があった。
  援蒋ルートには、仏印ルート、ビルマルート、香港ル
 ート、ソ連ルートがあった・・、
  後になって、隠せなくなってアメリカは、公然と支援
 を行なうようになった。
  これも、アメリカと日本との戦争の原因の一つとなっ
 た。
.
1941年、日本と第二次世界大戦を戦うという「この年のア
 メリカ」であったが、この様な時にも、盛んに私刑(リ
 ンチ)をして、黒人の方々を死刑にするという卑劣なア
 メリカがあった。
  黒人の方々の・・何と多くの血が、流された事であろ
 うか??
  黒人の方々は・・、黒人の方々への差別を無くす法律
 を、アメリカ国内に成立させて来た。
  本当に誇らしい歴史を刻んで来た。
  リンカーンなんかじゃない・・黒人の方々の努力だっ
 た・・命をかけた戦いだった。
  このアメリカが、外国へ法を説く時には、「民主主義」
 を説いた。
  ・・が、しかし、このアメリカの民主主義が分からな
 い国には、アメリカは、『正義をかざして』、「武力を
 行使する」ことまでして、「アメリカの民主主義を強制」
 した・・それが『正義なのだ』と称した。
  しかし、自国・アメリカ国内の黒人の方々に対しては、
 この民主主義の『民』さえない状態だった。
  黒人の方々を、暴力で殺戮する白人・アメリカ人で組
 織される集団が、いくつもできるというアメリカだった・・
  そして、アメリカ国内のあちこちで、黒人の方々の殺
 戮行為が横行した。
  アメリカ国内に、その国土に、風土の中に、この様な
 状況が定着していた・・軽蔑すべき状況だった。
  白人優越=黒人蔑視の人種偏見の社会だった。
  キリスト教の教義・考え方「有色人種蔑視」に洗脳さ
 れ、大々的に宣伝されていた。
  また、社会は、絶えず暴力を扇動し、黒人の方々を迫
 害するという状況だった。
  私刑(リンチ)が絶えず行なわれるという、「卑劣な
 死刑が行われる」という卑劣さであった。
  1890年~20世紀初頭が、その中でも特に酷かった。
  1882年~1947年の期間を、ざっと調べただけでも3426
 件のリンチがあった。
  凄まじいリンチ社会だった。
  アメリカが、日本に戦争・第二次世界大戦を仕掛けた
 1941年も、アメリカという国は、盛んに有色人種への
 蔑視から来るリンチをする社会だった。
  また、アメリカを動かす「アメリカ北部」。
  その中心的な位置にいる「アメリカ北部資本家」。
  独占段階に達したアメリカ資本主義。
  たんに黒人の方々を搾取するのではなく、労働者階級
 全体を搾取していた。
  その為に作りだされた法制的、暴力的、イデオロギー
 的なアメリカ特有な収奪体系で社会は動いていた。
  この差別の風潮は、北部諸都市の雇用、住宅をはじめ
 様々な所で現れた。
  「ジム・クロウ」という言葉がはやった。
  (参考)1896年、アメリカ最高裁判決:「隔離は差別
     ではない」「隔離すれども平等」と判決した。
      この判決の考え方・理屈で、差別が合法とさ
     れて、差別が、全国的に堂々となされるアメリ
     カ社会であった。
      卑劣なアメリカ社会は、このジム・クロウ制
     度が、黒人の方々への差別の法体系として全面
     的に発展した。
      そして、長期間に渡って続いた。
      ホテル、学校、キリスト教会、病院、映画館、
     レストラン、バス(乗り物)、トイレ、投票権
     など、あらゆるところで、入場拒否、隔離行為、
     差別などが行なわれた。
      公立学校でさえ差別された。
      キリスト教徒の新島襄が、日本に居る時、美
     しい話をキリスト教宣教師に言われて、アメリ
     カに行ったが・・有色人種の日本人の新島襄は、
     卑劣な人種差別に会い、まったくキリスト教と
     アメリカという国に失望する。
      ほとんどすべてのキリスト教会も、厳格な人
     種隔離の原則を採用するというアメリカだった。
      この卑劣な判決があって、黒人の方々の運動・
     行動もまったく正当化されなかった。
.
1948年1月6日、アメリカ陸軍長官ロイヤルが、演説中「日
 本を反共の砦(壁)にする」と発言した(反共・封じ込
 め政策開始)
  1948年6月、ヨーロッパでは、共産勢力の台頭を防ぐた
 めマーシャルプランが発令された。
  また、日本については、日本と他のアジアの労働者の
 質を現実的に比較して、
  日本の工業施設を、戦後賠償としてアジアに移転させ
 てしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品によ
 る現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製
 造業の見直しの機運を盛り上げた。
  さらに、日本の経済的自立の立ち遅れが、アメリカの
 占領費用負担に繋がるという納税者の論理も働いていた。
.
2016年7月6日、読売新聞(2016・7・6)によると・・、
  中国は、財政が困窮するギリシャの最大の港(ピレウ
 ス港)を買った。
  そして、このたび、この港を活用した経済協力の拡大
 で両国は一致した。
  「地中海最大のコンテナ積み替え港にしたい」と、中
 国の習近平国家主席は述べた・・と読売は伝えた。
  「本音は、中国艦船の軍港として使いたい」と言われ
 ている。
  中国の世界戦略の中のヨーロッパ地域の拠点となる。
.
2017年11月1日、韓国が、ユネスコの『世界の記憶(世界記
 憶遺産)』に申請した『慰安婦問題の関連資料』の登録
 が見送られた(読売新聞、2017年11月1日)
  日本政府は、「適切な対応がなされた」と評価した。
  2015年には、これも嘘の「南京大虐殺の文書」が、中
 国の申請で登録されるというミスがあったばかり・・、
  これは、審査の中立性や透明性のない中での登録だっ
 た。
  今後、当事者間で、事実関係や歴史認識について、見
 解が異なる案件は、話し合いがまとまるまで審査を保留
 することになった。
  慰安婦問題について、韓国は、『慰安婦問題の真実を
 未来の世代に伝え、不幸な出来事が再び起きないように
 教育する努力」が政府の責務で、登録に向けて「外交的
 努力を続けて行く」と表明した。
  韓国政府は、韓国政府が音頭をとって、韓国の若い女
 性方たちを組織して、外資を稼ぐため、慰安所を作って、
 売春行為を韓国政府の官制で行わせて来た。
  不幸な出来事が再び起きないよう、未来へ伝えるため
 教育する努力が政府の責務と言うのならば、この長く続
 いた韓国政府の外貨稼ぎの官制慰安所の話もユネスコへ
 登録申請をすべきであるし、また、韓国の小学生の教科
 書にも書くべきである。
  また、韓国は、冊封下にあった中国に、長い期間、
 慰安婦接待を常にして来た韓国政府の行為をも教えるべ
 きであり・・、
  また、アメリカ軍への慰安婦所を作って、長い期間、
 韓国女性方たちへ外貨稼ぎをさせたことも、また教科書
 に書くべきだし、
  また、ベトナム戦争時の韓国兵のベトナム女性への行
 為などもユネスコへ申請し、かつ、小学生や中学生など
 へ教育の努力を、その様に言われるのなら・・おやり下
 さい。
  この様な、女性の人権を踏みにじる行為を、数々、韓
 国政府もろともやって来ましたと教育しなさい。
.
2017年、北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、
 完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・、
  アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず
 1隻・・買え!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)563E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)563E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年9月7日、現行のボクシングの基礎となるクインズベ
 リー・ルールを適用した初のボクシング公式試合が開催
 された。
  この日の世界ヘビー級タイトルマッチで、ジョン・L・
 サリバン対ジェームス・J・コーベットで適用された。
  クインズベリー・ルールは、1865年、ロンドン・アマ
 チュア・アスレチック・クラブのジョン・グラハム・チ
 ェンバースによってルールが定められ、
  第9代クインズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス
 が保証人となったことで成立したので、彼の名を冠し「
 クインズベリー・ルール」と名付けられた。
  それまでは、ロンドン・プライズリング・ルールズで、
 このルールから変更された点は・・、
  (1)リング:一辺が24フィート(7m32cm)の四角形
  (2)1ラウンドを3分、インターバル1分
  (3)5オンスグローブ着用
  (4)投げ技の禁止
  (5)10カウント以内に立ち上がれない場合はKO負け
  (6)ベルト以下への打撃の禁止
  (7)腰より下の抱込みの禁止
  (8)倒れた相手への攻撃禁止、蹴り技、頭突き、目玉
    えぐりの禁止
1892年9月10日、九州鉄道会社線の門司駅~熊本駅間の各駅
 と、山陽鉄道会社線の神戸駅~尾道駅間の各駅との間に
 大阪商船会社所属の尾道~門司間航路を介して、旅客・
 貨物の連絡運輸が開始された。
1892年9月13日、イギリスのアームストン曲馬団(Harmston's
 circus)が来日し、興行を開始した。
  このアームストン親子の興行は、「アームストン大曲
 馬」と言われ、両国の回向院で行われた。
1892年9月16日、九州鉄道会社が、経費節減のため、前年に
 引続いが職員の給料を減額し、人員整理を実施した。
  1873年から1896年は、世界的な大不況で、構造不況と
 言われる不況だった。
  この大不況は、1873年恐慌に始まったが・・、
  原因は、広範な産業分野における生産力の向上があっ
 た。
  その増産、特に、銀の増産によって、価格が下落した。
  増産は、新知識・技術の発展による新鉱山の発見と、
 電解精錬の効率化だった。
  採掘量が増え続け、また、その雑多な鉱石からも銀が
 得られるようになった
  そして、ドイツ帝国は、普仏戦争で獲得した50億フラ
 ンの賠償金で、ロンドン市場などから金塊を買い上げ、
 種々の法律を成立させて金本位制を採用し、
  また、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オラ
 ンダ、フィンランドも金本位制へ移行した。
  (フランス、アメリカは、その前に金本位制になって
 いる)
  この様な動きの中で、ドイツは、当時の年間銀産出高
 の3倍の6000トンの銀(旧銀貨)を鋳潰(いつぶ)して
 売却(予定)した。
  この大量売却見込みは、銀の単価を下落させた。
  世界の金融バランスは大崩れし、資金引上げにあう国
 が出たり、公定歩合の大幅引き上げ騒動などが起きた・・
 そして、銀価格は急下落した。
  経済バランスは完全に崩れ、穀物移動も混乱し、金流
 出も急激で、フランス銀行は危機的水準に陥った・・な
 ど・・世界は大混乱・・、
1892年9月25日、全国に15ヶ所あった商業会議所の連合体と
 して「商業会議所連合会」が結成され・・、
  また、第1回全国商業会議所連合会も開催された。
  商業会議所は、商工会議所の旧称で、
  1890年の商業会議所条例によって設置されていた。
  (参考)商業会議所:商業会議所条例によって市域を
     単位に組織された地域別の資本家団体で、
      この年・1892年に、全国商業会議所連合会が
     結成され、全国的連合会としての性格をもつよ
     うになった。
  商業会議所は、商工業に関する制度や法律などについ
 て資本家の立場から意見を発表し、
  商工業の発達を図ることを目的として活動を始めた。
  これまで、1887年に、イギリスの商法会議所連合会議
 の件が官報に報じられるなどして来て、
  1890年の商業会議所条例の設置の時より、全国組織の
 必要性が唱えられていた。
  そして、この日に、関西地区の5つの商業会議所の呼び
 かけで、京都にて、第1回の連合会が開かれた。
  今後は、年1回の定期会と、必要に応じて臨時会を開く
 事などの規則が定められた。
1892年9月26日、スーザ吹奏楽団がニュージャージー州で、
 第1回の公演をした。
  ジョン・フィリップ・スーザ(1854年~1932年)は、
 アメリカの作曲家で吹奏楽指揮者、ワシントンD.C.に生
 まれた・・
  父は、ポルトガルの出身で、ワシントンの海軍軍楽隊
 のトロンボーン奏者・・母はドイツ人。
  幼い頃から音楽を得意として、
  ワシントンやフィラデルフィアの劇場でバイオリン奏
 者、指揮者として活躍し
  1880年(26歳)海兵隊軍楽隊(大統領の儀礼用)の楽
   長に就任した。
  1892年(38歳)軍楽隊を辞任し、みずからのスーザ吹
   奏楽団を組織した。
    この年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師
   の誘いで楽団を辞任し、「スーザ吹奏楽団」を結成
   した。
    この日・1892年9月26日に、ニュージャージー州
   プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま
   全米各地への演奏旅行に出発した。
    ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演
   は必ずしもすべて成功とは行かなかった。
  1896年(42歳)、ブレイクリーが急死し、その報を聞
   いて帰る船の中で浮かんだメロディーを元に作曲さ
   れたのが『星条旗よ永遠なれ』だった・・、
  1914年(60歳)第一次世界大戦の勃発に伴い、スーザ
   吹奏楽団を解散し、海軍軍楽隊訓練所長として復役
   した。
    終戦後に、軍楽少佐まで進んで退役し、
   その後、再び、吹奏楽団を再結成し、レコーディン
   グや演奏旅行をした。
  1932年(78歳)3月6日、ペンシルベニア州でコンサー
   トを開いた後、帰って来たホテルで急死した。
  作曲作品には、行進曲、オペレッタ、舞曲、歌曲など
 があり・・、
  『星条旗よ永遠なれ』『忠誠』『ワシントン・ポスト』
 『自由の鐘』『士官候補生』『美中の美』など行進曲 を
 136曲を作曲し、「マーチ王」と呼ばれた。
  このほか『エル・カピタン』オペレッタも手がけた(
 この行進曲もある)。
  チューバを改造してスーザフォーンを作った。
1892年9月27日、官吏療治料支給方が公布された(明治二十
 五年勅令勅令第80号)
1892年9月、米原・彦根間軟弱路盤に水防石垣を造成した。
1892年9月、筑豊興業鉄道が、複式6輪連結テンダ機関車を
 使用した(複式機関車使用の最初)
  複式機関車は、複式機関を搭載した蒸気機関車で、
  これは、蒸気機関が全盛のころ、船舶用蒸気機関で熱
 効率を高めるために一定の成果を挙げていた。
  これを蒸気機関車にも取り入れようとするのは当然で、
 様々な形式が試みられた。
  構造が複雑になって、整備に手間がかかった。
  そして、この年・1892年、日本に輸入された最初の複
 式機関車が、国鉄8000形蒸気機関車9号機だった・・
  そして・・その翌年・1893年には、国鉄860形蒸気機関
 車が、何と、日本で最初に製造された。
1892年9月、下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允(しもせまさちか)が実
 用化した爆薬(炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用
 いた)で・・、
  1893年に、日本海軍は、この火薬を採用し、下瀬火薬
 と名付けた。
  日露戦争当時の日本海軍にも採用され、日露戦争には
 大いに活躍し、大戦果の一因となった。
  因みに、日清戦争には間に合わなかった。
  この火薬は、ピクリン酸を成分とし・・、
  ピクリン酸は、1771年に、ドイツで染料として発明さ
 れていたが・・、
  100年後になって、爆発性が発見された。
  猛烈な爆薬であるが、同時に消毒液としての効果もあ
 る。
  しかし、ピクリン酸は、容易に金属と化学結合して変
 化してしまう為、鋭敏な化合物を維持する点で実用上の
 困難があった。
  下瀬雅充は、弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピク
 リン酸の間にワックスを注入して、この問題を解決した。
  なお、日本海軍規格の下瀬火薬(下瀬爆薬)は、ほぼ
 純粋なピクリン酸で、 爆薬として用いた場合の爆速は
 7,350m~7,800m/s・・、
  爆速は、爆薬が爆轟現象をおこした場合の、爆轟の伝
 播速度で・・、
  ニトログリセリン(爆速7,700m/s)は、有名なノーベル
 が実用化し、ダイナマイトなどに加工される。
  因みに、最大の爆速を持つヘキサニトロヘキサアザイ
 ソウルチタン(爆速9,400m/s)は、2017年時点で、実用化
 量産されている爆薬の中では最大威力を持つ。
  この爆薬は、スーパーコンピューターによって、分子
 内の電子軌道計算を行ない、理想的な爆薬としての化合
 物の構造の計算が先にあった。
  こうして、先に分子構造を決定したうえで、合成法が
 研究され、実用化されたもので、天然には存在しない。
  爆速は、ニトログリセリンの1.22倍・・、
  用途は広く、砲弾などの炸薬からマルチベース火薬(
 多成分系無煙火薬)の原料として弾薬・実包などにも使
 用されている。
  破壊力をトリニトロトルエン(TNT)比に換算したRE係
 数は2.04であり、国連の危険物輸送に関する勧告ではTNT
 換算190%とするように通達されている。
  1999年、旭化成工業で、メタノール溶媒でα型、β型、
 γ型のヘキサニトロヘキサアザイソウルチタンを溶解さ
 せ、溶媒を蒸発させて結晶を析出させることで第四のε
 型結晶が発見された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1000年の恨みは、ここにこそある。
.
1937年8月13日、第二次上海事変(大東亜戦争の始まり)
  この戦いから長い戦争が始まる・・故に、この戦いか
 らを日中戦争としている。
  (盧溝橋事件は4日後に解決しているので、日中戦争に
 は含めないという歴史的考え方で、ここから『大東亜戦
 争』が始まった)
  この戦いは、アメリカの大量の物量に補強された中国
 国民政府(蒋介石)軍、そして、その大部隊が、上海の
 「日本租界」を幾重にも包囲し、攻撃を開始して来た。
  この中国(蒋介石・国民政府軍)の攻撃開始によって
 戦いは始まった(日本から始めた戦争ではない)
  日中戦争は、日本と中国・国民政府(蒋介石)軍との
 戦いであって・・、
  卑劣な事に、中国・共産党軍は、日本と国民政府軍を
 戦わせ、消耗させ、どちらかが倒れた後に出て行こうと
 の作戦を立てた。
  このため、日本は、中国の現政権の中国・共産党軍と
 は戦っていない・・
  現政権の中国共産党軍は、戦勝国ではない。
  また、表面的には、日本と、この中国の国民政府軍と
 が戦っているように見えるが・・、
  実質的には・・アメリカが、中国・国民政府軍へ武器・
 弾薬を援助していた・・その為、この日中戦争は、日本
 とアメリカの消耗戦であった。
  このため、日中戦争が、泥沼化し・・長引いて行くの
 は当たり前だった。
  アメリカの目的の一つが、「日本を消耗させたい」で
 あった。
  アジアに台頭する日本を、アジアでイニシアティブを
 取らせたくないアメリカは、「何しろ、日本を叩きたい」
 があった。
  アメリカは、ベトナム戦争の時の様に、最初は、ベト
 ナム軍に戦わせていたが、徐々にアメリカ軍が介入した
 ように、この日中戦争も、アメリカ軍と、直接、日本は
 戦端を交えた。
  しかし、このことを、アメリカは卑怯な事に秘密にし
 た。
  しかし、れっきとしたアメリカの公式文書に、アメリ
 カ軍が派遣されていることが記述されている・・
  この事が知られると・・更に卑怯な事に、アメリカは、
 最初、ボランティアだと言い逃れした・・、
  しかし、アメリカ軍の中国派遣の正式な公式文書があ
 ることが分かった(大統領の命令書)
  アメリカは、「真珠湾攻撃の時が、初めての日米戦争
 の始まりだ」と言っているのは、「まったくの嘘」の発
 言である。
  アメリカは、真珠湾攻撃前の日中戦争において、隠密
 に日本と戦端を交えている。
  そして、この中国・国民政府軍へのアメリカの武器弾
 薬の支援を止めさせようと、日本は努力したが・・、
  アメリカの、この中国・国民政府軍の蒋介石軍への武
 器弾薬の援助のルートを遮断(援蒋ルートの遮断)の目
 的で、日本は、この目的をはっきり説明して(アメリカ
 が、援蒋ルートを使って武器弾薬の支援をしているから
 戦争は続く、そのため、この援蒋ルートを遮断する目的
 で南部仏印へ進駐すると説明して)・・、
  1941年7月、日本軍は、サイゴン(現:ベトナム・ホー
 チミン)に入った(南部仏印進駐)
  この様に、明確な説明があったのにもかかわらず、ア
 メリカは、日本のこの行為に対して、懲罰的な対応を日
 本に対して行なった。
  在米の日本資産を凍結した。
  また、対日石油輸出の全面禁止をした・・また・・、
  その他種々の行為・・そして、「ABCD包囲網」と
 言われる国々によって、戦争的行為を日本に対して行っ
 た。
  これは、今・現代、ここまでされれば戦争は起きてし
 まう、これは、事実上の日本に対する「宣戦布告である」
 と言われている。
  最初から、アメリカには、アジアに台頭する日本が目
 障りで、「日本を叩きたいとの思惑があった」。
  この思惑を見破られないため、アメリカは、あれこれ
 と小細工をしていた。
.
1937年9月23日、中国、抗日民族統一戦線が結成されたと言
 われているが・・?・・これは嘘・・、
  西安事件後を契機に、壊滅寸前の共産党は、コミンテ
 ルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようと
 した。
  (参考)コミンテルン(Comintern)は、1919年から
     1943年まで存在した、共産主義政党による国際
     組織。 別名:第三インターナショナル。
  しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く、合作
 の交渉を捗(はかど)らなかった。
  それに対し、北京盧溝橋事件と上海で起きた日本軍と
 の軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ
 連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産
 主義勢力との連携で難局の打開を試みた。
  最近の研究による新事実は、今まで、抗日民族統一戦
 線は結成されていたというのであったが、
  実際は結成されていない・・
  国共合作の成立は疑わしく、成立してないとされてい
 る。
  作為された史実が書き換えられている・・誰が作為し
 たか・・?
  第一次の国共合作(1924年~1927年)も失敗している。
  この様な中国・・このような状況下で、北京郊外の盧
 溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生し(1937年7月7日、
 盧溝橋事件)・・、
  共産党は、発生の翌日・1937年7月8日、全面交戦を呼
 掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(4日後の7月11日)
 戦火の拡大はおさまった。
  そして、上海で、日中両軍は航空戦を含む全面的な戦
 闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)
  中国・国民政府(蒋介石)は、ソ連と中ソ不可侵条約
 を締結し(8月21日、同29日発表)、
  アメリカ・イギリスの大量の物資援助も入れて、精鋭
 の大部隊をつぎ込んで日本へ攻撃を仕掛け・・全面戦争
 となった。
  アメリカとイギリスは、大量武器援助をして、日本と
 戦争をしなさいと『けしかけた形』となった。
  後に、アメリカ軍は、直接、日本と戦端を開く。
.
1938年3月、ユダヤの方々が、シベリア鉄道のオトポール駅
 に、ドイツの迫害を逃れて、ビザを持たずに到着した。
  日本は、ビザのないこのユダヤの方々を救済した。
  杉原千畝がビザ発給をしない時・・発給をする、大分、
 以前の事である。
  ユダヤの方々が、満州に近いこの駅に到着したのは、
 日本がユダヤの方々を差別なく受け入れる事を知ってい
 るからだった。
  日本は、このユダヤの方々を、「亡国の民」として、
 ビザを持たないこのユダヤの方々を満州へ受け入れた。
  そして、後に、日本の神戸などへ行き、内地で受け入
 れられている。
  当然、日本は、満州へ入国することを認めた。
  この頃、日本は、ドイツと友好関係にあったが、(ド
 イツとの同盟関係は、まだ、結ばれていない)
  ハルピン特務機関長の樋口季一郎少将(東条英機の部
 下)は、満州国建国の「五族協和」の理念からも人道的
 に対応していた。
  救援列車を次々とオトポール駅へ向かって出した。
  この事を知ったドイツは、日本に抗議して来た。
  しかし、日本は、ドイツの属国ではないと、きっぱり
 とドイツの抗議を撥(は)ね付けた。
  この後も、このルートで、多くのユダヤ人の方々を日
 本は救援した。
  (参考)五族協和(ごぞくきょうわ、Five Races Under
     One Union)は、満州国の建国の基本理念で、民
     族政策において「和(日)・韓・満・蒙・漢(
     支)」の五民族が協調して暮らせる国とする。
.
1940年7月、杉原千畝が、この時、職権を越える違反行為で
 「ビザの発給行為」をした。
  杉原が、この行為をした時、日本はドイツと同盟を結
 ぶ以前で・・、
  しかし、杉原千畝が、キリスト教徒であったことから、
 キリスト教は、この杉原千畝を美しくデッチ上げた。
  杉原千畝を美化したいがため、杉原千畝がビザの発給
 の出来ない身分であることを隠した。
  杉原千畝の『重大な違反行為』であることを隠した。
  また、キリスト教は、日本がドイツと同盟をしていた
 からと嘘を言って・・ドイツがユダヤ人を迫害したよう
 に、日本もドイツから同じ行動をとるように言われてい
 たと、キリスト教は、この事についても嘘をデッチ上げ
 た。
  それ故、キリスト教は、「日本は、ユダヤ人へのビザ
 発給に反対だった」と、嘘の屋上屋を重ねる重大なウソ
 話をデッチ上げ、日本を貶(おとし)めた。
  キリスト教徒の杉原千畝を美化したいがため、日本と
 いう国をも貶めた。
  日本は、ドイツと同盟をした後でも、堂々とユダヤの
 方々を救済していた。
  そして、抗議するドイツを撥ね付ける日本だった。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  第二次世界大戦(大東亜戦争)のことで嘘ばかり言う
 アメリカ。
  アメリカは、日本と戦争をした、「勝利すると分かっ
 ている戦争」をした・・日本を叩きたかったからだった。
  日本の「戦争を終わらせる打診」も無視ばかりしてい
 た。
  アメリカは、日本の「完全破壊」を目指していた。
  完全にキリスト教の「シャロームの教義の考え方」だ
 った。
  キリスト教のシャロームの教義の考え方は、「完全破
 壊の後に平和が来る」という平和の考え方だった。
  知識水準の高い方々から、「すべてを破壊して、誰も
 居なくなった地に、キリスト教会を建てて何になる」と
 言われていた。
  そして、アメリカは、原爆も試してみたかった。
  戦争を終わる時もこんな調子で、嘘ばかりの、不誠実
 なアメリカだった。
  戦争を始める時も、「日本を叩きたい」があって、日
 本を追い込んで行った。
  また、「戦争はしたくない」というアメリカ国民の方々
 の世論を卑劣な方法で変え、そして、操作した。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、イギリスのチャー
 チルと会談した時に、「そのことについて話をしている」。
  そして、「日本の真珠湾攻撃を奇襲だ」と仕組んだ。
  そして、アメリカ国民の方々の非戦論の世論を転換さ
 せた。
  また、アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ国
 民の方々の非戦論を変えるために・・次のことを仕組ん
 だ・・、
  アメリカは、第二次世界大戦(大東亜戦争)を戦う正
 当性を、「日本が、世界征服を目論(もくろ)んでいる
 からだ」と嘘のデッチ上げの話を作って言った。
  歴史上の検討においても、これは、明らかに、「アメ
 リカ国民の方々が非戦論であったため、このアメリカ国
 民の方々を煽る意味でプロパガンダ(嘘宣伝)した」と
 分かっている。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、奇襲でも何でもな
 い真珠湾攻撃を「奇襲された」と言ったが、アメリカ国
 民の方々へ嘘を言ったが・・、
  ルーズベルト大統領は、日本が攻める前日に「明日(
 あした)、日本が攻めて来るよ」と親族に口を滑らせて
 言っている。
  それほど、日本の奇襲性はなく・・事前に知っていた。
  この様に、『日本の奇襲」という嘘話を否定する事実
 は一杯ある・・
  アメリカの真珠湾へ向かう戦艦の無線交信だって完全
 傍受されていて、解読されていた。
  刻々とハワイへ迫る日本連合艦隊、それを、逐一、傍
 受しているアメリカだった。
  日本だって、ハワイの真珠湾に、「今、アメリカ艦隊
 が集結している」ということを知っていた。
  その逆においても、日本の連合艦隊が日本を出発した
 時から、アメリカは完全にその行動を知っていた。
  それは当然だった・・最大の破壊力を持つ敵の艦隊を、
 常に、把握していなければならないという「一触即発の
 危機の時」であった。
  日本の連合艦隊の無線は、そのすべてを傍受していた。
  また、日本の連合艦隊より、航行速度の遅い日本の潜
 水艦の複数隻が、先行して真珠湾へ潜航してしている。
  この日本の数々の潜水艦が、すべてアメリカ軍艦と交
 戦し、日本の潜水艦兵士はそのほとんどが戦死した。
  しかし、その日本の潜水艦兵士を、アメリカは救助し
 ている。
  急に、日本の兵士が、海の中から出て来る訳はない・・
  これ等の事のすべてを、アメリカは隠した。
  「日本の奇襲だ」という嘘を作るために・・、
  この日本の潜水艦と、アメリカの軍艦が交戦している
 事を隠し、アメリカ国民の方々へ伝えなかったアメリカ。
  1隻や2隻の潜水艦ではない。
  複数の日本の潜水艦と真珠湾攻撃の前に交戦をしてい
 る。
  このことのすべてをアメリカ国民の方々へ隠した・・
 世界の人々に隠したアメリカだった・・不埒な、不誠実
 なアメリカだった。
  日本の奇襲をでっち上げたいばかりに、その交戦は「
 クジラだった」とおとぎ話のような嘘を言った。
  日本と戦争をして日本を叩きたいアメリカは、あらゆ
 る嘘をデッチ上げていた。
  真珠湾攻撃のはるか以前から、中国へ軍隊を派遣して
 いる事も隠し、武器を中国へ渡している事も隠し、日本
 を攻撃していることも隠し・・卑劣の数々のアメリカだ
 った・・
  そのデッチ上げの一つが『日本が、世界征服をしよう
 としている』・・
  だから、日本と戦争をするのは正義なのだという嘘だ
 った。
  アメリカは、国民の方々へ、頭にこびりつくほど繰り
 返し言った・・「アメリカは、世界を征服しようとして
 いる日本を駆逐する正義がある、戦争をする正義がある」
 と・・、
  それなら・・??
  何処(どこ)で?
  何時(いつ)?
  誰(だれ)が?・・その様なことを言っていたか?
  アメリカは、この疑問に対して「一切、答えられない
 アメリカ」だった。
  日本は、この点でも、「濡れ衣を着せられた」。
  アメリカは、戦争を始める以上、立派な理由を、アメ
 リカの国民の方々へ、「嘘でも言いたかった」。
  しかし、その理由は虚構であって、アメリカの正当性
 は無い。
  この非常に大事なことを・・アメリカは嘘でデッチ上
 げた。
  アメリカは、今でも、この事を説明ができない・・説
 明していない。
  逆に、「アメリカのデッチ上げである」と歴史は示し
 ている。
  アメリカは、戦争をすれば、確実に勝てる相手である
 日本を、戦争をして潰そうというアメリカの意図を歴史
 家は明白に示している。
  今は、日本の真珠湾攻撃についても、アメリカが、真
 珠湾攻撃の「奇襲だ」という話をでっち上げたことが明
 白になっている。
  日本を戦争へ至らせ様と、色々とやって来たアメリカ
 の破廉恥行為も明白になっている。
  自分の言って来た裏付けを言えないアメリカと共に、
 何が明白になったのかが「分かる今」となっている。
  歴史は誤魔化せない・・時とともに真実が出て来る。
  日本は、戦争回避を、必死に、それまでアメリカと折
 衝をしている。
  しかし、そのすべてをアメリカは撥ね付けた。
.
1941年12月8日、日本は、真珠湾攻撃をしたが・・、
  日本の手の内を完全に知っていたアメリカ。
  だから、日本の行動のすべてを知っているアメリカは、
 4隻の航空母艦のすべてを隠した。
  さすがに、戦いに最大に重要な航空母艦だけは・・隠
 さざるを得なかった。
  結果、日本は、アメリカの航空母艦が、最大の攻撃目
 標であったが、その巧妙に隠された航空母艦は捜し出せ
 ずに、1隻の航空母艦に対してすらも、損傷すらも与えら
 れなかった。
  日本は、真珠湾攻撃の何時間も前に、マレー半島に上
 陸するために、日本の艦船群を終結させていた。
  しかも、この日本の輸送船団の上空には、日本艦船を
 護衛するための日本の九七式戦闘機がぶんぶん飛んでお
 り、
  この時、哨戒(しょうかい、敵の襲来を見張って、警
 戒すること)していたイギリス機と遭遇し、戦闘し、日
 本軍機が撃墜している。
  前の日にこんなことまで起きている、イギリス機が、
 先に撃ったかは不明であるが、哨戒機が敵機と遭遇し、
 発見したら無線で『確実に報告する』のが任務である。
  近くに、れっきとしたイギリス軍1個旅団が配置され
 ているのである。
  上陸した人数だって、秘かに2人や3人何て話ではなく、
 日本軍5300名が上陸したのである。
  アメリカと一触即発のこの時に、この真珠湾攻撃前の
 日本の艦船の終結は、当然、確実に、この地域を守るイ
 ギリスに知る所となっていた・・はずだ。
  「真珠湾攻撃前に、マレー半島に、日本軍は艦船を集
 結させ、そして、日本軍が上陸しました・・イギリス軍
 はまったく知りませんでした」・・などという話が成立
 するわけが無い。
  そうであるなら、まったく馬鹿々々しい話である。
  しかし、アメリカの論理は、このマレー半島での日本
 の軍事行動まで、イギリスが知らせなかったのか、何だ
 かに口を閉ざした・・そして、真珠湾は奇襲だったと言
 い張った。
  本当に、馬鹿々々しいがそのような話になっている・・
 そこには、嘘つきのアメリカがそこに居る。
  マレー半島に上陸した日本軍は、イギリス軍と激烈な
 戦いを展開した。
  日本は宣戦布告をしていた。
  日本は、「自存自衛のための戦いである」と宣言して
 いた。
  そして、「アジアの解放を図るための戦いだ」という
 ことの「大東亜戦争」と命名していた。
  今、現在、アメリカは、「日本の放送で、『大東亜戦
 争』と放送する事に、クレームを付けている」。
  日本の放送において、「大東亜戦争」と言えないとい
 う「放送の自由」が、アメリカによって、今だに奪われ
 ている。
  アメリカという国は、日本にこの様な事までしている。
.
1942年、日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々。
  数百年に渡ってオランダの植民地とされたインドネシ
 アでは、昔から一つの伝説が口伝えに語り継がれていた。
  「今に、北方から黄色い人々が現れて、圧政者を追放
 し、トウモロコシの実がなる頃には立ち去る。
  そうして、我々は解放される」・・と。
  インドネシアの方々は、日露戦争で、日本海軍がバル
 チック艦隊を破って大勝利を収めたことを知って、「北
 方から来る黄色い人々とは、日本人の事に違いない」と
 信じる様になり、秘かに、日本の南進を待ち焦(こ)が
 れた。
  1942年、日本軍がオランダ軍を破り、進駐すると、イ
 ンドネシアの方々は道端に集まり、歓呼の声を上げて日
 本軍を迎えた。
  日本軍は、オランダを追放してくれた解放軍だった。
  日本は、3年半の期間に、PETA(ペタ〉と称する軍
 事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定など、後
 のインドネシアの独立の基礎となる多くの改革を行なっ
 た。
  (参考)PETA(ペタ):インドネシアの方々の軍
    隊の祖国防衛義勇軍Tentara Pembela Tanah Airの
    略称。
     1942年、日本軍は、オランダ軍をやぶり、日本
    軍は、は解放のためにやって来た英雄として歓迎
    された。
     また、インドネシアの方々の民族意識の覚醒を
    させた。
     その様な経緯の中、PETAは、1943年の設立
    から終戦までに、ジャワ全土で66大団が編成され、
    約3万3000のインドネシア人将兵が日本式軍隊教育
    の下で養成された。
     日本のインドネシアの方々への活動と支援は、
    オランダの圧政下で、その経験から来た地位と社
    会的環境に甘んじていたインドネシアの方々へか
    なりの影響を与えた。
     この様な中から、スカルノのような政治指導者
    も生み出されるという良いきっかけが作られて行
    った。
  これまで、インドネシアは、350年間続いた軍事力を背
 景にしたオランダによる植民地支配の圧政が続き、苦し
 められて来ていた。
  オランダ人、および、ヨーロッパ人は、この資源が豊
 かな国・インドネシアを『エメラルドの首飾り』と呼ん
 で、その美味しい資源をしゃぶりつくした。
  最初、1596年、オランダは、ヨーロッパ諸国が欲して
 いる香辛料をインドネシアに求めた。
  (冷蔵庫のないこの時代、すぐ腐る肉の臭みを消すこ
 の香辛料は、銀と同じ価値を持つくらい高価であった)
  1602年、オランダは、インドネシアを国ごと自分のも
 のにしようと軍事力を行使し、侵略した。
  この後、すでに侵略していたインドの東インド会社を
 拠点に、例のヨーロッパ列強のやる様に、インドネシア
 からの収奪の限りを尽くした。
  小国のオランダも、その350倍の大きな国・インドネシ
 アを、350年間、好きなようにして利益の限りを吸い上げ
 た。
  軍事力(暴力)の限りを尽くして、インドネシアの方々
 の土地を次々に奪った。
  そして、自分の儲けの大きい作物(香辛料、砂糖、コ
 ーヒー)とさせ、作らせた。
  当然、インドネシアの方々の食糧は無くなった。
  そんなことはお構いなしのオランダだった。
  インドネシアの方々を、オランダが奪ったプランテー
 ションで、「奴隷農場栽培」をさせた。
  食糧の栽培は許さなかった・・
  逆らうと、さらに食糧が手に無い入らない仕組みを、
 オランダは、卑劣にも構築した。
  当然、インドネシア社会には、悲惨な状況・餓死者が
 出た。
  そして、ただの様な超安い賃金で、子供のころから働
 きづめにされた。
  オランダ人は、優雅で快適な生活を送っていた。
  当然、独立の意識は芽生え、幾度となく、戦いも起こ
 したが、その度に、武力の格差が大きく、力なくインド
 ネシアの方々は制圧された。
  そして、その様な反抗の後には、多くのインドネシア
 の方々が、見せしめの拷問や虐殺に会った・・
  卑劣な事に、女性や子供に至るまで、オランダは、こ
 の様な行為を行なった。
  また、オランダに都合が悪いからと、教育の努力は、
 まったくなされず・・そして、愚民化政策が行なわれた。
  そして、キリスト教への改宗を強制し、改宗した者を
 優遇し、差別した・・
  そして、その者たちを良いポジションに付け卑劣な差
 別・・警察官や軍人などの行為をした。
  また、有色人種蔑視観から、インドネシアの方々の人
 権を軽視し、女性は簡単に強姦された。
  その様にして、生まれた混血の子供たちを、中間支配
 層として育て、キリスト教のヒエラルキー(序列)の教
 義で仕分けした(民族の分断も狙っても居た)
  経済は、インドネシアの方々に、携わらせなかった・・
 華僑に行わせた、そして共に、経済的搾取を行なった。
  これは、インドネシアの方々の憤懣を、華僑へ向かわ
 せて、オランダ自身へ直接、憎悪が向かわない様に目論
 んだ結果でもあった・・この点において、オランンダは
 常に、良い子の位置に居られた。
  オランダは、差別的な地域を構築し、環境の良い一角
 に集団で住み、別荘の様な豪邸の居住空間には、差別し
 て・・インドネシアの方々が近づくことを禁止した。
  また、インドネシアの方々が、集会や団体行動をする
 ことを禁じた。
  これは、当然、インドネシアの方々の団結と、その抵
 抗行動を恐れたからだった。
  3人のインドネシアの方が、路上で話をする事すら許
 さなかった。
  この禁止処置を侵せば、反乱罪とされ、処罰された。
  また、インドネシアの方々に、国家意識を持たせない
 様にした・・
  その為に、全国各地にあった320種族語をそのまま
 にさせた・・一つの標準語にまとめさせることは・・そ
 の企ては、「絶対」という厳命で許さなかった(これを、
 オランダを追い出した日本が、インドネシアの方々へ標
 準語を作ようにと促し、努力をした)
  今(2017年)、日本を悪くプロパガンダしようという
 動きが、また、活発的になっているから注意を要する。
  今、真実を隠し、日本を悪く悪く言う動きがある。
  因みに、終戦の時、日本の将兵が、インドネシアに
 1000人も残り、インドネシアの独立戦争に加わり、イン
 ドネシアの独立を目指して戦った方々が居た。
  この様な事をする民族は、日本だけで、歴史上、この
 様な行動する・・行為をする・・国民は居ない。
  インドネシアの方々の身になれば、独立を助けたくな
 る民族が・・「日本民族なのだ」。
.
1945年3月26日、沖縄戦(~6月23日、約3ヶ月間)
  アメリカ軍が、沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸し、
 沖縄戦が始まった。
  凄まじい激戦が行なわれた。
  日本の指揮官の牛島満大将、長勇(ちょういさむ)中
 将、大田実中将が戦死した。
  また、アメリカ軍指揮官のサイモン・B・バックナー
 大将が戦死した。
  戦力:日本116,400人、アメリカ連合軍548,000人
   (1:4.7)
  損害(死者、行方不明者):
     日本、沖縄県民間人94.000人
        兵士28,228人
        県外(兵士)65,908人
     アメリカ、総死者数20,195人
          戦傷者55,162人
          戦闘外傷病者26,211人
     イギリス、死者85人
          戦傷者82人
  物的損害:日本、特攻機1,895機
          戦艦1
          軽巡洋艦1
          駆逐艦1
          その他航空機1,112機
          戦車27輌
       アメリカ、駆逐艦16
          その他艦艇20
          航空機768機
          戦車272輌
          海軍艦艇368損傷
       イギリス、空母5隻損傷
          航空機98機
.
1945年7月25日、保戸島空襲
  終戦まであと数日というこの日、アメリカ軍がこの島
 を空襲した。
  そして、小学校が爆撃され、小学生が、大勢、死んだ。
  大分県津久見市の半島の突端、手の届きそうなところ
 に浮かぶ島=保戸島。
  この島に、この日の午前10時頃、アメリカ軍機が襲っ
 た・・保戸島空襲が起きた。
  アメリカ軍は爆弾を投下し・・また、アメリカのグラ
 マン戦闘機が機銃掃射をした。
  一般島民は逃げ惑(まど)った。
  保戸島国民学校(現:保戸島小・中学校)にもグラマ
 ン戦闘機が来襲し、爆弾を投下した。
  児童・生徒たちのいる校舎を直撃した。
  1年生と5年生の全員が死んだ。
  また、他学年を含め児童・生徒124人が犠牲になった。
  また、教師2名も犠牲となり、学校に来ていた教師の子
 1名も犠牲となり、127名の尊い命が絶たれた。
  何で、ここを攻める必要があるのか?
  何で、ここを攻める理由があるのか?
  この時、小学校3年生だった鈴木研治氏は、一命を取り
 留め・・この時、亡くなった妹(1年生)の昭代(あきよ)
 さんの遺体を探した。
  誰が誰なのか判別できないほど損傷の激しい遺体が横
 たわる学校中を捜した。
  昭代さんの「指1本だけでも見つかってほしい」と捜し
 た。
  しかし、「とうとう見つける事は出来なかった」と鈴
 木氏は語った。
  鈴木さんは、今、お寺の御住職になられている。
  そして、戦災殉難者追善法要をされている。
  参列した中学3年生は、「小学生の時から、毎年、法要
 に参加している。
  現在、毎日、平和な保戸島で、私よりずっと幼い子供
 たちが空襲で亡くなったことを、最初に聞いた時は信じ
 られなかった。
  そんな悲しいことが二度と起こらないよう、私たちが
 保戸島空襲を伝え続けて行きたい」と語った。
.
1985年、この年まで、韓国に、アメリカ軍兵士相手の慰安
 婦所があった。
  実は、慰安婦像は、この事を訴えるために存在してい
 る。
  おとなしくて、優しい、弱い日本をあげつらっている
 が・・
  これは、朝鮮戦争で荒れた国を復興するために韓国と
 いう国が、在韓米軍を新たな復興への資金源としたこと
 に起源がある。
  お粗末な事に韓国という国が、韓国女性を人身御供に
 した。
  その後ろめたい怒りを日本へぶつけた・・、
  この膨大な金は、韓国ヤクザに地価の金として流れ、
 ヤクザの温床ともなった。
  韓国は、ベトナム戦争時には、ベトナムにまで派遣し
 た。
.
2010年、韓国に、可哀想な話であるが、この年まで、「キ
 ーセン・ハウス」という、韓国の国営の慰安婦所があっ
 た。
  これも、外貨を稼ぐために韓国の国が設けていた。
  韓国の某氏が、涙を流して、「この様な事までしなけ
 ればならない国の経済状態です」と泣いたという。
  ソウルのキーセン・ハウスは、「清雲閣」「大苑閣」
 「三清閣」の「3閣」が有名な慰安所だった。
  また、伝統的なキーセン・ハウスで残っていた「梧珍
 庵」 (오진암) は、この年、閉店した。
  何も、韓国が、デッチ上げの嘘で騒ぐ、一時期の日本
 人兵士対象の慰安婦ばかりでなく、
  韓国は、卑劣な事に、常に、自国民や、駐韓アメリカ
 人兵士を対象に、『常態化した形』で慰安婦の接待所を
 作って行って来た歴史がある。
  また、中国に冊封され、属国化された韓国・朝鮮半島
 は、中国に対しても、常態化した、そして、慣習的に、
 常に、盛んに慰安婦接待を行なって来た歴史がある。
  (参考)高麗から李氏朝鮮末期まで『約1000年間』、
     常に、2万名~3万名の妓生がおり、
      また、卑劣な事に、自国民を対象に、李朝時
     代には官婢として各県ごとに10名~20名、郡に
     30~40名、府に70名~80名ほどが常時置かれて
     いた。
      行政の一業務として行った糾弾すべき事実が
     ある。
      それこそ女性の人権を、長い歴史の間、踏み
     にじって来たという『世界遺産に登録すべき項
     目』がある。
      『朝鮮の女性方の1000年の恨みは、ここにこ
     そある』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年8月11日、鉄道庁の定員を改正した(勅令第72号)
1892年8月15日、イギリスで第4次グラッドストン内閣が成
 立した(~1894年)
  総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドスト
 ンは82歳となっていたが首相となった。
  82歳の年齢は、イギリス史上初で「大老人 Grand
 Old Man」と言われた。
  1893年9月、グラッドストンは、新たなアイルランド自
 治法案を議会に提出した。
  下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の
 反対で、大差で否決された。
  グラッドストンは、上院改革を断行してでも法案を通
 すつもりだった。
  しかし、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳
 で辞任した。
  アイルランド問題について・・彼が追求したアイルラ
 ンドの解放というアイルランド問題の解決は、保守勢力
 の抵抗で実現できなかった。
  しかし、この国民的な課題に対して、貴族の既得権に
 固執する上院に対する批判が強まり・・、
  20世紀に入って、1911年の議会法制定で、上院の権限
 は大幅に制限され・・、
  1914年、ようやくアイルランド自治法が成立した。
  しかし、第一次世界大戦の勃発によって実施は延期さ
 れ、さらに、アイルランド側の『完全独立』を求める運
 動が激化し、解決は遠のいてしまった。
1892年8月16日、関西鉄道会社が運賃を値下げする。
  中等運賃を下等運賃の5割増に改めた(従来は、下等運
 賃の2倍だった)
1892年8月17日、露仏軍事協定(秘密協定)が成立した。
  ロシア・フランス間に成立した政治的および軍事的な
 相互援助同盟で・・、
  この頃、経済的対立を含んだヨーロッパ情勢は混迷し
 ていた。
  1890年、独露間の再保障条約が満期となり、ドイツが
 その延長を拒否したことから・・、
  1891年から公然化して、ロシアとフランスが接近し、
 対ドイツ防衛同盟の性格を帯び、発展して行った。
  1891年に、政治協定を結び・・、
  1892年、軍事協定(秘密協定、1918年まで秘密にされ
 た)を締結した。
  また、1894年1月4日に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係(軍事協約)が確定した。
  また、イギリスが加わって三国協商となって、三国同
 盟(ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟、1882
 年成立)と対立した。
  ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、世界政策を掲げ(ビ
 スマルクを退け、自身が前面に出て、帝国主義的膨張政
 策をとった。列強の既得権とぶつかると、軍事力を背景
 にした行動を示した)、
  艦隊法(イギリスを仮想敵国として、対抗できる海軍
 を建設するという目的)の制定以降、イギリスとの建艦
 競争に突入した。
  そして、3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バク
 ダードを鉄道で結び、ドイツの影響下に置く)を企図し
 て、ロシアとの関係も悪化させた。
  露仏同盟は三国協商の土台となり、また、それは日英
 同盟と結びついて対独包囲網を形成した。
  日本が、第一次世界大戦でドイツと戦う流れとなる。
1892年8月27日、アメリカのメトロポリタン歌劇場が火災と
 なる。
  1883年10月23日に竣工した最初のメトロポリタン歌劇
 場の建物で・・、
  ブロードウェイ39丁目~40丁目にかけて建てられた。
  設計は、J.クリーヴランド・キャディ 、
  この火災の後、大規模な修復を経て・・、
  1966年に、現在のニューヨーク市マンハッタン区リン
 カーンセンターに移転するまで使用された。
  この劇場は、歴史的建造物として認められず、1967年
 に解体された。
  移転後の現在の歌劇場は、アメリカ随一のオペラ・ハ
 ウスとなっている。
1892年8月、第一次松方内閣が総辞職し、伊藤博文が後継内
 閣を組閣した(詳細は、前掲を参照ください)
1892年8月、津田梅子が、アメリカ再渡米より帰国した。
  津田梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫
 妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新
 宿区南町)で、1864年12月31日に生まれた。
  父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失
 った。
  父・仙は、北海道開拓使次官の黒田清隆(女子教育に
 も関心を持っていた)が企画した女子留学生に梅子を応
 募させた。
  そして、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  アメリカでは、ジョージタウンの日本弁務官書記のチ
 ャールズ・ランマン夫妻の家に預けられた。
  1882年(18歳)11月、日本へ帰国した。
  帰国した梅子は、幼少からの長い留学生活で日本語能
 力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風
 習にも不慣れであった。
  1883年(19歳)、伊藤博文と井上馨邸での夜会で再開。
  この頃から、伊藤家へ英語指導や通訳のため雇われ、
 伊藤家に滞在し、下田歌子から日本語を学ぶ、また、歌
 子の私塾の英語教師となる。
  1885年(21歳)、伊藤に推薦されて、学習院女学部か
 ら独立して設立された華族女学校で英語教師をする。
  梅子は、上流階級的気風には馴染めなかったようで・・、
  この頃、縁談が何度かあるが・・断り・・生涯未婚で
 居ようと思ったようである。
  1888年(24歳)、留学時代の友人が来日して会い、再
 度の留学をしたいと思った。
  そして、父の仙の知人で、日本の商業教育に携わって
 いたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・ク
 ララの仲介で留学希望を伝え、学費免除の承諾を得て、
 校長の西村茂樹(教育者、文学博士、道徳振興団体「日
 本弘道会」創設者)から2年間の留学を許可された。
  1889年(25歳)7月、再び渡米した。
  この後、1900年(36歳)7月、父の仙や、アリス・ベー
 コン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、
 「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府
 知事に提出し、認可を受けると東京麹町区に開校し、塾
 長となった。
1892年9月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間(41.8km)
 が開通した(開業:1892年9月8日)
  1872年に、佐野孫右衛門により、アトサヌプリ山麓の
 硫黄山で硫黄採掘が始まり・・
  当初は、馬と川船によって釧路まで運ばれていたが、
 後に、標茶まで馬搬になり、標茶から湧比別(後の五十
 石)まで50石船で、湧比別から釧路は100石船で運搬した。
  標茶に大規模な精錬所が建設され、鉄道の敷設が望ま
 れた。
  故に、釧路鉄道は、北海道東部の硫黄山で産出される
 硫黄の輸送を目的とされた。
  北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの最重要の要人が、『GHQが、日本国憲法(第9条:戦争放棄等)を
   作らせたのは間違いだった』と言った。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1867年3月、アメリカの黒人の方々は、ジョンソン大統領
 (第17代大統領アンドリュー・ジョンソン)と対峙し、
 黒人の方々独自の『再建法』を成立させた。
  また、上院の承認なしに政府の要人を大統領が勝手に
 罷免する事を禁じた『官職保有法』を制定させた。
  しかし、この後、反動の時代が来て、これらの黒人の
 方々の努力は、完全に崩壊し、無になって行く。
  「根強い反動のアメリカ」があった、黒人奴隷制に戻
 ろうとする動きが、この後に、アメリカに始まる。
.
1869年、アメリカの大陸横断鉄道が完成した。
  アメリカの・・西部へのインディアンの方々の地への
 侵略行為、奪取行為に、この鉄道は大きく関係した。
  中国も、このアメリカの行為を真似して、チベットへ
 の鉄道をいち早く完成させた。
  アメリカの鉄道網の伸長はめざましかった。
  1860年には、3万マイルだった鉄道が・・、
  1880年には、9万3000マイル・・、
  1900年には、19万3000マイルとなった。
.
1873年、アメリカに経済恐慌が起きる。
  アメリカで、資本の集中が進み、特定の所へ資本が集
 積されて行った。
  1879年、スタンダード石油が、トラストを成立させた。
  また、その他、アメリカ国内に、巨大なトラストが、
 多数、作られて行った。
  アメリカは、独占資本主義の世界となった。
  資本家(特に、北部資本家)がやりたい放題の世界と
 なった。
  1890年に、シャーマン反トラスト法が制定された。
  この様なアメリカ社会が、米西戦争を起こさせた。
  アメリカは、領土欲のある帝国主義国家と一層なって
 行った。
.
1876年、アメリカの憲法修正が行われた。
  1870年頃~1876年までの頃、ワシントンの国会には、
 14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員が生まれた。
.
1877年、この年の夏、アメリカ最初のアメリカ全土におよ
 ぶ鉄道の大ストライキが起きた(北部資本家の悪行への
 抵抗)
  アメリカは、狡猾(こうかつ、悪賢いこと。悪い事ば
 かりして、悪い方面にばかり知恵がまわること)だった。
  自分だけの勝手な理屈で、『自分さえよければ良い』
 が、常に、そこにあった。
  この頃、黒人の方々は、「アメリカ北部の資本家と、
 南部のプランター」の『連合支配』に苦しんだ。
  黒人の方々は、その強烈な圧力に対峙(たいじ)して
 行かなければならなかった。
  この支配は、非常に強靭な支配で、黒人の方々を苦し
 め、そして、迫った。
  「奴隷制のあった時代」への、完全な揺り戻しだった。
  大統領職が転がり込んだヘイズ大統領(第19代大統領、
 任期:1877年3月4日~1881年3月4日)は・・、
  南部から連邦軍を撤退させて、その揺り戻しを助長さ
 せた・・、
  また、この年・1877年夏から、アメリカ最初のアメリ
 カ全土におよぶ鉄道の大ストライキを「弾圧した」。
  大統領のヘイズは、「資本家側にまわって」資本家を
 擁護し、労働者を弾圧した。
  アメリカ南部では、復活した旧奴隷所有者が、黒人の
 方々を搾取する新しいシステム=「プランテーション奴
 隷制度に変わる刈分小作制度(シェアクロッピング・シ
 ステム、Share cropping system)」を出現させ、黒人の
 方々から利益を搾り取った・・
  また、アメリカ北部の独占資本家たちも、南部のこの
 様な搾取制度を最大限に利用して、南部を支配した。
  そして、アメリカ北部も「おいしい搾取の汁を吸った」。
  また、南部の黒人の方々を、その様な虐げた状態にし
 ておくことによって、アメリカ北部の労働力を低廉な状
 態にしておくことが出来ることから、アメリカ北部資本
 家も最大限にこの動きを利用し関与した。
  アメリカ北部の白人労働者の労働条件改善闘争を押し
 止めることに使った。
  アメリカ北部の資本家と南部プランターとの利益は一
 致していた。
  また、卑劣な事に、この北部資本家が、また同時に、
 南部の土地所有者となり、黒人の方々から、『直接に』
 搾取した。
  儲かれば人権なんて関係ないという北部も南部もない
 アメリカだった。
  弱者の方々を虐げる「アメリカ北部と南部が共同する
 社会・・非人道的社会」が現出した。
  しかし、この様な苦悩の中から黒人の方々は、また、
 立ち上がって行った。
  緑背紙幣(グリーンバック)運動やグレンジャー運動
 が、1870年代~1880年代初めにかけて湧き起こった・・、
  そして、これを受けて人民党運動が、アメリカ全土に
 展開されて行った。
  (参考)緑背紙幣(グリーンバック)運動:リンカー
     ンが発行した緑背紙幣の価値暴落に苦しんだ農
     民などの人々の運動。
  (参考)グレンジャー運動:1870年代にアメリカ中西
     部を中心に起った農民運動。
      南北戦争後まもなく、農産物は過剰生産の結
     果、価格が下落の一途をたどり、農民の生活は
     破綻の危機にあった。
      この農民の方々の不満が組織化されて行きグ
     レンジャー運動となった。
      その初めは、農務省の一官吏が設立した「農
     業保護」組織が通称グレンジであり、
     この組織の会員がグレンジャーと呼ばれた。
      この団体は、初めは、政治活動に参加しなか
     ったが、1873年の恐慌後は、積極的に政治運動
     に進出した。
      農民に最も身近な問題・・鉄道会社の運賃や
     倉庫保管料の規制、税制改革などを州議会に訴
     えるようになり・・、
      1874年には、約150万人の会員となった。
  この様な南部の闘争と北部の労働運動が結びついて、
 政治運動として発展し・・、
   1891年には、既存政党に対抗して人民党(ピープル
 ズ・パーティ)が結成された。
  (参考)人民党:アメリカ南部(特にノースカロライ
     ナ州、アラバマ州、テキサス州)の貧しい白人
     綿花農家や、アメリカ中西部の平原にある州(
     特にカンザス州とネブラスカ州)の追いつめら
     れていた小麦農家などを支持基盤とした。
      農本主義と、銀行、鉄道、エリートに対する
     敵意という急進的な運動形態を採った。
      労働組合と連衡する場合もあれば、
      1896年には、民主党が、人民党の大統領候補
     者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを公
     認した。
  アメリカ北部政権が、プロパガンダ(嘘宣伝)する「
 アメリカ北部政権の偉人・リンカーンが奴隷解放しまし
 た、それで、黒人の方々が奴隷の身分から解放されて、
 自由を獲得しました」なんていう話は、まったくの作り
 話で・・その様な状況では『まったくない』。
  黒人の方々の血を吐くような戦いが、それも長い戦い
 があった。
  そして、アメリカは、今・現在においても、まだまだ
 黒人の方々を虐げている。
  その根っこには、「キリスト教による有色人種への蔑
 視観と洗脳がある」。
  この洗脳が、なかなか無くならずに続いている。
  今でも、黒人の方々を差別する行為が続いている。
  KKKが復活しているニュースも報道された。
.
1880年、アメリカの工業力が、イギリスを抜いて世界一に
 なった。
  1860年には、イギリス、フランスに次いで第3位だった。
  また、1870年には第2位。
  アメリカは、この1880年代を境に、農業国から工業国
 へ転換した。
.
1880年代、アメリカの西漸運動による、アメリカ西部への
 侵略行為は、この頃、太平洋岸に達した。
  1890年の第11回国勢調査でその開拓線の消滅が表明さ
 れた。
  アメリカの開拓線が消え、この後、太平洋の国々を奪
 って行く・・ハワイの悲劇など・・フィリピンの悲劇な
 ど・・そして、フィリピンを土台として中国へ・・
.
1900年、アメリカの発展、この年、製造工業が130億ドルに
 なった。
  これは、1860年が19億ドルで、その約7倍となった。
 ☆また、1900年の賃金労働者数が530万人であり、1860年
  の131万人の約4倍となった。
 ☆また、1900年の投下資本額が90億ドルであり、1860年
  の10億ドルの約10倍となった。
.
1914年、アメリカの発展、1914年に、アメリカは、鉄鋼が
 世界第2位で、機械工業が第4位だった。
  これは、1860年には、首位部門が農業生産に関すると
 ころだった(農業から工業への転換)
.
1945年2月8日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大
 統領は、ソ連のスターリンと秘密会談を行い、対日本戦
 への戦いに参戦することを促した・・誘った。
  そして、日ソ中立条約の『一方的破棄』をソ連に促し、
 そそのかした・・アメリカのルーズベルトの悪行の一つ・・、
  この密談は、日本領の南樺太と千島列島、満州国の権
 益(南満州鉄道や港湾などが含まれる)がソ連のものと
 なるという美味しい話(えさ)で誘った。
  しかし、このアメリカ大統領ルーズベルトが行なった
 この密約の「領土に関すること」は、『領土の不拡大』
 を規定し、宣言した『大西洋憲章に違反する行為』だっ
 た。
  (参考)大西洋憲章は、1941年8月9日から8月12日に行
     われた大西洋会談において・・、
      アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルー
     ズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チ
     ャーチルによって調印された憲章で、世界構想
     として述べたもので、世界各地に適用されると
     した、故に、この後、世界の各国が参加を表明
     し、遵守を誓った。
      この中には、「領土の拡大意図をもって戦争
     をすること」も否定され・・さらに、なお・・、
      「領土を変更するときは関係国の人民の意思
     を尊重する」ことが決められた。
      しかし、アメリカは、自分の都合が悪くなれ
     ば、この様な事を無視し、破るアメリカだった。
.
1945年6月、日本は、6月頃から戦争終結をめぐる最高指導
 者会議を何度となく開いた。
  日本は、対日参戦を秘密に決めた(ヤルタ密約)、そ
 して、その参戦の準備を進めているソ連に、そうだとは
 知らず、連合国との講和の仲介を依頼していた。
  ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要
 閣僚は、条件付きの降伏要求である事に着目し、これを
 『受諾する方向となった』。
  しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張してゆずらな
 かった。
  日本政府は、当然、仲介依頼をしているソ連の返答を
 待った。
  原爆投下は、その様な状況の中に落とされた・・
  アメリカは、ソ連から、「日本が戦争終結したいとの
 仲介」を求められて来ていることを、ソ連のスターリン
 から知らされていた・・にもかかわらず無視し、卑劣に
 も、広島に、そして、長崎へ、原爆を投下した。
.
1945年8月9日、深夜、昭和天皇陛下の御臨席のもと御前会
 議が開かれた。
  ポツダム宣言の即時受託について、意見は賛否同数と
 なった。
  8月10日午前2時、鈴木首相が、天皇陛下の前に進み出
 てご聖断を仰(あお)いだ。
  天皇陛下は、『ポツダム宣言の即時受託』による日本
 の降伏を決断された。
  以下は、この終戦の御聖断の後、昭和天皇陛下の御発
 言を迫水久常書記官長が証言している・・、
  「・・この様な状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、
 私は非常に心配である。
  あるいは日本民族は、みな死んでしまわなければなら
 ないことになるのではないかと思う。
  そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝える
 ことが出来るのか。
  一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その
 人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この
 日本を子孫に伝える方法はないと思う。
  ・・みなの者はこの場合、私の事を心配してくれると
 思うが、私はどうなってもかまわない。
  私はこういう風に考えて戦争を即時終結することを決
 心したのである」(迫水久常書記官長の証言より)
.
1945年8月10日、午後8時すぎ、その旨を同盟通信社のモー
 ルス信号と、日本放送協会の海外向け放送が伝えた。
  『世界に対する、事実上の日本の終戦の意思表示とな
 った』・・ソ連の参戦の意味は、一層、無くなった。
  善意ある正義のアメリカであれば、『ソ連の参戦を停
 止させるべきだった』・・その様にしないアメリカであ
 ったため、各地での悲劇が起きた・・特に、ソ連の満州
 の虐殺行為と多数の拉致行為など・・、
.
1946年、この年の1946年まで「日ソ中立条約は有効だ」と
 いう事を、日本とソ連の間で条約により約束されていた。
  アメリカのルーズベルト大統領が、1943年10月に、ソ
 連へ「対日戦に参戦する」ように要請した(歴史書には
 この言葉が使われている)・・要請と言っても・・その
 話には、卑劣な事に、ソ連が喜ぶ、そして、とくをする
 餌(えさ)の話が付けられていた・・このニュアンスが
 消えている。
  その話は・・ソ連が参戦すると得るだろう「千島列島
 や樺太」を、ソ連の領土にする事をアメリカは認めると
 話しかけた・・「奪ってしまえば・・」という悪辣な誘
 いである。
  領土欲のあるスターリンは、ソ連は、その話に乗った。
  ルーズベルトは、この様な性格のスターリンを良く知
 っていた。
  ここに、新たな悲劇が始まった。
  ソ連は即座に、敗戦濃厚となっているドイツを破った
 後に参戦すると回答した(即答した)。
  即、回答するような美味しい話を、アメリカは、ソ連
 へ持ちかけ、そそのかした・・そして、その戦いの武器
 まで、アメリカはソ連へ運び入れ・・渡した。
  そして、事実、その通りとなった・・というより、武
 器までもらったら、その通りになるでしょう・・、
  この時のはるか以前に、日本とソ連は、 1941年4月13
 日に、「日ソ中立条約」を締結していた。
  この条約によって、ソ連は、極東に配備していた部隊
 を西部へ移送し、モスクワ防衛線へ投入した。
  そして、この条約は5年間、『1946年まで有効』という
 事まで決めていた・・約束していた。
  そして、その時に、さらに延長するかどうかを決めよ
 うとなっていた・・この様にも決めていたのである。
  その様な事を知っているのに、アメリカ大統領のルー
 ズベルトは、自分さえよければ良いの勝手な思惑で、ソ
 連に誘いの話をした。
  この事による悲劇は・・1945年8月8日にやって来た。
  ソ連は、対日攻撃を開始した。
  長崎に原爆が投下される前日だった。
  日ソ中立条約の『一方的無視』の破棄の参戦だった。
  アメリカのルーズベルト大統領の誘い水どおりとなっ
 た。
  1945年8月9日、ソ連は、満州になだれ込んだ。
  戦場は、満州以外にも、北朝鮮・南樺太・千島列島に
 おいても戦闘状態となって行った。
  1945年5月のドイツ降伏後、ソ連は、シベリア鉄道を
 フル稼働させて、満州国境に巨大な軍事力を集結させて
 いた。
  突入してきたソ連軍は、満州の荒野を開拓していた満
 州開拓団として行った日本の一般市民を襲った・・家族
 の方々は逃げまどった。
  特に、国境付近の開拓居留民の多くの方々は、この進
 攻したソ連軍に踏みにじられ虐殺された・・逃げまどっ
 た。
  さらなる悲劇として、このソ連軍の暴挙に乗っかって、
 匪賊(徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊)となっ
 た者たちに日本の方々は餌食とされた。
  当時、満州の首都の新京だけでも14万人の日本人市民
 が居た。
  地獄となった人々・日本人家族たち、そして、1945年
 8月11日に、この日に新京から逃げる18本の列車が出た(
 正午頃までに)。
  逃げられた日本人家族は、3万8000人だった。
  逃げた3万8000人のうち、53%の20310人という半分以上
 が軍人関係家族だった。
  そして、44%の16700人が満鉄関係の家族だった。
  ほとんどが、この両方で97%で、脱出のための仕立てら
 れた列車は、軍と満鉄の家族のためだった。
  残りは、大使館関係者750人(2.0%)、そして、民間人
 家族は240人(0.6%)であった。
  ほとんどの一般日本人市民・開拓団民の方々は、満州
 に置き去りにされた。
  満州に残された一般の日本人の方々に悲劇が始まる。
  ソ連軍突入で、即座に、多くの方々が亡くなったが・・、
  歴史として語り継がねばならない事件の一つは・・、
  1945年8月12日の満州の麻山付近で、約400名の日本の
 方々が、追い詰められ悲惨なうちに集団自決(自殺)し
 た事件・・、
  この様な事件は、この地の各地で起きた。
  興安街付近では、東京荏原開拓団で行った方々が中国・
 暴民に襲撃されて、約400名の日本の方々が虐殺された。
  また、仁義仏立開拓団の日本の方々が、ソ連の機甲部
 隊の一斉射撃を受け、600名以上が虐殺されたなどなど・・
 など、筆舌につくせぬ事ごとが起きている・・、
  1945年8月14日には、葛根廟(かっこんびょう)事件が
 起きている。
  満州の葛根廟鎮において、日本人の避難民の方々の約
 千数百人の方々が、この人たちは、9割以上が婦女子で、
 この人たちが、ソ連軍や中国人に襲撃され、1000人以上
 のほとんどの方々が・・ソ連軍に虐殺されている。
  別な場所でも、白旗を上げているのに関わらず・・、
 ソ連の戦車の機関銃が火を噴き、この銃撃で、多くの方々
 が亡くなっている。
  また、避難する方々を焼き殺したり、機関銃を撃ちな
 がら、掃射をしながら・・引き殺したり・・、
  ソ連軍の戦車のキャタピラに巻き込まれて・・引き殺
 された日本人の方々が・・宙に舞ったりしたという悲惨
 な光景が伝えられている。
  そのあと、ソ連軍戦車は、丘の頂(いただき)に戻り、
 また避難民の方々を、めがけて突入しながら・・繰り返
 し、繰り返し・・機銃掃射や攻撃するということを執拗
 に繰り返した。
  完全に軍人ではない『非戦闘員の方々』への殺戮行為
 で、国際法で違反とされる、許されていない行為で・・
 『あからさまな非人道的違反行為をするソ連軍』だった。
  東京裁判で裁くべきだった・・が、差別的な、また、
 不公正なこの裁判で、裁かれる訳はなかった・・
  また、トラックで来たソ連兵が、民間人の、避難民の
 生存者を見つけ次第・・次々と、銃剣で刺したり・・、
 射殺したりした。
  2時間ぐらいの間に、女性や子供を主体とした1000人
 以上の方々が殺害されてしまった。
  男性は、兵士に駆り出されたりしていたので、南方方
 面へ転戦したりしていたので、ほとんどが女性や子供た
 ちが多いという状態だった。
  そのあまりにもの悲惨さに、自ら命を絶つ、自決・自
 殺する日本人の方々も、多い状態だった。
  頼みの日本の軍隊は、既に、南転と言って、南方諸島
 の激戦地に行って居なかった、日ソ中立条約もあったし・・、
  僅かに残った日本軍も奮戦したが、全滅したりしてい
 た。
  そして、その避難民の方々、僅かに残った生存者にも、
 襲撃が執拗に続いた。
  中国人も暴徒化して、身に付けている下着まで奪って
 行った。
  乳房を鎌で切り落とされる女性、川に逃げで溺死する
 人々、幼い子供達への襲撃、国民学校の児童たちの死・・、
 悲惨な・・地獄であった。
  子供を連れた母子に、子供を奪い、母は棒で殴りつけ
 られ、殺されたりした。
  親が殺された子供たちは、生き残った大人たちのとこ
 ろに集まっていたが、暴民たちは、その子供たちに襲い
 かかり、奪って行った。
  この子供たちは、売られたりするのが一般的だった。
  悲しいことに、8月15日の終戦が完全に過ぎてもソ連の
 襲撃などは続いた(日本の終戦の通達は8月14日)
  ソ連兵などに見つかり、暴行を受け、強姦される女性
 たちも多かった。
  また、ソ連兵は、家に火を付けて回った。
  隠れていた家に、火を付けた枯れ草を投げ入れられて、
 焼け死んだ人たちなども多かった。
  また、中国残留孤児や中国残留婦人となった方々も多
 く居た。
  これは、明らかにソ連は軍人であり、軍隊である。
  一般民間人に対する殺戮行為は、「戦争犯罪」である。
  無差別な大量虐殺のジェノサイドである。
  ナチスのユダヤの方々に対する行為を、ドイツの方々
 のジェノサイド行為であるとの反省行動と同様な行為を、
 ソ連は、なすべきである
  また、共犯であり間接原因者であるアメリカも、反省
 を表明すべきである(謝罪文を書きなさい)。
  アメリカが、原因者の一端に居る事は、今後も免れ得
 ない。
  満州人や朝鮮人には襲撃しなかった。
  日本人を狙っての行為だった。
  ソ連兵の卑劣な行為が多かった、女性方は暴行された。
  ソ連兵は、物を奪い持ち出す様に、日本人女性方を車
 に乗せて連れ去った。
  その様な女性が、ボロボロになって帰って来る場合も
 あった・・そしてまた、若い女性が牡丹江に流されて行
 くという姿もあった(帰れずに川に身投げ)。
  行方不明となってしまった女性方が数知れず居た。
  ソ連参戦で、色々な事があったのだが、抜粋的に記し
 ているのだが・・、
  次の記述も、戦争が終わっているというのに、起こさ
 れたことである。
  戦争が終わっているのに起こされているので、ソ連の
 不法行為であるが・・、
  1945年8月22日に、日本が無条件降伏をしているのに、
 ソ連は日本を攻めた。
  何と!戦争も終わって、引き揚げる方々へ、日本の引
 揚者を乗せた船が、ソ連軍の潜水艦の攻撃によって沈没
 させられた。
  それも2隻もある・・小笠原丸と泰東丸である。
  1708名の尊い命が、日本へ向かって帰国の途にあった
 日本人の方々が亡くなった。
  樺太からの婦女子を主体とする引揚者の方々だった。
  この2船の外にも、白旗を掲げたにもかかわらずソ連
 潜水艦は攻撃し、沈没させられた船がある。
  667名の方々が亡くなった。
  ソ連との平和条約の締結時には、これら上記のことな
 どの補償をソ連はするべきである。
  そして、満州では、まだまだ悲劇が続いていた。
  1945年8月27日には、ソ連軍に『連日に渡り強姦』を
 され続けていた日本人女性の方々が・・可哀想な事に、
 集団自決をするという事が起きた。
  この悲惨過ぎる事件が起きた場所は、満州国吉林省だ
 った・・敦化(とんか)事件という。
  悲惨な強姦の多い状況は、筆舌につくせない。
  また、ソ連兵は、日本人を使役し、線路などもはがさ
 せたりした。
  そして、その線路は、持ち去るという様な事までした。
  1945年8月27日には、ソ連軍に遭遇した日本人の開拓団
 の一般の方々が、ソ連軍から攻撃を受けた。
  950名の方々が亡くなられた。
  そして、まだまだ悲劇は続いた。
  その為、行く末に希望を無くした方々の514名が後に続
 くと、集団自決した。
  この他にも、この様な事例は多数。
  終戦後に、ソ連は酷いことを不法を続けている。
  1945年9月2日に、東京湾内に停泊するアメリカ戦艦ミ
 ズーリ号の甲板で、日本政府全権の重光葵と大本営(日
 本軍)全権の梅津美治郎、及び、連合各国代表が、降伏
 文書(休戦協定)に調印しているが、
  この様な状況であるのに、不法にもソ連は、まだまだ、
 日本を攻撃を続けていた。
  ソ連が、勝手に続けていた不法行為が、やっと止めた
 のが・・1945年9月5日だった。
  この日に、ソ連軍が、やっと、日本への攻撃・戦闘行
 動を止めた。
  ソ連は、ポツダム宣言受諾も無視し、また、日本の降
 伏文書調印をも無視し、何もかも無視して不法行為をし
 ていた。
  戦闘行動を続けていた。
  ソ連が支配下に置いた地域は、国後(くなしり)・択
 捉(えとろふ)・歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)
 の北方4島、および、千島列島全域・南樺太・朝鮮半島・
 満州だった。
  ルーズベルトアメリカ大統領のソ連参戦の誘い水とお
 りの行動だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの、『千島列島や樺太
 の領土をソ連が得ることを容認するから」と・・、
  ソ連の対日参戦を餌を付けて促(うなが)していた悪
 辣行為が・・、
  日本人の無実の・・一般の方々の、あまりにも悲惨な
 大きな悲劇も起こされいた。
  これでも・・以上は一部の抜粋です。
.
1950年8月9日、エイズ薬開発者が生まれた。
  この偉大な医学者が、日本の満屋裕明先生で、この日
 に生誕された。
  死に至る病気と、世界中で恐れられていた「エイズ・
 ウィルス感染症」の治療薬を作り出した。
  この真の救世主である満屋裕明(みつやひろあき、1950
 年8月9日~)先生は・・、
 日本のウイルス学者で、熊本大学医学部内科学の教授・・、
  そして、アメリカ国立がん研究所内科療法部門レトロ
 ウイルス感染症部部長でもあり、
  国立国際医療研究センター臨床研究センター長(2012
 年~)などなど・・要職を色々と持たれている方・・、
  1985年(35歳)の時、アメリカ国立衛生研究所で、世
 界初のHIV治療薬「AZT」を開発した。
  同時に、論文発表もされた・・
  これは、しっかしとした「世界最初の開発者・発明者
 である」と証明している文献となっている。
  当然、特許権者である・・が・・、
  (参考)AZTは・・抗ウイルス化学療法剤で・・、
     強力な抗ヒト免疫不全ウイルス(HIV)作用
     を示す。
      HIV特有の逆転写酵素を阻害し、正常細胞
     への影響は少ない。
      本剤は、後天性免疫不全症候群(エイズ)及
     び、治療前のCD4リンパ球数500/mm3以下の症
     候性、及び、無症候性HIV感染症の患者にお
     いて、臨床的な有用性が認められている。
      主な副作用は、貧血、及び、白血球減少。
  満屋裕明先生のこの功績、この開発に対し・・、
  アメリカでの特許権は、実験に協力していたバローズ
 ウェルカム社が、満屋先生に無断で特許を出願してしま
 った・・(不正行為)・・、
  さらに卑劣な事に、発明・開発者欄に、満屋裕明先生
 の名前を書かずに出願した・・独占的に奪った行為・・、
  当然、書くべき・・そして、当然、書かねばいけない
 発明者である満屋先生の名前を書き入れなかった。
  そして、特許権を取得してしまった。
  完全に、特許権を奪う行為をした。
  また、満屋先生は、同社が高価格でAZTを売り出し
 たことが不本意で・・(先生は、エイズに苦しんでいる
 方々へ安価に薬を提供したかった)
  その為、当然の怒りを示され・・さらに、新しいHI
 V治療薬の開発・研究へと励まれた。
  先生のさらに偉大な所は、第2、第3のエイズ治療薬
 を新たに開発されたところだった。
  世界で2番目と3番目のHIV治療薬(「ddⅠ
 (en:Didanosine)」と「ddC (en:Zalcitabine)」)を開発
 された。
  これ等の薬を、満屋先生は、ライセンスを企業に与え
 る際に、『適切な価格での販売』を条件にしている(苦
 しまれている患者の方々を救うことに主眼を置かれてい
 る)
  この事例の様に、アメリカは、日本の重要な特許を、
 今まで「いくつも奪って来ている」。
  満屋先生は、2007年に、紫綬褒章を受され・・2015年
 には、日本学士院賞を受賞された・・また、慶応医学賞
 など受賞多数となっている。
  エイズは、かつては、死を意味していたが、今では、
 早期に治療開始によって、先生の功績のお蔭で、その様
 な状況ではなくなった。
  世界は、今でも、エイズ患者が増え続けるという状況
 にあり、ますます、先生の功績の恩恵を受ける人々が増
 え続けている。
  エイズ(後天性免疫不全症候群:AIDS)は、ヒト
 免疫不全ウイルス(HIV)の感染によって引き起こさ
 れ、1型と2型があり、日本では、1型が流行している。
  性感染が多く、また、血液を介しても感染する。
  また、感染した母親から出産時に新生児に感染する危
 険もある。
  そして、血液で汚染した針の使いまわしの感染もある。
  HIVは、免疫を制御するCD4陽性細胞(T細胞、
 マクロファージ、樹状細胞など)に選択的に感染し、自
 らの遺伝子をヒトの遺伝子に組み込む。
  その後、感染したCD4陽性細胞を破壊しながら増殖し、
 一部の感染細胞は破壊されることなく休眠し、人の体内
 で長い期間潜伏する。
  このため、HIV感染症は自然に治癒することはない。
  薬剤治療でも根治ができない。
  急性期HIVに感染すると、感染後2週間目から4週
 間目くらいの間に、HIVは、急激に体内で増殖を始め、
 CD4陽性リンパ球が破壊されて行く。
  この時期は、発熱・のどの痛み・だるさ・下痢など、
 風邪やインフルエンザに似た症状から、筋肉痛や皮疹な
 どが出る場合もある。
  2006年には、満屋先生が、アメリカの研究者との共同
 研究で開発したHIV治療薬「ダルナビル (en:Darunavir)」
 が、アフリカの方々や途上国の方々が、特許料を払わず
 に使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録さ
 れた。
  それ故、満屋先生は、エイズ治療薬を4つも作られた。
  研究を開始する時(初め)、満屋先生は、「アメリカ
 でエイズの研究をしないか?」と皆が言われた時、あま
 りにも酷い病気・死に至る病気であるため、皆がしり込
 みをした。
  しかし、満屋先生は、自ら進んで研究を始められた。
  この様な経緯から・・満屋先生は、この素晴らしい功
 績をあげられた(佐藤健太郎著「世界史を変えた薬」を
 御覧ください)
  この大変素晴らしい功績、多くの人類を救済をされて
 いる業績・・、当然、ノーベル賞級の人類貢献であるが、
 キリスト教国に甘い・・偏するノーベル賞検討委員会は、
 今だに、先生へ、ノーベル賞を送っていない。
  「エイズが駆逐された」という現代になっても・・
  その功績が偉大であると明白となった現時点に至って
 も、
  世界中の方々が、安心領域の病気となったという現在
 においても、先生へ、ノーベル賞は送られていない。
  30年以上も前に作られた功績であるが、まだノーベル
 賞は送られていない。
.
1953年11月、ニクソン・アメリカ副大統領が来日した。
  そして、『日本の憲法に、第9条(戦争の放棄)を入
 れたのは間違いだった』と言った。
  このニクソン発言は、日米協会が主催した午餐会で発
 言された。
  この時のニクソン発言は・・、
  「日本の非武装化は、1946年の時点では正しかったと
 しても、1953年の段階では間違いではないだろうか」と
 言った・・そして・・さらに、
  「私は、この場で、1946年に、アメリカ合衆国は過ち
 を犯したことを認めよう」・・と・・、
  アメリカの最大級の要人・ニクソンが・・、
  1946年の日本の憲法改正によって、『アメリカが、日
 本を非武装化したのは誤りであった』と明確に意思表示
 して・・示した。
  しかし、このニクソン副大統領の発言を、朝日新聞は、
 いつもやる様に、偏向報道をした。
  朝日新聞は、読者に誠実に正確に伝えないで、事実を
 歪曲して伝えた・・、
  肝心の「憲法改正は誤りであった」とする主旨は、そ
 の肝心部分の記述は削除した。
  結局、また、嘘を伝える朝日新聞となった・・、
  「日本が、自由と独立を欲するならば、適当な防衛力
 を維持しなければならない」というところを強調しただ
 けだった(朝日新聞、1953年11月19日、夕刊)
  結局、嘘記述となった朝日新聞は、ニクソン副大統領
 の公式の場における重要発言を隠してしまった・・、
  「当時のGHQの指導による大日本国憲法を改正した
 日本国憲法(第9条:戦争放棄等)は誤り」・・と、
  公式の場で明確に発言しているのにである・・
  公正に報道せず、自紙に都合の良い記事を捏造する形
 になった・・この様な性癖が染み付いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時~18時の12時間166㎜ 23~24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日~1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線の室蘭駅(現:東室蘭)
 ~岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日~1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日~1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
.
紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
.
200年~250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年、アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリカ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年、アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人がハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島へ
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年~1880年、捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年、アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約)
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年、ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリカ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日~1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年の奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
.
1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリカ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦が
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日~1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党や民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナとルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党の支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日~1881年3月4日・・である。
.
1893年、ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された)
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
.
1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
.
2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)559E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月4日、琵琶湖疎水を利用した日本初の水力発電所
 である京都蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が開業し
 た。
  1890年(明治23年)に通水を開始した琵琶湖疏水第1
 疏水に関連し・・、
  翌年・1891年(明治24年)6月に、第一期蹴上発電所が
 運転を開始した。
  営業用としては日本最初の水力発電所で・・、
  総工費は、30万円にて竣工した。
  2016年、米国電気電子学会 (IEEE) より『IEEEマ
 イルストーン』に認定された。
  (参考)IEEEマイルストーン:アイトリプルイー
    マイルストーン)は、IEEEIが、電気・電子技
    術やその関連分野における歴史的偉業に対して認
    定する賞。
     これに認定されるためには、25年以上に渡って
    世の中で高く評価を受けてきたという実績が必要。
1892年6月6日、衆議院が、「鉄道敷設法」案を委員会修正
 案どおり可決し、貴族院に回付した。
1892年6月7日、貴族院が、「鉄道敷設法」案の第1読会を開
 き、同法案を審議した。
  後日、貴族院は、衆議院の修正案どおり「鉄道敷設法」
 案を可決した。
1892年6月7日、野球の代打が初めて行われる(前年に制定)
  因みに、通算代打起用回数のセ・リーグ記録は、宮川
 孝雄の778回、パ・リーグは、高井保弘の559回。
  通算代打打率(起用数300以上)セ・リーグ記録、若松
 勉.349、パ・リーグ記録、五十嵐信一.292、
1892年6月13日、天皇陛下が、予算に対する協賛権は、貴族
 院・衆議院に差はないとの裁定を下された。
  協賛権(きょうさんけん)は、旧憲法下で、帝国議会
 に与えられていた協賛(きょうさん、旧憲法で、議会が
 法律案・予算案を成立させるための意思表示をすること)
 の権限で、法律・予算の制定者であられる天皇陛下に対
 して協力するための権限とされた。
1892年6月13日、停車場内人力車備置規則を制定し(鉄二第
 290号)構内人力車営業を駅長の管理下に統一した。
1892年6月14日、両院協議会が、予算修正につき妥協、両院
 で可決した。
1892年6月16日、小包郵便法を公布した(6月17日説あり)
  経緯・・
  1871年、郵便に関わる太政官布告が交付され、郵便制
     度が施行。最初の郵便切手が発行された。
  1873年、日米郵便交換条約調印。
  1875年、外国郵便の取扱開始、郵便貯金・郵便為替の
     取扱施行。
  1876年、上海と釜山浦に在外郵便局を開設。
  1877年、万国郵便連合(UPU)に加盟。ただし在日局の
     撤退はイギリスが1879年、フランスが1880年。
  1885年、逓信省創設。国際郵便を正式にあつかいはじ
     める。
  1892年、小包郵便の取扱開始。
1892年6月17日、東京の日本赤十字社病院が新築落成した。
  皇后陛下が行啓されて、開院式を行った。
  日本赤十字社の創立者(初代社長)は、佐野常民(さ
 のつねたみ)
  日本赤十字社は、1877年に設立された博愛社が前身。
  1886年、日本政府がジュネーブ条約に加入したことを
 受けて・・、
  翌年・1887年に、名称を日本赤十字社と改称した。
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、佐野常
 民と、大給恒(おぎゅうゆずる)の両元老院議官によっ
 て設立された。
  救護を目的とする団体で、西南戦争では、明治政府軍
 と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数
 の死傷者を出た。
  この時、この悲惨な状況に対し佐野と大給の二人は、
 救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を
 痛感した。
  ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと
 思い立った。
  1877年、佐野と大給を発起人として、政府に救護団体・
 博愛社の設立を願い出た。
  しかし、この願いは認められなかった。
  その理由は・・、
  『このような考えは素晴らしいことではあるが・・、
  (1)現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医
    療は足りている。
  (2)今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をき
    たす。
  (3)欧州で国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作っ
    て救護することは知っているが、このたびの内戦
    にまで適用されるものなのかどうかは分からない。
  (4)このような組織の創設は、平和な時に十分時間を
    かけて検討すべき。「明治政府からの回答書」
  しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手
 当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の
 設立を急いだ佐野は、征討総督・有栖川宮熾仁親王(あ
 りすがわのみや・たるひとしんのう)に直接、博愛社設
 立の趣意書を差し出すことに意を決し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  有栖川宮熾仁親王は、英断をもってこの博愛社の活動
 を許可された。
  救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地
 に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたった。
  (日本赤十字社のホームページを参考にした)
1892年6月18日、ハワイ王国に、マカダミアナッツが持ち込
 まれ、商業栽培が開始された。
  原産地はオーストラリアのクイーンズランド州で、先
 住民のアボリジニの方々の間では、ブッシュ・タッカー
 として、好んで食されていた。
  1921年に、ハワイ大学で商業生産を目指した品種改良
 の研究が始まった。
  20年間の研究の努力の結果、商品化に成功した。
  1950年代頃までに、日系アメリカ人のマモル・タキタ
 ニが、マカダミアナッツとチョコレートの相性が良いこ
 とに注目して、
  ナッツをチョコレートで包んだものを製品化すると、
 爆発的な人気を呼んだ。
  これが、マカダミアナッツ製品で最も消費量が多いハ
 ワイアンホースト社製のチョコレートとなった。
1892年6月21日、鉄道敷設法が公布された(法律第4号)
  これは、鉄道建設の基本法で、予定線33路線のうち、
 第1期線は、中央・山陽・北陸など9線・・、
  そして、工事着手順や募集公債金額などを決定するた
 め鉄道会議の設置を規定した。
  また、第1期建設予定線の建設に充当するために、1892
 年(明治25年)から12年間に、6000万円を限って公債を
 募集することとした。
  この法は・・全16条から成る。
  予定の線路を調査し敷設することを明らかにし・・
  第2条で、中央線以下14線33本の予定線を、
  第7条で、そのうち第l矧工事として実測l建設すべきも
 のを列挙した。
  その費用は、公債をもって充て(第4条)、 12年間に第
 1期工事を完成すべきものとした(第8条)。
  また、鉄道会議を設置して工事着手の順序、建設資金
 募集の公債発行額を諮問することを定めた(第15条)。
  買収については、既成私設鉄道のうち第2条に掲げた予
 定線路のため、買収の必袈があると認められるものは、
 政府がその会社と協議して価絡を定め、議会の協賛を求
 むべきものとした(第11条)。
  その他、予定線のうち、私設鉄道から敷設の許可を願
 い出たときは、談会の協賛を経て、許可することがある
 とした(第14条)・・重要な例外規定。
  この敷設法の公布によって、わが国の鉄道は、創設期
 をおわり、確固たる方針のもとに秩序ある発展の第一歩
 を踏み出した。
1892年6月21日、鉄道会議規則が公布された(勅令第51号)
  鉄道会議(てつどうかいぎ)は、1892年6月21日~1949
 年6月1日まで、鉄道敷設法16条に定められた「鉄道会議
 規則」(明治25年勅令第51号)に基づいて、鉄道担当官
 庁(内務省→逓信省→鉄道省→運輸通信省→運輸省)に
 設置された諮問会議。
  鉄道敷設法で定められた「鉄道建設の順序」や「鉄道
 公債の発行」などについて主管大臣に諮問した。
  ただし、実際には、鉄道政策全体について諮問してい
 る。
  定数は議長1名・議員20名(ただし、臨時議員として複
 数名の追加が認められた)・幹事1名で構成された。
1892年6月21日、シベリアを単騎横断した福島安正中佐が、
 ウラジオ~釜山を経て、1年を費やしての長崎への帰着だ
 った。
  駐ドイツ公使館付武官を辞任して、シベリアに向かっ
 ていた。
  長崎市民は、世界的英雄を迎てえ、諏訪公園丸馬場に
 て盛大な歓迎会を開催した。
  福島安正中佐は、1892年6月29日に、新橋駅に降り立っ
 た。
  陸軍軍人・男爵。長野県生(1852年~1919年)
  信濃松本藩士福島安広の長男。
  司法省に入り、1874年、陸軍省に移る。
  語学力に優れ、1882年、朝鮮に派遣され、朝鮮の調査、
 そして、1883年に北京公使館付武官となり、満州、およ
 び、モンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察し、
  1887年には、駐独武官となってバルカン半島を視察し
 た。
  この帰国に際して、ロシアのシベリア鉄道建設の状況
 視察のため、1年4か月かけて、シベリア横断となった。
  日清戦争の際は、第一軍参謀、
  1895年3月から約2年間、ヨーロッパ、アジアを探検旅
 行、帰国後は参謀本部第三、次いで第二部長、
  日露戦争時は満州軍参謀、
  日露戦争後、1906年に参謀次長、中将に進み、
  1912年には関東都督となり満州経営に当たる。
  1914年、大将に進む。
  のち退官した。
  1919年(大正8年)逝去、68歳。
  勲三等旭日勲章が授与された・・男爵。
.
  (今日の言葉)
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  題:1857年、アメリカ合衆国のすべてが、そして大統領が、卑劣な『奴隷制容認判決』を喜んだ。
    そして、それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガンダして変えようとしている。
    そして、1859年10月、初めの反乱=黒人のジョン・ブラウンの蜂起が起きた・・、
.
紀元前3世紀~2世紀、サルナートは、紀元前3世紀~紀元前
 2世紀、アショカ王の時代と、紀元後5世紀~紀元後6世紀
 のグプタ朝時代に栄えた『仏教教学の聖地』である。
  この地で、釈迦は4ヶ月ほど暮らし、玄奘も中国から
 はるばる訪ねて来て経典を学んだ。
  (参考)サールナートは、インドのウッタル・プラデ
     ーシュ州にある地名。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の北方約10km
     に位置する。仏教の四大聖地のひとつ。
      漢訳仏典では旧訳で「仙人堕処」、新訳では
     「仙人住処」と訳出される。
      釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧
     訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で、初め
     て教えを説いた初転法輪の地とされる。
.
196年、董遇(とうぐう)が、郡から孝廉に推挙され、黄門
 侍郎にまで昇進した。
  中国の後漢(25年~220年)の学者の董遇が、「読書百
 篇義自ずから見る」という言葉を残した。
  意味:「どんなに難しい書物であっても、繰り返し読
 むうちに意味が自然と分かる様になるものだ」・・、
  董遇は、字(あざな、成年後、実名のほかにつける別
 名)を季直(きちょく)といい、弘農郡(こうのうぐん、
 河南省に設置された郡) の人。
  生没年は不明。
  関中(かんちゅう、中国の西安を中心とした一帯)が
 乱れると、兄とともに将軍・段珪(だんけい、?~ 189年、
 後漢時代末期の宦官)に身を寄せた。
  生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書(けい
 しょ、儒学の経典。四書・五経など)を手放さなかった。
  196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進し
 た。
  董遇は、献帝(けんてい、後漢最後の皇帝)の寵愛と
 信頼を得た。
  218年、吉本らの曹操暗殺計画(毒殺計画)が発覚し、
 董遇は参画していなかったが、なお、取り調べを受け、
 閑職に遷(うつ)された。
  政権奪取とかの話ではなく、恨みつらみのレベル・・。
.
1662年、台湾。
  台湾は、台湾原住民の方々だけが住む地であった。
  しかし、現在は、台湾原住民は2.3%である。
  17世紀の大航海時代、オランダ及びスペインが植民し
 た。
  台湾は、ポルトガル語で「フォルモサ=麗(うるわ)
 しの島」と呼ばれた。
  1662年になって、明(みん)寄りの支持者である鄭成
 功(ていせいこう、日本名:福松、母が日本人で、半分、
 日本人の血が流れている)がオランダを追放した。
  これ以降、漢民族が流入した(日本人が流入しても良
 い場面であった)
  台湾原住民とも混血した。
  しかし、現在、DNAの調査によれば、8割が南方アジ
 ア系である。
  鄭成功は、日本の平戸で生まれた、
  父は鄭芝龍で、母は、日本人の田川マツ。
  父・鄭芝龍(福建省生まれ)は、朱印船貿易の関係で
 日本に来た。
  そして、平戸藩主の松浦隆信の寵を受け、平戸に住ん
 だ・・そして、結婚し、鄭成功が生まれた。
  鄭一族は貿易商で、海賊や商売敵との抗争のために武
 力を持っていた。
  そして、明治の時代、この台湾のことを、現在の中国
 政権の前の「中国の清国政権」は、「化外の地」と日本
 政府へ言った。
  (参考)化外:けがい、統治のおよばない地。
  つまり、台湾は、「中国とは、まったく関係のない地
 です」と日本政府へ言った。
  しかし、現在の中国政権は、「台湾は、中国の一部で
 ある」と言い出した。
  だから、中国のこの勝手な解釈のもとに行動を起こし
 ても良いのだと言外(げんがい、直接は言葉にださない
 ところ)に言っている。
  何をやっても、「国内問題」だと・・。
  勝手な言い掛かりから、強引な行為に及ぶことは・・
 この解釈の違いから生じて行う行為は・・卑劣な戦争が
 惹起(じゃっき、事件・問題などを引き起こすこと)さ
 れる恐れがある。
.
1820年1月26日、ミズーリ協定
  アメリカのミズーリ州を、奴隷州として州昇格を認め
 る法案を条件付きで成立させた。
  その条件は、イリノイ州選出のジェシー・B・トーマス
 議員から、今後、北緯36度30分線の北にあるミズーリ準
 州から奴隷制を排除するという動議を採択した。
  この条件は、後に、憲法違反との判決が出て、まった
 く無くなる。
.
1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーの奴隷解放活
 動・・
  激烈な社会的影響を与えた一冊のパンフレットを、こ
 の年に書いた。
  アメリカ大統領のリンカーンが、「奴隷解放」を行な
 ったというのは、白人・アメリカ人のデッチ上げで・・、
  黒人の方々が、地道に解放へ向かって努力して行った。
  虐げられる黒人の方々は、色々な方法で・・
  そして、活動する黒人の方々は、命を賭して・・
  必死に、「自らの自由を得たい」という活動を行ない・・
  そして、奴隷解放を『成した偉業』なのである。
  白人・アメリカ人は、自らの卑劣な行為=「同じ人間
 を人家畜化し、所有して、使役し、それも、「虐げ行為
 を伴って行なった」という行為を隠そうと、
  白人・アメリカ人のリンカーンが、「奴隷解放をした」
 という話をデッチ上げた・・そして、隠した。
  リンカーンが、「どんな奴隷解放の積極的活動をして
 来たというのか?」
  「奴隷解放宣言」は、その状況になって、やむ無く行
 っただけで、リンカーンは、大統領の就任演説において
 さえ、「奴隷解放」のことを一言も触れなかった。
  『奴隷解放の栄誉』を、白人・アメリカ人は、黒人の
 方々から奪うという「恥の上塗り的行為」を行なってい
 る。
  1829年、自由黒人のデイビット・ウォーカーは、一冊
 のパンフレットを書いた。
  そのパンフレットには、極めて刺激的な事が書かれて
 いた・・、
  「・・反対に、もしも我々(黒人)が、彼ら(白人、
 特に、奴隷所有者)を奴隷にして、残忍な奴隷制度の中
 に縛り付ける様な事をしたとしたら、
  彼ら(白人)は、一体、どんな気がするだろうか?・・
  私は、君たちにたずねたい。
  君たちの母親や妻や幼い子供の生命を奪う暴君の奴隷
 となるくらいなら、君たちは、むしろ殺されることを望
 むのではないか?・・
  信じ給(たま)え、君たちを殺そうとするような、そ
 んな人間を君たちが殺すのは、喉が渇(かわ)いた時に、
 一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」
 ・・と、
  これは、『ウォーカーの訴え』として知られ・・、
  白人・奴隷所有者らに大きな衝撃を与えた。
  黒人の方々も、ただただ、白人・アメリカ人に虐げら
 れるだけでなく、自らの自由を獲得したいとの当然の声
 を上げ始めた。
  また、1831年1月1日には、ウィリアム・ロイド、ガリ
 ソンが、「解放者(リベレーター)」を、ボストンで週
 刊で発刊し始めた。
  ジョージア州政府が、ガリソンの逮捕に5,000ドルの賞
 金を掛ける様なこともあった。
  1833年には、奴隷制反対協会が設立された。
  この組織は、1840年までに、2000の地方支部に拡大し、
 会員総数は20万人を数えた。
  定期刊行物やパンフレットの発行などの広報活動、議
 会への大衆動員をしての請願運動などを行なった。
  因みに、この請願を受ける議会側に、あのでっち上げ
 られたリンカーンも居た。
  この様な奴隷解放活動家は、常に、命の危険にさらさ
 れていた。
  金を持った奴隷制維持権力は、激しい攻撃や弾圧、そ
 して、「卑劣なテロ行為」を加えた。
  その一つが、1837年11月、イリノイ州のオルトンで、
 奴隷制廃止主義者のイライジャー・ラビジョイが殺され
 た。
  この殺害犯人たちは捕らえられたが、罰せられるどこ
 ろか、官憲(かんけん、政府の権力・権限、もしくは、
 官吏の権力・権限)の手で釈放された。
  この様な黒人の方々の自らの解放の努力の例は、まだ
 まだ、沢山ある。
  白人・アメリカ人が、「奴隷解放を成した」、または、
 「奴隷解放を与えた」というのは、「真っ赤な作り話の
 嘘」。
  白人・アメリカ人は、卑劣な非人道的行為者側に居た。
  黒人の方々を、奴隷としての地位に置いて・・、自ら
 の利益を追求する側に居た。
  黒人の方々の「名誉の自由獲得行為」の名誉まで奪う
 行為をしている。
  この事実は、世界記憶遺産に登録すべき項目だ
.
1831年8月21日、ターナーの暴動
  黒人の方々を、奴隷として使う白人・アメリカ人たち
 は、この黒人の方々の反抗を「暴動だ」と表現した。
  それ故に、この年のこの黒人の方々の反抗行動も暴動
 と表現された。
  教科書にも、歴史書にも、「黒人暴動」と記された。
  反抗をした黒人指導者のナット・ターナーは、自分の
 名も付けられず、この「ターナー」という名も持ち主の
 名前だった。
  この人権無視社会=アメリカのバージニア州サザンプ
 トンでこの反抗行動は実行された。
  黒人の方々は、これまで、ただ虐げられていたが、こ
 の時、ただ虐げられていたのではなく、白人アメリカ人
 の不正に、はっきりと抵抗の意思を示した。
  アメリカ国中に大きな影響力を与える「大きな規模の
 反抗」だった。
  結局、白人・アメリカ人の社会は、連邦軍を出動させ、
 強力な武力で鎮圧した。
  100人以上の黒人の方々が殺され、16人の奴隷黒人と、
 3人の自由黒人と、指導者のターナーが処刑された。
  この出来事は、黒人奴隷の方々に、激しい解放への意
 欲をかき立てた。
  これまで、黒人の方々は・・、
  1800年に、ゲイブリエル・プロッサーの反抗(暴動)、
  1822年のデンマーク・ビージーの反抗(暴動)などで
 抵抗して来ていた。
.
1840年、アメリカの奴隷制廃止運動家のジェームズ・バー
 ニーは、自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  リンカーンが、「奴隷解放の父」というアメリカ北部
 政権のプロパガンダ(嘘宣伝)ほど、世界中を惑わし、
 欺(あざむ)く嘘はない。
  黒人の方々が、どれほど自由を得ようと命を張って努
 力されたかである。
  黒人の方々が、奴隷という非人道的地位から脱出する
 過程を、調べれば調べるほど、その血塗られた努力の話
 が満ちている。
  「リンカーンが解放を与えた」的な話ではない。
  このアメリカ北部政権の酷(ひど)い虚言(きょげん、
 他人をあざむく言葉)が、明らかになって行く。
  黒人の方々が、抑圧され、抑え込まれて居る状況から
 目覚め、自由を得たいとあらゆる活動をし始める中にお
 いて、時には、白人・アメリカ人が「暴動だ」と蔑(さ
 げす)んで言うような抵抗・実力行使も行なった。
  この黒人の方々の「自由獲得行動」は、だんだんと、
 アメリカ国内に賛同する人、同調をする人々が増えて行
 った。
  最初は、なかなか理解者は増えなかったが・・、当然
 のごとく勇気を得た黒人の方々も立ち上がって行き、増
 えて行ったが・・労働者、婦人、農民、進歩的知識人な
 どだった。
  そして、その理解者たちの結集が図られて行った。
  1840年、奴隷制廃止運動家のジェームズ・バーニーは、
 自由党(リバティ・パーティ)を結成した。
  そして、この年の大統領選挙に立候補した。
  1843年には、奴隷解放運動家の大御所のダグラスが加
 わった。
  また、多くの黒人奴隷制廃止主義社も自由党に入党し
 た。
  1844年にも、自由党は、バーニーを大統領選挙に立候
 補させた。
  この時、バーニーが主張したことは・・、
  「アメリカの首都・ワシントンの奴隷制を廃止しよう」
 だった。
  また、「奴隷制が、準州へ拡大して行かない様にしよ
 う」だった。
  そして、奴隷制の卑劣さを訴えた・・「奴隷制度は自
 然権に反する」・・と。
  (参考)自然権:しぜんけん、人間が、自然状態(政
     府ができる以前の状態、法律が制定される以前
     の状態)の段階より保持している生命・自由・
     財産・健康に関する不可譲の権利。
      人権は、自然権の代表的なものとされている。
  また、アメリカが、メキシコから「テキサスを奪おう
 としている事」に反対した。
  また、「メキシコとの戦争」にも反対した。
  そして、1846年8月8日には、アメリカが、卑劣な行為
 を行なってメキシコから奪ったテキサスなどの地域に、
 「奴隷制度が広がることに反対し『奴隷制度禁止地域に
 せよ』と主張した(ウィルモット建議が提出された)」。
  このウィルモット建議は、その他の既存政党に大きな
 影響を与えた。
  ホイッグ党は、この影響を受け、その容認を巡って決
 着がつかず分裂した。
  民主党も、党内の統一が図れずに二派になって対立し
 た。
  1848年には、自由党員が、これ等の既存政党の分裂・
 分派した人々の受け皿となり、自由土地党を結成した。
  スローガンは、「自由な土地、自由な言論、自由な労
 働、自由な人間(奴隷という虐げのない社会)」だった。
  この奴隷解放の活動の経緯の中に、「奴隷解放の父だ
 と言われるリンカーン」の「リ」の字も出て来ない。
  そして、アメリカ北部政権は、1850年、「逃亡奴隷取
 締法」という奴隷を虐げる卑劣な法律を制定した。
  そして、南北戦争に至って行く。
.
1856年、ブルックスによるサムナー殴打事件など・・
  ブルックスは、反奴隷制運動の政治家で・・、サムナ
 ーが3時間に及ぶ人格攻撃の、また、卑劣な言葉(売春婦
 などに関係した演説・・具体的に書けない低劣な演説)
 品位のない演説をした・・
  怒りが収まらないブルックスは、この演説の2日後、金
 製の頭が付いた杖で、サムナーの頭を狙って殴ったとい
 う事件。
  1776年7月4日にアメリカが独立して、憲法を作ったが・・、
  その憲法という国の基本においても・・アメリカは、
 非人道的行為である奴隷制度を廃棄できなかった・・
 奴隷条項のある憲法だった。
  そして、その後も、アメリカは、黒人の方々を非人道
 的に虐げるという体たらくな行為を続けた・・
  綿花栽培が盛んになると・・、
  アメリカ南部だけでなく、アメリカ北部も、この綿花
 を扱った木綿工業が急速に発達した。
  そして、安価な労働力としての黒人奴隷の必要性から、
 アメリカ北部の資本家も、その労働力の要求も拡大した。
  そして、アメリカ西部も同様な動きが見られた。
  アメリカ北部とも紐帯(ちゅうたい、二つのものを結
 びつけて、つながりを持たせる)を深めた。
  マルクスは言う・・、
  「奴隷所有者の権力が、アメリカ北部の民主党と手を
 握って、ますます連邦を悪用して来たという事は、いわ
 ば今世紀(19世紀)初め以来のアメリカ合衆国の歴史の
 一般公式である。
  次々にとられた妥協的措置は、連邦をますます奴隷所
 有者の奴隷に転化する、相次ぐ侵蝕作用の度合いを示す
 ものであった}。
  1850年代のアメリカは・・、
  イギリスにとっての最大市場としての後進国的な特性
 と、先進工業国の地位への上昇転化の趨勢とが、相拮抗
 しはじめた状況にあった。
  そして、マルクスは、奴隷の方々の「暴動と言われる
 抵抗・反乱」に注目し、「生産体系全体を破滅させ得る」
 と理解し、見ていた。
  そして、それはただ単に、奴隷制度の制度的な矛盾だ
 けでなく、奴隷制度の方が商品経済機構の中で、工業の
 発展に対応しきれなくなり、自滅するだろうと見ていた。
  他の国の商品の生産性などで『敗れる』と見ていた。
  だから故に、アメリカの奴隷制による生産・商品化は
 行き詰まり、奴隷制は打破され、「奴隷は解放されるで
 あろう」と見ていた。
  つまり、アメリカは、「美しくリンカーンが奴隷を解
 放したと言いたい」のだろうが・・時代の流れの中で、
 奴隷は解放せざるを得ない段階に行き着いていたのだっ
 た。
  黒人の方々をアフリカに棄民したリンカーンは、「奴
 隷を解放するという言葉を宣言しただけ」だった。
.
1857年、アメリカ合衆国の『最高裁判所』が、「奴隷制度」
 について判決を下した(最高裁の最終判決・・アメリカ
 の国としての意思=最終判決)
  ある一人の黒人奴隷の方が、堂々と、アメリカ合衆国
 を相手に、最後まで戦った、法廷闘争をした・・
 『トレッド・スコット判決』が下りた(ドレッド・スコ
 ット対サンフォード事件)
  黒人奴隷の方が敗訴になったが・・、以下が、その判
 決である・・、
  (1)黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の財産であ
   って、合衆国の市民ではない。
    劣等人種である彼らは、白人と同等の権利を持つ
   ことはできない。
    だから、黒人であるスコットには、連邦裁判所に
   提訴する権利は与えられていない。
  (2)スコットは、ミズーリ州の市民ではない。
    したがって、この事件は、異なる州の市民の間の
    訴訟ではないから、連邦裁判所には、この事件に
    ついての管轄権がない。
     スコットがたとえ、一時的に自由州であるイリ
    ノイ州に住んでも、再び、ミズーリ州に帰って来
    た以上、彼は、ミズーリ州の法律に服さねばなら
    ず、イリノイ州の法律によって、自由を要求する
    事は出来ない。
     そのミズーリ州の法律によれば、「彼は、奴隷
    以外のなにものでもない」。
  (3)スコットが、北緯36度30分以北の自由地域に住ん
    だという事実は、決して彼を自由身分にするもの
    ではない。
     ・・というのは、連邦議会は、合衆国の準州に
    奴隷制度を禁止する権限を持っていないからであ
    る。
     したがって、1820年の「ミズーリ協定は憲法違
    反」であり、奴隷財産は、この国のどこででも(
    所有者の財産として)保護されなければならない。
  これは、「アメリカ北部政権の意思」を表わしていた。
  また、卑劣にも、ジェームス・ブカナン大統領は言っ
 た・・、
  「この判決に対し、私は、すべての善良な市民ととも
 に、その内容のいかんに関わらず喜んで従う」と。
  アメリカ合衆国のすべてが、そして、大統領が、卑劣
 な「奴隷制容認判決を喜ぶ」と言った。
  それを、現代になって、アメリカは、必死にプロパガ
 ンダして変えようとする。
.
1859年10月、ジョン・ブラウンの蜂起
  ジョン・ブラウンは、この壮挙が、「奴隷の方々の立
 ち上がる『蜂起の烽火(のろし)』となればと思った。
  結局、圧倒的多数の白人・アメリカ人の軍隊に殲滅さ
 せられてしまった。
  ジョン・ブラウンの二人の息子は戦死した。
  今、戦死と記したが、まさに、白人・アメリカ人の黒
 人奴隷の方々に対する非人道的行為に対する戦争だった。
  暴動と白人・アメリカ人は蔑視して言うが・・違う。
  自由を求めて、黒人の方々は『正義の戦争』を行なっ
 た。
  何人の黒人の方々が、自由を求めて命を落としたこと
 か・・
  白人・アメリカ人のリンカーンの与えた「奴隷解放」
 なんて・・「奴隷解放ではなかった」。
  むしろ、白人・アメリカ人たちが言う「リンカーンの
 奴隷解放」は、「白人・アメリカ人の敗北宣言」だった。
  どれほど、黒人の方々が、自由を欲して活動して来た
 か・・そして、その数々の事実が隠されて来たか・・、
  黒人の方々の歴史が、掘り起こされて来ている。
.
1860年、この年、アメリカは、約400万人もの黒人の方々を
 奴隷にしていた。
  アメリカが、隣国のメキシコを騙(だま)してまでし
 て欲しかった「メキシコ領・テキサス」などは、綿花で
 利益を得たい・・儲けたいからだった。
  この頃、それまでの長繊維の綿花に変わって、新品種
 の短繊維の陸地綿が導入された・・、
  その綿花が効率的に処理できる綿繰機(コットン・ジ
 ン)は、1793年に、イーライ・ホイットニーによって発
 明されていて、能率が150倍となり、
  さらに、水力を利用すればその効率は、1000倍にもな
 った。
  また、栽培技術も容易になる品種のため、生産量も飛
 躍的に増大した。
  当然、その儲けは、莫大に伸びた。
  それと共に、アメリカ西部の地を奪う何ら根拠のない
 「西漸説」、自分たちだけに都合の良い「西漸運動」が
 進められて行った。
  この欲にかられたアメリカは、「騙(だま)し」を、
 隣国のメキシコや、先住の民・アメリカインディアンの
 方々へ行って、その方々の土地を奪って行った。
  そして、綿花畑にして行った・・、
  それまでは、かつての綿花は、狭小な「サウスカロラ
 イナ」や「ジョージア」の海岸沿いの狭小の地で、わず
 かに行なわれていた。
  それが、「テネシー」「アラバマ」「ミシシッピー」
 「アーカンソー」「ルイジアナ」「テキサス」などと、
 広大な地域に広がった。
  その陰で虐げられ、騙され、泣く多くの人々が居た。
  肥沃な黒土に覆われたその黒土地帯は、広々と広がる
 地は・・綿花栽培に適し、奪われて行った。
  そして、そこに、奴隷にされた黒人の方々が連れて来
 られた。
  黒人の方々が、住民の過半数を占めるほどになる「黒
 人奴隷地帯」が生まれた。
  白人・アメリカ人のWASP(W:白人、AS:アン
 グロ・サクソン、P:プロテスタント・キリスト教徒)
 が働かなくても、黒人の方々に働かせて、美味しい汁を
 吸う地だった。
  綿花生産は増大し、黒人奴隷数も増大して行った。
  1860年には、黒人の奴隷にされた方々は、395万人にな
 った。
  アメリカは、南部も北部も、黒人の方々の低廉な労働
 力を奴隷として得たいとして、虐げて得ていた。
  (今、アメリカの政治を牛耳る「北部系の論理」は、
 奴隷制は南部だとしている・・が、
  悪いことは南部だと押し付け、北部は違うと言ってい
 る・・が、しかし、これは真っ赤なウソ・・
  アメリカの総べてが、黒人の方々を虐げて、低廉な労
 働力を求めて、奴隷としていた)
  今・現代においても、アメリカ南部で「嘆(なげ)か
 れている言葉」は・・、
  「黒人たちを教育しても、皆、北部の資本家に吸い取
 られてしまう」・・である。
  北部資本家が、安い黒人の方々の労働力を奪っている
 という嘆きの声である。
.
1860年、アメリカのこの年の綿花生産量は、383万べールで、
 1790年の0.3万べールの1300倍になった。
  その多くが、イギリスへ輸出された。
  アメリカの総輸出額の半分以上だった。
  (参考)ベール:綿花や干し草、羊毛などに用いられ、
    素材を圧縮しビニールや布などで巻いたり、テー
    プなどで帯をかけたりする梱包。似た単位に「袋」
    「樽」「ロール」「束」「ドラム」などがある。
.
1951年4月19日、ワシントンD.C.のアメリカ上下院の合同会
 議におけるマッカーサー離任演説は・・、
  「・・戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、
 最も大きな改革を体験して来ました。
  見事な意志と、熱心な学習意欲・・、
  そして、驚くべき理解力によって、
  日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人
 の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打
 ち立てました。
  そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、
 社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作ら
 れました。
  今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして、社会
 的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。
  世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。
  最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながら
 も、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩める
 ことなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度
 は、日本が、アジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼす
 ことが期待できることを立証しています。
  私は、占領軍の4個師団を、すべて朝鮮半島の戦場に
 送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響
 について、何のためらいもありませんでした。
  結果はまさに、私が確信していた通りでした。
  日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りま
 せん。
  また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献するこ
 とがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません」
  「・・(中略)・・私は、今、52年にわたる軍務を終
 えようとしています。
  今世紀に入る前に、私が陸軍に入隊したとき、それは、
 私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。
  私が、ウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士にな
 る宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢
 はずっと前に消え失せてしまいました。
  しかし、当時、兵営で最も人気が高かったバラードの
 一節を今でも覚えています。
  それは、誇り高く、こう歌い上げています。
  『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
  そして、このバラードの老兵のように、私もいま、私
 の軍歴を閉じ、消え去ります。
  神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老
 兵として。さようなら」。
.
1997年2月19日、鄧小平(とうしょうへい)が死んだ。
  鄧小平は、中国(中華人民共和国)の政治家だが、毛
 沢東の死後、中国の最高指導者となった。
  この鄧小平の死んだこの年から遡(さかのぼ)ること
 48年前の1949年に、中華人民共和国が成立した。
  そして、その29年のちの1978年に、毛沢東が死んで、
 ようやく、その29年間も続いた恐怖政治が終わった。
  毛沢東の政権下では、何回も、自国民が1000万人単位
 で虐殺されるような政治だった。
  その後を継いだ鄧小平は、経済を開放した。
  しかし、1989年に、天安門で虐殺事件を引き起こした。
  鄧小平が改革開放を始めた頃は、鄧小平が望んだこと
 は・・、
  「貧しい中国では、豊かになれる者から豊かになり、
 近代化をして、そして、日本の経済規模を越えて行きた
 い・・、
  そしてまた、アメリカをも越えて行きたい」だった。
  また、この時に、世界へ、中国が思わせたことは、中
 国の制度の違いによる恐れとか、警戒感とかは抱かせず、
 中国の台頭は、『完全に平和的なもの』であり、
  また、既存の権力構造を変化させるものでなく、国際
 ルールに従って行くだった。
  GATT(関税、及び、貿易に関する一般協定)にも
 参加して、遵守姿勢を示した。
  国際法にも、遵守姿勢を示した。
  知的財産権や私的財産権、著作権などの「ルールに従
 います」だった。
  いつまで、この「借りてきた猫」状態が続くか?
  この初期段階の中国の様子に、世界は騙された。
  中国にとっては、この段階は、大成功だった。
  しかし、中国は、『国内の一党独裁体制』は維持しな
 がら、それ以外の国際的な事は「受け入れる」としただ
 けだった。
  中国は、経済的に発展することが出来た。
  その発展と共に、「中国軍の規模や編成が発展・拡大」
 した。
  普通、この様な場合、アメリカやロシアや日本は、注
 意を払い、警戒感を抱き、「戦略の論理」が働く訳なの
 だが・・、
  中国の国際的行動方針・平和的な方針に、警戒的な反
 応を示す事はまったくなかった。
  しかし、これは、中国の取った初期の段階だけに通用
 したことだった。
  中国の次の方針には、その様には行かない状態に至っ
 た。
  つまり、規模が大きくなり、経済的に豊かになり、軍
 備を拡張するようになると、他国はその凄い状況・状態
 に刺激された。
  それまで、アメリカの対中政策は、1972年以降、「毛
 沢東が率いる中国を、あらゆる面で助けて、国力をアッ
 プさせ、ソ連に対抗させる」というものであった。
  しかし、2000年代後半になると、アメリカは、中国が
 あまりにも豊かに成り過ぎる事・拡大する事を恐れ始め
 た。
  中国のGDPは爆発的に伸び、国防費は莫大になった。
  しかし、2000年頃までは、「平和的台頭」で、中国は、
 国際的な規範や制度、そして、法律などを良く守り、
  WTOやIMF(国際通貨基金)にも加盟したために、
  どこの国にも脅威を感じさせず、与えなかった。
  しかし・・今は・・違う・・、
.
2000年以降、中国は、この頃までは、平和的な方針をとっ
 ていた。
  この為、日本やアメリカをはじめとする国々から、支
 援や投資を受けることが出来た。
  中国経済は拡大した。
  中国の方針は成功していた。
  中国のリーダーたちも、世界の状況をよく知ろうとし、
 また、その結果から、理知的な方針を取っていた。
  中国のリーダーたちは・・中国の国内の激しい内部闘
 争を生き抜いて来た人物ばかりだった。
  一旦、権力の座から落ちれば、自分だけではなく、家
 族や親族までもが命を失うという中国を生き抜いた人物
 たちだった。
  この頃は、「世界に調和して発展する」という方針を
 とった中国が存在していた。
  しかし、この方針が崩れる・・それが、2000年1月に起
 きた「リーマン・ショック」という、戦後最大の国際金
 融危機の後からだった。
  世界の経済構造が変化し始めた。
  中国も影響を受け、変わって行った。
.
2017年9月15日、午前6時57分、北朝鮮は、平壌近郊の順安
 (すあん)から中距離弾道ミサイル「火星12型」を発
 射した。
  ミサイルは、3700キロを飛翔した。
  アメリカの軍事拠点であるグアムを攻撃可能範囲に収
 めた。
  金正恩(キム・ジョンウン)委員長は以下のことを述
 べた(朝鮮中央通信)、
  ▽今回の訓練で火星12型の「戦力化が実現した」。
  ▽今後は「各種の核弾頭を実戦配備」する。
  ▽「最終目標は、アメリカと実際の力の均衡を確立す
   る事」だ。
  ▽国家核戦力の完成という「終着点にほとんど到達し
   た」ので「全国家的な力を集中」して結束を見る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)558E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年5月~1892年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年5月11日、貴族院が、政府の選挙干渉に対する反省の
 建議案を可決した。
  1982年5月16日、7日間の停会を命じられる。
  1982年5月31日、衆議院、予算案から海軍予算などを削
   減し可決
   (1982年6月6日、貴族院、復活修正し衆議院へ回付)。
  1982年6月9日、衆議院、貴族院の復活修正は不法と議
   決し、予算修正案を貴族院へ返付。
  1982年6月10日、貴族院、復活修正を合法として衆議院
   へ返付し、
  1982年6月11日、予算審議権に関する勅裁を求める上奏
   案が可決。
  1982年6月13日、天皇陛下、貴族院の上奏を枢密院に諮
   詢、貴族院の復活修正を認め立法協賛権に両院の差
   はないと勅裁。
  1982年6月14日、両院協議会、予算案修正につき妥協し
   両院で可決。
  1982年7月20日、河野敏鎌内相、選挙干渉事件に関して、
   福岡県知事安場保和・内務次官白根専一らを更迭
   (1982年7月27日、高島鞆之助陸相、樺山資紀海相、
   これに反対して辞表提出)。
  1982年7月30日、松方正義首相、閣内不統一のため辞表
   提出。
  1982年8月3日、伊藤博文、各元勲の入閣を条件として
   組閣を承諾。
1892年5月13日、衆議院議員の河島醇・田中源太郎が、鉄道
 拡張法案を提出した。
1892年5月14日、衆議院が、政府選挙干渉問責決議案を可決。
1892年5月21日 保安条例を実施し、壮士143名に対し帝都よ
 り退去を命じる。
1892年5月21日、ルッジェーロ・レオンカヴァッロが作曲し
 た歌劇「道化師」がミラノで初演された(全2幕)
  テアトロ・ダル・ヴェルメ劇場で、指揮はトスカニー
 ニだった。
1892年5月22日、歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
  因みに、最初の歯磨剤は、紀元前1550年頃、古代エジ
 プトの医学書の内容が記載されたパピルスであるという。
  また、4世紀頃、エジプトでは、食塩・黒胡椒・ミント
 の葉・アイリスの花を混ぜ合わせた粉末の歯磨剤を使用
 していた。
  古代ローマでは、人間の尿に含まれているアンモニア
 が歯を白くするものと考えられ、尿が歯磨剤として用い
 られていた。
  18世紀(1700年代)、アメリカ合衆国では、焦げたパ
 ンを混ぜた歯磨剤が使われていた。
  また、「ドラゴンの血」と呼ばれる混合樹脂にシナモ
 ンや焦がしたミョウバンを混ぜた歯磨剤もあった。
  19世紀以降になって、やっと、欧米で歯磨剤が広く用
 いられるようになった。
  1800年代初頭には、歯磨きは、主に歯ブラシと水だけ
 で行われていた。
  その後、間もなく、粉末の歯磨剤が大衆に広まって行
 った。
  この頃の歯磨剤の多くは、自家製で、チョークの粉・
 細かく砕いた煉瓦・食塩などがよく混ぜられて使われた。
  1896年、現在の様なチューブに入ったペースト状の歯
 磨剤が、ニューヨークでコルゲート社によって初めて売
 り出された。
1892年5月27日、衆議院特別委員会が、鉄道公債法案・私設
 鉄道買収法案・鉄道拡張法案・鉄道敷設法案等の5法案
 をひとつの法案にまとめ「鉄道敷設法案」とし、6月2日、
 本会議に報告した
1892年5月、帝国通信社が創立された。
  改進党系の通信社。
  通信社は、報道機関や民間企業の需要にこたえて一般
 向けニュース(ゼネラル・ニュース)や経済・金融情報
 (コマーシャル・ニュース)の収集、配信を行う組織で、
  明治憲法発布の前後に生まれた時事通信社(1887年~
 1890年)、新聞用達会社(1890年~1892年)などが、日本の
 通信社の先駆で・・、
  当時は、群小通信社の乱立だった。
  1892年、新聞用達会社の後身として、帝国通信社(帝通)
 が創立され、日清、日露戦争を通じて業務を拡大した。
  1901年、日本電報通信社(電通)が創立され、とともに
 日本の二大通信社として競争した。
  1914年、第1次大戦勃発直前、ロイター通信社と結ぶ国
 際通信社(国際)が生まれ・・、
  1926年、東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんご
 う)社(聯合、1928年、新聞聯合社と改称)を組織され、
 帝通の没落とともに、電通と聯合との激しい競争の「電
 聯時代」が生まれた。
1892年6月3日、田中正造が、衆議院で足尾鉱毒事件につい
 て質問をした。
  当時の毎日新聞(1892年6月5日)には・・、
  本会、明治25年(1892年)5月9日、河野広中君、及び、
 工藤幹君は、北海道殖民開拓に関する施政カ針、北海道
 官有物払下、北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び
 札幌製麻会社、北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件
 に付、
  同月・5月11日、塩田奥造君、新井啓一郎君、及び、箕
 輪勝人君、同鉄道始末に対する件に付、
  同月・5月23日、加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に
 関する件に付き、
  同月同日・5月23日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害
 の件、及び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神
 戸造船所、釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関
 する件に付き以上の質問書を提出したるに・・政府は、
 未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、「質問主意書は、議長之を政府に
 転送し、国務大臣は、直ちに答弁を為し、又は、答弁す
 べき期日を定め、若し答弁を為さざる時は、其の理由を
 明示すべし」とあり・・、
  黙るに、政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答
 弁をなさず、又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若
 し政府に於て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示
 せざるや。
 以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責任
 を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日
    質問者 田中正造
    賛成者 塩田奥三 他2名
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮を賛美する日教組と、日本を貶めるNHKと・・、
    プロパガンダに精出す中国と、核を搭載したまま日本に寄港する
.
1785年、第3代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンの
 言葉・・、
  「キリスト教の教えが広まってからというもの、何百
 万という無数の男女や子供が火あぶりにされた。
  そして、拷問にされた。
  そして、罰金を科され、投獄されて来た。
  けれど・・、
  私たちは、1インチたりとも(少しも)統一に向かっ
 て進んではいないではないか・・、
  (キリスト教は、何の役にも立っていないではないか、
  むしろ、無実の人々の命を奪って来た)
  では、一体、圧政は何をもたらしたのか?
  世界の半分の人々が愚者に・・、
  そして、残りの半分が(キリスト教の)偽善者に変わ
 ってしまったではないか、
  そして、世界の人々が過ちや悪業を支持するようにな
 ってしまった」・・と・・、
.
1793年2月12日、「逃亡奴隷取締法」が、アメリカで、卑劣
 にも制定された。
  この法律で、アメリカは、黒人奴隷制度を『強化した』。
  これまでにも、アメリカは、国の基本方針を決める憲
 法にまでも、「奴隷制容認の条項」を卑劣にも書き記し
 ていた。
  この年に制定した「逃亡奴隷取締法」は、非人道的な
 記述に満ちている・・
  どう猛な犬ども追われ、また、銃口に狙われる追跡が、
 「正義の行為だ」と記されていた。
  また、逃亡を失敗して捕らえられた奴隷には、二度と
 同じ逃亡をしない様に、他の奴隷の見せしめに、何十回
 となく激しくむち打たれ、その上、焼き印を押されたり、
 耳をそがれたりした。
  何とか、逃げられたとしても、その奴隷の首には、賞
 金がかけられた。
  生かすも殺すも、これを捕らえた者が勝手に決めてよ
 いと記述した。
  逃亡奴隷取締法は、この様な残虐なアメリカ合衆国の
 法律だった。
  よく、こんな低劣な法律を作れるものだと怒りと共に
 軽蔑し、呆(あき)れる。
  アメリカ北部がイニシアチブをとる政治、および、キ
 リスト教国=アメリカのやることだった。
  アメリカ白人の奴隷所有者にとっては、「儲け」の要
 (かなめ)という事で・・非人道的であろうと必死に非
 人道的なことを行なった。
  また、アメリカの白人の奴隷所有者は、「儲け」のた
 めと、「自己満足」のために、女奴隷に子供を産ませた。
  「キリスト教が、奴隷所有を肯定したがために、この
 様な卑劣な行為に対しても、何ら罪悪感を持たない白人
 の奴隷所有者たちであった。
  しかし、さらに、厳しく、黒人奴隷制度は強化された。
  黒人奴隷の方々は、抑圧が強くなればなるほど、これ
 に対する反発を強めた。
  黒人奴隷の女性たちは、従来の様な「子供を産ませら
 れるような事を拒絶した」。
  また、病気を装(よそお)ったりして、仕事のサボタ
 ージュをした。
  (参考)サボタージュ:労働組合の争議戦術の一つ。
      職場にはつくが、仕事の能率を下げて経営者
     に損をさせる方法。
  逃亡行為も増えた。
  また、その逃亡を助ける非合法組織もできた。
  非常に遅れた唾棄すべきアメリカ社会が現出していた。
  そして、1850年には、前の法より、より一層厳しい逃
 亡奴隷取締法をアメリカは制定した。
  アメリカ北部も完全に、この法律に加担した。
  やむなく黒人奴隷の方々はカナダに逃れた。
  この様なアメリカ北部が、この11年後、南北戦争(1861
 年~1865年)をする。
.
1847年12月3日、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・
 ダグラスが、この日、ニューヨーク州西部のロチェスタ
 ーで、自分の週刊新聞「北極星(ノース・スター)」の
 発行を始めた。
  そして、南北戦争が勃発し、リンカーン大統領は、黒
 人の軍隊編入をためらった・・、
  黒人の方々は、「私たちもアメリカ人だ」の意識から
 軍に加わりたいとした。
  また、奴隷身分の黒人の方は、軍に参加して奴隷の身
 分から脱したいと思っていた。
  リンカーンは、その様な黒人の方々の思いをはねつけ
 た・・無視した。
  フレデリックは言った・・
  「両手が必要な時に、片手で戦ってどうなる。黒人を
 排除すべきではない。
  今、貴方(リンカーン)は、黒人の黒い手を縛ったま
 まにしておいて、あなたの白い手だけで戦う時ではない」
 と・・、
.
1938年2月、日本のユダヤ人救出
  ナチス・ドイツの迫害から逃れた多数のユダヤ人難民
 の第一陣が・・、
  この時、シベリア鉄道に揺られ、満州国の最北端の満
 州里駅に近いソ連側にあるオトポールに到着した。
  このユダヤ人の方々を救ったのが日本だった。
  「東条英機らであった」。
  日露戦争で、ユダヤ人の方々に恩を受けた日本・・そ
 の恩を返す時だった。
  日本は、決してユダヤの方々を見捨てなかった。
  日本のすべてが、ユダヤの方々を亡国の民として、『
 ユダヤの方々を救いたい』と思っていた。
  キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、美談にでっ
 ち上げられている『杉原千畝』だけではなかった。
  (因みに、杉原千畝は、ビザ発行の権限を持っていな
 いので、規則を犯して違反でビザ発行を行なっていた)
  関東軍参謀長を務めていた後の首相の東条英機と・・、
  そして、その東条英機の下で、樋口季一郎少将と、安
 江仙弘大佐が、20000人ものユダヤ人の方々を救っていた。
  そして、この後、このユダヤの方々は、神戸で安心す
 る生活を送った。
  この様な功績を無視し、アメリカは、東京裁判で、
 絞首刑にした。
  東条英機の絞首刑は、すでに連合国の密談で決定して
 いた。
  判決が、裁判の最初から決まっていた東京裁判は・・、
 「ただの茶番劇」だった・・当然、国際法違反だった。
.
1949年8月末、吉田茂首相からマッカーサー司令官への手紙
 「在日朝鮮人の全員送還を望む」の書簡・・
  吉田茂は、マッカーサーと往復書簡を交わしていた。
  その中の一つ。
  在日朝鮮人が、戦勝国と錯覚したりして、日本国内で
 の不法行為や犯罪が『あまりに多く』発生していた。
  吉田茂首相は、在日朝鮮人の送還費用は、日本政府が
 負担するとした上で・・、
  将来世代の負債となること、
  日本経済の再建に貢献しないこと、
  犯罪割合が高く、経済法規を破る常習犯であり、
  投獄者が、常に、7,000人を超える・・などから、
  朝鮮人全員の送還を求めた。
  その内容・・、
  連行国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下
  親愛なる閣下
  日本の戦後の諸問題のうち、朝鮮人と台湾人に関する
 ものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在
 もこの国に依然として滞在しているものです。
  ここで、台湾人については、彼らが比較的少数であり、
 それほど問題を起こしておりませんので、しばしふれな
 い事に致します。
  しかし、総数約100万人、そのほぼ半数は『不法入国者』
 であるところの在日朝鮮人の問題について、我々は、い
 ま、早期の解決を迫られております。
  私は、これらの朝鮮人が、すべて、彼らの生国の半島
 に送り返されることを欲するものです。
  その理由は以下の通りです。
 (1)日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余
   分な人々を維持することを許しません。
    アメリカの厚意によって、我々は大量の食糧を輸
   入していますが、その一部は、在日朝鮮人を食べさ
   せるために用いられています。
    これらの輸入は、将来、何世代にもわたってわが
   民族の負債となることでありましょう。
    もちろん、我々は、そのすべてを返済する覚悟を
   固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のた
   めに生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、
   公正なこととは思えません。
 (2)これら朝鮮人の大多数は、日本経済の再建に貢献し
   ておりません。
 (3)もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割
   合がかなり高いのです。
    彼らは、我が国の経済法規を破る常習犯です。
    かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、
   最も悪質な政治犯的犯罪を犯しがちなのです。
    投獄されているものは、常に7000人を超えていま
   す。
    戦後、今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による
   刑事事件は以下の通りです。
  1945年(8月15日以降)事件数5334、
             朝鮮人関係者数8355人、
  1946年、事件数15579、朝鮮人関係者数22965人、
  1947年、事件数32178、朝鮮人関係者数37778人、
  1948年(5月末現在) 事件数17968、
             朝鮮人関係者数22133、
  合計、 事件数71059、朝鮮人関係者数91235、
  さて朝鮮人の送還計画として私が考えるのは次のよう
 なものです。
 (1)原則として、朝鮮人はすべて送還され、その費用は
   日本政府の負担とする。
 (2)日本に在住を希望する者は、日本政府に許可を申請
   すべきものとする。
  在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされ
 た者に与えられる。
  以上述べました私の考えが、貴官によって原則的に承
 認を得られた場合は、送還にともなう予算その他の具体
 的措置について、あらためて案を提出いたします。
                  敬 具 吉田茂
  (参考)この書簡は、吉田茂のある事を行なうための
     戦術でもあったと言われている。
  (参考)2010年(平成22年)7月においても、2万7000
     世帯の韓国・朝鮮の国籍保有世帯に、日本は生
     活保護費用を支給している。
      これは、外国人全体のほとんどと言える約70
     %にもなっている。
      他の国々よりだんぜん「ずば抜けて多い」。
      そして、日本は、毎年、外国人の生活保護費
     として1300億円もの膨大な費用を支出している。
  (参考)刑務所収容者の「約90%が韓国・朝鮮人」と
     なっている。
      永住権を持つ外国人に限った犯罪者数でも、
     半数以上の57%が韓国・朝鮮となっている。
      そして、教育関係を繰ろうと日教組に多くの
     韓国・朝鮮が入っている。
      委員長が北朝鮮出身であった・・、
.
1981年(昭和56年)、核を搭載したまま日本に寄港すると
 の発言・・、
  エドウィン・O・ライシャワー氏(1961年~1966年に、
 駐日アメリカ合衆国大使を務めた、ハーバード大学教授、
 東洋史研究)が、1981年に、古森義久(当時、毎日新聞
 記者)に対して・・、
  「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が、核兵
 器を積んだまま、日本の基地に寄港していた」と発言し
 た。
  このことを受け・・、
  「非核三原則」違反を、大使まで務めた外交官が認め
 たとして日本国内で騒動になった。
  発言の詳細内容:
  (1)非核三原則の規定する持ち込みとは、陸揚げを指
    し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない。
  (2)日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵
    器を積んだまま日本の基地に寄港していた。
  (3)これについては、日米安保条約の規定する「事前
    協議」の対象とならないことを日本側も了解して
    いた。
  「国防情報センター」(Center for Defense Information)
 のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)によ
 る「核兵器搭載艦船は、日本寄港の際にわざわざ兵器を
 降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「
 ライシャワー発言」となった。
  そして、1999年(平成11年)には、日本の大学教授が
 アメリカの外交文書の中に・・、
  「1963年(昭和38年)に、ライシャワーが、当時の大
 平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の
 持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間
 で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付け
 た。
.
2003年1月、日教組の槙枝委員長が、拉致行為をしている北
 朝鮮だが、この北朝鮮を賛美した。
  そして、日教組は「自虐史観教育をしている」が、こ
 の日教組の自虐史観教育を受けた子供の感想は・・、
  「わたしは、日本の国に生まれなければよかった。人
 殺しをした日本の国は大きらい」・・、
  「ぼくたちのおじいちゃんは人殺しをした。日本なん
 て大きらい」・・、
  「中国人はずい分がまんをしたと思う。ほんとうにか
 わいそうと思った」・・、
  そして、教師が、子供たちに向かって・・、
  「おじいさんが戦争に行ったことがあると言う人は手
 を挙げて」・・と言って、手を挙げた子供に向かって、
  「あなたのおじいさんの血は穢(けが)れていますね」
 と侮辱した。
  また、横須賀市の日教組の組合教員が・・、
  「万引きもいわば社会経験だ」と教えた。
  万引きをした子供を叱るのではなかった。
  道徳を教えないどころか、「悪事を推奨していた」。
  道徳反対の日教組の影響が、この様な形で出ている。
  また、日本人を拉致している北朝鮮だが、1998年(平
 成10年)に、日教組の川上委員長が北朝鮮に出向き、
 100万円をカンパし、今後も、日教組と北朝鮮の教育文化
 同盟、および、種々の教育機関との交流を決めた。
  日教組は、何かと北朝鮮を賛美する。
  2003年(平成15年)1月に、日教組の槙枝委員長が、全
 国集会で北朝鮮を賛美するメッセージをした。
  また、北朝鮮から第一級の勲章を貰っている。
  日教組は、連綿と北朝鮮を礼讃して来た。
  そして、報告書より少ない受け持ち時間数の教員が(
 報告書には水増し記入している)、その空いた時間に、
 組合活動をしている。
  改竄(かいざん)を認めた教員の『虚偽行為』を隠す
 校長や教育委員会まで居るという始末・・、
  勝手に授業時間を短縮したり、日教組は、自分たちに
 都合よく決まりを破るのが常套となっている。
  そして、指導する立場の教育委員会は目をつぶってい
 る。
  改善するために「主任制」を作ったが、日教組は、こ
 の主任制に反対し、潰す活動をしている。
  そして、主任手当を組合に拠出している。
  管理者の校長の形骸化(けいがいか、意義や内容が失
 われたりして、形ばかりのものになってしまうこと)も
 して、「職員会議の決定がすべて」として、管理者の校
 長は、お飾りとされている。
  つまり、日教組の組合が、「職員会議以外の校長の言
 うことは聞くな」と指令している。
  だから、日教組の教員は「言うことを聞かない」。
  鎌倉市の場合、すべての主任手当の金が、日教組に入
 っているという・・、
  ある意味、ピンハネ構造になっているという。
  その額は、数十億円という半端な額ではない、美味し
 い話となっている。
.
2009年4月5日、NHKの番組「ジャパン・デビュー」は、
 2009年4月5日~2009年6月にかけて、日本放送協会 (NH
 K) のテレビ番組『NHKスペシャル』で放送された。
  4回分のシリーズを放送した。
  しかし、、まったくひどい偏向番組だった。
  最初から、捏造がある、事実が歪曲されている、やら
 せだ、名誉を傷つけられたなどの抗議が殺到した。
  NHKは、公共放送と言いながら、まったく日本の国
 益に反する放送ばかりをする。
  日本ばかりを貶(おとし)める行為をする。
  台湾の方々の心を傷つけ、日台関係を傷つけた。
  そして、NHKの放送番組「ジャパン・デビュー」は、
 訴訟沙汰(ざた)になった。
  日本と台湾の両国の視聴者や、番組出演者を含めた約
 1万300人(台湾の方々約150人を含む)により集団訴訟が
 起こされた。
  編集権のあるNHKは、それを盾に抗弁した。
  「意図的なつまみ食いだ」と批判された・・その通り
 だった。
  また、シリーズという繰り返し効果を狙った。
  例えば、毎日、人格を傷つける事を言われ続けるとい
 う辛さを理解しないNHKは、それを、逆利用した。
  長い間、NHKは、この番組に限らず、この様な番組
 を、放送し続けている。
  キリスト教に偏するNHKの「道教」を扱った放送も
 偏向していた。
  『台湾の独自性を壊したい』という意図がある放送を
 していた。
  明らかに、中国の現政権に有利にしたいという意図が
 あった。
  また、中国(共産中国)に有利な意図が番組に流れて
 いた。
  編集で、その様な印象が出る様にした。
  NHKは、中国に有利な番組の作り方をよくする。
  また、NHKは、『自局に不利な事』はまったく言わ
 ない、放送しない・・
  特に、NHKが戦争を煽って来た事を・・、
.
2009年、元外務事務次官の村田良平氏が、朝日新聞などに、
  退官後の2009年に、日米核持ち込み問題について、日
 米核密約の存在を暴露し、注目を集めた。
  そしてまた、村田氏は、北朝鮮が核実験を行ったこと
 により日本の核武装をアメリカが拒否できない日が来る
 と予測した。
  それでも、アメリカが、日本の核武装を拒否するなら、
 在日米軍基地の全廃を実行し、かつ、SLBM(潜水艦
 発射弾道ミサイル)を日本は持つことになる・・と主張
 した。
  また、村田氏は、外務省があまりにも対米従属的であ
 ると述べた。
  その村田良平氏の言葉・・、
  「日本が、イギリス、あるいは、フランスと類似の、
 潜水艦による極めて限られた自前の核抑止力を保有する
 のが最も正しい道であり・・、
  アメリカの核の傘への信頼は、北朝鮮問題の処理によ
 ってすでに地に落ちている・・
  もしアメリカがこれをあくまで拒否するのなら、在日
 アメリカ軍基地の全廃を求め、合わせて、まったく日本
 の独力によって通常兵器の抑止力に加え、フランスの如
 く、限定した核戦力を潜水艦を用いて保持するというの
 が論理的な帰結であろう」。
.
2010年3月、政府調査報告書で、佐藤栄作首相が、ニクソン
 と交わした、有事の際に沖縄への核持ち込みについて、
 事前協議が行われた際には、日本側が「遅滞なく必要を
 満たす」ことを明文化した密約の文書が確認された。
  しかし、外務省の中で、引継ぎがされた形跡がないと
 いう理由から、日本政府としてアメリカ政府と密約した
 とは確認できないと結論づけた。
  その一方、内閣は、鈴木宗男からの質問主意書に対し
 て、「発見された佐藤・ニクソン会談議事録は真正文書
 であると考える」旨の答弁書を閣議決定した。
.
2016年12月9日、ワシントンポストが報じる「トランプ氏と
 ロシア」について・・、
  「トランプ氏当選のため、ロシアがサイバー攻撃」と
 CIAが報告した。
  オバマ大統領は、退任までに調査をするようにと指示
 した。
  アメリカ中央情報局(CIA)は・・、
  アメリカ大統領選で、共和党候補ドナルド・トランプ
 氏が勝利するように、ロシアがサイバー攻撃を仕掛けた
 という分析結果をまとめた。
  ワシントンポストが、12月9日に報じた。
  大統領選期間中に、民主党全国委員会(DNC)や、
 民主党候補ヒラリー・クリントン氏の選挙陣営が不利に
 なるような情報がハッキングされ、再三にわたって、内
 部告発サイト「ウィキリークス」を通じてメールが暴露
 された。
  情報筋は、この暴露は、アメリカ人の政府に対する信
 頼を失わせる意図で、ロシア側が仕掛けたものだと指摘
 して来た。
  ワシントンポストに語った情報筋によると・・、
  CIAは、ロシアが明らかにトランプ氏の勝利を狙っ
 て情報操作していたと結論づけているという。
  「ロシアの目的は、2人の候補者のうち1人の候補者が
 有利になること、
  つまり、『トランプ氏当選を助けることだった』と、
 CIAは分析している」と、政府関係者がワシントンポ
 ストに語った。
  「これが一致した見解」
  トランプ陣営は9日、アメリカの情報機関は、その信
 頼性に疑問があるため、報告は信用できないと述べた。
  「今回の報告は、サダム・フセインが大量破壊兵器を
 保有している、と発表したのと同じ情報源からきたもの
 だ」・・と・・、
  トランプ氏の政権移行チームは声明を発表した。
  「選挙は史上最多ともいえる選挙人を獲得し勝利した。
  はるか昔に終わったことだ。
  今は前進し、『アメリカを再び偉大にする』時だ。
  ロシアのウラジミール・プーチン大統領が、トランプ
 氏の大統領就任を望んでいるのは驚く話ではない。
  トランプ氏は、選挙期間中、KGB(旧ソビエト連邦国
 家保安委員会)の後身でロシア連邦保安局(FSB)長
 官だったプーチン大統領を賞賛していた。
  トランプ氏は、プーチン大統領を、「バラク・オバマ
 よりも優れた指導者だ」と発言していた。
  公表された漏えい情報の中で、トランプ氏と共和党に
 関するものはほとんど含まれていなかった。
  しかし、一方で、クリントン氏と民主党による内部機
 密や個人のメール通信は多数暴露されていた。
  (参考記事)
  また・・、
  ニューヨークタイムズによると、ロシアは、共和党全
 国委員会を(RNC)をハッキングしたが、情報を公開
 しない選択肢をとったと、CIAが結論づけているとい
 う。
  さらに、CIA職員は、少なくとも2州の有権者登録
 データベースに、ロシア政府関連のハッカー集団が、不
 法侵入したことを発見していた。
  ハッカー集団とロシア政府との関連性は、2016年前半
 にCIAが把握していた。
  しかし、トランプ氏は、ロシアの関与に関してまとも
 にとりあっていない。
  今回の分析が明らかになる前から、トランプ氏は、C
 IAの調査結果を、政治的に動機付けられたものであり、
 確実な証拠に基づいたものではないとして非難した。
  「私はそんな話は信じません。(ロシアが)干渉して
 いるとは思いません」と、トランプ氏は、タイム誌の『
 パーソン・オブ・ザ・イヤー』に選出された時のインタ
 ビューで語った。
  「そんなことは笑い話にはなっても、真面目に話すこ
 とではない。
  私が何かをするといつでも、彼らは『おお、ロシアが
 干渉した』って言うんですよ」
  ハッキングは・・、
  「ロシアの可能性がある。
  中国の可能性がある。
  そしてこれは、ニュージャージー州出身の人間(クリ
 ントン氏)の可能性がある」と、トランプ氏は語った。
  トランプ氏は、選挙運動中に行った7月27日の会見で、
 ロシアにハッキングを求めるような発言をしている。
  「ハッキングが事実なら、ロシアはおそらくクリント
 ンの3万3000通のメールを持っている。
  私は彼らが持っていることを願っている」と。
  (参考記事)
  また・・、
  ドナルド・トランプ氏が、ロシアにハッキングを促し、
 「クリントン氏のメールを見つけてくれ」と言ったとい
 う・・、
  アメリカのサーバーが、別の国家にハッキングされた
 ことを積極的に支持する発言をし、アメリカの行政機関
 の極めて重要な不文律を破ったこの発言は、激しい論争
 を呼んだ。
  トランプ氏は後になって、「皮肉を言っただけだ」と
 主張していた。
  共和党首脳のミッチ・マコーネル上院院内総務は、9月
 の機密情報に関する説明会で・・、
  ハッキングとロシアの関係についての疑念があると表
 明していた。
  マコーネル氏は、今回のCIAの分析に関して、ワシ
 ントンポストにコメントしなかった。
  ワシントンポストによると、ロシアの目的がトランプ
 氏当選にあったことが「明白だ」とした分析は、先週ア
 メリカ議会の説明会で、主要な上院議員に共有されてい
 る。
  CIA職員は、いくつかの情報筋から、ロシア政府と
 関連のある具体的な個人名を特定している。
  彼らは、ウィキリークスに、ハッキングされた数千件
 のメールを提供したとみられる。
  オバマ大統領は、議会からの要請を受け、ロシアのハ
 ッキングに関して全面的に調査し、2017年1月の退任まで
 に調査報告書をまとめるよう指示したと9日に発表した。
  議会にも報告書に関して概要説明を行う。
  「2008年、そして、この今回の選挙で、悪意あるサイ
 バー攻撃があったことを確認している」と、オバマ政権
 のテロ対策と国土安全保障省顧問を務めるリサ・モナコ
 次席補佐官は会見で述べた。
  「私たちは、新たな分岐点に差し掛かっているようだ。
  詳細に調査し、事後検証を行い、起きたことを理解し、
 そして、学んだ教訓を開示することが、私たちの責務だ」
  某筋の意見:
  大統領選のトランプ氏とクリントン氏の討論を見て、
 聞いていられない様な『低劣な言葉の人格攻撃をして、
 まったく品位を感じられなかった』。
  この様な人たちが、大国を、そして、世界を操作して
 いくことに『恐ろしさと幻滅を感じた』。
  多くの方々の命と財産が関わっているのだ。
.
2016年、この年のアメリカ大統領選に関係して、次のよう
 ことが飛び出して来た。
  CNN(シーエヌエヌ、正式名称:ケーブルニュース
 ネットワーク)は、NHKとも提携のあるアメリカの衛
 星テレビおよびケーブルテレビ向けのニュース専門放送
 局であるが・・クリントンの御用メディアと言われた。
  クリントンから給料もらってるキャスターのリストが
 暴露された。
  NHKの報道も、一時、トランプ大統領の足ばかりを
 引っ張って来た。
  公共放送という公正さの立場は無く、コントロールさ
 れているのではと疑わせた。
  そして、2016年のアメリカ大統領選に絡んで・・、
  ウィキリークス(内部告発サイト)は、ヒラリー・ク
 リントン陣営のメールを公表した。
  サウスカロライナ州で開かれたゴールドマン・サック
 ス社員向けの講演会で、クリントン氏は講演料22万5000
 ドル(約2400万円)を受け取っている。
  (因みに、ゴールドマン・サックスは「たちが悪い」
 の噂が立っている)
  また、クリントン氏は、国務長官を退任後、合計2600
 万ドル(約27億円)以上の講演料を得たとされる。
  そしてまた、漏洩メールによるとクリントン氏は・・、
 もし、北朝鮮の敵対行為を中国が制止できない、あるい
 は、制止するつもりがないなら・・、
  アメリカ政府は、『ミサイル防衛システム』で周辺地
 域を取り囲むしかないと、中国政府関係者に伝えたとい
 う。
  そして、CNNについては、トランプ氏は、「クリン
 トン・ニュース・ネットワークだ」と批判した。
  「メールの扱いが不適切」というレベルではなく、周
 辺のグローバリストたちが、世界中で紛争を作り出して
 来た・・と。
  FBI(連邦捜査局)も、被害が及ぶのを恐れて検挙
 せざるを得ない状況に追い込まれたという。
  この様な裏情報を暴露したのはウィキリークスやロシ
 アではなく・・、
  NSA(アメリカ国家安全保障局)や、CIA(中央
 情報局)などの政府機関のアメリカ国内の良識派からの
 リークだった。
  1%の富裕層のエスタブリッシュメントたちが、これか
 ら、国や地域、政界、財界、学界を問わず追い詰められ
 て行くのではと見られている。
.
2017年、中国の世界へのプロパガンダ戦略。
  (1)中国の巧みな宣伝工作は、まず、金。
    中国の対外広報予算は、年間2兆円。
    この金を、世界の大学や、シンクタンクにばらま
    いている。
    (因みに、日本の外務省は、200億円)
  (2)中国が放送ネットワークを持った。
    中国版CNN(CCTVアメリカ)を作った。
    伝える情報は、中国の視点にかなったものばかり
    となっていて、この放送媒体でプロパガンダして
    いる。
  (3)そして、全世界に孔子学院を創設中。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)557E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月、桑島蚕造が、『鉄道論』で鉄道国有の構想を発
 表した。
  政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が
 好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが
 起こった。
  1884年の阪堺鉄道や、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可された。
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 り、それは、1890年の経済恐慌となってはね返った。
  また、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設
 鉄道の経営の悪化を招いた。
  状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、
 1891年、井上勝(官僚、「日本の鉄道の父」と呼ばれる)
 は、「鉄道政略に関する議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加え、既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出した。
  このためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説
 いた。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず・・、
  1892年に、買収法案に大幅な修正を加えた鉄道敷設法
 (1892年6月21日、制定)が制定された。
  しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合の
 み、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必要
 とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際
 は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成
 する私設鉄道の株主でもある資本家、地主たちによって
 完全に骨抜きにされてしまった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えたの
 が、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱な
 どの財界の有力者たちだった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって鉄道経営が大き
 な利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間
 に密接な関連性があると認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に発表した
 「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて渋沢らは、1894年に、官設鉄道払下計画を立案
 し、一挙に理想とする鉄道民営の実現を図った。
  しかし、日清戦争の勃発で頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となったのは、1899年
 で、衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、
 可決された。
  首相直属の鉄道国有調査会が設置された。
  この報告に基いて、翌年・1900年、鉄道国有法案およ
 び私設鉄道買収法案が帝国議会に提出された。
  しかし、これも議決されることはなかった。
1892年4月、鉄道庁参事・官中根重一が、『鉄道問題』で鉄
 道国有の必要性を論じた。
1892年5月2日、第三回帝国特別臨時議会が召集された。
 5月6日に開会された。
  会期は40日間。
  衆議院議長は自由党の星亨、副議長は曾根荒助が就任
 した。
  貴族院の正副議長は留任した。
  5月11日、貴族院は、選挙干渉に関する決議案を可決し、
 政府に反省を求め、5月14日、衆議院は、選挙干渉(問責)
 決議案を可決した。
  5月31日、衆議院は、予算を修正し、軍艦建造費などを
 削減して可決し、6月6日、貴族院は、復活修正して衆議
 院に回付した。
  6月9日、衆議院は、「予算案に関し貴族院が衆議院の
 削除した款項を復活するのは不法である」と議決し、再
 度、予算案を貴族院に返付した。
  6月10日、貴族院は、「復活修正は合法である」と議決
 し、6月11日、予算案に関し、天皇陛下の勅裁を求める上
 奏案を可決した。
1892年5月7日、人糞その他汚穢な肥料の運送について「肥
 料運搬規約及運搬人糞取扱手続」(鉄二調甲第102号)を制
 定した。
  国民の食糧生産に欠かせない肥料・・この当時、人間
 の屎尿(しにょう)が「下肥」と称され、大切に使われ
 ていた。
  都市の発達とともにその屎尿の利用が計画され、生態
 循環が図られた。
  これは、昭和初期から徐々に化学肥料が使われ出して、
 減少して行った。
  また、処理場を経由した廃棄や、船による海洋投棄も
 始まった。
  この1892年5月7日に制定された「肥料運搬規約及人糞
 取扱手続」中で、「人糞運搬取扱心得」として特約書を
 書かせること、専用貨物扱にすること、運搬後は生石灰
 を用いて貨車内を洗浄することなどが定められている。
1892年5月9日、第3回帝国議会に、再び、鉄道公債法案およ
 び私設鉄道買収法案が提出された。
1892年5月9日、衆議院議員・佐藤里治が、鉄道拡張法案を
 提出した。
1892年5月10日、衆議院議員・植木志澄・伊藤大八・塩田奥
 造らが、鉄道敷設法案を提出した。
1892年5月10日 最初の養蚕学校が、長野県小県郡(ちいさ
 がたぐん)に設立された。
  三吉校長一棟の民家にて授業が開始された。
  三吉米熊(みよしよねくま):明治〜昭和期の教育者
 で小県蚕業学校の初代校長で、上田蚕糸専門学校の教授。
  生年は、1860年(万延1年)6月10日
  没年は、1927年(昭和2年)年8月31日(67歳)
  出生地は、長門国(山口県)
  学歴は、勧業局農学校農芸化学専攻科(現・東京農工大
 学)を1881年(明治14年、21歳)に卒業。
  経歴:長州藩士の家に生まれ、廃藩後に、父に伴われ
 て上京し、明治協庠社に入った。
  1878年(明治11年、18歳)勧業局農学校に入学し、農
 芸化学専攻科に進み、1881年(明治14年、21歳)卒業し、
 長野県勧業課農務掛となった。
  西ケ原蚕業講習所で修業後、北信の各地で蚕業技術を
 伝習し、
  1889年(明治22年、29歳)農商務省から蚕業事情調査
 のためイタリア・フランスに派遣され、2年余で帰国、
  1892年(明治25年、32歳)小県蚕業学校(現・上田東高)
 初代校長となり死去するまで生涯を同校の教育に掛けた。
  蚕体病理・生理・土壌・肥料などの学科を担当、生徒
 の実習指導に当たり、学校での事績報告を毎年発行し蚕
 業界から注目されていた。
  また、地方の蚕業家のために養蚕法の標準を示し、天
 気予報を出した。
  この間、1908年(明治41年、48歳)の上田蚕糸専門学
 校(現・信州大学繊維学部)設立に尽力し、同校教授を兼
 任。
  一方、微粒子病研究団体の設立に努めて学会と養蚕家
 に貢献した。
  著書:「伊仏産業事情」「通俗蚕業講話」
.
  (今日の言葉)
.
  題:治乱興亡は、歴史の常態・・むしろ、日本のほうが例外だった・・
    この幸せな状態を自覚し・・甘えるな・・
.
13世紀以来、アフガニスタンの荒廃
  モンゴルによる大虐殺によって、アフガニスタンのカ
 ンダハールなどの都市が、700年間も荒廃したままだった。
  『背筋が凍るような大虐殺』と形容されている。
  ユーラシア大陸を行く、東京経済大学の色川大吉教授
 らは、この地が、砂漠だと思っていたが、「自然にそう
 なったのではなく、『人間が水系を破壊し尽くして』、
 砂漠化してしまった」という。
  「そこまで破壊していた」という。
  そして、大廃墟が、あちこちにある地域だという。
  大虐殺の痕跡・記憶をとどめていると氏は書かれた。
  この・・同じモンゴルが日本を襲った。
  色川氏とその仲間たちは、その日本の元寇の時を思う・・、
  「もし、神風が吹かなかったら」という話をせざるを
 得ない凄まじさだったという。
  この時の話で、以下が、結論的な話だという・・、
  「岡山あたりまでが大虐殺を受けていたかもしれない」
 という・・また・・、
  「日本の武士団は、結局、それを切り抜けただろう」
 という・・そして・・、
  「大阪あたりまでモンゴルの大虐殺に逢い、日本人の
 精神構造も変わっていただろう」などという話が出たと
 いう。
  (参考)カンダハールは、アフガニスタンの都市。
      アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主
     要都市・・カンダハール州の州都。
      人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カ
     ーブルに次いでアフガニスタン第2の都市。
      標高:海抜1,005 m
      アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人
     の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワル
     と並ぶパシュトゥーン人の主要都市。
      アジアハイウェイの路線上にあり、
      北はウルーズガーン州のタリンコート、東は
     ガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・
     ファラーを経てイランのホラーサーン地方およ
     び中央アジアに至る。
      南に進めば国境を越えてパキスタン領バロー
     チスタンのクエッタに至り、インダス川下流域
     の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要
     衝で、国際空港もある。
      日本人医師の西村哲氏は・・、
     2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題
     を解決できるとして、建設していたガンベリー
     砂漠まで総延長25kmを超える用水路が完成し、
     約10万人の農民が暮らしていける基盤を作った。
      また、西村氏と関係するペシャワール会は、
     アフガニスタン北西辺境州の飲料水、および、
     農業用水の問題を改善するために、地元に伝わ
     る昔ながらの工法を用いた井戸の設置や、カナ
     ート(カレーズ、地下水路)の復旧工事を進め
     ている。
.
1370年、ティムール帝国の祖・ティムールが君主となる。
 (~1405年)
  そしてまた、東京経済大学の色川大吉氏は、ヨーロッ
 パからアジアまで車で見聞した事を記している・・、
  その中に、『歴史は後方へ向かう事もある』と言う。
  『歴史の後退』があると・・、
  アフガニスタンのここ2~3世紀の歴史は、かつての「
 ティムール大帝国」の爛熟した中央アジアの文化が栄え、
 詩人、画家、音楽家、建築家、科学者、学僧などが高遠
 な理想を語りつつ遊歩した町が、かつて昔、ここにあっ
 た・・と・・、
  『それを、誰が想像できようか』・・と書く。
  (参考)ティムール朝は、中央アジアのマー・ワラー・
     アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に
     勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、
      中央アジアからイランにかけての地域を支配
     したイスラム王朝(1370年~1507年)
      その最盛期に、版図は、北東は東トルキスタ
     ン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南
     西はシリア・アナトリア方面にまでの広大な版
     図(はんと、一国の領域)に及び、かつてのモ
     ンゴル帝国の西南部地域を制覇した。
      創始者のティムール在位中の国家はティムー
     ル帝国と呼ばれることが多い。
  そしてまた、色川教授は、『国の独立を失った民族は、
 悲惨である』・・と書く・・、
  (日本も、国を失わないようにしなければならない)
  そして、ここユーラシアの陸続きの砂漠と草原では、
 そうした『治乱興亡は、歴史の常態』だったと書く。
  そして、日本のほうが、むしろ例外だったと書かれる。
  この文を読み、今までの日本の国としての存続を、稀
 有な例として・・しみじみ思い、有り難く感謝した。
  (参考)治乱興亡:ちらんこうぼう、世の中が平和で
     繁栄することと、乱れて滅びること。
.
1823年、第5代アメリカ大統領ジェームズ・モンローが・・、
 この年に、議会で、年次教書演説で発表した・・通称「
 モンロー宣言(モンロー教書)」・・
  この教書において・・、
  アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の『相互不干渉』とい
 う外交の基本方針を示した。
  この宣言の実態は・・、
  その後、アメリカがしたことは・・、
  まず、ヨーロッパ列強に対する、中南米を含めたアメ
 リカ大陸の『アメリカの縄張り宣言』だった。
  アメリカの縄張りに対して如何なる介入も許さない(
 敵対行為とみなす)という強いもので・・、
  今・2017年の北朝鮮の如く、大国・アメリカに歯向か
 う姿と同様だった・・
  「イギリス艦隊の撤退」をアメリカは要求した。
  ベネズエラ危機 (1896年)、1895年から1896年にかけ
 て、イギリス領ギアナとベネズエラとの間の国境紛争に
 関して、当時のアメリカ大統領グロバー・クリーブラン
 ドは、「武力を使ってでも」イギリスに対抗すべきとい
 う断固たる態度をとった。
  1898年は、アメリカ・スペイン間の「米西戦争」で、
 これに勝利したアメリカは、スペインのカリブ海から太
 平洋における植民地を獲得した(領土狩りをする腕力を
 付けて来たアメリカ)
  そして、フィリピン、グアム、プエルトリコ、独立支
 援の名目のもとキューバを保護国化し、
  ハワイを併合し・・、
  そして、さらに、西太平洋地域(フィリピン独立革命
 への介入し、米比戦争)と勢力圏を拡張して行った・・
 そして、中国が欲しいと行ったところに日本が居た・・
.
1845年、イギリスの軍艦が、この年、朝鮮・済州島付近の
 海域に侵入した・・
  (列強の強さを誇示する「うぬぼれ上がった行為」)、
  また、1846年には、フランス海軍によるキリスト教カ
 トリック弾圧に対する抗議などと理屈を付けて、これも
 また列強の干渉が始まった。
  この朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は・・、
  長い間、清朝中国を中心とした冊封体制に平伏し、そ
 の体制を堅持せざるを得ない状況下にあり、鎖国状態に
 あった。
  そして、長い間、中華支配の下に置かされて来ていた。
  そして、この中国以外にも、朝鮮には、関係する欧米
 列強やロシアの存在があった・・、
  危(あや)うい状態・・独立とは言えないような状況
 だった。
  日本は、列強各国と同様の条約を朝鮮と結びたいとし
 た。
  また、日本は、中国清朝の冊封体制から離脱のできな
 い朝鮮を手助けして離脱させ、「朝鮮は自主の邦」とい
 う理想状態にしたいとした。
  中国による冊封体制下の朝鮮が、すなわち「朝貢国」
 が・・、
  単なる「朝貢をするだけの国」を意味するのか、
  または、即「従属国・保護国」を意味するかについて、
 日本と中国の間に、認識の差があった。
  単に、挨拶に行くだけの外交上の関係国を、中国は、
 過大に、都合良く解釈していた。
.
1858年5月28日、アイグン条約
  南下政策を進めたロシア皇帝のニコライ1世の言葉・・、
  「一度、ロシアの旗が揚がりたる所、そこで、それを
 下ろすべからず」
  この言葉で代表される通り、ロシア帝国も、強引な拡
 張侵略政策を続けていた。
  ロシアの拡張侵略政策は、極東に達した。
  そして、結論を先に書けば・・清国とアイグン条約(
 1858年5月28日)、及び、北京条約(1860年10月24日、10
 月25日、11月24日)によって、ロシアへの外満州の割譲
 (現:ウラジオストックなどの地)が行われた 。
  日本とは、樺太問題やロシア軍艦対馬占領事件によっ
 て、ロシアとの問題が発生していた。
  (参考)アイグン条約:ロシア帝国と中国の清帝国の
     間で結ばれた条約で・・、
      1689年のネルチンスク条約以来、中国の清国
     領とされてきたアムール川左岸をロシアが奪い、
     そして、ウスリー川以東の外満州(現:沿海州)
     は、両国の共同管理地とされた。
      列強各国から締結することを強要された清国
     の不平等条約の一つだった。
      ロシアは、ロシア軍艦の発砲や、黒竜江左岸
     の満州人を追い払いなどの脅迫をしていた。
      後の、中国とロシアの国境紛争につながる。
  (参考)北京条約:中国とイギリス(10月24日)、フ
     ランス(10月25日)、ロシア(11月14日)と締
     結された条約で・・、
      アロー戦争(第二次アヘン戦争)での天津条
     約では、まだ、イギリス・フランスは満足して
     いなかった。
      英仏の欲が深い状態と、清の朝廷内の不平等
     条約に対する不満が原因で、条約の批准が進ま
     なかった。
      イギリス・フランスは、強制的に批准をさせ
     ようと、実力行使をして天津に軍隊を上陸させ
     るという侵略行為をした・・、
      北京までも侵略され、占領されるという事態
     に至った。
      また、美しい事で有名は円明園まで略奪され、
     そして、焼き払われた(世界遺産)
      散々、卑劣な侵略戦争で中国の方々を殺戮し
     た挙句、ロシアの仲介で条約がイギリス・フラ
     ンスと中国は結ばざるを得なかった。
      また、強欲なロシアは、仲介したことを口実
     として、この不平等条約の仲間入りをし、利益
     を享受した・・酷い話である。
.
1910年8月29日、日韓併合・・条約の発効
  日本と大韓帝国が「韓国併合に関する条約」によって
 併合した。
  1910年8月22日、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特
 別市)で、日本の寺内正毅総監と李完用首相の間で調印
 された。
  この条約は、1910年8月29日に、条約の効力が発効した。
  この頃、韓国の文盲率は90パーセント以上だった。
  日本は、韓国の方々への教育に力を入れた。
  日本は、韓国の方々が、かつて持っていて、使われて
 いない表音文字である「ハングル文字」を教育に使うよ
 うにした。
  今・現在、韓国では、この時のハングル文字が大切な
 文字となって使われている。
  この文字のお蔭で、韓国の学術をはじめ、新聞など、
 すべての情報や文化などが、韓国を育んでいる。
  また、近年の研究で、伊藤博文が、日韓併合に反対す
 る立場をとっていたことについて、その裏付けのある史
 料が見つかった。
  京都大学教授の伊藤之雄氏は・・、
  「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力が
 つくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持ってい
 たことを裏付けるものだ」としている(近年発見された
 伊藤博文のメモによる)
  朝鮮半島の安重根のテロにあって殺された伊藤博文は、
 韓国は安重根を英雄としているが、実は、伊藤博文は併
 合反対派であったことが研究の結果わかって来た(テロ
 行為は間違いであった)。
  なにしろ、ロシアの南下が厳しく、日本に併合されな
 くても、韓国は、ロシアの権力下に置かれただろう。
  中国とロシアと国境を接する地続きの小国の悲しさで
 あった。
  また、日本との併合期間中に『人口が3倍になっている』・・
  これが何よりの証拠・・日本の統治で、見違えるほど
 良くなった朝鮮がそこにあった・・人口も増えるし・・
  これは、台湾の方々が、日本に感謝しているように、
 韓国・朝鮮においても、生活などの改善が功を奏した結
 果であることを、この数字は何よりも証明している。
.
1910年8月、日韓併合
  この決定された年に、年間予算が1700万円だった朝鮮
 半島に、日本は、『3000万円の大金』を投じた。
  予算は「職業伝習(でんしゅう)」「盲唖者や精神病
 者の救療(きゅうりょう)基金」「一般貧民救済基金」
 「行路(こうろ)病者救療基金」など、多方面の福祉へ
 の資金として用いられ・・
  また、これらの福祉のほか、日本は、近代化をしたい
 と、人口調査や土地調査をしながら、治山、治水、灌漑
 (かんがい)、農業改良、小作制度の改善、教育の普及、
 公平な司法の導入などを行っていった。
  それまでの朝鮮半島は、小作人が虐(しいた)げられ
 たり、貴族階級が司法を欲しいままにして、乱用してい
 た・・などなど・・、
  今、韓国でハングルが採用されて使われているが、当
 時、貴族階級は漢字を正書とし、ハングルを軽蔑し相手
 にしていなかった。
  まったく実用化していなかった。
  日本は、この15世紀に作られ、当時、使われていたハ
 ングルを、初めて小学校教育に導入したりして、教育改
 善に取り組んで行った。
  また、貴族階級がほしいままにした司法は、「無法な
 逮捕」「笞打ち」「賄賂(わいろ)の横行、量刑判断が
 変わる」などがあった。
  また、日本は、「医療の改善」「鉄道施設」「港湾の
 建設」「各種工場の設営や整備」「工業化社会への前進」
 などの、あらゆる手を打って行った。
  当時、この様な植民地は、世界のどこにも無かった。
  台湾人の黄文雄(こうぶんゆう)氏の言葉・・、
  「今日の台湾、朝鮮の高い教育レベルは、もし日本の
 総督府時代がなかったならば、あと百年経ったとしても
 今日の中国とたいして変わりがないと言い切ることがで
 きる。
  そして、日帝の36年は、悪夢ばかりでないという『正
 しい歴史認識』がなければ、韓国人朝鮮人のアジア史の
 認識は、せいぜい朝鮮半島でしか通用しない、恨みつら
 み史観でしかない。
  いくら『国際化時代』を叫んでみても、韓国人の『国
 際化』は到来しないだろう」・・と。
  (本『歪められた朝鮮総督府』より)
.
1910年、日韓併合
  色々と悪くプロパガンダ(嘘宣伝)される日韓併合だ
 が・・、
  下記のブログが真実を伝える史料・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  言いにくいことですが・・、当時の朝鮮の方々は、ひ
 どい貧困にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
  「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされていない真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉には・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、『あまりにもかけ離れている』と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていないと言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・韓国で、日本の統治時代
 の日本の統治について、肯定的にとらえようとするのは
 相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 とだ』と言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼして来
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李氏朝鮮に、500年にわたって支配され
 て来た「併合前の朝鮮半島の実態」を、(韓国を含む朝
 鮮半島の人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  今の北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が味方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1946年5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
  東京裁判が開かれた(~1948年11月12日)
  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、戦犯として裁か
 れた戦争中の指導者たち全員に有罪が宣告され、
  東条英機首相以下7人が絞首刑になった。
  この裁判で被告は、「平和に対する罪」を犯したとさ
 れた。
  これは、「自衛戦争ではない戦争を開始する事を罪と
 するもの」だったが・・、
  こうした罪で国家の指導者を罰する事は、それまでの
 国際法の歴史には『無かった』。
  また、日本を貶(おとし)めるため、わざわざ後から
 法律まで新しく作って「日本を罪に落とした」。
  東京裁判で、ただ一人の国際法の専門家だったインド
 のパール判事は、『この裁判は、国際法上の根拠を欠い
 ている』として、『被告全員の無罪』を主張した。
  しかし、アメリカを中心とするGHQは、卑劣にも、
 このパール判事の意見書の「公表を禁じ」、その他、一
 切(いっさい)の裁判への「批判を許さなかった」・・
 公正な言論を封じた。
  東京裁判について、『国際法上の正当性を疑う意見』
 が、今でも多い。
  マッカサーも、後に、アメリカ議会で、「この戦争は、
 『日本の自衛の戦争』だった」と証言している。
  つまり、「平和に対する罪は、発生しない」のである。
  つまり、被告の全員が『無罪である』・・と、
  つまり、パール判事の下した『全員無罪の判決』と同
 じとなる。
.
1963年1月22日、アメリカのホワイトハウスで、国家安全保
 障会議が開かれた。
  この時の議題は、「フランスの核武装」だった。
  (この時、まさに、フランスは、フランス独自の核保
 持の方向に動いていた)
  「如何に、フランスが核兵器を持てないようにするか」
 の議題であった。
  この時、J・F・ケネディ大統領(任期:1961年~1963
 年)は次のように言った・・、
  「フランスやその他のヨーロッパの同盟諸国に核を持
 たせると、彼らが『本当の独立国になってしまう』。
  もし、彼らが独立したら、アメリカは『外からヨーロ
 ッパを眺めているだけの国』になってしまう。
  だから、絶対に、フランスに核を持たせてはならない」
 ・・と。
  これは・・この真意は・・、日本もそうなのだ・・、
  一旦、日本が核武装したら、同盟国としてのアメリカ
 を必要としなくなってしまう。
  今、日本は、「アメリカのキャッシュディスペンサー
 になっている」。
  (参考)キャッシュディスペンサー:現金自動預け払
     い機(げんきんじどうあずけばらいき)、ATM
     (エーティーエム)のことで・・、
      通常、紙幣(及び硬貨)、通帳、磁気カード・
     ICカードの受入口、支払口を備え、金融機関
     や貸金業者、現金出納を行う業者の提供するサ
     ービスが、顧客自身の操作によって取引できる
     機械を指す。
      元々は都市銀行の店舗に設置され、普通預貯
     金の預け払いに用いられ出したが、今日、金融
     機関はもとより、小売店や公共施設などに幅広
     く設置されている。
  これから、経済・金融面で逼迫(ひっぱく)して行く
 アメリカにとって、非常な打撃になる。
  フランスのド・ゴール大統領は、アメリカへ問う・・、
  「ソ連が、フランスに核攻撃を仕掛けて来た時・・、
 アメリカは、いったいどのようにしてソ連と核戦争をす
 るつもりか?
  こういう時、アメリカが、フランス防衛のために、ソ
 連を核攻撃するという、軍事シナリオを『具体的に示し
 て欲しい』」・・と。
  この様に聞かれたアメリカは『絶句した』。
  フランスのド・ゴール大統領は・・、
  「アメリカが、同盟国の為に核戦争を実行しない」と
 いう事を、百も承知していた。
  ド・ゴール大統領は、『同じ質問』をケネディ大統領
 へもしている・・、
  この時、ケネディは、『顔面が蒼白になり、何も答え
 られなかった』・・、
  明らかに、「同盟国のために、ソ連と核ミサイルの撃
 ち合いなどしない」という・・アメリカの態度が、はっ
 きりと読み取れたという。
  『電磁パルス弾』で「日本が蒸発する」かもしれない
 という今・2017年・・いつまでも、「もり・かけ問題」
 で国会を空転させ続けるという事は「ダメな事は明白」
 ・・
.
2011年6月17日、ピサの斜塔の傾きが増大しているので、
  ピサの斜塔がそのうち倒れてしまうと大騒ぎになった。
  この傾きの増大を止めた工事をしたのが日本だった。
  どうしても傾き増大を止められなかったイタリア当局
 は、日本の技術に頼って来た。
  これからもズーット大切に維持し、使って行きたいと
 いう方針だという。
  (2011年6月17日、修復工事が完了し、完了記念イベ
 ントが行われた・・
  最後は、これからも長く使い続けるための大理石の汚
 れも取り除く工事が行なわれたという)
  建造物は、適切にメンテナンスをすれば「半永久的に
 使えるのだ」。
  法隆寺は1000年以上だ。
  鉄骨造は、「錆びさせさえしなければ」、(防錆塗料
 塗布のメンテナンスをしっかり行なえば)永久に構造躯
 体としてあり続ける。
  日本は、壊して作り替えるという考え方・風潮がある。
  これは、間違っている。
  人間の細胞の様に、老いるとか、劣化するとかの捉え
 方をする・・ここが、間違いのスタート・・、
  構造躯体は、無機質で、生きている細胞とは違うのだ。
  適切なメンテナンスさえすれば、永久に使用可能なの
 だ。
  昭和から平成に変わる頃の、「バブル景気の時代」、
  日本人の作り替える思考が盛んに行われた。
  極端な言い方をすれば、「今日、竣工したマンション」
 でも、経済的に成り立てば(儲かれば)、明日から、「
 より大きく儲かるワンルーム・ホテル」に建て替えるた
 めに、その竣工したばかりのマンションの解体工事をす
 るというような・・「異常さのある時代」だった。
  有限な自然の資源や、社会正義のことなど「お構いな
 し」の時代だった。
  NHKが、渋谷の放送センターの建て替えを目論んで
 いる。
  この事を実現しようと、渋谷の近くの建物が、解体さ
 れ建て替えるというニュースを盛んに放送した。
  自前の放送媒体を使って、自分たちに都合の良いニュ
 ースを、自分たちに都合良く脚色して放送した。
  実際は、こんな話題は放送する意味はないのだが・・
 本当に、反社会的行為をした。
  自分本位の行動をするNHKが、また、最近、この様
 な放送をし始めている。
  金が無いと言って、受信料値下げ目標が実行できずに
 いたが・・、収支決算が良くなっても、視聴者・国民へ
 お返ししますと約束した、視聴者への受信料値下げの実
 行をする約束なのだが、値下げをせず、「建て替えだ」
 の内部留保だと、視聴者の金・受信料を返還しないでい
 る。
  受信料値下げをしないでいる。
.
2013年10月26日、脱南者:韓国を逃れてアメリカへ行く人
 が多くなっている。
  脱北者ではなく脱南者。
  韓国の人も理性のある人は、事を正確に理解している。
  また、「もう、慰安婦問題の嘘は言わないこと」とい
 う世界の人たちが増えているという。
  2013年10月26日、韓国は「生き地獄」か『脱南』する
 脱北者たちと、「産経ニュース」が報じている。
  韓国に定住していた脱北者が、再び、第三国や北朝鮮
 に向かう『脱南者』が多発している。
  最近では、北に逆戻りした住民が、韓国での生活を「
 生き地獄」だったと非難した。
  以前ならば、こうした言動は「北朝鮮体制の政治宣伝」
 と切り捨てられてきた。
  だが、一方で、韓国社会の差別や就職・生活難に苦し
 む脱北者が増加し、社会問題化しているのも事実。
  「同胞」であるはずの脱北者すら逃げ出していく現状
 に、韓国政府は頭を抱えている。
  今月・10月15日付の東亜日報社説はこの問題に言及。
  これまで韓国に亡命し、定住を決めた累計2万5560人の
 脱北者のうち、「689人は第三国に滞在している」と把握
 されていると指摘した。
  経済的困難や、韓国生活への不適応で、自殺した脱北
 者も26人に上るという。
  さらに、過去5年間に韓国籍者の難民申請を受け付け
 た国から韓国政府への指紋照会155件のうち、81.3%の
 126件は、韓国に定住していた脱北者だったとも指摘して
 いる。
  韓国政府は、現在、定着準備金や住宅支援金、職業訓
 練費用といった社会福祉から教育支援まで、脱北者に対
 して、1人当たり2000万(約185万円)~4800万ウォン
 (約443万円)を支給している。
  同じ言語圏で言葉の問題は基本的に無く、手厚い支援
 制度も用意している韓国から、こんなにも多くの人々が
 逃げ出している事実に、韓国政府や脱北者の支援活動に
 当たる関係者らはショックを受けている。
  韓国政府にとって、さらに頭の痛い問題が「北へ帰還
 する脱北者の続出」だ。
  北朝鮮は、金正恩(キム・ジョンウン)体制以降、12
 人が戻ったと宣伝している。
  北朝鮮の官製メディア、朝鮮中央通信によると、9月30
 日には平壌で、韓国から北に戻った元脱北者たちの「座
 談会」が開かれたという。
  参加したチャン・グァンチョルという男性(33歳)は
 「韓国では仕事探しが大変だ。
  就職できたとしても、給料は、韓国人の半分以下で、
 悪夢の日々だった」と話した-と同通信は伝えた。
  韓国政府関係者は、「金正恩体制を称賛させて、南へ
 逃れようとする北朝鮮住民の夢を壊すことを狙った宣伝
 工作だ」と指摘する。
  約12年前から韓国に住む50代の男性脱北者は「韓国で
 生活して初めて、韓国人にとっても暮らしにくい社会な
 のだと分かった」と。
  また、「就職、進学や結婚など人生すべてがカネとコ
 ネで決まる」と。
  また、「当の韓国人が、常に、不満を抱えながら暮ら
 しているというのに、われわれのような完全なよそ者の
 脱北者が生きていく余地はない」と打ち明けた。
  この男性によると、韓国での厳しい生活実態は、北朝
 鮮住民の間にも広まっていて、「韓国で支援を受けてカ
 ネをためたら、第三国に再脱出しようと最初から計画す
 る人もいる」という。
  「韓国に不満を持つ人は、アメリカ、カナダ、中国、
 欧州、それに、日本にも移住している」と。
  「韓国で差別などを受け苦労しても、自ら進んで独裁
 の北に戻るということはあり得ず、北への帰還には工作
 員が介在している」と。
  「実生活に入る前に韓国社会への理解を十分に深める
 時間が必要だ」と。
  「特に、北の地方などで抑圧された住民は、資本主義
 が発達した韓国なら奴隷的労働から解放され、楽に高収
 入の生活ができると過剰な夢を抱いている」と。
  「たとえば、職業斡旋で溶接技術を学びながら職を得
 たとしても、初任給が安く想像していた生活などできな
 いと失望し、だまされたと感じてしまう」と。
  「実績を積み、信頼を得て、初めて昇給の機会がある
 という認識がない」。
  「現在は、3ヶ月で定着支援施設を出るが、それでは韓
 国社会になじめない」。
  「60年も分断しているのに10年程度では適応できない。
 40年、50年の長い目で見ることが重要だ」と。
.
2017年、北朝鮮のGDPは、日本のGDPの0.3%・・、
  北朝鮮の核開発や、大陸間弾道弾(ICBM)の開発
 は、中国の応援なくしてできない状況。
.
2017年、日本の自主核の保持について、ある日本の識者が、
 徹底的にアメリカの政策立案局の高官に問うた・・、
  話の中で・・「日本は、自主核を持って、独立国にな
 らなければいけない」と言うと・・
  アメリカの政策立案局の高官は・・「日本が、自主核
 を持って独立国になろうとするならば・・、
  我々・アメリカは、経済制裁をする・・また、軍事制
 裁もする・・それでも、いいか?」・・と、いつもの様
 に恫喝して来たという・・
  しかし・・さらに・・議論をすると・・彼は・・、
 「対日制裁をしない方が、いいかもしれないなぁ・・」
 と言ったという・・。
  日本は、日本の要望を、とことんアメリカに伝えるべ
 きである・・!!
  中国が必死に止めるだろうが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)556E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年4月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月16日、新橋駅~神戸駅間の直通旅客列車が3往復
 運転となった。
1892年4月17日 大日本蚕糸会社が創立された。
  産業振興の中心にある蚕糸業の改良進歩をはかること
 を目的として、
  農商務省蚕業試験場出身技術者らが提唱して、この年、
 大日本蚕糸会が設立された。
  業務は、蚕糸業の調査、および、技術指導に貢献する
 だった。
  1905年、社団法人に改組され、不況対策や政策提言に
 も重要な役割を果たした。
  1935年~1936年、全5巻の『日本蚕糸業史』を刊行した。
  1942年、蚕糸科学研究所と合併し、財団法人となった。
  戦前の主な蚕糸業団体としては、他に、蚕糸業同業組
 合中央会、帝国蚕糸組合、日本中央蚕糸会等がある。
1892年4月、児島惟謙らの大審院裁判官の花札賭博が問題化
 した。
  向島の待合「初音屋」などで、花札賭博を行い、司法
 界を揺るがす問題となった。
  児島惟謙は、1891年5月、大津事件で大津に出張した時
 にも花札賭博をしていた。
  大審院の検事の磯部四郎も、色町で同僚や芸者と花合
 わせ(花札賭博)をすることが大変好きで・・、
  院長の児島惟謙は、この磯部四郎に誘われたことが切
 っ掛けだった。
  そして、1892年3月、磯部四郎は、この事を同僚検事に、
 児島惟謙らと花合わせをしていることを話してしまった。
  児島惟謙は・・「賭博と花札遊戯は別問題である。
  私は花札を引いたと明言するが、金銭を賭したとは言
 っていない」と言った・・が、
  金銭を掛けていなくても、この当時の法律では、飲食
 物以外のものを賭ければ、すべて賭博罪となった。
1892年4月、シベリア横断の大旅行を計画(福島安正)
  日本の陸軍軍人・福島安正は、日露戦争前のこの年に、
 ロシアが、シベリア鉄道の工事に着手するという情報を
 得て、単独で冬のシベリアの横断を行なった(~1893年)
  世界初の快挙で、世界が驚嘆した。
  厳寒期のシベリア横断は世界初だった。
  シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは、兵を極東へ送
 り込み、必ず、太平洋側で南下政策をとることが火を見
 るより明らかだった。
  我が国の安全を守るためには、詳細な調査が必要と考
 えた。
  福島安正は、大勢だと「スパイ行為だ」と指摘されや
 すいと、一頭の馬で行くというやり方で決行した。
  福島安正は、1852年(嘉永)、長野・松本藩士の家に
 生まれ、大学南校(現:東大)を経て、
  1874年、英語力を買われ、陸軍省に採用されていた。
1892年4月、鉄道郵便物取扱手続を施行した。
  鉄道事業者に郵便車を運行させて、これに職員が乗務
 し、
  鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送すると
 ともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業
 務を行った。
  鉄道は、近代的な交通・通信インフラの基盤として重
 要な位置付けがなされていて、
  1872年に開通した日本最初の鉄道においても、郵便輸
 送が行われていた。
  また、当初は、郵便物を、単に、輸送するのみであっ
 たが、
  郵便物数の増加に伴い、送達速度の向上のため、1892
 年4月からは、輸送中の鉄道郵便車内での郵便物のあて先
 地域別区分を開始した。
  その後、鉄道郵便取扱業務の増大から、専門組織の確
 立が図られた。
  郵便法令としては、1871年12月に、郵便規則が公布(
 1872年、施行)され、
  年ごとに、改定を加えて公布が続けられた。
  1882年12月、新たに郵便条例が公布され、事業の基本
 法となった(1883年、施行)。
  1892年6月には、小包郵便法を公布し、
  1892年10月から、小包郵便の取扱いを開始した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人は、今、『美しい村』をどんどん失っている・・
  ・・そして、『核武装したデタント』
.
1947年6月8日、日本教職員組合(日教組)結成
  日本の教師が連帯しようとできた組織が・・日教組(
 日本教職員組合)
  その組織ができると、この組織は、「ある固定したイ
 デオロギーを持つ組織」に乗っ取られた。
  無色透明で、公正な教育は、無くなった。
  日教組を乗っ取った者たちは、「次のように考えた」・・、
  「今、子供たちを洗脳すれば、20年後に、また、30年
 後に、確実に自分たちが洗脳したイデオロギーが社会を
 制覇する」・・と・・、
  この様に・・公言している。
  組合員数:約24万1000人(平成28年6月30日現在)
  支持政党:民進党、社会民主党
  かつては、共産党支持のグループも、日教組に属し、
 社会党右派、同左派、共産党系にほぼ3等分されていたが、
 1989年の労組再編で、共産党支持グループが日教組を離
 脱し、全教を結成した。
.
1967年8月8日、新宿駅構内で、米軍ジェット燃料輸送タン
 ク列車と貨物列車が、接触事故を起こして炎上した。
  これをきっかけに、全学連各派のデモが活発化し、
  1968年10月、新宿駅騒乱事件へと発展した。
.
1971年、東京経済大学・名誉教授の色川大吉氏は・・、
 1台のフォルクスワーゲンのキャンピングカー「どさ号」
 に「リスボン~東京5万キロ」と標語を貼り付け、
 友人ら数人でユーラシア大陸を走破した。
  その色川氏・・「日本人は、今、『美しい村』をどん
 どん失っている」・・と言われる。
  このフォルクスワーゲンの旅・・インドを目ざして車
 で走って、フランスの田園で、その美しさに感動し、そ
 の時の感じた事を記す・・
  日本人は、今、「美しい村」をどんどん失っている。
  東京など、どうなったってかまわないが、国民自身が
 「美しい村」を自分の手で破壊している事には、『日本
 文化の滅亡を感ずるのだ』・・と。
.
1980年代、この頃から続く『アメリカの双子の赤字』
☆1968年3月には、空前の「ゴールド・ラッシュ」が起こり、
 ロンドン自由金市場の金価格の抑制をめざした金プール
 協定が崩れ・・
  金が二重価格制へと移行した。
  これによって・・、
  実質上・・IMF体制は崩壊したといえる・・が・・
  最終的には、1971年8月のニクソン・ショックで、金と
 ドルの交換が停止されたことにより・・、
  名実ともに終焉(しゅうえん)を迎えた。
  一時、金との兌換(だかん)がないままのドルを中心と
 したスミソニアン体制が成立したが・・、
  1973年には、崩壊し、
  以後、主要先進国は、変動為替相場制の時代へ移行す
 ることとなった。
☆1980年代前半に、経済学者のポール・クルーグマンが・・、
  『アメリカの双子の赤字』が、深刻な経済危機をもた
 らす恐れがあると警告し・・、
  当時のアメリカの双子の赤字が、維持可能であるか否
 かという問題提起を行い(サステナビリティ問題、持続可
 能かの問題)・・全世界に衝撃を与えた。
☆1980年代のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン
 の政権下・・、
  アメリカ合衆国において、莫大な貿易赤字(経常赤字)
 と財政赤字が「並存していた」。
  1998年には、財政収支が黒字となり解消されたが・・、
  2001年に、大統領に就任したジョージ・ウォーカー・
 ブッシュ(子)政権下において、双子の赤字が『再発』
 し(イラク戦争の戦費や、景気刺激策をとるため大幅減
 税をした)・・
  そして、その後、拡大し、アメリカの貿易赤字は史上
 空前の規模に達し・・重大問題化している。
☆巨大な赤字国家、そして、借金だらけ国家・アメリカ。
  巨大な『財政赤字』と『経常赤字』を垂れ流し続ける
 締まりのない国となった。
  困っているからと日本に金をせびり・・、
  短期間に数兆ドルものペーパー・マネーを印刷し、増
 刷し続け、国際通貨市場にぶち込んでいる。
  国際基軸通貨の発行特権を乱用しているアメリカ。
  アメリカの命令に服従してアメリカドルを大量に買わ
 されて来ている日本。
  日本人が額に汗して働いて貯めた資産を、当てにする
 アメリカ。
  SDR(IMFが発行する合成通貨)を世界の共通通
 貨にせよとの声がある・・、
  アメリカ・ドルは、世界通貨の資格はない・・世界通
 貨の座から降りよ・・の声がある。
  アメリカドルには資格が無い・・その座に居るのは正
 義ではない。
  無節操なペーパー・マネーのアメリカドルの増刷は許
 されない。
  「アメリカのペーパー・マネーの夢は終わった」と言
 われている。
.
1996年、日教組がからむ「学校教育の酷い事例」
  鎌倉市のN小学校、小学1年生に、具体的に性器を描い
 た図(絵)を見せ、性行為を教え、ビデオで出産場面を
 見せ教えた。
  そのショックで、ある児童は、家に帰り、母親とトラ
 ブルとなり、児童は、「母親に嫌悪感を持った事を口に
 した」。
  この事例から見ても、行き過ぎた事がなされた事は明
 らかだった。
  年齢に不相応な事を、「教育の名のもとに行った」。
  この教師は、この授業以降、児童たちへ、「父母へ話
 す事を禁じた」。
  児童が秘密にすることを要求した教師は・・、
  「教室空間を、秘密の密室空間としたい」という意図
 を持っていた。
  従来は、中学生や、高校生の妊娠中絶が問題になって
 いたが、近年は、それが低年齢化し、小学5年生、6年生
 の妊娠中絶の増大として大問題となっている。
  日教組は、男女差別を無くす方針を取っている。
  こんなことは日教組が言わなくても、当たり前なのだ
 が・・、
  日教組の教師への指導で「行き過ぎ」が起きている。
  男女の名前を混ぜる名簿「男女混合名簿」から始まっ
 て、身体検査も男女一緒にやっている。
  「ジェンダーフリー」と横文字を使って「正しい事の
 ようにマインド・コントロール」している。
  中学生の身体検査も男女一緒。修学旅行の際も、男女
 一緒に同じ部屋に寝かせている。
  体育も一緒、騎馬戦も男女一緒が良いと洗脳し、マイ
 ンド・コントロールしている。
  そして、生殖器の事を微に入り細に入り教える事が良
 いのだとしている。。
  人間の臓器は、ほかにも大切な臓器が一杯あるのに?
.
1999年8月13日、国旗及び国家に関する法律が公布され、即
 日、施行された。
  国旗・国歌法(こっきこっかほう)と略される。
  鎌倉市教育委員会は、市内の小・中学校25校に、国旗
 と校旗を三脚と共に配布し、卒業式・入学式に国旗掲揚
 を行なうよう指導した。
  君が代についてはテープを配布した。
  しかし、ほとんどの学校が、国歌を歌わなかった。
  教師を指導すべき校長が国歌を歌わない学校すら存在
 した。
  また、学校によっては、「君が代について思想の自由
 があるから歌っても歌わなくても自由です」と呼びかけ
 る学校もあった。
  また、入学式の記念写真撮影の際、三脚にある国旗を
 取り除いて撮影している学校もあった。
  卒業式の「君が代斉唱」の際には、歌わないどころか
 起立もしない教師が多数居るという状況だった。
  また、子供たちのほとんどが、音楽の授業で「君が代」
 を習わない。
  そして、この事を指摘している方は、この様な行為を
 する教師は「日教組の組合員の教師」と言う。
  キリスト教の活動方針もこれと同じである。
  日教組とキリスト教がこの運動を行なっている。
  自分の「依(よ)って立つ基盤」をしっかり体感し認
 識する事は大切なのだ。
  国の恩恵に欲する身でありながら、感謝もしない、感
 じないでは駄目なのだ。
  日教組に反する行為をすると皆から「総スカンを食う
 ことをされる」・・と・・、
  ある音楽教師が、子供に「君が代」を教え、卒業式で
 の「国歌斉唱」をすると、ある日教組の組合員の教師に
 よって、国歌斉唱が取り止めになるという具合。
  そして、「君が代」のテープを流して「国歌斉唱だ」
 としている学校もある。
  受益者が応分の負担の義務行為をしないで、益だけを
 享受することは許されるのか?・・許されない。
  思想・信条に反すると、あくまで拒否し続ける事は出
 来るのか?・・出来ない。
  「個人の思想・信条には無限の許容が与えられている
 のではない」。
  「大局の利益が、個人の利益に優先する」。
  共同して国を守る行為は、個人の利益を守る行為に優
 先する。
  日教組の研修に出た報告には・・、
  日教組の研修の実態は、「組合活動だ」と言われない
 様に、指摘を受けないように『研修が混ぜられている』・・
 実質的に「組合活動となっている」。
  日教組の組合員教師は、研修だと届け出る。
  研修だから公的資金が支払われ、給料も支払われ、公
 的資金で日教組の活動ができるという実態が現出してい
 る。
  「研修という名に隠れた組合活動」が行なわれ、子供
 たちは勉強なしの自習となる。
  堂々と二日間の研修に出て、隠れた組織活動がなされ
 ている。
  子供たちの二日間は・・勉強無し。
  驚いたことに・・「教師が怖い教育委員会」と日教組
 は契約を結んでいる。
  「教員の研修に出席には文句を言わない」という契約
 を手回しよく貰っている。
  (研修なら文句は言わないけど・・組合活動なのだ)
  そしてまた、この契約には、管理者の管理を骨抜きに
 することが契約されている。
  それは、基本的に、管理者の指示は「独善だ」という
 立場から契約されている。
  それは、当然のように書かれていた。
  管理者が決める事より「我々・教師が決める事の方が
 良いのだ」。
  だから、管理者の決定には従わない・・となっている。
  (教師たちの集団での討議決定が優れているという言
 い分)
  管理の存在を無しにして・・、
  その様なことを「もっともの様に」主張している。
  また、教育委員会まで、この論理を認めてしまって契
 約までしている。
  もう、統制が取れない状態となっている。
  何も言っても・・「全教員の意思で決めた事ですから」
 と拒否された。
  そして、「全教員の意思を尊重する」と契約したでし
 ょう・・と言われる。
  「決定権まで勝ち取った」と勘違いした。
  個人であろうが、全教員であろうが・・「他の意思を
 尊重するのは当たり前である」。
  だから故に、「全教員の意思を尊重します」とは契約
 した・・が・・
  だから、すべてが、その通りに・・教師の言う通りに
 行くかと言えば、必ずしも「そうではないですよ」とい
 うことが分からない・・理解できない教師たち・・
  尊重はしますが・・最終判断・・決定権まで渡してな
 いのですよ・・ということ・・、
  こんな当たり前の事で揉めている。
  そして、好き勝手をしている・・社会を見下している。
  すべての人々の意見が一致することは完全にはない。
  もしあったとすれば・・と仮定の話として語られるの
 は、その全員一致の意思は、「非常に危険」という話で
 ある。
  故に、ここには・・絶対に決裁者が必要なのだ。
  会社に例えれば、「社長」。
  こんな当たり前、簡単容易な論理が通らずに、小学校
 は、また、中学校は揉めて、日教組の言いなりになって
 いる。
  シッチャカメッチャカになっている。
  つまり、組合が理知的であれば会社の事を思い、また、
 会社も組合員の事を思う、この様な会社が、大いに発展
 し、結局、組合員も良くなっている。
  しかし、あまりにも組合が強く、会社まで潰すという
 事がある。
  今、日教組は、この後者の状態となっている。
  「自分たちだけ」の目先の利益を追い求める状態にな
 っている。
  また、管理の立場を忘れて教育委員会は、完全に降伏
 し、日教組に、おべっかを使っている。
  完全な崩壊状態となっている。
  だからまた、完全な癒着体制から、腐敗が起きている。
  法律無視、法律違反という状況となっている。
  なんの行動基準も無いことになっている。
  遵法の気も薄い。
  そして、処分もされないで・・常態化し・・大手を振
 ってまかり通っている。
  ピンハネも常態化し、当たり前と化している。
  そして、これが拡大し、もはや、文部省の指導を県が
 無視し、言う事を聞かないという所まで来ている。
  何と30%の教員が、日教組活動で、授業は休みにした
 という。
  1999年(平成11年)10月14日にも起きている。
  教育委員会も、そして、校長も、あきらめか? おべ
 っかか? 違法行為を認めた形ににしている。
  日教組に肩を持つ様な言い訳ばかりをする。
  組合活動だけでは無いと、研修を隠れ蓑にしているが、
 ほとんどが組合活動に時間が割かれ、しかも、研修と言
 ったって、「いじめ・学級崩壊」という本当の議題の部
 分は、ほんの言い訳程度の一部なのだ。
  子供たちとは無縁な話がなされている。
  そして、会場の高校の授業も阻害してまでして、平日
 開催をしている。
.
2017年9月6日、北朝鮮問題、アメリカに勝ち目はない・・
 と、ニューズウィークが報じた。
  筆者:ベンジャミン・ハビブ氏(オーストラリアのラ・
 トローブ大学講師、専門は国際政治。
  北朝鮮は、核兵器保有国の一歩手前まで来ており、ト
 ランプ米政権は何をやっても勝ち目はない。
  北東アジアの盟主は、アメリカから中国へ、われわれ
 は覇権の移行期を目の当たりにしている。
  北朝鮮が、9月3日に実施した6回目の核実験は、米本土
 に届くICBM(大陸間弾道ミサイル)に搭載可能な核
 弾頭が完成間近だということを証明した。
  核実験にともなう地震の規模を示すマグニチュード(M)
 は6.3で、前回・2016年9月の核実験と比べて約10倍以上
 のエネルギーがあった。
  今回の核実験で、アメリカの力は、相対的に弱まりこ
 そすれ強まることはないだろう。
  だからこそ、ドナルド・トランプ米政権の対応がます
 ます重要になる。
  考えられる今後のシナリオを見てみる。
 ■戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮との戦争に踏み切れば、周
 辺地域で数百万人の死者が出る恐れがある。
  ジェームズ・マティス米国防長官は3日、アメリカは、
 「大規模な軍事行動で対処する」と語り、北朝鮮を牽制
 した。
  このようなトランプ政権の勇まし過ぎる発言は、北東
 アジア地域でのアメリカの地位を逆に低下させている。
 【参考記事】マティスの「大規模軍事攻撃」発言で信憑
      性増した対北軍事作戦
  ソウルで1000万人が犠牲に
  当然ながら、北朝鮮に対するあらゆる軍事行動は高い
 リスクを伴う。
  北朝鮮を軍事力で抑え込むための良い選択肢など1つも
 ない。
  8月に、ホワイトハウスを去る前に、スティーブ・バノ
 ン元大統領首席戦略官は、北朝鮮問題についてこう言っ
 ていた。
 ・・「(北朝鮮の核開発による威嚇について)軍事的な
 解決はない、忘れるべきだ。
  (軍事作戦開始後)最初の30分間で、韓国の首都ソウ
 ルの市民1000万人が、通常兵器による攻撃で犠牲になら
 ない方法がない限り、軍事的解決策はない。
  してやられたのだ」 ・・
  米軍と韓国軍の兵力を合わせれば、戦争では北朝鮮に
 勝つだろうが、いかなるシナリオでも失うものが大きい
 のはアメリカだ。
 ■目算違い
  トランプ政権が、北朝鮮に対して軍事行動を取るぞと
 威嚇を繰り返すだけで、それらを実行する気がなければ、
 アメリカの同盟国を危険にさらし、中国に北東アジアの
 秩序を作る中心的な役割を渡すことになる。
 【参考記事】中国が切った「中朝軍事同盟カード」を読
      み切れなかった日米の失敗
  北東アジアにおけるアメリカの同盟諸国、とくに韓国
 との関係は、トランプが次にどんな手を打とうとも、緊
 張を強いられることになるだろう。
  北朝鮮が、核弾頭搭載可能なICBMを完成させれば、
 万一戦争が起きた時に、韓国や日本を防衛するアメリカ
 のリスクが増える。
  アメリカの安全保障に依存してきた日韓両政府からア
 メリカに対する信頼も揺らぐ。
  アメリカの軍事行動が戦争にエスカレートすれば、ソ
 ウルは、北朝鮮の迫撃砲による集中攻撃を受け、韓国の
 他の場所や日本、さらに遠く離れた地域もミサイル攻撃
 の標的になりうる。
 【参考記事】日本、北朝鮮に打つ手なし?
  もし、北朝鮮が窮地に追い込まれ、金正恩体制の存続
 が直接的な脅威にさらされれば、北朝鮮は核兵器を使用
 する可能性が高い。
  もし、日本や韓国が核攻撃を受ければ、アメリカとの
 同盟は本来の役割が果たせなかったことになり、日韓と
 アメリカの関係はさらに大きな圧力にさらされる。
 ■制裁
  もし、今後も制裁の効果が上がらなければ、北朝鮮は
 核兵器保有という目標を遂に達成するだろう。
  そうなれば、NTP(核拡散防止条約)体制は崩壊の
 危機に瀕する。
  北朝鮮が、核兵器の開発に成功すれば、核開発を目指
 す他の国々にとって、効果のない経済制裁を科せられる
 以外に何ら罰を受けることなく核開発が行えるという悪
 しき前例になり、結果的にNPT体制は形骸化する。
  また、アメリカの核抑止力も著しく衰える。
  北朝鮮のように、核兵器保有に執念を燃やす国を止め
 られないことがはっきりするからだ。
 「核独占」の終わり
  核兵器を保有できる国を米ロ英仏中の5カ国に限定する
 NPTの「核独占」という考え方は、アメリカの覇権を
 支える柱の1つだ。
  だが、NPTに加盟していない核兵器保有国は、「核
 の影」をちらつかせることで、アメリカと取引でき、力
 の行使の選択肢も狭めることができる。
 ■米中貿易戦争
  もし、アメリカが、北朝鮮の核・ミサイル開発の資金
 源を断つために、中国に圧力をかければ、アメリカには
 勝ち目のない米中貿易戦争に発展する恐れがある。
  トランプは3日にツイッターで、アメリカは「北朝鮮と
 ビジネスをするすべての国と貿易を停止することも検討
 中だ」と述べた。
  これが、北朝鮮の最大の貿易相手国である中国に対す
 る圧力であることは明らかだ。
  トランプの主張よりもさらに踏み込んだのは、スティ
 ーブン・ムニューシン米財務長官だ。
  彼は、財務省は北朝鮮との「すべての貿易やビジネス」
 を停止させる新たな経済制裁を策定中だと明らかにした。
  北朝鮮が、中国に頼っている石油の禁輸を求める声も
 上がっている。
  だが、2016年に、アメリカの中国からの輸入は4630億
 ドル。
  バラク・オバマ前米政権下で、国務長官を務めていた
 ときのヒラリー・クリントンが指摘したように、アメリ
 カ最大の輸入相手国である中国は、アメリカに多大な影
 響力を持っている。
  愚かな保護主義から米中貿易戦争に発展し、怒った中
 国が、保有する莫大なドル建て債権を売り払う「ドル爆
 弾」を投下させれば、ドルは暴落し、世界は大不況にな
 る。
  北朝鮮問題で中国の助けを求めたいなら、あり得ない
 戦略だ。
 ■核開発の凍結
  可能性は低いが、もし、アメリカが北朝鮮に核開発の
 凍結を求めるなら、問題を先延ばしにするだけだ。
  北朝鮮が、挑発行為に出るたびに、関係国がお決まり
 の声明を出し、「融和」外交を繰り返すぐらいなら、北
 朝鮮との対話は、問題解決に向けた悪い選択肢の中では
 最もまし、という程度に過ぎない。
  金政権は、核兵器の開発と製造の凍結に合意するかも
 しれないし、核開発に費やす時間稼ぎのために、ミサイ
 ル発射実験の一時停止を受け入れるかもしれない。
 和平でアメリカは用済みに
  だが、金が国家戦略に掲げる「並進路線」(核開発と
 経済開発を同時に進める)では、核兵器が重要な位置を
 占めている。
  しかも、北朝鮮は、長年にわたり巧みに危機を作り出
 し、核開発を、一時、縮小する見返りにアメリカなどの
 交渉相手から譲歩を引き出す駆け引きを行ってきた。
  そう考えれば、核開発の凍結は、北朝鮮が核保有国に
 なる日を先延ばしにできても、止めることは不可能だ。
  北朝鮮との対話の問題点は、そもそも対話をする双方
 に同じ出発点がないことだ。
  金政権が、核開発に巨額の資金を注ぎ込むのは、国家
 安全保障や経済開発、国内の政治的正当性を保つ基盤と
 核開発を位置付けているからだ。
  そんな金政権が、進んで核開発を止めるはずはない。
 ■和平協定
  もし、アメリカが、和平協定を結ぶために北朝鮮と同
 じテーブルに着けば、北東アジア地域におけるアメリカ
 の威信は地に落ち、永遠に回復できないだろう。
  韓国の米軍基地の存在意義も消失する。
  今一度、交渉の可能性が出てくるのは、北朝鮮が、核
 弾頭の小型化とミサイルへの装着技術を完成させたとき
 だ。
  この時点で、北朝鮮は、アメリカに体制保障と朝鮮戦
 争の正式な終わりについて交渉を呼びかけるかもしれな
 い(朝鮮戦争は、1953年以降停戦状態で、両国はまだ戦
 争状態にある)
  北朝鮮が、なぜそんな交渉をしたがるか? 
  それは、核兵器の裏付けがあれば、強気で交渉を進め
 られるからだ。
  和平協定は、トランプ政権がもつ選択肢のなかで最も
 憂いの少ないものだ。
  他の選択肢はもっと受け入れがたい。
  最後は、北東アジア地域の各国が自ら核武装した北朝
 鮮を抑止する方法を見つけることになるだろう。
 ■ヘゲモニー(主導的地位。指導権)が移行する
  トランプ政権にとって、最終的にその限界をさらして
 しまわずに強さと決意を表す手段はない。
  現在の朝鮮半島情勢は、アメリカにとっての「スエズ
 危機」なのだろうか。
  エジプトが、スエズ運河を国有化したのに対抗し、イ
 ギリスなどが軍事侵攻したが失敗。
  大英帝国の衰えと第二次大戦後の国家間の力関係の変
 化をさらしてしまった。
  北朝鮮危機は、まさに、覇権移行期の顔をしている。
  トランプのアメリカは、「ウィン=ウィン」ならぬ「
 ルーズ=ルーズ」の危機に直面している。
  それらは、アメリカ衰退の現実と北東アジアで戦略を
 形作る上での限界を見せつけている。
.
2017年、中国の軍拡を止めるために・・
  アメリカは、世界をアメリカのコントロール下に置き
 たいとして来た。
  安全保障の重要な要素「武器体系」も、世界がアメリ
 カの武器システムの中に入る事を「良(よし)」として
 来た。
  勿論、アメリカの友好国との関係のみにおいて(当然、
 敵対国とはそのようにはしない)・・、
  そうすれば・・アメリカの意思が働く下で、同じ武器
 体系を持った国々が動くからである。
  ある面・・アメリカに都合よく動くからである・・、
  しかし、ヨーロッパ諸国は、『これを嫌った』。
  何でもかんでも、アメリカの意思が働くことは「御免
 だ」の意思表示だった。
  ヨーロッパは、アメリカとは別の武器体系を持った。
  アメリカは、ヨーロッパの「軍事産業の兵器開発」や
 「輸出」に、傲慢な態度で一方的に干渉した、そして、
 妨害した。
  日本は、一時的に、過去、ヨーロッパの兵器を購入し
 た事があるが、今・現在は、アメリカ一辺倒である・・
 完全なアメリカのコントロール下である。
  この様な状態なのは、アメリカだけに頼るのは、リス
 クがあり、そのリスクは高い。
  また、不確実性も高すぎる。
  それに加え、アメリカの大統領制は、非常に幅広く、
 違いの大きい人物が選出され、大統領となる。
  これが、また、大きなリスクとして存在している。
  F・ルーズベルトの様に、「完全な破綻へ至った過去
 の大統領」の様な人物が、「大統領に選出された場合、
 アメリカだけの兵器体系に守られた日本の武器体系は、
 どうなるのか?」・・という問題である。
  日本は、アメリカからの武器購入に一方的に頼るのは、
 日本にとって賢い国策だとは言えない。
  日本は、その意味から、もっと、ヨーロッパ諸国と連
 携を取るべきである。
  ヨーロッパの軍事産業も、優秀な技術を持つ日本と提
 携したがっている。
  最近(2017年)も、オーストラリアは、アメリカの兵
 器体系ではない「フランスの潜水艦技術の導入を決定し
 た」。
  また、フランスのド・ゴール大統領は、また、ポンピ
 ドー大統領は、知恵のある大統領だった。
  ド・ゴールは、フランスを核武装した、そして、ソ連
 とデタントを進めた。
  これを、「核武装したデタント」と呼んだ。
  ド・ゴールは言った・・、
  「私(ド・ゴール)は、ソ連とデタントがしたかった
 のだ。
  しかし、フランスが核を持っていなかったら、ソ連は、
 フランスの事を『アメリカの保護領』と見なして、フラ
 ンスを相手にしなかっただろう。
  ソ連とまともに交渉したいのなら、独立した核戦力が
 必要だ」・・と。
  日本も、このフランスにならい、核武装して、「中国
 とデタントをする」べきである。
  それで、中国の軍拡を止めるべきである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)555E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年4月1日、改正小学校令の実施
  因みに、1900年(明治33年)の小学校令改正と施行規
 則で、小学校は「年度の初め」を、「4月」に入学する
 と規程した。
  また、「(4月始まりを)文部省が省令によって明確
 に定めたのは、小学校についてはこれが最初」との文言
 がある。
1892年4月1日、鉄道庁が第二部雇員以下採用内規を制定
 (鉄二第161号)
  鉄道の建設に従事する人に、鉄道が開通する府県の出
 身者が多数をしめた・・その理由は・・、
  文明の利器・・その進んだ鉄道の開通が、都市地域や
 街道筋の前近代的交通業者の営業を阻害し、その分解を
 促進した。
  そのため、優しい日本は、その救済策を作った・・、
 その人たちのために、働く場・労働力基盤を創出した。
  官営鉄道の例ではないが・・、
  1880年に、設立され営業開始した東京馬車鉄道会社は、
 東京府知事にあてた『建築願』で次の様に記した・・、
  「今ヤ我同胞ノ人衆二於テ牛馬二代リ車業ヲナス者殆
 ント幾千百ナルヲ知ラス、実二我良民ヲ塗炭二陥ラシム
 ルノ醜体視ルニ忍ヒザルノミナラズ又其健康ヲ害スルヤ
 最モ甚シ、而シテ今此車業ヲ為ス者游手無頼ノ徒ノミニ
 非ス士農工商ノ徒或ハ……不測ノ災害ヲ蒙リ已ムヲ得ス
 此業ヲナスモノ亦多シ……今之ヲ救フノ道他ナシ又馬車
 鉄路ヲ設クルニアルノミ、若シ此鉄路ノ各所二開クルニ
 至ラハ随テ人車ノ業衰滅二帰シ此賎業ヲナス者或ハ本業
 二復スルヲ得ン、此此レ馬車鉄路ヲ設ケ以テ人車ノ賎業
 ヲ漸次消滅救済スルノ便益ナリ」・・、
  「賎業」(人車ノ業)を駆逐することによって、「本
 業」(士農工商)への復帰をはかるという「民衆救済」
 観念がある。
  願状には、鉄道敷設による「賎業」=人力車夫の分解
 が客観的に表現され、救済されている。
  官営鉄道の敷設も、ほぼこれと同様の社会的分解を引
 き起こした。
  日本人の優しさから、圧迫される人車の業の者の救済
 が配慮されていた。
  (日本近代化と労使関係・官営鉄道労資関係の史的構
 造、西成田豊氏の論文を参考にした)
1892年4月1日、日本鉄道会社が、営業・運転・線路の保守
 等業務の自営を開始した。
  岩倉具視らが中心になって作った、1881年の我が国初
 の鉄道会社の日本鉄道会社が、最初は、全国的な規模で
 の鉄道建設を計画したが、実際は、高崎線、東北本線、
 常磐線などだった。
  営業方針には・・、公用軍人・警官の乗車賃は半額と
 されていて、
  また、囚人は無料とし、政府で特別の車両を準備する
 となっている(第21~23条)
  また、凶作の場合、穀物の運賃は半額とした(第24~
 25条)
  また、1885年6月、運転・保線は自社で、
  そして、建設・工作業務だけを鉄道局に委託すること
 にした・・と記述がある。
1892年4月1日、筑豊興業鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
1892年4月1日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複線
 工事に着手した。
  路盤は、すでに完成していたので、荒川橋梁の複線化
 が大工事であった。
  結局、複線形ワーレン構桁(トラス構造の橋の一種)
 に取替えて、従来のものは、久慈川に転用されることに
 なった。
  小川勝五郎(明治期の鉄道建設に於いて「鉄橋小川」
 と称された橋梁技術者にして功労者の請負業者)に見積
 らせると、予算の2倍もかかるので、直営にした。
  また、この頃、小川も賭博で財産を失い、昔の繁栄は
 なく、やがて引退した。
  1895年4月1日から、複線の使用を開始した。
  1904年1月、山手線と上野駅~田端駅間の複線建設に
 着手した。
  国有までに、上野駅~日暮里駅間の常磐線複線、日暮
 里駅~田端駅間1線を完成したが、
  山手線は大崎駅~池袋駅間を複線とし、水戸駅~友部
 駅間も複線となった。
1892年4月4日、北海道炭砿鉄道会社の社長に高島嘉右衛門
 を任命した。
  高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は、横浜の実業家
 で、
  横浜港の埋め立て事業を手掛け、横浜の発展に寄与し、
 「横浜の父」を言われた。
  その業績を讃え、「高島町」という地名が残っている。
1892年4月10日、関西鉄道会社が、旅客運賃を値上げ。
  関西鉄道会社は、大阪府中東部・三重県・奈良県・和
 歌山県を中心に路線を展開した私鉄であるが、
  鉄道の建設には、巨額の資金が必要で、経済が未発達
 であった明治初年(1870年代) には、外国からの資金導
 入が図られた。
  イギリスで発行された9分利付き100万ポンドの公債の
 収入から30 万ポンドが、1870年~1872年までに、東京駅
 ~横浜駅間、大阪駅~神戸駅間の鉄道建設費の一部に当
 てられた。
  そして、不足する分については,政府資金が投入され
 た。
  鉄道建設に必要な資材も、イギリスから輸入された。
  利子は、1871年から12年間、元金は1873年から10年間、
 政府によって返済された。
  その後、1878年に、起業公債が国内で発行されて、鉄
 道建設・その他の投資に当てられた。
  公債の発行価格は、額面100円につき80円で、総額
 1,250万円に対し、実収入は1,000万円、利子は年6分で、
 元金2年間据え置き、以後、23年間で償還するという条件
 だった。
  政府は、この公債収入から248万310円を鉄道建設に投
 入した。
  その後も、鉄道建設のための公債は発行された。
  1892年のこの年に、鉄道敷設法が公布され、日本の幹
 線鉄道建設計画が定まったが・・、
  これに基づく鉄道建設においても、資金調達の公債依
 存の方針がとられた。
  鉄道当局者(井上勝鉄道頭、のち鉄道局長)からは、
 鉄道益金を鉄道建設費に充当することが提議されたが、
 政府は、益金の国庫納付と建設費の政府支給(公債依存)
 の方針を変えなかった。
  このことと旺盛な鉄道建設のために、公債発行は増加
 した。
  さらに、巨額の公債が、民営鉄道17社の買収に際して、
 交付公債として発行された。
  その総額は、4億5619万5000円にのぼった。
  19世紀~20世紀の1930年代前半において、鉄道は、独
 占的輸送機関であり、また、日本の産業発展とともに旅
 客、貨物の輸送も増加したため、国鉄は、営業利益を確
 保することができた。
  しかし、営業益金の多くが、利子支払に充当されざる
 をえなかった。
  (日本における鉄道投資と資金調達、廣岡治哉氏の論
 文を参考にした)
1892年4月10日 東京神田の大火(東京神田明治25年猿楽町
 の大火、約4620戸焼失、死者24名
  大火が起きた前日の午後9時頃より、東京では激しい北
 西の風が吹き始めていた。
  夜中の10日午前0時半頃、神田区(現:千代田区)猿楽町
 一番地の飲食店・宮本周蔵方の物置から出火・・、
  母屋をひとなめにした炎は、一つは小川町通りを、一
 つは表神保町通りを、一つは錦町通りをと、たちまち三
 方に分かれて、急速に東南へ向けて燃え広がった。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目は、あっという間もなく
 全焼。
  炎は、さらに錦町一丁目から美土代町一、二、三丁目
 へ、また、三河町一、二、三丁目へと進んだ。
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛んで堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町を灰とし、
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超えて、ついに
 日本橋区(現:中央区)本銀町へ飛び、本石町二丁目の大
 半を焼失した。
  午前9時半になり、残り火が烈風にあおられてふたたび
 襲いかかる。
  皆川町、旭町、ろうそく町、関口町も猛火の中で灰と
 なった。
  その後も、炎は、東へ進み永富町、新石町、竪大工町、
 上白壁町と次々と進んだが、
  一つは、今川町の堀割で止まり、一つは鍛冶町の大通
 りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸焼失。
 小川町警察署、神田区役所をはじめ万世橋直間税分署、
 東京法学院(現:中央大学)、東京英語学校(現:日本学園
 中、高等学校)、錦城学校(現:錦城学園高等学校)、松茂
 小学校、三省堂、熊田活版所、東京電灯会社第四電灯局、
 パノラマ館など主要な建物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内その大半を出した小川町勧工
 場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)では、
 出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、出口が表
 と裏の2か所しかなく18人が逃げ遅れて死亡している。
  (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
1892年4月15日、ゼネラル・エレクトリック社が設立された。
 (エジソン総合電気とトムソン・ヒューストンが合併)
  ゼネラル・エレクトリック(略称:GE)は、アメリカ
 合衆国コネチカット州に本社を置く、多国籍コングロマ
 リット企業で・・、
  ダウ平均株価の構成銘柄のうち、1896年5月26日の算出
 開始以来唯一残存している企業。
  欧米と中国での特許取得数では世界一。
  沿革・・、
  1878年、トーマス・エジソンがアメリカで新しい実験
   室を開く。
  1878年、トーマス・エジソンがエジソン電気照明会社
   を設立。
  1889年、電流戦争。上記会社を吸収し、エジソン・ゼ
   ネラル・エレクトリック・カンパニーを設立。
  1892年、ドレクセル・モルガン&カンパニーの助けで、
   トムソン・ヒューストン・カンパニーと合併し、エ
   ジソンの名前を外した「ゼネラル・エレクトリック」
   が誕生した。
1892年4月16日、日本火災保険会社が設立された。
  沿革・・、
  1889年、大阪に日本生命が設立され、大阪財界人は損
   害保険事業にも着目。
  1892年、田中市兵衛らの発起人は日本火災保険(株)を
   設立。
  1896年、日本酒造火災保険を合併。
  1912年、根津嘉一郎らにより東京に設立された帝国火
   災保険(株)と1944年合併。
   一方海上保険業界では1896年大阪に浅野総一郎らを
   創立委員に日本海上保険(株)が設立。
  1944年、経済統制下の業界整理統合により日本火災保
   険と合併し、日本火災海上保険(株)が誕生。
  2001年4月1日に、日本火災海上保険株式会社と興亜火
   災海上保険株式会社が合併して日本興亜損害保険が
   発足。さらに・・
  2002年4月1日に、太陽火災海上保険株式会社と合併。
  特定の金融グループに属さない独立系の保険会社であ
 ったが、UFJグループ(旧三和銀行 現・三菱UFJフィナン
 シャルグループ(MUFG))と親密であったことに加え、
 フィナンシャルワンに発足当初から参加していることな
 どから、現在はMUFG系とみなされることが多い(ただし、
 日本興亜損保では現在でも自らを独立系としている)。
  近年、明治安田生命保険とも親密となっている。
  (太陽生命とも以前から親密)
  筆頭株主のサウスイースタン・アセット・マネジメン
 トは損害保険ジャパンとの経営統合を要求しているとさ
 れ、統合によって草刈場とされることを懸念した兵頭誠
 社長の留任に反対を表明した。
  このため自主独立路線を貫けるか、業界再々編の中で
 行方が注目されていた。
  世界的な金融危機による自動車保険の急激な契約減少
 と、三井住友海上火災保険などが経営統合し、大手同業
 他社と経営規模が離されることを受けて、
  2009年3月13日、株式会社損害保険ジャパンとの間で経
 営統合について合意し、
  2010年4月1日に、共同株式移転で共同持株会社NKSJホ
 ールディングス(現・SOMPOホールディングス)が設立さ
 れた。
  経営統合後も、暫くは独自ブランドで展開していた。
 しかし、
  2012年3月23日に、株式会社損害保険ジャパンと2014年
 上半期を目途に合併し「損害保険ジャパン日本興亜株式
 会社」となることを取締役会で決議し、正式発表した。
  これは・・
  2014年8月27日に、金融庁から認可され、9月1日に実施
 される。
  合併により当社は解散し、持株会社は「損保ジャパン
 日本興亜ホールディングス株式会社」に、グループは「
 損保ジャパン日本興亜グループ」に、それぞれ改称され
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:糾弾されるNHK・・また、糾弾されるべきNHK・・
.
紀元前2700年~紀元前1600年、エジプトでピラミッドが作
 られた。
  ピラミッドは、現在も、約80基ある。
  エジプト文明の成立に大きくかかわる『ナイル川』
  ナイル川は、豊かな実りをもたらした。
  エジプトはその96%が砂漠で、ナイル川は、その砂漠
 の地の4%を緑の地に変えた。
  しかし、その緑の地の、わずか2.6%の土地にしか畑は
 ない。
  しかし、豊かな実りを、この地に、国にもたらした。
  ナイル川は、定期的に、この畑地に肥えた土をもたら
 した。
  ナイル川の定期的な氾濫は、肥えた土を運んで来た。
  エジプト人は、このナイル川の氾濫の時期を正確に知
 る必要があった。
  ナイル川上流のエチオピア高原に、6月中旬~10月下旬
 に雨が降り、1ヶ月かけて地中海へ流れて行った。
  エジプトの人たちは、正確な暦を持った。
  それによって、ナイル川を知り、うまく利用した。
  周囲の畑を潤す『壮大な規模の灌漑』が施された。
  この知恵が、『大文明を築いた』。
  万事が上手く行った。
  ナイル川流域の幅8キロ~16キロの地が緑の畑地となっ
 た。
  エジプト人は、この豊かな地に42の「ノモス(部族の
 始まりから発展した社会単位)」を作り、紀元前3000年
 頃に、それが統一された。
  王は、神と見なされた。
  そして、「大きな家」に住む人の意味で「ファラオ」
 と呼ばれた。
  エジプトでは、ファラオによる統治が約2900年間も続
 いた。
  26の王朝が生まれた。
  豊かな、穏やかなナイル川の流れは、帆船による物流
 を可能にした。
  緑の幸は、帆船で、ナイル川の三角州の頂点に位置す
 る「メンフィス」に運ばれた。
  この地に、世界中の富も集まり、栄えた。
  大量の物質の管理や分配のために、必要な記録のため
 にパピルスの紙が発明され、文化は、また、豊かに更な
 る発展をして行った。
  『象形文字』も発明された。
  紀元前2700年~紀元前1600年には、ピラミッドが作ら
 れた。
  エジプト人の作った「太陽暦」は、紀元前45年に、将
 軍・カエサルが、ローマに伝えた。
  そして、「ユリウス暦」となり、現在の「太陽暦」と
 なった。
  このエジプト人の冷静な知恵の発展が、豊かな文明を
 作り、幸福をもたらした。
  しかし、この隣地のイスラエルの民は、砂漠の地で、
 自然の恵みに恵まれず、また、他民族がひしめく地だっ
 た。
  そのため、わずかな恵まれた地の『奪い取り』が現出
 した。
  「隣国の富を奪い取ることを是とする宗教=キリスト
 教」が生まれた。
  恵まれない環境から、可哀想に、「奪い取りの殺戮の
 行為に明け暮れる地と、それを是認する宗教となった」。
.
紀元前1830年、アルム人が、ユーフラテス川中流の都市「
 バビロン(バクダード南方90キロ)」を中心に覇を唱え
 た(古代バビロニア)
  バビロンでは、ハンムラビ法典が制定された。
.
紀元前1530年、古バビロニア滅亡
  紀元前2000年~紀元前1000年頃、馬にひかせる戦車を
 武器とするインド・ヨーロッパ系遊牧民の侵入を受けた
 メソポタミアは、大変動期に入った。
  そうした中で、アナトリア高原のハットゥサを拠点と
 するヒッタイト人が、人類初の鉄製武器を使い、紀元前
 1530年頃に、古バビロニアを滅ぼした。
.
紀元前9世紀、北メソポタミアの商業の民・アッシリア人は、
 容赦のない戦争を繰り返し、
  紀元前7世紀には、メソポタミアからエジプトに至る広
 大な領土を持つ国を作った。
  「軽戦車」という馬が引く戦車を用いた。
.
紀元前612年、ペルシャ人が、アッシリア人を滅亡させて、
 アケメネスを始祖とするアケメネス帝国を樹立した。
  約200年間、続いた。
.
紀元前522年、アケメネス帝国の樹立
  アケメネス帝国は、エジプトからインダス川流域に至
 る地域を征服し、大帝国を樹立した。
  最盛期のダレイオス1世は、バビロン、エクバタナ、ス
 サの三大都市を季節ごとに移動し、王の居住地を循環し
 て、複雑な地域を支配した。
  首都・スサから延びる「王の道」は2400キロあった。
  この道は、商人は3ヶ月かけて行き来したが、王の使者
 は1週間で走破した。
  因みに、「ペルシャ人」という名は、「イラン人」に
 対するヨーロッパ人の蔑視を含む習慣的な呼び名である。
  故に、現在の『イラン』という国号は、ヨーロッパの
 蔑視を含んだ、圧迫的な言い方から脱却したいという民
 族の誇りから、1935年に採用した「イラン」の国号だっ
 た。
  ほとんどが砂漠と荒れ地が半分以上、畑は1割に過ぎな
 い。
.
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのダリウス大王が、西
 エジプト、トルコから、東はインド国境におよぶ史上最
 初の大帝国を建設した。
  そのダリウスが、自分の宮殿として作らせたのがペル
 セポリス。
  ダリウスは、「他民族の征服者」「掠奪者」「自己の
 民衆を臣従させた絶対君主」と言われた。
.
紀元前6世紀、バビロンが、周囲13キロの城壁で囲まれる都
 市に成長し、「バベルの塔」という巨塔をはじめ、大小
 1000以上の神殿、「空中庭園」を作った。
.
紀元前5世紀、ペルシャ戦役
  ペルシャのダリウスとその子・クセルクセス王は、三
 度に渡ってギリシャの奥深く侵入し、自由なギリシャ連
 合軍と戦って、敗退した。
  ペルシャ戦役である。
  もし、この時、ギリシャが敗れていたら、人類は、ア
 テネを中心とした民主制の伝統と、全盛期ギリシャの偉
 大な文化遺産を受け取ることが出来なかったであろう。
  勿論、アテネのアクロポリスは作られなかっただろう。
.
200年頃、キリスト教を嫌悪するローマ人
  ローマ人は、キリスト教を根っから嫌っていた。
  ローマ皇帝は、弱体化した帝国に対して、民をしっか
 り服従させたいと四苦八苦していた・・
  また、民への政治権力を強めたいと思っていた。
  ここで、ローマ皇帝は、キリスト教を利用しようと思
 い立った。
  ローマ皇帝は、キリスト教へ特権を与えた。
  しかし、ローマ人は、キリスト教に対する気持ちは変
 わらず・・、今までと同じで、急に変わるわけではなく、
 キリスト教に対する悪感情はそのままだった。
  当時の文書には・・、
  「・・彼ら(キリスト教徒)は、『堕落しきった連中』
 であり、『無知な男とだまされやすい女』の集団である。「
  『夜に集会を開いたり、断食の儀式を行なったり、人
 間らしからぬものを食べたり』するのだ。
  彼らは、『陰でこそこそするのを好み』『人前では無
 口だが陰で良くしゃべり』『神々に唾を吐き、聖なるも
 のをあざけり・・』・・と。
.
239年、三角縁神獣鏡に、卑弥呼が中国・魏に使者を送った
 「景初三年(239年)」の記号を持つものがある。
.
1945年9月14日、GHQが、占領軍の動静を海外に発信して
 いたとして、同盟通信社へ、業務停止命令を出した(事
 前検閲に移行する)
.
1945年9月15日、GHQの民間検閲支隊のフーバー大佐が、
 「連合国に対する批判を禁止させた」、
  また、「100%の検閲の実施」をすることを表明した。
.
1945年9月19日、GHQが、ニッポンタイムズに、発行停
 止命令をだした。
.
2016年8月5日~8月21日、リオデジャネイロ・オリンピック
 の時、NHKは、まったく、日本無視の姿勢であった。
  日本の国歌が演奏される、日本の国旗が掲揚されると
 いう「表彰場面」は、すべて、カットした、放送はしな
 かった。
  この基本の放送ポイントを、NHKは、その勝手なN
 HKイデオロギーで踏みにじった。
  卑劣なNHKだけの考え方であり、NHKイデオロギ
 ーの考え方で、NHKは日本の国歌と国旗を否定した。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の行動方針
 にここでも同調した。
  理屈にならない理屈で、NHKイデオロギーで、NH
 Kは動いている。
  また、キリスト教に偏するNHKは、日本を貶(おと
 し)めてばかりいる。
  キリスト教に同調するNHKは、日本の国歌・君が代
 を放送しない・・オリンピックの表彰場面の、日本の国
 歌が演奏される場面をカットした。
  NHKへ抗議をしたら、アメリカが表彰される場面を
 NHKは放送した。
  それも、完全・完璧な放送で、他の場面に、一切、切
 り替えず、長時間・長い時間、最初から最後まで、完全
 な形で・・「フルのシーン」で、完全に中継し、放送し
 た。
  NHKに、「君は、どこの放送局なのだ」と聞きたい
 状況だった。
  どこの国の国民も、自国の選手の努力の結晶である表
 彰される場面を、共に喜びたいと思っているものだ。
.
2016年、糾弾される腐りきったNHK
  雑誌「選択」2016、no491で、NHKの事を・・、
  「上は、会長が『不正な土地取引』で大損する実態を
 演じ・・、
  下は、職員が『億単位の横領』三昧のNHK、
  局全体で、受信料を私物化してはばからぬ腐ったNH
 K体質、
  これが治らない。
  官邸も、ついに現会長を見限ったようで、「後任は用
 意できた」・・と・・、
  NHKは、まったく甘い環境の中で、1800万円の平均
 給与という『超高給』であるのに、まだまだ腐る行為を
 している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年3月1日、日本鉄道会社が、水戸鉄道会社を買収した
 (1891年説あり)
  1891年、水戸鉄道(現:水戸線小山駅~水戸駅間)を
 買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日に
 友部駅~土浦駅間の土浦線(現常磐線)北部区間、また、
 1896年12月25日に、土浦駅~田端駅間の同南部区間を開
 業した。
1892年3月4日 帝国大学教授・久米邦武が、「神道は祭天の
 古俗」の論文により休職。
  久米邦武が、「史海」に転載され発表した論文「神道
 は祭天の古俗」で反発を買い、東京帝国大学教授の地位
 を免官された。
  「神道は祭天の古俗」は、「神道は天(自然)を祭る
 古い習俗」という意味で・・、
  久米は、「神道は宗教に非ず」と言った。
  1891年1月に「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発
 表していた。
  そして、1892年に、転載されて、この時、初めて問題
 になったのは、「史海」の主宰者の田口卯吉が、以下の
 文を記し、神道家を徴発したからだった・・、
  「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ
 決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシ
 テ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サ
 ザルベカラズ」
1892年3月5日、(氷川清話)勝海舟、70歳の高齢につき御
 盃及び酒肴料下賜。
1892年3月11日、品川弥二郎内相が引責辞任した。
  第2回臨時衆議院議員選挙の干渉を指示した内務大臣・
 品川弥二郎が責任を取り辞職した。
1892年3月14日、服制を改正し、駅長・助役の帽子、小判形
 を大黒形に改める
1892年3月16日、読売新聞が、活躍する女性「16名媛」を
 読者に投票させた結果を発表した。 (3月18日説あり)
1892年3月19日、東京府が、各学校に御真影および教育勅語
 を校内一室の場所に奉置を通達した。
  「忠愛志操ヲ養成」で近代国家の建設がしたいが、そ
 の根幹であった。
  初め、十数校の官立学校に限る予定が、下付の申請が
 拡大し、約百校の府県立学校へと拡大した。
  よくNHKなどが偏見をもって言う「軍国主義」をつ
 くるためという目的ではなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていたことでも・・「コロリと変える」・・
.
紀元前2600万年、アフリカ大地溝帯の形成
  化石人骨が多数発見される「グレートリフト・バレー」
 と呼ばれる幅30㎞~60㎞の細長い窪地の列を「アフリカ
 大地溝帯」呼び・・、
  この「アフリカ大地溝帯」は、亀裂の縁と底の高低差
 が1000メートルにも達し・・、
  この大陥没滞は、南北6400㎞にも達している。
  アフリカの約60%は、標高500メートル以上の大地で、
 「アフリカ・プレート」と呼ばれる。
  この大地溝帯のアフリカ東部の台地の「裂け目」は、
 紀元前2600万年前からその形成が始まった。
.
紀元前500万年、アウストラロピテクス発見
  化石人骨の発掘によって最古の人類の祖先が、アフリ
 カのエチオピアのタンザニアで発見された。
  「アウストラロピテクス(ラテン語で南の猿の意味)」
 で背骨、骨盤、下肢などの形態から、直立二足歩行をし
 ていたことが明らかで・・、
  人類最古の祖先と見なされている。
.
紀元前1万年、最後の氷河期が去った。
  人類の出現は、約500万年前であるが・・、
  人類は、今まで、4回の氷河期などの気候激変期を生き
 抜いて来た。
  約1万年前に、最後の氷河期が去った。
  その後、地球が温暖化をして行くと、砂漠化・乾燥化
 が起きた。
  対流圏と呼ぶ地球規模の空気の循環で、広大な砂漠地
 帯が生み出された。
  赤道付近で上昇気流を起こした大気は、上空から南北
 の回帰線付近で下降し、乾燥空気となって下りて来た。
  その地域は、年間降雨量が250ミリ以下で、降雨量より
 も蒸発量が多く、乾燥化した。
  この地域は、人類が生活するするには極めて厳しく、
 人類は、約1万年前、この砂漠化地域から移住した。
  砂漠周辺の耐乾性の草が育つ「ステップ」に移住した。
  この地域は、年間降水量が、350~600ミリで、長さが
 50センチ以下の草でおおわれた草原。
  この頃の地球の人口は、約500万人。
  ステップで畑を作り、野生の麦など、イネ科の穀物を
 栽培し・・社会が形成され現れた。
  焼き畑農業を始めた。
  穀物を収穫するための道具(新石器)、新しい社会の
 仕組みも必要とした。
.
391年、キリスト教の愚行・・知的財産の焼却行為
  キリスト教は、愚かにも70万巻の蔵書を誇る世界有数
 のアレクサンドリア図書館を焼き払った。
  さらに、キリスト教の意に合わないと、グノーシス主
 義者・バシレイデスの全著書、哲学者・ポルフュリオス
 の著書36巻、神秘主義27派のパピルスの巻物、エジブト
 王プトレマイオス・フィラデルフォスが集めた27万巻に
 上る古代の文書もすぺて灰と化した。
  キリスト教徒が、長い時をかけて本や図書館を焼き尽
 くした後・・、
  ギリシア正教会の名高い教父・聖ヨハンネス・クリュ
 ソストモスは誇らしげにこう言った・・、
  「古代世界の古典哲学や文学は、この地上から跡形も
 なく消え失せた」
.
1930年、無私の奉仕行為:台湾国の開発と八田与一
  日本の統治下にあった台湾の嘉南(かなん)平野は、
 台湾の全耕地面積の6分の1を占めるほどの広さだが、悲
 惨な状態にあった。
  雨期の洪水と乾期の水不足に悩まされる不毛の土地に
 等しかった。
  日本の石川県に生まれて、東京帝国大学で土木技術を
 学んだのち、台湾総督府に赴任した八田与一(1886年~
 1942年)は、現地を調査して工事計画書を提出した。
  それは、嘉南平野の上流の川をせき止めてダムを作り、
 安定して水を供給する灌漑施設を作るというものだった。
  工事は困難をきわめた。
  ある日のこと、石油ガスの爆発がおこり、50人余りが
 死亡する大惨事となった。
  八田は、「もう私の言う事を聞いてくれる人は居ない
 だろう」と嘆いたが・・、
  台湾の人たちは、「事故は、あなたのせいじゃない。
  貴方は、私たちの為に、台湾の為に、命がけで働いて
 いる貴方なのです」・・と、逆に八田が励まされた。
  1930年、10年がかりの世紀の大事業は完成した。
  嘉南平野は、緑の大地に生まれ変わった・・耕作地が
 膨大に増えた。。
  アメリカの土木学会は、「八田ダム」と名付け、世界
 にその功績・偉業を紹介した。
  日本は、内地の日本と同様に、差別なく台湾や朝鮮の
 国づくりをしていた。
.
1937年12月7日、アメリカが参戦し、中国を支援する戦い
  アメリカ支援の中国との戦い・南京の戦いの大詰めの
 頃・・、
  この日、中国・国民政府支援のアメリカは、南京陥落
 直前の中国・国民政府の首都・南京から、中国トップの
 蒋介石夫妻を脱出させた。
  アメリカ兵の操縦する2機のアメリカ大型機による脱出
 だった。
  日本の攻撃の始まる前に脱出しようと、夜明け直前に
 決行された。
  側近も同乗した。
  アメリカは、どっぷり中国側へ浸かって、中国と共に、
 日本と戦っていた。
  しかし、卑劣にも、アメリカは、この事を秘密にして
 いた。
  第二次世界大戦へつながるこの戦いに、アメリカは、
 すでにどっぷり浸かって、日本と戦い、参戦していた。
  秘密にするぐらいなので、当然、アメリカは、日本に
 対して、「宣戦布告はしていない」。
.
1942年6月、日本軍が、フィリピンを激戦の末、制圧した。
  日本は、アメリカへ宣戦布告して、アメリカの植民地
 であり、また、アメリカ軍の居るフィリピンへ攻撃を加
 えた。
  そして、アメリカ軍との激戦の末、日本は、1942年6月
 までに、アメリカ軍を制圧し、アメリカ軍をフィリピン
 から撤退させた。
  日本は、アメリカ軍と戦ったのである。
  フィリピン軍と戦うという意思もなく、また、目的も
 皆無だった
  アメリカ軍のマッカーサー将軍は、「アイ、シャル、
 リターン(私は戻って来る)」という有名な言葉を残し
 て撤退した。
  そして、この2年4か月後の1944年10月、アメリカ軍の
 反抗で・・『レイテ沖海戦(1944年10月23日~1944年10
 月25日)』での日本の大敗など、フィリピンの地での激
 戦が、また、始められた。
  アメリカ軍は、卑劣にもフィリピンの方々へ「武器を
 渡した」。
  (日本は、この様に現地の人を、自国軍の兵隊などに
 して、自国軍と一緒に戦わさせていない・・
  自国軍の応援など一切させていない・・
  逆に、雇用していた現地の方々などを、戦争が始まり
 そうになると村へ返していた)
  アメリカは、自国軍へ味方するようにした。
  そして、フィリピンの方々を、軍人ではないフィリピ
 ンの方々を、巻き添えにした。
  この様な卑劣な手段をし講じて、巻き込んだ戦いをし
 た。
  日本は、戦いに巻き込まれたフィリピンの方々とアメ
 リカ軍に苦戦した。
  戦争に巻き込まれたフィリピンの方々の戦没者は、111
 万人となった。
  アメリカ軍の取り込みさえなければ死なないで済んだ
 方々だった。
  また、日本人の戦没者は51万8000人となった。
  戦争が終わって、戦後、日本は、フィリピンの方々へ
 謝罪し、サンフランシスコ講和条約を経て、1956年、日
 本とフィリッピンの「日比賠償協定が結ばれ」、
  1956年7月23日に発効し、
  日本は、フィリピンの方々へ、はっきり謝罪し、賠償
 して、国交が開かれ、正常化した。
  しかし、フィリピンの方々へ武器を渡す行為までして、
 戦争に巻き込んだアメリカの「フィリピンの方々への謝
 罪」の話は、また、賠償の話は、今まで、聞いたことが
 無い・・その様なことを一切しないアメリカである。
  ホッカムリしているアメリカである。
  日本の真珠湾攻撃の時、日本は、アメリカの「軍に対
 してしか攻撃をしなかった・・当然である」。
  まったく、アメリカの一般市民の方々への攻撃はして
 いない。
  無実の一般市民の方々への殺戮は「行っていない」。
  アメリカの一般市民の方々の死者が出ているのである
 が、これを調べると、アメリカ軍が、自国民を誤射して
 いるのである。
  サッカーで言えば「オウン・ゴール」である。
  戦争とはこの様なものであり、アメリカが、卑劣にも
 フィリピンの方々へ武器を渡して戦わせたのなら、それ
 でなくてもフィリピンの方々の死者が出るものを、戦争
 に巻き込んだら、多くの戦没者・犠牲者の方々が出るの
 は火を見るのも明らかである。
  アメリカは、自分たちのこの様な行為に関してまった
 く謝罪する意思はない。
  日本は、誠実に謝罪をし続けている。
  アメリカは、アン・フェアなアメリカとなっている。
  『マニラ裁判』をして、これを裁くべきである。
.
1945年9月12日、GHQのマッカーサー元帥が、記者会見で
 「日本は四等国に転落」と発言した。
  そして、「再び、世界の強国に復活することは不可能
 である」と発表。
  また、マッカーサーには、スイス公使に力説した次の
 言葉がある・・、
  「戦後日本は、国際社会で憐(あわ)れな地位を占め
 ることとなろう」・・、
.
1945年9月19日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、
 プレスコード(新聞編集綱領)を出した。
  (参考)プレスコード:占領軍総司令部が、日本の新
     聞に対して発令した規則で、卑劣な口封じ策だ
     った。
      占領政策への批判の取締りが目的だった。
      多くの強姦や殺人の報道が規制され、新聞報
     道ができなかった・・事実が隠された。
      1952年まで続き、講和条約発効によって失効。
  日本新聞遵則 (Press Code for Japan) を発令(発表
 は21日)
  このプレスコードによる卑劣な報道規制によって、ア
 メリカ軍などの占領軍の犯罪行為の報道が、日本のメデ
 ィアから消えた。
  あまりにも強姦・殺人などの犯罪が多かったために、
 報道するなとされた。
  卑劣にも、この検閲の存在そのものにも緘口令(かん
 こうれい、他の人にいう事を禁止すること)が敷かれた。
  またさらに、卑劣な事に、連合国軍兵士の凶悪犯罪は
 「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、
 暗黙の了解となっていた。
  GHQの資料・記録には、まったく少ない数(一桁)
 が書かれ、一目で「嘘つき資料」「誤魔化し記録」と分
 かる・・、
  日本の調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ
 軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人
 とある。
  また、警察の資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性
 を襲った事件は2万件と記録されている。
  世界記憶遺産に登録申請せよ!
.
1945年12月24日、生田警察署襲撃事件
  現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃さ
 れた。
  在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)
 からなる暴徒によって、1945年12月24日、および、翌年
 の1946年1月9日の2回続けて発生した。
  1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒
 が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入した。
  署員を拳銃や日本刀・匕首(短刀)を突きつけて軟禁
 した。
  1946年1月9日の事件は、三宮ガード下で、賭博団が検
 挙されたことを怒り、30人~40人の朝鮮人が、犯人の奪
 還を目的に署内に侵入した。
  この当時、この様な朝鮮半島人による事件が多発して
 いた。
  日本の敗戦を受けて、日本の領土であった朝鮮半島人
 等の中には「戦勝国民」を自称する者が多く現れた。
  そして、出稼ぎ先の日本国内において数々の犯罪を犯
 した。
  組織的かつ広範囲に、警察を襲撃し、土地家屋や鉄道
 などの公共施設を強奪し、市民に暴行をふるい、闇市に
 関与した。
  市民社会でも、恒常的に、殺人、強盗、強姦事件が多
 発した。
  しかし、朝鮮人や中国人の犯罪の事実は、連合国軍最
 高司令官(マッカーサー)の検閲によって、削除される
 か、控え目な報道をするように命じられた。
  連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の資料による
 と・・、
  日本国内だけで、最低4000人の日本人市民が朝鮮人の
 犠牲となり殺害されたとある。
  これは、まったく少ない数字で、氷山の一角に過ぎな
 いという。
  あまりの酷さに・・吉田首相は、朝鮮人の犯罪傾向に
 ついて言及しつつ・・、
  「朝鮮人は、日本の再建に利さないため帰国させるべ
 き」とマッカーサーに書簡で訴え・・大半の朝鮮人を帰
 還させた。
  日本が去った朝鮮半島南部に建国されたばかりの大韓
 民国の李承晩は、「李承晩ライン」を引いて竹島を占拠
 した上で・・日本人漁民を殺害・抑留し、抑留者の返還
 と引き換えに重大犯罪を犯した朝鮮人472人を放免し、
  さらに、日本にとどまった朝鮮人に日本在留特別許可
 を与えるようにと要求した。
  日本を貶めてばかりいるNHKは、この様な事を放送
 しない。
  中国や朝鮮に味方ばかりするNHKは、この様な事を
 放送しない。
.
1952年2月10日、トカラ列島(下七島)が日本に復帰した。
  トカラ列島は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸
 島に属する島嶼群。
  行政区域は、全島が鹿児島県鹿児島郡十島村。
  天気予報区分では、奄美地方の一部。
  地名の由来は諸説あるが、「沖の海原」を指す「トハ
 ラ」から転訛したという説が有力。
  今から1300年以上も前・・『続日本紀』に、699年8月
 19日(文武天皇3年七月辛未)に・・、多褹、夜久、菴美、
 度感の人が物を貢いだと記されていて、
  これらの地名はそれぞれ種子島・屋久島・奄美大島・
 トカラ(吐噶喇)にあたる。
  1946年2月2日に、GHQ(連合国総司令部)の宣言に
 より、北緯30度(トカラ列島)以南がアメリカ軍の軍政
 下に置かれ、
  そして、1952年のこの日、日本へ復帰した。
  おもな島は、口之島、中之島、臥蛇島(無人島)、小
 臥蛇島(無人島)、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小島(
 無人島)、小宝島、宝島、上ノ根島(無人島)、横当島
 (無人島)
.
1960年2月、フランスが核保有国になった。
  ド・ゴール大統領が、「フランスの安全保障を、アメ
 リカの核の傘に依存せずに済むようにする」との信念で、
 通常兵力削減の代わりに、フランス独自の核兵器の開発
 を推進した。
  1960年2月には、サハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実
 験に成功し、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国
 となった。
  1963年の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降も、
 アルジェリアなどで核実験を繰り返した。
  このフランスのド・ゴール大統領(任期:1959年~1969
 年)は言った・・、
  「自分で自分の国を守ろうとしない国は、国家として
 のレジティマシー(正統性)は無い」・・と・・、
  それは、国民国家(ネーション・ステート)の最初の
 要件は『安全保障』である・・と・・
  16世紀~18世紀にかけて、世界の諸民族は、「自らを
 守る必要性のため」に、国民国家を作った。
  逆に言えば、自らの安全保障の義務を果たそうとしな
 い国家には、最初から、「レジティマシーが欠けている」。
  ホップスやモーゲンソーが指摘している・・、
  「人間の自然状態は、万人の万人に対する闘争」であ
 る。
  その中で、最終的に我々を「自然状態(=永続的な闘
 争)」から守ってくれるものは、国家である。
  もし国家が国民を守らないのなら、そんな国家に対し
 て国民は忠誠心を感じない。
  国家が、「国民を守る意思と能力」を示すからこそ、
 国民は、国家に対して忠誠心を持つ。
  はっきりと国民を守ろうとする意思を示さない国家は、
 無責任な国家だと言える。
  また、世界からも、当然、自国民からも尊敬はされな
 いし、信頼もされない。
  そういう意味で、北朝鮮は、必死に「自国民を守ろう
 としている」。
  ド・ゴールの言葉の主旨・・、
  「国は、国民を保護しなければならない。そうしなく
 なれば国家とは言えないし、国民に忠誠を求める事も出
 来ない」。
  「日本は、自国の独立を維持するために必要な『自主
 的な抑止力』が必要。
  『ミニマム・ディテランス』と呼ばれるごく少量の核
 兵器が必要。
  現状を維持するための核兵器が必要。
  攻撃のための核兵器ではなく、「殺されないための核
 兵器」。
  因みに、「核の持ち込み」では、真の核抑止力とはな
 らない。
  石破氏は、こんな事を言って国を惑わせているが「間
 違いだ」。
  因みに、「核の持ち込み」は、日本ですでになされて
 いる。
  北朝鮮も、中国も、ロシアも、そんなことは計算済み。
  見え見えの『非核三原則』はなされていない。
  『非核三原則』は、遠い過去の話・・、
.
1960年代、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の
 高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティ」
 として賞賛されるようになった。
  日本人の誠実さ、勤勉さ、努力家などが理解された。
.
1968年、核拡散防止条約(NPT)が締結された。
  この条約は、表面上は美しく見えるが、まったく欺瞞
 (ぎまん、人の目をごまかし、だますこと)に満ちた条
 約だ。
  一寸見(ちょっとみ、ちょっと見た様子)は美しく、
 且つ、良さそうに見えるが、
  そして、「世界の人々は、どこかで美しい事がなされ
 ているのだろうと期待して見ているが・・実態は、誤魔
 化されている・・実態はまるっきり違う」。
  アメリカのマクナマラ国防長官は・・引退をしたら、
 この「欺瞞の点」について口を開いた。
  さすが、現役で、仕事を盛んに携(たずさ)わってい
 る時には言えなかったことを、その職を退いた後には、
 良心の呵責からか、この条約の欺瞞性について、本当の
 心の内を語った・・、
  「アメリカの態度は不道徳だ」・・と、
  「アメリカの核拡散防止条約・NPTに対する態度は、
 単に、条約違反であるというだけではなく(その条約違
 反行為だけでも、不誠実この上ないが)、アメリカは不
 道徳そのものだ」・・と。
  (参考)良心(りょうしん)とは、自身に内在する社
     会一般的な価値観(規範意識)に照らして、こ
     との可否ないし善悪を測る心の働きのこと。
      英語ではconscienceと表記され、その語源に
     は日本語のような「良」を意味する部分はない 。
      ... 罪悪感が入り混じった複雑な感情の動きを
     良心の呵責と称される。
  日本は、この様な条約から脱退をするべきだ。
  第6条なんて「完全に履行されていない」。
  第6条は、「核保有国は、核兵器の廃絶をする」と約束
 されているが、完全に無視されている・・馬鹿々々しい
 状況である。
  アメリカは、依然として8000発~10000発の核弾頭を持
 っていて、そして、核の増産までしている。
  ロシアも、12000発~16000発の核弾頭を持っていて、
 ロシアも増産をしている。
  そして、卑劣な事に・・アメリカも、ロシアも、その
 増産は大規模に行われ続けている。
  まったく、条約なんてあったもんじゃない。
  さらに、数万発の核弾頭を生産しようと、その原料の
 プルトニウムや濃縮ウラニウムを、秘密裏に数か所の施
 設に隠し持っている。
  第6条を守ろうという「意思は、まったくない」。
  こんな裏切りを、「アメリカ」も、「ロシア」も、や
 っている。
  欺瞞だらけの裏切り行為の中にある条約なのだ。
  非核保有国の核武装の禁止にだけは、傲慢(ごうまん、
 高ぶって人をあなどり見下す態度であること)に、高飛
 車に、高圧的に、日本に押し付けてくる。
  君たちは何をしているのだと、アメリカに聞きたい。
  日本をターゲットにしている。
  アメリカは、新型核弾頭を「これから作って行こう」
 とさえしている。
  その為の生産施設や研究所を作っている。
  一向(いっこう)に止めようとはしていない。
  そんな気は、「爪の垢(あか)ほどもないアメリカ」
 である。
  馬鹿々々しいにも程(ほど)がある(「・・にも程が
 ある」の形で、程度・限度を超えている状態に対して、
 非難の意を込めて言っている)
.
1978年、デイビッド・ロックフェラーが、日本文化を伝え
 る非営利団体「ジャパン・ソサエティー」の名誉会長に
 就任した。
  来日した際、その時に、スピーチで嘆いた・・、
  「反日のアメリカ国会議員の、その反日姿勢を和(や
 わ)らげるため、また、緩和するために・・、
  日本の通産省は、そのアメリカ議員の応援を始める」
 ・・と、
  そして、「そのアメリカの反日議員に対してプレゼン
 トを与える」・・、
  それは、日本の企業(工場)を、そのアメリカの反日
 国会議員の選挙区に誘致する」
  「そのアメリカの反日国会議員は、息を吹き返し、落
 選が目の前であったのが当選し、元気になって、日本た
 たきに走り回っている」と・・そして・・、
  親日派のロックフェラー氏は、落選寸前だ・・と。
.
1997年、中国の環境汚染がひどい。
  中国は急速な経済発展をしているが、その陰の部分が
 ある・・公害問題である。
  中国の意識が環境対策に対して認識不足であることも
 問題を大きくしている。
  公害対策に当てている予算も日本の4分の1以下と少な
 い。
  環境汚染に対する紛争も激増している(1997年頃から
 出始め、2008年には約7倍となっている)
  中国の水銀汚染は、すごくて、怖い状況。
  黄河の水は汚染されていて「劣5クラス」で、「いか
 なる用途にも使えない」とされている。
  この水銀が、P2.5の様に日本に飛来して、日本を汚染
 しているという。
  琵琶湖のナマズから水銀が検出されたという。
  中国では、唐辛子、トウモロコシ、米などの作物の含
 有水銀量が高いと問題となっている。
  また、河川や土壌の含有水銀量も高い。
  1949年~1973年の「大躍進」「文化大革命」での盲目
 的な生産・増産が環境破壊的な生産だった。
  食品中の水銀含有が心配になっている。
  汚染物の垂れ流しで、排出抑制を必要としている。
  水銀含有の廃棄物の処理も問題になっている。
  中国政府も水銀、カドミウム、鉛、クロムなどの重金
 属汚染を2007年比で15%低減したいとしている。
  因みに、滋賀県立大学環境科学部は、2010年から、中
 国から偏西風によって飛んできた水銀が日本の内陸水域
 の魚類にどう影響するかを調べている。
  そこで発見されたのが、前記した琵琶湖のナマズから
 恐れていた様に水銀が検出された。
  この時、ショッキングな数値が出た。
  日本の国の魚介類に含まれる総水銀の暫定規制値を0.4
 PPMと定めているが、この琵琶湖のナマズはこの数値の約
 2倍の0.856PPMであった。
  規制値を2倍も超えるというショッキングな汚染度だっ
 た。
.
1999年、韓国が、世界の歴史学会で、「日本による日韓併
 合は侵略である」という主張を持ち出した。
  世界の歴史学者たちが議論をし、また、戦わせた。
  その結果、韓国側の主張は退(しりぞ))けられ、「
 日韓併合は、条約による併合であり、侵略ではない」と
 いう結論が出た。
  しかし、卑劣にも、韓国は、その後、同じ主張を繰り
 返し続けている。
  卑劣にも、アメリカ・メディアは、「日本による苛酷
 な植民地支配」という言葉が、枕詞的(まくらことばて
 き)に、韓国と一緒になって使っている。
.
2004年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領が、「反民族
 行為者財産の国家帰属に関する特別法」、別名「親日派
 糾弾法」を出した。
  在米韓国人が、アメリカでも黒人の方々や、ヒスパニ
 ックの方々に対して差別を行なって、アメリカ国内で問
 題となっているが・・、
  韓国国内でも、親日家だった李完用を、売国奴として
 扱い。
  また、朝鮮戦争の英雄の白善燁(ペク・ソニョプ)将
 軍までも親日だとつるし上げた。
  嫌日から発する人権弾圧行為である。
  韓国は、遠い昔から、豊かな日本、文化の花咲く日本
 を逆恨みして、この様な態度を示して来た。
  恩を受けても、恩とせず、結局、その恩を仇で返す様
 なことを、歴史的にズーットして来た。
.
2006年3月、アメリカは、インドにゴマを摺(す)った。
  アメリカは、儲けの為にインドを無視できないと・・、
  2006年3月、核拡散防止条約(NPT)に加盟もしてい
 ないインドへ、「核開発に協力する」と言った。
  そして、ブッシュ大統領(子)が、インドを訪問した。
  インドのマンモハン・シン首相と会談し、「米印(ア
 メリカ・インド)平和原子力協力法」を締結した。
  アメリカ国内から、「核不拡散政策を転換するのか?」
 の批判の声が上がった・・が、しかし・・
  ブッシュ大統領(子)は、「時代は変わっているのだ」
 と答えた。
  そして、「過去に縛られるな。インドの原子力産業の
 発展は、我が国(アメリカ)の経済に資するのだ」と言
 い、
  また、「世界のエネルギー問題にも資するのだ」と言
 った。
  アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていた
 ことでも「コロリと変える」・・
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領は、日本領の竹島に上
 陸した。
  韓国領だと主張したかった。
  韓国の現役大統領の竹島上陸は、今までの韓国大統領
 がやっていなかった愚挙を行なった。
.
2012年8月14日、天皇陛下への侮辱発言。
  韓国の李明博大統領が、日本の天皇陛下への侮辱発言
 をした。
  「天皇が足を縛って跪(ひざまづ)いて土下座するな
 ら、訪問してもいい」。
  この発言を日本メディアは報道しなかった。
  ただ「謝罪すれば」にした。
.
2016年7月24日、企業経営者で作家の河添恵子氏は、イギリ
 スの経済が復活するのか?と経済復活が難しいイギリス
 の事情を説明している。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  かつてのイギリスの栄光は、霧のかなたに消え去り、
 そして、埋没してしまった沈んだイギリスが今である・・
 と・・
.
2016年9月、アメリカのパイプライン建設工事に対して、裁
 判所が、「一時的な建設中止命令」を出した。
  NBCテレビ(長崎放送)が、「日本の実業家が、ク
 リントンの献金パーティーに出席していたことに対し、
 これは、選挙資金違反行為ではないか」と報道していた
 ・・しかし・・、
  ここに絡んで来るのが、中国の金をふんだんに使った
 プロパガンダ行為・・、
  中国は、アメリカで盛んに日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ行為を行なっているが・・、
  アメリカでは、前記の様な、日本を貶める行為がよく
 取り沙汰される。
  日本より中国の方が、日本より多くこの類の事をして
 いる・・しかし、日本は上記の様な事をアメリカでよく
 取り沙汰される。
  また、その一つ・・
  アメリカで、「ダコタの環境を破壊する開発」に、日
 本企業が出資していると、アメリカで取り沙汰された話・・、
  その「ダコタの環境を破壊する開発」とは・・、
  アメリカのノースダコタ州とイリノイ州を結ぶ約1,800
 kmの「ダコタ・アクセス・パイプライン」の建設のこと。
  ノースダコタ州のバッケン油田から、サウスダコタ州、
 アイオワ州を通過して、イリノイ州まで・・、
  バッケン地域に眠る74億バレルもあるともいわれてい
 る未採掘の原油を、1日あたり47万バレル輸送するという
 計画。
  建設ルートは、アメリカ・インディアンの方々の居留
 区は避けているが、近くに居留区があり、
  地元先住民の「スタンディングロック・スー族」の方々
 が、数週間にわたってキャンプを張って、抗議の座り込
 みを行った。
  (命の水である川の水の汚染に対する抗議)
  許認可権限を持つ米国陸軍工兵隊は・・、
  「居留区への影響は与えない」「環境汚染の心配もな
 い」と却下し・・パイプライン建設を認可した。
  このスタンディングロック・スー族の方々の貧困率は、
 全米平均の3倍以上の41%と、非常に高い状態となってい
 て、
  この様な生活状況に・・「聖なる水」の汚染問題が加
 わってもらいたくない・・という気持ちが存在する。
  良い生活環境下に居られない先住民の方々、それを改
 善できないというアメリカ行政の問題が・・その根っこ
 にある。
  また、アメリカの石油・ガスの掘削やパイプラインの
 漏出事故が「日常茶飯である」という現状が、この抗議
 の根本にもある。
  因みに、2006年~2015年の10年間に、事故が16万7000
 件も起きている(アメリカ運輸省パイプライン・有害物
 質安全庁の統計資料による)
  そして、この問題は、裁判問題にも発展し、
  また、国連も「先住民に対するこれ以上の人権侵害を
 避けるべき」と懸念を表明している。
  2016年9月に、連邦裁判所の判決が出て、「一時的な建
 設の中止命令」が出された。
.
2017年、キリスト教は、日本の国旗掲揚と国歌斉唱に反対
 しているが、この様に、あらゆる面で、日本を貶める行
 為をしている。
  杉原千畝の事例もそうである。
  杉原千畝はキリスト教徒であるので、キリスト教は、
 この杉原千畝を「広告塔に祭り上げた」。
  その祭り上げの論理の中で、日本は、貶められた。
  日本は、ナチス・ドイツと三国同盟をしていて、ナチ
 スはユダヤ人の方々を迫害していたが、その同盟関係に
 あった日本もまた、ユダヤ人を迫害していた・・という
 言い方で、キリスト教は日本を貶めた・・、
  キリスト教徒の杉原千畝は、ユダヤ人を救うビザを発
 給したと・・嘘の中でこの話をした。
  日本の反対を押し切って行った・・と、キリスト教は、
 嘘の美化をした。
  これは、まったく事実と反する。
  日本は、ユダヤ人の方々を「亡国の民」として「救う
 事を国是としていた」。
  キリスト教の言う事とまったく逆なのである。
  ナチスから共同行動をとってくれと言われても、「拒
 否していたのである」。
  キリスト教の言う事と、まったく逆なのである。
  杉原千畝は、ビザを発給できない立場の人間だった。
  それ故、「君は資格が無く、やれば、規則違反になる
 からできないよ」を問うていたのを・・、
  キリスト教は、杉原の足を引っ張っていたと嘘を言っ
 た。
  杉原は、外交官ではない、ただの外務省職員である。
  ビザの発給をしてはいけない立場なのである。
  日本は、上海や、満州などで逃れて来たユダヤ人の方々
 を受け入れ、保護し、また、日本への渡航も許し、日本
 の神戸などで受け入れ、しっかり手を差し伸べている。
  今・現在においても、キリスト教組織は、日本を貶め
 る行為をしている。
  また、このキリスト教組織と共同歩調をとる読売新聞
 や、NHKも、言い方も、まったくキリスト教と同じに、
 日本を貶める行為をするメディアとなっている。
.
2017年、多数の人たちが、心底から嫌悪を催すような特権
 者の振る舞いには、正統性は無い。
  その意味で、ほんの一握りの者たちが、アメリカで、
 富を独り占めしているが、
  そして、巨大な資本家となり、また、世界的な独り占
 めとなっているが、
  アメリカにおいては、その金の勢いで、政治を我が物
 として牛耳っている。
  そして、その超巨大国家・アメリカを動かし、また、
 世界での金儲けに、その超巨大国家・アメリカを動かし
 ている。
  そして、その富は、益々、その一握りの者たちに集中
 し、社会構造の最先端に上り詰め、格差は広がる一方と
 なっている。
  この様な状況を作り出すのがグローバリズムである。
  これは間違っている。
  金にまみれた巨大資本の多国籍企業が、地球大の規模
 で、戦略的な金儲け行動をする。
  その時、他国の規則を踏みにじり、自分のやりやすい
 様に替えて行く。
  それが正義なのだと押し付けて行く。
  資本調達、人員の雇用、生産、マーケティングなどを、
 一国経済を無視して、国を無視し超えて、自分の尺度で
 世界的規模で展開して行く。
.
2017年、アメリカの財政赤字を救ってあげているのが日本。
  「アメリカよ! もっと日本に感謝してくれ」と言い
 たい。
  少なくとも、「日本が引き受けている、アメリカの財
 政赤字を救っている米国債は、『円建て』にしてくれ」
  近い将来、暴落の危険があるという「米ドルのリスク」
 まで日本に取らせないでくれ!
  そんなところまで、日本におんぶにだっこの肩代わり
 をさせないでくれ!
  また、当然だが、『担保も付けてくれ』。
  「借りた金は絶対に返す・・という意気込みを見せて
 くれ」
  「万が一、金が返せなくなったなら、日本に、アメリ
 カの一州ぐらいは、担保として付けるから、その万が一
 の時は差し上げるから・・くらいの事は、言ってくれ」
  アメリカよ! 日本が、「アメリカ政府を支えている
 事と、国連分担金を支えている事・・この二つの重責を
 誠実に履行していることを、「重く理解してくれ」・・!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月、筑豊興業鉄道会社線が、直方駅~飯塚駅間、お
 よび、直方駅~金田駅間を着工した。
  筑豊興業鉄道会社が建設した筑豊本線の若松駅~飯塚
 駅間は、1893年7月3日に、全線開通した。
  若松は、筑豊炭田の石炭の積出し港があった。
  1907年に、国有化された。
  筑豊興業鉄道は、筑豊の炭坑主たちが発起した会社だ
 った。
  免許は、1889年7月21日に、交付された。
  麻生グループの麻生太吉は、6番目の株主だった。
  麻生太吉は、取締役として経営に参画し、筑豊炭田の
 発展に尽力した。
  また、筑豊の鉄道網の充実を図って行った。
1892年2月、田口卯吉・佐分利一嗣らが、渋沢栄一・益田孝
 らとともに、東京経済学協会を組織して、
  『東京経済雑誌』に、3283. 1kmにのぼる路線計画を発
 表した。
  明治政府の偉かったのは、明治早々の1869年10月に、
 鉄道施設の計画を立てたことだった。
  1874年には、工部省鉄道寮が外人・ボイルなどを雇っ
 て、東京~高崎~新潟の路線を詳しく調べた。
  1881年、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立され、日
 本鉄道株式会社が、上野駅~前橋駅間の鉄道を計画した。
  1882年5月、鉄道許可を申請した。
  1883年、井上勝は、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に
 関する論旨」を提出した。
  この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを
 民営に委ねるべきでないと原則論を主張した。
  日本鉄道が、政府の手厚い保護を受けていたこともあ
 り、好調な決算を発表した。
  すると、日本各地で私設鉄道設立ブームが起こった。
  1884年の阪堺鉄道、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官
 設官営の原則が崩れた。
  1891年、井上勝は「鉄道政略に関する議」を上申した。
 この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出し、そのため、私設鉄道買
 収法の制定が必要であるとした。
  1892年、第三回帝国議会に、買収法案に大幅な修正を
 加えた鉄道敷設法が提出され、可決された。
  井上勝の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えた
 のは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱
 などの財界の有力者たちであった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大
 きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との
 間に密接な関連性があることをよく認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に、発表し
 た「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文で
 は、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、
  「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導
 いている。
  (参考)井上勝:日本の鉄道の父と呼ばれる人。長州
     藩士。鉄道官僚、技術者。
      1863年、伊藤博文、井上馨らと密航してイギ
     リスへ渡り、ロンドン大学で学ぶ。化学・鉄道・
     鉱山関係の技術を学んだ。帰国して工部省に出
     仕。
1892年2月、東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立さ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ゴースト・ダンスを踊る日本・・核兵器に追い立てられる日本・・になる。

.
1945年3月10日、東京大空襲
  アメリカが、東京を焼夷弾で空襲し、この日だけで、
 10万人以上を焼き殺し、100万人以上が罹災した。
  アメリカは、最初から、東京の無実の一般市民を狙っ
 て殺戮しようとして行なった。
  そして、この東京だけではなく、日本のすべての都市
 をこの様にしようとした。
  アメリカは、最初は、精密爆撃を行なって軍需工場を
 爆撃していたが、とうとう本性が表れて、無実の人々を
 殺戮し始めた。
  1945年3月13日~14日には、大阪が、この卑劣な無差別
 爆撃をされた。
  この第二次世界大戦では、日本中の都市という都市が、
 卑劣な無差別爆撃で、市民が虐殺された。
  卑劣にも、ディズニーが、『この無差別爆撃をしろ』
 とけしかけていた。
  ディズニーは、この悲惨な無差別爆撃の肯定派で、「
 無差別爆撃をするべきだ」との考えで、1943年には、映
 画までを作って、アメリカ全土で上映し、アメリカの方々
 を洗脳し、無差別爆撃を推進していた。
  このディズニーの考え方は・・、
  「日本を占領することではなく、消滅させることだ」
 という考え方で、
  その為に、「日本の都市を、徹底的に空爆すべきであ
 る」という考え方だった。
  この考え方には、日本人に対する「強い人種差別意識」
 があった。
  このディズニーの映画のクライマックスには、無数の
 巨大なアメリカ軍の爆撃機が、無数に、日本上空に現れ
 るや、突然、それらは、鷲に変わり、(アメリカは、よ
 く、鷲に例えられる)
  一方、日本は、タコの様な奇妙なものに変わり、鷲の
 その鋭い爪で引き裂かれ、殺されるシーンとなっている。
  醜い姿の日本として描き・・そして、「美しいアメリ
 カ」という字幕と、
  「航空機の力で勝利する」という字幕が流れた・・
  これは、「ヒットラーの様な卑劣な残虐殺戮はするな」
 のアメリカの人々の声を消す役目をした。
  (因みに、ディズニーには、ベトナム戦争に於いても、
 同様な行為をしている・・アメリカ兵のベトナム侵攻を
 肯定し、描いた映画を作って、アメリカを煽っている)
  ディズニーランドは、よく、キリスト教の行事をやっ
 ているが・・、有色人種の蔑視観を持っている・・
  企業という公正であるべき立場なのに、「キリスト教
 という特定宗教の『巧妙なる伝道行為』をしている」。
  ディズニーの人種差別意識などともつながっている。
  因みに、ディズニーランドの様な、公正であるべき企
 業が、特定宗教・キリスト教の巧妙なる伝道行為は、
 ISO26000の違反行為となっている・・国際規約違反。
  そしてまた、アメリカには、驚くべき卑劣な計画があ
 った(日本人大虐殺計画である)
  1944年、東京・大阪・名古屋など、人口密集都市部に、
 毒ガスによる無差別空爆を行う計画があった。
  これで、1500万人という途方もない多くの日本人を虐
 殺しよう・・殺戮しようという計画があった。
  この様な事を考えるアメリカだった。
  使う毒ガスは「マスタード・ガス」と「ホスゲン」だ
 った。
  (参考)マスタードガス:化学兵器のひとつ。2,2'-硫
     化ジクロロジエチルという化合物を主成分とし、
     糜爛剤(皮膚をただれさせる)。
      常温で無色・無臭であり、粘着性の液体。
      実戦での特徴的な点として、残留性、および、
     浸透性が高い(特に、ゴムでも浸透することが
     特徴)。防御が不可能。
      曝露後すぐには被曝したことには気付かない。
      皮膚以外にも消化管や造血器に障害を起こす。
  (参考)ホスゲン:炭素と酸素と塩素の化合物。二塩
     化カルボニルなどとも呼ばれ、毒性の高い気体
     (窒息剤)。希薄なものは木材や藁の腐敗臭。
      早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解に
     よって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。
      無症状の潜伏期を経て肺水腫を起こす。
      潜伏期は数時間から、場合によっては24時間
     以上。
      肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると咳、息切れ、
     呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が
     出て、低酸素症を引き起こす。
      また、体液が肺胞に流出することによって血
     液濃縮を起こし、心不全に進行する。
.
1994年(平成6年)、今(2017年)から23年前、アメリカと
 北朝鮮が、かなり危機的な状態となった。
  ビル・クリントン第42代アメリカ大統領の時・・、
  アメリカに、「(戦争を)やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮の
 原子燃料施設を破壊できる・・とした。
  トマホーク攻撃なら、アメリカ兵の犠牲も出ないと・・、
  そして、金もかからないと・・、
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮が、アメリカを脅した・・、
  「もし、アメリカ軍が、トマホーク攻撃を仕掛けて来
 たら、地上戦で、ソウルを火の海にしてやる」と言った。
  作戦実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人が居る、それに加えて、その
 家族が3万5千人居る。
  将兵家族の引き上げの問題だった。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ・・、
  「全面戦争になったら、100万人の死者が出る」と言っ
 た。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人が死亡する」。
  そして、「我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル
 (11兆円)に上る」・・と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、「日本は何をするべきか?」の考え方がまと
 まってなかったと指摘されている。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制は、ゆるぎないものになっていた」という意見があ
 る。
  「日本に、日本の安全保障には何を為すべきか?」の
 一本筋の通ったものが無かったという・・、
  「アメリカに、依存しすぎる日本があった」という・・、
  日本の安全保障であるのに、上から下まで「甘え構造
 の日本だった」という・・、
  これで・・日本は、生き残れるのか?
  北朝鮮は、北朝鮮なりに、必死に生き残りを求め、生
 き残りをかけている。
  (核のない北朝鮮で、アメリカと付き合って行くとい
 う路線を・・否定している)。
  日本も、必死に、この様に生き残りを問い、そして、
 努力する必要がある・・
  日本は、消え去る事になるかもしれない。
  アメリカは、最後まで、責任を取るのだろうか・・??
  ある程度まで・・??
.
2003年3月20日、イラク戦争が始まった(~2011年12月15日)
  正規軍同士の戦闘は、2003年中に終了したが、イラク
 を統合していたタガが外れて、イラク社会は不安定とな
 り、治安悪化となり、乱れに乱れた。
  そして、イラク国内の戦闘は続き・・、
  泥沼の戦いだった。
  軽はずみのアメリカの判断から始められたこの戦争、
 まったく、アメリカの思惑通りに進まない武力行使だっ
 た。
  アメリカは、イラクのトップのフセインさえいなくな
 れば、イラクの民衆は、民主主義を欲しているから、社
 会は安定するだろうと予測していた・・しかし・・
  それは、フセインを殺しただけだった・・そして、
  社会を不安定化させただけだった・・、
  アメリカの青年と、戦争にまったく関係のないイラク
 の方々が、ただただ、大勢、死ぬという結果だけだった。
  最初・・、
  アメリカのブッシュ大統領(子)のイラク戦を始めた
 理由は・・、
  「イスラム教原理主義者によるテロを阻止するために、
 イラクの核兵器製造を止めなければならない」だった。
  しかし、これは大間違いだった。
  イラクには・・核兵器のかけらもなかった。
  巨大な武力を持つアメリカ大統領の意思で、この巨大
 な武力が動き出すという怖さが『如実に見せられた』。
  無実の人々のイラクが、この一人の巨大な武力を持っ
 ている男によって殺戮させられ、消滅させられた。
  知識が無く、故にだから、間違いの判断をするこの様
 な男の悲惨な武力行使だった。
  誰も、この事を正す人が居ないというアメリカだった。
  正義が機能していないアメリカだった。
  法も何も機能していない、法もあったもんじゃ無いと
 いうアメリカだった。
  まったく感情に押し流された国際法違反の行動がなさ
 れた。
  明日(あした)また、この様な男が出るという恐ろし
 さを持つアメリカが・・、
  今度は、いったい何をやるのかの「無謀さと怖さ」を、
 まざまざと見せつけられた。
  アメリカ帝国主義は・・「明日、一体何をするのだ?」
.
2006年10月、北朝鮮の初めての核実験が行われた。
  ブッシュ大統領(子)(任期:2001年1月20日~2009年
 1月20日)が裏切った。
  アメリカ大統領は、よく日本を裏切るが・・、
  このブッシュ大統領(子)は、北朝鮮が、核実験を行
 なうと・・、
  何と! 国交樹立を議題に含めた『交渉を始めた』。
  今までは、「テロ支援国家」と、強硬に対立していた
 のが、馬鹿々々しくも、180度の転換をした。
  それも、『経済援助まで与えた』。
  また、北朝鮮の核兵器製造施設のアメリカの『査察を
 しない』こととし、
  また、北朝鮮の濃縮ウラニウムの製造施設の査察もし
 ないとし、
  そして、濃縮ウラニウムの生産施設を、北朝鮮は、新
 たに建設したが、『ここも査察しない』とした。
  そして、2008年には、テロ支援国家の指定から外して
 しまった。
  今の北朝鮮の状態は・・この時を遠因として・・出来
 てしまった。
.
2016年11月9日、アメリカ大統領選の一般投票が8日行われ、
 9日未明に、共和党候補のドナルド・トランプ氏が、第45
 代アメリカ大統領に当選確実となった。
  そして、勝敗が最後まで決まっていなかったミシガン
 州が、11月28日になって、州務長官がトランプ氏の勝利
 が『確定した』と発表した。
  トランプ氏は、合計306人の選挙人を獲得して、選挙人
 の過半数を得て勝利が確定した。
  各州の選挙人は12月19日、11月8日の一般投票の結果を
 踏まえて投票される。
  このアメリカ大統領選挙の・・、
  アメリカ大統領候補だったヒラリー・クリントンは、
 「中国との金の関係で怪(あや)しい人物だ」と・・非
 常に疑われている・・、
  それも、元大統領だった夫のクリントン氏と共に疑わ
 れている。
  この時から、繋(つな)がっているという。
  その様な中で、アメリカ・メディアは、こぞってトラ
 ンプ大統領候補の足ばかりを引っ張っていた。
  アーカンソー州知事だった夫のビル・クリントン・・、
 (この時、妻のヒラリー・クリントンは弁護士だったの
 だが・・)、この妻の方へ・・金が流れていた・・、
  この金は、中国の華僑の金だった(企業名:R社)
  「R社」は、鄧小平の息がかかっている企業だった。
  顧問料という形で、ヒラリー弁護士へ、金が支払われ
 るというところから始まった。
  ここに人民解放軍の工作員(スパイ)の人物がからn
 だ(ジョン・ホアン)、
  この「ジョン・ホアン」は、後に、ビル・クリントン
 政権の時に、政権の要職(商務省国際経済政策担当・次
 官補代理)に就いた。
  このジョン・ホアンの地位は、「CIAの機密文書」
 に接することが出来た。
  ジョン・ホアンは、1994年~1995年の2年間、たっぷ
 りとアメリカの機密文書に接した。
  当然、中国中枢へ報告された。
  このジョン・ホアン・・1983年に、クリントン夫妻と
 知己(ちき、知り合い)となり、ヒラリー・クリントン
 に気に入られる様になった。
  この様な・・中国がからむ話が・・クリントンの周り
 には一杯ある・・という状態で・・一つや二つという話
 ではなく・・
  この様に、中国は、アメリカ政権のまわりを「十重二
 十重(とえはたえ)と囲んで」・・工作している。
  この事を、アメリカ・メディアは知っていても、一切、
 報じない(何故なのか??)。
  このクリントンの金は、中国・江沢民系の金であると
 いう事まで分かっている。
  この江沢民を継いだのが鄧小平で・・、
  この鄧小平が、1990年代から、アメリカと非常に強い
 つながりを持って行った。
  1998年になると、ビル・クリントンは、アメリカの資
 本家(企業家)たちを連れて、中国を訪問した。
  9日間という長期間で、1200人のアメリカ企業人に対し
 て、中国は、金を儲けさせる仕掛けをした。
  アメリカも中国へ、利権を見返りに渡した。
  両方で、うまい話をやり合った。
  江沢民派は、アメリカへ、中国の利権をどんどん渡し
 た。
  中国の美味しい金が、アメリカへ流れ込む仕掛けがで
 きた。
  アメリカには、外国人が、政治献金をしてはいけない
 法律があるが・・がしかし・・その抜け穴として、中国
 は「帰化人を使った。
  中国系の金が、クリントン財団に流れ込んだ・・
  これが、1990年代に始まって、今・現代まで続いてい
 る。
  また、この江沢民派の集団は、アメリカのウォール・
 ストリートのアメリカのエスタブリッシュメントと言わ
 れる者たちとも繋がった。
  その一つ、アメリカを動かしているその一つのゴール
 ドマン・サックス財閥と強くつながった。
  中国系企業・アリババなどの上場もこの恩恵を受けた。
  中国は、この様に、アメリカの『政界』や『財界』に、
 根深く繋がり・・構築している・・
  そして、アメリカを繰っている。
  アメリカを動かしているウォール・ストリートにでさ
 え、中国は、金を流し続けていて・・『中国の意向が効
 く』状況となっている。
.
2017年8月27日、電磁パルス攻撃
  「電磁パルス攻撃」の脅威 上空の核爆発で日本全土
 が機能不全に・・(参考:産経新聞)
  北朝鮮が、核兵器や弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・、
  北朝鮮は、既に、攻撃能力を持つとみられるが、日本
 の対策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上が
 っている。
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は『必
 要ない』。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ・・、
  (以上、産経新聞、2017/08/27を参考にした)
  電磁パルス(EMP)攻撃について・・、
  1958年に、高高度核爆発(こうこうどかくばくはつ)、
 高層大気圏における核爆発の実験が行われた。
  強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利用し、
 広範囲での電力インフラストラクチャーや通信、情報機
 器の機能停止をさせる事を目的とした爆発実験だった。
  爆発高度によって分類され、核兵器の種類や爆発規模
 などは問わない。
  1958年に、ジョンストン島上空で、ハードタックI作戦
 の核実験が行われた(3.8メガトン)
  高度100km~数100kmの高層大気圏における核爆発にお
 いて、大気が非常に希薄であるので、核爆発の効果にお
 いて、爆風はほとんど発生しない。
  核爆発のエネルギーは、電離放射線が多くを占める状
 態になる。
  核爆発によって、核分裂後10ps(10秒~11秒)以内に
 発生したガンマ線(X線)が、大気層の20㎞~40km付近の
 希薄な空気分子に衝突し、電子を叩き出し(コンプトン
 効果)、叩き出された電子が、地球磁場の磁力線に沿っ
 て螺旋状に跳び、10nsほどの急峻な立ち上がりで強力な
 電磁パルス(EMP)を発生させる。
  大気が希薄であることから、ガンマ線は、遠方まで届
 き、
  発生した電磁パルスの影響範囲は、水平距離で100km~
 1,000km程度にまで達する。
  この核爆発の影響は、電磁パルスによる電子機器障害
 がほとんどのため、大量破壊兵器の使用であると同時に、
 非致死性の性格もある。
  高高度核爆発の実験を行ったことが確認されている国
 は、アメリカ合衆国(ジョンストン島とアーガス作戦)、
 ソビエト連邦(カプースチン・ヤール)の2か国。
  これらの実験で、周辺での停電などの被害が発生した。
  攻撃目標までの精密誘導が必要な核ミサイル攻撃に対
 し、電磁パルス攻撃は、ミサイルを敵国の上空高高度で
 小規模の核爆発を起こして発生させるため、技術的にも
 比較的容易とされている。
  2017年9月3日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の
 朝鮮中央通信は・・、
  6回目の核実験を行った、この日、「高空で爆発させ、
 広大な地域への超強力な電磁パルス攻撃まで加えられる
 多機能化された熱核弾頭」を保有している・・と発表し
 た。
  核兵器の高高度への実用的な運搬手段は、ロケット(
 ミサイル)で、
  高高度核爆発(HANE)は、敵国の上空やその近辺
 高空で爆発させる核兵器といえ、
  冷戦下の米ソは、互いに大陸間弾道ミサイル(ICB
 M)などを向け合い、ミサイル攻撃やミサイル防衛の開
 発競争の過程で、複数の核弾頭を高高度で爆発させ、こ
 の2国では、高高度核爆発に関するデータが得られてい
 た。
  例えば、アメリカが行った最初の高高度核爆発である
 1958年のネバダ州ユッカ(Yucca)での実験は、気球によ
 って高度26.2kmで爆発させた。
  ジョンストン島における(Teak実験)は、レッドスト
 ーンロケットで打ち上げられた核弾頭を高度76.8kmで爆
 発させた。
  その後、ソーミサイルやX-17ロケットが使われた。
  現在は、部分的核実験禁止条約(PTBT)により高
 層大気圏核実験が禁止されている。
  高高度核爆発用の運搬ミサイルは、数100km以上に及ぶ
 影響範囲の広さから、都市や軍事基地を物理的に破壊す
 るための地上攻撃ミサイルに求められる高い命中精度は
 必要ない。
  電磁パルスは、様々な周波数の強力な電磁波であり、
 波長の適合するあらゆる導体に誘導電流が瞬間的に引き
 起こされ・・、
  このため、必ず、すべて電子機器が障害されるとは限
 らないが、外部にアンテナ用の電線を持つものや、電磁
 シールドの無いもので、誘導されたパルス電流への耐圧・
 耐電流が不十分なものは損害・損傷・打撃を受ける。
  長さのある金属物すべてに、瞬間だけ雷が落ちたよう
 な状況や、電子レンジ内に入れた金属箔のような状況に
 なる。
  光ケーブルを除く有線・無線の通信回路、外部から商
 用電源を受け取っている電源回路、それらの周辺にある
 電流の抜けていく経路となる回路が、過電流や過電圧で
 破壊される。
  電磁パルスは、立ち上がりが急峻なので多くの避雷器
 は機能しない可能性が高い。
  高高度核爆発による電磁パルスのエネルギー密度は、
 約1ジュール/m2と大きく、半導体素子の損傷に必要な
 10μジュールから計算すれば数10dBの遮蔽が必要である。
  マクロな視点で被害を考えれば、あらゆる放送・通信
 は、長期に亘り機能を失い、
  工場での生産、交通・運輸・流通システム、送電、金
 融も大半が機能を失う。
  そして、すぐには回復できない状態になる。
  放射能とは違い、人間を含む生物への長期に亘る影響
 はほとんど無いが・・、
  核爆発が起きた瞬間の閃光を直視してしまうと、地上
 や低空での爆発と同様に網膜を焼く。
  人体も瞬間だけ電磁パルスによって電子レンジ内のよ
 うに少しは加熱されると考えられるが、詳しい予測は現
 状では出来ない。
.
2017年9月3日、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、
 2017年8月29日の北朝鮮の中距離弾道ミサイル「火星12
 型」発射に対し、「全ての選択肢を検討中」と軍事行動
 を示唆した。
  北朝鮮が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用水
 素爆弾の6回目実験を、2017年9月3日午後に行うと、
  国家安全保障会議の席上、ジェームズ・マティス国防
 長官に、軍事的選択肢につき、「一つひとつ」説明を求
 め、
  この「一つ」に、「電磁パルス(EMP)攻撃」や、
 「地中貫通核爆弾」を用いた戦法が含まれていたとする
 情報が、日韓の安全保障関係者の間で観測されている。
  電磁パルス攻撃は、もっぱら北朝鮮が日本を筆頭に、
 米韓に仕掛けるというパターンだった。
  現に、北朝鮮が、ICBM搭載用水素爆弾の6回目実
 験を行った3日、北の朝鮮労働党機関紙・労働新聞が、
 電磁パルス攻撃を完遂できると強調した。
  韓国の公共放送KBSは、3日夜のニュースで、韓国
 が電磁パルス攻撃に遭えば、「自動車などの交通手段や
 金融機関や病院、通信施設など、全基幹施設が停止した
 り、誤作動を起こしたりして、事実上『石器時代に戻る』」
 という専門家の声を紹介した。
  インフラ全滅の闇世界が創り出される。
  『石器時代に戻る』ような凄まじい被害が出るのは間
 違いない。
  (産経新聞、2017・9・11を参考にした)
.
2017年9月11日、政府が、『電磁パルス対策』で8日に関係
 省庁会議を開催した。
  菅義偉官房長官は、11日午前の記者会見で、北朝鮮
 が大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用の「水爆」に
 よって可能だと主張している電磁パルス(EMP)攻撃
 について、政府が対策を検討する関係省庁会議を8日に
 開いていたことを明らかにした。
  内閣官房と防衛、国土交通、経済産業の3省の関係者
 が出席したという。
  菅氏は、「万一の事態に備えて、国民生活への影響を
 最小限にするのは当然のことだ」と述べた。
  (産経新聞、2017年9月11日を参考にした)
.
2017年、トランプ大統領の偉いところは・・、
  今までのアメリカ大統領が、「中国の『大軍拡』を止
 めようともしなかった」、
  また、「北朝鮮の『核弾頭の増産』を止めようともし
 なかった」・・または、「止めようとしたが、ポーズだ
 けだった」・・、
  それは、アメリカが、「止める能力を失ってしまって
 いた」と思っていたからか・・?
  トランプ大統領の偉いところは・・、
  今・現在(2017年)、「北朝鮮の核とミサイルを無く
 そうと、真剣にチャレンジしているところだ」。
  トランプ大統領の前のアメリカ大統領(オバマ民主党
 大統領)は、「リーダーシップが無く」「決断力が無く」
 「すぐ、中途半端な妥協をして誤魔化していて』、政治
 家ではなかった。
  こんな中で、日本国民のすべての民の命を委(ゆだ)
 ねていた。
  こんな状態ではダメだった。
  ウォルツ、キッシンジャー、ミアシャイマー、レイン、
 ウォルト・・などなど、
  優秀な国際政治学者たちが、分析し、そして、言って
 いるように・・、
  「国際政治は、多極へと向かう(主導するアメリカは、
 その座から降りる)・・、その中で、日本の防衛は、自
 主防衛せざるを得なくなる・・、
  その自主防衛には、核の保持を・・いずれしなくては
 ならなくなる」・・と。
  賢人たちの分析、見通しで・・この道を進まない日本
 の存在はありえない・・そうでなければ、その存在は危
 うい・・と見ている。
  日本は、核保持をして存続を図らねば、消滅の道とな
 る・・と見ている。
  アメリカの方針と真逆の賢人の見通し、これが日本の
 取るべき道・・と見ている。
  アメリカが、理解を示すまで、説明するのが、「日本
 の外交の本筋」。
  逃げることはできない。
  ゴースト・ダンスを踊ったアメリカ・インディアンの
 方たちの可哀想な姿・・この様には『なりたくない』。
  アメリカ・インディアンの方たちの・・「二の前には
 なりたくない」
  バッファローは、無用に殺戮された・・、
  食糧を無くなされた・・アメリカ・インディアンの方
 たち、
  そして、居留地の移動ばかりを・・させられ・・、
  生きる地を失って行ったアメリカ・インディアンの方
 たち・・
  アメリカ・インディアンの方たちが・・進んだ兵器で
 追い立てられた・・その様に・・
  核兵器に追い立てられる日本人・・、
  バラバラになり、散り散りになり・・
  可哀想に、そのアメリカ・インディアンの方たちの地
 では、その「アイデンティティのゴースト・ダンス」を
 も消え・・そして捨てられて行った・・、
  踊らなくなった・・その様な日が・・やって来た・・
  日本もそうなるのか・・??
  真剣に考え・・対応しなければ、そうなるのだ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月8日、(氷川清話)勝海舟、予備海軍少佐・長男・
 小鹿(ころく)死亡、青山共同墓地に葬る。
  徳川精(くわし、徳川慶喜の十男)相続者と内定す。
  1892年2月8日、勝海舟は、嫡子小鹿が早世したため、
 徳川慶喜・家達に、精との養子縁組を申し入れる。
  同年・1892年2月14日、徳川慶喜は、精の養子入りを承
 諾した。
  1897年9月、兄・誠とともに、精(9歳)は、静岡から
 東京に移り、学習院初等学科に入学した。
  1899年1月20日、精(11歳)は、勝小鹿の娘である伊代
 子(11歳)の婿として、勝家に入った。
  養父・海舟の死去に伴い、同年・1899年2月8日に家督
 を相続し、伯爵を授爵する。
  1902年7月(14歳)、学習院初等学科を卒業し、慶應義
 塾に転校する。
  慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業、浅野
 セメントなどの重役を歴任した。
  精は、家庭的には一男五女をもうけたが、妻の伊代子
 が1922年5月7日に他界した(34歳)
1892年2月11日、福島安正陸軍少佐が、ロシア調査を兼ねて
 ドイツ・ベルリンを出発(シベリア単独横断への発途)
  語学力に優れ、情報収集と外交に手腕を発揮し、
  1882年に、朝鮮に派遣され、対韓作戦計画の調査。
  翌年・1883年、北京公使館付武官となり、満州(中国東
 北部)およびモンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察。
  1887年に、ドイツ公使館付武官となり、バルカン半島
 を視察。
  1892年のこの騎馬でのシベリア横断行は、1年を費やし
 てウラジオストクへ、そして、帰国した。
  1895年3月から、約2年間、ヨーロッパ・アジアを探検
 旅行した。
  帰国後は、参謀本部第3、次いで、第2部長、
  1904年~1905年、日露戦争の時は、満州軍参謀。
  1906年、参謀本部次長、中将に進み、
  1912年、関東都督となり満州を管理した。
  1914年、大将となる。
  陸軍随一の情報将校だった。
  著作に「伯林(ベルリン)より東京へ単騎遠征」。
1892年2月15日、第二回衆議院議員、臨時総選挙
  選挙運動中に、政府と民党支持者の間で紛争が多発し
 た。
  品川弥二郎内相の選挙干渉が問題化したが、選挙干渉
 を指示したという命令書は発見されていない。
  逆に、複数の知事から、政府に対して、民党進出を阻
 止するために、警察力の行使を求める意見が寄せられた。
  25人が死亡し、388人が負した。
  結果は、民党の大勝利だった。
1892年2月22日、オスカー・ワイルドが書いた「ウィンダミ
 ア卿夫人の扇」が初演された(2月20日説あり)
  これは、四幕構成の喜劇で、ロンドンのセントジェー
 ムズ劇場にて初演された。
  この物語は、夫が、他の女性と不倫をしているのでは
 ないかと疑っているレディ・ウィンダミアを中心にして
 いて・・、
  レディ・ウィンダミアは、このことについて夫と対決
 し、夫は否定するが、妻の誕生日の舞踏会に不倫相手だ
 と疑われている女性・アーリン夫人を招待しようとする。
  夫が不実だと考え怒った。
  レディ・ウィンダミアは、他の恋人を作って夫のもと
 を去ることに決める。
  何が起こったか知ったアーリン夫人は、レディ・ウィ
 ンダミアを追いかけて夫のもとに戻るよう説得するが、
  このせいで、アーリン夫人は自分の名誉に関わるよう
 な状況に追い込まれてしまう。
  実は、アーリン夫人は、芝居開始時点より20年前に家
 族を捨てたレディ・ウィンダミアの母であった。
  アーリン夫人は、自分の身と評判を犠牲にして娘の結
 婚を救った。
  作者のワイルドは、公演の最初の年だけで7000ポンド
 (21世紀はじめの価値に換算して686500ポンド程度)を稼
 ぎ出すことになった。
  1ポンド=141円であるので、96,796,500円、約1億円。
1892年2月23日 伊藤博文が、選挙干渉の責任者の処分を主
 張して、枢密院議長の辞表提出し、辞任した(2月24日説
 あり)
  1892年2月15日に行われた総選挙、品川弥次郎内相が
 「選挙干渉」した。
  暴力沙汰も起き、流血、買収が横行した。
  松方は、警察を管轄している品川内相に選挙活動に対
 する取り締まりの一切を任せた。
  品川は、正直に、事を一生懸命行なう性分だったため、
 いかなる手段を使ってでも反対党に圧力をかけ、与党を
 勝利に導きたかった。
  それを自分の義務と考えた。
  そのため民党の選挙活動を妨害するため警察力を使っ
 た。
  民党側も、これに対抗して力で対抗した。
  それでも、与党は137名、野党は163名と、政府は民衆
 の信頼を失った。
  苦境に立った松方は、元老の助力を仰いだ。
  7人の元老は、2月23日に元老会議を開いたがなかなか
 意見の相違が埋まらなかった。
  伊藤は、選挙干渉に関係した官僚たち、特に、品川の
 処分を要求した。
  伊藤の要求に対し、「処分が厳しすぎる」と反対が出
 る、伊藤は、枢密院議長辞任の話までした。
  責任を感じた品川は、辞職を決意したが、松方は許さ
 なかった。
  すると、今度は陸奥と後藤が、品川が辞職しないのな
 ら自分たちが辞職すると迫り・・、
  結局、陸奥は農商務相を、品川は内務相を、そして、
 伊藤は枢密院議長の地位をそれぞれ辞職する事で、紛糾
 は治まった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ビンのフタ論」は・・今でもある・・
.
1890年、アメリカ・インディアンの方々のゴースト・ダン
 スが衰退した。
  この話ほど悲惨な話はない・・、
  この話を聞くと本当に可哀想だと、いつも思う・・、
  圧倒的な強力な武器を持つアメリカは・・、
  弱者の方たちである先住民のアメリカ・インディアン
 の方々の殺戮をし続け・・全滅を狙って殺戮して回った。
  アメリカの正当性は、まったく・・ない。
  アメリカには、自分に都合の良い、また、自分勝手な
 権利を唱えた・・マニフェスト=デスティニーがある。
  (参考)マニフェスト=デスティニー:自由と自治政
     府とからなる連邦という偉大な実験を進展させ
     るために、(キリスト教の)神が与え給うたこ
     の大陸全体を、覆いつくし、所有するのは、わ
     れわれの明白な運命(マニフェスト=デスティ
     ニー)がさだめる権利なのである。
      そして、アングロ・サクソン民族は、最も植
     民地経営に適した民族である・・
      この様に、豪語し・・
      そして、何ら根拠のない「文明の西漸説」を
     打ち立て・・盲信し・・アメリカ西部へと・・
     太平洋にぶち当たれば・・太平洋の島々・・そ
     して、アジア諸国へと・・植民地化して行った。
  その最初の犠牲者=アメリカ・インディアンの方々へ
 の殺戮による民族の急激な減少に、悲嘆にくれたアメリ
 カ・インディアンの方々の間に、ゴースト・ダンスが・・
 流行(はや)った。
  その原因は、圧倒的な強力な武器を持ったアメリカ人
 による先住民のアメリカ・インディアンの方々への無慈
 悲な、そして、強力な殺戮行為だった・・殺戮し回った・・
  民族の消滅を予感したアメリカ・インディアンの方々
 は、民族のアイデンティティを示す踊り(ゴースト・ダ
 ンス)を踊った。
  しかし、白人・アメリカ人たちはその踊りを忌避した。
  『また、ゴースト・ダンスを踊っている』と、白人開
 拓民は騎兵隊へ通報した。
  そこで、騎兵隊が出動し・・殺戮が行われた・・こん
 な理由で・・。
  キリスト教に洗脳された「異」に対する不寛容が、そ
 の素地にあった。
  最新式の武器で武装した、また、訓練された兵士たち
 が隊を構成し・・この武力集団・暴力集団は、先住民の
 方たちを殺戮し、排除した。
  まったく、勝手な振る舞いの白人アメリカ人の思い上
 がりと倫理観とその行動だった。
  しかし、その様なアメリカ・インディアンの方々の『
 希望にすがるゴースト・ダンス』が衰退した。
  (参考)アイデンティティー(identity)は、広義に
     は、「同一性」「個性」「国・民族・組織など
     ある特定集団への帰属意識」「特定のある人・
     ものであること」などの意味で用いられる。
  (参考)ゴースト・ダンスは、「ゴーストダンス(幽
     霊踊り)を踊ることで、再び、インディアンた
     ちの自由な世界とともに、バッファローたちが
     草原に還ってくるという希望を与える終末的ダ
     ンスだった・・そして、信仰であって・・、
      スー族のもとで、呪術師マト・ワナタケ(キ
     ッキング・ベア)によって、「これを信じるも
     のに与えられる『ゴースト・シャツ』を着れば、
     白人の銃弾を受けても、弾が通らず死なないで
     平気にしていられるなど・・、
.
1909年、アメリカ大統領にウィリアム・タフトが就任した。
  アメリカと日本との戦争に、結局は至ってしまうとい
 う、「アメリカの日本に対する敵意」は、この大統領か
 ら始まった。
  アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト大統領(大
 統領任期:1901年~1909年)は、日露戦争の調停を公平
 な形でしてくれた。
  この大統領は、日本に対して敵意を抱いているような
 大統領ではなかった。
  しかし、その次のウィリアム・タフト(大統領任期:
 1909年~1913年)は、日本の行動に対し露骨に足を引っ
 張った、その様な政策を始めた。
  そして、その後のウッドロウ・ウィルソン(大統領任
 期:1913年~1921年)も・・強い日本への対決姿勢を取
 った。
  そして、その次の次のカルビン・クーリッジ(大統領
 任期:1923年~1929年)も、今までは州法で「日本の排
 斥を色々していたアメリカ」だったが・・、
  この大統領は、連邦法で排日を行なった(絶対的排日
 移民法・1924年)
  しかし、この大統領は、『遺憾に思う』という反省の
 弁の言葉を、後に、残して居る・・が、そう思うのが遅
 った。
  昭和天皇陛下も、「アメリカへの失望は、この排日移
 民法の時に始まった」と言われている。
  アメリカには、弱肉強食的・帝国主義的・軍国主義的
 略奪の考え方があり、そして、それを正義と見誤る「ア
 メリカ文明の西漸説」があり、障害物としての日本があ
 った。
  その基本には、利権を得たい、利益を得たいというア
 メリカがあった。
.
1940年11月5日、フランクリン・ルーズベルトが、大統領再
 選(三選)した。
  この大統領は、はっきり、日本との戦争を起こしたい
 という意思のある大統領で・・、
  F・ルーズベルトは、本当に多くの工作員(スパイ)
 を日本に送り込んで・・工作していた・・
  日本を工作する外交官や、キリスト教宣教師の工作員
 などと・・日本を暗躍した・・そして、とうとう戦争に
 至ってしまった。
.
1945年8月14日 日本政府が、ポツダム宣言を受諾する旨、
 中立国スイスを通じて通告した・・、
  そして、勅語を発布した。
  しかし、この日から、4日も経て、日本が降伏をして
 いることを十分承知をしているソ連が、8月18日に・・、
 卑劣にも、ソ連軍が、千島列島へ侵略を開始した。
  占守島で、日本軍と交戦(21日、停戦令が出る)
  満州国は消滅。
  これ等の行為は、総て不法行為で、成立していない。
  完全な戦争終結後、終戦の後の行為である。
.
1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカー
 サー元帥が、神奈川県厚木飛行場に降り立った。
  そして、マッカーサーは言った・・、
  「メルボルンから東京までは長い道のりだった。
  長い長いそして困難な道だった。
  しかし、これで、万事終わったようだ。
  各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、
  外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、
  日本軍は続々降伏している。
  この地区(東京地区)においても、日本兵多数が武装
 を解かれ、それぞれ復員をみた。
  日本側は、『非常に誠意を以てことに当たっている』
 ようで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完
 了するであろうことを期待する」と。
  つまり、日本は連合国へ『8月14日に降伏の通達をすで
 にしている』・・そして、マッカーサーが言うように「
 その降伏状態も日本側の誠意をもって進んでいる」・・
  つまり、8月14日の降伏宣言を「降伏時点として」事は
 進んでいると言っている。
  それであるのに、この時点でも、ソ連の不法行為によ
 る日本の領土「南樺太」「千島列島」「北方四島」の略
 奪行為が行われていた。
  マッカーサーは、この厚木飛行場に降り立った後・・、
  車両で、当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長
 後街道、国道1号経由で横浜に入った。
  そして、これから・・日本で・・、マッカーサーは、
 日本を武装解除し、二度とアメリカにチャレンジできな
 い国にするという「初期対日方針」を出した。
  この原型は、1942年、すでに出来ていた。
  メルヴィン・レフラー(外交史家、ヴァージニア大学
 教授〉は、この事を、1947年に、国務省の内部資料を明
 らかにした・・、
  (1)日本が独立国としての運命を歩む事を許さない。
  (2)日本は、ソ連の衛星国となるか、アメリカの衛星
    国となるか、どちらかを選ぶしかない・・と・・、 
  そして、1947年、アメリカの衛星国状態にとどめてお
 くと決めた。
  そして、この同じ年・1947年、国務省の政策立案局長
 ジョージ・ケナンが来日して・・、
  占領政策をしていたGHQに、「そんなに復讐的に意
 地悪しなくてもいいじゃないか」・・と、マッカーサー
 に言った・・、
  「あまり日本を弱体化しすぎると、アメリカの国益に
 ならない」・・と言った。
  ソ連に対するカウンター・バランス(牽制勢力)とし
 て日本を利用する事を言った。
  ケナンは、長期間、モスクワのアメリカ大使館に勤め
 ていたため、共産主義の危険性を熟知していた。
  このアメリカ国務省の政策企画本部長のジョージ・F・
 ケナン・・
  彼は、この年のフォーリン・アフェアーズ誌(1947年
 7月号)に、「ソヴィエトの行動の源泉(通称:X論文)」
 「封じ込め政策」の理論的根拠をなす論考・・を書いた。
  この論文発表後・・、
  論文は、著者不明(X)として書いたが・・筆者がケ
 ナンであると分かると、「冷戦政策の立案者だ」と世界
 に広く知れ渡り、論文の「封じ込め政策」の概念が独り
 歩きし始めた。
  それは、ケナンが書いた「ソ連が平和で安定した世界
 の利益を・・侵食しようとしたならば、どこであろうと
 対抗力を行使する事が重要である」・・と主張した・・
  この「対抗力」が・・「軍事力」に置き換えられてし
 まった。
  「軍事力による対抗力の行使が重要」ととられる・・
 解釈される様になってしまった。
  ケナンの「政治的な対抗手段の行使」の趣旨が間違っ
 た方向へ動き出した。
  ケナンの言う「封じ込め」は、「抑制」という程度で、
 「封じ込め」にある強圧的な意味合いはない(訳語の不
 適)・・
  訳語の不適で・・世界が大きく影響された。
  いま、「封じ込め」の説明として以下のように書かれ
 ている・・
  封じ込め(ふうじこめ、Containment)とは、アメリカ
 合衆国の政策であり、海外の共産主義の拡大を阻止すべ
 く、多くの戦略が用いられた。
  冷戦の構成要素たるこの政策は、東欧や中国、朝鮮、
 ベトナムにおける共産主義の影響拡大を図るソビエト連
 邦による一連の動きへの反応であり、デタントと巻き返
 しの中間的立場を代表していた。
  ドクトリンの基礎は、米国の外交官ジョージ・ケナン
 による1946年の電報で明示された。
  米国の外交政策用語としてのこの単語の起源は、ジェ
 ームズ・フォレスタル国防長官にケナンが提出した1947
 年の報告(のちに雑誌記事に使用)に遡る。
  この語は、1920年代のソ連に対する西側の政策を記述
 するのに用いられたフランス語「cordon sanitaire(防
 疫線)」の訳語である。
  「封じ込め」の語は、アメリカと西ヨーロッパ諸国に
 よる北大西洋条約の締結・北大西洋条約機構(NATO)
 の設立や相互防衛協定など、ハリー・S・トルーマン、及
 び、共和党の政策と最も関連している。
  ドワイト・D・アイゼンハウアーは、これと対立するド
 クトリンである巻き返し政策を弄(ろう)したが、1956
 年のハンガリー動乱への介入については拒絶した。
  リンドン・ジョンソンは、べトナム政策正当化のため
 に「封じ込め」の語を用いた。
  リチャード・ニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー
 最高顧問と共に、ソ連、及び、中国との友好関係に賛同
 し、封じ込めを拒絶した。
  こうしたデタント(または緊張緩和)の例としては、
 貿易や文化交流の拡大などがあった。
  ジミー・カーターは、反共よりも人権を強調したが、
 1979年に、ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、デタン
 トをやめて封じ込めに回帰した。
  ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と非難し
 て冷戦を拡大し、ニカラグアやアフガニスタンで巻き返
 しを推し進めた。
  封じ込め政策下で始まった中心的計画(NATOや核
 抑止力など)は、冷戦終結後も効力を保った。
.
1945年9月5日、ソ連の不法行為が続く・・ソ連軍が、歯舞
 群島までを不当に占領した(後に、北方領土問題となる)
  さらに、ソ連の不当行為である瀬島龍三など関東軍首
 脳部が、ハバロフスクへ送られ、将兵、および、一般市
 民の57万人がシベリア抑留となる(何ら根拠のない拉致
 行為)
  日本は、この日に、第88回帝国議会臨時会議を召集し
 ている。
.
1951年9月8日、サンフランシスコで、日本国との平和条約
 (サンフランシスコ講和条約)が調印された。
  続いて、日米安全保障条約が調印された。
  サンフランシスコ講和条約で、日本は独立したと言わ
 れているが・・??、
  しかし、これは表向きである。
  アメリカは、心の底から「日本を独立させたと思って
 いない」。
  この時、アメリカのダレス国務長官が、イギリスへ伝
 えた内容は・・(言葉と文書で伝えたその内容)、
  (1)アメリカは、日本の真の独立を認めるつもりはな
    い。
  (2)日本には、アメリカに逆らえるような能力を一切
    持たせない。
  (3)今回、講和条約をしたが、真の意味は、「アメリ
    カの実質的な対日占領が続く」ということ。
  イギリスは、さすが、このアメリカの異常さについて、
 1956年に、イギリスのエスラー・デイング駐日大使は、
 本国の外務大臣ハロルド・マクミランへ、次のような文
 書を送った・・、
  「アメリカの日本に対する扱い方は、まるで、第二次
 世界大戦の我々・イギリスのエジプトに対する扱いの様
 だ」・・と。
  この意味は、「日本は、今だに植民地扱いされている」
 という意味だった。
  まったく、日本は、バカにされている状態。
  1963年になっても、イギリスの応援は続いた。
  イギリスのオスカー・モーランド駐日大使が、本国の
 外務省へ次の報告書を送っている・・、
  「アメリカ政府の日本に対する態度を見ていると、と
 ても、独立国に対する扱いとは言えない。
  こんな扱いを受けている日本人が、本当にアメリカを
 好きになることはないだろう」・・と。
  この事を、メルヴィン・レフラー教授は、「ダブル・
 コンテインメント・ストラテジー(二重封じ込め戦術)』
 と言った。
  (1)日本を封じ込めておき、日本人が二度と独立した
    外交能力と、国防能力が持てない状態にしておく。
  (2)同時に、アメリカは、ソ連を封じ込めておく。
    その為に、日本を利用する。
    「ソ連への封じ込め戦略」の駒として利用するた
   め、日本には限られた軍事力・・アメリカ軍にとっ
   て都合の良い軍事力しか持たせない。
    日本には、自主防衛力を持たせるようなことはし
   ない。
.
1964年4月5日、GHQ司令官だったダグラス・マッカーサ
 ーが死んだ。老衰による肝臓・腎臓の機能不全で入院し
 ていた。84歳。
  晩年のマッカーサーは・・、
  「憲法9条を加えたのは、失策だった」
  「旧軍を部分的に存続させるべきだった」・・と後悔
 していたと伝えられている。
.
1990年(平成2年)3月27日、ビンのフタ論
  この日のワシントンポスト紙に「ビンのフタ論」が掲
 載された。
  在日米海兵隊ヘンリー・C・スタックポール司令官
 (少将)が・・
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本はすでに相当な
 能力を持つ軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタなのだ」・・と書いた。
  日本を封じ込める。
  それも、アメリカと中国とで日本を封じ込める。
  その卑劣な、そして、理不尽な米中による「共同封じ
 込め戦略」をしたアメリカ大統領は・・、
  ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)などだ
 った。
  そして、1989年1月20日に、第41代アメリカ大統領とな
 ったジョージ・H・W・ブッシュ(父)(大統領任期:
 1989年1月20日~1993年1月20日)政権の・・安全保障政
 策補佐官だったブレント・スコウクロフト中将は・・、
  米中両国による「対日共同封じ込め」を熱心に支持し
 た。
  そして、彼は、日米同盟の事を・・、
  「アーティフィシャル・アライアンス」とか・・
  「人為的な同盟」とか、「嘘くさい同盟」とか、「わ
 ざとらしい同盟」とかと言った。
  (注〉アーティフィシャル(artificial)の意は、
    「本物でない」「作りごとの」「不誠実な」「わ
    ざとらしい」という意味。
  スコウクロフト中将が、日米同盟を「アーティフィシ
 ャルだ」という真意は・・、
  「日本を『潜在的な敵性国』と見なすアメリカが、日
 本を押さえつけておくために維持している同盟関係」と
 いう気持ちが込められている。
  (参考)1990年、ブッシュ政権のホワイトハウス国家
    安全保障会議が・・、
     「冷戦後の日本を、国際政治におけるアメリカ
    の潜在的な敵性国と定義し・・、
     今後、日本に対して封じ込めを実施する」とい
    う政策を決定している。
  また、アメリカは・・キッシンジャーの様に、裏表の
 ある・・それも・・この表裏の落差が非常に大きい・・
 注意を要する・・今までの逆のことも平気で言う・・
  アメリカのポール・ゴドウィン博士(ペンタゴン付属
 の教育機関であるナショナル・ウォー・カレッジ副学長)
 の言葉・・、
  「日米は、『価値観を共有する同盟関係』より優先さ
 れる『対日封じ込め政策』・・これは当たり前だ」と言
 った。
  (参考)1992年2月18日、この日に作成された「1994年
     ~1999年のための国防プラン・ガイダンス」
     (DPG)というペンタゴンの機密文書には、
     「アメリカのアジア同盟国(特に、日本)が、
     より大きな地域的役割を担うことは、潜在的に
     この地域を不安定化させる」と記されている・・
  アメリカに、この様な言葉がある原因の一つとして・・
  日本に・・「自分の国は、自分で守る」という事を真
 剣に考えてない・・、
  この当たり前の「道徳的義務すら果たそうとしない」・・、
  「エスケーピスト(逃避主義国家)」として蔑(さげ
 す)まれている・・、
  その様な日本だと・・受け取られている・・、
  びっくりする様な大金を出して、「これで良いのだ。
 大金も出したし・・」・・の・・日本のセンスが・・、
 「軽蔑され、蔑まれた・・」・・、
  この様な今・現代の日本のセンスは・・世界に通用し
 ない・・また・・、
  「日本も、血を流そうとしないと、アメリカの青年は、
 日本を助けようとは、しないよ!」・・と・・、
  尖閣諸島の問題の時に、アメリカから言われた・・
  このことも、しっかり覚えて置かなければならない!
.
1993年1月20日、ビル・クリントンが、第42代アメリカ大統
 領になった。
  クリントン大統領は「反日親中」だった。
  そして、クリントン政権の上層部は「親中嫌日」だっ
 た。
  ウィリアム・ペリー国防長官は、全体主義国家である
 中国と北朝鮮の核兵器生産には「融和的態度」をとるが、
  (今、北朝鮮に核がある遠因の一つ・・)
  民主主義・自由主義を実行してきた日本が、核兵器の
 材料を持つことは耐えられなかった。
  ペリー国防長官の言葉・・、
  「東アジア地域において米中両国は、日本だけには・・
 核を持たせてはならない」
  サミュエル・バーガー安全保障政策補佐官の言葉・・、
  「アジア・太平洋地域は、アメリカと中国が協力して
 共同支配する地域だ」
  このバーガーは、核武装した北朝鮮よりも、「日本が、
 それを口実として自主防衛しようとするかもしれない」
 ということを心配していた・・嫌日の輩だった。
  ロバート・ルービン財務長官の言葉・・、
  「アジア地域は、米中両覇権の戦略的パートナーシッ
 プにより共同支配する地域だ」
  この様に、アメリカ政権の「反日親中」の言葉の数々
 を聞くと暗澹(あんたん、見通しが立たず、希望が持て
 ないさま)たる気持ちになるが・・、
  ここで出て来るのが「ビンのフタ論」である。
  この「ビンのフタ論」は、前記したように、1990年3月
 27日に、在日アメリカ海兵隊のヘンリー・C・スタック
 ポール司令官が、ワシントンポスト紙に発言した言葉で
 ・・、
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本は、すでに、相
 当な能力の軍事力を持っているが・・、その持っている
 軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも、日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタの様に日本に駐留しているのだ」・・
  かつて、在日米軍の撤退を厳しく要求した中国も、 キ
 ッシンジャーが北京を訪問して、上記の様な説明を受け
 ると、 周恩来は大きくうなずいて、日本からのアメリカ
 軍撤退要求を取り下げたのだった。
  米中両国は、日本の単独防衛・核武装阻止という点で、
 利害が一致していた。
  以上のことは・・、
  ハリー・トルーマン、ジョン・フォスター・ダレス、
 ヘンリー・キッシンジャー、 ヘンリー・スタックポール、
 クリスティン・ウォーマスなどのアメリカの政府や軍の
 高官がその様に証言している。
  孫崎享(まごさきうける、日本の外交官、評論家、ハ
 ーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局
 局長、イラン駐箚特命全権大使など)も、著書「日米同
 盟の正体 迷走する安全保障」の中で・・、
  日米同盟の目的は、日本の核武装・軍事大国化を阻止
 して、日本から力を奪うためであり、
  その考え方は、大戦直後も、今も、一貫して変わらな
 い・・と述べている。
  クリストファー・レイン(UCLA、海軍大学校大学
 院)は・・、
   日本の自衛隊を、自主防衛できない組織(属国の軍隊)
 にしておくのがアメリカの目的で、アメリカの対ソ政策、
 対中政策に都合の良い武器は持たしてもらえるが、
  『本当に自主防衛するための武器』は持たしてもらえ
 ない。
  また、アメリカ軍が出動しないと、自衛隊は、他国の
 軍隊に手も足も出ない軍隊となっている。
  『戦後、長い年月が流れたので、そろそろ、日米安全
 保障条約を廃棄し、日本単独防衛を検討してもいいので
 はないか』・・という意見もある・・ 、
  また、ロバート・アート(ブランダイス大学)は、日
 米同盟の『真の現実』というものは、地域的なアメリカ
 の帝国主義的支配権に組み込まれたものとなっている。
  また、マイク・マスタンドゥーノ:(ダートマス大学、
 国際政治学)は・・、
  「アメリカ政府高官は、東アジアにおける米国の圧倒
 的ドミナンス(優越、権勢、支配、優勢)を保つために、
 日本を、パーシャル(不完全な)な(バランスのとれて
 ない、独立していない)国家にとどめておく・・その為
 に、日本を必死に説得して来た」。
  また、カート・キャンベル(クリントン政権 国防省ア
 ジア政策担当次官補)は・・、
  日米同盟を維持しなければならない根拠は・・、
  「日本にこれ以上軍事費を使わせるない」「日本が、
 他のアジア諸国と軍事的な、また、外交関係を作るのを
 阻止する」「日本には自主防衛させない」・・、
  スコウクロフト(国家安全保障補佐官)は・・、
  「日本は、アメリカの仮想敵国であり、 封じ込めが
 アメリカの政府の対日外交政策方針である」
  (上記は、伊藤貫氏の証言で、1991年、伊藤貫氏が連
 邦議会外交政策委員の主要メンバーから聞いた)
  また、国防大学・National Defence Univ.(National
 War College)のゴッドウイン副学長の発言・・
  「封じ込めが対日政策である」
  また、1992年、ペンタゴンの防衛計画の手引き(
 Defence Planning Guidance)で、主要仮想敵国を、
 Other Advanced Industrial Nation(ドイツと日本)と
 位置づけ、地域のリーダーシップ(Regional Leadership)
 を 取れないようにするという方針となった。
  また、ペンタゴン日本部長 ポール・ジュアートは、
 1994年に、「アメリカは、日本を独立国として認めない」
 と発言した。
  そして、1972年、ニクソン&キッシンジャー&周恩来
 との密約は、現在の米国政府(国防省・CIA)におい
 ても有効で、「東アジア地域において、日本に核を持た
 せない」「アメリカが日本に駐留し続ける、それは、日
 本が独立国になるのを阻止する」「日本政府が台湾や朝
 鮮の問題で発言権を持つことを米中は阻止する」
.
1997年、明確な「反日親中だったアメリカ大統領カーター」
 の政権に居たズビグネフ・ブレジンスキー安全保障政策
 補佐官は、1997年、日本を「アメリカ保護領」と呼んで
 いて・・、
  自衛隊についても、「日本政府が自由に使える道具で
 はない。
  あれは単に、東アジア地域のアメリカ軍の延長として
 の道具に過ぎない」と言っていた。
  アメリカは、表面は『パートナーだ』と言っているが、
 本音は、ブレジンスキーのこの様な気持ちの人が多い状
 況。
 (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
    政策を採り・・、
     そして、その逆に、中国に対しては有利に処し、
    そして、融和的な政策を採ること。
 (参考)ズビグネフ・ブレジンスキー、1928年3月28日~
    2017年5月26日)は、アメリカ在住の政治学者。
     1966年~1968年、リンドン・ジョンソン大統領
    の大統領顧問を務め、
     1977年~1981年、カーター政権時の第10代国家
    安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。
     ポーランド出身、カナダ育ち。
     1971年には、日本に半年間在住した後に、急速
    な経済発展を遂げた日本が、政治外交領域ではい
    まだに独立した行動をとる力を持っていない「ひ
    よわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴
    びた。
     ヘンリー・キッシンジャー元国務長官と並ぶ戦
    略思想家だったとする評価もされている。
     2016年に、民間人としては最高栄誉の、アメリ
    カ国防総省公共サービス栄誉賞を受賞した。
.
2002年10月、江沢民・中国国家主席が訪米し、アメリカの
 ブッシュ大統領(子)をテキサスの牧場に訪ね、密約の
 確認をした・・?
  当時(1972年2月)のニクソン米大統領とキッシンジャ
 ー補佐官が北京を訪問し、周恩来首相との間で対日政策
 に関する密約を交わしている。
  この事は、日本人は、きちんと覚えておく必要がある。
  この時の密約の要点を書きとめたニクソンの手書きメ
 モも残っているが・・、
  密約の一つは、「東アジア地域において日本だけは核
 武装させない」というもので、
  このことを、2002年10月、江沢民・中国国家主席は訪
 米し、テキサスの牧場にブッシュ大統領を訪ね・・そし
 て、このときにも『再確認』したとされている。
.
2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシント
 ンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と・・、
  「リアシュアランス戦略」
  アメリカには、「リアシュアランス戦略」がある。
  「リアシュア」は「安心させる」という意味。
  アメリカが、「日本は安全だ」と言い・・、
  また、「日本人は、アメリカによって保護されている
 から心配しなくていい」と言う。
  日本は、「よかった、よかった、アメリカに保護され
 ているから日本は安全だ」・・と思う。
  アメリカの、この「日本人をリアシュアしておく」と
 いう戦略をとったのは・・、
  「敗戦国・日本から、永遠に自主防衛能力を剥奪して
 おきたい」という戦略から来ている。
  2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシ
 ントンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と。
  この密約は、ワシントンでは、すでに、「公然の秘密」
 となっていた。
  「アメリカと中国の政府間に、日本から、自主防衛力
 を剥奪しておくため、アメリカ軍は、日本の駐留を続け
 る。
  例え、「日本の周辺国が、すべて、核武装しても」、
 「日本にだけは、核は持たせない」・・と。
  1971年秋、アメリカのキッシンジャーと、中国の周恩
 来の間で、「対日共同封じ込め」が話し合われ、
  翌年の1972年2月、アメリカ大統領ニクソンが、北京を
 訪れ、米中首脳間で合意された。
  この米中首脳合意は、アメリカ政府の外交資料に公開
 されている。
  また、中国の公開論文などでも公開されている。
  日本が、真に独立できな根源が、ここから来ている。
  この後も、この日本の立ち位置は、その都度、アメリ
 カと中国間で確認されている。
  ニクソンの後の「フォード」「カーター」もアメリカ・
 中国による「対日共同封じ込め戦略」は続けられた。
  中国は、表では「アメリカの覇権に抗議する姿」を見
 せているが?
  『対日共同封じ込め戦略』の基本路線で、アメリカと
 つながっている・・この事は、ブランダイス大学のロバ
 ート・アート氏が指摘する。
  (参考)ロバート・アートは、アメリカ合衆国の国際
    政治学者。ブランダイス大学教授。MIT国際関
    係研究所フェロー。
     専門は、国際関係論、安全保障論。
     1964年に、コロンビア大学卒業後、1968年に、
    ハーバード大学で博士号取得。
     米国陸軍士官学校や米国空軍士官学校、中国人
    民解放軍国防大学、ベルリン自由大学などで講義
    をしてきた。
.
2010年1月21日、アメリカの連邦最高裁は、選挙資金の支出
 制限を違憲とした。
  『献金の上限撤廃』の判決が出た。
  また、2016年6月10日には、チャイナマネー疑惑が、ヒ
 ラリー・クリントン氏(民主党)を、突如、襲った。
  新たな火種が浮上し、連邦捜査局(FBI)が捜査し
 ていると報じている。
  大統領選や、知事選の候補者は、外国人から選挙資金
 を受け取ってはならないとなっている。
  しかし、中国は・・、
  アメリカの民主党に献金し、チャイナロビーを形成し
 て、アメリカを通じて日本に圧力を掛けていると言われ
 ている。
.
2017年9月3日、日本が、レーザーで、ミサイルを迎撃する
 「新システムの検討」をしていることが分かった。
  北朝鮮の核・ミサイル開発など、世情は不穏さを増し
 ているが・・、
  この新システムは、高出力レーザーを、発射直後の弾
 道ミサイルに照射し、無力化し、破壊する方法。
  防衛庁は、すでに、2010年度から研究を始めていて、
 高出力レーザーの研究を実施するなどしていた。
  また、アメリカの研究成果についての情報提供も受け
 ていた。
  2018年度から5年間で、装備化に向けた研究に入る。
  レーザー兵器は、アメリカや中国などでも開発が進め
 られていて、アメリカは、実戦配備を始めている。
  アメリカは、ミサイル防衛への活用も検討している。
  また、防衛省は、2018年度概算要求に、迫撃砲弾や小
 型無人機などを迎撃対象とする、高出力レーザーシステ
 ムの研究費として、87億円を計上した。
  北朝鮮が、「ロフテッド軌道」での発射を繰り返して
 いるため、新しい技術で対応する方針・・、
  開発を目指すのは、弾道ミサイルが発射された直後の
 「ブースト段階」の時点で、
  航空機や艦船などから高出力レーザーを照射し、熱に
 よってミサイルを変形させる技術。
  これによって、ミサイルが、空気の摩擦抵抗を受ける
 大気圏内への再突入などの際に、無力化・破壊する方法。
  この方法は、多数の弾道ミサイルの発射にも対処が可
 能。
  因みに、ブースト段階とは、弾道ミサイルが、発射直
 後に、ロケットエンジンの燃焼で加速する段階のことで、
  燃焼が終了して、慣性で大気圏外を飛行する「ミッド
 コース段階」や、
  弾頭が、大気圏に再突入してから地上に向かう「ター
 ミナル段階」とは違う・・
  ロフテッド軌道の場合、ターミナル段階の弾頭は、落
 下速度が速く、迎撃性が落ちる。
  この新システムの方法で、ロフテッド軌道に入る前の
 低速度の発射直後の段階で対処ができる。
  (読売新聞、2017年9月3日を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年1月1日、山陽鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
1892年1月5日、世界で初めて、オーロラの写真撮影に成功
 した。
1892年1月16日、明治美術会が、洋風美術指導の教場を開く。
  明治美術会は、日本最初の洋画団体で・・、
  明治10年代には、維新以来の急進的な欧化政策に対す
 る反省、反動の機運が高まり、日本の伝統美術の復興を
 旗じるしに、洋画排斥の世論が強まって行った。
  こうした当時の国粋主義的風潮に抗して、1889年に、
 浅井忠、小山正太郎、原田直次郎、松岡寿、山本芳翠、
 長沼守敬らが、東大総長の渡辺洪基を会頭として組織し
 た。
  また、後援者として行政家や知識人らの多数が名を連
 ねた。
  そして、さらに、黒田清輝、久米桂一郎らの新帰朝者
 も参加した。
  毎年、展覧会を開き、多くの名作を発表した。
  また、外国作品の参考陳列、研究所の設置、講演会、
 討論会なども行い、洋画発展・啓蒙のために尽した。
  後に、黒田清輝らが、白馬会を起こしたため、白馬会
 と対立した。
  旧派、または、脂派 (やには) と呼ばれて衰退し、
  1901年に解散した。
  翌年の1902年に、若手を中心にした旧会員らが、太平
 洋画会を結成し、
  白馬会とともに二大洋画団体となった。
1892年1月23日、植木枝盛(うえきえもり)が死去した。
  (1857年1月20日~1892年1月23日、36歳)
  土佐国(高知県)高知城下井口村の生まれで、
  土佐高知藩下級士族・植木直枝の独子、
  板垣退助の演説を聞いて感銘を受け、また、明六社の
 影響を受け、自由民権運動に加わり、自由民権運動の指
 導者・政治家となる。
  国会開設に尽力。
  廃藩に至るまで藩校致道館に学ぶ。
  1873年(16歳)旧藩主・山内氏が東京に開設した海南
   私塾に学んだが、陸軍士官予備門的同校の方針が不
   満となり、高知へ帰る。
   時は、あたかも、征韓論政変で下野した板垣退助、
   林有造、片岡健吉らは帰郷して、高知に立志社を設
   立し、自由民権運動を開始した。
   枝盛は、立志社の演説会で、板垣らの演説に発奮し、
   運動への関心を高めた。
  1876年(19歳)再度、上京し、板垣邸に書生として寄
   宿した。
   そして、明六社や、慶応義塾主催の演説会を聴取し
   たり、読書に耽り、独学で西洋近代思想を学び、民
   権思想を吸収した。
   東京の諸新聞に政論を投書するなど、言論活動を始
   めた。
   1876年2月、『郵便報知新聞』に掲載された専制政府
   攻撃の『猿人政府(猿人君主)』が讒謗律、新聞紙
   条例違反に問われ禁獄(きんごく、牢獄に閉じ込め
   ておくこと)2ヶ月となる。
  1877年(20歳)帰郷して、立志社に入社し参加した。
   そして、板垣退助のブレーン(頭脳)として、片腕
   的存在として活躍。
   この年は、西南戦争の最中で、いわゆる立志社建白
   を起草した。
   同年・1877年、立志社は、機関誌『海南新誌』『土
   陽雑誌』を創刊した。
   枝盛は、その編集・執筆に当たり、また、演説会で
   活発な言論活動を展開。
   愛国社、国会期成同盟、自由党に板垣の片腕的存在
   として活躍した。
   (国会開設運動や民権思想の普及につくす)
  1881年(24歳)急進的な私擬憲法「日本国国憲案(東
   洋大日本国憲法)」を起草した。
   のち再興愛国社、国会期成同盟、自由党などの運動
   に板垣の片腕となって活躍する。
   一方、民権派ジャーナリストとして『民権自由論』
   (1879年・22歳) などの出版により民衆啓蒙を行う。
   のち、急進的自由民権運動から離れ、婦人解放運動
   に尽力した。
  1884年(27歳)自由党解党以後、高知に戻り、県会議
   員として運動を持続した。
    また、『土陽新聞』に拠って健筆を振るい、自由
   民権思想の普及、運動の拡大に努めた。
  1890年(33歳)第1回総選挙で、高知3区から衆議院議
   員に当選し、自由党土佐派の有力者として活躍した。
   しかし・・
  1892年1月23日、36歳の若さで急死した。
  彼の思想の特徴は、天賦人権論、主権在民、抵抗権な
 どにあった。
  その他の著書に『天賦人権弁』『開明新論』『言論自
 由論』『一局議院論』など。
1892年1月28日、予戒令(よかいれい)が公布された(1月
 25日説あり)
  集会の妨害行為、他人の業務に干渉する者の取締を目
 的に制定され、即日、施行された。
  1892年2月15日に、第2回衆議院議員総選挙が行われる
 予定であったため、選挙取締りを目的とするとされた。
  政治集会で社会が騒然とし、また、騒動が多発するた
 めもあった。
  「政談集会ヲ妨害シ議会議員ヲ脅迫スル…人民ニ対シ
 警察上ノ監督」と記されている。
  内閣顧問として活躍したドイツ人のヘルマン・ロエス
 レルは、予戒令の審議における参考意見として・・
  「公共並ニ国家ノ利益の為ニ…禁遏(きんあつ、禁じ
 て止めさせること)スルヲ得ヘシ」と判断し、制定の正
 当性を挙げた(1914年1月21日まで存続した)
1892年1月、大阪鉄道会社線の亀ノ瀬トンネルが完成した。
  1889年3月に着工していた(工期:2年10ヶ月)
  全長:下り線699m、上り線703.5mの鉄道トンネル。
  堅上村(現在の大阪府柏原市大字峠)から大阪府・奈
 良県境までにかけての区間には、生駒山地と金剛山地の
 末端に挟まれた難所かつ隘路があり・・
  この難所「亀ノ瀬越え」があった。
  この一帯は、地すべりがたびたび発生した。
  1889年に着工された亀ノ瀬トンネル(全長413m)・芝
 山トンネル(全長216m)も、異常な土圧力を受け、工事
 が完成しても、煉瓦に亀裂ができ、崩壊するという危険
 性に見舞われていた。
1892年2月1日、九州鉄道会社が、下等旅客運賃を値上げし
 た。
1892年2月1日、北海道炭砿鉄道会社が、砂川駅~空知太駅
 間の4.6kmを開業した。
1892年2月2日、大阪鉄道会社が、亀瀬駅~稲葉山駅間の1.3
 kmを開通して、湊町駅~奈良駅間の41.2kmを全通させた。
1892年2月3日 出口なを、京都綾部で大本教を開いた。
  神道系の新宗教で、教祖の出口なおにより 1892年に
 創唱され、その予言は、御筆先 として記された。
  (おふでさき。大本神諭、なをの「筆先」による艮(う
 しとら)の金神(こんじん)の世直しを唱えて、「みろくの
 世」(神の国)の到来を説いた)
  大本皇大御神を祀り、なおの出生地たる丹波国綾部を
 地上の高天原とし、神人合感を唱え、世を立直して、神
 の国を開くと説いた。
  なおの死後、教理を体系化し、組織を構築した出口王
 仁三郎(でぐちおにさぶろう)、すみの両人により、鎮
 魂帰神法が唱えられ、綾部に本部、亀岡に道場がおかれ、
 大きく発展したが、1921年と1935年の2回の不敬罪で解散
 に至った。
  第2次世界大戦後、愛善苑として再建された。
  1952年、大本教に復し、京都府亀岡市に本部を置く。
  尚、開祖の出口(でぐち)なお(1836年~1918年、82歳
 没)は、
  1836年、丹波国(京都府)福知山城下に大工の長女と
   して出生した。
  1853年(17歳)の時、丹波綾部郷(現京都府綾部市)
   の叔母・出口ゆりの養女となる。
  1855年(19歳)大工の夫を婿養子として迎え、出口家
   を継いだ。
    しかし、夫の放蕩で家財いっさいを失うこととな
   った。
   つらく、ひどい生活苦を体験した。
  1892年(56歳)、貧しい大工の未亡人である出口なを
   が創唱した。
    「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の
   金神の世になりたぞよ」と、突然、神がかりして口
   走り・・、
    理想世界「みろくの世」の実現を説く世界の平和
   と・・世の中の立直しを叫んだ。
1892年2月5日、大村益次郎の銅像が除幕された(除幕式)
  大村益次郎の銅像は、初代司法大臣として活躍した山
 田顕義の発案で、靖国神社に建立された。
  大村益次郎(おおむらますじろう、1824年3月10日~
 1869年11月5日)は、幕末の洋学者で、日本の近代的軍制
 の創始者。
  旧名は村田良庵、のち、村田蔵六と名乗った。
  1824年(文政7年)3月10日、周防国吉敷郡鋳銭司村字
   大村に長州藩の医者・村田孝益の長男として生れた。
  1843年(19歳)蘭医・梅田幽斎に学ぶ。
  1844年(20歳)豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。
  1847年(23歳)大阪の緒方洪庵の適塾の門で、蘭学と
   医学を学び、塾長を務めた。
    この間、長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。
    そして、P・シーボルトについてオランダ医学を学
   んだ。
    また、兵学を修めた。
  1851年(27歳)父母を養うために帰郷した。
   そして、医を開業したが振るわず・・宇和島藩に迎
   えられ、伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩御雇となった・・
   そして、西洋兵書を翻訳し、軍艦製造などを指導し
   た・・、
  1856年(32歳)江戸に出て鳩居堂を開塾した・・
   宇和島藩主・伊達宗城の推挙で、幕府の蕃書調所に
   仕え、教授手伝い、さらに、講武所で教授を歴任し
   た。
    この間、ヘボンに英語を学んだ。
    名声を聞いた長州藩は出仕を命じた・・
  1860年(36歳)万延元年、長州藩に呼び戻され、帰藩
   し、同藩(長門・ながと・山口県、萩・はぎ藩)で
   兵学を教え、兵制改革に力量を発揮した。
  1866年(42歳)長州戦争には、石見口の総参謀として
   幕府軍を壊滅させた。
  1868年(44歳)1月3日、戊辰戦争が起きると、討幕軍
   として上洛した。
    維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ、軍政
   事務を担当した。
  1868年(44歳)閏4月、江戸に出て、上野彰義隊討伐、
   奥羽・北越の平定作戦に携わった。
    総合的な視点で戦局を捉え、軍略は戦う前から必
   勝の成算をうかがわせるものがあった。
    西郷隆盛は、大村の軍が進まないのをみて、部下
   将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を
   申し出た。
    大村は、西郷を諫め、西郷の青森到着前に五稜郭
   が陥落した。
    西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合
   はすに恥づ」とそのまま帰郷した。
  1868年(44歳)10月、軍務官副知事となり箱館(函館)
   を鎮定した。
    ここに戊辰戦争は終結した。
    その戦の功により永世禄1500石を受けた。
    この様に、戊辰戦争に優れた軍事指揮を執った。
  1869年(明治2年)(45歳)兵部大輔となり、軍制を徹
   底的に改革するため、それまでの諸藩混成の士族的
   御親兵を、国民的な近代軍隊へ改組したいと・・、
    陸軍はフランス陸軍へ、海軍はイギリス海軍を模
   範としてならうと・・藩兵解体、帯刀禁止、徴兵制
   度の採用などを建白し、一連の兵制改革を行ない、
   日本の兵制の近代化に尽力した。
   ・・が、旧士族の反感を買い、
  1869年9月4日(45歳)、京阪地方を旅行中の京都の止
   宿先で、神代(こうじろ)直人ら反対派士族の8人に襲
   われ、刺された傷がもとで大阪の病院で・・
  1869年12月7日、死去した、46歳だった。
  最後の言葉は、「安価で軽便な四斤砲をたくさんつく
 ってくれ」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
    国防をもっと真剣に考えなければいけない!
    緊急事態なのである!
.
1910年8月29日、日韓併合(~1945年9月9日)
  日本は、「韓国併合に関する条約(日韓併合条約)」
 によって大韓帝国と併合した。
  標語は、「内鮮一体」で・・、
  日本と朝鮮は一体となって国づくりをして行こうと、
 そこには、完全に朝鮮を差別待遇するなどという意味は
 まったく無く、平等に内地(日本本土)と一体となって
 国づくりをしようとした。
  差別なく、日本と同等な皇国の民として平等だという
 意識で・・、
  「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを
 目的とするとした。
  今・現代、その当時を生きた韓国の方々は、そのこと
 を裏付ける様にネットに以下の様に記述する。
  「韓国政府が、ひたすら酷かったとして、恩を仇で返
 すような行動をしている」が、
  また、「教科書で、ひたすら日本を蔑むことを記述し
 て韓国の小学生たちを洗脳しているが、真実は消せない」
 と・・、
  以下の翻訳したネットのスレッド(投稿)の韓国の
 庶民の方々の真実の声も聞いて戴きたい・・
  翻訳ー1:おじいさんは笑いながら「日帝時代は、李氏
     朝鮮などの朝鮮王朝が統治した時よりはるかに
     幸せだった」と言いました。
      その例として、まず、医療技術が発達し、人々
     が病気の苦痛から開放され、長生きすることが
     できるようになったこと、
      さらに、教育の機会が与えられ、多くの人た
     ちが勉強できるようになったことなど・・
  翻訳ー2:韓国人強制徴用については知らされているこ
     とと違うと言いました。
      善良な人を強制的に徴用したのではく、死刑
     囚や犯罪者などを徴用していたのです。
  翻訳ー3:慰安婦問題については正確には知らないとし・・
  翻訳ー4:親日派と売国奴は別物だ。
      親日が悪いことではないと言いました。
      当時、韓国民族が生きる最良の道は、現実問
     題としての自分の立ち位置をよく認識し、日本
     人から先進文物を学び、自分のものにするとい
     うものでした。
      また、社会のほとんどが親日であり、現在の
     テレビ放送(TV)が示すような、大多数の人が
     独立万歳をしていなかった・・と言います。
  翻訳ー5:教科書を見れば、老人たちにとって日帝時代
     は地獄であり、日本は悪魔だとしています。
      しかし、老人ホームのようなところに行って
     奉仕活動をしながら尋ねると、意外にも日帝時
     代に対する感情がないということに驚きます(
     日本は悪いことをしていないので、悪感情が出
     て来ない)
  翻訳ー6:朝鮮時代末期には、平均寿命が30歳を超えて
     いなかったとしています。
  翻訳ー7:平均寿命と人口が約2倍に増えたという客観
     的な統計が存在し、飢えて死ぬ人々の数が目に
     見えて減りました。
      以前には、娯楽すら知らなかった人たちは、
     少しふんぱつをすれば、豪華な洋館でコーヒー
     を飲むことができたました。
      文学などの芸術も、この時から発達していま
     す。
      日帝時代は、大多数の朝鮮人が親日派であっ
     た。
      いや、親日派という言葉すら成立しないかも
     しれない。
      当時、絶対多数の朝鮮人は、日本人として幸
     せに暮らしていた。
      現在、韓国の教科書が教えるのは捏造、歪曲、
     操作であり、独立運動の朝鮮人は、全体の1%に
     もならなかった。
      絶対多数99%の朝鮮人は親日派であった。
  (日本も同じだったのだろう・・と、日本を、アメリ
 カやヨーロッパ諸国と同じ様な『搾取するだけの植民地
 政策だ』と同じに見ないでください)
  第二次世界大戦当時、大東亜戦争に自ら進んで参加し
 た朝鮮人兵士は・・何と! 22万人を超えた。
  また、平均寿命が24歳という地獄ような朝鮮の状況を・・
 一変させ・・
  朝鮮の方々の平均寿命を倍以上に増やすという『改善
 がなされた』。
  それは、一朝一夕で出来るものではなく・・
  住みやすい国づくりをし、また、人間らしく生きられ
 る国を作った日本だった。
  この様な功績を、まったく伝えない韓国・・
  偽りと捏造(ねつぞう)の歴史で、いつまでも被害者
 であるとプロパガンダし、洗脳する。
  恩を仇で返している韓国なのである。
  韓国の安東地方に建設された図書館の利用者記録を見
 るだけでも分かります・・、
  この資料だけでも、日本が、どれほど朝鮮のあらゆる
 ものに貢献したかが・・
  朝鮮人の方々、支那人の方々、共に、この知的な場所
 を、多くの人が、公平に閲覧しています。
  公平な社会だった。
  公平な統治が行われていたという証拠の一つです。
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26941311.html
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983250/10?viewMode=
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/4/3/437ea3cc-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/9/2/923f2cbc-s.jpg
.
1937年11月15日、日本軍の第10軍は、「一挙追撃を敢行し、
 南京を占領すべき」と積極案を出した。
  それは、マス・メディアの論調に影響を受けていた。
  南京への進軍のきっかけを作ったNHKはじめマス・
 メディアは、
  その後の、南京へ向かう日本軍の進軍を、逐一、報道
 した。
  この報道も、煽りだった。
  それまでの上海事変で、日本軍は疲弊していた。
  上海の日本軍を攻めて来た中国国民政府軍は、上海事
 変での戦いは強烈だった。
  アメリカに支援された中国国民政府軍は、そのアメリ
 カに支援された大量の武器と物量で頑強で、日本を苦し
 めた。
  日本軍は疲弊していた。
  本来は、上海事変が集結した後、日本に帰還するわけ
 だった。
  しかし、NHKはじめマス・メディアに煽られた軍は、
 戦争拡大の意見が通り、また、上海事変で戦った兵士が、
 そのまま南京へ向かうことになった。
  そしてまた、南京へ向かうその日本軍を、NHKはじ
 めマス・メディアは、逐一、報道し、当然、煽られた状
 況になって、南京へと向かって行った。
  国民はその報道をかたずをのんで見守り、声援した。
  NHKは、この様に戦争を煽った罪を『まったく報道
 しない』、
  日本を貶(おとし)める放送ばかりをしてる。
.
1946年3月5日、イギリスのチャーチル前首相が「鉄のカー
 テン」演説を行う。
  この「鉄のカーテン」は、イギリスのチャーチルが、
 首相を退任後、アメリカのトルーマン大統領に招かれ訪
 米し、ミズーリ州の大学で演説した中で言った。
  この「鉄のカーテン」と言われた頃と、今(2017年)
 との違いは・・、
  ソ連が崩壊して、ロシアが誕生したという経過がある
 が・・
  今・現代の2017年は、中国が世界一としての存在感を
 増している。
  米中関係と言われていた言葉は、今は、中米関係と逆
 転して言うべきだろう。
  米ソの冷戦時は、明確な立ち位置の違いがあった。
 冷戦だと言われる様に、米ソは、その「冷戦の戦争的な
 対決状態」だった。
  そして、「鉄のカーテン」と言われた様に、「カーテ
 ンの向こう側」と「カーテンのこちら側」という明確な
 体制の違いがあった。
  しかし、今・現代の状態は、同じ様な経済状況・経済
 体制の中で、「明らかに中国は、世界の覇権を手に入れ
 たい」と意思表示をしていながら、現状の様な雌伏の様
 な形で、現位置を構築してきた。
  しかし、「中国の明確な覇権を得たい」という言葉の
 裏には、今の派遣者であるアメリカには退場して戴きた
 いという中国の意思もある。
  そこを、隠密に、静かに、なされたため、米ソ冷戦時
 のはっきりした「彼我の陣営の違い」が見えにくくなっ
 ている。
  北朝鮮を明らかに繰って、自らの覇権構築に利用して
 いても・・その様な北朝鮮を繰る姿は見えにくくなって
 いる。
  その見えにくい中国に、米ソ冷戦の時には、米側であ
 った諸国も、今・現代は、中国側に取り込まれている。
  IMF体制を変えたいという意思のある中国。
  中国主導のそのAIIB(アジアインフラ投資銀行)
 にも、だから、イギリスはじめ、米ソ冷戦時は、アメリ
 カ側であった諸国が加わっている。
  その諸国の中には、「AIIBに加わって、その様子
 をはっきり見るのだ」という声も聞こえるが・・?
  何か、アメリカ離れをして行こうという様にも見える。
  そこを、日本だけが・・律儀に・・アメリカとともに
 いる感じとなっている・・、
  ドイツは、明確に中国側の行動を行なっている。
  アメリカが、アメリカの一部の知識人が言うように、
 「中国の覇権を認め」、そして、中国の軍門に下るのか?
  それとも、読売新聞の論説文の様に、「より日米関係
 を強固にせよ」という論説の如く、日米関係を強固にし
 て・・、
  この先は、中国の構築したグループと、対決姿勢を形
 作って行くのか?
  中国には、孫子という人が居た。
  中国の指導層も、この孫子の言葉を教訓にしている・・
 モットーにしているというが・・眉(まゆ)つばものだ・・
  この孫子の言葉に・・、
  「兵は詐(さ)なり。(この詐は、つくりごとをいう。
 嘘を言ってだます・・という意味)・・、
  そして、「彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)
 うからず」・・とある。
  この有名な文の前文・・孫子の言葉には、「兵は詐を
 以って立つ・・」という言葉がある。
  つまり、「戦いは敵を欺き、裏をかくことだ」と言っ
 ている。
  中国は、「勝てば何をやっても良いのだ」と考える国
 だということ。
  中国の本を読んでも、欺いて勝った者が褒められ、讃
 えられている。
  節操なく人をだまし、騙し合いの汚い話の連続だ。
  延々とこんな事ばかりをしている。
  キリスト教聖書も、この様な事が書かれていて、唾棄
 すべき記述に満ちているが、中国は聖書以上だ。
  アメリカも、原爆を落とし、一般市民をターゲットと
 した無差別爆撃をし、そして、じゅうたん爆撃を、日本
 の都市という都市に行って、本当に多くの市民を殺戮・
 虐殺したが・・、中国の悲惨さはアメリカ以上だ。
  自国民を1000万人単位で何回も殺している国・・、
  中国の悲惨さ、冷酷さは、反対意見の持ち主が、皆無
 に近い所だ・・皆、殺してしまう。
  ロシアの学者が明かす・・
  中国政府は、最近の20年間、大量の工作員をロシアに
 送り込み、
  ロシアの内政と外交を親中に誘導している・・と、
  チャイナ・ロビーの威力はすごい影響力がある・・と、
  アメリカもこれをやられている・・
  そして、日本もやられている・・
  官僚がやられ・・NHKなどは、『親中の放送だ』と
 はっきり分かるものがあるという酷さ・・、
.
1948年2月6日、GHQの内部文書「戦争についての罪悪感
 を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」が明らかに
 なった。
  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(
 War Guilt Information Program、略称:WGIP)を、文芸
 評論家の江藤淳氏が、その存在を明らかにした。
  この文書は、第二次世界大戦(大東亜戦争)終結後、
 アメリカを主力とする連合国軍最高司令官総司令部(G
 HQ)が行なった日本占領政策の一環としてやった日本
 人洗脳計画・・
  「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるた
 めの宣伝計画」である。
  1979年より、ウィルソン・センターで、アメリカ軍占
 領下の検閲事情を調査していた江藤氏は、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より「Draft
 of c/n, Subject : War Guilt Information Program,
 From : CIE, To : G-2 (CIS), : Date : 6 February
 1948」と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で、CI&E(民間情報
 教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛
 てに発せられたGHQの内部文書であると明らかにした。
.
1960年1月19日、新日米安保条約が発効した。
  日米安保条約は、1951年9月8日の日本との平和条約と
 同日にアメリカと署名された。
  そして、1960年1月19日に、日本とアメリカとの間の相
 互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効した。
  これによって、先の日米安保条約は失効した。
  ハンス・モーゲンソーの言葉・・、
  「同盟は、両国が共に強くなければ維持されない」。
  (参考)ハンス・モーゲンソー:1904年~1980年、ド
     イツ出身の国際政治学者。シカゴ大学教授。
  日米は、白昼夢(はくちゅうむ。真昼に夢を見ている
 ような、非現実的な空想)の様な同盟関係なのである。
  日本は、モーゲンソーの言う通り、今以上のしっかり
 した防衛力を構築しなければならない。
  そして・・、日米安保条約には・・、
  「日本が攻撃にさらされた場合、自国(アメリカ)を
 犠牲にしてまで、日本を守らなければならない」といっ
 た具体的な取り決めは無い・・、
  マクジョージ・バンディは・・、
  「アメリカの大統領は、たった一発の核弾頭が、アメ
 リカのどこかの都市に撃ち込まれる可能性を想像するだ
 けで、足がすくんで核戦争から逃げ出す」と言っている。
  (参考)マクジョージ・バンディ:1919年~1996年、
     アメリカの政治学者。ハーバード大学教授。
      ケネディ政権、ジョンソン政権の国家安全保
     障担当大統領補佐官。
  ハンティントンや、キッシンジャーや、マクジョージ・
 バンディは・・、
  「アメリカの政治家が、同盟国に対する核攻撃(核恫
 喝)に報復するため、核戦争を実行することなどあり得
 ない」・・と言っている。
.
1970年代、ソ連のモスクワの日本大使館に勤務していた日
 本の外交官が、ハニー・トラップに引っ掛かった。
  日本の重大な情報がソ連に盗まれた。
  これと付随して外国の情報も盗まれた。
  日本の大使館の電信官が狙われた。
  ソ連の秘密情報機関のKGBの仕業だった。
  この様に、日本の大使館の電信官が狙われる事件は、
 上海でも起きていて、
  この時は、この情報流出していた外交官は自殺した。
  このモスクワの場合は、この外交官が、東京の本省勤
 務になっても続いた。
  「ミーシャ」というコード・ネームが付けられた。
  本省勤務になった故、より重要ポストにつけられ、よ
 り重要な情報を扱った。
  ソ連のKGBは、KGB東京支局に、東京駐在のKG
 Bに、この「ミーシャ」専従として情報を奪う担当官を
 何人も付けた。
  この頃は、「ミーシャ」の名も「ナザール」に変えら
 れた。
  「ナザール」は、ソ連の最高級の監視と、運用体制が
 築かれ、おいしい情報が、長い期間、奪われ続けた。
  「ナザール」と名付けられた日本の外交官は、甘い「
 ハニー・トラップ」の他に、「大金」も報酬として与え
 られた。
  東京本省から、全世界の在外公館に出される情報、そ
 して、日本へ世界中から集まってくる情報の「ほとんど
 すべて」が、ソ連は奪う事が出来た。
  日本の暗号システムの情報もソ連へ奪われていた。
  「ナザール」の情報は、最も美味しい情報で、常に、
 ソ連・クレムリンのトップにまで伝えられ、報告された。
  この日本の外務省の大汚点は、ソ連KGBの歴史でも、
 最上級の成功事例とされている。
  特に、ソ連が美味しかった情報は、日米間に行き来す
 る極秘情報だった。
  ワシントンの日本大使館から、東京の本省へ送られる
 情報などだった。
  アメリカ高官の情報や米ソ関係情報、NATO関係の
 情報などが、ソ連へ奪われた。
  この大切な情報流出が止まったのは、お粗末な事に、
 偶然のことだった。
  日本は、それまで全く気付いていなかった。
  1982年に、ソ連KGB所属員が亡命したから、この事
 が分かったのだった。
  この1982年に、ソ連KGBの元少佐が、アメリカへ亡
 命して起きた「レフチェンコ事件」が起きた。
  アメリカ議会で証言し、多数の日本人エージェント(
 国家の秘密業務で働く者。スパイ)を使って政治工作を
 している実態を暴露した。
  この男は、レフチェンコは、1979年に、アメリカに亡
 命した。
  日本の被害も甚大だったが、世界各国へ及ぼした被害
 も甚大だった。
  世界は、「日本に対しては機密情報は流せない」とな
 った。
  日本外交が、「つんぼ桟敷」に置かれることになった。
  そしてまた、ソ連KGBの対外情報局文書課長が、イ
 ギリスへ亡命した。
  名は「ミトローヒン」。
  彼は、ソ連の抑圧体制に怒りを持った。
  また、共産主義の根源的な不道徳性に怒りを持った。
  彼は、、KGB本部の機密文書を少しづつ持ち出し、
 自宅に蓄積し、その文書とともに、亡命した。
  文書の量は、トラック1台分あったという。
  このミトローヒン文書が、1999年に出版された。
  この「ミトローヒン文書、第一巻」で、アメリカと西
 ヨーロッパをターゲットとしたソ連の工作活動が明るみ
 に出た。
  西側世界は、大騒ぎになった。
  そして、2005年9月に、「ミトローヒン文書、第二巻」
 が出版された。
  ここに、日本を扱った章に、KGBの対日工作の事例
 の数々が具体的に書かれていた。
  ここに「ミーシャ」の事が、事例として描かれていた。
  ミトローヒンは、2004年に死去した。
.
1985年、スパイ防止法が廃案となる。
  この年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関
 する法律案」が・・廃案となった。
  中国は、「スリーパーの達人」だから注意を要する。
  スリーパーとは「ヒューミント」とも言い、潜伏スパ
 イのこと。
  軍人や官僚などが狙われる。
  息子にも引き継ぐという「超・長期間」に渡って任務
 に就く。
  日本は、まったくと言ってよいほど、このジャンルが
 弱い。
  相手の国、ターゲットの国民を「スリーパー」とする
 が、杉原千畝の様に、日本人を送り込むこともする。
  杉原千畝は、ロシア人女性を妻に迎え、情報収集に努
 めたが、
  そして、ロシアから入国禁止処置を取られたが、
  杉原千畝の結婚した「ロシア人女性」は「二重スパイ」
 だったという話がある。
  逆に、杉原千畝が、スパイされていたという。
  今の日本には、強力な「スパイ防止法」が必要。
  (参考)国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する
     法律案(こっかひみつにかかるスパイこういと
     うのぼうしにかんするほうりつあん)は、
      1985年の第102回国会で、自由民主党所属議員
     により、衆議院に議員立法として提出されたが、
      第103回国会で審議未了廃案となった法律案。
      通称「スパイ防止法案」。
  現在、日本では、スパイ防止法のような、スパイ活動
 そのものを取り締まる法律が存在しない。
  そのため、ボガチョンコフ事件のような、スパイ活動
 事件を取り締まることができない状況にある。
  (参考)ボガチョンコフ事件は・・、
      ロシア連邦の情報機関であるロシア連邦軍参
     謀本部情報部(GRU)の工作官が、日本の海
     上自衛隊三佐に対してスパイ活動を行った事件
     で・・、
      ロシア情報の専門家であったH三佐は「とわ
     だ」の船務長等を務めてきたが、息子の看病の
     為に陸上勤務を希望し、呉第一潜水艦群司令部
     に移った後、1997年から防衛大学校の総合安全
     保障研究科(大学院)に所属し、ソ連海軍に関
     する研究を行っていた。
      そのような中、1999年1月に、防衛研究所が
     開いた「安全保障国際シンポジウム」の場でロ
     シア海軍大佐のビクトル・ボガチョンコフ武官
     は、H三佐に接触を図った。
      ボガチョンコフは、Hに寄り添うことから始
     めた。
      Hが、宗教へ入信すると共に祈ったり、家族
     旅行を支援したりして親密な関係を築いていっ
     た。
      更に、息子の葬儀には不祝儀を送り、共に涙
     を流した。
      打ちひしがれたHは、次第にボガチョンコフ
     と過ごす時間に安らぎを覚えるようになってい
     ったという。
      こうしてHは、段々とボガチョンコフに頼み
     に応じて自衛隊の書類や教本を渡すようになっ
     ていった。
  日本のスパイ防止法の制定賛成派は、この現状を、「
 スパイ天国」と揶揄する。
  スパイの黒幕は、ほとんどの場合、大使館の書記官や、
 駐在武官、つまり、外交特権保持者なので、逮捕はでき
 ず、可能なのはペルソナ・ノン・グラータ通告で「退去」
 「帰国お願い」をすることだけ・・、
  さらに、対象は、ロシア・中国などの「仮想敵国」の
 みで、中央情報局やアメリカ軍の情報部、イギリス秘密
 情報部など友好国の活動は一切咎められない。
  (一部、ウィキペディアを参考にした)
.
2001年1月20日、反日親中の大統領であるジョージ・W・
 ブッシュ(子)が大統領になった。
  アメリカ大統領には、明確に、反日親中である大統領
 が、実に、多い。
  以下の、7氏は、確実に、反日親中・・、
  第28代、ウッドロウ・ウィルソン、
      民主党(1913年~1921年)
  第32代、フランクリン・ルーズベルト、
      民主党(1933年~1945年)
  第37代、リチャード・ニクソン、
      共和党(1969年~1974年)
  第39代、ジミー・カーター、
      民主党(1977年~1981年)
  第41代、ジョージ・H・W・ブッシュ(父)
      共和党(1989年~1993年)
  第42代、ビル・クリントン、
      民主党(1993年~2001年)
  第43代、ジョージ・W・ブッシュ(子)
      共和党(2001年~2009年)
  以上の大統領は、明確な反日親中の大統領だった。
  中国が、ここまで経済的に大きくなったのも、また、
 軍事的にも大きくなったのも、これ等の大統領の政策が
 大きく影響している。
  アメリカは、まずいと見れば、ハンティントンの言葉、
 「さっさと西半球に引き上げてしまえばよい」の様に、
  西半球へと引き上げるだろう・・、
  日本は、当然、引き上げる訳にいかないから・・アメ
 リカの去ったあとの東アジアに取り残されるだろう。
  国を守ることを疎(おろそ)かにしていると・・日本
 は消滅するだろう・・バンドワゴンは長続きしないだろ
 う・・、
  (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
     政策を採り・・、
      そして、その逆に、中国に対しては有利に処
     し、そして、融和的な政策を採ること。
.
2010年、黒孩子(黑孩子、ヘイハイツ、ヘイハイズ)、ま
 たは、黒戸(黑户、ヘイフー)とは・・、
  中華人民共和国において、一人っ子政策に反して生ま
 れたために、戸籍を持つことができない子供のこと。
  この様な子供が、『億の人数(数千万から数億人)』
 が居るという。
  2010年に、中国国家統計局が行った人口調査では、戸
 籍を持たない人の数が総人口のおよそ1%にあたる約1300
 万人に及び、その大半が黒孩子だとみられている。
  俗称として闇っ子(やみっこ)という表現があり、一
 部報道では、この表現が用いられることもある。
  この言葉における黒は「闇」という意味で、これは政
 府の視点による言葉。
.
2017年9月3日、今まで、中国は、パキスタンを経由して、
 核技術とミサイル技術を、北朝鮮に譲渡して来た。
  そして、今日、2017年9月3日、北朝鮮は、核実験を行
 い、ICBM(大陸間弾道弾)へ核の搭載技術を完全に
 獲得したと発表した。
  技術を買うお客さんの北朝鮮の核開発を、開発しない
 ようにと、中国がする訳はなかった。
  中国自身が、北朝鮮へ核技術を渡しているのだから・・、
  中国が、恐れているのは、北朝鮮が、アメリカの勢力
 圏に入ること・・
  だから、中国は、北朝鮮に核を持たせた。
  「統一された朝鮮半島が、アメリカの勢力圏に組み入
 れられる事」・・これが、中国は怖いことで・・、
  そうであるから、
  「北朝鮮に核を持たせて、独立性を高めて、独立を維
 持させておきたい」と考えた。
  北朝鮮が、アメリカの勢力圏に入ったら、北朝鮮と中
 国の国境で、アメリカ勢力圏と接する事になってしまう
 という中国。
  日本が、韓国が、北朝鮮に飲み込まれて、38度線が、
 対馬海峡になることを恐れているのと同じである。
  中国にとっての理想は・・
  北朝鮮の独立性が保たれて居てくれれば、中国は、地
 政学的に有利になり、また、安全となる・・である。
  北朝鮮は、すでに、日本を直撃する弾道ミサイルを約
 300基所有している。
  核弾道のミサイル搭載技術は、2017年時点で、持って
 いるだろうと予測されていた(2017年9月3日、核実験が
 成功した模様)。
  枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
  国防をもっと真剣に考えなければいけない!
  緊急事態なのである!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・11月24日、民法・商法施行延期に関する法律が公布され
 た。
  1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本に
 おいて、
  旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期
 するか、または、断行するかを巡り、論争が展開された
 (民法典論争)。
  延期派は、1890年の旧民法・商法は、不平等条約改正
 を急ぐあまり、帝国議会開設前に編纂を完了してしまい、
 十分な審議が尽くされなかったとした。
  そして、延期派は、様々な批判をした。
  1889年(明治22年)5月の公布前に、イギリス法系の
 (旧)東京大学法学部出身者で組織される法学士会は、
 春季総会において、『法典編纂ニ関スル意見書』を発表
 した。
  そして、「拙速な法典編纂を改めよ」とした。
  また、さしあたりの緊急に必要のある事項に限って単
 行法として施行するにとどめ、そして、後日に、十分な
 審議を経た上で包括的な法典を完成させるべきだとした。
  そして、これを、内閣や枢密院に働きかけることを議
 決した。
  この意見書や議決の影響で、民法や商法の施行をめぐ
 って議論が活発化した。
  これが、民法典論争(商法も含む)のきっかけとなっ
 た。
  これに対する施行断行派の旧民法の編纂者の磯部四郎
 は、論文『法理精華ヲ読ム』を発表し、施行断行を訴え
 た。
  また、施行断行派のものとして井上操の『法律編纂ノ
 可否』があり、
  施行延期派のものとして、増島六一郎の『法学士会ノ
 意見ヲ論ズ』、江木衷の『民法草案財産編批評』などが
 ある。
  井上操は、関西法律学校の創設者であり、磯部と同じ
 くフランス法系の司法省法学校の出身であった。
  一方、開成学校の増島と、英吉利法律学校の創設者で
 ある江木は、(旧)東大法学部の出身であり、いずれも、
 イギリス法系の学校であった。
  1890年(明治23年)11月、第1回帝国議会が開かれ、産
 業界から商法の施行が早すぎ、対応がとれないとの理由
 で「商法実施延期請願書」が出された。
  すると、帝国議会は、1891年(明治24年)1月1日に施
 行予定の商法を、民法と同じ1893年(明治26年)1月1日
 施行に延期することを決定した。
  商法の施行延期が決定されたことで、論争はさらに勢
 いを増した。
  施行延期派からは、旧民法が自然法思想に立脚してい
 たことに対して、
  法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、
  憲法や税法と矛盾抵触するという批判、
  旧民法の条文が冗長で、無用の条文が多すぎ首尾一貫
 しないとの立法技術上の批判、
  欧米の最先端の理論を研究して民法を制定すべきなの
 に、最新のドイツ民法草案が全く検討されていないとい
 う批判、
  賃借権を債権ではなく物権と構成するのは学理・慣習
 に反するという批判、
  日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣に
 そぐわないという内容に関する批判・・などがなされた。
  日本の慣習・風俗に合わないということから、特に、
 激しく攻撃されたのは、親族法における非嫡出子の準正、
 相続法における限定承認の他、財産法における消滅時効
 等であった。
  (但し、いずれも大きな修正を受けることなく明治民
 法に継承された)。
  同年・1890年、帝国大学の憲法学者・穂積八束が、ド
 イツ留学から帰国すると、論文『民法出デテ忠孝亡ブ』
 を発表し・・、
  「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法ト
 ハ家ニ生マレタリ」
  「家長権ノ神聖ニシテ犯スベカラザルハ祖先ノ霊ノ神
 聖ニシテ犯スベカラザルヲ以ッテナリ」・・と説き、
  法による権利義務関係を否定し、日本伝統の家父長制
 度を否定する婚姻を基調とした家族法を批判した。
  この論文は、そのタイトルのため、最も注目を集め、
 民法典論争の象徴ともいえる論文となった。
  施行を翌年に控えた1892年(明治25年)、法典論争は
 ピークに達した。
  論争は、法律論にとどまらず、資本主義経済の矛盾の
 問題、国家思想や国体の位置づけなどにも及び、商法典
 論争と相まって一種の政治対立の様相さえ呈するように
 なった。
  そして、同年・1892年5月、第3回帝国議会において、
 民法典論争は、政治的な決着がはかられた。
  貴族院議員・村田保によって、民法商法施行延期法案
 が貴族院に出された。
  断行派議員と延期派議員との間でも激しい論戦が繰り
 広げられた。
  第二読会において、延期派の発議により、原案に「但
 し、修正を終りたるものは本文期限内と雖(いえど)も
 之を断行することを得」とする但書を加えた上で、圧倒
 的賛成多数で、貴族院を通過させた。
  むしろ、財産法こそ問題であると説く富井政章の演説
 が大きく寄与したとも伝えられている。
  衆議院では、妥協案として、断行派から家族法部分の
 みを施行停止とし、財産法については断行するという修
 正案が出されたが、原案通りの延期論が賛成多数で可決
 するに至り、ここに民法典論争は決着した。
  その後、施行延期派から、富井に加え穂積陳重(穂積
 八束の兄)、施行断行派から梅謙次郎という3人の帝国大
 学教授が、法典調査会の委員に選任され、
  第一編から第三編の財産法については、旧民法の根本
 的修正を基本方針として、ドイツ民法の草案や、他にも
 「30か国に及ぶ他の国の民法をも参照して」、現行の民
 法(明治29年(1896年)法律第89号)が起草され、
  1898年(明治31年)になって施行された。
  なお、第四編・第五編の親族法・相続法については、
 外国人に対しては適用が無い為、不平等条約の交渉に支
 障が少ないということで、後日、別個に議会に提出して
 成立するという形を採った(明治31年法律第9号)。
・11月25日、千島艦事件(ちしまかんじけん)がおきた(
 11月30日説あり)
  これは、日本軍艦の沈没の補償をめぐり日英間で紛争
 した事件だった。
  1892年11月25日、水雷砲艦・千島(750トン)が、フラン
 スで建造され、フランスから神戸へ回航中、瀬戸内海(
 愛媛・松山沖)で、イギリス汽船ラベンナ号と衝突して
 沈没した。
  乗員74名が殉職した。
  日本政府は、イギリス船に不当航海の過失があったと
 して、翌年・1893年5月、その所属会社のP&O汽船会社
 を相手どって、85万円の損害賠償を要求して、横浜のイ
 ギリス領事法廷に出訴した。
  それに対して、イギリスの会社側は、逆に、10万円の
 損害賠償を求めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求を不当として、反訴を却下し
 た。
  そのため、会社側は、上海の領事法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は、第一審判決を破棄し、会社側
 を支持した。
  日本の世論は、その不当性と、日本政府の処置を非難
 して湧いた。
  反政府の諸派は、議会内外でこれを利用し、第二次伊
 藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対し、対外硬運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年(明治28年)7月、イギリス枢密院が、上海領事
 法廷の判決を破棄し、横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、再び、横浜領事庁で開かれることになった。
  そして、ようやく、3年後の1895年9月に至り、和解が
 成立した。
  会社が、訴訟費用を持つほか、英貨1万ポンド(邦貨9
 万円余円)を支払って・・事件は決着した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKなどのマス・メディアは偏向している。
    国を危うくしている。
.
1937年8月、上海での戦いが拡大して行った。
  7月末に日本の将兵が殺害される「大山事件」が発生す
 るなど、不穏な状況が拡大していた。
  卑劣な事に、この様な事件が相次いでいた。
  8月13日には、中国軍が攻撃を開始した。
  第二次上海事変と言われるこの戦いも、中国軍の攻撃
 から始まった。
  そしてまた、8月14日には、中国空軍は、上海の爆撃も
 実施した。
  日本軍基地だけではなく、一般市民の居住している租
 界地も爆撃され、一般市民が死んだ・・
  また、歓楽街も爆撃された。
  日本軍は、対応せざるを得ないとし、膺懲(ようちょ
 う、こらしめること)するとした。
  「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」
  この日・1937年8月15日、中国軍の国民政府軍の蒋介石
 は、全面戦争の対日抗戦総動員令を発令した。
  この中国の国民政府軍は、『アメリカの支援』を受け
 て、非常に攻撃的となっていた、好戦的になっていた。
  大軍で上海を包囲した・・、
  また、支援された豊富な軍需物資を持った上海包囲軍
 だった。
  (大量の物資で支援するから日本と戦いなさいという
 様な状況だった)
  天皇陛下は、この時に限らず、常に、「避戦」の考え
 であられた。
  常に、「戦争の不拡大」を口にして居られた。
  この時もそうで、戦局の早期解決を口にして居られた。
  しかし、状況は、天皇陛下の御心の様には進展しなか
 った。
  日本の軍部には「戦争不拡大派」と、「拡大派」があ
 った。
  天皇陛下の御心を受けた「不拡大派」の者たちも居た
 が・・、
  この中国の挑発行動を受け、南京への進軍を是とする、
 支那軍を懲らしめるとする派(進軍派)が居た。
  ここで、大きく判断を誤らせたのがNHKはじめ新聞
 などのマス・メディアの存在と、その論調だった。
  マス・メディアは膺懲論で世論を構成し国民を煽った。
  マス・メディアに煽られた世論は熱狂し、進軍派を勢
 いづかせた。
  軍部の戦争不拡大方針の不拡大派の意見は、小さく聞
 こえる状況となった。
  NHKはじめ新聞などのマス・メディアや国民は熱狂して
 南京進軍を支持した。
  さも、今・現代(2017年)のテレビの昼のニュース・
 バラエティ番組のごとく世論を煽った。
  毎日、毎日、洗脳的に政権批判をやって・・視聴率が
 取れるんだからと・・自分の懐具合しか考えない輩たち
 の放送が続くという2017年の煽りの様だった・・
  国民は、そのマス・メディアの影響下にさらされて、
 進軍に興奮した。
  軍部の不拡大派の声は、もはや、届かなくなっていた。
  攻撃的な、そして、好戦的な中国があったとはいえ、
 この様に、国の方針が冷静に考えられない状況の中で、
 天皇陛下のお声も耳に入らなくなっていた。
  1937年12月には、日本軍は中国軍を追撃し、中国・国
 民政府軍の首都・南京を目指した。
  これは、中国軍の誘いの作戦だったのかもしれない。
  中国軍は、中国奥地へ逃げる(撤退)する手をよく使
 う。
.
2013年4月9日、反日放送ばかりをするNHK。
  今・現代、中国が、膨大な金を使って世界中にプロパ
 ガンダをしていると言うのに、日本の公共放送のNHK
 は、その逆で、「日本を売ってばかりいる」。
  反日行動をとっているNHKとなっている。
  NHKのインターネットサイト「NHK映像サイトみ
 ちしる」で・・、
  NHKは、「日本海」の表記に、日本政府や日本国民
 の見解と異なる「東海」を併記した。
  NHKは、日本の政府や国民の意識と反する、韓国が、
 急に主張し始めた表記を・・、
  「NHKよ! 韓国のメディアですか?」と言いたく
 なる様な、また、疑いたくなる様な行為を行なった。
  常識があるなら、『やってはいけない』この様な事を、
 NHKはよくやる。
  NHKは、言い訳を言っているが・・、放送でも「やっ
 てしまえば得」という『やり得的な事』を、よくやるN
 HK」となっている。
  時間は戻せない、放送してしまった放送は消せないと
 いう・・放送してしまえば、こっちのものだ的なことを、
 繰り返すNHKとなっている(無反省の確信犯)
  NHKは、トンチンカンな釈明をした。
  「グーグルから提供されたので(良いと思った)、悪
 意は無い」・・だった。
  しかし、しかし、その「グーグルには、その様な表記
 はなかった」。
  また、NHKは、「竹島」や「尖閣諸島」の『日本の
 表記を消す』という事も、やっている。
  『日本の主張点を消す行為』をしている。
  ここまでやるNHKとなっている。
  悪意あるNHKとなっている。
  この件は、既に、1年前の2012年4月に、国際水路機関
 (IHO)は、「日本海」の単独での呼称と決めている
 のだ。
  この事は、NHKも知っている訳だ。
  「従来の日本海のままにする」ことを決めている。
  もう一度言うが・・NHKも知っている訳だ。
  国際水路機関は、世界の海図や海、海峡の名称などを
 調整する重要な機関である。
  放送の機関として、「重要な名称」のうちでも最重要
 なこと・・真っ先にマークしなければならないのに・・
 NHKは、こんな事ばかりしている。
  NHKは、インターネットの場で金を取らないこと!
  NHKは、反日報道機関である・・尖閣諸島の時もそ
 うであるが、「日本の領土である竹島」を表現するのに、
 「日本と韓国が領土権を主張する竹島」と、わざわざ、
 竹島の言葉の前に、変な言葉を付けて言っている。
  ならば、NHKを、「反日的表現をするNHK」と言
 ってもらいたい。
  韓国は、小学生の教科書に、韓国のものだと書き、洗
 脳教育をし、刷り込みしているのにである。
  歌まで作って歌い、クラブ活動までさせている。
  この件について、日本の国民の方々は、NHKへクレ
 ームを殺到させた。
  NHKは、やっと、この抗議の嵐に・・「日本の島根
 県の竹島」と言い換えた。
  この様な体質のNHKなのだ。
  だが、NHKという体質は、ほとぼりが冷めると元に
 戻すから、注意を要する。
.
2017年7月28日、NHKのネット配信について・・
  NHKに、高市早苗総務相が、クギをさした・・
 「ネットは補完業務である」と。
  (以下、産経ニュースを参考にした)
  高市早苗総務相は28日の閣議後の記者会見で、テレ
 ビ番組のインターネット常時同時配信を計画するNHK
 の上田良一会長に宛て、
  「放送の補完的な位置づけとすること」などを要望し
 た文書を送ったと明らかにした。
  ネット配信を「本来業務」として扱おうとする動きを
 牽制(けんせい)した。
  高市総務相は、上田会長の諮問機関が出した受信料に
 関する答申案について・・
  「(視聴者に)利益を還元するという観点がない」な
 どと批判した(まったく、その通り)。
  総務省は、NHKへの不信感を強めており、NHKが
 目指す平成31年からのネット常時同時配信は不透明さ
 を増している。
  要望は・・、
  (1)ネット配信を補完的な位置づけとし、具体的な
     ニーズを明確化しなさい。
  (2)既存の業務全体について公共放送として適当か
     検討しなさい。
  (3)子会社のあり方についての抜本的な改革をしな
     さい・・以上の3点。
  高市総務相は「3要件を満たすことで、議論の環境が
 整う」と述べた。
  NHK幹部は、今月の総務省での会合で、「(ネット
 配信は)将来的には本来業務」と発言した。
  民放各社が猛反発したため、上田会長は産経新聞など
 とのインタビューで「あくまで幹は放送だ」と述べるな
 ど「火消し」に動いていた。
  一方、上田会長の(お手盛りの)諮問機関は、ネット
 視聴者からの受信料徴収が適当としたが、3要件を満た
 せなければ、常時同時配信実現への道筋がさらに険しく
 なるのは必至。
  高市総務相は、ネット常時同時配信を可能にする放送
 法改正について、「現段階では議論が煮詰まっていない」
 と強調した(永久に煮詰まるな!)。
  ・・ここで・・
  「庶民の声」
  ・NHKの受信料は廃止にしてもらいたい。
  ・NHKは、公共放送としての資質を欠く点が多い。
  ・NHKの公共放送としての立場は適当でなく、公共
   放送としての立場を取り消してもらいたい。
  ・NHKは、高給取りで、自分たちばかり良い思いを
   していて、まったく視聴者還元をしていない。
  ・NHKは、自分たちの事ばかり考えている放送局だ。
  ・ネットにまでNHKが進出すると、NHKアレルギ
   ーの人たちの逃げ場が無くなる。
   NHKの居ないネット社会で安心して居たい。
  ・NHKは、膨大な小会社を持っていて、利益を配っ
   ている・・そして、支配力を誇示している。
   小会社は甘い汁に群がっている(孫会社・ひ孫会社
   まで群がる)
  ・NHKは、働かない職員が多い・・1年に何日働いて
   いるのと聞きたいくらいだ。
  ・NHKに都合の良い諮問をする機関を作って「お手
   盛りをしている」。
  ・NHKは解体してもらいたい。
  ・NHKは、民間放送局にNHKの映像などを提供し
   て、便宜を図って恩を売っている、そして、支配力
   を構築しようとしている。
   だから、民間放送局はNHKにゴマすりしている。
   NHKを批判する民間放送局はない。
   民間の本音は、NHKの見方はしたくない。
  ・NHKは、公共放送の枠を吐き出し過ぎだ。
  ・NHKの民営化で出来る部分を探れ。
  ・NHKの巨大な権力を二分せよ。「NHK東京」と
   「NHK大阪」の様な二極体制にせよ。
  ・NHK受信料は1/3にせよ。それでできる訳だ。
  ・NHKは、分割民営化せよ。
  ・NHKは、公益部分とそれ以外で割れ。
  ・NHKは、最近、特に、偏向報道が酷い。
  ・NHKの酷い報道は、「障害者殺害犯が、犯行前に
   トランプのスピーチを聞いて影響された」とNHK
   が報道するように、トランプ下ろしをするNHKで、
   酷い反トランプの報道をした。
  ・NHKは暴走している。
  ・NHKは、でかいビル建てて、身内還元に精を出し
   ている。
  ・NHKは、電波を独占している割に、くそな番組を
   流して強制的に受信料を取っている。
  ・NHKはスクランブルをせよ!
  ・NHKはマスゴミ化している。
  ・NHKの高給を貰っているアナウンサーが物価の事
   を言うな。高くて買えないとか・・。
  ・傲慢なNHKの金城湯地(きんじょうとうち、非常
   に守備がかたい城)を何とかしてくれ!
  ・NHKが過去に制作した全作品は国民の所有権と決
   めよ。
   NHK職員が勝手に処分するな。
   また、都合の悪いものを処分している。
  ・NHKの最上階は個人宅はおかしい。
  ・NHKの金が入っているNHKの小会社が電通に乗
   っ取られている。
  ・NHKは、北朝鮮からニュースを購入して金を払っ
   ている。そして、それがミサイル資金になっている。
  ・NHKの作り直しをせよ!
  ・NHKは、中国をよいしょする番組制作姿勢を取っ
   ている。
  ・NHKは間接的に電通に支配されている。
  ・NHKの番組制作の委託を受けている「NHKエ
   ンタープライズ」は「総合ビジョン」に番組制作を
   丸投げしている。孫請けをしている。
   「総合ビジョン」の株主は電通とNHKという関係。
  ・NHKは、電通の利益供給団体となっている。
  ・電通の利益の一部がNHK役員の報酬となっている。
  ・NHKは中立であるどころか左寄りである。これで
   は、公共放送ではない。
  ・NHK職員は、受信料でボロ儲け、平均年収1800万
   円。
  ・NHKの報道は片寄った偏向のし過ぎだ。
  ・NHKを初め、テレビの作られた報道などで、テレ
   ビを見る人がなくなっている。
  ・なぜ、NHKは、倒閣運動をするのだ。
  ・NHKは、権力に溺れている、調子に乗っている。
   国の為にならないNHK。勝手な判断で偏向報道し
   ている。そして、反日になっている。
  ・NHKスペシャルの反日姿勢はひどい。
  ・NHKは、はやぶさが帰って来た時に放送しなかっ
   た。日本の技術の大成功を放送しなかった。完全に
   無視した。
  ・NHKは、偏った考え方で取材し、放送するから、
   日本兵の悲惨さだけが出て、8月になると、日本を結
   果的に貶めている。「悪かった」と言う兵士の話だ
   けの話で編集して放送する。
  ・なぜ!NHKは、シナ人による日本人虐殺の非道や、
   ロシア人による日本人に対する悪逆非道を放送しな
   いのか?
  ・NHKは、731部隊が犯罪を行ったが如き番組を
   流したが、NHKは、どうしてシナ人らの悪行三昧
   を番組化しないのか?
   そんなに日本を貶めたいのですか?
   貶めて、一体何がしたいのですか?
  ・NHK好みの目的の証言だけで編集する。だから反
   日的に作られる。それ以外はカットする。
  ・NHKは、「日本は正しい事をしようとした」とい
   う証言なんかはまったく放送しない。すべてカット
   している。「アジアの独立を日本が助けた」なども
   カットする。担当者・当事者が漏らしている。
  ・NHKは、戦争を煽ったことに口をつぐんでいる。
  ・NHKは、中国や韓国の言い分だけをズーット繰り
   返して放送を行っている、慰安婦、南京は中国・韓
   国の言い分ばかり、だから公共放送ではない。
  ・NHKは無駄遣いが多すぎる。
  ・NHKの大リーグ放送は、アメリカに金を恵んでい
   る行為だ。
  ・NHKはWOWOW方式のスクランブルにせよ。
  ・NHKの見られないテレビも売るシステムにせよ。
   NHKなんか見たくない人の選択肢も作れ。
  ・NHKの公平性を考える議員の会ができて50名くら
   いが集まった。代理を入れたら100名近くになった。
   この様に問題になるくらい公平性が無い放送局とな
   っている。
  ・NHKスペシャル、ジャパンデビューはひどい番組、
   偏向番組、日本を貶める番組。
  ・NHKは、台湾の方々を反日にしようとした。取材
   も偏向している。公平性が無い。それが事実のよう
   に錯覚させている。
  ・NHKの偏向番組によって損害を受けた国民のその
   損害を、NHKはその損害をカバーし補償するよう
   にせよ。
   NHKを訴えられるようなシステムを構築せよ。
  ・NHKが、反日的という事はズーット続いている。
   その改善策の・・
  (1)権力が巨大すぎるからだ。分割せよ。
  (2)NHKへのクレームを受ける専用窓口を行政機
    関に設ける。NHKは、クレームの取り扱いを軽
    視し、捨てている、廃棄している。
.
2017年、国民が、NHKを訴える権利を行使できるような
 社会体制の構築を望む。
  NHKへ、いくら悪い所を指摘しても直らない。
  そこで、思い至ったのが「司法へ訴えたい」という気
 持ちである。
  司法へ訴える方策を取りたいのだが、ここでネックに
 なるのが、「原告の立証責任」。
  NHKの放送を見た結果において、「酷いNHKの番
 組だった」と思う訳で、NHKを見た後の結果論だけと
 なってしまう。
  前もって録画などしていない。
  そして、投書欄にいくら抗議しても直らないNHKに
 対して、司法に訴えるにしても、前記した原告の立証責
 任がある。
  そこで、考え至ったのが、図書館施設が、NHKの放
 送内容の記録を保存するようにする。
  図書館が、書籍の保存・保管をする様に、放送映像な
 ども保存・保管するようにする。
  図書館が建てられているその位置で、その位置での受
 信記録を残すようにする。
  今は、非常にコンパクトに記録を保存できる機器があ
 るので出来ると考えている。
  そして、国民が閲覧もできるようにし、
  また、前記した国民の訴える権利を行使するときにも、
 その立証責任の資料提供もできる図書館としたい。
  図書館の証明付きでその資料が得られるようにしたい。
  国民が費用負担して、図書館の発行した立証責任資料
 でもって提訴できるようにする。
  NHKへ、抗議を重ねたが、まったく改まらないので、
 NHKの放送を見ることが出来なくなるというNHKに
 対して「忌避アレルギー」が出るようになった。
  NHKの放送が普通の状態で見られなくなった。
  この様にひどいNHKなのである。
  大きく番組全体で日本を貶める場合もあるが、ジャブ
 の様にあちこちでちょこちょこと日本を貶めることをよ
 くやる。
  今、前記した様に、NHKへの抗議のシステムは機能
 してない。
  どうでもよいことは「NHKは、直すかもしれないが」、、
 「NHKイデオロギー」と言うべき核心部分は、絶対に
 NHKは直さない。
  この部分こそが、NHKを直して行かなければならな
 い所であって、その1つが「NHKは、よく日本を貶める」。
  この様な番組が非常に多いNHKとなっている、しか
 し、いくら抗議をしても直らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・清国の不穏な動きと軍拡に、日清戦争に備え軍備を進め
 た。
 「眠れる獅子」と言われた清国が、着々と軍拡をしてい
 た(今・現代も・・そうだが・・)。
 日本は、長崎で、その軍備の威容を見せつけられ、街に
 出た中国兵は、横柄な態度を見せ、また、横暴な行為を
 した。
 それは、まさに、日本を見下した行為だった。
 しかし、悲しいかな・・弱小の日本は、強い行動にも出
 られなかった。
 議会の野党は、軍事力への予算配分に反対し、また、厳
 しい緊縮財政下にも置かれていた。
※1873年(明治6年)に、日本は、徴兵制となった、しかし、
 まだ、海軍は沿岸警備程度だった・・
 しかし、国策としては国を富ませて、国を守ろうという
 意気に燃えた「富国強兵」策だった。
※1876年(明治9年)~1879年(明治12年)、清国は、日本
 を意識し、300~400トンの砲艦8隻という大量の艦船を
 イギリスから輸入した。
※1878年(明治11年)、日本は、「扶桑」「金剛」「比叡」
 の3艦の甲鉄艦(2284~3777トン)が就役し、艦隊も作っ
 て行った・・が・・、
 排水量は、清国と、ほぼ同等ではあったが、しかし・・
 日本は、旧式艦や木造艦が大半であった。
 この点で、日本は、清国に、大きく劣位にあった。
 日本は、軍艦建造において、失敗艦も作ったりして、財
 政のない中、苦しくも無駄もしていた。
 1881年(明治14年)~1882年(明治15年)に、清国は、
 ドイツに、装甲艦2隻を発注し、
 1885年(明治18年)に、この大艦は到着した、「定遠」
 と「鎮遠」で、どちらも7335トン、30.5センチ砲4門とい
 う立派さで、
 主砲は、艦首方向へ向くという最新技術を持って、射撃
 性能も重視していた。
 また、この後、清国は、急速に艦数を増やした。
 装甲巡洋艦2隻(「来遠」「経遠」)、巡洋艦4隻(「致
 遠」「靖遠」「超勇」「揚威」)を、イギリス・ドイツ
 に発注し、1887年(明治20年)までに就役した・・、
 1888年(明治21年)には、堂々とした北洋艦隊を作り上
 げた。
※1887年(明治20年)から、日本は、砲台建設を本格化し、
 防衛力を高める構築をした。
※1888年(明治21年)に、日本は、イギリスの技術を本格
 的に入れようと決定した・・これが、日清戦争に間に合
 った。
※1891年(明治24年)7月に、清国の北洋艦隊の主力艦6隻
 が、日本の品川港に入港し、その大きな格差を見せつけ・・
 そして、威嚇した。
※1893年(明治26年)4月~7月に、日本の参謀次長の川上
 次長が、清国の軍事状況を偵察した(思ったほどではな
 いという感触を得て帰国した)
 「畏るるに足らざることを確信」・・と、
 しかし、日本の軍関係者に、勝利を確信できるものは居
 なかったようだ・・しかし、日本の偉かったのは、この
 時の日本には、自国軍の力(相手の力と比較して)を冷
 静に見る姿勢・合理的判断があった。
※1894年(明治27年)6月に、山陽鉄道が、広島まで営業運
 転開始し、順次、輸送(出師・すいし)体制が整って行
 った。
※1894年(明治27年)、まだ、軍需生産が不十分な状態で、
 また、海外派兵をして戦えるかという問題があった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係だけ』である。
.
紀元前12世紀、この頃まで、レバノンのピブロスは、地中
 海の東岸で、最も栄えていた。
  この時、エジプトから「パピルス」が、地中海各地に
 輸出され、ギリシャ人は、これを得て文明が栄えた。
.
紀元前814年、カルタゴが築かれた。
  フェニキア人は、シチリア島の対岸に位置するチュニ
 ジア北部に、植民市・カルタゴを築いた。
.
紀元前27年、最初のピラミッドが建てられた。
  レバノンの特産品は「レバノン杉」。
  乾燥地のエジプト、メソポタミアは、森林資源に乏し
 く、神殿や宮殿の建築用材として、このレバノン杉が使
 われ、レバノンから大量に輸入された。
  この意味から、レバノンは、交通の要衝となった。
  紀元前27年に、最初のピラミッドが建てられたが、エ
 ジプトは、この時から、レバノンから木材を買った。
.
354年11月13日、アウグスティヌス(キリスト教神学者)が
 生まれた。
  アウグスティヌスは、教父と呼ばれ、キリスト教徒が
 尊敬するなの人だが、
  「ローマ没落は、異教徒たちの罪だ」と、異教徒のせ
 いにして、罪に落とした。
  このアウグスティヌスが意識した異教徒の『異』につ
 いて・・、
  思考の成熟してない未成熟集団に於いて・・、
  年端(としは)の行かない子たちの様な学級に於いて、
  または、未熟な宗教に於いて、その洗脳の中にいる集
 団に於いて、
  殊更(ことさら)に、「目の前の現存する違いを指摘
 する」、またそして、無用に「指摘される」。
  それは、「いじめともなり」、また、「内政干渉」と
 も言われて・・世に存在する。
  言う方は、「その違いが気になるから、言うのだろう
 が」・・「指摘するのだろうが」・・、
  言われて、指摘された方だって、悪いと思ってやって
 いる訳ではない・・また、持って生まれたものでもある。
  悪い様なことを、ことさら、自らする訳はない。
  しかし、適度に指摘する程度で、その話が、行為が、
 終わるのなら良いが・・また、善き忠告ともなるのだろ
 うが・・、
  程度の悪い虐(いじ)めとなると、その行為は世の害
 となる・・
  それは、しつこい虐(いじ)めになり、
  宗教の違う者たち「異」へ・・「異教徒は殺せ」と、
 キリスト教は教義として決めて、異教徒を殺した。
  このキリスト教の教義の様に、「命まで取れ」と神の
 指示となる。
  洗脳して、されて、悲惨な状況が現出する・・ここに
 至れば事は重大となる。
  「いじめ自殺」や「殺戮行為に対する混乱」へ、そし
 て、「戦争へ至る」・・
  発端は、単なる『違い』・・それを、「容認するか?」
 「口に出すか?」から始まる。
  人類の歴史で、悲しく悲惨な、一番の汚点は・・キリ
 スト教が「肌の色の違い」を気にしたこと・・、
  キリスト教は、「肌に色を持つ人種」を蔑視した・・
  卑劣な「有色人種へのキリスト教の蔑視感の植え付け」
 は、南米での大虐殺を発生させた・・現地からの問い合
 わせに、バチカンは「人ではない」と言った。
  アウグスティヌスも、アフリカのエチオピアの方たち
 へこれをやった。
  このあたりの発端から大虐殺、戦争などなどが、人類
 の歴史に、累々と存在している。
  「個性的だと、おおらかに容認することが出来ない宗
 教・・キリスト教」・・この卑劣な行為で、大きな罪を
 背負った・・多くの方々が抹殺された・・
  「異教徒は殺せ」「魔女は、生かしておいてはならな
 い」・・このキリスト教の教義が、人類を悲しみの歴史
 中に置いて来た・・長く続いた異端審問・魔女裁判・・
  そして、キリスト教裁判所で行われる卑劣な拷問の数々・・、
  今・・一神教のように・・一つにするのだと・・グロ
 ーバリゼーションを洗脳し、ある特定の金持ち組織が儲
 かるシステムを展開し・・世界に定着させようとしてい
 る・・そのシステムで儲けた金をふんだんに使って、世
 界展開をしている・・、
  多様性の良さを理解できなくて、排除している宗教・・
  自然において、多様性が存在し、その調和の中に、豊
 かさが成り立って、人類へ、幸を、幸福を、与えている。
  このことが理解できない宗教・・また、その信仰者た
 ち・・
  違いを認め合い、尊重し合う所から・・人類の豊かさ
 と幸せが始まるという事が・・理解できない・・
  あちこちに生まれ出(いずる)違いある生物・・その
 万物が・・人類の幸せを作っている・・
  キリスト教は、以下の様に教える・・
  聖書のあちこちで、繰り返し説かれ、洗脳的に記述さ
 れている『1例』・・(申命記7章1~2節)
  あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを
 導き入れ、
  多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、
 カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、および、エブスび
 と、
  すなわち、あなたよりも数多く、また、力のある七つ
 の民を、あなたの前から追い払われる時、
  すなわち、あなたの神、主が、彼らをあなたに渡して、
  これを撃たせられる時は、あなたは、彼らを全く滅ぼ
 さなければならない。
  彼らと何の契約もしてはならない。
  彼らに何のあわれみも示してはならない。
.
1065年、中国で「資治通鑑(しじつがん)」が編纂された。
  「資治通鑑」は、中国北宋の司馬光が、1065年の英宗
 の詔により編纂した。
  編年体の歴史書で、『温公通鑑』『涑水通鑑』ともい
 われ、1084年に成立した(全294巻)
  もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』
 と改名され、
  収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・
 趙の自立による戦国時代の始まりから・・、
  959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至る
 までの1362年間。
  この書は、王朝時代には、司馬光の名と相まって、高
 い評価が与えられて来て、また、実際の政治を行う上で
 の参考に供すべき書として作られた。
  「貞観政要」などともに、帝王学の書とされて来た。
  また、司馬光当時の史料が散逸したものが少なくない
 ため、貴重な史料とされている。
  この「資治通鑑」を17回も読んだとされる毛沢東は、
 大躍進政策を行ない、約2000万人の農民を餓死させ・・、
  文化大革命で、3000万人以上の知識人や富裕層を死に
 追いやった。
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150404-00000016-pseven-cn&pos=1
  中国が言っている「南京虐殺」とは、日本人を虐殺し
 た「通州事件」のことではないのか?
.
1535年、敵を殺さない荒木村重が生まれた(~1586、51歳)
  居城は、有岡城で兵庫県伊丹市にある。
  東西0.8キロ、南北1.7キロ。
  織田信長に反旗を翻した武将、黒田官兵衛が、この城
 に幽閉された。
  信長の包囲攻撃に、10ヶ月耐えて落城する。
  その前に、村重は、脱出。
  残された一族らは捉えられ命を絶たれた。
  信長の死後、村重は、豊臣秀吉に茶人として使え、天
 寿をまっとうした。
  一人生き延びた村重の評判は良くない。
  「脱出したのは援軍を求めるための行動」と弁護の声
 もある。
  「降伏した敵を殺さず、命を大事にした稀有な戦国武
 将で、文人としての素養も高かった」と弁護する声も。
.
1920年3月~1920年5月、尼港事件(にこうじけん)で日本
 人が虐殺された。
  ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月~5月にかけて、
 アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在の
 ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した。
  赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件で・・、
  ロシア・中国・朝鮮などのパルチザン部隊が、ニコラ
 エフスク住民に対し、略奪・処刑を行うとともに、
  日本軍守備隊に、武器を捨てよと、武器引渡を要求し
 た。
  これに対し、決起した日本軍守備隊を、中国海軍と共
 同で殲滅した。
  そして、さらに、老若男女の別なく数千人の市民をも
 虐殺した。
  殺された住人は、総人口の半分に達し、6,000名を超え、
 日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含ん
 でいた。
  この卑劣な虐殺行為は、国際的な批判を浴びた。
  日本人犠牲者の総数は、判明しているだけで731名に
 のぼり、ほぼ皆殺しにされた。
  また、建築物は、ことごとく破壊され、ニコラエフス
 クは廃墟と化した。
  札幌護国神社などに殉難碑がある。
.
1937年7月29日、日本人が虐殺された通州事件(つうしゅう
 じけん)
  通州(現:北京市通州区)において、中国人部隊が、
 日本軍と日本人居留民を襲撃し、殺害した。
  日本の通州守備隊は、包囲下に置かれ、日本の通州特
 務機関は壊滅した。
  街の中は修羅場で、女性は、子供と言えども、ほとん
 どが強姦されて殺害され、また、朝鮮人慰安婦も殺され
 た。(町で商売していた朝鮮人慰安婦で・・従軍慰安婦
 ではない、朝鮮人の女衒が国の朝鮮に帰って、狩り集め
 て来た女性たち・・)
  (注)女衒(ぜげん)は、若い女性を買い付けて、遊
    郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身
    売買の仲介業で、人買いの一種、多くの朝鮮人・
    女衒が中国などあちこちで商売をしていた。
  そして、この事件の殺され方に於いて、200人以上にお
 よぶ猟奇的な殺害(書くことも躊躇し気後れするが、陰
 部などがえぐり取られるなど陰湿な殺害)が、中国人部
 隊により行われた。
  池は血で赤く染まった。
  通州虐殺事件とも言う。
  また、東京裁判に於いて、弁護団が、この事件の証拠
 を提出して、日本だけを悪いことにしようとする裁判は
 おかしいと、弁護しようとする方針を打ち出し、行動し
 たが、東京裁判の裁判長は不公正にも却下した。
  東京裁判は、明らかな予断(よだん、前もって判決を
 予想し判断すること)のもとに行われた裁判で、不公正
 きわまりない裁判だった。
.
1945年、韓国が、日本を、歴史問題で『嘘をでっち上げ』
 て、日本を貶(おとし)めようとしている・・、
  また、新たに・・、
  日本が、戦争中に、朝鮮人労働者を虐待し、虐殺し、
 奴隷労働をさせたと言い出した(2017年)
  この話が、デッチアゲ話と分かる事実は・・、
  戦争が終わった1945年(昭和20年)に、朝鮮人労働者
 は朝鮮に帰った・・が・・、
  しかし、日本での労働が『非常に恵まれていた』ので、
 大勢の朝鮮人労働者が・・『万単位の大勢の朝鮮人労働
 者が、再び、日本に密入国までしようとした(もう一度、
 その職業に就きたいと・・)』。
  日本の好条件の労働に就きたいと密入国をした。
  この様に、『日本での労働が好待遇であるからこそ、
 再び、日本に密入国しようとしたのであって・・、
  韓国の言い出している話は、『日本を貶めようとする
 だけの作り話』である。
  日本は、韓国人労働者を虐待などしていないし、また、
 虐殺などしていないし、奴隷的な労働もさせていない。
  韓国のやることは、皆、この様に『嘘の話を作り上げ
 ているのであって』、慰安婦の場合も、この様な作り話
 なのである。
  この事について・・
  九州大学の三輪宗弘教授は、朝鮮人労働者の虐待、虐
 殺、奴隷労働が、現代韓国人の作り話であることは、
  1945年(昭和20年)の段階で、一旦朝鮮に帰った労働
 者が、再び、日本に戻ろうとした事実を見れば明らかだ
 と述べた。
  三輪教授は、アメリカ国立公文書館の「Illegal
 Entry of Koreans」という統計データから、1945年(昭
 和20年)段階で、1万人近くの朝鮮人が、日本に密入国し
 ようとして捕まり、送り返されていたことが分かると指
 摘した。
  そして、「奴隷労働や虐殺が行われていたとしたら、
 なぜ、再び、日本に密入国してまで戻ろうとするのか?」
 「説明できない」・・と語る。
  どこの国の方々もそうであるだろうが、厳しい環境か
 ら抜け出せたのなら、もう再び、元の状態に戻ろうとす
 る訳がない。
  そこが、好待遇で、居心地が良かったからこそ、元の
 日本へ密入国しようとした。
  日本の歴史においても、ソ連に、不法に抑留された日
 本人が、帰国したあと、再び、密入国してまでソ連に戻
 ろうとしたであろうか・・絶対にあり得なかった。
  万単位の朝鮮人が、帰国後、再び、日本に戻ろうとし
 たのは、日本での方が豊かに、そして、より平和に暮ら
 せると考えたからで・・、
  奴隷労働や虐殺とは無縁の世界が日本だったというこ
 とだ。
  にも拘らず、なぜ外務省は、日本が朝鮮人労働者を虐
 待したとして、そのことを発信する情報センターを作る
 などと約束したのか?
  なぜ、日本の外務省は、自ら敗北へと転んでいくのか?
  歴史問題で、日本を追及しようとする韓国や中国の悪
 意を日本外務省は認識すべきだ。
  韓国が求める情報センターを設置して強制連行があっ
 たとすることは、慰安婦問題と同じ失政を繰り返すこと
 になる。
  (櫻井よしこ氏のブログを参考にした)
.
2016年8月19日、ケント・ギルバート氏の発言 ‎@KentGilbert01
  インドネシア女性大臣 中国の違法船をだ捕し150隻を
 爆破「遊びでやってる訳じゃない」
   http://temita.jp/twitter/34900  
  やるべきことをやらない日本は、国際法を軽視してい
 るとも言える。
  (説明)2014年に就任したインドネシアの女性大臣・
     スシ・プジアストゥティ海洋水産大臣が、拿捕
     した違法中国船を、次々と爆破し、就任以来150
     隻以上となった。
.
2016年、アメリカ経済は、今後、長期的な低成長モードに
 入り、2016年~2025年頃に、財政危機、通貨危機を引き
 起こす可能性が高い。
  凋落するアメリカに、日本を守る「パワー」は無くな
 り、余力は無くなり、
  反対に、中国が、世界第一位の経済力と軍事力で・・、
 その前の素手(すで、何も持ってない)の日本は、中国
 に手も足も出ず、なすすべなくしているしかない。
  尖閣諸島だけでなく、沖縄も危ない・・そして・・
 (北海道?)・・
.
2017年8月20日、中国の世界戦略・・「北朝鮮の核」の背後
 で勢力拡大・・
  この様な表題の論説が、この日の読売新聞に記載され
 ていた・・以下は、その抜粋・・、
  世界は、今、21世紀の新しい勢力均衡に向けて、最終
 局面に入ったかに見える。
  現状変更を仕掛けるのは、世界第二の経済力をエンジ
 ンに軍事力を強化している中国である。
  (注:中国は、世界一の座にあることを、この論説の
 筆者は見落としている)
  西に巨大経済圏構想「一帯一路」、東に「太平洋を米
 中で二分割」という二正面での世界戦略を掲げている。
  中国は、すでに、チベット、新疆ウイグルを抑え込み、
 南沙・西沙諸島、尖閣諸島など、多くの地域で、各地各
 様の緊張や争いを起こしている。
  いずれも、二正面戦略の一環と見られよう。(中略)
  中国をハートランドとして、ユーラシア大陸、アフリ
 カ大陸に広がる「中華共栄圏」を建設する構想だ。
  その特徴は、民主主義、自由主義、法治主義、人権尊
 重といった価値観を標榜(ひょうぼう)することなく、
  (注:その通り、共産中国の最大のいかがわしく、信
 用できない所である)
  巨大な経済力と軍事力により、支配権拡大を志向する
 点にある。
  一帯一路の「後詰め(ごづめ、後方に待機している軍
 勢)」とも言えるのが・・海洋進出である。
  中国は、久しく米国に対抗すべく海・空戦力の増強、
 近代化を進めて来た。
  今や、空母複数隻の建造や、潜水艦隊の増強などが注
 目されているが、
  太平洋・インド洋への進出の意思表示だろう。
  (最終目標は、中国と米国で太平洋を二分する)
  これと表裏一体の関係にあるのが、北朝鮮の核兵器・
 ミサイル開発である。
  中国は、それが北朝鮮の独走だとしつつも、実効的な
 制裁には『常に反対して来た』。
  平仄をあわせる(ひょうそくをあわせる=つじつまを
 合わせる)ように、核兵器・ミサイルの狙いは、日本・
 在日米軍基地、および、米国本土であり・・、
  韓国は、いつでも火の海にできると北朝鮮は宣伝する。
  それが米韓、日韓、日米の分断に一定の効果をもたら
 す。
  すなわち、北の核兵器・ミサイル開発は、中国の太平
 洋戦略のための『地ならしの役割』を果たしている。
  中国は、軍事力の強化と一帯一路構想の巨大さで、世
 界を驚かせているが、
  中国の実力と自信の発露なのか、
  それとも、国内の矛盾から目をそらすための爪先立ち
 なのか。
  日本としては、今こそ、冷静に現実を直視し、浮足立
 つことなく日米同盟にしっかりと腰を据えて成り行きを
 見極める必要があろう。(中略)
  (中国は、急速な経済成長を遂げて来た、しかし)、
  貧富の差が拡大し、失業者や無戸籍者も多数発生した。
  これらの人々の不満を吸収するためには、高い経済成
 長率を維持する必要がある。
  国営企業が、その担い手となったが、世界経済のデフ
 レ傾向と、中国自身の賃金上昇により・・成長は、大幅
 に鈍化するに至った。
  政府の計画に従って国営企業が増産すると、不良在庫
 が累増し、企業内余剰人員がますます増大するという悪
 循環にも陥っている。
  一帯一路は、経済的には、インフラ建設に名を借りて
 失業者と不良在庫を、国境外に排出すること、
  戦略的には、対象地域内の要衝を中華支配体制に組み
 込むことを目的に、構想されたものと考えられる。
  インフラ建設の支援という名分で、失業者を国境外に
 送り込むやり方は、
  国内問題を国外に転嫁する際の常套(じょうとう)手
 段である。
  また、鉄道、道路、港湾などの投資効果のうち利用者
 負担で回収できるのは一部に過ぎない。
  大部分は、保有国の財政負担となる。
  中国は、借款(注:中国が貸すかたち)と、
  自らが主導する国際金融機関「アジアインフラ投資銀
 行(AIIB)」による融資を組み合わせて、海外に資
 金提供する方針だ。
  しかし、返済が困難になったり、滞ったりする場合に
 は、担保として、戦略的に重要な港湾などを、中国の支
 配下に置くことを視野に入れているとされる。
  この意味で、一帯一路は、形を変えた『植民地主義』
 とも言える。
  いずれの場合でも、受け入れ側の政府、住民との間に
 軋轢(あつれき、人の仲が悪く、あい争うこと)を生み、
 国際問題に発展するだろう。
  結局のところ、一帯一路は、国内の社会問題を転嫁す
 るために、中国側が打ち出した窮余の一策であり、
  あり余る力の発露とは見られない。(中略)
  一方、北朝鮮は、今や、相当数の核兵器を保有し、
  米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)を完成す
 るに至ったと見る専門家も少なくない。
  かくして、米国の核抑止力によってもたらされるアジ
 ア太平洋の安定的均衡は、破綻の瀬戸際にある。
  北朝鮮は、中国からの食糧や燃料供給なしには生存で
 きず、
  中国の経済援助なしには核兵器・ミサイル技術も獲得
 できない。
  中国は、その気になれば、いつでも北朝鮮を抑えられ
 る立場にあったが、これまで力を行使しなかった。
  自らの太平洋進出に有用と考えて、北朝鮮に食糧・燃
 料を供給し、
  核兵器とミサイルの開発を財政的に支援し続けて来た
 のだろう。
  国際社会には、核を放棄するように北を説得するポー
 ズを見せる事で、『時間稼ぎ』をしたのだとも考えられ
 る。
  悪役は北朝鮮に背負わせて、日韓両国を揺さぶり、日
 米韓を分断するという詭計(きけい、人をだます計略)
 は、これまで、一定の戦略的な成果を上げてきたとみる
 ことができる。
  ここに至る経緯は、中国が、北朝鮮の核兵器・ミサイ
 ルを自国にとっての脅威ではないと考えていることをう
 かがわせる。
  すなわち、いつでも、北朝鮮を説得し、核開発を放棄
 させられることを、中国は自覚しているのではないだろ
 うか。
  つまり、国際社会は、これからは、中国を正面の交渉
 相手とし、
  中国が、自らの問題として、自らの影響力で、北朝鮮
 に核兵器を放棄させるように、中国への直接の圧力も辞
 さない覚悟で迫って行くことが肝要だ。(中略)
  これまで、習氏を信頼して、中国の北朝鮮説得に期待
 をかけて来た米国も、ようやく両者が共生の構図だと気
 づいたように見える。
  中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係
 だけ』である。・・完・・
  (参考)天動説:キリスト教が憐れにも説き、そして、
     信じた説で、
      地球が、すべての中心で、太陽などのすべて
     の宇宙が、地球の周りを回っていると説いた。
      この間違いを科学的に説明したガリレオを、
     逆に、キリスト教は虐げた。
      キリスト教裁判は最悪だった。
      ガリレオは「それでも地球は回っている」と
     言った。
      この事例の様に、中国は、実現できない絵空
     事である「地球上のすべてが、中国の周りを回
     っている」と考えているという譬(たとえ、引
     き合いに出すこと)
  (参考)ハートランド:地政学の用語で、ハルフォー
    ド・マッキンダーが、『デモクラシーの理想と現
    実』の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地
    帯と呼んだことに始まり、後に、ハートランドと
    改めた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、災害・防災:
・4月10日:東京・神田で大火、1万5000戸が焼失した。
(4000戸の焼失・・説あり)
 4月9日(大火が起きた前日)午後9時頃から、東京に激し
 い北西風が吹き始める。
  夜中(4月10日、午前0時半頃)、神田区(現・千代田区)
 猿楽町一番地の飲食店・宮本周蔵の物置から出火、母屋
 をひとなめにした。
  その炎は消えず・・一つは小川町通りを、一つは表神
 保町通りを、一つは錦町通りを、
  たちまち、三方に分かれ急速に東南へ向け燃え広がる。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目が、あっという間もなく
 全焼した。
  炎は、さらに、錦町一丁目から美土代町一、二、三丁
 目へ、また、三河町一、二、三丁目へと・・、
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛び、堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町と灰にした。
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超え、ついに、日
 本橋区(現・中央区)本銀町へ飛んで、本石町二丁目の大
 半を焼失。
  午前9時半になって、また、残り火が烈風にあおられた。
  そして、ふたたび襲いかかり、皆川町、旭町、ろうそ
 く町、関口町も猛火の中で灰と・・、
  その後も、炎は、東へ進み、永富町、新石町、竪大工
 町、上白壁町と、次々と進んだが、一つは、今川町の堀
 割で止まった。
  そして、一つは、鍛冶町の大通りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸が焼失。
  小川町警察署、神田区役所をはじめ、
  万世橋直間税分署、東京法学院(現・中央大学)、東京
 英語学校(現・日本学園中、高等学校)、錦城学校(現・錦
 城学園高等学校)、松茂小学校、三省堂、熊田活版所、東
 京電灯会社第四電灯局、パノラマ館・・などの主要な建
 物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内、その大半を出した小川町勧
 工場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)で
 は、出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、
  出口が表と裏の2か所しかなく、18人が逃げ遅れて死亡
 した。
  (参考:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
・足尾鉱毒事件について、田中正造が、衆議院に質問書を
 出した(栃木)
  田中正造は、1890年、第1回衆議院議員総選挙に栃木3
 区から出馬し、初当選した・・そして・・
  1891年、鉱毒の害を視察し、
  1892年6月3日、第2回帝国議会で、鉱毒問題に関して質
 問を行った。
  毎日新聞(6月5日)によると・・、
  本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は、
 北海道殖民開拓に関する施政方針、北海道官有物払下、
 北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、
 北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、
  同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、
 同鉄道始末に対する件に付、
  同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する
 件に付き、
  同月同日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害の件、及
 び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、
 釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付
 き以上の質問書を提出したるに、
  政府は、未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、
  「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直
 ちに答弁を為し、又は、答弁すべき期日を定め、若し答
 弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」・・とあり、
  黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁
 をなさず、
  又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於
 て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
  以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責
 任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日 質問者 田中正造
          賛成者 塩田奥三 他2名
・7月25日:徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災
 害となる。
  (1)、1892年7月25日午後2時頃、保勢山の中腹が幅
 300m、長さ800mにわたり崩壊して、海部川を堰き止め
 た。
  崩壊により北岸の山麓にあった3家族11人、及び、山稼
 ぎ36人は、家屋とともに生き埋めになった。
  田畑4町歩も埋没した。
  海部川を堰き止めていた土砂は26日午後7時頃に崩れ、
 下流は大災害となった。
  平井には保瀬大崩壊の碑が建っている。
  (2)、1892年7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとな
 った。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  (3)、1892年7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川上
 流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が起
 こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  (4)、1892年7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発生
 し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万立
 米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  (四国災害アーカイブスより)
.
1892年、その他:
・久六島鮑(あわび)岩の帰属問題で青森・秋田の漁民が
 争った。
  青森県西部、艫作(へなし)崎の西方約30キロメートル
 の日本海上にある無人島で、上の島、下の島、ジブの島
 と呼ばれる三つの岩礁からなる(青森県西津軽郡深浦町)
  島名は、難破船から救助された水夫の名によるとか、
 漁夫の名によるとかいう。
  付近は、ホッケ・アワビ、海藻などの漁場。
  16世紀末より、アワビ・サザエ・イカなどの漁場とし
 てきていて、1786年に、船問屋が発見したとも伝えられ
 る。
  好漁場であるため、青森・秋田両県で、50年にわたり
 帰属をめぐり争っていたが、
  1953年、青森県深浦町に帰属、秋田県に入会(いりあい)
 権が認められた。
  津軽国定公園に含まれ、1959年に、光達距離12.5カイ
 リの無人灯台が建てられた。
  (伝説)明治時代、久六島に、島を発見した九六が、
 この島に漁に出かけようとして遭難したという伝説が残
 っていて、
  西津軽郡の人々で、探検を企てようとする人はいなか
 った。
  ただ、男鹿半島の漁民が、時々、偶然に風の都合で久
 六島に流され、そこで、たまたま多くの漁獲を得る程度
 であった。
  1890年、福島県から新しい漁具(潜水具など)と漁夫を
 率いて能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門は、久六
 島探検を決意し、7月22日、能代を出航した。
  23日、西風に流されて艫作に上陸、そこで、新妻は、
 久六島の伝説と方向や位置を漁民から聞き、
  午後6時に、艫作を再出航して、久六島に到着し、27日
 にわたって大いに漁獲を得た。
  新妻は、午後6時に、能代に向けて出航したものの、風
 に流されて深浦村に上陸、そこで、久六島の魚影の豊富
 さを村人に話した。
  以後、村人たちも因習を改め、以後、秋田や青森の漁
 民が久六島を訪れるようになった。
  一旦、明治時代に、青森県が、単独で久六島の漁業権
 を得るものの、抗議を受けてそれが取り消される事件も
 あった。
  明治以来、秋田、青森両県の間でその帰属に関して紛
 争が続いたが、
  1953年、自治省の告示で青森県深浦町への地籍編入が
 決定した。
・衆議院議員総選挙で、高岡郡斗賀野で国民派と破壊派壮
 士500名が乱闘をおこした(高知)
  高知県下に保安条例が施行された。
・7月6日:アメリカでホームステッド・ストライキ(暴動)
  カーネギーの製鋼所で暴動が起きた。
  アメリカのカーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼
 工場における組合弾圧により、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起った。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社の
 社長に就任するとともに労働組合の破壊を決意し、賃金
 の引下げを計画した。
  300人の会社防衛隊が雇われ、ホームステッドで労使は
 対決し、70人以上の死傷者が出た。
  会社は、8000人の民兵の出動を州知事に要請、
  軍隊の出動によって、労働組合は壊滅し、他の製鋼会
 社もその労働協約を破棄するにいたった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の長期的な戦略目標は・・、
   「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
   「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
.
1894年、懐中時計の製作に成功(服部時計店)
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことが斬
 新な品揃えとして、評判が立つようになった。
  当初は、輸入に頼り、仕入れた時計は飛ぶように売れ
 た。
  国産時計は、1892年に、服部金太郎が作った精工舎で
 始められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘し、
  明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町に
 仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させ、
  清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
.
1945年8月9日、対ソ防衛戦
  アメリカと戦っている日本に、ソ連が突如として攻め
 て来た。
  満州国において、1945年(昭和20年)8月9日未明に開
 始された日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行
 われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と・・、
  日本の第五方面軍と、ソ連の極東ソビエト連邦軍との
 間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦
 闘。
  この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定付ける事と
 なった。
  日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘
 を「対ソ防衛戦」と呼んでいる。
  このソ連の終戦間際に行った行為は、結論から言えば、
 論理的に『正当性は成立しない』。
  日ソ間には、「日ソ中立条約」が結ばれている状態で
 ある。
  そして、「日本は、事実上、敗戦が決定していて、戦
 争は終結している状態」である。
  例えば、イラク戦争で、アメリカとイラクが戦争をし
 て、イラクが負けたが、
  そのイラク戦争で、イラクが負ける直前に、第三国が、
 イラクに宣戦布告をして、イラクの首都のバクダッドを
 占領したら・・、
  バクダッドは、その第三国の占領物・占領した領域と
 なるのか?
  なる訳はない。
  それは、強盗行為である。
  犯罪である。
  また、隣の家に強盗が入って、その家の人が、強盗と
 やり合っている時に、第三者が入って行って、その家の
 物を盗る・・その行為を正統化できるか?
  出来る訳がない。
  盗みの行為である。
  犯罪である。
  だから故に、先に記したソ連の「南樺太、千島列島、
 北方四島」の日本の領土へのソ連の侵略は成立しない。
  強盗行為なのである。
  今・現在の現状は、不法行為の結果なのである・・不
 法占拠なのである。
.
1953年、アメリカが、民主主義を実行していたイランで、
 CIAの工作によるクーデターを起こして、独裁制を押
 し付けた。
  これは、アメリカによる、イスラム教徒の不必要な迫
 害・抑圧であり、イスラム教世界と「文明の衝突」現象
 を作り出してしまった。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2003年3月20日、イラク戦争
  アメリカが、レバノン侵略(1982年)を盲目的に支援
 し、虚偽の口実を捏造して、イラクを侵略・占領した。
  アメリカは、この様な、イスラム教諸国と数々の紛争
 を起こし、「文明の衝突」現象を作り出した。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2010年、中国の実質経済規模が・・世界一となった。
  アメリカは、2位に転落した。
  米ソ冷戦(東西冷戦)は、日本の貢献度大で、アメリ
 カが勝利し、1991年に、ソ連は崩壊した。
  ソ連の統制経済の社会主義体制と社会主義経済圏が崩
 壊した。
  そして、ロシアが誕生したが・・一極体制とはいうも
 のの・・「借金だらけのアメリカ」という『あだ花』が
 咲いた・・
  そして、資本主義経済・市場経済のグロバリゼーショ
 ンの進行を見たが・・が、しかし・・、
  結局、経済競争は、2010年頃には、日本が『中国』に
 抜かれ、そして、『アメリカも』、中国に抜かれた。
  ただ、「抜かれた、ああ、そうか」では、この話は終
 わらない。
  1996年~1997年に、アジア諸国とロシアは経済危機に
 おちいった。
  この時、IMFを支配するアメリカは、これら諸国に
 対して強大な権力を行使する事が出来た。
  (アメリカの御機嫌を損なったら、IMFから融資を
 受けられない・・というシステム)
  しかし、IMFの投票権は、参加国の実質経済規模に
 比例して割り当てられている。
  故に、アメリカの実質経済規模が、世界一の座を下落
 したアメリカは、IMFの拒否権行使の権利を喪失した
 ことになった。
  中国の世界一は、堂々としている。
  「食料と鉱物資源とエネルギーの消費量」が世界一、
  そして、中国は、「金属産業」の規模も世界一である。
  同様に、「化学産業」の規模も世界一で、「住宅産業」
 も世界一、
  そして、「家電産業」も世界一、「運輸産業」も、「
 造船業」も、
  そして、「流通業」も、そして、「自動車市場規模」
 も世界一。
  そして、世界の「鉄生産」の48%を、中国一国で消費
 している。
  そして、「外貨保有量」と、毎年の国内の「純貯蓄額」
 (資本蓄積量)も世界一・・、
  アメリカ政府の国際通商委員会のチーフ・エコノミス
 トであったピーター・モリシ(メリーランド大学教授)
 は・・、
  「(世界一の借金国)アメリカは、中国に国債(米財
 務省証券)を買ってもらわないと財政破綻(はたん、物
 事が、ほころびて、つくろえないというように、立て直
 しも手詰まりになること)してしまう」・・と言った。
  そして、また、「アメリカ大統領は、中国の前で、(
 国債を買ってください)と頭を下げないと、経済運営が
 できない」・・と言った。
  中国の発言権を、アメリカは無視できない立場にいる。
  そして、この格差は・・広がるばかりなのである。
  そして、世界の叡智は予測する・・
  『アメリカは、今後、破綻(はたん、物事が修復しよ
 うがないほどうまく行かなくなること)する。
  2016年~2025年頃に、財務危機、通貨危機を引き起こ
 す可能性が高い』・・と・・、
.
2017年、アメリカを抜いて、世界一の経済大国になった中
 国は、北朝鮮を支援して、核ミサイルを持たせた。
  今まで、世界一だったアメリカは、「日本には、絶対、
 核は持たせない」とやって来た。
  そして、今・現在、『核とミサイルを持った北朝鮮』
 は、アメリカ領グァム島の周辺海域に、ミサイルを飛ば
 す計画だと言った。
  中国と北朝鮮の両国は、「核とミサイル」を持ってい
 る。
  日本は、「刀狩り」と言って、すでに、400年以上も昔
 に庶民から武器を取り上げた。
  アメリカは、今・現在でも、銃を取り上げられないで
 いる・・銃を無くせないでいる。
  アメリカの社会の中には、銃があふれている。
  銃を無くそうと言っているが、どうしても、社会から
 銃を無くせないでいる。
  そして、今、地球は、どうやら、核だらけの地球にな
 る気配・・、
  アメリカで、銃が無くせない様に、地球から核兵器が
 無くせない・・様だ・・、
  アメリカでは、時々、忌(い)まわしい銃の乱射事件
 が起きて、殺される人、亡くなられる方々が出るが・・、
  今後、地球上に・・この様に増えた核ででも、その銃
 の事件の様な、突然の『忌まわしい出来事』が起きるだ
 ろう。
  銃の場合の様な、一人とか二人とか、10人とかという
 話ではなく・・核の場合は・・、
.
2017年、中国は、完全に・・『経済的にも』、アメリカを
 凌駕(りょうが、他のものを越えてそれ以上になること)
 した。
  あらゆる面で、中国は、アメリカの真似をして来た。
  その真似をして来た中国が、アメリカを追い抜いた。
  また、中国は、軍事的にもアメリカを越した。
  今までアメリカは、自国の主張をして来る国だった。
  中国も、この点まで、アメリカの真似をするだろう。
  アメリカは、「守ってやるよ」「はい、お願いします」
 と、世界に自国の軍を展開して来たが、これも、中国は
 真似するだろう。
  すでに、中国は、世界のあちこちに軍事拠点を作って
 いる。
  アメリカと中国の「二重の軍事カバー領域」が重なる
 地球・世界となる。
  かつてのソ連とアメリカは、領域は接しても、重なる
 ことはなかったが・・ ・・、
.
2017年、「異教徒は殺せ」というキリスト教の考え方が、
 今の、現時点の、状況を作っている。
  「相手の生存を認めない」というキリスト教のこの教
 義。
  この考え方は、完全に間違っている。
  だが、キリスト教徒は、マインド・コントロールされ
 て、洗脳されて、その間違いに気づかない。
  逆に、正しい行為と思う所が『恐ろしい』。
  キリスト教に強く洗脳させられたブッシュは、この考
 え方で、イラクを滅亡させ、トップのフセインを殺した。
  アメリカのブッシュ大統領は、「現代の十字軍だ」と、
 言ってイラクを攻めた・・キリスト教に洗脳されて、そ
 の様に行動をしているという事を示した。
  そして、このキリスト教に洗脳されたアメリカのブッ
 シュ大統領は、北朝鮮も、この滅んだイラクとフセイン
 と同じ「テロ国家だ」と言った。
  次に、イラクのように、北朝鮮を攻める意味を示した。
  北朝鮮は震え上がった。
  異教徒の生存を認めないその考え方・言葉に震え上が
 った。
  生き残る道を考えた。
  相手は、キリスト教に染まった「異教徒の生きる道を
 認めない考え方の者たち」、
  生き残るにはどうすればよいか?・・と・・、
  ミサイルが成功し、核実験が成功し、その時に喜びの
 放送が流れた。
  「将軍様、ありがとう」という言葉だった。
  それは、「助かった」という安堵(あんど、物事がう
 まく行って安心すること)の言葉だった・・のだろう。
.
2017年、アメリカは、養われている国である。
  アメリカ国債を買ってもらって帳尻を合わせている国
 である。
  普通なら自己破産で、存在しえない状況なのだが・・
  その様な国が、何故、出来てしまったのか?
  それは、心底での国を思う気持ちが希薄だからである。
  グローバリズムだなんて言って筋を通しているようだ
 が、結局は、グローバリズム優先で、国を疎(おろそ)
 かにしている。
  その様な国が、何故、存在していられるのか?
.
2020年、今から3年後・・アメリカ経済の実質規模が、『
 17兆ドル』程度と予想されている。
  これに対し、この時の・・中国の実質経済は、2020年
 には『30兆ドル』以上と・・、
  アメリカの1.7倍という『2倍』に手が届くぐらいに、
 拡大していると予測されている。
  『圧倒的な中国優位』の状況となっていると・・、
  アメリカの成長が見込まれない理由・問題点は・・、
   1、戦後生まれのベビーブーマの大量引退。
   2、医療費の重荷・・医療費の過大化。
   3、人口のヒスパニック化。
   4、アメリカ国民の6割が貯蓄をしない無貯金状態。
  アメリカは、軍事費に予算を廻せない状況となる。
  中国との競争が出来ないアメリカとなる。
  今、トランプ下ろしをやっている時ではないのである。
  そして、アメリカのトランプ下ろしの陰には、この「
 中国のマネー」がある・・??
  そして、中国の長期的な戦略目標は・・、
  「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
  「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
  実際、「アメリカが、東アジアから撤退する」ことを
 予測するアメリカの学者は・・大勢いる・・
  ハンティントン、ミアシャイマー、フリードバーグ(
 プリンストン大学)、レイン(テキサスA&M大学)、
 ペイプ、マンデルバウム(ジョンズ・ホプキンス大学)、
 カプチャン(ジョージタウン大学)・・などは・・
  「アメリカは、いずれ、東アジア地域の支配権をあき
 らめ、ギブ・アップせざるを得なくなるだろう」・・と・・
  キッシンジャーやブレジンスキー・・も・・
  「中国が、アジアの覇権国となることは、もう避けら
 れない」。
  「アメリカ政府は、中国の覇権を認めて、対中国融和
 政策を採るべきだ」と言っている。
  日本は、加計学園問題なんかに、いつまでも関わって
 なんかいないで・・、
  「日本の立ち位置の検討」・・、
  「自分の国は自分で守る」ことに・・
  真剣に 討議せよ!
  イギリスの様に・・原潜と核は必要!!
.
2025年、中国の経済規模が、世界の『30%』を占める・・
 また、インドの経済規模も、『15%』を占める。
  アメリカ政府の情報機関が、2008年末に公開した「国
 際政治の予測レポート『グローバル・トレンド2025』」
 に・・、
  そして、国際構造は「多極化」していく。
  今後、20年間の国際関係に最大の影響を及ぼす国は、
 中国であろう。
  今から200年前、中国の中国の経済規模は世界経済の30
 %、インドの経済規模は15%だった。
  中国とインドは、以前の経済的な地位を回復する過程
 にある・・と・・、
  因みに、600年代~1830年までの1200年間、中国の経済
 規模は世界最大だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、発明:
・5月22日:歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
・9月:下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允が実用化した爆薬(炸薬
 として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた)で、日露戦争
 当時の日本海軍にも採用され、日露戦争(日清戦争には
 間に合わなかった)には大いに活躍し、大戦果の一因と
 なった。
 1905年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を
 粉砕した一因は。この火薬の成果。
 因みに、フランスに派遣された富岡定恭は、「フランス
 で新型火薬と言われる火薬」のサンプルの微量を、爪の
 中にすり込んで日本に持ち帰った。
 この微量のサンプルを分析した結果、この下瀬火薬と同
 様のピクリン酸であると判明した・・下瀬火薬の発明が
 先んじていた。
・10月4日:乾電池の発明
 屋井先蔵(やいさきぞう)が、世界で初めて、完全な乾
 電池を完成させ、特許を出願した。
 発明時期は不明。
 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及して
 いなかったこともあって、しばらくは売れなかった。
 1894年に日清戦争が勃発し、満州で使用されていた軍用
 の乾電池の大成功に関する号外記事が掲載された。
 従来の湿電池では、液が凍結したため、満州では使用で
 きなかったが、屋井の乾電池だけは使用できた。
 1910年に、合資会社・屋井乾電池を設立した。
 神田区錦町に販売部を新築し、浅草神吉町に、乾電池の
 製造工場を設けた。
 そして、乾電池の本格量産にとりかかった。
 筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確
 立した。
 屋井乾電池は、海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電
 池界のシェアを掌握し、屋井は「乾電池王」と言われた。
.
1892年、医・衛生:
・2月:東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立された。
・6月17日:東京・下渋谷(広尾)に、日本赤十字病院(本
 社病院)が新築され、開院した。
・天然痘が流行し、全国で1万人近くが死亡した。
・福沢諭吉の援助で伝染病研究所が出来、北里柴三郎がそ
 の所長となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:その重大な転機における課題に取り組んでいるトランプ大統領・・
    そのトランプ下ろしをやるアメリカは、現時点は・・、
    その様な時ではないという『深刻な事情』に目を向けるべきだ。
.
1895年4月23日、三国干渉
  急速に力を付けた日本・・明治28年の時である・・
  日清戦争の、まさかの日本の勝利だと世界は思った・・、
  そこで起きたのが・・
  列強各国の、弱小日本への三国干渉・・、
  三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年4月23日に、
 フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対
 して行った。
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  日本の勝利で終わった日清戦争。
  その、日本と清の間で結ばれ、合意された下関条約・・、
  その条約に基いて・・約定(やくじょう、約束して定
 めること)して・・日本に割譲された遼東半島を・・
 おい!それはよせよと・・くちばしを入れたのである。
  日本は、遼東半島を取らないで、取り上げないで、「
 清国へ返せよ」「返還しろよ」と言った・・そういう内
 容だった。
  そこには、ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな
 欲をかいていた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張りに欲張って、朝鮮へも
 影響力を拡大したいと思って行動していた。
  ロシアとしての言い分は・・朝鮮は、ロシアのウラジ
 オストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると、
 ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理屈・・そして、
 その可能性を防ぎたいと・・
  また、それは、逆に、今時点に例えれば、日本にとっ
 て、38度線が対馬海峡になる様なもの・・
  ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両岸を抑
 える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラジオス
 トク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるというロシア
 の論理が・・理屈があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と・・
  だが、前記した様に、朝鮮半島をロシアが占領すれば、
 圧迫されるのは日本も同じだった。
  今の現時点で、「緊迫した38度線が、対馬海峡になる」
 と想像すれば・・その不安・・危険度・・それと話は同
 じだった。
  そして、この1895年の三国干渉の影響から、朝鮮政府
 は、『反日となり』また『親露となった』・・その様な
 勢力が台頭して行った。
  そして、また同様に、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の
 朝鮮進駐を希望するようになった・・そして、1896年2月
 には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この様な中で、この状況を解決するために努力がなさ
 れた。
  そして、日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』
 が締結された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう旨が合意された。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道・・同様の行為を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れ
 た。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(満州はロ
 シア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と中国東
 北部・満州の境を流れる川)では、アレクサンドル・ベ
 ゾブラーゾフらのロシア貴族が、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので強
 硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気
 を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で、ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、
 「日本に、ロシアと戦争する勇気などあるばずがない」
 としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
.
1899年(明治32年)、義和団の乱
  宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を
 助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げて、山
 東省で蜂起した。
  (1900年6月20日~1901年9月7日説あり)
  義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば『鉄
 砲も刀も怖くない』という迷信を持った人々の集団で、
 山東省に始まった暴動は、清国全体に広まった。
  外国勢力に美味しい汁を吸われる民衆の鬱積(うっせ
 き)した不満が下地にあった。
  特に、この外国の武力を後ろ盾にしたキリスト教勢力
 (傲慢な宣教師など)の行動は反感を買い、排外的な機
 運が高まった。
  トラブルの解決に「武力による威嚇」が用いられる事
 が多く、キリスト教会側に有利に妥協させられ、処理さ
 れることが多かった。
  そのため義和団は、キリスト教会を焼き、キリスト教
 徒を殺すという『反キリスト教運動』を行なった。
  民衆の間には、外国人は、官僚より三等上という認識
 が広がっていた。
  民衆は、外国人に、ぺこぺこと平身低頭せざるを得な
 い自国の官僚への失望感が拡大していた。
  そして、義和団は、破産させられた農民と結び付き、
 急速に発展して行った。
  (「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオ
 ン」ともいう)
  1900年になると、反乱集団は、キリスト教徒を殺害し、
 キリスト教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、
 北京にまで至った。
  乱が、たちまちの内に全土に広がって、外国人にとっ
 て、さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられ
 た。
  また、この列強の侵略は、中国支配層の中にも対立す
 る集団を作り出した。
  この対立は、守旧派と洋務派という構図で・・、
  守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたい
 こう)らの満州人貴族層が中心で、
  洋務派は、列強が懐柔して、力を伸ばした李鴻章らの
 漢人の大官僚たちであった。
  守旧派の清国政府は、乱の鎮圧がしきれないのを知り、
 逆に利用し、彼らを応援し、列強諸国や洋務派に対抗し
 た。
  義和団の勢いが良いと見るや、清国政府の実権を握っ
 ていた西大后は、義和団の味方をして、清国軍を派遣し、
 北京の公使館や天津の租界を攻撃した。
  また、農村の自衛組織を義和団に組み込んだ。
  短期間に河北全省、満州、蒙古(もうこ)に拡大し、
 キリスト教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、
 マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。
  そして、清国は、北京に公使館を置く列強諸国に、1900
 年6月、宣戦布告を行なった。
  これにより、北京では、公使館のある区域が義和団に
 包囲され、そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しにされる危
 険が生じ、その危険が迫った。
  そこで、8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍
 に合同で立ち向かうことになった。
  8か国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイ
 ツ、ロシア、イタリア、オーストリア・・、
  総司令官には、ドイツ人のガスリーが就任した。
  約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は、首都北京及び紫禁城
 を制圧し、乱を鎮圧した。
  西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚
 した。
  守旧派に代わって実権を握った洋務派は、8か国連合軍
 に協力姿勢を取った・・そして、義和団の残部を虐殺し
 た。
  日本は、たった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎
 中佐が率いた軍は、規律正しい精悍な精鋭で、抜群の働
 きをした。
  他の国の兵士は怖がってなかなか戦わない状況でもあ
 った。
  日本は、各国から地理的に最も近いという理由で、本
 国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると
 思われるのを避けるため、なかなか応じなかった。
  しかし、再三、イギリスなどから要請され、福島安正
 少将が、混成三個大隊を率いて天津に来た。
  そして、日本軍の活躍で、連合軍は天津を占領するこ
 とができた。
  その後、連合軍は、日本軍を主力として北京に進軍、
 8月14日に、北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵
 を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出すること
 に成功した。
  その後、連合軍は、国ごとに分かれて北京を占領した。
  そして、ロシアは、義和団の乱が支那から満州にまで
 及んだときに、増派して、ついには、全満州を占領して
 しまった。
  この乱につけ込んで、ロシアは満州をロシア領にして
 しまった。
  しかし、清国は、ロシアを満州から取り返そう、追い
 払うという努力は一切しなかった。
 (満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日
 露戦争に勝利する日本だった)
  (このロシアが占領した満州を、日本は日露戦争でロ
 シアを駆逐し、満州の所有権の移譲を受けた。日本は満
 州を占領したのではない)
  もし、日本が日露戦争で勝利しなかったら・・、
  宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンスト
 ン(イギリスの中国学者)が言うように・・、
  遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、
 ロシアの一部となっていたことは「まったく疑う余地は
 ない」。
  ※:ちなみに、北京を占領した連合軍は、各所で略奪
   を開始し、美しく綺麗な事で有名だった頤和園(い
   わえん)も略奪と破壊の対象とした。
    しかし、この卑劣な行動に、日本軍だけは、略奪
   に参加しなかった・・(この話は有名)・・、
    当時の戦争では軍隊が市民から略奪、強姦すると
   いう行為は普通に行われていた・・この時も・・
    当たり前の様に北京や上海でも列強各国による略
   奪が頻発していた。
    白人で一番まともなイギリス兵ですら、支那人か
   ら貴重品を取り上げ、かっぱらった。
    ロシアの占領地区では、ロシア兵が虐殺や放火、
   強姦をやり、日本の占領地区に逃げて来る支那人が
   大勢いた。
    北京から遠く離れた所でも、ロシアは大虐殺を行
   なっていた。
    しかし、日本軍だけは、その様な行為はしなかっ
   た。
    日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特
   に優れていた。
    これを見たイギリスが、素晴らしい日本と同盟を
   結びたいと、この後に、日本に日英同盟を求めて来
   たくらいだった。
    日本には天皇陛下の兵隊という、「皇軍」という
   意識があって、卑劣な行為はしなかった。
    南京事件もでっち上げなのだ・・、
.
1963年11月22日、アメリカの第35代大統領ケネディが暗殺
 された。
  アメリカ合衆国テキサス州ダラスで暗殺された。
  ケネディ(1917年5月29日生、46歳)は、軍産複合体を
 追求したから暗殺された・・という話がある。
  1963年11月22日、翌年の大統領選挙キャンペーンとし
 てテキサス州を訪れ、
  この日、フォートワースからダラスに到着し、市内を
 オープンカーでパレード中に、多くの市民が見ている前
 で、何者かに狙撃され死亡した。
  43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日
 の在任期間であった。
  ケネディとジャクリーン夫人は、この日、午前11時40
 分にテキサス州ダラス郊外のラブフィールド空港に到着
 し、
  その後、大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻と
 ともに市内をパレードした。
  ヒューストン通りからエルム通りに左折して、デイリ
 ープラザに入った12時30分に、後方のテキサス教科書倉
 庫ビルから3発の銃弾が発射され、
  その内の2発がケネディに命中した。
  後の1発が、ケネディの後頭部に当たり、これが致命傷
 となった。
  急ぎパークランド病院に担ぎ込まれたものの瀕死の状
 態で、手当ての甲斐なく、午後1時に、死亡が確認された。
.
1968年、今(2017年)からは想像できないだろうが、この
 頃の若者人口は、非常と言ってよいくらい「非常に多か
 った」。
  この団塊の世代は、若者人口が多いため、小中高と進
 学するごとに、学校の教室が足りないなど社会問題にな
 った。
  大学進学でも激しい競争があり、その実感を「高石と
 もや」がコミカルに歌った「受験生ブルース」が、この
 年(1968年)にヒットした。
.
1977年、横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致された。
  日本政府が、北朝鮮による日本人拉致の『容疑』を公
 式に発表したのは、それから20年以上も後の、1997年5月
 であった。
  また、日本政府が、拉致されている日本人の人数を17
 人としているが、警察は866人以上としている。
  残念な事に、日本政府は、長らく「日本人の拉致は存
 在しない」「起きていない」という態度をとってきた。
  そのことに触れることを「タブー」としてきた、情け
 ない事だが・・、
  今でも、拉致された日本人が北朝鮮に居て、日本へ帰
 る事ができていない。
  日本政府は、アメリカから北朝鮮の拉致行為を知らさ
 れていたのに、無視して、何もしなかった。
  国会で、拉致問題が取り上げられたのも、1988年と、
 国会も大変に遅く、国会の与党も野党も、国会のすべて
 が目をつぶった。
  国会議員のすべてが腐っていた。
  これは、日本の何かが壊れている?
  この問題に早期から携わり、真剣に取り組んで来られ
 たのが安倍晋三議員(現:首相)だった。
  横田夫妻から早期に相談を受けた安倍議員は、この問
 題に取り組まれた。
  小泉首相の時には、一緒になって拉致された方々のう
 ち、6名の方々の帰国・奪還を実現された。
  警察は、拉致被害者の数を866人としているが、他の情
 報では1000人を上回るとも言われている。
  日本の海上保安庁は、北朝鮮の工作船に対し、毅然た
 る態度を示して、領海侵犯した国籍不明船(後の調査で、
 予想通りの北朝鮮工作船だった)に、指示に従わず領海
 侵犯行為を続けたため、機銃掃射を行なった。
  工作船側は、証拠隠滅を図って自爆し、沈没した。
  後に、日本は、これを引き上げ、捜査し、北朝鮮工作
 船の証拠を得た。
  北朝鮮が、日本工作をするこの北朝鮮の工作船が・・
 何故か・・この北朝鮮工作船が、直接に、また、当然に、
 北朝鮮へ帰るわけだが・・何故か?・・この北朝鮮工作
 船が、中国に帰ることもあることを確認している(中国
 の工作船か?)
.
2011年2月14日、日本が3位に・・
  日本の内閣府が、14日発表した2010年の国内総生産
 (GDP)速報値で「中国に抜かれ、世界3位に」とある・・、
  今、『重大情報データが、捻じ曲げられている』。
  世界の人々が繰られている。
  上記した様に、2011年2月に発表されて、日本は・・
 GDPが世界3位に転落した・・その事が分かったと言う
 が・・?
  別のデーターもある。
  実は、『中国は、アメリカも抜いている』というので
 ある。
  「2010年のアメリカの実質経済規模は『約14兆ドル』
 であり、中国は『約15兆ドル』」というのである。
  中国が、アメリカを抜いているというのである。
  (参考)実質経済規模:名目的な為替レートではなく
     実際の購買力で計った経済規模のこと。
      つまり、実際に生産し消費している財とサー
     ビスの総量のこと。
  1990年代に、すでに、世界銀行は、中国の実質経済規
 模を為替レートで計った名目経済規模の『5倍~6倍』と
 計算していた。
  IMF(国際通貨基金)と、CIA(中央情報局)は
 『約4倍』と計算していた。
  そして、その後、2007年秋まで、世界銀行、IMF、
 CIAは「中国に実質経済規模は名目GDPの約3倍」
 と計算した(これが妥当と判断されていた)
  しかし、2007年12月に、新たに世界銀行の総裁になっ
 たロバート・ゼリックは、世界銀行とIMFに、「中国
 の実質経済規模を、名目GDPの『2倍』と計算せよ」と
 要求した。
  それは、それまでの『3倍』という計算方法を使ってい
 ると、3年後の2010年には、「中国の経済の実質規模が、
 アメリカ経済の実質規模を凌駕(りょうが、他のものを
 越えてそれ以上になること)してしまう」という理屈だ
 った。
  そうなると・・アメリカ外交の威信の低下と、影響力
 の低下と、そして、恫喝力の低下を恐れてのことだった。
  それ故に、実際の「実態が隠された」。
  相変わらず、世界の認識は、「アメリカが世界一」の
 経済大国であった。
  だから、世界一の軍事大国でもあるというイメージが
 世界中に維持された。
  しかし、この隠し事は、薄々、世界が分かる所となっ
 て来た。
  世界の中には、表立っては言わないけれど・・、
  「21世紀は、中国の世紀だ」と考えて、アメリカを今
 までよりも軽視し、中国になびくという国も・・という
 状況にある。
  そして、その現実が、実態が・・起こすこと、波及す
 る事は・・、
 「アメリカによるIMF支配体制が崩れる」ということ。
  アメリカのIMF体制は・・、
  「世界一の実質経済規模だからアメリカだけがIMF
 の拒否権を持つ」という何だか分からないシステムがあ
 る。
  アメリカは、これによって、だいぶ、得をした。
  外交的にも、脅迫的に使えるという道具ともして来た。
  中国には、「シルクロード経済ベルト」として活性化
 する事を目指す「一帯一路」構想(2014年11月、習近平
 総書記が提唱)があり、
  その前年の2013年に、中国が提唱し、主導する形で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が発足していた。
  そして、2015年に、国際機関として創設された。
  2016年1月16日に開業式典を行い、57ヶ国の創設メンバ
 ーとして発足した。
  そして、2017年3月には、日米が主導するアジア開発銀
 行の67ヶ国を上回る・・70ヶ国となった。
  そして、さらに85ヶ国~90ヶ国へ拡大が見込まれてい
 る。
  日本とアメリカは、参加を見送っている。
  創設時の資本金は1000億ドル。
  本部は、中国の北京市にある。
  イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、韓国、ロシ
 ア、ブラジル、エジプト、スエーデン、フィリピン、デ
 ンマーク、クウェート、マレーシア、ポーランド、南ア
 フリカ、タイ、カナダ、ベルギー、香港、エチオピア、
 ペルー、ベネズエラ、バーレーン、ギリシャ、チリ、ボ
 リビア、ルーマニア、アルゼンチン、トンガ、マダガス
 カル・・などが加盟している。
  参加申請が拒絶された国:北朝鮮・中華民国(台湾)
  中国には、この他にも、2014年末に創設した「シルク
 ロード基金」というものがあり・・、
  これによって・・中国のアジアにおける影響力の強い
 経済圏を構築しようと目指している。
  2015年4月に決定された「パキスタンの水力発電所の建
 設事業」が第1号案件となった。
  ここから、中国の台頭と、アメリカ時代の終焉が見え
 る・・・・が・・
  2017年8月16日の読売新聞には・・
  アメリカは、「通商法301条」という法律の伝家の宝刀
 を、中国に対して抜こうとしている。
  この法律は、「貿易相手国の不公正な取引慣行に対し
 て当該国と協議することを義務づけ、問題が解決しない
 場合の制裁について定めた条項の強化版」で・・、
  この法律をちらつかされて、色々と、日本も、嫌とい
 うほど痛み付けられた。
  アメリカの対中国貿易赤字の削減は、トランプ大統領
 の公約の一つでもあるが、
  北朝鮮の貿易の9割を行なっている中国の、北朝鮮への
 対応が効いていないため、相変わらずの北朝鮮となって
 いることも、これに絡んでいる。
  中国からは「明らかに嫌がらせだ」との声や、「強硬
 対決だ」の声も出ている。
  何しろ、米中貿易総額は、57兆円規模である。
  今、中国は、6年連続して成長速度が減速し続けている。
  アメリカのかつての立場は明らかに変わっている・・
  その重大な転機における課題に取り組んでいるトラン
 プ大統領・・
  そのトランプ下ろしをやるアメリカは・・、
  現時点が・・その様な時ではないという『深刻な事情』
 に目を向けるべきだ。
.
2015年、存立危機事態:(そんりつきき‐じたい)
  日本が、集団的自衛権を行使する際の要件の一つで、
  「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が
 発生し、
  これにより、我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由、及び、幸福追求の権利が根底から
 覆される明白な危険がある事態」・・をいう。
  平成27年(2015年)に成立した平和安全法制で事態対
 処法に規定した。
.
2017年、かつて、世界の工場だったイギリスが、働かなく
 なって・・、
  「イギリス病」と世界から揶揄(やゆ、なぶる、嘲弄・
 ちょうろう)され、批難され、蔑(さげす)まれた。
  世界の工場の座を降り、金融という座わっているだけ
 で稼げる仕事をする国になった。
  今、アメリカが、その様な道にある。
  情報を操作して、世界のトップの様な顔をしているが、
 実際は、とうの昔に、中国に抜かれている。
  この基本中の基本のデータが繰られ、真実が伝わって
 いない。
  アメリカの時代はとうの昔に去っている。
  中国は、この陰の存在にいつまでも居ないだろう。
  アメリカも、キリスト教の様に、すでに終わった状態
 になっている。
.
2017年、中国の超急速な軍拡。
  2020年頃、アメリカは、中国に抜かれ、「米中逆転」
 が起きる事が確実視されている。
  中国の軍事予算は、何と、この20年間に二ケタの『超
 ハイ・ペース』で拡大して来た。
  その結果、米中逆転が確実視されているのである。
  2000年17%、2001年16%、2002年21%、2003年17%、
  2004年12.5%、2005年15%、2006年13.5%、
  2007年18.5%、2008年17%・・・、
  中国の実際の国防予算は、この公開されている数字の
 何と! 『2倍~3倍』と言われている。
  このパワー・バランスが逆転するという事は・・、
  米中が逆転するという事は・・、
  日本にとって「生きるか、死ぬか」という重大な問題
 なのである。
  軽く考えていてはいけないのである。
  加計学園問題などなんかに関わっていられない状態な
 のである。
  生き残る道を・・講じよ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、出来事:
・内閣総理大臣:松方正義(第一次松方内閣)
  1891年5月6日~1892年8月8日
・(氷川清話)松方内閣第三会議
・内閣総理大臣:伊藤博文(第二次伊藤内閣)
  1892年8月8日~1896年8月31日
  伊藤博文が、再び、内閣を組織し、陸奥宗光とのコン
 ビで条約改正、日清戦争の遂行をした。
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
・(氷川清話)伊藤内閣第四会議。
・(氷川清話)品川内相、選挙干渉事件
・(氷川清話)予戒令
・陸軍省陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局)が、5万
 分の1地図の作成を開始した。
 この部は、1888年(明治21年)5月14日に、陸地測量部條
 例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部
 の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁とし
 て設置された(存続:1891年~1898年)
 5万分の1地形図は、1890年(明治23年)から整備が始ま
 り、1916年(大正5年)に全国整備が完了した。
.
1892年、データ:
・日本の総人口:40,508,000人
・紡績工場の数:39
・天然痘の死者:8409人
.
1892年、物価:
・氷1貫目:9銭~14銭
.
1892年、経済・金融・産業・貿易:
・上野不忍池畔で行なわれていた共同競馬会社が経営難の
 ため解散した。
 共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われ
 ていた。
 馬券は発売されず、ギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、
 政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催
 された。
 イギリスで競馬は貴族の社交の場であったことをそのま
 ま取り入れた。
 収入は、会費、入場料、天皇陛下からの下賜金、宮内省・
 農商務省・陸軍省からの支援に頼っていた。
 しかし、赤字で、1886年(明治19年)からは一場所二日の
 開催となり、賞金額も減っていった。
 経営難のため1892年の秋場所を最後に終了した。
・長崎半島の西沖合に位置する高島炭坑の南洋井坑が終掘
 した。
 1986年(昭和61年)11月27日、105年にわたる高島炭坑が
 幕を閉じた。
 日本の明治の産業革命の立役者だった。
 日本に、最初に、外国資本と蒸気機関を利用する外国技
 術が導入された最先端の海底炭田を掘る炭坑だった。
 欧米諸国の蒸気船にも石炭補給する拠点だった。
.
1892年、交通:
・碓氷峠でアプト式機関車の試運転をおこなう(群馬)
 横川駅~軽井沢駅間アプト式鉄道に使用するためドイツ
 からエスリンゲン社製C形ワルシャート弁装置付アプト式
 蒸気機関車4両を輸入した。
 東京~新潟間の全線開通を強く望まれる中、急こう配の
 峠越えの方法に難関があった。
 種々の方法が検討される中、視察したドイツのハルツ山
 鉄道を参考にしてアプト式を用いることが提案され、
 1891年2月、最短ルートの中尾線ルートをアプト式で建設
 することが決定された・・そして・・
 1891年3月24日に起工された。
 1892年12月22日、着工より1年9ヶ月という驚くべき短工
 期で、500人あまりの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の
 お蔭で工事は完成した。
・日本郵船が、根室国花咲より択捉島への試航に成功した。
 千島航路は、天候の厳しい冬季間、航海途絶し、千島諸
 島の食糧欠乏するため、北海道庁は補助金を出し、試航
 者を募っていた。
 しかし、応募者は無かった・・そこで、日本郵船の創業
 時の会社・三菱会社に対し花咲港~択捉島単冠湾(ヒト
 カツプ)の冬季航海が交渉された。
 そこで、三菱会社は、損益にかかわらず就航したいとし、
 補助金1300円をもって、1892年(明治25年)2月、播磨丸
 (677トン)にて試航し、成功した。
 そして、引継き就航した。
 根室は、日本の領土のオホーツク沿岸地区、並びに、千
 島諸島の中心基地となり、海産物の一大集散地として大
 正末期頃まで釧路を凌いだ。
 また、日本郵船は、北海道より日本領土の樺太に渡る航
 路を開始した。
・大垣停車場構内に、機関車庫が設置された。
・横浜駅に貨物ホームが新設された。
.
1892年、衣:
・雪駄が芸人、洒落者の間に大流行し、また、女物のしゃ
 れた下駄も流行る。
・襟巻に毛糸製品が多くなる(年末から)
・ゴム細工の花かんざしが現る。
・大坂の森田利兵衛がカバン類の口金製造を始めた。
・アメリカからワニ革製品が輸入された。
.
1892年、食:
・アサヒビールが発売された(大阪麦酒会社)
 アサヒビールの創業は1889年。
 鳥井駒吉が大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。
 1891年、大阪府島下郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村
 醸造所」竣工。
 そして、1892年、「アサヒビール」発売。
 設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記され
 ていた。
 1884年(明治17年)からビールを製造していた、小西儀
 助商店からブランド名を譲ってもらったとの説がある。
 大阪麦酒のブランド名「旭」は、1884年(明治17年)から
 大阪で朝日ビールを発売していた薬種問屋の小西儀助が、
 1888年(明治21年)に、鳥井駒吉らの計画を知ると、自
 らビール事業から手を引くことを決め、そのブランド「
 朝日」を設立予定の大阪麦酒に譲り、同社はこれを「旭」
 として引き継いだ、ともいわれている。
 また、小西儀助が大阪麦酒の役人に「もし御入用やった
 らうちの商標を使うておくれやす」と言ったという、大
 日本麦酒大阪支店の大森寅之進の聞書による記録もある。
・安価な支那卵の輸入が始り、内地養鶏は大打撃を受ける。
 支那(当時の中国)からの卵の輸入量は、1921年には、
 日本の国内消費量の32パーセントを占めるまでになった。
 日本政府は、「鶏卵自給増産計画」を立て、官民一体と
 なって取り組んだ。
 その結果、輸入はゼロとなり、国産卵の輸出ができるま
 でになった。
 今・現在は、液卵・粉卵の形で、アメリカ・オランダか
 ら輸入され、殻付き卵の換算で5%前後となっている。
 輸入関税は20%前後。
 (日本の鶏卵業者は善戦している・・しかし、関税がな
 くなれば??となる・・TPPは消えたようだが?)
.
1892年、住:
・東京浅草に陶器製の標札を考案、専売特許をとるものあ
 り、この年、陶器製標札発売。
・箱根電燈所が開業した。
 この年、関東地方初の水力発電所である湯本湯端発電所
 で運転を開始した。
 発電機は三吉電機製で、この発電所は、一時、三吉正一
 の個人所有であった。
 三吉 正一(みよし しょういち、 1853年12月(嘉永6年
 11月)~1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日
 本の技術者で、日本初の電気機器製造会社である三吉電
 機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。
.
1892年、報道:
・新聞創刊、萬朝報(11月1日)を黒岩涙香が創刊した。
 萬朝報(よろずちょうほう)は、明治・大正期の有力新
 聞で・・、
 紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。
 1892年(明治25年)11月1日、都新聞(後の東京新聞)を
 辞した黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊した日刊紙。
 「簡単、明瞭(めいりょう)、痛快」をモットーに、黒岩
 の翻案小説、名士の私行摘発(蓄妾(ちくしょう、妾を囲
 っておくこと)実例暴露など)と、キャンペーン(相馬家
 の御家騒動、蓮門教攻撃など)で大衆の関心を集める、
 日本におけるゴシップ報道の先駆者・・、
 権力者のスキャンダルは執拗なまでに追及し、醜聞記事
 でも売り出した。
 「畜妾実例」では、権力者であろうと官吏であろうと妾
 を暴露し、実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載した。
 第三面に煽情的な社会記事を取り上げたので「三面記事」
 という語を生んだ。
 低価格政策と相まって、東京第一の発行部数を獲得した。
 日露開戦の気運が高まると、内村鑑三、幸徳秋水、堺利
 彦らが非戦論を展開、注目を集めたが・・、
 1903年(明治36)秋になって、開戦気運が濃くなると「
 萬朝報」も開戦論に転向した、
 内村、幸徳、堺は10月9日社を去った(12日掲載の3名の
 「退社の辞」は有名)
 この頃から、黒岩は、「英文欄」を新設、趣味、文芸、
 科学、思想記事など豊富に掲載したため、学生間に人気
 を集め、読者を増やした。
 大正に入り、憲政擁護運動、シーメンス事件などで反藩
 閥の鋭い論調を張るが・・、
 1920年(大正9)10月、黒岩が亡くなり凋落の道へ、
 1923年9月の関東大震災で被災してから急速に勢威を失い、
 昭和に入ると経営者の交替、社内の分裂相次ぎ、
 1940年(昭和15年)10月、戦時新聞整備計画もあって廃
 刊された。
・議員たち、大臣や役所の悪口は言いたいほうだい。自分
 が言われると告訴とは、なんだ(東京日日)
・衆議院、侮辱する記事を掲載したと、東京日日新聞の告
 訴を決議する。
・政府、予戒令を公布。粗暴の言論、集会の妨害などを禁
 ず(官報)
・民党は、「民力休養・経費節減」を唱え、軍艦建造費な
 どを削除しようとした。
 政府は解散を命じた。
 しかし、この年・2月15日の第2回総選挙で、民党が過半
 数を占める結果となった。
 8月8日、第2次伊藤内閣が成立した。
.
1892年、歌・流行・世相:
・演劇:市村座が新築開場した。
 下谷二長町(にちょうまち)に移転した。
 1932年(昭和7年)5月、焼失して廃座となった。
 1634年(寛永11年)に、村山座として日本橋葺屋(ふき
 や)町に創立された歌舞伎劇場で江戸三座の一つ。
 この座が大道具や絵看板などを始めたと言われている。
 6世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門らの若手が時代を掴ん
 だ。
・演劇:三遊亭円朝、「塩原多助一代記」初演
・演劇:三遊亭円朝、「怪談・牡丹灯籠」初演
 (さんゆうていえんちょう、1839年~1900年・明治33年)
 落語家。江戸生まれの江戸人。
 近代落語の祖と言われる。父は落語家の橘屋円太郎。
 師の円生の厳しいいじめが刺激となり、創作を志し、第
 1作「累ケ淵後日の怪談」を高座にかけた。
 1884年(明治17年)、速記術普及のため「怪談牡丹灯籠」
 を速記本として刊行し、以後、次々と円朝の口演したも
 のが活字となって普及し、多くの家庭で読まれ、言文一
 致体小説へ影響を与えた。
 最後は、芸境も高みに達したが、1891年(明治24年)、
 席亭の横暴に抗議して寄席より退いた。
 一時、復帰したが進行性麻痺と続発性脳髄炎のため・・
 61歳で明治33年・1900年に没す。
・帝國通信社が創立された。
 1892年5月に創立された、改進党系の通信社。
 この頃、群小通信社が乱立し、厳しい競争に晒された。
 1929年3月に破産宣告を受けた。
・読売新聞の美人読者投票(十六名媛)
 1892年3月18日、読者投票による「十六名媛」を発表した。
 村松志保子女史は選ばれた一人・・トップ当選だった。
 現在も誇るべき明治の自立した助産師だった。
 女学校・産婆学校を設立した。
 1856年(安政3年)沼田藩御殿医の長女として生まれ、
 男兄弟三人は幼くして亡くなり、女医になる決心をした。
 沼田藩別邸(墨田区)で、父に東洋医学を学び、針術を
 修め、医術の研鑽を深めた。
 安生堂産婆学校を設立し、豊かな教養を身につけた産婆
 育成に尽力し、
 また、安生堂医院では、貧困者に無料施療入院を実施し、
 母子のために保健福祉的な慈善活動を展開した。
・正岡子規、「獺祭書屋俳話」
 獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)は、子規の俳句
 論で士気の俳句革新運動の端緒となった俳論・・先日、
 38年ぶりに対馬で日本カワウソが発見されたが、
 獺祭は、カワウソ(獺)が、捕らえた魚を供物に並べ先
 祖を祭る様を指し、カワウソは捕らえた魚を川岸に並べ
 る習性があり、これを祭儀になぞらえた。
  転じて多くの書物を調べ、引用する人の様を指し、子規
 の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ。
・森鴎外・小金井喜美子、「美奈和集」
 森鴎外の作品集(森鷗外作・訳)。1892年刊。
 小説「うたかたの記」「舞姫」「文づかひ」の三部作の
 ほか、初期翻訳作品、付録に新声社訳「於母影」を収録
 している。
 後に改定して改訂版は「水沫(みなわ)集」と改題した。
 小金井喜美子(1870年~1956年)は、翻訳家・小説家で
 随筆家・歌人。
 島根県津和野の生まれ、本名はキミ。
 森鴎外の妹で、1881年、東京女子師範付属女学校卒業後、
 東大人類学教授・小金井良精(よしきよ)と結婚。
 翌年、鴎外らとともに訳詩集「於面影」を発表した。
 レールモントフの「浴泉記」の翻訳で知られ、著「森鴎
 外の系族」「鴎外の思ひ出」などがある。
・中江兆民、「四民の目ざまし」
 中江兆民(1847年~1901年)は、明治期の思想家で民権
 運動家だった。土佐藩の足軽の子として生まれ・・年少
 より学に親しみ・・、
 1865年(18歳)、藩給費生として長崎に留学した。ここ
 でフランス学に接し、土佐藩の坂本龍馬に私淑(ししゅ
 く、尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その
 人を模範として慕い、学ぶこと)した。
 1867年(20歳)、江戸に遊学し、フランス学を習得した。
 1868年(21歳)、箕作麟祥の塾に学び、大学南校(東京大
 学)でフランス学を講義した。
 1871年(24歳)で、岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留
 学生になり、岩倉使節団とともに渡欧し、フランス留学
 で哲学、文学、史学を学んだ。
 1874年(27歳)帰国し、東京番町に仏学塾を開く。
 1875年(28歳)東京外国語学校校長、まもなく辞職し、
 元老院権少(ごんのしょう)書記官をつとめるが、
 1877年(30歳)、元老院を辞した。
 以後、在野で活躍。
 1881年(34歳)、西園寺公望(きんもち)主宰の「東洋自
 由新聞」を創刊し、主筆となった(政府の干渉で廃刊)。
 1882年(35歳)、仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し、
 西欧近代思想を紹介した。
 ルソー著『社会契約論』の翻訳し、また、注解した「民
 約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え、「東
 洋のルソー」と渾名(あだな)された。
 1886年(39歳)、大同団結運動に参加した。
 1887年(40歳)、『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析、
 展望を試みた。
 三大事件建白運動に関与、封事を執筆、
 1887年12月(40歳)、保安条例で東京を追放され、大阪
 で『東雲(しののめ)新聞』を創刊して主筆。反政府、
 自由民権の論陣をはる。
 1890年7月(43歳)、第1回衆議院議員総選挙で当選し、
 衆議院議員となり、立憲自由党に加盟、『立憲自由党新
 聞』の主筆となる。
 第一議会の予算問題で、自由党土佐派が妥協したのを憤
 慨し議員を辞職(1891年・44歳)、雑誌『自由平等経綸』
 を創刊する。
 1891年7月(44歳)、小樽の『北門新報』に招かれ、北海
 道の小樽へ移り、小樽初の新聞である『北門新報』を創
 刊して主筆を務める。
 『北門新報』の社主は金子元三郎で、金子は日本へ亡命
 していた朝鮮人革命家・金玉均を介して兆民を紹介され
 たとする説もある。
 1892年(45歳)、『北門新報』は札幌へ進出しているが、
 兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く。
 1892年1月17日(45歳)、母の柳が死去している。
 1892年2月15日(45歳)、衆議院が解散され、第2回衆議
 院議員総選挙となり、兆民は東京へ向かうと、仏学塾出
 身で長野県五区から立候補した小山久之助・長野県三区
 から立候補した堀内賢郎を応援するため長野県まで赴い
 ている。
 なお、第二回総選挙では小山・堀内両人とも落選した。
 1893年(46歳)、兆民は札幌で「高知屋」を開業する。
 1893年(46歳)大阪に戻り、実業に手を出すが・・結果
 的に実業は失敗した。
 1897年(50歳)、国民党を結成したが不調。
 1900年(53歳)、国民同盟会に参加。
 1901年(54歳)、食道がんを発病、病床で合理主義・唯
 物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続
 一年有半』を執筆し、遺稿となった。
 1901年12月13日死去。55歳。
 <著作>『中江兆民全集』全18巻
 <参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』
・竹越与三郎、「新日本史」
 (たかごしよさぶろう、1865年~1950年、85歳)政治家、
 歴史家。
 「国民新聞」などの記者として活躍。
 西園寺公望らに知られ、雑誌「世界之日本」主筆。
 1902年(37歳)以後、衆議院議員
 1923年(58歳)、貴族院議員
 1940年(75歳)、枢密顧問官と、政友会代議士・枢密顧
 問官などを歴任した。
 著「新日本史」「日本経済史」「二千五百年史」など。
・ 「即興詩人」(作:アンデルセン/訳:森鴎外)
 デンマークの作家・アンデルセンの長編小説。
 アンデルセンが、1833年~1834年のイタリア旅行中、そ
 の芸術と風景に触れ、情熱と市場を掻き立てられ、帰国
 してから書き上げられた(1835年刊)
 自伝的要素を多く持ち、ローマで生まれた主人公アント
 ニオが苦しい修業時代を経て詩人となる。
 即興詩を得意の芸として諸国を放浪する詩人の恋愛と友
 情と成功の物語。
 森鴎外による翻訳が《しからみ草紙》《めさまし草》に
 連載され(1892年~1901年)、その訳文自体が明治浪漫
 主義の代表作とされている。
・指原安三、「明治政史」
 (さしはら やすぞう、1850年~1903年、53歳)、新聞記者、
 評論家、漢学者。
 豊後国臼杵藩(大分県)藩士の子に生まれる。
 幼少時に父を失い、苦学する。
 大阪府巡査を経て上京し、二松学舎、同人社に学び、共
 立学舎幹事となり、漢文を教授。
 機関誌『保守新論』の編集長を務め、国権論を唱えた。
 「明治政史」を刊行した後には、陸軍幼年学校、陸軍学
 校教官を務めた。
・古在由直、「足尾銅山鉱毒研究」
 (こざいよしなお、1864年~1934年、70歳)農芸化学者
 京都出身の東京帝国大学農科大学教授で、後に、東京帝
 国大学総長となった。
 農芸化学的研究のほか、足尾鉱毒事件の学術的調査を行
 い、銅山の銅が土壌を侵していることを証明した。
 助教授時代からの足尾銅山の鉱毒の調査によって、被害
 の原因が銅山にあることを追及し続けた。
 足尾鉱毒事件の発生初期から、鉱毒被害農民の救済の懇
 願と依頼により、同僚の長岡宗好とともに、1890年(26
 歳)初めて、被害原因を科学的に分析し、河水中から銅
 の化合物を検出した。
 (結果は1892年・28歳「足尾銅山鉱毒研究」として「農学
 会会報」16号に発表した)
 1895年(31歳)、ドイツに留学し、牛乳腐敗菌の研究で
 ドイツ学界に名声を得た。
 1899年(35歳)、農学博士
 1900年(36歳)、帰国し、東京帝国大学農科大学教授と
 なる。
 発酵化学の研究で目ざましい業績を残した。
・流行歌:「敵は幾万ありとても」
 敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても
 すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
 烏合の勢にあらずとも
 味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
 邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく
 直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
 堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は
 石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
 石に立つ矢のためしあり
 などて恐(おそ)るる事(こと)やある
 などてたゆとう事やある
 小山作之助作曲、
 小山作之助は、1864年に、新潟県(越後潟町村)生まれ、
 1887年(明治20年、23歳)、音楽取調掛(東京芸大音楽学
 部)全科卒業。
 東京府伝習所、東京師範学校、東京盲唖学校などを歴任
 して
 1892年(明治25年、28歳)東京音楽学校助教授
 1897年(明治30年、33歳)から1905年(明治38年、41歳)
 同校教授。
 後、同声会理事長、日本音楽協会初代会長、日本楽器会
 社顧問、文部省検定図書調査委員を務め、後進への面倒
 見がよい先生だった。
 「夏は来ぬ」の作曲家でもある。
・流行歌:「元寇」
 一、(修猷健児)
 四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る
 十万余騎の敵
 国難ここに見る
 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに
 修猷健児あり
 正義武断の名
 一喝して世に示す
 二、(多々良浜)
 多々良浜辺の戎夷(えみし)
 そは何 蒙古勢
 傲慢無礼もの
 倶(とも)に天を戴かず
 いでや進みて忠義に
 鍛えし我が腕(かいな)
 ここぞ国のため
 日本刀を試しみん
 ・・三番、四番は略す・・
 (参考)作詞者と作曲者:永井建子
     永井建子は、日本陸軍軍楽隊士官(男性)
・流行歌:「法界節」
 春風に、庭に綻ぶ梅の花。
 鶯、止まれや。
 あの枝に。
 ささ、ホーカイ。
 そちが囀りゃ、梅が物言う心地する。
 ホーカイ、ホーカイ
 (参考)法界節(ほうかいぶし)は、明治から昭和初期
   にかけて法界屋が門付で、月琴などを演奏しつつ歌
   った曲。
   明治20年代を代表する流行歌だった。
   「ホーカイ」の意味は不明。
   原曲「九連環」の歌詞(中国語)の「不開」という字
   句をふまえるという説もある。
   「法界」は当て字。
・流行歌:「チャクライ節」
 儘になるなら チャンカンポン
 儘になるなら チャンカンポン
 桜の花に レンポンポン
 松の操が チュクライシュ
 松の操が チュクライシュ
 ちょいと持たせたい バラバラボン・・以下、略・・
 (参考)添田唖蝉坊・チャクライ武士/ 土取利行(唄・
    演奏)YouTube
・流行・趣味:メジロ、チャボの飼育
・流行:芸人の雪駄 
 (参考)雪駄:せった、底に皮をはったぞうり。
   後部に鉄片を打ったものもある。席駄(せきだ)。
・流行:パナマ帽子が流行
 (参考)パナマ帽(ぱなまぼう)は、パナマソウの葉を
   細く裂いた紐で作られる、夏用のつば付の帽子。
   日本では戦前、紳士用の正装としてカンカン帽と共
   に夏に愛用されていた。
・流行・生活:美白化粧水、石鹸がバカ売れ
・流行語:菊五郎の「…でガンス」という言い回しが流行
・流行:女義太夫綾之助が人気
 「おんなぎだゆう」の太夫の竹本綾之助は、大阪生まれ
 で、本名石井園(その)。
 10歳で東京・文楽(ぶんらく)座に玉之助(たまのすけ)の
 名で出演。
 稚児髷(ちごまげ)に振袖(ふりそで)姿の愛くるしい容姿
 と達者な語り口で満都の人気を集めた。
 初世竹本綾瀬太夫に師事すると同時に綾之助と改名、女
 義太夫全盛時代のスターであった。
 1898年(明治31年)貿易商の石井健太と結婚、いったん
 引退したが、1908年(明治41年)にカムバック。
 1910年、女義太夫再検討を図って藤菱(ふじびし)会を組
 織したが、
 1927年(昭和2年)秋をもって演奏活動を中止した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:池上彰は、巧妙な嘘を言うから、注意を要する・・
.
2世紀、キリスト教で、神が以前より意識され出した。
  そして、神との契約ということが意識され出した。
  そして、最近、キリスト教は、『旧約聖書』をユダヤ
 教の聖書だと言い出した。
  そこには、旧約聖書を積極的にキリスト教の聖書とい
 う言い方をしない・・という意識がある。
  あまりにも、キリスト教の旧約聖書が、近代の進んだ
 社会の理解に当てはまらない・・そぐわないからで・・
  そこで・・
  キリスト教の聖書は、『旧約聖書と新約聖書だ』と、
 かつて言っていた様に言わなくなった。
  旧約聖書が、「都合が悪い聖書」なので捨てようとし
 ている。
  そのうち、「新約聖書も都合が悪くなって捨てるだろ
 う」・・が・・、
  どっちみち、キリスト教は、どうあろうと、論理的に
 成立しない宗教なのだ・・、
  その根幹の宗教論理も、その様な類いなのだ。
  種々の解説書には、また、種々の解説欄には・・、
 「キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる」
 と書かれているが、そのうち、この説明は変わることに
 なるだろう。 
  「『旧約』『新約』の『約』とは、神との契約のこと
 で、2世紀頃からキリスト教徒の間で呼ばれ始めた」と
 説明されているが、『旧約』は無くなるだろう。
.
1924年、杉原千畝が、ロシア人と結婚した。
  杉原千畝は、ユダヤ人の方々へビザを発給したと美化
 されているが、
  しかし、杉原千畝には、「ビザを発給する資格が無か
 った」。
  それと、日本は、杉原だけでなく、どこの国の日本大
 使館でも、「ユダヤ人の方々へ、ビザの発給をしていた」。
  何も、杉原千畝だけが、讃美される由縁はない。
  日本のすべてが、「亡国の民」としてユダヤ人の方々
 を強く保護した。
  また、日露戦争で恩義あるユダヤ人の方々へその恩返
 しをした。
  しかし、池上彰は、「日本は、杉原千畝にビザ発給す
 るなと言った」と、テレビで解説だと称して発言した。
  国が、「ビザ発給の資格のない杉原千畝」へ、その様
 な行為は、君には出来ない行為だと言うのは当たり前な
 のである。
  これをキリスト教も利用した。
  キリスト教は卑劣だった、「日本は、三国同盟をドイ
 ツとしていたから、日本は、ドイツと同様に、ビザ発給
 をしなかった」と『二重の嘘』を言った。
 (キリスト教は、杉原千畝がキリスト教徒だとして、嘘
 をついてまでして美化をしたかった)。
  日本は、ドイツのナチスから共同行動をとってくれと
 言われたが、「きっぱりと断り、否定して」、ユダヤ人
 の方々へ、ビザを発給して助けていた。
  池上彰は卑劣である、この様な状況をしっかり説明し
 ないで、日本を貶める言い方をした。
  資格のない杉原千畝の「個人的問題」なのである。
  また、杉原千畝は、ロシア女性と結婚して、このロシ
 ア女性の父親が、ロシア政府の要職に居たことから、情
 報を得ようとした、つまり、杉原千畝は日本のスパイで
 あった。
  杉原千畝は外交官ではない、スパイの職務を持った『
 外務省職員』だった。
  外務省職員で、外交官ではないからビザの発給は出来
 ない立場だった。
  ロシアは、後に、この杉原千畝の本性(スパイ)を知
 って、杉原千畝のロシア入国を拒否するようになった。
  そこで、任務地がリトアニアに代わったのである。
  池上彰は、国民の視聴者の方々へ、間違った発言をし、
 嘘の発言をして、誤解を与えた・・その発言は、テレビ
 で謝罪し、訂正せよ!
  因みに、杉原千畝のロシアでの妻は、杉原千畝にスパ
 イされていた立場ではなく・・、逆に、杉原千畝が、ス
 パイされていた・・という、二重スパイだと言われてい
 る。
.
1945年10月9日、朝日、毎日、読売、東京、日本産業新聞へ
 の事前検閲が開始された。
  これらのGHQによる卑劣な行為は、個人の手紙や電
 信電話にまでおよび・・、
  また、検閲は、隠匿され、日本国憲法施行下にあって
 も強力に実行された。
  卑劣なGHQで・・山本武利は、手紙に進駐軍に残虐
 行為を受けたと書いた人物が、密かにGHQに逮捕され、
 軍事裁判にかけられたという事実を明らかにしている。
 (ただし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないた
 めその実態には未解明な部分も多い)
  郵政歴史年表の昭和27年(サンフランシスコ条約の発
 効に伴い日本が主権を回復した年)に、「連合軍による
 郵便物等の検閲廃止」という記載が残されている事から、
 卑劣にも、郵便物にまで検閲を受けていた事がわかる。
  また、江藤淳は、『閉された言語空間、占領軍の検閲
 と戦後日本』という本において、GHQの政策として、
 検閲とプロパガンダ(嘘宣伝)が並立されており、プロ
 パガンダの役割を民間情報教育局が担ったと指摘してい
 る。
.
2009年真夏、民主党は、衆議院議員選挙で地滑り的な勝利
 を収めた。
  そして、「コンクリートから人へ」という・・何か聞
 こえの良い、人当たりの良い、優しそうな・・、
  そして、何か心地のよさそうな「ワンフレーズ表題」
 を掲げて・・政権交代した・・ムードに酔わされた国民
 が居た。
  しかし、その結果を先に記せば、「民主党政権の3年間
 は苦痛の極みだった」・・、
  1年ごとに首相が変わり、わずか3年という短期に合計
 3人の首相の顔が登場した。
  苦しい長い3年間だった・・民主党政治は失敗だった。
  鳩山首相が訪米した時のことが思い出されるが、世界
 が注視するオバマ大統領との記者会見で・・、
  鳩山首相が、「トラスト・ミー Trust me(私を信じて
 くれ)」と言ったとき、オバマ大統領は、一瞬、凍りつ
 き、嫌な顔をし、きまづい雰囲気の両首脳の記者会見が、
 なお一層、程度の低い暗い状況にさらされた。
  世界の記者たちが居並ぶ、眼の前の壇上で、オバマ大
 統領と並ぶ日本の鳩山首相が、何か言いたそうに、もじ
 もじしたから、オバマ大統領も何か言いたいのだろうな
 と、身体を傾け、耳を鳩山首相に近づけた・・その時に
 出た鳩山首相の言葉だった・・「私を信じてくれ」・・。
  その時のオバマ大統領の呆(あき)れた顔が、世界の
 記者たちの目にする所となった・・人間的に完全に「ア
 ウト」の瞬間だった。
  民主党政権がやったことは、結局、財源もないのに無
 理に、「高校を無償化にする」とか、「就学支援金支給」
 とか、甘言の目白押しだった。
  しかし、この民主党の政権になる前の麻生政権は・・、
 2009年度の補正予算で、全国5000棟の小中学校の耐震化
 を目的に2800億円を計上していた。
  しかし、民主党政権に代わり・・この民主党政権は、
 「事業仕分け」なる名の下に、この麻生政権の政策を台
 無しにした、有名無実と化した。
  「コンクリートから人へ」のとばっちりを受けた。
  その結果は悲惨だった。
  それを表わす証拠が、つい先日の2017年8月6日の読売
 新聞が報じていた。
  「小中学校の6割が、避難所に使えない」と報じている。
  つまり、それは、『老朽化対策を実施するのが遅れた
 から』と指摘していた。
  民主党政権が、止めて・・やらなかったからである。
  記事は・・、
  「全国の公立小中学校の校舎や体育館の約6割が、今後
 15年間で、災害時の避難所としては使用できなくなる可
 能性があることが分かった。
  老朽化への対応が遅れているためだが、このところの
 地震や豪雨災害などで避難所の使用頻度は上がっており、
 政府や自治体の対応が急務になっている」・・と報じて
 いる。
  しかし、この民主党政権より強い緊縮政策をとるとい
 う石破氏・・
  景気は縮(ちぢ)んで・・景気が後退し・・不景気が
 来るだろう・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月24日、議会本会議で、私設鉄道買収法案が否決
 された。
  欧米列強に追い付きたいという日本には必要だとして
 建議された私設鉄道買収法案が否決された。
  将来の日本の幹線鉄道路線を決定するため・・、
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要・・、
  そして、その幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政
 府が買収することとした構想の一つが否決された。
1891年12月25日、日本初の衆議院解散。
  民党主張の予算案削減案が可決され、松方内閣は、衆
 議院を解散した(最初の議会解散が断行された)
1891年12月25日、衆議院が解散となったため、鉄道公債法
 案が廃案となった。
1891年12月28日、大隈重信が、立憲改進党に再入党し、代
 議士総会長に就いた。
1891年12月29日、エジソンが、電気的な信号伝送(ラジオ)
 に関する米国特許を取得した。
  因みに、現在、放送されているラジオ方式は、この後、
 また別な発明家が発明したもの。
1891年12月30日、鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
1891年12月30日、文武判任官等級表公布(勅令第249号)
  判任官(はんにんかん)は、明治時代から第二次世界
 大戦敗戦までの官吏の身分上の等級をいい、属官ともい
 う。
  1869年(明治2年)官吏を勅任官、奏任官、判任官に区
 分し、ついで、
  1871年、官等一五の制を定め、三等以上を勅任、七等
 以上を奏任、以下を判任とした。
  判任官については、1886年、および、1911年(明治44
 年)の判任官官等俸給令によって詳細な規定がたてられ
 た。
  判任官は、天皇陛下が官庁に任免を委任するもので、
 高等官(勅任官、奏任官の総称)の下に置かれ、一等か
 ら四等に分けられ、各省大臣、府県知事の権限により任
 免された。
  第二次大戦敗戦後、1946年(昭和21年)公布の官吏任
 用叙級令によって三級官と改称されたが、
  1949年の人事院規則によって廃止された。
1891年12月、法制局長官・尾崎三良『鉄道国有論』刊行
  尾崎三良(おざきさぶろう、1842年3月3日~1918年10
 月13日)は、幕末~明治時代の官僚で、政治家。
  1842年(天保13年)1月22日、山城国(京都市西院)に
 尾崎盛之の第4子として生まれ、
  1862年(文久2年)三条家家臣・戸田造酒の養孫とな
 り、以後、三条実美(さねとみ)の側近としてにつかえ、
 幕末の国事に奔走する。
  特に、三条ら七卿の都落ちに従って、長州から大宰府
 まで同行したが、この時の人脈が、尾崎の官界、政界で
 の同志を形成した。
  1868年(慶応4年)、三条実美の子・公恭(きみやす)に
 したがい、イギリスに留学し、法律を中心に勉学に励ん
 だ。
  これは、後の、法制官僚としてのキャリアにつながっ
 た。
  1873年に、帰国してからは、太政官左院、法制局、参
 事院など、法令実務に携わり、井上毅と並び称された。
  一時、元老院議官に転じたが、再び、政府に入って、
  1890年、参議院議員・・、
  1891年(明治24年)、第一次松方内閣で法制局長官を
 務めた。
  1896年に、男爵を授けられたころから、実業界で尽力
 した。
  しかし、中心となって活動した京釜鉄道建設事業が政
 府主導となる1903年には、自然引退の形となった。
  1918年(大正7年)10月13日、逝去した(77歳)
 ☆:鉄道国有化に関する・・これまでの動き・・、
  日本の鉄道は、創業以来、官設官営を基本方針とした。
  これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引
 した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大き
 かった。
  しかし、政府は、財政窮乏により、鉄道をすべてを官
 設官営で建設運営することは不可能で、やむなく、民営
 鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことにな
 ってしまった。
  そのため、井上は、機会あるごとに、自説の鉄道国有
 論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も、再三、国
 会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)
 までにそれが可決されることはなかった。
  政府の財政を窮乏させる原因となったのは、西南戦争
 による過大な戦費支出とともに、清国の軍事費投入の過
 大化に対処する必要性があった。
  これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それ
 までに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却
 して、その代金により新線建設を行なおうという案まで
 出るほどだった。
  鉄道網速成の方針と、財政窮乏のジレンマが、幹線鉄
 道建設の一部を民間に委ねるという方針転換をさせるこ
 とになった。
  こうして、1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、
 日本鉄道が設立された。
  1883年(明治16年)、井上は、工部卿宛てに意見書「
 私設鉄道に関する論旨」を提出し、この中で、鉄道の用
 途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでな
 いことを原則とし、民営に委ねた場合に発生する、無用
 の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げた。
  一方、政府の手厚い保護を受けていた日本鉄道が、当
 然の好調な決算を発表すると、各地で、私設鉄道設立ブ
 ームが起きた。
  1884年(明治17年)阪堺鉄道や、
  1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、
  両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(
 初代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 った。
  これは、1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね
 返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄
 道の経営の悪化を招いた。
  この状況は間もなく回復したが、このような状況の中
 で、1891年(明治24年)、井上は、「鉄道政略に関する
 議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加えて、既設
 私設鉄道の買収を前面に押し出した。
  そのための私設鉄道買収法の制定が必要であると説い
 た。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず。
  1892年(明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加え
 た鉄道敷設法が制定された。
  しかし、これは、予定線建設のために必要がある場合
 のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必
 要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながらも、
 実際は、予定線の民間による建設を容認するなど、議会
 を構成する私設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主
 たちによって骨抜きになった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、
 渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの
 財界の有力者たちであった。
  資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大きな利益
 をもたらすとともに、産業と鉄道との間に密接な関連性
 があることをよく認識された。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「
 鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて、渋沢らは、1894年(明治27年)に、官設鉄道
 払下計画を立案し、一挙に、理想とする鉄道民営を実現
 させたいとしたが、日清戦争の勃発にともない、計画は
 頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、1899年(
 明治32年)だった。
  衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、可
 決された。
  調査期間として、首相直属の鉄道国有調査会が設置さ
 れた。
  そして、その報告に基づき、翌年・1900年、鉄道国有
 法案、および、私設鉄道買収法案が帝国議会に提出され
 たが、これも議決されることはなかった。
1891年12月、春木座の新築落成して、四日より開場。
 八百蔵、猿之助、勘五郎、芝鶴らが出演。
  東京都文京区本郷3-14 に本郷座跡というのがある。
  本郷座(ほんごうざ)は、明治初期から戦前昭和まで
 あった劇場で、はじめ奥田座(おくだざ)と言い、次い
 で、春木座(はるきざ)といった。
  本郷座は、1873年(明治6年)7月11日、本郷の地主・
 奥田某が開場させた。
  そして、1876年(明治9年)に、所在地の名を取って
 春木座と改名し、主に歌舞伎を上演し、
  1884年(明治17年)頃には、九代目市川團十郎や五代
 目尾上菊五郎らが出演して活況を呈した。
  1885年(明治18年)から1886年(明治19年)にかけて、
 三田村熊吉の鳥熊芝居を上演した。
  1890年(明治23年)に、本郷大火で類焼した。
  1891年の翌年に、新築開場したが、
  1898年(明治31年)に、また類焼してしまった。
  そして、1899年のその翌年に、再築開場している。
  回り舞台や花道のある大劇場であり、様々な芸能の画
 期となる公演を開いた。
  この明治、大正時代の演劇の拠点になった所は、1902
 年以降は、区名を採って本郷座と改称し、これ以後は、
 新派の川上音二郎一座がハムレットを演じ、盛況を極め
 た。
  新派全盛の原動力となった。
  下町と山の手を結ぶ立地の良さから、東京の六大劇場
 の一つに数えられ、繁栄した。
  しかし、第二次世界大戦の戦災で、跡形もなくなって
 しまった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国・日本・世界で利権を求める輩たち・・イギリス・アメリカ・・
.
1851年1月、太平天国の乱(たいへいてんごく、~1864年8
 月)
  清朝の中国で起こった大規模な反乱。
  洪秀全を天王とし、キリスト教的組織の太平天国によ
 って起きた乱で、卑劣なことに、2000万人も死んだ。
  この死者のほとんどが民間人という悲惨さだった。
  『長髪賊の乱』とも言われる。
  清朝軍は、イギリスの、卑劣なアヘン(麻薬)売つけ
 で、国や人民が劣化するという非人道的なアヘン戦争で
 消耗していた。
  太平天国軍を平定する力はなかった。
  太平天国軍は、膨れ上がって行った。
  いつもの様に卑劣なイギリスは、裏で絡んだ。
  イギリスは中国の銀を吸収し、手に入れていた。
  1796年~1804年の白蓮教徒(仏教・浄土教の結社)も
 関係した。
  この様な様々な流れの中から生まれた賊軍により構成
 された反乱軍だった。
  匪賊(ひぞく、集団で掠奪や暴行などを行なっていた
 山賊的な賊)も吸収されていた。
  「太平天国」は、「滅満興漢(満州族による政権・清
 朝を滅ぼし、漢民族の世にしよう、復興させよう)」を
 スローガンに掲げる反清朝の民族主義の運動であると共
 に・・、
  「天朝田畝制度」などで、平等社会の実現をめざし、
 満州族の支配と、外国貿易の開始による物価騰貴などに
 苦しむ農民・貧民の心を捉え、大勢力に成長した。
  また、太平天国内では、アヘンの吸引は禁止され、満
 州人の習俗である辮髪も否定され、封建的な纏足の風習
 などもやめることが奨励された。
  また、清朝側は、彼らを長髪族と呼んだ。
  当時は、侮蔑的な長髪族という呼称のほうが一般的で、
 太平天国という呼称が一般化したのは1930年代以降。
  キリスト教に感化していたと言われるリーダーの洪秀
 全は、王宮で女官に囲まれてすごし、次第に統治力を失
 い、若い李秀成などが、軍事面で活躍し、台頭した。
  そして、洪秀全に、かつての様な求心力がなくなり、
 翼王の石達開(せきたつかい、太平天国の指導者の一人)
 も離脱し、太平天国軍は急速に衰退して行った。
  1856年6月、アロー戦争・・、卑劣な事にイギリス・ア
 メリカ・フランス・ロシアは、甘い汁を吸いたいと、衰
 退した清国に戦争を起こした。
  そして、1860年に、清朝政府を屈服させた。
  イギリス・アメリカなどの列強は、清朝を利用し、中
 国での利権を拡大した。
  しかし、民族主義的な太平天国は、この利権獲得に対
 して危険だとするようになり、逆に、その弾圧をするよ
 うになった。
  この外国勢力の欲による離反も、太平天国を弱め、滅
 ぼした。
  アメリカ人のウォードや、イギリス人ゴードンの指導
 した常勝軍や、左宗棠の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(
 淮勇)(ともに曽国藩の部下)という郷勇の軍事力が、
 共同して、太平天国軍を攻撃するまでした。
  1864年、洪秀全が病死し、天京が陥落し、鎮圧された。
  この後に、さらに、イギリスなどは、中国を植民地化し、
 侵略した。
  アメリカも、同時に、中国の利権を求めた。
  イギリス・アメリカが植民地化した地域は、中国の大
 都市で、中国市民のの利権を排除して奪って行った。
  ユダヤ系のサッスーン財閥は、中国の利権獲得に功績
 があったと、イギリス政府からイギリス貴族に列せられ
 るほどだった。
.
1938年、中国を支援する輩たち、ソ連から毎年1300万元の
 抗日資金を供与されていた中国共産党。
  しかし、この裏には、狡猾なアメリカが居た。
  アメリカ・イギリスは、ロシア革命を援助したが(ア
 メリカ・イギリスのユダヤ財閥)、
  特に、アメリカの財閥は、ソ連から流出させた金をア
 メリカに持ち帰り、代わりに、アメリカで印刷したルー
 ブル紙幣という紙切れを、ソ連政府と人民に与えた。
  そのアメリカで印刷された紙きれの金(カネ)が、毎
 年の抗日工作費として、中国共産党に供与された。
  この事から、中国共産党は、イギリスが、中国をじゃ
 んじゃん開発して、植民地化しても、何も言わなかった。
  (今・現在は、中国が、国際通貨となった元をどんど
 ん刷って、世界中で配っている・・使っている・・工作
 している)
.
1944年11月、イギリスの植民地担当大臣モイン卿が暗殺さ
 れた・・仇(かたき)を取られた。
  イギリスの厳しい臨検で、第二次世界大戦中に、ボー
 トピープルとして海上をさ迷ったユダヤ人の方々の悲惨
 な話は、非常に多く、ごまんと溢れていた。
  その数々の卑劣な行為の中でも、「ストルマ号事件」
 は、ユダヤ人の方々の、イギリスに対する「恨みと憤り」
 を一層大きく形作った。
  1941年12月、769人のユダヤ難民を乗せ、ルーマニアを
 出港した「ストルマ号」は、イギリスによって上陸を禁
 止された。
  そして、2ヶ月以上も海上をさ迷う運命にされ・・、
 最後には、船は、沈没してしまった。
  ユダヤ人の方たちにとって、この「ストルマ号事件」
 は、イギリスの本性を如実に示す事例として、いつまで
 も忘れることの出来ない事件となった。
  ユダヤの方たちは、この復讐を誓った・・
  「目には目を」・・である。
  1944年11月、当時、カイロに来ていたイギリスの植民
 地担当大臣モイン卿は暗殺された。
  (参考)ナタン・イェリン=モル(シオニズム活動家、
     イスラエルの政治家)は、ウォルター・モイン
     (モイン卿)殺害計画をした1人だった。
      レヒ(イギリス統治領時代のパレスチナのユ
     ダヤ人地下武装組織)は、イギリスからテロリ
     スト集団とされていた。
      レヒは、1944年のカイロにおけるウォルター・
     モイン(駐カイロ英公使)の暗殺をはじめ、
      パレスチナのアラブ人やイギリス人を狙った
     攻撃を行った。
  「ストルマ号」沈没の知らせが入った時、イギリス上
 院のディヴィス卿は、怒って、「イギリス政府は、ヒト
 ラーの政策を助けているのか?」と言った。
  これに対し、クランボーン卿は、イギリス政府の名に
 おいて、次のように答えた・・、
  「この問題は、今日取り挙げない方が賢明というもの
 でしょう・・」・・と・・、
.
1945年8月、戦争が終わった時、日本の供給能力は、戦前の
 2割になっていた。
  8割が失われるという凄(すさ)まじさだった。
  日本経済は、その様な状況から這い上がった。
  しかし、その様な日本に対して・・、
  アメリカ主導のGHQは、なかなか発電所の新設をさ
 せなかった。
  日本の復興・復旧のためには、何より電力回復が必要
 だったのにである。
  アメリカは、日本の復興の足を引っ張った。
.
1945年9月4日、アメリカ軍の進駐によって、神奈川県では
 女学校を休校にすることを指示した。
  (破廉恥な強姦行為を恐れた)
  そして、アメリカの戦後占領政策が始まって行くが・・、
  このアメリカの戦後政策の目指したものは、日本を属
 国(衛星国)とし・・、
  日本を、アメリカの世界支配システムに組み込むこと
 だった。
  そして、半永久的に、日本列島に、アメリカの占領軍
 を配置したいということだった。
  日本を、軍事基地として、半永久的に使用することだ
 った。
  この時から約40年後の・・1983年(昭和58年)11月11
 日のことだが・・、
  日本の中曽根康弘首相は、アメリカのレーガン大統領
 夫妻を、東京の最奥の山の中、日の出村の別荘に招いた。
  何も接待するものさえない様なところで・・、
  囲炉裏の前に、イスもない所に、ただ、笑顔で座って
 いるレーガン夫妻の写真が・・印象に残る。
  その場に似つかわしくない正装姿の夫妻の姿が・・そ
 こにあった。
  その様な時、中曽根首相は、「日本は、不沈空母だ」
 と言った。
  「ゴマすり」なのだろうが・・日本は、敵からいくら
 攻撃されても「沈まない基地だ」という意味だった。
  そして、だから、その沈まない滑走路から、アメリカ
 の為に反撃する戦闘機が発進する・・その沈まない空母
 のようなものです・・と、日本のぎりぎりの貢献の姿を、
 卑屈なまでの表現の仕方で表現した・・そして、日米同
 盟の強固さを、その様な卑屈な言い方で、言った。
  敵から、叩かれても、叩かれても、沈まないという悲
 しいまでの表現で、日米同盟の存立の意義を表現した。
  その心は、卑屈な「アメリカの思う様に、思惑に沿っ
 て行きます」だった。
  日本の求める所は・・本当は・・日米の同盟関係があ
 ろうとなかろうと、日本は、最強の、最新兵器で、強固
 に守られていなければならない。
  国民の『生命』と『財産』が守られていなければなら
 ない。
  強固にヤマアラシという動物が、全身くまなくとげの
 針を出して守っている様に、日本も自力で守られておら
 ねばならない。
  最強・最新の効果ある防衛兵器によって・・、
  『この時のレーガン大統領の礼状』・・・
  1983年12月16日、親愛なる宮岡町長様
  ナンシーと私は、大変短い日本滞在に中に、日の出町
 を訪れる事が出来て大変よろこんでいます。
  私達は、暖かい歓迎を深く感謝します。
  そして、景色のよい町のすばらしい人々の思い出を長
 く忘れないでしょう。
  私達へのステキなプレゼントは、日の出の人々と私達
 が分かち合った友情の思い出となる事でしょう。
  あなたがたの町のハナミズキの木が、私達2ケ国の人々
 の間の歴史的きずなの象徴となることを祈ります。
  あなたがたの心からの好意を大変感謝します。
  ナンシーと私は、あなたとあなたのすべての町の人々
 の永遠の幸福をお祈りいたします。
            ロナルド・レーガン
  そして、『中曽根首相の手紙』・・、
  日の出町皆さん、その後お変わりございませんか。
  先日、日の出山荘で行われました私とレーガン米大統
 領との日米両国首脳会議に際しましては、町をあげての
 心からの御歓迎と御協力をいただき、本当にありがとう
 ございました。
  世界の平和・軍縮・景気浮揚など、広い範囲にわたる
 重要な会談の合間に開かれた日の出会談は、私と妻が主
 催して開いたものですが、レーガン大統領、ナンシー夫
 人ともどもたいへん喜んでくださいました。
  勿論、私とレーガン大統領の二者会談では、日米、及
 び、世界に関する重要な話し合いをいたしました。
  また、大統領ご夫妻は、日本の伝統ある美しい農家の
 たたずまいと、東京近郊外の静かな風情の中での会談は、
 日本の思い出の中でも、とりわけ印象深かったと話し、
 丁重な礼状をいただきました。
  私たちは、囲炉裏の端で、茶の湯や日本酒やお刺身の
 おもてなしをし、ちゃんちゃんこで、ご夫妻にくつろい
 でいただきました。
  私たち日本人の、ふつうの生活のありさまを知ってい
 ただきたかったからであります。
  レーガン大統領は、アメリカ人の健康の面からも日本
 食の普及に強い関心を持っておられました。
  これも、町長様はじめ、町民の皆さんの御理解とご協
 力のたまものと、改めて感謝を申し上げるものでありま
 す。
  日の出町が、この会談を機会に、日本とアメリカの友
 好の象徴の地となり、今後、益々発展されますこと、ま
 た、皆さんの末永い御多幸を心からお祈り申し上げまし
 て御礼の言葉と致します。
  昭和58年12月 内閣総理大臣 中曽根 康弘
.
1989年~1990年、日米構造協議
  アメリカと日本の間で、日米貿易不均衡の是正の名の
 下に・・これを目的として・・1989年から1990年までの
 間、計5次開催された2国間協議。
  1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年か
 らはじまる、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」
 への流れを形成した。
  この会議に於いて、日本の担当官僚の協議者は、アメ
 リカ官僚に、上から目線で、怒鳴られたり、脅されたり
 しての協議だった。
  結局、アメリカがやりやすい様に日本を改造するとい
 う協議だった。
  そして、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」と、
 毎年、毎年、この様なコントロールの状態が続き、アメ
 リカの属州の如くの日本にされて行った。
  アメリカという大きな国の前の日本が「そこにあった」。
  本当は・・日本は・・すべてが自前で揃(そろ)えら
 れる優秀な国なのである・・、
  その揃っているところが「貴重」であり、「優秀」な
 のだ。
  長い歴史の中で・・工夫して、また、苦労して・・で
 きるようになったからだ。
  しかし、このアメリカの圧力の様な外因も一因で、時
 代の経過の中で「匠」と称される人々が居なくなる。
  それと同時に、その匠の方たちの作る物品も無くなっ
 て・・生活の豊かさが失われて来ている。
  歴史のなかで、育まれた「貴重な日本の宝」がなくな
 っている。
  また、外国との経済協定において、外国の低廉品に駆
 逐される・・安いだけの品物に・・、
  「安いのが良いのだ」「安いものが善なのだ」という
 判断スケールを押し付けられる・・、
  長い歴史の中で、育まれ・・やっとできて来た「貴重
 な日本の伝統の技」と「その物品」が失われていく。
  この事例の様に・・自分勝手な判断規準を、押し付け
 て来る国「アメリカ」。
  すべてに供給能力のある日本が・・その揃(そろ)っ
 ているところが優秀なのにだ。
  しかし、その日本の中にあるアメリカの判断基準に合
 わないものが狙われて・・壊されていく・・潰されてい
 く・・(アメリカに合わせろ!と)、
  「日本は規制している」とか、日本の保護策を「アン・
 フェアだ」と言いつのって来る。
  日本のおいしい牛の遺伝子が盗まれたが・・、
  また、酪農に「未来の夢が見いだせなくなった」と言
 う酪農家が自殺したが・・、
  安いだけの物品が・・善であるわけが無い・・
  善の判断基準を・・「自分の好みに作って」「正義だ」
 と押し付ける・・それは間違っている・・正義では無い。
  安いだけで・・強いからと・・その強い物品だけが、
 市場を席巻し、「ある一品だけ」になるという「市場の
 寡占化」が正しい訳が無い・・
  国民の選択肢が限られる・・少ない状況が・・その様
 な姿が・・善であるわけがない・・正しい訳が無い。
  かつては・・干し肉だけを食っているカウボーイのア
 メリカの時代は・・食は・・遠い昔だけにしたい。
  無味乾燥のアメリカ文化を、金科玉条(きんかぎょく
 じょう)にするは・・背筋が寒い・・
  逆に、アメリカは・・豊かさのある日本に学べ!
.
2014年12月17日、日本政府は、アメリカのホロコーストセ
 ンターの行なっている「慰安婦プログラム」に抗議した。
  韓国・聯合ニュースは17日(2014年12月17日)、米・
 ニューヨークのホロコーストセンターが行っている慰安
 婦などに関する講義に、日本政府が「内容が歴史的事実
 と違う」などと抗議したことを伝えた。
  ニューヨークの韓国人団体関係者が明らかにした。
  ホロコーストセンターは、ニューヨーク市立大学クイ
 ーンズボロ・コミュニティ・カレッジの傘下にある。
  問題の講義は、「東アジアの歴史の定義インターンシ
 ップ」というプログラムで、学生に慰安婦や強制労働、
 民間人虐殺といった日本の戦争犯罪を伝えるほか、被害
 者へのインタビューを行い、記録として残す活動もして
 いるという。
  日本側は、先週、同記念館を訪れ、所長から講義の内
 容を聞いたうえで、「歴史的事実と違う」などと主張し
 た。
  また、ホロコーストを後世に伝える目的のセンターが、
 慰安婦問題を取り扱うようになったことにも疑問を呈し
 たという。
  記事は、在米韓国人団体関係者の「日本が米国の地方
 政府関係者と個別に接触しながら慰安婦問題を否定する
 ロビー活動を活発化している」というコメントを紹介し
 たうえで、今回の抗議を「日本が最近、米国政界を相手
 に『慰安婦ロビー』を強化していることの一環」と分析
 した。
  (参考:事実)話は、まったくこの逆なのである。
     元々、韓国・中国が、日本を貶(おとし)める
     活動を行なって来ている事に、今まで、日本は、
     沈黙を守って来た・・しかし、その韓国・中国
     の発言のあまりの酷さに、日本は、正しい発言
     をするべきだと、この様な行動となっている。
.
2017年8月9日、日本の海上自衛隊は、世界最先端で最強。
  ロシアの軍事専門家が、その様に分析した。
  日本国民の『大切な生命と財産』を守っていただいて
 いる自衛隊が、その様な優秀さだと評価されたことは喜
 ばしいが・・しかし、弱点もあると・・
  以下・・その報道・・、
  東シナ海と南シナ海に浮かぶ島の領有権を主張して、
 周辺海域における動きを活発化させている中国は、急速
 に海軍の軍備を増強している。
  中国メディア・今日頭条は8日、「ロシアの軍事専門
 家は、日本の海上自衛隊が、アジアナンバー1だと言っ
 ているが、それは本当なのか」とする記事を掲載した。
  (参考)今日頭条:Toutiao、中国で驚異的な成長をし
     ているニュースのアプリケーション。
      北京字節跳動科技(バイトダンス・テクノロ
     ジー)が運営し、このアプリの名前は、「本日
     のヘッドライン」を意味する。
      会社として記者や編集スタッフを全く抱えて
     いない。
      Toutiaoは、人工知能を活用し他のニュースサ
     イトの記事をキュレーション(インターネット
     上の情報を収集しまとめる)して、配信してい
     る。
  記事は、ロシアの軍事専門家の見立てとして・・
  「日本の海上自衛隊は、世界最先端の海上軍備を持つ
 集団の1つであり、艦船のトン数規模も世界トップレベ
 ルだ」とした。
  また、第2次世界大戦終戦後に、敗戦国として軍備開
 発が制限されるなかで、海上自衛隊は、静かに排水量2
 万トン前後のヘリ空母や、世界最先端の「こんごう」型
 護衛艦、「あたご」型護衛艦、潜水艦、ミサイル艇、揚
 陸艦、掃海艦艇など、各種の艦艇100隻あまりに加え、
 各種固定翼機、ヘリコプターなど160機あまりを有し、
 総兵力は約5万人という軍備を整えていったと伝えてい
 る。
  さらに、海上自衛隊は、対潜能力や掃海能力を非常に
 重視しており、これらが長所となっていると説明。
  日本で生産される通常動力潜水艦は、対艦、対潜能力
 が非常に際立っているとし、その筆頭格として「そうり
 ゅう」型潜水艇のスペック(仕様)について紹介した。
  記事は、そのうえで「ロシアの軍事専門家が、日本の
 海上自衛隊をアジア最強と称するのは、総合的な性能や
 戦力から見れば一理ある。
  しかし、海上自衛隊には、戦略型原子力潜水艦を持た
 ないという欠点がある。
  アジアの中で強くなるためには、大きな不足だ」と評
 した。
.
2017年8月13日、北朝鮮のミサイルは落とせないと、韓国が
 発表した。
  産経新聞、【ソウル=名村隆寛】北朝鮮が、アメリカ
 領のグアム沖に向けた中距離弾道ミサイル「火星12」
 の発射を検討する中、日米韓の3カ国が着々と迎撃態勢
 を整えている。
  韓国軍は、ミサイル防衛(MD)システムによる発射
 の探知や追跡で重大事態に対処する構え。
  韓国軍は自衛隊同様、地対空誘導弾パトリオット(P
 AC3)を保有している。
  ただ、これは、北朝鮮からの短距離ミサイル迎撃を目
 的としたものとされ、グアムを狙った弾道ミサイルの迎
 撃は困難。
  弾道ミサイルを迎撃できるのは、イージス駆逐艦が搭
 載する海上配備型迎撃ミサイル(SM3)だが、韓国海
 軍の駆逐艦にはSM3が搭載されていない。
  このため、朝鮮半島近海での迎撃は、米軍のSM3に
 頼ることになる。
  独自の衛星を保有していない韓国軍が、今回、可能な
 のは、発射直後のミサイル探知と追跡になりそうだ。
  イージス駆逐艦や早期警戒管制機E737、弾道ミサ
 イル早期警報レーダーなどを総動員してミサイルの探知
 に専念し、情報を日米に伝えるとみられる。
  韓国では、北朝鮮の弾道ミサイルに対処する米軍の最
 新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」
 の配備が進められている。
  配備済みは2基で、残る4基も追加配備の予定だが、
 在韓米軍に保管中。
  THAAD配備地では、市民団体の反対で中止が続い
 ていた環境影響評価のための測定が12日、行われ、
  韓国国防省は、電磁波や騒音には問題がないと明らか
 にした。
  文在寅(ムン・ジェイン)大統領の指示を受け、韓国
 軍は、4基の追加配備を発表済みだが、反対世論を前に
 足踏み状態が続いている。
.
2017年8月13日、池上彰が日本を貶(おとし)める番組(テ
 レビ東京)や、安倍首相への「悪い印象操作」をするテ
 レビ東京の「たちの悪い行為」をした・・、
  テレビ東京、午後7時54分~午後9時54分、番組名「池
 上彰の戦争を考えるSP、「特攻」とは何だったのか」
  日本だけを悪く言い過ぎる番組・・自虐番組・・、
  キリスト教に偏するNHK出身の池上彰が日本を貶め
 た。
  天皇陛下は、基本的に戦争に対して『避戦』であった。
  しかし、池上彰は、この様なことを少しも説明をしな
 いで、戦争を止めようという話に同意しなかった事例を、
 ことさら、それが、天皇陛下のお考えのすべてである様
 に印象操作し、思わせる発言をした。
  まったく、天皇陛下を貶める印象操作を行なった。
  日本国民に対して、天皇陛下の悪印象を持たせようと
 いう悪意ある発言となっている。
  この番組は、この事例の様な様々な事例を、色々取り
 上げて、日本を貶めた。
  そして、日本の悪い所だけをあげつらって、ああだ、
 こうだと、悪印象を持つように言いつのった。
  制作させたテレビ東京もそうだが、この様な番組を、
 金を出して提供する企業の『番組提供の責任』が問われ
 る番組だった。
  日本が、その様に至るアメリカについては全く触れず、
 説明せず、アメリカの非人道的な一般の民間人を、日本
 人を、大量虐殺した大都市や田舎の都市まで含めた、焼
 夷弾の無差別爆撃の悪行為などの事例は、まったく一言
 も触れなかった。
  その行動が起こされる背景のアメリカ側は、まったく
 隠すという偏した番組で、日本を貶めるだけの印象操作
 をした・・公平性の全く無い、公正さの全く無い放送。
  また、テレビ東京は、その後の番組でも、貶める印象
 操作の番組を放送をした。
  番組名「しくじり先生」は、安倍首相の一議員の時の
 事をひたすら取り上げて、安倍首相を悪く印象操作する
 番組だった。
  安倍首相の「首相の時でない一議員の写真」が出る必
 然性は、まったく無いのに、ひたすら安倍首相の顔写真
 を何度も出して、印象付けて放送した。
  この悪い行為を、安倍首相があたかもしたかの様な印
 象操作だった。
  自民党がまったく知識もない劣悪人間を国会議員選挙
 の立候補者にしたという「失敗の連続のお粗末な話」で、
 安倍首相や自民党の悪印象への印象操作した。
  この様に、次から次へとテレビ東京は、日本を貶めた
 り、安倍首相への悪の印象を持たせたりと、貶める番組
 ばかりを放送した。
  提供企業・・
  明治安田生命、ハミング(花王石鹸)、りらくる(株
 式会社りらく)、au(KDDI株式会社)、小林製薬、
 シャドーバーズ(株式会社DMM.comラボ)、朝日新聞、サ
 ントリー、千寿製薬、docomo(NTTドコモ)、ボラギノ
 ール(天藤製薬)、コカ・コーラ(日本コカ・コーラ株式
 会社)
  こんな番組を提供し、後援して、宣伝の目的が果たせ
 るのか・・??
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月15日、ジェームズ・ネイスミス(カナダ、体育
 教育者)が、バスケットボールを考案した。
  この年、ルーサー・ギューリック体育学部長は、授業
 で学生たちに屋内競技の考案を課題として与えた。
  これは、冬季のニューイングランドで、学生たちが体
 を動かせるようにと意図したものだった。
  学生らが提出した様々な案は、ラグビーやサッカーの
 ように身体接触を含み、屋内には不向きのものが多かっ
 た。
  一方で、ギューリックは、ネイスミスが考案した競技
 に興味を持っていて、2週間の期間を与えて、さらに詳細
 を詰めるように指示をした。
  ネイスミスが考え出した競技は、ボールを持ったまま
 走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、
 競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでも
 ボールを奪い、得点することができる・・という基本的
 なルールを持った。
  高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには
 力よりも正確さが必要となり、怪我の機会が少なくでき
 ると考えていた。
  この新しい競技は、ラグビー、サッカー、ラクロスが
 ヒントになっていて、
  また、ネイスミスが、少年時代に近所の子供たちとし
 た遊びの要素も入っていた。
  この遊びは、物を置いて、それに石をぶつけるという
 ものだった。
  1891年12月21日、授業で、この競技を初めて行う時、
 たまたま手に入れた桃の籠を、体育館内のバルコニーの
 下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1
 チーム9人で行われた。
  競技は、学生の案で「バスケットボール」と名づけら
 れた。
1891年12月17日、鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を衆議
 院で審議した(特別委員会に付託)
  1891年11月に提出された内務大臣・品川弥二郎の「鉄
 道政略ニ関スル件」について、
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  1887年頃~1907年頃は、幹線鉄道の建設を盛んにした。
  地域社会は、みずから資本を調達して、私設鉄道を建
 設する意図をもつ例も少なくなかった・・が・・
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  この理由は、地域社会における資本蓄積が、まだ、十
 分でないためだった。
  軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除いて、その他の鉄道建
 設投資は、巨額な資本投下を必要とし、鉄道建設を行な
 うには、無理があった。
  しかし、その必要性は十分理解されていたため、多く
 の地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際し、みずから
 の地域に有利なルートを採択させたいと努力した。
  翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、かつ、
 帝国議会を通じて、地域社会の意志が鉄道建設に反映し
 て行った。
  この動きは活発化して行った。
  1891年11月に提出された「鉄道政略ニ関スル議」は、
 長文の文書で要点は2つあった・・、
  第1:将来の日本の幹線鉄道路線の決定
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要。
  第2:幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政府が買収
 すること。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院は解散されてしまった。
  そして、翌年の1892年5月に、改選された帝国議会で、
 政府は、上記の2法案を、再び、提案した。
  衆議院議員の中からも、「鉄道拡張法案」、あるいは、
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案が独自に提案されたりした。
  政府の提案は、これらと折衷され、1892年6月21日、
 「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)として公布され、
 日本の大発展の礎となった。
  政府のしっかりした意思と計画(ビジョン)が示され
 た。
1891年12月18日、田中正造代議士が、足尾銅山の鉱毒問題
 に関する質問書を、衆議院に提出し、政府に対策をせま
 った。
  これは、銅山の開発により、排煙、鉱毒ガス、鉱毒水
 などの有害物質が、周辺環境に著しく影響をもたらすと
 いう日本で初めての公害事件だった。
  田中正造が中心となって、国へ問題提起するものの、
 加害者の決定がなされなかった。
  足尾地区では、江戸時代から銅は採掘されていたが、
 江戸時代前期をピークとして、産出量は低下し、幕末に
 は、ほとんど廃山の状態となっていた。
  明治になり、民間払い下げで、1877年(明治10年)に、
 古河市兵衛の経営となった。
  採鉱事業の近代化を進め、1885年までに、大鉱脈が発
 見され、足尾銅山は日本最大(東アジア一)の鉱山とな
 った。
  そして、銅は、日本の主要輸出品の一つとなった。
  (足尾銅山は、日本の産出量の1/4を占めた)
  それとともに、鉱毒ガスや、それによる酸性雨により
 足尾銅山近辺の山は禿山となり、
  山林の無くなった山地は崩れやすく、崩落・崩壊し、
 山崩れとなった。
  鉱毒を含んだ土砂は、渡良瀬川を流れ、下流で堆積し
 た。
  また、流出する土砂は、天井川となって洪水を起こし、
  流出する鉱毒は、鮎などの川魚を大量死させた。
  周囲一帯には、鉱毒ガスに満ちた。
  農産物は枯死し、廃村となる村も出た。
  対策工事は行われて、一定の効果はあるものの、
  技術のまだ未発達の当時は、その原因の根本である鉱
 毒ガスの無害化は出来ず、根本解決には至らなかった。
  1973年(昭和48年)に至り、足尾の銅は掘り尽され、
 閉山となり、公害は減少した。
  (精錬所は、1980年代まで操業し、鉱毒は流出した)
  鉱毒への闘い:
  鉱毒被害地の農民は、明治30年の1897年、大挙して東
 京へ陳情した(当時は「押出し」と言った)
  世論が高まると、政府は、同年・1897年3月、足尾銅山
 鉱毒調査委員会を設置した。
  そして、数度の「鉱毒予防令」を出した。
  特に、政府の行なった大規模なものは、1897年5月の第
 3回の予防令で・・、
  古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙
 突への脱硫装置の設置を命令した。
  これらは、どれもが、数十日の期限付きで、一つでも
 遅れた場合には『閉山する』という厳しいものだった。
  古河側は、当時、珍しかった電灯などを活用して、24
 時間体制で工事を行ない、すべての工事が期限内に完成
 することができた・・が・・
  すべての鉱毒(二酸化硫黄=亜硫酸ガス、銅イオンな
 どの金属イオン、鉛、カドミウム・・)の除去には至ら
 なかった。
1891年12月21日、鉄道買収法案審査特別委員会が開かれ、
 自由党の石田貫之助が、国有反対の意見を述べた。
  また、この日、九州鉄道会社は、下等旅客運賃の値上
 げを申請して(認可された)
1891年12月21日、日本鉄道会社が、23日までの3日間、東京
 帝国ホテルにて、『東京~青森間全通式』を挙行した。
1891年12月21日、ジェームズ・ネイスミスが考案したバス
 ケットボールの試合が、初めて行われた。
1891年12月22日、東京商業会議所が、私設鉄道買収に関す
 る請願書を提出した。
1891年12月22日、海軍大臣の樺山資紀が、海軍省経費削減
 反対の蛮勇演説を行なった。
  衆議院にて、薩長藩閥政府の正当性と功績を力説・
 高揚し、また、民党批判を行ない、反感を買い、議場は
 混乱した。
  1891年11月、第1次松方内閣が、翌年(1892年)の予算
 案を帝国議会へ提出したが・・、
  これは、海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万
 円を含む、前年度比約650万円増となっていた。
  この予算案に対し、民党は、前の第1次山縣内閣時から
 の主張である「民力休養・政費節減」を継続した。
  そして、海軍内の綱紀粛正がなされなければ、予算は
 認められないなどとした。
  そして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万
 を削減した予算改定案が提出された。
  海軍要求を無視するこの改定案に、樺山海相が反論し
 た。
  民党側議員は猛反発し、議場は大混乱した。
  この後、民党は、政府への反発を強め、衆議院で改定
 案を原案とする予算案が可決された。
  このため、松方正義首相は、12月25日に、初めて衆議
 院解散を行なった。
1891年12月22日、東京・京橋の広告社が、探偵業務の広告
 を出した(5月21日説あり)
  1891年5月21日付けの当時の『朝日新聞』に、帝國探明
 會という企業が・・、
  「詐欺師や盗人の所在を調べる。他人の行動調査を実
 施する」との広告を出した(国立国会図書館の蔵書にて
 確認)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は、世界を繰る、海外を広報戦略するために、
   膨大な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
.
1773年12月16日、ボストン・ティーパーティ事件(ボスト
 ン茶会事件)
  アメリカのマサチューセッツ植民地のボストンで・・、
  イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の
 急進派人々が、
  港に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド
 会社の船荷である紅茶箱を海に投棄し、抵抗した。
.
1774年3月、ボストン港閉鎖を含む「耐えがたい諸法」と呼
 ばれる『弾圧法』をイギリスは出した。
  イギリスは、ボストン茶会事件の報復で・・
  ボストン港を封鎖し、
  さらに、強圧的諸条例を制定し、
  植民地のアメリカ側を屈服させようとした。
  「ボストン茶会事件の報復として、イギリスは・・、
 1774年3月、茶会事件の損害1万5000ポンドを弁償するま
 で、ボストン港を閉鎖する」とした。
  ボストン市民は、これを拒否し、
  マサチューセッツ住民やほかの植民地住民もこれに同
 調し・・大陸会議を結成して抵抗した。
.
1785年5月20日、アメリカで「交有地条例」ができた。
  アメリカが独立した当時・・、
  アメリカの領土は、アパラチア山脈の東側、大西洋岸
 一帯の約40万平方マイルに過ぎなかった。
  しかし、これが、1783年のパリ条約で、北はカナダ、
 南はフロリダ、西はミシシッピ川に至る・・88万9000平
 方マイル以上の、二倍となった。
  そして、自分たちに都合の良い「土地法」を制定した。
  1785年の『交有地条例』と、1787年の『北西部領地条
 例』。
  この交有地条例は、1785年5月20日にできた法律で、ア
 メリカ合衆国の連合会議で採択され、連合規約で規定さ
 れた。
  1781年に発足した連合会議は、合衆国の住民に直接課
 税して歳入を上げる権限を持たなかった・・
  そのため、この条例の目的は、アメリカ独立戦争でイ
 ギリスから得たと決めた(勝手な決定)、
   まだ、地図も出来ていない西方の広大な領土を売却
 して、現金を得ることにあった。
  また、北西部領地条例は、1787年に、アメリカの大陸
 会議によって制定された西部の政府組織法で・・、
  この年(1787年)、フィラデルフィアの合衆国憲法制
 定会議で起草された連邦憲法とあわせて、アメリカの基
 本法となった。
  独立戦争の結果、アメリカ領土となったオハイオ川以
 北の(いわゆる旧北西部地方)を、いくつかの地域に分
 け、
  まず、大陸会議の任命した総督による統治、
  次に、自由成人男子人口が 5000人に達したとき議会を
 設けて准邦 (州) となり、
  さらに、自由住民が6万人に達し、共和制に基づく憲法
 を制定することにより、独立 13邦 (州) と対等な邦 (州)
 として連邦への加入が認められる、という連邦への段階
 的加入を規定した。
  なお、3年後、南西部領地条例が制定され、「北西部領
 地条例が全西方領土に適用される」ことになった。
  勝手な法律を勝手に決めて、領土は自分のものとした。
.
1787年9月17日、アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に
 作成され、1788年に発行され・・
  現在、機能している世界最古の成文憲法だと言って、
 自慢げに説明されているが・・、
  奴隷については、『容認していた』。
  (人権無視の遅れているアメリカ)。
  1865年に、やっと、修正された・・、
  「修正13条(1865年)第1節:奴隷、または、その意に
 反する苦役は、当事者が適法に有罪判決を受けた犯罪に
 対する処罰の場合を除いては、合衆国、または、その権
 限の及ぶいかなる場所においても存在してはならない」
 となったが・・しかし・・まだ・・
  奴隷の存在は認められ・・、
  そして、逃亡した奴隷が自由になれるどころか、元の
 所に戻さねばならないとした・・、
  (奴隷状態に戻さねばならないとして)・・、
  (奴隷状態のままにしなければならない)とした。
  卑劣である・・奴隷制度を容認している。
  キリスト教聖書が、奴隷制度を容認しているが、
  アメリカ憲法も、奴隷制に対して違和感が無く、容認
 した。
  アメリカの北部政権は、リンカーンを記念堂に祀り(
 祭り上げ)、さも、リンカーンが、奴隷解放宣言をした
 から、黒人奴隷が解放されたというロジックで、『嘘の
 プロパガンダ』をしている。
  そしてまた、悪いのは、アメリカ南部のプランターの
 経営者たちだと、罪を擦り付けているが・・これは真っ
 赤な嘘。
  北部・資産家たちも、安価な労働力を得たいと、黒人
 の方々の奴隷労働力を利用していた。
  アメリカは、国全体で黒人の方々を虐(しいた)げて
 いた。
  今・現在でも、北部も南部も黒人の方々を差別し、虐
 げている。
  「北部は、黒人の方々を差別していない」なんて言え
 る状態ではない。
  アメリカは、皆、一緒くたに黒人の方々を虐げ、そし
 て、差別している。
.
1791年~1810年、アメリカにおいて、白人による、黒人の
 方々への差別行為に対しての「抵抗行動」が、この頃、
 ピークに達した。
  アメリカで、地歩を固めて来た黒人の方々は・・、
 特に、自由黒人の方々は・・、
  黒人のための独立の教会を作ったり、黒人のための学
 校を建てたりした。
  キリスト教会は、卑劣にも、白人の為のキリスト教会
 の立場で、黒人の方々を排除していた。
  黒人の方々は、このキリスト教会や、映画館、レスト
 ラン、学校、ホテル、喫茶店など、あらゆるところで差
 別され・・、
  ホテルなど入ることを拒否され、拒(こば)まれてい
 た。
  海水浴場でさえ差別され、「白人専用海水浴場」とい
 う低劣な差別の状況だった。
  これらの改善を求め、黒人の方々は行動した。
  そして、差別行為に抵抗し、白人の力に対抗した力に
 よる対立にも発展した。
  しかし、この力による抵抗行動を、アメリカの白人た
 ちは、「黒人暴動」と表現した。
  そして、歴史書に「黒人暴動起きる」と差別的に記し
 た。
  この白人たちが記す「黒人暴動だ」とされる黒人の方々
 の抵抗行動のピークは、1791年~1810年だった。
  1800年8月の「ゲイブリエル・ブロッサーの蜂起」は、
 大規模な抵抗行動だった。
  この蜂起は、1000人とも、10000人とも言われ・・、
  武装した黒人の方々も居て、また、奴隷の身分の黒人
 の方々も居た。
  しかし、アメリカ軍によって鎮圧されてしまった。
  この黒人の方々の勇気ある栄光の行動が影響を与えた。
  アメリカの隣国のハイチにおいて、1803年に、奴隷の
 方々の抵抗行動が起き、その抵抗行動が成功し、黒人の
 方々による共和国が誕生した。
  そして、このハイチの成功は、この後、ラテン・アメ
 リカの方々へも勇気を与え・・、
  ラテン・アメリカ諸国を席巻する植民地解放闘争へと
 発展した。
  奴隷の方々の解放への戦いは、国際的な広がりの時代
 をもって行った。
  アメリカの黒人の方々の解放要求は、この様な国際的
 にも奴隷解放行動へ『良い影響を与えた』。
.
1865年4月15日、リンカーンが暗殺された。
  リンカーンには、殺される理由があった。
  アメリカは、その理由をはっきり言わない。
  リンカーンの名声を形成している「奴隷解放」は、リ
 ンカーンは行なっていない。
  アメリカは、本音を、真実を隠している。
  真実は、黒人の方々が、自らを解放をして行った。
  そこには、黒人の方々を導びく黒人のリーダーが居た。
  アメリカ白人社会は、卑劣な事に、黒人の方々のこの
 栄光の行動=この事をひたすら隠した。
  しかし、隠しきれずに、黒人の方々のこの部分の歴史
 が、少しづつ、白日の下になって来ている。
  黒人の方々は、白人キリスト教徒に、劣悪な状態の元
 に置かれた・・そして、自らの歴史を残すことが、でき
 にくくされた。
  しかし、その歴史が掘り起こされて来ている。
  黒人の方々は、解放されたいと努力して来た。
  それは、黒人の方々が皆が望む事だった。
  みんなが努力して来た。
  それが、長い虐げの後に、解放へと動き出してきた。
  黒人の方々を解放させようとする黒人のリーダーの方々
 もいた。
  可哀想にも、殺された黒人のリーダーの方々も居た。
  その様な歴史は、アメリカ白人社会はすべて闇の中へ
 と隠した。
  歴史が変遷し、黒人の方々が解放される、解放されね
 ばならない段階へと来た・・その時、たまたま、リンカ
 ーンが黒人解放の宣言をした。
  しかし、このところだけにスポットライトを当てて、
 脚光を浴びせさせた。
  そこだけを明るくしたので、さもリンカーンが黒人解
 放をしたように見えた・・その様にしたのだから当然な
 のだが・・、
  黒人の方々は、地道に、自らの解放をする努力を積み
 重ねて来ていた。
  その最後に、リンカーンが、「すごろく」の「あがり
 者」のごとく、そこに居て、奴隷解放をしたように見え
 た・・見させた・・
.
1938年秋、中国の上海に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ
 人が流入した・・、
  ナチスが、オーストリアを合併した1938年秋、イタリ
 ア商船コンテ・ビオレ号から上海に逃れて来たユダヤ人
 の方々だった・・最初の方々だった。
  この上海に避難して来たユダヤ人の難民の方々を保護
 したのが日本軍であって、ファシスト中国=国民党では
 ない。
  ましてや、中国共産党では、まったくない。
  日本は、ユダヤの方々を「亡国の民」として大切に保
 護した・・日露戦争の恩人でもあった。
  (日本人は、受けた恩を忘れない)
  故に、上海の日本租界にあるユダヤ人避難民の方々の
 歴史的記憶遺産は、日本軍が、人道的な貢献をしていた
 記念すべき遺構で、世界的な大切な遺産である。
  この様な理由から、中国の上海にあるというだけであ
 って、中国共産党とは、まったく無関係・・、
  デッチアゲタ南京事件の記念館を作るより、史実のこ
 のユダヤ人難民ゆかりの歴史的記憶遺産を、日本軍の人
 道的貢献を讃えて、後世に残すべきである。
  世界遺産として讃えるべき人物は、、まず、人道的に
 接した日本軍兵士の方々、そして、その様に指導された
 昭和天皇陛下・・、
.
1947年7月11日、ユダヤ人を乗せたエクソダス号が出航した。
  しかし、ユダヤ人の難民の方々・4530人を乗せたこの
 満載の秘密移民船『エクソダス1947号」は、イギリス軍
 によって拿捕(だほ、とらえること)された。
  そして、強制的にフランスのマルセイユに返され・・、
  そして、マルセイユで下船を拒否したユダヤ人の難民
 の方々は、ドイツのハンブルグへ輸送され、
  ドイツのイギリス隔離地区の収容所に入れられてしま
 った。
  しかし、この模様が、逐一、ラジオで全世界に伝えら
 れ、ユダヤ人の方々へ、熱い同情が集まった。
  イギリスは、当然、世界中から、また、西欧諸国の大
 非難を浴びた。
  イギリス国内からでさえも、この難民船強制送還行為
 に多くの反対意見が起きた。
  この後の、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進
 力となった。
  このイギリスの破廉恥な行為・エクソダス号事件は、
 映画「栄光への脱出」のモチーフとなった。
  この経緯は・・、
  ベン・グリオンは、パレスチナに到着すればそれでよ
 し、
  失敗してもキプロスの収容所に行けるという両面作戦
 で、大型船を使った数千人単位の移民を計画した。
  (参考)ダヴィド・ベン=グリオン(1886年10月16日
     ~1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。
      首相(初代・第3代)を務めた。
       ポーランドのプロニスクで生まれ、
       パレスチナ移住後は、ユダヤ系住民のイギ
      リス軍への参加を呼びかけた。
       また、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ
      系難民が、パレスチナへ押し寄せる様になる
      と、これを阻止しようとするイギリス当局と
      折衝した(難民の受け入れをする様にと行動)
       1947年に、国際連合が、パレスチナ分割を
      決議すると、メナヘム・ベギンらが率いるイ
      ルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えな
      がら、独立への準備を進めた。
       1948年5月14日、イスラエルは独立宣言した。
  このベン・グリオンの計画に基づいて、5000人収容可
 能な老朽客船・ウォーフィールド号が用意され、マルセ
 イユに入港した。
  ここでウォーフィールド号は、「エクソダス号」と名
 を改めて、
  4515人の難民(ほとんどが、ナチの強制収容所の生き残
 りの方々であるドイツ系ユダヤ人)を乗せると、
  1947年7月11日、フランスの出港禁止命令(卑劣にもイ
 ギリスが圧力をかけていた)を無視して、パレスチナへ向
 かって出港した。
  しかし、港を出たとたんに座礁した上に、出港翌日に
 は、巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊(第
 二次世界大戦後では最大の艦隊行動)に捕捉された。
  そして、一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で、
 イギリス駆逐艦が、エクソダス号に体当たり攻撃をかけ、
 臨検を強行(国際法の違法行為)した。
  イギリス兵は銃撃までした。
  これに対し、難民の方たちは、空き缶や腐った野菜を
 投げつけて応戦した。
  三時間の戦闘で、アメリカ人の船長を含め、三人の犠
 牲者を出したが、難民の方々の抵抗は、臨検隊を海に叩
 き込んだ。
  しかし、体当たり攻撃で、浸水していたエクソダス号
 は、やむなく降伏した。
  難民の方たちは、三隻の船に分けられた後、パレスチ
 ナを離れた。
  三隻は、キプロスの収容所には寄らず、まっすぐマル
 セイユへ向かった。
  フランス政府は難民受け入れを表明した。
  しかし、病気の数人を除き、難民の方たちは、「船を
 下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否し
 た。
  マルセイユで、24日間、頑張った。
  しかし、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港し
 た。
  しかし、イギリスは、ハンブルグに誘導した。
  ここで、難民達は強制的に下船させられた。
  そして、リューベックの収容所に入れられた。
  ナチの手から逃れてきたユダヤ人の方々を、再び、ド
 イツの収容所に入れた。
  ここで、ユダヤの方々へ理解を示していなかったアメ
 リカやヨーロッパ諸国は、イギリスを非難し、ユダヤ人
 の方々へ理解を示すようになった。
  しかし、この後も、イギリスは、ユダヤ人の方々へ、
 厳しい対応を続けた。
.
1952年1月18日、この日、突如、韓国の李承晩大統領が、何
 ら根拠のない、海洋主権宣言なるものを行なった。
  そして、漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を
 主張しはじめた。
  この結果、日本の領土の竹島が、韓国の支配下にある
 とされ、一方的に宣言された。
  1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本
 条約の締結までに・・、
  韓国軍は、ラインを越境したという理由で、日本漁船
 を328隻も拿捕した。
  そして、日本人44人を死傷させた(死亡者数は不明)
  また、3,929人を拉致し、抑留した。
  韓国側からの、日本の海上保安庁巡視船への無謀な銃
 撃等の行為は、15件にもおよんでおり、16隻が攻撃され
 た。
.
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が、急に、主張し始
 めた「李承晩ライン」・・このライン内に出漁したとし
 て、この日、日本漁船を徹底拿捕をはじめた。
  これ以後、日本漁船の拿捕や、卑劣な銃撃行為が相次
 ぐ様になり
  日本の漁業従事者に、死傷者が、多数、出る事態とな
 った。
  同年・1953年2月4日には、第一大邦丸事件が発生した。
 済州島付近で、同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡
 した。
  また、日本人漁師の瀬戸重次郎氏が殺害されたりした。
  同年・1953年4月20日には、韓国の独島義勇守備隊(
 日本領の竹島を、韓国は独島と名付けた)が、竹島に、
 初めて駐屯した。
  1953年6月24日、日本の水産高校の船舶が、違法占拠す
 る韓国の独島義勇軍守備隊に拿捕された。
  1953年6月27日、日本の海上保安庁と島根県が、日本の
 領土の竹島の調査を行った。
  そして、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建
 てた。
  そして、竹島に、勝手に住み着いていた韓国の漁民6名
 を退去させた。
  すると、1953年7月12日に、竹島に上陸して違法占拠し
 ていた韓国の獨島守備隊が、日本の海上保安庁巡視船「
 へくら」に、90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込むと
 いう蛮行がなされた。
  以後、領土欲しさの韓国は、事実を捻じ曲げて、鬱陵
 島の警察官約40名を、日本領・竹島に常駐させた。
  そして、日本の艦船の排除をはじめ、日本の艦船の接
 近に対し武力行使している。
  また、竹島の西島に、韓国人夫婦を定住させた。
  そして、韓国軍は、毎年、竹島(独島?)防衛訓練を
 行って、事実作りをしている。
  当然、日本政府は、この韓国による竹島の実効支配に
 抗議をしている。
  しかし、韓国側は、「竹島(独島?)は、韓国固有の
 領土である」と言い出し、「内政干渉だ」と言い出した。
.
1953年2月4日、第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじ
 けん)
  この日、公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁
 区の海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(
 57トン)』、及び、『第二大邦丸(57トン)』が、
  韓国の漁船『第一昌運号』、及び、『第二昌運号』(
 各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃された。
  そして、拿捕された。
  この際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(34歳)
 が被弾し、殺害された。
  この時、日本には、対応する軍事力が無く、
  その為、不利な状況で、屈辱的な交渉をするしかなか
 った 。
.
2013年3月8日、中国は、海外を広報戦略するために、膨大
 な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
  世界中に、膨大な金で、中国の刷り込み、洗脳、プロ
 パガンダをしている。
  櫻井よしこ氏は、2013年3月8日の産経新聞で、次の様
 に記した・・、
  「中国の対外広報予算は、年間1兆円。
  日本外務省は、200億円にも満たない(中国の100分の
 2以下)」。
  中国は、この膨大な予算を使って、アメリカやヨーロ
 ッパの大学やシンクタンクに金を配る。
  その結果、中国研究者が増える。
  中国への親しみと中国の歴史観の受容と理解が深まる。
  日本研究者の数が先細りし、日本の価値観や考え方へ
 の理解者が減り続けているのと対照的となっている。
  中国は、全世界に孔子学院を創設中。
  また、2012年鋳、中国版CNN「CCTVアメリカ」を開
 いた。
  本拠地をワシントンに、スタジオはニューヨークに置
 いて、中国人は極力表に出ず、キャスターは、アメリカ
 人にして、だが伝える情報は中国の視点に基づくもの。
 (後略)
.
2015年12月、日米開戦から七十数年、一冊の回想録が刊行
 された。
  ジョージ・ナッシュ氏が編集した・・フーバー大統領
 の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』
  ここには、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な
 記録が含まれていた。
  1000頁近くにも及ぶこの大著を、いち早く読破し、そ
 の重要性を指摘されている中央大学客員教授の稲村公望
 氏。
  まず、アメリカ大統領のルーズベルトが、日本を戦争
 に引きずり込んだ事が、明確に裏付けられていると・・、
  フーバー大統領死去から、47年の歳月を経て刊行され
 た同書は、
  フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判して
 いて、同書の刊行は、いわゆる「東京裁判史観」の間違
 い、そして、清算のきっかけになるほど重大な意味を持
 つと・・、
  フーバーは、回想録の中で書く・・、
  「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4
 日の夕方に三時間、5日の夕方に一時間、そして、6日の
 朝に一時間、二人だけでで話をした。
  私が、日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいとい
 うルーズベルト(狂人と称している)の欲望であったと
 述べたところ、
  マッカーサー司令官も同意し、
  また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかり
 ではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為にな
 ったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込
 んだ。
  ルーズベルトのやった制裁は、殺戮と破壊以外のすべ
 ての戦争行為を実行するものであり、
  いかなる国と雖(いえど)も、品格を重んじる国であ
 れば、我慢できることではなかったと述べた」・・と・・、
  これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが、第
 二次世界大戦の責任は、ルーズベルトにあると主張して
 来ていた。
  また、ルーズベルトは、はっきり戦争になるとも言わ
 れ、忠告されていた・・、
  対日石油禁輸において、ルーズベルト大統領から意見
 を求められたスターク海軍作戦部長は、
  「禁輸は、日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する
 攻撃を誘発します。
  そして、直ちに、アメリカを戦争に巻き込む結果にな
 るだろう」と述べられていた。
  しかし、ビアードらの主張は、「修正主義者だ」とし
 て、無視された。
  これ等の事により、ルーズベルトの責任は、明確に示
 され・・、
  そして、フーバーは、明確に書いた・・、
  「ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、
 つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその
 一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったこ
 とである」と・・、
  そして、また、書いた・・、
  「その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的
 には戦争であった(アメリカの宣戦布告であった)。
  ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも、再三にわ
 たって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ(日本が)
 戦争を始めざるを得ないことになる・・と警告を受けて
 いた」
.
2017年7月25日、産経ニュース<速報>加戸守行前愛媛県
 知事がスバリ指摘 「前川喜平氏は想像を全部事実のよ
 うに発言している。精神構造を疑う」
  「メディアは報道しない自由、印象操作は有力な手段」
  参院予算委員会で(7月)25日、加戸守行前愛媛県知事
 が、自身の発言を報道しないメディアや「行政がゆがめ
 られた」と主張する前川喜平前文部科学次官に矛先を向
 けた。
  文部官僚として官房長まで務めた加戸氏は、前川氏の
 先輩に当たる。
  自民党の青山繁晴氏は、学校法人「加計学園」(岡山
 市)の獣医学部新設計画を審議した10日の閉会中審査
 について、朝日新聞や毎日新聞などが「ゆがめられた行
 政が正された」などの加戸氏の発言をほとんど報じなか
 った経緯を踏まえ「加戸さんがいなかったがごとく扱わ
 れた。
  メディアや社会の様子をどう考えるか」と加戸氏にた
 だした。
  加戸氏は「メディア批判をして勝った官僚、政治家は
 誰一人いない。せんないことだ」としたうえで「報道し
 ない自由があるのも有力な手段、印象操作も有力な手段。
  マスコミ自体が謙虚に受け止めていただくしかない」
 と皮肉った。
  さらに加戸氏は「あえて申し上げなければならない」
 と、問わず語りでテレビ取材を受けた際の出来事を披露
 した。
  加戸氏の説明によると、取材は、事前に前川氏を取材
 した映像を見せながら加戸氏に見解を問う形式で行われ
 た。
.
2017年、アメリカのキッシンジャーは言う、「戦争に敗け
 た国の取る道は二つある・・と・・
  一つの道は・・目先の利益と安全保障を、安易に、ま
 た、楽に得たいと、占領軍に服従するコラボレーショニ
 スト(利敵協力者)となること」と・・、
  (戦争に敗けて、バンドワゴン方針をとった日本は・・
 これだ・・と・・間接的に示唆する)
  (参考)バンドワゴン:Band wagon、行列の先頭の楽
     隊車のことで、「バンドワゴンに乗る」は、時
     流に乗る・多勢に与する・勝ち馬に乗るの意味。
  (参考)collaborationism:利敵協力(りてききょう
     りょく、英: collaborationism)とは、占領下
     にある地域において行われる、被占領者による
     占領者への協力行為のこと。
  因みに、、キッシンジャーが言うもう一つの道は、「
 ゲリラになってでも、戦い続ける道」・・
  前記の道は、せっせと服従し、恭順の意を示していな
 ければならない・・日本もその様に・・なった。
  しかし、この道は、国家の最も大切なレジティマシー
 (正統性)を失う。
  (参考)レジティマシー(legitimacy)
     1.(法律的な)正当性。
      法的な根拠を持っていること。
     2.(政治的な)正統性。
      統一的な根拠を持っていること。
  敵国だった占領軍が押し付けてきた憲法や法律、行政
 制度、教育制度、歴史解釈などを・・敗北した国は、「
 道徳的に劣等な国」なのだから、またそして、戦勝国は、
 「道徳的に優越した正義の国なのだから」・・という尺
 度を、解釈を、使わせられ・・(結局、最後は、その様
 に思い込まされてしまった日本人・・NHKも、せっせ
 とこの道の洗脳に手を貸した)、
  そして、この様な屈辱的な状況に置かれた国民は、「
 占領軍の言いなりになっているだけの似非(えせ)国家」
 と思うようになる・・
  この様な事を、思いもつかない国民も・・多く居るが・・、
  外見は、「立派な独立国」「経済大国」に見えても・・?
  国民は、属国に過ぎないと・・まともな国民は思い・・
  そして、モラール(士気・気概・競争心)を失い、士
 気を失い、国への忠誠心をも失って行く・・
  そして、キリスト教は国歌斉唱に反対し、国旗掲揚に
 も反対する・・、
  そして、利己的な自分さえ良ければ良いになって行く。
  国防意識も失う。
  敗戦後の日本のコラボレーショニスト・レジーム(隷
 属体制)意識は、この様な経緯で作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年11月21日、第二通常議会が召集された。
  帝国議会(ていこくぎかい、「議会」もしくは「国会」
 と略称される)は・・、
  明治天皇陛下による詔勅「国会開設の詔」(1881年10
 月12日)を経て・・、
  1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法(明治憲
 法)発布によって、議会は開かれた。
  議会は、公選の衆議院と非公選の貴族院から成ってい
 た・・そして・・、
  1890年11月29日、第一回議会が開会され・・、
  1891年5月6日、第一次松方正義内閣が成立した。
  松方内閣は、積極財政方針を掲げて、精力的な働きを
 したが・・、
  成立の時から、野党から「二流内閣」と言われた。
  内閣の成立直後に、大津事件などの不幸な事件もあっ
 た。
  そして、そのことによる、主要閣僚が辞意を表明する
 などの・・事態が起きた。
  重要閣僚を欠く内閣ともなり、また、清国の不穏な動
 きの中にもあった。
  その対策の重要案件、日本の防衛問題という重要な討
 議の必要性もあった。
  1891年11月26日に開会した第二議会に、軍艦建造費の
 案件が提出され・・また・・
  製鋼所設立費を含む予算案、鉄道敷設法案などが提出
 された。
  (2017年の今・現在、不穏な動きをする北朝鮮動向に
 対する重要な討議の必要性があるが、野党の架空政治家
 たちは、加計学園問題にかこつけて、まったくこの重要
 案件から逃避している)
  これに対して、自由党・立憲改進党などの民党は、民
 力休養を主張した。
  そして、新規事業の多くを否決、予算の約1割削減を要
 求した。
  この間、軍艦建造費をめぐり樺山資紀海相が、厳しく
 必要性を説く「蛮勇演説」を行った。
  このこともあって、政府と民党の対立は激化し、衆議
 院は空転した。
  松方は、やむなく12月25日に、初めての衆議院解散を
 決断した。
  そして、翌年・1892年2月15日に、第2回衆議院議員総
 選挙が行われた。
  この第2回衆議院議員総選挙では、内務省(品川弥二郎
 内相、白根専一次官)による選挙干渉が行われた。
  これは、死者まで出る事態となった。
  (参考)この選挙干渉について、実際は、複雑な経過
    を辿っている・・が・・、
     解散の2日後に、松方正義首相と品川内相が、相
    次いで府県知事に内諭(ないゆ、表沙汰にしない・・
    さとし)を出して、暗に、政府系の候補者に対し
    て便宜と票の取り纏めを依頼した。
    (戦前には、後の政党内閣期も含め、こうした要
    請が、しばしば行われた)
     この直後に、松方・品川・白根に加え、平山成
    信書記官長・小松原英太郎警保局長・大浦兼武警
    保局主事らによる選対本部が、極秘に組織され、
    政府系候補への選挙支援策が協議された。
     だが、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命
    令類はない・・発見されていない。
     逆に、複数の知事から政府に対し、民党進出を
    阻止するために、警察力の行使を求める意見が寄
    せられている。
     このことから、選挙干渉の発案が、内務省側な
    のか、府県知事側の突き上げなのかについては明
    らかとなってはいない。
     ただ、選挙初期から各地で支持者同士の揉め事
    が起きていて、そこに実力による介入の余地はあ
    る。
     各地で、民党候補、及び、支持者と警察との衝
    突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表
    で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生
    した。
     この他、全国で25名の死者が出た。
  この様な事態に、伊藤博文や、陸奥宗光農相らから強
 い批判が出された。
  1892年3月、品川内相が辞任した・・さらに・・、
  1892年5月、召集の第3特別議会では、選挙干渉に関し
 内閣弾劾決議が採択された。
  1892年7月、元改進党副総理の河野敏鎌法相が、内相を
 兼任、選挙干渉に関与した内務次官、知事らを免官した。
  このことから、首相の指導力の欠如もあって、閣内対
 立が表面化し・・、
  1892年7月30日、総辞職され・・、
  1892年8月8日、この日に成立した第二次伊藤内閣に引
 き継がれた。
1891年11月26日、第二回帝国議会の開院式が挙行された。
1891年11月27日、山陽鉄道会社が、旅客運賃改訂を申請し
 た(12月2日認可)
1891年11月、歌舞伎座にて、新作「太閤軍記朝鮮巻」が上
 演された。
  第四幕の朝鮮王子らが捕らえられるくだりは、朝鮮公
 使の抗議を受け入れ、その一幕が削られた。
  そして、「義経腰越状」が加えられた。
  この逆のパターンについて、元寇の時、朝鮮は日本を
 攻め、日本の対馬の女性を強姦したり、拉致したりした。
  しかし、この様な逆の場合の配慮はなされたのだろう
 か?
  要求することばかりの国のように感じるが・・?
1891年11月、伊井蓉峰・水野好美らが、済美団を起し、浅
 草公園の吾妻座にて開演した。
  女優として千歳米坡も出演した。
  1888年12月、自由党壮士・角藤定憲が、中江兆民の勧
 めにより、「大日本壮士改良演劇会」と銘打ち、大阪の
 新町座で、自作の小説の脚色『耐忍之書生貞操佳人』と、
 大井憲太郎の大阪事件を脚色した『勤王美談上野曙』を
 上演した・・新派劇の最初。
  ・・ついで・・、
  1891年2月、川上音二郎が、藤沢浅二郎らと、堺の卯の
 日座で、矢野龍渓原作『経国美談』と、板垣退助の遭難
 事件の劇化『板垣君遭難実記』を上演。
  川上も、自由党の壮士で、初め自由童子の名で政治演
 説をしたり、時事風刺のオッペケペー節を歌ったりして
 いたが、やがて同志を集めて一座を結成した。
  技芸未熟なうえに、脚本、演技、演出なども歌舞伎模
 倣の域を出なかった。
  しかし、粗野生硬ながら、青年らしい熱気にあふれた
 動作やせりふ回しが、観客にはかえって新鮮なものとし
 て映り、「壮士芝居」「書生芝居」とよばれ、人気を集
 めた。
  川上一座は、同年・1891年6月に、東京・中村座に進出
 し、成功を収め、東京に地歩を築いた。
  この川上に刺激されて、新演劇を企てる者が多く現れ
 た。
  同年・1891年11月、伊井蓉峰は、演劇改良論者・依田
 学海の後援を得て、「済美館(せいびかん)」を結成し、
 政治色の薄い純粋の演劇運動として「男女合同改良演劇」
 の名のもとに、学海作『政党美談淑女之操』ほかを東京・
 浅草の吾妻座で上演した。
  この時、もと葭町の芸妓・千歳米坡(ちとせべいは、
 1855年~1913年)を出演させて、近代女優の嚆矢(こうし、
 物事のはじめ)とした。
1891年12月7日、朝鮮へ、日本公使が、防穀令の損害賠償を
 求めた。
  朝鮮咸鏡道で防穀令が出され、この事で損害が発生し
 たが、このことに対し、在朝鮮の日本公使が、損害賠償
 を要求した。
  朝鮮王朝 (李朝) の穀物輸出禁止をめぐる日朝対立事
 件 (1889年~1893年) が起きた。
  1879年に百万円、1895年に1千万円、1904年には3千万
 円を超えるという日朝貿易の規模と拡大だった・・、
  この「日朝貿易」という利便性が働いているときは、
 両者にとって良いが、この時、朝鮮には、凶作という事
 情があった。
  また、日本は、国内産業が成長して、欧米製品輸出か
 ら、日本製品の輸出に、徐々に切り替わって行ったが、
  朝鮮産業は未熟で、朝鮮からの輸出品は、日本向けの
 米と、大豆ぐらいで、あとは、金での決済が中心だった。
  (貿易収支の改善策が取れなかった朝鮮側の事情もあ
 った)
  そして、この時、朝鮮は、食料的に行き詰ったため、
 咸鏡道(かんきょうどう)観察使(地方行政監察のため
 の官職)の趙秉式は、1236年(高宗 20 (83) 年)の日韓
 通商章程第 37款に基づいて、古い時代の条例で輸出禁止
 令を発布した。
  しかし、担当地方官の手落ちで、予告期間も不足し、
 これらが原因で紛糾した。
  これらの為、日本商人に14万7000円の損害が発生した
 ため、損害賠償要求が出された。
  この問題は、両国間の外交問題に発展して行った。
  交渉は、当初から難航した・・、
  伊藤博文が、清の李鴻章に斡旋を依頼し、これにより、
 1893年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結された。
1891年12月13日、近衛司令部条例が改正された。
  近衛都督を近衛師団長とした。
  1872年(明治5年)4月16日に、「近衛条例」を制定し、
 御親兵掛を廃止し、「近衛局」を置いた。
  そして、8日後の1872年4月24日に、天皇陛下に直隷す
 る近衛都督の下、御親兵を改称した壮兵からなる「近衛
 兵」が創設された。
  宮城警備とともに、鎮台に設置された鎮台兵をも指導・
 訓練する役目も担った。
  (参考)近衛都督(このえととく):1872年に近衛条
    例が制定され、親兵が近衛と改称され、
     各地の鎮台が、陸軍卿の権内におかれた政府軍
    であるのとちがい、新設の近衛の総指揮官である
    近衛都督(初代山県有朋、2代西郷隆盛)が、天皇陛
    下に直隷された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:金にものを言わせた印象操作が、盛んに行われている・・
.
1587年6月7日、豊臣秀吉が、島津を攻略し、箱崎(博多)
 に凱旋した。
  日本の施政者としての豊臣秀吉は、初め、キリスト教
 の布教活動に対して寛大さを示した・・しかし・・
  しかし、キリスト教宣教師たちの不穏な動きを知り、
 部下に確認させたところ、種々の不埒(ふらち、道理に
 はずれ不届きなこと)な行動が確認され、しっかり認知
 されるに至った。
  また、鹿児島の島津征伐に九州を転戦するうちにも、
 そのキリシタンたちの不埒な、また、不穏な行動の実態
 をしっかり確認もした。
  (日本の女性・娘たちの人身売買までしていた)
  (参考)島津は、1587年(天正15年)5月8日に降伏し、
     秀吉は、6月7日に、箱崎(博多)に凱旋した。
  秀吉は、キリスト教宣教師たちに質問した・・、
  「なぜ伴天連たちは、地方から地方を巡回して、人々
 を熱心に煽動し、強制して宗徒とするのか?」
  「今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還さ
 せ、京・大阪・堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家
 財を没収する」と・・、
  また、更に、秀吉は・・、
  「なぜ伴天連たちは、神杜仏閣を破壊し、神官・僧侶
 らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか?」と詰問
 した。
  神杜仏閣の破壊、焼却は、高山右近や、大友宗瞬など
 のキリシタン大名の領地で、大々的に行なわれていた。
  秀吉の質問に対し、キリスト教宣教師たちは答えるこ
 とが出来ず、また、誠実な対応も見えなかった。
  秀吉からの詰問に対し、コエリヨの反応は、極めて傲
 慢で、狡猪な、高をくくった返答だった。
  高山右近を初め、多くのキリシタン大名たちは、コエ
 リヨを牽制(けんせい、ある行動によって相手の注意を
 引きつけるなどして、相手の自由な行動をおさえ妨げる
 こと)をした・・、
  しかし、そのキリシタン大名らの制止を聞き入れず・・、
  宣教師らは、反って、長崎と茂木(現:茂木町)の要
 塞を強化した。
  (キリスト教宣教師たちは、日本の植民地化の一面の
 使命を持っていて・・軍事基地を保持し、強化した)
  それで、長崎などを要塞化し、武器・弾薬を増強し、
 フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。
.
1775年4月19日、レキシントン・コンコードの戦い
  アメリカ独立戦争が始まる契機となったこの戦い・・
  アメリカとイギリスとの間に、戦いが起きた。
  イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードに
 あった「アメリカ植民地民兵部隊の武器庫」の接収作戦
 を実施した。
  これに反発すべく動いた植民地(アメリカ)民兵隊と
 武力衝突が起きた。
  レキシントンとコンコードで、イギリス軍と民兵隊の
 あいだで、激しい戦闘が行われ、植民地軍は、イギリス
 軍を撃破した。
  規模は小さいながら、アメリカの独立戦争の緒戦を飾
 るものだった。
  アメリカの黒人の方々は、「奴隷状態を解放されて、
 自由が得たい」と、個人で、また、集団で、逃亡行為を
 行なった。
  そして、逃亡して軍隊に加わり、独立戦争の戦闘に参
 加した。
  この独立戦争における大きな戦闘で、黒人の方々が参
 加してない戦闘は一つもないほどに活躍がなされた。
  コンコード、バンカーヒル、タイコンデローガ、ブー
 ンズボロ、サラトガ、ヨークタウン・・などなどの戦闘
 で、黒人兵士は、白人兵士もおよばないほどの勇敢さで
 戦った。
  (参考)1775年6月17日、バンカーヒルの戦い:
     アメリカ独立戦争初期ボストン包囲戦中に起こ
    った大陸軍(アメリカ軍)とイギリス軍の戦闘。
     大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギ
    リス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮した。
     この戦いは、独立戦争で2番目の戦闘だった。
     1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍
    の指導者達は、イギリス軍の将軍たちがボストン
    市内から部隊を出して、市を取り囲む丘を占領す
    る作戦を立てていることを知った。
     この情報に反応し、ウィリアム・プレスコット
    の指揮する1200名の部隊が、密かにバンカーヒル
    とブリーズヒルを占領し、
     ブリーズヒルには、土盛りの堡塁を造り、チャ
    ールズタウン半島の大半にわたる防御を施した前
    線を築き上げた。
     この後に、戦いは激しく行われた。
     この様な戦いで、黒人の方々が必死で戦ったが、
    白人は、この黒人の方々の功績を過小評価し、
     また、この様な歴史を検証することなく隠した。
     黒人の方々の歴史は隠されて行った。
     近年、この様な黒人の方々の功績の歴史が明ら
    かにされて来ている。
     そして、この様な白人の卑劣な歴史が、明らか
    にされて来ている。
.
1937年6月27日、戦争回避の御前会議
  盧溝橋事件(1937年7月7日)の10日前、天皇陛下は、
 日中の極度に高まっている緊張状態を憂慮され、この
 一触即発の日中関係を緩和しようと、前例のない御前会
 議を開かれた。
  天皇陛下は、首相に就任したばかりの近衛秀麿と、華
 北工作の中止を唱えていた外相の広田弘毅と、参謀本部
 作戦部長の石原莞爾(かんじ)らを集められた。
  天皇陛下は、メンバーの知略をまとめ、避戦をしたい、
 戦争を避けたい、それができると、この会議を開かれた。
  しかし、内大臣の湯浅倉平や、元老の西園寺公望らへ
 伝えた段階で、中国側の発砲という事態で、盧溝橋事件
 が発生してしまった。
  日中戦争の回避の大きなチャンスが逸(いっ)せられ
 てしまった。
  (盧溝橋事件は、日本側の発砲とされていたが、日本
 は濡れ衣を着せられていたが、近年、中国側の発砲とい
 う真実が判明なされた)
  不拡大論の石原は、突き上げられ立場は悪くなってし
 まった。
  やむなく、3個師団の出兵を承知せざるを得なくなっ
 た。
  中国の蒋介石も、「ドイツの和平仲介を断わる」とい
 う強硬論であった。
  日本にあった「全面戦争などしたくない」という状況
 が、この様な状態から、ずるずると引きずり込まれて行
 く状態であった。
  この陰に、アメリカの中国への支援があった。
  戦後、毛沢東主席は、訪中した日本の政治家や元軍人
 に対し、「日本軍が、国民政府軍(蒋介石軍)と戦って
 撃破してくれたお蔭です。感謝したい」と言った。
  日本側メンバーに、その様に発言した毛沢東だった。
  毛沢東の共産党軍にとって、国民政府(蒋介石)打倒
 が最優先だった。
  日本は、中国の現政府の共産党軍とは戦っていない。
  現政権の中国・共産党軍は、戦勝国でも何でもない。
.
1937年7月7日、盧溝橋で軍事衝突(日華事変)
  盧溝橋事件の日本の汚名が晴れた・・
  中国の金振中が盧溝橋事件の真実を吐露した・・白状
 した。
  金振中は、中国軍の大隊長で、「日本軍の計画的犯行
 だ」と中国側が主張していた盧溝橋事件が・・『そうで
 はない』と白状した。
  『中国軍の発砲により始まったのだ』と言った。
  局地的な小さな紛争をデッチアゲて、大きな全面戦争
 へと拡大してしまった。
  この様な事実が知れると、中国(共産党政権)は、そ
 れまでの言い方を変えて来た。
  中国の国定教科書の嘘記述も書き換える必要がある。
  南京事件も慰安婦問題も、この様にでっち上げられて
 いる。
.
2010年3月、TBSテレビの東京放送ホールディングスが、
 2010年3月期連結決算で赤字に転落した。
  原因は視聴率の下落・・
  この金に行き詰まった以降、TBSには外資が入り、
 その時から、偏向放送が多くなって行った。
  外資(外国資本)に繰られ易い放送局になっている・・
  今・現在(2017年)、種々、『印象操作的な政局番組』
 を行なって、あまりの酷さに、世間の批判を受けている
 が、この様な番組が、視聴率を稼げると言っている不埒
 な放送局となっている。
  自分の懐具合(ふところぐあい、所持金の額や金回り
 の状態)を優先する放送局となっていて、国を売る放送
 局となっている。
  公(おおやけ)では、TBSの外国株主は11.3%とな
 っているが・・しかし・・、
  大株主は、日本マスタートラスト信託銀行株式会社、
 日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社で、1位と2
 位の大株主となっているが・・、
  実際は、この2社は、信託業務の一環として株を保有し
 ているだけで、実際の株主は「外国株主となっている」。
  また、議決権のない株の外国株主もいる放送局。
  種々の形をとっている「これ等の外国株主」を入れる
 と、完全な違法状態となっている。
.
2017年7月28日、青山繁晴、倒閣運動に絡めた八つ当たりへ
 の反論・・、偏向報道が横行する組織構造
  https://www.youtube.com/watch?v=Cf5CJAjWc2w
  某銀行の現役銀行員の意見:
  (安倍政権以前の)バブル崩壊以降、日銀の腐った金
 融政策、歴代政権の、的外れな景気対策の乱用などによ
 り、20年以上、デフレから脱却できず、日本経済は低空
 飛行を続けて来ましたが、
  安倍政権の政策と、日銀の、連携した金融政策の改善
 などによって、企業収益や雇用などが回復し、ようやく
 日本経済に光が見えてきたところです。
  このまま安倍政権を支え続けて行くことが、日本にと
 って、何よりも国益であると判断する事が合理的であり、
 妥当でしょう。
  ところが、森友や加計などの、くだらない「でっち上
 げ報道」で、安倍政権は深刻なダメージを食らってしま
 いました。
  さっそく、ポスト安倍が話題になっておりますが、
  石破氏は、緊縮と増税派で、民主党政権より悪いです
 し、現行の政策を継承できそうな国会議員も見当たりま
 せん。
  従って、今、安倍政権を失えば、金融市場参加者は、
 日本に失望して、全面的に「失望売り」です。
  せっかく回復しかけた日本経済が、再び、失速してし
 まうでしょう。
  つまり、今の日本は、安倍政権の維持こそが、国益で
 あり、国民の命と財産を守るための、現実的で妥当な手
 段となる構造になっていると思います。
  国会議員は、国民の命と財産を守ることが責務です。
  すべての国会議員に、この状況を認識してもらいたい
 ですし、国民にしっかり知らしめて戴きたいものです。
.
2017年7月、TBSテレビ「ひるおび!」は、偏向した番組
 だ。
  報道の自由と言いながら、政府批判ばかりしている。
  連日の報道で、世論操作を狙っている酷い番組。
  また、同じことを繰り返し、洗脳的に世論操作ばかり
 している。
  重箱の隅を楊枝で突っつく様な「いやらしさのある番
 組」。
  また、伊藤惇夫コメンテーターは、稲田防衛大臣(女
 性)の「つけまつげが大き過ぎる」と、程度の低い人格
 攻撃までする。
  提供企業は・・、
  ミキプルーン(三基商事株式会社)、
  バズキルーペ(プリヴェAG株式会社)、
  セコム(セコム株式会社)、
  (チューリッヒ生命)、
  ポリデント(グラクソ・スミスクライン・コンシュー
   マー・ヘルスケア・ジャパン株式会社)、
  積水ハウス株式会社、
  タケダ(武田薬品工業株式会社)、
  au(KDDI株式会社)、
  dポイント(株式会社NTTドコモ)、
  BIGMOTER(株式会社ビッグモーター)、
  LOTTE(株式会社ロッテ)、
  ソフラン(ライオン株式会社)
  大正製薬株式会社、
  株式会社サカイ引越センター、
  ウナクール(興和株式会社)、
  オートバックス(株式会社オートバックスセブン)、
  味の素株式会社、
  チョコラ(エーザイ株式会社)、
  株式会社バンダイナムコエンターテインメント、
  GODA(高砂熱学工業株式会社)、
  小林製薬株式会社、
  バイクオー(株式会社バイク王&カンパニー)、
  東海銀行(三菱東京UFJ銀行)
  ロート製薬株式会社、
 こんな番組を提供して、逆宣伝になっている。
  (参考)次の様な声もある。 [桜H29/7/14]
  https://www.youtube.com/watch?v=pIgpdwubRVw
  負けるな安倍政権!
  メディアと反日勢力による倒閣運動を許すな!
.
2017年、(庶民の声ー1):最近、朝日・毎日・TBSあ
 たりの捏造報道が露骨になってきた気がする。
  それを批判されると外国人特派員協会に焚き付けて海
 外メディアにも放火を始める。
  青山議員と愛媛元知事のやり取りは、ついに報道しな
 かった。
  もはやジャーナリズムの体をなしていない。
  (庶民の声ー2):愛媛県の元知事の国会証言や青山
 議員の糾弾は立派で正論です。
  多くの国民は同意と思います。
  よって、四国の鳥インフルエンザや狂牛病などに対処
 できる獣医師の増加に反対する朝日、毎日新聞に対し、
 四国の草莽、畜産、水産、農業従事者は、組織的に、今
 こそ購読拒否運動をすればいいと思います。
  (庶民の声ー3):日本の中に北京派と台湾派があり
 マスコミは、内外の北京派に圧力をかけられていると認
 識して良いですね。
  そして、世論調査はいかさまですよね!
  トランプと阿部さんが親密であったことも、アメリカ
 民主党を刺激している。
  (庶民の声ー4):閉会中審査の加戸前愛媛県知事の
 証言は地上波ではカットされています。
  一番ひどいのはTBSとテレビ朝日です。
  (庶民の声ー5):G20での会談で習中国主席が、
 安倍首相に歴史問題と台湾問題で圧力かけてきたことを
 日本は全く報道しませんね。
  台湾の方の話で知りました。
  マスコミは、中国に屈しない安倍首相の姿勢・必要性
 が国民に知られるのが嫌なのでしょうか。
  (庶民の声ー6):恐ろしいほどマスコミの作為を感
 じます。
  TBS「ひるおび」とフジTVバイキング坂上忍や東
 国原、グッディの安藤裕子や高橋克実の印象操作は酷い
 です。
  これらの番組は、元々、目立つ様な安倍政権叩きして
 なかったのに、今年になって急に森友加計学園から容赦
 ない安倍叩き始まりました。
  泉企画含め明らかに計画性を感じます。
  そして、主婦やネット使わない高齢世代がマンマと乗
 せられて選挙に反映。
  昼のワイドショーは危険です!
  (庶民の声ー7):外国勢力とつながる日本の勢力が、
 外国勢力の金で世論を操作する。
  この様な動きで、国が動いてしまうから恐ろしい。
  民主主義の制度が逆利用されて、外国勢力の金で動か
 された声の大きい日本の組織が動き、庶民が洗脳されて、
 動かされてしまう。
  毎日、毎日、聞かされているうちに、その様に思わさ
 れ、その外国勢力の思惑の中に入って行ってしまう。
  イギリスの場合もそうだった。
  繰られ、煽(あお)られたイギリスの国民の方々が、
 EU離脱を決定してしまう。
  事が決した後に、我に返ったイギリスの国民の方々、
 その時は、仕掛けた者たちの姿は消え、急に見えなくな
 ってしまった。
  イギリスの「EU離脱の決定だけが残った」。
  しかし、決してしまったことは、変えることはできな
 いと、その決定に従って行くイギリス・・今までの努力
 は水泡と化した。
.
2017年、TBSテレビの「サンデーモーニング」が、偏向
 番組だと盛んに指摘されているが・・、
  この番組の進行をしている関口宏は、キリスト教系の
 立教大学の出身。
  関口宏は、立教小学校~立教中学校~立教高校とズー
 ット立教のキリスト教育を受けて来た「生粋(きっすい、
 まじりけの全く無いこと)の立教人」。
  立教大学の方針は、「キリスト教で教育された人間で
 日本のメディアを制する」という目的を持っていて・・、
 立教大学出身者を日本のメディアに送り込んでいる。
  それ故、日本のメディアには、立教出身者が多い状態
 となっている。
  偏った人間構成となっている。
  マッカーサー司令官が、日本をキリスト教化したいと
 して国際基督教大学を作ったが・・、この立教大学も、
 このイデオロギーに沿った行動をとっている。
  そして、今・現在も、このサンデーモーニングの事例
 の様な偏向した行動が行なわれ、その異常さが指摘され
 ている。
.
2017年、日本のマスコミが、トランプ大統領を、「トラン
 プ」「トランプ」と呼び捨てにしているが・・、
  なかなか、「トランプ大統領」と言わないが・・、
  こんな形でのトランプ下ろしも行われている・・、
  庶民の方々は、こんな形からも・・印象操作されてい
 る。
  テレビのどのチャンネルに於いても・・その様に「呼
 び捨て」にしている・・が・・
  これは、その様に仕向けられている・・
  アメリカにおいて、まさかのトランプ大統領の誕生の
 時、トランプ降ろしのデモが起きた・・が・・、
  そして、このデモが・・資金によって・・金によって
 仕組まれていると・・指摘われたが・・、
  これらは、ほんの1例で・・、
  この様なやり方・・などなどで、「トランプ降ろし」
 が・・なされている。
  日本のマスコミは、これに、特に、追従している。
  根の深い関係で・・指令で・・アメリカや外資のある
 グループと関係を持っている。
  一体となってやっている。
  このグループは、アメリカ大統領選挙で、クリントン
 を大統領にしたかったグループ・その他で、
  べらぼうな資金力を持っている。
  今まで通りのクリントンの路線で行けると思ったが、
 今回、その思惑通りに行かなかった。
  今まで通り、政治と一体となって稼ぎたいとしていた
 ・・が・・その通りにならなかったグループ。
  その資金力にものを言わせて・・、日本に働きかけて、
 日本で自分好みに洗脳をしたいと・・やっている。
  日本の安倍首相が、トランプ大統領が大統領になった
 初期に訪米し、トランプ大統領と一体となって、行動し
 たことを・・苦々しく思っているグループ。
  「安倍おろし(降ろし)」にもつながって来る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月30日、甲武鉄道会社が、官設鉄道、および、日
 本鉄道会社と、自社線との間における連絡運輸に関する
 取扱手続として、「甲武鉄道連絡運輸取扱手続」を制定
 した(11月1日から実施)
1891年10月、神戸駅構内に、「鉄道電信技術伝習生養成所」
 を設けた。
  また、「鉄道電信技術伝習生取扱内規」を定めた。
1891年10月、萩山平兵衛が、馬場駅で弁当・お茶の販売を
 開始した。
1891年11月1日、甲武鉄道会社が、業務の独立自営を実施し
 た。
  新宿から東京市内への路線延長について、1889年5月に、
 申請し、
  1889年7月に、仮免状が下付されていた。
1891年11月3日、山陽鉄道会社線の福山駅~尾道駅間(19.8
 km)が開業した。
1891年11月4日、関西鉄道会社線の身田駅~津駅間(3.6km)
 が開通し、津支線の亀山駅~津駅間(15.7km)が全通した。
1891年11月5日、陸軍省が、東京・九段の靖国神社に、維新
 前後の国事殉難者1277名を合祀した。
  因みに、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉
 晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎
 等も維新殉難者として合祀されている。
  また、禁門の変で、長州藩勢と戦い、天皇陛下の守護
 行為をして戦死した会津藩兵らも祀られている。
  そして、1868年(慶応4年)2月15日に起きた堺事件(
 土佐藩の隊旗を奪ったフランス人水兵を、土佐藩兵が、
 切り捨てた事件)の責めを受けて、堺(現大阪府堺市)
 の妙国寺で切腹した11人の土佐藩兵も祀られている。
1891年11月5日、演劇新派の伊井蓉峰らが、済美館(せいび
 かん)を旗揚げした。
  この年、伊井蓉峰(いいようほう)は、銀行勤務をや
 め、川上音二郎一座に参加した。
  そして、この年、浅草の吾妻座で、依田学海の後援で、
 男女合同改良演劇を標榜して、済美館で旗揚げをした。
  『心中天網島』はじめ、近松の作品を忠実に上演した。
  森鴎外のせりふ劇や、島崎藤村、夏目漱石、尾崎紅葉、
 徳富蘆花、その他の文芸作品と意欲的に取組み、
  1912年に、明治座の座主となり、名実ともに新派界三
 巨頭(他に河合武雄,喜多村緑郎)の筆頭となった。
  (1915年の新派大合同劇では座長)
  代表的な役は、『不如帰』の武男、『金色夜叉』の貫
 一、『婦系図』の早瀬、『二筋道』の阿久津など・・、
1891年11月7日、幸田露伴の「五重塔」が、日刊紙「国会」
 に連載を開始した。
  「五重塔」は、幸田露伴(こうだろはん)の短編小説の
 傑作で、1891年11月~92年3月まで、新聞『国会』に連載
 した。
  抜群の腕前をもちながら、鈍重な性格ゆえに「のっそ
 り」とあだ名される大工の十兵衛は、谷中・感応寺の五
 重塔建立の計画を知って末代にわが名をとどめる好機と
 奮い立ち、先輩の川越源太から仕事を奪い取る。
  源太の侠気に満ちた協力の申し出も拒み、さまざまな
 妨害をはねのけて、あくまでも独力で塔を建てた。
  落成式の前日、暴風雨に襲われるが、塔は微動だにし
 なかった・・ここの描写は圧巻の評がある。
1891年11月8日、改進党首の大隈重信は、自由党の板垣退助
 と早稲田で会見し、自由党・改進党の両党の連合・連盟
 を話し合った。
  これを知った第4代内閣総理大臣の松方正義は、11月12
 日、大隈重信の枢密顧問官の地位を諭旨免職にした。
  この第一次松方内閣は、1891年5月6日に成立していた
 が、不幸にも、内閣成立の5日後の1891年5月11日に、大
 津事件が発生し、責任を負って外務大臣や司法大臣、内
 務大臣などが辞意を表明するなどして、安定した内閣で
 はなかった。
1891年11月16日、文武高等官官職等級表を公布した(勅令
 215号)
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  能力などの等級制は、任免の基礎と捉え、制度化した。
  また、能力等級表の種類および等級構成は、任用に活
 用する観点から、もっともふさわしい形で、これらを設
 定することが求められていた。
1891年11月17日、小学校規則大綱が制定された(明治24年
 文部省令第11号)
  第一条、小学校ニ於テハ小学校令第一条ノ旨趣ヲ遵守
     シテ児童ヲ教育スヘシ
  徳性ノ涵養ハ教育上最モ意ヲ用フヘキナリ故ニ何レノ
 教科目ニ於テモ道徳教育国民教育ニ関連スル事項ハ殊ニ
 留意シテ教授センコトヲ要ス
  知識技能ハ確実ニシテ実用ニ適センコトヲ要ス故ニ常
 ニ生活ニ必須ナル事項ヲ撰ヒテ之ヲ教授シ反覆練習シテ
 応用自在ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  各教科目ノ教授ハ其目的及方法ヲ誤ルコトナク互ニ相
 連絡シテ補益センコトヲ要ス
  第二条、修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童
     ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方
     法ヲ授クルヲ以テ要旨トス
  尋常小学校ニ於テハ孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、
 義勇、恭倹等実践ノ方法ヲ授ケ殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養
 ハンコトヲ務メ又国家ニ対スル責務ノ大要ヲ指示シ兼ネ
 テ杜会ノ制裁廉耻ノ重ンスヘキコトヲ知ラシメ児童ヲ誘
 キテ風俗品位ノ純正ニ趨カンコトニ注意スヘシ
  高等小学校ニ於テハ前項ノ旨趣ヲ拡メテ陶冶ノ功ヲ堅
 固ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  女児ニ在リテハ殊ニ貞淑ノ美徳ヲ養ハンコトニ注意ス
 ヘシ
  修身ヲ授クルニハ近易ノ俚諺及嘉言善行等ヲ例証シテ
 勧戒ヲ示シ教員身自ラ児童ノ模範トナリ児童ヲシテ浸潤
 薫染セシメンコトヲ要ス
1891年11月18日、内務大臣・品川弥二郎が、閣議に「鉄道
 政略ニ関スル件」を提出した(1891年7月説あり)
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  明治20年(1887年)頃~明治40年(1907年)頃は、一
 般に、幹線鉄道の建設を盛んにした時代だった。
  この時代、地域社会はみずから資本を調達して、私設
 鉄道を建設する意図をもつ例も少なくなかった。
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  これは、地方の個々の地域社会における資本蓄積が十
 分ではなく、
  それ故、軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除けば、巨額な
 資本を必要とする一般の鉄道の建設を行なうには、無理
 があった。
  多くの地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際して、
 みずからの地域に有利なルートを採択させようと努力し
 た。
  この翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、
  かつ、帝国議会を通じて地域社会の意志が鉄道建設に
 反映できるようになった。
  そして、この動きは活発化した。
  この「鉄道政略ニ関スル議」は、1891年7月に出され、
 長文の文書であった。
  要点は2つ・・、
  第1は、将来の日本の幹線鉄道の路線を決定し、政府は
 そのための長期計画を立てて、着実に建設を行なうため
 の法律、および、その資金を得るための公債発行の法律
 が必要。
  第2は、幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を政府が買収
 する。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院が解散されてしまった。
  翌年・1892年5月、改選された帝国議会において、政府
 は上記2法案を再提案した。
  衆議院議員のなかからも、「鉄道拡張法案」あるいは
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案を独自に提案する者もあって、政府の提案は、これ
 らと折衷されて、1892年6月21日、「鉄道敷設法」(明治
 25年法律第4号)として公布された。
1891年11月20日、日本鉄道会社が、線路の保守・運輸・運
 転業務の独立自営を、井上鉄道庁長官・品川内務大臣に
 申請した(12月28日了承された)
.
  (今日の言葉)
.
  題:君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
.
1882年、明治政府は、自由民権運動の鎮静化を狙って、こ
 の年、板垣と後藤に、ヨーロッパへ勉強する機会を与え
 た。
  自由党内部では、彼らの洋行に対して反対論が大きか
 ったが、
  両者とも、自らが信奉するリベラリズムがヨーロッパ
 の政治上どのように機能しているのか、現地に行って実
 際に見てみたい気持ちを抑えられず、根強い反対を押し
 切って洋行した。
.
1889年12月24日 山県有朋が、第一次内閣を組織した(~
 1891年5月6日)
  黒田清隆内閣は、大隈条約改正案の失敗で倒れたあと
 に成立した藩閥内閣で・・、
  国会開設を翌年に控えて、超然主義を掲げた。
  しかし、1890年7月の第1回総選挙では、反政府派の民
 党(旧自由党系、改進党)が多数を占める勢いであった。
  内閣は、議会乗り切りのため、その直前の5月に、改造
 を行い、陸奥宗光を農商務相として入閣させ、後藤象二
 郎とともに民党対策にあたらせた。
  他方、同年・1890年10月には、教育勅語を発布して、
 天皇制の精神的基礎の確立を目ざした。
  同年・1890年11月、開会の第1議会では、国是として主
 権線と利益線(朝鮮)の擁護を訴え、軍備拡張を基本と
 する予算案を提出した。
  これに対し、民力休養・政費節減を主張する民党は全
 予算の1割に及ぶ削減案で対抗した。
  そのため、内閣は、一方で衆議院解散をほのめかし、
 他方で後藤、陸奥を通じて自由党土佐派を切り崩して、
 からくも第1議会を乗り切った。
  第1議会閉会直後に総辞職し、松方正義内閣に引き継が
 れた。
.
1903年7月、ロシアは、アレクセーエフ提督を極東総督に任
 じた。
  (この提督は、日露戦争の原因を作った人と言われて、
 世界に知られている)
  この役職は、政治・軍事を問わず、極東に関するあら
 ゆる問題を管轄できる役職であり、
  日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権を握っていた。
  さらに、その翌月、ヴィッテを罷免し、ベゾブラーゾ
 フ(1896年、日本との開戦の必要性を唱える請願書を皇
 帝に提出した人)を、ロシアの国務大臣に任命し、対日
 強硬路線へ突き進んでいくこととなった。
  ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、ロシアを欧州から遠ざ
 け、
  かつ、イギリスとロシアを対立させるチャンスと見て、
 ロシアの極東進出を応援した。
  1904年2月、ヴィルヘルム2世は、ロシア皇帝ニコライ
 2世に宛てて手紙を書いた・・、
  「偏見のない人なら誰でも朝鮮は、ロシアのものと考
 えている」として、ニコライ2世の方針に支持を表明し
 た。
  そして、彼に「太平洋提督」になることを勧めた。
  「黄色い猿(日本のこと)」を侮蔑するニコライ2世は、
 ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、「日本に、ロシ
 アと戦争する勇気などあるはずがない」としていた、
  そして、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦
 争にはならない」と考えていた。
  1903年10月に、アレクセーエフ提督に対して、「私は、
 日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたか
 と思えば・・、
  1903年12月には、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日
 本が旅順から撤退した1895年を思い出す」
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」
  「開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」
 と述べたりした。
  さらに、1904年1月の新年、レセプションの席で・・、
  「何人たりとも、ロシアの忍耐力と平和を愛する心に
 いつまでも期待をかけてはならない」
  「ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」
  ・・と演説した。
  アレクセーエフは、全権を与えられているといっても、
 形式的にであれ、皇帝の裁可は不可欠であった。
  しかし、1903年8月~1903年11月にかけて、ニコライ2
 世は、西欧を歴訪していたこともあり、
  日本との交渉は遅々として進まず、日本の不信感は高
 まって行った。
  (参考)ベゾブラーゾフ(アレクサンドル・ミハイロ
     ヴィチ・ベゾブラーゾフ)は、イギリスの東イ
     ンド会社のような組織を設立して、朝鮮半島と
     満州における権益を確保して、それらを強制的
     に征服すべしとした。
.
1918年、 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペイン
 インフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」
 と呼ばれる)は・・、
  被害の大きさできわだっていた。
  世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいが、
 患者数は、世界人口の25%~30%(WHO)となった、
  あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920年)、約
 5億人(Clark E.1942年)で、
  致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)
 は、2.5%以上(Marks G, Beatty WK, 1976年; Rosenau
  MJ, Last JM, 1980年)、
  死亡者数は、全世界で4,000万人(WHO)、
  5,000万人(Crosby A, 1989年; Patterson KD, Pyle
 GF, 1991年; Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)、
  一説には、1億人(Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)
 とも言われている。
  日本の内務省統計では、日本で、約2300万人の患者と、
  約38万人の死亡者が出たと報告されている。
  ・・が、歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、
 2006年)という推計もある。
  スペインフルの第一波は、1918年3月に、アメリカと
 ヨーロッパで始まるが、
  この(北半球の)春と夏に発生した第一波は、感染性
 は高かったものの、特に、致死性ではなかった。
  しかしながら、(北半球の)晩秋からフランス、シエ
 ラレオネ、アメリカで同時に始まった第二波は、10倍の
 致死率となり、
  しかも、15~35歳の健康な若年者層において、もっと
 も多くの死がみられ、
  死亡例の99%が、65歳以下の若い年齢層に発生した。
  過去にも、またそれ以降にも、例のみられない現象が
 確認された。
  また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919
 年の始めに、第三波が起こった。
  一年のタイムスパンで、3回の流行がみられたことにな
 る。
  これらの原因については、多くの議論があり、これら
 の原因について、よくわかっていない。
  1918年の多くの死亡は、細菌の二次感染による肺炎に
 よるものであったとされているが、
  一方、スペインフルは、広範な出血を伴う一次性のウ
 イルス性肺炎を引き起こしていたことも分かっている。
  非常に重症で、かつ、短期間に死に至ったため、最初
 の例が出た際には、インフルエンザとは考えられず、脳
 脊髄膜炎、あるいは、黒死病の再来かと疑われた。
  もちろん、当時は、抗生物質は発見されていなかった
 し、
  有効なワクチンなどは論外であり、
  インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933
 年まで、待たねばならなかった。
  このような医学的な手段がなかったため、対策は、患
 者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の
 延期といった、ありきたりの方法に頼るしかなかった。
  多くの人は、人が集まる場所では、自発的に、あるい
 は、法律によりマスクを着用し、
  一部の国では、公共の場所で、咳やくしゃみをした人
 は、罰金刑になったり、投獄されたりした。
  また、学校を含む公共施設は、しばしば閉鎖され、
  集会も禁止された。
  患者隔離と接触者の行動制限は、広く適用された。
  感染伝播をある程度遅らせることはできたが、患者数
 を減らすことはできなかった。
  この中で、オーストラリアは、特筆すべき例外事例だ
 った。
  厳密な海港における検疫、すなわち、国境を、事実上、
 閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を、約6ヶ月
 遅らせることに成功した。
  そして、この頃には、ウイルスは、その病原性をいく
 らかでも失っており、
  そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かった
 ものの、より軽度の流行ですんだ。
  その他、西太平洋の小さな島では、同様の国境閉鎖を
 行って侵入を食い止めたところがあった。
  しかし、これらのほんの一握りの例外を除けば、世界
 中で、このスペインフルから逃れられた場所はなかった。
.
1972年、この年の春、アメリカは、ベトナム戦争の真った
 だ中というこの時に、同盟状態の南ベトナムを見捨てた。
  可哀想に、裏切られ、見捨てられた南ベトナムは、そ
 の3年後に、北ベトナムに降伏し、飲み込まれて行ってし
 まった。
  アメリカは、この時、勝手に、今までの方針を変えた。
  「南ベトナムが、北ベトナムの共産陣営に飲み込まれ
 てもかまわない」とした・・、
  手のひらを返した。
  こんな、アメリカの勝手は、歴史のあちこちにある。
  アメリカは、この様な国で・・、
  そして、アメリカは、「日本や台湾を守るために、中
 国と戦争したりしない」とも言った。
  ミアシャイマーも、ジャービス(コロンビア大学)も
 言っている、「自国(アメリカ)の国益を増進するため
 の道具」に過ぎない・・と・・、
  日本の対米依存主義(バンドワゴン)は、この様な「
 薄氷の上にある」。
.
1990年代、中国政府とインド政府は、1990年代の初めから、
 「21世紀の国際構造は、かならず多極化する」と明晰に
 分析し、
  自国が、その多極構造において有利な立場を獲得する
 ためのグランド・ストラテジーを構想し、着々と手を打
 った。
  (参考資料記述)外交の巧拙(こうせつ、巧みな事と
    つたないこと)は、交渉を指導し、これに従事す
    る者のかけひきの術に依存するのみならず、
     彼らの、彼我の相対的力量を冷静に測定し、交
    渉をめぐる国際・国内環境を現実的に把握し、大
    局を見すえて緻密に駒を進める能力に依存する。
     グランド・ストラテジーgrand‐strategyをもっ
    て外交を進めることが大切。
  (参考)ストラテジー(Strategy)とは、「戦略」「作
    戦計画」を意味する英単語。
     ギリシャ語で「軍を導く」という意味の言葉「
     Strategic」に由来する。
      ある目的を達成するために、総合的に進めら
     れる計画や運用方法。
  (参考)バンドワゴンとは、行列の先頭の楽隊車のこ
     とであり、
      「バンドワゴンに乗る」とは、時流に乗る・
     多勢に与する・勝ち馬に乗る、といった意味。
      経済学・政治学・社会学などで使われる。
      バンドワゴン外交・・キッシンジャー、ウォ
     ルト(ハーバード大学)、ミアシャイマー、ジ
     ャービス(コロンビア大学)などは、「(日本
     の)バンドワゴンする依存主義の外交は、その
     うちに大失敗するぞ」という。
      また、「自分の国の安全保障には、自分で責
     任を取れ」と繰り返し、著作や論文で警告して
     いる。
.
2017年1月18日、駐日アメリカ大使に、キャロライン・ケネ
 ディ大使が離任し、
  ジェイソン・ハイランド首席公使が臨時代理大使に就
 任した。
  氏は、これまで、在日米国大使館首席公使を務め、公
 使の職位を持つ上級外交官。
  アジアでの勤務、および、研究活動は17年に及び、最
 近では、在オーストラリア米国大使館首席公使を務めた
 (2010年~2013年)。
  在日米国大使館、在札幌米国総領事館、および、在福
 岡米国領事館に勤務し、福岡では首席領事(1995年~1998
 年)。
  国務省では、東アジア・太平洋局の特別補佐官(1998
 年~1999年) のほか、日本部に所属。
  1995年2月に、阪神・淡路大震災で被災した米国市民を
 支援するため、最初に、神戸に派遣された大使館チーム
 の一員として、国務省から グループ優秀名誉賞を受賞
 した。
  東京大学で、外国人客員研究員として研究活動を行っ
 たほか、アメリカ・カナダ大学連合日本研究センターで
 学んだ。
  国防分野の統合教育機関である米国防大学を構成する
 カレッジのひとつ、ナショナル・ウオー・カレッジで国
 家安全保障戦略の修士号を取得(2000年)
  また、タフツ大学フレッチャー法律外交 大学院(法律・
 外交学)で修士号、カリフォルニア大学バークレー校で
 学士号(歴史学)を取得した。
  バークレー校では、日本語を学び、日本史に関する卒
 業論文 の執筆により歴史学で優秀賞を受賞した。
  マサチューセッツ工科大学(MIT)セミナーXXI
 プログラムにフェローとして参加した。
  日本語のほか、ウクライナ語、アゼル バイジャン語、
 スペイン語も話す。
.
2017年、核攻撃のボタンを押した君も『死ぬ』ことになる・・、
  一旦、核戦争になったら・・誰も・・逃れられない。
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  その放射能たるや・・「福島原発事故どころではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域となっている・・、
  この福島どころではない高濃度の放射能に、長い年月、
 全地球が覆われる・・、
  高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  だから、また、『核ボタンを押した君の家族』も・・、
  また、『君の知人・親戚も』・・
  その高濃度の・・長く続く・・放射能汚染から・・逃
 れる事は出来ない。
  君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
  愚かなる兵器の押しボタンを持つ君に告ぐ!!
.
2017年、アメリカのコーネル大学の大学院の国際政治学の
 ゼミは・・、
  教授が、毎週、国際政治学や安全保障政策で、最も質
 の高い著作を4冊~5冊ずつを読ませるという、勉強量の
 多すぎる授業で・・、
  毎週毎週、教授にしごかれ、「ゆとり教育」という甘
 い状況どころではない・・、
  「ゆとり教育」というより、「しごき教育」という状
 況の教育。
  必死に、この教育・しごきについて行って、今、本当
 に本気で感謝していますと言う人は多い。
  「特に、役に立ったと言えばこれだ」とも言えると・・、
  しっかり勉強している者が多くないと、本物は作れな
 い・・似非(えせ)になってしまう。
  知的レベルの差は、ここから生まれ・・、
  加計学園だけに捉われ、『本当の政治課題から逃げて
 いる』野党の架空政治家は・・この事例の落ちこぼれ政
 治家版。
.
2017年、キリスト教は、国歌斉唱と国旗掲揚に反対してい
 る。
  また、マッカーサーGHQ司令官は、キリスト教系大
 学である国際基督教大学を作ったりした・・、
  そして、日本をキリスト教化したいとした。
  また、GHQの占領政策の中で、マッカーサーは、
 WGIP(War Guilt Information Program/ウォー・ギ
 ルト・インフォメーション・プログラム)を実施し・・、
  日本人に「罪悪感を植え付け」・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取るという『プログラ
 ムを実施した』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月7日、文部省が、小学校の修身教科書の使用を通
 達した。
  1890年(明治23年)10月30日、「教育ニ関スル勅語」
 が出され、
  1891年(明治24年)「小学校教則大綱」(11月制定)
 と、「小学校修身教科用図書検定基準(標準)」(12月
 制定)が策定され、修身教科書の発行へ・・、
  1893年(明治26年)に至り、検定を受けた教科書がで
 き、
  また、この翌年・1894年(明治27年)4月から使用が開
 始された。
  ・1892年、東久世通禧『尋常小学修身書』4冊
  ・1893年、東久世通禧『高等小学修身書』4冊
  ・1892年、末松 謙澄『修身入門』1冊
  ・1892年、末松 謙澄『小学修身訓』3冊
  ・1892年、末松 謙澄『高等小学修身訓』4冊 
  ・1892年、末松 謙澄『修身女訓』4冊
  ・1893年、渡辺 政吉『実験日本修身書』入門共8冊
  ・1900年、普及舎編輯所『新編修身教典』(尋常科・
       高等科・女子用―各4冊)
  ・1900年、文学社『小学新修身』(尋常科・高等科・
       女子用―各4冊)
  因みに、アメリカでは、「初代大統領のワシントンは、
 桜の枝を折ったことを正直に言いました」という徳目主
 義があるが・・、
  これは、アメリカの初代大統領のワシントンを崇拝す
 る動きに於いて、この様な逸話が、1806年頃に作られた
 (その他、様々なこの類の行為を、アメリカは行なって
 いる)
1891年10月7日、鉄道庁旅費規定を改正(8月16日から適用)
1891年10月15日、東京に吊り橋「お茶の水橋」が落成し開
 通した。
  「お茶の水」の名の由来は、二代将軍の徳川秀忠が、
 この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶が気に入った
 ため・・、
  この付近一帯が、「お茶の水」と呼ばれるようになっ
 た。
  この初代の橋は、1891年、原龍太によって、日本人の
 設計としては初の鉄橋として架けられた。
  構造は、長さ38間(約69m)・幅6間(約11m)の上路式
 トラス橋だった。
  因みに、1904年に、橋の下に甲武鉄道(現在のJR中
 央本線)御茶ノ水駅が開設された。
  そして、1923年の関東大震災に会い、この橋の橋板に、
 木材が使われていたため、焼失した。
  神田川は、土砂崩れでせき止められた。
  1931年5月10日になり、震災復興事業として、架替が完
 成した。
  新たな橋は、橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製ラーメ
 ン橋で、耐震性に優れ、現在まで至っている。
1891年10月28日、早稲田文学が創刊された。
  前年新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文学
 科の機関誌として創刊された・・が・・、
  これは、第一次の早稲田文学で、
  現在まで、八次にわたって継続して発行されている文
 芸雑誌。
  第1次は、1891年10月~1898年10月の全156冊で、坪内
 逍遙が主宰だった。
  最初は、講義録風なものであったが、次第に逍遙、島
 村抱月、綱島梁川らの論文がふえていった。
  また、森鴎外との間で没理想論争を展開したりしたが、
  「文学」に対する理解の未分化な時代に、明治文学の
 嚮導者(きょうどう、先に立って案内すること)として
 果たした役割は大きい。
  発行所は、当初は東京専門学校、
  49号より早稲田文学社。
  最初の講義録的なものが変わって「記実主義」の方針
 を打ち出し、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、
 文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみ
 せるようになった。
  そして、文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不
 倒(ふとう)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、
 五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめて、文芸誌と
 しての色彩を強まった。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆に加わった
1891年10月28日、濃尾大地震
  岐阜県、愛知県、倒壊焼失家屋:約26万8000戸、死者
 数:約9万6000人。
  早朝、6時38分50秒、濃尾地方で濃尾地震が発生。
  直下型地震で美濃・尾張地震とも言う。
  震源:岐阜県本巣郡根尾村、北緯35度35分、東経136度
 20分の地点
  規模:M8.0(8.4?)、モーメントマグニチュードは、
 7.4と推定されている。
  根尾谷断層帯が活動した典型的な直下型地震で、日本
 の陸域で発生した地震としては最大規模。
  濃尾地震の被害は、濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県
 や福井県にも及んだ。
  別史料に、死者7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋
 14万2177戸、半壊8万戸。
  また、別史料:死者7466人、全壊:14万2177戸。
  岐阜県を中心に、岐阜、大垣、名古屋で被害甚大。
  西根尾(ねお)村(現=岐阜県本巣市)で、80kmにわ
 たる断層が発生した。
  名古屋・清洲・一ノ宮・木曽川・大垣の各駅本屋全壊、
 岐阜駅本屋大破、木曽川・長良川・揖斐川の各橋梁破損
 のほか線路等に大被害(完全復旧までに6か月を要した)
  なお、罹災者に対する救恤品は無賃、
  救護材料の運賃は、半額(災害罹災者に対する救恤品の
 無賃輸送および救護材料の運賃割引の最初)
  (参考)救恤(きゅうじゅつ):「恤」は、めぐむ意
     で、困っている人に見舞いの金品などを与えて
     救うこと。
1891年10月30日、帝国議会第二回仮議事堂が竣工した(第
 二次仮議事堂落成)(10月20日説あり)
  日本に議会が開設された1890年(明治23年)から現在
 の議事堂が完成するまで46年間がある。
  第1回帝国議会から第69回帝国議会まで、木造の仮議
 事堂を使用していた。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下から「明
 治23年を期し議員を召し国会を開く」旨の国会開設の勅
 諭が発せられ、
  そこで、1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が
 設けられ・・、
  議事堂建築が、スタートすることになった。
  不平等条約の改正に取り組む政府は、外交上の政略等
 もあって、外国の技術者を招聘することとし、ドイツか
 ら建築家を招聘した。
  日本からも、技師をドイツに派遣するなど準備に着手
 し、
  1887年(明治20年)4月の閣議において、議事堂建築
 予定地を麹町区(現在の千代田区)永田町1丁目に決定
 した。
  ドイツ人建築家により議事堂の設計(エンデ及びベッ
 クマンによる案)がなされ、
  中央諸官庁の集中建築計画が立てられた。
  ・・が、計画に従えば多大の経費を要すること、議事
 堂のような大建築物を造り上げるには、帝国議会の開設
 があまりにも切迫していたことから、議事堂の本建築は
 中止され・・、
  麹町区内幸町2丁目(現在の千代田区霞ヶ関1丁目経
 済産業省の区画)に仮議事堂を建築することとなった。
  仮議事堂は、2度火災で焼失したため、都合3回にわ
 たって建築された。
  第1回仮議事堂は、1890年(明治23年)11月24日、(
 第1回帝国議会召集の前日)竣功した。
  木造洋風2階建て。
  同年・1890年11月29日に、貴族院議場において、開院
 式が行われ、我が国最初の議会である第1回帝国議会が開
 会された。
  しかし、翌・1891年(明治24年)1月20日未明、突如出
 火し、数時間で、焼失してしまった。
  原因は漏電。
  議会開会中のため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)、
 衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移した。
  貴族院は、のちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに
 移転した。
  第2回仮議事堂は、第1回仮議事堂の焼け跡に、1891年
 (明治24年)10月30日に竣功した。
  木造洋風2階建て。
  外観は、第1回仮議事堂とそれほど変わらなかったが、
 中央に1か所だった玄関が、貴族院と衆議院の両院に、
 それぞれに設けられ・・、
  防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝ら
 された。
  しかし、また、この議事堂も、1925年(大正14年)9月
 18日に焼失する事になる。
  補修工事業者の不始末からの火災だった。
  (参議院ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1時間後には、やった方(攻撃した方)も、ほぼ居なくなる・・
.
1773年、アメリカのマサチューセッツで、知的な指導的
 黒人の方々が、『奴隷制度は自然権に反する』と主張し
 た。
  それ故、彼ら黒人奴隷にされている人々にも自由が与
 えられるべきだと主張した。
  そして、植民地議会に請願を行なった。
  1773年~1780年までに、マサチューセッツ、コネティ
 カット、ニューハンプシャーで行なわれた自由を求める
 黒人の方々の集団請願が、10数本にもなった。
  また、多くの黒人の方々が、個人的に、また、集団的
 に逃亡し、抵抗した。
  自由獲得への意思表示をして抵抗した。
  そして、また、多くの黒人の方々が、直接に革命軍に
 身を投じ、イギリス軍と戦った。
  また逆に、狡猾なイギリス軍は、この黒人の方々の逃
 亡奴隷の革命軍への参戦を利用して、1775年11月、イギ
 リス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には、『イギリス国
 王の軍に参加した時点で、すべての奴隷を解放する』と
 布告した。
  このイギリスの国王軍には、卑劣にも大プランターが
 多く居て、多くの黒人の方々を奴隷にして虐(しいた)
 げていた。
  その様なイギリス軍だった。
  欺瞞的行動を悪びれず行なう卑劣なイギリス国王軍だ
 った。
  黒人の方々は、悲しいかな、この狡猾な「イギリスの
 引っ掛け」に引っ掛かってしまっていた。
.
1775年4月、アメリカの黒人の方々が、奴隷制反対協会を設
 立した。
  アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンからして奴
 隷所有者という遅れた国家であり、また、人間だった。
  この様なアメリカにおいて、1775年4月、アメリカ最初
 の奴隷制反対協会が、フィラデルフィアに設立された。
  そして、ついに、1794年1月に、フィラデルフィアで
 全国大会が開かれた。
.
1943年4月、バミューダ会議
  アメリカとイギリスの高官レベルの会議で、ユダヤ人
 の方々を、ナチスの手から助ける事に対して、「放棄す
 る」ということが、この会議で決定された。
  また、大量の難民発生に対し、アメリカ・フランス・
 トルコ・イギリスなどの大使館は閉鎖した。
  ユダヤ人の方々の受け入れの拒否行為をして対策した。
  それを、日本は、大使館などの館を開けていて、ユダ
 ヤ人の方々の受け入れをしていた・・受け入れを良いと
 していた。
  このため・・キリスト教が嘘宣伝する杉原千畝が褒め
 られるのではなく、日本の国・自体が褒められる事なの
 だ。
  第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人
 迫害に関して、アメリカも、また、ヨーロッパの国々も、
 長い間沈黙を守った・・というより、口をつぐんだ。
  また、ユダヤ人の方々を進んで救おうとするまとまっ
 た動きもしなかった。
  その挙句(あげく)の・・大使館閉鎖だった。
  1943年4月、アメリカとイギリスの高官レベル会議(バ
 ミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策
 に対しては、何もすべきではないことが正式に決まり、
 大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。
  ユダヤの方々の流入が、「救出するより怖い」と判断
 したアメリカ・ヨーロッパ諸国だった。
  そこには、キリスト教の「主(イエス)殺しのユダヤ
 人」という差別の洗脳が働いた。
  この事を後世に残すために、世界記憶遺産に登録し、
 且つ、アメリカ各地にこの像を建立せよ!
.
1945年、下記は、第二次世界大戦で戦死された方々の人数
 (軍人+一般の方々)で・・、
  その当時の国民数に対する戦没者の方々の割合で順位
 づけらている。
  当時の国民数に対して、ポーランドの方々が一番多い
 割合(16.7%)で犠牲となられている。
  01・ポーランド、5,820,000人(16.7%)
  02・ソビエト連邦、28,000,000(16.61)
  03・ナウル、500(14.7)
  04・リトアニア、350,000(14.33)
  05・ティモール、70,000(14.00)
  06・ドイツ、9,000,000(12.88)
  07・ラトビア、230,000(11.78)
  08・ルアンダ=ウルンディ、300,000(7.1)
  09・シンガポール、50,000(6.87)
  10・ユーゴスラビア、1,027,000(6.67)
  11・フィリピン、1,057,000(6.6)
  12・ハンガリー、580,000(6.35)
  13・フランス領インドシナ、1,500,000(6.1)
  14・オランダ領東インド、4,000,000(5.76)
  15・ギリシャ、335,100(4.5)
  16・エストニア、50,000(4.44)
  17・日本、3,120,000(4.37)
  18・ルーマニア、800,000(4.01)
  19・中華民国 重慶国民政府、20,000,000(3.86)
  20・オランダ、301,000(3.45)
  21・チェコスロバキア、325,000(3.15)
  22・南洋諸島、57,000(3.00)
  23・アルバニア、30,000(2.81)
  24・フィンランド、97,000(2.62)
  25・マラヤ連邦、100,000(2.28)
  26・朝鮮、483,000(2.06)
  27・オーストリア、120,000(1.80)
  28・ビルマ、272,000(1.69)
  29・フランス、550,000(1.35)
  30・パプアニューギニア、15,000(1.17)
  31・ベルギー、88,000(1.05)
  32・イタリア、454,600(1.03)
  33・イギリス、450,900(0.94)
  34・ニュージーランド、11,900(0.73)
  35・インド、2,587,000(0.68)
  35・ルクセンブルク、2,000(0.68)
  37・オーストラリア、40,500(0.57)
  38・マルタ、1,500(0.56)
  39・カナダ、45,400(0.40)
  40・ブルガリア、25,000(0.38)
  41・アメリカ合衆国、418,500(0.32)
  41・ノルウェー、9,500(0.32)
  43・アイスランド、200(0.17)
  44・南アフリカ、11,900(0.12)
  45・デンマーク、3,200(0.08)
  46・エチオピア、100,000(0.6)
  47・タイ、7,600(0.04)
  48・モンゴル、300(0.04)
  49・ニューファンドランド、100(0.03)
  50・ブラジル、2,000(0.02)
  51・スウェーデン、600(0.01)
  51・イラク、500(0.01)
   ・キューバ、100(0.00)
   ・イラン、200(0.00)
   ・アイルランド、200(0.00)
   ・メキシコ、100(0.00)
   ・スイス、100(0.00)
   ・トルコ、200(0.00)
   ・ネパール、
   ・スペイン、
  計 85,000,000人(4.00%)
  因みに・・第一次世界大戦の犠牲者数は・・、
  協商国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イ
 タリア、ルーマニアなど)・・9,407,136人(1.19%)
  中央同盟国(ドイツ、オスマン帝国、オーストリア=
 ハンガリー帝国、ブルガリア王国)・・7,153,241(5.0)
  中立国(ノルウェー、スエーデン、デンマーク)・・
 3,491(0.03)
  計 16,563,868人(1.75%)
  ・・となっていて・・、
  第二次世界大戦の戦没者数は、この5.1倍の戦没者数
 という激烈な人数となっている。
  (一般人の犠牲者数の激烈な増加)
  しかし・・、第三次世界大戦の核戦争になると・・
  1時間後には、地球上の人類の約半数が死ぬと言われ
 ている。
  そして、一旦、核戦争になれば、その放射能で、人類
 のすべてが生き残れない。
  「人類の殺傷技術の進歩」と言えば卑劣であるが、愚
 かな人類の歩みは、その様な時代を作ってしまった。
  より強烈になってしまった兵器を持つ愚かな人間が、
 今現在、地球上に居る。
  何百万年も、営々と築いて来た人類の叡智・・
  「その叡智の一端で、この様な兵器を創り、一瞬にし
 てすべてが崩れ、人類の生存はおろか、地球上の全生物
 が抹殺されるという時代」となっている。
  その様な事態が起きる歯止めの技術の進歩は・・、
  『まったくない』・・.
1949年、1949年のこと・・、
  GHQは、アメリカのマッカーサー司令官の独裁的支
 配機関であった。
  占領政策の中で、マッカーサーは、WGIP(War
 Guilt Information Program/ウォー・ギルト・インフ
 ォメーション・プログラム)を実施した。
  これは、日本人に「罪悪感を植え付け」て・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ
 て・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取る・・
  ・・という、プログラムであった。
  1949年になって、日本を、あまりにも自分の考え方だ
 けで規制しているのを反省したのか・・GHQは、それ
 まで映画を検閲していたが止めた。
  時代劇も駄目だったが、時代劇もできるようになった。
  それから、約5年後くらいの1950年代後半に、日本は、
 映画全盛期を迎える。
  観客数ピークは、1958年に、11億2745万人。
  因みに、2015年は、1億6700万人。
  別史料に、GHQの下部の組織であるCIE(民間
 情報教育局)によって、日本の映画は管理されていたが、
 1952まで続いたとされている。
  また、戦争に協力したとして、1947年に追放された監
 督らが、その追放の処分解除が、1950年になされた。
  また、1951年に、サンフランシスコ講和条約が締結さ
 れると、その翌年の1952年に、GHQによる映画検閲が
 廃止になった。
  そして、これによって、上映禁止となっていた時代劇
 が復活した。
  1951年には、黒澤明の「羅生門」が、ベネチア国際映
 画祭グランプリを受賞した。
  また、GHQによって制限されていた戦争映画の制作
 がされはじめ、
  1950年には、関川秀雄の「きけ、わだつみの声」がで
 きた。
  因みに、ルーズベルト米大統領のブレーンの多くは、
 共産主義者だった。
  終戦を迎える以前の1943年から、アメリカにはOSS
 (Office of Strategic Serevices/戦術局)かあった。
  そこでは、日本が敗戦した後に、どのように日本を支
 配していくかを話し合っていた。
  OSSの中心的な構成員は、ドイツから亡命してきた
 マルクス主義を基にするフランクフルト学派のユダヤ人
 達であった。
  彼らは、日本をマルクス主義の実験場にしたかった。
  東西冷戦が起きた。
  当時のアメリカにとって、ソ連は、日本・ドイツ・イ
 タリアを共に攻める同盟国であったため、社会主義国に
 対する警戒意識は、当時、まだ持っていなかった。
  ルーズベルト大統領も、左翼思想の持ち主であり、彼
 のまわりは左翼思想家ばかりが取り巻いていた。
.
1949年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
1948年4月に出版された・・しかし・・
  1949年のこの年に、ダグラス・マッカーサーGHQ司
 令官は、日本での翻訳と、出版を禁じた。
  (卑劣な口封じ)
  第二次世界大戦は、日本は、『防衛のため』やむを得
 ず戦いをした・・と書かれている。
  このアメリカの不利な言説を、GHQは封じようとし
 た。
.
1963年、中性子爆弾の最初の実験が行われた。
  中性子爆弾(ちゅうせいしばくだん)は、核兵器の一
 種で、核爆発の際のエネルギー放出において、中性子線
 の割合を高め、生物の殺傷能力を高めたもの。
  放射線強化型核爆弾とも呼ばれる。
  中性子線は透過力が強く、薄い鉛などの金属板も透過
 する。
  地下鉄程度であれば透過するため、都市圏であればほ
 とんど助かる可能性はない。
  爆発による破壊よりも、人間を初めとする生物には放
 射線障害による死傷を与えることができ、爆風などの被
 害半径よりも中性子線による被害半径のほうが大きくな
 っている。
  中性子爆弾は、戦術核兵器として使用後の占領時に市
 街の建造物やインフラ設備を利用できるようにするため
 に爆発力を縮小させており、主として自軍地上部隊の行
 動を視野に入れた運用が考えられていた。
  そのため、弾頭威力も核兵器としては小さく、残留放
 射能も少量になるように設計されている。
  1ktの弾頭ならば、被害半径を1000m程度に抑えられる
 こともあって、戦術核兵器としての利用が考えられた。
  最初の実験は、1963年に、アメリカのネバダ核実験場
 で行われた。
  1970年代には、スプリント弾道弾迎撃ミサイル用のW66
 に中性子弾頭が使用された。
.
2017年、核戦争が一旦、起きたら、一時間後には、地球上
 の人類の『約半数が死ぬ』と言われている。
  その様な『はかない状況』の中に人類は生存している。
  (その後まで続くのであれば、人類絶滅へ、強烈な放
 射能もある状態で、人類は、誰も逃れる事は出来ない・・
 生き延びる事は出来ない)
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  北朝鮮のICBMは、約30分後には、アメリカに着弾
 する。
  ヨーロッパは、北朝鮮から遠いからなんて、言ってい
 られない・・今現在なのだ。
  また、その放射能と言えば・・「福島原発事故どころ
 ではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域である・・この様に、長い年月、全地球が、そ
 の高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  そして、1時間後には、やった方(攻撃した方)も、
 ほぼ居なくなる核戦争の「核兵器システム」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年8月11日、日高藤吉郎が、日本体育会を創立した。
  東京・牛込区原町の成城學校(現・成城中学高等学校)
 内に設立された「體(体)育會」(翌1892年に「日本體(
 体)育會」と改称)を起源とする日本體育會体操練習所、
 (のちの学校法人・日本体育大学)が創立された。
  建学の精神に、創設者の日高藤吉郎は・・、
  「全国民が強健な体力を保持しなければ、国家の発展
 は望めない」との信念を持つに至り・・、
 「體育富強之基」(たいいくふきょうのもとい)を掲げ
 ている。
  国民体育の振興、真に豊かな国家・社会を実現するた
 め、体育・スポーツの普及・発展を積極的に推進し、
  健全な心身を兼ね備えた全人格的な人間を育成するこ
 とを建学の理念としている。
  この校風は、「質実剛健・団結和協」「知徳兼修・体
 育奉公」と校歌の詞にも謳われている。
  体育・スポーツの殿堂で、體(体)育會の下に設置され
 た体操練習所(のち体操学校)からスタートした体育系
 大学(体育学・体育科学・スポーツ科学)の中心である。
  また、本学は、体育学から波及した色々な学科をいち
 早く取り入れた。
  その一例である「健康学科」は、体育系大学では初め
 て設置され、保健分野(養護「保健」学・生理学・健康
 学・公衆衛生学)でも主流をなし、
  伝統の体育指導者(体育教員・スポーツ指導者・スポ
 ーツ科学者等)の輩出のみならず、
  養護教員・小学校教員・特別支援学校教員・医療関係
 従事者のOG・OBも多く輩出している。
1891年8月20日、九州鉄道会社線の鳥栖駅~佐賀駅間(24.7
 km)が開業した。
1891年8月21日、関西鉄道会社線の亀山駅~一身田駅間(12.1
 km)が開業した。
1891年8月27日、露仏同盟が調印された。
  これは、政治協定および軍事協定で、最終的には、1894
 年1月4日に締結された。
  ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される
 三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の
 国が軍事的支援を行うことが定められた。
  1890年、ドイツが再保障条約(1887年、ビスマルク時
 代のドイツが、ロシアとの間で締結した秘密軍事条約)
 の継続を拒否し、それが解消されたため、
  反発したロシアが、1891年からフランスに接近した。
  ロシアは、フランスからの金融援助を期待して締結す
 るとともに、バルカン方面でのオーストリア=ハンガリ
 ー帝国への牽制になることを期待した。
  フランスも、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イ
 タリアの三国同盟の脅威に備えること意図した。
  1871年の普仏戦争で、フランスは、プロセインに敗北
 して以来、ヨーロッパでの孤立化状態を脱することを期
 待した。
  両国の利害が一致して、1894年までに、同盟関係が形
 成された。
  1904年の日露戦争の開戦後に、英仏協商が締結され、
  また、日露戦争後の1907年に、英露協商が締結された
 が、三国同盟に対抗する「三国協商」の一部を構成する
 こととになった。
1891年8月30日、筑豊興業鉄道会社線の若松駅~直方駅間
 (25km)が開業した。
  旅客等級は、「特等」と「並等」で、
  賃率は、並等が1マイル(約1.6㎞)当り1銭2厘だった。
1891年8月、京都停車場に、錬鉄製跨線橋が架設された。
  技術が進んで、明治期の後半には、橋梁材料が錬鉄か
 ら鋼に切り替わって行くが、
  日本は、明治年間を通じて、まだ一貫して欧米の橋梁
 メーカーの製作に依存して来た。
  1896年(明治29年)に架設された土浦線(現:常磐線)
 の隅田川橋梁(200ft=約61m)は、材料が錬鉄から鋼に
 切り替わった時代の橋梁。
  錬鉄は、炭素の含有率を低く抑えた軟鉄で、エッフェ
 ル塔も錬鉄製である。
  錬鉄(れんてつ)は、鋼鉄の大量生産手段の発明以前
 に、古典的な製鉄方法のパドル法で主に製造され、
  ある程度の量産ができ、鋳鉄(ちゅうてつ、鋳物製品
 に使われる)に比べ強靭だったので、19世紀を中心に、
 鉄道レールや建造物の構造材料として利用された。
  しかし、鋼鉄の大量生産の手法が発明されると、姿を
 消した。
1891年8月、東京市15区と八王子市で、土葬が禁止となった。
  土葬(どそう)は、遺体をそのまま埋葬することであ
 るが、因みに、キリスト教は、火葬に対して否定的で、
 宗教的理由から土葬する。
  明治政府は、仏教での葬法としての火葬に、反対する
 神道派の主張を受け入れて、1873年(明治6年)7月18日
 に、太政官布告によって火葬禁止令を出した。
  しかし、仏教徒の反対や、衛生面からも火葬が好まし
 いとの判断から、
  1875年(明治8年)5月23日に、火葬禁止令を解除した。
1891年9月1日、東京~青森間が全通した。
  日本鉄道会社線の上野駅~青森駅間の東北本線が、全
 線開通した。
  盛岡駅~青森駅間の工事が完成(204.2km)開通し、
 上野駅~青森駅間(732km)が全通した。
  上野、および、青森から、1日1回の長距離直通列車を
 運転し、1往復運転がなされた。
  所要時間は26時間半。
1891年9月10日、硫黄島・北硫黄島・南硫黄島が、東京府に
 所属された(9月9日説あり)
  島北部には、戦前、元山部落、東部落、西部落、南部
 落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には、
 硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心とな
 っていた。
  また、島には、父島から派遣された警察官1名が駐在し
 ていた。
  島南部は、旧海軍省によって要塞地帯に指定され、一
 般島民の立ち入りは制限されていた。
  当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、レ
 モングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、
  これらの産業は、硫黄島産業株式会社が取り仕切って
 おり、島民の大半は、同社に直接、間接的につながって
 いた。
  1945年2月19日~1945年3月26日に、日米間に激戦がな
 された。
  物量共に不利のなかで、また、日本軍に増援や救援の
 具体的な計画は当初よりなく、
  戦闘が不利に経過する中・・、
  栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする大日本帝国陸軍
 は、バンザイ突撃を禁じて激しい抵抗戦を繰り広げた。
  その戦闘を試みた栄光の将兵の遺骨は、まだ、島に残
 されている。
  (アメリカ軍は、その日本将兵の遺骨をそのままにし
 て、その上に滑走路を構築した)
  1968年に、同島の施政権が日本に返還され、この時、
 国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻
 された(「いおうじま」から)
  現在、原則として基地に勤務する自衛隊員、及び、建
 設業者等の関係者以外の上陸は禁止されているが、戦没
 者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、
 それに戦没者の遺族等の上陸は許可されている。
  旧島民の帰島の希望は叶(かな)えられていない。
  歴史
  江戸時代、幕府の船によって、既に、その探査は行わ
 れていた・・、
  1873年(明治6年) 小笠原の領土所属をめぐって日英
   米間で論争がさかんに。
   明治政府は、小笠原を領有統治する方針を固める。
  1875年(明治8年) 外務省官吏・田辺太一等の調査団
   が父島・母島に派遣され、小笠原の住民に対して日
   本の所属となることを宣言した。
  1876年(明治9年)3月、小笠原を内務省所管とする。
   10月、諸外国に小笠原が日本の領土と通告し、日本
   領土と確定。
  1887年(明治20年)11月1日、高崎五六東京府知事が、
   灯台巡視船・明治丸で横浜港を出帆、三宅・八丈・
   小笠原諸島を巡回。
   11月10日、硫黄島を探査。
  1889年(明治22年) 6月、田中栄二郎が硫黄島へ渡航。
   北硫黄島にも寄る。
   8月3日、南硫黄島で4年間生活していた遭難者発見。
   12月、小笠原島庁荒川義邦が硫黄島調査。
  1890年(明治23年)小美田利蔵が硫黄試掘願を農商務
   大臣に提出。
  1891年(明治24年)9月9日、勅令をもって硫黄列島が
   東京府小笠原島庁管轄となる。
   北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と名称を定めた。
   11月、小笠原島庁の公標が硫黄島に建つ。
  1892年(明治25年)5月16日、硫黄鉱山試掘願が農商務
   大臣によって許可された。
  1896年(明治29年)石野平之丞が北硫黄島に上陸。
  1898年(明治31年)硫黄島からの輸出用・運送用に艀
   漁船・小廻船2艘と年2回の定期船便を利用。
   そのうちの1回を南硫黄島まで迂回させ、遭難者の有
   無の確認することに。
  1899年(明治32年)石野平之丞が母島から北硫黄島に
   移住、開拓を開始。
  1902年(明治35年)北硫黄島に私設小学校が開校した。
1891年9月11日、山陽鉄道会社線の笠岡駅~福山駅間(14.3
 km)が開業した。
1891年9月12日、日本鉄道会社が、甲と乙の定期割引切符の
 発売を発表した。
1891年9月12日、群馬県が、1893年末を以て公娼を廃止する
 と布告した。
1891年10月1日、スタンフォード大学が創立された。
  アメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォードに本
 部を置く私立大学。
  校訓は「自由の風が吹く」。
  サンフランシスコから約60 km南東に位置して、地理上
 も、歴史的にも、シリコンバレーの中心に位置している。
  現在、スタンフォード研究所 (SRI) は、大学本部の管
 理下にはなく、大学発のインキュベーションやベンチャ
 ー企業の支援を目的とした独立した組織として運営され
 ている。
  (参考)インキュベーション(incubation)「抱卵・
    培養・保育の意」で、
     設立して間がない新企業に国や地方自治体など
    が経営技術・金銭・人材などを提供し、育成する
    こと。
1891年10月2日、東京市が、市区改正費のため公債1000万円
 を募る(市民公債の始)
  市区改正(しくかいせい)は、明治時代から大正時代
 に行われた都市計画、都市改造事業のことで・・、
  都市部では、文明開化で、馬車や鉄道などの新たな交
 通機関が登場したが、江戸時代の城下町等を部分的に改
 変して対応していた。
  さらなる発展のための、上下水道・電気・市街電車な
 どのインフラストラクチャーを導入し、そして、都市を
 近代化して行くためには、大規模な都市改造、市区改正
 が必要だと、課題になった。
  1889年に、委員会による計画案(旧設計)が公示され、
 事業が始まった・・が・・しかし、
  財政難のため事業は遅々として進まなかった。
  政府は、その前年の1888年3月、東京市区改正条例案を
 元老院の議に付していた。
  しかし、同年1888年6月、元老院は、同条例案を否決し
 た。
  理由は、『首都』東京の改造費の半額は国庫から補助
 している状況のなか、
  現状は、不穏な清国などの情勢もあって、軍備増強が
 急務ではないかとの意見だった。
  これに対し、山県内務大臣と松方正義大蔵大臣は、翌
 月の1888年7月、元老院の否決理由に反論したうえで、
  原案の東京市区改正条例案は、「断然決行」すべきで
 あるとして、条例案を再提出した。
  提出案には、元老院案に対する山県・松方両大臣の反
 対意見を盛り込んだ閣議請議を求める文書だった。
  閣議はこれを容れ、同年・1888年8月16日、「東京市区
 の営業衛生防火及通運等永久の利便を図る」東京市区改正
 条例が公布された。
  東京市の歴史を見ると・・、
  江戸時代の最盛期に100万人以上といわれた人口も・・、
  1872年(明治5年)には、52万人に減った。
   この年、大火で焼失した銀座れんが街の復興は、都
   市改造事業の最初のものであった。
  1878年(明治11年)に、67万人に、
  1887年(明治20年)には、106万人に回復した。
  1888年(明治21年)には、東京市区改正条例が公布され、
   皇居周辺と下町の一部を対象として、道路の新設・
   拡張、河川・橋梁・公園の整備が行われた。
   しかし、この間に日本の産業革命が進行して、東京、
   大阪をはじめとする大都市や港湾都市の都市化が急
   速に進んで行った。
   ここに、東京市区の改正が必要となった。
  1897年(明治30年)には、133万人を数え、
  1903年(明治36年)には、181万人に及び、
  1912年(明治45年)には、200万人をこえる大都市に発展
 して行く・・、
  それまでの下町の高密度地域から、山の手の住宅地区
 や周辺の工業地帯が密集するようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」
.
紀元前4万3000年~紀元前2万6000年、この間に、ネアンデ
 ルタール人が滅んだ。
  この時に、ホモ・サピエンスが進出し、交替劇が演じ
 られたと考えられている。
  この交代劇は、争いや戦いが無い状態で行われたと考
 えられている。
  この交替についての説には、「疾病説」や、「環境説」
 や、「生存戦略説」があるが、
  環境説が有力と言われている。
  寒い環境のため、南へ移動して行った・・、
  そして、北アフリカと南ヨーロッパへと、
  そしてまた、カスピ海周辺から東へと・・、
  ネアンデルタールの谷というドイツの谷(タール)で
 最初の発見がなされた。
  その骨から復元すると、足は太く短く、胴は長く、筋
 肉はりゅうりゅうとし、
  目の上の骨は盛り上がり、火をおこし、狩りの生活を
 していた。
  美術解剖学によって、骨に肉を付けて行き、その様な
 ことが観察された。
  頭は非常に大きいと言え・・、
  700万年前に、人類が誕生し、猿人から原人へ(旧人、
 新人)、そして、ホモ・ハイデルベルゲンシスへ、
  (参考)ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベル
     クのヒト)は、ヒト属の一種。
      ハイデルベルク人をホモ・エレクトスとは別
     種とするときの名称。
      ホモ・エレクトスに比べ脳容量が大きく
     (1100cc~1400cc)、より人間的な行動をとる
     ことができ、これを種レベルの違いであると考
     える場合に別種とする。
      種レベルの違いはなかったと考える場合は、
     エレクトスに含め、
      エレクトスの種内亜種として区別する場合は、
     ホモ・エレクトス・ハイデルベルゲンシス と呼
     ぶ。
      時期は、60万年前から40万年前。
  80万年前に、ヨーロッパに進出⇒ネアンデルタール人
 となった。
  アフリカに於いては、ホモ・サピエンスとなる。
  化石に作り方が違う、古い昔のまま再現したネアンデ
 ルタール人、
  作り方の学習研究から、新しい石器を作ったホモ・サ
 ピエンス、
  学習能力の進化、化石能機能研究、集団同士が文化を
 交流して進化したホモ・サピエンス、
  教えることをしないで、自主性を尊重する、狩猟採集
 民族、
.
1563年、関ケ原の戦いの37年前のこの時、家康に逆らった
 本證寺(ほんしょうじ、愛知県安城市)があった。
  寺の不入権(租税免除と治外法権)が侵害されたとし
 て、浄土真宗の同寺は、他の三河3寺とともに領主・家康
 と争った。
  三河一向一揆である。
  翌年・1564年に、和議が結ばれたが、門徒側が家康の
 一方的な改宗命令を拒否したため、僧侶衆は追放され、
 建物は破却された。
  許され、赦免されたのは、それから約20年の後だった。
  この後、家康は、堅固な信仰に参って、浄土真宗を内
 側に取り込むことで、地域の安定を図って行った。
.
1946年2月16日夕刻、新円切り替え
  旧円券を回収し、新円券に切り替えた。
  幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として
 行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の
 発行と、
  それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替
 政策。
.
1947年5月17日、石橋湛山蔵相が公職追放となった。
  石橋は、戦勝国・アメリカに勇気ある要求をした。
  石橋は、国民から『心臓大臣』と呼ばれるもアメリカ
 からは嫌われた。
  1947年のこの年に、第23回衆議院議員総選挙で静岡2区
 から当選したが、卑劣にも、GHQは、公職追放令によ
 って公職追放した。
  この公職追放は、吉田茂が関わっていると云われた。
  1951年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・
 鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。
  この時期、立正大学から懇請されて、学長に就任した。
.
2017年7月6日、(読売新聞、2017年7月6日)に、「各国の
 核弾頭保有数(2017年)」が記載されている。
  それによると・・、
  (1)ロシア、 7000発
  (2)アメリカ、6800発
  (3)フランス、 300発
  (4)中国、   270発
  (5)イギリス、 215発
  (6)パキスタン 130~140発
  (7)インド、  120~130発
  (8)イスラエル、80発
  (9)北朝鮮、  10~20発
  明確に、北朝鮮が、核保有国と記されている。
  また、同じこの新聞に・・、
  「北朝鮮のICBM」に対して日本の迎撃は困難」と
 ある。
  北朝鮮の核弾頭が、日本に飛来する場合もあるが・・
  日本の上空をアメリカへ向かって飛ぶ、その北朝鮮の
 ICBMを打ち落とすのは技術的に無理・・とある・・
  その概要を記すと・・、
  「北朝鮮が4日発射した弾道ミサイルを、米政府が、大
 陸間弾道ミサイル(ICBM)と認めた」・・
  「ティラーソン米国務長官は、声明でICBMだった
 との認識を示した」・・
  「アメリカは、当初、「中距離弾道ミサイル」と分析
 していたが、米国防総省も、同日、ICBMだったと断
 定した」・・
  「日本のミサイル防衛は、イージス艦搭載の迎撃ミサ
 イル(SM3)が最高高度約500キロの大気圏外で撃
 ち落とすシステムが主力であるが、
  これは、最高到達点から落下し始めるタイミングで迎
 撃することを想定している。
  しかし、アメリカに向かうICBMの場合、イージス
 艦が展開する日本海の上空を通過する時点では、(北朝
 鮮のICBMは)高速で上昇しているため、迎撃は困難」
 (防衛省幹部)・・
  「ティラーソン氏は、声明で、北朝鮮によるICBM
 は、アメリカや同盟国、(アジア太平洋)地域、そして、
 世界に対する脅威が、新たな段階にエスカレートした」
 と・・
  「北朝鮮国営の朝鮮中央通信は5日、4日に発射したミ
 サイルについて・・大気圏再突入時の高温でも、弾頭部
 内の温度は安定して維持され、核弾頭爆発制御装置は、
 正常に作動した・・と伝えた」
  「韓国の国防相は、5日の国会報告で、北朝鮮の核実験
 を行なう可能性について・・、
  (核開発は)北朝鮮の国家的な目標であり、可能性は
 高い」と述べ、
  「北朝鮮北東部・豊渓里(ブンゲリ)の核実験場は、
 いつでも核実験が可能な状態を維持している」と明らか
 にした。
  「日本の岸田外相は、5日、米国のティラーソン国務長
 官と電話で約30分間会談し・・制裁強化・日米共同行
 動・・」
.
2017年、アルティミット・イクォライザー(究極的な均等
 化武器)
  核の破壊力が絶大なため、その破壊力ゆえに、戦争抑
 止ともなる。
  どのような国(核兵器を、全地球を壊滅するぐらい持
 っている国)でも、安易にその核保有国への攻撃は出来
 ないとなる。
  北朝鮮を、アメリカ大統領がテロ国家だと言い、同じ
 テロ国家とされたイラクは亡ぼされてしまったため、北
 朝鮮は、必死に核開発をした。
  その結果が、今現在の状況であるが・・、
  戦車や大砲や戦闘機などの武器は、たくさん持ってい
 る国が有利という性格の武器である。
  例えば、戦闘機を一万機持っている大国と、戦闘機が
 百機しかない小国が戦争をする場合を考えれば、その戦
 いの結果はあきらかである・・、
  しかし、核兵器は・・その様な性格の武器ではない・・、
  イギリスやフランスは、発見しにくい潜水艦に搭載し
 た核ミサイルを持っている。
  これは、巨大な量の核兵器を持っている国に、その少
 量の核兵器で十分対抗できるからで・・、
  例え、核の量が百分の一であっても、潜水艦や地下ト
 ンネルに隠し持っている核は、十分その威力を発揮し・・、
  核超大国であっても、その少量の核で対抗できるとい
 う性格がある武器・・、
  核超大国が、その小国の核をすべてを一気に破壊する
 のは不可能であるため、その残った核による報復を受け
 るからで・・、
  核兵器の破壊力が超絶大なため、残った少量の核でも、
 その超絶大な破壊力の少量の核の破壊力で、十分対抗で
 きる・・、
  故に、この核兵器を、「究極的な均等化武器:アルテ
 ィミット・イクォライザー」と言う・・、
  核兵器の攻撃から逃(のが)れることができ、核攻撃
 への抑止力が働く・・、
  歴史に於いて、今まで、核大国は、核兵器の実施は行
 なわなかったが、
  しかし、歴史には、何度も、原爆の使用をするかどう
 かの瀬戸際があった・・愚かなことだが・・、
  広島・長崎のあまりにも悲惨な・・その結果を知って
 いてても、この様な事が何度もあった。
  幸い実行はされなかったが、愚かな人間が、愚かな最
 高権力者が、再び、今後、やる可能性は十分ある。
  あなたのお子さんが、あなたが、今、頼んだ、アイス
 クリームを食べ終わらないうちに・・核兵器が着弾する
 という時代が・・今・・北朝鮮から7分で着弾・・中国
 から10分で着弾・・、
  自分だけは特別という妄想は、根拠のない絵そらごと
 ・・、
  北朝鮮という、新たな核保有国が生まれ・・核保有国
 に囲まれた日本・・
  核抑止力が必要な時となった・・
.
2017年、カルタゴは滅んだ・・話し・・
  クラスの中でも暴力的に弱いNが・・、
  強力な腕力を持っている大きいAに・・、
  「いざという時には守って・・」と頼んでいた・・
  Aも了解していた・・、
  しかし、ある日、クラスの悪のいじめっ子のNCが・・、
  非情な強烈な武器を持って・・
  想像を絶する武器でもって・・
  そのNをいじめ、攻撃した。
  あまりにも強烈な武器であるため、Aは、自分へのダ
 メージを恐れ・・たじろぎ、ためらった。
  Aは、約束していたNを助ける行為はしなかった。
  可哀想にNの存在は・・?となった・・
  今までも、Aは、その様な強烈な武器を持った奴とは、
 戦うことをためらって来ていたが、今回もその通りとな
 った。
  傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」・・
  その様な・・史実が・・『ある』・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年7月1日、九州鉄道会社線の高瀬駅~熊本駅間(28km)
 が開通し、門司駅~熊本駅間(195.4km)が全通した。
1891年7月5日、北海道炭砿鉄道会社線の岩見沢駅~歌志内
 駅間(49.7km)が開業し、手宮駅~歌志内駅間の直通運転
 が実施された。
1891年7月5日、清国の北洋水師(艦隊)が、戦艦「鎮遠」
 「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動の
 ため東京湾へ来航した。
  本「頭山満と玄洋社物語」(続)(平井晩村著1915年
 刊)の第10章に、
  「日本の海軍の10倍の「鎮遠」「定遠」の巨艦を擁し、
 東京湾にあらわれ丁汝昌は、『眼中に日本なし』とせせ
 ら笑い、長崎に寄港して横暴のかぎりをつくした」とあ
 る(日清戦争の遠因)
  日本は、戦争回避もあってか? 金を出し、長崎市と
 協力して歓迎大会を開催した。
  また、横浜、呉などにおいても大歓迎会を催している。
  しかし、長崎においては、前回の時と違い、上陸して
 くる清国水兵に復讐する者もいた。
  (前回、清国水兵の乱暴狼藉事件があったため)
  上泉少尉は・・、「折角、親善を標ぼうして、来朝し
 て来る者を遇する道ではない」・・と、清国艦隊が、日
 本を去るに際し、最後の交歓をなすべく率先奔走した。
1891年7月11日、卒業式で君が代が歌われた。
  東京音楽学校の卒業式で「君が代」が歌われた。
1891年7月14日、山陽鉄道会社線の倉敷駅~笠岡駅間(28.1
 km)が開業した。
1891年7月19日、讃岐鉄道会社が、定数乗車券(乗車回数30
 回、通用期間2か月、普通運賃の2割5分引きの記名式回数
 券乗車券)を発売した。
1891年7月27日、高等官任命及俸給令が公布された(勅令第
 82号、高等官官等俸給令は廃止)
  官吏(かんり)は、具体的な任命のあり方に応じて、
 親任官、勅任官、奏任官、および、判任官の身分的区分
 が定められた。
  そして、このうち、親任官、勅任官、および、奏任官
 は、高等官とされた。
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  任用については、文官は、高等文官試験に合格した者
 を任用する方法があり、
  また、武官は、陸軍士官学校・海軍兵学校を卒業した
 者を任用する方法が、それぞれ主流としてあった。
1891年7月27日、判任官俸給令が公布された(勅令83号、8月
 16日施行、従来の判任官官等俸給令は廃止)
  判任官(はんにんかん)は、官吏のうち、高等官では
 ない官吏の事を言う。
  高等官(勅任官・奏任官)の下に位置していた。
1891年7月27日、「鉄道庁高等官俸給ノ件」公布(勅令第117
 号、8月16日から施行)
1891年7月27日、技術官俸給令が公布された(勅令第84号、
 8月16日から施行、従来の技術官官等俸給令は廃止)
  技術官は、工芸・技術に関する職務に従事した官吏の
 ことをいう。
  判任官を技手、高等官を技師と称した。
1891年7月、鉄道庁長官(井上勝)が、「鉄道政略ニ関スル
 議」を内閣総理大臣に提出した。
  5713.2kmの鉄道建設が必要であるとして、第1期財源に
 充てるため公債募集を提議した。
  井上勝(いのうえまさる、1843年~1910年)は、山口
 県出身で、子爵になった人。
  1863年(文久3年、20歳)に、伊藤博文らとともに渡航
 し、ロンドン大学で鉱山・土木工学を学んだ。
  この時の5人を「長州五傑・ちょうしゅうごけつ)」と
 言い・・、
  長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロ
 ンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。
  井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博
 文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
  武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー
 商会)らの協力を得て成し遂げられた。
  この5名は、ロンドン大学に、「長州ファイブ(Choshu
 Five)」として顕彰碑が建てられている。
  1868年(明治元年、25歳)に帰国し、以後、井上勝と
 称した。
  1871年(明治4年、28歳)工部省鉱山寮鉱山頭兼鉄道寮
 鉄道頭、
  1872年(明治5年、29歳)鉄道頭専任となり、京阪神間
 鉄道の建設に尽力。
  1882年(明治15年、39歳)工部大輔、
  1885年(明治18年、42歳)内閣鉄道局長官兼技監など
 を歴任。
  1890年(明治23年、47歳)貴族院議員、内務省鉄道庁
 長官。
  1891年(明治24年、48歳)鉄道国有論を主張して、「
 鉄道政略ニ関スル議」を提出し、鉄道敷設法制定の契機
 となった。
  1896年(明治29年、53歳)汽車製造合資会社を設立し、
 社長に就任。
  鉄道院顧問となり渡欧したが、病にかかり、ロンドン
 で、1910年(67歳)客死した。
1891年7月、欧字新聞の検閲が始まった。
  1883年に軍隊や軍艦の動静(どうせい、物事の動き、
 様子、消息)の掲載などの禁止がなされた。
  そして、外交上の秘密事項なども加わった。
  1891年の大津事件は戦争に至る可能性もあったため、
 軽率なる報道への検閲の必要性があった。
  また、清国の不穏な日本を馬鹿にし、また、蔑視する
 行動などもあった。
1891年8月5日、世界初と言われるトラベラーズ・チェック
 (旅行小切手)が発行された(アメリカン・エキスプレ
 ス)
  因みに、現在、クレジットカードの普及など決済サー
 ビスの多様化に伴って、近年では利用が減少し、日本で
 唯一販売を続けていたアメリカン・エキスプレスは、2014
 年に販売を止めた。
1891年8月7日、日本最初の魚形水雷の試射(相州浜にて海
 軍省技師、喜志・坂本両氏による)
  1861年~1895年の間、清朝政府は、造船を最も重要な
 ものとし、4つの造船所と2つのドックを柱とする官営造
 船機構の整備を進めた。
  それは、江南機器製造総局(濾局)、福州船政局(閾局)、
 天津機器総局、黄哺船局並びに大沽ドック、旅順ドック
 である。
  そして、特に、中国の北方地域、首都・北京と港湾都
 市・天津、及び、その周辺地域において造船関連産業を
 振興させることが急務としていた。
  そして、防衛上の要衝地・天津に最新鋭の西洋式軍事
 機器を製造する天津機器総局を創設するべきとした。
  この1例の様に、中国は軍事化、そして、その近代化に
 邁進していた。
  実施する規模も雄大であり、最新の機器が備えられて
 行った。
  御雇い外国人も多数、要請していた。
  その分局の一つの東局の例を見ても、技師と技術労働
 者2000名を擁し、弾薬、銃砲、水雷および各種の軍需機
 器を製造していた。
  第二弾薬工場など新機器工場などと共に、建設計画が
 続いた、火薬工場なども・・諸処の工場には、イギリス
製の製造装置も備えられ、火薬工場は世界最大規模と言わ
れた。
  また、当時では最先端研究となる潜水艦の研究も進め
 られ、新しい船種、船型の建造が極秘裏に進めてもいた。
  日本よ!このままで良いのか?という状況だった。
  まったく、今現在と同じ・・、
  また、清国は、1866年~1868年の間、イギリスやフラ
 ンスから続々と軍艦を購入していた(澄波号など)。
  1873年には、自国建造修理も行い、洋式の進んだ銃砲
 の製造も行ない始めた。
  清国の状況は概略しか記せないが、あらゆる面を積極
 的に進めていた。
  1880年には、すでに、李鴻章は、イギリスやドイツか
 ら11隻の軍艦を購入して、海軍を創設していた。
  また、1882年~1913年の間に、大沽ドック゚だけで大小
 38隻の艦艇が建造されていた。
  それに対して、日本は、1891年に至ってやっと魚形水
 雷を試射するという段階だった。
  (参考)水雷:すいらい、多量の爆薬を詰め、水中で
     爆発させて艦船を破壊する装置。
      魚形水雷(魚雷)・機械水雷(機雷)など。
.
  (今日の言葉)
.
 題:あられもない教義に・・
.
1000年頃、イタリアのウンブリア山村の民衆は、キリスト
 教隠者の聖ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。
  誠に愚かなことだが、それは、彼を失いたくなかった
 ための行為だった。
.
1231年11月17日、エルジェーベト (ハンガリー王女)が没し
 た。
  (参考)エルジェーベト(1207年7月7日~1231年11月
     17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ
     公女ゲルトルードの娘。
      テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。
      ドイツ名のエリーザベトでエリーザベト・フ
     ォン・ウンガルン、あるいは、エリーザベト・
     フォン・テューリンゲンとも呼ばれる。
      また、キリスト教のローマ教皇グレゴリウス
     9世により列聖された。
      聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリ
     ザベートなどと呼ばれる。
  そして、このテューリンゲンの聖エリザベートの遺体
 が、まだ埋葬されなかった時、善男善女の一群が、彼女
 の顔に巻き付けてあった布片を切り取ったり、引き裂い
 たりして持ち帰った。
  彼女の髪や爪を切り取り、果ては、耳や乳房までもち
 ぎり去った。
.
1274年に、トマス・アクィナスが、フォッサ・ヌォヴァの
 僧院で没すると、そこの修道士たちは、貴重な遺物が彼
 らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を文字通
 り漬け込んでしまった。
  つまり、頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ
 だった。
.
1441年頃、キリスト教は、古い昔から有色人種を軽く見て
 いた、卑劣な事である。
  それは、キリスト教の教義から来ていた。
  古代は、このキリスト教の教義に洗脳されたキリスト
 教徒によって、エチオピアの黒人の方々などが奴隷にさ
 れた。
  キリスト教聖書に書かれているので、まったく罪悪感
 は無かった。
  近年になっても・・、
  ポルトガルのエンリケ王子は、「できるだけ多くの土
 人(アフリカの黒人の方々の事)を生け捕りにして、持
 ち帰れ」・・と、命令を出した。
  コロンブスが、アメリカ大陸に達する半世紀前の頃(
 1441年頃)に、ヌニョ・トリスタンというポルトガル人
 (武装帆船の船長で、騎士の身分)は、アフリカ人の集
 落を襲撃した。
  そして、激しい戦闘の後、男女と少年の10名を生け捕
 りにした。
  こうして生け捕った12人を、リスボンに連れ帰り、エ
 ンリケ王子の所へ連れて行った。
  エンリケ王子は、大いに喜んだ。
  キリスト教に洗脳された頭には、まったく罪悪感は無
 かった。
  また、ローマ法王へも特別使節をたてて、このことを
 報告して説明した。
  ローマ法王も、大いに喜び、歓迎した。
  そして、『あらゆる罪が赦免される』という言葉を言
 った・・、
  「この戦いに従事する者すべてに対し、あらゆる罪の
 完全な赦免を与える」・・と、卑劣な事である・・
  この言葉によって・・、
  『以後、アフリカの方々を奴隷にする事が罪にならな
 くなった』、
  また、そればかりか、『過去の罪も完全に赦免される
 こと』になった。
  まったく、キリスト教の最高の頂点に立つ者であるの
 に、卑劣この上ない言葉だった。
  アフリカの方々に対する人権への意識は皆無だった。
  キリスト教に洗脳された者たちの頭には、有色人種を
 奴隷にする事は、あたかも物を分捕って来るがごとくの
 行為となった。
  そればかりか、それに加えて、過去の罪まで許される
 という事になった。
  キリスト教により『精神的未開人状態になっている』
  人権への自覚は・・まったく無かった。
.
15世紀中頃、屈辱の奴隷貿易が、この頃に始まった。
  ポルトガルによって行なわれた・・白人・キリスト教
 徒の奴隷貿易・・、
  人身売買・・人の売り買いが、この卑劣行為がなされ
 るアフリカの海岸を「奴隷海岸」というが・・、
  この行為を恥じたのか? 
  この非人道的行為を恥じたのか? 
  この「奴隷海岸」の名を消したいとしている。
  この白人キリスト教徒にとっての不名誉な事柄(奴隷
 海岸の名)は、負の人類遺産として長く記憶にとどめる
 べき事柄である。
  また、世界記憶遺産に登録すべきである。
  ・・が、しかし、この卑劣な非人道的行為を・・忘却
 の彼方に捨て去りたいとしている。
  19世紀には、また、卑劣なアフリカ侵略をしたヨーロ
 ッパの白人キリスト教徒たち、卑劣なアフリカ侵略の行
 為をした輩たち・・、
  近代植民地主義の低劣行為の限りをし尽くしたヨーロ
 ッパ・キリスト教国・・、
  その搾取の卑劣さには言葉を失して、嫌悪の情が湧く。
  低劣な人間たちが、無実の方々の『人間の尊厳』を無
 謀に奪った。
  それだけでなく、そもそも人間が人間である事さえ完
 全に否定するというキリスト教教義そのものを行なう。
  動物のレベルで、「奴隷狩り」という観念で、何世紀
 も奴隷貿易をした。
  16世紀~17世紀初頭には、スペインやポルトガルのキ
 リスト教国から始まった。
  独占的に行い、大きな儲けを享受した・・人間の売り
 買いで・・。
  何世紀も奴隷貿易をし、そして、イギリス、オランダ、
 フランスも、この巨大な利益を自分たちも得たいと・・
 この最悪の悪行為を引き続き行っていく。
  この人肉史上に、アメリカが首を突っ込んで、黒人の
 方々を、アメリカが最大に苦しめた。
  美味しい分け前をくれと主張し始め、この展開が、最
 悪の人肉市場を育てた。
  卑劣なアメリカであった。
  ジプシーの名も変えたいとしているが、散々、ジプシ
 ーの方々を虐げ、差別して来ていながら、その汚名を消
 したいとしている。
  だから、ジプシーの名を変えたいとしているのは、そ
 の本源的解決から逃避していて、ジプシーの方々の根本
 的救済にはなっていない。
.
1510年~1511年、ポルトガルが、ゴアやマラッカを征服し
 た。
.
1533年、スペインのピサロが、むごたらしい南米のインカ
 帝国征服を行なった。
.
1565年、スペインが、フィリピンを占領した。
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
.
1595年、スペインが、奴隷貿易に関し、スペイン王室によ
 る独占的請負制だと主張し、この制度を導入した。
  従来の許可制から、よりおいしい利益を得たいと、こ
 の非人道的行為に関与した。
  この美味しい権利には、ヨーロッパのキリスト教国が
 群(むら)がり、取り合った。
  1640年は、ポルトガルからオランダへ奪われ。
  さらに、1701年には、フランスへ奪われ。
  1755年には、イギリスが奪った。
  儲けの多いこの非人道的行為に、ハゲタカの様にキリ
 スト教諸国は群がり、美味しい汁を吸った。
  皮肉な事に、アメリカへの最初の奴隷船は、「希望号
 (デザイヤー)」という船名が命名された。
  まったく、罪悪感のない輩たちだった・・軽蔑さるべ
 き輩たち。
.
1618年11月、巨大な彗星が現れる。
  あられもない事を言って世を惑(まど)わすキリスト
 教・・、
  「総(す)べてが破壊されて後に、平和は訪れる」と
 いう「キリスト教のシャローム(平和)」の教え・教義。
  この最悪の教え・教義によってアメリカ大陸のインカ
 帝国などのインディオの方々は大殺戮され、全滅させら
 れた。
  また、広島・長崎に原子爆弾が、キリスト教に酷く洗
 脳させられているアメリカ大統領によって投下された。
  1618年11月、この年、巨大な彗星が現れた。
  あまりに巨大なこの彗星は、天を焦がす如くに人々に
 は見え、人々は慄(おのの)いた。
  キリスト教に洗脳された天文学者兼占星術師パウル・
 ナーゲルは、まったく科学的な裏付けのない、口から出
 まかせの事を言った・・、
  「サートウルヌス(土星)とユピテル(火星)の影響
 だ・・云々・・」・・と・・、
  この男は、1577年の時にも、キリスト教聖書のヨブ記
 にある、巨獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンに関連して、
 適当な事を言っていた、
  「混乱、悪の権化となって、キリスト教の創造の神に
 反抗する」・・と・・、
  「だから、キリスト教の神の恐ろしい刑罰がヨーロッ
 パに迫っている」、「目の前に迫っている」・・と・・、
  このナーゲルは、1621年に死ぬ、しかし、一旦は葬(
 ほうむ)られたが、
  その後、その適当さと不穏な言い方(預言)が断罪さ
 れ、墓は掘り返され、野に晒(さら)された。
.
1661年、アメリカのバージニア州の議会が、黒人の方々を
 『終身奴隷』とした。
  「役畜、家財道具、皿、書物などと同等に見なされる
 ことが、法律によって定められる」という卑劣なアメリ
 カだった。
  デュボイスは、「はりつけ、火あぶり、断食などは奴
 隷を罰する法律的やり方である」と、アメリカ卑劣さを、
 皮肉って言った。
  黒人の方々の一挙手一投足までも規制する法律=黒人
 奴隷取締規則(スレイブ・コード)が制定された。
  そして、1661年、バージニア州の議会が、黒人の方々
 を『終身奴隷』とした。
  この後、マサチューセッツ州(1641年)、
  コネチカット州(1650年)、
  ロードアイランド州(1652年)、
  メリーランド州(1663年)、
  ニュージャージー州(1664年)、
  ニューヨーク州(1664年)などなど・・
  アメリカ諸州が、白人だけに都合の良い、そして、非
 人道的な黒人奴隷制度が法律で決められて行った。
  卑劣で、遅れているアメリカだった。
  これと軌を一にして、益々、黒人奴隷数を増加させる
 というアメリカという低劣国だった。
  アメリカの独立当時の1776年頃には、総人口が約250万
 人の内、黒人奴隷が50万人も居た。
  また、その後の1790年には(最初の国勢調査)には、
 総人口392万9000人のうち、69万8000人が黒人奴隷(自由
 黒人を含めた黒人数は75万7000人)であった。
  黒人の方々の『血と汗と涙で出来たアメリカ合衆国』
 だった。
  黒人の方々へ感謝すべきである。
  そして、この国民の感謝日を創るべきである。
.
1672年、イギリスが、大々的に奴隷貿易の乗り出した。
  ヨーク公はじめ王侯貴族、大商人、大プランター(経
 営者)などが、こぞって奴隷貿易に関与した。
  その卑劣な巨大な儲(もう)けを受けるため、巨大な
 奴隷貿易独占会社である『王立アフリカ会社』を作った。
  日本との貿易なんて関わっていられなかった。
.
1754年、7年戦争が起きた。
  1754年~1763年まで戦われたイギリスとフランスの植
 民地も関係した戦争で・・、
  発端に、1740年~1748年の戦争・オーストリア継承戦
 争がある。
  このオーストリア継承戦争は、神聖ローマ帝国の皇帝
 位とオーストリア大公国の承継問題が係争点だった。
  何でも武力に訴えるキリスト教諸国の戦争ばかりの状
 況だった。
  この愚かさに引きずられて来たこの7年戦争は、イギリ
 スとプロイセンを主役とし、それに対して、その他の諸
 国(フランス、オーストリア、ロシア、スペイン、スウ
 ェーデン)が争った。
  この当時のキリスト教諸国のすべてが争った。
  悲しいかな植民地とされたインドにまで波及した(イ
 ギリスがベンガル地方を奪おうとした)。
  結果は、イギリスが勝って(フランスが凋落し)、イ
 ギリスは、時代の寵児となって行く・・、
  そして、イギリスは、インド・中国など世界各地で卑
 劣な極みの事をしでかして行く・・、
.
1755年、フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・アンド・
 インディアン戦争)が起きた。
  1755年~1763年まで、北アメリカで行われた戦争で、
 世界的な戦争となった。
  (7年戦争ともいうが、ヨーロッパでは、この戦争に関
 し、決まった呼び名はない・・汚辱のこの戦争を歴史か
 ら消したいとしている・・卑劣な君たちがしでかしたこ
 とだ・・甘受せよ!)
  イギリスとフランスの戦争であるが、先住民のインデ
 ィアンの方々にとって、今まで自分たちの国土が奪われ
 て来た痛みが痛切で、自分の国土を奪還したいと、悲し
 いかなインディアンの方々は、フランスと同盟を結んで
 戦わざるを得ない状況だった。
  まったく自分には罪がないインディアンの方々が、や
 むを得ないこの様なこの戦いによっても、民族としての
 消耗が行われた。
  (しかし、何といっても最大のインディアンの方々の
 民族の消耗は、アメリカによる虐殺である)
  しかし、狡猾なイギリスは、インディアンの方々と同
 盟を結んでいた。
  (悲しいかなインディアンの方々の各部族の連携は取
 られていなかった・・ただただ、自分たちの国土を取り
 戻したいという感情だけだった、その感情に付け入った)
  狡猾なイギリスは、故に、表題の様に、フレンチ・イ
 ンディアン戦争と呼び、呼ばせ、そして、世界にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)する・・根本は、イギリスとフランス
 のアメリカ領土の奪い合いの戦争である・・ヨーロッパ
 での戦争・衝突の延長でもある。
  この戦争に、アメリカ合衆国の初代大統領となったジ
 ョージ・ワシントンがイギリス側に加わっている。
  また、卑劣な事に、この戦争に於いてイギリスが、フ
 ランス側についているスペインからフロリダを割譲され
 たり、
  スペインは、その見返りとして、イギリスからキュー
 バのハバナを貰ったり・・、
  フランスが、同盟国のスペインに、ミシシッピー川以
 西のルイジアナを割譲したり・・アメリカの領土をやり
 とりした・・インディアンの方々は、ただただ、血が流
 れただけだった。
  結果、イギリスが、北アメリカの東半分を植民地とし
 て勢力支配地とした。
.
1757年、イギリスが、インドを奪った。
.
1763年10月7日、1763年宣言(1763ねんせんげん)
  イギリスが植民地に押し付けた宣言で、
  イギリスの国王ジョージ3世が、宣言を発した。
  アメリカのフランス領を、7年戦争に勝ったので、この
 得た広大は土地への入植や、土地の購入や、取引(毛皮)
 などの規則を定めた。
  インディアンの方々は、土地を奪われた(イギリスは、
 購入したと主張)・・それ故に、このアメリカの土地は、
 イギリスが、独占的に取引する権利を有すると宣言した。
  既に、土地を持っている入植者をはじめ、インディア
 ンの先住の方々の権利は無視された・・先に入植してい
 た入植者たちも憤った。
.
1763年、ポンティアック戦争 (1763年~1766年)
  この戦争は、以前から、フランスが、領有権を主張し
 ていた土地を、イギリスが奪い、そして、占有すること
 を阻止するために・・
  このインディアンの方々に対して現れた新たな土地を
 奪うイギリスという国に対し、
  先住民族である本当の土地所有者のインディアンの方々
 が起こした戦争だった・・が・・、
  悲しいかな不成功に終わった。
  「1763年宣言」は、ポンティアック戦争以前に宣言さ
 れていたが、紛争の勃発により、その実行が急務となっ
 た。
  イギリス政府の役人は、アメリカ・インディアンの方々
 に、イギリスの規則を認めさせようとし、また、それ以
 上の敵対的行動を抑えようとした。
.
1764年4月5日、「砂糖法」で金を巻き上げるイギリス。
  イギリスが、植民地に押し付けた規則「砂糖法」で、
 この規則などの植民地規制は、、植民地に大きな不満を
 引き起こした。
  砂糖法は、この日、イギリス首相のジョージ・グレン
 ヴィルの主導によって、イギリス議会で制定された。
  この規則は、関税に関する法律で、「アメリカ歳入法」
 「アメリカ関税法」とも言われた。
  序文に・・、
  「この王国(イギリス)の歳入を改善するには、新し
 い規定と規制を確立すべきである・・また・・歳入を高
 めるべく努めることは正当であり、不可欠である・・上
 述のものを防衛し、保護し、安全を確保する費用を負担
 するために」・・と、自分に都合良く述べられている。
  砂糖法の制定以前に、糖蜜法(1733年成立)があって、
  これは、イギリス領ではない植民地から輸入される糖
 蜜に、1ガロン当たり6ペンスを課すことによって、イギ
 リス領西インド諸島産の糖蜜のものだった。
  砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する
 ことで、徴税の強制力を強めたものだった。
  また、課税対象が、ワイン、コーヒー、衣類などに広
 げられた。
  賄賂や袖の下が通用し・・密貿易者はその手を多用し
 た。
  それ故に、それを取り締まり役員・職員には、甘いも
 のとなった。
  イギリスは、フレンチ・インディアン戦争で負った莫
 大な負債を返済するため、資金集めという意図が強かっ
 た。
.
1765年3月22日、印紙税法(または印紙法)
  イギリスの植民地の方々を虐(しいた)げるこの「印
 紙税法」の制定に至り、その不満は、憤激に代わった。
  しかし、イギリスは、さらに、1767年に「タウンゼン
 ト法」を制定した。
  イギリスは、植民地政策を、一層、強化した。
  そして、1770年3月5日に『ボストンの虐殺』が起きて
 行く・・、
  この印紙税法は、この日、イギリス本国で、議会が制
 定した。
  新聞や公文書、そして、証書や手形など、植民地のあ
 らゆる印刷物に、所定額の収入印紙を貼ることを命じた。
  そこからの収入を、駐屯軍費用と密貿易取締り費用に
 あてようとした。
  年間・6万ポンドの税収を見込み、イギリス本国の財政
 窮迫にも対処しようとした。
  これは アメリカの13の植民地全体の商人、農民、漁民、
 弁護士、出版業者など・・あらゆる階層に、そして、職
 業に影響が及ぶものであった。
  しかし、横暴にもイギリスは、そうであるにもかかわ
 らず、植民地議会の同意を得ていなかった。
  これは、イギリス憲法によって保障されている植民地
 の権利を無視するものだった。
  「代表なくして課税なし」というスローガンに集約さ
 れる広範な反対運動を引き起した。
  反対運動は、植民地議会や、各地の反対決議、9植民地
 代表による印紙税法会議開催、街頭デモ、印紙指定販売
 人襲撃、イギリス製品の不買などの形をとり、イギリス
 本国でも反対運動が起り、翌年の1766年3月に撤回された。
.
1775年4月19日、レキシントン=コンコードの武力衝突。
  このアメリカとイギリスの武力衝突を経て独立戦争が
 始まる契機となった。
  マサチューセッツのレキシントン(ボストンの近く)
 にて、反乱者を逮捕しようと向かったイギリス軍と植民
 地軍(アメリカ)が交戦。
  ここから独立戦争が始まる。
  数で負けるイギリス軍はボストンへ逃げ込み、反乱軍(
 アメリカ軍)は街を包囲。
  その知らせを聞いた民兵たち(アメリカ軍)が、各地
 からぞくぞくと集まって来た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法ができた。
  しかし、卑劣な事に、その第4条第三節第二項において、
 アメリカ合衆国の広大な土地を「合衆国に直属する領土」
 として、
  先住民のインディアンの方々の権利を、ことごとく奪
 った。
.
1947年7月19日、エクソダス号事件
  イギリスは、ユダヤの方々を虐(しいた)げた。
  イギリスは、ユダヤ人難民4530人のパレスチナ上陸を
 拒否した。
  この方々は、ナチスの強制収容所で、幸い殺されず、
 生き残った方々だった。
  この時のイギリスのやり方は強引で、イギリス兵は銃
 撃した。
  武器のない難民の方々は、空き缶や野菜を投げて抵抗
 した。
  3時間の虐げの攻撃を受けた。
  また、エクソダス号は、体当たり攻撃も受けていたの
 で船は浸水していて、降伏した難民の方々は、別の船に
 乗り移らされた。
  イギリスは、ハンブルグ(ドイツ北部の都市)へ連れ
 て行き、強制的に下船させ、そして、リューベックの収
 容所へ入れた。
  ナチスの手をやっと逃れた方々を、再び、ドイツの収
 容所へ入れた。
  国際的な批判も受け、イギリスは、今後、難民の方々
 をヨーロッパへは戻さないと言った(ユダヤの方々に対
 し虐げのヨーロッパ世論でもあった)
  因みに、ハンブルグには歴史博物館があるが、その記
 述には・・
  「1933年にヒットラーが政権をとり・・、
  1938年11月9日~10日にかけて、ユダヤ人の方々への組
 織的迫害を始め・・、
  1941年秋には、ハンブルクのほぼ全員のユダヤ人の方々
 が、ミンスクやリガへ輸送されて行った。
  1933年のヒットラーが政権を取る以前は、17000人もの
 ユダヤの方々が居られたのに、
  1945年5月には、たった数百人のユダヤの方々しか居な
 かった」・・と・・、
  そして、この事件をモデルとした映画・栄光への脱出。
  Exodusは「大挙した脱出」という意味で、キリスト教
 の史実に実存しない「架空のデッチアゲ話の出エジプト
 記」になぞらえている(1960年、映画化)
.
1991年1月17日、湾岸戦争が始まる(気化爆弾が使われた)
  この戦争は、第41代アメリカ大統領ジョージ・H・W・
 ブッシュ(父)の主導で、イラクの空爆を行なうことで
 始まった。
  この時、気化爆弾が使われた。
  この爆弾は、爆発による破片による殺傷ではなく、急
 激な気圧の変化による内臓破裂などを起こさせる爆弾で、
 非常な威力があった。
  それは、人体が、1kgf/cm2 程度の爆風(=風)でも、
 急性無気肺や肺充血を起こすからで、
  また、さらに、一酸化炭素を大量に含んだ酸素バラン
 スが悪いガスが襲い掛かってくるため、酸欠と一酸化炭
 素中毒と呼吸困難を同時に起こすことになり、窒息死を
 したようになった。
  だから、建物に避難している人たちをも、無差別に殺
 された。
  (戦闘員だけを対象にした爆弾ではない・・その最初
 から無差別殺戮を目的としている非人道的兵器)。
  また、燃え残ったこの爆弾の燃料が、大地に広がった
 だけでも危険という代物(しろもの)。
  アメリカは、この兵器を開発して、保有しているが、
 積極的に使用したがっている。
  この湾岸戦争のとき、広範囲の砂漠に分散して砂中に
 隠されたイラク軍戦車部隊や、随伴歩兵らの兵力を削ぐ
 べく、この兵器が使用され、
  多数のイラク兵が、この兵器の作動時に発生する巨大
 な火球によって、塹壕(ざんごう)や戦車の中で蒸し焼
 きになって焼き殺された。
  また、衝撃波で(目立った外傷も無く)圧死させられ
 た。
  この爆弾は、BLEVE現象による殺戮となる・・
  (参考)BLEVE(ブリーブ、ブレビー)は、液体
     の急激な相変化による爆発現象。
      日本語では、「沸騰液膨張蒸気爆発」や「沸
     騰液体蒸気拡散爆発」などと訳す。
  この爆弾の研究は、第二次世界大戦中にドイツで始ま
 った。
  これは、爆発性の高い燃料を、ポンプで散布するので
 はなく、燃料自身の急激な相変化によって行われる。
  そのため、秒速2㎞もの超急速度で拡散する。
  このため、数百kgの燃料であっても、放出に要する時
 間は100ミリ秒に満たない。
  だから、爆弾が、時速数百kmで自由落下しながらでも、
 瞬間的に広範囲に燃料を散布できる。
  燃料の散布が完了し、燃料の蒸気雲が形成され、着火
 され、自由空間蒸気雲爆発が起きる。
  大きな破壊力を発揮する。
  爆鳴気の爆発で、空間爆発の強大な衝撃波を発生させ、
 12気圧に達する圧力と、2,500℃~3,000℃の高温が発生
 し、人体に多大な影響を与える。
  音速飛行の戦闘機や航空機でも投下でき、湾岸戦争の
 時、アメリカはヘリコプターで投下した。
.
2017年、偉大な日本人の発明がまた・・、
  ほとんどの物は、酸化(燃焼)するときに、熱を発す
 る。
  今・現在、炭素を酸化させて(燃やして)人類は、熱
 (エネルギー)を得ている。
  この事によって、人類は、文明が維持され、生活が維
 持され、保たれている。
  しかし、この炭素の燃焼は、炭酸ガスの発生による地
 球温暖化の問題を発生する。
  アルプスの氷河が無くなり、また、ハワイのワイキキ
 の浜辺が、海水面の上昇で無くなって来ている。
  この様な現状を打開する発明が、輝かしくも日本人の
 手によってなされ、このシステムが成立しつつ、ほぼあ
 る。
  偉大な日本人の偉業が、また一つ増えるという状況で、
 ノーベル賞の有力候補となっている。
  炭素の燃焼に、人類が頼(たよ)っているのは、その
 保存性と燃焼性であるが・・、
  その炭素に代わって、アンモニアを燃焼させようと、
 そのアンモニアの燃焼の欠点が、日本人の発明・研究に
 よって克服されつつある。
  実証実験の段階となっている。
  アンモニア燃焼の良さは、燃焼後の発生ガスが、水素
 と窒素であるため、地球温暖化の問題も発生しない。
  日本人研究者が、その燃焼性と保存性の解決策を発明
 した。
  有望な触媒による発明がなされて、解決し、また、一
 連のシステム成立の可能性が、現在、大いに高まってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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